Comments
Description
Transcript
本文ファイル - 長崎大学 学術研究成果リポジトリ
NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE Title [16]ソ連軍の女軍医少佐 Author(s) 松山, 文生 Citation 満州ハイラル戦記, pp.125-147; 1994 Issue Date 1994-08-31 URL http://hdl.handle.net/10069/29534 Right This document is downloaded at: 2017-03-31T23:33:02Z http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp ソ連軍の女軍医少佐 駅前収容所に移って十日くらい経った頃、 ソ連軍の女の軍医少佐がやってきて﹁お前達に医 薬品を渡すからついてこい﹂という。私は衛生兵を五1 六人連れて、彼女と共に日本軍の将校 会館の裏側(ハルピン側)にある倉庫にいった。倉庫の中には医薬品が箱に入って沢山積んで あった。持てるだけ持って帰ってよいと彼女がいうので私はモルヒ、不などが入った箱を主とし て探し出し、各人一屑に担いで帰ってきた。 その頃は兵隊も兵器廠収容所から次々送られてきて増えていたので、私達が始めにいた収容 所(以下、第一収容所と書くことにする)から満州側に道路に一つ桶てて、第一収容所と同じ 大きさの第二収容所を作り、第一収容所に一番近い建物を第二医務室とした。第二医務室の二 地区側の半分を入院室とし、鉄道線路側の半分を医務室用の倉庫に決め、持ち帰った医薬品を 1 2 5 その中に入れて鍵を掛けた。 軍医少佐の女医は通訳を通じ﹁この倉庫の中の物品は貴方と私の名のもとに於いて保管し、 貴方か私の許可なくしては、誰も中にしまってある医薬品などを動かしてはいけない。このこ とを約束するか﹂と私に言ったので﹁その通りにする﹂と答えたら満足気な顔をしてうなやつい て帰って行った。この女は少佐だけあってチャンとした靴下を履いていたが、何かの時、靴を 脱いだら靴下に直径一・五センチメートルくらいの穴があいていた。相当にソ連は貧しいなと、 私はその時感じた。一般の兵隊などは靴下など履いておらず、足に布切れを上手に巻き付け、 その上から靴を履いていたのだから、私が驚いたわけが分かることと思う。 いさゆきお J ゆかり その後、二、三日して、その女少佐の下で働いている女の衛生中尉が私のところにやってき て医薬品倉庫の鍵を開けろという。開けてやったら、中に入って、医笈の中から樟秤を取りだ して、持って行った。私は女少佐の指示に従って、女中尉がそのような行動をしたと思ったら 違っているのである。 その翌日、女少佐が私のところにやって来て、﹁棒秤があったが、お前知っているか﹂と言う ので﹁知っているが、昨日、貴方の部下の女中尉が来て持って行った﹂と答えると、とたんに 怒り出して﹁あれほど、貴方と私の責任に於いて保管し、貴方と私の許可無しには、鍵を開け てはならないと言う約束をしたことを忘れたのか﹂と迫ってくる。﹁私は貴方の部下の女中尉が 1 2 6 当然のような顔をして開けろと言ったから、開けたまでで彼女が貴方に無断でそんなことをし たとは知らなかった﹂と当たり前の日本軍でやっているようなことを答えたら﹁あの女め、何 処かであの樟秤を売って金に替えたんだろう﹂とひどく腹を立てていたが、 日本の風習とはそ んなものかということが、分かったらしく、 それ以上追求してはこなかった。 しかし、私はソ連人と日本人との間に大きな違いのあることを痛切に感じた。彼等は部下を 全く信用していない。そして日本軍の将校を信用する。こんなことは日本軍では考えられもし ないことである。日本人のような単一民族ではなく、多民族のより集まりである彼等には、部 下は他民族と見えるのかも知れない。 樟秤で私がソ連の女軍医少佐に叱られてから、二、コ一日経った頃、矢張り女少佐の部下の男 の衛生中尉が宿舎にやって来て﹁私に会いたい﹂と言う。用件を聞いてみると、例の倉庫に保 管してある麻薬のモルヒネの注射液を少し分けてくれないかと、遠慮勝ちに話した。﹁日本では 麻薬の取り扱いは、特別うるさい。だから、貴官には気の毒だが分けて差し上げるわけには行 かない﹂とキツパリ断ったら、 ガツクリした様子で帰っていった。彼には上宮に正式にいえな い後ろめたい事でもあったのであろう。 駅前収容所のソ連軍の収容所長は大尉であった。彼は自分の妻が陸軍少将の娘であることを 自慢していた。 そんな立派な身分の将校でありながら、これが、腕時計を欲しがってどうしよ 1 2 7 うもないのである。始めの二、 三回はI少佐も気易く渡していたが、連日の﹁時計をくれ﹂と の彼の申し出には閉口していた。駅前収容所の運営のことについて会議をしていても、ちょっ と話に間が空くと、﹁時計をくれ﹂と言い出すので、私達は時計所長(チャ l スイ所長)と言い たい位であった。-少佐も時計所長には迷惑し、頭を悩ましていた。 だが、よくしたもので、そうゅう不都合が起きているかどうかを調べて回るのを任務として いる憲兵将校がソ連軍にはチャンといるのである。ある日、この憲兵将校がやって来て、-少 佐に﹁貴官の顔色は余り良くないが、何か心配事でもあるのか﹂と尋ねた。それで I少佐は思 い切って実はこうだと時計をねだられて、困り果てていることを告げた。 その憲兵大尉は﹁良くわかった。私の方で適切な処置を取るので、爾後心配しないでくれ﹂ と言い残して帰った。私達一同ホツとして、これで、あの厄病神のような時計所長から解放さ れるのかとおもった。 その日、夕方、時計所長が I少佐の所に血相変えて怒鳴りこんできた。﹁なぜ、時計の事を憲 兵に話したんだ﹂とピストルを抜かんばかりの勢いで、-少佐に食って掛かっている。自分で 悪事を働いて、それが憲兵に話されたからと言って I少佐を責めることは道理に背く。自分の 蒔いた種だから自分で刈れば良いではないかと私は考えた。これで彼はチタの刑務所かどこか に送られるなぁと私達は話し合った。 1 2 8 翌日、彼はトラックに乗せられてハイラル駅の方へ去って行った。トラックの上で腕を振り 何か大声で私達に向かって叫んでいたが、その意味は分からなかった。 次の収容所長には副官をしていた中尉がなった。彼は真面目でおとなしかったが、誰かに入 れ知恵でもされたのであろう﹁下士官、兵の現金を集めろ﹂﹁後でソ連の金(かね) (満州の金 と一一一日ったのだったかも知れない) と交換して渡すから﹂と言ってきた。各兵舎の班長達は命令 であるから、 キチンと兵隊から金を出させ、その金額と兵の氏名を書き留め、ソ連の収容所に 提出した。然し、その後、金の交換や返金は無く、ハイそれまでよと言うことになり、金は取 られたままで、所長は何処かに更迭された。ひどいことである。 一二番目の所長は憲兵将校のようであった。この人の時は何事も無く、私達はまずまずのんび りと収容所生活を送ることが出来た。駅前収容所に、兵器廠収容所から将兵がどんどん移動し て来て収容所の規模は大きくなる一方であった。 日本軍では最上級者である参謀の原中佐もやって来られた。おとなしい、良い人で、大きな 声で人を叱ったのを見たことがない。私は敗戦前に時どき用事があって原参謀のところに行っ の色がよく変わっていた。緑色のこともあれば、金色(但しどちらも絹 たことがあるが、 たいへんおしゃれな人であった。参謀飾緒(参謀一屑章とも一言う。俗の名を﹁縄 のれん﹂ともいった 糸で作られていた) のこともあり、おもおもしく感じられる時は細い細い金色の針金から作ら 1 2 9 れていた。 まと 八月九日の開戦時には、夕方頃、私達の河南台の陣地を視察に見えられたが、その時の原参 謀の軍装はみるからに漂々しかった。緑色の参謀一肩章を付け、鉄帽を背負われ、偽装網を纏い、 双眼鏡入れや、水筒、図嚢を肩に掛けられ、戦争に今から参加するぞという雰囲気が満ち溢れ ていた。 それに比べ、私達第一線の者は軍万を吊っているだけで、拳銃も渡されておらず、これで第 げん 一線の勤務が出来るかと思われるくらいみすぼらしい格好をしていた。軍人が本職の者はあれ くらいの酒落っ気と、見栄っ張りな所と、街気が無ければ勤まらぬものかも知れない。 戦後、色々と聞いたり、本を読んだりしたが、軍人は相当お酒落であったらしい。騎兵の若 い将校などは、下肢を細く見せる為に、袴下もはかず、馬には乗れるが、地面は余り長く歩け ないくらい細くした長靴を履いたものだそうだ。戦前の将校などはキッドの靴を履き、牛皮な どの長靴を履いていると、あの将校はしまり屋(要するにケチ)だなあと言われたこともあっ たという。 参謀一屑章をつけていることは、陸軍に於いては陸軍大学を卒業していることを意味し、その ろく 軍人がエリートであることを示していた。二・二六事件後に着用を廃止されたが、それまでは、 陸軍大学(以後、陸大と略す)を出た者は右胸の季肋部に俗に天保銭と称する陸大卒業を示す l 30 徽章をつけていた。 私は実物の天保銭を見たことがある。旧制中学校の一年生の時で、学校教練の査聞に来た第 七十九連隊長が胸につけていた。誰かが天保銭をつけていると言ったので記憶しているのであ る。天保銭の威力は、師団と師団の対抗演習などの時に如実に現れるそうである。 赤軍となった一個師団からも、白軍となった一個師団からも審判官というのが何人か出て演 習実施中の現地での勝敗を決める。例えば赤軍の審判官が少佐で陸大を出ておらず(これを天 保銭が無いので無天といった)、白軍の審判官が大尉で陸大を出ておれば、文句を言っている赤 は 軍の少佐の前に行って靴の腫をカチッと鳴らして不動の姿勢を取り、右腕で将校マントをパッ と嬢ね上げて天保銭を見せながら、キチツと挙手の敬礼をして、﹁少佐殿﹂と言っただけで、無 天の少佐の審判官は声を詰まらせて、びびるのだそうだ。 私の中学時代の配属将校は少佐であった。偶然、南朝鮮の私達の町付近で第二十師団と第十 九師団の対抗演習が行われ、配属将校も中学校の教練を休んで第七十九連隊付きで参加してい た。最後の遭遇戦が近くの町で行われるので、私達中学生は学校から指示されて、夜行軍をし て見学に行った。私達の配属将校はどこにも見当たらない。翌日の昼頃、田舎の道を行軍して いると、自転車に乗って私達の横を走り去って行く将校がいる。誰かが﹁F少佐殿だ﹂と一一一回っ た時は遥か前方の人群の中に消えていた。中学校では、配属将校と言われて大変偉い人のよう 1 3 1 に見えていたのに、軍隊組織の中では、師団の伝令のような仕事にしか付いていないのをみて、 軍隊で偉い人と言うのはどれくらい偉いのだろうかと考えさせられた。- 本題にもどる。参謀の原中佐は敗戦後も金色の糸で出来た参謀肩章を付けていた。私は参謀 から叱られたことはない。むしろ、可愛がられていた方であろう。ただ、私の方から参謀には 近づかないようにしていた。参謀は顔を見合わせた将校は誰でもよいらしく、直ぐ何か仕事を 言い付けるからである。 駅前収容所の炊事場が第一医務室の隣にあったが、原参謀の姿がチラツとでも見えると﹁空 つる 襲、空襲﹂と小声で叫び合って、顔を参謀と合わせないようにして仕事に励んでいる様子をし ていた。 ある日、ボロボロになった洋服を着て、腰に荒縄を巻き、それに針金の弦をつけた缶詰めの 空き缶を二、三個ぶら下げた異様な風態の二十J 二十五人位の人達が入所してきた。聞けば、 日ソ開戦時にソ連国境の満州里にいた民間人であった。彼らは日本の駐満領事館に避難後、ソ 連軍に収容され、ソ連領内のマツイエフスカヤに連行され、そこで、収容所生活を送っている内 に﹁日本軍のところに案内する﹂と言われ、私達の駅前収容所に連れて来られたと一言うことで マツイエフスカヤでの彼らのこれまで苦しい あった。直ちに、食事が支給されたが、皆、手製の木で作ったスプーンでおいしそうに食べて いた。木のスプーンしか持っていない有様を見て 内 旬 、 2υ 生活が偲ばれた。 かいせん 某日、 T軍医中尉が外来の診察から帰ってきて﹁松山中尉、この間来た満州里の人達の中に 長崎医大を卒業した君の先輩がいるよ﹂と言った。済癖のひどい患者で﹁君の職業は何だ﹂と 尋ねたら﹁医師です﹂と答えたので、出身学校を聞いたら私と同じ大学であったので知らせて くれたのである。その先輩のいる家は将校宿舎と余り離れていなかったので、早速会いに行っ た。四畳半の畳の部屋が二問くらいしかない家であった。中に十五人くらいの人がいて、住ん でいるというより、ギツシリ人が詰めこまされているような家であった。 その方の姓名をいい、お会いした。﹁医師が足りないので、ぜひ私達の所に来て、手伝って下 そんたく さい﹂と頼んだが、﹁私はここにいる方がいいので﹂と言われ断られてしまった。私は先輩が何 故あの時手伝ってくれなかったのか分からない。今でも時々その人の心を付度することがある。 収容所の生活にも大分なじんで来て、兵員も増え軍医も多くなった頃、軍医部長のK少佐が やって来られた。 K少佐は背の高い方だったので、ソ連の軍医と一緒に歩いても見劣りがせず、 なかなか風格があって、私は誇りに思ったものだった。だが、来られて余り経たない内に、発 熱されて寝込んでしまわれた。第二医務室の個室に寝て頂いて、私より軍医歴の長い医師とし ての腕の確かな人に診察をお願いした。 始めに診察してくれたのはハイラルの満州赤十字病院の院長をしていた予備役の軍医中尉の 1 3 3 しらみ 方であった。 その結果﹁発疹チフス﹂らしいということが分かった。それで軍医部長は急いで ソ連軍の病院に入院させられた。ご存知のように﹁発疹チフス﹂は伝染病であり、員を介して 人間に伝染していくために、その後、先ず最初に診察した満州赤十字病院長が﹁発疹チフス﹂ にかかり、また、その病院長を診たY大尉が次にかかり、 Y大尉を診察した某中尉がかかり、 その内、第一医務室で起居していた見習士官が、赤い目をして熱がありそうな顔をしていたの で、おかしいなぁと思っていたら、これまた﹁発疹チフス﹂にかかっていたという有様で、最 後はどうなることだろうかと本当に心配した。 ソ連も驚いて、将校会館の前にある池の辺りに天幕の幕舎を三個、四個建て、野戦用のシャ ワー室を作り、全員のシャワー浴と、衣服の消毒をした。第一の天幕の中で衣服を脱ぎ、第二 の天幕の中でシャワーを浴び、第三の天幕の中で衣服を滅菌消毒し、第四の天幕の中で衣服を 着るというシステムではなかったかと思う。 その時、下士官、兵隊は陰毛を剃られ、剃り跡に石油(ロシア語でケロシンと言う)を塗ら れた。それも、刷毛で塗るのではなく、四十センチメートルくらいの棒の先にガーゼを巻き付 け、そのガーゼを石油缶の中の石油につけて塗るのであるから乱暴なやり方である。 その内、 武取りの粉も配付されて、だんだん﹁発疹チフス﹂患者の発生も減ってきた。 シャワー浴が始まる二、三日前に、 ソ連の軍医大佐がやって来て、収容所全員の衣類の試を 1 3 4 調べた。私にも手伝うように言うので、三人で一緒になって将校宿舎の二地区に側にある広場 で一人一人の衣類に付けている武を調べた。殆ど全員の衣類に武が着いていた。一日か二日、 武検査につき合わされて、ひどく、くたびれた。驚いたのは、ある兵隊の陰毛を見た時である。 真白なので始めは白髪かと因。ったが、良く見ると陰毛の一本一本の板元から先端まで、京の卵 が産みつけられていて、そう見えたのであった。 面白く思ったのは、 ソ連の軍医大佐は一人の部下も連れずにやって来て、私と二人きりでこ の退屈な仕事をしたことであった。日本軍なら、衛生下士官に検査を命じて、それで終わりで あるが、 ソ連はそういう事はしらないらしい。国情の違いであろう。 私は幸い毎日入浴して下着を着替えていたので、発疹チフスにかからなかったのであろう。 それでも下着には二、 三匹の司刷、がいつもついていた。よく発病しなかったものである。 将校会館の前でシャワー浴の準備をしていた時、日ごろ見慣れないソ連の少佐がきた。憲兵 だったかもしれない。﹁関東軍特別大演習(略して関特演という)の時に、日本軍がソ連に攻め 込む積もりであったことを、車貝官は知っているか﹂と聞く。﹁知らない﹂とこたえた。もちろん 全然知らなかったからである。 ﹁ソ連が今度の第二次世界大戦でベルリンを占領したが、過去にも占領したことがある。その 時のソ連の将軍の名前を知っているか?﹂と聞く。ナポレオンがモスクワを占領して、その後、 l 5 qJ 敗退したことを、私は思いだした。その時にナポレオンを迫撃してきた将軍であろうというこ とまでは気がついたが、中学校の西洋史では名前までは教えてくれなかった。教えてくれなか ったことは、知っているはずがない。﹁知らない﹂と返事した。彼は私を軽蔑したりはせずに、 ﹁クツ lゾブ将軍だ﹂といった。私は一つ物知りになったわけである。この点おおいに彼に感 謝しなければならない。私は少なくとも私の中学校の西洋史の先生よりは知識が増えたことに なるからである。 これは、 また、私に逃げる者がおれば追っかける者が必ずいると言う紛れもない事実を実感 させてくれたが、逃げるのがナポレオンのような偉人であると、追う人の名前がかすむと奇妙 な、今後の歴史教育上問題となるウイークポイントに私の目を向けさせてくれた。彼は私に﹁石 鹸を持っているか﹂と聞いたので﹁持っていない﹂というと、 その場から去り、しばらくして、 直径四十センチメートルで厚さ五センチメートルの馬鹿でかい石鹸を持ってきてくれた。そし てそのままいなくなってしまって、 その後会うことはなかった。日本の若い将校の知識を調べ に来たのであろう。 十月の中頃のことだったと思う。将校宿舎の入り口から入ろうとすると、板張りの長椅子に 一人の見習士官が寝ていた。ボロボロの軍服を着て痩せ衰えていた。今でいう栄養失調である。 私を見て﹁軍医殿、済みません。捕虜になりました﹂と敬礼をしながら泣かんばかりにいう。 1 3 6 私はとうの昔に捕虜になって、しかも元気にしているのに、捕虜になったことを恥と考えてい れゆりむ左 る見習士官を見て自分がのうのうと暮らしているのが恥ずかしかった。 彼は三河の部隊付きの見習士官で日ソ開戦と共にチチハル方面へ撤退し始めたそうだ。途中 で部隊長から後方の偵察を命じられたので、よ等兵一人を連れて三河方面に向かい異常が無い ことを確かめて、部隊長が待っていると約束した地点に帰ってみると、部隊はいなかったのだ そうである。それから彼ら二人の初但がはじまった。森林は軍を呑むという。大興安嶺に迷い 込んだ二人にとっては毎日が死との闘いであった。飢えと寒さと疲労が二人を苦しめた。上等 兵は間もなく死亡したという。 彼一人がどうしても後方の状況を部隊長に知らせなければいけないと強烈な責任感に満ち溢 れて、密林の中を迷い歩き、最後は意識際膿となりチチハルに通じる道路に出て、人事不省と なって路傍に横たわっているところをソ連軍に見つかり捕まったような格好になったので、本 当に捕虜になったと信じていたのである。賞賛に値する見習士官であった。 毎日、駅前収容所から使役の者がぞろぞろと出て行くのであるが、その時、門の近くでソ連 の監視兵によく何か話しかけている四十五歳くらいの民間人がいた。 L中尉の話では、三地区 にいた人で、三地区で婦女子が集団自決した時、その中にいた彼の妻も死亡し、残された子供 を彼は人に預けたのだそうだ。然し、結果は惨めな敗戦となり、彼は預けた子供と預ってくれ 1 3 7 た満人を、 あのようにして毎日探しているとのことであった。 私がハイラルにいた問、彼の子供が見つかったという話は聞かなかった。戦争の粛らした悲 剖別である。自決を図って死にきれなかった妻を、妻の要請で彼がピストルで撃ったとの話もあ った。 大分寒くなって外套を着始めた頃と思うが、 スチュ 1ドベーカーの走る通りに、全員四列横 隊に並ばされて点呼を受けたことがあった。要するに首実験である。特務機関員とか、憲兵と か、警察官とかを調べ出そうとしたのであろうが、別にそういう人は見当たらないらしく、何 事もなく終わった。 話は別になるが、私は元より余り憲兵は好きではない。医科大学の一年の時であった。南朝 鮮の某駅で下車すると、憲兵が出札口にいて、﹁内地から来たのですか、何か聞きませんでした か﹂と小声で聞く。﹁いや、何も知りません﹂と私は答えた。しかし、何か悪いことでもしたよ うな気がした。嫌なものである。 軍医中尉になって満州に赴任する時、新京までは部隊輸送であった。朝鮮の釜山に上陸した ら驚いた。二一O O人位いた我れわれ軍医将校の回りを十人くらいの憲兵が取り巻いてどこにも 行けないのである。それどころか、話もろくすっぽに出来ない雰囲気であった。私は駅のすぐ 近くに妹も叔母もいるのであるが、 とうとう会わずじまいであった。私がハイラルの﹁ことぶ 1 3 8 き﹂で通信隊長の I少佐や工兵隊長の少佐と遊んでいて、トイレに行った時、大尉か少佐と思 われるくらいの年齢の男が入って来て、横で小用を足しながら﹁どなたでしょうか﹂と尋ねる ので﹁一八部隊の松山中尉です﹂と返事をしたが何だか薄気味悪い気がした。 敗戦になってみると、その男は憲兵軍曹で患者を引率してくるのである。先方は忘れたかも 知れないが、私には忘れることの出来ない顔であった。しかし、将校しか入る事の出来ない﹁こ とぶき﹂に、何故、憲兵が自由に出はいりできたか一度誰かに教えて貰いたいものだと今でも 思っている。 ハイラルの第二陸軍病院には私達と一緒に赴任してきた V中尉というのがいた。彼は憲兵の 誰かを個人的に知っているらしく﹁憲兵と何かあったら言ってくれ、何時でもお役に立つこと ができると思うから﹂と親切に言ってくれたので、私はなにかと心強かったが、別にお願いす ることもないうちに戦争が終わってしまった。 昂々渓(ハイラルから汽車で十時間位かかるハルピン方向にある街)の駅は日ソ開戦後ハル ピン方向に避難する人達で大混雑をしたそうだ。汽車には人が鈴なりに乗り、憲兵が﹁軍籍の ある者は降りろ﹂と大声で叫び、ただならぬ状況であったという。汽車が発車すると、怒鳴っ ていた憲兵も汽車に乗り込んでいなくなっていたと、昂々渓にいた軍医が笑いながら話してい た。陸軍の上級将校も私物命令を出して、どんどんハルピンに下がって行ったというから憲兵 1 3 9 だけを笑うわけにはいかない。 aay ハH υ 駅前第一収容所の表門の近くの公舎にいる某少尉の態度がおかしいと言う噂が立ちはじめた。- 彼は衣類の一杯入っている将校行李を持って来ており、暇さえあれば、将校行李の蓋を開けて、 中の衣類を眺めたり、触ったりするので、周りに寝とまりしている見習士官達が気味が悪いと 言い出したのである。この少尉は一年志願兵出身で、敗戦前は、酸いも甘いも噛みわけた立派 な人だと思っていたが、敗戦後、急激な環境の為に穆病みたいな症状を起こしたのであろう。 六十歳以上の老人が集められた時、彼もその中に入って行ったが、この老人の一回はどこか へ連れて行かれて収容所に帰って来なかった。若い見習士官は老少尉が大切にしていた将校行 李を置いて行ったので、大喜びした。さぞかし、今頃は将校行李のことを思い出して悔しがっ ていることだろうと、話し合っており、その様子は私の耳にも届いた。だが、驚くのはまだ早 かった。翌日、老少尉がソ連の兵隊と馬車に乗って、将校行李を取りに来たのである。この時 ばかりは皆、老少尉の執念にホトホト感心させられた。 ソ連軍は、日本軍の将兵の一部をA地区からB地区に移動させると、 A地区の将兵と B地区 一驚したのである。 の将兵とは、その後、絶対に交流させない。即ち、連絡を絶対に絶ってしまうのである。そう いう方式が、彼、 A少尉によって破られたわけだから、皆、 三地区は激戦だったらしい。二一地区で重機関銃の隊長をしていた中尉の話では、重機関銃の 射手はことごとく狙撃されて戦死したそうだ。﹁次﹂と言うと、直ぐ代わりの兵隊が出て行っ て、重機関銃に取り付くのであるが、直ちに頭を射抜かれて死んだという。最後の兵隊は頭を 横にして照準せずに射撃したと言っていた。その兵隊が戦死したかどうかは、聞かなかったが、 兵隊の奮戦する様子が眼前に紡併する。最後の最後まで、祖国の栄光を信じて戦った勇士のい たことを伝えたくて、この章を書いた。これらの名も無き戦土の勇戦振りは、千載青史に残し たいものである。 三地区の大隊長は陸軍士官学校出身の大尉であったが、婦女子の集団自決は全然知らなかっ たと私に言っていた。そんな連絡も取れないほど、戦線は混乱していたのであろう。敵の射撃 が激しくて、兵隊達が小銃弾を取りに行くことが出来なかった時に、一人の女が走り出て弾薬 箱をもって来たというから、筆舌に尽くし難いほどの乱戦であったにちがいない。あの女がそ うだと言って、ある婦人を、兵器廠収容所にいる時、誰かが教えてくれたが、特別な人には見 えなかった。実際は芯の強い、勝ち気な人だとおもった。 停戦の翌日から、旅団の高級将校が各陣地に停戦を伝えに行った。その時、四地区には誰も 居なかったとの噂を聞いた。五地区では、幹部将校が﹁敵の謀略だ。編されるな﹂と叫び、連 絡に行った将校や通訳には﹁近づくな。近寄ると撃つぞしと、怒鳴り、﹁暫くは危なくて近づけ 1 4 1 なかった﹂と通訳がボヤイていた。五地区の隊長は少尉で、そんなには見えない温厚な人であ った。あのようなタイプの人が忠誠心でこり固まると、こわい人間になるのかも知れない。 私は死ぬ時が来たら、人並に死ななければならないだろうと考えていた。然し、私と一緒に 満州に赴任した者の中には、敵が攻めて来たら、白旗を上げる積もりでいたと言う者もいたの で、人にはそれぞれ生まれつき持っている個性があるのかも知れない。 私がハイラル一八部隊に着任して、最初に仕えた隊長のG少佐は、支那事変に従軍して金鶏 勲章を持っていた人であった。何かの折りにこの少佐が支那には二OOO人近い日本の将兵の 捕虜がおり階級の一番上の人は少将だと話したことがある。 六十四連隊が残してくれた薬品の中に青酸カリ一瓶五0 0グラムがあったので﹁将校全員に いざという時のために、配っておきましょうか﹂と、私が提案したら、ひどく怒って﹁そんな ことは、 せんで宜ろしい﹂と一言った。彼は日本が負けることも、私達が捕虜になることも見通 していたのかも知れない。 ソ連が侵攻して来た八月九日、私は部隊長に命じられて、第二中隊長の官舎に行き、奥様に 避難するように奨め、﹁直ちに七十三部隊の前に集合して下さい﹂と伝えた。官舎はハイラル駅 を列車が出発して満州里方向に進むと直ぐトンネルがある。その入口にあった。奥様は﹁この まま、ここにいます﹂と言い、全然避難しようとしない。﹁敵が直ぐ攻めて来ます。部隊長殿の 1 4 2 ご命令ですから、絶対に避難して下さい﹂とお願いし、確約を得て、私は部隊に帰った。その 前にもハイラル駅前の官舎街を馬に乗って走り回って﹁七十三一部隊関係の家族の方は七十三部 隊の前に集合して下さい﹂と大声を上げたから、私は二度避難命令を伝えに行ったわけである。 これで、民間人は皆、後方の安全な所に後退してくれたと安心して、私は軍務に精励すること が出来た。 話はもう少し前にさかのぼるが、戦争が始まってハイラル駅前の官舎街に第一回目の避難命 令を伝えに行く時に、私は馬に乗って満鉄病院に近い一八部隊の裏門から出かけた。此の裏門 の鉄道線路側に二寸軒くらいの煉瓦造りの平屋建ての満人部落があった。一人の憲兵が自転車 を横倒しにして左下肢を地につけ、満人部落を見張っていた。それを見て、至極のんびりした 感じを受けたことを覚えている。 第二中隊長の官舎への行き帰りにはハイラル駅より鉄道線路に沿って三00メートルくらい のところにある陸軍の購買所がソ連空軍の爆撃のため、火事になっていて、付近の人びとがバ ハイラルが簡単に敵手に落ちると考えて ケツリレーで消火作業をしており、またハイラル駅前では、爆撃で切れた電線を満人の電気工 夫が電柱に登って修理していた。 こんなに、皆が冷静に仕事をしているのを見ると、 いた私は間違っていたのだろうかという錯覚におちいった。私はソ連の飛行機がハイラルを爆 1 4 3 撃し、戦争が始まったと知った時、 そして寿命がいくばくもないと悟った瞬間、心臓がドキン ドキンと打ち始めて、 しかも心臓が喉の所で、ドキンドキンとしていて、物もろくすっぽ言え }d 巾白 HAU ず、唾も呑みこみにくくなったような気がして往生した。形だけは将校の格好をしているけれ ど心は子供で未熟なんだなあと白噺した。 σ ﹁ コ ロ 岡 山 古 巾 叶 凹Cコゲ つくづくうまいことを言うものだと感嘆し 戦後、英語の辞書を繰っていると﹁びっくり仰天する﹂というのを、 EP﹂と表現しているのを見て、 宮田宮門田 Dロがヨ た 。 L と他の兵隊が返事をしたので﹁そこら 開戦、第一日目の夕刻、河南台陣地の近くで兵隊が相撲をとっているのを見て、﹁何をしてい るんだ﹂と言ったら﹁こいつ、気が狂っているんです 辺に縛っておけ﹂とだけは言っておいたが、まともな神経の持ち主なら本当に気も狂うであろ う。暮れ迫る頃、第二地区の満州里側の切り立った台上に立って私は口には出さなかったが﹁神 様、悌様、もし、おられるのでしたら、私達を助けて下さい﹂と心の中で祈った。 話が本題から大分外れてしまった。駅前収容所に話題を一戻す。ハルピンの方からハイラル駅 に入る一 0 0メートルくらい手前に鉄橋がある。機関車を二台連結して、その連結部を爆破し て鉄橋の中央を見事に切断し、鉄橋を使用不可能にしていた。﹁クツ lゾブ将軍﹂を教えてくれ たソ連軍の少佐があれは誰がしたかときいた。そんなこと、私が知るはずがない。後から、日 1 4 4 本軍の工兵隊長が爆破したと聞いた。 鉄橋はそのうち、修理されてソ連軍の行き来するようになり、満州国の色々な機材を積んだ 列車がソ連の方へ走り始めた。ソ連から来た列車は規格が統一されておらず、貨物列車が多か ったようである。それに高射機関銃を積んでいたりして、戦争が終わったにしては、ひどく厳 重な武装をしているものだと思った。 その頃、駅の使役に出ている兵隊から日本兵がソ連の方へ連れて行かれているらしい、と一言 う噂が立ち始めた。まさかと思っていたら、帯刀している日本軍の将校に会ったという兵隊が 出て来た。その将校はハイラルの街をソ連兵の護衛付きで歩いており、作業していた兵隊に﹁こ こは、 どこか﹂と聞き﹁ハイラルです﹂と言うと﹁戦争したのかフそしたら、 お前は本物の捕 虜だあ﹂と言ったという。 私は﹁戦争もせんで、後方でぬくぬくとしておりながら、何と言うことをいう奴だ﹂といさ さか穏やかならざるものがあった。しかし、このことによって日本の将兵がソ連に向かって北 上しつつあることは、 かなり確実になってきた。 c 手紙は免渡河の部隊の兵隊が進行中の列車から投げたもので﹁一足先に めんとは そのうち、置き手紙が残されていて、私達がソ連に連れて行かれることは間違いないと考え ざるを得なくなった 日本に帰る﹂との内容で姓名が記されており、ハイラルの兵隊がその人を知っていたからであ 1 4 5 私は一日も早く日本に帰りたかった。 た。確かにその通りであろうと心情的には理解し得ても、勉強するために、家族と会うために、 る。そう考えて我慢してくれ﹂というようなことをいわれた。うまいことを言うものだと思つ て生活していることは内地の米不足に対して、陰ながら手助けをしていることになるからであ ろうが、現在地ハイラルにいることは、全く無意味なことではない。ここ満州で保有米を食べ 原参謀は﹁今、日本(内地)は米が不作で、食糧難と聞いている。比白も日本に帰りたいであ 勉強家の立派な人と出会えたことは、私自身にとって得難い幸せな出来事であった。 に解ける人にでも、算術は難しく思われるのかと感じたからである。このように正直で謙虚で 年生の算術の教科書を見ていて、﹁難しいなあ﹂と舷いた時には、私は驚いた。高等数学が自由 意味が分からなかった。偉い浅井少尉だと感心した。然し、この浅井少尉が寝転んで小学校六 い官学の本をちょっと暇を見付けては二、一二頁位ずつ読んでいた。私も見せて貰ったが、皆目 某大数学科出身の迫撃砲隊の浅井少尉は忙しい副官業務の傍ら、院長官舎で手に入れた難し を手当り次第に読んだりして日をすごしていた。 は芥気にコックリさんをしているのを見たり、 マージャンやトランプをしたり、 そこら辺の本 ソ連に連れていかれ、苛酷な厳寒下での言語に絶する作業が待ち構えとるとも知らず、私達 る 1 4 6 戦傷兵にはH軍医大尉が付いて、後方にさがったと聞いた。私達は第一線で戦った部隊なの で、早く内地に引き揚げさせてくれるのかと思っていたら、そうではなく、次々北方に行く貨 物車を見ているうちに、入ソの可能性が強くなって来た。それが何時か分からないまま、漫然 と日を過ごしていた。 1 4 7