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GUIDA ai luoghi SALESIANI” elle dici 2000)より pp48-51 p48-49

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GUIDA ai luoghi SALESIANI” elle dici 2000)より pp48-51 p48-49
№16
『サレジオ会ゆかりの場所ガイド』
("GUIDA ai luoghi SALESIANI” elle dici 2000)より pp48-51
p48-49
P48:ドン・ボスコがサレ
ジオ修道会の最初の会憲を
欠いた部屋の角(左下写真)
。
ドン・ボスコのモットー(ラ
テン語)が書かれた紙。「我
に魂を与えよ。他のすべての
ものは取り去りたまえ」とい
う意味(右下写真)
。
P49:ドン・ボスコの机
の上には地球儀が置かれ
ていた。ドン・ボスコは
しばしばそれを眺めつつ
彼の子供たちを送り出し
た遠い宣教地のことを思
い浮かべていた。
(本文と
同じ)
ドン・ボスコの部屋
最初の部屋と二番目の部屋は 1853 年に作られた。最初の部屋は財務室と図書室を兼ねていて、こ
こに修道会の助けとなるお金が届いていた。
二番目の部屋で起こった主な出来事をここで思い出そう。1854 年 1 月 26 日、ドン・ボスコはこの
部屋に 4 人の若者、すなわちルア、カリエロ、ロケッティ、アルティリャを呼び寄せ、こう言った。
「神
の助けにより、私と君たちとで1つのグループを作ろうと考えている。このクループを『サレジアン』
と呼ぼう。
」ここに、ドン・ボスコの口から初めて『サレジアン』という言葉が発せられたのである。
1854 年 10 月 29 日、
ドメニコ・サヴィオはオラトリオに来てこの部屋に入った時、そこに『Da mihi
animas caetera tolle』という張り紙が掲げてあるのを見つけた。ドン・ボスコはこの言葉は「私に魂
をお与えください。そして他のすべてのものを取り去ってください」という意味であり、初ミサの時に
決めた彼のモットーだと説明した。ドメニコは真面目な顔をして答えた。
「分かりました。ここはお金
ではなく、魂の取引をするところなんですね。僕の魂もこの取引の一部になるようにしたいと思いま
す。
」
1855 年 3 月 25 日、神学生ミケーレ・ルアはこの部屋でドン・ボスコの前に跪いて清貧、貞潔、従
順の誓願を立てた。その当時の古い床のタイルが部屋の右側の角に残されている。
この部屋でドン・ボスコはサレジオ会の最初の規則書を書いたが、ある時煙突から落ちてきた雷が彼
のベッドに当たり、テーブルがひっくり返って最初の原稿はインクで真っ黒になってしまった。
ここで初めて「サレジアン」という呼び名が出てくる。「サレジアン」?なぜドン・ボスコは『サレジオ会』と名付けたのかだろうか?
なによりもドン・ボスコ自身が聖フランシスコ・サレジオをずっと敬愛していた。使徒であり、論争に長け、プロテスタントの国々にあ
って信仰の保護者となり、祈りと講話によって人々を導き、柔和と忍耐と愛徳の持ち主であった聖フランシスコ・サレジオは、その優
れた資質と方法論によって人々をひきつけ、疲れに負けない慈愛の業によって人々の迷える魂を神へと導いた。
ドン・ボスコはこの慈愛を心に抱いていた。彼の教えの実りとなる慈愛、青少年の心をとらえ喜びにあふれる善良さは、全ピエモンテ
地方においてもっとも人気のあった聖フランシスコ・サレジオからくみ取ったものであった。
三番目の部屋(二番目の部屋の前)
1861 年に建物の東側に建て増しがされた時、ドン・ボスコの部屋も東の方に移動した(ガラスの向こ
う側に見える)
。二番目の部屋は彼の秘書の事務室、またドン・ボスコとの話を希望する者(その数は
ますます増えていた)が集まる部屋として使われることになった。
ドン・ボスコの机の上には地球儀が置かれていた。ドン・ボスコはしばしばそれを眺めつつ彼の子供た
ちを送り出した遠い宣教地のことを思い浮かべていた。最初の宣教師団派遣は 1875 年で、後のカリ
エロ枢機卿がその団長、目的地は当時まだあまり知られていなかった南米のパタゴニア地方であった。
部屋の右側にあるソファーは、福者ミケーレ・ルア神父が 20 年間ベッドとして使っていたもの。彼は
ドン・ボスコの後を継いだ時にこの部屋に置き、自分自身のベッドを決して望まなかった。
(次頁へ続
く)
ドン・ボスコの時代、ある学校の校長がヴァルドッコを訪ねたときに特別なコメントを残した。
「この家にはトリノのどの家にも、また
他のどの修道院にもない幸運がある。それは、思い悩んでいる人が入っていくと皆晴れ晴れとした喜びを持って出てくる部屋があると
いうことだ。」ドン・ボスコの伝記作者はそれに付け加えてこう書いている。「その証人は何千人もいる」と。
今日でもドン・ボスコの部屋には穏やかなもてなしと落ち着いた親しみの香りが漂っている。これが彼のすべての「家」が持っている
特徴である。若者たちが出会い、祈り、文化を学び、元気づけられる「若者の家」であることがドン・ボスコの夢であった。
p50-51
夕方になると、バレストラ修道士がこのソファーの上に 2 枚のシーツを広げ、ルア神父が眠れるように
した。朝になるとシーツはたたまれてソファーはいつもの状態に戻っていた。
ドン・ボスコが亡くなる 2 年前の 1886 年、最後の二部屋が南側に建てられ、その奥に作られた廊下
は少し気取って「ドン・ボスコのギャラリー」と名付けられた。分かりやすくするために、祭壇がある
部屋を 4 番目の部屋、ドン・ボスコが亡くなったベッドが置いてある部屋を 5 番目の部屋と呼ぶこと
にしよう。廊下にはドン・ボスコが晩年、ゆるしの秘跡を授けていた肘掛いすが置かれている。
5 番目の部屋の左側にある小さなイスに腰掛け、ドン・ボスコは 1887 年のクリスマスにコオペラト
ーリへ送るご絵の裏側に最後の言葉を書いた。最後の5つの文は次のとおり。
『魂を救う者はすべてを救い、魂を失う者はすべてを失う』
『貧しい者を保護する者は、神の審判で大きな報いを受けるだろう』
『生涯良い業を行う人には大きな報いがある!』
『生きている時に善を行う者は、死に際しても善を見出す』
『天国ではすべての良いものが得られる、永遠に』
この部屋でサレジオ会員に対して最後の言葉を告げた。ルア神父とカリエロ枢機卿を呼び、彼らの手を
とって静かに言った。
『兄弟のように愛し合いなさい。助け合い、支え合いなさい』
そして若者たちにも最後のあいさつをした。
「若者たちに、天国でみんなを待っていると伝えて下さい」。
そしてドン・ボスコは
1888 年 1 月 31 日未明
に亡くなった。
P50:ドン・ボスコの部屋があ
る建物の上に「避雷針」として置
かれた聖母像(左上)。ドン・ボ
スコが晩年ゆるしの秘跡のとき
に座っていたイス(右上)。ドン・
ボスコが最後の言葉を書いた時
に使っていたソファ(左中)。ド
ン・ボスコの部屋にあった2つの
祭壇のうちのひとつ(左下)。ド
ン・ボスコが晩年を過ごした部屋
と亡くなった時のベッド(右下)
P51:
「ドン・ボスコのギャラリ
ー」の2つの窓(上)。もともと
はドン・ボスコの部屋に置いてあ
った祭壇(中)。少年たちととも
にいるドン・ボスコ:聖人の最も古い写真(1861 年撮影)。そのほかの写真と共に(下)。
思い出の部屋
ドン・ボスコの部屋の北側に広がる大きな部屋は長年若者たちの勉強部屋として使われていたが、今で
はドン・ボスコの遺品が保管されている。いくつかのものを紹介しよう。
小さな説教壇:黒い木製で聖遺物のガラス箱が組み込まれている。この説教壇からドン・ボスコは毎晩
少年たちに良い話「ボナノッテ」を聞かせていた。有名な夢の話もこの説教壇から話した。
写真:ドン・ボスコはルルドのベルナデッタと同様、本物の写真が残っている最初の聖人である。ドン・
ボスコは最初は写真を残すことに少し抵抗があったが、後に彼の事業のために役に立つと分かってから
写真を撮るようになった。最も古い写真は 1861 年のものである。それは少年たちに囲まれるドン・
ボスコ、ゆるしの秘跡を授けるドン・ボスコ、そして手にペンを持ち仕事机に座っているドン・ボスコ
である。
アーモンド(木の実)
:奥のガラスの箱に保管されている。ある時一袋のアーモンドがドン・ボスコの
もとに送られてきた。1885 年 12 月 13 日の時点でドン・ボスコはそれをすでにたくさん子供たちに
配っていた。年が明けて 1 月 3 日、64 人の生徒たちが集まってドン・ボスコの講話を聴いた後、ドン・
ボスコはジュゼッペ・グロッサーニを呼んで残っているアーモンドの袋を取ってくるように頼み、最初
は一掴みずつ、やがて両手にいっぱいとって一人ひとりに配り始めた。明らかに全員分には足りないと
思って袋の中身を見せたグロッサーニにドン・ボスコは微笑んで言った。
「なくなるのが怖いのかい?」
結局アーモンドは全員に充分に行きわたった。
祭壇:もともとその場所にあったものではない。もともとはドン・ボスコのベッドのそばに置いてあっ
た。ドン・ボスコがミサのために大聖堂に降りて行くことができなくなった時、彼はこの小さな祭壇で
ミサを捧げ、その後は洋服ダンスのように閉じることができた。
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