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東京湾海堡の歴史-概説-

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東京湾海堡の歴史-概説-
<付属資料>
東京湾海堡の歴史-概説-
※海堡(カイホウ)とは、人工の島に造られた砲台です。江戸時代までは、海中に造られても、陸上
に造られても大砲を備える場所を「台場」といっていましたが、明治維新以降は陸上にあるもの
を「砲台」、人工島に造ったものを「海堡」というようになります。
●黒船の脅威
嘉永 6 年(1853)、アメリカ東インド艦隊のペリー提督が浦賀に来航し、鎖国をしていた日本に開国を
迫りました。外国艦隊に脅威を感じた幕府は、江戸に最も近い品川の守りを強固にするため、台場を建
造しました。品川台場の水深は 2~3mでした。
ペリー来航以前から、江戸幕府は東京湾への敵艦の侵入を防ぐ計画を作成し、観音崎~富津岬を結ぶ
線を最重要防御線としています。そのときにも海中に台場を造る案も出されていましたが、実現可能な
品川台場を先に建設しました。
●東京湾口に砲台群が造られる。
明治維新後、新政府は、首都「東京」を護るため、東京湾海防計
画に取り組みました。初代参謀本部長の山県有朋は、お雇い外国人
に東京湾を視察させ、東京湾の海防について提案書を提出させます。
さまざまな検討の結果、まず、観音崎、猿島、富津などの海岸や島
に砲台を建設しました。
猿島要塞跡
(2001.12.1 撮影)
●沿岸域の砲台だけでは護りきれないと考え、海堡が造られる。
しかし、これだけでは外国の軍艦の侵入を防ぐことができないと考えた陸軍は、富津岬の先端の水深
は 5m のところに最初の海堡を造りました。この海堡は富津海堡と呼ばれていましたが、後に第一海堡
となります。当時の大砲の射程距離が約 3km だったことから、約 2.5km の等間隔で富津と観音崎の間
にさらに海堡を二つ建設することにしました。これが、第二海堡と第三海堡です。第二海堡を建設し始
めた直後の明治 24 年(1891)、清国の巨艦 6 隻が日本を威圧するため横浜に姿を現しました。予想以上
に清国の軍艦が大きかったことに危機感を覚えた陸軍は、首都を戦艦から守るため、海堡建設に力を注
ぎました。
●海堡の建設は波浪との闘いだった。
第二海堡は水深 8~10mと、第一海堡より深い場所に建設されました。第三海堡の建設地は水深約 40
mと、第二海堡よりも深く、さらに東京湾の中でも波浪と潮流の激しい場所でした。また、台風によっ
て工事途中で何度も破壊されてしまいました。たいへん厳しい海象条件のなか、第三海堡は着工から 30
年後にようやく完成しました。
●海堡建設に挑んだ技師たち
東京湾海堡の建設工事を手がけたのは、当時、陸軍少佐の西田明則です。明則は軍人の定年後も陸軍
技師として海堡建設に従事しました。明則は明治 39 年(1906)に亡くなり、第二海堡・第三海堡の完成
を見ることはできませんでした。西田明則の偉業を讃えるため、横須賀市の衣笠公園に「西田明則君之
碑」が建てられています。
明治 33 年(1903)から明則のあとを引き継いだのが伴 宜(バン ヨロシ)です。伴は東京帝国大学土木科
を卒業後、陸軍に入った技師技師で、後任の田島真吉とともに近代技術を導入しながら、第二海堡・第
三海堡を完成させました。
●海堡の建設は、伝統技術と先進技術の融合
東京湾海堡の建設の基礎には、日本の伝統技術があります。伝統技術とは、城の石垣や橋脚の土台
の石積み技術、土工や大工の技術、和船による採石や木材の運搬・投入技術のことです。さらに、明
治時代に取り入れた潜水器や鉄筋コンクリートケーソンなどの最先端技術の融合が第三海堡を完成に
導きました。
●世界に注目された技術
明治 34 年(1901)、ドイツのレンネ少
佐は建設中の第三海堡工事を視察し、次の
ような感想を言っています。「世界中でこ
のような深い海中に構造物を建設した例
はない。第三海堡のように、波浪が強大な
外海に直面した水深 40m以上の海中に建
設するのは、むしろ無謀である。」
さらに、明治 39 年(1906)、日本は、
アメリカから東京湾海堡建設の築造方法
に関する情報提供を求められました。その
日本から米国に送られた英文技術資料の一部
ころ、アメリカでは、首府ワシントンの前
(米国公文書館所蔵)
面に位置する チェサピーク 湾口に海堡建設
計画が浮上したからです。ワシントン市とチェサピーク湾は、東京市と東京湾の位置関係に似ていて、
アメリカの陸軍では、これを実行するため、東京湾海堡建設工事に関する情報提供を求めたのです。た
だし、アメリカ陸軍が求めたのは軍事情報ではなく、もっぱら建設工事に関する情報でした。
このことから、当時、水深約 40m の海中に建設が進められていた第三海堡建設工事が海洋港湾工事の
中で世界最先端の工事であり、世界的注目を浴びていたことがわかります。しかも、アメリカは東京湾
海堡を「東京湾人工島(the artificial islands in Tokyo Bay)」と呼んでいて、東京湾海堡が人工島建設
の先駆であったことを示していることになります。
当時、日露戦争後で日米関係が良好でなかったにもかかわらず、日本陸軍はこの米国陸軍の要請にこ
ころよく答え、建設工事の情報を提供しています。
欧米の先進技術を取り入れて急速な近代化が進められた明治時代、国土開発事業の分野では、日本の
伝統技術を基盤として、欧米の先進技術を取り入れた近代化が進みました。人工島建設の分野では世界
の最先端工事として第三海堡建設が行われたといえるでしょう。
これは日本の海洋港湾技術が世界に誇る成果であって、日本の近代化の一つの到達点を示しています。
●関東大地震で被災する。
第三海堡竣工の 2 年後の大正 12 年(1923)、関東大地震が発生しました。この地震で、東京湾海堡も
被害を受けました。第三海堡の被害が最も大きく、約 5mも沈んでしまいました。第三海堡は、施設の三
分の一が水没して機能を失ったので、大砲は別の場所に移動し、軍事施設から除籍されました。第三海
堡が修復されなかったのは、大正 12 年には大砲の開発が進歩し、射程距離が伸びたため、第三海堡の位
置に砲台が必要ではなくなったことによります。
●第三海堡の撤去工事に着手
第三海堡は修復されることなく、その後、波浪にさらされ、崩壊が進み、半ば暗礁と化してしまいま
した。第三海堡附近では海難事故が多発し、国土交通省では船舶の航行安全のため、平成 12 年(2000)
12 月から撤去工事に着手しました。
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