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強く、優しく。
強く、優しく。 理事長補佐 二 杉 孝 司 マタイによる福音書 7 章 7 節 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。 門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。……」 今年の1月に亡くなった詩人の吉野弘に、「夕焼け」という詩があります。 若い娘が、満員電車の中で、お年寄りに席を譲る話です。いや、二度席を譲 りますが、三度目には譲れなくなってしまった話です。今日は、この詩を素材 に、本学の教育スローガン「強く、優しく。」の意味を考えてみます。 まず、少し長いですが、詩を読みます(吉野弘『現代詩文庫12吉野弘』、 1968年、思潮社、44・45ページ。改行を/で示す)。 いつものことだが/電車は満員だった。/そして/いつものことだが/若 者と娘が腰をおろし/としよりが立っていた。/うつむいていた娘が立っ て/としよりに席をゆずった。/そそくさととしよりが坐った。/礼も言 わずにとしよりは次の駅で降りた。/娘は坐った。/別のとしよりが娘の 前に/横あいから押されてきた。/娘はうつむいた。/しかし/又立って /席を/そのとしよりにゆずった。/としよりは次の駅で礼を言って降り た。/娘は坐った。/二度あることは と言う通り/別のとしよりが娘の 前に/押し出された。/可哀想に/娘はうつむいて/そして今度は席を立 たなかった。/次の駅も/次の駅も/下唇をキュッっと噛んで/身体をこ わばらせて――。/僕は電車を降りた。/固くなってうつむいて/娘はど こまで行ったろう。/やさしい心の持ち主は/いつでもどこでも/われに もあらず受難者となる。/何故って/やさしい心の持ち主は/他人のつら さを自分のつらさのように/感じるから。/やさしい心に責められながら /娘はどこまでゆけるだろう。/下唇を噛んで/つらい気持ちで/美しい 夕焼けも見ないで。 娘の「やさしさ」に心温まる思いを持った人がいるでしょうか。その人たち には、これからの私の話は期待を裏切ることになります。 ― 41 ― 宇佐美寛という教育哲学の研究者がいます。私が最も尊敬する教育学者です。 宇佐美氏が、この詩の話者、話し手ですね、「娘」の「受難」と「やさしさ」 を話す「僕」のことですが、その「僕」を批判しています。「僕」が「娘」の つらさを見ているだけで、何もしないからです。 確かに「娘」がつらい思いをしているのに、「僕」は、娘に代わって席を譲 ろうとはしません。「僕」は立っているのかもしれませんが、それなら優しく 声をかけてあげれば、「娘」も少しは気楽になったかもしれません。しかし、 そういうことは何もせず、「僕」は傍観者であり続けます。 宇佐美氏は、「『僕』自身は、『優しい心』の持ち主なのか」と問い(宇佐美 寛『宇佐美寛・問題意識集 4 』、2001年、明治図書、17ページ)、こう言います (同上)。 「『僕』は『他人のつらさを自分のつらさのように』感じているか。もし娘の つらさを自分のつらさのように感じているのならば、なぜ『僕』は何もしない でいられるのか。」 そういう「無責任」な「僕」に、この「娘」のやさしさを語る資格があるの か。宇佐美氏は、このように「僕」を批判します。 宇佐美氏は、「娘」についても言います(同上。改行を/で示す)。 「『娘』の感情過剰ぶりはどうだ。一人前の人間たろうとするものは、公衆の 中で『下唇をキュッと噛んで身体をこわばらせて』などという有様をさらして はならない。/思い通りにならぬこと、まの悪いことなど人生には、いくらで もある。」 私は、宇佐美氏の言う通りだと思います。宇佐美氏の「夕焼け」批判に反論 している人もいますが、私の見るところ、反論はあまり成功していません。 しかし、「夕焼け」は人気があります。その理由は恐らく、 「娘」のような体 験、つまり、周りの目を気にして自分の意思を貫けなかったという経験が誰に もあるからでしょう。それはわかります。しかし、そうだからこそ、そういう 「弱さ」を無条件に許してしまうこの詩を私は好きになれません。こういう「や さしさ」が、私は嫌いです。 私の見るところ、この詩の「僕」は、不思議なことに「娘」が席を譲れない から、つまり「弱い」から、「娘」を「やさしい」と言っているのです。 ためしに、「娘」がもう少し強かったらどうなるか想像してみましょう。三 度も席を譲るのは恥ずかしい。それでも、立っているお年寄りのつらさを思う と、「娘」はつらくなる。そのつらさに耐えかねて、気力を振り絞って「娘」 はお年寄りに席を譲る。そして、窓の向こうに広がる夕焼けの美しさに、思わ ― 42 ― ずニコリとほほ笑む。 こういう強い「娘」に、「僕」はやさしさを見るでしょうか。三度目も席を 譲っていたら、この詩は生まれなかったでしょう。なぜなら、それでは「われ にもあらず受難者と」はならないからです。不思議なことに、娘は席を譲った から「優しい」のではありません。席を譲れなかったから「優しい」と、この 詩は「娘」を褒めているのです。 この詩に限らず、「やさしさ」という言葉には、「弱さ」が張り付いているよ うに思います。これは偶然ではありません。 「優しい」という言葉の語源は、 「痩 す」という言葉、太る・痩せるの「痩せる」つまり「痩す」だそうです。「痩す」 べき状態、身も細る思い、ですね。そういう恥ずかしい状態にあることが、 「や さし」のもともとの意味です。 その後、「やさし」の意味は変わります。恥ずかしげな様子が奥ゆかしく思 われるようになり、「優美さ」や「優雅さ」というプラスの意味に変わります。 「情け深さ」とか「思いやり」のある様子とかの意味を持つ、今日の「や さらに、 さしさ」という言葉になりました。 「身も心も細る思い」の「痩す」から始まった「優しさ」という言葉が、「強 さ」とは無縁で、「弱さ」と相性が良いのも当たり前です。 念の為に申し上げますが、「弱さ」そのものがよくないと言っているのでは ありません。私には、勇気がなくて自分の意見を言えなかったり、怠け癖のた めに為すべきことをしなかったりという恥ずかしい思い出がたくさんありま す。思い出しては顔を赤らめます。こういう「弱さ」は、私だけのものではな いでしょう。 しかし、自分や他人の「弱さ」を認めることと、そういう「弱さ」を「やさ しさ」として褒め称えることは全く別のことです。 幸なことに、本学の教育スローガンは「強く、優しく。」です。「強さ」に裏 打ちされて、初めて本物の「優しさ」になるからなのでしょう。御清聴ありが とうございました。 2014年 6 月18日 朝の礼拝 ― 43 ―