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「日本文学の一大災胴 から 「自由詩」 へ

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「日本文学の一大災胴 から 「自由詩」 へ
「日本文学の一大災阪」から「自由詩」ヘ
ー俳句の初期紹介文に見る詩的評価と訳形の変遷一
前 島 志 保
ー ー はじめに
本稿は、十九世紀後半から二十世紀初頭(1910年前後)にかけて英語・独語・
仏語によって出版された俳句紹介文を取り上げ、そこにおける俳句という詩ジャ
ンルの評価と訳形の変遷について考察するものである。はじめに断っておくが、
これらの俳句紹介文は、高名な文学者の手になるものでもなければ、同時代の各
訳語圏の文学その他の芸術に直接的に影響を与えたわけでもない。取り上げられ
る文章や訳詩は、それぞれの言語圏に俳dを紹介するために出版されたものもあ
るが、日本語の教科書や日本文学の概説書、あるいは外国人向けのカラフルな挿
(2) 絵入り縮緬本に、言わば日本文化紹介の「ついで」として言及されたものも少な
くない。実際、初期の俳句紹介の状況に関するまとまった研究が無いことからも
わかるように、この時期の俳句の紹介文や訳は、他の時代の類例とは異なり、
「文学的に価値が少ない」地味な存在として無視されてしまいがちであった。
ここで敢えてこれら初期の俳句紹介文に注目するのは、俳句という文学表現に
全く馴染みの無かった人々が著したこれらの文章には、彼らが当然視してきた
「詩」というものの概念と俳句という「詩」との衝突・折衝具合がよく現れてお
り、一種の異文化接触の例として独特の価値を持っていると考えるからである。
初期の俳句紹介文や訳を考察することで、原語・訳語の双方におけるそれまでの
詩の規範の枠組みが逆照射されたり、あるいは、訳された個々の翻訳にその作品
の新たな読みの可能性を発見したりすることができるであろう。また、これらの
俳句紹介文は、後の様々な言語文化圏における俳句との関わりの基盤を形作った。
そのため、世界各地における俳句活動の展開過程全体を考える上での基礎研究と
しても、考察に催すると言えよう。紙面の制限の都合上、本稿では、翻訳作品で
ある訳詩そのものの読みの可能性というよりは、そこにあらわれた、俳句という
ジャンルへの評価と俳句の訳の形の照応関係に焦点を当てて論じることにする‘≡
20
二,日本語教則本における散文調直訳
俳句が文学作品として日本語以外の言語に訳され紹介されたのは、実は、他の
文学ジャンルと比べると、かなり遅し竃’日本文学の翻訳・紹介は、十九世紀半ば
(5) 以降、プフィツツマイアー(An釘1StPBtzmaier)による和歌(短歌)訳を皮切り
に、昔話・物語・小説・和歌(短歌、長歌)・歌舞伎・能などが、デイツキンズ
(FrederickvonDickins)、ロニー(I.60ndeRosny)、アストン(WilliamGeorge
Aston)、チェンバレン(BasilHanChambedain)らの先駆的な日本学者たちによ
って、次々と出版されていった。一方、俳句は、1870年代末以降になってやっと
日本語教則本や日本紹介書で訳されはじめ鶏のの、1890年代半ばまでは、珍奇
な短詩として添え物的に紹介されていたにすぎなかった。
俳句の翻訳・紹介が遅れた理由としては、俳句の特徴が、それまでの西洋にお
ける詩の一般的な前提と著しく異なっていたためと考えられる。俳句が本格的に
翻訳され始めた十九世紀末までの日本文学紹介文が日本詩歌の特徴として一様に
挙げているのが、単純な韻律、極端な短さ、主題における自然への強い関心(逆
に言えば人間への関心の薄さ)、言葉遊び的要素の少なさ、詩形と内容の対応の
少なさ、天才性の欠如(換言すれば詩歌の大衆性)、創作・批判・享受形態の因
習性、といったものである。当時の日本文学紹介文は、日本詩歌にみられるこれ
らの特徴を、西洋詩歌一般の傾向と比べながら、非常に否定的に解説していた。
日本文学紹介文のうちのいくつかは日本詩歌の特徴として「かわいらしさ」を肯
定的に取り上げていたが、これすらも結局は「月並みな美」とみなしていたし、
また、日本詩歌全般を肯定的に評価する例でも、西洋的な基準で見劣りがしない
範囲にあるものを抽出して、それが日本の場合にも存在しているということを指
摘することで、日本詩歌の文学的価値を救い出そうとしていた。つまり、当時の
日本文学紹介文は、日本の詩歌が西洋のものとは異なることは認識していたもの
の、そこに異なる別の詩体系としての価値を見出せないでいたのである。このよ
うな状況にあって、上記のような「日本詩歌の特徴」のほぼ全てを極端な形で体
現している俳句が「文学」として軽視され、翻訳・紹介が遅れたということば、
想像に難くない。
そもそも、俳句に相当するジャンルが従来の西洋の詩歌の歴史に存在していな
かったうえに、俳句と特徴の多くを共有できる類似ジャンルも無かった。長さの
点では、寸鉄詩(epi訂am)が俳句に一番近いということになろうが、これは西
洋詩の主要な詩形とは言えない。また、寸鉄詩は、多くの場合、格言や蔵言的な
ものと当時は考えられていたので、形式と内容の対応という点でも、多くの事柄
21
を放いうる俳句とは合致しない。一方、他の日本文学のジャンルは、長歌は叙事
詩として、短歌は抒情詩として、能や歌舞伎は劇詩として、西洋のジャンルに翻
訳することが或る程度可能であった。この点も、俳句の本格的な紹介が他の日本
文学ジャンルに比して遅れた理由であろう。
そうした中、1880年半ば頃までは、俳句は「詩的ではない」とみなされ、ほと
んど紹介されることはなかった。この時期の俳句紹介としては、わずかに、アス
トンやチェンバレンの日本語教則本が付録的にほんの数句、取り上げている例が
ぁるにすぎかぺしかもそこでは俳句は詩形の観点から短歌の奇妙な一変種とし
(8) て軽く扱われており、川柳も俳句も区別されないままともに掲載されていた。つ
まり、一つの文学ジャンルとしてまともに取り扱われていなかった。
このような日本語教則本の附録にあらわれた俳句観は訳形にも反映され、散文
的な直訳となっている。例として、1877年に出版されたアストンの日本語文法教則
本AG矧研削れ折ぬり砂鋤側‖秒加∽ム明野喝(『日本文語文法』)の第二版に挙
げられた句訳を見てみよう。
FujiConcealedinaMist.
Kbinoumi
Intoaseaofmistwhither 〔八音節〕
h血Mt.F亜sunk?
Idzukohen所ba
〔五音節〕
馳idzuminum?
〔霧の中に隠された富士
「霧の海のなかのどこへ
富士山は沈んでしまったのか?〕
(Aston.1877.p.203)
原文には無い題が付されたうえで、作者不明の句「霧の潅いづこへ富士は沈み
ぬる」がローマ字書きで左に示され、その右隣に、脚韻も強弱アクセントによる
韻律も無い訳が添えられている。訳は、一見、二行訳に見えるが、この行分けは、
恐らく、貫の一行あたりの文字数の制限による行替えであろう。というのも、同
書で訳された他の句の場合、訳詩は二行から四行の多岐に渡り一定していない。
また、この時点でのアストンの俳句への文学的評価は、「十七音節の韻文という
狭い範囲では、詩の名前に催するようなものなど何も含み得ない(no仇ingwhicll
deserveSthenameOfpoetrycanwellbecontainedinthenan・OWCOmpaSSOfaverse
ofseventeensyllables)」(Aston.1877.p.204)と、大変低い。他方、同書で文学と
22
(9) して高く評価された長歌のほうは、直訳的な訳ではあるものの、きちんと行分け
されて記されてある。こうした点を考慮すれば、上記の直訳的な訳形は、句を訳
出不可能と判断した結果というよりは、むしろ、俳句を特別に詩として訳そうと
努めていなかったことの帰結と言えるだろう。このように俳句の表層的な意味だ
けに専ら注目し、詩形や言葉の言い回しに特別な配慮をしない散文調の訳は、同
(10) 時期のチェンバレンの日本語教則本に付録的に掲げられた句の訳にも見られろ特
徴である。
つまり、この時期、俳句は日本語教則本で取り上げられはじめたものの、「文
学作品」「詩」としてのまともな扱いを受けることは無かった。こうした俳句評
価と呼応するかのように、訳のほうも、「詩」として特別な考慮を払われない形
での直訳調となっていたのである。
三,西洋的価値観の揺らぎと訳語文化に即した旬訳
1880年代に入ると、俳句をまがりなりにも「詩」として取り上げ、翻訳・紹介
する文章が出てくる。代表的な例が、フローレンツ(ぬdAFlorenz)の訳詞華
集とアーノルド(EdwinAnlOld)の旅行記に見られるものである。もっとも、両
者とも、俳句を一つの詩ジャンルとして詳しく解説することはない。また、桜・
蛙・芸者・妾・侍など主題のもの珍しさから選ばれたと思われる句を挿絵や写真
付きで掲げていることから、日本に少しでも興味のある一般の読者に異国の珍し
い風俗に題材をとった風変わりな短詩を紹介するという意味合いが非常に強かっ
たと考えられる。フローレンツとアーノルドは、俳句の詩ジャンルとしての価値
(1り 評価においては見解に相違があったが、両者とも、俳句をまがりなりにも「詩」
と認めている点では一致していた。
ドイツにいた頃より井上哲次郎や李白の漢詩を独訳するなど東洋文学への関心
(12) が強かったフローレンツは、1889年に井上の推薦でドイツ語教師として日本にや
ってくると、記紀・万葉集研究の傍ら1895年には明治までの日本の詩歌五十八例
(うち発句三句川l柳一句)を訳した詞華集動地如許ぬ陀銅射効御伽肋(『東洋
からの挨拶』)を出版し、翌1896年にも短詩を中心とした詩歌の訳を七篇(うち
発句は加賀の千代女による二句)載せた励感涙地物」妙釧如始動如(『色と
りどりの葉』)を出した。ともに色彩豊かな木版の挿絵を施した和綴じ縮緬本で
あることから、主に一般のドイツ語読者に向けて出版されたものであることがわ
かる。両書における句の訳は、どれもそれほど長くは無いものの、原句と比べれ
ばかなり引き伸ばされており、雇ぃ脚韻・音の強弱・句読点や感嘆符が付いてい
23
る。なお、前述した日本語教則本の例や以下で見る日本文学研究書とは異なり、
ローマ字書きの原句は添えられていない。
Angentauschung.
Wie?SchwebtdieBltite,dieeben五el,
〔九音節〕
SchonwiederzumZweigamBaumzuriick?
〔九音節〕
Dasw去refihwal1reinseltsamDing!
〔九音節〕
IchnalertemichundscharaedenBlick− 〔十音節〕
Da血ndich−eSWarnureinSdlmetteding.〔十音節〕〔脚韻abcbc〕
(田orenz.1895.p.41)
(目の錯覚 「えっ? ついさっき散ったあの花が舞って、/またもやその木の枝
に戻っていったのか?/もしそうなら全く奇妙なことだ!/私は近寄り眼を細め
た −
/そして私は気付いた −
それはただの煤だったということを」)
(原句:「落花枝にかへると見れば胡蝶かな」伝荒木田寺武)
フローレンツは、まず、題を掲げて一句の主題あるいは面白味(眼目)を明確に読
者に伝えたうえで、一行が九音節と十音節から成る脚韻付きの五行で訳している。
韻律的には、基本的に弱強の四歩格(ヤンブス“Jambus”;英詩の“ianib/iambus”
に当る)であるが、最後の行だけが弱弱強格(アナペスト“Anap姦st”;英辞の
(13)
anapest”)となっており、これにより韻律的に変化が付けられている。また、
この弱強格から弱弱強格への韻律的な変わり目は、ちょうど、内容の変わり目
(錯覚とそれに対する話者の感想から錯覚の種明かしへの移行)と呼応するよう
に工夫されていることが分かる。また、「えっ」という感動詞をはじめとして、
「ついさっき」「もしそうなら全く奇妙なことだ」「私は近寄り眼を細めた」「そし
て私は気付いた」など、原句には無い状況説明や描写の表現が感嘆符・疑問符・
句読点とともに付け加えられている点、訳では全体が「私」という語り手の独白
という調子が強調されている点も、訳における特徴である。訳のこうした傾向は、
(14)
訳者フローレンツ自身も主張しているように、当時のドイツの読者にも単なる警
句としてではなく「詩」として受け入れてもらえるようにとの配慮の結果であっ
たが、上田萬年によって「か、る短句の所帯は、二行位にて射ことか工夫のつか
(15) ざる者か」などと批判されることにもなった。
このように、当時の西洋の読者にも理解しやすく、詰らしく響くよう、原句を
引き伸ばして脚韻付きの行分けされた形で訳す方針は、翌年出版された別の訳詩
歌集におけるフローレンツによる俳句訳にも、アーノルドが旅行記5gαざα兜d
24
(16) エ8乃ゐ(『海と陸』)で取り上げた俳句訳にも、共通している。こうした訳は、外
見上は西洋の短詩とあまり変りはない。つまり、両者とも、俳句を詩ジャンルと
してそれなりに認めていたものの、それをドイツ語や英語へ翻訳する際には、従
来の英・独語圏の短詩に近い形で訳す必要を感じていたのだ。換言すれば、訳者
たちの詩歌観は、俳句などの日本語の短詩との出会いを通じて、西洋的な詩歌観
を絶対視するような立場からやや経れてはいるものの、翻訳の基準は、基本的に
は従来の西洋詩の規範を基盤としているのである。好奇心に溢れた読者たちは、
挿絵・写真付きの上記のような訳詩を通して、自分達が慣れ親しんできたものと
は異なる風物とそれを背景とした一風変った主題による詩歌の存在を知ることは
できたであろうが、新たな言語表現との出会いは望めなかったはずである。
四,多様な詩歌観の認知
二十世紀に入ると、西洋の日本文化・文学紹介文における日本の短詩に対する
評価は、より中立的なものになっていき、俳句が広く一つの詩ジャンルとして認
知されはじめる。
以前から、その長さと叙事性・物語性により、長歌に対する評価は比較的高か
(17)
ったが、十九世紀末になると、短歌に対しても「これほどの言葉遣いの巧みさ・
詩形の旋律・真の感情が、これらの狭い範囲のなかに圧縮され得ているのは、驚
(18)
くべきことだ」「これ〔筆者注=り夕=短歌〕はしばしば翻訳不可能な言葉遊び
であるものの、大抵は、ほんのわずかの音節で一つの気分を再現する、素晴らし
(19) く詩的な印象だ」「このごく小さな枠の中で一つの完全な気分の描写を表現する
こと、さらに可能な場合には、ある一つの妙味ある要点を言い表すことは、〔中
略〕高級な芸術と見なされてきたし、今もそう考えられているlぎ’「その〔=盲人
一首の〕ほとんどはノルマン人のイングランド征服以前につくられており、イン
グランドがまだ文明の非常に初歩的な段階にいた頃の日本における芸術と文化の
進み様には、感心するばかりだヨ1’というような好意的な評が現れるようになる。
壇歌の簡潔で暗示的な表現の美点は、しばしば、日本の美術工芸品(絵画・根
(22) 付・刀など)の比喩によって語られた。日本詩歌の簡潔性と暗示性があからさま
に否定的に論じられることが減少し、訳してもあまり損なわれない絵画性が賞賛
されるようになってくると、俳句は、かえって、短歌や連歌よりも高い評価を得
るようになっていっ長≡)
俳句に関する本格的な論考は、二十世紀に入る直前、1898年にアストンがA
班如町机極朋創成加励椚(『日本文学史』)で、俳句を「一種の詩(akindof
25
poem)」(p.289)として取り上げ、まとまった数の訳句を例に挙げて解説したこ
とにはじまる。アストンは、ここで、極端な短さと曖昧性を理由に、俳句(同書
では「俳静」)を重要な文学ジャンルと見なすことは馬鹿げているとしながらも、
その主題の広さ、大衆的人気、「時折見られる」金言や敬虞さの片鱗に文学的価
(24) 億が多少見られる、と一定の評価を下している。
次いで、より包括的かつ本格的に俳句を取り上げたのは、チェンバレンが1902
年7ね乃5α仁如兜げAざfα涼5ク亡者ゆ〆拗α乃(『日本アジア協会会報』)に発表した
“BashoandtheJapanesePoedcalEpi訂am”(「芭蕉とEl本の詩的エピグラム」)と
遷する119頁に渡る大論文であった。これは、欧文による初めての本格的な俳句
研究論文で、のちに、既に1880年に出版されていた刀ほC肋飾厄〃月旭わりれ肋
力如傲那(『日本の古典詩歌』)と合わせた形で1910年にカ如関野月川砂(『日本の
詩歌』)として発行され、後述するように、後年フランスにおいて俳句ブームを
促したクーシューの俳句論の基本的な情報源となった。チェンバレンは、ここで、
(25) 俳句をエピグラムの原義「繊細な、あるいは巧みな考えを表現する小さな詩作晶
(1ittlepieceofversethatexpressesadelicateorhlgeniousthought)」に最も近い十七音
節の超短詩と定義し、エピグラムの現代的定義「気の利いた警句(lmbonmot)」
(26) とは趣が異なるということを、まず明言する。そして、論文の前半部分では、俳
静歌・連歌を起源に、ジャンルとしての独立を橙て明治に至るまでの俳句の歴史
と特性を例句と作者達のエピソードを交えつつ概観し、後半のアンソロジー部分
と合わせて合計205に及ぶ句を訳し、原句のローマ字書きを添えて紹介した。
同時期、かつて短歌や俳句を「日本文学の一大災阪」と断定し、「善良なる長
歌の礪詳百篇は短歌の飾詳萬篇よりも、日本文畢の光貴を高むること遥かに大な
るべし。是れ余の確言せんとする所なり」(moren乙1895−2.p.6)と言い切ってい
たフローレンツも、1906年に出版したGぉだゐg助gdgタカタα乃ゐ虎g刀工如和ね‘γ(『日
本文学史』)では、日本語の短詩に対する評価に変化を見せている。この本は少
しずつ分割されて小冊子の形でまず刊行されてから1906年に一冊の本に纏められ
たもので、フローレンツの言に従えば、俳句の部分の原稿は1901年に既に書き上
(27)
げていたというから、その通りであれば、チェンバレンの論考に先立つ、欧文に
よる初のまとまった俳句紹介文ということになる。この文章は、俳句ジャンルの
説明に始まり、俳句の形の短さ・主題や用語に関する短歌的規則の放棄・和歌や
漢詩とも結びつく内容・叙述よりも読者の想像を刺激する暗示の重視を俳句の特
徴として述べ、ややもすれば月並みに陥る危険性は常にあるものの、その最良の
ものは賞賛に催する独自性と本物の感情(0riginalitEtundechterEmp丑ndung)
を示していると分析する(morenz.1906−1.p.朗8)。続いて、歴史的な発展過程に
26
沿って俳人達の様々なエピソードと例句が紹介され、解釈が加えられている。
こうして、「詩」としてまともに取り扱われるようになった俳句ではあるが、この
時期においても、高級な詩形として全面的に肯定的評価がなされていたわけではな
い。たとえば、チェンバレン(Chambedain.1902)はその禅的側面に注目したが、
これは、本人も述べているように、異なる文化の研究は「共感しつつ(野mpa仕肥丘
Cal1y)」行うことが第一であるとの考えから(p.304)当時の日本の解説を尊重し
たまでのことであって、チェンバレン自身は、俳句の中に禅的あるいは道徳的な
裏の意味を探り出すような解釈の妥当性については、懐疑的であった(pp.279−
280)。その一方で、俳句の絵画的な側面については、暗示性に富む西洋のスケッ
チ的な絵画や現代ヨーロッパの水彩画に誓えながら(pp.245−246)、終始好意的
に言及している。また、フローレンツは、俳句は「確かに優美で気が利いていて
(28) 愛らしいものもある」と認めながらも、同時に、このような日本人の小さいもの
への噂好が抒情詩において大きく深く力強いものを描写する能力の発展をはばん
だとも指摘し、さらに、俳句のような「詩的歳言に詩としての十分な価値を与え
ることは我々には行い難い」と述べ2ご俳句を詩として認めることへの抵抗感を
吐露してもいる。チェンバレンとフローレンツの上記のような発言は、日本での
人気を考慮し、俳句の短詩としての存在価値を尊重しようとする日本文化研究者
としての幹持と、俳句の価値観を受け入れられない、ヨーロッパで生まれ育った
者としての意識との間で揺れ動く、初期のジャパノロジストの胸中を率直に伝え
ている。
これら初期の日本学着たちによって日本文学の研究が短詩を含む広範囲に渡っ
て進められるようになってきた十九世紀末から二十世紀初めにかけて、ハーン
(1盆adioHeam)は随想的作品の中で、次々と俳句を翻訳・紹介していった。主
に虫や小動物に関するこれらの随筆的文章は、日本詩歌の解説自体を目指しては
おらず、伝承と詩作晶の紹介を通してそれぞれの随想の題名が示している対象物
について日本の人々が連想する感覚・感情・思想について述べたものだが、これ
らは、日本の短詩を民俗学的に興味深い資料として扱うだけにとどまってはいな
い。ハーンは俳句(彼は主に「発句」と呼んでいる)の詩形を、はじめのうちこ
そ「行」にこだわって「この極端に凌い詩形 −(それぞれ五・七・五音節の
(31)
三行から成る)−」と説明していたが、その後は、一貫して、音節数(十七音
(32) 節)で俳句の詩形を解説した。また、俳句の他の様々な特徴(短さ、音節数のみ
が基準となる韻律、主題選択の比較的な自由、表現の暗示性、大衆的人気など)
(33)
を紹介しながらも、これらに対して特に低い評価を下すことは無かった。さらに、
早くから俳句表現の暗示性と連想喚起力に注目し、俳句は全てを叙述しきること
27
(30)
を意図してはおらず、見たり感じたりしたものの記憶を呼び覚まし感覚の体験に
訴えたり人間の感情を暗示的に表現したりすることを目指しているという解説を
(34)
繰り返し行い、直接句に関わるエピソード以外にも古今東西の様々な物語や詩歌
をまじえながら、俳句の暗示的表現や連想の仕組みを読者に体感させるような構
(35) 成の文章を著した。
十九世紀から二十世紀初めに至るまでの日本文学紹介者たちが日本の詩歌を論
じる際に主たる最終的な価値基準としていたのは、作品を作者の感情表現として
(36)
とらえ、その有機的統一性を重視する考え方であった。従って、あまり個人的な
人間感情を詳細に叙述しない日本の短詩(特に俳句)には、文学として低い評価
が下されるきらいがあった。実は、ハーンも感情表出重視のロマン主義的な詩歌
(37)
観を保ち続けていたのだが、その一方で、暗示的で断片的な表現の、多く自然
に題を採った日本語の短詩を軽視することは無かった。時には、「エピグラム的
な種類の日本の詩に対する趣味は、ゆっくりと獲得されねばならないような趣味
(38) である。辛抱強い研究の末、徐々に時間をかけてやっと、このような作品の可能
性が公正に評価できるのだ」と述べ、排句に村して低い評価を下したアストンの
F日本文学史』に見られる類の批評を「性急な批評(hastycriticism)」として戒
めてもいる。そして、日本の詩歌を紹介する際には、その詩歌ジャンルの特徴に
見合うものが西洋詩文学の歴史の中にある場合にはそれとの類似で解説し、似た
ものが無い場合には日本的価値観(と彼が考えたもの)を優先させて説明を行っ
た。つまり、ハーンはここで、西洋詩の歴史上存在してきた様々な価値基準のそ
れぞれを等価なものと見なしたうえで、さらにそこへ、日本詩歌の価値観(と彼
が考えたもの)もそれらと価値としては等価なものとして加えるという、詩歌の
価値基準の配置換え操作を行っているのである。次に挙げる詩形と詩の価値判断
に関するハーンの文章には、西洋と日本の古今にわたる様々な詩歌観をできるだ
け等価に扱って俳句を紹介・説明しようとした彼の態度がよく現れている。
私はただ、西洋の詩においてさえ、きわめて簡潔な詩も偉大な詩になり
うるということ、そして、結局、価値の問題は長さの問題とは全く別な
ものなのだ、ということだけは諸君に理解してもらいたかったのである。
用いられる前から、他の詩形よりも優れている詩形などというものは無
い。全ての詩形は、すぐれた用い方をされれば、偉大なものとなるので
ある。同様に、全ての文体、全ての該博な文学の効用は等しいものであ
り、従って、適切な用法との関連によらないである文学形式が他の表現
(39)
形式よりも優れていると言うのは、無益なことなのである。
28
もちろん、たとえ肯定的にであれ、ハーンがしばしば行った「日本的自然観」
や「日本的精神性」の強調が読者の日本へのエキゾティシズムを煽ったという点
(40) は否めない。また、個人としてのハーンが西洋的な価値観から完全に自由であっ
(41) たわけではなかったことも、近年の研究では明らかになっている。しかしながら、
少なくとも、彼が著した日本の短詩の紹介文や文学講義録は、多様な詩歌ジャン
ルを積極的に肯定した、という意義を持っている。この意味で、ハーンの詩歌観
は、詩形とジャンルの価値体系の固定的な序列関係を否定したロマン主義の理念の
一端を西洋詩の枠組みの外にまで推し進めたものと見ることも可能であろう。
五.多様な詩歌観の浸透
アストン・チェンバレン・フローレンツ・ハーンの日本文学関連の業績がほぼ
出揃った1906年頃を境として、日本における俳句評価の現実認識の点でも詩歌に
対する訳者自身の評価判断の点でも、従来の西洋的基準とは異なる枠組みを容認
し受け入れた日本文学紹介文が主流となっていく。
ドイツ語では、日露戦争後に出版されたエンダーリング(PaulEndeIling)の
彪如戒感軌肋朋肋椚撒朗劫肋加(F日本の小説と詩』)が、時局を反映して、日本
のイメージが自然を愛する幼児的で無感情な国民というものから、次第に、物静
(43)
かで責任感溢れる英雄的なイメージに変化してきたことに触れつつ異民族同士の
共感の必要性を強調し(p.3)、ウタの暗示的表現を日本の絵画と結びつけて高く
評価した(p.5)。ハウザー(OttoHauser)のDicj如anischcDichtu喝(F日本の詩
歌』)とクルツ(JuliusXu血)の両極ぬ効力曲別馴鹿痴れM油粕お励(F過
去千四百年間の日本の抒情詩』)は、日本文学と西洋文学の相違点を説明したう
えで、俳句(「俳譜」)を形の上では楚歌の上の句に当る十七音節の三行詩の芸術
と規定し、その主題の豊富さと簡潔性、感情表現よりも客観的表現を求める傾向
(44)
を、性急な価値判断を下すこと無く、淡々と解説している。クルツは、さらに、
日本の詩歌はほとんど常に機会に即した文芸なので、鑑賞には幾重もの解説・挿
(Ⅶ) 話・物語を必要とする点を、ヨーロッパでは見慣れない特徴として指摘する。
英語圏では、既に、徒然草(1874)、土佐日記(1876)、百人一首(1909)を翻
訳出版していたポーター(WmiamN.Porter)が、1911年には、一年365日の一日
一日にその季節に合う一句を割り当て、所々に内容の理解を助けるための挿絵を
添えたA旅αr肋β乃打g.砂な和明(F日本のエピグラムの一年』)を出版した。そ
の俳句ジャンルの解説の多くは、アストン、チェンバレン、ハーンの先行文献に
よっている(Porter.1911.pp.V−Ⅹ)。「E]本人が自然の美をいかに眺め、我々が
29
(42)
見過ごしがちな小さな事柄をいかに見るのか、また、自分の考え −
この考え
は同じような情況のもとでヨーロッパ人の心に思い浮かぶ考えとは随分異なって
いることを読者は知ることになるであろう ーをいかに詩に託すのかということ
について、大体の感じを伝えることができれば、非常に光栄であ岩ヨとあるよう
に、ポーターは、ここで、西洋詩とは異なる俳句の特質と価値基準を尊重して受
け入れている。1903年のメートル(Claude−Eug占neMai壬re)の俳句論も、先行文
献に知識・情報は依拠しつつも、先人たちの詩歌に対する価値判断からは自由で
ある。これは、1902年のチェンバレンの俳句論文の評だが、論評としては六頁に
わたる異例の長さで、チェンバレンの論文の詳細な紹介とともに、メートル自身
の意見もたびたび記されており、単なる論評以上のものになっている。メートル
は、日本の芸術は一般に暗示的表現を好み、鑑賞者も積極的に連想を働かせて作
品を味わわなければならないが、西洋芸術は、どちらかと言えば暗示的表現より
も再現描写的表現を用いて鑑賞者の感情を刺激することを目指しており、鑑賞者
は受け身である、と観察している(M㌶眈1903.p.729)。興味深いことに、チェ
ンバレンは日本の短詩を極端に否定的に論じてはいないものの高く評価もしてい
ないのに対して、メートルの方は、チェンバレン論文を批評しつつも、日本と西
洋の芸術の遠いを表現と鑑賞方法の好みの違いとして解説し、どちらにも優位性
を見出していない。
多元的な詩歌観を最も積極的に打ち出しているのが、1911年に出されたクーシ
ュー(Paul−I.ouisCouchoud)の論文“LesH表k由一EpigrammeSPO6tiquesdu
J叩On.”(「ハイカイ 一 日本の詩的エピグラム」)である。これは、初めフラン
スの文芸誌bsLet加S(『レ・レットル』)に1906年五月号から八月号にかけて掲
(46)
戟され、欧米における俳句への関心の高揚に一役買った文章で、後、1916年にク
ーシューの著書SagesetPo占tesd’Asie(Fアジアの賢人と詩人』)の一部として収
められた。俳句に関する基本的な知識は、メーいレ同様、1902年のチェンバレン
の論文に負っており(Co11Cbould.1906.pp.189,483)、チェンバレン論文から得た
知識・個々の俳人に関する挿話に日本での自分の体験に基づく挿話と感想を織り
交ぜた、随筆的スタイルの論考である。俳句の特徴に関する事実認識や紹介され
ている挿話の他にも、西洋人と日本人一般の芸術に対する姿勢の相違の解説にお
いてもチェンバレンの影響は濃厚であるが、俳句に詩としてそれほど高い評価を
与えなかったチェンバレンとはかなり異なる結論をクーシューは示している。ク
ーシューの論は、日本の俳句とフランスの詩の違いを日仏の子供の絵の描き方が
異なるという自分の観察になぞらえて、一人がコローのような風景画家として、
もう一人が(狩野)元信のような絵師として、ともに名を成すのならば、異なる
30
(47) 方法があっても構わないではないか、という一文で締めくくられている。つまり、
違いは違いとして認識するとともに、フランス(西洋)の詩歌と日本の詩歌のそ
れぞれにそれぞれの価値基準があるということをも受け入れているのだ。
このように、十九世紀後半以降の日本文学紹介の積み重ねを経て、二十世紀初
頭に至ってやっと、俳句が独特の価値体系を持つ詩ジャンルの一つとして、拡大
された西洋における「詩」の見取り図の中に、その位置を見出したのである。
六.詩歌の価値基準の多様化と訳旬の変容
十九世紀末以降、俳句が詩ジャンルとして認められ一定の評価を受けるように
なると、それにともなって、訳の詩形も、原句の簡潔な表現を生かしつつ、訳語
においても「詩」らしく響くようにエ夫が凝らされるようになっていった。この
時期の俳句の訳は、原句の特徴(と見なされたもの)のうちどれを重視するかに
よって、大きく三つのタイプに分けられる。
まず、第一に、原句の特徴である簡潔性を音節数の少なさとして解釈し、でき
るだけ音節数を抑えて、行分けして訳出するというものがある。チェンバレンの
1902年の画期的な俳句論、フローレンツのF日本文学史』、アメリカのポーター
の俳句集、ドイツのハウザーとクルツの詞華集における訳は、いずれも、このよ
うな訳し方をしている。以下、典型例として、チェンバレンの訳した句を見てみ
よう。
チェンバレンは、特に訳し難いものや原句が非常に滑稽であったり言い回しの
(48) 奇抜さに頼っていたりする場合を除いて、ほとんどの句を各行八音節の二行詩と
して訳している。一行人音節にした理由を、チェンバレンは次のように説明して
いる(Chamberlain.1902.pp.23−254)。短歌を音節数をあまり変えずに一行八音
節の四行詩に訳した場合、その半分の詩形を俳句にあてれば、楚歌の上の句から
(俳句のもととなった)発句が生じてきたという詩形の歴史的起源も訳詩に込め
ることができ、そのうえ、音節数も十六音節で原句とそう適わない。もう一つの
可能性としては、原句に一音節だけ加えて強弱弱格(dactyls)の六歩格(hexa・
meter)で訳すことも考えられるが、英語では六歩格は異国風に響いてしまう。
しかしながら、俳句は大衆的で親しみのある詩形である。さらに、ギリシャ・ロ
ーマの六歩格による詩は共鳴(resonance)がある完全なひとまとまり(acom−
pleteunit)だが、E)本の一句は本質的に断片的(血agmental)である。これらの
理由から、一行八音節の二行で、できる限り直訳することが最も妥当である、と
結論付けている。つまり、俳句形式の歴史的起源も考慮しつつ、主に音節数を近
31
づけることで、原句の簡潔性・断片性を尊重したのである。また、同時に、弱強
の韻律が基本となっており、英語の詩に典型的な韻律にも配慮した形になってい
る。さらに、訳の前に掲げられているローマ字書きの原句には句読点や感嘆符は
加えられておらず、原句の様子をより正確に伝えようとする配慮が感じられる。
近代の水彩画(の題)のようであるとして、チェンバレンが特に評価している
句の例を挙げよう。
Urむkazeya
Tbmoewoku玖ISu
Mura,Chidori
Atroopofse計g劇s,anda糾1St
〔八音節〕
0ffshorethatbreakstheirwbiding丑ight.〔人音節〕
(「一群のウミカモメ、そして一陣の風/沖合より吹きカモメたちの旋回飛行
をこわす」)
(原句:「浦風や巴をくづすむら千鳥」 曾良)(Chamberlain.1902,p.246)
原句を時間軸の流れに沿って読むと、「浦風」が「巴」形の何ものかをくずす
イメージがまず読み手の意識にのぼる。その後に「むら千鳥」イメージが意識化
され、「巴」が「千鳥」であったという気付き(認知)の瞬間が想像上体感でき
るように、演出されている。また、原句では、「浦風」「巴をくづす」「むら千鳥」
の語句の関係性が文法的に明確に示されていないため、浦風が巴をくずすイメー
ジと千鳥の動きにより巴形の群れがくずれるイメージとの両方が読み手の脳裏に
二重写しに残される。これに対して、訳は「ウミカモメ」と「風」を冒頭に併置
することによって強調し、原句で印象的な「浦風」と「むら千鳥」のイメージの
取り立てを再現しようとしているが、はじめから「一群のウミカモメ(むら千鳥)」
という主題を提示しているので、原句に見られるような「巴形のものは実は千鳥
の群れであった」という「気付き(対象の認識上の変化による驚き)」の演出は
再現し得ていない。さらに、訳句では、関係代名詞や所有格の導入により、句の
意味がかなり限定的に解釈されることになる。すなわち、「浦風(agust)」を
血釦以下の関係代名詞の主語とし、さらに所有格也eirを加えて「浦風」が「む
ら千鳥」を「くづす(break)」とつなげることで、個々の言葉の文法的関係性が
明確に示されており、このため、訳句の解釈は、原句のような変化や二重写しを
内包しない、一つのイメージに整理されているのである。もっとも、原句と訳句
32
の間にはこのような相違も存在してはいるものの、以前のフローレンツ、アスト
ンらの脚韻付きの冗長な訳から見ると、かなり簡潔に表現されている。
このような訳と形式上非常に似ているのがフローレンツの『日本文学史』にお
ける旬訳である。この書の中で、フローレンツは、七十にも上る句を訳し、解説
を加えている。上述したように、以前は非常に長く一句を訳していたフローレン
ツだったが、この『日本文学史』では、西洋的な詩形に依拠したものから原文重
(49) 視へと、翻訳方式の大幅な転換を見せている。すなわち、以下のように、どの訳
も、題の無い句読点・感嘆符付きの三行詰となっており、以前とは比べ物になら
ないほど、短い訳となっているのである。
Natsu血saya
OduSommergraS!
Tsuwamono−domoga
Sovielentap&enKhegern〔七音節〕
YtlmenOatO,
Stattedes廿aumens! 〔五音節〕
〔五音節〕
(Florenz.1906−1.p.439)
(原句 「夏草や兵どもが夢の跡」
(「ああ汝 夏の草よ!
あんなにも多くの勇敢な
松尾芭蕉 )
戦士たちにとって
夢の跡!」)
ここで注目されるのは、多少の例外はあるものの、ほとんどの句が上記の例のよ
うに各行玉音節・七音節・五音節の三行詩として訳されている、ということであ
る。「枯れ枝に鳥のとまりけり秋の暮」(松尾芭蕉)のように、原句が字余りによ
る効果を狙っている場合には、わざわざ訳もこれに呼応させるかのように音節数
を変化させており(刑orenz.1906−1.p.亜0)、原句の音節数を非常に尊重した訳に
なっていることが分かる。一方、原句に無いが訳には見られる特徴としては、時
折見られる不規則な脚韻と句読点や感嘆符の使用があるが、どちらも、先にあげ
たフローレンツによる以前の訳と比べると非常に控え引こ抑えられている。
1909年のクルツの訳も、「五音節・七音節・五音節」の三行詩という形を採用
(50) している。クルツは、翻訳の方針として、原文の音節数を守りながら言葉にも忠
実たらんと努めると明言し、原作における意味の二重性などがどうしても訳だけ
では伝わらない場合には、脚注や導入部で説明したり関連する挿話を加えたりす
ることで原文の美的効果をも訳に再現しようとした(Ⅹur瓜.1909.V−Ⅵ)。原句
の音節数重視の姿勢は徹底していて、字余りの句はその通りの音節数に訳してい
る。脚韻ヤアクセントの強弱によるリズム作りは、一貫してはいないものの、
33
所々に散見され、その時々に応じて母音や子音の繰り返しなど様々な音の響きを
(51) 効果的に用いようとしたものと推測される。また、ハウザーも、日本詩歌の概説
書『日本の詩歌』(1904年)で、日本の詩歌の短い詩形と暗示性に富む点を訳に
表すという明確な意識のもとに(Hauser,1904.pp.14−16)、短歌を脚韻を踏んだ
四行詩として翻訳する一方、俳句を脚韻を含んだ三行詩として三句(いずれも芭
蕉作)訳している。原句は挙げられておらず、各行の音節数ヤアクセントの強弱
の規則的な変化によるリズム効果の統一性や題は特に見られない。句読点は用い
られているが、感嘆符は付されておらず、フローレンツ訳やクルツ訳よりもさら
に表現が控えめの訳になっている。
以上で見てきたように、チェンバレン、ポーター、フローレンツ、クルツ、ハ
ウザーの訳は、脚韻や一行当りの音節数の点では多少の違いはあるものの、行分
(52) け、句読点の付与、簡潔性の保持への意志(原句の音節数の尊重)という点では、
共通している。いずれにせよ、詩形の面で、西洋詩の枠組みと日本語俳句の枠組
みを折衷しつつ、そのどちらをどの程度優先させるか苦慮した結果の訳出となっ
ている。
第二の翻訳タイプは、訳詩の形を西洋詩あるいは日本の原句に合わせて訳すこ
とを放棄して、逐語訳に徹するという選択肢を選んだものである。このタイプに
は、アストンの『日本文学史』(1898年)の訳とクーシューの「ハイカイ」(1906
年)がある。同じ「逐語訳調」でも、以前の日本語教則本のなおざりな直訳調と
は違って、アストンもクーシューも、俳句を一つの大切な詩ジャンルと認識し、
いかに訳したらよいかと真剣に考慮したうえで、訳では到底原句の再現は不可能
(53)
であると観念し、敢えて直訳にしている。両者の訳した「古池や蛙飛びこむ水の
をと」(芭蕉)を以下に挙げる。
AnanCientpond!
(「古い池!
Withasound五・Omthewater
水からの音とともに
Ofthe血・OgaSitplungeSin.(Aston.1898.p.295)
その蛙の それが飛び込んだ
際の。ヂ)
Unevieillemare,
(「古い池、
Et,quandunegrenouilleplonge,
そして、一匹の蛙が飛び込
む時、
Lebmitque鮎tl’eau...(Couchould.1906.p.480) 水がたてた音‥・」)
34
どちらの訳も、主語・接続語などの付け加えは多少見られるが、形容詞・副詞・
動詞を過度に足すことはしていない。また、詩形としては、どちらも句読点付き
の三行訳で、規則化された脚韻、音節数、音の強勢による韻律は見られない。ア
ストンの訳は、上の例にも見られるように、切字「や」「かな」を感嘆符(!)
として訳詩、原句の語順にかかわらず、強調する部分の語句を冒頭に移動する傾
向がある。アストンの訳では、語順を犠牲にするかわりに、前置詞や関係代名詞
の活用によって名詞句としてのまとまりを表現するようになっており、俳句の省
略的な表現をなるべく文章化せずに訳そうとする配慮が感じられる。一方、クー
シューの訳は、原句の語順を訳でもほぼ保っており、また、同じ逐語訳でも、作
者や作詩情況、主題に関連する挿話を本文中にふんだんに取り入れつつ訳句を紹
介しているので、実際に俳句紹介文全体として読んでみると、読者が連想を楽し
(55)
めるような仕組みになっていることが分かる。これに対して、アストンは、鑑賞
の助けとなる情報をほとんど提供しないままに訳句を列挙しているだけなので、
俳句にあまり馴染みの無い読者がこの紹介文から詩的な味わいを感じられたか
は、甚だ疑問が残るところである。このように、紹介文全体としてみると特徴が
全く異なる両者ではあるが、訳形だけに注目すれば、アストン訳もクーシュー訳
もほほ直訳の三行詰となっている。
さて、第三のタイプの訳は、行分けもせずに原句の簡潔さを尊重する、という
形で、ハーンの俳句紹介文に特徴的な訳である。ハーン自身はこのような訳を
「自由訳(&eetranSla也on)」と称し(Hearn,1898.p.59)、俳句を初めて訳し紹介
した1898年以来、ずっと、このような訳形を採用している。では、彼の最初の俳
句紹介文における、山崎宗鑑の「手をついて歌申しあぐる蛙かな」の訳を見てみ
よう。
“withhandsrestingupon仇efl00r,reVerentiallyyou(「手を床につけて、恭しく
お前は
Repeatyourpoem,0血・Og!’’(Heam.1898.p.157) 詩を繰り返す、おお蛙よ!」)
ハーンの訳は、上の例もそうであるが、一見、行分けされているように見える
(上の例で言うと十三音節・六音節の二行詩)。しかし、これは、おそらくは一行
あたりの文字数の制限による改行であって、基本的に意図的な改行は行われてい
(56)
ない。大抵は、上記の例のように全部で十五音節から二十音節ほどで訳されてい
るが、特に一定しているわけではない。アクセントの強弱によるリズム付けも、
どこまでが英語という言語自体の性質によるものでどの程度が意図的になされて
35
いるのか、判別がつかない。また、原文が添えられることは皆無ではないが、ほ
とんど無い。
その後、ハーンは次第に、訳をより簡潔なものにしていく。と同時に、そのま
までは英語にすると分かりにくくなる表現や重層的な意味を訳に盛り込むかわり
に、注や句の前後の本文で説明することが増加していく。つまり、本来、日本語
の原句では読者の想像に任せているような含意のうち、どうしても訳では明示し
なければ意味がとれないような部分を、訳に組み込むのではなく、括弧に入れて
付け加えられたということを明記したり、詳しい注や挿話を添えたりする形で補
っているのである。こうした含意の重層性の提示に関するエ夫は、1902年の随想
集『骨董』以降、特に比重を増していった。
例として、まず、蓼太の句「追はれては月にかくるゝ蛍かな」の訳を見てみよ
う。
Owaretewa
Tsukinikakururu
Hotamkana!
Ah![thecunning]負re丑ies!beingdlaSed,theyhide
themselvesinthemoonlight!(Hearn.1902.p.157)〔全二十一音節〕
(「ああ!〔狂い〕蛍め.!追いかけられて、蛍たちは月明かりの中に身を隠し
ている!」)
括弧で〔放い〕と加えることで、なぜ蛍に注目しているのか、この語り手が蛍を
どう思ってこのように語っているのかが分かるようになっている。さらに、括弧
で加えられていることから、この語句は、本来、原句には無かった、ということ
も明記されている。
もう一例、今度は1904年のF怪談』に収められている「煉」という文章で紹介
されている、乙州の「脱ぎかくる羽織すがたの胡疾かな」という句の訳を見てみ
よう。ここでは、ローマ字で原句が示された後、“Likeahaoribeingtakenoffー
thatisthe血apeofabutterny!”(「脱ぎ捨てられている羽織のよう−それは煤の
姿だ!」)と、十九音節の訳が、まず添えられている。さらに、脚注では、“ukea
womanslippingofEherhaori−thatistheappearanCeOfabutteI取’’(「羽織をそっ
と脱ぎ捨てる女性のよう − それは媒の様子だ」)と「より効果的に(more
effectively)」分かりやすく訳しなおされている。また、他にも、脚注では、「脱
ぎかくる」という表現のニュアンス、衣服としての羽織の種類と説明、この句で
36
は「羽織」の語が女性の姿を暗示していること、羽織を女性が脱ぐ様は動いてい
る殊に似ていることなど、句を味わう上で必要とハーンが考えた事柄が、詳しく
解説されている(Heam.1904.p.187)。そのうえ、この句が登場するまでの間に
は、媒に関する様々な物語・伝説や媒の象徴的な意味使いの例が多数紹介されて
あるので、読者はこれらの情報をもとに、日本の詩歌における媒のイメージを自
分なりに膨らませ、この訳句から様々な印象を連想することができるようになっ
ている。このように、含意とその前提を提僕する配慮は以前よりも細かくなって
いるが、注と挿話の充実でこれを行っているために、訳の簡潔性は保たれている。
もっとも、単純に音節数という点だけから見れば、ハーンの訳が他の訳例と比
べて掛こ短いというわけではない。ハーンの訳で特徴的なのは、原句がもたらす
「印象」のみを尊重し、常に一定の詩形に訳すという執着を捨てている点にある。
これまで論じてきた訳形のうち日本語教則本の中の「散文的な直訳調」以外、す
なわち、「脚韻付きの長い訳」、「原句の音節数を保持し行分けした訳」、「行数を
一定に保った逐語訳」のいずれもが、西洋と日本の作詩法の間での距離のとり方、
重点の置き方に苦慮している。ただ、「脚韻付きの長い訳」が決然と西洋的な詩
の枠組みを採用しているのに対して、後の二者は西洋の伝統的な詩歌の特徴(脚
韻、強弱、題、行分け)の他にも俳句的な特徴(簡潔性、音節数)をも考慮して
いるという違いはある。中でも「行数を一定に保った逐語訳」は、脚韻も強弱も
音節数も放棄して、簡潔性と行分けのみを専らとする詩形を俳句の訳の枠組みと
して残した。一方、ハーンの「自由訳」はさらに行分けすらも捨て去り、形の点
では主に表現の簡潔性のみに意を払って、従来の西洋の作詩法からも日本の俳句
の作句法からも距離を置いた、言わば、不定形の「第三の詩形」を導入している
のである。
五.まとめ
以上で見てきたように、十九世紀半ば以降、日本文学が西洋に紹介されはじめ
たが、従来の西洋詩と非常に異なる特徴の政に、俳句の西洋への本格的な紹介は
他の日本文学ジャンルに比べて約半世紀ほども遅れた。日本詩歌の特徴に関して
は、まず否定的な評価を伴った形での違いの認識が先行し、次第に違いの認知、
受け入れへと移行していった。同時に、俳句も本格的に「詩」ジャンルとして英
語・独語・仏語に訳され紹介されるようになり、これとともに、訳句の形も、西
洋の短詩形に無理やり当てはめたものから、徐々に、様々な形で原句の簡潔性を
尊重したものに変化していった。脚韻や行分け、音の強弱による韻律パターンな
37
どが最後まで訳において保持される傾向にあったのは、それだけこうした特徴が
上記の言語圏における詩文学において強力な規範として働いていたことの傍証と
なるだろう。
ここで、俳句の詩的評価と訳詩形の一連の変遷の背景には、西洋における自由
詩の興隆があったことを見落としてはならない。伝統的な韻律の束縛から部分的
に自由になろうとする動きは、フランス語とドイツ語の詩の歴史の上では、長期
(57)
にわたって観察される傾向であった。英語の詩においては、韻律規則がそれほど
厳しくはなかったので、部分的に韻律が自由な詩形は時々創作されていた。十九
世紀に入ってヨーロッパの諸語において既成の韻律への反発が高まると、自覚的
に韻律(およびそれと不可分祝されていた脚韻)を拒否することが始まり(十九
世紀末フランス語のverslibreなど)、様々な区切り方(連、行その他)、聴覚的
効果(押韻、アクセントの強弱)、視覚的効果、言葉の文法的機能と意味、これ
らのどれもが詩を構成する要素として同列(等価)に置かれ、それらを対比、併
置、反復などの手法によって際立たせて効果的に用いる「自由詩(むeeverse)」
が登場し、今日におけるまで現代詩の主流となっている。
(58)
自由詩は、ある特定の詩の構成要素を規則的に特権化することを嫌う。簡単に
言えば、自由詩では、行や遵の構成が予測できず曖昧で、規則的な脚韻も無く、
対比を強調するために休止や沈黙も重要とされる。また、様々な要素を用いて言
葉自体を意識させようとするので意味は断片的になりがちで、多くの手法を予測
不可能に用いるため読者も積極的に読みに参加しかナればならない。こうした自
由詩の特徴は、俳句が独自の韻律に基づいている点を除けば、俳句の特徴と類似
している。音節数にこだわらずに、簡潔な表現を尊重しつつ俳句を訳した場合に
は、その訳は、さらに自由詩に近づくことになる。つまり、俳句は日本では古く
からの韻律に則った詩形であるのだが、それを簡潔に訳した場合、当時における
西洋の伝統的な詩法から或る程度自由に見えるのである。そのため、特に二十世
紀に入って西洋各地で自由詩の潮流が顕著になってくると、俳句はかえって歓迎
されるべき詩ジャンルとして好意的に迎えられ、欧米の現代詩人や批評家達の好
(59)
意的な興味を引くようになった。これは、ちょうど、十九世紀後半、日本では因
習的で写実的でないと非難されていた浮世絵が、西洋では自由で写実的であると
(60) いう全く正反対の理由で歓迎されたことに相当する現象である。現代から見れば、
ハーンは俳句の表現の中に従来の西洋詩とは異なる自由詩的な特徴(となりうる
可能性)を早くから見出し、訳にも表そうとしていた、と言うことができよう。
ここに至って、初めて、主題のもの珍しさや詩形の珍奇さだけによってではなく、
その表現によって、俳句が西洋の人々の関心を引くようになったわけである。
38
このように、俳句の西洋での受け入れは、俳句および日本文化一般に関する西
洋での情報量の蓄積と、西洋の文学の潮流における既成の枠組みの見直しの進行
との両方が相模って、選択された主題の傾向と詩形の特徴の認識、その価値観の
受け入れ、さらに、それらの訳での尊重へと、ほぼ段階的に変容してきたと考え
られるだろう。
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(1)「俳句」「俳静」「発句」は、本来はそれぞれ区別して用いられるべき用語だが、
以下で取り上げる西洋の俳句紹介文では、大抵の場合、いずれも五音・七普・五音
から成る句を指す同義語として使われている。本稿でも、これにならって、上記三
語を互いに置き換え可能なものとして扱うことにする。
(2)「縮緬紙に英語・ドイツ語で印刷し、多色木版刷の挿絵を施した和本。明治18年
(1885年)頃から大正時代にかけて出版。内容は子供向けの昔話が多く、主として輸
出用」(『広辞苑』第五版 岩波書店1998年)。中でも、長谷川武次郎によって刊申
された『日本昔噺』シリーズは、英・独語の他にも、仏語、蘭語など様々な言語で
出版され、外国人へのみやげものとして販売された。著者はハーンやチェンバレン
など在日外国人であった(東京都江戸東京博物館編▲発行『美しき日本一大正昭和
の旅 展』2005年 29頁)。ちなみに、「縮緬紙」とは、縮緬のように妓を寄せた紙
(クレープ・ペーパー)のこと。
(3) 当然のことではあるが、だからと言って、オリジナルとは別個の翻訳作品である
訳詩に各句作晶の新たな読みの可能性を見出すような研究を否定したり軽視したり
40
しているわけではない。
(4)以下、十九世紀末までの英・独・仏語の日本文学関係文献における詩歌観とそこ
での日本詩歌の評価についての詳細に関しては、拙稿「西洋俳句紹介前史 −19世
紀西洋の日本文学関連文献における詩歌観」(『比戟文学研究』第75号 東大比較文
学含 20(カ年2月 35−46頁)を参照されたい。
(5)schuster,hgrid.TbrbilderundZbrrbHder:
Liieraiur,17n−189aBern:Peterl劇1g,1988.pp.360L362.によると、1849年にプフィ
ツツマイアーが和歌に関する本を著しているというが、筆者はこの文献を探し出す
ことができなかった。
(6) それ以前の俳句と西洋文化の接点としては、1603年に平戸で日本イエズス会によ
って刊行された日葡辞書に見られる俳語・発句・連句の簡単な解説、1816年刊行の
『西海筆紙初篇』に収められたオランダの甲比丹ズーフ(HendrikDoefE)による句
がある(村山古郷・山下一海編『俳句用語の基礎知識』角川書店1984年、「世界の
中の俳句」項)。
(7)Aston.1877,PP.203−204.(1872年の初版には句は挙げられていない);Chamberlain.
1郎6.pp.77−78.(F日本語ローマ字読本』。三冊の小冊子から成る。句は第三巻の「俳
静のしくじり」という笑い話の中で言及されている。);Chamberlain.1888.pp.452−
456.(『口語日本語ハンドブック』。ちなみに、アーノルドはこの書によって日本語
を学び日本文化に思いを馳せていたと告白している【Arnold,1891.p.218,223】;
Chmberlah.1899.(日本語書記法に関する大型の教則本F文字のしるべ』。1905年
以下、基本文献資料を引用する際は、
「著者の姓、刊行年、頁数」で記す。名文献の書誌的詳細については、本稿末のリス
トを参照のこと。なお、本論中の引用語句・文の日本語訳は、特に明記しない場合
の第二版にも数句の訳が掲載されている)
は拙訳。
(8)「短歌の初めの部分(仇efirstpartofaverseof7bnka)」(Aston.1877.p.203);「一
種の滑稽詩(akindofcomicverse)」(Chamberlain.1886.p,77);「小型の環詩(a
miniahlreOde)」(Chambedain.1889.p.453).
(9)“SomeofthebestpoetrywhichJapanhasproducedisinthismetre.”(Aston.1877.
p.200).引用文中“山smetre”は長歌を指す。
(10)注6参照。
(11) 当時、フローレンツは、ロマン主義的な詩歌観から、短歌や俳句など日本の短詩
を「日本文学の一大災陶」と断定し(Florenz.1895−2.六頁)、上田萬年と『帝国文
学』誌上で詩歌論争をたたかわせていた(詳細は前掲拙文参照)ように、俳句をは
じめとする日本の題詩に非常に低い評価を下していた。一方、アーノルドは、日本
の芸術の特徴の−つである「暗示的な印象(suggestive主mpression)の例として加賀
の千代女の句を取り上げており、俳句評価としては中立的な立場をとっている。
(12)井上曹次郎はライブツイヒ大学留学中にフローレンツと知り合い、のちにべルリ
ンの東洋語学校で彼に日本語を教授したという。(富士川英郎『西東詩話一 日独文
41
化交渉史の側面』玉川大学出版部1974年 339−345頁)
(13)ドイツ詩の韻律については、山口四郎 『ドイツ爵を読む人のために一韻律論的
ドイツ詩観賞』(郁文堂1982年)を参照。
(14)前掲「日本詩歌の精神と西洋詩歌の精神との比較考」6−16貫。
(15)上田高年「批評 Dichtergrtis$eauSdemOsten.ドクトル・フローレンツ等」『帝
国文学』第一巻第二号1895(明治28)年 98−99頁。
(16)アーノルドが訳した加賀の千代女の句を参考として挙げておく。
“’me‘Moming・doly’
ConvolⅥユ1us
Herleavesandbe11shasbound
Buckettaking,
Mybucket−handleround,
IboITOWWa短r.
Icouldnotbreakthebands
Ofthosesofthands.
ThebucketandthewentoherIleft:
Lendmesomewater,forlcomebere札”
(Amold.1891.p.294.)
ちなみに、彼が日本語を学ぶために用いたチェンバレンの上掲書でもこの句は紹
介されているが、次のように、全くの直訳調であった。“Havinghadmywen−bucket
awaybytheconvohlli,−giftwater!”(Chamberlain.188&p.453)
(17)長歌に対する肯定的評価と紹介には、次のようなものがある。Aston.1877.p.200;
Chambedain.1880.p.4.;W.G.A.1881.pp.319−321.;Florenz.1895−2.6頁。
(18)“Itiswonde血1what脚Cityofphrase,melodyofversiBcadon,andb・ueSe血mentcan
becompressedwithinthesenan・OWlimits:’(Aston.1898.p.29)
(19)“EssinddiesoftuntibersetzbareWortspiel,meistaberwundervollepoetische
lmpression,diemitwenigenSilbeneineStimmungwiedergeben”(Endeding.1905.
p.5)
(20)‘‘AIsHochkunstga)tundgi1tes,indiesenwinzigenRahmeneinganzes
StimmgSgemaldezuhssenL]undobendrein,WOeSanging,einefeinePointeauszu−
d血cken.”(M.1909.Ⅶ)
(21) mostofthemwereproducedbe血rethe血eoftheNormanConquest,andonecan−
notbutbesbTICkwiththeadvancedstateofartandcultureinJapanatatimewhen
Englandwass也1inaveryelementarystageofciviliza60n.”(Porter.1909.vii,)
(22)“Netsuke’’“sketches”(Aston.1898.p.29);“picture”(Heam.1899.pp.161−2);
“血ypicture”(Hearn.1900.p.98);“Farbenskizzen”(Ende血g,1905.p.5).
(為)伝統的な短歌においては漢語が使用できないことや主題が制限されていることも、
短歌の評価の上昇の妨げとなった。連歌も、短歌と同様の理由と詩作晶としての一
貫性の欠如から、その長さにもかかわらず、当時、高い評価を得るには至らなかっ
た。(Chamberlain.1902,pp.256L258,;Maitre.1903.p.725.;Balet&De血・ance.1905.
p.644.)
42
(24)Aston.1898.押.289−294.
(25)彼は、発句一俳語・俳句の三名称のそれぞれの由来を説明しつつ、最終的には同
義として用いているが、「発句」という呼称を最も頻繁に使用している。
(26)C加mbed血l.1902.p.243.
(抑 norenz.1906−1.p.464.脚注。
(28)“VielederMiniaturdichtungensindzweife1loselegant,Sinnigundlieblich.”
(Florenz.1906−2.p.449.)
(29)“EinempoetischenAphorismusverm6genwirschwerdenvollenWerteines
Gedichtese血1raumen.”(Florenz.1906−1.p.463.)
(30)“Insect−Musicians(虫の楽士),”“Frogs(蛙)”(以上、Hearn.1898);”Bitsof
Poeby(小さな詩)”(Heam.1899);l’semi(蝉)”(Heam,1900.);“Dragon亜es(購
姶)”(Hearn.1901.);“AWoman’sDiary(ある女性の日記):’“Fh・eflies(蛍)”(以上、
Hearn.1902);“Butternies(媒)”(Heam1904.).
(31)“血isexb・emeけbrief血rmo‡verse−(three血esof5,7,and5syllablesrespecdvely)
−”(HeむTl.1898.p.164)
(32)Hearn.1900,p.87;1901.p.95;1902.pp,155−156;1904.p.186,
(33)Heam.1898.pp.77−78;1899.pp.154−156,161−162;1900.p,87;1901.pp.97−98.
(34)Hearn.1898.pp,77r78;1899.pp.154r156,161−162;1900.p.87;1901.pp.97−98.
髄)この時期の俳句紹介文における俳句の鑑賞傾向と、ハーンの文章に見られる、「季
語」的連想体系の創造的な再構成に関しては、以下の拙稿を参照されたい。「再構成
される連想体系一西洋における二十世紀初頭までの俳句鑑賞−」F比較文学研究』
第78号 東大比較文学曾 2001年8月109−126頁。
(36)西洋における詩歌観の変遷については、Abrams,MeyerHoward.771eMimrand
娩eヱぷ〝ゆ:Rbmaniic7%e叩・and助eD弱calTねdiiion.Oxford:0ⅩfordUP,1953.を参照
されたい。
(37)ハーンの初期の俳句紹介文には「呼びかけ調」の句が多く、主題も人間感情が直
接的に詠まれているものを選ぶ傾向があった。また、彼は「最終講義」で、当時の
日本を十八世紀西洋の古典主義時代になぞらえて、日本に必要なのは民衆の文学に
学び自然なやり方で思想や感情を表す一種のロマン主義運動であると力説している
(“FarewellAddress”Hearn.1941.pp.528−533)。
(38)unetasteforJapanesepoebyoftheepigamnadcsortisatastethatmustbeslowレ
acql血ed;anditisonbTbyde訂eeS,;血erpa也entstudy,thatthepossibintiesofsuchcom−
POSidoncanbeLhir妙estimated.”(Heam.1904.p.186)
(39)‘1IonlywantedyoutorealizethateveninWesternpOebYVerybriefversemaybevery
訂eatVerSe,andthaい血eran,aqueStionofmeritisquiteindependentofanyques也onof
length.NooneLormOfpoebyisbetterthan弧yOtherform,eXCeptaSitisused:al)foITnS
Ofversebecome訂eatin訂eatuSe.AndinthesameWayal1style,al]scholarlyⅡterature,
isequal1ygood:itisquiteuselesstosaythatoneformisbetterthananother,eXCeptin
43
reladonto叩prOPriate11Se.”(“EpigrammadcPoems,”Hem.1941.p.140)
(40)『怪談』(1904年初版)の序で、著者である作家ハーンは、日本の奇妙で神秘的な
文化を積極的かつ好意的に紹介した人物として解説されている(mODUCTION.
Hem.1904)。
(41)太田雄三『RH.チェンバレン:日欧間の往復運動に生きた世界人』リブロポ
ート1990年;同 「ハーン試論」『文学』3巻1号1992年;『ラフカデイ
オ・ハーン:虚像と実像』岩波新書1994年;同 「チェンバレン試論」『世界の
中のラフカデイオ・ハーン』 河出書房新社1994年。
(42) ロマン派の詩人・批評家たちは、一作品中における諸ジャンルの混合的使用や序
列の転覆(その典型例が、物語性にかわって詩人の感情表出を重視し、最下位のジ
ャンルと見なされていた叙情詩を詩の代表格としたこと)などを通して、従来の階
層化されたジャンル体系の変革をはかった(Abrams.前掲書;阿部良雄・高辻知
義,山内久明『ヨーロッパ・ロマン主義を読み直す』岩波書店1997年;‘Genre’
‘¶1eOriesofPoe廿y(Western)’inNew助ceionEncyclq9ediadPbe砂andIbetics.
NewJersey:PrincetonUP,1993.)。
(43) ちなみに、この時期、このような日本イメージの変化を裏付ける書物が西洋で相
次いで出版されている。言わば、日露戦争を期に、日本イメージがフジヤマ・ゲイ
シヤに象徴される「自然一女性」的なものから、サムライに代表されるようなもの
へ「男性化」したのである。主な例を以下に挙げる:uoyd,Arthur.trans,anded.
加ゆぬg5¢櫛ご劫g棚砂r〟.乃g物のⅦγ8乃d蜘q〃如β刀α乃dO娩〝血ゆぬJ
馴れ創始吻ぬ血戒乃循轡昭弘丁濾耶‥恥oG濾止血P托SS,1905・(天皇、皇室の御製
歌を集めたもの);Kimura&Peake.Swwd&助ssom.Tokyo:Hasegawa,1907−1910.
(楚歌と漢詩の訳詩集。「現代の日本人にも通じる」という「サムライ」の精神性を
序文とカラー挿絵で強調しており、それ以前の、日本の自然や芸者の艶姿が多数を
占める縮緬本の挿絵とは異なっている。川棚4卵り=穐南砂鳥肌如=れ紬招ぬ
LiteraiureandArtILendon,11th.July,1908]にはFhtによる同書の書評が掲載されて
いる。);Palmer,Frank.肋itional伽verbs:Japan,London:Palmer,1913(世界各国の
諺を一冊ごとにまとめたシリーズの日本版。表紙絵は甲常に身を固めた戦国武将の
雄姿。1914年から1940年頃まで版を重ねている);日本人将校横井息温の手記『肉
弾:旅順賓戦記』(丁未出版社1906年)は各国語に訳された(〃蒼ゑ〟一血乃:〃α研由如−
q飾r:e乃jaPallSkIltfhlZteriq折ccTSDagbok.Stot:khL)lm:Bi11e,1911:Nik紺−Dall:
Mcnschen癖r.Freiburg:),BielefeldsVerlag,1913;Nikudan:伽iettiliUmani.
Grotta飴rrata:TlpograBaItal0−0rientale,1913,)
(44)Hauser.1904.pp,38−39;K11rth.1908.Ⅷ.
(45)“[I]shal]bequitesadsfiedifIcansucceedingivingageneralimpressionoftheway
theJapanesemindlooksatthebea血esofNature,SeeS且tdedetai1swi1ichquiteescq)e
us,andembodieshisideasinverse−ideasw昆chthereaderwinseeareverydifferent
&omthethoughtsthatwouldoccurundersimi1arCircumstanCeStOaEuropean.
44
(Porter.1911.k)
(46) この点に関する詳細については以下の研究を参照されたい。金子美都子「訳者解
説」『明治日本の詩と戦争』(ポール=ルイ・クーシュー著 金子美都子・柴田依子
訳 みすず書房1999年 2別.−311頁)、同「『レ・レットル』とフエルナン・グレ
ッグーフランスにおける日本詩歌受容とサンボリスムの危機(上)」(『比較文学研究』
78号 2∝)1年 90−108頁)、同「『レ・レットル』とフエルナン・グレッグーフラン
スにおける日本詩歌受容とサンボリスムの危機(上)」(『比較文学研究』 79号
2002年114−123頁)、柴田依子「詩歌のジャボニスムの開花−クーシューと『N・
R・F』誌(1920)「ハイカイ」アンソロジー掲載の経緯」『日本研究』 29号 2004
年 37−89頁)。
(47)“Qu’importentlesmoyensdi王f6rents,Sitousdeuxdoiventdevenirdegrandsardsts,
Siplustardilssauront6galementfairesaisirle11rr占ve,Sil’unestcorotetl’autre
Motonobu?”(Couchould.1906,pA83)
(48)「盗人を捕らえてみれば我が子なり」(Chmbed由n.1902.p.266)「これはこれ
はとばかりに花の書野山」(p.269) 「梅が香や隣は荻生惣衛門」(p.326)など。
(49) 実際、序文でフローレンツは、ドイツ語を犠牲にしてでも原作の思想と文言の両
方を出来るかぎり忠実に訳すように努める、と原文重視の翻訳態度をとることを宣
言している(椚orenz.1906.Ⅴ)。
(50)興味深いことに、原句の音節数を厳守しつつ三行詩として句を訳す方法は、フロ
ーレンツヤクルツをはじめてとして、以降の俳句のドイツ語訳にしばしば見られる
特徴である。たとえばG,Coudenhove,G.S.Dombrady,H.Hamitsch,M.Hausmann,
W.Helwig,E.Jahn,H.Tieck,].Ulenbrook,RRWuthenowらの訳がある(加藤慶二
『ドイツ・ハイク小史』永田書房1996年 9−77頁;渡辺勝『比較俳句論』角川書
店1997年104Ll14頁;Wittkamp,RobertF.“Sommergr哀serundHeideb・aume:
ZurUbersetzungstechnikbeimHaikn,’’NachrichtenderGesellshaftfiirNatur−und
VolkerkundeOstasiens.Hamburg:Flasclmer−DruCk,1997:pp.161−162.参照)。
(51)例えば、次の芭蕉の句「夏草や兵どもが夢の跡」のクルツの訳では、題の後、一
行目の各語末のS音の響きと母音0の共鳴、二行目に見られる“ie”普の繰り返し、
最終行で再び戻ってくるs音の響きの重なり、といった工夫が施されていることが
分かる:
AufdemSchlachtjeldevonHira−kmi.
(平泉の戦場で
「ああ夏の草よ、
OGrasdesSommerS,
お前はどうしているのだ 多くの戦士たちのⅦebistDuvielerXdeger
夢の場所!」)
St去ttedes¶・aumenS!
(KuI瓜1909.p.71)
(52) もっとも、音節数を原句と「一致」させても、同じ音節数で、英語やドイツ語は
日本語よりも多くの情報を言い表すことが出来てしまうため、原句の簡潔性の再現
に直結するわけではない。
45
(53)Aston.1898.vi一兎;Couchould.1906.pp.189,191.
伽)訳詩の雰囲気を出すために、敢えて直訳調の訳を付しておく。以下、クーシュー
の例も同様。
(漁)前掲拙文(前島 2001年)は、この点に関して詳しく論じたものである。
(56)改行が意図的なものでないことは、同一文章中で、上記の訳旬は冒頭(He訂n.1898.
p.157)と本文中(p.161)の両方に挙げられているが、両者の間で行の切れ目が異な
っていることから、推測される。 もっとも、意図的な行分けが全く無いわけでは
なく、句に含まれている二重の意味を行ごとに分けて分かりやすく訳し出すために、
「含意の前捷となる事柄」と「その結果導かれる含意」とに故意に改行することもあ
った(Heam.1898.p.166)。
(57)Vers甘bresclassiques;VersLib6r6;FreieRhythmen;(狭義の)計eieVerse.など。
(58)以上、胸whceion励即妙CdiadIbe妙andIbeiics,NewJersey:PrincetonUP,
1993.の“FkeVerse,”“Freiemythmen,”“versLit〉reSClassiques,“VersLib6r6,”
“versubre”各項を参照。
(59)Miner,Ea11.7鞄e励anese7hzdiiioninBri始handAmeYicanLitmliu佗2Ⅱded.New
Jersey:fhcetonUP,1966.pp.104−105,169−170参照。
(60)Miner.ibid.pp.66−71.
46
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