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小豆島の猪鹿垣から考える

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小豆島の猪鹿垣から考える
小豆島の猪鹿垣から考える
佐 竹 昭
はじめに
(広島大学大学院 総合科学研究科教授)
小豆島には随所に石垣や土壁で築かれた猪鹿垣(以下シシ垣)の遺構が残されている。
寛政二年(一七九〇)に、草壁村・上村の庄屋村上彦三郎が提案して全島一周三十里(約
一 二 〇 キ ロ メ ー ト ル ) の シ シ 垣 を 完 成 さ せ た と い う ⑴。 人 々 が 出 入 り す る 道 筋 に は 関 門
を設けて猪や鹿が入らないようにし、一種の自動ドアさえ工夫された【資料1】。
もっともシシ垣を築き始めた時期はより古く、すでに宝暦九年(一七五九)や明和三
年(一七六六)の史料にみえ⑵、構造不明ながら延享二年(一七四五)にもさかのぼる
⑶。個別のシシ垣は各地で早くから築造され、それらを連結するなど全島的な体制が整っ
たのが寛政二年ということであろう。築造開始の時期については貞享・元禄期(一六八四
~一七〇三)まで遡る可能性もある。
小豆島のシシ垣の密度の高さは日本有数で、研究史上古くから注目され昭和初年の調
査報告があり、全島にわたるシシ垣の位置が記載されている⑷。最近では港誠吾らによ
ってシシ垣遺構の確認と実測調査が行われ、貴重な成果がまとめられつつある⑸。その
保存と活用も課題であるが当地では「猪鹿垣を考える会」が結成されて取り組みが始め
られている。二〇〇九年には第二回シシ垣サミットが当地で開催され、筆者も小豆島の
シシ垣のすばらしさを実見、実感させていただいた。
シシ垣が設けられる場合、そうでない場合
鳥獣類による農作物被害は、おそらく農耕開始以来の課題であったと思われ、それは
現代も同様である。その対策は、とくに獣類を中心に駆除・根絶をめざす方向と、逆に
その侵入から耕地を守るという専守防衛的な方向、主にその両極の間で考えることがで
1
資料1 「雅良々々柵門」、『小豆島名所図絵』
(香川叢書 3,名著出版,1972)
きる。この二つの方向は相反するが通じる面もある。例えばシシ垣は猪や鹿などが田畑
へ侵入しないように築かれたものであるが、シシ狩りの際に追い詰めることにも利用さ
れ、しばしばそれらを仕留める落とし穴を伴う。いずれの途を選ぶかは地域の自然的・
社会的諸条件による。
シシ垣には、木柵や柴垣なども多く用いられたが、現在もその遺構が残るのは石垣や
土塁(土壁)によるものである。村人が主体となって石垣など半恒久的な施設を築き、
村の耕地、さらに場合によってはより広域に及ぶ防除体制をとるのは、主に江戸時代に
なってからのことで、小農民経営の自立とそれを基礎にした村の「自立」を背景にして
いる。
もっとも、日本列島各地におけ
るシシ垣の分布は一様ではない。
地域によってずいぶん偏りがある
⑹【資料2】
。猪は東北や北陸以北
には棲息せず(近世前期までは棲
息)したがってその地域にはみら
れないが、棲息域であってもシシ
垣遺構の粗・密の差ははげしい。
資料2 「伝統的シシ垣の分布図」、本文注⑹論文3頁
2
○
4 江田島・能美島 100.98
91.53
×
○
5 倉橋島
×
○
69.59
72.23
明治21
(1888)
年
1310.
76
43,
853
2963.
62
257.
7 田地率17.
5%
寛政2(1790)
天保5
(1834)
年ごろ
33,432
216.
0
56,
554
365.
4
2619.
67
明治22
(1889)
年
69,
916
4717.
89
451.
7 田地率45.
2%
文化11
(1814)
年
明治15
(1882)
年・9年
17,137
169.
7
39,
786
2688.
36
394.
0 田地率33.
3%
695.
94
文化11
(1814)
年
明治15
(1882)
年・9年
11,959
165.
6
24,
848
1351.
51
344.
0 田地率35.
5%
270.
88
明治期は各県統計書(
『明治年間府県統計書集成』雄松堂書店マイクロフィルム)など。江戸期は、
淡路島は北山学『銘細郡村仮名附帖抄録版』2011 年、小豆島は「小豆島九ヶ村高反別明細帳」(『日本
塩業大系』史料編近世2、1976 年、および複製版)、屋代島は『防長風土注進案』
・石川敦彦「幕末期
萩藩宰判別戸口統計」
(
『山口県地方史研究』73、1995 年)、江田島・能美島および倉橋島は『藝藩通志』
など。
★幕府の国別人口統計、淡路は享保6
(1721)105,226 人、天明6(1786)106,161 人、
弘化3
(1846)
122,773 人(関山直太郎『日本の人口』至文堂、1959 年)。
3
シシ垣が築かれるのにはどのような条件があったのであろうか。まず広大な陸地部で
は ど れ ほ ど 熱 心 に シ シ 狩 り を 行 っ た と し て も 根 絶 は 不 可 能 で あ る。 と く に 駆 逐 困 難 な 地
×
29,610
174.
0
域として、近くに領主の御建山(御林)や巣鷹山などがありいわば動物保護区に接する
(大島宰判)
3 屋代島
154.79
128.43
宝暦年間
(1756ごろ)
場合、また急傾斜の半島地域など林野と耕地の間に緩衝地帯がない場合、さらには山々
×
180,
725
12502.
01
303.
2 田地率72.
4%
に囲まれた内陸地域、などが考えられる。一方、島々の場合は面積が限られているので
◎
9690.
64
段々畠など開墾が進めば獣類との衝突は避けられず、棲息地そのものがなくなったり、
(小豆郡)
2 小豆島
170.02
153.34
143,
688
241.
1
さらにはシシ狩りによって絶滅をはかることも考えられる。
×
明治14
(1881)
年
島嶼最大のシシ狩りの事例は、おそらく対馬藩宝永六年(一七〇九)の猪鹿追い詰め
と思われるが、立案した陶山訥庵は島であるからしっかり取り組めば年数がかかっても
○
天保5
(1834)
年
必ず根絶できると述べている⑺。対馬はほんとうに耕地に恵まれず、この追い詰めの成
★
(津名・三原郡)
1 淡路島
595.99
592.26
耕宅地面積
(町)
否は藩士・島民の等しく死活問題という特別な事情もあった。一方、瀬戸内海最大の淡
面積(㎢) 恒常的シ 猪は幕末ま 人口(人) 高付地面積 人口(人)
高付地面積 人口(人)
〈属島含む〉 シ垣遺構 でに絶滅 密度(人/㎢) (町) 密度(人/㎢) (町) 密度(人/㎢)
路島は面積的には対馬に匹敵し、第二位の小豆島はかなり小さくなるが、いずれもシシ
瀬戸内の島々
垣が築かれており、必ずしも猪根絶をはかったわけではなさそうである。
瀬戸内の島々を比較する
次の表1は、瀬戸内の島々
について面積の大きい順に人
口や耕地面積の推移を簡単に
示したものである。ただし面
積は統計資料を利用するため
行政単位により、属島なども
含んだ数値にしている。
表1 瀬戸内島嶼の人口と耕地 (面積は国土地理院平成23年度全国都道府県市区町村別面積調による)
まず、三位の屋代島(周防大島)以下では江戸時代の間に猪をほぼ絶滅させ、したがっ
て石垣などによる本格的なシシ垣が築かれていないことがわかる。瀬戸内島嶼の場合、
この程度の面積までであればシシ狩りによって猪を根絶させることが可能と判断され、
また実行に移されたらしい。
広島藩領の安芸郡倉橋島では一八世紀中ごろに盛んに被害が訴えられ、藩に資金の貸
し付けを願い出て大規模なシシ狩りが行われた。隣の安芸郡蒲刈島ではやや早く一八世
紀初頭に一〇日余りで腹籠もりの子猪も含めて一五一頭が討ち取られている。海で討ち
取られた一頭も含まれている。
、広島藩では全藩的な地誌『芸藩通志』の編纂を企画し
その後文化一一年(一八一四)
村々に様々な項目についての一斉調査を命じた。その項目に獣類の有無もあったが、安
芸郡や佐伯郡・豊田郡の島々からの報告書(各村の国郡志書出帳、伝存する事例は多く
はないが)によると鹿は多くの島で確認できるものの、猪についてはほとんど記載され
ずほぼ絶滅に追い込んだようである。この調査は、内陸の郡では猪はもちろん熊や狼が
記される場合がありおおよそ実態を反映しているとみてよい⑻。
『防長風
さらに西の萩藩領では天保一二年(一八四一)に同様の調査が行われている(
土注進案』
)
。内陸地域では広島藩領と同じく熊や狼を記し、猪を記載する村々も多いが、
大島宰判の領域(ほぼ屋代島に該当)では、狸は記載するものの鹿・猪はみえない。関
連して、この島の天保一一年の記録に、去る天保八年秋に猪が二頭渡海してきて農作物
被害が出ているが、放置しておくと大変なことになるので猟師を雇って討ち取らせたい
と願い出た例がある。やはり猪はすでに絶滅状態にあって、そこに渡海してきたので騒
動になっていることがわかる⑼。
島の規模という観点からすると、瀬戸内の島々では屋代島までは根絶可能と判断され、
またそれが実行されたが、淡路島や小豆島では困難であり、その意味で陸地部と条件が
変わらず、シシ狩りでの根絶はあきらめた地域ということかもしれない。
おおよそこのような理解ができるが、もう一つの観点として瀬戸内の東部と西部との
違い、すなわち人口増加と開墾拡大という歴史的推移からもみておきたい。西部の屋代
島・江田島・倉橋島などでは、江戸時代前半までの人口増加はそれほどでもないが、後
半から幕末維新期にかけて激しい増加となり、明治期には人口密度でも東部の淡路島や
小豆島より高い水準に達する。これを支える棚田や段々畠の開墾も急激に進んだと思わ
れ、江戸時代に租税賦課対象とされてきた高付地面積に対して、明治九年の地租改正に
よって新たに政府が把握した耕宅地面積との対比、つまり江戸後期の農民的開墾の伸び
率において、やはり西部の島々や沿岸部では何倍にも大きくなる場合が多い(萩藩領に
ついては別の事情がある)
。
そこには、平野部や都市周辺における一定の経済成長を前提に、島々でも海運業や各
地への出稼ぎのほか木綿織りなどの賃仕事が増え、サツマイモの導入と段々畠の開墾を
4
押し進めるなど人間活動が急に活発化したという背景がある。開墾が限界まで進むなか
で獣類との衝突は免れず、面積の小さな島では絶滅に至らざるをえない。
一方、東の淡路島や小豆島では緩やかな人口増加、また開墾もなお続けられたがその
開発の歴史は古く、すでに開発可能なところは江戸時代前半までに終えていたといって
も過言ではない。淡路島では単に面積が広大であっただけでなく、溜め池を整備して水
田化を押し進め、それが困難な諭鶴羽山地にのみわずかに猪が棲息していたが、いわば
その地域への押し込みを完了させており、その周辺にシシ垣が築かれている⑽。
小豆島も早くから開発が進んだところで中世以来の製塩業はよく知られている。近世
後半には海運で結ばれて醤油など新たな産業が発達し、村民のさらなる経済的・政治的
成長も想定できる。なお開墾も続いていたようなのでほんとうは絶滅に追い込みたかっ
たのかもしれない。しかしながらこの島の地形など自然的条件を勘案すると、面積の大
きさに加えて開発困難な山地がなお広く存在し(各村入相の険阻山など)
、猪や鹿の棲息
地となって駆除を阻んでいた可能性がある。代官管理の御林(御建山)の面積は狭小で
その保護との関係でシシ垣が築かれたとは思えない。
改めてシシ垣の位置を考えてみる。比較的標高の低いところで海辺の集落や耕地を守
っていることが明白なものや、標高が高くても山間緩傾斜地の開墾地を環状に取り囲む
ようなものは、陸地部の半島地域などに類似した姿である。一方、大回りに耕地を取り
囲む関係から標高のかなり高い山中に廻らされ、一見したところ何のために設置された
のかわからない、まるで村境区画のためかとさえ思わせるような事例もある。そのよう
な遺構からは、絶滅は無理でもなるべく獣類の世界を狭く限定しようとする強い意志を
感じ取ることができる。戦前の草壁町近辺のシシ垣写真を見ると、現在は鬱蒼とした森
林になっているところもせいぜい疎らな松林にとどまり、下の集落から山中にシシ垣が
連なる様子もよく見えたようである⑾。それだけかつての人間活動が激しくその範囲も
広かった。上庄から肥土山にかけてのシシ垣も同じく標高の相当高いところに廻らされ
ているようである。地域によってはシシ垣が幾重にも築かれていることになり、その密
度が高いということになる。
シシ垣のうち、花崗岩を主に用いた石垣は、獣類の棲息する山側に面を揃えてほぼ垂
直になるよう築き、その背後には裏込め的に、場所によってはかなり厚めの緩傾斜をとっ
ている。土壁を築いたところでは、例えば長崎のシシ垣では型枠を用いて三段に築いて
おり、型枠を連結した「ひっぱり」のあとがそのまま残存している⑿【資料3】。
さて、小豆島でシシ垣が高い密度で築かれたわけとして、島嶼部の場合はむしろ絶滅
をはかるのが通常ともいえるので、それが困難な事情、つまり面積が大きくて険しい山
地もあり陸地部にも等しいという自然条件がまずは考えられた。その際の対策として、
村民の経済力が備わっていたところでもあったので、逆にシシ垣を築いて防衛体制に万
全をつくす、そのような方向に徹した結果と考えてみた。徹底的にシシ狩りを行って根
5
絶させるのと、全島にシシ垣を廻らせて水も漏らさぬ防衛体制をとることは全く逆の対
策にみえるけれども、見張小屋に籠もって鳴子を引いたり、村中を巡回しては脅し筒な
どで追い払う、そのような日々日常の負担から解放されたいという意志の強さ、またそ
れを実現させる経済力・政治力を有していたという意味では、両者は必ずしも相反する
ことではない。
この問題についてはなお検討の余地があるけれども、続いて地域社会の様相とシシ垣
築造の関わりをもう少し具体的にみておくことにしたい。
古文書に見えるシシ垣の築造
自普請によるシシ垣の築造を小農自立・村の「自立」と評価したのであるが、シシ垣
を設ける位置をどうするか、築造・維持の資金調達をどのようにして行うかなど、村民
間の合意作りにはなお困難なところがあったと思われる。総論賛成・各論反対ではシシ
垣を連結することが出来ず、九九%完成してものこり一%で無に帰すのがシシ垣である。
そこでシシ垣築造に関する史料を二つ、かねてよりよく知られたものであるが改めて紹
介し、このあたりの事情を垣間見ておく⒀。
【資料4】 「猪垣入用負担につき申し上げる書付(写し)」(赤松家文書)
(憚カ)
乍 □ 書付を以御願申上候
一近年猪多出来、田畑を荒候ニ付、猪垣致候様ニ被仰付、百姓助成ニ相成候事故難有承
知仕候、夫ニ付左之通御願申上候
一右猪垣入用之儀、山畑・本田・浜畑迄も皆同ニ割合被仰附可被下候事
一他村より入作之者、万一不得心ニ御座候ハゝ我々請作仕候、居屋敷迄も地主へ相渡し
宅替可仕候、其節者村中より手伝被仰付可被下事。
一村堺ニ我々田地持候共、村中相談無之候而ハ何程高直ニ候共、他村ヘハ売申間敷候事
右之通被仰付可被下候、若入作之者相背候ハゝ何国迄も御願可申上候、仍而百姓書合連
判如件
戌二月
明和三年 安田村
惣百姓
林助(以下一七二名連署、略)
証人組頭弥右衛門
同 同 平助
喜内 殿
右の資料4は、明和三年(一七六六)にシシ垣築造費の負担について安田村の人々が
取り決めた際の文書である。シシ垣築造は上位者から命じられた文言になっているが、
6
経費負担の方法は村民全体の意志で決めている。その負担は所持する田畑(の面積か)
に応じた方法で、注目するべきは山畑・本田・浜畑を区別しないと明記する点である。
おそらく検地帳などに記載された本田と、新たに開墾した山畑や浜畑についてその所持
者が等しく負担しようというもので、シシ垣の受益という観点では平等の立場で経費を
負担しようというものである。
ただ、他村からの入作者のなかにはこの負担をいやがる者もいたらしく、そのような
場合は村民に土地を譲り渡すようにしてもらいたい、また他村の者には田を売らないよ
うに、などと取り決めている。右の安田村は公式的には草加部村の枝村的地位にあり、
このような取り決めには形式上草加部村庄屋の承認を必要としたようであるが、入作者
への対処という点では形式にとどまらず実質上の指導も求めているようである。自己完
結とはいかない面もあった。
【資料5】 「入部・上庄村境猪垣突き合わせにつき一札の事」(淵崎文書)
一札之事
一此度入部村猪垣上庄村境迄突掛ケ候所に、上庄村猪垣と突合難成、左様候ヘ者入部村・
北山村・赤穂屋村甚難儀ニ相成可申間、何分上庄村共ニ相談之上与三右衛門申上通突セ
呉候様申ニ付及相談相決申候事
一入部村境山頂上より上庄村平三郎前迄間数相改メ候処九拾間有之候、右之内石垣間数
村々割付覚
一山下 拾六間 上庄村分当り
一同中 廿七間 北山村分当り
一同中ノ上 九間 赤穂屋村分当り
一同上 三拾八間 入部村分当り
〆間九拾間也
右之通立会相談之上間割ニ致突止メ可申候、然上者已後右石垣破損致候節ハ銘々村構ニ
取繕可申事
一洪水ニ付右石垣之際掘レ土砂走出可申義有之候ハゝ、其節入部村・北山村・赤穂屋村・
上庄村より人足出合、右土砂持捨可申事
右之通申合候間、向後右石垣破損并土砂走出候節者、此書付之趣ニ取計可申候、為後日
仍而一札如件
入部村組頭
甚左衛門 印
印
庄左衛門
明和三戌年三月 同 村百姓代
赤穂屋村年寄
7
文三郎
同 村百姓代
小八郎
北山村年寄
与三太夫 印
印
善右衛門
同 村百姓代
上庄村庄屋
市兵衛 殿
惣百姓中
右の資料5は、入部村でシシ垣を築いたところ、隣接する上庄村で築いてきたシシ垣
とうまく連結できないという問題について、その解決をはかった文書である。入部村境
から上庄村の(シシ垣)までの九〇間(約一六四㍍)について、そこは上庄村内に位置
するようであるが、上庄本村と北山・赤穂屋・入部各村が築造を分担することとし土砂
流出など補修の責任も明記している。
取り決めの主体となっている入部村は蒲生村の枝村で蒲生村も公式的には池田村の枝
村的地位にある。同じく赤穂屋村も渕崎本村の、北山村も上庄本村の枝村である。ここ
では上位の公式的な村ではなく、実際の生活単位の村どうしで主体的に相談しており、
管轄の上庄村(庄屋)に報告、承認を求める形式になっている。
本文書は紙継目裏にも印判があり正本と思われるが、赤穂屋村年寄・百姓代の捺印を
欠く。赤穂屋村が所属する渕崎村に伝えられた文書なのでそこにとどまって上庄村には
差し出されなかったのかもしれない。この文書の取り決めがそのまま有効になったかど
うかはこれだけでは判らない。しかしながら、村民がシシ垣築造に主体的に取り組んで
いたこと、さまざまな障害の解決をはかろうと努力していたことをよく示してくれる文
書である。
結びにかえて
小豆島のシシ垣を手がかりに、近世瀬戸内の島の暮らしと野生動物との関わりの一端
について考えてみた。小豆島のシシ垣は、相当の部分ですでに配置や構造が明らかにさ
れているけれども、今後ともその調査と保存の進展に期待したい。携帯式のGPSでも
じゅうぶん遺構の位置を地図に落とすことができる。シシ垣遺構の位置を把握し、どの
ように配置されていたのかを知ることができれば、なぜそのような配置になったのかを
考えることができ、かつて自然と直接向き合って暮らしてきた時代の人々の知識、知恵
と工夫の姿を具体的に知ることができる。
8
そしてそのような自然に対する取り組みとともに、村民間の利害対立を克服して大き
な仕事を完遂してきた経験も知ることができ、これからの地域作りにとってもシシ垣遺
構は島の大切な財産であり続けると考えます。
⑴ 香川県小豆郡役所(一九二一)『小豆郡誌』第二五編第二章猪鹿垣牆、名著出
【注】
版一九七三年復刻。
⑵ 土庄町誌編集委員会(一九七一)『土庄町誌』二二七~二三一頁、土庄町 『土庄町誌続編』三八八頁。なお後掲資料4、5参照。
(二〇〇八)
『内海町史』五六五~七頁。
⑶ 内海町(一九七四)
⑷ 香川県・香川県教育委員会(一九七五)『復刻版史蹟名勝天然記念物調査報告』
上巻第六、初刊一九三三)
『小豆島の猪鹿垣︱旧大部村内(土庄町)における︱走行
⑸ 港誠吾(二〇〇二)
と現状』私家版。港誠吾(二〇一〇)「猪鹿垣遺構を残し伝えるために︱香川
(高橋春成編『日本のシシ垣』
県小豆島をめぐる猪鹿垣群の踏査と実測の記録︱」
。
古今書院)
「シシ垣の分布と構造」(高橋春成編『日本のシシ垣』
⑹ 矢ヶ崎孝雄(二〇一〇)
。
古今書院)
⑺ 「元禄一三年猪鹿追詰覚書」
(『日本庶民生活資料集成』一〇、三一書房)。
『近世瀬戸内の環境史』Ⅱ第一章、吉川弘文館。
⑻ 佐竹昭(二〇一二)
『周防大島三蒲村天保度庄屋記録(弐)』私家版。
⑼ 藤谷和彦(一九九七)
『淡路島の民俗』第一編第一章土地開発と灌漑慣行(千
⑽ 和歌森太郎編(一九六四)
葉徳爾執筆)
、吉川弘文館。
⑾ 前掲注⑷。
『池田町史』四七六~八頁。
⑿ 池田町(一九八四)
⒀ シシ垣関係の古文書については、前掲各町史のほか、川井和朗「古文書から見
『第三回 シシ垣サミット安浦報文集』二〇一〇)があり、
る小豆島の猪鹿垣」
また今回の報告に際して石井信雄氏のご教示をいただいた。閲覧をお許しいた
だいた史料所蔵者の方々にお礼申し上げます。
9
資料3 小豆島と各地のシシ垣
小豆島町二面の長崎 a
小豆島町二面の長崎 b
土庄町大部仙崖 a
土庄町大部仙崖 b
土庄町田井 a
土庄町田井 b
10
資料3 小豆島と各地のシシ垣
呉市安浦町 a
呉市安浦町 b
11
高島市鵜川
小豆島町草壁本町 a
大津市荒川
小豆島町草壁本町 b
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