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浄御原田令断片の復元について
Kobe University Repository : Kernel Title 浄御原田令断片の復元について(What Empress Jito enacted in her Codex of land tax and land distribution in 689) Author(s) 蓮沼, 啓介 Citation 神戸法学年報 / Kobe annals of law and politics,9:1-14 Issue date 1993 Resource Type Departmental Bulletin Paper / 紀要論文 Resource Version publisher DOI URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81005130 Create Date: 2017-03-30 浄御原因令断片の復元について 蓮沼啓介 T 令集解l J困令回長条前段に古語から次の問答開閉されていることは有名 である。 (古記云) 問。園長三十歩.広十二歩為段。即段積三百六十歩。更改段積為二百五十 歩。重鷹改為三百六十歩。又雑令云。度抱あ五尺為歩。文和銅六年二月 十九日絡b 其度地以六尺為歩者b 未知。令裕之赴並段積歩改易之義弘請 異 文 恥 元 使 疑 惑 也a 答。幡去ら令以五尺為歩者。是高軍法周為度地令使。而尺作長大。以二百 五十歩為段者。亦是高麗衡云々. 即阜商贋五尺。准今尺大六尺相当。故格云。以 t ;尺為歩者。刻是固今亙 尺内積島改名六尺積歩"'"其齢塩フ""晴益也。然見l 待入品令云五尺a 格云六尺。即依格文可加一尺者。此不然ゐ准令云五尺者。此今大六尺同 覚爾茸。 だが、引用された問答の答えにおいて苗己の作者治更に「幡云?として引用し た「令以互尺為歩者Jで始まる箇所の後半都分である「而尺作長大。 B二百五 十歩為段者。亦高眠術云々」の意味は長く不明であった。 神 戸 法 学 年 報 第 9号(19 9 3 ) 2 『令集解』は殆どが引用からなる、つまり引用で出来た書物である。いま、 困令〈第九)の題目と図長条に付された注解から、そこに示された引用の出典と ' 1周符を示す文字だけに限って次に引用して、その引用の掃闘を確かめて見る こしよう白 こと t まず題目であ 0 ' 回 令 (中 (装解〕餌 略 以下関じ〉 釈云 説文云 爾雅〈去) 史紀本紀云 注云 周礼云 鄭玄云 次は困長条の前段であ 0 ' 凡因。長三十歩。広十二歩為段。十段為町。 (義解〉謂 釈云 穴云 朱云 古配云。問。 者....理困令断片の復元について 3 答 。 此云 先に掲げた問答は、言う迄も無〈、「官記云」に続く箇所に、古配からのヲ I 周 として記鰻された問答の全文である。 次は回長条の後段(ないし原注)である。 段租稲二車二把。 (義解〉閉 町租稲三十三束。 釈云 穴云 附 朱云 問 。 答。古開審云 古記云。慶雲三年九月十日格云。 後段にも古記が引用されているが、とちらには古記の本文はな〈、古記の作 者が古記に引用して置いた「慶雲三年九月十日格」を再引用つまり孫引きした 聞 だけのものである。次に再々引用つまりひ孫引きして置とう。 ""要三年九月十日格云) 制。醐ー醐稽二東二担。読書長湾;歩 一町田二十二束。 神戸法学海報第 9号(19 9 3 ) 4 一 一 。 令前租法。熱田畑稲三家。銃器為。歩一町醐十五索。右件 二種租法。東数量監多少。輸実猶不実。而令前方六尺升漸差地実。遂其差升 亦差東実。是以取令前束。援令内把。令条段租其実猶益。今斗升既平。望 講輪組位式折衷聡勅者。成念百姓有食万条。即成民民Z 豊鎗。猶問先倉。宜 段溜ー京五拒ゐ町租十五来ロ主者施行。令依雫法。以三十三東准計十五 東者。所得東者。 十四把三分之ニ。 この格によれば「令前租法」つまり大宝令以前には「熱田育代租稲三案。 銃砕伊」と叶「枇晴行されて吋判 半「以方六尺為歩」により、 " ' 0 割り注の前 ζ の『在泣去j の基礎にある測量楼において周いら れた距離と面積の単位がはっきりする。まず距離つまり長さについては高温尺 の六尺=ー歩というのが単位である。面積の単位の方の「歩」はその長さの平 方に当たる。言い按えれば、一辺の長さが高麗尺の六尺にあたる E方形で圃ま れた土地の商積が、大宝令以前何地積の測量記周いられていた旧式の「歩J と いう地積の単位であったh これに対して、先の古記の引用からは、大室雑令には「度地以五尺為歩」と あったことが知られ、また租飯六勾唱にはは度地以六尺為歩者」とあったこ とが分かる。つまり「歩」という距尊と面積の単位は次白ように変化したこと がそこから推定できることにな易自 (高麗尺)六尺 大宝令 (商麓U 町五尺= 和銅六年格 ・4 4 4 大室令厄前 唐大尺六尺 こうした「歩Jの長さの変化とそのもたらす混乱が、問題発生の二七壊にあった わげである。 浄御原因令断片の復元について 5 四 問 きて先に引用した古記の投聞は「未知。令格之走瞳段積歩改易之麓」の二I でおる。まず第一向は「令格之赴」。大宝令の想定する「歩」と和銅絡の規定 する「歩Jの関係をつぶさに分かりやすく解釈せよ「講具分釈」と言うもので ある。次に第二問は「段積歩敬易之義J ,つまり「段積ゴと「歩」を改めた理 由を説明して、関の前段において提出されている「段積三百六十歩。更改段積 為二百五十歩。重復改為三百六十歩」という説を「元使疑惑也」緊閣や当惑が 生じないまでに、具体的に分かりやすく解釈説明せよ、と言うものである。 これに対して、問答の答えの箇所に引用された、「幡云J つまり秦某の意見 のうち、その前段は第一周への答えであるし、その後段は第二間への答えであ る。それ故、この後段の意味が不明である限り、古記の設聞のうち第二問に対 する、専門家と目される、業某の意見は見失われてしまうの外はない固とれで は第二閣を解く最大の鍵を仕舞い無くすに等しいであろう。 きて第一閣への答えである「令以五尺為歩ロ是高魔法用為度地令便」という 前段の意調は既に明らかであろう。大室令では土地測量に便利な高麗尺を周い ることになっており、従って、大宝令にいう「歩」は高麗尺の五尺であ 6から、 和銅六年格にいう唐(大)尺の六尺と同じ長さである、と簡潔に説明しているわ けである。 さてそれで怯第二悶への答えである後段の「而尺作長大@以二百五十歩為段 者。亦高魔術Jとはどういう意味か。 とのー宮町は「令部組U 法」の「以ぐ方〉六尺為歩」という規定と平副儒三年格の 「度地以六尺為歩」という規定の関係を解説した筒耐である。大室令以前に周 いていた高麗尺は麿(大)尺に比べて『尺作長大」 尺の長さも長いし、物差し そのものも大きいので、唐尺六尺=高麗尺五尺を 歩とする大室令に基づく測 e 神戸法学年報第 9号 ( 1 0 闘〉 量では長辺が3<J歩~(高麗尺で1羽尺〉、短辺が12歩~(商毘尺でω尺)の長方形 をした土地の面積は 3 0X12=3ω歩になるのに対して、大室令目前に周いられ ていた!日式の「歩J で表示すると、同じ地積の区画が、長辺2::;歩~(高麗尺で1 50尺)、短辺lil f l0歩~(高麗尺で伺尺〉という数字になる。従ってその地積は 25 xl O=25 暗となる、と: 要するに 段の地績は大室令以前以後を関わず、岡ーであるが、測量の主単位 である「歩」の距障と面積の方が改正されたため、大室令の絡討に伴い一段が 2 町歩からおO 歩へと変化したかの外編が生じただけのことである。専門家の秦 某は数字のいたずらを、あっさりと、いとも簡単に解き明かしているわげであ m る 。 五 ここから、問答の問咽段に提出されている困積三転の説の内容かえ次のよ うなものであることが明白にな省。 図。長三十歩。広十ニ歩為段。同1 段積三百六+歩。 仕掛 更改因。長二+五歩。広寸歩為晶即段積三百五十歩。(中段) 重復改図。長三す歩。広十二歩為晶即段積三百六+歩。 ぐ 下 I l t ) かくて毘積三転の説ポ成立した事情が徐々に明 bかになる。 その上段の出典が晴紀』大化二淳正月の改新の詔であることにまず限違い 限 措 怯あるまい。中段の出典低 f 令前閣法」と悶ーの法令と推測っぜきるい下段の 出典は言う迄もなく「犬宝田令国長条」に遣いあ苔まい。 それで低そもそも「令部租法」と俗いかなる法令なのかe 大宝・餐老の両国 令@本文と函積三転の説の中段とを対照すれば、その回令国長条が次¢形をし 静衝原慣令街片の復元について 7 ていたこと怯容易に復元できょう. 回。長三十笠島広十歩為晶十段為町。 大室令に先んじて町段歩という囚積の単位を初めて療用した法令といえば、虎 尾俊哉や井上光貞が明らかにしたごとく、それ i 孟鵬楠原令である? すなわち、「令前租法j は浄御原令であり、たヲた今復元された困令匝長条 は 、 ζ れまで具体的には条たりともその内容が知られていない、浄御原令の 断片であることが今確定する a とすれば慶雲三年絡にいう「令前租法 Jの内容である「頼回百代租稽三東』 と「ー町租稽十五配という罵句は、どちらも浄御原令の一部分であるとい う結論に江らざるを得ない。更に『令集解』国令園長条後身朱注の問答の答え に見られる「百代之組稽主来者句此則二段也」という「古問答j からの引用箇 所から、浄御原因令困長条には「一段組編一束五把Jという語句が含まれてい たことも推定される。結風浄御原図令には、次の条文があった筈であるとい う結論になる。 熱田百代租穏三束。 因。長ニ十五歩。広十歩為段。十段ぬ向。 一段租稲ー東五飽. 町租福一十五来. また、割り注に見られる「以方六尺為歩」という筒句と大室養老D両纏令を 対照すれば、震予御原雄令には次の条文があーたことが復元され o . 〈度地)。大尺為歩。(二百五十歩為星〉。 神 戸 法 学 年 報 第 9号(19 9 3 ) 8 棒御原令は完全に敏逸してしまヮたわけではなかヲ i ? のである。 9 3 . 1 0 . 1 主 〈注目察公〈後に惟宗務医)直本の擦になる、費老令占その義解に付された解釈鎗であ る 。 r <:<1:書にひかれている絡及び式が悉く弘仁句格式であって、貞観の絡式では低 . r 諸1 1 令製解明畿H 解題J5頁〉乙とから、貞観洋中の作と推定される。 いJ( ぐ注""老骨より古い令すなわち吹さ藍令の私開のことであ 00作者は不明あるが、或 1 1 9 41 )e払或は泉大麻呂(青木 [ 9 附〉とも推定されている。古記の成 は大市長岡〈相 1 立 結 辞1 時 ( 叫 年 頃 で あ 叫 祉1 四四頁〉。 年(7:必年〉には大撃5 震に明法遣の数官が置かれ、天平 怨お、神亀 5 2 年""年〉に は明法科に専門の明格生が置かれていて、犬宝令の註釈が盛んに"っていく様子が書館 える(井上1 9 初'"頁〉。 r (主主3) 幡は秦なり。秦某の私記な匂 o(![し此のA外に見えず。明法家にあらずして r よるが却しJf 令集解釈義』羽4 頁) 0 算師は主計寮 e主鶴寮にそれぞれ二人づ ' " 師f っ置かれていた.官位怯どちらも勧噛下である。「租税J肱主筏寮の所管であるか ら、難某は主磁寮の算節であろう。 〈 注 4) r'釈云」は令釈つまり養老令の注釈書である。「穴云j は穴胞と呼ぷ穴コ皮肉人の 令私記であろう。「朱云Jは朱で傍らに書かれた注のことである.他の令私自包につい ては、『令集解釈義H 解雇J9頁以下のほか、井上1 9 7 6m頁以下を見よ。 . r ) 令集解釈積」鉛5 頁。この絡の後半に当たる「右平二種掴法」以下の郎分怯鰻 ( 注5 ~劃所である. これは大宝令施行に伴う混乱を園還す o ために発布された格である。大室令が成立 したのは大重元年 ( 7 0 1 年)であるが、大室令に基づ〈戸籍が初めて作成されたのは翌 穴宝二年 (70~年)であ.し、更にこの編籍に基づいて班困が行われたのは""元年 ( 初4 匁〉のごとであ 0 0大室令発布からこの年までは 租滋は大さ雀令に釜づきながら、 9 古参御原司令断片の復元について ロ分闘は「令前組法」に基き舷給された陵 E 筋。歩という旧「歩」を単位とすると いう、新旧の法令が交錯する移行朔にさをじ勝ちな、遺渡附な状態にあったと考えられ 歩に付き二東ニ把という図租位、 2 5 0 . 拶に付省 あ。従勺で鈴8 東五抱に当たるから、 「東数種多少。輪実鑑不具」輸送される租網の実散に差異が生じることは無かった, ところが、慶雲元年になヮて大宝令に基づ〈漉悶収授が実施された結果、今度は C ; 前史尺 J~ r 歩」に付きー升の米'"哀れるという旧い諜鶴認準と新しい『方五尺 J = r~J という地讃と@聞にズレが生じた結果、「歩J 当たりの収穫量を表す「野j もc>紅色規恥実際とがズレてしま,"そんな訳で司令前束。援令内抱.令条" a英実績益リ岡、課着色標障をそのまま新しい困績に適用したところ、実質増税になっ てしまったと言うのであ毒。そこでようや〈大主主令に定める規格に遭ったー斗やー升 を計6桝が金闘に行き渡った「今斗排友平」 ζ の機会を鍵えて、『舗甚之式析裏」つ まり大室岡令のき予定と実際の徴説実務の折り合いをつける措置として、法令の二十三 +豆束、実際 東=実務 o D一束=法令@ー十四抱三分之二という旗第公式を定めて、 槽視を避ける実務を行う ζ とを大政官より天皇に奏上し、それを認め.絡が発布され たと言う換測である。 要するに、令文の規定と租税母珊の聞にズレカ性じただけのことであヮて、『令祢 一町租禰二十二凍。是,j斤者何H 十把為耳障乎J(朱注)、令前@宿東主令内の稲束の 聞に重さや束ね方あるいはー升を計る規格品の械の容積に速いが生じたわげでは舗内、. 〈注6)明法憾士繍悶今足の勘文には『検目払令前置法。勲周五十代濯宿 東五担。 以大方六尺為歩.歩内得米一升〈中略)二百五十歩泊五十代J(同事要略J"'弘仁 "年l l s5日)とあ..なお仮本"羽""頁". . . 〈注"古砲に焼いて「此去来詳j とあるところを見ると、古記の作者には c " 積歩改 易之義」が良く分からなかー?と模様である。明法家には算舗の考えは難しか勺たので あろうか。 〈注8),・来",ま養老困年(7叡洋〉に完成している。古"は天平i 均年".坪)頃に成立し ているので、古記の作者が『書関』を知ョていた ζ とは確実である。出典が『書記』 であるという推'""当たっていれIf、回積三振税@成立時点もまた養老年間企推測で きそうである。図後三伝説の上段の出典が『密綻"であるということになると、も肱 や『書包j大化三年正月に掲げられた改新の舗の信温性を判定する材料に、(例えば 神 戸 法 学 年 報 第 9号 ( 1 9 9 . の 1 0 援 本I 錦8 351 頁のように〉との個所を引き合いに出すわけには行か怨いであろう。 1持続紀三年〈ω8 年)まで¢記録には図績の単位には『頃 H 代」が用いられてい 〈注 9 るのに対して、持続配四年〈倒年)十月には「脇・ 以後図襖の単位として " J 水医三町Jという記事が見え、 が周いられている。虎尾 1 邸 41 5 1 6頁。及び井上 1 9. . 4 4 頁 。 〈 注1 0)虎屠包鰐4は、大主主二年〈初Q年〉西海道戸籍除、そこに見られる受図額の計算の仕 方が大宝令とは異なっている故、大室令ではな〈、それに先行する浄御原令に侮って 編第されたことを主張するが、「女主令の図書闘法・租法と金〈同ーの図積楼・程法が 1 3 頁〉といラ肝心かなめの前提が成り立たな (近江令及び〉浄御原令に存在していた J( い以上 その主張砿成立しない筈である。 鶴来鴻の幼児の人数まで算入して擁定されてい 戸籍残簡に陀蔵された受図額が、 S るからというて、直ちにそれが「五年以下不給Jと定めた大室令に基づいた算定では 有り得ないと言う結論に結び付くと鼠限らないであろう。なぜなら、二年後c7明年〉 似手)に予定される次の奮闘のために予 の謹図の資料としてではなく、その六年後。1 め「紙上の計算で各戸の受話回額を算出してJ(虎尾前掲 2頁註2)作成した軍備資料 であったという可能性も十分に考慮記入れる必要があるからであるa ちなみに、温後国中棒都丁里戸籍を見ると、文漬元年 ( 6 9 7年〉以膚に隼まれた子供 たち@年令古去、えとにちなんだ名前から推定される年令,-年ずれていて(表1)、明 年)の牢令が記載されている〈裏2)が、これも、はじめ大宝令の らかに大宝三年(叩 3 年)以前に生まれた 規定の趣旨に治って大室二坪0惚年〉中に調査して、持続十年〈飴6 者を戸穣に記載したととる、後に、金員の戸描を作るように訂正指示を受け、大宝三 年に入ヲてから大慌てで、文武元年以後区生まれた者の年令を調べて、追加資料を作 舗唯 1 6 4 頁のもの 成したために生じた不警合であろうと推測される(なお、表 1陪岸E で&る)。 結局、ついでに全貝の戸織を作って置"ば六年後の戸篇畑作威信簡略で祷み、 1 2 年に一度だげ大調査を行えばいいこ主になる筈で.るからであるe 浄翻原田令断片の檀元について 1 1 表1 話Z 大 宝S 2( 7 0 2 ) 卯 文 武4 1寅 2丑 3子 3 2 長 " ' 5成 持 続1 0( 6 9 6 ) 9 8 7 6 5 6函 71. 8末 8牛 1 0巳 1 1辰 1 2卯 表2 大 室 犬 宝3 2(7 国) 1 文 武4 s z 1 持 統1 0( , 個 目 9 8 7 6 6 7 8 9 1 0 1 1 " ' 主 神戸法学隼報第 9号(19 9 3 ) ! 2 庫 本 『続日本紀』新町増補園史大系第一部 3 /4 吉川弘文館 1 9 日 。 9 0 10 『大日本古文嘗』ー及ぴ二東京帝国大学 1 『律令J (日本恩忽体系 3 ) 井上光貞外編。岩波書居間6" r 令義解』新訂憎補国史大系第二."2 吉川弘文館 1 9 5 1 『令集解』国書刊行会 1 9 2 3 。 新訂培補国史大系前後編吉川弘文鎗 1 9 6 6 , 『令集縛釈義』三浦周行・諸川敬次郎編園審判行会 1 9 3 1 。 復 刻1 9 78 " 『領喪主代格』新町婚械園史大系第二+五巻吉川弘文館 1 9 3 60 鈎9 )三時反 1 9 7 00 『古事額蒐』政治部第ご洞古川弘文館〈初版 1 書考文献 醐「百百の作者』国史大系月報 52.第2 4巻《令集解》後編付 青 木 和 夫1 録 。 石 尾 芳 久1 9 田『日本古代法の研剖法律文化社。 石母岡 I E l 9 4 2r 古代家族の形扇滋曜一一正倉嶋文書所収戸籍の研究 社会経済史学第1 2巻第 6 号 。 同 1 9 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