...

配布資料

by user

on
Category: Documents
17

views

Report

Comments

Transcript

配布資料
千葉県三番瀬再生計画検討資料(2003):会議で公開済:計画素案に収録予定
収集資料一覧
No
1
2
3
4
5
引用 地域
① 浦安
②
6
7
③
8
9
10
11
12
13
14
④
⑤
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
⑥
⑦
⑧
⑨
⑩
⑪
⑫
⑬
27
⑭
28
⑮
タイトル
浦安町誌 上
浦安町誌 下
浦安の歩み
浦安市史
浦安誕生100周年記念写真集 う
らやす
浦安市文化財調査報告 第6集
浦安のベカ舟 浦安市ベカ舟調査
報告書
浦安市文化財調査報告第5集 海
とともに -浦安市漁撈習俗調査
報告-
浦安市文化財調査報告 第12集
漁師の観天望気 -浦安市自然
史調査報告書-
浦安市文化財調査報告 第14集
浦安の漁撈習俗1 -鵜縄漁-
浦安市史〔生活編〕
浦安市史〔まちづくり編〕
浦安市郷土博物館常設展示解説
浦安市郷土博物館 企画展 「の
り-東京湾のノリ-」
浦安市郷土博物館調査報告第1
集 アオギスがいた海
浦安市文化財調査報告 第17集
浦安の漁撈習俗2 -海苔-
市川
市川市史第四巻 現代・文化
市川市史第四巻現代編別収付図
郷土読本 市川の歴史を尋ねて
市川・浦安 地図に刻まれた歴史と景観2-明
治・大正・昭和 市川市・浦安市
写真集/市川・浦安の昭和史
船橋
船橋市史現代篇
船橋漁業史
船橋漁業生産史(一)
船橋漁業生産史(二)
船橋浦生物誌
船橋市民俗文化財緊急調査報告
第5次-1 -船橋浦の漁業-
船橋市民俗文化財緊急調査報告
第5次-2 -船橋浦の漁業と社会
-
ふなばし物語(改訂版) -太古か
ら現代まで-
発行
浦安町役場
浦安町役場
浦安町役場
浦安市
浦安市
発行年
1969
1974
1975
1985
1990
浦安市教育委員会
1993
浦安市教育委員会
1995
浦安市教育委員会
1997
浦安市教育委員会
1999
浦安市
浦安市
浦安市郷土博物館
浦安市郷土博物館
1999
1999
2001
2002
浦安市郷土博物館
2002
浦安市教育委員会
2003
市川市
市川市
市川市教育委員会
新人物往来社
1975
1975
1988
1992
千秋社
船橋市役所
船橋市経済部農水産課
船橋市経済部農水産課
船橋市経済部農水産課
船橋市経済部農水産課
船橋市教育委員会
1995
1965
1974
1979
1982
1982
1995
船橋市教育委員会
1996
船橋市広報課
1997
三番瀬変遷史
元号(年)
西暦(年)
地
形 埋立地の造成
の
変
化
昭和24 25 26 27 28 29 30 31 32
1949
33
34
35 36 37 38 39
1960
40
41
42 43
1965
44
45
46
47
48
49
1970
浦安
50
51
52
53
54
1975
55
56
57
58
59
1980
60
61
62
1985
63 平成元
2
3
4
1989
5
6
7
8
9
1993
10
11
12
13
14
1998
874ha
563ha
浦安Ⅱ期
62ha
160ha
市川
195ha
85ha
839ha
94ha
京葉
39ha
船橋
浅海域の残存率
0m以浅
100%
(昭和24年の面積を
100%として算出)
0~5m
100%
周辺の海岸線の変化
173ha
60ha
10ha
99%
88%
浅海域の急激な減少
100% 100%
27%
27%
27%
27%
57%
57%
57%
57%
大きな地形変化
小さな地形変化
台風等による高波浪
波高(m)
○
○
○
○
2.39
3.25
2.57
1.65
浦安
(昭和39~55年)
茜浜沖
(昭和46~52年)
幕張沖
(昭和41~55年)
市川航路
航路の掘削・浚渫
(昭和54~56年)
○
○
2.00
欠測
○
○
2.27
深堀れの形成
船橋航路
(昭和45~47年)
(1,000m 3)
○
航路開設
(1,000m 3)
6,763
航路拡張
9,614
○
352
人工干潟の造成
○
89
○
133
○
○
○
109
325
171
○
○
241
10
○
13
○
43
○
17
○
22
○
18
○
○
25
32
○
○
38
25
○
○
38
39
○
457
393
↑50船橋市全面に浚渫土砂を投入し、暫定的に干潟を造成
船橋人工海浜造成
市川沖にアサリ場(水深約A.P.0m)造成
覆砂等
船橋海浜公園造成
アサリ養貝場造成
地盤沈下
地下水の取水量の増加
↑45地下水取水の禁止
三番瀬周辺で激甚な地盤沈下(多いところは1~2m以上)、三番瀬の多くの干出域が水没
<昭和29年当時のA.P.0m線位置は、平成3年のA.P.-1m線付近に相当。A.P.0m以浅の面積は、1,470haから140ha(人工干潟を含む)に変化>
深浅測量 全体的な水深変化
土量変化量は少ない 0.1~0.3mの浸食傾向
変化量は少ない
堆積傾向
浸食傾向
局所的な変化
市川航路
ゆるやかな堆積傾向
アサリ養貝場
前置斜面
造成後、堆積傾向
浸 食 傾 向
日の出干出域
猫実川河口
堆 積 傾 向
浸 食 傾 向
浸食傾向
○
54
三番瀬変遷史
元号(年)
西暦(年)
昭和24 25 26 27 28 29 30 31 32
33
34
1949
35 36 37 38 39
1960
40
41
42 43
44
1965
45
46
47
48
49
50
1970
51
52
53
54
1975
55
56
57
58
59
1980
60
61
62
63 平成元
1985
2
3
4
1989
5
6
7
8
9
1993
10
11
12
13
14
1998
淡水(下水処理水)の流入
淡
水
流
入
・
負
荷
量
の
変
化
三番瀬周辺
↑56江戸川第二終末処理場供用開始
猫実排水機場完成 50↑
ポンプ水門操作により河川水が海域に流入
東京湾
↑46江戸川水門閉鎖
横ばいで推移
江戸川第二終末処理場放流水量
100000
(1000㎥/年)
千㎥
80000
60000
40000
20000
0
S56
57
58
59
(直接三番瀬へ)
60
61
62
63
H1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
(猫実川経由)
(旧江戸川へ放流)
江戸川第二終末処理場による処理水暫定放流
流入負荷量
東京湾 COD
大幅に減少
横ばいで推移
T-N
緩やかに増加
横ばいで推移
緩やかに増加
横ばいで推移
T-P
江戸川放水路の開削、可動堰の運用
大正8(1919)
(●:現在の堰運用実績)
放水路の開削
年間放流水量
流入河川の水質
↑現在の行徳可動堰竣工
●● ●●
●
●●
●● ●
●
●
●
●
●● ●●
●
●●
●
●●●
●●
●
●
●
(10,000m 3/年)
真間川(三戸前橋)
(mg/l)
35
30
海老川(八千代橋)
真間川(BOD)
海老川(BOD)
真間川(T-N)
海老川(T-N)
真間川(T-P)
海老川(T-P)
25
25.4
25.4
32.5
8.6
14.6
22
16
18.3
26.1
17
19
15
18
15
16
17
18
17
22
21
18
16
15
13
13
14
16
16
12
12
11
11
7.3
15.1
21.2
29.9
11
15.4
24.4
32
23.9
27.2
26
21
22
20
14
19
25
17
18
19
17
15
20
16
12
14
16
16
15
12
11
11
11
9.2
7.35
5.4
6.9
9.6
6.9
10.5
9.6
17.5
12.1
7.2
3.5
3
8.5
2.5
20
9.70
10.00
11.00
8.30
8.50
7.60
6.00
8.00
1.80
1.80
1.50
1.30
1.20
8.80
9.50
8.90
9.10
10.0
8.90
8.60
8.90
9.80
8.80
11.00
10.00
1.10
1.30
1.10
1.20
63
平成元
9.00
8.80
9.00 10.00
10.00
8.60
8.30
9.20
7.80
6.20
9.70
3.50
11.00
1.20
1.00
1.10
11.00
9.50
9.50 11.00 10.00
9.80
9.00
12.00
9.70
9.90
9.00
0.94
0.87
0.73
0.96
4
5
6
25.5
15
1.5
15.2
10
5
3.31
12.0
0.39
1.1
1
0.85
0.82
0.84
0.68
8.40
1
0.5
0.48
0.5
0
0
44
水
東京湾の水質
質
・
底
質
・
底
生
生
物
の
変
化
水質の傾向
東京湾2
(N35°40’23”)
東京湾3
(N35°38’38”)
45
(mg/l)
46
3.04
7
6
3.14
東京湾2(COD)
東京湾3(COD)
東京湾2(T-N)
東京湾3(T-N)
東京湾2(T-P)
東京湾3(T-P)
5
4
47
48
49
50
51
0.51
52
0.79
53
0.97
54
1.30
55
1.40
56
1.30
57
1.20
58
1.20
59
60
1.10
61
0.91
0.91
62
0.92
1.10
2
0.25
1.70
3
1.30
1.00
1.20
7
1.4
1.3
8
1.1
9
1
10
1.1
11
1
0.92
3.8
3.9
0.25
5.2
4.3
6
3.4
3.1
4.9
4.8
4.3
4.9
4.2
5.5
4.6
5.2
4.6
4.7
3.7
3.6
3.8
3.4
4.4
3.2
4.8
4.1
4
3.6
4.1
4.2
4.1
4.5
4.7
3.2
3.3
4.5
4.8
4.1
4.7
4.7
5.2
6.1
4.3
3.7
4
4
4.3
4.3
3.4
6.1
3
4.8
4.2
4.2
4.2
3.9
4.3
4.3
3.9
0.2
4.4
0.15
0.14 2.46 2.13
1.28 1.44 1.35 1.60
1.50
1.40
1.40
1.30
1.60
1.40
1.70
1.80
1.60
1.40
1.30
1.30
1.30
1.20
1.3
1.3
1.4
1.2
1.2
1.2
1.3
1.3
1.1
1.05 2.33 2.55
1.18 1.24 1.16 1.40
1.30
1.20
1.20
1.20
1.30
1.30
1.30
1.30
1.40
1.30
1.30
1.20
1.10
1.30
1.2
1.2
1.3
1.2
1.2
1.1
1.3
1.1
1.1
3
2
1.2
0.1
1.1
0.05
1
-
-
0.19 0.21
0.18
0.18
0.17
0.13
0.14
0.14
0.20
0.19
0.17
0.14
0.13
0.14
0.13
0.17
0.13 0.16 0.14
0.15
0.14
0.14
0.13
0.14
0.13
0.13
0
47
48
49
50
51
0.014 <0.02 0.15
52
0.16
53
0.13
54
0.12
55
56
0.11 0.11
57
58
0.10
0.11
59
0.098
60
0.094
61
0.11
62
63
0.11
平成元
0.12
2
0.11
3
4
0.096 0.17
5
6
7
0.094 0.13 0.12
8
0.12
9
0.11
10
0.11
11
船橋港、船橋航路で増加、江戸川河口、京葉港沿岸で減少
12
13
0.12 0.096
横ばいで推移(地点間の差無し)
COD、T-N
バラツキはあるがほぼ横ばいで推移
塩分、DO
横ばいで推移(江戸川河口で低塩分となる場合あり)
優占種(個体数)
14
0.92
5.1
46
底生生物
13
5.1
T-P、PO4-P
粒度組成
0.97
5.4
0
底質
12
三番瀬の奥部(市川側)で細かくなる傾向
三番瀬の奥部で、粒度の細かい底質に生息する種類が増加
14
0.11
0.1
三番瀬変遷史
元号(年)
西暦(年)
陸
域
の
変
化
土地利用の変化(宅地面積の推移)
浦安
市川
船橋
雁
昭和24 25 26 27 28 29 30 31 32
1949
33
34
35 36 37 38 39
1960
3500
3000
2500
2000
1500
1000
500
0
40
41
42 43
44
1965
45
46
47
48
49
50
1970
54
55
56
57
58
59
1980
60
61
62
63 平成元
1985
2
3
4
1989
5
6
7
8
9
1993
10
11
12
13
1998
9% 13% 13% 16% ## ## 11%
12%
13%
13% 14%
25%
27%
38%
47%
59%
73%
75%
43%
63%
73%
77%
##
21% 22% 23% 24% ## ## 28%
30%
30%
31% 32%
33%
33%
34%
38%
39%
43%
47%
58%
60%
62%
62%
38
39
40
42
34%
43
36%
44
37%
45
39%
46
41%
47
44%
35
##32 11%3313% 3413% 16%
##36 ## 37
26%
26%
28%
41
30% 32%
48
44%
49
50
47%
55
50%
60
2
7
52%
54%
↑51最後の記録
↑39最後の記録
90年代に消滅
きわめて少なくなる
湿地の消滅とともに極端に減少している
干潟を好むシギ・チドリ類
減少
漁
業
活
動 漁業経営体数
の
変
化
船橋
行徳
南行徳
市川市内陸
浦安
1600
1400
1200
1000
800
600
400
200
0
90年代に復活
48
53
大幅に減少
↑37船橋一部放棄
15
63
5
10
↑48船橋全面放棄 ↑51南行徳一部放棄
↑46浦安・浦安第一全面放棄
150
58
緩やかに減少
↑44船橋一部放棄
200
アサリ(千トン)
↑H6行徳湿地で繁殖開始 97年より急増
戸
S43
漁獲量
53
##
淡水湿地を好むシギ・チドリ類
漁業権
52
市川市
船橋市
浦安市
サカツラガン
鳥
類
マガン
の
変 新浜鴨場のサギ類のコロニー
化
カワウ
51
1975
12
10
12
13
15
↑52行徳一部放棄
6
11
8
3
7
5
3
3
6
11
2
3
5
6
5
3
2
3
1
2
3
2
2
16
ノリ(百万枚)
14
1
0.5
アサリ(千トン)
12
1
10
8
6
4
2
0
100
50
0
ノリ(百万枚)
142
45
139
46
126
14748
47
66 49
5050
2551 26 52 86 53
3554
採貝漁獲量の推移 船橋
船橋で減少
浦安
浦安で減少
↑46浦安のアサリ漁獲激減
↑50三番瀬のハマグリ漁獲が0に
ノリ養殖
収穫量
(三番瀬周辺)
減少
養殖技術
人工採苗技術の普及
冷蔵網、ベタ流し養殖技術の普及
4655
7056
3857
6558
4259
4860
38
61
35
62
40
63
33
平成1
14
2
28
3
34
4
5
36
34
6
29
7
33
8
36
9
10
56
11
54
12
44
13
55
14
三番瀬変遷史(聞き取り)浦安
項目
江戸
地 享保(1716~1735)
形 堀江の開墾③
明治
明治25年(1892)
猫実の開墾③
開墾された耕地の土質は粘質沖積土③
16世紀末
鎌ヶ谷から灌漑用水路を通して開墾
(内匠堀)③
明治中期以降
干拓は行われず③
堤防
江戸川上流から流れてきた
土砂が沈積してできたところな
ため、部落の開拓が進むにつ
れて、東に向かって逐次新しい
堤防が築かれた。①
江戸川が運ぶ土砂によって形成された広大な干潟は、大潮の干潮時には4㎞先ま
で潮が引いた。③河口には三つの大きな洲(大三角、小三角、見明島)にヨシ・カヤが
一面に密生し、大雨の都度、江戸川上流から流出した泥土が沈積して、よい肥料に
なる。また淡水と鹹水が交流するため、ヨシの品質が固く、海苔簀に適している。①
淡
水
流
入
・
負
荷
量
水
質
・
底
質
・
底
生
生
物
漁
業
活
動
江戸川河口付近では清水と鹹水が混流③
寛永6(1630)年以降~
海水の塩分低下による塩浜の荒廃、
塩浜年貢の免除③
浦安の海は浮泥地帯だった③
浦安でとれた魚
…アミジャコ・エビジャコ・クルマエビ・シバ
エビ・ハンベ・アナゴ・ウナギ・ドジョウ・ア
オギス・シロギス・イシモチ・カレイ・ギンポ
ウ・クロダイ・コチ・コノシロ・コハダ・サヨ
リ・シラウオ・スズキ・スミイカ・セイゴ・トウ
ゴイワシ・トラフグ・マルタ・メゴチ・ハゼ・
ダボハゼ・ビク・フナ・ボラ・ワタリガニ③
塩田の衰退
猫実村と堀江村は江戸川河口
の部落で、江戸幕府の創業期に
はここで塩を焼いていた。徳川家
康が奨励した行徳塩の発祥の地
である。ところが江戸初期の終わ
り頃、この塩田は荒田となって漁
村は漁業専業に変わった。⑩
江戸時代の漁場利用の原則
…磯は村持ち、沖合は入会
「東は落ちの澪で西は貝ヶ澪まで」
…船橋村の浦境
「高瀬、二かいの洲、三番瀬」
…船橋の貝の豊富な洲③
江戸川での漁撈
シラウオ掬い、シジミ採り、投網①
海
底
地
形
そ
の
他
淡水と塩水の中間
の魚が多かった③
明治10年(1877)
佃煮の製造開始③
明治19年(1886)
ノリ養殖開始③
他町村地先も含め
た養殖場拡大へ
(蠣内、川辺、大角、
十万坪、高洲、西辰、
鳥棒、三平、大正場、
記念場)③
大正
昭和
用水(せき)
町の周囲はほとんど耕地で、畑は少なく大部分は水田
だった。耕地には東西南北に通ずるもの、途中で曲がっ
ているものなど大小多数の用水があり、「せき」と呼ばれ
ていた。せきの幅は1.8メートルないし3.6メートルぐらいで、
要所要所には取り外しのできる簡単な橋が架けられてい
た。せきの数は東西に通ずるものが約40筋、南北に通ず
るものが25筋あり(大正6年現在)、その水は境川に落ち
るものと、東京湾に入るものとがある。元来せきは農地の
灌漑と、悪水落としの目的を兼ねて堀さくされた。
稲の取り入れの季節になるとせきを利用し、伝馬船やベ
カ船を操って稲の運搬をする。農家では船の通りをよくす
るために、毎年日を定めて各戸から一名づつ出動し、せ
きのマコモを刈り取ったり、じょれんで底を浚渫したりし
た。せきは子どものよい遊び場でもあり、子どもたちはここ
で泳いだり、魚を獲ったりした。①
境川は、昔は川幅が今よりずっと狭かった
上に流れが速く、下げ潮の時に船で上るの
は大変だった。長い間かかって川幅の拡張
や川岸の改修などが行われ、漁民はここを
漁港として漁船を繋留した。水は清浄で、上
げ潮に乗り鹹水がこの川に逆流するため、い
ろいろな海の魚が獲れた。また、浦安の井戸
水は塩分が多く、飲料水には適さなかったた
め、生活用水は境川の水を利用した。①
オオヨシキリ・ガン
オオヨシキリは繁殖のため南方
からやってきて、オス独特の鳴き
方でなわばりを主張し、メスを誘
う。『ケケチンケケチン・・・』と鳴くこ
とから、浦安ではヨシキリのことを
「ケケチン」と呼んでいた。④
ガンはレンコンが好きで水がた
まっている掘りやすいところを狙っ
て掘っていたが、昭和の初め頃か
ら年々数が少なくなり、戦後は姿
を見せなくなった。③
松林
川岸付近は松林が海岸ま
で続いていて、周囲とよく調
和し、とてもよい風景だっ
た。松林は築堤の際、堤防
を強固にするため移植され
たり、耕作に支障をきたして
伐採されたりして、現在は大
連寺の裏山、弁財天の境内
と、本弁天の境内にその名
残をとどめている。①
昭和35年(1950)頃~
地盤の沈下→不耕作地の増大③
昭和39年(1964)
当代島・猫実の
土地改良事業実施
昭和43年(1968)
用排水施設の完備
区画整理事業完了
昭和40年(1965)
堀江の土地改良計画
事業開始
一般的な土地開発へ
→農業の衰退③
大正15年(1926)
洗濯や汚物のため境川の水
が汚染され、コレラ、赤痢、腸チ
フスなどの伝染病が絶えず、特
に夏期にはひどかったため、町
当局は大正15年7月から夏期
期間中は、境川の水を飲料水
として使用することを禁じた。①
昭和20年(1945)頃~
「浦安の海はダメになった」と漁
師の間でもいわれだす。昔の海
は青色で透明で、4、5m底の貝
が見えたが、だんだん同じ青色
の海でも水がよどんできた。③
ノリの生育場として適していた理由
・遠浅で季節風の影響を受けにく
い、波穏やかな海であった
・海苔ヒビをたてることのできる深さ
(5m以浅)であった
・ノリが育つのに必要な栄養塩が江
戸川から豊富に運ばれてきた
・海水と江戸川の水が混ざり、アサ
クサノリに適した塩分濃度であった
・潮流による適度な海水の交換が
行われた④
江戸川の河口付近から東側にかけて
の範囲は海水と真水が混じるのでノリ
の質がよく、東に遠くなると塩水が多く
なるので質が落ちた。逆に三平から西
に行くと潮が甘くなり真水が多くなりす
ぎる。今の入船や美浜のまわりは量は
とれるが質が悪かった。海が浅いた
め、黄ばんだ色の海苔がとれた。沖の
方でとれる海苔は黒かった。③
貝の生育場として適していた理由
・江戸川の流れと潮の干満が、
浮遊幼生を河口域に集める
・浮遊幼生が着底できる広大な
干潟が存在している
・江戸川の水が、アサリやハマ
グリのエサの植物プランクトンを
育てる栄養塩を運んでくる
・干潟の環境の変化が外敵であ
るヒトデなどの侵入を制限する④
イワシ・アジ・ハゼ・スズキ・ボ
ラ・コチといった魚がほとんど
とれなくなり、ノリ養殖や貝の
採取が主体となった③
浦安の海は、海水の塩分濃度が低い
上に、浅かったので良質のアサリがと
れた。アサリの成長には潮の流れも
関係し、いい時半のものはシロカタツ
キといって、殻の模様がはっきりし、
平べったく育っている。蠣内と十万坪
はアサリの生育に適していたので、養
殖場になっていた。③
明治32年(1899)
貝養殖開始③
浦安でとれた貝
…アサリ、ハマグリ、シジミ、赤貝、
トリ貝、アオヤギ(バカ貝)、シオフ
キ、マテ貝、カラスガイ、バイガイ、
ドウメンケイ、サルボウ③
三番瀬は船橋は海苔、浦安は貝の
ために利用することが多かった③
浦安と船橋は澪筋が多く、行徳は少なかっ
た。潮が引くと三番瀬には洲がいくつもでき、
その間の澪にハゼがたくさん残っていた。③
澪は長年にわたる潮流の力によってできた
もので、漁師はこの澪を利用して航行する。①
明治14年(1881)~ 貝灰の製造
アサリ、ハマグリ、カキ、バカガイなどの貝
殻を、かまで焼いてからふるいにかけてつ
くったものを貝灰といい、「漆喰」や「カキ灰」
ともいう。家屋の建築用材料や農家の肥料と
して使われる。①
舟運
江戸川は陸上の交通
機関が不便だった時代
は、物資の輸送に最も
重要な川であった。①
昭和30年頃~
工場・生活排水による漁場汚染③
昭和33年(1958)
本州製紙江戸川工場からの排
水による魚介類の大量死滅、ノリ
養殖にも膨大な被害③
昭和38~39年頃までアオギス釣
りに行った。昭和33年の本州製
紙事件前まではとにかく良く釣れ
た。その後もいたことはいたが、
地が悪くなってつかなくなった。ア
オギスが生息するには砂地でな
いと、泥だとだめだった。⑤
昭和37年(1962)
漁業権の一部放棄
埋立造成計画受け入れ③
昭和46年(1971)
漁業権全面放棄③
カレイやハマグリが
一時的にたくさんとれた③
船橋沖は深くて潮通しがよく、波
が荒く水がきれいで真砂(粗い砂)
だったので、貝の肌がきれいで味
もよかった。
浦安は地面が低く潮の流れが悪
いため、砂が細かく泥けがあった。
そのため貝の色が悪く模様がぼけ
ていた。③
昭和初期 肥船
上総の肥船が、神田川に船を
つないで東京の糞尿を集め、海
を回って江戸川に入り、浦安や
行徳の水田にも肥料の下肥をま
いていた。境川にも10艘ほどの
肥船がつないであった。③
ヨシ・カヤ・クグの利用
ヨシの刈り取りは六月下旬から土用にかけて行
われ、天日でよく乾かしてから、海苔簀を編む。カ
ヤは10月頃から刈り取り、海苔干し場の「台簀」
や「すだれ」をつくったり、萱屋根の差し替え用に
使われる。クグは土用に入ると刈り取り、のれ
ん、みの、クグ縄などをつくるのに使われる。①
貝殻の利用
貝殻をまくと道路の凸凹が補修され、
水はけがよくなる効果もあったので、家
のまわりや屋根から雨だれが落ちて地
面が削れるところ、井戸や水道のまわり
に貝殻をまいていた。この貝殻から出る
臭いが、浦安の独特の臭いだった。④
三番瀬変遷史(聞き取り)市川
項目
地
形
江戸
明治
江戸時代前期~ 行徳塩浜の全盛期
行徳の塩田は幕府の保護下で経営されていた。
本行徳村・上妙典村・下妙典村をあわせ200町歩
(約200ha)以上の塩浜があったと算定される。⑮
かつての東京湾は、あちこちに塩浜があって、塩焼
きの光景が展開していた。内湾の塩業が大きく発展
するのは江戸時代に入ってからで、江戸の人口増加
に比例して盛んになる。⑮
行徳の地域は江戸
川のデルタと、東京湾
の潮流によって形成さ
れており、古くは葛飾
の浦、または袖ヶ浦と
呼ばれ、製塩の行わ
れたところとして知られ
ている。1769(明和6)
年の「塩浜由緒書」に
よると、上総国五井で
行われていた塩焼を
見習い、遠浅の干潟
の砂場を見立てて塩
焼がはじめられたとあ
る。⑧
塩田の造成
塩田は50年ほど経つと塩
分が薄くなるため、新たに海
面に塩田を開くことが繰り返
されてきた。古くなった塩田
は古浜や荒浜などと呼ば
れ、田畑として耕作されたり
した。一方、新たにつくられた
塩田は新浜(しんはま・にい
はま)と呼ばれた。⑦
大正
昭和
昭和30年代~⑥
市川の地形
市川市は北総台地の末端を市域の北部に擁し、台地を刻む国分川
や大柏川さらに江戸川の形成した沖積低地が東京湾に伸びている。
この沖積低地は、北総台地の中山地先より延びる砂州によって二
分されており、砂州の北部は盆状になり、大正末に耕地整理が行な
われるまではアシの茂る湿地が残り、南部も海抜高度1mに満たない
低地で、排水はきわめて劣悪であった。⑥
大正6年(1917)
台風による大津波
→塩田の壊滅⑥
明治26年(1893)
新浜御猟場の設置⑧
明治45年~大正8年(1912~
19)
行徳町を含む10か町村による
耕地整理⑧
堤防
行徳一帯の海岸は遠浅の干潟が続いていたので、塩田
の堤防は割合簡単にできたが、ひとたび台風や津波など
に見舞われると、跡形もなく破壊されることが多かった。⑦
明治43年(1910)8月
利根川の大洪水⑧
負淡
荷水
量流
入
・
大正11年(1922)
行徳の海岸沿い(鴨
場周辺)はヨシの生え
た浅瀬で、潮加減もよ
く静かなところだった。
ここにはたくさんの魚
が集まり、周りのサト
イモ畑の中に飛び跳
ねたボラがたくさん死
んでいた。③
真間側沿岸・南部地域
市街地の拡大→塵芥の大量排出
汚水や塵芥の滞留・腐敗
雨水の氾濫
道路側溝の閉塞
→衛生処理施設の必要性
行徳・南行徳地区
地盤の沈下→水田の沼沢化
蓮田への変換
不耕作地の増大
昭和4年(1929)
政府の塩業地整理令
→塩業の終焉⑧
戦前
耕地の大部分は湿
田で水はけが悪く、稲
作の生産性は非常に
低かったが、この湿田
の一部を利用して蓮根
を栽培する蓮田が多
く、この地域の農業の
特色の一つをなしてい
た。⑥
昭和25年(1950)
国土総合開発法施行⑥
昭和41~54年(1966~79)
行徳・南行徳地区の土地区画整理事業の進
行
昭和44年(1969)
営団地下鉄東西線の延長・行徳駅開業
昭和47年(1972)
新行徳橋完成
京葉道路から行徳地域への有料道路開設⑧
昭和30,31年(1955,56)
行徳町・南行徳町の併合⑥
臨海工業都市構想
昭和34年~ 行徳地先の埋め立て着手
昭和39年~ 第二次埋め立て事業
昭和40年~ 第三次埋め立て事業
→約16万㎡の海面埋め立て完成
→30の工場誘致→工場労働者の増加⑥
下水道整備
塵芥焼却場整備
排水路整備
土地改良事業
昭和45年(1970)頃~
急速な都市化⑥
住宅需要の爆発的増大
→市内全域の市街地開発の活発化⑥
昭和30年代後半
経済の高度成長→東京からの人口流入⑥
明治44年~昭和5年(1911~30)
江戸川大改修工事→江戸川放水路開削⑧
昭和11~18年(1936~43) 水閘門の建設
塩害の防止と水位の確保を図るため、江戸川と放水
路の分流点にあたる江戸川区篠崎地先に水閘門の建
設が行われ、1943年に完成した。⑧
昭和25~32年(1950~57) 行徳橋の建設
水閘門と同じ目的で、総工費7億9000万円をかけ、当時
では東洋一を誇ったローリングゲートを持つ行徳橋が建
設され、1957年に完成した。⑧
昭和40(1965)年
放水路は江戸川、江戸川本流は
旧江戸川と呼ぶようになった。⑧
底水
生質
生・
物底
質
・
漁
業
活
動
海
底
地
形
そ
の
他
江戸前ウナギ・サヨリ・カレイ
江戸川沿いの天然ウナギ
の捕獲が、この地方の産業
の一つになっており、盛んに
江戸へ送られ、江戸前ウナ
ギとして通人たちに喜ばれて
いた。
その他、春はサヨリ、11月
頃はカレイをとった。⑦
「行徳のまな板」
「行徳のまな板はバカ
(貝)を調理するのでスリ切
れている」、つまりバカな上
にスレているのでは手にお
えない、という意味で使わ
れた。それほど、行徳の海
岸一帯にはバカ貝が多かっ
たものと思われる。⑦
明治35年(1902)
行徳浦漁業組合設立
明治36年(1903)
南行徳漁業組合設立
戦後~昭和50年頃 海苔養殖の発展
塩田の破壊の後を受けて、海苔養殖が副業として発展する。特に戦後は農業収入をはる
かに上回るようになり、海苔収入の割合は60~70%に達していた。⑥
→海苔養殖開始⑧
江戸時代~明治中期 舟運・塩浜・常夜灯
江戸から成田への参詣客の多くや房総・常陸に向かう人々
は、行徳で船を降り、行徳街道を船橋に向かった。右手一面
には塩浜が広がり、所々にある塩焼き小屋から白煙が立ち
上っている光景は、珍しい風光としてめでられた。
現在、本行徳の新河岸跡に残る常夜灯は、成田山講中が
航路の安全を祈願して1812(文化9)年に奉納したものであ
る。このような江戸川の水運は、明治にはいると、さらに蒸気
船が登場していっそうの賑わいを見せる。⑥⑧
海苔漁場
漁場は三つに区分されてお
り、沖側の漁場は潮の流れは
よいが、波で洗われすぎて胞子
がつかず、陸側では潮の流れ
がよくなかった。⑥
大正末期~昭和中期 蓮田・行商
大正末期から農家の家計補助のための副業と
して湿田の一部を利用した蓮根の栽培がはじめら
れ、昭和期中頃から本格的生産へ発展した。蓮根
をはじめ、野菜類の東京下町への行商も、この地
域の農家副業として盛んに行われていた。⑥
昭和39年(1964)頃
畑の面積の少ないこの地域では、米
作がその90%を占め、10%が蓮作、く
わいの栽培などである。その耕地利
用率はせいぜい年一回で、自家飯米
を確保する程度のものが多い。⑥
昭和41年(1966)頃
市川地先海面でとれた魚種と漁獲期間
ハゼ(6~9月)、ウナギ(6~8月)、カレ
イ(4~8月)、ボラ(6~8月)、セイゴ(6~
7月)、カニ(7~8月)、マルタ(5~10月)、
コハダ(5~10月)、貝類(6~8月)、オゴ
(5~11月)、ワカメ(2~4月)など⑥
昭和50年(1975)頃まで
行徳地域は、明らかに農
業を主体とする半農・半漁
村の性格を保ってきた。⑥
台風や豪雨による災害は、人口増加に伴う宅
地造成によって急激に市街化が進み、今まで
遊水地の役割を果たしていた水田や溜池、湿
地や農業用の水路などが埋め立てられたこと
が大きな原因であり、それは単に市川市だけ
でなく、国分川上流の松戸市、大柏川上流の
鎌ヶ谷市、船橋市における開発も大きな影響
を与えていた。⑦
三番瀬変遷史(聞き取り)船橋
項目
地
形
淡
水
流
入
・
負
荷
量
水
質
・
底
質
・
底
生
生
物
漁
業
活
動
江戸以前
江戸
弥生時代~古墳時代
赤土と砂の層が幾層にも重
なって台地を形成しているた
め、良質の地下水が蓄えられ、
崖の下に泉を作り、小さな湧き
水となっている。湧き水は今も
二宮神社や滝不動などで見ら
れ、滝不動のものは海老川の源
といわれている。
海寄りの本町付近の低地は砂
州と砂丘から成り、海老川など
の河川は砂洲を切って海に注
ぎ、河口には船の通行に適した
澪ができた。海神、夏見、宮本
の台地に囲まれていた湾は、砂
洲の発展で次第にふさがれ干
潟となり、やがて低湿地となっ
た。⑮
江戸時代以前
磯魚を銛で突い
たり、小網で追っ
たり、釣り糸をた
れたりして捕らえ
る幼稚な漁法で
あり、貝類をとる
にしても手拾いに
近いものだった。
⑩
元和元年(1615)
徳川家康・秀忠が
船場御殿に宿泊した
際、船橋九日市と海
神の漁師専業のもの
達が魚を献上して以
来、船橋は御菜の浦
に指定され、将軍家
に魚や貝を献上する
ことになった。⑩
元禄16年(1703)
船橋浦でとれた魚
…イシカレイ、モカレイ、
コチ、キス、サヨリ、ア
ジ、ホウボウ、イナダ、シ
ロハタ、ナヨシ(ボラ)、コ
ノシロ⑩
そ
の
他
明治初年(1868)~
トソ浜に小さな塩田ができ、
船橋の塩田の始まりとなった。
明治13年(1880)頃
三田浜塩田がつくられた。⑩
寛永・天明年間
江戸初期には西海神
浜一帯は塩浜として塩
浜年貢を納めていた⑮
元禄16年(1703)
磯漁場の漁業のみ
で沖合の漁場には行
かなかった。⑩
海
底
地
形
明治
大正
昭和
1000年前~明治
海辺の砂浜が続く一角に、小高い丘、大きな社、こんもり繁った木があった。すぐ横には小さいとはいえない川が海に注いでいて、河
口は格好な船着き場だった。明治にはこの丘に灯台ができた。河口から西北に続く約5kmの砂浜が後の船橋浦の浜辺となった。⑩
1940年代終わり頃~
当初の埋立は集落前面の遠浅の砂
洲を漸進的に囲い込むように小規模に
行われていたが、港湾整備計画ともあ
いまって1940年代終わり頃から大規模
な埋立が計画されるようになった。⑬
昭和4年(1929)
政府の塩業地整理
令によって衰退⑮
大正期にかけて塩田増加⑩
昭和15年(1940)
船橋市が湊町小学校敷
地造成のため、漁業組合
の同意を得て、2万坪の
土地を埋め立て造成⑫
昭和25年(1950)
国土総合開発法施行
昭和27年(1952)
京葉臨海地域が特定
地に指定される⑮
昭和30年(1955)
船橋ヘルスセンター開業
昭和27年(1952)
船橋市が企業誘致条例を制定・
埋立による50万坪の工場用地造成
を計画
昭和35年(1960)
日の出町・栄町成立
昭和36年(1961)
西浦町成立→臨海工業団地形成
昭和40年代
県による港湾整備を主目的とした
大規模埋め立て実施
昭和50年(1975)
高瀬町・潮見町成立⑮
昭和52(1977)
閉園
原木から水が出ていた
海老川からの流入
江戸川からの流れ
船橋浦の漁場
沖合は湾内北部の漁師の入会だったが、櫂立ちまでの磯
漁場は船橋の漁師が独占していた。この漁場は扇形に広く
広がり、東は鷺沼前面の「オチノミヨ」(落の澪)、西は湊と
猫実の前面の「カイガミヨ」(貝ヶ澪)まで、沖は船の櫂の立
つところまでと称し、他村の干潟の先の海までも含む広大
なものだった。そこには「高洲、にかいの洲、三番瀬」と呼ば
れる、魚も多く貝類も豊富なよい洲があって、東京湾北部
の漁師がいずれもうらやむほどの漁場だったため侵入する
ものが絶えなかった。この磯で船橋の漁師は地曳網を引
き、投網をうち、腰巻きカゴで貝をとっていた。⑩⑮
五日市や谷津など、船橋浦に接する村のものは、干潟で
貝類を手堀りして各自の食料にすることができたが、貝掘り
用の道具を用いて海で貝をとることはできなかった。⑩
元禄16年(1703)の地震
地震による船橋浦の海
底の地形変化によって、
藻が適当についた魚の
集まる漁場が失われキ
ス、サヨリ、コチなどの上
魚の漁獲がめっきり減じ
た。これによって魚漁よ
り貝漁に重点を置くよう
になった。⑩
船橋の海は海老川が流れ込み、江戸川
の流れも廻流しているので、ノリの養殖
にはもってこいのところであったが、魚介
の漁が盛んであったため、ノリのことは
久しく問題にされていなかった。⑩
明和4年(1767)頃
キシャゴ(キサゴ)やゴウナ(ウミニ
ナ)、藻草などは、苗代と田植えの時
節に肥料とするもので、日を決めて船
橋近在の百姓にこれらを大がかりでと
らすことが習わしとなっていた。⑩
昭和15年(1940)頃
カイガミヨ以東の
澪辺から蛎内の地
域は、約700haのニ
ラモ(コアマモ)、ナ
ガモ(アマモ)の密
生地帯だった。⑫
明治36年(1903)の地先水面漁業対象魚貝類
バカガイ・ウナギ・カレイ・ネヅ(ネズミゴチ)・カニ
類・ハマグリ・アサリ・シオフキ・コアカ(サルボウガ
イ)・キシャゴ(キサゴ)・カキ・クロダイ・マルタ(ウ
グイ)・キンタヒラ・イビ・アカヘ・アナゴ・ヨコサ(ツバ
クロエイ)・カマス・カイフ・サヨリ・セイゴ・ダッフ・ア
イナメ・サッパ・コノシロ・コチ・ハゼ類・ギンタヒラ・
チベタ(ツメタガイ)・チチク・イナ・ボラ・スズキ・キ
ス・ギンポウ・ヒイカ(ジンドウイカ)・キュワシ(トウ
ゴウイワシ)・アジ・スヅ(サヨリ)・メナタ・マイサ(ユ
ムレ)・メバル・タナゴ・ワカシ(ブリの幼魚)・アカサ
メ(アカエイ)・ニシンカイ(アカニシ)・ゴウナ(ウミニ
ナ)・シリゴ(イソギンチャク類)・ホウズキ(アカニ
シ)・ヲウカイ(オオノガイ)⑫
三番瀬と高瀬は漁師専用
の浦で、潮干狩りは行わ
れなかった。海岸沿いも
塩田が主であったため、
潮干狩りのような遊覧に
は向いていなかった。⑩
藻を踏みつぶすと枯れ
てしまうので、藻を踏
みつぶさないよう、なる
べく前の足跡を踏むよ
うに気をつけた。⑬
大正末期~昭和
遊覧的な意味もかねて
船橋浦で有名だったのは
カレイを突きとる漁で、終
戦後まで続いた。⑩
昭和8年(1933)
100万坪の海面
でノリの養殖がなさ
れるようになる。⑩
明治34年(1901)
ノリ養殖開始⑩
船橋のノリ漁場は、地盤の高い
高瀬漁場と、やや深場の西浦漁
場とがあった。地盤の高い高瀬
漁場はその地勢から、秋期気温
低下の影響を早く受ける早生場
で、西浦漁場は後期の主要生産
をあげる漁場であった。この両
漁場の特性をいかして良好な生
産を挙げていた。⑫
幕末~明治前期 海運
海老川橋下流の東岸に海運業
者が並び、穀物・薪炭等の輸送
に従事していた。海運業は幕末
~明治前期にいっそう盛んとな
り、一時は40件もの業者が営業
をしていた。⑮
木ヒビから網ヒビへ
当初は木ヒビが使われ
たが、明治40年頃までに
孟宗竹が導入され、昭和
10年頃には船橋全体の
約20%が竹ヒビだった。
その後、網ヒビが急激に
普及し、昭和14年に
100%網ヒビになった。⑬
昭和25,26年(1950,51)頃~
水質の悪化と漁の衰退
藻場の中でハゼをとった。
昭和初期が盛んだったが、
昭和25~26年頃から魚が臭
くなって天麩羅ダネとして売
れなくなり、昭和35年頃に出
漁しなくなった。⑬
戦後から カラマキ
堆積したアサリなどの死
んだ貝の殻を、丘にあげ
て貝の漁場を耕すことを
カラマキ(殻捲)という。貝
のわきが悪くなった時、組
合事業として行う。⑬
戦時中
原木から水が
出るため、藻
端、相続のノリ
がよかった。⑫
昭和35年(1960)頃まで
船橋の海は今の国道1
6号線から埋め立て地の
先端まで続く広大な干潟
を持った海だった。きれ
いな砂浜にしか生息しな
いハマグリなどの生物も
沢山生息しており、海底
にはケモ(ニラモ)、オオ
モなどが一面に生い茂
り、絶好の産卵場所でも
小魚幼魚たちの生育の
場でもあった。エビジャ
コ、アミコなども浅海の藻
場に無尽蔵に発生して
いた。また小魚を求めて
多くの魚たちが集まるた
め、四季を通じていろい
ろな漁が繰り返されて行
われていた。⑭
昭和56年(1981)
ららぽーと開業
昭和35年(1960)頃~
家庭用の洗剤や工場
排水などにより豊富な
藻場が急激に姿を消
し、それに引き続いて
魚たちも姿を消した。
一方、埋め立て工事も
始まり、干潟がだんだ
んと少なくなり、当時の
ケタフチまで埋立が進
んだ。⑭
<消えた生きもの>
オキノモ(昭2)、ハマグリ
(昭32)、シバエビ(昭27~
28)、クルマエビ(昭30)、ス
ミイカ・ツノイカ・アオリイカ
(昭30)、アマモ・コアマモ
(昭30)、ニホンアミ(昭25
~40)、ダツ(昭48)
<減った生きもの>
オゴノリ(昭30)、イシガニ
(昭40)、ウナギ(昭45)⑬
昭和27,28年(1952,53)頃~ 貝漁の通年化
貝採取は、昔は魚がとれにくくなる冬場の稼ぎとして行われ
ていたが、埋立などで夏場でも魚が少なくなった上に、魚が
臭くなって魚価が下がってしまったため、通年で行われるよう
になった(夏捲き)。かつては資源保護のために春から秋は
貝採取は控えた方がよいと考えられたが、実際には掘り返す
ことで海底に泥が溜まるのを防ぎ酸素供給を促して、生物の
成育によい結果を生出することが分かったという。⑬
戦後
ノリの人工採苗と火
力乾燥等をいち早く
採用し、船橋のノリ生
産は日本の最高位に
まで躍進した。⑩
昭和46年(1971)頃~
船橋市漁業協同組合
の一般組合員もベタ流し
養殖へ転換⑩
昭和27,28年(1952,53)まで ケタとス
船橋の海は遠浅で沖へ向かって徐々に深くなり、水深3尋を越えた辺りで急に深くなる(ケタ)。
ケタの沖側はまた傾斜が緩くなり、東京湾の中央部へ続く。この上下で底質なども異なり、漁業
を行う上で目印となる。ケタの陸側にはス(州)と呼ばれるケタに平行な起伏がある。より陸側で
浅く広い部分をタカといい、船橋ではタカから沖に向かってはっきりしたスが3枚ある。⑬
大正元年(1912) 京成電車の開通
大正12年(1923) 北総鉄道の開通
東京下町や東葛内陸部から手軽
に来られる行楽地として、潮干狩り
客や海水浴客で大いににぎわうよ
うになった。⑮
澪堀
3月末、春の彼岸頃の水神祭の前に、町中
の体の利く漁師総出で澪堀をした。舟町ミオ
(海老川の澪)と台町ミオが塩田場の真ん中く
らいの沖合で合流する少し沖までと、塩田場
の東の際にある西納屋のミオが、新家鼻(塩
田場の東側沖の角)の少し沖で、塩田場の角
から少し東に曲がり、台町ミオと合流して深く
なる手前まで澪堀をした。⑬
<海産物の利用>
ホトトギスガイ・キサゴ・ウミニナ・藻草
イワシ→農地の肥料(昭和初期)
カキ殻→石灰(昭和25,6年まで)
オオモ→肥料・梱包材・藁
(戦後~昭和28年頃まで)
カワナ→七味・煎餅(昭和35年頃まで)
⑩⑬
子どもの遊び
釣り(ハゼ・ボラ・コ
イ・フナ・ウナギ)、カ
レイツキ、ポーポの
盗揚(ウナギ)、カイ
ボリ、ヨツデアミ、ア
サリ掘り、シジミ取
り、オゴ取り⑬
Fly UP