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第3弾なのだ

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第3弾なのだ
ニューギニア島パプアの秘境と鎮魂の旅:(続々)思い立ったら一人旅
3月の帰国の前にと、今月は現場の計らいに甘えてと言うより無理やり雨期の中、予てより予定に入れて
いたインドネシア東端のパプア州(世界で2番目に大きなニューギニア島は、東経 141°線の西側がイ
ンドネシア領)の裸族で有名な秘境?ワメナ盆地(バリエム渓谷)と第二次世界大戦の海戦の主舞台とな
った海域(の一部)の船旅を訪ねて2月7日より6泊7日の一人旅に出ました。
インターネットでチェックしたジャヤプラの天気予報では 7 日から 13 日まで旅行期間中全てが降雨確率
75~90%の雨の予想で少し暗い気持ちでの旅の始まりです。
1 日目 : 旅の起点となるパプア州の州都ジャヤプラ(センタニ空港)までマカッサル経由で、今
回も倭人伝風に言えば、陸行 50 ㎞、天行2回 3,000 ㎞、9時間の移動です。
いつもの通り朝 4:00 に宿舎を後にし、夜明けとともにルウック空港を飛び立ちました。 今日は運よ
く雲が高く、飛行ルートがいつもより現場側へ寄ったのでほぼ LNG タンクの上を飛び、中央の写真が撮
れました。
(PC タンクの中には、ちょうど落とし蓋の様に見える鋼製の屋根と吊り天井デッキが完成して
おり PC タンク壁頂部のプレストレッシング後の 3 月1日に予定されている屋根浮上を待つばかりとなっ
ています。 この屋根浮上を見て日本に帰ります。
) 朝日を受けた西の空にはスラウェシ島の 3000m
級の山並みが遠く浮かび上がっています。
定刻より 30 分ほど遅れてジャヤ
パパイヤの花です。控え目で白
お世話になったセンタニ警察本
プラ・センタニ空港に到着です。
く可憐な花を咲かせます。
署です。(事情の詳細は下記)
時差は+1 時間、日本と同じです。
この3枚の写真は、一見何の関連もない様ですが私にとって大変な一日の幕開けの主役と脇役でしょうか。
別に旅の話を面白くするために起こした事件ではないのですが、空港からホテルまで歩いて 7~8 分、チ
ェックインしようと上着の胸のポケットからパスポートを? あれっ!在りません。 確かターミナルを
出る時、パスポートに挟んでいたボーディングパスを預けていた手荷物シールの番号確認のため係員に提
示した後、胸ポケットに戻した筈(あくまでも筈)ですが在りません。 空港からホテルまでの数分間を
何度も巻き戻してみます。 ターミナルを出て、明日早朝に搭乗するトリガナ航空のカウンターでリコン
ファームの押し問答 ~ 荷物を引いてガタガタと歩道を 2~300m ~ 左に折れて泥道を 1~2 分 ~ パ
パイヤの花を見つけ、荷物を道路わきに置いて写真 ~ ホテル近くの歩道に上がった所で上着を脱いで
~
上着を脇に抱えてホテルまで2分ほど ~ ホテルで上着を着て胸へ、何度考えても同じです。 とに
かく来た道を上着を脱いだ場所、写真を撮った場所と走って戻りましたが見つかりませんし、道端の人か
らの声も掛かりません。 パスポートを手にして 40 年近く、いつも最優先で気を付けていたのですが歳
のせいなのでしょうか。 ここまで来たら後は落ち着くだけ。 直ぐにホテルへ戻りパスポートのコピー
でチェックインを済ませ、オジェック(バイクタクシー)を呼んで空港脇の警察に直行。 パスポートの
紛失と無効届けのレポートをしたいとお願いしても英語が出来る職員がいないし、ここでは証明書の発行
も出来ないので本署に行ってくれとのこと。 本署(写真右)まで 7~8km、場所も解らないので警察
職員にオジェックを呼んで貰い運転手に本署に行く目的の説明と往復での料金のネゴをお願いし、バイク
の後ろに乗るものの今度は落ちて二次災害にならないようにと、凸凹道を水澄ましのごとく右に左に走る
バイクにしがみ付くこと 10~12 分、情けなくなりますが必死でした。 本署での対応は迅速でインドネ
シアの片田舎の警察暑とは思えないほど立派なものでした。 証明書発行の間にマカッサルの領事館に電
話して今後の手続きのついて細かく教えてもらいましたが、その手続きに従うと3月初めに帰国するなど
考えられない煩雑さが待っています。 年甲斐もなく少々ブルーな気持ちになってしまいます。 しかし、
ここからが「ケセラ・セラ」を身上とする私めの本領発揮です。 パスポートが無くても旅行は続けられ
る(一般旅行者であれば直ぐに領事館に行って申請すれば 2~3 日で受領出来るそうですが、この国での
就労ビザを持っている我々の場合は、パスポートの再発行の申請に戸籍謄本が必要で、さらにビザ関連を
一からやり直しとのことなので旅行から帰って申請しても大して変わらない)と証明書を受領後、明日、
ワメナの警察署で取る予定だったスラット・ジャラン(入域許可証)をこの警察署で取っておこうと別の
部署にて申請。 ところがここで費やした 30 分のお陰でしょうか、スラット・ジャランも手にして「さ
あ、帰ろう」とオジェックに跨ったところへ先程紛失証明書を発行してくれた部署の係官が飛んできて、
「パスポートが空港の警察(最初に行った警察暑)に届けられた。届主にホテルへ届けるように伝えてあ
る。」とのこと、この国では決して考えられないことが起こりました。
(後日、領事館の職員の方に連絡を
入れたところ、同じ様に驚かれていました。)
何はともあれ、飛んで帰り届主(真黒な裸足のパプア原
住民のおじさんでした。)に会い、返してもらおうと手を出してもしっかり握ったままパスポートを離し
ません。 当然お礼はする心算でしたが、お礼を貰うまでは絶対に離さないといった感じです。 ニコッ
と単刀直入に「いくら欲しいの?」と聞くと「300,000 ルピア!」との一言、なくした場合の煩雑な手
続きを考えればゴミみたいな金額です。 それでも高いなと言った感じでお礼を言い、お金を渡すと嬉し
そうに帰って行きました。
でもその後ろ姿は、私にとっては地獄で会った仏を観る様なものでした。
その夜は、思いもよらなかったラッキーと思い寄らなかった反省(少しインドネシアを見直しました)を
兼ねて一杯遣ろうとフロントに問い合わせるもビール、酒類は無し。 近くのスーパー2店にも足を延し
ましたが一滴の酒類も置いてありません。 調査不足でした。 焼酎辺りを持ってくるべきでした。
明日からのことを考えるとまた少しブルーになってきます。
初日から、つまらない話で1パージも使ってしまいました。 申し訳ありません。 しかし、パスポート
を紛失した時の手続き、必要書類等、勉強になる貴重で一寸危なかった初体験でした。
2日目 : さて本日からが本番。 気を取り直し、朝一番のフライトで今回の主目的地ワメナ盆地
に入ります。
情報では、今日ワメナに飛ぶトリガナ航空は、勝手な予約のキャンセル、突然のフライトのキャンセル、
さらに発着の遅れは日常茶飯事とのこと。 そのため、始発便 7:00 のチェックインに余裕を以って1時
間半前に空港へ。 しかしカウンターには既に長い列が・・・。 陸路が無いため全ての物資は航空輸送、
したがって殆どの乗客はここぞとばかり荷物(生活用品)を持ち込み、その数の多いこと多いこと。 荷
物の計量(マニュアルの台貫秤で1個毎)
、タグ取り付け、総重量の計算と超過重量分の精算に1人当り
5分以上は掛かっています。 チェックインに辿り着くまで 45 分程掛かりましたが、取り敢えず、何事
も起こらず、いざワメナへ。
一面の海原? 人の手が加わって
4000mクラスの山並みを掠
ワメナ空港に着陸しました。
いない自然の緑の海原、樹木の丸
めるようにワメナ盆地に入っ
まだ朝の 8:00 前、機外に降り立
みが波の様に広がっています。
ていきます。
つと標高 1,500mの冷気を肌に
34 年前のボルネオ島を思い出し
感じます。
ました
空港からの見たバリエム渓谷側
空港ターミナル?
赤い屋根の
荷物受取り所(カッコよく BA-
の遠景。
建物は警察の建物で空港ターミ
GGAGE CLAIM とは呼べませ
ナルは、その右手に在るトタン
ん)で最初に話しかけてきた現
屋根の掘立小屋(言い過ぎかも)
地人、早速ガイドの売込みです。
さて、こんな朝早くからどうするか。 スラットジャラン(入域許可証)の確認印を貰いに警察に行こう
にも 8:30 から、更にガイドブックによれば冒険家(後で聞いたところでは、動物写真家と言った方が相
応しいかも)の藤原さんが経営されている情報センターが在るとのこと、しかしここも 9:00 から。
何はともあれ、ここは一先ずホテルへ早朝チェックインをトライ、ホテルまでは空港に沿って歩くこと 7
~8 分、その間、自称ガイドが何人も寄ってくるも水戸黄門の印籠のごとく「Mr. 藤原に頼んである」と
言えばそろりと消えていきます。 運よく清掃済みの部屋が残っていて落ち着くことが出来ました。
荷物を整理し、取り敢えず 9:00 過ぎを待って藤原さんの経営されている情報センター(パプア.コム:
Papua.com)まで歩く(10 分位)こととしました。
ワメナ一番の商店街通りです。 現地の人は、原色好み?
野菜の露店を見つけました。 高地の所
少し独特の匂いを感じます。
為でしょう、殆ど日本と同じ野菜(白菜、
キャベツ、長ネギ、レタス、インゲン、
トマト、玉ねぎ、じゃがいも等)です。
パプア.コムに着きました。 藤原さんは、細身の精悍な感じがする方で私より少し若い位でしょうか、ガ
イドブックで紹介されている情報センターとは観光の情報センターと思っていたのですが、実際は IT 関連
を扱う本物の情報センター(IT 関連機器の修理とインターネットカフェ)でした。 勘違いで明日のワメ
ナ近郊訪問のガイドと車のチャータ―をお願いしてしまいましたが、快く知り合いのところに電話で連絡
され、明日のガイド(400,000Rp)と車(650,000Rp)を段取りして頂きました。 昼食でも一緒に
との話になり、その前に警察で入域許可証の確認印を貰ってコピーを取ってくればお昼頃になるでしょう
からと警察に行きましたがここでも思いがけなく手続きが順調で時間が掛からず、結局夕食の約束をし、
再度ぶらぶらと街中を見物しながらホテルに戻り、2日分の洗濯に取り掛かりました。
夜 8:00、藤原さんより今仕事が終わったので食事をとの電話があり、ホテル斜め向かいのレストラン
(と言うより定食屋?)が美味しいとのことで待ち合せ。 淡水魚(テラピア)のから揚げで会食ですが
ビールが無いためテ―・パナス(HOT TEA)で乾杯も今一締まりません。
(藤原さんには申し訳ありませ
んが) しかし、久し振りの日本人の客なのでしょう会話は弾みます。
・昨年の 12 月以降、日本人女性の旅行客が 4 名。一人旅が多く最近の日本人女性の強さに驚くこと。
・絶滅したタスマニアタイガーを探しに 1981 年に当地に調査に来たのが始まり。(このニューギニア
島とオーストラリア大陸はもともと繋がっていたものが移動したもの。そのため絶滅したタスマニア
タイガーもしくは同種のタイガーがこの島に行き残っている可能性がある。 実際にニューギニアに
は多くの有袋動物が多く生息している。 云々・・・・・・)
・1981 年当時、ワメナは滑走路と数棟の建物があるのみの未開地。 1999 年に再来した時は既に現
在の街並が出来上がってしまっていた。
・2006 年から当地に定住するようになり、生活費のために現在の情報センターを開設したが本職は(タ
スマニアタイガーを忘れたわけではないが)この島の貴重な動物写真を撮る写真家?
・このワメナ盆地は、もともと湖でバリエム渓谷側の浸食が急激に進み、決壊し盆地を形成したのでは?
・地図には島の最高峰は 5050mの表示、実際には 4,800m 何某か
などなど、土木屋としても理解できる内容が多くテラピアのから揚げだけで 1 時間以上話に興じました。
トラベルエージェントでもないのにいろいろと手配をお願いしたお礼にとビールのつまみに持って行っ
ていた焼煎餅と焼き鳥の缶詰をお渡ししたところ、よだれが出そうですと悦ばれました。
その夜は、インターネットの速度も遅すぎて仕事にならないので明日のことを考え、実際には考えなくて
も 10:00 前には寝入ってしまいました。
3日目 : 裸族:ダニ族のジウィカ村を訪れ、異文化の体験
夜明け前、寒くて目を覚ましてしまい、
目覚ましの温度計に目をやると 22℃、
多分屋外は 20℃以下かも。
(ホテルにエアコンは付いていません。
)
8:00 少し前にフロントからガイドが来たとの電話。 夜
間の雨も夜明け前には上がり、すっきり晴れていないものの予定通り、ジウィカ村訪問は出来そうです。
ガイドは、原住民ラニ族のコスマン君、運転手は、インドネシアンチャイニーズ?のエディソン君(トラ
ベルエージェントを経営しているそうだがツアー客が少ない時期で暇だからと車両を安く提供したそう
ですが、本当のところは?)、どちらも第一印象ではOKです。
早速、レストラン横のガーデンテーブ
ルで行程の打合せ。 主にジウィカ村周辺の散策と郊外の市場見学で 6~7 時間とのこと。 雨が降り出
さない内にと急ぐ私にコスマン君は「今日は降らない」の一言。 その通り 1 日中降りませんでした。
ワメナの街を出て車で10分位。
ジウィカ村に着くや早速豚達のお出迎えです。 イノシシに近い
入域許可証のチェックポイント
顔付で動きも敏捷です。 コスマン君の話では、豚は冠婚葬祭に
の側に水連の花が咲いていまし
重要な家畜で大きさにもよるが Rp13,000,000/匹前後(10
た。 この辺りは地下水位が高
万円/匹前後)、良いもので Rp20,000,000 位はするとのこと。
いのでこの様な池が多く見られ
以前訪問したタナトラジャの豚の 15~20 倍はするようです。
ます。 チェックポイントで入
所変われば品変わる、タナトラジャでは牛主豚従、ここでは豚主
域許可証と訪問先の確認に 10
牛従。 因みに結婚式の結納には豚 8~10 匹が必要とのことな
分程掛かり、いざジウィカ村。
ので、買うとなれば結構な結納金が必要です。
ダニ族は、柵で囲まれた住居(全て茅葺屋根)群落で数家族が集団生活するとのこと、ジウィカ村には現
在この様な住居群が3群落残っています。 住居群への入り口(写真左)は動物等の侵入を防ぐためか高
い敷居(階段付)が設けられていますので太めの人には大変です。 住居群(写真中央)は、入って一番
奥正面中央に大きな男性住居(共同)、右手に女性住居(1家族の奥様/女性用独立住居)、左手に調理用
建屋が並んでいます。 男性住居の中央には囲炉裏(ただの焚火)があり、調理された料理はここに運ば
れ男性(子供も)はここで寝食を共にするとのこと、屋根裏は焚火の煙で燻され真黒で祖先のミイラもこ
こに置かれ、早く言えば燻製ミイラとなっています。(近くによると出来の悪い燻製の匂いがしました)
奇麗どころとのショット
は、彼女らを見世物にする
ようで気が引けます。右の
ミイラでご勘弁ください。
興味ある方はインターネッ
トでワメナ、バリエム渓谷、
ダニ族で検索してみてくだ
さい。
太った大男に見えますが彼らが細くて背が低いだけなのです。 この様な格好は今ではお年寄りのみ(彼
らの平均寿命は短く 50~60 歳:藤原談、したがって全員私よりも若いのでは?) 若い世代は T-シャ
ツにジーパン。 時代に取り残され、入ってくる新しい文化に翻弄されている彼らを少し哀れに思いまし
た。(政府がもっと観光を軸に彼らの生活と文化の保護を考えるべきと思いました。)
コテカ(ペニスケース)は、思っていたより細身(彼らが小柄な所為?)で、今時の日本ではありません
が右傾化と言うより誰もがキチンと右傾でした。 これが正式なのでしょう。 皆さんにこのコテカをお
土産にと探しましたが装飾用のレプリカは土産物屋に有るのですがなんとなく違います。 村でも実用品
は手に入りませんでしたので諦めました。
(需要が殆どないので自給自足の世界なのでしょう)
このワメナ盆地は、島中央の山あいに隔離された世界で海の文化との交流が無く、人間に必要な塩は山か
ら採取されているそうです。 ニューギニア島中央を走る最高 4,500mを越える山脈は、太平洋プレート
とインドプレートが圧し合ってせり上がった山脈でもともと海の底だった場所なので塩分を含む筈です
が、岩塩層が形成されるまでにはなっていないようです。(推測)
このジウィカ村背後の山(写真左)を渓流沿いに 1 時間程上った鞍部(写真の雲より高い地点)に彼らが
塩を採取する塩水池があります。 老骨に鞭打って上りました。 10 畳程の小さな池と言うより水溜り
があり、舐めると海水ほどしょっぱくはなく軽く塩分を感じる程度です。 どうやら写真右の奥の沢伝い
の塩分を含んだ層を通って滲み出てきているようです。 現在は、この水をポリタンクに汲んでそのまま
料理に使用したり、家畜の塩分補給に飲ませたりしているそうですが、昔は乾燥させたバナナの幹を叩い
て解したものをこの池に1日浸け、天日で乾かした後、燃やして塩分を含む灰にし、塩入り灰の状態で料
理に使用したとのこと。 この灰塩(見てませんが藤原さんの話では真黒だそうです)の方が美味しいと
今でも使われているそうです。
村から戻って街はずれに在る原住民主体の生鮮市場に立寄りました。 場内/場外とも結構な人出で賑わ
っています。
街で見た露店以上に多くの種類、特に原住民用?の野菜・果物が目立ちます。
この他、
バリエム川で採れたのでしょうか、ナマズ、テラピア、ヘラブナもどき等の淡水魚も目立ちます。
豚は高価で取引も少ないのでしょう、豚取引専用の建屋は閑散としていて、売られているとも知らない豚
数頭が鎖に繋がれ昼寝をしています。 一人のご婦人が子ブタの買付け(写真中央)をしていましたが何
と Rp1,200,000~1,500,000 (1~1.2 万円)もします。 やはり、タナトラジャの 10 倍位はするよ
うです。 好い匂いを辿ると建屋の横で、中豚1頭が丸焼きにされていました。 パプアでは、地面に穴
を掘り、バナナの葉を敷いて豚を包み焼石で丸蒸しにするのが一般的なのですがこの丸焼きも美味しそう
でした。
肉売り場の脇に可愛いウサギが・・。
観賞用ではない筈です。
京都大原の薪売り娘ならぬワメナの薪売りおばさんが重量
挙げに負けない重さの薪を売り歩いています。 原住民の燃
料は、まだ薪に頼る生活で、樹木の伐採によりワメナ盆地の
山肌の荒廃が進んでいるのでしょう、盆地内を流れるバリエ
ム川は土色の濁流と化しています。
市場を後にしてガイドのコスマン君に「昼食はパプアのローカルフードを食べたいので店を選んで」とお
願いすると「インドネシア料理の店はあるけどローカルフードを出しているレストランはない」とのこと、
どうしようかと迷っているとコスマン君から「我が家で良ければラニ族の伝統料理を作らせるけど」との
ご提案。 二つ返事でOK、ただし材料がないとのことなので先程の市場に戻って買い出すことに。
お芋三兄弟、手前からタロ芋、キャッサバ、
これがここパプアと近隣でしか採れないブアメラ(ネシ
スウィートポテト(さつま芋)
。
ア語でブアーが果物、メラ―が赤)
、種子を持ち出せな
タロ芋とさつま芋をお買い上げ。
い保護植物。 原住民の伝統的な栄養食品なのです。
運転手のエディソン君によれば、ブアメラは多種のビタ
ミンが豊富に含まれ、特に目に好い。その証拠にパプア
人で眼鏡をかけている人間はいないとのこと。 でもこ
れは、眉唾臭いが、栄養価の高い食品であることは事実。
詳細は、インターネットのブアメラで検索ください。
購入したのはこの3種類(芋とブアメラ)のみ、「高い」と言って躊躇うコスマン君に「値段気にせず買
え」と一言。
こんなに食えるかと思うほど買い込み、両手に重そうにぶら下げて車に戻りました。
その理由は後で解りました。
コスマン君の家。 小さく見えますが奥行きが有って結構広く感じました。 右奥にジウィカ村と同様の
伝統的な茅葺屋根のダイニングキッチン(写真中央)が見えます。 中は、簡素な薪のかまど、三和土の
上に干草を敷いたダイニングと2畳ほどの小上がり。 通常の生活は文化的な母屋で、食生活は昔ながら
の伝統文化でとのことでしょうか。
この他、豚5匹を飼っている豚舎がキッチン右側に付いています。
料理を待つ間に子供たちが学校から帰ってきました。 カバンを置いて着替えるや自分達の衣服は自分達
で洗濯という躾(原住民はクリスチャン)なのでしょう、子供達で洗濯が始りました。
母屋で待つこと 2 時間(後で考えると火を熾すことから始めて大きなまま芋を茹でるとこれ位は掛かるの
かも)
、漸く出来上がったようでお声が掛かりました。
早速ダイニングの小上がりに。
茹であがった芋とブアメラです。
解された種は、手で揉み、絞っ
隣がガイドのコスマン君です。
ブアメラは、種の部分を内皮から
て果肉の部分と種を分離します。
外します。
水を少量加えては、揉み絞りを
繰り返します。
。
これがパプア風茹で芋2種とブア
家族揃って食事です。
芋自体は美味しいのですが、ソー
メラケチャップソース添えの一品
スを付けるとこんな顔になります。
です。
美味しそうな顔に見えますか?
種を外した内皮もソース作り(ソースは結構油分を含んでいます)の間に食すのですが、これも皆さん美
味しそうに食べていました。(隣に居た猫さえも欲しがりました)
これも勧められるままに口に入れた
のですがそれは大変でした、何とも言えぬ味で喉を通りません。
何度も少し吐き気が込み上げますが、
ここは頑張りました。 笑みを絶やさず何とか飲み込みに成功しました。 出来上がると近隣 3 家族での
食事会となり、久し振りの伝統料理だと皆さん喜んで美味しそうに食べています。 そうです。 彼は3
家族分買っていたのです。 先に街に出て成功していたラニ族の彼を頼って来たのでしょう、ラニ族の2
家族が彼の家の側に家を建て共同生活をしていたのです。
しかし、ホテルのナシゴレン(チャーハン)
2 杯分で3家族+1人が楽しめました。
遅い昼食も終わって(4:00 頃)藤原さんの事務所にお礼の挨拶。
今日は週末の土曜日、仕事が遅く
なるので今日の夕食はご一緒出来ないかも、8:00 頃には電話しますとのこと。
結局、彼の仕事は終
わらず、その代り明日の朝、ワメナ盆地南側のバリエム渓谷入り口付近の車で行ける所まで案内していた
だけるとのこと。 楽しみです。 ただ、今日もビール飲めず3日目、最悪です。 明日のジャヤプラで
の冷えたビールを夢に早々にベッドに入りました。
4日目 : 午前中にワメナ盆地バリエム渓谷側の散策、午後ワメナを後に州都ジャヤプラの街へ
今朝も高地特有の夜半の雨も上がり、朝食を終えた 7:00 頃には陽が差し始めました。
藤原さんが迎えに来られるまでに荷造り。
8:00 ちょうど時間通りに懐かしいランドクルーザーの初
期モデルがホテル前に滑り込んできました。 バリエム渓谷側への入り口まで道も悪く盆地をゆったり流
れるバリエム川に沿って車で 40 分ほど、住民が利用できるぺモ(乗合ミニバス)の終点の更に先、車が
入れるところまで案内して貰いました。
*因みに、原住民の裸族は、ダニ族、ラニ族、ヤリ族(コスマン君の発音ではジャリ族に聞こえましたが)
。
コスマン君によれば、昨日訪れたジウィカ村を含むワメナ周辺はダニ族、盆地より北の西側一帯にラニ族、
この盆地より南側のバリエム渓谷地域はヤリ族の支配地域で少しずつ生活習慣も文化も違うとのこと。
バリエム渓谷地域への入り口です。
バリエム川沿いの山肌は、伐採され急斜面も耕され
これから先は徒歩でしか入れません。
作物(藤原さんの話ではさつま芋とのこと)が栽培
この先の原住民の村を訪ねるトレッキングの
されています。 これでは保水力も無くなり、基岩
始点ですが、今回は雨期、さらに海外勤務中
の石灰岩の上の薄い表土は流され土砂崩壊が心配に
での特別の計らいでもあり無理はしないこと
なります。
(実際、この隣の山肌には大きな崩壊が
で計画時点でトレッキングは諦めました。
始まってバリエム川に濁流が流れ込んでいました。
)
戻りの車の中、藤原さんは本職に戻り、空を舞う鷹、道路沿いの電柱に止まった○○燕など目に止まった
動物を見つけては車を止め撮影開始です。 短いチャンスの中、手際良く望遠レンズを操作されます。
藤原さんの話では、現在では彼ら裸族の原始的な生活を体験するには最低でも1週間以上のトレッキング、
即ち片道3~4日以上の僻地でなければ体験できない。 2~3 日のトレッキングでは、街付近とあまり
変わらないとのこと。 これで完全に諦めがつきました。
街には、10:00 前に戻れましたので、1 便早い便への変更にトライすることにして空港へ。
ターミナル全景(写真左)
、チェックインカウンター(写真中央左)
、待合室(写真中央右)です。 トタ
ンの屋根と壁、着いた時に記述した掘立小屋も言い過ぎではないように思います。 トイレはなく探しま
わった挙句に隣の警察へ、職員用ではなく留置場のトイレに案内されました。 運よく早い便への変更が
できました。 少し前に飛んできた飛行機の準備が整い搭乗が始まったので、さあ乗ろうとすると、この
飛行機は、更に前の遅れている便とのこと。
2 時間半も遅れています。 したがって、変更した早い便
も 2 時間以上遅れ、当初予約していた便とほぼ同じ時刻に飛び立ちました。 変更していなければ大変な
ことになるところでした。
下手すればもっと遅れてキャンセル フライトになっていたかも分らず、ま
だツキが残っているようです。
センタニ空港に戻ってきました。
往路のジャヤプラ行きフライトの機内誌にジャヤプラの紹介
嫌な思い出は忘れて帰路に就きます
記事を見つけ、そこに「ジャヤプラを訪れたらイファール山
が、途中ビアック島に立寄るため帰
の頂上にあるマッカーサー・モニュメントを見に行くことを
路を倭人伝風に言えば、陸行 40km、
お勧めします。
・・・・・・ここからの湖の眺めが素晴らし
水行1日、天行 2,500km となります。
い。
・・・・・」と帰路には必ず立寄ろうと決めていました。
空港からジャヤプラの街までのタクシーは、チケット制で定額(Rp200,000)です。 値切る余地は有
りません。 ただ、ジャヤプラに行く途中イファール山の公園に立寄って貰わなければならず、追加分は
直接運転手と相談です。
「イファール山のマッカーサー・モニュメント」と何度言っても通じません。
そのうち「マクトゥル?・・・」と聞き取れる言葉が出てきました。
「マクトゥル????、」そう、
MacAthurを拙い知識でネシア語読みすると確かに「マック・ァトゥル」と読めないこともありま
せん。 運転手に「そこそこ、maju ke sini !」
、多分解ったでしょう。 ただ、何処に在ってどの位の距
離なのか分らず、交渉のしようがないので多めとは思いつつ Rp50,000 出しました。 幹線道路から外
れること 10 分程、軍隊の施設の中に在りました。
(大戦後は、施設全体をインドネシア国軍が管理、使
用しているため、入り口でパスポートを預ける必要がありました。)
写真の通り、素晴らしい眺めで眼
下にセンタニ湖とセンタニ空港が望めます。 マッカーサーがフィリピン撤退時に「I shall return ・・」
の言葉を残し、このリファール山でこのセンタニ湖の向こうのフィリピンを想いながらフィリッピン奪還
の作戦をパイプを燻らしながら考えている姿を想像しましたが、如何せんよく考えるとセンタニ湖の向こ
うはパプアの奥地で、フィリピンは後ろ側でした。 因みに、モニュメントには、(写真上:右)
“During the summer of 1944, a sprawling head quarter complex was constructed at this location.
Ultimately based at Sentani were General Headquarters, southwest Pacific area ; United States Army Forces
in the Far East ; Far East Air Forces ; Seventh Fleet ; Fifth Air Force ; Sixth Army ; Eighth Army ; Allied Land
Forces ; and Allied Air Forces.
Planning and staging for the invasion of the Philippines were conducted here
under the direction of General Douglas MacAthur”.
と記されていましたが、当時の悲惨な日本兵のことを考えると日本人の私にとって複雑な気持ちでした。
空港から 36km、イファール山に寄ったので 1 時間半程掛かり、今日の宿泊地州都ジャヤプラの街に着
きました。 ジャヤプラ自体は人口 20 万人の大きな街で、湾最奥部の山が迫った地形に位置し、良港に
は恵まれていますが、平地が少なく街中心部は幅 300m奥行き 800mほどの谷地の平地部に在り、海岸
通り(写真左:奥のピンクの建物が泊まったホテル)に官庁、商店街通り(写真中央)とホテル通り(写
真右)が直交する逆π型のシンプルな街並です。
チェックインを済ませると同時にレストランのメニューをチェックしましたがビールがありません。 コ
ニャック:Rp180,000、スコッチ:Rp120,000、ラム/ウォッカ:Rp85,000 とスピリッツとカク
テルはありますが高い、飲み出すといくら掛かるか分りません。 とにかく、ビールを探しに街のスーパ
ーマーケット3店をしらみ潰しに調べましたがアルコール類は一切ありません。 ワインを見つけたと手
に取ってみるとノンアルコールと表示されています、即ちジュースではありませんか。 仕方なくホテル
に戻りブルーな夕食と相成りましたが料理を頼んだ後、ウィスキーにしようかウォッカにしようか考えな
がら未練がましく女の子に「アダ ビル?」と聞いてみるとビンタンビールならあると答えるではありま
せんか、それなら何故メニューに載せないの?と女の子に聞いても仕方のないこと。
(藤原さんの話では、
パプア州では 5~6 年前まではアルコールはOKだったそうですが、原住民が酔っぱらうと獰猛になりよ
く事件を起こしためアルコール類を禁止したとのこと) とにかくビールを注文。 まる 4 日ぶりに見る
コハク色の液体です。 美味しさは格別でしたが小ビンで Rp72,000(約 600 円)、ルピアの手持ちも少
なくなっていたので2本で我慢しました。 今夜は、一段とよく眠れそうです。
5日目 : ジャヤプラ港からビアック島まで日本連合艦隊が往来した(と思われる)海域の船旅を体
験します。
ぺル二社のビアック行きフェリーは、17:00 発、乗船開始まで十分に時間があるので、久し振りに朝遅
めの 8:00 に朝食、10:00 頃までインターネットで溜まっていたここ 4 日分のメールの整理。 荷物
をまとめ 11:00 過ぎにチェックアウトし、ベルボーイに荷物を預けて再度街の散策。
出掛けて 20 分程、海岸通りの公園から湾口を撮った頃までは左の写真の様に晴れていたのですが、更に
5 分ほど歩いた埠頭まで来ると急にシャワーが襲ってきました。 しばらくこの埠頭のあずま屋で雨宿り。
後で気付いたのですが、この写真の右手奥に停泊している船が乗船予定のフェリーでした。
ホテルに戻り、フロントの女の子に「ぺル二社のフェリーに乗りたいのでぺル二社のオフィスはどう行け
ばいいの?」(オフィスは乗り場の側に在るものと決め込んでいました。)「歩いてはいけない。外の緑色
の車でぺル二社と言えば行ってくれる。」との回答。 表に出ても緑色の車など駐車していません。
(これ
またホテルの送迎用の車と思い込んでいましたので) 再度、ホテルに入りベルボーイに案内して貰うこ
とにすると道路の反対側に渡り緑色のぺモ(乗合ミニバス)を止めるではありませんか。
彼女の言う
Green Car とはぺモだったのです。 この街では 3 色のぺモが3系統の路線に分れて運行されているよ
うでぺル二社を通るぺモは緑色だっただけのこと。 とにかく狭いぺモの中に荷物を抱えて乗り込みます。
料金の支払いをどうするか心配していると、降りる人は距離に関係なく Rp 2,000(17 円) を運転手に
渡しています.。 どうやら同じ路線内は定額料金のようでした。 車で走ること 15 分、港も何もない岬
の丘の上で、運転手が車を止めてここだという合図を送ってきます。 確かに入り口の門にぺル二社の文
字が見えます。 Rp5,000 を渡して釣りは要らないと合図すると無愛想に走り去って行きました。 ぺ
ル二社の事務所に入ろうとすると守衛が飛んできて要件を訪ねてきます。 チケットを見せ、予約のコン
ファームと乗船したい旨を告げると「このチケットでコンファームの必要はない。フェリーターミナルで
直接乗船できる。
14:00 頃には乗船できると思う。
」では、「そのフェリーターミナルは何処?」
「歩
いてはいけない。ここから街に行く途中にあるのでぺモで戻れ。」とつれない返事。 道を渡り、荷物を
抱えて再度狭いぺモに乗り込み、来た道を戻ります。 今度ばかりは Rp2,000 きっちり渡しました。 何
と着いたフェリーターミナルは、先程ホテル近くの海岸通りの公園から見えていた船が停泊していた場所
でホテルから歩いてでも来れる場所ではありませんか。 勝手な思い込みが生んだ所産でした。
ターミナル入り口。 13:30 頃に
待合室は、既に乗客で一杯です。 乗客の目当ての露店が並んでい
着きました。 奥の船が、乗船予
船室の良い場所を取ろうと早く
ます。 歯磨きと飲料用にミネ
定のフェリーです。
から来るそうです。
ラルウォーター2 本とオレンジ
ジュースを仕入れました。
総排水量 4000Tのフェリー(貨客船)です。 船の前方1/4 が
貨物の積み込みに時間が掛かり
貨物用でデリックを搭載し、20 フィートコンテナ 20~30 個は
乗船予定の 14:00 を遅れるこ
積めるように見えました。
2 時間、16:00 頃に漸く乗船
客船部は9層デッキでエコノミー、
1等船室A(2ベッド)と1等船室B(4 ベッド)の3クラスのみ。
が始まりました。
我先にと荷物を担いで乗り込みます。
乗船桟橋の状況です。 我先にとなだれ込むため桟橋の中央に
公認のポーターがいて荷物の多い客
コンテナを置いて乗客をコントロールしています。 乗客の中
は 4 人、5 人と雇ってせっせと荷物
にはベッド(子供用に見えましたが)まで持ち込む者までいま
を運び込みます。
した。
私が泊まった1等船室A(朝夕食事付で Rp 650,000(5,700 円))の内部です。 日本のビジネスホ
テルほどの広さと設備で思っていたより快適でした。 ただ、ホットシャワーは使えますがシャワールー
ムが狭すぎるのが難点でした。
船から見たジャヤプラの街の中心部(写真左:幅 300m奥行き 800mの平地部)
、海岸沿いに続く街部(写
真中央)と太平洋に出ていく湾口部。
1等船室A客専用のダイニングルームでの期待した食事は、肉、野菜、魚の 3 品での簡素なビュッフェ方
式、スープもデザートもありません。 勿論ビールも飲めず期待外れのものでしたが味だけは満足なもの
でした。(お腹が空いていた所為だけ?)
沖合(太平洋)に出て、この海域で亡くなった日本兵士方々への鎮魂は大げさですが、大戦後我々が生ま
れ、満足できる人生を過ごし、今ここに居られることへの感謝を兼ねてデッキから先人たちに手を合わせ、
9:00 過ぎには心地よい揺れを感じながらこちらの方が安らかに寝入ってしまいました。
6 日目 : ビアック島着: 北のアッツ島、南のビアック島と称された悲惨な玉砕の島、ビアック
島の戦跡を訪ねます。
このビアック島は、今では綺麗な海とサンゴ礁のダイビングスポットとして欧米の観光客の穴場的場所ですが
日本人にとっては、ソロモン海戦に敗れ、米軍のフィリピン進攻、北上を防ぐ最後の防御基地としてこの島に
1万人を越える工兵部隊が動員され滑走路の建設を急いだが、実際には供用に至る前に米軍の攻撃を受け、
殆どの工兵の方々が悲惨な玉砕に至った悲しい島なのです。
(間違っているといけないのでインターネットで調
べて下さい)
昨日乗船時のジャヤプラ。
夜明け前 4:00 頃、
海には涙雨が・・・・
夜明けとともに雨も
9:00 頃ビアック島が?
上がりました。
違いました。向いのヤ―
プン島でした。
予定より 2 時間遅れて12:00
海から空港越しに見る悲惨な玉
にビアック港に着きました。
砕の地となった西の洞窟がある丘。
ビアック港の接岸ふ頭です。
同じく東の洞窟がある丘です。
下船と同時に売り込みに来た親父のぺモです。この島にはジャヤプラ
同様タクシーは無いようです。 戦時中の火器類も展示されていると
いう極楽鳥博物館と西の洞窟と見学してホテルへ行きたいので1時
間の貸切でいくら? に「Rp 100,000」
、少々高いと思えどもこの
辺りでは既に交渉することに飽きていましたので、言い値でOK。 親父にとっては、1時間で50人乗
せるのと同じと考えれば楽なドライブです。 ニコッと笑って走り出しました。 街中の道路は歩道の付
いた6mを越える道路でヨーロパナイズされた雰囲気の町並みです。(あくまでも雰囲気のみ)
走り出
して15分ほど走った海岸近くで、
「Museum Jepang」に着いたと言いますが極楽鳥博物館が見当たり
ません。
ここだと指さす方向には、「第二次世界大戦慰霊碑」と書かれた石碑があるだけで、ここが
「Museum Jepang」だと言い張りますが、良く伝えられなかったこちらの問題として、慰霊碑に手を
合わせました。慰霊碑前には線香立が置かれていましたので遺骨収集の方々が建立されたのでしょうか。
場所は米軍上陸地点辺りと思われるので両軍兵士の慰霊のためにと単に「第二次世界大戦慰霊碑」と刻ま
れたのでしょう。(推測) 極楽鳥博物館は、通称「Museum Jepang」、西の洞窟は「Abyau Binzar」
(お婆さんの洞窟)で通用するとのことで親父にはそのように話したのですが。
その「第二次世界大戦慰霊碑」です。
西の洞窟には間違わずに辿り着けました。 洞窟は丘の斜
面に在り、丘の上にはこの西の洞窟での戦闘時の状況や様子が詳しく説明された資料(多分生き残られた
方々が戦友を偲んで作成されたのでしょう)を展示した小さな建屋が設けられ、洞窟へと降りていく道は
石畳で整備され、庭や道脇にはその当時の火器類、砲弾、爆弾等が無造作に展示されていました。 石畳
の道は、この施設を管理しているおばさんの手で綺麗に落ち葉ひとつなく掃き清められていました。
通路わきの重機関銃?
石畳の道の途中に日本国政府が
どちらの軍のものでしょう?
建立した慰霊碑がありました。
洞窟(鍾乳洞)への入口です。
降りていく階段途中からの入口
洞窟の上に大きく開いた穴。
洞窟の底です。 真っ暗で内部
までフラッシュが届きません。
中には 2000 名が収容可能だったと言われていますが 1000 ㎡までの広さは無い様に思えます。 爆撃
で開いた穴なのか、元々の穴なのかは解りませんが、穴の下部付近を除いて暗くジメジメした悪い環境で
す。 滲み出た地下水が垂れ落ちる音が大きく響き、静けさの中に閉じ込められた寂しさを感じます。 こ
の島では 10,000 名以上の日本兵が戦死されたと聞いていますが、この西の洞窟だけで 3,000~5,000
名の日本兵が戦死、玉砕、自決で亡くなったと言われています。 玉砕の島故に詳しい数は不明とのこと。
心ならずも徴兵され戦地に赴き、ただ死ぬだけの境遇に置かれた兵士の方々のことを考えると戦争を知ら
ない私でも思わずその無念さに、その純粋さに手を合わさずには居れませんでした。
その西の洞窟の正面の海岸に在る私が泊まったホテルです。 リゾート風に建てられたホテルのプールの
前面には 300m位の沖合まで浅いサンゴ礁が拡がっています。
ロビーには結構欧米人の客が目立ちま
す。 もう1世代でこの島も戦争のことは完全に忘れ去られリゾート客が闊歩する島に変貌することでし
ょう。 慰霊のために今日は酒を止めようかとも思いましたがウェイターからビールがあることを聞いて
しまい、黙祷後にビールを飲むことで自分なりのケリは付けました。
7日目 : あとは帰るだけ、空路2,500 ㎞:スラウェシ島ルウックに戻ります。
パプア人形が西の洞窟に向かって
手を振っています。
スラウェシ島より
結構立派な空港です。
定年退職後の B737-300 です。
この仲間と一緒に帰ります。
永田
憲行
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