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革命前夜の日本への「清国留学生」について ・・・・・・・・・周 嘉寧

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革命前夜の日本への「清国留学生」について ・・・・・・・・・周 嘉寧
革命前夜の日本への「清国留学生」について
考古学
周 嘉寧 (中国)
はじめに
1896 年から 1906 年までのわずか 10 年間に、中国から日本へ来た留学生は、1 万人以上の規模に達した1。
「清国留学生」と呼ばれるこの集団の中には、最も知られた魯迅のほか、秋瑾、鄒容、陳天華、黄興、宋
教仁、曹汝霖、汪兆銘などの有名人がいる。1911 年中国の辛亥革命は、日本留学経験者によって起こされ
たものと言っても過言ではない。
同時期に欧米に留学した者もいたが、なぜ日本への留学生からのみ「歴史を変える者」が多く出てきた
のか。朝廷から経費をもらって留学した彼らは、なぜ逆に清王朝を転覆させることになったのか。本稿は
清末中国人の日本留学史を考察した上で、これらの問題についての検討を試みる。
日本留学の勃興と没落
清国がはじめて留学生を日本に派遣したのは下関条約が結ばれた直後である。日清戦争の敗戦は、1840
年のアヘン戦争以上に中国の知識人に衝撃を与えた。そこで、日本を、西洋文明を取り入れ、自国の近代
化を遂げた手本、学習の対象とみて、中国は日本留学風潮の時代を迎えた。1896 年、国内選抜を経て、最
初の 13 人の留学生が東京に送られ、
日本文部省のアレンジによって高等師範学校の嘉納治五郎門下に入っ
た。
日本留学を唱導した人物といえば、変法派の党首康有為と梁啓超が真っ先に挙げられる。特に梁啓超は
明治日本に心酔し、日本に亡命した期間、様々な文章を書いて国内の人に日本の事情を紹介し、青年たち
に日本語を学ぶことを提唱した。また、陣営は違っていたが、清の重臣張之洞も日本留学を熱心に鼓吹し
た。張は『勧学編』という中国近代史における屈指の名文の中で、経費が安い、風習が近い、文字が通じ
て速成できるなどの理由を挙げ、
「遊学の国に至っては、西洋は東洋に如かず2」と、日本への留学を勧め
た。張の主導によって、清政府は留学帰国者向けの官僚登用試験を創設した。合格者は科挙及第と見なし、
官職を授けるという優遇措置である。これは出国者にとって、財政支援より一層重要な問題であった。1905
年に実施された初試験3では、留日学生が全員よい成績を収めたゆえ、日本留学にまさる出世の近道がない
と、世間で思われるようになった。比較的費用が安いこともあり、日本留学はブームとなった。
このように、1905 年前後、日本滞在の清国留学生数はピーク時には 8000 人にものぼったという(さね
とう 1960,p.61)
。しかし、私費生の増加に伴って素質が下がることは避けられなかった。日本側もその膨
大な人数を消化できす、丁寧に対処することが難しくなった。官立学校に入れる者はわずかで、多くの留
学生は私立学校、特に予備学校の「速成コース」に入った。
「速成」とは、その名の通り修業期間が非常に
短いコースである。具体的に言えば通訳つきの授業である。速成コースの開設は元々清国側の望みであっ
たが、留学生を財源と見なし、こういう速成科によって営利を謀る学校も少なくなかった。結果、清政府
の第二回留学帰国者登用試験は、留日の受験生が圧倒的に多かったにも関わらず、優等と判定されたのは
欧米から帰国した留学生ばかりであった。
学力低下より、もっと清政府を悩ませたのは、留日学生の政治に対する関心が高すぎることであった。
「清の子民」の象徴である辮髪を切るにとどまらず、多くの留学生が直接反政府運動に取り組んだ。そも
そも朝廷に有用な人材を育てるために学生を海外へ派遣したのだが、学生たちが外国で革命思想に染めら
れるという結果になったことは、皮肉の極みだろう。登用試験などの手段で留学生を篭絡すると同時に、
清政府は日本当局に留学生への管制を呼びかけた。
この要請に応じて、1905 年、明治政府は<清国人ヲ入学セシムル公私立学校ニ関スル規定>を頒布した。
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3
留学生人数について諸説がある。本稿にはさねろうの数値を採用する。さねとう 1960、pp.55-63 参照。
張之洞『勧学編』 鄭州:中州古籍出版社、1998,p117
留学帰国者試験について、阿部 2004,p37 参照。
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その第9条によって清国留学生の学校規定宿舎以外の下宿が取り締まれることになり、
第 10 条によって学
校の他校に退校させられる「性行不良」な生徒を受け入れることが禁止される。この「清国留学生取締規
則」とも呼ばれる条例は、留学生の強い抵抗を招いた。正直に言えば、第 9、10 条を除けば、この条例は
当時氾濫していた営利的な速成科を規制し、学生の権益を保護しようとする側面もあるが、革命活動に夢
中になっていた血気盛んな学生たちから見ると、
「自由」の阻害以外の何ものでもない。反発として、留学
生たちは同盟休校運動を起こした。さらに、法政大学の陳天華の自殺事件がきっかけで、運動が広がり、
一斉帰国という重大な事態に陥った。
1906 年に入ると、取締事件は徐々に落ち着いてきた。各校の授業は次々と再開し、再び渡日する学生も
出てきた。だが、日本と清国双方の留学生に対する管制強化によって4、また、日本の速成教育よりむしろ
欧米に行って直接に西洋文明を学習しようという考えも加わり、取締事件前の水準には二度と戻らず、日
本留学風潮の時代は終わりを告げた。
日本留学と中国革命
留日学生の人数はこのように膨大となったが、20 世紀中国の著名な学者をあげれば、欧米留学経験者が
圧倒的多数を占めている。日本で正式な学位を取得してある領域の研究者になった者はほとんどいない。
逆に、革命者への道を踏み出し、政治人物として史書に名を残した者が多い。そう言っても、学校に「革
命科」が設置されたわけがないだろう。それでは、なぜ日本の学校は学者の代わりに革命者が大量に育成
されたのか。日本の留学環境は、西洋と比べて何か違ったのか。
まずは亡命政治家と容易く接触できたことが挙げられよう。当時の欧米にも留学生以外の中国人がいた
が、主に労働者や商売人であった。それに対し、日本は地理的に近いことによって、亡命の有識者が大勢
集まった。本来学者である康有為や梁啓超、さらに章炳麟、また、職業革命家とも言える孫文や黄興があ
げられる。彼らが日本に居留した理由は、身を保つためだけではなく、隣国で新聞や雑誌を出版、速く中
国に情報を伝送できることもあったと考えられる。梁啓超が横浜で発行した『新民叢報』は、長い間に留
学生に一番愛読され続け5、国民啓蒙に大きく貢献した。
こうした亡命志士は日本の有識者と交際しながら、在日留学生を絶好の対象とみて、積極的に篭絡して
いた。つまり、留学生にとって新思想の「発信源」のような存在であった。例をあげれば、魯迅は東京に
いたとき章炳麟の門下生であり、孫文のそばにも、有能な助手として法政大学の陳天華や汪兆銘などがい
た。もちろん、自発的に革命の道を選ぶことも可能であったが、引導者がいれば、もっと効果的だと思わ
れる。張之洞が反清留学生を「年少無知のため、邪説に惑われる」と判断したことも、亡命政治家の影響
力を傍証しているのではないだろうか6。
次に、留学生の人数が多く、
「同郷会」組織を作りやすかったことが挙げられる。前述のように、日本
は様々な理由によって、清末の学生にとって最も人気のある留学先になった。弘文学院、同文書院など留
学生向けの予備学校のほか、法政大学法政速成科、早稲田大学清国留学生部、明治大学経緯学堂のような
私立大学に属していた教育機関も一時に百千人規模の中国人学生が在学したことがある(阿部 1990,p.71)
。
このような膨大な人数がいたゆえ、
「同郷会」を結成し、学習や生活上のことを助け合い、さらに、情報を
集めたり発散したりするために雑誌を創立したというのも極自然だったと考えられる7。実は、1905 年に
革命戦線「同盟会」を結んだ三つの団体のうち、興中会は広東省、華興会は湖南省、光復会は浙江省、い
ずれも同郷会の色彩が濃かった。神田駿河台にあった「清国留学生会館」も、連絡所のほか、革命雑誌や
宣伝図書の出版地という側面を持っていた(さねとう 1960、pp.195-203)
。
さらに、このような環境において、本来ノンポリ学生でも、最低限度の社交活動がある限り、革命思想
に接触できるようになった。ここに挙げたいのは魯迅と光復会の関係である(もちろん、魯迅はけっして
「ノンポリ」ではなかった)
。魯迅は光復会の一員だと、世の中ではよく思われている。しかし、彼の著作
を読めば、彼の理念が光復会という過激傾向の革命党と合致するとは考えがたい。周作人(魯迅の弟)も
4
清国側は 1906 年以降、派出留学生の言語能力、年齢、実務経験などの制限を設置した。
改革派の『新民叢報』は 1905 年以降は革命派の『民報』に取って代わられたという。
6
張之洞 1903「籌議約束鼓励遊学生章程説」
『中国近代教育史資料』p.183。
7
当時留学生同郷会の刊行物について、
『遊学訳編』
(湖南)
、
『浙江潮』
、
『江蘇』
、
『漢声』
(湖北)
などがあげられる。
阿部 1990,p.108
参照。
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魯迅は実際に光復会に入会していなかったと主張した8。筆者の考えによれば、魯迅は光復会の活動によく
参加したが、革命政党に加入したというより、むしろ同窓や浙江省出身の同郷との一種の付き合いだった
と考えたほうがよい。こうした人間関係を重んじる中国人社会の構造は、自由な環境におけば、革命思想
伝播の温床と言えるのではないか。
そのほか、日本の風土は民族主義を激発するという点も言わなければならないであろう。民族主義とい
っても、排満主義といったほうがいいかもしれない。日本は欧米国家と違って、近代化の手本でありなが
ら、古代中国の影響も所々見られた。特に和服は中国古代の服装と似ており、清国留学生にとって「薙髪
易服」という屈辱的な歴史(満清が明王朝に取って代わったとき、大虐殺という強制的な手段によって漢
民族の服装を変えさせること)を思い出させる存在であった。当時の留学生にとって、和服を着て写真を
撮り、排満の姿勢を表すことは一般的であった。中でも女性革命家の秋瑾の日本婦人のようなヘアスタイ
ルで着物姿の写真が最も有名である。1902 年、章炳麟が東京で「支那亡国二百四十二年記念会」を開き(警
察の干与によって失敗したが)
、百名以上の学生を集めたということからも、留学生の排満情緒の高揚がわ
かる。このような民族主義は、近代化の訴求と共に、学生たちを革命の道へと導いた。
以上述べたように、当時の日本は欧米に得られぬ革命運動の土壌を提供していたと言えよう。この土壌
は、最終的に辛亥革命という歴史の果実を結んだ。
まとめ
日清戦争後のおよそ 10 年間は日中関係のハネムーンとも言える。清政府の政策支援の下に、数多くの
若者が近代文明を学びに海を渡って日本に留学した。この風潮は、速成教育への批判と革命勢力の抑制に
よって、1906 年以降没落したが、この 10 年間に育てられた留学生たちは、後日の辛亥革命に大きな影響
力を発揮し、
「革命者」という形で歴史に残っていた。彼らの留学期間中の生活様相や人間関係を考察する
ことは、中国近代歴史の解読にとって大きな意義を持つ。これについてのより詳しい研究は、今後の課題
としたい。
主な参考文献
さねとうけいしゅう『中国人日本留学史』 東京:くろしお出版、1960
阿部洋『中国の近代教育と明治日本』 東京:福村出版株式会社、1990
阿部洋『対支文化事業の研究:戦前期日中教育文化交流の展開と挫折』 東京:汲古書院、2004
厳安生『日本留学精神史』 東京:岩波書店、1991
舒新城『中国近代教育史資料』 北京:人民教育出版社、1961
黄福慶『清末留日学生』 台北:中央研究院近代史研究所、1975
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周作人 1936「魯迅についてその二」
『宇宙風』第 30 期。魯迅と光復会の関係について、入会したかどうか、何時入会したか、
周作人、許寿裳、沈瓞民それぞれ意見が異なっていた。
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