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エルンスト・カッシーラーによる啓蒙主義の再評価 国際協力専門員 吉田
国際協力専門員便り No.270(2007.12) エルンスト・カッシーラーによる啓蒙主義の再評価 鶏ノート(その5) 国際協力専門員 吉田充夫 エルンスト・カッシーラー(Ernst Cassirer, 1874-1945)は、ドイツ・ハンブルグ大学 教授で新カント派の哲学者として知られ、20 世紀前半期に認識論、科学論、文化哲学の分 野で多数の業績をあげた。最近では、「人間-シンボルを操るもの」(宮城音弥訳)が岩波 文庫にて復刊されるなど、根強い関心が持たれている哲学者である。このカッシーラーの 1932 年の著書に Die Philosphie der Aufclärung (「啓蒙主義の哲学」中野好之訳・ちくま学芸文庫1) と題する「啓蒙」 (Aufclärung)に関する論文がある。 この書が上梓された翌 1933 年、ナチスが政権を全面 的に掌握し、カッシーラーはユダヤ系であるが故に ドイツを追われて、英国に亡命、ついでスウェーデ ンに逃れ、オクスフォード、ウプサラ、イェール、 コロンビアの各大学で教鞭をとるなどして研究を続 けたが、第二次世界大戦の終結する 1945 年に米国プ リンストンでその生涯を閉じた。亡命後再び母国ド イツに帰ることはなく、よって、本書はカッシーラ ーのドイツにおける最後の著作の一つと数えられる。 時期的には前回紹介したホルクハイマーとアドルノ の「啓蒙の弁証法」にやや先立つが、等しくファシズ エルンスト・カッシーラー www.memo.fr/Media/Cassirer.jpg ムに向かう時代背景にあった。 啓蒙主義とは何だったのか? 19 世紀以降当時にいたるまで、欧州世界では「近代」に対する懐疑や批判が多く出され、 その哲学的基礎というべき「啓蒙主義思想」についても、 「浅薄な過去の思想」との世評を うけていた。これに対して、カッシーラーはヨーロッパ 18 世紀に興隆した啓蒙主義思想を その思考形式に焦点を当て、科学、心理学、認識論、宗教、歴史、法、国家、美学におい て検討し、再評価を行った。 カッシーラーのこの再評価の本領は、特定な個々の教説や公理・定理といった哲学的内 容に眼を向けるよりも、むしろ、その思考活動の過程や形態や作用に注目し、 product-oriented よりも process-oriented のアプローチを採用したことにある。思うに、 1 2003 年に刊行されるも現在では残念ながら絶版となっており、プレミア付き古書籍として入手可。復 刊が待たれる。 国際協力専門員便り No.270(2007.12) 啓蒙思想のように、人間の理性による進歩や発展を目指すという思想活動では、物事の捉 え方や取り組み方が動的であり、その評価を行うに当たっても、結果よりもプロセス重視 となるのは必然的である。(同様にわれわれが今日取り組んでいる Capacity Development ) 支援においても然りであり、process-oriented の観点が必要となるのではないか2。 ともあれ、本書の序文でカッシーラーは次のように述べている。『理性と科学を「人間の 最高の力」とみなして尊んだこの世紀は、今日のわれわれ自身にとっても、過去の失われ た遺物であってはならない。われわれはこの時代をそのあるがままの姿で見るばかりでな く、この形状を生み出し形成した根元的な力をもう一度発揮させる工夫をしなければなら ない。』この問題意識は、他のあらゆる相違点を脇に置くとしても、これまでみてきた、ホ ルクハイマーとアドルノの「啓蒙の弁証法」での理性の自己批判能力、ハーバーマスの「未 完のプロジェクト」において問いかけられたモデルネの課題意識、と共通する観点がある と思う。以下では、カッシーラーにおいて再評価が試みられた「啓蒙主義哲学」について 概観してみたい。 体系的であること 「啓蒙主義」の思考形式の基本的な特徴は、「自ら考えよ」というカントの「啓蒙」 (Aufclärung)3に即して、人間の理性による自由な思考に絶対的な根拠を置き、出来合い の与えられた「体系」、つまり旧来の教条や宗教神学を無批判に模倣することをあくまで拒 否するところにある。しかしこれらの教条や神学の持っている「体系的」であるという側 面は、実は受け継いで いるのだ、とカッシー ラーは述べる。 『啓蒙主 義は哲学的認識の在来 の形式である形而上学 的体系の形式を破壊す ることから始めた。も はや啓蒙主義は「体系 の精神」の権能と有効 性を信じてはいなかっ た。啓蒙主義はこれを 哲学的理性の強みでは なくて、むしろその束 2 JICA 国際協力総合研修所(2005)「開発途上国廃棄物管理分野のキャパシティディベロップメント支援の ために-社会全体の廃棄物管理能力の向上を目指して」第 5 章に述べたので関心のある向きは参照された い。 3 「啓蒙(Aufclärung) 」の意味については、通常日本語で用いる「啓蒙」の語の示す意味とは異なる。詳 細については「鶏ノート(その2) 」参照。 国際協力専門員便り No.270(2007.12) 縛であり障害であると見てとった。だが啓蒙主義はこの「体系の精神(esprit de système)」 を断念しそれを意識的に退けはしたけれども、決して「体系的な精神(esprit systèmatique)」 を捨て去ったわけではない。むしろ啓蒙主義は、新しい、もっと効果的なやりかたで、こ の精神を発揮し強化しようと試みる。』つまり、体系のために体系を盲信するというドグマ (「体系の精神」)は排するが、「体系的」な考え方までを棄てさるものではなく、物事を個 別ばらばらの事象としてではなく「体系的」に見ようという態度、包括的な視点は、啓蒙 主義の思考形式の特徴であるとした。 啓蒙主義思想といえば百科全書派と呼ばれるように、18 世紀フランスでは啓蒙主義哲学 者の手によって Encyclopédie(百科全書4)が製作刊行された。実際、Encyclopédie は啓蒙 主義の集大成というべき当時としては空前絶後の知的生産物であった。1751 年から 20 年 をかけて執筆編集したものだけで、本巻 17 巻、図巻 11 巻の中で 6 万項目にも及ぶ知識が 集約されたという。しかもそれは単なる項目の羅列にとどまらず、ディドロ(Denis Diderot, 1713-84)とダランベール(Jean Le Rond d'Alembert, 1717-83)によって編集がなされて おり、いわば知の体系化が試みられたのである。松岡正剛氏が桑原武夫「百科全書に関す る研究」を紹介する中で述べているが、「百科全書」には副題として”ou Dictionnaire raisonné des sciences, des arts et des métiers(科学と芸術と物質に関する合理的な辞典)” と付されており、この中の”raisonné”が体系化を意 味する語だと指摘している。いかにも人間理性に根 拠を置く啓蒙主義思想の成果品らしい。 先に、「体系的であること」を啓蒙主義の一つの 特徴としたが、百科全書は文字通り「体系的な精神」 の産物であった。しかも、その体系化の原則は、 「あ らかじめ与えられた原理や概念から現象へ」という 道筋ではなく、その逆の、 「観察は与件(datum)であ り、原理と法則がその目的物(quaesitum)」という、 当時としての「新しい方法的序列」にもとづくもの であった。あくまで事実を重視しそこから体系化を 考えたのである。 百科全書の「参加型」 ところで、百科全書の編纂プロセスにおいて一層 興味深いのは、タイトル”Encyclopédie”と副題”ou Dictionnaire raisonné des sciences, des arts et 百科全書第1巻の表紙 des métiers”のさらに下段に”par une société de Wikipedia「百科全書」より引用 4 岩波文庫に翻訳(「百科全書」桑原武夫訳)があるが、全体のごく一部(序論及び代表項目)である。ま だ、本格的な研究はなされていない。 国際協力専門員便り No.270(2007.12) gens de letters”と題されていることだ(第1巻表紙の写真参照)。この下段副題は、多くの 人々から提供された情報をもとにして初めて、広範な分野をカバーしうる百科全書を編集 できたということ、学界ぐるみの取り組みであったということを示している。つまり 18 世 紀フランスにおける百科全書刊行という知的事業のそれまでにない特徴は、特権的な神学 者や哲学者のみによる「哲学」を排し、いわば「参加型」による知の共同集約と体系化と、 情報の共有ということにあった。コラボレーションであり、参加型アプローチであり、そ のこと自体が当時としては全く新しい知のあり方だったのだ。この協働作業による知の体 系化という試みは、近代化における啓蒙(Aufclärung)とは、個人が単に個別に考えを深 めて知識をもつだけではなく、社会(société)全体として知 識と情報を共有し創造・展開していくという性格を持つ事を 意味している5。 このような百科全書は、内容の上でも作成編集プロセスの 上でも、古い考え方や規範をうち破り、合理的で自由で社会 的な考え方を人々にもたらすものであったが、それ故に、当 時の体制側からの弾圧も激しく、ディドロはある時期投獄さ れ発禁ともなった。また、編集作業も坦々としたプロセスで はなく、例えば有力な執筆者のルソーやヴォルテールとの間 にはかなり激しい議論もあったらしい。しかし、百科全書の 運動は、やがて来るフランス革命を思想的に準備し、大きな 影響を与えたのだ。 ディドロの肖像画 adlitteram.free.fr/biographie_ diderot.htm 分析的であると同時に構成的であること では、「体系的」であるということは思考の態度においてどのようなことを要請するの か?実証的合理的な自然科学の発展の道程にもとづいて啓蒙主義を検討し、カッシーラー は次のように結論する。『自然科学的概念構成の方法は、「分析的」であると同時に「構成 的」である。単純な外見を持つ自称を構成要素に分解し、そしてこれらの要素からそれを 構成的に復元することにより、われわれはこの事象を認識する』(上 033)。 「分析的」な営為は比較的理解しやすいが、 「構成的」であることは、そこにある種の原 理や法則性を見出して初めて可能になることであり、容易ではない。しかもこの原理や法 則は「相対的」なものであり認識の限界に依拠している。すなわち、ある原理や法則性に 依拠し、分析的な手法でえられた要素を構成する場合、この構成、そして体系化は、あく まで相対的なものにすぎないことになる。だが、このことが看過されがちである。カッシ ーラーはこの限界を強く主張しドグマや盲信を戒める。 『原理なる概念自体は、17 世紀の形 而上学的な大体系において意味したような絶対的性格を放棄する。それは相対的な妥当性 5 ホルクハイマーとアドルノが「啓蒙の弁証法」で述べたように、この考え方は一歩誤ればファシズムや 全体主義の方向に導く危うさを持つものでもあったが。 国際協力専門員便り No.270(2007.12) で満足する。それは思考が自らの歩みの中で到達した当面の究極点を指し示すけれども、 同時にそれは思考がこの地点を再び棄てて越え出ることができる、という留保を表明する』 (上 051)。 『認識が陥る過誤は何らそれ自体で誤謬であるわけは ない。単にわれわれの本性の限界だけが露呈されるに過ぎない ような種類の過誤は、むしろ必然的・不可避的である。(中略) われわれが責任を持たねばならぬのは、このような認識の制約 に対してではない。むしろ逆に、この限界を無視して独断的な 確信によって森羅万象およびその起源について臆面もなく判断 を下そうとする狂気こそが、われわれが責任を負うべき咎であ ルネ・デカルトの肖像画 www.horaz.com る』 (上 265)。つまり、人間の認識と知は常に不完全なものであ る。だから、その不完全さの故の誤りは人間の本性というべき 事柄であり、不可避である。こうした人間の犯す過誤自体に責任 は問うことはできない。むしろ、それを正していくことによって 認識は発展し知は拡大するのだ。しかし、われわれが不完全であ るにもかかわらず、もし独断的に確信して判断してしまうことは、 深刻な誤謬であり、その責任が問われるのだ。 カッシーラーは、こうした分析的であることと構成的であるこ との思考方法を、デカルト(René Descartes, 1596-1650)とラ イプニッツ(Gottfried Wilhelm von Leibniz, 1646-1716)に起 ライプニッツの肖像画 www.philso.uni-augsburg.de 源を持つ 2 つの大きな思想的流れによって説明しようとする。 『われわれはこの時代に合流する二つの思想の流れを明確に区 別せねばならない。すなわち解析の古典的なデカルト的形式と、 ライプニッツに始まる哲学的総合の新しい形式は、今や互いに作用しあって統合されるに 至る。明晰判明な概念の論理学から、起源の論理学、個別性の論理学へと道は開けた。す なわちそれは単なる幾何学から力学と力学的な自然哲学へ、 「機械論」から「有機体論」へ、 同一性の原理から無限性と連続性と調和の原理へと進む道であった。この二つの傾向の根 本的な対抗のなかにこそ、18 世紀の思想(啓蒙主義)が解決しなければならなかった重要 な精神的課題が横たわっていた。そして 18 世紀はその認識論や自然学において、その心理 学や国家及び社会理論において、その宗教哲学や美学において、様々な角度からこれらの 課題と取り組んでいった。』(上 073) デカルト的な明晰判明なる概念、 「分析的」な知は、それだけでとどまることはできない。 ライプニッツ的な総合的で力学的な、動的で有機的な「構成的」であることと統合されて、 起源や個別性の論理学を展開していく。それは「体系的」であるという啓蒙主義が受け継 ぎ発展させた思考形式を支え、根拠付ける。 このようにしてカッシーラーが啓蒙主義哲学を再評価していく中で見出した「体系的で 国際協力専門員便り No.270(2007.12) あれ」という思考形式は、現在われわれが取り組んでいる Capacity Development(CD) 支援アプローチにおいて強調する「包括性の視点」と類似する、あるいは共通した特徴を 有する。では、 「体系的」であることの背後に認められた「分析的」であることと同時に「構 成的」であるという思考態度は、CD 支援の観点において、その実践において、どのように 理解され適用されるべきなのだろうか? カッシーラーが啓蒙主義哲学の再評価を行う中で見出したさらなる2つの思考形式、 「歴 史性」と「個別性」の観点を手がかりに加えて、次回「鶏ノート・その6」で考えてみた い。(この項続く)