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死の床に横たわりて

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死の床に横たわりて
禿斉亭一家言・その五
死の床に横たわりて
長年住み慣れた阿佐谷の高額狭小マンションから、下井草の抜群に陽当たりの
いい格安温情マンションに親子三人、牡猫三匹で引っ越してきたのは、平成十四
年五月のことだった。温情というのは、猫を飼うことを﹁見て見ぬふりにいたし
ましょう﹂、という大家さんの口約束の有り難さをさしている。
三匹の猫の名をリン、マウ、テッペイ︵同居年月日順︶という。
リンはヒマラヤン系の血が入った雑種の大型猫で、一番猫らしい猫だった。
嫌いな餌は鼻も引っかけないで去り、それでいてお腹がすくと執拗に餌を催促す
る。また、自分がさびしいとトイレに腰掛けているワシの足下にゴロリと横にな
って愛撫を求める。もともと猫嫌い、というより四つ足の動物に触ることが気色
が悪くて仕方のなかったワシは、最初、感動交じりにびっくりしたね。
で、ワシは恐る恐るリンの腹などを撫でてやったのだが、そうすると目を細め
てゴロゴロと喉を鳴らす。おおっ、これが猫か。ウイ奴じゃ。
ワシが猫が好きになった機縁は、実にリンのこのゴロリと横になる姿勢にあっ
たといっても過言ではない。
ところが、こっちが愛撫してやろうとすると知らぬ顔だ。リンは自分の都合で
愛撫を求め、相手の都合には一切の配慮をしない。ということがわかるにつれ、
ワシは段々、リンが嫌いになってきて、無遠慮にワシの足下にゴロリと横になる
と、奥さんと娘に見えない所では軽くケリを入れたりしていたのだね。
何がいやなのかといえば、ゴロリと横になれば愛撫されるに違いないという絶
対的な確信をもって迫る態度だ。
ところがワシの奥さんは、リンはいかにも猫らしい猫である。誇りがあるとい
うのだね。ついでに、﹁まるであなたみたい﹂だって。
マウは、どこかエジプシャン・マウに姿形の似た小型の和猫だったが、野性味
たっぷりの猫で、家猫として順応するのが遅かった。
とにかく、家の外に出たがって泣き喚く。ほったらかしにしておくと、玄関先
にウンチをたれる。ワシは、マウを懲らしめるためにスリッパをもって追っかけ
たりしたものだ。でも、いくらひっぱたいても泣きやむことがないので、根負け
してマウだけは外に出すことにしていた。
外に出ると、住まいの近くを縄張りにしている野良猫と喧嘩をする。それも寝
静まった深夜、猫嫌いの住人から大家にチクラれそうな人迷惑な鳴き声で喧嘩す
るものだから、ワシらも気が気ではなかった。何しろ、阿佐谷時代のマンション
は、ペット禁止のマンションだったから。
喧嘩が済むと、マウはベランダに帰ってきて、ガラス戸をノックする。ガラス
戸を開けてやると、意気揚々と部屋に入ってきて、首を縦に振りながら水飲み茶
碗のところに歩いていく。ワシは、このマウの後ろ姿を愛でた。
と こ ろ が 、度 重 な る 喧 嘩 で 傷 付 き 、奥 さ ん の 話 で は 猫 エ イ ズ に 感 染 し た ら し く 、
これがマウの命取りとなった。
テッペイは、深毛、短足、目元バッチリのどこか狸の風貌と犬の従順さをもっ
た猫だ。声をかければ、すぐにちょこちょことすり寄ってくる。リンとは一味も
二味も違うテッペイのこの従順さに惹かれて、首筋をなでてあげるのだが、どう
も関係性に深みがないような感じ。可愛いけれど物足りない。
さて、マウの様子に異変が見え始めたのは、下井草に来てからだった。阿佐谷
時代の喧嘩で傷つき、猫エイズに冒され、歯肉炎になったらしい。
餌を食べると、歯にしみるのだろう、首を振って餌の皿から飛び退く。それで
も食欲はあるから、また猫足、忍び足で皿に近付き餌を食べようとする。そうし
て、首を斜めに傾げながら、痛まない方の歯で食べようとする。見ていて痛まし
かった。
あるとき、首を斜めにしながら必死の形相で餌を咀嚼していたマウの背骨を触
ったら骨がごつごつと手にあたる。死ぬ一週間前に餌皿に歩いて行こうとして、
よろめいた。こりゃ、あかん、とワシも覚悟を決めたね。
平成十六年二月、マウは死んだ。猫齢十六歳である。
この日、ワシは所用で他出していて、勤めから帰った奥さんが、ワシの仕事机
であるタモ助の下で、目をむいて死んでいるマウを発見した。日の光とタモの木
の 香 り が す る 場 所 ま で 最 後 の 力 を 振 り 絞 っ て 歩 い て き て 、そ こ を 死 に 場 所 と 決 め 、
体を横たえたのであろう。
それから、半年後の平成十六年八月、今度はリンが亡くなった。
リンは、二、三年前から食が細くなった。ひと皿を食べきれないで残す。とこ
ろが、しばらくすると、また、餌を要求する。で、ワシらは、年も年だから、ボ
ケたのかと思っていたのだが、実は胃がボロボロになっていたのだね。
死ぬ一週間ほど前にリンは血を吐いた。以来、さらに食が細くなってきた。そ
んなリンのために、ワシの奥さんは、大好きなカツオの削り節などをまぶしてや
ったが、もう見向きもしない。もともと、食にうるさい猫だったが、どんなに大
好物を与えても食いついてこない。
ワシらはリンの終末がほど近いことを悟った。
最後の四日間は、ほんの少し水を飲んだだけで、何も食わずにじっと体を横た
え、目を閉じている。
ワシらは、夜は布団の枕元にリンのための寝床を用意して、ときどき声をかけ
た。じっとしているので、﹁ちっちっ﹂と舌をならすと、かすかに目を開いて、
鳴こうとするが声もかすれている。ペルシャンブルーの澄んだ目で、じっとこち
らを見据えるだけだったが、ワシはリンのこの視線に感動したね。
ワシを見つめ返す視線の中に、運命を従容として受容したもののみに与えられ
る凛とした風格と穏やかさが宿っていた。たかが猫のくせに、死の床についたそ
の態度は、人間にはとてもマネのできないような気高ささえ漂っていたのだ。
こうして、平成十六年八月、うだるような暑い日に、リンはその生涯を閉じた
のである。猫齢十五歳、堂々の大往生であった。
読み書きができない猫は、語り継ぐすべをもたない。そこで、猫族になりかわ
って、無限の時間の中に消えていったマウとリンの気高い最後を賞揚すべく、ワ
シは拙い筆をふるってその追悼記を捧げることにした次第である。
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