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アジア各地の民族運動
第8章 二つの大戦と近代世界 アジア各地の民族運動 インドの民族運動 インド帝国成立後のインドでは、イギリスへの経済的従属がいっそうすすんだ。一方 で知識人や民族資本家が成長し、イギリス支配に対してインド人の地位向上を求める運 動もおこった。 ① インドにおける知識人の成長 サティー(寡婦殉死)をヒンドゥー教の悪習として批判するラーム=モーハン=ロー イや、イギリス支配からのインドの解放を主張したナオロジーなどの知識人があらわれ た。 ② インド国民会議の成立 イギリスは親英的なインドの知識人を中心に諮問機関としてインド国民会議を組織 させた(1885 年)。国民会議は政治結社として国民会議派を結成した。 ③ インド国民会議の急進化と全インド=ムスリム連盟の成立 ベンガル地方を中心に反英民族運動が高揚しはじめると、イギリス人のインド総督カ ーゾンは、ベンガル地方のヒンドゥー教徒とイスラーム教徒を反目させ民族運動の分断 をはかるため、ベンガル分割令(カーゾン法)を発布した(1905 年)。これに対して国民会 議派は、急進派のティラクが主導して、カルカッタ大会で英貨排斥・スワデーシ(国産 品愛用)・スワラージ(自治・独立)・民族教育の 4 綱領を採択した(1906 年)。イギリスは 急進化したヒンドゥー教系の国民会議派に対抗させるため、イスラーム教徒に親英的な 57 第 84 講 アジア各地の民族運動 全インド=ムスリム連盟を組織させた(1906 年)。ベンガル分割令は 1911 年に撤回され た。 東南アジアの民族運動 ① フィリピンの民族運動 (1) スペインからの独立運動 スペインの植民地であったフィリピンでは、19 世紀後半から独立運動がさかんにな った。ホセ=リサールが言論活動による平和的な民族運動をすすめる一方で、秘密結社 カティプーナンが武装蜂起し、フィリピン革命(1896~1902 年)が起こった。 (2) アメリカ合衆国による植民地化 アメリカ=スペイン(米西)戦争でスペインに勝利したアメリカ合衆国は、フィリピン の領有をはかった。フィリピンの革命政府は、アギナルドを大統領とするフィリピン共 和国(マロロス共和国)を発足させたが、フィリピン=アメリカ戦争(1899~1902 年)に敗 北し、フィリピンはアメリカ合衆国の植民地となった。 ② ベトナムの民族運動 ベトナムでは近代化やフランスからの独立をめざす民族運動が活発化し、維新会を結 成したファン=ボイ=チャウは、立憲君主政を樹立した日本に留学生を派遣するドンズー (東遊)運動を行った。日露戦争における日本の勝利でこの運動は高揚したが、日仏協約 (1907 年)を背景に日本政府に弾圧されて挫折した。その後、辛亥革命に刺激を受けたフ ァン=ボイ=チャウは、ベトナム光復会を組織して(1912 年)武力革命をめざした。 58 第8章 ③ 二つの大戦と近代世界 インドネシアの民族運動 インドネシアではオランダの圧政に対して、民族資本家や知識人による抵抗運動がさ かんになった。インドネシア人の地位向上を求めるブディ=ウトモ(「最高の英知」の意 味)や、自治を要求するサレカット=イスラーム(イスラーム同盟)(1911 年成立)などの民 族運動団体が結成された。 西アジアの民族運動 イスラーム世界では、アフガーニーがイスラーム勢力の団結をとくパン=イスラーム 主義を提唱し、弟子のムハンマド=アブドゥフらによって広まり、各地の民族運動に大 きな影響を与えた。 ① オスマン帝国の民族運動 アブデュル=ハミト 2 世(位 1876~1909 年)の専制政治がつづくオスマン帝国では、 ミドハト憲法の復活をめざす「青年トルコ」(統一と進歩委員会)が組織された。彼らは、 日露戦争での日本の勝利にも刺激されて 1908 年に青年トルコ革命を起こし、ミドハト 憲法復活と立憲君主政樹立を実現した。 ② イランの民族運動 イギリスとロシアの進出に苦しむイランのカージャール朝では、国王の専制とイギリ スによるタバコ利権の獲得に反発して、アフガーニーの呼びかけのもと、ウラマーが指 導してタバコ=ボイコット運動が展開された(1891 年)。これを機にイランの民族運動が 高揚し、1905 年にイラン立憲革命が起こったが、その後、英露協商で和解したイギリ スとロシアの干渉により革命は挫折した(1911 年)。 59 第 84 講 アジア各地の民族運動 次の文章(ア~ウ)をよく読み、括弧(①~⑥)のそれぞれの語句(A~D)からもっとも適する ものを一つ選び、その記号を答えなさい。 〔明治大学〕 ア. インドでは、イギリスの植民地支配の下で、土着の経済発展は長く阻害されてきたものの、 19 世紀後半になると、綿工業を中心に民族資本の成長もみられつつあった。イギリスによ る近代工業の発展とともに、インド人労働者の数も急速に増加して、待遇改善を求める動き も現れ始めていた。都市では近代教育を受けた知識人も増え、弁護士、ジャーナリスト、教 育者、官僚などとして活躍し、民族意識を高めつつあった。こうした動きを懐柔すべく、イ ギリスは 1885 年、ボンベイでインド人による国民会議を開催させ、それ以来、インドでの 民族主義運動は国民会議派が中心となって展開されることとなった。 こうしたなか、インド総督①(A.ゴードン、B.クライヴ、C.ヘースティングス、D.カ ーゾン)(在任 1899~1905 年)は 1905 年、ベンガル分割令を施行したが、それは民族意識の もっとも進んだベンガル州の居住地域をヒンドゥー教徒とイスラーム教徒との間で分割し、 その宗教的対立を利用しつつ、民族運動激化を緩和しようと企図するものであった。だが、 これはインド人を激怒させる結果となり、急進派の②(A.ジンナー、B.ティラク、C.バ ネルジー、D.ガンディー)に率いられた国民会議派は 1906 年、③(A.ボンベイ、B.カル カッタ、C.ラホール、D.デリー)大会でボイコット(英貨排斥)・スワデーシ(国産品愛用)・ スワラージ(自治獲得)・民族教育の 4 綱領を採択した。だが、国民会議派は穏健派と過激派 に分裂し、運動は急速に沈静化に向かうと同時に、ベンガル分割令も、イギリス国王ジョー ジ 5 世のもと、1911 年に廃止された。 イ. 19 世紀後半、オスマン帝国・エジプト・イランなどの西アジアでも、民族主義運動と立 憲運動が展開されつつあった。オスマン帝国では、スルタンである④(A.アブデュル=メジ ト 1 世、B.アブデュル=ハミト 2 世、C.ムスタファ=ケマル、D.セリム 3 世)が 1878 年、 60 第8章 二つの大戦と近代世界 ミドハト憲法を停止して以降も専制政治を続けた。彼は、オスマン帝国としての存続をパン =イスラーム主義に求め、イラン出身で、エジプトで活躍していた⑤(A.アフガーニー、B. ムハンマド=アブドゥフ、C.ワッハーブ、D.ムハンマド=アリー)をイスタンブールに招い たものの、それは単に帝国の一体性を維持するための道具に過ぎなかった。1889 年には「統 一と進歩委員会」が結成されたが、スルタンの弾圧を受け一時パリに拠点を移しながらも、 専制の打倒と立憲政治の復活を目指した。 「青年トルコ」としても知られるこの政治組織は、 1908 年、サロニカ(テッサロニケ)で軍の反乱を組織し、ミドハト憲法の復活を要求して、ス ルタンはこれを認めたため、第二次立憲政が成立した。「青年トルコ」の運動は、反専制の 面では一致してはいたものの、ムスリム=トルコ人の主導による帝国の再建を主張する派と 帝国内の諸民族の融和を重視する派とで対立していた。 ウ. またフランス領インドシナでは、ファン=ボイ=チャウらが 1904 年、維新会を組織し、ベ トナムの独立回復と立憲君主制を目指す運動を繰り広げた。彼は翌年日本へ渡り、ベトナム 青少年を日本へ留学させることを目的とした⑥(A.サミン、B.ドイモイ、C.ブティ=ウト モ、D.ドンズー)運動をはじめていたが、これは日露戦争がアジアの民族主義運動に与えた 一つの具体的な影響の表れであった。だが、フランスの要請を受けた日本政府による迫害に 遭い、3~4 年で消滅していった。ファン=ボイ=チャウは辛亥革命の直後に、広東でベトナ ム光復会を組織して、フランスに対する武力闘争を試みたが、投獄などにより、十分な活動 ができないままで終わっていった。 次の文章を読み、( a )~( e )に入る最も適切な語句を語群より選び、その番号を記 入しなさい(同一記号には同一語句が入る)。また[ A ] ・ [ B ]に入る適切な語句を記 入しなさい。さらに下線部(い)に関する設問に答えなさい。 〔同志社大学〕 イギリスは 1858 年に東インド会社を解散してインドの直接的な統治にのりだした。1885 年にインド国民会議が結成され、民族運動がしだいにさかんになると、イギリスは、ヒンド 61 第 84 講 アジア各地の民族運動 ゥーとイスラームの両教徒を反目させて運動を分断することを意図し、1905 年に[ A ] を発表した。これに対して、国民会議は反対運動を展開し、1906 年にひらかれた大会では 4 つの綱領を決議し、イギリスに真正面から対抗する姿勢を示した。これをうけて、イギリス は 1911 年に[ A ]を撤回する一方で、首都を反英運動の本拠であった( a )から旧都 デリーに移し、運動の沈静化をはかった。 ヨーロッパの植民地支配に抗する民族運動は東南アジア地域でもみられた。( b )領東イ ンドでは、20 世紀にはいって、教育をうけた子弟のあいだに、しだいに民族的自覚がうま れ、1911 年に民族的な組織であるサレカット=イスラームが結成された。フィリピンでは、 教育をうけた新世代のフィリピン人が、19 世紀後半から、( c )による支配を批判し民衆 の啓蒙活動を開始するようになった。1880 年代にはいると、( d )らが民族意識をめざめ させる言論活動を開始し、1896 年にはフィリピン革命がはじまった。これに( e )が介入 すると、 [ B ]を指導者とする革命軍は独力で解放をめざして運動をすすめ、共和国を樹 立した。 〔語群〕 問 1.アウン=サン 2.アムリットサール 3.アメリカ合衆国 4.オランダ 5.カシミール 6.カーナティック 7.カルカッタ 8.ガンディー 9.スカルノ 10.スハルト 11.スペイン 12.スリランカ 13.ティラク 14.ドイツ 15.ネパール 16.ネルー 17.バングラデシュ 18.プラッシー 20.ベルギー 21.ボース 22.ホセ=リサール 23.ポルトガル 24.ボンベイ 25.マドラス 26.ミャンマー 19.フランス 下線部に当てはまらないものを一つ選び、番号を記入しなさい。 1.英貨排斥 2.スワデーシ(国産品愛用) 3.完全独立(プールナ=スワラージ) 4.民族教育 62 第8章 二つの大戦と近代世界 次の文章を読み、下の設問 1~3 に答えなさい。 〔同志社大学〕 インド帝国のもとでは、弁護士や技術者・官僚などのエリート層を中心に、人種差別を経 験することにより民族的な自覚をもつ階層が出現した。他方、イギリス側にもインド人エリ ートを植民地支配の協力者として利用するという発想がうまれた。これら双方の意図が一致 して、インド人の意見を諮問する機関として 1885 年に《 《 A 》が結成された。 A 》結成後、民族運動はベンガルを中心にしだいにさかんになっていった。イギリ スは、ヒンドゥーとイスラームの両教徒を反目させて運動を分断することを意図して、1905 年にベンガル分割令を発表した。これに対して、 《 A 》では、穏健派にかわって( あ ) らの急進派が主導権をにぎり反対運動を展開した。1906 年にベンガルのカルカッタでひら かれた大会では、英貨排斥、国産品愛用を意味する( い )、自治獲得を意味する( う )、 民族教育の 4 綱領を決議し、イギリスに真正面から対抗する姿勢を示した。一方、ムスリム は、ベンガル分割令によって多数派となれる州が誕生する利点を説くイギリス人総督の影響 で、《 A 》とは別に親英的な《 B 》を 1906 年に結成した。急進化した運動は、しか し《 A 》の内部対立や植民地政府による弾圧によって沈滞した。さらにイギリスは懐柔 策などによって運動の沈静化をはかった。 ヨーロッパ諸国の進出は西アジアにおいても諸国の民衆に民族の自覚をうながし、特にム スリムとしての連帯の必要性を痛感させた。各地で民族主義とパン=イスラーム主義を説い た《 C 》の思想は、エジプトのウラービー運動などに大きな影響をあたえた。オスマン 帝国でも、アブデュル=ハミト 2 世は憲法を停止し、パン=イスラーム主義政策を実施して体 制の維持をはかった。しかし 1878 年の憲法停止に不満をいだく青年たちは、スルタンの専 制政治に反対して首都に進軍し、1908 年政府にせまってミドハト憲法を復活させ、政権を にぎった。この革命は《 D 》と呼ばれる。 カージャール朝治下のイランでは、19 世紀末から、《 リスがもつ( え C 》のよびかけにこたえ、イギ )などの利権に抵抗し、それをボイコットする運動が展開された。この運 動によってイラン人の民族意識が高まるとともに、やがて専制を批判する立憲運動がおこり、 1906 年に立憲革命が成功した。しかしイランの分割をはかるイギリスと( お )が介入し、 1911 年イランに軍をすすめた( お )は、武力によって議会を閉鎖した。 63 第 84 講 問 1 文中の( あ アジア各地の民族運動 )~( お )に最も適切な語句を下の語群から選んで、番号を記入しなさ い。 〔語群〕 1.アヘン 2.アメリカ合衆国 3.コーヒー 4.酒 5.さとうきび 6.塩 7.スワデーシ 8.スワラージ 9.タバコ 10.茶 11.ティラク 12.ドイツ 13.フランス 14.木綿 15.ロシア 問 2 文中の《 A 》~《 D 》にもっとも適切な語句を記入しなさい。 問 3 下線部について、短文 a および b の正誤をそれぞれ判断し、a および b がともに正し ければ数字の 1、a のみ正しければ数字の 2、b のみ正しければ数字の 3、a・b ともに誤 っていれば数字の 4 を記入しなさい。 a.ベンガル分割令を撤回した。 b.首都を反英運動の本拠であったデリーからカルカッタに移した。 次の文を読んで以下の設問に答えなさい。 〔獨協大学〕 スペインは、フィリピンの住民をカトリックに強制改宗させ、政教一致体制をとる。しか し、特に南部には多くの ① が存在した。19 世紀後半から教育を受けた新世代のフィ リピン人が民衆の啓蒙活動を開始する。 1896 年に急進的秘密結社 ③ ② らが民族意識を鼓舞する言論活動を行い、 の武装蜂起からフィリピン革命が始まる。 ④ を中心 とする革命軍は解放を目指し、1899 年にマロロス共和国を樹立した。しかし、(1)アメリカ= スペイン戦争の結果フィリピンの領有権を得たアメリカがフィリピンに侵攻してくると、(2) フィリピン=アメリカ戦争が始まる。 64 第8章 二つの大戦と近代世界 問 1 文中の空欄 ① ~ ④ にあてはまる語句を以下の語群から選びなさい。 〔語群〕 ① (ア) イスラーム教徒 (イ) ヒンドゥー教徒 (ウ) 仏教徒 (エ) マニ教徒 (ア) ファン=ボイ=チャウ (イ) ホセ=リサール (ウ) シャー=ワリーウッラー (エ) ファン=チュー = チン (ア) カティプーナン (イ) ドンキン (ウ) サミン (エ) ブディ=ウトモ (ア) バネルジー (イ) アフガーニー (ウ) カーゾン (エ) アギナルド ② ③ ④ 問 2 下線部(1)について、アメリカ合衆国に関する記述として誤っているものを以下の中か ら選びなさい。 (ア) 戦争時の大統領は共和党のセオドア=ローズヴェルトであった。 (イ) 戦争の結果、キューバを独立させたうえで事実上の保護国とした。 (ウ) 戦争の結果、プエルトリコを獲得した。 (エ) 戦争の結果、グアムを獲得した。 問 3 下線部(2)の結果として正しいものを以下の中から選びなさい。 (ア) スペインがフィリピンの領有権を取り戻した。 (イ) アメリカが 1900 年からフィリピンの本格的統治を開始した。 (ウ) マロロス共和国は崩壊した。 (エ) ムスリムの反乱がおさまった。 65 第 84 講 アジア各地の民族運動 66