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2012/06/07 第 7 回ミクロゼミ アドルノ、ホルクハイマー『啓蒙の弁証法

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2012/06/07 第 7 回ミクロゼミ アドルノ、ホルクハイマー『啓蒙の弁証法
2012/06/07 第 7 回ミクロゼミ
アドルノ、ホルクハイマー『啓蒙の弁証法』①
担当:増田、松井、金友、神谷
[著者紹介]
マックス・ホルクハイマー
Max Horkheimer (1895-1973)
ユダヤ系のドイツ人哲学者。シュトゥットガルトのユダヤ人の
企業主の家に生まれる。ショーペンハウアーの哲学に親しみ、マ
ルクスの資本主義批判と市民文化批判とを融合させた批判理論
を打ち立てた。ナチスの政権掌握後、1934 年、アメリカに亡命。
コロンビア大学で教鞭を執った。亡命先のカリフォルニアにて、
同僚であるアドルノとともに本著『啓蒙の弁証法』を著す。ホル
クハイマーは、祖国ドイツから吹き荒れるナチスとスターリン主
義、そして亡命先であるアメリカの文化産業に失望しつつ本著を書きあげた。第二次世界
大戦後の 1949 年、フランクフルト大学に戻り、同大学の学長も務めた。彼が総帥をつとめ
たフランクフルト学派第一世代には、アドルノやエーリッヒ・フロム、第二世代にはユル
ゲン・ハーバーマスが所属する。主著に『権威と家族』(1936)、
『批判的社会理論』(1937)、
『批判的理論の論理学』(1937)があげられる。
テオドール・W・アドルノ Theodor Ludwig Adorno Wiesengrund
(1903-1969)
ドイツの哲学者・社会学者であり美学者。豊かなワイン商であった
ユダヤ系の父とコルシカ系の歌手であった母との間にフランクフル
トに生まれる。子供の頃から音楽を学び、音楽雑誌の編集・批評活動
に従事するが、プロテスタント神学者のティリッヒにキェルケゴール
に関する教授資格論文を出し、1931 年にフランクフルト大学の講師
となる。かねてから交友のあったホルクハイマーが指導する社会研究
所と深いかかわりをもつようになる。1930 年前半にナチスが政権を掌握し、世界が第二次
世界大戦に向かう中、イギリスのオクスフォードに亡命する。1938 年に渡米したが、ナチ
スの台頭によってコロンビア大学に仮寓していた社会研究所が閉鎖され、その後ホルクハ
イマーと隠棲する。このとき、本著『啓蒙の弁証法』(1947)が共作された。1950 年以降ド
イツに帰国し、フランクフルト大学の社会研究所の発展に努め、フランクフルト学派の最
盛期を築いた。主著に『音楽社会学序説』(1962)、
『否定弁証法』(1966)、遺著『美の理論』
(1971)などがあげられる。
(参考文献:
『岩波哲学思想辞典』、Wikipedia)
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2012/06/07 第 7 回ミクロゼミ
アドルノ、ホルクハイマー『啓蒙の弁証法』①
担当:増田、松井、金友、神谷
問 1 神話における主体的、客体的の状態の違いを、キーワードを用いて説明せよ。
<キーワード:呪術師、マナ>
[引用]
p.25f: 重要なのは、人間によって真理と呼ばれる満足感ではなく、
「操作」であり、役に立
つ働きである。
p.28: 古来、啓蒙が神話の基礎をなすと考えてきたのは自然を人間になぞらえる見方であり、
主体の自然への投影であった。超自然的なもの、精霊やデーモンたちは、自然的なものに
おびえる人間の鏡像だというわけである。
p.30: 神話とは、報告し、名付け、起源を言おうとするものであった。しかしそれとともに
神話は、叙述し、確認し、説明を与えようとした。この傾向は神話が文字によって記録さ
れ、収集されることによって強化された。
同上: 神話は啓蒙へと移行し、自然は単なる客体となる。人間は、自己の力の増大をはかる
ために、彼らが力を行使するものからの疎外という代価を支払う。
p.31: 地方的な神霊やデーモンたちに代わって、天と、それを頂点とする階層秩序が登場し
ていたし、呪術的な部族が行う悪魔祓いに代わって、詳しく格式づけられた犠牲の方式と、
命令の下に統制された奴隷の労働が生まれていた。
p.32: …罪なき者が彼の所行の償いをしなければならない。すべてを捧げて服従する者だけ
が、神々の前で生き延びることができる。主体の覚醒は一切の関係の原理として、権力を
承認することによって購われる。…人間が神の似姿であるとする神人同形説は、現存在を
統率する主権、支配者のまなざし、命令権のうちに成り立つ。
p.34: 身代わりにされるものがおびる…さし代えのきかないものとなる。これに対してとど
めをさすのは科学である。科学のうちには、特定のものとの身代わりの可能性は存在しな
い。そこには、犠牲にされる獣はあるにしても、しょせんいかなる神も存在しない。
同上: 呪術は科学と同じく目的を志向しはするが、その目的追求の仕方は模倣を通じてであ
って、客体との距離を拡げていくことによってではない。
p.36: 太陽を頂点とする家父長的な神話は、言語によって組織立てられた総体であり、そこ
に含まれている真理欲求によって、古くからの神話的信仰や民族宗教はその地位から引き
下げられることになるのだが、…哲学的啓蒙に匹敵することができる。
p.41f: 世界を征服することで秩序と服従とを学んだ自己は、すぐさま真理一般と区別的思
考とを―それの果たす区別が真理の不可欠の要素をなしているとはいえ―同一視してしま
った。
p.41: マナとは、もともとの未分化の形では、あらゆる見知らぬもの、異様なもの、つまり
経験の範囲を超えているもの、これまで知られていた事物のあり方を超えているものの総
称である。
p.42: 心理主義が主張するように心が自然の中へ移入されるのではない。活動する霊として
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のマナは、投影ではなく、自然の持つ現実的な優越した力が、未開人の無力感のうちへ呼
び起こす反響なのである。…主体と客体との分離でさえここに基盤を持っている。…同一
のものでありながら同一のものではない、という矛盾が語られている。
p.43: シャーマンは危険なものを祓うためにその像にまじないをかける。等式が彼らの手段
である。
p.45: 前には物神的なものは等式の法則の下に立っていた。今や等式そのものが物神として
崇められる。
[解答]
もともと人間は自然に対して隷従していた。そこにはまだ主体と客体の関係は存在して
いなかった。人々はそのような自然をマナと名付けた。このマナの概念こそが最初の原始
的神話である。そして人間が超越的であるマナにたいして驚きをもつことによって、アニ
ミズムという自然への投影を行い、主体と客体という関係性を生み出した。それはシャー
マンがマナとの同一化を行うことである。マナとの同一化とは自然の持つ人間にとって脅
威となる力が、合理的に自然を解明することのできなかった人々の無力感のうちへ呼び起
こす抵抗の手段である。つまりシャーマンがマナの持つ自然の超越的な力を使い、自然と
同化し、自然の恐怖に打ち勝とうとしたのである。この手段は主体と客体との分離を分け
る基盤となった、つまり主体という存在が生まれ、自然との客体の距離を生みだしたので
ある。このことによりマナを語るという等式が生まれ、家父長的な神話と主体と客体の分
離の距離を作り出す最初の要因になったのである。
そしてそれから人間は呪術を用いて自然を客体的側面においたのである。呪術とはシャ
ーマンが等式を用い自然に対して抵抗していた部分を儀式のような形式を行うことによっ
て、人間を神の似姿とし、生贄を捧げるような儀式的方法を用いて自然を操作しようとす
ることである。呪術師は人間を自然から疎外させることを試みることにより、この呪術的
な自己の力を増大させ、命令の下の労働を生み出したのである。このような呪術的傾向は
マナを語るという行為を、生贄を捧げるといった等式に組み替えることによってさらに強
化される。また呪術師が模倣を用いて人々に対し自然を操作できると思い込ませることか
ら自然への服従ではなく呪術師への崇拝へと変化させた。このことが自然を客体化する要
因となった。
そしてこれらの流れから自然と人間の距離を大きく引き離したのは科学である。この科
学が人間の自然への意識を完全に客体化した要因なのである。科学は呪術的性格を持ちあ
わせているが、自然に対する完全な支配を象徴するものであり、ここに新たな神話に見ら
れた神聖さや特別性は一切見られない。このことは自然を支配することですべてを理解で
きるという秩序とあきらめざるを得ない状況への服従とを学んだ自己は、すぐさま真理一
般と区別的思考とを同一にみた。その結果、自然を等式として扱う区別的思考によって、
人間はもはや等式こそが神であるとした。
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担当:増田、松井、金友、神谷
これらのことから主体と客体は人間が自然をマナとして見ることにより生まれた人間と
自然の関係である。主体とは人間が自らの姿を自然に投影することにより生まれ、自然そ
のものを神として見ている状態である。一方で、客体とはこの主体を人間が呪術的な儀式
を行い語ることによって自然を操作しようとし、家父長的な神話を創り、科学や完全な等
式によって人間と自然の距離を大きく引き離した状態である。つまり人間を自然から疎外
させることにより、自己の力を増幅させ、完全に自然を客体とし支配しているのだ。
問 2 「啓蒙された世界では、神話は世俗的領域に入り込んでいく」(p.63 引用)とあるが、
これはどういうことか。序文(pp.7-20)も参照にしつつ説明せよ。
[引用]
p.11f: 技術主義的に教育された大衆がいかなる専制主義の魔力にも進んでのめりこんでい
ったという謎に充ちた事実のうちに、民主主義的な偏執狂への大衆の自己破壊的な雷同の
うちに、またあらゆる不可解な不条理のうちに、現代の理論的知性の持つ薄弱さが明るみ
に出る。
p.12: すなわち、啓蒙が神話へと逆行していく原因は、ことされに逆行することを目的とし
て考え出された、国家主義的、異教的等々の近代的神話のもとに求められるべきではなく、
むしろ真理に直面する恐怖に立ちすくんでいる啓蒙そのものの内に求められなければなら
ない、ということである。
p.23: 神話を解体し、知識によって空想の権威を失墜させることこそ、啓蒙の意図したこと
であった。
p.28: 古来、啓蒙が神話の基礎をなすと考えられてきたのは自然を人間になぞらえる見方で
あり、主体の自然への投影であった。超自然的なもの、精霊やデーモンたちは、自然的な
ものにおびえる人間の鏡像だというわけである。
p.45: 神話は、呪術的儀礼と同じように、反復する自然を念頭に置いている。この反復する
自然が、象徴的なものの核心である。つまりそれは存在の一つの状態であり、あるいは象
徴の具現としてつねに繰り返し生起するものであるが故に、永遠と思いなされるような一
つの成り行きである。
p.46: オリュムポスの醜聞のはにかみがちのヴェールの下で、すでに諸原素の混交、圧迫と
衝突の教説が形成されていたが、それはすぐに、科学としての自己の歩みを確立し、さま
ざまの神話をたんなる幻想的映像にしてしまった。
同上: 記号としての言葉は学問に近づく一方、響きとしての、形象としての、本来の言葉と
しての言葉は、さまざまの芸術の下に配分される。
同上 f: 記号としては、言語は、自然を認識するために計算に従事することに甘んじ、自然
と相似のものであるという要求を取り下げなければならない。形象としては、言語は、自
然そのままになりきるために、模像であることに甘んじ、自然を認識するという要求を取
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り下げなければならない。
p.58: よく考え抜かれた数学化された世界と、真理とが同一化されることを先取りして、啓
蒙は神話的なものの復帰の前にも安穏としていられる。啓蒙は思考と数字とを同一視する。
それによって数学は、いわば解放され、絶対的審級に祭り上げられる。…ガリレオによる
自然の数字化においては、ところで、自然そのものが新しい数学の指導の下に理念化され
る。自然は-近代的表現によれば-それ自身、数学的多様性になる。
p.61f: つまりあらゆる存在者を論理的形式主義の下へ従属させることは、直接に目の前に
あるものへの、理性の従順な服従によって購われる。目の前にあるものを、そのものとし
て概念的に把握すること、それに基づいて所与を把握することだけでなく、むしろ逆にそ
れらの諸関係を表面的なものとして、つまり社会的、歴史的、人間的意味が展開されて初
めて自己を充実する媒介された概念の諸契機として、考えること、-こういう認識の持つ
要求は棄てられてしまう。
p.62: 思考機械が、存在するものを自らに隷属させればさせるほど、それだけ思考機械は、
盲目的に存在者の再生産という分に安んじるようになる。それとともに啓蒙は、しょせん
逃れるべくもない神話へと逆転する。なぜなら神話はもともと、さまざまの形態をとって、
現存するものの本質、つまり世界の循環や運命や心配を、真理の姿として映し出し、希望
を断念していたからである。
[解答]
まず、啓蒙された世界とは、人間が自然の中で起こるあらゆることを科学によって説明
する世界のことで、かつて人間はその説明を神話によって行ってきた。このように人間は、
科学によってまた神話によって、自然の中で起こることを意味づけし、わからないことへ
の恐怖を克服しようとしてきた。
かつて人間が神話によって自然の中で起こることを意味づけながら生きていたころ、人
間にとって神話は毎回それには自然を説明するのに意味を持った物語であった。それはソ
フィーの神話の章に出てきた話を例にあげるとトールとトロールの「季節の神話」である。
その頃の人にとっては雷が鳴ったり、雨が降ったり、植物や穀物が芽吹くのは、トールの
槌であり、豊穣の女神が訪れることであった。そして植物や穀物が枯れ、実らない冬の時
期を説明するのにトロールによって槌が奪われ、豊穣の女神が人質とされるためであると
説明した。
しかし、啓蒙の世界においてそれは、季節の移り変わりとして、科学によって説明され、
季節が変わり、雨が降ったりすることは地球の公転や、大気の水蒸気や気圧配置といった
もので説明される。こと啓蒙の世界において、かつてこの季節の移り代わりを説明した神
話は、その季節の移り変わりを説明するという機能を失ってしまう。そしてその神話はた
んなる幻想的映像となってしまうのである。そしてそれは毎年の季節の移り変わりを説明
する神話のように、毎回その物語が意味を持つということもない。つまりこのことは全て
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のものを記号として説明しようとする数学的思考による実証主義の考え方によるものであ
る。この数学的思考による実証主義というのは、すべてのものを記号としての言葉として
言い表そうとするものであり、それにはその現象を言い表す手段として言葉は持つが、そ
の意味としての内容はもたない。ここに意味の空洞化が生じることを指摘している。この
ことをトールとトロールの「季節の神話」において説明すると、啓蒙された世界としての
実証主義以前では、この季節の神話はこの物語が季節の移り変わりを説明する意味を持っ
た物語であった。このときには、物語の中で語られている言葉は、その言葉とその言葉の
意味にはずれがなかった。しかし、啓蒙の世界においてこの物語は、この物語が語る言葉
は季節の移り変わりを説明するものではなくなり、単なる文字の羅列となってしまった。
つまり、ここではトロールがトールの槌を奪ったことも、豊穣の女神を人質にとったこと
も、その言葉の意味以上のことを表すことはなく、季節の移り変わりは地球の公転や、大
気中の水蒸気などで説明される。こうして、言葉とその意味内容との間の空洞化が起こる
のである。この意味でこの神話は啓蒙の世界においては単なる一つの物語であり、それは
それを読んだ時の一回限りのものとなってしまうのである。
問 3 「支配の強制の下に、人間の労働は、昔からの神話の外に連れ出されながらも、
支配の下で、再び神話の圏内に引き込まれるのが常であった」(p.71 引用)とあるが、
これはどういうことか。本著の『オデュッセイア』の例と別紙資料も参照にしつつ、
啓蒙と現代の社会構造を照らし合わせて説明せよ。
[引用]
p.69: 動物的であれ、純粋に自然的な存在は、文明にとって絶対的危険となった。ミメーシ
ス的、神話的、形而上学的な態度行動様式は、それぞれ次々に克服されてきた時代と考え
られ、そこへ後戻りすることには、まるで自己があのただたんなる自然そのままへ、つま
り筆舌に尽くしがたい恐れを自己のうちに引き起こすあの自然状態へ、再び引き戻される
恐怖が付きまとっていた。
p.69f: 命令を下す少数者は、全体の生活を、彼自身を保存するための諸要求に従わせるこ
とによって、自己自身の安全とともに、また全体の存続をも保障する。
p.74: 彼が知る脱出の可能性は二つしかない。その一つを彼は同行者たちに指令する。彼の
命令で耳を蠟で塞がれた同行者たちは、渾身の力をふりしぼって船を漕がなければならな
い。
同上: 労働する者たちは、生き生きと脇目もふらずに前方を見つめ、傍に何が起ころうとも
構ってはならない。脇道に逸れようとする衝動を、彼らは歯を食いしばって、いっそうの
奮励努力へと昇華しなければならない。こうしてこそ彼らは実用に耐えるものとなる。――
もう一つの可能性を選ぶのは、自分のために他人を労働させる領主としてのオデュッセウ
ス自身である。
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アドルノ、ホルクハイマー『啓蒙の弁証法』①
担当:増田、松井、金友、神谷
p.75: 文化財と命令されて行われる労働とは、相互に密接な関連を持っている。そしてこの
両者の基礎にあるのは、自然に対する社会的支配への逃げることのできない強制力である。
同上 f: セイレーンたちを眼の前にして、オデュッセウスの船上で繰り広げられた一連の措
置は、啓蒙の弁証法の予感にみちたアレゴリーを表している。
p.77: 人類の熟練と知識とは分業によって分化してきたが、その人類は同時に、人間学的に
は、より原始的な段階へと押し戻される。なぜなら支配の持続は、生活が技術によって楽
になってくる一方、より強い抑圧によって本能の硬直を惹き起こすからである。
p.78: 被支配者たちの未成熟を喰いものにして、社会は爛熟の生を営む。生産体制が長年彼
らの肉体をその操作に同調させてきた社会、経済、科学の機構が、ますます複雑微妙にな
るにつれて、それだけ肉体がなしうる体験は貧しいものになっていく。質を消去してそれ
を昨日へ換算する傾向は、合理化された労働様式を通じて科学から一般大衆の経験世界へ
と伝染し、その世界を再び山椒魚の世界同様のものに退化させる。
<オデュッセイア 12 巻より>
p.644: 不死である神様方にさえ譲歩しないというのですか。スキュルレーは決して人間で
はなく、不死の害悪なのですよ。恐ろしく厄介で荒々しくしかも戦っても負かせない。ま
ったくどうにも仕様のない者で、その手元から逃げ出すのが一番の上策なのです。
p.447: その間にもスキュルレーが、なかのうつろな船から六人の仲間をさらっていった、
その人達は腕力でも一番すぐれた者たちだったのです。
同上: あなたは力もひとに優れ、手足の疲れもご存じなしで、いかにも体がすっかり鉄で出
来ておいでかもしれません、それで仲間どもが、もう疲れと眠たさでやり切れないでいる
のを、陸へも上がらせてくれないのですね。
[解答]
『オデュッセイア』の中で、オデュッセウスは、何人もの船員を犠牲にし、その船員に
労働をさせることによって、海を生きて渡ることを可能にしていった。この神話の中では、
セイレーンという女神が歌う甘美な声を聴くと、生きてその海を抜けることはできないと
されている。しかしオデュッセウスは生きて“海を抜ける”という“労働”を他の船員に行わせ
ることによって、自分自身はセイレーンの歌声を聞き、さらには生きて海を抜けることに
も成功したのだ。
自分が生きるために必要なことを他人にさせ、自分は生き残り、そして未知であったも
のについて、(『オデュッセイア』の中ではセイレーンが示す、過去の一切のこと)唯一知る
存在となっていくことは、現代の社会構造においても、同じことが言えるであろう。少数
者である主となる者は、他の労働者を支配し、命令を下すことによって、労働者を働かせ
る。この時労働者は一所懸命に働かなければならず、傍で何が起ころうとも、生き抜くた
めに必死に労働し続け、他のことを気にする余裕すら与えられないのである。この支配す
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る者と支配されるものとの関係は、現代の社会構造において必要不可欠である。さらに支
配する者は、自らの生命維持のための労働を、被支配者に任せているために、この被支配
者の存在なしには生きることができないのだ。
労働者に生きるための労働を行わせ、主は楽な生活を送ることによって、主自身は退化
していった。労働を減らし、より楽な生活を得ようとする人間の働きは、技術によって可
能となり、その技術は進歩し続け、多くの人がその恩恵を享受するようになった。しかし
人間の肉体による体験は減り、そのもののメカニズムを理解しないままに、高度化した技
術をただ使い、楽な生活を続けることで、人間自身は考える機会が減り、生存能力も低下
し、人間学的な退化の道へと進んでいるのだ。
そもそも、人間は自然的な存在を危険因子と見なしており、支配するか支配されるか、
という関係でしか、存在できないと考えた。そしてその自然を克服するために作られたの
が神話であった。しかし人間は、自然的なものから逃れるため、生命維持に必要とされる
過酷な労働から逃れるために、技術を発展させていったが、その人間自身が作り出した技
術という束縛の中でしか生きられず、自らを退化させる世界を作り続けているのである。
問 4 序文から第一章のすべてを踏まえたうえで、啓蒙と神話の関係について述べよ。
[引用]
p.23: 啓蒙のプログラムは、世界を呪術から解放することであった。神話を解体し、知識に
よって空想の権威を失墜させることこそ、啓蒙の意図したことであった。
p.24: 彼(ベーコン)が志した人間悟性と諸事物の本性との幸福な結婚は家父長的である。つ
まり迷信に打ち克つ悟性が、呪術から解放された自然を支配しなければならない。
p.26: 近代科学への途上で、人間は意味というものを断念した。人間は概念を公式に、原因
を法則と確率にとりかえる。
p.30: 啓蒙にとっては、数へ、結局は一へと帰着しないものは仮象と見なされる。
同上: 啓蒙によって犠牲にされたさまざまの神話は、それ自体すでに、啓蒙自身が造り出し
たものであった。
p.32: 神話は啓蒙へと移行し、自然はたんなる客体となる。
p.36: 太陽を頂点とする家父長的な神話は、言語によって組織立てられた総体であり、そこ
に含まれている真理要求によって、古くからの神話的信仰や民族宗教はその地位から引き
下ろされることになるのだが、こういうものとして、神話はそれ自身啓蒙であり、優に哲
学的啓蒙に匹敵することができる。
p.38: 啓蒙は通約しきれないものを切り捨てる。たんに思考のうちで質的なものが消失する
だけでなく、人間は否応なく現実に画一化されていく。
p.39: 自然を破壊することによって自然の強制力を打破しようとする試みは、いずれもいっ
そう深く自然の強制力の中に落ち込んでいくだけである。
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p.42: 見慣れないものを経験する驚きの叫びが、そのものの名前となる。この名前が既知の
ものに対する未知のものの超越を定着し、畏怖を聖なるものとして固着させる。
p.43: 人間が恐怖から免れていると思えるのは、もはや未知のいかなるものも存在しないと
思う時である。これが非神話化ないし啓蒙の進む道を規定している。こうして神話が生命
なきものを生命あるものと同一視したように、啓蒙は生命あるものを生命なきものと同一
視する。啓蒙はラディカルになった神話的不安である。
p.62: 思考機械が、存在するものを自らに隷属させればさせるほど、それだけ思考機械は、
盲目的に存在者の再生産という分に安んじるようになる。それとともに啓蒙は、しょせん
逃れるべくもない神話へと逆転する。なぜなら神話はもともと、さまざまの形態をとって
現存するものの本質、つまり世界の循環や運命や支配を、真理の姿として映し出し、希望
を断念していたからである。
p.71: 啓蒙の本質は二者択一であり、択一の不可避性は支配の不可避性である。人間はこれ
までいつも、自然の下へ従属するか、それとも自己の下へ自然を従属させるか、その間で
選択しなければならなかった。
p.83: 人間が思考によって自然から距離をとるのは、自然を支配することができるように、
自然を自分の前に引き据えるためである。
p.86f: 啓蒙はすべての個別的なものを自己の制御下に置くことによって、事物に対する支
配として逆に人間の存在や意識にはねかえってくる自由を、概念的には捉えがたい全体の
手に譲りわたしてしまった。
[解答]
古来より、人間は周囲の物に意味づけ、人間なりに理解できる形で世界を捉えようと努
めてきた。古来のオリュンポスの神々のように、人間は神話という形で、自分たちを取り
巻く自然と親しもうとした。問一で述べられたように、最初の神話的なものは、自然と人
間が未分化の状態で生まれた。人びとは未知の経験に対して驚き、その叫びをそのものの
名前として与えた。マナ的神話において、人びとは現実のものにマナの宿る場として概念
を付与した。ここに主体と客体の分離が始まったのである。マナ的神話関係において、人
間は自然の内に存在するものとして一種の共生関係を結ぼうとしていた。それは、人間の
力をはるかに超越した自然に畏怖の念を持ち、そのような自然に人間の生活の平安を頼む
ことであり、主体と客体の分離はこの畏怖の念によって最小限度に押さえつけられていた。
しかし、人間は次第に自然のあるがままの姿、既成の秩序を自分たちの支配下における
真理の姿としてとらえるようになった。それは、呪術師がマナにお願いして自然の力で雨
を降らせてもらったような関係を脱し、もはや呪術師が自然を操作して雨を降らせるかの
ような、支配関係を現していた。そこに現れる神々は、もはや人間と未分化のマナでなく、
完全に分離した客体であり、このように分離した客体について語ることで、人間はその客
体に対して支配権を確立することとなった。これこそが、神話が啓蒙から生まれたことを
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アドルノ、ホルクハイマー『啓蒙の弁証法』①
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指すのである。物語る者が支配者となる、このような家父長的神話は、支配対象として自
然を人間の眼前に引き据える啓蒙から派生しているのである。
啓蒙に駆逐される以前の、上記のような神話は同語反復的であり、つねに同じ内容が過
去から未来まで繰り返される。すなわち自然の永遠の循環を予見していた。人間に死の不
安をもたらす冬の到来は、春の女神の略奪として人びとに毎年怖れを抱かせる。このよう
な恐怖から逃れるために、人間は、自分たちが自然の中に見出した神々を、自分たちとは
異なるもの、客体化された自然であるとして世界を捉えはじめた。それは、この世界、自
然を、知をもって蹂躙し、人間の支配下に置くことによって、自然の脅威から逃れようと
考えたためである。啓蒙は、神話を解体し、知識によって世界を統一した。それは、ユニ
ークな人間の主体性を自然に投影するのをやめ、世界を意味づけることを放棄した代りに、
数を基準として世界を画一的に把握することを意味した。啓蒙によって、人間は自然を支
配の対象とし、啓蒙による知の力によって、自然の恐怖を克服したのである。マナ的神話
において共生した自然と人間は、もはや従属するか、従属させるかの二者択一的な選択の
相手となってしまった。啓蒙が家父長的神話を生み出したにも拘わらず、神話は啓蒙によ
って解体されつくされたのである。
人間が自然を客体として眺め、支配対象と考えることが定着し、近現代の啓蒙が頂点に
達したと思われたとき、啓蒙はその達成故に自己崩壊を起こし、神話に退化する。なぜな
ら、人間の本性上、自然は人間の存在から引き離そうとも引き離しきれないものであるた
めである。また、啓蒙によって合理化を推し進めた結果が、人間の上に降り注ぐ。人間は
永遠の自然の中で、唯一死すべき存在であることを特質づけられているのである。神話が
語られていた時代、人間は、自然の円環の中で生と死を明確に意識付けて生きることがで
きた。しかし、死すべきものとしての人間が、自然の支配、はたまた同じ人間同士を支配
対象と位置付け、それらから主体と客体を明確に分離させようとすると、自己分裂が引き
起こされる。神話を合理化によって解体しつくし、この世界における支配の地位と自由を
手に入れた人間は、その地位と自由とによってみずからの運命や希望を断念することとな
った。すべてを支配対象に引き据え、蹂躙しつくすために生み出された技術によって、世
界の関係は人間に従属させられた。このような技術によって引き起こされた破壊を、より
先進的とされる技術によってくいとめようとすればするほど、啓蒙はますます自己矛盾に
陥ることとなる。そこには、すべてを支配対象にしてしまう家父長的神話が再び立ち現れ
る。ここに、啓蒙が頂点に達すると同時に、啓蒙の神話への退行が現われることとなるの
である。啓蒙の光によって世界を遍く照らすことになったと同時に、深い闇が立ち現れ、
人間を野蛮状態に退行させることとなった。これこそが、本著で述べられている啓蒙の弁
証法なのである。
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