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■ 雪ア雪一室言 一F 輪 国腿 ■■ a 母 ● 単 石 文米 n J 、 L _ } 幸 民 ■ 横 訂守 ■ d b 田 #藤 ノ、、、 縫 探 訪 、米山石文探訪 棚田看山 米山石文・職探訪 一一、米山の書の方向 三、米山讃歌 四、米山職探訪 五、いしぶみガイド三輪田米山瀞遊改訂版補遺 目次 2 1 8 1 9 2 4 3 7 6 2 6 4 六、米山没後百年展前後 七、米山年齢早見表 BO 米山石文探訪 日本 ;書 :芸 :院 I 米山雄大・純朴の書より いしぶみガイド一一一輪田米山瀞遊著者横田無縫 す。新たに住宅地図を入手し、所在地を記入しながら全部を 廻りました。初めて米山の書に出逢ってから、詳しい米山石 私が米山の書に初めて出会ったのは、高校時代︵昭和三十 内地図さえしっかりしていれば、すぐに見つけられ、自由に 米山の書は百点以上も野外にあるという希有の例です。案 文地図を完成する迄に四十年もかかったことになります。 三年頃︶の書道の教科書に出ていた﹁無為﹂でした。飛び散 見て触れて、誰でも楽しむことができます。拓本も採ること はじめに った墨が印象的でした。その真跡や石文を直接見ることがで ができるのです。多くの人に味わって欲しいと思っています。 北九州からの米山石文探訪は、松山観光港に朝五時に着く 一、森をめざして いつ見ても、何度見ても、心を揺さぶられます。 きたのは、二十年も経った昭和五十三年頃、浅海蘇山先生の お宅を訪問するチャンスを得て、多数の書を見せていただき、 坪内龍泉氏にいくつかの石文を案内していただいた時でした。 その奔放さに〃ただ者ではない〃と驚嘆したものでした。 他を得ることができました。それから十数年。平成二年の四 フェリーを利用し、直ぐにスタートして夕暮れまで、長い一 また数年が経ち、数点の拓本﹁鳥舞・魚躍﹂﹁上善・如水﹂ 国旅行の折、惣河内・三島・天満・日尾八幡・井手・伊謙豆 日を活用しました。それはまた、色々な喜びを味わうことに ﹁三﹂がシルエットとして浮かび上がり、感激のうちにシャッ 称︶の三島神社では、石鎚連峰より朝日が昇り、神名石の 松山観光港から一時間ほど車を走らせた、周桑郡関屋︵旧 なりました。 比古命の各神社 を 廻 り 、 そ の 新 鮮 さ に 再 度 感 激 し ま し た 。 縁とは異なもので、翌夏、川之江での紙漉研修の機会を得 ての帰路、知っている米山石文を案内することになり、更に 客・高井八幡・龍の各社に行くことができました。 ﹁客天満宮﹂の巨大な碑と、拝殿の奥に掲げられている神 本格的に米山の石文探訪の旅を重ねるごとに、既刊の石文地 査・撮影することを、友人と共に決定しました。それ以後、 気に魅せられてしまいました。その折、米山石文の全てを調 当て、米山の碑があった時の喜びは表現できません。しかも、 静に森を探します。こんもりしたあの森に違いない!と探し 神社を探しきれないことも多々ありました。そんな時は、冷 また、薄暗い中、道を見失い、近くまで行っているのに、 ターを押しました。 図より更に詳しい案内地図の必要性を強く感じました。かな そこには昔の記憶の中の風景l日本の原風景lに出会うよう 名木額の大胆極まりない書と、絵馬に囲まれたその場の雰囲 り詳しい地図上にも目標の神社名が載っていなかったからで 2 な懐かしさがありました。米山の碑を探すことは、日本の原 脅 風景を訪ねる旅でもあったのです。一つ、また一つと発見す た。また鎮守の森に生気が蘇ってくるような感じをも受けま した。 村や街の個人や神社に、米山の書いた職がたくさんはため カメラ るたびに感激しました。そこには巨大な岩に立ち向かった ︵机上の作品ではない︶米山の姿を感じました。 また太陽が昇り、石文に具合良く光が当たると、石の肌が 浮き立ち、害の形や彫りの力強さなど、バランスが最高の状 態になります。その瞬間などは、ほとんど涙が出るほどでし た。やった−とも叫びました。 また、探して尋ねて山の上。恩地の厳島神社は、やっと見 つけたという安堵感もあってか、静かで、風の音しか聞こえ ません。小高い草むらには、小振りな自然石の戦勝記念の碑 と、米山の﹁大巧・若拙﹂の鳥居がポッンと建っていました。 胃f 3 福水神社注連石「書」 く夢を見ます。自宅の書斎では、﹁敬神﹂の職を巨大暖簾にし I■ l て、楽しんでいます。 “l﹃ 鱗北 暖簾「敬神」 z‐只一-、只 ー 小さな赤いトタン屋根の神社が道を隔ててありました。鳥居 の前に立つと、よろよろとした細い一本の道が見えました。 ああっ参道だったんだと気付きました。左側の少し高くなっ た所に小さな石仏がひとつ。何かゆっくりした気分になりま した。次第に空が赤味を増し、しばしの間、美しい夕焼けに U, 浸りました。美しい思い出の一コマです。 お遍路のように、米山碑を求めて伊予路を何度もへ巡り、 森を見つけるごとに違った米山に出逢えました。これは実物 の碑の前に立ち、良い条件で見て、石に触って、写して、拓 してこそ感じられることだと思います。是非、多くの人々に その喜びを感じて欲しいと思っています。 中島の忽那島八幡宮の注連石﹁年豊・民楽﹂の周囲は、古 い昔の参道風景が色濃く残っていて、懐かしく、足にやさし い所です。 はるばる訪ねた井内の森に、職がはためいているのに出会 った時は、私達を迎えてくれているような気分を味わいまし 弓 三輪田米山涛遊出版前後 が真っ直ぐ立たない所も多かった。3mを越える自在な一脚を作った事で カメラと身体の安定をえて、格段に進歩した。そして、石碑の方向と光を 追ってのハードな移動となった。時間が無く全く観光はできなかった。 唯一憩えたのは暗くなってからの、今は無い薦の子温泉だった。遅い夕 米山の石文探訪は、自分達のための役に立つ地図作りからスタートした。 松山の概念地理さえ頭に無い私達には、先人の作られた大雑把な石文地 食の後迦時のフェリーに乗り、朝5時小倉港に帰着し勤務校に直行すると 長期休暇の時は、島や遠距離を巡ったり、採拓した。そんな多忙さに意 図では巡ることはできなかった。その頃やっと一般化してきた住宅地図を うかと、話がまとまり本格的にスタートした。地理を知らないからスター 気を感じていたのかも知れない。松山の風土や日本の原風景に触れる旅も いう生活だった。 トできたし、小倉からのフェリーがあったのも幸いした。日曜日しか無い 心地良かつた。また明治を考え、米山や石工の気迫を感ずることも楽しか 入手して、地図精度は格段に進歩した。ここまで来たらガイド本でも作る ので早朝5時に松山に到着したことも、長い一日が有効だったp った。一転してヤマメを釣りその場で塩焼きにして食したことも、朝日や 何度も東京に行き、三輪田 を探訪している⋮。 かも知れない。今も米山の職 調査、地理凡写真と役割分担して、初めからやり直し夢中だった。先ず 、 した。﹁松山人じゃなく九州 かったので早速お宅にお伺い 愛媛新聞に掲載された。嬉し ﹁三輪田米山瀞遊を読む﹄が 月程経ってから鴻池楽斎氏の りませんでした。唯一、三ヶ や訂誤でした。書家からはあ た。載せてない碑のニュース 沢山な方々から手紙を頂戴し 米山瀞遊を出版したところ、 一 望 昌 一 一 一 人がねI!﹂と歓待していた だいた。 ※米山の石文や職は、誰にも 断わらず、入場料もいらず、 日本の原風景の中で、自由に 見て触れて楽しめる、希有の 存在。松山の宝です! p▲▼●① 4 夕焼けに感じたことも思い出の中。探して訪ねる旅が本姓に合っているの 『 石文の方位を測った。それまでの写真は光に鈍感だった。足場が悪く脚立 愛媛新聞 平成6年9月27日(火) 19面 棚田メモ 戸 P ノ ? 零 二 ’ 。 V I F l j f し 、 _ , 〔 犬 熟I 評薙 -殿輔鋤‘嘘* ”1 罰14岨、 舜 愈 = 一へ一ヘーー〆、 、 T !え穿晶.tぃらっ 1ワ﹃ 』 、 弱 峰緋《く ぁ / 倉 輸涯…勘 字〆 . " ィ乎豊ウ 'ブス/煮 や露z7,W《…海蛎補 稲、姫冒 農”…(す仏とむ助沌 秘憾禽〕。痢嘩 w?z瀦卿?5’ 論難ジ.。野… 〆言--一一一−一・一一一一一一 _、”蝉I Ff.., ︲,︾ ∼ ∼ − − ・ = ∼ 全 一 ノ | ︷ ︿惚気 、 』一手1 I f,いず〆令、 十溺蔑鞠 、 党側もf噸向斜〃獅虎訓刊 譜機熱戦恥 鐸 熱総が、馨 広い席w,謬饗 『。* 蟻 列 I閏令q4く︲ 11 11 ・ 笠 ク ’ 1乳I ロ 認 アノ 入山作図 1 Eけ 徴 1 剛舟︿崎軸 β/ り〆 7 C 「 し [〆 画風国・亘画 「 岬 、 ( 0 ( 岬 5 U1 二、代表的な米山碑の書 。 拓 忽那島八幡宮注連石周囲 拓本となると、採拓者の拓技は勿論のこと、その人の思い 鑑賞者の想いとの一体感が必要なのです。 み出すのだと思います。更に、時と自然︵場所や光など︶と ちらが上でも下でもダメで、お互いが理解し合って名品を産 石碑︵石文︶というものは、害者と石工との合作です。ど みにして、ここでは取り上げていません。 せん。また他所にも多数存在していますが、著名な墓誌銘の 墓石は一墓地に多数あり、その数を確定することはできま 他に職立石等々多岐にわたっています。 ⑭百度石︵1︶⑮賓銭箱︵1︶ ⑬石柱︵1︶ ⑫寄付者名石︵3︶ ⑪墓石︵、多数︶ 米山の碑は百基以上が、 街や一異の神社など七十六カ所に 存在しています。 その種類と数は、 ①神名石︵刀︶ ②神名木額︵⑩︶ ③注連石︵犯︶ ④鳥居︵9︶ ⑤激石︵3︶ ⑥常夜灯︵2︶ ⑦木額︵3︶ ⑧道標︵2︶ ⑨記念碑︵3︶ ⑩頗徳碑︵1︶ 刻 や念ずる心が加わって、初めて全てを生かし切るのだと思い ます。 山本護次郎氏の語に﹁︵米山は︶その芸術の本格さと大きさ と変化の多いことでは、明月・良寛は勿論、或いは寂厳・慈 雲の上を行くかも知れません﹂とあります。 石碑は野外にあります。そして一碑、一石、場所等の状況 や語句によって、米山は変化しています。その〃気〃を観取 して欲しいと念じています。 以下、鑑賞。訪碑へのいざないの一助になればと思いつつ、 代表碑を挙げてみます。 客天満宮神名石﹁客天満宮﹂ 松山市水泥の客天満宮の神名石は大きい。3メートル以上 の伊予青石の巨大な自然石に、堂々として揺るぎない措書で 書かれています。米山の碑は、一字目が大きいのが多いので すが、ここでは石の形の関係だと思われますが、﹁客﹂より ﹁天﹂と次第に大きく太く書かれています。落款も最大です。 ﹁満﹂の大きさは帥センチメートル×師センチメートル。刻の 深さは筆圧によって変化し、皿センチメートルにも達してい ます。その線の底も美しい。 この重厚さと迫力は、とても八十一歳の書とは思えません。 コピー機のない時代に原寸大の原稿を作るということは、執 念と言うのでしょうか、芸術家の創造意欲の凄まじさを感じ ざるを得ません。 ※拝殿正面には、たくさんの絵馬に囲まれた五十九歳の書、 変幻自在というか華麗にデフォルメされた神名木額﹁客天満 宮﹂があります。巨碑との対比も見所です。 ※近くには多数の米山碑があります。 6 回 神名石「客天満宮・米山書」明治34年3月縦312cm×横170cm×厚40cm190181歳 7 客王神社神名石﹁客王神社﹂ 下伊台の客王神社は、薄墨桜で有名な西法寺の向かいの森 です。正面には米山の神名石と注連石が迎えてくれます。 神名石﹁客王神社﹂は、先の尖った花尚岩の自然石が使わ れています。﹁客﹂は特別に大きく、直線的で遥しい。その線 は石の底を削るような強靭さを感じます。﹁神社﹂の懐が広く 豊 かで、上部を をし しっ っか かり りと と支 支え えて てい いま ます す。 。一 ﹁粁 社﹂の﹁土﹂が安 七十七歳の書で、 定感を作っているのかも知れません。米山﹄ 全体に動きのある神名石の名品だと思います。 が満ちています。刻法は米山碑中で最も丁寧。筆圧による深 浅は勿論のこと画の交差にも意がよく払われています。更に、 線の底に丸味を出し、丁寧に磨かれています℃特に﹁人﹂の 画間に、そのすごさを感じます。名石工﹁吉村右三郎﹂・松 山一!と言いたいところです。 碑陰下部の﹁世話人⋮⋮﹂の害も味わい深く、大きさも配 置もすばらしい。 ※近くに﹁富谷亀翁之墓﹂のある願成寺があります。 灘蕊議 二○○一年の芸予地震の際は、心配で見に行きました。そ 蝉. 8 の折は、倒れて頂部を少し欠いてはいましたが、文字部分に 厳島神社注連石「年豊。人楽」65歳 は被害がなく、ほっと胸をなで下ろしました。 注連石﹁天地。一指﹂ 注連石の上部に字間を詰めて、右に草書で﹁天地﹂。左に行 書で.指﹂。単純化された形を、少し太目の線で刻されてい ます ま す。 。侍 特に に﹁ ﹁天 天一 ﹂と と﹁ .こ ﹂の の横画が、ズパーッと力強く、そ して爽やかさを感じさせます。 厳島神社注連石﹁年豊・人楽﹂ 海の玄関口である三津浜港にほど近い、厳島神社の注連石 は巨大。太目の注連縄が張られ、堂々たる﹁年豊。人楽﹂が 草書で書かれています。文字も大きく、線も太く、刻も皿セ ンチメートルと深い。米山六十五歳の書で、豊かさと重厚さ 鍵 。z選侭 灘鍵 了 溌謹蕊I識 澗 尋 !# ■ 〆胸購職齢織 蜂腺職 q圃 色.。 / 今 ジ 鱗 ? / 、抄 心qCF 蕊 や ‐。竃、ヅ . . ; 畠 寵嘘謡』 ー . 毎 シ ー プ 全 一 三 唇 / 〆 ・ 降り V:,‐ 朝 “ . { ′ $ E■1 極 ト 爵 ■ ■ ユ 鱗 ゴ 型 蛎薗鯉 膳 L 1 堂 ; 1 ロ 参ヶ 、ヘミミ 9 。O召里■ 神名石「客王神社」明治30年8月縦260cm×横95cm×厚30cm「客」縦55cm×横57cm×深10cm189777歳 ︾.︾謂守﹄評 三・︾可さ乱 E 昼 ! 当田神社注連石﹁華華。為善﹂ 高浜港・三津浜港から高速艇又はフェリーで睦月島港に渡 ります。少し歩くと睦月小学校、入り口に大きな注連石が道 の両側に建っています。とても八十一歳の書とは思えません。 当田神社注連石﹁為善﹂ 八十一歳 原本 厳島神社の注連石と同じくらい大きく逢しくて重厚です。直 凸 線的な書きぶりで、堂々として、見る者を圧倒します。古老 しし の話によると﹁昔より台座分の別センチメートルは低うなつ た﹂という︾﹂とです。﹁季華﹂とは〃一所懸命に務め励め〃 ということ。 この碑の刻は、強くてすごい。米山碑中、これ程原本の味 わいを伝える刻はないのでは⋮と思っています。渇筆部分の 刻が、他の碑は浅くて弱いと思います。この刻は強くて真に 迫っています。比較のため原本。原石。拓本を同寸並列して 1 0 みました。 刻と原本と拓本 伊橡豆比古命神社注連石﹁龍瀧。鳳舞﹂は、米山石文 中屈指の注連石です。この原本は最近まで伝わっていました。 刻石の原本が残される例は、そう多いことではありません。 刻された注連石は、大きくて、石から溢れんばかりの迫力 があります。﹁龍﹂の点は石からはみ出ています。右角から見 ると立体感があります。形も深さもアイデアもすごい刻だと 思います。しかし、原本と比較しますと、かすれの表現がお 5 L今7.F =呈す 原石 拓本 おざっぱで、重厚さに不足を感じます。当田神社の注連石の 刻と比較して下さい。 原本と刻との比較は難しい。紙の上に書かれた書は立体感 が少ない。しかし、石に刻された書にはそれがあります。正 面から光が当たると薄っぺらに見えますが、光を得て、奥深 さを感ずる時の石文は最高です。原本より数段よく見える時 凶 があります。石工の力もありますが、石そのものの霊力が加 = わっていると思うのです。そして米山の石文は百年以上も野 に立ち続けているのです。 石文は拓に採って見る方法がありますp拓を採る時は、き れいに拓そうとするだけではなく、米山に立ち向かう気迫で 1 1 打つ必要があると思います。石工にも石にも挑戦あるのみで 500×45×36「瀞」92×43×5.5 す。そして実物大で自宅鑑賞もできるのです。拓には拓の美 鰯 原本 拓本 があり、楽しみ方があります。 伊藤豆比古命神社注連石「龍瀧。鳳舞」62歳 ※注連石﹁龍瀞・鳳舞﹂は平成十七年十二月現在、神社側 職識 灘 [ i に移動しました。 認 必 日尾八幡神社注連石﹁烏舞・魚躍﹂ 松山市街や道後から東や南への分岐点に当たる要衝の角地。 赤い鳥居や石碑が林立して、非常に目立つ神社が、米山の生 涯活動した日尾八幡神社です。 明治十三年十月に注連石﹁烏舞・魚躍﹂が、十二月には神 名石﹁際社日尾八幡大神﹂が社頭に出現しました。目立つ場 所も幸いしたのか、お家流が通行していた明治の初め、この 書を見て人々は驚いたことでしょう。同時に新時代の到来を 体感したのではないでしょうか。以後、米山の書名が一段と 高まり、その書が各神社の社頭を飾ることになりました。米 山六十歳のことでした。 神名石﹁螺社日尾八幡大神﹂は、自社の神に対する敬度さ の出た、謹厳な措書で書かれています。 ⋮鴬 甲一 懲罰謁諒蕊露︾選ぶ騒謡秘 二字を一字のごとく草書で書かれています。﹁宮﹂は草書?で 小さく右に寄せてまとめています。 米山の碑には破体書が多く見られます。槽。行。草と変化 しながら一つのリズムで書かれているので違和感が無いので しょう。 米山はこの岩を熟知して、立ち向かったように思われます。 岩の全体形や平面部分の変化に字幅を合わせています。刻は 浅いのに、深みのある七十二歳の害。 何かハツとする、天才のヒラメキを感じさせる代表的な名 作だと思います。 ※近くに多数の米山碑があります。 1 2 注連石﹁烏舞・魚躍﹂は直線的な措害で書かれてはいます が、ふくよかな丸みを感じさせます。点画を最大限に省略し、 更に離して書かれています。懐広く、豊かさのある名書と言 われる所以だと思います。点の多い書で、特に﹁烏・魚﹂の 四つの点は工夫とリズムがあります。 高井八幡宮神名石﹁高井八幡宮﹂ 伊予鉄薦ノ子駅を南下すると、左側にこんもりとした高井 八幡宮の鎮守の森が見えてきます。森に向かって細い道を進 むと、有名な高井八幡宮の神名石が正面右手に建っています。 平面部分が少しねじれてはいますが、どっしりとした伊予青 石の自然石。﹁高﹂は点画を離して大きく、ゆるぎない。﹁井﹂ は上の﹁高﹂を支えようと、思い切り肩平。共に措書で一気 に書かれています。驚くことに﹁八幡﹂は、更に横に拡がり、 蕊蕊 唖据歴 謎 昌 日尾八幡神社注連石「烏舞。魚躍」60歳 神名石「高井八幡宮」明治25年9月縦139cm×横80cm×厚12cm189272歳 1 3 240×73×45「積」52×50×8189575才 強くて堂々たる槽書碑の大山積神社。槽書行書草書と 290×63×37「社」34×47×65189272才 変化しながら不自然にならず、豊かで重厚な天満神社。 1 4 日吉神社注連石﹁葛機先神事。自諒政為後﹂ JR松山駅の西部に位置する日吉神社は、米山碑には二例 のみの、珍しい五字対の注連石が建っています。しかも八脚 注連石と言われる、しっかりした補助石が付いています。 その書は米山らしく、上から下までいつぱいに大きく伸び やかで、一種痛快さがあります。最初の﹁蔦﹂の二つの点は 強くて迫力があります。また最後の﹁後﹂の大きさには驚か 周囲の樹木が大きく、常に碑面に陰が出てうまく写せませ んので、ストロボでの撮影にしました。 ※碑陰の﹁中﹂が印象的です。おさめ点︵補点︶を一つ打 つのは多いのですが、ここでは三つも打っています︵職には 四つ打ったのもあるそうです︶。 1 5 されます。しかし、心惹かれるのは﹁先神事﹂です。薦季直 日吉神社注連石「蔦機先神事・自除政為後」62歳 表を祐梯させ、思いが石の中に深く感じられます。米山六十 二歳の書。 碑陰「中」 井手神社注連石﹁上善。如水﹂ ﹁最上の善は水の如し﹂と書かれた注連石には、竹を渡し 各種の工夫が凝らされていますが、そんなことより自然に心 の内に、深く入り込んでくる書です。碑陰も素晴らしく、楽 しめます。 1 6 て注連縄が張られています。﹁上善。如水﹂はゆったりとした 書風で書かれ、古来米山石文の代表とされています。形にも 井手神社注連石「上善・如水」63歳 息七十二歳樋口三島神社注連石 h31×26 道六十一一歳 東山神社神名石 吉藤三島神社注連石 天満神社神名石「満」72歳h46×48×6.5 天満神社﹁満﹂拓本 大きく、豊かで重厚・ 大満足を感ずる書です。 ※森をめざして、自分の足で、 自分の眼で、体感しましょう! 1 7 h203×51×29 83歳 h42×38×5.5 ■毎 樺 ユ ニ 話 凸● 胞 ■ロ ●垂 愚.﹄ F 呂 需 画 ︼ご一 がつきるんおうぎし おうぎし 王義之 楽毅ユ流王義之東亜白時代 らんていじ生 蘭亭序 ぐせいむんルーう 町.字・’ ・弓・oq ■ 鐸 Ⅶ 曲 田 ︽米山の書の方向︾ 。 恩 虞世南唐時代︵六一一八∼六三○年頃︶ 壁﹃ 1 8 託恒 こうしびょうどうひ 孔子廟堂碑 証、鰐窟毎隔 おうよう哩酋ん 欧陽調唐時代︵六一一一一一年︶ ︾ず §爵 、雪毒 − − E ゐ館 しようよう 画 ■ きゅうせいきゅうれいせんめい 凸 因 せんきちよくひ﹄奇 声 1 r 蕊 薦季直表一一一国鍾謡︵一五一’一一一一一色︶ 壇 趣 瞳匿 践誌 夢 九成宮鰐泉銘 唱・1卓 r■ 噂 ︾一一一謹謀 米 娯 墓 ! ■ 厨ト■﹄垂 FF的■ FK凶句B︻ 毎 ●。 q宏 詮鑓 i i 噸 制 ■ 蝉 . i 窪 ’ 鼻 ⑱ 填噸具蝋違鍵崇卿鶴蘇蕊蝋 LmL 宮 宮 =愛=& 富霞髄懐潮蓋爽識菟司滞 p■J9Pb ふじわらのこうぜい 画 弓 i 教 』 . , : 森 . 証 鶏 -兵 I ■ 型 巴 p涛 弓 せんじひょう 白馬 はくししかん 鐘 蕊 ■ 且毎ロ雪 ● : 讃 ■2ー 罰 、 盛 白氏詩巻平安時代藤原行成 両小ざ ■ど戸車 L■ 讃掌謬り 四 & 鴬溝懲 連日 Wも 蕊 屑 ヨ 明星亭弓や一宅 b』弱電目 願 : 鰹 馳聖玉 国 溌 田 叡戸ダーーー掌、−.・苧 、み#皇 里一旬霊雪 シ屯凸 宣示表鍾謡 或 浴 & § 爵 零 曇 、 画 ’ =琴 蕊 可 ・ ・ 皇 払 も : ’ 護 # 目≠U●亀 一切一 Tjq向 。 一宇一 一雲謹雲畢 慧慧 霊一 ●●①正 Lーq■や 米山讃歌 燦々と輝く太陽瀬戸の海 ひねもす浪のたゆとうと はるかに霞む島影は 天まで続くみかん山 その原風景のなかに立つ 鳥居の銘の鮮やかさ 百年の長きにわたり輝きを 保ちて今も生き生きと 棚田着山 高浜港からフェリーで興居島︵ごごしま︶に渡る。松山沖にゆったりと横たわるように 浮かぶ興居島。当初、この読みがわからなかった。由良の港に降り立つと目の前の山は頂 上までみかんの木で埋め尽くされている。一面緑色の中に黄色いみかんの実が点在する様 子はまるで夜空に無数の星がまばたいているようだ。 船越和気比売神社まで海に沿って湾曲した道を歩くこと二○分。神社の拝殿から真東の 海に向かって参道が延び、それをまたぐように注連石、鳥居が整然と立っている。注連石 には米山書の﹁和気致祥﹂が明るく落ち着いた書きぶりで刻まれている。 寄せては返す波の悠久ののどかさと、燦々と輝く瀬戸の海に抱かれた米山の石文は本当 に大自然にとけ込んでいる。 また、三津浜港から睦月島に渡る時、フェリーの降り口をさがしてうろうろしているう ちにフェリーは睦月島を離れ次の島に向かった。そのフェリーは折り返し睦月島に寄るこ とがわかっていたので少々時間を食ったが無事に下船できた。当田神社へ向かう。睦月小 学校前の参道にひときわ大きな注連石が立ち、名品﹁華華為善﹂が目に飛び込む。文字が 大きくどっしりと書かれている。押しても引いてもびくともしない頑丈な骨組みは目を見 張るものがある。刻されて百年余り経っているがその書は新鮮そのものである。 1 9 辱き望 蕊謹 霞 圃錘 せらぎの音心地よく 九十九折りせせせ 胸突き八丁六地蔵 そのまた奥の桃源郷 夕焼け空にあかね雲 とんびが一羽ピーヒョロロ 静かな木立のそばに立つ 苔むす石に刻まれた 神の御霊︵みたま︶は何思う 国道317号の五明口から車で谷川沿いに上る。しばらく行くと突然対岸にピンクの色 が出現。紅梅の林であった。まさに桃源郷︵桃ではないが︶に迷い込んだようだった。そ して九十九折りの道を車はあえぎながら上る。村はずれの家の脇に六体の地蔵さんが行儀 よく並んでいる。谷川のせせらぎを右に左に聴きながら、ようやく着いたところが赤いト タン屋根の社。これが恩地の厳島神社。おそらく茅葺きの上からトタンをかぶせたもので ら ろう う。 。草 草の D生 主い ハ茂 喪っ った た旧 旧参 参道 道に にひ ひっ っそ そり りと と立立 あろ つつ 烏烏 居居 。。その銘﹁大巧若拙﹂は行書で書か れ骨格の確かさは二王︵王義之。王献之︶を紡桃させる。 その横の荒れた草地はかつて草庵があったのであろうか、苔むした小さな石仏がひとつ ぽつねんとほほえんでいる。気がつけば太陽は西に傾き、空は次第にあかね色に染まった。 ﹃宛■ 2 0 『 朽ちかけし石に息づく米山書 時をかさねて幾星霜 線としわとが揮然と 石の精霊呼びさます 不思議な力充ち満ちて 孤高の姿ゆるぎなく これは岡八幡神社の神名石のことである。石は淡い緑色系。四国の石は総体的に緑色系 である。この神名石は石の老化からか表面のあちこちが剥落しており文字の線なのか石の 雛︵しわ︶なのかわからない状態である。しかし、その姿が摩詞不思議な力を醸し出して いる。剥がれ落ちた石の内面から石の精霊がちらちら顔をのぞかせているようである。よ くもまあこのような難しい石に刻したものと感心しきりである。 秋の日差しによく映えて れて、天衣無縫の大きな気分になった。そんな大きな気分で書かれたたくさんの職旗が祭 米山は酒の力を借りて名品を生み出してきた。酒を呑むとそれまでの緊張感が解き放た 2 1 四国連山一望に 永久︵とわ︶の流れをいつくしむ ギーギーギーときしる音 りの参道ににぎわいをもたらす.どこまでも青い秋空に白地に黒の職がはためく光景は、 淫ロ L型 2F一L 鞠峠︲︲’●認型廻穀 flu1#I ’細州郁:︵・設稀麺 屯 ︲蝉、j1判I訓︲弓〃・腿 いつもは静かな参道に 私たちに何とも言えないウキウキした気分にさせてくれる。本当に米山の嬉しそうな姿が ¥夕唾 祭りのにぎわいよみがえり 見えるようだ。 ■ 米山さんもえびす顔 白地に黒の織旗 松山人︵まつや まびと︶の度肝をぬいた 大杯をほしてひとたび筆とれば 型 一ハ 欝 々 ・ q P r。 。淫p5 蕊 願いはひとつ幸せを 村の鎮守のお神様 石に宿るは何物ぞ たがねの魂乗り移り 石の地肌に刻まれた 黄金の神輿もひと休み 昨日の余韻を漂わせ 境内は宴のあとの静けさか ‘ 劃 、 ' , 、 . : ! ‘ & ぜ ピーヒヤララ ドンドコトコトンピ リズムに乗った筆と墨 まるで名曲コンポジション おたまじゃくしのトランポリン 鉦︵かね︶や太鼓に堅の笛 いろんな音色がひしめいて 正女さんいっしょに踊り出す 奏でる夢の狂想曲 ドンドコトコトンピーヒャララリズムに乗った筆と墨まるで名曲コンポジション ︵構成︶おたまじゃくしのトランポリン・・・これは﹁米山瀞遊﹂の表紙を飾る日尾八 幡の注連石銘。ここは米山の本家本元、そしてこの﹁烏舞魚躍﹂の出来栄えの素晴らしさ が評判になり、近隣の神社などから次々と揮墓依頼が舞い込んだのであった。 日尾八幡の祭りを見たわけではないが﹁烏舞魚躍﹂の小気味よく打たれた点の数々、変化 があり、リズミカルな動きはあたかも祭りの鉦や太鼓の音色が聞こえるようである。また その周囲に林立する石碑もにぎやかさに花を添えている。そして松山の陽光のもと明るい 雰囲気がとても心地よい。 ここは客王神社。祭りが終わってほっと一息ついて休んでいる神輿が二基。きらびやか は見る者を圧倒する。直線的で力強い書きぶりはとても七十七歳の年齢を感じさせない気 迫が伝わってくる。この石と対時する時、米山の気迫と石に備わる魂と石工の情熱が揮然 一体となった、何かとてつもない大きな魔力を感じるのは私だけであろうか。 この神名石は先の伊予灘沖地震で倒れ、てつ・へんが少し欠けている。 2 2 五 な金具と紅白のひもが静かな境内で揺れている。まだ祭りの余韻を楽しんでいるようだ。 . 4 Q ・ 客王神社の神名石は先のとがったゴッゴッした自然石に刻されている。荒削りな遅しい書 , ? 。 . . 〉 血肉躍らせ米山の 深く彫られた点 と 線 良いはずはなかった。何度も絶筆、禁酒の札を貼りだしたが長続きはしなかった。米山の の書﹂と言えよう。大杯をほしての書は気宇壮大で素晴らしい作になったが自分の身体に にぎりこぶしが入るほど太く深く彫り、石工を悩ましたであろう米山の書はまさに﹁破格 天満神社、客天満宮、三熊野神社そして伊予豆比売命神社︵椿さん︶等々・・・大人の 命をかけた筆の 跡 書を所望する松山人の人情には勝てなかった。 にぎりこぶしが入るほど 万巻の書を読み 歩 む 人 生 は た。また、国学者大国隆正に学んだことも影響してか、和歌の書も数多く残している。こ 米山は漢詩を揮墓することが多かった。四書五経や論語の中から短い語句を選んで書い 何度も筆を折り な が ら の和歌は大変読みづらい。 自由無碍︵むげ︶の独壇場 今日もまた行く直会︵なおらい︶へ あった。これは日本の原風景を訪ねる旅に他ならなかった。奇しくも米山先生没後百年と 米山の足跡を訪ねる旅は遍路道と重なることも多かった。ただ目指したものは﹁森﹂で 米山を求めて巡る伊予の路 いう節目の年に米山の書が一堂に会し、米山を慕う人々が松山に集った。そして米山を顕 八 いつしか遍路と重なりて 彰する会が生まれた。このことは何か不思議な縁︵えにし︶を感じる。 行橋市歴史資料館学芸員棚田看山︵たなだ・かんざん︶ この出会いにただ感謝あるのみ。合掌 これを機に米山先生の輪がより大きく波紋を広げて行くことを願って止まない。 森をめざした旅の数 奇しくも没後百年の ここに紳が実を結ぶ 道後のお湯にひ た り つ つ 語ろう出会いの楽しさを 語ろう出会いの 喜 び を 2 3 七 文在中 米山職探訪 h b, 、 職について 平成十八︵二○○六︶年より十月の秋祭りの際に、神社や街角や個人で建 てられている米山の書いた職を見て回ることを楽しみにしている。松山市 内は十月五∼七日。東温市内は第二週の土日等々地域によって違うが、こ んなに職を建てる所は無いと思われる。それも米山の大胆な書が多いので 感激が大きい。また職が建てられギーギーパタパタと風にはためいている と、気分が高揚して何かわくわくしてくる・ 最初の職︵虹︶の﹁日尾八幡大神﹂は堂々たる名品織だと思う。この職 が大人気で、以後注文が相次いだという。東温市の熊野神社等多くの所で 建てられる﹁敬神﹂も名品だと思う。二字句だから、文字が大きくてダイ ナミックな書の職である。 珍しい三字対句の﹁先神事。政為後﹂は南久米周辺に多数建てられてい る。素朴さのある書で、余白があって、そしてスーツと伸びやかなで、ほ っとする名品である。近くの来住町の﹁文在中﹂は馬平な文字で、太く大 きく重厚さがある。あまり類例のない意表外で大胆な書の名品職である・ 松山市の﹁奉献瑞麿前﹂﹁神光照四海﹂、東温市の﹁天開寓園歓﹂など、 五字句を書いた職は珍しく、印象的で立派である・ 東温市の﹁天満神社﹂は少し痩せてはいるが、扇平な文字で爽やかで あり、米山を強く感じる。肉筆原稿があるためだと思われる。二○○八年 には新たに名品神名石拓本からの大量新調!見識の高さに敬服した・ 椿神社近くの﹁天山神社﹂﹁三島大明神﹂は、共に直線的で力強い職・ 東温市の浮島神社は米山の思い切りの良い職が七、八本も連続して建て られ、風にはためく様は一大壮観である。 何十本も建てられている従来の職の中に、米山の雄揮で造形力のある大 字作品が空に訊える様は壮観で、他を圧倒した事は想像に難くない。 ここ二∼三年は松山マドンナチームによって、古い職が各所で発見され ている。最近では見ることがほとんど無い黒地に白抜き職、明治二十三年 の年号入りで現役の﹁五柱神社﹂。もう引退はしているが紺地に白抜きで、 ﹁金刀比羅宮﹂﹁奉献山神社﹂は、実に堂々として迫力がある。大発見! 2 4 占 tザ ﹄q︲ 一︲︲11 齢■61 東温市志津川天満神社 I釧町釧淘蝋雛鵡澱穂懇懇蛎騨峰峡調 一日一垂一 闇﹄ 昼﹃﹄一 且 である。今後しっかりと保存して欲しいものである・ 今回の、このまとめをしている時に、少し古い写真を見ていると、惣河 内神社に保存されている、米山の﹁金刀比羅宮﹂職の奉献者名に、ハツと した。﹁近藤是正﹂とあったのだ。後記新発見の頚徳碑の当人だった。 職は何度も何度も更新される染め物なので、代を重ねるたびに次第に米 山書の原型が変形されていく宿命にある。より古い職からの更新が望まし いのである。だから、古い織を探す必要がある。米山は同寸の紙に下書き して染めに出している。車を引かせて長い縦画を書いて出したところ、染 物屋さんが勝手に字形を変えたという話もある。是非とも下書きの発見が 待たれるところである。さらに肉筆職は無いのであろうか⋮。 新しい動き。神名石の拓本や名品織から新調されている。素晴らしいこ とだ!天満神社は加本。伊稼豆比古命神社は2対。上伊台本村天神社は 4対。また客王神社は小さいながら釦本も新調され、夏越しの祭りにずら っと建てられたそうだ。壮観の一語である・ その他の方法としては、注連石の下書き︵原稿︶より作るとか⋮。古い 職から再現するとか⋮。名品職からたくさん複写するとか.:。米山の書か ら新調するとか⋮。私は拓本からの職作成の手助けをしたい・沢山その 職例を作り運動している。 更に、米山職を増やすためには、日記の中にかなり記録されているので 探して再現する。古い職は米山書の新しい発見の場であると思う。個人の 家で建てる屋敷職を復活しよう!私は北九州で﹁敬神﹂、﹁龍瀞・鳳舞﹂ を米山忌や適時、庭に建てている。 この文章を書いている最中に﹁明治三十二年の職﹂新発見のメールが入っ た。飛んで行きたい気分だった。うれしい! ※米山の職をたくさん復活しよう!私はそんな運動をしたい! ※マドンナチームの﹁米山書職めぐり地図﹂を持って探訪するのが効率的。 2 5 一﹃涌 ﹄4 膳、、酸 : 了 塗 … 学 − ﹄川 ■』=訂■1−■雪師一年 │ / , 恥 。 . P 蝿│鄭匝割 _ ‘ I i 4 I i l 巴 マ ー 四廟凹④守画 子一屯 卿 ⋮偽! ︾隆一 蝋 劇 rl 夢 ザP一一 剛電 、’ ’ 2 6 松山市福音町川付 松山市南久米町日尾八幡神社 死 | 臣 渦 │ ' │ 鳶 / = ザ 望 一一 P 「 I , 『 /JiF 8 ;! T卜挿.熱f神.︲f滴J:豹.︽域. 自ら や 』 奉献 ヂ 日尾八幡大神 、 一 ’ i │ . 』 ヨ 三島大明神 司 一 #画四国画■ 日 日 0 1 1 ’ ↑︽ 一﹂ L 一 図 天開菖圃歓 松山市越智町大山積神社 東温市上林友情 2 7 L 二 一 ■ ■ 員 1 奉献瑞崖前 三日 〆 ‘ ! 、 。﹃ 01b一・︲剣■︼ ,IIIIIl 岸J碗苧、︾ i i l 11︲ 即︲畠 国,Bb 一﹃鰭噸鎮鐸墜︲ ﹄、11善 匙撮騨i↑鯵隆にⅢ︲瞳’一 KW 顕が雁i,1,僻卵I恥・Ⅵ︲I蹴脚鰯餓睦郷醐漂”耐L臨哨“暇NMw畷砿職” 1 翰 1 − 匙 松山市麗子町 松山市天山町天山神社 ,鷺︲い側・齢礎岬岬岬岬一岬恥岬畔︷︲ 鑓堅 一詞洲,岱岬甑卿畔野悶爆型埼’.﹃碑騒薗塔胤l習7耐︲︲川手,i﹃’一j,︲﹃、’1111 松山市南久米町東山神社 2 8 天山神社 電屋..・・︲・蝿陥 雇尉罰融鮮眺 b h 竪 § . 東山神社 ビ1 i$ 可 # !︽唖醍I11底,11膿腿・歴I1歴 L U , 鐸 ] 4 ‘ ,E 』 字典一 輿 先神事。政為後 へ へ 文在中 産 』 111 1 松山市久米窪田町他 松山市来住町 2 9 浮島神社 敬神 一 東温市牛測 東温市植村他 ※松山マドンナチームの作成した﹁三輪田米山書職めぐり﹂地図で回って下さい。 3 0 天満神社 一 I q ﹃〃f 夢錘白子 悪¥ 1 偽 一 一 # $ し 」, I 3 1 蕊 串 肉筆原本より 神名石拓本より新調された職 ﹃ 可 〔 隅間叩F一 pwu 葦 1 蕊11︾ ︾ 紳州牡 泌さ去予 挿識堂 隣・江ふみ 令咋〃︵牡. − . 9 念 ; F室常 3 2 軍 名酌グッゴ 3 欝 = ’ 中 1 .闇 へf ヨ 0Z ﹃ん 1 § ! ■ 一千戒二十幕・一1月吉日 蝋 : , l i I 東上掴,率谷・恩迄 一一 FIP 一子 穿 職: ■ 衝 ’ 訪 笹"一 米山百年展を記念して新調された伊議豆彦命神社の龍瀞。鳳舞 Ⅳナザ爪四〃 P。−1 幽一 平成二十年.一︲月吉日 八反地組中 − − 鐸久嬉州噸惟 ②侭抑 〃 @ ぬ 詔 叩 藍弓 鴨鐘 ひ 平成二十年十月吉日 P 1..詞 ︽緒 ﹂ 嘱違 ﹂一 松組竹組梅組立后胤 !⋮,111。︲溺謝熱 割Ⅷ土畑 司i'一 に 、 1 1 一 一一一一雷 I○ 小振りだが60本も新調された客王神社 蟹匙Ⅲ 職−新しい動き − − − ー I r 盤 匝烏 ・ も ㎡ 副 0 ・月。宛 LP曾一星討一一▼■-勺吾F釦,- E ● 、 百 新職が10本も立ち並ぶ天満神社 5Ⅱ 東温市則之内一ヶ谷 P ' l奉献I ﹃$ 3 3 ブ E S ︾〃減 鰯 l lllll じぎ戸/ 〆 ( / ⋮# 灘 大発見1. 恥 縦噸 lトー ■ 罰 ∼ 肝〃燭阪因 〃、 o〆。』 ノ ’〃I ●甥§1 尾 . 詞 ” 奉献山神社明治三十一一年 74 81 11 や F 金刀比羅宮明治 三 十 一 一 年 0 ナ ノ ' 4 ロ .,# Q 陰 . 、 i 跨一 Q6U i i D−、n曲一 大発見! 奉献五柱神社明治一一十九年 0 f FL ; # f戸伊 蕊 》 蝉 I 〆 腰 一 騨 に 夕 声 、 、 , 巳 酎 』 司 ヒエ :I 〆 、 1. y鯵 手 『 〆二 缶 諺 . 綴 可﹄ } # " 己 則 、 烏 ”心穣が 別 没・乳雪 § 奉献五柱神社明治一一十二年 1 一可 ■や 一 q 侭 . 、 可 ■ a jr 4星削 3 4 ゴズメ 11 Q 東温市松瀬川五柱神社 、髄一﹄一 ﹄.b河園①1 臓膳一篭 ⑮胃 唖〆言 b 零成一一十量子”瓦室⑧ 司笥 二 松山市上伊台本村本村天神社 一一 霜 画 新調された職奉献︵名品職より︶ Z 周 上縁台 伊予郡砥部町 3 5 一汀一一・恩︲,i一い︲11需 F 新発見!大宮八幡宮明治三十一一年 ’ I ● 押処一毛 I 昌幸1 y 管 1 k ー 。 詔 ) 1 1皇 □ 2 輪 f , =1 率 内 藍 ﹃H ll 一環 零. bSq ワ マ 一 vやみ b = 画=、、 L 1・︲● ■ 参 9 苔 -J我皇散I h I 画 雷 b註憐 or貯創臨酵 ≦ 、 串 ワ * 帆 一 件 そ 勘グー 勅止 兵 制 電 智 隣 重 ロ 〈判r+I洲誰> 3 6 誉 cr貯創曲毒 B 婁輪詔 一 、 ※ ※ ※ 米 山 可 正 補 新 瀞 韻 』 甲 遊 改訂版 発 〆強、 誤 充 見 nM冊日ロ 、藍軍鐸 補遣 も寺﹃ 3 7 A徹 串凸■ ノ ヲ 門 。 横谷ダム 2-冨曇一 琴談 石手川 紗 -へ 11I 3 8 こ ] ロ 上高野町 一 一 − 一 一 一 一 一 松山市末町 食場町 柳素篤神社 道後より奥道後方面に行く。伊台方面との交差点にロー ソンがある.その左手を右に入り、狭い道を行くと古民 家の角に、神社への道標がある。左折して直ぐ、右側に 末公民館と隣り合わせて柳素鴬神社の急な階段が見える。 窯 ■ 一一ー寺号., ゲロぃ 画夕 拝殿に並列された神名木額 壁・』r し ] 誼拙. F 駒 i ' I 鮎 ﹄ h88×44 神名木額宇治八幡大神少教生三輪田常貞害 。 一 Z。 ハート形激石 . 邑 一 − − − − 重 写 = 冨 菟 署 一 一 奥道後と客王神社のある伊台との交差点にあるローソンを、回り込むよ うに右折すると湯山公民館前。狭い道を直進し、遍路道と神社への道標が 立っている角を、左折すると直ぐ末公民館。前に駐車できる・ 注連石の立った急なロープの手摺り付きの石段を登れば拝殿正面。拝殿 奥の左側に﹁柳素鴬神社﹂の神名木額。右側に米山書の﹁宇治八幡大神﹂ が並んで掲げられている。﹁少教正三輪田常貞書﹂とある。樺に輪郭を 彫り、金色に彩色されている。少し扇平な安定して穏やかな書である。類 例が少なく﹁嬬社日尾八幡大神﹂の神名石が最も近いように思う・ 少教正三輪田常貞書の落款のある神名額が何故記録されて無かっ たのだろうか?不思議である・ 神社拝殿前の淑石の形が可愛いハート形であるのがかわいい・ 明治時代のハート形にはどんな意味が⋮? 3 9 ① 道標 ② ■ ‐−M, ルノ 戸i』 上 Z趨 齢毒 伽‘ 層、" 0J 1 『 二 『 。ルグヲ 幸 《 , # 蕊震一蕊望 覇 雪 亨 耐 1 丘 竺毒 章琴、窪津稔ご== 議二言 一 一 」 !=ゴ …理鴎巷酉唾べとーご=&皿准邑1 田←トー々 軸圃恥啄 −︲﹄ 鳥居碑陰慶膳三年丁卯米山四十七歳 烏居久米郡中井富祁 I 松山市久米窪田町 鴫甑浬 lqb b0190 唯雫.蝋汎︲引謹.、 & B撤龍神社 ●・卜“仲 Fp i 蝋 蕊 : : 蔦 j ︽いr刊画一;ワー10qも︾脈争﹃吋眠臨画 4 0 瀧 11!灘 K 、 才 イ ー、‘I 松山東部環状線を久谷方面に南下.直ぐ右側︵西︶に小 さな森が見える。窪田橋を右折して右に有名な古い石の 鳥居が見える。過ぎて右折すれば龍神社。境内に駐車可. 居 ’ 妻銭箱左以世無者古明治廿六年旧八月 回 米山七十三歳 35×59×h24.5 4 1 1 霊塗==』 冨 伊予土居 亨王肩 土居町 .‐-Z 拝殿 … L き 、 ・ 画 一 え べ # I 卓 ﹃18口00r0F■庁一且■ⅡⅡ■LⅡ 凸 ﹃ ﹄ IBIB、1J.ⅡⅡ﹂和合■P。’・一口ⅡO−FBF6G bPp■・IⅡ日068− 4 2 一! 鳥居 I 王 房 土雪 → 居工c3 km 四国中央市土居町中村 四国中央市 C補井守神社 I 松山自動車道の土居mを出て、国道n号線を松山方面に 3m戻り、土居バス停先の川沿いを左折すると井守神社 一 一 ■ p 曲〃 ー a『 里 l︲︲IIJIIlll︲lIlIIll︲︲,︲︲・︲l︲︲︲,︲︲山︲Ⅱ川Ⅱ川川川Ⅳ川叩Ⅱ叩 粟谷 Ⅱ 門 松山自動車道 − − 〒 石の鳥居に出る。右正面の赤い大鳥居が井守神社。 ■ Ⅱ 塁 11 I 鍵& 外寸hlOO×60 ノ 松山自車道土居インターを出て、国道 n号を松山方向に3m戻り、JA前土居 バス停の川沿いの道を左折。直ぐ井守神 社の石の鳥居に出る。右正面が井守神社。 新造の赤い大鳥居の中心に﹁井守大明神﹂ のレプリカが見える。参道直ぐに﹁三輪 田米山の神名額﹂の説明板が建っている。 少し斜め奥に拝殿がある。平常は鍵が掛 かっているので、中を見ることはできな い・連絡して開けていただいて、薄暗い 拝殿に上がったところ、正面に神名木額 が掛かっていました。 ええっと驚きました。それは変形自然 木の樹皮額でした。濃茶地の棒材に、文 字の輪郭を彫り胡粉を入れた、随分と凝 った木額です。 ﹁井守大明神米山書﹂とありました・ 大胆な構成です。落款も文字を避けなが ら巧みに大きく入れられています。しか し、線の甘さと、神の補点の打ち方には 疑問が残りました。 言い伝えや記録文書は無いと宮司さん は言われていました。奉納者の名前があ るので、更に調査をお願いしてきました。 横に掛かっている御由緒によると、こ の地に出湯があって、天智天皇が入った との伝承と、神号額は米山書とあります。 電0896.74.3282 4 3 略 可p 拝殿に奉納されたものか不詳てあるが.神名額にふさわしい気力の 充実した風格のある謡であり署名入りという他には余り例がない 一書である。米山晩年の明治四十年頃の作か。当所井の上の源田茂八 護瀞瀧蓋 。﹁井守大明神米山書﹄のこの神名額が、どういう経緯で、当社。 黙難諜騨 や朔 ここミヤー一塁『 、 ニ 『正 神名木額井守大明神米山書 戸 一 ‐ Z ; ミ ト ノ ‘ ン 達匡 奮 一旦∼一一三L ユ 』 4 4 東温市河之内土谷 認 C瀧三島神社 露 ゴニラ型二二二 一 国道皿号線を西条市方向に、河之内トンネルを過ぎて直 ぐ、松山メモリアルパークがある。その先の土谷バス停 から右折して、山道をしばらく進む。川を左側に見ると 直ぐに神社。隣の空き地に駐車して宮前橋渡ると三島神 社。 − 一 W I 声 ﹃ 一 L酔日詞upEⅣ11lId四一砥U601・卜3 llo10l1lは﹄追う,P和、﹃宇贈I■画■ロ凸、地噛迅門11Jずい卸取、Qlb日叶rⅡ 土谷バス停から右折。細い山道を川沿いにしばらく進 む。橋を過ぎると直ぐに神社が見える。横の空き地に駐 車.小さく可愛い太鼓橋の宮前橋を渡って、数段の石段 を上がると、鳥居・神名石・注連石がコンパクトに並ん でいる。 小振りな拝殿の奥には、米山肉筆の﹁三島神社﹂と杉 材に書かれた神名木額がそっと飾ってある。 米山らしく神に補点があり、し しか かも も墨 墨が が飛 飛び び散 散っ ってい る。実に素朴な味わい がある。可愛いと表現 した方が似合う木額で ある。 何も塗らず彫りもし ないで、また今まで発 表もされず、書籍に載 ることもなく、静かに よく残ってくれていま した。感謝! 肉筆の神名木額があ るのは、この三島神社 だけである・ 拝殿には他に三十六 歌仙がずらりと飾られ ている。 紀年も記録も無いが、こ こに来て書いた旨、隣家の 主人は聞いているそうだ・ 神名石碑陰は明治三 十三年四月建之とある・ 同時期にここで書いたとす れば、米山は八十歳。 4 5 80歳の書か? h43×119 神名木額三島神社米山書 ー マ − = 一 一 ー I︲ 宅”‐一一==ジーーョニ弓哩君皇‘一舞奄写=−−4一弓凹 烏 ﹄ 曲 ー A’マーニミ一一』ず 一 一 一 弓 = # hlH1 l iF l n 戸 I ■ 1 1 1 C縦 可 /ソ’ 日浦 造一 、 ︾﹄﹃1筆山・ロ 一P−J−︾・一口︲▲d一一F﹃一一 国言一・産・一鳳一︾鍵一﹄一一﹃帰琴討 一・一乗峠’’一一︾一・﹂I﹃画一11 明治十五年近藤是正翁奉献の米山職﹁金刀比羅宮﹂明治十五年 菩 毘 羅 寺 東温市河之内日浦 廷ニョ図固 ︾﹄ず一一﹃一一一。一し﹃ 団 近藤是正翁之碑 。 凸 ︾一識や婆 FIF、 惣河内神社 河之内の惣河内神社・金毘羅寺を過ぎて左斜上に逆戻り する小道を登り、右に道を取ると集会所に出る。前に駐 一T鼠旬、ー 車して池の左側を登り法華塔を過ぎると近藤家墓所。 !︲弧Ⅲ!償’1.︲ 4 6 負鼠 、 近藤林内翁の墓 =子悪霊唾=. 詞, 棚田 狩場 文政元年︵一八一八︶|月二日 次右江門の三男に生まれ、十鰻 一一 一 一一 日浦 河之内 ロ ロ の時近濃是衡の養子となる父 蕊 近藤是正之碑 議了蒜 母に仕えて琴、効倹力行すると 共に貧民諭民の杖済につくし公 益のため私財をなげ出すなど、 その善行は枚挙に暇がなく、生 き仏とあがめられ、たびたび ひ表 艇 彰せられた 明治二十一年一月四日七十艇 歳で で 逝去された 住民その 辿 穐 を し の ん で 碑 を建 て後世にのこす 凸 煩徳碑近藤是正翁之碑明治廿四年六月米山七十一歳 碑側拓 部分拓 重厚な自然石の上に、丁寧に整形された碑が乗っていました。隷 書の碑額の下には丁寧な鍾謡風の槽書がびっしりと、隅から隅まで 彫られていました。碑側には﹁槽書三輪田常貞書﹂とあります。 した。 近藤是正翁之碑のことが判明したのは、米山瀧遊を再版した直後 のことでした。半信半疑で調べると、住宅地図に﹁史跡・近藤林内 翁の墓﹂が見つかり行ってみました。面河ダム方面の山の道から左 折して下り、集会所前に駐車して、池の側の細道を登って見つけま hl25×95×30.4 4 7 C卿 一 一 〆 一 / 弓 i l / / 1 / 〆 〆 〆 耐浮島 織重雲 1 9 3 4 8 東温市牛測 出一 浮島神社 / I l 牛 謝 牛 / 5 Il 県道193号森松重信線を東温市に入って直ぐが牛洲・ 臓の頃は米山の職がズラーッと十本程も建ち並ぶ浮島神 社。明治六年︵米山五十三歳書︶紀年のある宮司の墓石 があり、米山の織があり、最近少し痛んではいますが﹁米 山用筆﹂が発見されました・米山との縁の深さも充分に 一 ∼ー一一一㎡−−一 〆 北野田警三嶋。 ' / づ 生遡団晒誌 感じられる神社ですので、ここに追加紹介いたしました・ 員顛隙鵬隅倒騨鐸蝋 〆 、 東温市牛測 南野田 〆 指 窪 〆 ミ ミ ミ こ ; q 境内に駐車可。 − 凸 ■ lq 癖割ず喝”.、一・蕊蝋浄 づ. _・FL 婁 嶺霊 p F 零填迩畜 ■ 零淵鐸 服蝿釧刑撚腿一鳶蝋 a 11︲ 奇 4︲I月 率鍵猿尉︾ f型 偶 時 r 、 hl25×95×30.4 、 ■FD F ? L畠 蹄﹃が 判 ■ 〃 "蝿 扉 苧EV F 米山'職『浮島神社」 米山用筆 』 了 5 c、 」 〈 l 19.5 未 斗 12.5 4 9 墓碑相原宗綱墓明治六年美酉七月三日行年五十一米山五十一一一歳 玲 串 昭 ▲ 5 〆両日 戸 宮 ‐‐#… ﹁ J F-至孝−1−− 且 「凱旋」東温市歴史民俗資料館寄託(岡八幡神社蔵) 多くの方々からお手紙を頂きました。その中に﹁岡八幡拝殿 の天井に米山の肉筆大字木額が在りますよ﹂と、お教え頂き ました。早速行って確認しましたが、しっかりと写真が撮れ る場所ではありませんでした。その節写したのが上の﹁歓迎﹂ です。又同時に東温市立歴史民俗資料館の﹁凱旋﹂も写しま したが、共に発表出来る状態ではありませんでした。 それ以後何の進展も無いまま、平成一一十一年に改訂版を出 す折りに﹁歓迎﹂のみを小さく載せました。揮墓年も間違っ ておりました。不鮮明ではありますが、ここに両方を掲載し 5 0 忽 r の出 一 東温市志津川 門戸 −凸角∼−= て、ご教示に感謝の意を表します。 〒791−0211東温市見奈良509-3 1 1 巌J = 一 C補岡八幡神社 126.4×212.4 ﹁いしぶみガイド一一一輪田米山瀞遊﹂の初版を出した折りに、 =一可 俗 史 ド _鵬も望』 一 東温市志津川で国道n号と県道334号が交わる。その 直前で北に入る。新しい小さな神名石を見て、直進して 突き当たりが岡八幡神社。 「歓迎」岡八幡神社天井明治38年書85歳 明治38年書85歳 東温市立 a 平井町 堀越川 ∼ に三三三 II 口 且 5 1 C補一一一熊野神社松山市平井町 三熊野神社 符 伊予鉄道横河線平井駅よりまっすぐ北に九00m程で三 鶴静静 一 一一 _ニーーヨ 毒 .-』Jノ 続 予 姦 議 蓑 扇 門一〆肉4 回 熊野神社の鳥居﹁受天・百禄﹂に至る・道路が狭いので、 畠蕊 ■■ 車は日尾八幡前の県道を刈屋交差点から北に入り直進. 又は手前の新道を左折。森を見て左折して鳥居に至る。 ▼ I 踊卜︻ 。“一示 L 6 4 「百禄」hl22×40×深10 I肌仙刷﹃町営町苛5串.いい畑伸附 面可ワ勺。l叩い可乃Ⅶ踊卿辿刑﹁ 、oD9‘0鞍篭毘.棚,。.、 幸必牢頃I︲・守口■■■。117.4祁門剛副噸咽甜堅148列j″ロ師屋恥DIP 平井谷の三熊野神社は、入口のダイナミックな﹁受天・百禄﹂ の鳥居が迎えてくれる。ウワァー!スゴイ!が第一声であった。 深く太い線で鳥居に巻き付いている龍のよう。﹁受天﹂は直線 的でかすれを伴って強く、﹁百禄﹂は太く悠然と書かれている・ 大胆極まりない書である。碑陰は直線的な紀年と雄大な当祁中・ 東温市樋口の三島神社に大正六年建立のレプリカがある・ 鳥居左側の周旋者名簿も米山書である。 、電浄や愚、.q葛一雪由叫留.声尭瀦今遥砺.︲溌嬬茨も 皐凝 翻 霊 f § i ‘ U h 溺一廷一一、鋪暁馳 一 言 篭 E、 5 2 「受天」hll4×40 hl49×77.5×30.5 鳥居受天明治一一十一一年九月百禄当祁中石工金子伊之助米山六十九歳周旋者名簿 烏居碑陰明治二十二年九月当祁中 W 1 階段を登って遠く200m で重厚な拝殿。破風には翼龍 でしょうか?精刻された龍の 頭を持った烏が存在感がある。 拓本一受天百禄 5 3 崖 J − L 久万高原町 ’’1 11.11側 1 1 久万高原町 5 4 注連石明治三十二年三月 口 東明神 11 辿一 上浮穴郡久万高原町東明神 11 ・口 lJA クラブ ントリ 震 看板 D揃訓剛神棚 L L 松山から国道調号線で三坂峠を越えて久万高原町に入る。 下りだして右側斜め下に森と神社が見える。カントリー クラブの看板から右折。田の中を下って左折すれば神社。 M 冬一 河内神社 高正神社 1 1 弐 画一 〈 r鹿 神名石︷剛恥紳雌米山吉︵時︶年七十九 鷲 |ヨ 神名石碑陰明治三十二年三月氏子中 町I アイロン形?淑石 刀 雨 米山当員時︶年七十九 淵駕.、 警戯。蝋,F難 P 松山市から国道調号を南に、焼き物で 有名な砥部町を通り、七○○mも高度 の上がる三坂峠を越えて、久万高原町 に至る。下りだして直ぐの東明神。右 下に赤い屋根の神社がある。森が見え るので、JA前を右折。田の中を下る と神社前。神名石は馬平な神社名が連 名で刻されているが、石の凹凸と刻が 浅いのでなかなか写真に出にくい・何 度行っても思う写真にはならない・ 右下に﹁米山時年七十九﹂と刻され ている。明治三十二年の書。 5 5 「河内神社」hll2×30 h210×100 I ? 剛 起 輪 注 連 石 大 順 明治二十二年三月成徳氏子中 君圃圏§ 東明神より国道調号を4血ほど下る。 久万中学前交差点を左折すると久万美 凹凸があって難しいと思う、が拓本を採る以 外にないと思っています。 左に廻り小さな橋を渡ると注連石があ る。﹁大順。成徳﹂と階書で刻されて いる。同文の注連石が松山・徳川・篭 御前の各神社にあるが、この注連石の 書が米山としては最も力強い。 この碑の存在は米山瀧遊を出版して 直後に教えて頂いたので、直ぐに確認 いたしました。その後度々伺っていま すが、思う写真にはなっていません・ 精織な刻の拝殿破風の鳳鳳と龍 術館に至る。米山の名作﹁思無邪﹂が所 蔵されているq 5 6 79歳 「大順」h81×31 h327×37×31 成徳 」h85×30 ! j、豊憧霞 霞 E畠嘩オャ 4蕊 5 7 F 。 P凸阿 一 戸 戸 画当 動蕊 =?: 手宇宇一 劃膳哩量些 や 《 1 N 廷 ( Z D撤匪鵜榊搬喜多郡内子町臼杵本成 ’'一塁=曾寺言 一 ■ 昭 一 P が 1 久万高原町二名の葛城神社横の県道狸号線を内子町に向 けて下る。かなり狭い山道でカーブの連続。数軒の家を 通り過ぎて︵6m︶、左側に神社が現れる。 塔 i帽 神名木額郷社 鐸j 下る︵6血︶。数軒の家を過ぎた左側に三島・田井神社の横に出る。木製の大きな烏居 を潜り橋を渡ると中門があり、正面に拝殿。風の通り抜ける拝殿には、大きな迫力の ある神名木額が、のしかかってくるように掛けられている。 罷一 0 王 . 亜 面 h210×100 li11l ノ ︲I11 橋から中門。拝殿を望む 拝殿の神名木額 5 8 一 一 浅海蘇山箸﹁米山人と書﹂にも掲載されて、古来有名な木額であるが、どこにあるの か 明だ だっ った た。 。ややつっ か不 不明 ,とここにたどり着いて、額の裏など見たが、どこにも年号などは 書かれていなかった。 二○○九年の内子町での米山展には実物が出品された。その大きさや迫力にまた 驚かされた。今でも書かれた年代は不詳のままだと思う。 目ご皇F"。f達。ご‐ 一一.∼ー 旺鵜榊伽少教生米山書 』 久万高原町二名の葛城神社横の県道狸号の久万中山線は急なカーブの連続をしばらく I 玉谷町 ’ ' 10 トq I1 島野町 云霊識 5 9 松山市上総町 上総川 E補河内神社 Cl 柵下る 奥道後より石手川ダムを過ぎて、日浦トンネルの手前を 左折。すぐ上総橋を渡り狭い山道を登り、下りに入った ところで右下の細い道に入る。行き詰まる所が河内神社。 園リ 罰河内神社 松山市上総町 記念碑戦捷紀念米山書米山八十六歳 hl57×112 「戦」40×40 碑陰明治三十九年五月建之 部落中 日浦トンネルの手前を左折して上総橋を 渡り、細い山道を通って、更に細い右下の 道に入ると、二軒の家の前が河内神社。鳥 居のある傾いた石段を登ると小さな拝殿。 神名額は﹁河内八社大明神﹂。周囲は三十 六歌仙。左手前に大きな﹁戦捷記念碑﹂が 輝いて見える。楕円形の石に、大きな線で 鍾謡風な素朴な階書で刻されている。周囲 は小さな棚田で、静かで穏やかな境内、数 件の家で護られている 米山八十六歳の書である。 6 0 松山市別府 三輪田米山漁遊正誤 A⑥福水神社 A⑫大山積神社 松山市石手二丁目皿 ︿位置﹀多賀神社前の道を道後方面に約2mで、右手久米方面、 左手石手寺方面の石手交差点に着く。左折して正面石手寺前の道 松山市吉藤 ので緑色を消す。 鳥居を過ぎた正面が大山積神社である。 ノ で三叉路。左折200m、左手に5mもある常夜灯が二基。参道 ブしている山田バス停を左折。いくつかの池の間を抜け1.5m ︿位置﹀客天満宮より伊台方面に行く。1mで右に大きくカー 直面苧 を右に折れると、すぐ左に常夜灯︵参道入口︶が見える。参道の / ︿位置﹀伊予鉄道高浜線の山西駅の南、新田高校横を約600 管 ※38年に m南下。左側に小高い丘が見雲疑る。対向車用の看板﹁福水神社公 P38 ※拝殿天井に明治 88 年 「 歓 迎 」 明2 治2 年 「 歓 迎 」 園﹂看板より左折、突き当たって左。道幅は狭いが石段下に駐車 2 畳 一 旦 』 A⑮三島神社 ←垂 入口である。左折し200mで三島神社に着く。 6 1 0 ※浅海蘇山氏の書でした。 P185D⑩徳川神社→D⑪ Iq 常夜灯 P54 P63 拝殿 ‘ 場あり。石段上高く注連石が吃立している。 神名額安産守護福水神社 この神名木額﹁安産守護・福水神社﹂は記録にはないが米山 書のお札か何かに書いたものからの複製の様に見える。少し精 彩がない。 東温市志津川 ※米山書ではない 当祁中 ‘ ※原書が存在しました。 C⑨岡八幡神社 ︿位置﹀天満神社参道を南に行き、最初の交差点を右折して、 次の四シ角を右折すると国道皿に出る。国道uと次の県道334 も通り越して、橋を渡ると、右手に神名石が建っている。道路の 奥に鳥居が見える。周囲にはビニールハウスが多い。 P135 松山もう一つの旅 み わ だ く い ざ ん い し ぷ み 三輪田米山石文めぐり 明治維新と共に突如異れた、現代寄道の先駆者・三輸田米山('821-1908)は、 松山の生んだ奇跡の一つです。2008年は没後100年になりますも彼は膨大 な番駿や日記と共に、世界に蕪例の無いほど多くの石文(碑)を残しました。そ の代表的な石文をめぐって見蓑せんか。米山の野趣横姓した自由無碍な書を認め た、明治の心と伊予の人々の心意気を見ることができます。また、そこは昔なが らの鉱守の森が残っていて、日本の原旦衆を感じる旅ともなるでしょう。 横田義誕緬 代表的な石文のある社寺 米山没後百年展前後 ①船越和気比売神社…典居島船越 ②当田神社…中島町睦月 ③忽那島八幡宮…中島町大浦 ④厳島神社・・・神田町1 ⑤福水神社・・・別府町 ⑥日吉神社…南斎院 ⑦井手神社・・・北立花町 ⑧松山神社・・・祝谷東町 ⑨客天満宮・・・祝谷3丁目 ⑩三島神社…吉藤 ⑪客王神社…下伊台 ⑫大山種神社…石手2 ⑬日尾八幡神社…南久米町 、浄土寺一・・歴子町 ⑮素駕神社…腫子町 ⑯三熊野神社…平井町 ⑰日吉神社…南梅本町 ⑱客天満宮・・・水泥 ⑲高井八幡宮…商井町 ⑳商井神社・・・南高井町 ⑪三島神社…東方町 ⑫徳川神社…泳吉町 ⑤正八幡神社…浬野町 ⑭勝山天潤宮…久谷町中組 ⑬通掛五社神社…奥久谷町 毎全…廊公町出口 松山もう一つの旅 <提案したこと> ①三I附山米山石文めぐり 松山文化の旅 ③(県美)米山没後100年展 ②子規。激石。山頭火。米山そして道後温泉 『電 米山日記に見える蓬莱餅を提案 米山切手を提案 FRAMESTAMp 黙日本、便 L 2021年米山生誕200年記念展を! 6 2 原書「龍瀧」 6 3 J■■■ 愛媛新聞 愛媛新聞 平成20年12月8日(月) 15面 e ″〃 熊紀許欺 申酉戎亥 甲乙丙丁 31 41 51 61 71 81 92 02 12 1 2 寅卯辰巳午未申酉戊亥 庚辛壬美甲乙丙丁戊己 3 24 25 26 27 28 29 20 31 32 3 F呼子 38乙巳 37甲辰 39丙午 40丁未 41戊申 ″″″〃″″″″〃〃 ″〃″″″″″〃″〃 ″″〃″〃〃″″″〃 ″″″〃〃〃″″〃 戊子 p②凸■B■■0■■■■■、い■■CG・一0.■■■“▲■0●。●■D 横 田 無 縫 結び 2011年12月11日 石文と職の探訪は、原風景や自然を歩く旅となり楽しい。書道は 室内での芸術活動であるのに、米山の書は野外にまで発展した希有 の例である。﹁野趣﹂﹁狂気﹂の書といわれる所以である。書道 史上顔真卿や空海について、その芸術性の高さを表現する場合二 碑一面 面貌 貌﹂ ﹂と とい いう う一言葉を使う。作品ごとに趣が変化していることを 吟作品そのものがそうである。山本発次郎氏の言う 言う。 。正 正に に米 米山 山のの 些格さと大きさと変化の多いこと⋮﹂の文章に、私 ﹁その の芸 芸術 術性 性の の本本 は心 か ら 賛 同 す る 。 米山没後100年が過ぎ、様々な物が朽ちかけている。今、保護 保存しなければ失われていくのは目に見えている。米山は“松山の 宝”である。今こそ米山記念館を作り、其処に集めて保存すべき時 治応 元慶 1 0 1 1 1 2 己卯 1 1 1 1 6 4 である。 私は声を上げたい! ※米山記念館の設立をI. ″〃 〃 88(雌濁 職探訪 ● 石文 米山 03 13 23 33 43 53 63 73 83 9 0123456789 別別躯銘瓢茄船訂朋開 0123456789 08 18 28 38 48 58 68 7 3 4444444444 6666666666 和、羽澗測布祁而冊禰 8 ″″″″〃 明治 蹴鞍野翻砿酬服把跡歌 榊鞭蹴骸軒醐臓柳賑配 餅糠辞麺職較解Ⅲ順 3456123456 1123112312 3456789 ″″″〃 力匙 138 ″〃 1 文久 05 15 25 35 45 55 65 75 85 9 側侃馳開削砺船研鮒的 和Ⅶ湖沼測而祁仰氾刊 5 帥別躯朋拠開朋師朋的 卿瓢躯鮒拠開船柳船卵 012345678 8 8 釦. 8 8 安政 34辛丑 35壬寅 36発卯 申 嘉永1戊申 1821 2 3 2 8 4 8 4 9 文政4辛巳 6壬亥 11丁亥 2 8 2 9 2己酉 〃 33庚子 1 米山年齢早見表 年 号 隼齢 西暦