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Title 直接指示論とフィクションにおける名前 Author(s)
Title Author(s) Citation Issue Date URL 直接指示論とフィクションにおける名前 藤川, 直也 哲学論叢 (2008), 35: 177-188 2008 http://hdl.handle.net/2433/96271 Right Type Textversion Departmental Bulletin Paper publisher Kyoto University 直接指示論とフィクションにおける名前 藤川直也 0. 議論の背景:フィクションに現れる名前が直接指示論に突き付ける問題 「シャーロック・ホームズ」、「ドラえもん」 、「ジャン=リュック・ピカード」…。 これらはフィクションに現れる名前だ。これらフィクションに現れる名前のことを、 フィクション名と呼ぶことにしよう。フィクション名はしばしば空名(empty names)、 つまり指示対象を欠く名前と見なされる。というのも、それらの指示対象と考えられ るものは存在しない――結局のところ、シャーロック・ホームズやドラえもんなんて ものは作り話の一部に過ぎず、実際には存在しない――からだ。 フィクション名は、指示を欠くという特徴ゆえに、固有名に関する直接指示論、特 に固有名に関するミル的見解に対する反例を与えるとしばしば論じられる。この議論 によれば、ミル的見解がフィクション名に適用されると、そこからは直感に反する帰 結が生じるという。このことを確認するために、まずミル的見解について簡単に説明 しよう。固有名に関するミル的見解によれば、固有名の意味論的値はその指示対象に 尽きる。ここではこの主張を次の二つの主張としてまとめておこう。 MV-1:固有名の意味論的値、すなわち、固有名が、それを含む文の発話の内容、とり わけその発話の真偽に関わる内容(意味論的内容)に対して為す貢献は、その指示対 象に尽きる。 MV-2:固有名を含む主語-述語文の発話が表現する意味論的内容は、単称命題である。 単称命題とは、対象と性質から成る順序対である。単称命題が真であるのは、それが 評価される状況において、当該の対象が当該の性質をもつ場合かつその場合に限る。 例えば、「バラク・オバマ」の意味論的値はバラク・オバマその人であり、「バラク・ オバマは民主党の大統領候補だ」という発話が表す内容は、<バラク・オバマ, 民主党 の大統領候補であること>と表される。 さて、ミル的見解に従えば、名前の意味論的値はその指示対象だけなのだから、指 示対象を欠く名前は意味論的値をもたないことになるだろう。また、名前を含む文の 発話の内容は、その部分表現の意味論的値から合成的に決まるのだから、そのような 名前を含む文の発話は表現すべき意味論的内容をもてないだろう。すると、その発話 はそもそも真偽を評価されるべき内容をもたないのだから、真理値を欠くことになる。 だがミル的見解からのこの帰結は、フィクション名を含む文の発話の内容や真偽に関 する我々の直感に反している。例えば文「シャーロック・ホームズは聡明な探偵だ」 を考えよう。我々はこの文の発話が無内容だとは思わないし、これが真であると考え すらする。あるいは「ジャン=リュック・ピカードは女性だ」は有意味で、偽、 「ドラ えもんは存在しない」は有意味かつ真だ。このようにミル的見解からの帰結は、空名 やそれを含む文の発話の有意味性という我々の直感と相容れない。 これまでに、固有名に関するミル的見解の立場から、フィクション名やそれを含む 文に関する我々の直感を説明する試みが多く為されてきた。本稿では、そのような試 みの中から、 「穴空き命題説(The Gappy Proposition Theory)(1)」と「キャラクター指 示説(The Character Reference Theory)(2)」の二つをサーベイする。 次節では、サーベイの準備として、フィクション名が用いられる文脈を簡単に整理 する。というのも、フィクション名がどのような文脈で用いられたのかは、フィクシ ョン名を含む文の発話の内容及び真理値に関する我々の直感を左右するからだ。 1. 予備的考察:フィクション名が用いられる文脈を整理する フィクション名が現れる文脈は少なくとも次の三つに区別できる(3)。一つ目は、 「フ ィクション構成的文脈」と呼べるもので、フィクションの作者が(映画等であれば役 者も)実際にフィクションを構成する際にフィクション名を用いる、という文脈だ。 残る二つはそれぞれ、 「フィクション内的文脈」 、 「フィクション外的文脈」と呼べるも のだ。前者は、読者や観客(作者自身の場合もあろう)が、現実世界ではなく、いわ ばフィクションの世界について語る、あるいは、既存のフィクションの内容(つまり、 フィクション構成的文脈において使用されたフィクション名を含む文の内容)につい て語るという文脈だ。それゆえ、この文脈で為された発話の真偽は、現実がどうなっ ているかではなく、関連するフィクションの内容に応じて為されるべきであろう(4)。 これに対して、フィクション外的文脈は、現実について語る文脈であり、そこで為さ れた発話の真偽は、現実がどうなっているかに照らして評価される。 上述の文の発話に関する直感は、これらの文脈に依存している。 「シャーロック・ホ ームズは聡明な探偵だ」の発話は真、 「ジャン=リュック・ピカードは女性だ」の発話 は偽だという直感は、フィクション内的文脈における発話に関するものだろう。フィ クション外的文脈では、これらは少なくとも真ではなく(かといって偽だという強い 直接指示論とフィクションにおける名前 直感があるわけでもない) 、さらにそれが有意味かどうかも定かではない。他方「ドラ えもんは存在しない」の発話が真だという直感は、フィクション外的文脈における発 話に関するものだろう。フィクション内的文脈においてこれが発話された場合、それ は偽であろう( 「藤子不二雄の『ドラえもん』によれば、ドラえもんは存在しない」の 発話を考えよ) 。 以上を踏まえた上で、続く 2、3 節では、フィクション内的文脈およびフィクション 外的文脈における、フィクション名を含む文の発話に関して、 「穴空き命題説」と「キ ャラクター指示説」の主張を見ていくことにしよう。 2. 穴空き命題説 2.1 理論 穴空き命題説(Braun, 1993, 2005, Adams & Stecker, 1994, Adams, et al., 1997, Adams & Dietrich, 2004, Adams & Fuller, 2007)は、フィクション名が意味論的値を欠く、というこ とを認める一方で、しかしこのことは、フィクション名を含む文全体が意味論的内容 を欠くということを帰結しない、と主張する。穴空き命題説によれば、そのような文 の発話は、通常の単称命題と同様の構造をもつが対象の部分が空所になっている命題 (=穴空き命題 gappy propositions)を、その意味論的内容としてもつ。というわけで、 穴空き命題説の基本的な主張は、次の二点に集約される。 GP-1:直接指示論は、「隙間」ないし「空所」を含むような命題を認めることができ る。そのような命題は穴空き命題と呼ばれる。 GP-2:フィクション名を含む文の発話は、穴空き命題を表現する。 穴空き命題には少なくとも二種類の表記法がある。一つは< , F>であり、これは通 常の単称命題<a, F>から、対象 a を取り除き、下線で空所を明記したものだ。もう一つ は、<{ }, {F}>あるいは<φ, {F}>であり、これは単称命題を、単純に対象と性質の順序 対と考える代わりに、対象の単元集合と性質の単元集合の順序対<{a}, {F}>と見なした うえで、対象の欠如を空集合によって表したものだ。 穴空き命題説は、フィクション名を含む文の発話の内容を穴空き命題によって説明 する。ではフィクション名を含む文の発話の真理値についてはどうか。Adams、Fuller、 Stecker、Dietrichらによれば、原子穴空き命題は真理値をもたない(5)。それゆえ彼らは フィクション名を含む文の発話の真理値に関する我々の直感を、穴空き命題の真理値 に訴えて説明することはできない。すぐ後で見るように、彼らはこのことゆえに、と りわけフィクション外的文脈における発話の真理値の直観を説明する際に、穴空き命 題以外の道具立てを用いる。 それでは以上を踏まえた上で、穴空き命題説の具体例への適用を見ていこう。 2.2 穴空き命題説の適用例 フィクション内的文脈における次の文の発話は、直観的には真だ。 (1) : 「ホームズは聡明な探偵だ。 」 穴空き命題説は、この種の発話の真偽を、フィクションを構成する内容(フィクショ ン構成的文脈において用いられた文が表す命題)を用いて説明する。Braun(2005)によ れば、フィクション内的文脈における、この種の文の発話(6)が真であるのは、それが 表す穴空き命題が、フィクションを明示的に構成する内容であるか、あるいはそれら の内容に含意される内容である場合かつその場合に限る(7)。したがって、(1)の発話 が真であるのは、その内容、つまり< , 聡明な探偵であること>が、 『ホームズ』シリ ーズを構成するある内容であるか、そのような内容に含意されるような内容である場 合だ。この条件は満たされているので、(1)の発話は真だ。Adamsらによれば、フィ クション内的文脈における(1)の発話が意味するのは、「シャーロック・ホームズ」 という名前を使って、コナン・ドイルは、< , 聡明な探偵であること>という命題を フィクション的に主張した(あるいは含意した)(8)、ということであり、そしてこれ は真だ(cf. Adams, et al., 1997)(9)。 次に、否定単称存在文と呼ばれる類いの文を見よう。次の文がフィクション外的文 脈において発話された場合、その発話は直感的には真だ。 (2) : 「ドラえもんは存在しない」 Adamsらに従えば、この文は意味論的には真でも偽でもない命題を表現する。では フィクション外的文脈における(2)の発話が真だという直感はどのように説明される のか。二つの応答が可能だ。一つは、Adamsら自身による応答で、(2)の発話は、穴 空き命題とは別に、真なる命題を語用論的に表現すると論じることによって、直感を 語用論レベルで説明する、というものだ。この理論によれば、(2)の発話は、意味論 直接指示論とフィクションにおける名前 的には< , 非存在>という穴空き命題を表し、この命題は真でも偽でもない。しかし Adams & Fuller(2007, p. 460)によれば、(2)の発話はさらに、関係の格率が示唆する「現 在の会話の目的に関係のある記述が結び付けられた名前を用いよ」という規則、様相 の格率が示唆する「名前に結び付けられた記述は多岐にわたるので、簡潔さのために、 名前を用いよ」という規則に基づいて、次のような内容を会話的含みとして語用論的 に表現する。すなわち、話し手が「ドラえもん」に結び付ける記述、例えば「おなか のポケットに不思議な道具をたくさん蓄えている 22 世紀のネコ型ロボット」を含む文、 「おなかのポケットに…のネコ型ロボットは存在しない」によって表現される完全な (つまり穴のない)内容を語用論的に表現する。そして語用論的に表現されたこの記 述的内容は、ラッセル流の分析に従えば、 「おなかのポケットに…のネコ型ロボットで あるという性質を一意的にもつ対象は存在しない」の内容と同じであり、これは現実 において真だ(10)。 第二の応答は、信念に訴える応答だ。Braunは、フィクション名を含む文の発話の真 理値に関する直感は、穴空き命題の真理値ではなく、話し手が、それが表す穴空き命 題やその否定を、合理的に信じることができるかどうかにかかっている、と論じる (Braun, 2005, pp. 607-609)(11)。例えば、 「サンタクロースは存在しない」は真だという我々 の直感は、我々がそのことを信頼できる人(親や先生)から聞いたのであり、それゆ えそれを十分な理由に基づいて信じている、ということに由来する。 さて、フィクション名を含む発話が表す内容としての穴空き命題は、内容の個別化 の細やかさに関しても問題を抱えている。穴空き命題説によれば、述語が同じで、主 語にあたるフィクション名に関してだけ異なるような二つの文の発話は、同じ穴空き 命題を表現する。例えば、 (2)の発話と (3) 「ジャン=リュック・ピカードは存在しない」 の発話はいずれも、< , 非存在>という穴空き命題を表現する。しかし素朴に考えれ ば、これらの否定単称存在文は異なる意味内容をもっているように思われる。このよ うに、穴空き命題は、フィクション名を含む文の発話の内容の直観的な個別化よりも、 粗い仕方で個別化されるので、穴空き命題は発話の内容の相違を説明できない。 この問題に対しても、語用論に訴える応答と、信念に訴える応答がある。前者をと る Adams らによれば、フィクション名を含む文の発話は、意味論的内容に加えて、そ れとは別の内容を語用論的に表す。そしてこの語用論的内容は、穴空き命題よりも細 やかに個別化される。つまり、同じ穴空き命題を表す文が異なる語用論的内容を表す ことができる。フィクション名を含む発話の内容個別化に関する直感は、この語用論 的内容を反映したものだ(Adams & Dietrich, 2004, pp. 127-128)。 もう一つの応答は、話し手が命題を信じる仕方に訴える(Braun, 2005, pp. 607-609)。 それぞれの文を発話させたり、あるいはそれらの文の発話を聞くことによって生じた りするような信念に関して、主体が当該の穴空き命題を信じる仕方、言いかえればそ の信念に関係する主体の内部状態が、それぞれの文に応じて異なる。それらの文の内 容の相違に関する直感は、この信じ方の違いを反映したものだ。 2.3 穴空き命題説の評価 フィクション名を含む文の発話の真理値や内容の個別化に関する直感は、意味論的 に表現された穴空き命題ではなく、語用論的に表現された記述的内容によって説明で きる、というのが Adams らの立場であった。この立場を語用論解決と呼ぶことにしよ う。穴空き命題説に関して、現在最も盛んに論じられているのは、なんと言っても、 この語用論解決の是非である(Adams & Stecker, 1994, Adams, et al., 1997, Adams & Dietrich, 2004, Adams & Fuller, 2007, Everett, 2003, Green, 2007, Reimer, 2001, Taylor, 2000)。だが、フィクション名の理論としての穴空き命題説は、この語用論解決の是非 を離れて評価できるように思われる。 そもそも語用論解決や、あるいは信じ方による解決を必要とすること自体、穴空き 命題が、フィクション名にまつわる我々の直感を説明するためには、ほとんど役に立 たない理論的道具立てだ、ということを示唆している。すると、穴空き命題を導入す る動機はなんだろうか。フィクション名を直接指示論、特にミル的見解の立場から上 手く説明するため、ということになるだろう。Adams らは、自説が、フィクション名 と通常の固有名とを、直接指示論の観点から統一的な仕方で取り扱っているというこ とを強調する(Adams, et al, 1997, p. 131)。ミル的見解によれば、固有名の意味はその指 示対象に尽きる。この原理によってあらゆる名前を扱おうとするのならば、指示対象 を欠くような名前は、意味を欠くと考えるべきだ、というわけだ。 だがもし、フィクション名の指示対象と見なせるような存在者があるとすればどう か。フィクション名はその存在者を指示すると考えれば、よりミル的見解に忠実なフ ィクション名の意味論を作ることができるのではないだろうか。さらに、その指示対 象を構成要素にもつ命題は穴空き命題ではないだろうから、真理値や内容の個別化の 細やかさに関して、穴空き命題が抱える難点をそもそももたないのではないか。もし 直接指示論とフィクションにおける名前 そのような命題が存在するなら、我々としてはフィクション名の意味論を与える際に、 まずそちらを使うべきではないだろうか。これらの期待に応えてくれそうなのが、次 に見るキャラクター指示説である。 3. キャラクター指示説 3.1 理論 フィクション名が意味論的値を欠くということを認める穴空き命題説とは対照的に、 キャラクター指示説(Salmon, 1998, Thomasson, 2003, Predelli, 2002)は、フィクション名 はそもそも空名ではないと主張する。キャラクター指示説によれば、フィクション名 は、フィクション上のキャラクターを指示対象としてもっており、そのキャラクター がフィクション名の意味論的値である。もしフィクション名が意味論的値をもつのな らば、それを含む文の発話が意味論的内容を欠くということもないし、真理値につい ても同様だろう。それゆえ、空名に対する直接指示論の適用の直感に反する帰結とさ れた事態(0 節)はそもそも生じないはずだ。キャラクター指示説は次の二つを基本 的主張とする。 CR-1:フィクション名は、フィクション上のキャラクターを指示する。フィクション 名の意味論的値は、その指示対象たるキャラクターに尽きる。 CR-2:フィクション名を含む主語-述語文は、フィクション的キャラクターを構成要素 とする単称命題、つまりフィクション上のキャラクターと性質からなる順序対をその 意味論的内容としてもつ。 すぐ後で見るように、フィクション上のキャラクターを含む単称命題の真理値決定 にとって重要になるのが、キャラクターの存在論である。キャラクター指示説論者の 多くは、フィクション上のキャラクターを、フィクションの作者(やその読者・観客 ら)の活動によって作り出される文化的な抽象的人工物だと考える(Salmon, 1998, Thomasson, 2003, Predelli, 2002)。この立場を文化的人工物説と呼ぶことにしよう。文化 的人工物説によれば、フィクション上のキャラクターは現実世界に実際に存在する抽 象的対象であり、言語や法律、音楽作品、文学や映画等のフィクションそのもの、大 学といった文化的・社会的な人工物と同じ存在論的身分をもつ。文化的人工物説論者 は、この立場がマイノング主義とは異なるということを強調する。一例として、 Thomasson の主張を見ておこう(Thomasson, 1999, 2003)。彼女によれば、キャラクター は現実世界に実在する抽象的対象であり、マイノング的な非存在対象や単に可能的な 対象ではない。また、キャラクターは、丸くて四角い小窓のような矛盾をはらむ対象 ではない。さらに、キャラクターには、それ以外の文化的人工物に与えられるのと同 程度にははっきりした同一性の基準を与えることができる。 キャラクター指示説を支持する一つの証拠は、我々が、あからさまにフィクション 上のキャラクターに対する指示を含むような文を、フィクション外的文脈において発 話する、ということだ。例えば、 「シャーロック・ホームズは最も有名なキャラクター の一つだ」を考えよう。この発話は意味を為すし真だろう。そしてここに現れる「シ ャーロック・ホームズ」は、明らかにフィクション上のキャラクターであるホームズ を指示している。このように、フィクション名の使用の文脈には、例えば文芸評論家 や映画評論家などが、フィクションそのものやフィクション上のキャラクターについ て、その文学史上の位置付けや、それが創作された背景等々について語るという文脈 があり、そこにおいてフィクション名はキャラクターを指示していると考えられるの だ。 以上を踏まえた上で、キャラクター指示説の具体例への適用を見ていこう。 3.2 キャラクター指示説の適用例 フィクション内的文脈における次の文の発話は、直観的には真である。 (1) : 「ホームズは聡明な探偵だ。 」 キャラクター指示説においても、穴空き命題説におけるのと同様に、この種の発話の 真偽は、フィクションの内容に応じて評価される。例えばSalmonのように論じる。フ ィクション構成的文脈において、 「ホームズは聡明な探偵だ」は、<h, 聡明な探偵であ ること>という単称命題を表現する(hはホームズというキャラクターを表す)(12)。 「… (というフィクション)によれば、Sだ」という句を伴う文の発話が現実世界において 真であるのは、文Sが、当該フィクションによれば真である場合だ。Sが当該フィクシ ョンによれば真であるのは、Sが表す命題が「そのフィクションを構成する、それ自体 がフィクション上のキャラクターに関するものであるような、命題によって含意され る」(13) (Salmon 1998, p. 303)場合かつその場合に限る。フィクション内的文脈における (1)の発話は、実は「 『ホームズ』シリーズによればホームズは聡明な探偵だ」が省 略されたものだと考えよう。すると「ホームズは聡明な探偵だ」が表す命題は『ホー 直接指示論とフィクションにおける名前 ムズ』シリーズを構成する命題であるので、 (1)の発話は真だ。 (他方、フィクション 外的文脈で発話された(1)は偽だ。なぜなら、それは<h, 聡明な探偵であること>を 表現し、この世界ではいかなる抽象的対象も、聡明な探偵ではないからだ。) フィクション外的文脈における次の文の発話は、直観的に真だ。 (2) : 「ドラえもんは存在しない」 多くのキャラクター指示説支持者にとって、真なる否定単称存在言明は鬼門だ。その 理由は、キャラクター指示説にあるというよりも、その支持者の多くがとるキャラク ターの存在論、つまり文化的人工物説にある。文化的人工物説によれば、フィクショ ン上のキャラクターは、この現実世界の実在する抽象的対象である。それゆえ、この 存在論とキャラクター指示説を組み合わせれば、例えば「ホームズは存在する」は<h、 存在する>という命題を表現し、そしてこれは現実世界において真だ。すると「ホーム ズは存在しない」はいかにして真でありうるのか? 「キャラクター指示説+文化的人工物説」によるこの問題の解決策には、少なくと も、メタ言語的解決(Thomasson, 2003)、語用論解決(Salmon 1998, Soames, 2002)、文脈 主義的解釈(Predelli, 2002)と呼べるものがある。 メタ言語的解決によれば、否定単称存在言明は、キャラクターではなく、フィクシ ョン名の使用法に関する言明である。Thomasson(2003)によれば、否定単称存在文の発 話とは、先行する話し手による名前の使用が、共同体でその名前の使用の歴史を辿っ ていくと行き着く対象とは異なる種類の対象を指示しようという意図を伴って為され たときに、真になる。例えば、ものを知らない警官が「シャーロック・ホームズとい う私立探偵がアヘンを常習的にやってるって情報を小耳に挟んだんだ。やつはベイカ ー街に住んでいるらしいから、ちょっと調べに行ってくるよ」と言ったとする。さら に、この発話を聞いて同僚の警官が、彼を哀れみながら、 「いやいや、シャーロック・ ホームズは存在しないよ」と言ったとする。ものを知らない警官は、人物を指示する 意図をもって、 「ホームズ」を用いている。すると、この同僚警官の発話が真になるの は、 「シャーロック・ホームズ」が我々の言語共同体におけるその使用の歴史をたどる と、人物以外のものに行き着く場合だ。そしてこの条件は満たされている。我々が用 いる「ホームズ」はキャラクターという抽象的対象を指示するからだ(14)。 語用論解決によれば、否定単称存在言明は、意味論的には偽なる命題を表現するが、 語用論的にそれとは別の真なる命題を表現する。そして、否定単称存在言明が真だと いう我々の直感は、この語用論的に表現された命題の真理値に関するものだ。語用論 的に表現される内容の候補としては、穴空き命題説と同様の、記述的内容がある(15)(16)。 文脈主義的解決によれば、 「存在する」という述語の外延は発話の文脈に応じて制限 されると考えることで、否定単称存在言明が真だという直感は説明される。上で述べ た、ものを知らない警官とその同僚の会話という文脈であれば、 「存在する」の外延は、 存在するあらゆるもののクラスではなく、存在する人物のクラスに制限される。それ ゆえ「ホームズは存在しない」は、 「ホームズ」が指示するものが存在するフィクショ ン上のキャラクターであって人物ではないので、真になる。Predelli(2002)は、この文 脈主義的解決が、意味論レベルの解決だと主張する。というのも、述語の外延が発話 の文脈に応じて制限されるということは、 「存在する」だけに特殊なことではなく、一 般的に認められる意味論的事象だからだ(17)。 3.3 キャラクター指示説の評価 フィクション名はフィクション上のキャラクターを指示すると考えるキャラクター 指示説は、フィクション名に通常の固有名と同様の意味論的扱いを与える。この点に おいて、キャラクター指示説は、フィクション名の直接指示論的意味論として、穴空 き命題説よりも優れている。ただし、キャラクター指示説+文化的人工物説は、指示 対象が本当に存在しない場合に応用できない。この理論は、フィクション名には指示 対象がない、ということを否定することを出発点としているからだ。確かにフィクシ ョン名に関しては、フィクション上のキャラクターというかなりもっともらしい指示 対象がある。ただし、いつでももっともらしい指示対象が見つかるとは限らない。偽 なる科学理論に現れる名前、例えば「ヴァルカン」にこの種の文化的人工物を指示対 象として割り当てることができるかどうかは、定かではない(Salmon, 1998 はできる と主張している) 。そして、指示対象として適切な対象が存在しないということを真剣 に考えなければならない場合、穴空き命題説が一つの選択肢となりうるだろう(18)。 4. まとめ フィクション名に関する穴空き命題説は、フィクション名のミル的見解に基づく取 り扱いという観点からも、フィクション名を含む文の発話の内容の相違に関する我々 の直感を説明するという観点からも、あまり有望ではない。フィクション名に関する より有望な直接指示論的意味論を提供するのは、文化的人工物説というキャラクター の存在論と組み合わされたキャラクター指示説である。ただし、フィクション名の指 直接指示論とフィクションにおける名前 示対象は存在するのでフィクション名は指示を欠かない、ということを出発点とする この理論は、指示対象が本当に存在しないような場合に応用することができない。そ してこのような応用を考えるとき、穴空き命題説を検討する価値があるだろう。 註 (1) この名称は Braun(2005)による。 (2) この名称は Predelli(2002)の「キャラクター指示テーゼ」をもとにしている。 (3)「フィクション構成的」 、 「フィクション内的」 、 「フィクション外的」という区別は、Thomasson(2003) の fictionalizing discourse、internal discourse、external discourse の区別を参考にした(彼女はこれらに 加え、第四のカテゴリーとして、単称否定存在言明を挙げている) 。 (4) フィクション内的文脈は、しばしば、 「…(というフィクション)によれば」という類いの句の 発話によって明示化されるが、むろんそうでない場合もある。 (5) ただし、Braun は、< , F>のような原子穴空き命題が常に偽だと主張する(Braun, 1993, 2005)。Braun はその主張を次のように擁護する。原子穴空き命題は明らかに真ではない。確かに、例えば黒板消 しやピカデリーサーカスのように真ではないが、偽でもないものもある。単に真でないものと、偽 であるものとの決定的な違いは、後者が命題(ないし命題を意味論的に表すもの)だという点にあ る。穴空き命題は命題であり、真ではない。それゆえ穴空き命題は偽だ。 (6) 正確に言えば、彼らが問題にするのは、 「『ホームズ』シリーズによれば、ホームズは聡明な探偵 だ」という類いの発話だ。しかし、フィクション内的文脈での(1)の発話をこれの省略形と見なす ことはもっともらしいだろう。 (7) 註 14 も参照のこと。 (8)「フィクション的に主張する」とは、フィクション的に主張した事柄が真であるというふりをし ている、あるいはそう想像している、ということだ。(Adams, Fuller & Stecker, 1997. p. 131) (9) Braun が与える真理条件にも、Adams らの説明に現れる「「シャーロック・ホームズ」という名前 を使って」に類する要素、つまりフィクションにおいて当該の内容が表現される仕方という要素を 加える必要があるだろう。さもなければ、 「『スパイダーマン』シリーズによれば、メリー・ジェー ン・ワトソンはスパイダーマンだ」が真になってしまう。というのも、 「メリー・ジェーン・ワトソ ンはスパイダーマンだ」が表す穴空き命題< = >は、 『スパイダーマン』シリーズを(おそらく) 明示的に構成する「ピーター・パーカーはスパイダーマンだ」が表す穴空き命題に他ならないから だ。 (10) Adams らが主張するように、この語用論的説明は、固有名に関するミル的見解と整合的である。 多くの直接指示論者が認めるように、ミル的見解は、記述が固有名の意味である(それらが同義で ある)ということを拒否するが、名前の話し手は、学習によって、名前に様々な記述を結び付けて いるという事実を否定しない(MV-1 との整合性)。また(2)の発話は、記述を含む文によって表さ れる内容を、あくまで語用論的な内容としてもつのであり、このことは、 (2)の発話の意味論的内 容に関する主張であるミル的見解と衝突しない(MV-2 との整合性) 。 (11) ただし、Braun は、単称否定存在言明は、<< , F>, 否定>という真なる複合穴空き命題を表す、 とも考えているということに注意せよ。 (12) ただし、Kripke のように、キャラクター指示説を採りつつも、フィクション構成的文脈におい ては、フィクション名は何も指示しない、とする論者もいる。 (13) Salmon(1998)も明記しているように、フィクションの背景として、我々の常識的信念からフィク ションに輸入されるような命題も考慮される必要がある。例えば、 『ホームズ』シリーズで描かれた ことに含意されないことがらであっても、我々の常識に属すること、例えば、人間には鼻の穴が二 つある、といったこと、それゆえホームズには鼻の穴が二つあるということは、フィクションの構 成要素と見なされるべきだ。実は、この種の「輸入」は繊細な取り扱いを必要とする。Lewis(1978) を見よ。 (14) ただし、この解決が、それが主張するメタ意味論的内容を、否定単称存在言明の意味論的内容 と見なしているならば、それはそもそもミル的見解と不整合であろう。もしそれが語用論的に表現 される内容なのだとすれば、それは次に見る語用論的解決の亜種として扱われるべきだ。 (15) 例えば、Salmon によれば、 「ホームズ」には「ホームズその人でありかつホームズ的な性質をも つ人物」といった記述が結び付いており、 「ホームズは存在しない」は「ホームズその人でありかつ ホームズ的な性質をもつ人物は存在しない」を表現する。 (16) ただし、Salmon と Soames は、名前がこのような記述を非意味論的に表すとするものの、語用 論的に表すと明示的に述べているわけではない (Salmon, 1998, pp. 303-304. Soames, 2002, p. 90, 94.)。 (17) ただし文脈依存性は、この解決が意味論的であるということ脅かすと考えることも十分出来よ う。文脈依存性と意味論/語用論の区別に関する論争のサーベイとして、本誌掲載の三木(2008)を参 照。 (18) もう一つの選択肢は、指示対象が存在しないということはその対象が指示を欠くということを 含意しないとし、そのような名前は、存在しない対象を指示し、それを意味論的値としてもつ、と いう仕方でキャラクター指示説の応用を擁護するというものだろう。つまりマイノング主義的キャ ラクター指示説である(キャラクター指示説そのものは、文化的人工物説というキャラクターに関 する特定の存在論を含意するわけではない、ということに注意せよ) 。マイノング主義が「生きた」 選択肢だということについては Priest(2005)を参照。 文献 Adams, F. & Dietrich, L. A. (2004). ‘What’s in a (n Empty) Name?’, Pacific Philosophical Quarterly, 85, 125-148. Adams, F. & Fuller, G. (2007). ‘Empty Names and Pragmatic Implicatures’, Canadian Journal of Philosophy, 37 (3), 449-462. Adams, F., Fuller, G. & Stecker, R. (1997). ‘The Semantics of Fictional Names’, Pacific Philosophical Quarterly, 78, 128-148. Adams, F. & Stecker, R. (1994). ‘Vacuous Singular Terms’, Mind & Language, 9, 387-401. Braun, D. (1993). ‘Empty Names’, Nous, 27, 449-469. ―――(2005). ‘Empty Names, Fictional Names, Mythical Names’, Nous, 39 (4), 596-631. Everett, A. 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