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「韓国新幹線」国際入札について
No.57 H8.11.1 鉄 道 友 の 会 福 井 支 部 「韓国新幹線」国際入札について 多田 健治 「わだち」56 号、岸本雅行氏の「セマウル号に乗って」の文を読んでいて、僕にはふと次 のようなことが心に浮かんだ。日本の新幹線開通は東京オリンピックに間に合ったが、韓国 のそれは、慶州あたりの遺跡の発掘などで 2002 年のサッカーワールドカップ戦に開通でき ないというニュースに同情しているのではない。ソウル∼プサン間の新幹線入札に、日本を はじめ欧州の鉄道大国フランス・ドイツ・イタリア・スペイン・イギリスなど新幹線建設に 実績のある国々が国際入札を行ったときの話である。当時、日本のマスコミや JR 関係者ら は、地形・風土・沿線の人口動態も韓国に似ており、歴史も長く、その時点では死亡事故ゼ ロと無事故に近い日本の新幹線技術が採用されるであろうと考えていたようだ。資材調達も 日本国内の延長線上と至近な地の利もあり、総列車運転本数も欧米列国との比較において断 然有利と高を括っていた節が多分にあったと思う。 しかし、僕には、この入札は SNCF(フランス国鉄)に必ず落札すると信じて疑わなかった。 その理由は、昭和 30 年代に読んだ星晃さんの「フランス国鉄留学記」を思い出したから である。今でも書庫の片隅に眠っていると思うが、その本は戦後には珍しくアート紙で横書 きという斬新さと小さいながらページごとに関連写真も載っていて、まじめで几帳面で克明 な描写ぶりは、その後僕を欧州鉄道の虜にさせた本でもあった。当時まだ大学を卒業して日 本国有鉄道へ勤務し肩書きさえろくになかった星さんは、フランス国鉄の将来のお客さんと して迎えられ、連日 SNCF の本社に通うかたわら地方の機関区・客車区・貨車区の見学には 破格のもてなしを受けていた。遠く北欧・スペイン・ポルトガル・ドイツ・オーストリア・ スイス・イタリアへも SNCF の担当者を付けてのサービスぶりであった。日本では当時、戦 前からのオロ・オハ・カニなど 40 ∼ 50 トンクラスの重量客車オンリー時代であったが、星 さんが中南欧への研修出張の時、SBB(スイス連邦国鉄)の客車の軽量化にヒントを得て、 窓枠なし新スタイルのナハ 10 系・ナハネ 11 系などの 30 トン台新型軽量客車の出現に先鞭 をつけたというルーツ物語もあったと思う。 -1- しかしである。それほどまでにもてなされ、遅れていた鉄道技術や高速化への過程を惜し まず公開してもらい恩になったフランスから、機関車・客貨車一両さえも買い付けなかった。 そればかりか、2 年あとにはフランスの大得意先であったインドでの国際入札で、電気機関 車 10 数台を、戦勝国で日本国鉄にとって恩師でもあるフランスに競り勝ってしまうのであ る。その後、かつての宗主国であるフランスが絶対の地盤にしていた北アフリカ諸国(モロ ッコ・チュニジア・アルジェリア)やトルコなどが極東日本の軍門に下っていったことは、 国際商法に照らしての悪徳商売ではないにしても、戦勝国フランスにとって面白いことでは なかっただろうということは容易に想像がつく。新幹線でも水をあけられた頃から、欧米諸 国での日本認識は、義理・人情・サムライの国から段々とエコノミックアニマルヘと評価が 変わっていったと僕は思う。だから、鉄道先進国であり戦後日本国鉄への技術指導にも寛大 であったフランスでは、宿敵日本の目の前での韓国新幹線受注ににおいて、単に経済や技術 の間遠でなく、少々経済を無視しても国家の威信が問われると政治問題化していた。また、 戦後の SNCF 技術陣の亡霊たちの怨念も加わっていると見てとったのは、特にうがった見方 ではないと思った。加えて韓国の当時(現在もそうだが)の嫌日・反日の国民感情の強さから、 韓国が日本を入札のアテ馬に仕立ててケチでプライド高いフランスの入札価格を叩き、日本 には脈がありそうに匂わせておいて後でガックリさせて一矢報いるという一石二鳥の、した たかで巧妙で高度な戦略を立てるということは想像に難くはなかった。果たしてやはり、フ ランスは入札最有力と言われていた日本の鼻の先での戦いに勝って溜飲を下げたのである。 国家の威信をかけた勝負に勝ったことはフランスにとって大きかったことはもちろん、発 展するアジア、特に成長著しい中国やかつての支配国ベトナム・カンボジア・ラオスなどメ コンデルタ流域での投資に大きな楔を打ちこむという政治的目的も一応達せられたと見るこ とができる。P.カルダン・C.ディオール・L.クーィトン、そしてシャンパン・ナポレオンし か買ってもらえない日本との勝負は、21 世紀には GNP 世界一になるといわれる中国の大型 鉄道プロジェクト、北京∼南京の新幹線計画である。韓国で弾みをつけたフランスは中国と 共に、フランス料理 VS 中華料理、フランス語圏 VS 中国語圏と伝統の文化を大切にして異 常なまでに自国中心主義の強い政治大国である。中国と文化面でも関係の深い日本とフラン スの壮絶な政治・経済戦争になることは間違いないと思っている。その頃は、EU をバック にユーロゼネコンカンパニーを作って、いわゆる株式会社ニッポン VS 株式会社 EU での争 いになるかも知れない。発展アジアの経済の主導権争いに、僕は日本の将来の問題として大 いに興味をもっている。 まさに、毛沢東が『戦争とは血を流す政治であり、政治とは血を流さない戦争』と言った お膝下で。 -2- 事務局だより 11 月 例 会 の ご 案 内 11 月 17 日(日)13 時∼ 16 時 呉服町コミュニティセンター 2 階会議室 電話… 21 − 2299(管理事務所) 21 − 0761(2 階会議室) 呉服町コミュニティセンター(呉服町商店街振興組合センター)は、福井鉄道裁判所前電 停から西へ 300m ほどの距離にあります。呉服町通りを南から来た場合、福井銀行の北側の 細い道を少し東へ入ったところで、駐車場もあります。 今回は、中国の鉄道に関する研究発表・韓国の鉄道のスライド映写などを予定しています。 多数ご参加下さい。会員以外の方の参加も大歓迎いたします。 「福井鉄道鯖浦線線廃線跡巡り」報告 10 月 20 日(日)は小雨模様で選挙と重なったこともあり、参加者は 7 名と少なめでした が、13 時過ぎに JR 鯖江駅をスタートしました。野尻繁生氏作成の廃線跡地図(現在の住宅 地図に当時の線路を正確に書き込んだもの)を片手に鯖江駅北側の住宅街を歩いてみました が、廃線後 30 年以上経過しているためか、当時の面影はほとんど残っていませんでした。 しかし、福武線と立体交差していた旧水落駅(当時の水落駅は、現在の水落駅の少し南側に あった。)付近では、橋脚跡や築堤の一部が残っており、参加者一同感激して往時を偲びま した。旧水落駅より西側は、廃線跡のかなりの部分がサイクリングロードとして整備されて おり、私達は 3 台のクルマに分乗して陶ノ谷駅跡まで探索しました。陶ノ谷駅跡はプラット ホームとレールがそのまま残り、公園として美しく整備されていました。この後、西田中駅 跡近くの喫茶店で休憩して解散しました。機会があれば、自転車に乗ってさらに詳細に調べ てみたいものです。 情報コーナー 福井鉄道ダイヤ改正 福井鉄道のダイヤが 11 月 1 日から改正され、上下 1 本ずつが増発されました。終電車が 15 分繰り下げられ、最終まで普通列車が 30 分ヘッドと乗客にとって利用しやすいダイヤとな っています。過疎地の第 3 セクター鉄道などでも、列車の増発が乗客増加につながった例が 数多く報告されています。この改正により乗客が増加し、さらに列車が増発されることを期 待しています。改正の概要は次の通りです。 <下り・武生新発> <上り・福井駅前発> 急 6:30 …新設 急 19:00.急 19:30 …休止 20:40.21:30 → 20:15.20:45.21:15.21:45 準急 20:20.20:55.21:35 ↓ 20:20.20:50.21:20.21:50 -3- ◎ 終 着 ★﹁熊が電車にはねられ 即 死 ﹂。 い た ま し い 事 故 ? で 駅 ◎ 無いのだが。熊君のご冥福を 祈る? のみである。 先 ありがとうございました ★小生、最近はやりの痴ほ う症老人に急速進行中? 日、光明寺駅で下車のところ、 勘違いし、福井寄りの下志比 駅で降りようとして、同駅を 二、三メートル進んだ電車を、 読よろしくお願い申し上げます。 ある。八月二十九日、小生 の利用する京福本線志比堺 駅付近での出来事。乗客に はけが人が無かったとのこ と。現場は、一方が山で線 路を挟むように反対側は住 大きな声で﹁降ります﹂と叫 び止めてしまった。光明寺駅 は、八百メートル彼方に。乗 客の冷たい視線を浴びて、赤 面のいたりであったが、光明 寺駅下車時には運転士氏は嫌 な顔もせずに﹁ありがとうご ざいました﹂との声に、救わ しつつ、これからもこのよう れた気持ちなり、同氏に感謝 に乗客に接してほしいものと -4- 宅密集地区であり、かつて 数年前にも谷を越えた所で、 山菜採りのお年寄りが熊に 襲われ死亡事故が起きた。 昨今は、宅地造成などで自 然破壊も進み野山の動物た ちも住みにくくなり、今後 もこのようなことが発生す るのでは⋮。 先述の熊君。三十トン以上 ★哀れをとどめたのは、 もある鉄の塊である電車と 願ってやまない。 ︵雄司︶ 格闘したところで勝ち目は 、 退任のあいさつ 中山 博幸 「わだち」10 号以来続けておりました編集長を今回をもちまして退任することになりま した。 理由としましては私生活(会社等)の面で多忙になって来たことです。 なんとなく始まった「わだち」の復活も早足掛け 7 年、ここまで続いたのも読んでく ださった皆さんのお陰と感謝しております。 私が編集長を辞めたと言っても「わだち」はこれからも続いて行きます、益々のご愛