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No.126__9月

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No.126__9月
鉄道友の会 福井支部報
わ
だ
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(▲ 2009 年 7 月 11 日
ち
No.126
chi
平成21年9月号
福井鉄道福武線
武生新駅
撮影
森家和治)
福井鉄道でビア電号運転!
福井鉄道では、走 る ビア ホ ー ルこ と 「 ビア 電 号 」 が 7 月 10 日 か ら 8 月 9 日 ま
で 運 転さ れ ま した 。
福井支部
URL
ホームページアドレス
http://www.geocities.jp/railfan_fukui/
電 車 モー タ ー を 設 計 し て い た こ ろ
∼ 昭和 40年 代の 製造 現場か ら ∼ (3)
【4】京成初代AE車用 TDK8500-A
昭和45(1970)年4月、京阪8120-Aが佳境に入ろ
うかというころ、京成電鉄から新型車の情報が
伝り、翌月には着手せよとのことだった。
(1) 京成初代AE車とは Airport Expressの略。
羽田に代わる新東京国際空港が千葉県成田市に
決定されたことから、京成では成田から新空港
まで約7kmの空港線を建設し、上野から専用
の特急車両を走らせることとした。昭和47(1972)
年2月から3月にかけて、日本車輌と東急車輌
で第1次車5編成30両が落成した。
図-4
京成 初代AE車
昭和49年11月8日
京成成田で
京成ではカルダン車初の750形以来3300形ま
で、モーターと台車は2社併用が続いてきた。
住友金属の台車に三菱のモーター、汽車会社の
台車に東洋電機のモーターという組合せだった
が、AE車は住友-東洋のみとされた。制御装置、
駆動装置も東洋、補助電源は東芝、ブレーキと
空調は三菱となっている。この組合せは2代目
AE100形を経て、今年お披露目された3代目AE
車(正式型式は「AE形」、北総線・成田高速鉄道アクセス線経
由で160km/h運転) にいたるまで変わっていない。
ぎそう
車体と艤装は帝国車両、汽車、日車の3社で
戦後のスタートを切ったが、帝国が東急に、汽
車が川重に併合されたのち、川重は昭和54年の
3575編成を最後に京成から撤退している。
(2) 界磁チョッパによる定速制御 東洋電機で
は高速電車MT59Xの反省もあって、今度は回
生ブレーキを備えた界磁チョッパによる定速運
渡邊 誠
転システムを提案した。特急専用車であること
から起動停止の頻度は少ないが、京成本線はカ
ーブによる速度制限箇所が多く、力行と制動の
繰り返しが意外と多い。そこを定速制御するこ
とにより、運転士の操作軽減と省エネルギーを
図ったものである。
主電動機は4個直列2群並列のままで直並列
切換はない。定速制御と回生ブレーキは50∼115km/h
の範囲で無段階に作用するが、永久並列なので
45km/h以下では空気ブーレーキのみとなる。
停車時に回生ブレーキが利かないのは画竜点睛
を欠くような気もするが、走行曲線 (線路条件と
ダイヤによるシミュレーション) を描いて検討の結
果、十分な電力回生率が見込まれると判断され
た。定速運転と回生ブレーキの理念は、AE100
形から3代目AE形にも引き継がれている。
東洋電機にとって定速運転は昭和38(1963)年
の名鉄7500系以来7年ぶりであるが、この間に
分巻界磁の制御方法はトランジスタと磁気増幅
器から界磁チョッパへと大きく進歩した。
この頃は半導体も自社生産していた。昭和42
(1967) 年に都営1号線で主回路チョッパの現車
試験、翌43年には同じ都営の6000系に世界初の
静止インバータが採用されたのを皮切りに、初
期のVVVFまで自
社製半導体が用
いられたが、GTO
か ら IGBTと 進 む
につれて開発費
用が経営負担と
なり、現在では
三 菱 か ら 買 っ て 図-5 WN継手のモーター側
のみ装着したTDK8500-A
いるらしい。
主電動機諸元
・方式
直流複巻補極補償巻線付自己通風
・型式
TDK8500-A
・1時間定格出力
140kW
・電圧
375V
・定格電流(直巻)
415A
・定格電流(分巻)
23A
・定格回転数
1450rpm
・許容回転数
5000rpm
・定格界磁率(分巻) 100%
・最弱界磁率(分巻) 10%
・許容過電圧
450V
・絶縁種別
電機子H種、界磁H種
・重量
910kg
(3) 補償巻線 私鉄向けの主電動機には補償巻
線を持つものも多かった。直流電動機は電圧を
上げることのほかに界磁を弱めることによって
回転速度を上げるが、弱めすぎるとフラッシュ
オーバーという致命的な故障をもたらす。これ
を防止するのが補償巻線である。
国鉄ではMT46が通勤型から近郊、急行、特
急型まで全車種、MT54が近郊型から特急型ま
で幅広く使われているが、それぞれ歯車比が異
なるので、主電動機の界磁制御範囲としてはそ
れほど広いわけではない。それに対し私鉄では
各停から快速や特急運用まで一車種でこなすこ
とも多く、主電動機に幅広い速度範囲が求めら
れる。これに対応するのが補償巻線なのだ。
EF62・63とEF64・65はいずれもMT52を装備
するが、歯車比が違う。昭和の末期、信越線で
余剰となったEF62を東海道山陽筋の荷物列車
に転用したところ、信越線では経験したことの
ない高速運転の連続で、MT52にフラッシュオ
ーバーが多発したという。同じ100km/hで走っ
ても、EF65よりEF62のほうが主電動機は速く
回らされるのだ。もし、MT52に補償巻線があ
ったらあのようなことはなかったはずである。
(4) WN駆動 私にとって初の中実軸電動機で
となった。京成にはこれまで三菱との併用であ
るにもかかわらず両社で異なる方式を納めてき
た。営業の努力もあってAE車は東洋電機専売
となったが、駆動方式はWN継手とされた。東
洋電機がWNを積極的に売り込むことはないの
だが、名を捨てて実を取ったといえよう。
(5) TD継手 その後、京成では今日に至るま
で中空カルダンが復活することはなかったが、
WN継手はTD継手に代わっている。
TD継手は昭和44(1969) 年に京王の5000系で
始めて実用化したもので、中空カルダンがモー
ターの両側にたわみ板があるのに対し、2組の
たわみ板を近接させ、WN継手と同等のスペー
スに収まるようになっている。
TD継手のことをTwin Diskの略とする説もあ
るようだが、これは違う
と私は考える。たわみ板
は短冊の組合せであって
円 盤 ( Disk) で は な い し 、
WNが Westing-house社 と
Nuttale社 、そ れ ぞれの 社
名に由来するのだから、
コラム
TD継 手 も や は り Toyo
福井でも鉄道部品が作られていた?
Denkiの略と言えよう。
図-6 TD継手
東洋電機では昭和19(1944)年2月、福井県丹生郡
朝日村西田中にある山仙織物工業の工場を買収し、 (6) TDK8500-Aその後
福井製作所を新設した。主として海軍発注の機上無
AE車は昭和48(1973)年12月30日、3150形「開
線電源を専門に製作し、従業員は戸塚、横浜両工場 運号」から成田山新勝寺への参拝客輸送を受
からの異動と、山仙織物の従業員を転用した。
け継ぐ形で運用を始めた。公募で「スカイラ
軍需産業から解放された昭和20年8月29日、取締 イナー」の愛称が付けられ、昭和49年度のブ
役会で福井工場の生産品目を次のように決定した。 ルーリボン賞を受賞した。昭和52(1977)年と53
車両用制御器部品、小型誘導電動機、
年にそれぞれ1編成ずつ増備され、合計7編
小型三相整流子電動機、柱上変圧器修理
成42両となる。
しかし終戦直後1、2ヶ月は、激烈な戦争から解放
平成になりAE車も登場から20年を経過、こ
されたばかりで、国内は半ば虚脱状態となり、受注
の間に国鉄はJRと代わり253系N'EXを投入し
の増加は望むべくもなく、わずかに電力会社の柱上
てきたことなどからも、新型式車AE100形に
変圧器を修理するのが主な仕事であった。
身を譲ることになり、平成5(1993)年6月まで
ところが、社会の復興には輸送機関の復旧が焦眉
で全車運用を離脱した。
の急務であったことから、戦後いちはやく生産体制
車体は解体されたが電気機器は再利用され
を整えた東洋電機に、国鉄をはじめ全国各私鉄から
車両用電気機器の修理、製作があいついで殺到した。 ることとなり、京成の傍系会社大栄車両で
これに対応するには生産性の向上を図ることが必 3400形通勤車5編成40両が造られた。制御装
要で、立地条件の悪い福井製作所は昭和22(1947)年8 置、駆動装置、パンタとともにこのTDK8500-A
も再度のご奉公となり、30年以上経った現在
月に廃止、翌年9月には閉鎖売却した。
結局、福井で鉄道部品が作られることはなかった。 も成田空港∼京急線羽田空港間のエアポート
参考文献『朝日町誌』ほか 快特や本線特急など、元特急車の特性を活か
して優等運用を主に活躍している。以下次号
丸岡駅近くに地下鉄があった
岸本
雅行
先日、JR 丸岡駅近くで地下鉄を発見しました。このように書くと驚かれる方も多いかと
思いますが、実は、地下鉄と言っても本当の地下鉄ではなく、農業用水工事の地下トンネ
ルに敷かれた工事用の鉄道のことです。この工事とは、農林水産省が実施している国営九
頭竜川下流農業水利事業というもので、九頭竜川下流地区の農業を支える老朽化した用水
路を地下パイプライン化するものです。現在、九頭竜川下流域各地で工事が行われていま
すが、8 月下旬に、そのうちの一つである「十郷 2 号用水路その 5 建設工事」現場(奥村組
が施工)を見学する機会に恵まれましたので、その時のことを報告させていただきます。こ
の地域を流れている十郷用水は、平安時代末期の 1110 年、春日大社・興福寺の荘園だった
九頭竜川右岸の十の郷(現在のあわら市・坂井市の辺り)に水を引くために作られたもので、
900 年に渡って坂井平野の農業を支えてきた非常に重要な用水路です。
JR 丸岡駅から線路に沿って 1km ほど北へ向かった東側に、その工事現場はありました。
建設工事の資材置場みたいな所に現場事務所があり、担当者から説明を聞いた後、ヘルメ
ットを着用して地上にポッカリと口を開いた大きな立坑(縦穴)から階段で 20m ほど地中に
下りました。そこには、水平に丸いトンネルが掘られており、2 本のレールを発見しました。
「十郷 2 号用水路その 5 建設工事」は、この地点(発進立坑)から南東方向の地点(到達立坑)
まで直径 4.55m、距離約 1800m の用水路の地下トンネルを掘るもので、シールド工法(シー
ルド機と呼ばれる刃の付いた巨大な回転装置でモグラのように地下を掘り進む工法)により
行われています。トンネルを掘り進むシールド機と発進立坑の間の資材運搬などのために
軌道が敷かれているようでした。軌間を測ってみたら 762mm あり、軽便鉄道に使われてい
たものと同じ幅です。トンネルを奥へしばらく進むと、はるかかなたからバッテリー機関
車の軽快なモーター音が聞こえてきました。運転手が一人だけ乗り込めるほどの黄色く塗
装された小さな機関車で、後ろには資材運搬用の貨物車両を連結していました。機関車の
製造所は確認できませんでしたが、トンネル工事専用のバッテリー機関車のようでした。
この見学会は鉄道が目的ではなく、私も、まさかこんな地中で機関車に遭遇するとは思っ
てもいませんでした。私以外の参加者の中には鉄道ファンはいなかったようで、私一人が
感激してカメラのシャッターを切りまくっていました。
このようなトンネル工事用の鉄道は、国土交通省が定める鉄道ではなく、機関車も鉄道
車両ではなく、あくまでも工事用の軌道の上を走る工事用車両ということだそうです。ま
た、工事完了後には完全に撤去されてしまうので、廃線跡として記録に残ることもないよ
うです。また、鉄道関係の出版物にも、ほとんど紹介されていないようで、まさに縁の下
の力持ちといった感じがしました。この地下パイプライン化工事は、平成 23 年 3 月に完成
するそうですが、完成するまで、無事故で元気に坂井市坂井町の地下を走り続けてほしい
ものです。
「十郷 2 号用水路その 5 建設工事」の位置
A …発進立坑 B …到達立坑
用水は B から A に流れる。
1/2.5 万「三国」「越前森田」
発進立坑のトンネル入口(地下 20m)とバッテリー機関車
北 陸 圏 の 貨 物 列 車 事 情 (5)
森家 和治
今年 3 月末で、敦賀港線の貨物列車が休止
となり、敦賀港駅はオフレールステーション
となり、南福井駅からトラックでコンテナを
輸送するという方法に変わった。
中国や韓国との貿易において、関西、中京
圏に一番近い港として、もう少し発展性があ
ってもよいのではないか、と思う。
⑤富山県 JR 氷見線 能町駅
前回、廃止となった伏木駅の貨物を紹介し
たが、今回も高岡から延びる氷見線の貨物を
紹介したい。
氷見線は、明治 33 年に中越鉄道として高岡
~伏木間が開業したという、古い歴史を持つ
路線である。そして、高岡から 2 駅目の能町
駅からは、JR 貨物の新湊線が分岐している。
かつては新湊線にも旅客列車が運転されてい
たが、昭和 26 年に旅客営業が廃止された。旧
新湊駅は、加越能鉄道(現万葉線)の中伏木駅
の真横にあり、近年までホームや駅舎が存在
していた。
能町駅は、国鉄時代からコンテナ扱い駅と
して重要な役割を占めていて、北陸圏でも有
数の貨物取扱量を誇っていた。
線に新設された高岡貨物駅へコンテナの拠点
を移し、コンテナ扱いを廃止した。さらに平
成 16 年には化学工場の専用線も廃止となり、
広い構内はがらんとして、錆びたレールが広
がるだけとなった。昔は、JR 貨物の職員が切
符販売などを行っていたが、現在は無人駅と
なっていて、駅周辺は住宅地であるにもかか
わらず、氷見線内でも乗降客は少ないほうで
あり、閑散としている。だが、新湊貨物線の
分岐駅としての役割は大きく、貨物列車はこ
こで運転停車をして、旅客列車が通過するま
で待機する。かつて伏木駅が健在だった頃は、
貨物列車のすれ違いも多数行われていた。現
在でも、貨物列車(DE10)の離合が一日一回あ
り、貴重なシーンを演出している。
▲
2008-6-7
貨物列車のすれ違い 能町
また、私が訪問したときには、旧コンテナ
ヤードに入換動車が多数留置されていた。今
でもあるのかは不明だが、JR 貨物の標記があ
る協三工業の 15t L 形機と、同じく 10t の通称
半キャブ機が数両ずつ留置されていた。
▲
2008-6-7
能町駅
キハ 40 と DE10
さらに、近くの化学工場への専用線もあり、
広いヤードには、コンテナ貨車や黄色いタン
ク車がところ狭しと並んでいた。また、この
専用線は、路面軌道の万葉線と踏切で平面ク
ロスするという、全国でも珍しいポイントが
あった。やがて、ヤードが手狭になってきた
ことと、設備の老朽化から、平成 14 年に新湊
▲
2008-6-7
廃車然とした小型 DL
⑥ JR 貨物 新湊線 高岡貨物駅
前述の氷見線の開業後、大正 7 年に新湊線
が開業し、途中駅として、吉久駅と中伏木駅
があった。その後、加越能鉄道(現万葉線)が
開業したことから旅客が減り、昭和 26 年に旅
客営業を廃止、戦後の高度成長期から貨物輸
送が増え、国鉄の貨物専用線となる。やがて、
昭和 62 年に JR 貨物に経営が移った。北陸圏
では、福井の敦賀港線と、この新湊線が JR
貨物の第一種鉄道事業路線である。やがて、
貨物輸送の主力をコンテナ輸送に切り替える
ため、新しいヤードを作る必要性があったこ
とや、分散していた高岡地区の貨物取扱場所
を 1 箇所に集約するため、新湊線旧吉久駅付
近に新たなコンテナ専用駅の高岡貨物駅が、
平成 14 年に開業し、能町駅の機能が移転され
た。
貨物列車は、高岡貨物~高岡間に一日 3.5
往復となっている。出荷時間で編成の長さが
違うからだろうと思う。高岡貨物駅には、パ
ルプ工場と倉庫会社の専用線も繋がっていて、
この入換作業に日本車両製の 35t 機があたっ
ている。車番は D352 で、伏木駅の D351 と同
型の兄弟である。
▲
▲ 2008-6-7 新湊線を行く貨物列車
現在の新湊線は、能町~高岡貨物間 1.9 キ
ロである。高岡貨物駅は、最新のコンテナ駅
として、発着線荷役方式(E & S 方式)で設置
されている。これは、本線にコンテナホーム
を設置し、列車が到着したら入換作業をしな
くてもコンテナを積み込みできる方式である。
そのため、貨物列車 1 編成分の長いホームに
効率よくコンテナが配置され、すばやくコン
テナの積み降ろしが大型リフトで行われてい
る。ここは非電化なので関係ないが、電化区
間の E & S 方式駅では、電気機関車が牽引し
てくるので、架線の下で荷役作業を行うとこ
ろもある。金沢や富山のコンテナ駅に比べる
と、ずいぶん簡単な配線になっている。
機関車は、JR 西日本の委託機の DE10 で、
高岡鉄道部の国鉄色である。
2008-6-7 D352 高岡貨物駅
この機関車も手入れの行き届いた綺麗な機
関車で、所有者の管理のよさに頭が下がる思
いである。ほかに、倉庫会社の 2 軸小型 DL
もあるが、稼動しているのは見たことがない。
D352 の仕事は、お昼前にパルプ工場の側線で
コンテナ貨車(これは工場内で積込済み)の受
け渡しと、本線での小入換で、活躍時間はわ
ずかである。
駅での撮影は、コンテナがいっぱい積んで
あるので、中の様子を伺うことはできない。
E & S 方式の駅は、基本的に入換がいらな
いので、機関車が忙しく動くこともなく、リ
フトが黙々と貨車へコンテナを積み降ろしし
ている。
▲
2008-6-7
D352
入換作業中
北陸圏では、最新の貨物駅なので、これか
らの発展を期待したい。
< END >
JR西 日 本 特 急 形 183系 、 キ ハ 181系 引 退 せ ま る !
森家
和治
JR 西日本では、特急形車両の新型導入を急ピッチで行う予定で、北陸線では 10 月から 683 系
4000 番台の「サンダーバード」投入に伴い、485 系「雷鳥」が 10 往復から 5 往復に削減される。
さらに、大阪から一部非電化の播但線を経由し、浜坂、香住、鳥取を結ぶキハ 181 系「はまか
ぜ」と、北陸線で活躍した旧 485 系を直流改造した 183 系を使用し、大阪、京都から福知山線、
山陰線を経由し、福知山を交点として丹後、城崎を結ぶ、
「北近畿」
「文殊」
「きのさき」などが、2010
年~ 2011 年度にかけて、新型車両に置き換えられる見込みである。
▲ 2008-10-11 キハ 181 系特急「はまかぜ」
▲ 2008-10-11 183 系特急「たんば」「文殊」
和田山駅
福知山駅
福井県内の鉄道関連ニュース(7・8月)
7月
5 日 『首都圏で福井の魅力 PR
福井新聞掲載記事より
あすから恐竜電車運行』
首都圏から誘客を図ろうと、県観光連盟は 6 日から JR 中央線に恐竜の全身骨格な
どを大きく描いた車両を運行する。併せて 1 日平均 150 万人が乗降する JR 新宿駅で
キャンペーンを展開し、本県の魅力を広く PR する。
7月
7 日 『えち鉄・福鉄乗り入れ構想「年内早くにめど」』
県会は 6 日、予算特別委員会を開き、8 人が総括質疑した。えちぜん鉄道三国芦原
線と福井鉄道福武線の相互乗り入れ構想について、理事者は「年内のできるだけ早い
時期に事業化のめどを立てたい」と表明。
7 月 11 日 『車窓にカンパーイ 福井鉄道ビア電運行』
福井鉄道の夏恒例の「ビア電」運行が 10 日夜、始まった。乗客らは走るビアホー
ルの風情を楽しみながら宴会気分に浸った。ビア電は 8 月 9 日まで毎日、午後 6 時半
すぎから運行。武生新-田原町や福井駅前-武生新を約 2 時間かけ往復する。
7 月 15 日 『今月から日本一クイズ決定戦 「鉄道王」告知は敦賀駅』
大手携帯電話会社が企画する「クイズ鉄道王決定戦」の告知ポスターの掲示が 14
日から、JR 敦賀駅で始まった。「鉄道のまちの玄関口」として県内では唯一、鉄道フ
ァンから人気を集める全国 46 駅の中の 1 つに選ばれた。
7 月 22 日 『琵琶湖若狭湾快速 早期事業化求める 若狭町で同盟会総会』
琵琶湖若狭湾快速鉄道建設促進期成同盟会の総会は 18 日、若狭町のバレア若狭で
開かれた。嶺南と滋賀県高島市の各首長や地元住民ら約 450 人が出席し、計画実現に
向け、連携を強化していくことを確認した。
7 月 30 日 『小浜駅給水塔
描いて残そう 機運向上へ児童写生大会』
小浜市の市民有志と JR の OB でつくる「小浜線鉄道遺産を守る会」は 29 日、小浜
小児童を対象に、JR 小浜駅に残る蒸気機関車(SL)用給水塔を描く写生大会を同駅で
開いた。
8 月 11 日 『麻生津循環バス発車 福武線の利便性向上
浅水駅起点に試行』
福井鉄道福武線の利便性を向上させようと、福井鉄道は 10 日、福井市南部の浅水
駅を起点に麻生津地区を 160 円均一で巡る循環バスの試験運行をスタートさせた。
8 月 12 日 『駅にエスカレーター設置を 敦賀市 国や JR と協議』
JR 敦賀駅舎改築などを議論する「駅周辺整備構想策定委員会」は 11 日、敦賀市役
所で開かれた。敦賀市は北陸新幹線敦賀駅部の年内認可を見越し、エスカレーターや
階段の設置、跨線橋の通行幅の拡幅などを国や県、JR などと協議していることを示
した。
8 月 28 日 『眼鏡橋は北陸線初施設
敦賀市教委 先月からの調査結果発表』
敦賀市教委は 26 日、同市鉄輪町 2 丁目にあり、「眼鏡橋」と呼ばれる旧北陸線鉄道
橋跡の調査結果を発表した。北陸線が明治 14 年に同市金ヶ崎から疋田まで仮運行を
始めた段階で建設されたと判明、市街地で唯一の明治前期の貴重な鉄道遺産。
旧京福電気鉄道丸岡線-永平寺線
岸本
雅行
9 月 12 日(土)に、旧京福電気鉄道丸岡線・
永平寺線の廃線跡巡りを行いますが、両線の
歴史を少し調べてみました。
明治 29 年に北陸線の敦賀~福井間が開通、3
年後には富山まで延長されました。官鉄の延
長とともに民間資本による鉄道建設も盛んに
なり、北陸地方には北陸線の主要駅と近辺を
結ぶ多くの私鉄が誕生しました。丸岡周辺で
も、丸岡鉄道・永平寺鉄道(後の京福電気鉄道
丸岡線・永平寺線)が誕生、この地域の経済発
展に大きく貢献しました。しかし、モータリ
ゼーションの進展とともに乗客が減少、昭和 43
年に丸岡線全線、44 年に永平寺線(金津~東古
市間)が廃線となりました。永平寺線の残る区
間(東古市~永平寺間)も、平成 13 年の列車衝
突事故後運行が休止され、運行が再開される
ことなく翌年廃止されました。
1 / 2.5 万「丸岡」
昭和 35 年
東西に走っている鉄道が丸岡線、南北
に走っている鉄道が永平寺線です。「ほん
まるおか」は、現在の「本丸岡バスターミ
ナル」です。
◎ 京福電気鉄道丸岡線
1897(明治 30)年、北陸線・福井~小松間が開業しましたが、城下町・丸岡は経由しませ
んでした。そこで、北陸線と丸岡中心部を結ぶ足として小さな蒸気機関車による丸岡軽便
鉄道が本丸岡(現在の丸岡バスターミナル)~上新庄(北陸線との連絡駅、現・丸岡)間に開
業しました。
1915(大正 4)年
1930(昭和 5)年
1931(昭和 6)年
1944(昭和 19)年
1968(昭和 43)年
丸岡軽便鉄道(後の丸岡鉄道)により本丸岡~上新庄(現・
丸岡)間 4.2km が開業。[開業当時は 762mm 軌間]
1067mm に改軌、電化。上新庄を 100m 移設延長し、
丸岡に改称。
丸岡~西長田間 3.3km が開業。
京福電気鉄道に吸収合併、京福電気鉄道丸岡線となる。
丸岡線全線(本丸岡~西長田間 7.6km)が廃止。
丸岡線廃線(昭和 43 年 7 月 10 日)の記念乗車券
◎ 京福電気鉄道永平寺線
1914(大 正 3)年 、 越 前 電 気 鉄 道 ・ 新 福 井 ~ 大 野 口 間 が 開 業 、 北 陸 地 方 で 初 め て の 電 車
が走りました。永平寺参詣客を運ぶために、この鉄道の東古市から分岐して永平寺と結
ぶ 永 平 寺 鉄 道 が 開 業 、 4 年 後 に 本 丸 岡 を 経 由 し て 北 陸 線 ・ 金 津 (現 ・ 芦 原 温 泉 )ま で が 結
ばれました。
1925(大 正 14)年
1929(昭 和 4)年
1938(昭 和
1944(昭 和
1969(昭 和
2001(平 成
13)年
19)年
44)年
13)年
永 平 寺 鉄 道 に よ り 永 平 寺 口 (後 の 東 古 市 、 現 ・ 永 平 寺 口 )
~ 永 平 寺 門 前 (後 の 永 平 寺 〉 間 5.8km が 開 業 。
8 月 、 金 津 (現 ・ 芦 原 温 泉 )~ 新 丸 岡 (後 の 本 丸 岡 )間
9.9km が 開 業 。 12 月 、 新 丸 岡 (後 の 本 丸 岡 )~ 永 平 寺 口
間 8.5km が 開 業 。
永 平 寺 門 前 を 400m 移 設 延 長 し 、 永 平 寺 に 改 称 。
京福電気鉄道に吸収合併、京福電気鉄道永平寺線となる。
永平寺線のうち金津~東古市間が廃止。
列車衝突事故により京福電鉄全線で運行休止。翌年、東古
市~永平寺間が廃止。
永平寺線廃線(昭和 44 年 9 月 17 日)の記念乗車券
事 務 局 だ よ り
◎ 9 月見学会 (旧京福電鉄、丸岡線・永平寺線廃線跡巡り)のお知らせ
9 月 12 日(土)13:00
JR 丸岡駅集合
9 月の見学会は、旧京福電鉄の丸岡線・永平寺線廃線跡巡りを行います。今回は昨年巡れ
なかった丸岡線や永平寺線北部の廃線跡を中心に実施します。総会で決めた予定日(13 日)
の 1 日前に変更となりましたので、お間違えにならないように。クルマに分乗して主な地
点を巡る予定です。クルマから降りて田舎道も歩きますので、歩きやすい靴・服装でご参
加願います。なお、16 時頃、芦原温泉駅で解散する予定です。クルマの配車の都合もあり
ますので、参加希望者は 10 日(木)の夜までに電話(携帯:090-1639-2121)で事務局までご連
絡ください。多数のご参加をお待ちしています。
◎ 7 月見学会の報告
去る 7 月 20 日、北陸鉄道石川線見学会が行われ 7 名の会員が参加しました。福井駅から JR
に乗車、西金沢駅で石川線に乗り換え終点の加賀一の宮駅へ向かいました。11 月 1 日に鶴
来~加賀-の宮間が廃止になるということで、別れを惜しんで訪れた鉄道ファンの姿も多
く見られました。加賀一の宮駅から既に廃線となった白山下までのレールの跡を少しだけ
巡った後、全員で白山比畔神社に参拝しました。神社前で昼食をとった後、鶴来駅で下車
して撮影、その後、野町駅まで乗車して解散しました。正月には初詣客で賑わった加賀一
の宮駅、来年からはその賑わいも見られなくなるのは残念です。せめて、あの風格ある駅
舎だけでも残ってほしいと思いながら帰路に着きました。
《終着駅》
今年の 夏は日照不 足であま り猛暑を 感じ
ることなく 、終わってしまいました 。また、
局地 的豪雨 も多発し 、中国地 方の姫新線 や
智 頭急行 も被災し 、復旧工 事が進め られて
います 。本県 でも、小浜 線の十村 ~大鳥羽
間の トンネ ル付近の 地すべりや 、福井豪 雨
で の越美 北線の長 期運休など 、記憶に 新し
いとこ ろです。 地球温暖 化の影響か 、自然
の力 は時とし て恐ろし いもので す。さて、
高速 道路 の通行料金
千 円の影響か 、
お 盆休み の鉄道 利用率が過 去最低だ ったよ
うです 。エコ カー減税や 補助金制 度で車の
販売 台数が 増加した とか。高速 道路の大 渋
滞 や、深 夜の国道 のトラッ クの列を見 てい
ると、 少しは鉄 道を利用 する方向へ シフト
できないのかと考えさせられます。
文
(
)
家
森
発行 鉄道友の会福井支部 事務局
編集
〒915―0801
越前市家久町79の30
岸本 雅行
〒916―0013
鯖江市鳥羽2丁目1の11
森家 和治
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