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ナスリン・ジャハン氏 インタビュー
プロフィール
1966 年生まれ。十代の頃から短編小説などを発表していたが、
長編小説デビュー作である自伝的な作品、「飛翔」(93)でフィリ
ップス文学賞を受賞。独立戦争を生き抜いた家族の光と影をリ
アリスティックな手法で描いた「すべてのランプが消えるとき」
(95)やバングラデシュに伝わる伝説と現実の歴史を交錯させた
マジック・リアリズム的な手法の「チャンドラレカの魔法」(95)な
ど、一作ごとに異なる作風が魅力。2000 年にバングラ・アカデミ
ー賞を受賞。若手を代表する作家である。
(自宅にて)
丹
羽:生まれたのはどちらですか?
ジャハン:モイモンシンフです。
丹
羽:教育を受けたのはこちら、つまりダカ(ダッカ)ですか?
ジャハン:モイモンシンフとダカと両方です。
丹
羽:何年にダカに出ていらしたんですか?
ジャハン:1983 年です。結婚してからです。
丹
羽:では、わりあい若いうちに結婚されたんですね?
ジャハン:ええ、わたしはなんでも若いうちにしてしまう方でして、書きものをはじめた
のも早かったんです。実はわたしが生まれたときに、わたしの父がヒンドゥーの
占星術師を連れてきましてね。わたしたちはイスラム教徒ですけれど、父は占星
術に凝っていて。
そのとき、占星術師がこの娘はすごい作家になるって言ったんです。当時わたし
たちが住んでいたのはムホッショル(地名)というのはごく小さな田舎町で、そ
んなところの娘がすごい作家になるなんて、とても考えられないようなことだっ
たんですけれど。
それでもわたしの父はことあるたびに、わたしに「おまえ、なんで何も書かない
んだ?」
「おまえはすごい作家になるんじゃなかったかね?」なんて言っていて。
そのせいかどうか、わたしは 4 年生のとき、チョラ(本来ベンガル伝統の口承文
芸の一種だが、子供向けあるいは子供が書いた詩もこのようにいう。ただし基本
的に韻は踏まなければならない)を書いてみたんです。
そのチョラは教科書に載っているみたいにちゃんと脚韻が踏んであったんです
よ。それを読み上げたらみんなが褒めてくれて。それで、学校のなにかの行事の
ときに舞台に上がってそれを朗読することになって、なんだかすごく緊張しまし
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たけど、とにかく読んだんです。そのときみんなに拍手されて、それからですね、
一生懸命書くようになったのは。まだ 4 年生でしたけど。
丹
羽:4 年生ということは、10 歳くらい……
ジャハン:ええ、10 歳でした。それから 12 歳でダカの雑誌に自分が書いたものを送ったん
です。自分の書いたものがダカで印刷されるなんて、ムホッショルのような小
さな町ではたいへんなことなんです。その作品が掲載されて、それからだんだ
んとわたしは自分の場所を築いていったんです。
それから 13 歳のとき、わたしは「チャンデル・ハート(月の市)」という名前
の、ある会に参加し始めました。わたしたちはそこで男の子も女の子も一緒に
なってチョラを書いたり、小説を読んだりしていたんです。
その会には男の子も女の子も両方参加していて、つまり全然保守的ではない集
まりでした。ついでながらわたしの父も全然保守的ではなかったんですけれど、
それはともかく、あとになってわかったことには、わたしたちのあのときの男
女が入り混じったとてもオープンな活動はバングラデシュでは珍しいものだっ
たんですよ。とにかくわたしは子供時代にそういう活動もしました。
それからさらに早熟だったということ
に関して言えば、わたしはわりあい小
さいころから男の子というものを知る
機会があったと思うんです。
ですから、たとえばちょっとした暗が
りで触られたりというような経験があ
ったとしても、わたしはそれを恐がる
というよりも、ありふれたことだと考
えていたんです。
男の子というものは、そういうもので、そういうことをするのが自然なんだっ
ていうようにね。ただそうした経験から、どんなふうに自分を守らなければな
らないかということも学びましたね。わたしの母はなんでもオープンに教えて
くれる人で、ある年齢を越えて男女が関係を持つと子供が生まれるということ
も、母から教わりました。そうしたことを教わったのはわたしにとってとても
いいことだったと思っています。
そういうわけで、わたしは早くから男性というものを学んできたし、どうして
そんなふるまいをするのかを知ろうとしました。もちろん男性はみな同じよう
なわけではありませんし、出会えたことがすばらしいと思える人もいます。わ
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たしがものを書くことを応援してくれる人とかね。とにかくわたしはこんなふ
うにある意味早熟で、早い時期から男性というものを意識してあれこれ考えた
わけですけれど、その結果として、ダカへ出てきたころから、今度は男性を分
けて考えるのではなく、人間として見るようになりましたね。男性と女性の価
値もまったく同等に考えるようになりました。逆に女性の中で、わたしのよう
なものを気に入らないで攻撃するような人もいますしね。そういうこともあっ
て、わたしは個人としてひとりひとりを見るようになりましたね、男性とか女
性とかではなく。
丹
羽:とにかくとても早熟だったわけですね。ほかに子供時代の思い出は?
独立戦
争の時期をどう過ごされましたか?
ジャハン:わたしは小さいころから実にいろいろなことを見てきましたし、それらがすべ
てわたしの作品に反映していると考えています。子供のころから身の周りでい
ろいろなものを見てきましたね。学校へあがる前のこともよく覚えています。
わたしは記憶力がいい方なんです。学校へ上がる前の、4,5 歳ころのことですけ
れど、あのころの独立戦争のこともはっきりと覚えています。
わたしたちの家族にとっては、独立戦争は離散を意味しました。家族のみんな
があちらこちらに逃げて、親戚の家に身を寄せたんです。わたしたちは 6 人兄
弟でしたから、みんな一緒にひとつの家の世話になるのは不可能だったんです。
こちらの家、あちらの家と転々としながらみんな逃げ続けました。
それ以前、4 歳くらいまでは、わたしたちはとにかく安心してひとつところに暮
らせていたんですけれど。両親もいて、頭の上にはちゃんと屋根があるという
意味でね。それでもおそらくはときに飢えたりもしたんでしょうが、わたした
ち兄弟は遊んだりけんかをしたりしてそれなりに楽しい思いもして育ちました。
そしてようやく 5 歳というころに、独立戦争が始まったんです。
そのとき、わたしの両親は下の弟と妹を連れてある家に避難しました。二人の
兄はほかの別の親戚の家に行き、わたしともうひとりの兄は祖父の家に預けら
れました。でもそこにもパキスタン軍が攻めてきたんです。それで叔母と一緒
にわたしたちはさらに遠くの別の親戚の家まで逃げました。
そこは叔母といとこたちにとっては近い親戚だったんですけど、わたしたちに
とってはそれほど近い間柄ではなくて、だからわたしと兄はあまりかまっても
らえなくてつらい思いをしました。叩かれたり、食べさせてもらえなかったり
ということもありましたね。あのころはおなかをすかせたままでいたものです。
木からライチをとって食べたといってひどく叱られたりもしました。兄と二人
で抱き合って、藁の山の上に寝て、泣きながら空を見上げたりしたのを覚えて
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います。そしてこれはいったいどういう戦争なんだろうと思ったりもしました。
とにかくだれにもめんどうを見てもらえない、食べさせてもらえないという状
況でした。
でもそうした状況の中で、子供ながらに人間には自尊心がなければならないと
いうことを知りましたね。あのときのことをいうなら、ライチを食べてひどい
目にあうならもう食べない、食べないで死んだってかまわない、それでも自分
のプライドはなくさないぞ、みたいな気持ちでした。まあそのときは結局、わ
たしの兄がどこかからライチを持ってきて食べさせてくれたんですけど。
それから家にパキスタン軍がやってきたこともありました。みんなわたしを置
いてどこかに逃げてしまって、わたしはたった一人で家に置き去りにされてし
まったんです。そこに軍人たちがやってきて、みんなはどこだって聞くんです。
わたしは恐くて恐くて、口をきくこともできませんでした。でもかれらは、自
分たちは悪人ではないと言ってわたしを安心させようとしました。それから家
にいた鶏だの山羊だのを自分たちで料理して、それを食べると行ってしまった
んです。
そのころのことです。一度ダカに出てきて両親に会いました。それまではなん
となく両親とはもう二度と会えないように思っていたんですけれど。死という
ものの存在もなんとなくわかっていました。なんだかどのみちみんな死んでし
まうような気がしていたんです。わたしたちはみんな逃げ回っていましたし、
国中がパキスタン軍に占領されているということもわかっていました。パキス
タン軍がわたしたちを攻撃しているということも。
あのころのわたしが恐れていたことはふたつありました。ひとつはわたしが死
んでしまって、もう両親と会えないのではないかということ。もうひとつはこ
の戦争に負けてしまって、わたしたちがみなかれらに売り渡されてしまうので
はないかということです。そうしたことを全部、わたしは小さいながら自分で
見聞きしたことから感じていました。両親のことをうらんでもいました。両親
が自分を食べさせてももらえないようなところへ預けたからです。
それからしばらくして、わたしはまた祖父の家に戻ってきました。そしてそこ
である日「ベンガルに勝利を、ベンガルの勝利だ!」という叫び声を聞いたん
です。みんな喜び勇んで叫んでいました。そしてわたしたちが独立したんだと
言っていました。
それから国境を越えて、インド側からたくさんの独立戦士たちが列をなして戻
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ってきました。みんながわたしたちは勝ったんだと言っていました。わたしは
当時バングラデシュがなんなのか、パキスタンがなんなのかはわかっていませ
んでしたが、わたしたちが勝ったんだと知って、とても嬉しかったのを覚えて
います。それからダカに行って両親と再会しました。失ったものをまた手に入
れるという喜びをあの独立戦争は与えてくれたとも言えますね。そしてそれか
らは、すべてがずっと好転しました。
丹
羽:なるほど。そして日常の生活に戻り、小学校に通うようになったわけですね?
ジャハン:そうです。わたしはチョラを書いたりしましたけれど、なんでもそう簡単に書
けたわけではないんです。イマジネーションというか、不思議な体験とかがあ
って、そういうものが書いたものにあらわれるような感じです。
それはともかく、あのころの思い出を
ひとつお話しましょう。当時わたしは
ある店によく行っていて、そこに掛か
っていた絵をよく見ていました。
ムハンマドがその馬に乗って天国へ行
くという、まさにその馬の絵です。
その絵の馬は巻き毛で、女の人の顔を
していて、体つきは男の人のようで、
とても力強い、なんともいえない姿をしていました(ムハンマドがある特別な
馬に乗って、数々の障害や時という制約を超えて天国へ行くという逸話に基づ
く)。もちろん現実に存在するようなものではありません。それでその絵を見な
がら、わたしはいろいろなことを想像したりしたんです。
わたしたちの人間社会はあまりに醜いから、天使たちが来てくれないんだ、と
か、天使たちは美しいと思うものだけを自分たちの国に連れて行ってくれるん
だろうな、とかそういったことです。
小さいころ、わたしは自分自身が全然美しくないと思っていました。それでそ
ういう美しい国や美しい人々のことを考えたのかもしれません。子供のころの
ことなので、美しいとはどういうことなのかもよくわかってはいなかったんで
すけれども。そのくせもし自分が天使たちと会うことがあったらどうしよう、
などと何度も想像してみたりもしたものです。
とまあ、わたしはこんなふうな女の子だったわけですが、書きものの話に戻る
と、9 年生のとき、わたしは大人向けのものを書き始めたんです。それまでにわ
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たしはすでにいろいろな作家の作品を読んでいました。ドストエフスキーやカ
フカやガルシア・マルケスやカミュ、こうした作家のものをかなり読んでいて、
それでかえって簡単には書くことはできないぞという気持ちになりましたね。
最初の長編小説『飛翔』では、わたしは主人公のニナを通して中産階級の家族
の生活というものを描き出しました。でもニナは想像の産物です。モジュムダ
ルという別の登場人物もいますが、それらの人を通して、わたしはバングラデ
シュの貧しさや渇きのようなものを描いたつもりです。
でもこれはまったくのリアリスティックな小説というわけでもなくて、どこか
想像の世界と重ねあわさるような部分もあったと思います。
丹
羽:処女小説の話が出ましたが、小説家としてのデビューはどのようなものだった
んですか?
ジャハン:9 年生のときに大人向けの作品を書くようになったということは話しましたよね。
当時バングラデシュで一番先端を行っていたのは、「ドイニック・バングラ」で
した。当時「ドイニック・バングラ」の文芸欄の編集長はアサン・ハビブで、
かれの手によってわたしの作品が印刷されたというのは、たいへん大きな出来
事でした。
はじめて雑誌に載った作品は、たしか「父親」だったと思いますが、それは、
ある女性が子供を産んだあとで、その子が本当に恋人の子供なのか疑うという
話です。そこからこの題名は来ています。この作品を「ドイニック・バングラ」
に送ったら掲載されたんです。
それからいくつもの作品が「ドイニック・バングラ」に掲載されました。そし
てだいぶたってから、わたしはサリーを着て、アサン・ハビブに会いに行った
んです。わたしを見てかれは、「子供向けの作品のことで来たのならあちらのデ
スクに行ってくれ」と言いました。わたしは「いえ、わたしはあなたに会いに
来たんです。わたしはナスリン・ジャハンです」と言いました。
かれは「ナスリン・ジャハンって誰だ?」なんて言いましたね。わたしがすで
にいくつかわたしの作品が掲載されているはずだと言うと、いったい何年生な
んだと尋ねられました。わたしが 10 年生だと言うと、そんな中高生の作品なん
ぞここでは扱ってないぞ、と言うんです。わたしはあなたがわたしの作品を載
せたんじゃないですかと言いましたよ。事情がわかるとかれはとても興奮して、
わたしがあの作品を書いた作家だなんて信じられないと言ったんです。
丹
羽:サリーを着ていったというのは、大人っぽく見せるため?
ジャハン:そうです。そうそう、あなたはわたしの『飛翔』を読んだんですよね?
本に、わたしの写真があるでしょう?
あの
あれはわたしがはじめてサリーを着て撮
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った写真なんです。その写真をしばらく使っていましたから。今見ると恥ずかし
いけれど。そのころダカに知り合いが増えていって、わたしはちょくちょくダカ
に行くようになったんです。サリーを着てね。みんなわたしのことを大学生だと
思っていました。わたしが高校生だと知っていたら、あんなふうに付き合っては
くれなかったでしょうね。だから自分を実際より年上に見せるためにサリーを着
ていたんです。
そうこうするうちに高校が終る時期が近づいてきて、父がだんだんとうるさく
なってきました。うるさいというのは、普通の意味とは違うんですけれど。父
はずっとわたしが立派な作家になるのを期待していたんです。それで、どうし
てわたしが未だにタゴールのようではないのか、とよく言っていましたね。
一方母はもうわたしを結婚させようと考えていました。わたしの姉が結婚して、
それから父が病気になって、そうこうするうちにわたしたちの家の経済状態は
あまりかんばしくないものになっていたんです。
わたしたちの家にはもともとある程度の財産があったんですけれど、父はそれ
を全部売り払ってあちこち放浪したりしていました。父はある種ボヘミアンの
ようなタイプで、放浪するのが好きでした。見た目もとってもよかったんです。
関係ないですけど。とにかく父が病気になって、母はもうわたしを結婚させな
ければと言ったんです。どんな婿であれと言ってね。実際に結婚の申し込みも
ありました。だれもわたしの年なんか気にしていませんでしたね。
そしてちょうどそのころ、わたしは夫と知り合ったんです。かれは詩を書く人
で、すでに三冊の詩集を出していました。それにかれはわたしの書いたものを
読んでいて、わたしのファンでもあったんです。こんなふうに書ける女性と知
り合いになりたいと思っていたそうです。書きものを通してわたしたちは知り
合い、そしてあるときかれが、わたしを愛しているし、結婚したいと言いまし
た。わたしはいろいろ考えましたが、最終的にそれはわたしにとってもいいん
じゃないかと思うようになりました。かれにはちゃんとした勤めもありました
から。それと同時にちょっとエキセントリックなところもありましたけどね。
それで、わたしはあなたと結婚してもいいけれど、母の承諾だけは取らなけれ
ばならないと言ったんです。そうしてかれがわたしの家にやってきたわけです
けれど、母はかれのことをいい青年だと思ってくれたし、ちゃんとした勤めも
あるということで、承諾は簡単にもらえました。
丹
羽:結婚されたのはいつでしたっけ?
ジャハン:1983 年です。結婚してダカにやってきました。それからはかれの友人たちがわ
たしの友人にもなりました。わたしたちはビッショ・シャヒット・ケンドロ(バ
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ングラデシュの文化や文学を振興するための組織)などで文学のアッダ(会合。
非公式にただ集まって話すだけのこともあるが、こうした場から新しい文学や文
学的活力が生まれることも多い)をずいぶんしましたね。
でもわたしは女性だけのアッダ(このような集まりもあちこちで見られる)には
けっして参加しませんでしたね。男性と女性が分かれて存在するようなありかた
は、わたしにはどうも納得できないんです。雑誌の女性のページとかにもけっし
て書きません。フェミニズムという言葉はわたしにはなんの意味もありませんか
ら。わたしには、フェミニストになるということは、まるで男性に石を投げるこ
とのように思えるんです。男性も女性も一緒になってこそ、すべてを成し遂げる
ことができるとわたしは信じています。
それはともかく、それからというもの、
わたしはおよそうしろをふり返るとい
うことはしたことがありません。
夫の方は、あるとき詩人は乞食のよう
なものだ、詩を書いて稼ぐことなんて
できないと言い出して、詩を書くのを
やめて完全に勤めだけに集中するよう
になりました。
その同じころ、わたしはカレッジに入学したんですけれど、夫がシレットに転
勤になってしまったんです。
あちらでの生活は孤独でしたね。夫は仕事で外だし、帰ってくるのは遅いし。
それで勉強するのは止めて、子供を持とうと思ったんです。あちらにいるとき
に子供が生まれました。はじめは子供のめんどうを見るのはひどく骨の折れる
ものに感じらてたいへんでした。夜になってやっと机に向かっていると、突然
泣き出したりするんですから。降って湧いたトラブルみたいに感じられたもの
です。でも娘がはじめてわたしの手を握ったとき、わたしはこうしたことをす
べて忘れましたね。なにか不思議な喜びが湧いてきたのを覚えています。
娘が 8 ヶ月のとき、わたしたちはダカに帰ってきました。ダカに戻ってから夫
は子供をもうひとり欲しがったんですけれど、わたしはうんとは言いませんでし
た。一人の子供を育て上げるのだってどれだけたいへんなことか、もうひとりな
んてわたしは欲しくないって言ってね。
そのころまでにはダカ以外の場所からも、いろいろな会合から招待が来るように
なっていたんですが、もう一人子供を産むということは、こうしたことをすべて
止めてただ子供だけを見ていることを意味したからです。
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まあわたしがそんなふうでしたから、うちの娘は 1 年生のときには、自分でな
んでもするようになっていましたね。
ある日学校に行ったらみんなが娘を見て笑ったことがあったんです。それを見
て先生は彼女にだれが靴を履かせたのかと尋ねたそうです。娘は自分で履いた
と答えました。先生がおかあさんはいったいなにをしていたのと尋ねると、娘
はおかあさんは寝ていたと答えたんです。それで先生はなぜお母さんに履かせ
てもらわなかったのかと娘に聞いたんですが、彼女は、靴を反対に履こうがな
んであろうが、とにかく自分は自分でなんでもできると答えたそうです。万事
がそんな感じでした。今となっては、娘はわたしの最高の友人ですよ。
なんでも若くして経験したということに関連して、こんなことを思うことがあ
ります。わたしが書いたものが雑誌に載るようになったとき、みんな「こんな
若くして雑誌に載せている」と言いました。はじめて「ドイニック・バングラ」
に作品が載ったときも、
「こんな若い娘が『ドイニック・バングラ』に作品を載
せた」と言われたし、9 年生のときにカレッジの学生たちとディベートをして勝
ったときも「こんな若い娘がチャンピオンになった」と言われました。結婚し
たときも「こんな若くして」と言われたし、子供が生まれたときもそうでした。
フィリップス文学賞を取ったときも「こんなに若くしてこの賞を取った」と言
われたし、バングラ・アカデミー賞をもらったときもまた、
「こんなに若くして」
と言われました。こういうふうにいつまでも「こんなに若くして」と言われて
いたら、わたしはいったいいつになったら立派な大人の作家になるのか?
と
思ってしまったりしますよ。
丹
羽:処女小説の『飛翔』はリアリスティックな作品ですが、あそこに出てくる出来
事は実際の出来事、つまりご自分の経験したことなんですか?
ジャハン:ええ、実際の出来事です。
丹
羽:どれくらいまでがご自身の経験なんですか?
ジャハン:50 パーセントくらいかしら。でも自分の経験は 40 パーセントくらいで聞いた話
も混ざっているかも。あとは想像です。
丹
羽:それから『チョンドロレカの魔法』を書かれたわけですが、あれはまたずいぶ
ん違うタイプの作品ですね。
ジャハン:ええ、まったく違います。だいぶマジック・リアリズム的というか。わたしは
ひとつ書き終えると、次はまったく違うタイプのものを書きたくなるんです。
丹
羽:
『チョンドロレカの魔法』にはある伝説というか民話が出てきますが、あれはバ
ングラデシュの政治と重ね合わせてあるんですよね?
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ジャハン:ええ、そうです。バングラデシュの政治状況をあの民話の中にあらわしました。
丹
羽:あそこでなぜ民話を使ったのですか?
ジャハン:わたしはある種曖昧さを好むというか、はっきりストレートにすべてを書いて
しまいたくはないんです。例えばあそこに掛けてある絵には解放戦士が描かれ
ていますが、わたしたちはただそれを解放戦士の絵だと思うだけじゃないでし
ょう。それ以外のなにかをそこに見たりするわけです。
そんなふうに、それ以外のなにか、というものをあらわすのに、わたしたちは
創作上のいろいろな操作を加えるわけです。それに、わたしは民話というもの
が、わたしの書く物語にうまく機能するように思えたもので。生まれてこのか
た、わたしにはどこか民話や伝説の世界に行ってしまいたいような気持ちがあ
って、そういうわけで、わたしの書くものに民話や伝説が出てくるのはごく自
然なことなんです
今わたしは同じ名前のもとに 30 の短編小説を書いているんですけれど、その題
名は「アラン・ポーの猫」というんです。全部の話に黒い猫が出てきてその猫
が殺されるというストーリーです。でも話のプロットは全部違います。アラン・
ポーの書いたものになぞらえてわたしはこのシリーズの名前をつけたんですけ
れど、でもわたしの書いているのはバングラデシュの話で、結果としてここに
もある種の曖昧さというか、二重の意味が込められています。あるものをそれ
だと特定したり、その名で呼んだりしなくても、読者にはそれがなんだかわか
る、そういうものをわたしは書こうとしているんです。
丹
羽:
『チョンドロレカの魔法』のあとには、またとてもリアリスティックな作品を書
かれましたよね。
ジャハン:ええ、
『黄金の仮面』のようなものは、リアリスティックなトーンをベースにし
ています。
丹
羽:
『夜の鳥は飛び立つ』なども、そうですね。
ジャハン:ええ、あれは映画にもなりました。あそこにはまた違ったテーマがあるんです。
三つ子の姉妹の話ですけど。
丹
羽:ジャハンさん自身が気に入っているのは、どの作品ですか?
ジャハン:この『小説選集』に入っているものは、全部気に入っています。でも文学とい
うのはむずかしいものですよね。わたしは大江健三郎のものを読んだことがあ
るんですが、英語だったし、翻訳がよくなかったのかあまりよくわかりません
でした。
丹
羽:お好きな作家は誰ですか?
ジャハン:ガルシア・マルケスにアラン・ポー、それからドフトエフスキーかしらね。翻
訳家のマノベンドロ・ボンドパッダエはわたしの友人なんです。カフカも好きで
- 10 –
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すね。ベンガルの作家や詩人では、タゴールにジボナノンド・ダシュ、ジョエ・
ゴーシャミ、アクタルッジャマン・イリヤス、ハサン・アジズル・ホク、それに
セリナ・フセインも好きです。
丹
羽:タゴールの作品ではどれがいいと思いますか?
ジャハン:短編です。タゴールの書いたものには
他者への愛というものを感じますね。
それからマニク・ボンドパッダエの名
前を挙げるのを忘れていました。マニ
クの作品から学んだことは多いですね。
でもわたしは今になってつくづく思う
んですが、作家としてわたしは恵まれ
ているし、幸運でもあったと思います
ね。バングラ・アカデミー賞を受賞したり、いろいろな人と関わったりして。で
も賞をもらって終わりではどうしようもありません。作家というものは常に前に
進んでいかないと。
丹
羽:来年のブック・フェアに向けてもまた新しい本を出すんでしょう?
ジャハン:ええ。出します。でもわたしは 1 年に 1 冊以上は書けませんね。
丹
羽:ほかになにか仕事はなさってるんですか?
出版関係とか?
ジャハン:基本的に書きもの以外のことはしていません。
「オンノ・ディン」という雑誌で
も一応働いているんですが、月に 1 回行く程度です。でもそこにちゃんとわた
しのデスクもあるんですよ。わたしの名前が多少役立つということで。フル・
タイムの仕事はわたしは一度もしたことがないんです。わたしは娘を育てなけ
ればなりませんでしたし。あ、今テレビに映っているのはわたしの小説をドラ
マ化したものです。
丹
羽:脚本はどなたが書いたんですか?
ジャハン:自分で書きました。本はあまりお金になりませんが、テレビの仕事はいいんで
す。
基
金:国際交流基金では、今回バングラデシュの文学を日本の人々に紹介しようとし
ているわけですが、バングラデシュの文学、あるいは文化でもいいのですが、
どのようにしたらよく伝わると思われますか?
ジャハン:そうですね、今バングラデシュでは原理主義にまつわる動きがあって、それは
世界中で起きていることですけれど、それについてまず、正しく伝えてほしいで
すね。バングラデシュを原理主義の国と捉えるのは正しくありません(多くのバ
ングラデシュ人は自国が世界から原理主義国家とみなされていると考えていて、
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そのことを不当であるとも思っている)。ボイショク月のはじまり(ベンガルの
新年にあたる)の催しではヒンドゥーの女性たちも頭にシンドゥールをつけて参
加するし、エクシェ・フェブラリー(2 月 21 日の言語運動の記念日のこと。バ
ングラデシュではとても大きな催しとなる)やブック・フェアなどヒンドゥーと
ムスリムがともに参加する催しがここにはたくさんあるんです。たしかに原理主
義に走る人たちもいますけれども。
バングラデシュといえば、海外ではネガティブなイメージが強いですけれど、た
とえばわたしたちが貧しいとして、なぜ貧しいのかを理解して欲しいですね。村
などではあまり教育を受けていない人々がいて、そうした人々に宗教的な影響力
を持とうというような動きもありますけれど、でもたいていのバングラデシュの
イスラム教徒は穏健派です。
わたしはバングラデシュを愛しているし、けっしてここを離れるつもりはありま
せん。バングラデシュはたしかに貧しいし、洪水やさまざまな問題を抱えていま
すけれど、人々はそれと戦ってきたんです。そして戦いながら希望を捨てていな
いということを伝えたいですね。
基
金:ジャハンさんはどのようにして作家になられたんですか、あるいはジャハンさ
んにとって、書くこととはどういうことなのかお聞かせ下さい。
ジャハン:書くこと以外わたしにはなにも考えられないんです。書きものの世界の外には
わたしは存在できません。書けなくなったらわたしは死んでしまうでしょう。そ
ういえば、以前わたしは川端康成のことをつくづく考えたことがありました。川
端はすべて成し遂げて、ノーベル賞まで手に入れて、そしてその末にどうして自
殺しなければならなかったんだろうってね。そのとき結局思ったのは、自殺とい
うのはすべてを手に入れた人のみに残された選択肢なんだ、ということです。わ
たしはまだまだそんなんじゃない、まだまだいろいろしなければならないし、手
に入れなければならないから、前に進むんだってね。
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