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『自負と偏見』における音楽に関する一考察
谷, 茉
子
Zephyr (2010), 22: 60-82
2010-03-19
http://dx.doi.org/10.14989/108310
Right
Type
Textversion
Departmental Bulletin Paper
publisher
Kyoto University
『 自 負 と 偏 見 』 1に お け る 音 楽 に 関 す る 一 考 察
谷
茉祐子
序
オースティンは自身の書簡や親族の回想等から音楽好きであ
っ た こ と が 知 ら れ て い る 。『 分 別 と 多 感 』( Sense and
Sensibility ) や 『 説 き ふ せ ら れ て 』( Persuasion ) で は ヒ ロ イ
ンの趣味はピアノであり、音楽は登場人物の造型や物語の進行
に 大 き な 影 響 を 与 え て い る 2 。作 品 の 登 場 人 物 た ち は 、し ば し ば
ピ ア ノ を 弾 き 歌 う 。例 え ば『 エ マ 』
( Emma )で は フ ラ ン ク・チ
ャーチルがジェーン・フェアファックス にピアノを匿名で贈っ
た事が作品中の大きな謎の一つとなっている 。このピアノのた
めにヒロイン、エマ・ウッドハウス の錯覚がより助長されたと
も 考 え ら れ る 。ま た 、
『 説 き ふ せ ら れ て 』の 主 人 公 ア ン・エ リ オ
ットは、バースでのコンサートで、かつての婚約者フレデリッ
ク・ウォントワース大佐の未だ変わらぬ愛情を悟るのである。
『 自 負 と 偏 見 』( Pride and Prejudice ) で は 前 述 の 二 作 品 の よ
うには頻繁に音楽が用いられているわけではないが、エリザベ
ス・ベネットとフィッツウィリアム・ダーシー双方の人格を浮
かび上がらせ、愛情を誘発するために、音楽はある 種の役割を
果たしていると思われる。本作品では音楽がどのように用いら
れているか、そしてそこにはどのような意図が込められている
かを考えてみたいと思う。
第一部では、登場人物の演奏場面を通じて各の性格について
論じ、その上でヒロイン、エリザベスの演奏がどのような役割
1
『高慢と偏見』とも訳されることの多い本作品であるが、本稿で
は 中 野 好 夫 の 翻 訳 に 従 い 、『 自 負 と 偏 見 』 と す る 。
2 パ ト リ ッ ク ・ ピ ゴ ー ( Patrick Piggott) は 、 プ ロ ッ ト や 登 場 人 物
の 性 格 を 表 す 際 に 音 楽 が 使 わ れ て い る と 指 摘 し て い る ( 314)。
- 60 -
を果たすかを検討する。彼女は オースティンの「お気に入り」
の主人公であるにもかかわらず、その演奏はそれほど巧みでは
ないように描かれている。第二部ではそ の理由を他作品との比
較や、時代背景なども踏まえて考察する。
1.
まずエリザベスと他の登場人物との演奏を比較し、前後の記
述から彼女の性格を浮かび上がらせる役割を果た している音楽
に言及する。次に、エリザベスとダーシーの間に愛情を喚起す
る装置、そして対話の代替物と なり得る音楽について考察を行
う。
エリザベスが作中ピアノを弾いたのは二度であり、それは二
度共ダーシーの面前である。まずエリザベスの最初の演奏は、
ルーカス邸の舞踏会に於いてである。そこでは親友シャーロッ
ト・ル ー カ ス の 勧 め を 散 々 嫌 が っ た 後 、彼 女 は ピ ア ノ に 向 か う 。
そ の 演 奏 に 対 し て は 概 ね 好 意 的 な 評 価 が 下 さ れ て い る:
「歌の出
来は、もちろん完全だなどというのではなかったが、まんざら
で な か っ た 。 . . . [妹 メ ア リ ー と 比 べ る と ]そ の 点 エ リ ザ ベ ス の
ほうは、まことに気取りがなく、自然であり、それだけに、腕
こ そ 半 分 も で き て い な い が 、聞 く 人 は み ん な よ ろ こ ん で 聴 い た 」
3
( 25-26)。
エリザベスの二度目の演奏は、ダーシーの叔母、レディ・キ
ャサリン・ド・バーグの邸宅ロージンズに於いてである。彼女
はダーシーの従兄弟フィッツウィリアム大佐の要望に応えて演
奏する。この際叔母のおしゃべりに辟易したダーシーはわざわ
ざピアノの方へと移動し、エリザベスの顔が見える位置に席を
本 稿 で の Pride and Prejudice か ら の 全 て の 引 用 は 中 野 好 夫 に よ
る 翻 訳 (『 自 負 と 偏 見 』 新 潮 社 、 2009 年 ) を 参 照 し 、 必 要 に 応 じ て
変 更 を 加 え た 。 た だ し 、 引 用 の ペ ー ジ 番 号 は 末 尾 に 挙 げ た Penguin
Books に よ る 。
3
- 61 -
占める。彼のこの行動は彼女への愛情の発露と見 ることができ
るだろう。巧みな演奏を聴きなれているはずの彼が、意外にも
彼女の演奏に「現にあなたの演奏を聞かせていただいた人間は
ですね、誰ひとり、欠けるところがあるなどとは、考えるはず
あ り ま せ ん か ら ね 。」( 171) と 賛 辞 を 呈 す る 。 ハ ワ ー ド ・ S ・
バ ブ ( Howard S. Babb ) は ダ ー シ ー が 「 こ の 言 葉 に エ リ ザ ベ ス
へ の 深 い 愛 情 を 込 め て い る 」 と 述 べ て い る ( 140)。
エリザベス以外にピアノを弾いたり、歌を歌ったりする人物
としては彼女の妹メアリー・ベネット、近所に新しく越してき
たキャロライン・ビングリーとルイーザ・ハーストのビングリ
ー姉妹が挙げられる。それぞれの演奏回数は、メアリーとキャ
ロラインが三度、ルイーザが一度である。もっともメアリーと
キャロラインの三度目の演奏に関しては詳細な描写もなくほぼ
背景となっている。またルイーザの演奏はキャロラインとの二
重奏となっているため、ここでは考慮しない。そうすると各自
重要な演奏回数は二回ずつということになる。而して 興味深い
のは、最初の演奏が彼女たちの人格を表すもので あり、二度目
はエリザベスとダーシーの恋愛に重要な一役を買っていること
である。
まず、妹のメアリーを見ると、彼女が最初に演奏するのはエ
リザベスと同じくルーカス邸においてである。しかしながら、
エリザベスの次に演奏したメアリーへの評価はかなり手厳しい。
妹のメアリーが、サッサとすすんでピアノの前に坐った。
なにしろ姉妹じゅうでは、ただひとり不美人のほうだった
ので、自然学問や芸事には励みが出て、それだけに、なに
かというとひどく見せたがった。
才 能 も 趣 味 も あ る 女 で は な か っ た 。聞 か せ た い 一 心 か ら 、
稽古はたしかに熱心にしたが、それといっしょに、やはり
虚栄からくる知ったかぶりや、妙な気取りもひどく鼻につ
- 62 -
いた。それは、かりに彼女よりはるかに名人がしてみせた
としても、損にこそなれ、決して得にはならなかったろう
からだ。. . . メアリーは長い協奏曲を一つ弾いたあと、部
屋の一方で、ルーカス家の娘たちや二、三人の士官たちと
いっしょに、しきりに踊っていた妹たちの求めもあってだ
が、むしろすすんでスコットランドとアイルランドの曲を
歌 い 、 一 応 と に か く 賞 賛 と 感 謝 と を う け た 。( 25)
演奏評もさることながら、続く人物評は手加減なしの厳しさで
ある。メアリーへの追及はこれでは終わらず、次のネザフィー
ルドでの舞踏会でも彼女への批判は止むことはない。
「声も弱い
し 、 態 度 も 妙 に わ ざ と ら し い 」( 98) た め 、 こ う し た 場 所 に 向
いていないにも関わらず、いったん歌いだしたメアリーは、場
もわきまえず歌い続け、なんとか止めさせようというエリザベ
スの必死の願いも妹には届かない。妹に恥をかかせまいと父に
頼るものの、ベネット氏の対応は「メアリー、ああ、もうそれ
でけっこう。ほんとうに長いあいだ、よく楽しませてくれたね
ぇ 。 こ ん ど は ほ か の お 嬢 様 方 の 番 だ か ら ね 。」( 98) と い う 冷 淡
なものであった。それを見たエリザベスは父の言い草に驚き、
さぞ傷ついたであろう妹の心情を思いやり、一人悲しむ事にな
る。ここでもメアリーの無作法は姉の思慮深さと対照的に描か
れている。注目すべきは、一見理知が勝って冷たくも見えるエ
リザベスの姉妹愛であろう。冷笑的な対応をする父ベネット氏
とは対照的に妹の受けた痛みに心を寄せるエリザベス、作者の
意図はこの点にあると思われる。正しく、この光景はダーシー
にも強い印象を残し得たようで、彼は手紙でエリザベスが家族
の欠点に心を痛めていることを十分思い遣り、更にその中でも
けなげにも立派に振る舞ったと称賛している。
次に、キャロラインは、悪性の風邪を引いた姉ジェーン・ベ
ネットを看病するためにエリザベスがネザフィールドに逗留中、
- 63 -
二度演奏する。最初の演奏はエリザベスが到着した日の夜であ
る。姉の看病のためにエリザベスが二階へ上がった後、キャロ
ライン姉妹はジェーンを心配する素振りもなく退屈を訴え、二
重奏で気を紛らわす。病に苦しむ姉を思い遣るエリザベスに対
して、利己的で自らの楽しみを追及するビングリー姉妹という
構図が出来上がり、キャロラインの冷たさはエリザベスの優し
さと対照的かつ効果的に表現されている。そして、キャロライ
ンの二度目の演奏は数日後のことである。ダーシーがエリザベ
スとキャロラインに音楽を所望し、断固として固辞したエリザ
ベスに対して、キャロラインは意気揚揚とピアノに向かう。彼
女はまず姉と歌の二重奏を、次には一人でイタリア歌曲や陽気
なスコットランド歌謡を披露する。しかしキャロラインが好意
を抱き、聞いて欲しいと願ったダーシーは彼女の演奏を聴くの
で は な く 、ピ ア ノ の 上 の 楽 譜 を 眺 め る エ リ ザ ベ ス に 視 線 を 注 ぐ 。
さらに皮肉にも、その演奏は初対面でエリザベスに紹介される
ことすら断ったダーシーに彼女にダンスを申し込ませる結果と
なるのである。エリザベスは踊らなかったものの、ダーシーは
以 下 の よ う な 気 持 ち を 抱 く:
「 ダ ー シ ー な ど は 、こ ん な に も 強 く
心を惹きつけられた女は、はじめてだと思った。もし彼女の身
内たちが、あんな低い身分のものでなかったら、こいつはちょ
っ と 警 戒 を 要 す る ぞ 、 と い っ た よ う な 気 持 ち さ え し た 」( 51)。
これを見たキャロラインの敵愾心は煽られ、エリザベスの悪口
を言うことで発散される。最終的にペンバリーのダーシー兄妹
の 前 で 彼 ら の 仇 敵 ジ ョ ー ジ・ウ ィ カ ム の こ と を 口 に し た こ と で 、
意に反してダーシーをますますエリザベスに近付けてしまった。
演奏はせずとも音楽について語る キャサリン・ド・バーグ夫
人も大きな役割を果たしている。 尊大なレディ・キャサリンと
の音楽談義はエリザベスの礼儀正しさを示す格好の機会となる。
夫人は初対面のエリザベスに音楽に関するものを含む多々失礼
な質問を投げかけるが、エリザベスはそれらに耐え、礼儀正し
- 64 -
く答えている。レディ・キャサリンはエリザベスに音楽をする
の か と 尋 ね 、 エ リ ザ ベ ス が「 え え 、 尐 し ば か り 」( 161)と 答 え
ると、
「 じ ゃ 、い つ か 伺 わ せ て い た だ く わ 。わ た し の 家 の ピ ア ノ
はね、とても立派なものですのよ。たぶんまあ―ええ、ぜひ一
度 弾 い て く だ さ ら な い ? 」(161)と 自 家 の 楽 器 の 自 慢 を す る 。後
日、ダーシーとフィッツウィリアム大佐を交えた晩餐会でも、
彼女は談笑している甥とエリザベスの会話に割って入り、以下
のように述べている。
「音楽の話ですって?それならば、もっと大きな声でお話
ししてくださらない?音楽のことなら、わたくしも、なに
より大好きなお話なんですもの。音楽のお話ならば、わた
くしもお仲間入りしなくては。わたくしほどに、ほんとう
に音楽を愛し、生まれつき趣味をもっている人間は、イギ
リスじゅうにもまずいないつもりなんですの。これでちゃ
んとお稽古でもしていれば、ずいぶん名人になっていたろ
うにと思いますのよ。アンだってそうなんですの、健康さ
えゆるしていましたらばね。とてもじょうずになってたろ
う と 、 わ た く し 、 は っ き り そ う 思 っ て ま す の 。」( 169)
その後エリザベスの演奏中も、夫人は自身と娘の音楽の才能を
自慢し続けるが、逆にうんざりしたダーシーはエリザベスの傍
へと移動する。それでもなおレディ・キャサリンはエリザベス
の演奏中に、次のようにダーシーに話しかける。
「[ エ リ ザ ベ ス が ]も っ と お 稽 古 さ え な さ れ ば 、そ し て ロ ン
ドンで先生にでもおつきになれば、もっと完全にお弾けに
なるのにねえ。趣味はアンほどじゃいらっしゃらないにし
ても、運指法はとてもおよろしいんじゃない?それで、あ
の子ですけどもね、健康さえゆるせば、ずいぶん名手にな
- 65 -
っ て た と 思 う ん で す の よ 。」( 171-172)
彼女の批評はエリザベスへの感想に始まるが、後には全てが娘
アンの自慢へと帰結する。それらは丁重に応対するエリザベス
の礼儀正しさ、忍耐強さをひときわ際立たせた。オースティン
は彼女をド・バーグ親娘と対比させることで、 知性や明るさが
強調されがちなエリザベスの、表面に表れにくい謙遜な資質を
極めて巧みに表現するのに成功している。またキャロラインの
場合と同様、娘を引き立たせようというキャサリン夫人の企み
も図らずも却ってダーシーをエリザベスに近づける 結果となっ
ている。
このように、これまで扱った人物の演奏、および音楽談義は
エリザベスの内なる美徳を確実に映し出す役割を果たしている。
しかし、オースティンの演奏に込めた思惑はこれだけではない
と思われる。エリザベスが作中で演奏するのは二度とも「ダー
シーの面前において」である。この二人は互いの自負と偏見か
ら 前 半 で は な か な か 会 話 が 弾 ま ず 、打 ち 解 け る こ と が で き な い 。
エリザベスの演奏は二人の会話を 巧みに促し、双方の愛情を育
むのに大いに役立っていると推測される。前半ではダーシーの
前で二度ピアノを弾き歌うエリザベスであるが、なぜか後半に
なると彼女は演奏しなくなる。それはエリザベスに限ったこと
ではなく、ペンバリーでのジョージアナ・ダーシーへのピアノ
のプレゼント以降音楽に関することは全く描かれていない。唯
一チャールズ・ビングリーがジェーン・ベネットに求婚する際
にメアリーが二階でピアノの練習をしているのみなのだ。これ
はエリザベスの心境の変化に起因 するのではないだろうか。後
半部ではエリザベスとダーシーは互いに出会った当初とは違っ
た心境で接しており、様々な事柄を語り合えるようになってい
る 。バ ブ が 指 摘 し て い る よ う に 、
『 自 負 と 偏 見 』に お け る 演 奏 は
対 話 の 代 替 と な っ て い る の で は な い か ( 140)。
- 66 -
二人の会話を見ると、前半では、ダーシーはエリザベスに好
意を感じながらも、内気な性格の為に彼女に積極的に話しかけ
ることができない。エリザベスは自身の偏見から、親しく交わ
ろうという意思は全くない。前半ではエリザベスとダーシーは
挨拶やプロポーズを含め十回会話をしている。し かしながらそ
のうちの六回はある程度の長さのものであるにもかかわらず、
二回を残して失敗に終わっている。
失敗に終わったものを見ると、まずはジェーンの風邪を看病
するためエリザベスがネザフィールドに滞在中の会話である。
ダーシーがジョージアナに手紙を書いている際、ビングリー、
ダーシー、そしてエリザベスはビングリーの気質から日曜日の
ダーシーの威厳に至るまでの議論を展開する。ビングリーの、
自宅にいるときのダーシーほど怖い人は知らないという言葉に
際して彼は苦笑し、その話題を止めるよう頼む。次の例は、ネ
ザフィールドにおける舞踏会での会話である。ダーシーはエリ
ザベスにダンスを申し込み、その申込みがあまりにも唐突だっ
たため、絶対に彼とは踊らないと豪語していたエリザベスは思
わず承諾してしまう。しかし、エリザベスには会話を楽しもう
という気はさらさらなく、だんまりを決め込むのである。
しばらくは、お互い一言も口もきかずに立っていた。この
分では、二回とも、無言のままで終るかもしれない、と彼
女には思えてきたし、はじめはまたそれで押し通すつもり
だったが、そのうち、突然思いついたことは、むしろなに
かしゃべらせたほうが、かえって相手を苦しめることにな
る の で は な い か 、 と い う こ と だ っ た 。( 89-90)
当然、この後の会話は円滑には進まない。彼女は「もっともあ
る特別な方にはね、なるべくお返事をいただかなくてすむよう
に、話をもっていきますのが、いいのかもしれませんわねえ」
- 67 -
( 90) と も 話 す 。 ダ ー シ ー の 会 話 を 促 そ う と い う あ ら ゆ る 試 み
は彼女の頑強な抵抗にあって失敗に終わる。
その失敗の中でも最悪なのは、ダーシーの求婚である。ダー
シーは、エリザベスの階級が結婚を思いとどまらせようとした
と正直に述べ、ビングリーとジェーンとの間を引き裂いたこと
も認める。これはダーシーの誠実さの表れでもあるのだが、未
だ偏見に凝り固まっているエリザベスにとっては失礼を通り過
ぎ侮辱以外の何物でもない。怒り心頭に発したエリザベスは、
彼の行動を激しくなじるのである。
一方、成功例は次の二例である。最初は、エリザベスとダー
シーが各々の欠点について議論したときであった。彼は一度悪
く思った人間についての意見は決して変わらないという自分の
欠点について正直に打ち明け、彼女はそれを「すると、ダーシ
ーさんの欠点は、ひとりのこらず人間を憎むってことなんです
ね 」( 57) と 冗 談 め か し て 切 り 返 す 。 対 し て 、 ダ ー シ ー は 「 じ
ゃ、ベネットさん、あなたのはですね。ことさら故意に、人の
言 う こ と を 誤 解 す る こ と な ん で す か ね え 」( 57) と に こ や か に
応酬する。このときは退屈し切ったキャロラインがこの会話を
遮りピアノの蓋を開けたため、会話は平和なうちに終わってい
る。
次は、ロージングスでの晩餐会でのことである。話題はダー
シーが最初に登場したときのことに遡る。彼は自分の内気さを
訴えるが、エリザベスはその言い訳を認めようとせず、自分の
指を引き合いに出して遠回しに彼を責め、ダーシーはそんな彼
女の言い分を認めている。
「だって、わたくしのこの指でしょう」と、エリザベス。
とても上手な方のなさるように、自由にピアノの上を動く
とは思いませんわよ。力の点でも、速さの点でも、とても
かないっこありませんし、効果だって、ぜんぜんちがいま
- 68 -
すわ。でも、それはわたしが悪いというもの―つまり、お
稽古をしないからですわねえ。なにもわたしの指そのもの
が、ほかの御上手な方とはちがって、動かない悪い指だな
ん て は 思 い ま せ ん こ と よ 。」
ミ ス タ・ダ ー シ ー は 軽 く ほ ほ え ん だ 。
「重々あなたのおっ
しゃるとおりですよ。つまり、あなたのほうが、時間の使
い方がお上手だったというわけですね。. . . つまり、わた
したちは二人とも、知らない人たちの前では演奏しないと
い う 、 た だ そ れ だ け の こ と じ ゃ あ り ま せ ん ? 」( 171)
これは両者共心穏やかに終わった稀有な例であり、ダーシー
がエリザベスとの共通点を見出していることからも注目に値す
る箇所である。エリザベスが見知らぬ人物の前で演奏するかど
うかはさておき、現に彼女はネザフィールドで演奏して欲しい
という彼の要請を固辞しており、このことを彼は自分との類似
点とみなしているのである。つまり、こ の会話においてエリザ
ベスのピアノのレベルはダーシーの恥ずかしがりやな性格レベ
ルと釣り合っていると思われる。そんなエリザベスの演奏が好
意的に解釈されているところから 、ダーシーのはにかみも好意
的に評されるべきで、高潔な人格の表れであるという伏線にな
っているのではないだろうか。
これらのことより、二人の対話を進めるためには潤滑油のよ
うなものとして音楽が必要であったのではないかと考えること
ができる。実際、音楽なしには会話はスムーズには進んでいな
い。エリザベスとダーシーとは対照的に、ジェーンとビングリ
ーは出会った瞬間から互いに好意を持っていた。ビングリーは
ジェーンのことを「天使といえども、あれほどの美しさは考え
ら れ な い 」( 18) と い う ほ ど 褒 め そ や し 、 ジ ェ ー ン は ビ ン グ リ
ー を 「 理 想 の 青 年 」( 16) と 述 べ 、 互 い に で き る だ け 一 緒 に い
ようとし、会話を交わしている。ド・バーグ夫人の探索から推
- 69 -
測するにジェーンはピアノも歌も嗜まないようであるが、要す
るに彼女は音楽を必要としないのである。
出会った当初こそエリザベスに批判的だったダーシーだが、
徐々に彼女に興味を示すようになる。その最初はルーカス宅で
のパーティーであったが、彼女の演奏を聞いた後、ダーシーは
キャロラインにエリザベスへの好意を仄めかしている。エリザ
ベスの演奏は決して華麗なものではないが、 衒いのない人柄が
滲み出るような気持ちの良い演奏であり、この演奏が ダーシー
にも影響を及ぼしたと見ることができる のではないか。次にエ
リザベスが演奏するのはロージングスでの晩餐会の折にだが、
ここでは演奏しながらその合間に二人にしては珍しく楽しげな
会話を交わしており、お互いにとって楽しい一夜となったこと
が窺える。キャサリン夫人曰くダーシーはアンの婚約者である
が、ここでは彼は全く彼女に関心を払っていない。話しかける
わけでもなく、叔母の賛辞にも耳を傾ける様子もない。アンを
目の前にしたダーシーが注目しているのはひたすらエリザベス
の一挙手一投足であり、アンのことはまるで忘れ去っているか
のようだ。このことからも、ダーシーがアンと結婚する意志の
ないことが読み取れる。この数日後に彼はエリザベスに最初の
プロポーズをしており、彼女の演奏は彼の愛情を強める役割を
果たしたと言えるだろう。
一方、偏見がなくなるまでの、エリザベスのダーシーに対す
る感情は嫌悪感ともみなせるものである。ダーシーが高慢だと
い う の み な ら ず 、「[ エ リ ザ ベ ス は ] ま あ 相 当 じ ゃ あ る が ね え 。
だ が 、 と て も 心 を 動 か さ れ る ほ ど の も ん じ ゃ な い 。」( 13) と い
う彼の言葉を偶然聞いてしまったがためにエリザベスは自尊心
をいたく傷つけられ、そのため彼女はなかなかダーシーへの偏
見から脱け出ることができない。 この悪感情を払拭するのに役
立ったのが彼の兄妹愛である。妹のピアノの上達振りを問う叔
母に対して、彼は愛情深く妹の上達を褒め称え、練習熱心なこ
- 70 -
とを報告する。このことからエリザベスはダーシーを「この人
に も 、や さ し い と こ ろ は あ る の か な 」( 201)と 驚 き を も っ て 眺
める。彼の邸宅ペンバリーを訪れた際にも、ダーシーからジョ
ージアナへのプレゼントであるピアノが到着し、家政監督レイ
ノルズ夫人もダーシーのことを褒めそやし、太鼓判を押してい
る:
「 旦 那 様[ ダ ー シ ー ]と い う 方 は 、い つ も こ う な ん で ご ざ い
ますよ。お嬢様[ジョージアナ]がおよろこびになりそうなこ
と と 申 し ま す と 、す ぐ も う し て お 上 げ に な る ん で ご ざ い ま し て 、
い や だ な ど と お っ し ゃ る こ と は 、決 し て ご ざ い ま せ ん 。」
( 239)。
ダーシーの優しさはエリザベスにとって意外な発見であり、世
にも冷血な人間との悪評を覆すこととなった。こののち彼から
の手紙を読んだエリザベスは、初めて自分の誤解に気付き、自
分の過ちに深く恥じ入る。その後ペンバリーで彼の肖像画を見
た時、彼女はそのモデルへの愛情を感じるようになる。
たしかにそのとき、エリザベスの心には、この絵のモデル
当人に対して、かつてあの深い接触があったころ感じた以
上の、親愛感が湧いた。. . . 絵の中からは、じっと彼の眼
が、彼女の方を見つめている。そのカンヴァスの前に立っ
て い る と 、エ リ ザ ベ ス は 、な に か は じ め て 彼 の 視 線 に 対 し 、
深い感謝の念が湧いてきた。そして、いまさらのように、
彼の行為のあたたかさが思われ、それにしては拙いその現
われ方も、いくらかゆるされるような気がするのだった。
( 240)
このように徐々に距離が縮まりつつある最中、エリザベスは妹
リディア・ベネットと稀代のプレイボーイ、ジョージ・ウィカ
ムが駆け落ちしたとの知らせを聞く。やむを得ずダーシーにそ
の出来事を話した時には、とうとう彼に深い愛情を感じるよう
になっていた。このように、エリザベスがダーシーの妹への思
- 71 -
いやりを知ったことが正しい人物評、そして強い愛情へと変遷
を遂げる基礎となっているのである。
エリザベスがダーシーへの反感を改めて以後、演奏シーンは
描かれず、彼に感謝の念を抱くようになってからは音楽に関す
る描写は一切この作品から消えている。ダーシーは演奏がなく
とも、自らが望む時に彼女を観察し、話しかけることが可能と
なったのである。
2.
様 々 な 役 割 を 担 う エ リ ザ ベ ス の 演 奏 で あ る が 、『 分 別 と 多 感 』
( Sense and Sensibility ) の 主 人 公 マ リ ア ン ・ ダ ッ シ ュ ウ ッ ド
やアンのように“音楽的才能”を認められる水準には達してい
ないように描かれている。オースティンのお気に入りのヒロイ
ンであり内面的にも作者に近い人物として造形されたと考えら
れるエリザベスが、名人芸に至らないのは不思議である。自身
は練習熱心であったにも関わらず、エリザベスの演奏レベルが
一般的であるのはなぜか。当時の音楽教育の変化や、ジェント
リー階級における音楽への意識も参考にしつつ その理由に関し
て探っていくものとする。
オースティンはピアノフォルテを弾くのが好きだったようだ。
幼尐時はウィンチェスター寺院のオルガン奏者であったジョー
ジ・ウィリアム・チャードからピアノを習っていた。彼女の楽
譜は未だチョートンに保存されており、その中には彼女自身の
記譜によるものも多い。オースティンが音楽好きだったことは
親族の回想からも窺え、姪のキャロライン・オースティン
( Caroline Austen)は 叔 母 が 練 習 し て い た こ と を 回 想 録 の 中 で
述べている。
ジェーン叔母は一日を音楽で始めました。叔母には生ま
れつきの趣味があったと思います。彼女はその趣味を持ち
- 72 -
続 け ま し た 、先 生 は い ま せ ん で し た け れ ど 。
(私が聞いたと
こ ろ に よ れ ば )決 し て 人 前 で は 演 奏 し な か っ た そ う で す 。. . .
叔母は朝食を取る前に練習していました。―というのも、
そのときなら叔母自身の部屋があったのです。―毎朝時間
通りに練習していました。―叔母はとてもかわいらしい曲
を奏でたと思います―そして、私は傍に立ってそれを聞く
の が 好 き で し た 。( C. Austen 6-7)
彼女のお気に入りであった甥、ジェームズ・エドワード・オー
ス テ ィ ン = リ ー ( Austen-Leigh ) も 同 様 の こ と を 述 べ て い る 。
ジェイン自身は音楽が好きで、歌う時も会話の時も美しい
声をしていた。. . . 夜は自分でピアノの伴奏をつけて、昔
の簡単な歌をいくつか歌うことがあって、その歌詞や曲は
今では聞かれなくなったが、私の記憶の中には今でも残っ
て い る 。( Austen-Leigh 88) 4
これらの回想からわかるように、オースティンは熱心にピアノ
を練習していたようである。彼女はこの姿勢を、家族内での舞
踏会のために黙々とピアノを弾くアン・エリオットに投影させ
ている。しかし、オースティンは公共の場では一切演奏をしな
かった。ウィリアム・コリンズの口を通して述べられているよ
う に 、 彼 女 に と っ て の 音 楽 と は 「 清 浄 な 楽 し み 」( 99) だ っ た
のだろう。
さ ら に 姉 カ ッ サ ン ド ラ・オ ー ス テ ィ ン 宛 て の 1813 年 1 月 29
日の手紙を読むと、エリザベスはオースティンのお気に入りの
女主人公であったことがうかがえる。
「 . . . 正 直 言 っ て 私[ オ ー
4
本 稿 で の 引 用 は 永 島 計 次 の 翻 訳(『 想 い 出 の ジ ェ イ ン・オ ー ス テ ィ
ン 』 近 代 文 藝 社 、 1992 年 ) を 参 照 し 、 適 宜 変 更 を 加 え た 。 た だ し 、
引 用 の ペ ー ジ 番 号 は 末 尾 に 挙 げ た Oxford UP に よ る 。
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スティン]も、彼女[エリザベス]はこれまで活字になったど
んな人物よりも魅力的だと思いますし、尐なくとも彼女を気に
入 っ て く れ な い 読 者 は 許 せ そ う に な い わ 」( Austen, JA‘s
Letters 201) 5 。 ま た 、 語 り 手 は エ リ ザ ベ ス に 「 わ た し は 、 と
にかく笑うことが大好きなんですのよ。. . . 尐なくとも、よい
もの、かしこいものを、からかいの種にしたおぼえはありませ
んの。正直な話、人間の愚行、くだらなさ、そしてまた気まぐ
れや矛盾などを見ていると、つい面 白くなりましてね。できれ
ば 、 も ち ろ ん 笑 い の 種 に し て や り ま す わ 。」( 56) と 言 わ せ て い
る。さらに、エリザベスの趣味の一つはオースティンと同じく
人 間 観 察 で あ る 。 マ ー ヴ ィ ン ・ マ ド リ ッ ク ( Marvin Mudrick)
が指摘しているように、エリザベスは作者の価値観を体現して
い る 点 も 多 い ( 95)。
そんなエリザベスが音楽に達者であるとされていないのはな
ぜ か 。ま た 、
『 自 負 と 偏 見 』に お い て エ リ ザ ベ ス と ジ ョ ー ジ ア ナ
を除いて音楽を嗜む人物が否定的に描かれているのはなぜであ
ろうか。歌いもせず、ピアノも弾かないジェーンはエリザベス
には务るものの主要人物のひとりであり、良識を備えた女性で
あ る 。善 良 で 正 直 な だ け で な く 、
「 す ぐ れ た 理 知 、そ し て ま た そ
れ に 輪 を か け た 美 し い 人 柄 」( 328)と 謳 わ れ 、ダ ー シ ー を 忌 み
嫌うエリザベスをたしなめ、彼にも悪意は抱かない。もっとも
他の作品でも得てして演奏者は否定的に描かれがちである。こ
の背後にはオースティンの当時の教養としての音楽のあり方を
否定する狙いがあったと思われる。
1789 年 に『 ク ラ ヴ ィ ー ア 教 本 』を 出 版 し た ダ ニ エ ル ・ G・テ
ュルクに言わせると、良い演奏には譜読み・演奏技術が必要で
あり、そして最も重要なのが演奏表現であった。そして良い演
5
本 稿 で の 引 用 は 新 井 潤 美 に よ る 翻 訳(『 ジ ェ イ ン・オ ー ス テ ィ ン の
手 紙 』岩 波 書 店 、2005 年 )を 参 照 し た 。た だ し 、引 用 の ペ ー ジ 番 号
は 末 尾 に 挙 げ た Oxford UP に よ る 。
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奏 表 現 と は 「 1. 演 奏 と 譜 読 み の 技 量 と す で に 習 得 し て い る こ
と・拍節感がたしかであること・通奏低音や、演奏すべき楽曲
そ の も の に つ い て の 知 識 を 有 す る こ と 、2.演 奏 が 明 確 で あ る こ
と 、 3. 支 配 的 な 性 格 を 表 現 す る こ と 、 4. 装 飾 音 や そ の 他 の 手
段 を 有 効 に 用 い る こ と 、5.音 楽 に よ っ て 表 現 さ れ る べ き 感 情 や
情 熱 に た い す る 的 確 な セ ン ス を も つ こ と 」で あ る( 384)。ま た 、
『正しいクラヴィーア奏法』を著したカール・フィリ ップ・エ
マヌエル・バッハは「パッサージュはいくらむずかしくても、
よく練習しさえすればどうにかなるが、それよりもずっと大変
なのは、単純な音符をうまく演奏表現することである。この単
純な音符は、クラヴィーアを実際以上に簡単に考えている多く
の 人 を て こ ず ら せ る 」( 177)と 語 り 、良 い 演 奏 と は「 楽 想 を 歌
ったり演奏したりしてその真の内容とアフェクトを聴衆の耳に
感 じ と ら せ る 技 量 」( 173)で あ る と 定 義 し て い る 。オ ー ス テ ィ
ンの意見はまさにこれらに賛同するものであろう。エリザベス
への評価をみると、自らも認める練習不足から強弱や 速さとい
った演奏技術にはまだまだ改善の余地があったかもしれないが、
彼女の知性で良い演奏表現ができていたのではないだろうか。
また当時の技術には運指法が大きな比重を占めており、これは
高慢なキャサリン夫人も認めるところである。
オースティンの頃は音楽の在り方が変わりつつある時期であ
り、職業ピアニストや音楽学校という制度ができ始めたのがち
ょ う ど こ の 頃 で あ っ た 6 。エ リ ザ ベ ス が ダ ー シ ー を「 一 流 の 演 奏
家ばっかり聞いていらっしゃる」と評したのは、あながちただ
の厭味ではなく、ロンドンにも居住するダーシーならおそらく
商業演奏会での演奏を聴く機会もあったかもしれない。そうし
た機会はなくとも、ある程度のレベルの音楽教育を受けた人々
の演奏は聞いていたのではないか。尐なくとも彼の妹ジョージ
岡 田 暁 生 は 19 世 紀 に お け る 音 楽 を 取 り 巻 く 状 況 の 変 化 が 、音 楽 演
奏 の 美 学 の 変 質 を も た ら し た と 指 摘 し て い る 。( 25-26)
6
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アナはかなりのレベルに達していたのではないかと思われる。
ま た 、 All Things Austen: An Encyclopedia of Austen‘ World の
music の 項 を 見 る と 、 こ の 当 時 ジ ェ ン ト リ ー 階 級 に と っ て 、 音
楽は生活の一部であったことがわかる。娘たちはしばしば家族
の楽しみのために音楽を奏で、同時に自分をより魅力的に見せ
る効果的な手段としても上手に利用した。ある親は娘のために
音楽教師を雇い、またある親は音楽教育の受けられる寄宿学校
に 子 供 を 行 か せ た( 451)。し か し な が ら 、オ ー ス テ ィ ン に と っ
て、音楽は「自ら楽しむためのもの、もしくは家族を楽しませ
るためのもの」であって、見せびらかすべきものではなかった
のではないだろうか。アンのように練習しながら考え事をして
いたのかもしれない。
「 結 婚 相 手 を 探 す た め の 有 効 な 手 段 」な ど
という考え方は賛成出来かねたに違いない。 それゆえ、エリザ
ベスの演奏が高評価であるにもかかわらず、 メアリーの演奏は
ひどく攻撃されているのだろう。
オースティンのこの考え方を忠実に表す場面が『マンスフィ
ー ル ド ・ パ ー ク 』( Mansfield Park ) に あ る 。 何 も 音 楽 に 嗜 み
のないファニー・プライスはハープを奏でるメアリー・クロー
フォド、ピアノを弾き歌うマライア・バートラム、ジュリア・
バートラム姉妹と対照的に描かれている。ファニーは居候であ
るがゆえに音楽は習うことが出来なかったが、非常に堅実であ
る。対して従姉妹やライバルは音楽的な才能はあるものの 、分
別に欠け不誠実であり、さらに節操なき女性である。普段は音
楽が好きなファニーが美しい自然を前に、
「調和ですわ!これが
休息ですわ!絵画や音楽など遠く足元にも及ばず、この描写を
試 み る こ と が で き る の は 詩 だ け で す わ 。一 切 の 気 苦 労 は 静 ま り 、
心は恍惚へと高まります!」
( Mansfield Park 113)と 述 べ て い
る の だ 7 。も ち ろ ん こ の 背 後 に は 魅 惑 的 な ハ ー プ 演 奏 で 従 兄 の エ
7
本 稿 で の 引 用 は 臼 田 昭 に よ る 翻 訳 (『 マ ン ス フ ィ ー ル ド ・ パ ー ク 』
集 英 社 、1978 年 )を 参 照 し た 。た だ し 、引 用 の ペ ー ジ 番 号 は 末 尾 に
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ドマンド・バートラムを誘惑するメアリーへの嫉妬もあると思
われるが、興味深い意見である。オースティンが音楽を好んだ
ことは明らかであり、この部分はオースティンの信条と矛盾す
るからだ。作者がファニーにこう言わせたのは、メアリーのよ
うな見せびらかすための音楽は好ましくないとの意向ではない
だろうか。ファニーは音楽の才はなく、演奏会場にも出かけて
いないため、聞いたことのあるというのは音楽は従兄姉たちも
しくはクローフォド兄妹の演奏のみである。つまり、ここでの
音楽とは音楽全般ではなく、ある特殊な部分を指していると考
えられる。
また、
『 エ マ 』で は ヒ ロ イ ン 、エ マ は ジ ェ ー ン・フ ェ ア フ ァ ッ
クスの上手な演奏を聴いたあと、 自らの下手なピアノや歌を恥
じて練習しているが、エリザベスにはそのようなことは一切な
い。オースティン自身は毎日練習し、姪にも熱心に練習するよ
う勧めているのにも関わらずである。エリザベスは 練習不足を
認めながらも、一切恥じる様子はない。聡明な彼女なら練習の
必要を認めたなら、ピアノの練習に励んだであろう。 つまり彼
女は完璧な演奏の必要性を認めなかったのであ る。見せびらか
すのではなく、自分が楽しむためだからこその姿勢と見ること
もできる。
ちなみに当時広まりつつあった新しい思想に染まっていると
考えられるのがビングリー姉妹である。当然エリザベスとは教
養に関する考え方も違い、キャ ロラインの口を通して語られる
教養とは以下の要素が必要であった。
「そんじょそこいらの教養じゃ、むろんだめ。やはりひと
きわ抜きんでたというんじゃなくちゃ、ほんとうに教養が
あるなんて言えないわ。教養ある女というからには、音楽
挙 げ た Oxford UP に よ る 。
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も歌も絵も踊りも、それからフランス語、ドイツ語なんて
ものまで、完全にできなきゃだめだわ。いいえ、そればっ
かしじゃないの、歩きかたから、声の調子、話しぶり、言
葉づかいといったようなものにまで、なにか、こう、なん
ともいえないあるものがなきゃだめ、教養なんて言葉はと
て も 当 た ら な い わ 。」( 39)
これはオースティンの意図とは反する考え方であり、そのこと
は『エマ』を見ると明らかである。
ミセス・ゴダードは学校の教師だった。神学校や公立学校
ではない。さりとて長ったらしい美辞麗句で新しい原理と
制度に基づき教養と気品の高い道徳を身につけさせる、と
いうのが謳い文句の、途方もない金を取って若い娘の健康
を奪い虚栄心を植えつけるようなところでもない。まじめ
な 本 物 の 古 め か し い 寄 宿 学 校 の 教 師 だ っ た 。( 18) 8
一 方 、ダ ー シ ー は 教 養 の 必 須 条 件 と し て 読 書 を 挙 げ 、
「広く本を
読んで、精神の修養をはかり、なにかちゃんとしっかりしたも
の を 、 持 つ よ う に な ら な く ち ゃ い け な い で し ょ う ね 」( 39) と
述べる。これはどちらかというと精神性に重きを置く、昔なが
らのテュルクの思想に通じるものと思われる。
女性にとって結婚が最重要事項であった時代に、エリザベス
は気に染まぬ相手からの求婚を何の未練もなくきっぱりと断っ
ている。もったいぶったコリンズはさておき、最初のダーシー
のプロポーズさえ例外ではなかった。コリンズですら断られた
後に「今後もう二度と、こういう結婚の申し込みをお受けにな
8
本 稿 で の 引 用 は 工 藤 政 司 に よ る 翻 訳(『 エ マ( 上 )』岩 波 書 店 、2003
年 )を 参 照 し た 。た だ し 、引 用 の ペ ー ジ 番 号 は 末 尾 に 挙 げ た Oxford
UP に よ る 。
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ることが、果たしてあるかどうか。. . . 残念ながら、あなたの
財産分け前はしれたもんでしょうし、おかげであなたの器量も
愛 嬌 も 、 お そ ら く は 台 な し と い う と こ ろ で し ょ う ね 。」( 106)
と当て擦り、ウィカムも引かれるエリザベスから一万ポンドと
いう遺産を相続した他の女性に乗り換えるほど、エリザベスは
財産的には不利な条件のもとにいる。限定相続のためにロング
ボーンは娘たちが継ぐことができず、結婚しなかった場合は住
む家さえなくなる可能性もある。まさにエリザベスにとって、
結 婚 は 死 活 問 題 だ っ た と 言 え る だ ろ う ( 新 井 84)。 一 方 ダ ー シ
ーは高慢ではあるが、
「 背 の 高 い 見 事 な 骨 柄 、と と の っ た 目 鼻 立
ち 、上 品 な 物 腰 、. . . な ん で も 年 収 一 万 ポ ン ド は あ る お 金 持 ち 」
( 12)、 そ の う え 裕 福 な ジ ェ ン ト リ ー 階 級 と い う 理 想 的 な 結 婚
相手である。現実的なシャーロットなどは求婚されればエリザ
ベスも承諾するに違いないと決めてかかっているが、エリザベ
スはそうではなく、それは作者オースティンの姿勢の表明でも
あった。姪のファニー・ナイトにも「愛情のない結婚をするく
らいなら、なんだってそんな結婚よりましだし、我慢できる」
( Austen, JA‘s Letters 280)と 忠 告 し て い る 。実 際 に オ ー ス テ
ィ ン が 一 見 何 の 問 題 も な い 求 婚 者 、 ハ リ ス ・ ビ ッ グ =ウ ィ ザ ー
からの申し込みを断っていることからも、オースティンは実利
よりも自分の感情や愛情を大切にしたと推測される。この姿勢
が体現されているのがまさにエリザベスである。エリザベスが
大切にするのは本質であり、礼儀作法をひたすら守るのではな
い。例えば、ジェーンの看病のためにネザフィールドへ向かう
時も、馬車が使えなければ 6 マイルの道のりをものともせず一
人で歩いていく。母が案じたように到着したと きには泤だらけ
であったが、それほど気にしている様子もない。彼女にとって
の重要事項は大切な姉ジェーンの容態であり、ビングリー姉妹
の評価ではないからだ。このように当時の慣習からひどく逸脱
することはないものの、より重要なものがあると思えば自分の
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心に素直に従うのがエリザベスなのである。人物の判断基準も
当然階級や財産ではなく、本人の人格や教養、礼儀正しさとい
ったものであり、先天的な身分や財産といった強みしか持たな
いレディ・キャサリンに対峙してもひるむことはない。ダーシ
ーと結婚してはいけないという理不尽な要求にも、
「私 は紳士の
娘 で す 」( 337)と 一 歩 も 譲 ら な い 。華 や か な 曲 を 演 奏 し て 必 死
にダーシーの関心を惹こうとするキャロラインとは対極に位置
し、気が進まなければ演奏もしない。それはエリザベスの気に
染まぬ相手とは結婚しないという強い意志にも通じるものを示
唆しているのではないか。
結び
このように『自負と偏見』における音楽はエリザベスとダー
シー双方の真の人となりを浮かび上がらせ、互いの感情をプラ
スに動かすという大きな役割を担っていた。演奏を通じてエリ
ザベスとダーシーを「見るものと見られるものの関係」へと導
き、互いによく知りあうために必要な対話の代替物ともなって
いる。さらに作者オースティンの音楽に対する思想を体現する
役割も果たしていたと言うことができるだろう。エリザベスと
ダーシーは共に欠点もあるが、それぞれが好人物であり、音楽
という舞台装置が彼らにより魅力を与えているように思われる。
ピアノや歌を通じて現れるエリザベスの強さ・謙虚さ、ダーシ
ーの優しさ・思いやりが彼らを相思相愛、結婚、最後は大きな
幸せへと至らせるのだ。新たな思想が世間を席捲していく中、
当時の慣習に逆らったこの思想こそがエリザベスの信念であり、
その演奏に惹かれるダーシーの高邁な精神の証明である。最初
は体面を重んじていたダーシーも、このようなエリザベスに出
会ったからこそ、本人の人格を重んじるように徐々に変わって
いき、最終的には「体面からいっても、儀礼、分別からいって
も 、利 害 関 係 か ら い っ て も 」( 336)困 難 な 結 婚 を 敢 行 す る 。こ
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れはそれだけの品格と強さを合わせ持ったエリザベスだからこ
そ摑み得たハッピーエンドである。
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