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Page 1 不 ン ド を 旅 し て (その1) (1) 国際地理学会への参加 本年1月9
イ ン ド を 旅 し て(その1) 高 野 史 男 (1) 国際地理学会への参加 本年1月9日から16日まで8日間,インドの首都ニューデリーから約100km程東南にある小都市 アリガールの回教大学で国際地理学会が開催された。集つたのは地元インドを始めアジア,アフリカ ヨーロツパ,アメリカなとがら18ケ国,約250人程の学者及び学 生 で , ① 水 力電 源 開 発 ② 土 地 利 用調 査 ③ 国 家 再 建 にお け る地 理 学 の地 位 ④ 大 学 に お け る地 理 教 育 ⑤ 人 口食 糧 間 題 ⑥ 乾 燥 地 域 ⑦ 地 理 学 と 人 種 主義 ⑧ 気 侯 変 化 の8 つ の テ ーマ につ い て 終 始 まじ め な発 表, 討 論 が 行 わ れ,極 めて 盛 大 かつ 成 功 裡 に閉 会 し た。 こ の 学 会で 注 目 すべ き こ と の 一つ は 共 産 圏 諸 国 が 比 較 的 多 数 の学 者 学 生 を送 つ て 活 躍 し た こ と, 他 は 匡│際 ア ジ ア ー ア フ 万力地 理 研 究 協議 会(International Counci 畆n Geography 写真1 国際地理学会会場 こ とで , こ のICSAAG 略 称ICSAAG 囗or the Studyof Afro-A ) が結成さ れた は 今 後 の 世 界 の地 理 学 界 の 動 き に ど の ような影響を もたらすか,興味あ る間題で あろ うっイ ンド 側で はア リガ ール大学 を挙げ て歓迎陣 を設 け, 心温まる親切な もてなしをして呉 れた。 世界の地理学界 におけ るイ ンド地理 学の水準は必ずし も 低くはなく,多 数の地 理学者が種 々の 困難 な条 件に も拘 らず, な齒 なか優 れた研 究をしているのには 敬 意を表 すると共 に, この学会に唯 一人の 日本人 として出席した 筆者 は,我 々日本の地 理学者 ももつ と広い視 野を持つて努力しないと後 れを取 るお それがあ ると痛 感さ せられたのであ るっ (2)ニューデリーの印象 学 会のあとイ ンド匡│ 内を約3 週間余 り旅行し た間の見聞 を印象 に殘 るまx 書いて みよう。先 ずイ ン ドの首都 ニューデリーには最 も長く滞在したので一 番印象が深い。 この ニュ ーデ リーは19n 年, 時の 英 匡│ 王 ジョ ージ5 世の命によ り建設が始 められ, 1931 年に完 成して旧 都カルカッ タから新都への遷都 が行 われた。 デリー地区一帯 は紀元前約1000年 頃から既 に幾多の王朝 に よつて度 々首 都に選ばれた極 めて古い歴 史的 伝統を持つ てい るので ある。最後の王 朝たる ムガ ール帝 国は16世紀以来 ここに首都を 置い たが,漸 次イ ギ リス勢 力の侵略す る所 とな \), 1858 年遂 にその支 配下に完全 に人つ た。 イ ギリス はカルカッタ を英 價イ ンドの首 都としたのであ るが, 前記 の如 く, 1911 年 デリー市街南方 に接する地 域に新たに全 く計画的 に首 都を建設した ものであ る。 聖なるジャ ムナの岸辺に位し,東南 に進めば豊 沃なガ ンヂ ス平原 を手中 におさ め, 西南に向えばイ ンダ ス平原 及び ボンベイをおさえ ることを得,背 後には西北に パンヂャブの沃野,東北 に越え饋 きヒマ ラヤの峻 険を控えてい るデリ ー地 区の地理的 位 謾こそばインド全 域を政治的 に支 配する“ かなめ”と もい うべく, 歴史上しば しば首都に選ば れたの も故なしとしないので あ り,新生独立イ ンドの首都とし て もこの古 くしてし か も新しい デリーは誠に ふさ わしい土 地たとい わねば ならない。 デリーと ニューデリーとは市街は切 れ目 なく連続してい るが, これは全 く別物 とい つて よい。 デリ ーの方は ムガ ール王 朝時代の王 城た るレ ッドフォ ードがジャ ムナ河の西岸に城壁 をめぐらして厳然と ― 48 ― か ま え て い るそ の 西 に発 達 し た 城 下 町で あ つ て , 中 匡│の 市 街 な ど と 同 じ く そ の 周 囲 は や は り城 壁で か こ ま れ処 々に カ シュ ミ ール 門 , デ リ ー門 な ど の 城門 が あ る。 レ ッ ド フ ォ ード は1639 年 ジ ャ ージ ャ パ ン 帝 に よつ て建 設 さ れ た もの で , 赤 色 砂 岩で 築 か れ て い る の で そ の名 が あ 仏 そ の 美 し い 壮 大 な城 壁 は 世 界で も最 も 印象 的 な 城 壁 の 一 つ と い わ れ る。 西 面 す る正 門 の ラ ホ ール 門 を 入 ると 城 内 は ムガ ール王 朝 の遺 蹟 写 真2 デ リ ー フ オ ー ド の ラ ホ ー ル門 に満 ち, 緑 の 芝 生 や 木 立 の見 事 な 庭 園 に か こ ま れ た 総大 理石造 りの美しい回教建築 の数 々, 殊に宝 石 をち りば めた官殿, 後宮,妃達の豪華 な浴場など鵞 くべ き もので ある。 その一つ デイ ワ エーハ ース宮の内壁 には 有名な“ もし地上 に楽 園あ りとせば,そは ここな り, ここ な り, ここな 回 とペル シャ文字 の彫刻 が見られ るが, むべなるかなの 感があ る。 ラホール鬥 を出て西に真直 ぐ向うと, 大手通 りは即 ち チャンド エチョ ークであ る。 この通 わはデリーの銀 座に当る繁華街で,代 々の ムガ ール皇帝 たちが 華や か 写真3 デリーフオート内の宮殿 な行列 を練つ た通 りで あ り, ア ジア各地 の商人 を集 め当 時世界一 の富める市街で あつたとい われる歴史的 な町で あ る。しかし今 はた だご みご みした狭い道路で,歩道と い わず車道とい わず露 店で うず まつてい る。食べ物,果 物, 野菜,衣料,神 像, 装飾 品, 食器などあらゆる もの をや かましい叫び声 をあげ ながら売つている。交通機関 が 新旧様 々で, タ クシー‥ 罵車, リキシ ヤと呼ばれる輪 タク,自転 車, それに木箱 のような市電。牛 の群 が道 路 写真4 チヤンドニチョ ーク街 いた る処 にのさ ばつ て悠 々と遊 んで 居り,牛 と人間 とが 雑 居 し て い る形 で , そ れ が 町 の 雑 諧 を激 し く し て い る。 道 路 は 牛 馬 の糞 尿 や ら ゴ ミ辛 らで ひ ど く き た な く くさ く, 売つ て い る食 物 な ど の上 に は ほ こ りゃ 物 凄い 蠅 の群 が舞 う。 人 々は何 か そ こ らで 買 つ た り, 立 食 い し な が ら 歩 い てい るが , そ の 人 の 多 い こと , や か ま しい こ と, き た ない こと , せ まい こと , 何 と も形 容 の出 来 な い 町 で あ る。 デ リ ーの 市 街 は地 図 の 上 で 見 て も わ か る 通 りに, 迷 路 の よ うに 曲 り く ねつ た 不 規 則 な 狭 い 道 路 の 両 側 は 二 階 三 階 四 階 建 の 煉 瓦造 り のご てご て と 飾 りの つ い た 建 物 が び つ し りと 密 集 し て お り, ど こに 行 つ て も人 が 群 つ て居 り, 何 か し た り何 も し ない で 坐 つ て い る 。 外 匡│人 は殆 ん ど 見 か け ず, き た な い 布 や毛 布 を身 体 に 巻 きつ け た イ ンド 人 ば か りで , 全 休 が 何 か ス ラ ム街 めい て筆 者 な ど も小 路 に 迷い 込 む と余 り気 持 が よ く な かつ た。 デ リ ーは 全 く の イ ン ド 人 の 町 , 消 費 都 市, 商業 者5市で あ り, 恐 ら く 何 百 年 前 の 姿 と 余 り変 ら ない ので は な か ろ うか 。 こ れ に 対 し て ニ ュ ー デ リ ー の 方 は 全 くの 新 し い 計 画的 政 治 都 市 で , そ の 設 計 は放 射 状 道 路 を基 本 形 式 と し て い る。 基 準 に な る の は 大 統 領 官 邸 ( 旧 総 督 官 邸 ) 及 び 中 央 政 庁 か ら真 東 に延 び てイ ン ド門 ( 第 一 次 大 戦 記 念 凱 旋 門 ) 及 び ジ ョ ー ジ5 世 像 に至 る キ ン グ ス ウェ イの 大 通 りと , そ の真 中で こ れと 直 交 す る クイ ン ス ウェ イ と で あつ て, 処 々に 大 き な ロ ー タ リ ー式 の 広 場 が 置か れ て道 路 は全 て こ れ か ら 放 射状 に6 本 宛 出 て い る。 こ の広 場 の 内 , クイ ン ス ウェ イ を 北 に つ き 当 つ た 処 に あ る コ ン ノ ート広 場 一49 一 ぱ鏝 大の広場であ ると共 にこの地 区は ニュ ーデリーの 商業地区で, 中心に広 い芝 生の公圉があつ てそれを取 り 去いて円形 の商店街があ り, 広場に面し て円柱を荳 べたア ーケードの下 をそぞ ろ歩 く人 々はさつ ばりとし た身 な りの インド人と外国 人で ある。大体 ニューデ リ ー市街は この地区 を除 くと官庁, 事務所,学 校, 高級 住宅,ア パートで 占められ, 広い敷地 をゆつ た りと占 めた美しい建物が整然 とならび, オフイ シアル クオ ー タ ー及び 中産階級( 主として官吏)以上 のインド人や 写 真5 ニ ユ ーデ リ ーの イ ン ド門 外囚 人の居往地区と なつ てい るので あ る。 ニュ ーデ リーの巡路 ぱ皆広 々として居 り,叉見 事な街路樹 を持つていて強い日射し を遊け る よい木蘂 を造つ ている。 中で もキング スウェイは巾400∼5つOmもあ る広 い公国の ような通 りで両側に は見亊な芝生 と細長い池が並 行して走 り, この辺 の眺めは日本など には見られない犬睦的な皐大さ を持ち,誠 に気持が よく, ニューデリー市民の憩いの場所 となつてい る。毎 年1 月26日の共 和囚記 念日( 狼立記念日)に はイ ンド軍がこの キング スウェ イから コンノート 広場を経てチ ヤンド ニチョ ーク街に至 る間 を款車隊に始つで芭彩 豊かな軍楽隊や 槍騎兵 など草かな隊 伍 を盤えて行進する。 筆者 も丁度 このパレ ードを見 る機会 を得 たが, 時季は正 に北 部イン ド最良の季 節で 気卮 も快適叉乾燥していて 日本 の秋の ようなさ わや かさで あ り, 田合 から出 てきたお上 りさ んな ので は な ぐ 目 ら の 劈 力 に よつ て か ち 騏 る べ き も ので あ る … … … ” の 銘 が刻 ま れて い る の は正 に 独 立 イ ン ド国 民 の 意 気 を 胯 ら か に 示 し た もの と し て 筆 者 に は羨 望 の 念さ え 感 じ ら れ た。 敗 戦 後 タ ナ ボ タ式 に 自 由 を 与 え ら れた 日本 人 に は 痛 い 所 を衝 か れた 思 い もす る 匸 匡│家 の 指 導 者 と し て の 才, − ル 首 相 に 対 す る全 匡│ 民 の 信 頼 は 誠 に 厚 く, 誰 一 人 と し て ネ ール の 悪 口 をい う人 が な い。 叉 ネール も そ の 信 頼 に 値 す る だ け の 高 い 人 格 と 手 腕 と 精 力 と を 持 ち合 せ 写真6 ニユーデリーの中央政庁 てい る ので あ る。 だ か ら こ そ政 府 の指 令− 下 , 相 当 強 力 な施策,例 えば禁 酒令( 州に よつ てその程 度は様 々で ボンベイ州の如 く全 くの禁 酒 もあ れば週一 日の 禁 酒デーの みの 州もあ るが漸 次全 面的 な禁酒 に持つて 行き全土 からアル ==・ −ル を追 放す るとい う) や 農地改革,五 ヶ年 計画, 保険会社の国 有化の ような社会 主義 的な政策 も実行し うるのであ ろう。 イ ンドの弱点 は理 想は高く国民は 意気 に燃 えてい るけ れど も経済的実力が これに伴 わない ことであ る。 デリー, ニュ ーデリ ーなどは商業 都市, 政治都市であ るか ら当然 か も知 れないが, 合せて人 口175 万を持つ この首都が殆 んど工 場らしい工場 を持つて いないの は驚 く。 高 く煙 を上げ てい る大 きな 建物が遠望さ れたのは 火力発電所であつ た。 インドで も螢 光燈が使 われてい るがこれは多 くオ ランダ 製などの輸入品で ニュ ーデリ ーの店頭に見 られる商品に も写真機 などは勿論,缶 詰, 薬品 など高 級品 は多く外国製品らし かつ た。 ただ繊維製品, 陶磁器,靴 などは殆 んど国産品で‥ イ ンドの国産奨励 は 先 ずこの ような生活必 需品から始つて段 々に高度の製品に まで 及びつ つあ るらしい が未だ未だで,今 の処政府は農村の家内 工業 にかな り力 を入 れている段階 のようで ある。 イ ンドエ業 にとつて最大 の悩 -50- みは恐らく資本と技術のないこと,殃に機械類と技術者を殆んど外国に仰がねばならないことであろ う。このような経済の後進性にも拘らず,インドが国際社会に大きな発言力をもつているのは誠に驚 くべきことで,賢明な指導者の有無が如何に国の力を大きくも小さくも見せるかには我々日本人とし て随分と 考えさせ られる一事であ る。 デリーとニユーデリーは前にも書いた通り全く性格の異つた町であり,デリーがどちらかといえば 下層インド人の町であるのに対してニユーデリーは中層以上の階級が多いように見うける。それは二 ユーデリーが政治都市であり官吏などが多いからである。インド政府はこの上層と下層の階級差の余 りにもびどく,中産階級の少いインド社会の欠陥を是正するためになるべく中産階級を育成しようと している如く見える。その第一がこの官吏であり,従つてインドでは官吏がずい分優遇され幅をきか せている。高級官吏になると相当高給を貰い立派な官邸に入つて大したものらしいが,それ程でなく ても一般官吏は安い家賃でアパートに入居でき,一般の生活水準よりかなり高いようである。ニユー デリーは唯一の交通機関たるバスの発達が貧弱で,市域は馬鹿にだだつ広いので官庁などに勤める人 々はよく自転車を利用する。朝の通勤時のニユーデリーの大通りなどこの陸続とつづく自転車の行列 が物凄いばかりで実に壮観である。処が一般市民はこの自転車さえ仲々買えないのである。 (3) アリガール回教大学にて 国際地理学会の開催されたアリガール回教大学はベナレス大学,ハイグラバード大学,シヤンテイニ ケタン大学などと並んで国立大学(といつても日本の国立大学と異り,イギリス式の大学資金委員 会から国家の補助金を受けるもの)の一つであり,かなり大きい大学である。アリガール駅をはさん で西側に市街があり,東側は殆んど全部大学の敷地で占められ,広大な敷地の中に大きな煉瓦造の建 物がゆつたりと構えており,芝生や花園などが美しく,誠に学園の雰囲気満点という処で,せせこま しい処にきたない木造の建物をごちやごちやならべた大学の多い日本にとつては羨しい程である。こ の大学は神学,芸術,理学,工学,医学の五学部から成り約5000人の学生がインド各地から集つてい る。回教大学といつても,もちろん回教徒だけではないが,日本にもあるキリスト教の大学などと同 じく回教の礼拝堂(モスク)が学内にあり,回教神学やイスラム文化 の研究にはかなり力を入れている特色のある大学である。 この大 学 は 他 の 大 手と 異 つ て 男 女別 学で 女 子 の た め に は 別 に 女 子 大 学 が 附 属し て い る。 黒 い コ ー ト の よ うな 長 い 上 衣 と 白 い 細 い ズ ボ ンの 制 服 を着 た こ の大 手の 学生 は 皆 と て も真 面 目 ら し い。 大 学 の 授業 料 は 月15 ル ピ ー(1 ルピ ーは 約75 円 ) 大 学 院 が20 ル ピ ー, 一 月の 学 費 が 寄 宿 舎 で60 ル ピ ー, こ こら は 日本 と 大 差 な い よ うで あ る 。 新 学 期 は7 月中 旬 か ら 始 つ て4 月 中 旬 に 終 り,4 月∼7 月 は夏 休 暇 ( こ の 頃 が 最 も暑 い ) , そ の 外 に10 月 に 半 月程 ,12 ∼1 月 の 年 末 年 始 に 半 月 程 の 休 暇 が あ る。 イ ンド で は小 学 校4 年( 義 務 教 育 ) 写真7 アリガール回教大学 , 中学 校6 年 , 大 学4 年 で , 義 務 教 育 年 限 は 日 本 よ り は大 分 少 く 又全国民の何%が教育を受けているかは疑問で,この点にインド今後の大きな問題が横たわつている というべきであろう。日本では入試問題が学校教育の癌になりつつあるがインドでは特殊な工学部な どを除いては入試錐などはないようである。又大学の数が少いことにもよるが大学を出れば就職難と いうことも余りないらしいから学生も日本よりものんびりと勉強しているようである。しかし前記の 如くインドの大学生は享楽的な処は少しもなくきわめておとなしく又真面目に見える。それは結局生 活態度の問題であ り, 大学生の みならす インド人全 休の生活態度がそ うなので,享楽的な面はで きる ― 51 ― だけ切りすてて無駄をはぶき国家の再建に努力しようということと私などは善意に解釈している。貧 乏国のくせにやたらに享楽的な方面ばかり発達してゆく日本には,洒ものまずに頑張つているインド 人は大いなる手本であろう。ただインド唯一の娯楽は映画で,映画だけは大衆娯楽としてかなり普及 している。大学生に聞くと月二回位見るとのこと。インド映画は歌と踊りが必ずつきもので大体余り 現実性のない夢物語が多い らしいが,唯 一の大衆 健全娯楽としては それで よい のだろ う。 しかし私か見たJhanak Jhanak Payal Baaje などは色彩映画で実にきれいであり,テンポのの ろいのが我々には一寸あきたりないが,映画技術の点からはインド映画もなかなかよい所があると思 つ た。 アリガール大学では学生の80%までは寄宿舎に人つている。学生生活を快適なものたらしめるクラ ブ,図書館などの施設はよく整つて居り,クリケツト,テニス,バドミントンなどのスポーツも仲々 盛んなようだつた。しかしインドの大学生も経済的には苦しい者もあるとみえて,アルバイトなども いろいろ行われており,学生自身の経営による消費組合も或る程度活動している。国際地理学会の開 催期間中,全学を挙げて歓迎し学会の成功のために協力して呉れたこの大学の学生諸君の真面目その もののような顔付を思い出すとインドの将来も又頼もしい気がする。 (4)ムガール帝国栄華のあとアクラ デリーから約180km東南方,同じジヤムナ河のほとりにムガール帝国の旧都アグラがある。アグ ラといえば夕−ジマハールを思わぬ人はあるまい。こ のタージマハールはムガール王朝最盛期のシヤージヤハ ン帝(1628∼1666)が帝に先立つて死んだ愛妃ムン タズ=マハールのために建てた墓で, 1630年工を起し 22年の歳月と数千万ルピーの巨費を投じて完成した。 内部 には中央 に王 妃の墓 があ りその脇に 皇帝 も死後合 祀さ れてい る。白亜 の大理 石の王冠状大ド ーム( 高さ 地上から240 呎)が四方 を小塔 にかこ まれて青空 にひ つ そりと漂 う如 くそび えてい る姿は,前庭の細 長いプ ールと芝生と糸杉の シンメト リカル な配置と調和して 写 真8 ア ク ラ の タ ージ マハ ール 誠にこの世のものとも思われない美しさである。このインド第一の名所の名前を知つたのはたしか筆 者が中学時代であつた。東洋史の教科書の口絵に載せられていた夕−ジマハールを見てその異国的な 様式美に打たれたものであつた。その月光に映える夕−ジの美しい姿は我々にとつては夢幻の世界の ものでしかなかつた。しかしそれは現実に存在していたのである。しかも多くの夢は幻滅の悲哀を感 じさせるものであるのに,正面の入口を入つて行つてこのタージの姿を一目見た時に私は声をのんだ。 いかにも美しい。我々が日本に持つ奈良の古寺や日光の美しさとは全く如何なる点でもちがつた美し さである。夢は現実であつたのだ。しかもこのタージは遠くからでも近くからでも,表からでも裏か らでも又右左いずれからでも変らぬ美しさを見せる。それは完全な調和美であり様式美であるからで あ る。 タ ー ジ そ の も の は白 一 色 に し か す ぎ ない ので あ るが 。 内部に入ると内陣の中央,皇帝と妃の“ひつぎ”の置かれている処は四方の大理石すかし彫りの明 り取りからの光も殆んど入らず真暗である。案内人の差出すローソクの光に宝石をちりばめた豪華な “ひつぎ”が浮び出る。本当の棺はこの地下にあるという。案内人が“オーツ”と大声を上げる。と その声が高いはるかなドームに反響して静かに吸い込まれる如く消えてゆく。ここは黄泉の国である。 タージの裏はすぐジヤムナ河の聖なる流れに臨んでいるが,ジヤージヤハン帝は対岸に自分の墓を 一52 − 造り,この両者を橋で結ぶ計画をしたが果さなかつた。アグラ市街に接してデリーのものに似たレツ ドフオートがあるが,ここはアクバル帝が建設し, 1600年にラホールから都を遷した処で,その後ジ ヤハンギール帝を経てジヤージヤハン帝に至る迄ここがムガール帝国の首都であつた。ジヤージヤハ ンは後アグラからデリーに都を遷したが,晩年はその子アウラングゼブによつてアグラのフオート 内に幽閉された。彼はフオート内の宮殿から約1哩へだたるはるかなタージを日毎ながめて愛妃をし のんだといわれる。フオートの内部はデリーのものと同じくジヤージヤハンの建設になる幾多の豪華 な建築物で満たされ,在りし日のムガール帝国の栄華をしのばせる。ムガール帝国はアウラングゼブ の死後実質的に崩壊したが,それにはタージを始め多くの土木建築を起して人民をその負担に堪え難 からしめた圧制が原因のーつに数えられよう。今残る美しい建築物の土台の下にこれら人民の苦しい うめきの声が秘められていることを思う時,美は単なる美ではなく,芸術は単にすばらしいタージを 設計した技術家のみのものでないことを深く考えさせられる。アグラ周辺にはこの外フアテープルシ クリーの廃都,シカンドラのアクバル廟,イテイマードウツダウラの墓など多くのムガール時代の美 しい建物が残されているのである。 (未完) 一53 −