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Title 十八世紀アムール川下流地方のホジホン Author(s)
Title Author(s) Citation Issue Date URL 十八世紀アムール川下流地方のホジホン 松浦, 茂 東洋史研究 (1996), 55(2): 358-394 1996-09-30 https://doi.org/10.14989/155005 Right Type Textversion Journal Article publisher Kyoto University 358 めに 十八世紀アムール川下流地方のホジホン はじ りに 松 浦 茂 出をはかるロシア人と封抗しながら、清は下流に向かって着々と地歩を固めていった。そして康照二十八年(一六八九)に (1 ﹀ はロシアとの聞にネルチンスク篠約を締結して、 アムール川の下流地方一帯を確保するのに成功した。その過程で清朝は アムール川の沿岸から左岸の内陸部、 さらにはサハリンに居住する少数民族を、漫民と呼ぶ組織に編成する。始め遊民の 大部分は寧古塔副都統が所管したが、乾隆四十四年︿一七七九)以降は、三姓副都統が一括して管轄することになった。 これらの逸民は旗人と異なり、兵役を負わない代わりに、毎年各戸一枚ずつ詔皮を貢納する義務を課されて、 寧 古 塔 ハのち三姓﹀などの指定された場所に貢納した。ところが遁民の中には莫大な毛皮を持参して、わざわざ北京にまで出かけ -110ー 第一章 アムール川下流透民の北京行 第二章 ホジホンとサルガンジュイの再上京 ホジホンと北方交易 おわ め 第三章 じ 清の勢力がアムール川下流地域に浸透を始めたのは、順治以降のことである。それ以来同じようにアムール地域への進 t 主 359 るものがいた。 かれらの目的はそれらの毛皮を皇一帝に献上して、北京の女性を妻に迎えることであった。このような謹民 の存在は、 日本の﹃カラフトナヨロ文室E によって、リダカの名とともに早くから知られていたが、いかんせん史料がほ とんど残っていないために、それ以上に追求することは不可能であった。 (2 ﹀ ところが一九八0年代に入って、北方史の研究は一つの韓機を迎える。中園の事者が遼寧省楼案館にある﹃三姓副都統 リダカに閥する論文を瑳表したことがある 街門橋案﹄に依接して、これまでの研究朕況をほぼ一獲させる研究を行なった。そしてリダカの北京上京に闘しても、問 題を大きく前進させたのである。 わたし自身もこれらの研究に啓護されて、 ︿ 3 ﹀ が、しかしコニ姓副都統街門槍案﹄には史料的な限界があって、制度全瞳をカヴァーする研究を行なうことはできなか司 た。三姓副都統が遁民を管轄するようになった時期は、制度自憧がすでに最盛期を過ぎて形骸化を始めたときにあたるの で、﹃三姓副都統街門様案﹄から制度の全瞳像をうかがうことはできない。この間題をさらに飛躍させるためには、 姓副都統街門槍案﹄に代わる優れた新史料を護見する必要があった。 そうした中でわたしは一九九三年から九四年にかけて、文部省在外研究員として九か月間、中園において研究に従事す ることができた。嘗初計重した主要な目的の一つは、北京の中圏第一歴史槍案館に所識された﹃寧古塔副都統街門橋案﹄ を調査することであった。わたしは﹃三姓副都統衛門槍案﹄を調査した経験から、乾隆四十四年以前に謹民組織を所管し ていた寧古塔副都統関係の槍案には、遁民関係の史料が必ず残っているはずであると考えた。そして貫際に﹃寧古塔副都 亡工 、の 制 度 に 闘 し て 豊 富 な 史 料 が 残 っ て い 想ど り古 塔 副 都 統 街 門 櫨 案 ﹄ 遁 統 街 門 槍 案 ﹄ を 調 べ て み る車 と部、 ﹃お寧 民 t t た。寧古塔副都統が溢民を所管していた嘗時は、港民の制度が草創期から最盛期に向かう時期であったので、﹃寧古塔副 都統街門橋案﹄の内容は、﹃三姓副都統衛門楢案﹄よりもはるかに充賞している。それ以来わたしは史料の牧集と整理に 努めてきたが、ここにきてようやくこの問題にある程度の見通しを得ることができた。 そこで本稿においてわたしはまず、逸民が妻を妻りに上京するという、この制度の全瞳像を明らかにする。次に北方の -111ー 司 E 360 アムール川下流遊民の北京行 経済に果たしたかれらの役割について、主に毛皮交易にしぼって考えることにする。 第一章 ﹃ 欽 ︹ 赫哲費雅曜の京に来て求親するものは、 アムール川下流の逸民へジェフィ ヤカ (赫哲費雅略﹀が、北京に上京して中園の婦人を妻に迎えた事買に闘しては、 定大清曾典﹄ (光絡)巻二三に短い記事がみえる。それによると、 赫哲費雅曜の婦を納れしものは、則ちその賞を給ひて、 その康簡を頒つ。 例に元(玄)狐皮二張・招皮一百張・九張合成の青狐皮祷二・九張合成の寅狐皮祷四 ・十七 張合成の紹皮衣料十二を ︺内は割註 進む。等第を験明して鍛疋庫に交す。領侍衛内大臣に由り引見して後に、婚を給ひ、無披領勝椴朝衣 ・鍛抱・大鍛掛 各一:・:を賞す。︺ とあって、大量の毛皮を貢納した逸民に関して、 清は婦人を妻に興えると同時に、相嘗な恩賞を支給 したことが わかる。 史料が不備なうらみはあるが、毛皮を献上した,遊民に清朝が妻を興えるという制度は、相嘗に古い歴史をもっと想像さ れる。 ただ制度として確立するのは、 おそらく康照年聞のことであろう。 たとえば、呉兆寒﹃秋錨集﹄巻七雑感三首の注 に次の如くみえる。 順治十 六年 三六五九﹀から康照二十年(一六八 時に婦女を以て海東の諸首領に賜ふ。迭人謬りて皇姑を以てこれを稽す。 (4) 著者の呉兆務が南闇科場案に連座して、寧古塔に配流になっていたのは、 一)までの聞である。呉兆務はそのときたまたま、この事質を知 ったのであろう。 ところで遁民に嫁いだ女性に闘する貴重な記録が、イエズス舎土の手によって残されている。康照四十八年(一七O九) 三月に康照一帝は、護軍参領デクジンゲ・トlフアハチ、欽天監五官正チュンデらとともに、イエズス舎土レジス・フリデ リ・ ジャル トゥの三人に封して、東北部からアムール川下流までの地域を測量することを命じた。それによると、イエズ -112ー 、 r- ︿ 5) ス舎士の一行は、い司たん盛京から寧古塔・環春をへて綬芥河流域を踏査した後、水路に繁えてウスリ川を下って、下流の (6) ゴリン川・アムグン川方面に向かう計重であった。レジスらはこの計霊に従って、緩芽河からダウピへ川(フイエ川、ウスリ 一行の目には格別の優雅さをもっ女性のように映った。この女性は中国語を理解し、様子や作法が一般 に出舎った。﹁ウスリの貴婦人﹂はイエズス舎土たちに、自分が所有する百頭の犬の話をしたり、あるいは蝶鮫の肉をふる まったりしたが、 (7 ﹀︿ 8 ﹀ の遁民とは遣っていた。さらに過民の首長であった夫は、最近亡くなったが、生前には清から侍衛の築血管と特権を輿えら れていたという。事買とは多少の組踊はあるが、﹁ウスリの貴婦人﹂が北京から嫁いだ女性であることはまちがいない。 さて上京した遁民の名前が一人一人明らかになるのは、 薙正元年(一七二三)以降のことである。 わたしが ﹃寧古塔副 ︿ 9 ﹀ ビルダキリ氏族(ウイタ村﹀のヤンシナ、 プルガル氏族(ジャリン 都統街門槍案﹄と﹃三姓副都統衛門稽案﹄とについて調査を行なったところ、全部で十九名の遊民を確認することができ た。表1 のとおりである。なおこの表にはみえないが、 村﹀のキムル、 さらにはフィヤカ姓(モンゴロ村﹀のチュイなどもまた、 ホジホンであったことが知られている。 これらの謹民が所属した階層を見てみると、第二身分のガシャンダと第四身分のバイニヤルマが多くて、合計するとそれ ぞれ八名と九名にのぼる。これに劃して第三身分のデオテ ジ ュセは二名しかおらず、第一身分のハライダはひとりもいな い。これからみると、清朝は謹民の階層によって、資格を制限することはしなかった。ただ定められた数量の毛皮を準備で きるかどうかが、唯一の要件であった。その中にハライダがいないのは、後述する如くたとえハライダが北京に行っても、 (ω) 他の階層ほどメリ γトはなかったからと考えられる。なおコイマン村に住むフィヤカ姓のイトヮヒヤヌと シ ョlシナの二 人は、買の親と子であった 。 これに劃してサイマル氏族のイェシケとジャ クティオと、キレル姓のデク ジ ンゲとゲグ ジと は、それぞれ同じ村の出身ではあるが、たがいに階層が異なるので、どちらの場合も血縁関係はなかアたと考えられる。 表ーにみえる塗民の中では、乾隆三十九年に北京に上京したリダカが、もっともよく知られている。リダカに闘しては -113一 川上流)まで行き、それから下ってウスリ川に入ったとみられるが、その途中で北京出身の﹁ウスリの貴婦人﹂と呼ぶ女性 3 6 1 3 6 2 こ擁 七正 七 勾 三 年 ー ヒ 月 。ロ 白 r R n a ~ 年 丸 ー 七 年 } 1 、 月 月 白 r ・ 昌 肉 f 宮 m 3 L p F M 0 M P 4 ロ 8 : l ー 巾- 一士エ 牟Z 卑 年 年年 月 九 、 / 月 月 士 4 p u U 3 q a 同 年 月 = ( j ) ペ r U D 3 〈 曳 白 ロ U O ? : > ; " ( ] ) 吉ーフ年 巳 E iE 吉 月 ① 吋 たたホ 法めジ c ヨ n 民中図ホ ン 』こ』こ m 釦 ロ 入な つる U S 3 7 , . . 由 自 . 町1 F 同 1 f 寸 白 曲 目 U 炉 寸3 白 、 印 p 〈 r 、 ロ f E 1 3 p 巾r t ・ 町1 U 印3 ・ 】 白 、 印 p 〈 r ヨ 釦 『 国 F 4 ・〈 ‘ a 2 3 1 釦 コ 空 穴 釦t 氏 併司 同 族 即 u 「 ロ a q 3 4 国 ] f R 1 3 4 • 国 ∞ ~ o a U q c 3 m c Z l 巾 ロ D u r n 西 ~ロ ノ 〈 ノ 〈 ノ て イ イ イ イ 一 一 一 回 S : > J ロ b ぺ ' ぺ ' ー 宇 ー す ノ ぐ 吋' ノ レ 吋' ノ レ ガ ン 守' 〉 可 ・ / セ 旅 貢 貢 旅 貢 貢 貢 貢 ノ レ ョ ーp '守 ガ デ オ フ ー ン ダ ノ レ 。 問 百 口 a 二L c o コ ヒ F o R - 村 話 cE 口 落 ガ ン ;/ ガガ ンン 吋' ヤヤ 守' ン ゲ ンン ダダ ン ダ 屠 旅貢旅貢貢 貢 (持 結参 墾 反 黒 塑 : < E . 亘 . . . 塑 疋 E写黒亘…規主…要 A 亘…嬰疋亘....嬰疋紹北塑疋 毒百北規規の歓待 狐 狐定 皮 極 皮 極 定 定 Tご量参 階 坦 し 九 皮 ど 狐 ど 護 竺 狐 ど 狐 ど 狐 ど 狐ど ー 狐 ど 三 狐 ど ど 禁がし 皮一一て皮皮皮皮 五皮 不た て お ± お 芙 北 五 お 五 お 五 お 五 お O皮 お ーおおら足毛 り c り 極 ) り ) り ) り ) り O九 り ムりり補し皮 狐 、 ノ ミ 填たの 途北 寧 乾 、 七 。 王 軍 事 L 華 乞 、 四 ー" 、 寧 四 四 乾 丸A i ¥ . 、 軍 事 四 、 乾 七 、 ,、 i ¥ . 他 子 ; 交 く 五 、 σ 〉 σ コ 病行 軍 事 0 四 辛 乞 、 ,、 九、 苦 手 九九 。 事 匡 薙手雀 務 、 、 ノ、 七七 寧 七 車 乞 四 丸 , ゴ L 皮 ② そ 、 E 己 a 〈 一 ロ 3 子 中京 寸ごに た 毛 軍事寧 軍 手 盛1 、、 擦 ③ 表 1 ホジホンとなった逸民 二F 乾 盆 AUZ 3 6 3 註①年月は、寧古塔または三姓に到着したとき。 乾は乾隆、嘉は嘉慶の略で、それ以下の数字は順に年、月、日を表わす。 ② ( 苦 ろ は 貢 納 した毛皮を、(放﹀は 放費と して持参した毛皮を表わす。 ③寧は﹃寧古塔副都統街門稽案﹄を、三はコニ姓副都統街門楢案﹄を指す。寧の後の数字は槍加の通し番鋭を、また薙は潅正、 比較的詳しい事賓が判明しているので、これからはリダカの上京を例にとって、制度の内容を検討することにする。 竺嘉 慶 i¥ Q年 八 二 丸a 月 王L 年 丸 , 年 大 d 年 年 A 月 。 ロ F a 1 白 問‘ . 。 L 己 印『 < 1 a 可 院 印 F 担0 a g P 同 白 ‘ ー 宍 4 明a - 国 ] 回 印 回 ロ 、 , 年 7し , ー、 月 月 2 。 ロ r ロ 釦 ー n コ - P 巾 炉 司 同 ~ ロ 一 一年 年 i ¥ .プ 言 王 年 L i ¥ . 月 p H 冨 ic F p T r 可 同・ 凶 1 a 島 回 ロ 21 z ロ 切 5 2 回 関 ロ 白 円 同 昼 間 冨 o ー c ロ ~ロr 宮 ロ ‘ 同 炉 コ 〈 て・ 国 r R b ・ 令 ロ ノ 〈 /~ ノ マ イ イ イ ベ ' 一 一 ベ ' 守 ー "7' 守' ヵ ソ ヤ ~ ロ 叩 同 q・ テ' オ ア ユ 、 / 。 ロ L ロ 白 吋 ・ . 宮 者 ロ 釦 EE E E えf ノ ぐ ノ 、t ン ヤ イイ ぺ'ぺ' ガ ン ヤ ニ エ ノ 、 , ョ ー ン ダ セ ダ 貢旅貢 貢 貢 旅貢 規 定 努皮極北定 規 疋 . . . _ 規 規 定 五 Oげ ひ 額 き 規 定 E 生 E狼 Q狐黒規定 紹皮極北規定 規 定 3 詰 2 E A 規 定 ¥ . ' ど五狐ど お O皮 お り 三り ど お り ど お り Jレ ノ レ ノ レ ノレノレ 宇 ー ・ マ ン ダ 旅貢旅貢貢貢 き五ど-Si:S<:どー狐どど皮ど ら Qお ;ò:~言お O皮おおコお しあり わ皮り Oー り り G り 皮」 う五 、 て北途台葉 、京中 作 病γ に i 支お 病、 鋳 る ら 』 ぃ没: 、 五 乾 九 」 力s i ¥ 。 。 、 寧 嘉 i ¥ 五 、 寧 i ¥ 九 七 寧 五 乾 乾 乾 四 、 正 、 一 i ¥ -115ー 、 ノ 丸a 、 ノ 寧 七 五 五 寧 五 寧 七五 五 寧 七 乾 乾乾 乾 、 ー ,、 、 , 八 七、 / ¥ 八二 i ¥ 二四 四 。 。 364 リダカの名を有名にしたのは、 ﹃カラフトナヨロ文室酉﹄の存在である。 ﹃カラフトナヨロ文書﹄と呼ばれる古文書は、 ﹃カラフトナヨロ文書﹄は全部で十三通からなり、 日本の北方史料において特別な位置を占める。もともとはサハリンのナヨロ村に住んだアイヌのヤエンクルアイノ一族が 所有していたが、戦後に北海道大事附属闇書館の所臓とな司た。 うち第一就から第四披までの文書は、清朝の営局者がサハリンの遊民に交付した公文書である。これに劃して第五競以下 (日﹀ の文書は、江戸時代の和人が授けた文書であって、そのうちの数逼は、前記の文書を調査した最上徳内らが興えた書附け ヤエンク ﹃カラフトナヨロ文書﹄の中核をな である。これらの古文書は、十八・十九世紀のアムール川下流とサハリン地域を研究するた め の重要な史料となっている。 (ロ) リダカの名前が現われるのは、第一披文書である。満洲語で記されたこの文書は、 すもので、早くから探険家の注意を引いてきた。 最上徳内が寛政四年(一七九二﹀ にサハリンを見分したとき、 l姓(ハラ﹀のハライダ、オコピオ ルアイノから初めてそれを見て以来、評判を聞いた関宮林臓などが、あいついで調査を行なっている。第一一統文書は、サ リら ン南 に住む港民、 ハ リ ン 地 域 の 謹 民 を 管 轄 し て い た 三 姓 副 都 統 衛サ 門ハか 、部 ト と同じくガシャンダ、 トヮソグルデンギにあてたもので、乾隆四十年︿一七七五)三月二十日の日附がある。 第一一抗文書の主たる内容を構成するのは、乾隆四十年二月五日に下された乾隆一帝の敷旨である。それを要約すると、女 のとおりである。 ヘジェフィヤカたちは癌癌に糾問する克疫をもたないようである。遠方から貢納品を持って妻を要りに北京 近ごろ北京にきたへジェフィヤカのリダカが、癌癒に感染して亡くなってしまったが、以前にも同じことが起こって いるので、 まできたかれらが、癒痛にかかって亡くなアたことはたいへんに哀れである。これらの遺民が故郷から北京まで至る には、道のりはとてもはるかなうえに、北京では多が終わり春がくるとき癌擢にかかるものが多い。かれらにはあま り利盆がないので、いっそ季節の爽やかなうちに早めに来させて、速やかに措置して送り返せばどうだろう。このこ とを吉林将軍に指示して、今後はヘジェフィヤカの中に北京にきて、貢納品を献上して妻を妻りたいというものがあ -116ー そ の 3 6 5 れば、先のようにかれらの出震を遅らせて、 のころに北京に迭つてはならない。必ず七・八・九月の爽やかなころ hhy に来させて、嘗一該一のところから速やかに定例に従って、かれらに妻を興える措置をして、故郷に迭り返すように。こ のように行なえば、かれらにとって利盆となるであろう。 この命令は大事土・領侍衛内大臣・忠勇公一隅隆安などをへて、三月一日に吉林将軍街門に到着した。それから吉林勝軍街 門は、アムール川下流地方とサハリ ンを所管する寧古塔副都統と三姓副都統の南街門に劃して、それぞれ 同様の趣旨を 書 (日﹀ き、遺ったのである。そして三月十二日にそれを受けとった三姓副都統街門が、三月二十日附けでト l姓のオコピオとトゥ ソグルデンギに、遺った指示 が、この文書であっ、た。 ﹃寧古塔副都統街門楢案﹄によると、リダカはアムー ル川の下流左岸にあったウクトヮン村に居住する漫民であった。 ﹀ リダカが属したフィヤカ姓(ハラ﹀の 織織 はの、 フは ィ例ヤ 姓大は 乾集 隆圏後 半る。 港組 民組 中で 外カ 的に 規、 模な であ (M には線戸数二百六十戸徐りに達して、謹民戸敷金瞳の一割強を占 めていた。分布の範圏も‘きわめて贋く、アムール川の河 (お) 口附近一帯を占 め、今日で言えば ニヴフ 族の領域と大韓重なっている。フィヤカ姓は、ニヴフ族を構成する諸民族の線稽 であろう。 フィヤカ姓が居住する村落は全部で二十七か村あるが、 ウクトヲン村にはこのうち十九戸、が住んでいた。リダ カが属した階層は、も司とも低い地位のパイニヤルマであった。 リダカは北京に行くために、乾隆三十九年の末に貢納品を持って寧古塔までやってきたが、寧古塔に到着した正確な期 仏 ゲ 920 O HVF) 十八枚・赤狐皮 ( 24Z3ロ 日は、史料が依如していて不明である。このときリダカに同行していたのは、二人の﹁従僕﹂であった。 ︿日﹀ Z E - 可SLOEE) 二枚・北極狐皮 リダカが持参した貢納品は、銀狐皮 ( 円四 OEE) 九枚でつく った敷物 一枚・赤狐皮 二十七枚・ 招皮三 百四枚 である。のちに 北京で調べたところ、それぞれの毛皮 (臼) の等級は、衣のとおりであった。銀狐皮は一等のものが一枚と二等のものが一枚あ﹁たが、北極狐皮と赤狐皮とは、みな 一袋詔皮﹂ 官owommwる と 呼 ばれるもので 、品質は あまり良くなかったら しい 。 三等にしかならな か司た。また紹皮は ﹁ -117ー 3 6 6 さて Z}gg﹃同ロ仏OEE は漢文献に﹁元(玄﹀狐﹂ とあるもので (四) 自然界でそれに一該賞する種は黒狐をおいて他にはな (川口) ユ 門 日 oEE(﹁白毛梢黒狐皮﹂)と呼んで匿別し、 ZE--ヨロ仏OEE よりも一ランク n E ぃ。その中でも銀狐は銀色の差し毛をもっ個睡で、その毛皮は最上級品の折紙がつく。後述する如く、黒狐の一部でとく に白色の差し毛をもつものを、清朝は ozz ZE--Eロ仏OEE を銀狐、ロFWELoEE を黒狐と呼ぶことにする。ゲ05 仏 (初) 下に置いている。そこで本稿では慢に は漢文献には﹁青狐﹂とあるもので、その毛皮には黒と黄の毛が混じり、商品債値は黒狐皮に衣ぐという。北極狐のうち 一般にいう赤狐のことである。赤狐の毛色は、個瞳によって黄から澄まで饗化するといわれる。 (幻) でも多毛が白色にならず、褐色系に同炭化する個瞳を指していうのであろう。 2 4司 ミgLozz は漢文献に﹁黄狐﹂とも﹁火 狐﹂ともあるもので、 前述したように逸民が献上する貢納品は、銀狐皮二枚・紹皮百枚・北極狐皮九枚でつく?た敷物二枚・赤狐皮九枚でつ さらに北極狐皮と赤狐皮二種類の敷物と紹皮の衣料 くった敷物四枚・詔皮十七枚でつくった衣料十二枚からなることが、定例として決まっていた。しかし貫際に行なわれた (幻) 例を見てみると、 銀狐皮は黒狐皮二枚で代納することも認められ、 は、それぞれの毛皮をその枚数分だけ納入することもできた。リダカが準備した毛皮は、定例とは一部相違しているが、 それはリダカが同じ毛皮を必要な枚敷だけ代納したからである。 上京することを許された浅民たちは、大韓みな規則どおりに毛皮を献上しているが、それには例外もあって、毛皮の一 部を準備できなかったものもいた。たとえば薙正元年に上京したハルグン氏族のティムシンガは、黒狐皮三枚・北極狐皮 九枚でつくった敷物二枚・赤狐皮九枚でつくった敷物四枚・紹皮十七枚でつくった衣料四枚・招皮八十五枚しか持ってお らず、 定例からすると黒狐皮一枚と詔皮十七枚でつくった衣料八枚・詔皮十五枚(紹皮合計百五十一枚)が不足していた。 (お)(担) しかし戸部はティムシンガが招皮百枚をすみやかに追加補填することを傑件に、婦女を安らせたいと上奏を行なってい また乾隆十一年(一七四六﹀と同十五年に上京したデクジンゲと る。翌年四月にティムシンガは、寧古塔を護って故郷に戻るが、その後も招皮を迭らなかアたので、三姓から委署暁騎校 (お) ダハタを涯遁して、紹皮百枚を徴牧させたのであった。 -118ー 367 ゴクダフンは、黒狐皮を三枚しか持ってこなかアたが、 不足分の一枚についてはとくに問題とはされなかった。それとは 反割に黒狐皮を一枚徐計に、 五枚献上したものもい る。乾隆 四年から九年までに上京したイェシケ・キブサ・チてフチャ ンガ・ジャクティオの四人である。黒狐皮の正式な数量は四枚であったが、乾隆初期には規則が一時的に混蹴したのであ る。いずれにせよ質・量ともに桁外れの毛皮を、漫民たちが濁立に準備したことは、まさに驚異的である。しかもかれら (お﹀ の一部には 貢納する毛皮以外に、披費と稿 してさらに 多数の毛皮を用意したものまでいたのである。なお謹民が貢納した 毛皮は、北京に到着した後、最終的には内務府贋儲司に納入された。 話をふたたびリダカに戻そう。寧古塔副都統街門は毛皮の検査を行なって、定例どおり誤りないことを確認すると、リ ダカら一行を北京に向けて出護させた。そのことは、ただちに寧古塔副都統衛門から吉林将軍街門に報告されたはずであ (幻) る。それを受けた吉林将軍・奉恩輔園公富椿は、北京の戸部に劃して貢納品に誤りがないこと、そしてリダカに妻を興え (お﹀ たいことなどを連絡している。、通常の慣例によると、上京する遊民には護、迭の旗人たちを附けて、食料と牛車を支給し迭り 届けるのがふつうであった。寧古塔副都統衛門は、リダカに劃しても同様の措置をと司たであろうが、同行した官員の名ま (mU) では明らかではない。一行は途中で吉林に立ち寄り、寧古塔から来たものは、ここで吉林の官員と交替する。北京に向か うリダカの一行には、士口林佐領トジンタイとともに領催と兵五名と従僕九人、そして馬十六頭が新しく仲間に加わった。 (叩山﹀ リダカらが北京に到着したのは、乾隆四十年の年始めと考えられる。戸部がリダカの上京について上奏したのが、同年 正月十一日のことであ る。その中で戸部は吉林勝軍富椿の文書を引用しながら 、リ ダカが持ちこんだ献上品の毛皮は、規 則どおりだったことを確認するとともに、 リダカ本人は正白旗のドゥルギヤ佐領に属す韓騎校オムシナの養女を妻にした ﹃寧古塔副都統街門橋案﹄には詳しい記述は残っていな いと語り、 オムシナもそれを了解したことを述べている。そしてリダカとその妻に劃して、規則に従って後遺の恩賞を興 えるべきことを報告した。 (況) この上奏にもとづいて、乾隆一帝はリダカを引見しているが、 -119ー 3 6 8 (mM ﹀ 一般に清の引見制度は、皇帝が中 ・下 級官僚と封面して人物を査定し、 その任克 や昇 降を決定することを目的とした (お﹀ 光緒 によ ば、 ﹃ 欽 定 大 清 曾 典(﹄ 領﹀侍 衛れ内 大臣が溢民を引率して、 が、そればかりではなくモンゴル王侯の世襲や少放民族首長の任命なども、皇帝一の引見をへて正式に決定された。上京し た遊民を引見す る慣 例もその一つであ って 、 ﹃欽定八旗逼志﹄巻七によると、佐領ドゥルギヤというのは、正白旗第四参領第二佐領の副都統都爾嘉のことであ (幻﹀ それで戸部がその父に意志を確認するという方法をとっている。乾隆十七年に上京したブルガル氏族のイラクの場合は、 ﹃ 寧 古 塔 副 都 統 街 門 槍 案 ﹄ に み え る 質 際 の 婚 姻 の 事 例 で は 、 いずれも遊民が自ら戸部に妻に議定する女性を申し出て、 っていたのかも しれ ない。 したリ ダカが 、 そ れ ま で に オ ム シ ナ と 関 係 を も っ て い た は ず は な い 。 遊 民 の 妻 を や り と り す る ル lトが、すでにできあが カ自身であったことに なっ ているが、 リダカはなぜその名を知ったのであろうか。常識的に考えると、北京に-初めて上京 。 戸部の上奏文によると、花嫁の名前を戸部に言上したのは、リダ 満洲副都統に就いており、名前と時期ともに一致す る (叩山﹀ る 。 都 爾 嘉 は 乾 隆 三 十 年 に 副 都 統 の 衡 を授けら れ た 後 、 同 三 十 八 年 に は 正 紅 旗 蒙 古 副 都 統 、 三 十 九 年 十 二 月 か ら は 鎮 白 旗 いる。 ド ゥ ル ギ ヤ 佐 領 所 属 の 韓 騎 校 オ ム シ ナ の 養 女 を 妻 に 迎 え た い と 語 っ て 、 相 手 の オ ムシ ナも同意していることが俸えられて 献 上 品 を 持 っ て 上 京 し た 溢 民 は 、 引 見 が す ん だ 後 婚 姻 を 許 さ れ る 。 上 述 し た 戸 部 の 上 奏 文 に は す で に 、 リダ カが正白旗 引 見 さ れ て い る 。 リ ダ カもまた、同様の手績きをへて引見されたと考えられる。 (お﹀ が北京に来たときは、十月二十二日にチチャヌは三等侍衛のフミシャンに伴われて、固明固から闘ったばかりの乾隆一帝に 遇されることはなく、 ジャルサイがデクジンゲに乾隆 一帝一の救旨を俸達 したとい う。ま た同二十六年に キジン姓のチチャ ヌ ︿UA ﹀ 京したキレル姓のデクジンゲは、十二月十六日に乾清門侍衛のジャルサイとともに紫禁城の内に入ったが、乾清宮の中に 宮 か養 心肢でとり行 なうのが ふつうのやり方であった。現買にあった引見の事例を見てみると、たとえば乾隆十一年に上 乾 清 正黄旗第三参領第十八佐領のファチェオ(法丑)佐領下に腐す三等侍衛イダリの娘を名指ししたし、さらに二十七年に北 -120ー 。 し 、 369 五 佐 領 八 佐 領 欽 定 ー 司 , 唱 . 定 欽 司 ・ 定 欽 欽 定 司 ・ 領 警報軒 ジ イ ニ L の 養 妻 養 の 員 養女 女 娘 の 女 養 女 佐 E 葉 聖 韮 事 糞 黄 書 (時ど妄都聖 責 ン サ ヌ ゲ 八 八 八 八 典 表2 ホジホンが要ったサルガンジュイ ン サルガンジュイに割りあてられるもの ンジュイの貫家には銀五十雨を支給した。リダカ夫婦もまた、同 一の恩賞を受けたことであろう。 ( m却 ) きへらに闘しては、開途盛京戸部が興えることになっている。さらに夫婦には瞳部主催の歓迎宴を一度設け、 またサルガ 大 部 分 の 品 は 戸 部 と 兵 部 を 通 し て 支 給 さ れ た が 、 た だ 馬 と 奴 僕 だ け は 、 銀 に 換 算 し て 支 携 わ れ た 。 な お 牛 と す き さ き ・す 婚姻が認められると、ホジホンとサルガンジュイには恩賞が輿えられるが 、その中 には次の品々が含まれていた(表3﹀。 を結んだ漫民の夫と旗人の妻は、これからはホジホン(婿)とサルガンジュイ(娘﹀の名で呼ばれることになる。 女を妻に要請している。たいていの場合逸民の妻は、禁放八旗の旗人の娘かまたは養女の中から選ばれた。こうして婚姻 同じく正黄旗第四参領第十四佐領のジュドヮナハ朱都那﹀佐領に属した前鋒クイボ l の養 ホ この表から明らかなように、清がホジホンとサルガンジュイに賞した恩賞は、 -121ー 通 旗 ' = b 、 t 旗 通 旗 旗 通 4 τ t 、 . 通 , zbt 、 ,i 也 t 、 . ー. 擦 五 四 五 四 ._色- ' τ h t 、 t 通 ・ ‘ 七 佐 領 欽 定 八 旗 四 佐 領 佐 領 口 h I 4 a (叩山﹀ E回 Z 警口官古ロ正 2 里首正長 官正 。 F正 話 対 F 吾衛 E ロ ン の の の 校 官 釦 l レ 2 三 前 鋒 前 護 署親駿騎甲 ロ C ロg q 白 冨・ 5 5 z - ホ f . 占 . - E 釦 a ト F a E a g w ・ E b S C 月 九 六 八 月月月 京に来たキレル姓のゲグジは、 五 三 三 二 二 一 一 九 九 二 六 六 八 六 年 年 年 年 年 年 年 年 乾 隆 3 7 0 -と ーの 式砲 、 と 涼帽掛 大 木 綿 機 σ コ 衣 各 着 矢 弓 矢 筒 皮 製 式 銀 腰 T → 骨 骨t z かれらの行震は官僚制度の基礎を危うくするものであったので、 一般に清の官僚にとって、冠帽(帽 遅かれ早かれ問題化することとな司 これよりさきいつのころからかホジホンの一部に、花矧・頂珠 ・座祷 ・朝稽など服制に関わる品々を、違法に着用する は色ガラスで代用することを認められた。リダカが着けた藍頂珠というのは、三品か四ロ聞を示す青色のガラスであろう。 (必﹀ 費石の種類が一定しており、本来はルビ l ・珊瑚・サファイア・ラピスラズリ ・水晶などの原石を使っていたが、のちに ﹀ もとは特別の武動を有するものや、特定の稿観・官職をもつもののみが、冠帽に刺すことを許された特別の羽である。花伺 (4 は五ロ間以上の官に授けるのに封して、藍朝刊は六品以下の官に興えることになっていた。これに劃して頂珠は官位に従って 頭頂部に矧子や頂珠(頂子)を着けて、柴血管や官位を示すことになっていた。リダカが着用した花開は藍簡とともに、もと 子)は切っても切り離せないものであった。冠帽は目的と季節によって数種類に分けることができるが、いずれの冠帽にも ところでリダカはそれとともに、花開(孔雀朝間)と藍頂珠を受けていたといわれる。 (必) はどうあれたてまえとしては、 サルガンジュイは皇族の一員という考え方が存在していたかもしれない。 が、ホジホンよりも匪倒的に多い。故郷に戻ってからも雨者の待遇を比較すると、 サルガンジュイの方が一段高い。質質 各 銀 ク・き衣着率 五と服、 組すの木綿 の き裏抱 格健子 鍛 ホジホンとサルガンジュイに輿える岡山員 二L ものが出始めた。 - 122ー 馬 , 紬 と 花子い涼 し との針帽雇 f こ 綿は五一 布ぎ百個鍛 ら の れ 本、腰子 各 寝具箱丞帯の 式 上、ニ一概 下奴十本衣 新b 各一隷夫束、鍛着 一 と 櫛 子 靴 式、婦 ーとの黒 下 銀 雇 椛徳絹 各 の、き廷の 足 首牛宮か苧 飾二十ま掛 り現個三と 一 着紬 勺ひとの イさ五も木綿各 襖 ヤき 十の一 リ(本裾着 ン整、ー 小紋縫た雲 手巾抱 持 へ二八・女 ら十十観性 (枚疋衣用 撃 、、各朝 E 頁 鏡ス七一衣 鞍 )カ尋着 ・ 各!の抱 轡 ーフ白銀 ・ 椴、十二五布花を子 絞 む な 子枚疋さ実 カ ぎ と、、し 一各 個着 し 、 イ 表 3 ホ 〆 、 〉 e ホ ン サ ノ レ ガ ン ノ コ ガホ ンジ ジホ ユン イと サ l レ 3 7 1 た。その護端となったのは、後述するイトゥヒヤヌ事件に関連してである。イトゥヒヤヌの子ユンギヤヌを裁判にかけた とき、ユンギヤヌが紅頂珠と花矧を着用していたのを怪しんだ清の官僚たちは、乾隆十一年に調査を開始する。そのころ 上京したビルダキリ氏族のヤン シナを調べてみると 、ヤンシナは北京で引見を受けたときに、乾隆帯から花開を授けられ たが、紅頂珠の方は自分でかつてに使用したと謹言した。その結果花開に闘しては、引見の際に皇帝自身が賞賜するのが (川町﹀ 慣例となっていることが明らかになったが、他方頂珠と座祷については、事責関係がはっきりせず、また問題が重大であ ったので、認めるところとならなかった。しかしリダカが花側とともに藍頂珠を受けたことは、明らかな事寅であるの で、その聞に清はふたたび方針を同変更して、後者に闘しでも認めることにしたのであろう。 (HH) さてホジホンとその同行者に劃しては、 上京した日 から数えて 二 十 日 分 の 穀 物 ・ 野 菜 ・ 盤 ・ 羊 肉 な ど が支給されてい (必) るので、それからするとホジホンたちの北京滞在日数は、二十日前後を基準としていたとみられる。ところがリダカは出 裂を前に乾隆四十年正月二十七日に、癌療に感染して亡くなってしまう。献上品を持って中園に入りながら、故郷に戻る ことなく中園で客死した謹民の例とリ しダ てカは 、め 表てー にな あ が初 では いが 。っ て い る だ け で も 、 乾 隆 七 年 の フ ィ ヤカ姓チてフチャンガと、三十二年のキ ジン姓 エルダセの 例がある。戸部が二月二日にリダカの死を報告したところ、乾 隆一一帝は謹民の不運な身上を哀れに思って、三日後の二月五日に、 ホジホンとなるために謹民が上京するのは、爽やかな季 節にかぎるという冒頭で紹介した殺旨を下したのである。 ﹃カラフトナヨロ文書﹄によると、士口林将軍衛門は寧古塔副都統と三姓副都統の南街門にそれぞれ、上京の季節に闘す る指示を逸ったことになっているが 、﹃三姓副都統街門楢案﹄には乾隆四 十年の槍案が依落 してい る の で 、 そ れ を 確 認 (必﹀ することはできない。これに劃して﹃寧古塔副都統街門稽案﹄乾隆四十年三月四日の僚に、吉林将軍衛門から寧古塔副都 ﹃カラフトナヨロ文書﹄の第一競文書は、三姓副都統街門が公布した員正の文書で 統衛門に宛てた問題の繕案が、 偶然に保存されていた。その文面は ﹃カラフトナ ヨロ文書 ﹄ と一字一句も異なることな く、まったくの同文からなっていた。 -123一 あったのである。寧古塔副都統街門も士口林将軍の指示を受けて、管轄下のへジェフィヤカに劃して同一の指示を公布 した ことはまちがいなく、今後類似の文書が瑳見さ れる可能性も残っている。ちなみにコニ姓副都統衛門橋案﹄嘉慶八年九月 (円引﹀ ( 乾隆﹀四十年に下 した敷旨﹂と言ってこの法例を引用してお 一日の僚によると、同様の事例が護生するたびに、清は ﹁ 一 一 り、乾隆四十年に護布して以来その内容を厳守していたことが明らかになった。 (川崎) リダカに同行した士口林佐領トジンタイの謹言によると、故郷にあるリダカの家では、リダカの母と弟、がリダカの蹄りを 待っていた。リダカの妻一行が北京を震ったのは、 二月十一日 のことであった。リダカの妻に従ったのは綿勢十二人で、 故郷からリダカに従ってきた従僕一人・清が興えた奴隷四人・妻の下女一人と、それに三姓まで見送るオムシナがつけた (必﹀ 従僕六人である。リダカに同行してきたもう一人の従僕、ハイフナはこれよりさきに病死していて、その遺睦も故郷まで (叩) いっしょに迭り届けることになった 。また棺や奴隷な どを買った後に手元に残った恩賞の一部、弓・矢・矢筒・鞍・銀五 一行 に追いついた。こうして寧古塔から先 Hデの妻が、病気で動けなくなったので、リダカの 十雨・ 鍛子三疋 ・紬二十疋・木綿 入十疋 なども、すべて牛車に積みこんだ。なおリダカの妻らには前例にならって、牛車・ (日) (臼) Hデらも快癒した後、寧古塔で 食料・通行許可謹などが興えられた。途中エヘム騨において奴隷ワン 妻たちは夫婦だけを残して先を急いだが、 ワン は、ふたたび全員がそろ って放行を綾けた。四月二十三日以前のことである。 (臼﹀ リダカを謹選して吉林から上京した士口林佐領トジンタイらも、新妻の一行に随行してい司しょに北京を出渡している。 ︿臼) かれらは士口林まで同行して、吉林から寧古塔までは士口林暁騎校ウサンタイなどが守って行った。さらに寧古塔から一一一姓ま ホジホンとサルガンジュイの再上京 では寧古塔の防禦へンジュたちが従って、そ して三 姓から故郷までは 三姓の官員が随行したのである。 第二章 故郷に戻ったホジホンとサルガンジュイには、 それから以後も破格の待遇が約束されていた。 ホジホンとサルガンジュ -124ー 3 7 2 3 7 3 イは、他の漫民と同じく毎年紹皮を一枚ずつ貢納する義務があったが、 そのみかえりに受け取るウリンの内容は、 ふつう 表4 のとおりである。ただかれらが間伐する 一般のハライダと同等の待遇を受けることができ、またサルガンジュ (臼) ハライダよりもさらに上位に置かれていた。ウリンの細目は、 の漫民よりも優遇されていた。ホジホンの場合は、 イの場合は、 (同) と、その地位は自然に消滅したらしい。たとえばプルガル氏族のイラクに嫁いだ妻は 、 乾隆五十八年に病気で亡くなアた が、蔑された遺族は地位を世襲できずに、パイニヤルマの地位に格下げされたのであった。 ところで﹃寧古塔副都統街門槍案﹄を調査していて、 わたしはホジホンとサルガンジュイに闘する新事買を護見した。 ホジホンとサルガンジュイたちは、 それからもたびたび北京に里揖りしているのである。わたしが気がついた事例だけで も、表にすると次のようになる(表5)。薙正十三年(一七三五﹀には、ィトヮヒヤヌとその妻が北京に里鯖りしているが、 階 サ ジ ニ L ホ ノ 、 と 丈 守' デ ジ ニ L 一 尺 ア 寸 セ ノf / レ ヤ -125ー 表ー によると、 イトゥヒヤヌはそれより六年前の薙正七年に、 ホジホンとなった人物である。買はこのとき息子のショー シナもまた、 ホジホンになるためにイトゥヒヤヌに同道していた。それからショ lシナ自身も、乾隆七年(一七回二﹀と十 二年の二度、 妻とともに北京に再 上京している。さらに乾隆十四年にはイ ェシケとその萎が 北京まで来ているが、同様に イェシケは同四年にホジホンとなっていた。 また乾隆十三年にはキジン姓のホジホンに嫁いだサルガンジュイが、畢猫で ジ 北京に里諦りしてい るが、 ド lウン村に居住するホジホンとは、 ドゥワンセのことにちがいない。ドヮワンセは薙正十二 目 逸民に支給するウリン(潅正十二年嘗時) オ 丈 / ‘ 尺尺 八五 寸寸 マ . 寸 ホ ン 一 尺 八 寸 イ 一 尺 イ 寸寸 えf ン 二 一五 尺尺尺 五三 / レ 丈 屠 鍛鍛鍛 表 4 ロ ロロ 帽粧彰 374 差 、 櫛 針 ンカ 六尺 一疋 四丈五尺 二尺五寸 三 一O丈 三丈八尺五寸 四丈五尺 二尺五寸 四丈 二尺五寸 二尺五寸 八疋 六尺 二丈 六尺 七疋 -126ー 六尺 二丈 八六 四 二丈 三三一 O 一一六 三 二丈五尺 九尺 一個 七疋 二丈 三尺一寸 一丈 二六雨 一個 三O本 一枚 三針 三束 束針枚本個個雨 六疋二尺五寸 二丈 三四雨 二個 二個 一O O本 二枚 一個 五封と二本 五束 個銭 束針枚本個個雨 個銭 三 二丈 三三一 O 一一六 八四 漆 八四 鍛 ボタン 個銭 円 綿 綿糸(裁縫用) 皮箱 皮箱 固 イ 寸 疋 二丈丈 三 八六 束針枚本個個雨 尺 疋尺 個銭 0一一六 三三一 八四 三主三 麗機 (典接) ﹃寧古塔副都統街門橋案﹄第二九加、務正一二年正月一一六日の候。 個個 櫛花布布布布裏絹絹絹紬紬鍛 糸もチ 綿高家白毛絹緑紅白金閃嫌 i 慌 綿ひハ 375 平 一 A 7 ; : ノ 、 七 円 .. o 月 月 。 g ロ 守 口 E 口 コ 同 , . の 妻 妻 一七七 年 月 年~ 月 1 芹 戸 E 5 r ・ ' ③ r E g 町コ 笠 g ロ ノ y ン サ ゲ レ た ホ ホ ジ 北 度 京 再 の の ジ ン に 妻 妻 妻 才 と 竺 c R 4 白 R 2 ・ ・ 同 白 ← ー - < 白 白・・ 氏 族 E E T E E 話 口 ヨ 村 落 えf 階 二/ 吋' ン 屠 ゲ 献 旅 献 旅 献 旅 献 献 紹黒紹赤沼黒紹赤紹黒紹~黒 紹黒 皮狐 五皮 持 参 し 皮狐皮狐皮狐皮狐皮狐皮皮狐 一皮四皮一皮一皮五皮一一皮 た 0三 0ー 0四 0ー 0二 0 0 三 O二 毛 。、 0 0、 OQ 、 0 0、 、 E S なホ薙 るジ正 ホ七 ン年 とに そ の 他 7寧一~ ~ 7 寧 四 セ 字 て 率 一 寧 一 、 乾 薙 事 笹 薙 乾 0 二 八 J ハ 二 七三一、援 ③ 一 一 一 一 一 一 一 四 一 典 一 一 一 いつも -127ー 年 に ホ ジ ホ ン と な っ た が 、 こ の と き に は す で に 亡 く な っ て い た の だ ろ う 。 残 る チ ル バ ヌ ・ ク リ ・ ミ ヨ lティンの三人は 卒 表ーには見えないが、 ホ ジ ホ ン で あ る こ と は う た が い な い 。 な お チ ル バ ヌ 自 身 は 早 く に 亡 く な っ て い た と み え て 、 一 1L写山 妻だけで里開りをしている。 七 表 5 表5 に 闘 す る か ぎ り 、 再 上 京 し た ホ ジ ホ ン と サ ル ガ ン ジ ュ イ は 七 人 な い し 八 人 で 、 そ の う ち チ ル バ ヌ の 妻 は 三 な い し 四 二 重 年 再上京したホジホンとサルガンジュイ 土 産 3 7 6 註①年月は、寧古塔に到着したとき。 ②(献﹀は献上した毛皮を、(飯)は放費として持参した毛皮を表わす。 ③寧は﹃窓古塔副都統街門楢案﹄を指す。寧の後の数字は楢加の通し番鋭を、また潅は潅正、乾は乾隆、嘉は嘉慶の略で、そ れ以下の数字は順に年、月、日を表わす。 年 四 F、 月 年 i ¥ . 月 。 年 = 4 年 月 間 年 ー ヒ 月 月 の妻の妻 ペ g R r 1 3 - . : . . ( コ Er . = 4 年 R Z P 1 妻 妻 妻 ‘ 可 白 〈1 、 a 〈3 フ 司 U 白3 ヨ 白 『 ロ p 2 q Z 可 白 R 町j a ロ 白 C ロ r R + a g ‘ o t 〈 F 3 噌 妻 己 月 o ‘ c E Z = q o p ョ 弓 Z 3 ぺ 白 ロ 年 、 / 言 ー 吋 妻 t二 。 。 o ロ 岱2 可1 ; . ; - 宵・ 国 国 国 。 ; : . : : o a c q n 3 ヨ コ 同 o ロ q C t f テ' オ ソ ヤ ア シ 〆 ン ダ 二 1 . セ 旅献 献 旅 献 旅 献 務 紹 黒 華E紹 黒 紹 黒 し らあ 貌 務 黒 卑皮狐些皮狐皮狐皮ご皮皮狐 二一皮一一皮一皮 ひ=一皮 00 三 六 O二 0二 三 Z 5 0 二 務 黒 紹 紹 黒 務 赤 紹 皮黒 皮狐皮皮狐皮狐狐 一皮六一皮五皮一皮 0三 0 0 四 0二 O三 旅 献 旅 献 献 0 0、 O 、0 、 O. : b r ,0 0ぎ Q 、 寧 乾 四 i ¥ カ4 0 0、 0 0 0 と途北 も中京 なホ乾 るジ隆 ホ四 ン年 とに 四 七 。、 とに薙 なホ正 るジー ホ三 ン年 にで γ 病夫行 波婦〈 五 寧 、 乾 、 i ¥ 五 軍 事 、 乾 。 率 カ 四, 四 官 事 四 乾 乾 乾 乾 七 七 ー ノ、 五 寧 、 七 関 。 五 ー ノ、 、 -128- 寧 、 九 , 、 七 i ¥ 3 7 7 度北京に行っている。 シヨ lシナとその妻、 およびクリとその妻はともに二回、他の人びとはみな一回である。 かれらは その前にホジホンになるため北京に入っているので、上京の回数はそれぞれさらに一回ずつ増えることになる。ホジホン 一定の毛皮を献上する義務があった。 かれらが献上した品の中に たちの行動力には驚くほかないが、それにもまして目を見張らされるのは、かれらが献上した莫大な量の毛皮である。 ホジホンとサルガンジュイは再上京するときにも、 一方詔皮については、ほとんどの人物が百枚貢納しており、五十枚を納めたものは二名にすぎない。した は、必ず黒狐皮と詔皮とが含まれている。黒狐皮の場合は多いもので四枚、少ないものは二枚であるが、二枚と三枚が多 いようである。 がって黒狐皮はこないし三枚、紹皮は百枚というのが、一躍の基準ではなかアたかと考える。いずれにせよホジホンにな (町出) るために一度上京して、 それから数年後にふたたび、これだけ大量の毛皮を蓄積することができたのである。 (回﹀ かれらが貢納する毛皮は、内務府、が牧めることになっていた。それらの毛皮を購入する債格は、始めは一定していなか ったが、薙正七年にチルバヌの妻が上京したときに、毛皮の等級に麿じて買い取ることが正式に決まった。このときチル パヌの妻が献上したのは、黒狐皮二枚と招皮五十枚であったが、製造庫(工部﹀において毛皮の品質を調べて、黒狐皮は 一等として一枚につき銀二十南を支給して、紹皮は三等とみなして一枚銀三雨とし、それを木綿五疋に換算することにな った。それから務正十二年にチルバヌの妻が、ふたたび毛皮を貢納したときには、薙正一帝がじきじきに黒狐皮の評債債格 を上げるように命じて、一等の黒狐皮は一枚につき銀五十雨、二等のものは四十雨を興えることにした。さらに乾隆四年 にチルバヌの妻がみたび上京した際には、三等の黒狐皮を銀三十雨で購入することを新たに追加して、以後これが定例化 (印) する。たとえば乾隆十一年に上京したフィヤカ姓のミヨ lティンとその妻は、二等の黒狐皮二枚と三等の黒狐皮一枚、そ れに三等の紹皮百枚を献上したので、定例に従って銀百十商と木綿五百疋を興えている。 大量の毛皮を持ちこんでいる。 かれらが紹皮を数十枚から百枚程度持参するのはふつうであって、 三百枚 上京に際してホジホンたちが持参したのは、献上用の毛皮だけではなかった。ホジホンの多くはそれとは別に道中の旗 費と稽して、 -129一 3 7 8 という皐語はどの満洲語文語僻典にも牧録されておらず、満洲語には本来存在 しなか?たと考え 円目白ロ∞ぬ口 H- を三百枚持って放行 イトヮヒヤヌ・ショlシナ父子とクリが (乾隆十二年﹀とか五百枚(乾隆七年﹀とかを持ちこんだショlシナのような例もあるし、 六百枚を持参したクリの例(乾 隆七年﹀もある。 特殊な毛皮としては、赤狐皮を十枚から二十枚までの数量で、 円 山 由 ロ m m p H F 戸口 H Fる 。 乾 隆 十 二 年 に シ ョ l シ ナ は 、 持 参 し て い る 。 そ れ か ら 興 味 深 い の は門日、 で あ m m口 、 している が (N られる。 おそらくは鄭接する住民の言語から借用した軍語なのであろう。サハリンの北部に居住するウイルタ語には、 ﹀ ω ( 仏4 2 mR- という車語があり、同じくサハリンにいるニヴフ語にもまた、岳宅ユなる皐語があって﹀ 叫、これらのことばが満 洲語岳ロ的関口口にあたると考えられる。ともにあごひげあざらしを指すという。他方﹃ト内ソングス日浦洲諸語比較僻典﹄ にも huduの項目があって、 トゥングス諸語の語形を並記しており、上記の車語に一該嘗することはまちがいないが、ただ ( 臼 ﹀ 同辞典ではその 意味をとどと解 している。詳細は今後の研究に待たねば ならないが、本稿においては 一慮、あごひげあざ ( 臼 ﹀ らしとしておく。 一般に北京への往来の道中では、清が援助を興えるので、 ホジホンたちがこれだけの毛皮を全部放費に 費やしたとは考えられない。準備した放費の大部分は、中園の物資を購入するためや、 かれらを世話する中園人たちに心 附けとして使用したに ちがいない。 なお北京まで里蹄りするホジホンとサルガンジュイに劃して、往復の道中に護衛の官と兵を附けて、牛車・馬・食料を 支給したことは、 ホジホンになるために上京したときと同じである。たとえば乾隆七年に北京に向かったウジャラ氏族の クリとその妻は、従僕三人を道連れに伴っていた他、献上用の黒狐皮四枚と詔皮百枚、さらに放費として招皮六百枚を持 夫 参していたが、寧古塔副都統チャンシェンは定例に従って、騨の牛車一蓋・馬一頭を支給して、委署暁騎校アスハと領催 (臼﹀(叫山﹀ ・兵四人にかれらを護迭させた。グリはその他に食料も要求しているが、同様にそれも認められたと考えられる。 (侃﹀ なお乾隆十一年(一七四六) にミヨlティン夫妻、が再上京したときには、 妻は行く途中の山海闘で八月二十二日に、 は北京に到着した後の十月二十四日にともに病死をしている。そこで清は本来ならばミヨlティ γ夫妻に輿えるはずの銀 -130ー と木綿を、同行してきた兄のガルンガに渡して、故郷のハスルギ村にあるミヨ lティンの家まで迭っていかせた。途中吉 ︿門別) 林・寧古塔・三姓と経由して、最後は一一一姓の正白旗ギルヒオ佐領の委署臨騎校イェンゲがハスルギ村まで護迭している 。 さて生命の危険と多大な苦難をかさねながら、 ホジホンたちはなぜ何回も北京に政行しなければならなかったのであろ うか。 かれらの心をつき動かした理由の一つは、人間としての自然な感情であろう 。地の果てにも均しい漫境に嫁いだサ 一方ホジホ γにしてみれば、 一度見た大都舎の華やかな印象は、 いつまでも忘れがたかったであ ルガン ジ ュイにとって、北京は懐かしい故郷であり、その故郷に里締りをして家族に曾いたいという気持は、 だれにも理 解できるものである。 ろう。 しかしそれよりも本質的な動機は、経済的な欲求であった。 かれらが大量の毛皮を持参したことが、そのすべてを 物語っている。 ホジホンたちはそれによって、中園の物品を獲得することがねらいだったのである。献上した毛皮のみか えりに清から支給される銀の他にも、故郷から持ちこんだ放費の毛皮を民聞の市場で買却すれば、自らが望む中園の品々 を手に入れることが可能である。こうした中闘の製品は、 ホジホンの家族が自ら消費するばかりでな く、周漣の人びとに 轄賀すれば、 さらに大きな利盆を生むことになる。 ホジ ホンたちは物々交換を繰り返すことによって、我々の想像を越え ホジホンと北方交易 る大きな経済力をも ったのである。 第三章 本章においては、 ホジ ホンたちの出現を可能にした理由を、清によるアムール川下流の統治瞳制と関連させながら考え ることにする。清朝がアムール川下流の遺民に射して課した義務は、毎年一戸につき紹皮一枚ずつを貢納することであっ た。大多数の漫民は寧古塔(のちには三姓﹀まで貢納に出かけたのであるが、 アムール川の河口附近と左岸地域・沿海地方 に居住する一部の逸民については、 貢納の地貼を指定して、 毎年寧古塔と三姓から旗人を涯遣し、 招皮の徴牧を行なっ -131ー 故郷にはミヨ lティンのもうひとりの妻と男の子が、信仰りを待っていたという。 3 7 9 380 ハ 回 ﹀ た。一般にこれらの進貢地貼は、政治的かつ軍事的な観貼から周到に計重されていた。 ﹃寧古塔副都統衛門橋 サハリン(海島﹀に伎むテメイェン・カダイェ・ディヤンチャン・ワルル・チ アムール川の河口附近に設置された進貢地離でもっとも古いのは、 デ ィ ヤ ン ホ ン コ 村 で あ る 。 案﹄務正十二年八月十九日の僚によると、 アムール川の沿岸にあったディヤン かつて奴見干都司が置かれたテイルの丘附近にあった ョリ ル ・ドボノンゴ・ シュルングル ・プニヤフン・チュウェニなどの氏族(姓﹀は、 ︿印﹀ ホンコまで貢納していたという。 ディヤンホンコ村というのは、 とみられる。さて清の勢力 がアムール 川の河口からサ ハリン地域に、浸透 したのは、ネルチンス ク篠約を締結 した翌年の康 (叩) 照二十九年(一六九O﹀ ご ろ と 考 え ら れ る 。 嬢 藍 旗 蒙 古 都 統 パ ハ イ ら は 、 こ の 年 に ア ム ー ル 川 の 左 岸 地 域 を 初 め て 本 格 的 (九﹀ に調査したが、それと並行して吉林副都統バルダは一隊を率いて、河口附近からサハリン北部を調査し、住民五十三戸 を漫民に組織した。さらに同五十年には待衛班領サルチャンらがふたたびサハリンの調査を行なって、翌年には住民八十 ︿冗) 六戸が初め て朝 貢を している 。これらの港民が生活する地域は、寧古塔からの匝離が徐りに遠かったので 、 寧 古 塔 副 都 統 は寧古塔の代わりにディヤンホンコを 貢納の地黙に指定したが 、その歴史が示すとおりディヤ ンホンコ村は、 アムール川 ﹃寧古塔副都統街 河口附近とサ ハリンににらみをきかすには格好の位置にあった。ディヤンホンコを進貢地黙に決定した時期は 、遺民 の組 織ができてまもなくのことであったと推測される。 (乃) それからしばらくして寧古塔副都統は貢納の場所を、ディヤンホンコから上流の。フルに移している。 門橋案﹄乾隆十九年正月二十四日の僚によると、 サハリンに居住するクイェ・オロンチョン・カダイェ・ワルル・チョリ ル・ドボノンゴ・チュウェニ・プニヤフン・シュルングルなど九氏族五百戸は、プルに貢納しているという。プルという ︿九﹀ 村落は、 アムール川の河口を遡るといくらか遠くなるが、トィミ川を通 ってアムール川に出ると、 サハリンからでもそれ ほど遠くはない。ただなぜプルに襲更したのか、その理由はよくわからない。 績いて設けられた準貢の地黙は、 キジ湖近くのキジ村であった。清は薙正十一年以降にサハリン南部の六姓百四十六戸 q o Tム ん 。 3 8 1 地 園 貢 納 地 黙 と ホ ジホンの出身地 q o A 貢納地貼 Oホジホンの出身地 -133ー 3 8 2 (布) を遊民に組織したが、これらの漫民は三姓副都統が所管して、キジ村において招皮を徴牧することになった。キジ湖とキ ジ村には、サハリンからアム ール流域に入る交通路の一つが通じていて、サハリン南部の住民を統制するのにつごうがよ かった。 (町内) その他に寧古塔副都統は、 キレルのもとにも早くから官員を波遣 していた。たと えば乾隆三年には鎮白旗佐領ヤルタイ ヘジェフィヤカとキレルから詔皮三百七十枚を徴放している。この時期の文献に現われ 一般にアムール左岸の少数民族を指すことが多い。ゴリン川はアムール川左岸地域とアムール川水系をつな と筆帖式パルスなどを涯遣して、 るキレルは、 (π) ぐ動脈であって、内陸部やアムグン川の上流方面とも、比較的簡軍に連絡することができる。おそらく交通の要衝であっ たゴリン川の河口附近に、遊民の進貢地黙を設けていたのだろう。 -134ー それから沿海地方の東部に居住したキヤカラ・パンジルガンの二氏族四十五戸が、康照五十二年に清に従属したが、五 (河) 十七年ごろから寧古塔副都統はこれらの港民に劃して、ウスリ川東岸の支流ニマン川河口において、隔年に一度二年分の 詔皮をまとめて徴牧している。このニマンもまた、沿海地方とウスリ川とをつなぐ要衝であったとみられる。 法民の貢納地貼に指定されたディヤンホンコ・プル・キジ・ゴリン川河口・ニマンは、共通した性格をもっている。 ずれも交通の要衝に位置しており、そこを援貼に遠隔の地域を統制するには絶好の立地篠件を備えていた。同時にこれら の地貼は、寧古塔と三姓の旗人が通うのにつごうがよいばかりでなく、港民が各地から集まるにも便利がよかった。そし てこうした人の動きにともなって様々な毛皮 が大量に流入 したのである。 (乃﹀ 清がアムール川の下流地域に涯遺した船圏は、大盟十数人から五十人までの人員からなっていた。たとえば。フルに出か けた船園は、佐領または防御一人・筆帖式一人・兵四十人で構成するのが、標準の規模であった。かれらが果たすべき職 務は、法民から詔皮を徴牧して、 みかえりにウリンの品々を賞することであって、私的な営利行魚は認められていなかっ た。しかし現寅にはしばしば職務の範囲を逸脱して、 連民との聞に不法な交易を行なっている。 と い う の も そ も そ も 清 L 3 8 3 (mw ﹀ は、民間人が三姓より下流の地域に侵入することを巌しく禁止していたので、年に一度寧古塔と三姓から旗人たちが、 ム1 ル川を下ってやってくる機舎は、附近の住民にとって中園人や中園の製品と接輝できる、ほとんど唯一のチャンスで 一般の住民どうしでも取引が活設に行なわれた。このような私的 あった。そのときを待ちかねて、近郷近在から多数の住民が、約束の場所に集まってきて、大規模な物々交換を行なった のである。その際に清の旗人と謹民の閲ばかりでなく、 かれらはこれらの商品との変換に、 中園の製品とくに衣 な交易のもょうは、開宮林蔵の﹃東轄地方紀行﹄に生き生きと猫かれている。住民たちは毛皮・にかわ・鳥の羽などを市 ︿引叫) 場に持ちこんだが、この中では毛皮がもっとも重要であった。 類・日用品などを買い求めた。 -135- この結果アムール川の下流地域では経済活動が盛んとなって、人の流れが加速されたばかりでなく、大きな物流のうね (回) りが形成されることになった。そしてアムール川の下流地域と周迭の地域との聞には、交易のネットワークが成立した。 有名な山丹交易も、こうしたネずトワ lクの一つである。上述した黒狐皮・北極狐皮・赤狐皮・あごひげあざらし皮など ホジホンたちはこうした交易のネットワークをたくみに利用し いずれもシベリアやオホーツク沿岸などの遠方から運んできたものである。同様に紹皮もまたアムール川左岸にかぎ サハリンその他各地で生産されたものであった。 岸地方にも達することができる。またハスルギ村は、アムグン川の河口附近にあ司たと推測される。これからみると、ホ あたる。アムール川左岸地域にはウドィリ湖・ピチ川・ピリダ川を経由して容易に入れるし、さらにトィミ川を遡れば海 ノ ¥ 、y フィヤカ姓のホジホン五人が出た村は、全部で四つあるが、このうちウクトゥン・コイマン・モンゴロの三村は、 、 ﹄ ウドィリ湖から流れ出た川がアムール川に流入する附近の沿岸に位置して、 アムール川の河口とキジ湖のちょうど中聞に ここでホジホンの出身地を調べてみると、 ほとんどの場合が遁民の準貢地貼に近接している。まず下流の方から見てい キジ・ゴリン川沿岸に集中するのは、この推測を裏附けるものである。 て、毛皮を集中的に買い集めるのに成功した人びとであったと考えられる。以下に論ずる如くホジホンの出身地がプル・ らず、 t 土 ア 3 8 4 ジホンたちの村落は、清朝が貢納地貼に指定したディヤンホンコとプル村とは、 ほんの至近距離であった。 キジン姓のホジホン三人が居住した村落のうち、 ドクガ ジン村はもっとも 下流で、 モンゴロ村の少し上流に位置してい (出﹀ た。それに劃してドゥワン村は、 それより上流のドゥワニ川タルガ附近にあったと推定され、さらにド lウン村はキジ湖 (脳﹀ に注ぐド l ワン川の沿岸に存在した村落と考えられる。次にハルグン氏族のティムシンガであるが、どこが出身地であ司 たのか、記録にはみえない。 ただハルグン氏族自盟は、 キジ湖のすぐ下流、 カディ湖周濯に居住したので、ティムシンガ 一方グウェレヘン村は、 ジャリン村 も同地域に住んでいたと考えられる。またブルガル氏族に閲しては、 ゴクダフンが居住したジャリン村は、 キジ湖のやや 上流にあって、 キジ湖から流れ出た川がアムール川と合流する地黙の南岸にあった。 一般 に サ イ マ ル 氏 族 は 、 ゴ リ ン 川 の 沿 の封岸に位置していた。以上の如くキ ジンなど 三氏族のホジホンたちは、進貢地貼のキ ジ 湖 と そ の 周 迭 に 集中している。 (田山﹀ さらに上流に目を移してみよう。サイマル氏族のホジホンは全部で三人いたが、 岸に分布しており、ランガ村はゴリン川の西岸にあった村と推定される。残ったキヘチェン村については、現在まで手が ヘクジンゲ村の位置は不明である。またビルダキリ氏族のホジホン、 かりはないが、やはりゴリン川の沿岸にあったにちがいない。績いてキレル姓というのは、左岸地方のエヴェンキ族と推 (mm﹀ 定され、ゴリン川の水系近くにいたとみられるが、 ミヤタはフェリム村の出身であるが、 フェリムというのは、 ゴリン川河口のすぐ下流にあった村である。この地域でもホ 一方ウジャラ氏族 ヘチケリ ・ウ ジャラの二氏族からホジホンが出ている。 ヘチケリ氏族のホ ジホンたちの出身地は、準貢地貼のあったゴリン川沿岸に集まっている。 もっとも上流部に生活する溢民のうちでは、 川シホン、 キブサはブグラン村の出であるが、 ブグラン村というのはボロン湖附近にあったとみられる。 の ジ ャ オ ウ ヌ が 住 ん だ ピ ユ リ 村 の 位 置 は 不 明 で あ る が 、 も う 一 人 の ク リ が 生 ま れ た ウ ジャラ 村は、 ボロン湖東岸にあ?に 古い村落である。ボロン湖は、アムール左岸地域とアムール本流とを連絡する水路となっており、これらのホジホンたち は、この水路に沿って居住していたのである。ただこれらの氏族に、ホジホンが一人か二人しかいないというのは、人口 -136- ようにホジホンの出身地は、大陸物流の援酷であった進貢地黙と重なるが、それは偶然ではなかったのである。 さて上述したホジホンの中でもっとも注目すべき人物は、 イトゥヒヤヌとショ lシナの親子であろう。イトゥヒヤヌら は二人で五回も上京しており、そのたびに莫大な数の毛皮を中園にもたらした。それらの毛皮をすべて合計すると、 ゥヒヤヌについては、黒狐皮六枚・北極狐皮十八枚・赤狐皮四十六枚・紹皮四百五十四枚で、 ショ lシナは銀狐皮一枚 黒狐皮七枚・北極狐皮二十七枚・赤狐皮五十六枚・沼皮千四百四枚・あごひげあざらし皮三百枚であった。イトゥヒヤヌ の親子は、毛皮を集めるネットワークを各地にはりめぐらしていたのである。 ︿釘﹀ イトゥヒヤヌは乾隆七年にキジにおいて、クフン姓のホジホン、ダイジュとサハリンのガシャンダ、アカトゥスなど三 人を殺害した。この事件もまた、イトゥヒヤヌの交易活動が原因で引き起こされたとみられる。そのころ詔皮を徴牧する ためキジに来ていた三姓の八旗官員が、このことを寧古塔将軍部調達に報告したので、都調達は翌八年に自ら寧古塔に赴 いて、寧古塔協領フシュンなどを涯遣し、イトゥヒヤヌなど八人を逮捕して、ダイジュの粗母と兄などとともに寧古塔ま で連行させた。またサハリンには三姓協領ヘボーらを遣わして、ヘボーは重病にかかって途中で引きあげたが、防禦ジブ (∞∞﹀ キオたちはアカトゥスの関係者であるシュルングル姓のハライダ、チチャイとト l姓のハライダ、ヤルチをキジまで連行 した。 しかしチチャイとヤルチは寧古塔まで同道することを桓否して、夜陰にまぎれてキジを脱出したのであった。 サハリンの関係者が飲席したまま、寧古塔においてイトゥヒヤヌの裁判が行なわれた。イトゥヒヤヌにいかなる剣決が ︿鈎) 下ったのか、史料には見えないが、嘗然死刑の剣決が出たものと考えられる。わかっているところでは、その 子ユンギヤ (卯﹀ ヌに劃して、首加と杖刑の剣決が下っている。ところがたまたま同年九月に、乾隆一帝が東巡をして恩赦を行なったので、 (川出﹀ その刑は執行されることはなかった。イトゥヒヤヌたちは寧古塔に移されて、毎年各丁二枚ずつ紹皮を貢納することを義 -137ー イ 務づけられただけで終った。ショ lシナはちょうど北京に上京していて、事件とは無関係であったのだが、乾隆十年には ト 比からすれば決して多い人数ではない。この地域の住民が毛皮を牧集することは、やはり困難であったのだろう。以上の 3 8 5 3 8 6 (回)(伺) 寧古塔に移されている。 しかしショ l シナは十二年にも北京に入っているし、比較的に自由を認 められ ていたらしい。そ して乾隆二十年には寧古塔から脱出したのである。も う 一人の子ユンギヤヌもまた、二十八年に寧古塔を脱出している。 イトゥヒヤヌらに殺害されたダイ ジ ュ は 、 クフン姓のホジホンといわれるが、乾隆十五年の遁民組織にはクフンという 集闘は見あたらない。ただ寧古塔協領フシュンがダイジュの関係者を迎えに行っているので、寧古塔副都統の管轄下にあ (川円﹀ ったことはまちがいない。 クフン姓は、アムール川の河口附近に居住したニヴフ族であろう。もう一人の被害者アカトゥ (MN) スはサハリンのガシャンダであって、その上司とみられるハライダのチチャイは、サハリンの中部クタンギハコタンケシ﹀ い司たいい に家があり、同じくヤルチはそれから東北へ一日の距離であ司たダリカ(タライカ)に居住していたとみられる。遠く隔た ったアムール川下流の住民とサハリン中部の住民が関係を結んで、 ついには衝突を起こすに至った理由とは ) ごろキジ村の たとえば康照五十九年(一七二O かなるものだったであろうか。事件 起こった場所がキジであったことからして、 わたしはそれを交易上の誇いと想像す が 、 る。すなわちアカトゥスらサハリンの住民がキジまで貢納と交易に出かけて、 その際にイトゥヒヤヌとダイジュ三者の聞 他にも報告されている。 でトラブルとなり、殺人事件に護展したと考えるのである。 イトゥヒヤヌの事件と類似した殺人事件は m ︿m ﹀ 住民が、 サハリンの人一名を殺害する事件を起こした。そのた めに サハリンに住む七か村の逸民は、この年に貢納を行な トゥヒ Ja わなかったので、事態が深刻化することを憂慮した寧古塔副都統は、 ただちに筆帖式ゲルセイを調停に向かわせている。 ただ事件の原因は、明らかでない。さらに開宮林識もまた、 サハリン西岸のアイヌ人古老から聞いた話として、 ヤヌの事件とほぼ同じ時期に起こった殺人事件を詳しく記述している。すなわちサハリンに交易に来た大陸のスメレンク (巾別) ル(ニヴフ族﹀ ・サンタン(オルチャ族)十人ほどをアイヌ人たちが殺害して掠奪をはたらいたので、翌年に満洲人が船三隻 でやってきて、首謀者から質器をとって般罪させ、 さらにその子二人を人質にして連れていったという。加害者と被害者 を逆にすれば、事件の状況はイトヲヒヤヌ事件とそっくりである。 いずれにせよこの殺害事件は、交易上のトラブルが原 -138ー 3 8 7 因であったのである。 一般にサハリンとアムール川下流の住民との聞では、同様な争いがしばしば起こっていたと考えら れる。 イトゥヒヤヌ事件やキジ村の殺人事件の原因もまた、交易をめぐる争いであったにちがいない。 ホジホンが積極的に安易に開興したことを誼明する史料が、もう一つ存在する。上述した如く嬢藍旗蒙古都統バハ イた ちが べ康照二十九年に康照一帝一の命を受けてアムール川左岸地域を調査したときに、アムグン川の源流附近にロシアとの園 (mm) 境を示す牌棲を建てて闘ってきた。ところが薙正十二年十二月十四日附けの領侍衛内大臣 ・英 誠 公 豊 盛 額 の 上 奏 に よ る と、この牌棲についてフィヤカ地方のガシャンダ、端色は次の如く報告している 。 七、八年前にこの牌棲が倒壊して、最近二、三年はロシア人が前のように越境して狩猶しております。 ロシア人の中 には、 わたしたちがしかけたわなに入った紹を掠奪するものまでおります。もしこの牌棲を復奮して標識とし、もと -139ー の如くロシア人の越境を禁止できれば、 わたしたちには大きな利盆であります。 端色という人物は、 いったいだれであろうか。上奏の日附が薙正十二年 十二月 であることを考えると、 かれこそはホジホ ンになるために同年七月に寧古塔に到着した、 キジン姓のドゥワンセにちがいない。ドゥワンセは北京に着くと、早速こ れを豊盛額たちに話したのだろう。ドゥワンセは パハイがつく司た牌棲が七、 八年前に倒壊したことと、 そのためにロシ ア人が園境を越えて、謹民の狩強を妨害していることなどを知っていた。ドゥワンセはアムール川の左岸地域と緊密な闘 係をも っており、しかもかなり早い時期からそう であっ たと考えられる。ドゥワンセが自らアムール川の左岸地域に入つ てそれを接見したのか、あるいはアムール川左岸の住民からその情報を俸達されたのか、明らかではないが、 いずれにせ このことからも明らかである。 毛皮交易を企業的に行なったホジホンは、 よドゥワンセとアムール川左岸の住民とが接鯛するのは、紹皮など毛皮の交易を通じてであったであろう 。 ドゥワンセが 贋い範圏の住民と交易を行なったことは、 トゥヒヤヌやドゥワンセなど一二の人物にとどまらない。 ホジホン一般に共通する性格であったのである 。 イ 3 8 8 り ヘジェフィヤカたちが毛皮を献上するのは吉林勝 キジ・モンゴロ・コイマン・ドゥワンなどの村落出身のサンタン人が船圏を組んで、 毛皮の貿易に出かけてい た。とくにキジ村に居住したプヤンゴウというガシャンダは、三十年徐りも引き緩いてサハリンまできて、アイヌの人た ように、 易 は 、 そ れ か ら も 順 調 に 推 移 し た か の 如 く で あ る 。 十 八 世 紀 末 か ら 十 九 世 紀 始 め に か け て 、 サハリンには大陸から毎年の ただ毛皮の安易自瞳には、営時大きな襲化が起こった兆候はみえない。たとえば大陸・サハリン・北海道を結ぶ山丹交 でまに合えば、上京するまでもなか?たのであろう。 いる。遁民たちはこの時期にはわざわざ上京しても、以前のように優遇されるという保詮はなかったので、もし他の地域 ちに遺ったという。ここではすでに制度そのものが襲更になって、連民は北京に上京することなく、吉林で目的を達して (川) 軍であって、これに劃して吉林将軍は民聞の女性を求 め て、紅い輿に乗せ皇女と踊って、恩賞とともにヘジェフィヤカた 親王昭槌﹃噺亭雑録﹄の記述である。それによると嘉慶年聞になると、 遁民の定額化という方針轄換に、清澄民たち が何らかの制約を受けたことはまちがいない。ここで思い出されるのは、瞳 ことも、表にみるかぎりなくなってしま?た。 降上京する謹民は大幅に減少して、十年か十数年に一人という割合になり、 ま た ホ ジ ホ ン と サ ル ガ ン ジ ュ イ が 再 上 京 す る ぇ、ホジホンの人数もその前後であったとみられる。おそらくこの前後がその人数のピークであったであろ う。十五年以 (卯) 押し込められ、それから新たな戸数の増加は、原則的には認 められなくなった。蛍時サルガンジュイは全部で十五人を数 う。乾隆十五年(一七五O﹀に謹民の定額化が質施されて、ホジホンとサルガンジュイも、すべて定額の二、三九八戸内に 世紀 に後 最盛 迎に えて 港 民 が 上 京 し て 北 京 の 女 性 を 萎 に 要 る と い う こ の十 制八度 は半 、ば以 し期 だをい 縮、小 に 向 か わ ちと貿易を行なったといわれる。たとえば寛政二年(一七九Oγ 寛政四年・享和元年(一八O 一﹀の三回、首時サハリンを -140ー おも 3 8 9 (川) 調査にきていた最上徳内たちが、貿易にきたブヤンゴウを目撃している。ブヤンゴウはサハリンと清朝の聞を往復して、 サハリンで買い集めた毛皮を、清に 、 遺って穀物・金・玉などと交換して、それらをふたたびサハリンにおいて買り捌いて (5) ﹃黒龍江将軍街門槍案﹄第二七四加、康照四十八年四月十 いた。ブヤンゴウに代表されるサンタン一一商人こそは、 ホ ジ ホ ン た ち の 後 縫 者 と い え る で あ ろ う 。 註 (1﹀漫民とは戸籍上の概念であって、民籍にも旗籍にも入らな 三日の候。なおイエズス曾土らによる本土の地園測量につい ては、太田美香﹁﹃皇輿全覚園﹄についての新史料﹂(﹃史観﹄ 給考略﹂(﹃故宮博物院刊﹄一九八五年第一期﹀などを参照。 第二三筋、一九八五年﹀、宮崎賓琳﹁康照︽皇輿全覧園︾的測 かった遁境の少数民族を、清朝は透民と絡稽した。したがっ てアムール川流域以外にも遺民は存在したのだが、本稿では もっぱらアムール川流域の住民を指すことにする。なお透民 ﹃寧古塔副都統街門稽案﹄第一二加、康照四十八年六月十 叫 ﹃ R N ご 丸 町 内 。 叫4 ミ 晶 、 制 俺WFFN冶2hF40]-AHW]ι wH斗ω 釦円山由 刊 L 出吋﹄ VN.tp40--AF w 奇術bbwNR (9﹀﹃寧古塔副都統街門楢案﹄第五九畑、乾隆十九年十月十五 上先生からど指摘をいただいた。記して謝意を表す。 ていたが、本年一月末に池上二良先生にお曾いしたとき、池 円 。 ロ LO ロwH斗品]﹁閉yHOU ・ (8﹀イエズス禽士の史料に関しては、一度讃んだ後永く失念し 門 ・ 一 詰 白w U のF N F N司 吋 晶 、 .HQY 示。 、 切 符a N U N H .ENs-NUF3N.nbhbg 町、惨な。司。¥志、同昔、号、。 。N “ . ・ 唱 。、守おれのF、 2NNUMb-a HasshhHCS 句 、 お ﹄ 守 、r U N h R Q N W 。 ぉR ∞昌a .。 5・ ま た 英 語 吋 君 。 39bNHb及 σ ミ。 ¥(UFSRC・ hF3AW . . (7﹀い﹁・回・ロロ出回 E p b g吋3hvE V F N . A h s h Z N R w w ﹄ ・E.hS3As h N 町、可。ョv N H N . 刊&句、内苦﹄足立札内 h r h N . ARFhv 由主♂ミ ﹄守、V U 1包喝R A 。N 泊 。 二日の僚。 (6) 制度に関しては、拙稿﹁清朝逸民制度の成立﹂(﹃史林﹄第七 O巻第四鏡、一九八七年﹀、﹁十八世紀末アムール川下流地方 の透民組織﹂(﹃人文拳科論集﹄︿鹿児島大拳法文事部﹀第三 四鏡、一九九一年﹀、﹁関宮林臓がデレンで出曾った中園人﹂ (紳田信夫編﹃日本所在清代償案史料の諸相﹄東洋文庫清代 史研究室、一九九三年﹀、﹁十七世紀以降の東北アジアにおけ る経済交流﹂(﹃松村潤先生古稀記念清代史論叢﹄汲古書院、 一九九四年)などを参照。 (2﹀関嘉録﹁里遺略及其進京納婦浅析﹂(﹃歴史楢案﹄一九八二 年第四期)、楊余練・闘克笑﹁清朝劉東北港陸民族的聯姻制 (黒龍江人民出版社、一九八六 度﹂(﹃黒龍江文物叢刊﹄一九八四年第二期)。 (3﹀拙稿﹁リダカとトジンガ﹂(﹃鹿大史皐﹄第三八鋭、一九九 一 年 ) 。 李輿盛﹃遺塞詩人臭兆饗﹄ 年)を参照。 (4) -141ー 3 9 0 日、および第六一郎、乾隆二十年九月十六日の篠。 檎案舘他-謬編﹃三姓副都統街門漏文楢案誇編﹄(遼 溶書社、 (叩)﹃三姓副都統街門楢案﹄乾隆八年間四月八日の僚。遼寧省 (口)註(日﹀ に同じ。 (日)田村寅造・ 今西春秋・佐藤長編﹃五陸清文鐙誇解﹄上巻 ︿京都大悪文準部、一九六六年﹀七O ニ頁を参照。 (初)﹃大清一統志﹄(嘉慶﹀径六三、奉天府・土産・元狐の保。 (時﹀﹃極東露領に於ける毛皮﹄(日露協舎報告 8) (東京、 九二一年﹀一一一一l 二四頁を参照。以下同じ。 に従ってイトゥヒエヌと呼んだが、今後は﹃寧古塔副都統街 一九八四年)第一四O抗措案は、その中園語誇である。わた しはイトゥヒヤヌのことを、かつてコ二姓副都統街門捲案﹄ (幻﹀﹃大清一 一 統志﹄(嘉慶﹀巻六三、奉天府・土産・火狐の候。 (幻﹀拙稿﹁リ ダカとト ジ ンガ﹂二O頁を参照。 (お﹀﹃寧古塔副都統街門機案﹄第二O加、落正三年一一一月一一一日の 係 。 門槍案﹄によってイトゥヒヤヌと稽することにする。 二良﹁カラフトのナヨロ文書の満州文﹂(﹃北方文化研究﹄第 三鋭、一九六八年)を参照。 ︿日)﹃カラフトナヨロ・文書﹄の構成と研究史に閥しては、池上 (ロ)瀬川州語のテキストと翻誇は、前掲池上論文に従った。なお 街門楢案﹄乾隆四十二年十月十日(﹃コ一姓副都統街門満文 (お﹀一例をあげると、﹃寧古塔副都統街門楢案﹄第七六加、乾 隆二十七年二月二十日の像。 (お)註(お﹀に同じ。 の係。 (担)﹃寧古塔副都統街門楢案﹄第一九加、潅正二年九月十七日 倦案誇編﹄第六九挽楢案﹀の僚などに従って、オコピオ r n c r r oと讃まれるが、﹃三姓副都統 池上氏はオコプキオ o or♂司芯と讃んでおく。 九一四年﹀二五五、二五六頁、責十慶﹁清代的引見制度﹂ (MM ﹀臨時牽割問奮慣調査舎編﹃清園行政法﹄第一巻下(東京、一 十一日の係。 ω ((況﹀﹃寧古塔副都統街門楢案﹄第一 O 一加、乾隆四十年三月二 ﹀註(臼﹀に同じ。 (勿)﹃寧古塔副都統街門構案﹄第一 O 一加、乾隆四十年三月二 十八日の僚。 隆九年八月二十一日の保。 (幻﹀註(日﹀に同じ。 CEE 宮山EF 日の候。﹃寧古塔副都統街門僧案﹄には、﹁ (日)﹃寧古塔副都統街門捲案﹄第一 O 一一樹、乾隆四十年一一一月一 (お)一例をあげると、﹃寧古塔副都統街門捲案﹄第四四加、乾 EUB]自白﹂とあるが、呂田町三百-自国﹂の誤りであろう。﹃一二 姓副都統街門槍案﹄嘉慶八年九月三日︿﹃三姓副都統街門満 文指案謬編﹄第一三九鋭機案)の僚を参照。 (M﹀拙稿﹁十八世紀末アムール川下流地方の逸民組織﹂九六 頁、表22を参照。 註(日﹀に同じ。 自の篠。 (日﹀﹃寧古塔副都統街門楢案﹄第一 Oコ一加、乾隆四十年十月二 (vm) -142ー 3 9 1 ︿﹃歴史檎案﹄一九八八年第一期)を参照。 om、乾隆十二年四月二十 (お﹀﹃欽定大清曾奥﹄(光緒)巻四と各二三。なお前掲貧論文、 八二頁を参照。 ︿鈍﹀﹃寧古塔副都統街門楢案﹄第五 六日の僚。 (ぬ)に同じ。 ︿刷出)に同じ。 ︿K﹀ W註 (必﹀﹃寧古塔副都統街門繕案﹄第一 O 一部、乾隆四十年三月四 日の係。 中薗語謬である。 ︿門別﹀﹃三姓副都統街門満文楢案書編﹄第一一一一九鋭機案は、その (必)註(幻﹀に同じ。 (必﹀註 (mm ﹀に同じ。 (お)﹃寧古塔副都統街門僧案﹄第七六加、乾隆二十七年二月二 と、乾隆需はこの日(二十二日﹀圏明固から途中暢春園をへ 十日の係。なお﹃清貧録﹄乾隆二十六年六月丁亥の僚による ︿印﹀﹃寧古塔副都統街門楢案﹄第一 O 一筋、乾隆四十年四月十 統街門繕案﹄第二九加、薙正十二年七月二十一日の僚に従つ 京したのは、潅正十年のことになっているが、﹃寧古格副都 ︿回)註 (む m に同じ。それによるとチルバヌの妻がふたたび再上 (幻﹀﹃寧古塔副都統街門機案﹄第四九加、乾隆十二年二月十一 日の像。 姓副都統街円満文楢案霧編﹄第一三七挽償案)の像。 (部)﹃三姓副都統街門楢案﹄乾隆五十九年七月二十五日(﹃三 (日)﹃寧古塔副都統街門橋案﹄第 二九加、薙正十二年八月十九 日の僚。 (臼)註(臼)に同じ。 (臼)註(臼)に同じ。 (回)﹃寧古塔副都統街門機案﹄第一 O 二加、乾隆四十年四月二 十三日の係。 自の僚。 (日)﹃寧古第副都統衛門楢案﹄第一 O 一朗、乾隆四十年四月九 九日の燦。 て紫禁城に踊った。 の僚、および ﹃欽定八旗逼志﹄巻回、旗分志。 ︿町四)﹃園史列停﹄巻二O、宗室都爾嘉簿。 (初出)﹃寧古塔副都統街門指案﹄第五五節、乾隆十七年二月四日 (お﹀﹃寧士口塔副都統街門楢案﹄第七六部、乾隆二十七年二月二 十日 の係、お よび﹃欽定八旗通士山﹄巻五 、旗分志。 (鈎)この段落は、註(日)、および﹃欽.定戸部則例﹄(同治四 年)品位九て雑支・戸部支款によった。 ハ品別﹀註︿況)に同じ。 一九四二年)一一一四│三九頁を参照。 (4﹀前掲﹃清園行政法﹄第一巻上、八四、八五頁、および瀧川 政衣郎﹁清代文武官服制考﹂(﹃史皐雑誌﹄第五三編第一一抗、 FShuk尚道 AW河 内。H 除 削 . 斗N ORZF (必)前掲瀧川論文、二八│三三頁、および︿止命ミ云HNN R、 之 ミ偽札。室、FOHFH仏 CE-の と 司 Y F 司司・斗 ぐOHmwxu﹃ 同MH開凹m w u H由由A (必﹀註(川品﹀に同じ。 (川叫)﹃欽定大清曾典事例﹄(光緒)巻一 O八九、供用、および註 -143ー 3 9 2 て、難正十二年に訂正する。 の係。 Om、乾隆十二年九月五日 (臼)﹃寧古塔副都統街門楢案﹄第五 (印﹀池上二良﹃ウイルタ民俗語集﹄(網走市北方民俗文化保存 協舎、一九八五年)一二頁を参照。 ﹀服部健﹁樺太ギリヤ lタの漁携語集﹂(﹃九泉合年報﹄第四 (mU A人文科皐﹀第一一一一港第一鋭、一九六二年)九六頁を参照。 白 2nr 集、一九五二年)四九、五O頁、、吋白rgE 出巳ぢF ︿2 牛ω zgEgo-aHO 2 EgGHCrznrgQ)120ロ gf rgSEEL ︿RE-Em・(﹃北海道皐慈大皐紀要﹄(第一部 (mM) H由品 ・ 白 ﹃唱曲 ∞-X・戸国国民国司円・町、SESミEEH22h刷、早ミLEGSKQEZ潟、RRhhkEFhROw J E豆 Y 己gzz hwga・2 ℃- (臼)この段落については、池上氏から懇切なご数示をいただい た。記して謝意を表したい。 (臼﹀﹃寧古塔副都統街門楢案﹄第四二崩、乾隆七年七月十九日 殿山姥世議官﹁一 一 笠 岡 ↑ 一 とある。殿山婚はディヤンホンコのことであるが、その中の 日の係。また楊賓﹃柳逸紀略﹄径一。 ﹁二碑﹂とは、明の時に建設した二種類の永寧寺碑文を指す と考えられる。 (叩﹀﹃黒龍江嶋府軍街門憎案﹄第一 O加、康照二十九年三月十四 (礼﹀﹃寧古塔副都統街門儲案﹄第二九加、薙正十二年正月二十 六日、および向加 、薙正十二年八月十九日の保。 (η ﹀註(九)に同じ。 (η ﹀わたしはかつてプルを、南からキジ湖に注ぐフイリ川(現 アイ川)に比定したが、その解揮は、課りであった。ここに 訂正を行なう。拙稿﹁一七世紀以降の東北アジアにおける経 済交流﹂四O頁を参照。 司 旬 、 。 . o b E R ω語 いたことについては、﹀-∞・のg 、h R 占同R 町R (刊内)かつてウイルタ族が、このル lトを通って移動を行なって よび石田英一郎﹁邦領南樺太オロッコの氏族に就いて付﹂ 宮町内定、言、。。。白河紅海正NOKA hHhhhREShH﹄ 肉 、 、 S -お p A o n自 h 回u 白-sa・2 旬 、 旬 。 shhHNHIN-EShouQNHM・ 七頁を参照。 の僚。 (白山)一例をあげると、﹃寧古塔副都統街門楢案﹄第四七加、乾 隆十四年八月九日の係。 ︿作﹀拙稿﹁一七世紀以降の東北アジアにおける経済交流﹂三九 候 。 (町内﹀﹃寧古塔副都統街門楢案﹄第三五加、乾隆三年九月六日の (花﹀捌稿﹁一七世紀以降の東北アジアにおける経済交流﹂四O 頁を参照。 (﹃石田英一郎全集﹄第五巻、筑摩書房、一九七七年﹀一一一一-一 ︿印)﹃寧古塔副都統街門僧案﹄第四八加、乾隆十一年十一月二 十二日、および第四九加、乾隆十二年二月十一日の係。 (乾隆九年﹀を三五、寧古犠・山川に ハm 山)註(印﹀に同じ。 ︿伺﹀拙稿﹁一七世紀以降の東北アジアにおける 経済交流 ﹂第一 ﹃大清一統士山﹄ 草を参照。 (ω) -144ー 頁を参照。 (花﹀﹃寧古塔副都統街門機案﹄第八三加、乾隆三十年十一月二 m、康照五十七年二月二十七日の候。 十一日、および第一一一一m (乃﹀﹃寧古塔副都統街門楢案﹄第五八加、乾隆十九年正月二十 ︽目。 om、乾隆四十 四日の僚。原文には 32mmzogrpzpgFogro-nooz zznF口出・・・﹂とあるが、この守口mmE は佐領、または 防御を指すと考えられる。 ﹀たとえば﹃寧古塔副都統街門楢案﹄第一一 四年七月二十五日、およびコニ姓副都統街門機案﹄乾隆四十 五年六月十日(﹃三姓副都統街門満文楢案誇編﹄第一一五貌 楢案)の保。 (町山﹀註(日山﹀に同じ。 三巻第二続、一九二九年﹀、竹内運卒﹁山丹交易に関する考 (但)末松保和﹁末期の山丹交易に就て﹂(﹃東亜経済研究﹄第一 察﹂(﹃園事院雑誌﹄第三九巻第五鋭、第六貌、一九三三年)、 高倉新一郎﹁近世に於ける樺太を中心とした日満交易﹂(﹃北 方文化研究報告﹄第一鋭、一九三九年﹀、洞富雄﹃樺太史研 究│樺太と山丹﹄(東京、一九五六年﹀などを参照。 ︿間山﹀拙稿﹁十八世紀末アムール川下流地方の透民組織﹂八八頁 を参照。 ﹀註︿ ∞ m﹀ に同じ。 (UM (田山﹀拙稿﹁十八世紀末アムール川下流地方の逸民組織﹂八七頁 を参照。 八七頁を参照。 (町田﹀拙稿﹁十八世紀末アムール川下流地方の漫民組織﹂八六、 (的引﹀﹃寧古塔副都統街門稽案﹄第四一加、乾隆七年十二月二 (﹃三姓副都統街門満文捲案謬編﹄第一四四貌繕案)の僚。 目、およびコニ姓副都統街門橋案﹄乾隆八年十月二十八日 ︿∞∞﹀﹃寧古塔副都統街門楢案﹄第四五加、乾隆十年三月七日、 案誇編﹄第一四O鋭、第一四一鋭、第一四二鋭、第一四四挽 および﹃三姓副都統街門指案﹄乾隆八年間四月八日、六月二 十七日、八月八日、十月二十八日︿﹃ 三姓副都統街門満文指 楢案﹀の僚。 (回)﹃寧古塔副都統街門檎案﹄第四八加、乾隆十一年二月二十 七日の係。 (卯)﹃清寅録﹄乾隆八年九月甲辰の候。 の候。この年には五丁で計十枚の沼皮を貢納している。 (侃﹀﹃寧古塔副都統街門機案﹄第五O加、乾隆十二年十月八日 (位﹀﹃三姓副都統街門償案﹄乾隆二十年五月二十七日(﹃一一一姓 副都統街門満文楢案羽一昨編﹄第一四八貌繕案﹀。 ﹀﹃寧古塔副都統街門様案﹄第七八朗、乾隆二十八年十月六 日の係。 (mm (倒﹀註(凹むに同じ。 (間山﹀拙稿﹁閲宮林磁の著作から見たアムール川最下流域地方の 透民組織﹂(紳田信夫先生古稀記念論集編集委員曾編﹁清朝 と東アジア﹄山川出版社、一九九二年﹀一五七頁を参照。 ﹃寧古塔副都統街門楢案﹄第一四加、康照五十九年八月二 十四日の僚。 (Mm) 谷調停筒一編注﹃東縫地方紀行﹄(卒凡祉、一九八八年)によ (併﹀﹃北夷分界除話﹄附岨障を参照。なおテキストは、洞富雄・ -145ー ω ( 3 9 3 394 った。 一九八一年﹀第二八二鋭楢案。 ︿伺)中圏第一歴史楢案館﹃清代中俄関係楢案史料選編﹄(北京、 (叩)﹃寧古塔副都統街門機案﹄第八三加、乾隆三十年十一月二 十一日の係。 士口林東北有和民支雅略部、:::。至今其部落及歳時至吉 ︿川)﹃噺亭雑録﹄巻九、和民支雅略 林納聴、同府軍卸購買民女、乗以紅輿代宗女、以厚窟贈 之。其部落甚信用品骨奉、初不計其僑也。 (川)それぞれ高橋寛光﹃瓦刺弗吐島雑記﹄(内閣文庫蔵)、最上 徳内﹃蝦夷草紙後編﹄巻中、中村小市郎﹁唐太嶋見分仕候趣 一九三六年﹀﹀を参照。 左ニ奉申上候﹂(﹃新撰北海道史﹄第五巻史料一︿北海道耐腕、 -146一 THE HOJIHONS IN THE LOWER REACHES OF THE AMUR RIVER IN THE EIGHTEENTH CENTURY Matsuura From the period government of the mid-seventeenth organized most of the Amur River These people were obliged family to Ningguta In the red to pay century, sable. Their and to marry hojihon, and they, together continued Russia who many animal actively reaches people 漫民”. pelt per with of the annual was to present their government wives, were receiving much Nerchinsk increased these pelts to in this pelts. 4− the well-treated. Some Amur River region reward。 between Qing and the tribute sites in the lower eight bannermen carried on other frontier people. The - to tribute missions. there annually the frontier people participated to travel .people were termed and forth from and dispatched and began as silver foχ,black foχ,arctic foχ, of the treaty of River, people in Beijing. Such pelts and the bannermen those purpose many in 1689, the Qing both annual frontier back to collect the pelts. Then, with tribute of a sable some women the conclusion of the Amur an to travel to Beijing, presenting reaches the lower as “frontier pelts such emperor With living in 清dynasty designated outside the purview people carried animal hojihons the Qing 寧古塔 eighteenth foχ, and century, of the minorities into a group Beijing北京privately, These Shigeru trade and a lively trade hojihons were successfully gathered