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六角堂の復興へ向けて

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六角堂の復興へ向けて
六角堂の復興へ向けて
小泉 晋弥
茨城大学 教育学部 教授、五浦美術文化研究所 副所長 はじめに
た数名の来館者の避難誘導を確認した。その際、
3月11日の大震災と大津波は、東北から北関
大五浦の海が引き潮のように引いてしまって、
東の文化財へも甚大な被害をもたらした。特に
全く白波が立たない異様な状況だったのを目撃
茨城大学五浦美術文化研究所の六角堂は、今回
している。海は周囲の崖から崩落した土砂によ
の震災被害の最大の特徴である津波での流失と
り茶色だったという。やがて海全体が膨れ上がっ
いう事態となったため、さまざまなメディアで
てくるように見えたため、長屋門の入口付近に
報道され、文化財被災のシンボルとも受けとめ
避難していた来館者に津波を警告するために
られたようだ(朝日新聞等参照)
。そのためか、
戻った。
震災直後から筆者のもとには、日本各地の美術
その後、天心邸の様子を確認しようと切り通
館関係者、研究者はもとより、かつて五浦を案
しを降りていくと、すでに六角堂が見当たらず、
内したボストンのジャパン・ソサエティ関係者、
海の上に六角堂の一部とおぼしき物体が浮かん
インドの研究者などからもお見舞いの言葉や
でいるのに気がつき、写真に撮影している(写
メールが寄せられた。六角堂を失ったことによっ
真1)
。停電によって固定電話が不通となったた
て、そのイメージがさまざまな人々に広く浸透
め、他の係員が茨城県天心記念五浦美術館の入
していた掛け替えのないものだったのだという
口広場に設置してある公衆電話から大学本部へ
ことを、改めて思い知らされた。
六角堂流失を報告した。
本稿では、六角堂の被害の状況を概観し、岡
茨城大学調査団の報告書によれば、津波は地
倉天心の建設の意図を考察することでその存在
震から30分後の15時20 ∼ 25分頃に第一波が押し
意義を再確認し、復興計画の見通しを報告する
寄せた。六角堂脇の火災報知器が斜めに折れ曲
こととしたい。
がった様子(写真2)などから、六角堂はその
引き波で土台から引き離されて崩壊し、破片化
1.東日本大震災による五浦美術文化研究所
の被災状況
しながら沖へ流されていったと推定されている。
調査団は、六角堂の通路脇の石詰み壁の損壊状
3月11日の状況は、当日勤務の村山進管理人
と安藤寿男理学部教授(茨城大学東日本大震災
調査団地質災害グループ)の報告をもとに整理
すると次のような概略となる。
14時46分ごろ、村山管理人は天心邸内の清掃
を行っていた。そこへ地震が発生し、建物外へ
避難した。村山氏によれば立っているのがやっ
との状態で、目の前の天心邸玄関の廂を支える
柱が、束石からずれてブランコのように左右に
振れるのを茫然と眺めていたという。揺れが収
まってから敷地内を巡回して、当時入場してい
写真1
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小泉 晋弥(こいずみ しんや)
昭和28年 福島県生まれ
昭和52年 東京芸術大学美術学部卒業
昭和55年 東京芸術大学大学院美術研究科修了
昭和59年 いわき市立美術館学芸員
平成2年 郡山市立美術館学芸員
平成8年より茨城大学教育学部助教授、
現在茨城大学教育学部教授、五浦美術文化研究所
副所長
【専門分野】
日本近代美術史、博物館学
著書等に『岡倉天心と五浦』
、『岡倉天心アルバム』
(中央公論美術出版)、
『斎藤芽生画集』
(美術年鑑社)
等
況や植生の痛みの状況から、六角堂での浸水高
に大きな亀裂が走っている。建物全体にゆがみ
を7.3mと推定している。調査時である4月6日
が生じたため、障子、襖などの建具が動かなく
午後2時の潮位と、3月11日15時30分の津波到
なっている。天心邸前の砂利道脇に設置してい
達時の潮位は、いずれも気象庁小名浜潮位基準
たベンチ2台が、海側に数mほど流され、崖際の
面+40cmとしている。その30分後、午後4時頃
柵にぶつかって止まっていた(写真3)
。大人の
にも津波の第二波が襲来しているという。
膝程度の高さでも、コンクリート足の200kg以上
天心邸付近では、北東側の海食崖から津波が
のベンチを押し流す、引き波のエネルギーの大
遡上し、天心邸、「亜細亜ハ一な里」石碑、池ま
きさが実感される。この平場の海面からの高さ
での敷地全体が浸水した。この付近の水位は旧
は10.2mであったため、天心邸での津波の遡上高
天心邸の南東側廊下の敷居まで達しており、平
は約10.7mと推定される。
場床からの浸水深は55cmだった(図1)。天心邸
六角堂は五浦海岸の大五浦(北側)と小五浦(南
は、一部の柱が束石から外れ、床の間脇の土壁
側)と呼ばれる太平洋に面した小さな入り江の
間に突き出た半島状の岩礁の高台に建っていた。
この奥まった内湾地形のために、太平洋から直
撃した津波は他の地域よりも到達高度が高まっ
て、茨城県で最も高い遡上高記録をここで記録
したと考えられる。
残された六角堂の基礎部分と床板は、平成元
年∼3年に茨城県による海岸線の補強工事の際
に補修されたものである。当時、長年の荒波で
波打ち際が削り取られ、六角堂を支える岩盤は
崩落の危機にあった。このとき六角堂の建物全
写真2
体を吊り上げて移動し、岩盤のひび割れをふさ
図1
写真3
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写真4
ぎ、土台を補強
と日本美術院を創設した。革新的な日本画を世
した(写真4)。
に送り出したが、その前衛性が当時の鑑賞界に
六角堂の周囲
受け入れられず危機的状況を迎えていた。そこ
の転落防止用の
で明治38年に日本美術院を再編成して、横山大
石詰み壁は、北
観、下村観山、菱田春草、木村武山を五浦に呼
側と南側でそれ
び寄せ、日本画の近代化を目指した美術活動を
ぞ れ 幅1.5メ ー
指導し、明治40年の文部省美術展覧会で復活を
トルほど崩落し
果した。これが日本美術院の「五浦時代」と呼
た。その他、長
ばれる画期であった。
屋門は、一部の
天心没後、昭和17年に財団法人岡倉天心偉績
柱と梁のあいだ
顕彰会が設立されて天心の遺族からこの地の管
に若干の隙間が
理を引き継いだ。戦後、天心偉績顕彰会理事長
見られる程度で、
となった横山大観は、しかるべき公的機関が管
被害は軽微であった。また天心記念館では、前
理すべきと考え、茨城大学に寄贈を申し出た。
年度に免震台を設置していたため、
《五浦釣人像》
昭和30(1955)年に、茨城大学に受け皿として、
の転倒は免れた。「亜細亜ハ一な里」の記念碑も
五浦美術研究所(後に五浦美術文化研究所と改
地震による倒壊を免れた。
称)が設立され、この地を管理することになった。
また、日本美術院研究所跡地の公園について
天心の愛娘米山高麗子がここで暮らしながら、
は、地震により石碑が建つ平地の奥で、園路の
茨城大学が管理するという条件だったようだ。
階段が10m以上に渡って崩落している。
当時、研究所の敷地内には長屋門、天心邸、六
角堂、土蔵が残っていた。昭和38(1963)年には、
2.茨城大学と六角堂
平櫛田中からの《五浦釣人》の寄贈を受けて、
「天
今回、さまざまな報道で六角堂の被害を知っ
心記念館」が建設され、それを機に、平櫛田中
て復興のための寄付を申し出られた方々の中に
作の《岡倉天心像》のほか、遺品、関連美術作
も、茨城大学の付属施設であることを意外とさ
品の寄贈が増加した。天心記念館には、それら
れる方が決して少なくない。六角堂が茨城大学
遺品の一部、天心の釣舟「龍王丸」などを展示
に移管された経緯を概観し、天心が六角堂に込
している。
めた意味について確認しておきたい。
平成9年には、日本美術院研究所跡の上部の
岡倉天心(本名覚三、1862 ∼ 1913)は、生涯
丘に茨城県天心記念五浦美術館が開館し、天心
の前半を文部官僚として近代日本の美術行政の
の墓所、大観の旧別荘と併せ、風景を楽しみな
確立に尽力し、若くして博物館部長、東京美術
がら日本文化史上の偉業をしのぶ人々も多数訪
学校(現東京芸術大学)校長の要職を兼務して
れている。
いた。しかし、明治31(1898)年にスキャンダ
ルにより職を辞して、賛同する仲間や教え子ら
そもそもなぜ天心はこの地に居を求めたのか。
明治36(1903)年5月、天心は、茨城県磯原町
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出身の画家飛田周山の案内で、海岸の別荘を探
届けを提出しているところである。
し求めていた。福島県いわき市の沿岸にやって
きたが気に入らず、帰途立ち寄ったのが五浦だ
3.六角堂の意義
という。天心は、白砂青松の海岸線よりも、ダ
さて、六角堂という変わった建造物について
イナミックで変化に富んだ五浦の景観に魅了さ
は、長く天心が開扉した法隆寺の夢殿と結びつ
れ、早速土地を購入した。当初は「観浦楼」と
けて考えられてきたが、近年の研究(熊田由美
いう古い料亭を住居としていたが、明治38年に
子「六角堂の系譜と天心」
『岡倉天心と五浦』中
は、みずからの設計により邸宅を改築し六角堂
央公論美術出版)によって、新たな展望が開けた。
を建築した。当時の資料からは、当時の天心邸が、
それによれば、六角堂のイメージに天心は少な
風呂棟や離れ座敷を備えた建坪107坪の広大なも
くとも三つの意味を込めている。一つには亭子
のだったことがうかがえる。現在はその半分に
建築の思想、二つめは仏堂の思想、三つめに茶
縮小されている。前庭には、現在のような松の
室の思想である。
巨木は見られず、天心がボストンから持ち帰っ
亭子建築とは、中国の文人たちが自然と一体
た芝生が一面に広がるモダンな眺めだった。や
になって瞑想にふけるための小建築である。天
や離れた崖上には、大観の居宅を臨むことがで
心は中国調査旅行で、四川成都の杜甫旧居を訪
きた(写真5)。
れ感銘を受けている。そこには、住居から下っ
天心は、明治39年には、新潟県赤倉にも山の
て川に面した場所に草堂が立てられていた。天
別荘を設け、都会を離れた二つの拠点で文人的
心が訪れた頃には清代に再建された六角の東屋
な生活を実践することになった。赤倉の天心邸
があった。そこで詩想をはぐくみ、釣りを楽し
は腐朽してしまったため、明治時代に天心が実
んだ杜甫の境地に天心も憧れたに違いない。五
際に生活した建築物は、この五浦の六角堂、長
浦の六角堂のパノラマ的な窓の取り方は、園林
屋門、天心邸のみである。この3棟は、歴史的
亭子としての解放感を取り入れた工夫であった
景観として平成15年に登録文化財に認定されて
だろう。
いるが、六角堂については、現在文化庁に減失
六角堂の仏堂としての性格は、屋根の上の宝
珠と赤い色彩にはっきりと現れている。熊田氏
によれば、仏堂としての六角堂の伝統は、京都
の頂法寺に始まるという。聖徳太子の念持仏を
祀ったといういわれのある仏堂は、やがて町衆
の自治の拠点となり、戦乱の際には避難所とし
ての役割も持った。この流れで、岐阜の鹿苑寺
地蔵堂のような六角の辻堂が生まれたのだとい
う。さらに、六角堂が親鸞上人の浄土真宗と結
びついているという熊田氏の指摘は重要である。
写真5
親鸞が頂法寺六角堂に百日参籠した際、95日目
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に、聖徳太子が夢に現れ「行者宿報設女犯我成
心の一種の屈託のなさも、屋根を支える肘木や
玉女身被犯一生之間能荘厳臨終引導生極楽」(親
斗が菱形に押しつぶされているのをそのまま認
鸞の宿業である女犯の罪は、私が女性に変身し
めているところなどに感じられる。宮大工でも
たものとして許そう。一生輝かしく在らせ、臨
ない地元の大工の苦心の跡を天心は面白がった
終の際は極楽に導こう)という偈を下したのだ
だろうと思う。見るものによって感じ方が変わ
という。熱心な浄土真宗の仏教徒であり、しか
るあたりに六角堂が、つまりは天心が時代を超
も自身も女性関係での悩みが多かった天心が、
えて人をひきつける秘密があるのだろう。当の
このことを知らずに六角の仏堂を建てるはずは
天心は、これを「観瀾亭」と呼んでいたことが
ない。
解体修理の際に判明した。
「茲に明治参拾八年六
亭子や仏堂では考えられない床の間の存在が、
月吉辰常陸国大津町五浦の海に面して六角形観
茶室としての六角堂を表している。天心はおそ
瀾亭子壱宇を造立す主人天心居士大工平潟住小
らくここに絵画や書を掛け、目前の太平洋のパ
倉源蔵」という直筆の棟札が発見されたのだ。
「観
ノラマを眺めながら、中央の六角形の炉で湯を
瀾亭」は「大波を見る東屋」という意味だが、
沸かし茶をたしなんだだろう。天心がボストン
天心は一時も休まず動き続ける波を宇宙の原理
で『茶の本』を出版したのは明治39年だが、六
(道)にたとえていた。私たちも、変化してやま
角堂が完成したのは明治38年6月だから、『茶の
ないにも拘わらず確固として不変である宇宙の
本』と六角堂の構想は五浦とボストンを往復す
姿を確認する装置としての六角堂から世界を眺
る中ではぐくまれただろう。天心は六角堂でも
めるべきなのだ。
陸羽の『茶経』などをひもといたと考えられる。
さらに、最近年の安藤寿男(茨城大学理学部)
六角堂の床の間を観察すると、柱の側面に埋木
教授の研究が、新たな視点を開いてくれた。六
をした跡が見られた。それはちょうど他の窓面
角堂前の岩石を研究したところ、
「炭酸塩コンク
の上下の框の位置と一致している。おそらく当
リーション」という特殊な経過でできた鉱物で
初の予定では、そこも窓だったのではないかと
あることが判明したのだ。この地形は、はるか昔、
思う。
『茶の本』の構想が進むにつれて、六角堂
深海からメタンガスが吹き出していたのだとい
に茶室のイメージを重ねたのだとしたら、天心
う。その回りに微生物や貝などが密集して生息
が思想を具体化して表現する様子がうかがえて
していた。それらの生物由来の炭酸ガスが海中
面白い。
のカルシウムと反応して、天然のコンクリート
『茶の本』で天心は、芸術の価値は、結局見る
を形成したらしい。六角堂の建つ岩盤には、た
人間の感じ方なのだと主張している。天心が私
くさんの貝の化石が見られるのはその名残らし
たちに差し出した作品として六角堂を考えると、
い。また海中に林立する奇岩もその岩石だとい
抽象的で理詰めの側面とおおらかで開放的な側
う(写真6)。天心は、その光景に中国の文人庭
面が同居している。中国文人に通底する道教と
園に不可欠の太湖石を重ねて見たのではないだ
日本人の血に溶け込んだ仏教、さらに茶の芸術
ろうか。ここに亭子を建てれば弄せずして大庭
を重ねる思想の深さがまずある。だが同時に天
園が完成する。しかも安藤教授によれば、この
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本美術院遺跡公園は上述のように、大きな崩落
により、現在も閉鎖されている。天心記念五浦
美術館は、浄化槽のダメージがひどく、その時
点では開館の見通しが立たない状態だった(現
在は11月1日に再開の予定)。茨城大学としては、
六角堂と天心邸は、遅くとも年度内復興という
方針を伝え、それぞれの立場で連携をとりあっ
て復興にあたることが確認された。
六角堂の復興はまず、6月6日、14日、20日
写真6
の三回にわたる付近の海底調査から開始された。
ような奇岩を観察できる場所は、国内で3ヶ所
しかし引き上げられたのは瓦と宝珠の破片のみ
しか存在しないという。五浦だけが海に面して
で、創建時をしのぶ柱、梁、桁の類いは発見で
いるらしい。
きなかった。ダイバーによると、六角堂の沖合
六角堂には、京都の頂法寺のような聖徳太子
は海底が砂地のため、潮の流れによって材木類
と親鸞ゆかりの仏堂の姿、『茶の本』のテーマで
は遠方まで流されたのだろうという。ただ、宝珠
ある茶室の姿が重ね合わされ、さらに杜甫の草
については、その瓦の材質から、創建時のもの
堂などに見られる中国の園林亭子の姿でもある
と推定される。また、三回目の調査時に、六角
ことが確認された。六角堂が荒々しい海と崖の
堂直下の海中から小さな水晶が発見された。
ぶつかり合う風景の要となることによって、五
7月7日、社団法人茨城県建築士協会が六角
浦の風景を一つの絵のようなパノラマに変えて
堂再建を支援してくれることとなり、茨城大学
いた。それが失われた現在、自然の姿のみが際
との合同再建会議が開催された。幸いに、火災
立っている。六角堂を再建する意義もここにあ
による消失を恐れて昨年度作成した実測図や過
るだろう。
去に実施された改修工事の際の図面等から、建
物の概要は把握可能であったが、実際の建築と
4.復興への見通し
なると詳細な実施設計図が必要であり、大学の
5月12日、茨城県天心記念五浦美術館におい
復旧そのもので手一杯の施設課の能力を超える
て、茨城大学、茨城県(天心記念五浦美術館)、
心配があった。それが茨城県建築士協会の全面
北茨城市、財団法人日本ナショナルトラスト、
的なご協力によって、建設のための実施設計図
天心偉績顕彰会の代表者による震災後初の意見
を作製していただけることになった。7月7日、
交換会が開催された。これらのメンバーは、長年、
20日、8月22日、9月13日と、構造の専門家、
五浦地区の施設の管理運営について意見交換を
伝統工法の技能継承者など多才な協力者の方々
行ってきたが、今回は被害状況と復興見通しの
と大学関係者の打ち合わせを重ねた結果、下記
確認がテーマとなった。日本ナショナルトラス
のような基本方針で六角堂復興を図ることに
トの管理する天心墓地は被害がなかったが、日
なった。
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(1)六角堂は明治38年の創建当初の姿の復元を
(6)土台は、当初の素朴な石積みの外見をとり
目指す。
ながら、耐震上充分な強度を確保する。
六角堂は大学に移管されてから、天心生誕百
昭和58年の修復時に貼り付けられた石を撤去
年を期した昭和38年の解体修理、昭和58年の基
したところ、当初の茨城産と推定される石灰質
礎部分の修理、平成元年∼3年にかけての護岸
砂岩の平詰みだったことが判明した。構造を検
修理時の補修と大きな改修が行われてきた。今
討しながら、当初の外観を復元する。また、土
回は、天心が建設した創建当初の姿を目指す。
台には免震用ゴムをかませる。
(2)瓦は、昭和38年の改修工事で桟瓦(9寸幅)
に葺き替えられたが、明治38年の本瓦(8寸
幅)で復元する。
(7)建物全体の彩色は、明治38年当時のベンガ
ラ彩色を研究して実施する。
(8)窓ガラスは、当時国産品では六角堂のサイ
(3)宝珠は、創建当初のものと推定されるが、
ズに対応できないことが分った。ボストンか
破損が激しいため、3Dスキャンにより当初の
らの輸入品だった可能性がある。当時の製法
形態を復元し焼成を行う。
による再現を試みる。
宝珠は、昭和33年の台風時に落下したらしい
という情報があり、内部の漆喰や焼成の具合も
以上の方針で11月着工、来年3月の竣工を目
それを裏付けている。現在、東京藝術大学彫刻
指して、現在実施設計図の作成作業に入ってい
保存学科の協力を得て、3Dスキャンで、破片を
る。六角堂が五浦地区の復興のシンボルとして、
再構成して復元模型を制作中である。宝珠を載
震災の一年後には、再び多くの方々の前に姿を
せていた露盤も昭和38年に新たに付け替えられ
見せることを目指したい。
たと考えられる。戦前の写真をもとに、当初の
姿で復元する。
(4)昭和38年の改修で変更された南側の出窓は、
5.六角堂復興がもたらすもの
先に述べたように、六角堂が失われた五浦の
記録等を検討して当初のものに戻す。
風景は、自然の景勝地に過ぎない。もちろんそ
過去の写真と昭和32年当時の図面からは、南
れで充分という声もあるだろう。しかし、およ
側の窓は、当初掃き出し窓のような状態であっ
そ百年前に岡倉天心がこの地に居を定めて以来、
たと推測される。
五浦は日本の近代文化の一種の聖地としての役
(5)昭和38年の改修で撤去された中央の六角形
割を果してきたのだ。それがあればこそ、日本
の炉を再現する。
美術院と仏像修復を行う美術院の人々が詣で、
過去に五浦の建築物を実証研究した後藤末吉
茨城県天心記念五浦美術館が開館し、多くの美
氏(元五浦美術文化研究所長)によると、戦前
術愛好者が訪れる場所となったのだ。それだけ
∼戦後に六角堂に立ち入った複数の人間が、中
ではない。茨城大学を訪れるインド人の研究者は、
央に六角形の炉が切ってあったと証言している。
ほぼ全員がこの六角堂の見学を望む。それは、
その中には、炉をまたいだという記憶があり、
天心と親交を結んだタゴールにちなんでのこと
それらを元に再現することとする。
だ。ここでは詳細に触れられなかったが、タゴー
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ルがノーベル賞を受賞したアメリカ記念講演旅
来年にはクランクインして、年内の公開を目指
行で、日本に立ち寄り六角堂を訪れたのは偶然
している。撮影スタッフは、流失した六角堂に
ではない。また、天心が大の中国文化愛好者で、
代わってセットを組むプランを検討したという
ボストン美術館の中国コレクションの基礎を
が、今回の復興計画を知って、六角堂の建設そ
作ったこと、五浦の光景は中国文人の園林亭子
のものを映画の中に取り込むこととなって、急
そのものであることなどを伝えると、中国のテ
きょシナリオを変更している。海中捜索からは
レビ局スタッフは多いに関心を示した。今後、
じまって、着工、建設経過、竣工までの記録を
ますます深まる日本とアジアの交流を考えると
担当してくれることも決定した。その映像は、
き、「アジアはひとつ」というヴィジョンの先駆
茨城大学六角堂等復興基金への協力者へ御礼と
者である天心の遺跡は、茨城県にとっての重要
して配布することも検討している。
な資源の地位を失いはしないだろう。
さらに、今回流失した六角堂を復元する過程
また、去る9月5日、日本ジオパーク委員会
で、過去に六角堂が台風の被害にあったことな
から「茨城県北ジオパーク」が正式に認定され、
ど、これまで不明であった事柄を歴史的に検証
五浦の海岸は、地質学と文化が見事にクロスし
する大切さを思い知らされた。六角堂が復興す
た拠点地区として、重要な位置づけを今後担う
ればすべてが修了という訳ではない。平成23年
ことになった。早くから五浦地区の解説ボラン
の大震災と津波の被害を、何らかの形で後世に
ティアが活動していたが、今後はそれにジオパー
伝えることも、今回被害を受けた私たちの責務
クのインタープリターとしての役割も加わって、
と考えている。そのために、海中捜索によって
北茨城地区に新たな観光資源が生まれようとし
引き上げた品々や、復興までの記録を展示する
ている。
復興記念館の建設も視野に入れている。台風に
そして平成24(2012)年は、天心の生誕150年、
よって被害を受け、昭和58年に取り壊され、現
没後100年に当たる。その時期には、日本国内で
在土台だけが残された土蔵を復元して、そのた
の様々な展覧会や行事が企画されているが、茨
めの施設として活用することを検討している。
城大学が関わっているプロジェクトで最重要な
天心の記憶、日本の近代化の記憶、そして今回
ものは映画「天心」だろうと思う。岡倉天心の
の大震災の記憶を確認する場所として、六角堂
偉業を世間に伝え、イメージを共有してもらう
を含む茨城大学五浦美術文化研究所の再開を新
ために、映像の果す役割は大きいと思われる。
たな一歩としていきたい。
実行委員会特別顧問に茨城大学学長が名を連ね、
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