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イムダドゥル・ホク・ミロン氏 インタビュー
1955 年生まれ。79 年から 81 年まで出稼ぎ
労働者としてドイツで過ごす。それ以前より
執筆活動を行なっていたが、それが一気に
開花するのは帰国後の 80 年代半ばになっ
てからである。
海外で暮らすバングラデシュ人をテーマにし
た『異国にて』(87 年)やバングラデシュ独立
戦争をテーマとした作品を集めた『独立戦争
小説集』(88 年)などで作家として揺るぎない
地位を築き、バングラ・アカデミー賞をはじめ
として数々の賞を受賞。
現在刊行中の『ヌールジャハン』(95 年第 1
巻、2002 年第 2 巻刊行)は、イスラムの名の
もとでの抑圧をテーマに実際の事件をもとに
して書かれた作品で、氏の代表作になるも
のと目されている。
<自宅にて>
ミロン:わたしは去年の 4 月に日本へ行ったんですよ。17 日間滞在しました。
基
金:なにか目的があって行かれたんですか?
ミロン:バングラデシュの催しに参加するために行
ったんです。ボイシャキ・メラ(ベンガル
暦ボイシャク月の祭り。新年にあたる)に
行ったんです。
丹
羽:ああ、そうですか。たしかビッショ・シャ
ヒット・ケンドロ(内外のバングラデシュ
人の文学、文化を振興する組織)の日本支
部があのとき立ち上がったんでしたよね。
ミロン:わたしはビッショ・シャヒット・ケンドロのアドヴァイザーなんです。わたしも
そこの仕事をしているんですよ。ところで、あなたは以前にバングラデシュにい
らしたことはあるんですか?
丹
羽:ええ、ほんの 2、3 回ですが。
ミロン:わたしはあなたがたから手紙を受け取って、とても嬉しく思いました。あなたが
がバングラデシュの文学についてわたしと話したいということを聞いて、とても
光栄に思いました。ただ、わたしは英語はあまり得意ではないんです。ベンガル
語でないと、十分なお話はできないんですが。
基
金:もちろんベンガル語でお話しください。ミロンさんからバングラデシュの文学に
ついてお話を聞けるのは、わたしたちにとってとてもすばらしい機会だと思ってい
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ます。文学だけでなく、ミロンさんご自身についてもいろいろお伺いしたいと思っ
ています。
ミロン:あなたは日本で何を教えていらっしゃるんですか?ご専門は何ですか?
丹
羽:バングラデシュとインドの文学です。ベンガル語とヒンディー語も教えています。
ミロン:インドの作家のシュニル・ゴンゴパッダエやシルシェンドゥ・ムコパッダエ、そ
れにショムレシュ・モジュムダルをご存知ですか。みなわたしの友人です。
丹
羽:ええ、存じています。でも、ミロンさん自身はずっとバングラデシュで活動して
いらっしゃいますよね?
ミロン:ええ、わたしの履歴を用意してあります。ベンガル語で書かれていますけれど。
これを差し上げましょうか?
丹
羽:はい、是非。ミロンさんは 150 冊ほども本を出していらっしゃると伺いましたが。
ミロン:今では 150 冊以上になっています。わたしはある意味、人気作家でして、毎年 6
冊から 7 冊は本を出しています。
丹
羽:編集者としての仕事もしていらっしゃるんですか?
ミロン:ええ、今は日刊紙の編集も手伝っています。「アマル・デシュ(わたしの国)」と
いう日刊紙です。でも基本的にわたしは書きものだけをしています。わたしがも
のを書き始めたのはずいぶん前で、もう 30 年ほどになるでしょうか。1973 年に
初めて短編が印刷されました。子供向けの話でしたけれど。それからいろいろな
作品をダカ(ダッカ)やコルカタ(カルカッタ)で発表しました。最初の本が出
版されたのは 77 年です。それからひたすら書き続け、ずっとわたしはほかの仕事
はせずに、書きものだけをしてきたんです。わたしは本当の意味での職業作家で
す。つまりわたしは書きものだけで生計を立ててきたんですが、これはバングラ
デシュではめずらしいことなんです。小説を書く以外には、テレビの連続ドラマ
も書いています。
丹
羽:ミロンさんはドイツにいらしたことがあるんですよね?
ミロン:ええ、そうです。1979 年から 81 年まで 2 年間いました。でもドイツへ行ったの
は、創作活動とは関係ありません。ただ仕事のために行ったんです。2 年間あちら
で働いて帰ってきました。
丹
羽:ミロンさんのお生まれはビクロムプルとか。
ミロン:ええ、ビクロムプルはダカの近郊にあります。ダカの隣にムンシゴンジュ県があ
って、その県内にビクロムプルがあるんです。とっても有名な場所なんですよ。マ
ニク・ボンドパッダエ(有名なベンガル作家)をご存知でしょう?
かれはビクロ
ムプルの出身です。ブッドデブ・ボシュ(有名なベンガル詩人)ももちろんご存知
でしょうが、かれもビクロムプルの人です。ショムレシュ・ボシュ(有名なベンガ
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ル作家)もそうです。ジボナノンド・ダシュ(有名なベンガル詩人)の母方の家も
ビクロムプルにありましたし、オモルット・シェン(アマルティヤ・センとも。ノ
ーベル経済学者)の母方の家もビクロムプルにあります。そういうわけでとても有
名な場所なんです。作家やジャーナリストを多く出しましたし、とにかく文化人を
輩出したことでよく知られています。
丹
羽:それにはなにか特別な理由があるんでしょうか?
ミロン:この地域はもともとヒンドゥー教徒が主導権を持っていた地域で、ビクロムプル
はヒンドゥーのジョミダル(かつての地主、ほとんど領主のような存在)が治めて
いたんです。かれらは概して高学歴で、そのかれらが努力した結果、この地域の教
育の普及が進んだんです。当時は文化的な面でヒンドゥーのジョミダルの方が、一
般的なムスリムより進んでいましたからね。ヒンドゥーのジョミダルたちがビクロ
ムプルの文化や文芸を振興させる大きな役割を担ったんです。
丹
羽:ミロンさんはいつダカに出ていらしたんですか?
ミロン:わたしは 1955 年の 9 月に生まれました。誕生日は 9
月 8 日です。生まれてから 12 年間はビクロムプルで
過ごしました。それから 1967 年にダカに出てきたん
です。
丹
羽:ご両親も一緒でしたか?
ミロン:両親もダカに出て来ました。これはわたしの 50 歳の
誕生日を記念して出された本なんですが、ここにわ
たしのことがいろいろ書いてあります。わたしに関
してこの国のいろいろな作家が書いてくれたんです。
これをあなたに差し上げますので、読んでみてください。
丹
羽:わたしは人に勧められてミロンさんの『ヌールジャハン』を読んだんですが、と
ても良かったです。
ミロン:第二巻も読みましたか?
丹
羽:いえ、第一巻だけです。まだこのあとで続きの巻が出ると聞きましたが。
ミロン:ええ、もう一巻、つまり第三巻まで書くつもりです。
丹
羽:『ヌールジャハン』は実際にあった話をもとに書かれたんですよね?
ミロン:ええ、そうです。実際の話をベースに書きました。ご存知でしょうが、わたした
ちのこの国では、宗教的な原理主義勢力が勢いを増しつつあります。かれらは最近
とみに力を持ってきていて、この 15 年、あるいは 20 年の間にずいぶん幅を利か
せるようになりました。かれらは宗教の名のもとに人々に対してある種の暴虐をは
たらくのです。そうした事件は 1990 年代からたびたび見られるようになりました。
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1991 年から 2 年にかけてのことですが、シレット県のある村で、ひとりの女性の
再婚に関してあるイマーム(聖職者の一種)がファトワ(聖職者の出すある種の宣
言)を下しました。
彼女の二度目の結婚がイスラム法に反するとして、彼女を半分地面に埋めて 101
個の石を投げつけなければならないとしたのです。村の聖職者がその刑を執行する
ことになりました。彼女はこのひどい侮辱に耐えられず、結局自殺してしまいまし
た。その女性の名前がヌールジャハンです。ヌールジャハンのその事件をもとに、
わたしはあの小説を書き始めました。でも実際にその事件が起こったシレット県に
は独特の方言があって、わたしはそれになじみがないので、事件の舞台をわたしの
生まれ育ったビクロムプルに変えて書きました。わたしが一番よく知っているのは
なんといってもビクロムプルですから。ビクロムプルの文化や方言をわたしはよく
知っていますし、そこの社会背景にわたしは慣れ親しんでいます。そこでずっと
人々の生活を見てきましたからね。
日本であれ、どこであれ、それぞれの地域にそれぞれの生活のありようをいうもの
があって、それは同じではないでしょう。シレットの人々の生活とビクロムプルの
人々の生活は違います。というわけでわたしはこの話をビクロムプルに移した上で
描いたわけですが、その結果、小説のヌールジャハンは実在の人物というよりある
種のシンボルになっていると思います。ヌールジャハンのようなたくさんの女性た
ちが、バングラデシュでは日常的に原理主義者たちの犠牲になっているんです。だ
からこの話をビクロムプルに持ってきてもおかしくはない。
第一巻を読んだのならおわかりになるでしょう、わたしが物語をどういう方向に持
っていこうとしているか。第二巻には、ヌールジャハンの周辺にいるもっと大勢の
抑圧された女性たちが登場してきます。第三巻ではヌールジャハンの話に戻ります
が、三巻を通じてバングラデシュの原理主義のありかたがどのようなものなのか、
そしてバングラデシュの女性たちがどんなふうに抑圧されているのかがおわかり
になると思います。
丹
羽:その事件は新聞などで報道されたんですよね?
ミロン:ええ、とても大きく報道されました。国を挙げての騒ぎになりましたよ。そうそ
う、こちらの短編小説集も読んでみてください。これをお読みになると、この国
の村の生活がどんなものだかがもっとよくおわかりになると思いますよ。
丹
羽:ミロンさんは独立戦争についてもたくさん書いていらっしゃいますね。
ミロン:ええ、わたしは独立戦争についてもいろいろ書きました。長編小説だけで 11~2
編も書いたでしょうか。独立戦争についてはあなたもご存知でしょうが、1971 年
以前は、この国は東パキスタンでした。わたしたちがはじめて独立を達成したのは、
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1947 年にイギリスがこの地を去ったときでしたが、52 年には、言語をめぐってパ
キスタン政府がわれわれに圧力をかけ始めました。かれらはわたしたちにベンガル
語を使わせまいとし、ウルドゥー語を唯一の国語にしようとしたのです。
われわれはそれに反対し、その抗議運動では 4 人が亡くなりました。わたしたちの
ようにみずからの血を流してまで自分たちのことばを守ったのは、史上初めてのこ
とではないでしょうか。それからもパキスタン政府は、われわれにさまざまな不正
を働きました。
経済的にもわたしたちは壊滅的な状況に追いやられ、われわれは貧困に苦しみまし
た。わたしたちは実にパキスタンの財源の 7 割を生み出していたというのに、人々
は貧困の中で暮らさなければならなかったのです。こうした状況に反旗を翻し、バ
ングラデシュの人々はシェイク・ムジブル・ラーマンのリーダーシップのもとに戦
いました。1970 年には選挙が行われ、シェイク・ムジブル率いるアワミ・リーグが
300 議席中 297 議席を占める大勝利をおさめたんです。けれどもパキスタン政府は
それを認めようとせず、ここに軍隊を送り込んできたのです。
こうして 3 月 25 日に殺戮が始まりました。バングラデシュの独立戦争では、9 ヶ
月の間に 300 万人もが命を落としたのです。そしてその末にわたしたちは独立を達
成しました。
独立というものは、いろいろな面で国の発展をうながすものです。文学の分野も、
独立を通して大きく発展したといえます。独立以前のベンガル文学は、すべての面
で西ベンガルに依存したものでした。というのも、こちら側ではさまざまな状況の
制約により文学が充分に発展できなかったからです。しかし 1971 年以降、われわ
れはあらゆるジャンルの文学活動を思う存分できるようになりました。この 30 年
で、わたしたちは自分たちの文学を一定のものにまで持ってくることができたと思
っています。
丹
羽:1971 年にはミロンさんはダカにいらしたのですか?
ミロン:ええ、当時わたしはダカにいました。独立当時わたしは 15 歳でした。
丹
羽:ミロンさんご自身にはなにか特別な経験などあるのでしょうか。
ミロン:わたしはまだ、独立戦争に加わるほどの年齢ではありませんでした。ですがまず、
その当時のわたしの家族の状況を説明しておく必要があるでしょう。わたしの父は
ちょっとした勤めを持っていましたが、養わなければならない家族がとても多かっ
たのです。わたしは 10 人兄弟です。母は外で働いてはいませんでした。あなたは
もちろんコルカタで中産階級の底辺層の暮らしというものをご覧になったでしょ
う。わたしたちもいわばそういった階層で、貧しかったですからね。10 人の兄弟
姉妹がなんとか勉強して、ぎりぎりでやっていきながらわたしたちは大きくなった
のです。そうした中、1971 年の 10 月にわたしの父が亡くなりました。一方で独立
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戦争が行われているという状況で、わたしたちはなんとか生き延びるために戦わな
ければならなかったのです。
そういうわけでわたしは独立戦争には行っていませんが、自分の身の回りで戦争は
見ました。パキスタン軍の非道な行いや、人々を連行していくさまを見ました。連
行されていった人々は、たいていの場合帰ってきませんでした。多くの人がそのま
ま亡くなったのです。そうしたことをたくさん身近に見ましたよ。
71 年にはいったんビクロムプルに避難したのですが、そこでもパキスタン軍が村
から村へと侵攻し、村を燃やしたり人々を殺戮したりしたのを目撃しました。川べ
りや畑やいたるところに死体がころがっているのを見たんです。そうした経験など
を思い起こして、わたしは独立戦争に関わる小説を書きました。
丹
羽:たいへんな経験をされましたね。
ミロン:みんな経験したことです。
丹
羽:それから、独立後になってドイツへ行かれたわけですね?
ミロン:ドイツへ行ったのは 1979 年になってからです。あちらでわたしは労働者として 2
年間働きました。そして帰ってからそのときのことを背景にして『異国にて』や
『服従』を書きました。
『服従』の方はフランクフルトのブック・フェアで出すた
めに去年英訳されたんですけれど。
わたしはあちらにいるバングラデシュ人労働者がどのような仕事をし、どんな苦
労を味わっているのか、その苦しい生活や胸のうちを描きました。これらの小説
はとてもよく知られるようになり、多くの人に読まれましたね。
丹
羽:そのテーマは今後ますます重要になっていくと思いますね。同じような経験をし
ているバングラデシュ人は世界中にいるわけですから。
ミロン:そうです。日本に行ったのも、そうした人々に会ってどんな状況に置かれている
のかを知りたかったからです。かれらの多くはいわゆる不法滞在者です。合法的に
行くすべがなかったんです。非常に貧しい環境からでは、それ以外の方法で国外へ
行く方法はまったく開かれていないんです。
かといって国にもなんの仕事もありません。収入を得る道がなにもない。ですから
結局仕事を求めて外国へ行くことになる、そういう人々のことをわたしは取り上げ
たいんです。
バングラデシュにはおよそ 1 億5千万人が暮らしています。しかし国土は狭く、多
くの人が仕事をみつけられずにいます。だから不法であれなんであれ、外国に行か
ざるを得ない。こうした動きの背景には、また別の側面もあります。かれらは一義
的には生きるため、食べるために日本やアメリカのような豊かな国に行くわけです
が、ただそれだけではないんです。わたしたちは独立戦争を戦って、国の独立を勝
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ち取りました。そこには新しい国で幸福に暮らす、平安に自分たちの生活をする、
という夢がありました。しかしそう簡単にはいかなかったのです。日本は第二次世
界大戦で壊滅的な状態になりましたよね。でも日本の人々はしっかりと働いてまた
国を復興させました。
わたしたちもそうしたいし、そうする心構えはあるんです。しかしうまい具合に機
能しない。そうしたいのに、働くつもりはあるのに、国の状態、さまざまな状況が
うまく整わないために大部分の人にしかるべき場所を与えられずにいるんです。ち
ゃんとそれができればわれわれの国も復興することができるはずです。
中国もあれだけの人口をうまく労働力に変換し、そのマンパワーで国力をあげてい
ます。われわれがなぜそれをできないのか。それができれば、ここの人々も仕事を
求めて海外に行かなくてもすみますし、ここで安心して暮らすことができるんです。
うまくいかなかったひとつの原因は、独立後の政治的な危機にあります。シェイ
ク・ムジブル・ラーマンは家族とともに 1975 年に暗殺されましたし、そののちに
権力の座についたジアウル・ラーマンも結局 1981 年に暗殺されてしまいました。
このような不安定な状況の中でわれわれはやってこなければならなかったのです。
わたしたちの文学も、ある意味、こうした不安定さの影響を被ってきました。
しかしそうした状況の中で、文学だけはある程度の成果を収めてきたといえます。
もし政治的にもっと安定すれば、そして生活が安定すれば、この国の状況はおよそ
違ったものになるでしょう。
丹
羽:たしかにそうですね。でも政治的な状況がすべてでしょうか?
ミロン:もうひとつ言っておかなければならないことがあります。あなたは西ベンガルに
いらしたのだから、宗教的な問題に関してもご存知でしょう。バングラデシュに
も多くのヒンドゥー教徒が暮らしています。わたしはかれらとも親しくしていま
すが、かれらはヒンドゥー教徒であるがゆえの、さまざまな問題に直面していま
す。宗教的な違いがあるのはたしかですが、ここでも問題は原理主義です。
わたしは自分の書くものを通して、こうした問題を取り上げていきたい。わたし
はなによりも人道主義を信じていますし、人道主義を自分の作品のひとつの柱と
考えています。
それからまた、海外で働く人たちのことですが、さまざまな問題があるにせよ、
かれらはともかく働いて稼ぎを得ることで結局はこの国に貢献してもいるのです。
わたしは世界中に散っているそういう若者たちの存在を示したいんです。
ところで日本に住んでいるバングラデシュ人の多くは、日本の女性と結婚してい
ます。なにか気持ちの上で共通点のようなものがあるんでしょうか、日本の女性
とバングラデシュの女性はどこか似たものを持っているような気がします。とて
も丁寧で優しいですし、家族を大切にする、みたいな。
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丹
羽:それについてはわたしはなんとも言えませんが……。話は変わりますが、今度は
ベンガル文学全般についてお聞かせください。まず、ミロンさんご自身が好きな
作家はどなたですか?
だれのものをよくお読みですか?
ミロン:マニク・ボンドパッダエが一番好きですね。それから『大地のうた』のビブティ
ブション・ボンドパッダエ、そしてタラションコル・ボンドパッダエ、この三人
が好きですね(この三人の作家に姻戚関係はないが、同じ時代に活躍した同名の
作家として「三人のボンドパッダエ」と呼ばれる)。バングラデシュの作家ではな
んといってもショイヨド・ワリウッラですね。
丹
羽:タゴールのことは、小説家としてはどのように評価されますか?
ミロン:タゴールの小説は全部読みました。でもタゴールの場合は、長編より短編小説が
すぐれていると思いますね。でもとにかくタゴールは、これまで生まれたベンガ
ル作家のだれよりも偉大ですよ。タゴールはわれわれにとって空のようなもので
す。かれの長編小説より短編小説のほうが好きだと言いましたが、詩はもちろん
それよりずっとすばらしい。でもわたしが一番好きなのは、タゴールの歌です。
かれの歌は真の賛歌だと思いますよ。
丹
羽:ちょっと違った角度からの質問なんですが、バングラデシュでは村の生活のあり
ようと、都会の生活のありようとはかなり違いますよね。ミロンさんも再三お書
きになっていますが、村の生活をベースとした話を書く場合も、都市部の人が読
者である場合は、やはりそちらの視点に立たざるを得ないというようなことはあ
りますか。
ミロン:そうですね……。わたしたちの国では 80 パーセン
トの人が農村部に暮らしていますし、バングラデシ
ュでは都市部は小さなものです。大部分の人の生活
は村にあって、そのまた大部分が農民です。わたし
たちの書くものも、たいがいそういった人々を描き
出すことで発展してきました。
一方、それでも都市部にも 20 パーセントほどの人
が住んでいるわけで、そうした人々のありようも最
近では取り上げられています。バングラデシュには
いわば 2 種類の小説が存在しているようなもので
す。バングラデシュ全体を知るためにはその両方を
読まなければならない。もちろんひとつの作品の中にその両者が対比されている場
合もありますけれど。ただ、もうひとつ言っておかなければならないことは、農村
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部、都市部というよりも、われわれの国では、教育を受けた人の数がまだまだ少な
いということです。50 パーセントの人が教育を受けているとしても、真に文学を
楽しむような人は 1、2 パーセントというところでしょう。ここでは、文学はすべ
ての人が読むというものではない、それが現状です。文学はある特定の階層のもの
なのです。
丹
羽:バングラデシュのそうした状況は、当然変わっていくでしょうが。
ミロン:もちろん変わっていくと思います。国外で働く人々の話が再三出ましたが、そう
した層からも教育を受ける人が出てくるでしょうし、なによりわれわれの次の、
今育ちつつある世代はより教育を受けています。そうした世代が育ってくればお
のずと状況は変わってきますよ。
丹
羽:ミロンさんは若者の間にたいへんに人気のある作家であるとうかがっていますが、
なにか理由があればお聞かせください。
ミロン:そうですね、わたしが比較的若い人たちの話を多く書くからではないでしょうか。
そうした話には恋愛小説が多いのですが、ただ恋愛、ということではなく、人間
そのもの、人の心の動きに重きを置いています。若い男女の悩みや精神的、心理
的な問題なども意識して取り上げています。そういったわけで、若者の間に人気
があるのでしょうが、バングラデシュでは若い人の方がたくさん本を読みますか
らね。
丹
羽:恋愛小説というと、当然都市部の生活を背景にしたものということになりますよ
ね?
ミロン:ええ、恋愛小説に限っては、たいてい都市部の若者を主人公にしたものになりま
す。
基
金:ところで、日本においてバングラデシュの紹介をするとしたら、どのようなとこ
ろを強調されたいですか?
ミロン:わたしがまず言いたいことは、バングラデシュは小さな国だけれど、人の心は広
いということです。バングラデシュ人は人間が好きで、感情が豊かです。それか
ら日本の人にぜひ知っておいてもらいたいのは、われわれが自分のことばに命を
捧げたということです。
それから 1971 年に 9 ヶ月間戦い抜き、300 万人の人の命と引き換えに独立を達成
したということも知っておいてもらいたいですね。
われわれは貧しいけれど、心は豊かです。わたしたちは人間を愛し、客人を大切
にしまう。人をもてなすのが大好きなんです。わたしたちのそういう内面を知って
もらいたいと思います。
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金:最後にお子さんたち、あるいはお子さんをとりまく環境や変化についてお聞かせ
ください。
ミロン:わたしの子供たちは、現代的な生活をしてると言っていいと思います。わたした
ちが育ったころと比べて、子供たちの環境はまるで変わっています。
たとえばわたしたちの時代にはテレビなどありませんでしたが、いまではこれだけ
のチャンネルの番組を見られるわけでしょう。たちどころに世界のあれやこれやを
知ることができるわけです。英語を学んだり外国について知ったりする、というこ
ともありますが、概して子供たちはこの国について、文化について、よく考えてい
ると思いますよ。コンピューターなどの知識も豊富です。今ではこの国の若い人た
ちが海外でコンピューターの専門家になったりもしているんですからね。そういう
意味では、将来に期待が持てますね。
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