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戦争中の生活と食体験
ぼうくう ず きん こと。 ご も めん くう しゅう 疎開生活①︻東京から長野県へ︼ わたくし き おく たか だ あけ み 高田明美さんのお話から さい ごろ あま 記 憶 と い う と、 小 学 校 に 入 学 す る 前、 五 歳 頃 か ら の も の に な り ま す。 ま ず、 甘 私 の戦争の か し あま いもの、お菓子が少なくなっていきました。近くのパン屋さんからパンを焼く甘いにおいがす なら かぎ る日としない日がありました。やがて、においのしない日がだんだん多くなってきました。パ なら ンを焼くにおいがする日は、みんな並ぶようになったのですが、数に限りがあるので、いくら ほ 並んでも買える日と買えない日とがありました。パン屋さんもパンを作りたいけど、材料が手 てき ほ に入りません。だから、食べられない日がたくさんありました。 ﹁欲しがりません。勝つまでは﹂ ほ ころ せい ど げんぶつ し きゅう とか、﹁ぜいたくは敵だ﹂というふうに言われて育ってきました。だから、何か欲しいと思っ わたくし ても、 ﹁欲しい﹂と言えないのです。 が小学生の頃、 着る物も﹁配給﹂という制度になりました。現物が支 給 されるのではなく、 私 きっ ぷ びんぼうにん きっ ぷ 衣料切符というものが配給されました。しかし、貧乏人は切符があってもお金がなく、洋服を じょう きょう びん ぼう にん きっ ぷ 買えません。洋服どころか、食べるものを買うこともできなかったのです。お金持ちは、お金 きっ ぷ びんぼうにん きっ ぷ じょうたい はあっても切符が足りないという 状 況 で、お金持ちは貧乏人から切符を買い、洋服を買って じゅ ぎょう 着ました。貧乏人は切符をお金にかえて食べ物を食べるという 状 態でした。 しょく ぼう くう ず きん お つくえ もぐ こ つくえ 校での授 業 は、二年生のときに九九を習ったのが最後でした。あとは毎日のよ 東京の小い学 ん すわ うに、 職 員室の方から鳴るサイレンの音が聞こえたら、すばやく自分の座ったいすを 机 の上 ばくふう において、防空頭巾をかぶって、目と鼻と耳を押さえ、 机 の下に潜り込むなどの訓練を行っ ていました。そうしないと、爆風で目が飛び出たり、耳が聞こえなくなったりすると言われま 76 戦争中の生活と食体験 きぬせい ず きん かぶった綿入れの頭巾の わた い ら頭部を保護するために ほ ○防空頭巾 空襲などの ときに 飛 来 物 や 落 下 物 か ことが で き な か っ た 。 金の両 方 が な け れ ば 買 う きっ ぷ 銃 後 ○衣料切符 木綿や絹製 きっ ぷ 品は配付された切符とお 第2章 ぼうくうごう あな ○防空壕 航空機による こうげき 空からの攻撃から身を守 るためにつくった穴や地 ほ 下室。 高 田 さ ん の 学 校 の し ものはただ掘って板を下 つくえ ろう か なら じっさい くう しゅうけい ほう ぼう し た の で、 い つ も 何 分 で、 何 秒 で で き る か 試 さ れ て い ま し た。 実 際 に 空 襲 警 報 が 鳴 っ た 時 は、 くうごう すべ こ 机 の下にもぐらないで、廊下に出て、二列に並んで、先生の後について学校の地下にある防 空壕に滑り込みました。 もど 家へ全速力で走っ また、校門から自分げの ん かん て 帰 り、 自 分 の 家 の 玄 関 を タ ッ チ し た ら、 また全速力で学校に戻ることも行いまし けいかい た。先生は、子ども一人一人が何分かかる けいほう か計っていたのです。早く帰れる子は警戒 あま ふ わ 警報の時には家に帰す。家が遠いとか足が ぎょう しゅう じゅ ぎょう けい かい けい ほう ざん 77 余りはやくない子は帰さないという振り分 ゆうせん け を し て い た の で す。 先 生 方 は、 授 業 よ りも、命を守る方を優先するため、そうい うことばかりしていました。 そ かい 小学三年生の時、二つ年上の兄とともに 東京に母を残し、泣く泣く長野県上田市の こうがい くう 郊外、中塩田村というところに疎開しまし じゅ た。 そ こ は、 こ れ ま で 空 襲 や 警 戒 警 報 が わ な か っ た の で 授 業 も 行 わ れ、 勉 強 も 進 ん でいました。習ったこともない割り算の試 験があって、全然わかりませんでした。家 戦争中の生活と食体験 い りょう き っ ぷ に敷いただけのものでし た。 第 二 章 イメージ図 衣料切符 せん きょう に帰ってから、兄に教えてもらったりしてい じゅ ぎょう ま し た が、 だ ん だ ん 戦 況 が 悪 化 し て い っ て、 くう しゅう けい かい けい ほう 授 業 ができなくなりました。 ちょう 襲 や警戒警報が鳴るわけではないので 空 へい す が、 男 の 人 た ち が 徴 兵 さ れ て し ま い、 農 きんろうほう し 業を続けるのに人手が足りなくなったので す。それで、三年生以上は勤労奉仕のため勉 強はせず、一年じゅう畑仕事をしました。そ が まん のときは食べる物も着る物もなく、本当につ らい毎日でした。 くあれだけ我慢できた 今思い出してもが、まよ ん なと思うほどの我慢をしました。本当におな ざっそう かがすいて、雑草でも何でも毒にならないも のなら何でも食べました。白いご飯は年に一 べんとう 度食べることができるかどうか。学校ではお 弁当を持っていかなければなりませんでした き ちょう べんとう げん しる ふくろ 78 きんろうほう し こん ぬの が、ぞうすいしかなかったので、アルミのお弁当箱から汁がこぼれないように水平に持ってい に かなければなりませんでした。夏になると、イナゴを布の 袋 いっぱいにとりました。とった わたくし イナゴはつくだ煮にして、貴 重 なタンパク源となるのですが、都会の子どもにとってそれは 食べ物とは言えず、 私 は食べることができませんでした。 イナゴ ○勤労奉仕 公共的な目 的のた め に お 金 等 を も ら わずに 働 く こ と 。 ちゅう ○イナ ゴ 科の昆 バッげタ ん 虫 。タ ン パ ク 源 当 時 は イナゴ だ け で な く 、 コ オ ロギや カ マ キ リ も と っ て いたよ う で あ る 。 イメージ図 たんすい ま ○タニ シ 淡水産の巻き す くう しゅう わたくし んなふうに過ごしているうち、戦争が終わる年の三月、大空 襲 で家を焼かれた母と兄が そそ かい いっしょ 疎開先に来て一緒になりました。家がなくなったのですから大変なことです。しかし、それで こうかん ざいさん も母に会えるということが、本当にうれしかったです。失うことも多かったですが、私 にとっ そ かい て、ようやく命をおびやかされずに、得ることができた平和でした。 家を失っての疎開ですから、農家で食べ物と交換してもらえるような着物などの財産はあり ふ つう す ません。水害でダメになった大根、かぼちゃ、さつまいもなどは普通はまずくて捨てるしかな くう ふく さが かき ほ い、 そういう野菜をもらって食べていました。にわとりのえさにしかならない物も食べました。 ほ くき くわ ばたけ くわ い つ も 空 腹 で、 食 べ ら れ る 物 を 探 し て 歩 い て い ま し た。 か ぼ ち ゃ の 種、 柿 の 皮 の 干 し た も の、 79 くうふく ちが ・昭和10年(1935年)生まれ ・札幌市厚別区在住 タニシ、がまの穂の茎などをとりました。学校に通う時は、いつも桑 畑 を通って桑の実を食べ、 わたくし 高田明美(たかだ・あけみ)さん がい そ かい わたくし わたくし けい ・平成20年8月2日 厚別南児童会館 ・平成20年11月18日 大谷地東小学校 空腹をまぎらわせていました。 とういつ 東 京 に す ぐ に は 帰 る こ と が で き ず、 六 年 生 戦争が終わってさも いたまけん うら わ うつ の 時 に い っ た ん 埼 玉 県 の 浦 和 に 移 り ま し た。 当 時 の 学 校 教 育 は 統一されていなかったので、長野県の疎開先とは教科書も違い、 ちが 習っていることも全く違うので、勉強でも苦労しました。 わたくし わか 心ついたときには、世のなか戦争一色で、本当なら 私 が物 す 楽しく過 ごせたはずの子ども時代がありません。 私 は、のび す のびと自由を楽しんでいる若い人たちに、 私 たちのような青 だれ 春を過ごさせたくないと心から思います。 私 たちは戦争にほ けん ん ろ う さ れ た 世 代 で す。 戦 争 で 失 っ た 時 間 を、 今 後、 誰 に も 経 験してほしくありません。 戦争中の生活と食体験 平成20年度厚別区平和事業 聴き取り 貝。 ぬま ○がま 沼 や池の浅いと ころに は え る ガ マ 科 の 多 年草。 第 二 章 DATA