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第16号(2006年11月30日発行)
Bericht des Deutschen]Iauses in Naruto 鳴門市 ドイツ館館報 第 16号 11月 ド イ ツ ― 村 30日 館郎 発行 日 2006年 発 行 鳴 門 市 編 集 館長 田 〒7 7 9 - 0 2 2 5 鳴 門 市 大 麻 町 桧 字 東 山 田 5.5-2 TEL1088 689 0099 FAX:088 689 0909 URL:http://www cty naruto lg i。 /germanhouse/ e― ma‖:do tukan@cty naruto lg ,p ミニ特集 高木繁副所長 のあれ これ 去る8 月2 6 日徳島城博物館で、 「 徳島における ドイツ 2 ∞ 6 」 の協賛事業の一つとして、 「 徳島 ・ 板東停虜収容所長松江豊寿 の 実相を求めて」とい うフォー ラムが開かれま した。 参加者は7 0 名ほどで したが、地元ばか りでな く岡山や高知か ら来 られた講 師やパ ネラーの報告 と参加者の熱心な質問が相 まって、活気の ある有意義な会 にな りま した。 その席で もある報告者か ら、松江所長ばか りでな く、 ドイツ 兵の間で も人気が高かった高木副所長 にもっと注 目してはとの 発言があ りま した。 あ らためて 『 デ ィ ・バ ラッケ』 にも当た ってみま したが、松 江の名が出て くるのは4 回で すが、高木は 1 0 回も出てきます。 正装 した高木繁大尉 ことに所 内の様子を停虜 どうしの交換な どを通 してユ ーモラス に描 いた 「 収容所漫筆」 に、6 回 もの記述があ ります。回数を 制限されて いた郵便 に余裕を与えた り、みんなが関心を持 って いた停虜交換 とか大阪 への移転な どの問合せ先 にな った り、時 には小さな高木が、 ミスを した大きな ドイツ兵 に制裁を加えよ うとしたが届かず失笑を買 うな ど、巧みな ドイツ語 と人柄を生 か して ドイツ兵 と身近 に接 していた様子が うかがえます。 今回の企画を前 に、たまたま高木副所長の孫 に当たる三男利 メ ール会 報』 に連絡をく 男さんの ご子息康男さんが、丸亀の 『 だ さいま した。担当の小阪清行 さんが横浜で会われるな ど交流 を深め、その経過や手に入 った情報 をまとめて くださいま した。 また8 月初め に副所長の次男弘司 さんの奥様和子 さんが、息子 さんな ど一 族8 人で ドイツ館 に来 られ ま した。小 さい子の一 人 が展示室の高木 さんの写真を見て、映画の人 ( 国村準 さん) と そ っくりと言 い出 し大笑 いしま した。その和子 さん にも原稿を 頼みま した ところ、 自分よ り詳 しいか らと二男利男さん にお願 いして くださ いま した。 まだまだ十分 とは言えませんが、 これ まではっき りしなかっ 家族 とと も に ( 昭和 5 ・ 6 年 頃) た ことや思いがけな い情報 も出てきます。お楽 しみ くだ さい。 影 November 2006 一 、 階級 : 準 軍属特 別未 帰還 者邦 人 三 、 所 属部 隊 : 浜 江省 吟爾 浜市 ハ ル ビン特務 機 関 高木繁 に関する覚書 三、 死歿年 月 日 : 昭 和 二 十八 年 四月二 十 日 小阪 清行 松江豊寿 と比較 して、高木繁 については不明の点が極めて多 四、 死歿場所 : ソ ビエ ト連 邦 スヤ ン ドロフクス 州 アザ ン病 院 五、 死歿 時本 籍地 : 兵 庫 県尼 崎市 西字 荻 ノ戸五二 九 ノー い。限 られた情報源か ら、比較的信頼 に値すると思われる点を 六、 死歿 時御 遺族 : ( 妻) 高 木 列挙 してみた い。 七、 合 祀年 月 日 : 昭 和 四十八 年十 月十七 日 高木繁 には妻理久( りく) ( 徳 島の足袋屋の次女) と の間に四 りく 繁 の先 祖 につ いて も記 して お きた い。 人の子供が いた。長男頴夫 ( ヒデオ) 、次男弘司 ( 故人) 、長女 1 6 5 8 ( 万 治元) 年 に播 州龍野 よ り丸亀 に移 り住 ん だ先祖 高木 サカエ ( 故人) 、三 男利男の四氏である。以下の情報は、利男氏 左介 ( 佐 「 助」 と書 かれ た 史料 もあ る) が 住 んで いた 屋 敷跡 は、 「 丸亀 ドイツ兵停 虜研 究会」 の 嶋 田典人 氏 によ って、 掛軸 「 元 の長男康男氏か ら得た ものが多 い。 和2 8 ] ) 。父高木寄生二郎( きせ 高木繁 ( 1 8 8 6 [ 明 治 1 9 ] ∼1 9 5 3 [ 昭 禄 四年 丸亀 町家之 図」 に基 づ いて ほぼ確 証 され て いる。 県立丸 じろう) 、母チセ。父親は海軍の主計官を していた。 出生地、丸 亀 高校 の南 東角付 近で あ る。 な お、 康 男氏 か らの情報 で は、 高 亀市。三 男利男氏の記憶 によれ ば、本籍地は丸亀市 中府町4 6 3 ゛ の 1 ( ひ ょつとすると1 0 ? ) で 、現城乾小学校のす く側だ った。 本 家の石 高 は三 百石 で あ つた。 高木 家 の菩 提 寺 で あ る法 音寺 は丸亀 市南 条 町 4 に あ り、浄 土 繁は陸軍大阪地方幼年学校 に進み、陸軍士官学校 を卒業 した 宗禅 林 光 明 雨 寺 の 末 寺 で あ る。 丸 亀 市 観 光 協 会 のH P に よれ ば が、特 に語学 に秀で、 ドイツ語をは じめ、英語、 ロシア語、中 同寺 は 「 京極 高和 公 に従 い、 兵庫 県龍野 市 か ら丸亀 に移 り、 延 国語など 7 ヶ 国語 に通 じていた ことは周知の通 りである。 宝 2 ( 1 6 7 4 ) 年 に創 立 され た。 ( 中略) 墓 地 には、文 学 の井 上通 松江所長 とともに徳島収容所 に赴任 した ときは陸軍中尉だ っ たが、徳島時代の大正 5 ( 1 9 1 6 ) 年 5 月 2 日 付で大尉 に昇進 し ( 川上二郎氏か らの情報) 、板東収容所 で松江の副官とな った ( 当時3 1 歳) 。それ以後の高木の経歴 は、瀬戸武彦氏の名簿 に よれば、以下の通 りである ( 瀬戸氏 によれば、 この記述の主な 女 ・三 田義 勝 ・巖村 南 里、 俳 諧 の齋 田五蕉 、砲術 の赤 羽杢 之進、 医術 の三 田耕 亭 や勤 皇 家土肥 大作 、 大 阪屋 黒瀬 家等 の墓碑 が あ る」。 すなわ ち丸亀で は名 刹 とされ て いる。 高本 家の墓石 に刻 まれ た文 字 は以 下 の通 りで あ る。 左側 面 : 延 贅 二 年 以 降先 祖代 々 情報源は、繁の次男弘司氏 へのインタヴュー に基づ く、2 0 0 0 年 大正 四年 四月建 之高木 寄 生二郎 右 側 面 : 元 祖 高木佐 介 萬 治元 年正 月 5 月 2 2 日付の読売新聞徳島版の記事である) 。 「 板東収容所 閉鎖後 は福 山連隊等 を経て、1 9 2 9 年に陸軍 中佐 二 移封 京極 高和 公丸亀城 主 二 付 龍野 ヨ リ随 ヒ来 る で退役 した。退役後は兵庫県外事課、 ドイツ系のバ イエ ル薬品 かな り以 前、 墓 の墓地 内移転 の 際 に住 職 が確認 した ところ、 勤務を経て、 1 9 3 5 年満州のハル ピンに渡 った。外資系の百貨店 墓 の 中 に遺 骨 は全 然 入 って いな か った との ことで あ る。 ソ連 か 秋林洋行 に勤務 し、 日中ソ間の情報戦 に従事 した とも言われる。 ら遺 骨が 帰 って いな いので 、 当然の こ となが らも、繁 も父親 が 終戦後、ソ連軍 によってシベ リアのバ イカル湖東方のチタに抑 建 てた この墓 に眠 って は いな い。 留され、最後はス ベ シ ドロフスク州 ( 正しくはスヤ ン ドロフク ス州) ア ザ ンの病院で病没 した とされている」。 父の思 い 出 康男氏が靖國神社 に問い合わせた ところ、以下のよ うな回答 があったが、 これ によって上記の内容がほぼ正 しかった ことが 証明された と言えるかもしれな い。 三男 高木 利男 思 いつ くまま に、 つれ づれ 草 風 にな りま したが私 の記憶 を記 してみ ま した。 ① 昭和初年 ごろ ( 私が幼稚園の ころ) 、兄弟 3 人 が横 ― 列に並ば されて父の教練を受けた ことがあ ります。今な ら、ダン ゴ 3 兄弟と言 ったところです。番号の1 , 2 , 3 は 、 ドイツ語のアイ ンス ・ツヴァイ 。ドライで、当時の高等学校の寮歌の始めの 様な もので した。敬礼 も、陸軍式 に指をそろえる様 に教え ら れ ま した。 ② 父は昭和 7 年 に兵庫県 ( 外事課) を 退職 し、満州ハル ピン市 の秋林 ( チュー リン) 洋 行 という商社 へ赴任 しま した。社長 は ドイツ人で、多くの ロシア人、 中国人の中に日本人は少数 で、言葉の違 いを調整 して会議をまとめる役害」 を主な仕事 と していま した。語学が好きで したので、外交官にな らないか と誘われま したが辞退 した 由です。 丸亀市法音寺の高木家墓 ③ 私が小学生の頃にはノモ ンハ ン事件やゾルゲ事件があ り、ソ Rtt No∨ ember 2006 連が満州を敵視 して いる事 を感 じま した。なぜな ら第 5 列 ( 当時のスパ イの こ と) に 注意 というポスタ ーを、小学生 に 画かせていた時代で したか ら。 びやマラソンの孫選 手の優勝 も印象 に残 っていますが、 ドイ ツの国歌は荘重な旋律で記憶 に残 っています。歌詞は世界 に 冠たる ドイツ ( ドイチ ュラン ド イ ーバ ー ア レス イン デ い うもので、父か ら説 明を聞 いて い ま し ヴェル ト) と かつては林業で 栄えた町ですが、 ここに徳島と板東で停虜生活 を送 った ドイツ人が解放後、若 い ドイツ人の妻 と住んで いた と ④ ベル リン五輪は、民族の祭典 という映画で見ま した。三段跳 ア 「 美深」と言 う町があ ります。 「ピウカ」は、そのアイヌ名です。 ユ リウス ・ク ラ ンツ ( 」 い うので す。 ドイ ツ人 の 名 は 「 ulius Kranz)」 で1 9 6 1 年に没 しています。 この人が美深 にや ってきたのは、材木のせ いで す。松浦 さんの 話です と、 ことに道北 と呼ばれる大雪山の北地域のナラな どの 広葉樹は質が高 く、 ヨー ロ ッパ では 「 銘木」と して珍重されてい た。野ばら ( ハイデ ン ・レースライン) と 言 う歌は、今で い うN H K で 放送 して いま した。歌詞 は “ わ らべ は見た り野 中の 温度差 にあるよ うです。夏は急激 に成長 し、冬は身を縮めて生 バ ラ" と い うもので、 中学生 にな ってか ら合唱 していま した。 き通す ことで木 目のはっき りした硬度の高 い樹木が生まれるの ま した。その最大の理 由は、夏は3 5 度冬は零下3 5 度とい う厳 しい ⑤ 私は陸軍幼年学校で も ドイツ語を学ぶ ことにな り、3 年 間の です。 ヨー ロ ッパではこうした 北国の広 葉樹は家具 に用いられ 学習期間を与え られ ま した。父か らは ドイツ語で手紙が送 ら るばか りでな く、特 に最良の棺桶の素材 とされ高値をよびま し れてきたので、字引きを引きなが ら同期生 と読み合わせて返 た。そ うした貴重品が安 く手 に入ることに目を付けたのが ドイ 事をまとめま した。 ツのゲル トネル商会で、小樽 に支社を置き良質の材本の獲得 に ⑥ 満鉄の後藤総裁が開 いた、ハ ル ピン学院 という専門学院があ 努めま した。そのためにクランツは、 美深 にや って来たのです。 りま した。 この学校 へ ロシア語を学ぶ 目的で陸軍か ら入学 し 1 9 2 3 年頃か ら4 年 間ほど松浦 さんの父親が経営する製材工場 た人達のお世話をすることも、父の仕 事の一部であった様で と協 力 し合 い、2 組の新婚夫婦は助 け合 って北辺の地で過 ごし す。戦後ユ ダヤ人の救済 ビザで 有名 にな った杉原千畝 ( り 卜 ま した。 しか しクランツ夫人が火事を 出 し小樽 に転勤、後 に帰 アニ ア領事) も 、 ここの 卒業生の 自です。 国 したとのことである。 ⑦ 昭和28年厚生省から父は未復員戦病死の認定を受け、靖国神 松浦光二 さんは現在は札幌に住んで いますが、2 0 0 2 年に ドイ 社 に合祀 され ま した。 享 年 6 8 才、 埋 葬地 は ス ベル ドル フス ク ツか ら手紙が届きま した。クランツの 末娘のエルケか らのもの 州 ( モス ク ワ東方) と の ことで す。 で、何度か手紙をや り取 りするうちにある依頼が来ま した。父 祭 神 調 査 の 件 ︵ 回 答 ﹀ 平 成 十 八 年 六 月 二十 日 靖 回 神 社 社 務 所 御 準 軍 属 特 別 未 帰 遺 者 邦 人 浜 江 省 吟 爾 浜 市 ハ ル ビ ン 特 務 機 関 日・ 昭 和 二 十 八 年 四 月 二 十 日 高 木 鷹 男 殿 月 高 木 り く 首 標 の件 、 こ の 度 御 照 会 の御 祭 神 に つき ま し て 当 神 社 資 料 に基 づ き 左 記 の 通 り 回答 申 し 上 げ ま す 。 年 階 撃 歿 ^妻 ︶ 日 昭 和 四 十 八 年 十 月 十 七 日 所 属 部 隊 死 月 時 御 遺 族・ 年 死 歿 場 所 ソ ビ エ ト 連 邦 ス ヤ ン ド ロ フ ク ス 州 ア ザ ン 病 院 歿 時 本 籍 地・兵 庫 県 尼 崎 市 西 字 荻 ノ 戸 五 二 九 ノ 一 死 祀 死 歿 合 ” 調 第 四三七 号 は結婚前 に日本人女性 と付き合 っていて、男の子 もいた と母か ら聞 いた。血のつなが った者 として申 し訳な く思 っているが、 どうにかその義兄を探 して もらえな いか と い うのです。松浦 さ んが困つたのは昔小樽 にいたというだけで、その 日本人女性の 名 もその息子の名 も判 らな いとの ことで す。か りに存命で も 8 0 過ぎにな りま しょうが、何かの偶然でクランツにつながる情 報が得 られればと期待 してお られます。ひ ょんな ことか ら、篠 田和絵 さんの ドイツ人祖父のお墓が見つか った例 もあ ります。 何か ご存知の方は、ぜひ ご連絡 くださ い。 高木大尉 についての靖国神社からの回答 二さス だドイツA」(松 :甫 光三 ハ 夕 9 月 に、札 幌の松浦 さん という方か ら4 8 ペー ジほどの手作 り のE 口 刷物が送 られてきま した。 「ピウカに住んだ ドイツ人」と題 バ ル トの楽園』に触発 されて」という副題がういて し。 「 映画 『 います。北海道の旭川か ら北 へ1 0 0 キロほ ど行 つた ところに、 影 November 2006 ユ リウス ・クランツと松浦周太郎 (大正 11年 12月25日 撮影) ド き定 続 予 ﹂ ざ畿調 引 申 ト ・ ︲ ヽ卜 問 財 歌甲″円 に文 定 定 指 指 跡 県 史 も 県 J J料 碑 資 霊蔵 慰 所 丘翁鰤 ツ ツ ド イ イ 鳴 門市 は これ まで、板 今後 の行事予定 1 1 月1 8 日 - 1 2 月 2 4 日 ドイツのク リスマスマ ーケ ッ ト展 12月 3日 ドイツ館のク リス マス会 東停 虜 収 容 所 関連 の施 10日 「ドイツ館友の会」 ク リス マス会 設 ・資 料 の文 化 財 と して 16日 マル デ ィグラ の 価 値 を 後 世 に伝 え る 23日 角泰志クラ リネ ッ トリサイタル2 0 0 6 年 こ とをめ ざ し、い くつ か 1 月 3 日 ∼2 8 日 の 申請 を 行 って き ま し 1月 6日 た。 そ れ が 実 り2 0 0 4 年 1 月 には、大麻比 古神 社 1 2 日- 1 4 日 2 月 3 日 ∼2 5 日 境 内の 「ドイ ツ橋」 とそ の標柱 が 「 県史跡」 に指 11日 3 月 3 日 ∼2 5 日 板東停虜収容所の 日本人寄贈品 ・所蔵品展 ピアノコンサ ー ト ( 予定) 子 ども県展巡回展 ドイツ本版画 ワー クシ ョップ作品展 田中貴志 ピアノコンサ ー ト デイ ・バ ラッケ』 板東停虜収容所新聞 『 の世界 ( 予定) 定 さ れ ま した。 ま た そ れ に 続 き2 0 0 4 年暮 れ に 県出身の東京芸大在学生のピアノコンサー ト 17日 は停 虜 の下士 官 ・兵 卒用 ヴィル ヘルム ・ミュラー少尉 による画 バラッ の 兵 舎 だ った 「 ケ」 2 棟 と船 本牧 舎 が 国 バ ラ ッケ」 1 棟が、 の 「 有形文化財」 に登録 され、その うちの 「 『 バラッケ』および『 帰国航』の ディ・ 道の駅」の 「 物産館」 として復元 され 本年 7 月 に開設 された 「 「ドイツ語版」が CD化 ま した。 もちろん 1 9 1 9 年8 月 に完成 した 「ドイツ兵慰霊碑」 も申請 を 『 バ ラッケ』の第 1 巻 か ら第 3 巻 まで と 6 冊 の月刊分、 デ ィ・ めざ していま したが、諸般の事情か らやや遅 くな りま したが こ それ に帰国の船 内で出された 『 帰国航』の 「ドイツ語版」 のたび徳島県教委を通 して、「 県史跡」と して県文化財保護審議 です。 ご活用下 が入 った C D が で きま した。一枚3 , 0 0 0 円 会 に諮問されることにな りま した。 さい。 ディ ・ なお鳴門市では、引き続き ドイツ館所蔵の所 内新聞 『 バ ラッケ』な どの新聞 ・書籍な どの文献資料、所長の軍服 ・停 県文化財」 虜制作の家具な ど、9 0 年前の香 りを伝える諸資料の 「 『「 青島戦 ドイツ兵停虜収容所」研究 第 4号 』刊行 指定をめざ し、現在 申請資料を作成 中です。その過程で 日独の 資料の寄贈者の名前が明 らか になるな ど、 さまざまな発見 もあ りま した。その詳細 は申請承認の成果 とともに、次号で紹介で 全国 『 研究誌』の 「 第 4 号 」ができま した。 ご購読 くだ きることを楽 しみ にしています。 映画や ロケ村の人気 もあって、最近は慰霊碑を訪れる人 も増 えていますが、参道をもっときれ いにとの意見 も寄せ られて い ます。去る1 1 月1 3 日鳴門市 シル バ ー人材セ ンタ ーの方 々が中心 さい。なお、不足 してお りま した 「 創刊号」 と 「 第 2号」 も刷 り増 しま した。 いずれ も 1 部5 ∞円です。 にな リボランテ ィアで、「ドイツ村公園を創る会」の会員 も協力 して草刈 りを しま した。今後 も時期を見て続 けた いと思 います。 ⑪ ご協力下さい。 編集後 記 ミ 今回は関係者な どの ご協力をえて、高木繁副所長 の 「 ニ特集」を組んで見ま した。初めて聞 くことな どもあるか と思います。お楽 しみ下 さい。札幌の松浦 さんか らのユ リ ウス ・クランツについて もそ うですが、高木 さん につきま して もご存知の情報が ございま した らぜひお知 らせ下さい。 ロケ村が半年で 1 3 万人を越えるほどの人気ですので、 ド イツ館の入館者 も1 0 月で昨年の 2 倍 を超えま した。県外か らの方 も多く嬉 しい悲鳴です。 いっそ うの進展を期待 して います。 ( 田村) 慰霊碑 への参道を草刈 りしているよ うす 影 November 2006