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歴史文化フォーラム 平安時代における祈りの空間 武 蔵 国 分 寺

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歴史文化フォーラム 平安時代における祈りの空間 武 蔵 国 分 寺
レジュメ
国分寺市制施行 50 周年記念事業
歴史文化フォーラム
平安時代における祈りの空間
武 蔵 国 分 寺
-開催にあたって国分寺市は,平成 26 年度に市制施行 50 周年を迎えました。
国分寺市は,天平の昔,疫病の大流行や飢饉,地震,火山噴火,日照り等の自然
災害や凶作飢饉が頻発し,加えて政治混乱などにより社会不安が増すなか,仏教
の教えにより,世の中が穏やかで平和になるよう,諸国に国分寺が配置されたと
きに,武蔵国の国分寺が建てられたまちです。
以後,武蔵国分寺の周辺において,この地を経由する東山道武蔵路や鎌倉街道な
どが政治経済活動の上で大きな役割を担い,文化の伝播及び交流が進められ,地
域文化の発展がもたらされてきました。
そこで,この機会に,市域の歴史や文化を正しく理解していただき,市民の文化
の向上や発展の基礎に資するために開催します。
主
後
催
援
と き
ところ
国分寺市・国分寺市教育委員会
東京都教育委員会
平成 27 年2月 15 日(日)午後 1~5時
市立いずみホール
1
―プログラム―
13:00
開会挨拶
井澤邦夫
国分寺市長
1部
13:05-13:25 問題提起「平安時代の東国仏教と国分寺」
13:25-13:45
13:45-14:25
14:25-15:05
15:05-15:20
佐藤 信 東京大学大学院教授(古代史)
基調報告「近年の僧寺伽藍の発掘調査成果」
中道 誠 国分寺市教育委員会(考古学)
基調講演「平安時代の仏堂空間―金堂・講堂の性格の変質―」
藤井恵介 東京大学大学院教授(建築史)
基調講演「武蔵国分寺と平安時代の仏像」
副島弘道 大正大学教授(彫刻史)
―休憩( 1 5 分 )―
2部
論
15:20-16:50 討
括
16:50-17:00 総
閉会挨拶
17:00
佐藤 信・藤井恵介・副島弘道・中道 誠
佐藤 信
松井敏夫 国分寺市教育委員会教育長
壮大な武蔵国分寺(国指定史跡)の七堂伽藍は,長年の調査研究により,礎石・
基壇や屋根瓦などの遺跡を通して,その外観をある程度,復元できるようになり
ました。
こうどう
そのなかで,近年の史跡整備に先立つ確認調査により,平安時代に入り,講堂が
全国最大級である金堂と同規模に建て直されるなど,本格的に拡充整備された様
相が明らかとなり,その背景が注目されています。
わが国の平安時代における仏教の歴史や寺院建築,堂内の諸像については,続日
本後紀などの国史をはじめとする史料や絵画,奈良や京都の古寺に伝わる建築や
仏像などをもとに,研究が進められています,
しかしながら,東国にある武蔵国分寺の建物内の具体的な様子については,資料
が少ないため明らかになっていません。わずかに,現国分寺に伝わる木造薬師如
来坐像(国指定重文)や出土した緑釉花文皿・唐草四獣文銅蓋(都指定文化財)
などの仏具から,ありし日の国分寺を偲ぶことができるにすぎないのです。
ばん い
このほか,創建から 100 年あまりの頃,陸奥国が蛮夷の平定を祈るために(蛮
夷を粛し人々のおそれを除くために),武蔵国の例にならって五大菩薩像を造像
したことが知られますが,詳細は不明です。
こうしたことを材料として,古代史・建築史・彫刻史の第一線の専門家は,どの
ように考えていくのでしょうか?
2
問題提起
平安時代の東国仏教と国分寺
佐藤 信(東京大学大学院教授)
はじめに
武蔵国分寺跡史跡整備のための確認発掘調査による新たな成果
創建されのち建替えられ焼失した礎石残る塔跡1の西方に九世紀の塔跡2の地業
金堂の構造,基礎地業・基壇・礎石据え付け・北階段と基壇化粧(川原石乱石積み)
講堂の改築(九世紀後半に桁行5間から7間へ。切妻屋根から入母屋・寄棟屋根へ。
基壇も拡張。瓦積み基壇化粧)
金堂・講堂間の瓦片・礫敷き通路(幅4.2㍍)の九世紀敷設
伽藍中枢部を囲む施設の九世紀改造 掘立柱塀から築地塀へ
八脚門の中門と,簡素な四脚門の南門
1.国分寺の造営と在地社会
◎国司・郡司による国分寺造営
天平十三年(七四一)の国分寺建立詔では国司に対して命じられた国分寺造営。国司の
もとで国内諸郡の負担・協力がなくては大規模な造営事業は進まなかったはず。武蔵国分
寺跡出土の大量の文字瓦に,郡名を記した文字瓦(ヘラ書き・スタンプ)。天平十九年(七
四七)十一月には,国分寺造営が国司等の「怠緩」によって進まないことを受け,使者を
諸道に派遣して国司・国師(国内の仏教・僧尼を統括する僧官)とともに国分寺造営を促
進させる。同時に,事に堪える郡司が主当して三年以内に塔・金堂・僧坊造り終え,修造
に勤めた郡司に対しては,「子孫絶えることなく郡領司に任ずる」政策。国司だけでは進
まない国分寺造営の実情をふまえ,郡司たちの協力を求める方向。
○『続日本紀』天平十九年(七四七)十一月己卯条
詔曰、「朕、以去天平十三年二月十四日、至心発願、欲使国家永固、聖法恒修、遍詔
天下諸国、々別令造金光明寺・法華寺。其金光明寺各造七重塔一区、并写金字金光明
経一部、安置塔裏。而諸国司等怠緩不行。或処寺不便、或猶未開基。以為、『天地災
異、一二顕来、蓋由茲乎』。朕之股肱、豈合如此。是以、差従四位下石川朝臣年足、
従五位下阿倍朝臣小嶋・布勢朝臣宅主等、分道発遣、検定寺地、并察作状。国司宜与
使及国師簡定勝地、勤加営繕。又任郡司勇幹堪済諸事、専令主当。限来三年以前、造
塔・金堂・僧坊、悉皆令了。若能契勅、如理修造之、子孫無絶、任郡領司。其僧寺・
尼寺水田者、除前入数已外、更加田地、僧寺九十町、尼寺四十町。便仰所司墾開応施。
普告国郡、朕意知」焉。
◎地方豪族による国分寺への知識物と献物叙位
郡司など地方豪族に国分寺造営への協力を求めるため,国分寺への知識物(寄進)奉納
を募って,「献物叙位」の政策が採用された。国分寺に知識物を大量に奉納した郡司・地
方豪族に対して,外従五位下の叙位などで報いる。『続日本紀』には,諸郡の郡司氏族や
地方豪族による国分寺への知識物奉納に対する,天平勝宝元年(七四九)の叙位例がみら
れる。国分寺造営は,国司だけではなかなかはかどらず,子孫の郡司任命とか貴族位階へ
-1-
の叙位などの恩典により地方豪族たちの協力を積極的に求めなくてはならない在地社会の
状況。逆にみると,国分寺造営をテコとして諸国で律令地方統治が実質化していった。
○『続日本紀』天平勝宝元年(七四九)五月戊寅条
上野国碓氷郡人外従七位下石上部君諸弟、尾張国山田郡人外従七位下生江臣安久
多、伊予国宇和郡人外大初位下凡直鎌足等、各献当国々分寺知識物。並授外従五位下。
○『続日本紀』天平勝宝元年(七四九)閏五月癸丑条
飛騨国太野郡大領外正七位下飛騨国造高市麻呂、上野国勢多郡少領上毛野朝臣足人、
各献当国々分寺智識物。並授外従五位下。
2.平安時代の国分寺
◎九世紀の国分寺伽藍の改築拡充
武蔵国分寺の最近の調査成果では,九世紀後半に講堂が規模を拡大して改築されたこと
知られる。九世紀半ばに「神火」で焼失した塔も,緻密な版築により再建されたといえる。
国分寺の伽藍建築が平安時代に拡充されることを,どうとらえるか。平安時代の国家仏教
政策や平安新仏教(天台宗・真言宗)にみられる仏教史の動向とともに理解する必要。
国司には国分寺の施設維持が求められる。伽藍建物は国有財産であり,その破損はただ
ちに修理すべき。平安時代初期になると,国司の交替に際して,国分寺の建物・資財に破
損がなく,破損の場合は国司の任期中に修理済みであることを前任国司と新任国司との間
で確認する必要。その原則は,十一世紀に入る長元三年(一○三○)の『上野国交替実録
帳』でも貫かれる。もっとも十一世紀には,上野国では国分二寺や定額寺の堂塔雑舎や資
財の多くがすでに「無実」となっている状況。
○長元三年(一○三○)『上野国交替実録帳』
国分二寺諸定額寺仏像経論資財雑具堂塔雑舎并府院諸郡官舎破損無実事…
右、新司良任勘云「国□二寺・寺仏像・経論・資財・雑具・堂塔并[ 郡官舎等破損
無実、其由如何」。前司家業陳云「件国分二寺・諸定額[ 像経論資財雑具堂塔雑舎
等無実破損、是非当任之懈怠。往代之損[ 具由注載、代代不与解由状・度度検交替
使実録帳言上先了。然而[ 問為致殊功、金光明寺并諸定額寺堂舎、或新造立或加修
理。就中金[ □堂・講堂仏菩薩諸天□像皆悉破損。不[
]己及数代。而当任[ 忠
[ ]修固加并彩色宛加新造、依実被録」。…
3.平安時代の東国仏教政策
◎法会
仁王会
延暦二十五年(八○六)太政官符…十五大寺・諸国国分寺で仁王経を講説する
仁王会を毎年開かせ,永式に。
放生会
天武五年(六七六)八月十七日 放生
文武元年(六九七)八月十七日 諸国で毎年開催
貞観五年(八六三)八月十五日 石清水八幡宮で放生会
○浜松市伊場出土木簡 四号木簡
(表)己丑年八月放×
六八九年放生
(裏)二万千三百廿□
○茅ヶ崎市居村B遺跡出土木簡 二号木簡
(表)□観十年料□ 放生布施□□
(裏)飛飛 鳥飛マ伊豊 春マ足人
(四号木簡に「貞観□年八月十□日勾村□殿秋村□□給[
](下略)」あり。
-2-
「観」は押木弘己氏説
灯明会
灯明皿の大量出土(下野薬師寺跡など)
◎写経・修法
国際関係緊張・災害に対する祈り
延暦二十四年(八○五)…諸国に国内諸寺の塔を修理せしむ
…諸国国分寺に薬師悔過を行わしむ
大同三年(八○八)…疫病流行。諸大寺・七道諸国に大般若経を読ましむ
弘仁五年・六年(八一四・五)…上野国緑野郡浄院寺の一切経の写経経巻あり
弘仁九年(八一八)…常陸・下総・武蔵・相模・下野・上野諸国に激地震
弘仁十年(八一九)…相模国分寺火災
天長元年(八二四)…疫旱のため十五大寺・七道諸国寺院等に大般若経を読誦せしむ
天長五年(八二八)…京畿七道諸国に毎年七月八月に文殊会を行わしむ
天長七年(八三○)…大宰府・陸奥出羽に疫病流行。諸国国分寺に金剛般若経を読ましむ
天長十年(八三三)…武蔵国多摩・入間の郡界に悲田処を置き,難民を救済せしむ
承和元年(八三四)…諸国国分寺で修法を行い殺生を禁断する
…相模・上総・下総・常陸・上野・下野の国司に命じ上野国緑野寺に
ある一切経を翌年までに書写せしむ
承和二年(八三五)…昨年東国諸国に命じた一切経書写に加え,「貞元并梵釈寺目録」の
「律論疏章紀伝集抄」を国毎に分けて書写せしむ
承和四年(八三七)…諸国国分寺に十一面法を修せしむ
承和五年(八三八)…諸国定額寺の堂舎・仏像・経論と神祇諸社を修理せしむ
承和六年(八三九)…相模・武蔵・上総・下総・常陸・上野・下野に巻を分けて一切経を
書写せしむ
…国分寺御斎会は,これ以後国庁で行わしむ
承和八年(八四一)…諸国の寺辺二里内を殺生禁断とする
…諸国定額寺の堂舎・仏像・経論修理せしむ
…(略)…
貞観十七年(八七五)…諸国国分寺に新羅撃攘を祈らしむ
…(略)
九世紀に,東国の国司による地方寺院の建立や写経事業などが積極的に行われたことは,
武蔵国分寺の金堂・講堂にわたる伽藍改築のほか,たとえば前任の上野国司であった前上
野国権大目従六位下安倍朝臣小水麻呂によって,貞観十三年(八七一)に大般若経六百巻
が書写されたことなどにうかがえる。大般若経の書写は,大事業であったといえる。また,
各地の地方寺院に九世紀の貞観仏が伝えられていることも,背景となる。
○大般若経巻五九三〔一巻〕(前上野国権大目安倍朝臣小水麻呂経)
无災殃而不消、無福楽
而不成者、般若之金言、真
空之妙典、被称諸仏之父
母聖賢之師範也。所以至
誠奉写大般若経一部六百
巻、三世大覚十方賢聖咸
共証明、我現當之勝願
必定成熟、貞観十三年〔歳次/辛卯〕
三月三日檀主前上野國権
大目従六位下安倍朝臣小水
麻呂
長元三年(1030)「上野国交替実録帳」(『群馬県史』史料編)によれば,国司交
-3-
替に際して監査される事項のなかに,「国分二寺諸定額寺仏像経論資財雑具堂塔雑舎并府
院諸郡官舎破損無実事」という項目が立てられている。国府(国衙)の官舎より先んじて
国分二寺の「仏像経論資財雑具堂塔雑舎」の維持管理が重視されている。国司が維持管理
すべき対象として,国分寺や定額寺の資財・伽藍は重視されていた。もっとも,この「上
野国交替実録帳」によれば,一一世紀前半の上野国分寺では,すでにかなりの建築・資財
が「無実」となっていた。同時に国分寺に限らず郡家(郡衙)の正倉院の倉庫群なども「無
実」となっており,国府や郡家など各地の古代地方官衙遺跡がほぼ十世紀代には実態を失
った(山中敏史『古代地方官衙遺跡の研究』塙書房,一九九四年)ことと対応する。律令
国家の変質により国分寺の維持管理は困難となっていった。
4.平安新仏教と東国
◎平安新仏教
最澄 天台宗
比叡山延暦寺
円仁・円珍
密教化
空海 真言宗
高野山金剛峯寺・平安京東寺
東寺(教王護国寺)
弘仁十四年(八二三)空海に勅賜,真言僧五十人
講堂 承和六年(八三九)開眼供養 密教彫刻群二一体(空海の曼荼羅世界)
中央 五仏…大日如来(中央),宝生,阿閦,不空成就,阿弥陀
東
五大菩薩…金剛波羅蜜(中央),金剛薩埵(東北),金剛宝(東南),
金剛法(西南),金剛業(西北)
西
五大明王…不動明王坐像,降三世明王,軍荼利明王,大威徳明王,
夜叉明王金剛(憤怒形)
両端 梵天(東)・帝釈天(西)
四隅 四天王…持国天,増長天,広目天,多聞天
承和四年(八三五)…真言僧を諸国講読師とする
密教
仁王経(空海が将来した唐・不空の新訳『仁王護国般若波羅蜜多経』)護国経典
仁王経法
空海,弘仁元年(八一○)初修
密教美術
曼荼羅(胎蔵界・金剛界)
不動明王
明王
◎下野薬師寺をめぐって
【下野薬師寺戒壇のその後】 本朝三戒壇(東大寺戒壇院・筑紫観世音寺・下野薬師寺)
下野国分寺塔会における下野州薬師寺別当僧(法相宗)智公の論を,天台宗僧安慧(広智
の弟子,三代天台座主)が大慈寺に戻り批判…承和十四年(八四七)四月十五日『愍諭辧
惑章』(伝教大師全集)
講師の設置と別当の廃止…嘉祥元年(八四八)十一月三日太政官符(『類聚三代格』)
東大寺戒壇院十師からの補任
昌泰四年(九〇一)六月三日太政官牒(東南院文書)
金字仁王経を下野国薬師寺に安置…貞観十六年(八七四)閏四月二十五日(『日本三代実
録』同日条,『類聚三代格』同日官符)
毎国・下野国薬師寺・大宰府観音寺・豊前弥勒寺
講師に律宗僧を補任…延長五年(九二七)十月二十二日太政官符(『政事要略』所引)
『延喜式』(主税式上)の下野国薬師寺法会
四月八日(仏生会)・七月十五日(盂蘭盆会)斎会
戒壇の衰退
-4-
『元亨釈書』「叡壇(比叡山延暦寺の大乗戒壇)興るに及び 、野壇(下野薬師寺の
伝統的戒壇)衰う。」
『律宗綱要』「(下野)薬師寺の授戒、中古以来廃絶して行わず」
下野国司管轄の国分寺等の無実・破損
(承平四年[九三四])勘解由使勘判抄(『政事要略』所引)「仏菩薩破損及資財無
実・破損」「堂舎破損」「無実」
【平安前期の東国仏教と下野】
平安新仏教と下野・東国
桓武天皇時代・嵯峨天皇時代の仏教政策
広智(下野国都賀郡大慈寺)の活躍(道忠禅師の弟子。道忠は鑑真弟子で戒律を東国に
広めた)
最澄への協力,最澄から付法
円仁(慈覚大師,第三代天台座主,
下野国都賀郡生)は広智の弟子。
最澄(伝教大師ー天台宗)
延暦十六年(七九七)一切経書写発願。東国の道忠二千余巻を助力(『叡山大師伝』)
弘仁八年(八一七)東国布教
上野国緑野郡緑野寺[多野郡鬼石町]・下野国都賀郡大慈寺[下都賀郡岩船町]
に宝塔建立発願
両寺の広智ら道忠の弟子・孫弟子の協力
~弘仁十二年(八二一)徳一(南都仏教の俗化を嫌い,東北の山岳寺院陸奥国慧日
寺[福島県耶麻郡磐梯町]を拠点として東国に広く布教)と三一権実論争
空海(弘法大師ー真言宗)
弘仁六年(八一五)密教経典書写の協力を東国の徳一・広智に依頼
【下野薬師寺僧慶順の復興運動と寺運の衰退】
東大寺末寺化
東大寺僧の講師補任
慶順の復興運動
寛治五年十二月十三日下野国河内郡薬師寺注進状(東大寺文書)
「東大寺末寺也」「於今者、破壊顛倒既以明白也」「代々国持
禅寺雖預知之」
寛治六年(一○九二)正月十日僧慶順解(東大寺文書)
復興運動の失敗
5.平安時代の武蔵国分寺
◎武蔵国分寺の塔の再建と前男衾郡司
承和二年(八三五)に「神火」により焼失した武蔵国分寺の七重塔の再建を,承和十二
年(八四五)になって前男衾郡大領である外従八位上壬生吉志福正(みぶのきしふくまさ)
が請け負うことを武蔵国司に上申し,武蔵国司は中央の太政官に伺いをたて許される。(土
田直鎮『古代の武蔵を読む』吉川弘文館,一九九四年。)
○『続日本後紀』承和十二年(八四五)三月己巳条
武蔵国言、国分寺七重層塔一基、以去承和二年為神火所焼、于今未構立。前男衾郡
大領外従八位上壬生吉志福正申云、奉為聖朝欲造彼塔。望請言上、殊蒙処分者、依
請許之。
国分寺伽藍の維持は国司の基本的任務であり,焼失した七重塔をそのままにした武蔵国
司の怠慢が責められるところであるが,そのことは不問。
最近の発掘調査により,九世紀の再建の後にふたたび焼失して炭化物とともに礎石群が
現存する塔跡(塔跡1)とは別の,もう一つの塔基壇跡(塔跡2)を発見。新発見の塔跡
-5-
2の基礎地業は,深さ二メートルにおよぶ緻密な版築を行っており,版築土中から出土し
た土師器によって九世紀中頃に位置づけられた。塔跡2の基壇は,何らかの事情で塔再建
には使われず,塔跡1の場所で再建された可能性。ただし,大規模で精密な塔跡2の基壇
地業からは,承和十二年(八四五)の壬生吉志福正による七重塔再建が本格的規模で高い
技術によって行われたことが確認される。
塔の再建が武蔵国司ではなく前男衾郡大領により果たされたことは,九世紀半ばにおけ
る正税の欠負未納の進展や「神火」などによる諸国正税の財政能力の衰頽という国府財政
の逼迫と,地方豪族の根強い経済力とが推測できる。塔跡2にみられる手抜きのない版築
は,この時代の地方豪族の技術的な高さを示すか。
ただし,「良吏の時代」とも称されるこの時期の国司の財政力について,低い評価でよ
いかは疑問。一方で,十世紀の受領制の展開と結びついて一般的な郡司層の地盤後退も推
測される。その場合,武蔵国分寺跡の主要伽藍の発掘調査成果を合わせ考えると,講堂が
基壇まで拡大した形で桁行五間から七間へ増改築されたり,金堂が補修されたりしたのも,
九世紀の同時期であった可能性がある。大規模な修理が必要となっていた武蔵国分寺の伽
藍建築のうち,金堂・講堂などは武蔵国司が担い,七重塔のみを前男衾郡大領に委ねたと
いう分担も,推測できるのではないか。
武蔵国分寺七重塔の前男衾郡司による再建が承認された承和十二年(八四五)の翌々年
の承和十四年(八四七)に,武蔵国分寺の「中院」の僧最安によって,経生を動員して一
切経が書写されたことは注目される。武蔵国分寺の伽藍再建と時を同じくして一切経書写
も行われた。創建時代の国分寺の塔に聖武天皇の金字金光明最勝王経が安置されたように,
再建伽藍やそこでの仏教法会で,新書写の一切経が役割を果たしたか。
○大菩薩蔵経巻十三奥書(『平安遺文 題跋編』三七号)
承和十四年〔歳次/丁卯〕潤三月
武蔵国分寺中院僧最安
写奉一切経本
経生沙彌澄照
武蔵国分寺の平安時代文物
木造薬師如来坐像(重要文化財)
緑釉花文皿
唐草四獣文銅蓋
◎国分寺と地域社会
【国分寺文化圏】
国分寺の造営・維持・仏教と地域社会
国分寺の造営・維持に当たった人々
文字瓦に名を記す人々
国分寺瓦を竪穴住居の竈に利用する周辺住人
法会 「安居」(安芸国分寺木簡),「放生」,万灯会(灯明皿)
写経の広がり
信濃国分寺と『日本霊異記』の説話
地方社会における国分寺と関連する仏教文化・漢字文化の様相について,信濃国分寺(信
濃国小県郡,長野県上田市)関係の『日本霊異記』の説話(下巻第二十二,下巻第二十三)
がある。信濃国小県郡は,『和名類聚抄』にみられる筑摩郡の国府(松本市)に移転する
以前の奈良時代信濃国府の所在地で,信濃国分寺・国分尼寺の遺跡が千曲川北岸に沿う古
代東山道に面して存在する。国府所在郡で国分寺が営まれるなど,信濃国内では経済的・
文化的に開発の進んだ地とみられる。『日本霊異記』には小県郡を舞台とした仏教説話が
二話あり,八~九世紀頃の地域社会の様相がうかがえる。
-6-
○『日本霊異記』下巻第二十二
小県郡跡部郷(『和名類聚抄』)の富豪層の他田舎人蝦夷が,銭や稲の出挙経営を行っ
て富を蓄えるとともに,法華経書写をたびたび行っている。出挙の秤量をごまかし利益を
挙げたことで冥界に行くが,写経の善行によって甦ったという話。国府交易圏の中心とな
る郡で,銭が出挙され流通した様子,火葬が一般化して仏教が浸透していた様子,また法
華経の書写事業が富豪層によって行われ,完成記念の講読の法会も僧侶を請いて行われた
様子が知られる。
○『日本霊異記』下巻第二十三
小県郡童女(「乎无奈」)郷の富豪層の大伴連忍勝は,同心して郷内に大伴連氏の氏寺
として仏堂を建て,僧となって仏堂に住み,大般若経を書写しようとしたが,堂物を使い
込んだため檀越たちに打ち殺された。しかし写経の願を遂げ堂物を償うために,甦らせて
もらう物語。これも,郷内に氏寺として資財をもつ仏堂が営まれ僧が置かれたこと,大般
若経六○○巻の写経事業が行われたこと,そして火葬が一般化していたことを示す。
これらの説話から,八世紀後期の信濃国小県郡において,富豪層やその氏族が仏教を受
容し,郷内に仏堂を建立したり法華経・大般若経の写経事業を行ったことが知られる。ま
た,郡内で火葬が一般化し,銭が流通し,富豪層による銭・稲の出挙経営が盛行したこと
もうかがえる。奈良時代に国府・国分寺が営まれた小県郡では,在地の富豪層が地域社会
における仏教展開を担い,「国分寺文化圏」のような宗教文化的な状況をもたらした。
こうした在地社会での仏教の展開は,九世紀の仁寿三年(八五三)に,信濃国佐久郡で
郡司氏族を中心に大般若経写経が行われたことにつながる。
○和歌山県(海草郡紀美野町)小川八幡神社所蔵大般若経巻四百四十五奥書
仁寿三年〔歳次/癸酉〕二月十五日為御母刀自仕奉主政外少初位上大坂真長
主帳外少初位上大坂勝義麿
同綱好
同芳咩
戒師沙弥義蔵師
経生佐久郡丸子真智成
この佐久郡書写大般若経の僚巻が安楽寿院〔京都市伏見区〕にも四巻蔵されており,九
世紀半ばに佐久郡の郡司氏族が大般若経書写を行った。のち,こうした東国写経をふくむ
大般若経など経典の広範な移動・流通が鎌倉・室町時代には展開した。
【国分寺僧と地域社会】
諸国で在地社会の人々が僧侶となる際には,国分寺の僧侶の弟子として仏教を学ぶこと
からはじまることが多かった。僧尼令6取童子条では,僧尼が自らの近親(『令集解』古
記では「親族」)や郷里(『令義解』では「本貫」)から信心のある童子を選んで供侍さ
せる制度があった。こうした制度から,童子がやがて僧侶となっていくコースがあった。
○僧尼令6取童子条
凡僧聴近親郷里、取信心童子供侍。年至十七、各還本色。其尼取婦女情願者。
僧侶になる時に,国分寺僧のもとで仏教を学び修行し,得度して度縁を受け,やがて受
戒を受けて戒牒を得,正式な比丘となる場合が多くあった。最澄は,はじめ近江国分寺で
仏教を学び,修行して得度へと進んだ。また円仁は,はじめ下野国都賀郡の大慈寺(栃木
県下都賀郡岩舟町)の僧広智の弟子であった。最澄の天台宗東国布教を支えたことで著名
な僧広智は,瑞祥によって近郷の円仁の誕生を知り,幼少時から弟子に取り育てたという。
◎平安新仏教の寺院と国分寺
奈良時代後期には,南都仏教の世俗化を嫌った徳一が,奈良の興福寺を離れて陸奥国会
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津郡の山岳寺院恵日寺を拠点にしたことや,山林修行が重視されるようになるなど,新し
い仏教への動きが展開していた。平安時代初期に,最澄や空海が唐から最新の仏教をもた
らし,これまでの南都仏教とはやや異なる「天台宗」「真言宗」の平安新仏教や密教をめ
ざした。これは,平城京から長岡京を経て平安京への遷都によって新しい王朝を切り開い
た桓武天皇や嵯峨天皇の新しい仏教志向とも重なり,新たな平安仏教の展開をもたらした。
南都の仏教界と衝突した最澄の東国布教の拠点となった上野国緑野寺・下野国大慈寺な
どのように,国分寺とは離れた寺院において天台宗の展開が図られていったといえよう。
その際,東大寺や興福寺系の仏教の影響を大きく受けていた諸国の国分寺においては,講
師を中心として南都系の仏教が展開していたようで,国分寺以外の山岳寺院などの地方寺
院が平安新仏教の拠点となったことは,ちょうど都において比叡山延暦寺や高野山金剛峰
寺といった山岳寺院が平安新仏教の本拠となったこととも対応しよう。
おわりに
武蔵国分寺跡の平安時代の伽藍建築改築についての発掘調査成果
平安時代国家の東国仏教政策
平安時代仏教史の動向と東国
平安時代建築史・美術史の動向
国分寺の奈良時代から平安時代そしてその後への展開
国分寺と地域社会の動向
(主な参考文献)
佐藤信『律令国家と天平文化』(日本の時代史4)吉川弘文館,2002年
佐藤信『史跡で読む日本の歴史4 奈良の都と地方社会』吉川弘文館,2010年
須田勉・佐藤信編『国分寺の創建 思想・制度編』吉川弘文館,2011年
須田勉・佐藤信編『国分寺の創建 組織・技術編』吉川弘文館,2013年
土田直鎮『古代の武蔵を読む』吉川弘文館,1994年
三舟隆之『日本古代地方寺院の研究』吉川弘文館,2003年
山中敏史『古代地方官衙遺跡の研究』塙書房,1994年
コーディネーター 佐藤 信(さとう まこと)さん プロフィール
1952(昭和27)年
東京都生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程中退。
奈良国立文化財研究所研究員,文化庁文化財保護部記念物課文化財調査官,聖心女子大学
文学部助教授等を経て現職,東京大学大学院人文社会系研究科教授。
専門は日本古代史。 文学博士
主な編著
『日本古代の宮都と木簡』(吉川弘文館),『古代の遺跡と文字資料』(名著刊行会)
『出土史料の古代史』(東京大学出版会),『律令国家と天平文化』(編著,吉川弘
文館)ほか多数
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基調報告要旨
近年の僧寺伽藍の発掘調査成果
中道 誠(国分寺市教育委員会)
はじめに
武蔵国分寺跡は,江戸時代の地誌や史書に礎石や地表面に散布する瓦が紹介されるなど
古くから注目され,明治・大正期には礎石や瓦の分布調査による建物配置の研究,昭和 31
年には初めての本格的な発掘調査が日本考古学協会仏教遺跡調査特別委員会により僧寺金
堂・講堂で実施された。以降,昭和 39~44 年の僧尼寺の主要堂塔の調査,昭和 49~61 年
の僧尼寺の寺域範囲の確認調査,昭和 61 年から史跡整備工事のデータ収集のための発掘調
査が継続して行われ,大きな成果が得られている。
これらの調査・研究により武蔵国分寺跡は大きく3時期の変遷をたどったことが想定さ
れている(Ⅰ期:創建期,Ⅱ期:整備拡充期,Ⅲ期:衰退期)。創建期の伽藍は,天平 13
(741)年に聖武天皇により発布された国分寺建立の詔を受けて造営に着手され,途中造
営計画の変更を伴い,760 年前後にほぼ完成したものと考えられている。完成後,約 70 年
を経過した9世紀中頃に七重塔の再建を伴う伽藍全体の整備がなされる。
平成 15 年から 24 年に実施された僧寺地区の史跡整備に伴う事前遺構確認では,Ⅱ期(整
備拡充期)における僧寺講堂跡や七重塔跡の再建に関わる新たな調査成果が得られた。こ
こでは,近年の僧寺の発掘調査の中で,9世紀中頃~後半代の武蔵国分寺の整備状況を示
す調査結果を中心に報告する。
1.七重塔の再建
武蔵国分寺の塔跡は,基壇の高まりとともに,礎石7個が残存し,従来より七重塔と認
識されていた塔跡1と,平成 15 年度の地下遺構レーダー探査を契機として新たに塔跡1の
西方約 50mで確認された塔跡2の二つの塔跡がある。
塔跡1は,創建塔として建立され,9世紀中頃に火災を受けた後に再建され,その後,
最終段階まで存続したことが明らかとなっている。建物は,創建と再建ともに同じ場所に
おいて建てられ,三間(約 10m)四方の礎石建物と判明している。基壇は版築により構築
され,約 18m四方あり,深さ約 1.7mの掘り込み地業(地盤改良)を伴う。基壇外装は乱
石積。外周は雨落ち石敷が巡っている。
塔跡2は,約 11m四方,深さ 2.3m以上の精緻な掘り込み地業が施され,建物基礎の版
築内から出土する土器などから9世紀中頃に造られたと考えられる。建物基礎は,塔跡1
と同等の建物が建つような規模と構造を有しているが,礎石や基壇外装の部材が残ってい
ないことや屋根瓦の出土量が少ないことから,未建設の可能性も想定される。
武蔵国分寺の七重塔は,承和 12(845)年に,武蔵国前男衾郡大領壬生吉志福正が,承
和2(835)年に落雷で焼けた七重塔の再建を願い出て許されることが『続日本後紀』に
記されている。この火災を受けた七重塔は,塔跡1と考えられるが,再建を許され造営に
着手した塔が塔跡1か塔跡2かは明確ではない。
2.講堂の再建
講堂は,8世紀中頃に創建され,9世紀中頃~後半に建物全体を建替える大規模な改修
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を行っている。創建時の桁行5間,梁行4間の二面庇建物から,全国の国分寺でも最大級
の規模である金堂と同規模の桁行7間,梁行4間の四面庇建物に再建し,その際,基壇外
装も造り直している。
【建物規模】 創建時 桁行5間(約 28.5m),梁行4間(約 16.6m)
再建時 桁行7間(約 36.1m),梁行4間(約 16.6m)
【屋根構造】 創建時 二面庇建物(切妻)
再建時 四面庇建物(寄棟造または入母屋造)
【基壇規模】 創建時 東西約 34.4m 南北約 22.6m
再建時 東西約 42.2m 南北約 22.6m
【基壇外装】 創建時 河原石等を地覆とした瓦積みの外装
再建時 塼を地覆とした瓦積みの外装
【建物基礎】 創建時 厚さ約 0.9m 版築は黒色土と砂礫の互層主体
再建時 厚さ約 1.5m 版築はローム土と砂礫の互層主体
3.その他の創建以後の整備状況
○金堂
建替えの痕跡は確認されていないが,金堂跡から出土する塔跡1の再建所用瓦に,建物
を塗る朱が付着していることから9世紀中頃~後半における補修状況が窺える。
○中枢部区画施設
金堂・講堂等の主要建物を区画する中枢部区画施設の塀は,創建当初は掘立柱塀で,そ
の後に築地塀へと建替えられる。築地塀基底部の版築内から創建期の瓦片が出土する。
○堂間通路
伽藍中軸線上で金堂と講堂を結ぶ南北の通路状遺構。金堂北側と講堂南側の2か所で確
認されている。4条の石列を伴い,中央の石列間は石敷,その外側の石列間は瓦片を敷い
た路面とする。堂間通路が創建当初からあったのか無かったのか,明確ではないが,講堂
南側では講堂の再建以降に設置される。
なお,金堂・講堂間以外で通路跡は未検出である。
○鐘楼跡
創建後に,基壇南面に基壇縁の設えと想定される石列が設置される。
(主な参考文献)
日本考古学協会仏教遺跡調査特別委員会編『武蔵国分寺跡遺物整理報告書-昭和三十一・
三十三年度-』日本考古学協会,1965 年
滝口宏編『武蔵国分寺跡調査報告-昭和三十九~四十四年度』国分寺市教育委員会,1967
年
国分寺市教育委員会・国分寺市遺跡調査会『武蔵国分寺跡発掘調査概報 32』2006 年
国分寺市教育委員会・国分寺市遺跡調査会『国指定史跡武蔵国分寺跡-平成17・18,19,20,
21,22,23,24年度保存整備事業に伴う事前遺構確認調査-』2008~2014年
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基調講演要旨
平安時代の仏堂空間
―金堂・講堂の性格の変質―
藤井 恵介(東京大学大学院教授)
1.奈良時代の寺院の伽藍と性格
7 世紀から 8 世紀のかけての寺院の伽藍の諸建築の性格は,いままで何度も検討されて
きた。概ね結論が出ているといってよい。特に,奈良平城京の寺院を対象に『資財帳』と
発掘調査から,多くの成果がもたらされてきた。
また,8 世紀中葉から建設が開始された国分寺についても,各地の発掘調査などから,
かなりの情報がもたらされ,その多様な実態が明らかにされてきた。
2.8 世紀末から 9 世紀初めの「金堂・講堂」の変質
8 世紀末から 9 世紀にかけて寺院建築に大きな変化が起きる。京都に建設された大寺院
において,「金堂・講堂」というセットが,「金堂と礼堂」という構成に変化するのである。
貞観寺,仁和寺,醍醐寺でこれが確認できる。すなわち「講堂」が不要とされたのであっ
て,講堂がになった機能は「礼堂」へと移動したと想定される。
この変化は,国家的な大寺院から中小規模の寺院でも確認でき,さらに地方にまで,全
国的に急速に普及していったとみられる。その早さは驚くべきものであって,仏教の儀礼
などに大きな変化が起きて,それが一気に建築の変化をもたらしたと考えられる。
3.武蔵国分寺の場合
武蔵国分寺は,8 世紀中葉に建設が開始されて,大規模な建築が実現していたことは確
かである。塔,金堂,講堂,中門,回廊などが発掘調査で確認されている。
近年の調査で重要なことは,9 世紀段階での伽藍の維持と再建が確認されたことである。
塔は,再建建築が確認された。また,講堂は東西に一間ずつ拡張されて,姿を一新したと
想像される。
4.考察・総括
9 世紀に,全国的に進んだ,「金堂・講堂」システムから「金堂・礼堂」への変化と,こ
の武蔵国分寺で実際におきた,講堂の拡張とは,どのような関係があるのか。9 世紀段階
での国分寺の状況を検討してみることにしたい。
(主な参考文献)
太田博太郎「南都六宗寺院の建築構成」『日本古寺美術全集2』集英社,1979 年
上原真人「仏教」『岩波講座 日本考古学4』1986 年
藤井恵介「仏教寺院の形成と機能」『仏教の事典』朝倉書店,2014 年
井上充夫『日本建築の空間』鹿島出版会,1971 年
山岸常人『中世寺院社会と仏堂』塙書房,1991 年
藤井恵介「平安初期礼堂試論」日本建築学会秋季大会学術講演梗概集,1990 年
藤井恵介「夢見と仏堂―その礼堂の発生に関する試論」『空間史研究叢書1 痕跡と叙
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述』岩田書院,2013 年
須田勉・佐藤信『国分寺の創建』吉川弘文館,2011・2013 年
堀池春峰「平安時代の国分寺」『仏教芸術』103,毎日新聞社,1975 年
海野聡「国分寺伽藍の造営と維持システムについて」『日本建築学会計画系論文集』76,
2011 年
講師 藤井 恵介(ふじい
1953(昭和28)年
けいすけ)さん プロフィール
島根県生まれ。東京大学大学院工学系研究科卒業。
東京大学大学院工学系研究科教授。専門は日本建築史。 工学博士
国分寺市史跡武蔵国分寺跡整備計画策定委員会委員,国分寺市遺跡調査会武蔵国分寺跡
査・研究指導委員会委員,国分寺市文化財調査専門員などを務める
主な編著
「飛鳥・奈良時代の寺院建築」『カラー版日本建築様式史』(美術出版社),『法隆寺(Ⅱ)
建築』(保育社),『太田博太郎と語る日本建築の歴史と魅力』(編著),『新建築学大系
〈2〉日本建築史』(以上,彰国社)ほか多数
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基調講演要旨
武蔵国分寺と平安時代の仏像
副島 弘道(大正大学文学部教授)
武蔵国分寺の講堂が建て直され,七重塔が再建された平安前期 9 世紀頃の当寺のようす
を,仏像をとおして考えようというのがここでのテーマである。
1. 奈良,平安時代の京都の仏像
奈良時代 8 世紀の仏像制作は,都の平城京を中心に 740 年代頃にきわめて盛んになった。
奈良県東大寺法華堂不空羂索観音像,同寺戒壇堂四天王像などにみられるように,中国唐
時代の整った現実感のある仏像の姿を基本として,そこに一種の余情を感じさせる穏やか
な雰囲気を加えた天平時代の仏像は,日本の仏像の古典としてその後も長く範とされた。
都が京都に遷ったころから 10 世紀中頃までの平安時代前期には,それまで多かった塑像,
乾漆像,銅像にかわって,木彫像が仏像の中心となった。新たに開かれた真言宗,天台宗
が説く複雑怪奇な明王像などが大胆で個性的な姿に作られ,重量感に富んだ堂々とした仏
像が京都を中心に次々に作られた。
11 世紀には仏師定朝作の平等院鳳凰堂阿弥陀如来像に代表される平明穏和な作風の仏像
が主流となって一世を風靡し,これを唐風が強かったそれまでの様式に対して和様彫刻,
または定朝の名をとって定朝様という。
2. 武蔵国の仏像
畿内から遠く離れた武蔵国にも飛鳥,奈良時代にすでに仏像があった。代表作として調
布市深大寺銅造釈迦如来像,国分寺跡付近出土銅造観音菩薩像,横浜市龍華寺脱活乾漆菩
薩坐像などが知られている。
平安時代になるとその数は増すが,ここでのテーマに直接関係する平安前期 9 世紀の武
蔵国の仏像はあまり多くない。この状況は武蔵国以外の東国全体でも同様である。数少な
い 9 世紀の作と見られる当地方の仏像に,東京都檜原村五社神社の蔵王権現立像と菩薩形
坐像などがある。五社神社像の威圧感に富んだ顔立ちと重量感のある太身の体躯には,9
世紀の中央の仏像に似た作風が示されている。
平安時代後期 11 世紀以後になっても,武蔵国では前の時代からの一木造による重々しく
簡素な,いわば古風な姿の仏像が依然として作られた。それとともに,中央の仏像様式で
ある定朝様の影響を受けた平明穏和な姿の仏像も作られるようになった。そのなかには中
央の作品と見まがうほどのできばえの八王子市蓮生寺廬遮那仏坐像などや,簡素でやや整
斉を欠いた姿から,定朝様の影響を受けた当地での作と考えられている埼玉県宮代町の西
光院阿弥陀三尊像(安元 2 年〈1176〉)などがある。武蔵国分寺薬師堂の本尊薬師如来坐像
も定朝様にならったこの時代の仏像である。
3. 武蔵国分寺の 9 世紀の仏像
武蔵国分寺のこの時代の仏像は残っていない。しかし,金堂と講堂は礎石などから大規
模な建物だったことがわかる。奈良時代平城京の大寺のようすから推測すると,武蔵国分
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寺の金堂や講堂には,堂の中央に本尊である釈迦または薬師如来像が置かれ,その左右に
脇侍菩薩像,四隅に持国天,増長天,広目天,多聞天の四天王像が置かれていたのであろ
うか。本尊は丈六坐像(高さ約 240 ㎝),四天王像は 6 尺から 8 尺(180~240 ㎝)程度と
想像されるが,奈良時代の像が失われて後の時代に再興されたものならば,その半分程度
の大きさだったかもしれない。堂内には創建後に安置された像もあったかもしれない。
貞観 15 年(873)に陸奥国が,武蔵国の例に准じて五大菩薩像を造り国分寺に安置しよ
うとした(『三代実録』)。この五大菩薩が具体的に何の尊像なのか,五大虚空菩薩,五大力
菩薩,金剛界五菩薩などが考えられるがはっきりしない。いずれにしても,それが武蔵国
分寺の金堂や講堂の創建時以来の本尊だった可能性は小さく,創建後あらたに作られた像
が寺内の堂に置かれていたのであろう。
4. いくつかの問題
仏像の大きさと種類がわかれば,寺の金堂や講堂内のようすはある程度わかる。しかし,
仏像には大きさと名前だけではなく,その作風とできばえという要素がある。同じ大きさ
の堂に同じ名前の仏像が置かれても,そのできばえや光背台座などの荘厳具が違えば,雰
囲気が大きく変わる。仏像を通してわかることの大切さは実はそこにある。
それでは平安時代の武蔵国分寺に置かれた仏像とはどのような作風で,どのようなでき
ばえのものだったのだろうか。このことをここではそれを作った工人,仏像の場合は仏師
と呼ぶが,彼らの経歴を考えながらうかがってみたい。具体的なことはフォーラム当日に
何体かの仏像の画像を示しながら,参加の方々とともに議論したいと思う。
(主な参考文献)
久野健編『関東彫刻の研究』学生社,1964 年
林宏一「武蔵の仏像」『国華』1401 号,2012 年
副島弘道「平安時代前期」『カラー版日本仏像史』美術出版社,2001 年
〃
「五社神社蔵 木造蔵王権現立像及び菩薩形坐像」『国華』1401 号,2012 年
講師 副島 弘道(そえじま
1952(昭和27)年
ひろみち)さん
プロフィール
東京都生まれ。東京藝術大学大学院美術研究科修了。
文化庁,東京国立博物館,跡見学園女子大勤務を経て現職,大正大学文学部歴史学科教授。
専門は日本彫刻史。文化審議会専門委員,栃木県文化財保護審議会委員,神奈川県文化財
護審議会委員,山口県文化財保護審議会委員,東京都府中市文化財保護審議会委員,国分
寺市文化財調査専門員などを務める。
主な編著
『関東の仏像』(大正大学出版会),
『仏像に会いに行こう―美術の見かた 感じかた』(東
京美術),『運慶―その人と芸術(歴史文化ライブラリー)』(吉川弘文館),『日本彫刻
史基礎資料集成―鎌倉時代造像銘記篇』(共編)(中央公論美術出版),『十一面観音像・
千手観音像(日本の美術311)』(至文堂) ほか多数
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