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空 くう におびえ、空 腹 ふく に泣いて金 かな
き しゅう を生産 す る 。 ゆ だん かた ふ 主に武 器 や そ の 材 料 な ど 子どもたちの生活④︻山形県︼ くう しゅう わたくし くう ふく き わたくし 金津豊文さんのお話から にしおきたまぐん お ぐに ちょう しゅうこう げき くう わたくし ぐんじゅこう しゅうけい ほう じょう 襲 警報が出されて町中にサイレンが鳴り響 敵 の 飛 行 機 が 近 づ い て く る と、 夜 中 い つ で も 空 きます。 私 の父は軍需工場で働いていました。工場に爆弾が落とされたら、誰かが火を消し わたくし の 住 ん で い た 小 国 町 に は、 鉄 や カ ー バ イ ド を 作 る 軍 需 工 場 が あ り ま し た。 軍 需 工 場 の あ 私 る町は、ねらわれて空襲されることが多く、いつ空襲があるのかとおびえていました。 戦争の時代を生きた一人として、 私 はみなさんに知ってほしいと思います。 わたくし 私 はまだ小学生でしたから戦場には行っていません。しかし、戦場に行って死んだ人、空 襲にあって死んだ人だけが大変だったのではなく、日本人みんなが大変だったと言うことを、 わたくし りでした。 八日には、日本の海軍がハワイの真珠湾を奇 襲 攻撃したのです。これが、太平洋戦争の始ま しん じゅ わん 私 は、昭和十一年︵一九三六年︶に山形県西置賜郡小国 町 に生まれました。 私 が二歳のと き、昭和十二年に日中戦争が始まりました。その四年後、 私 が六歳の時の昭和十六年十二月 わたくし かな つ とよふみ 空襲におびえ、空腹に泣いて ○軍需工場 軍隊が必要 と す る も の を 作 る 工 場。 ぐん じゅ 意 打ち 。 い い方法 で お そ う こ と 。 不 ふ ○奇襲 相手の油断、不 い 意 をつ い て 、 思 い が け な 銃 後 ○カー バ イ ド 硬く重い 金属と し て 武 器 に 使 わ れ た。 た り、 大 切 な も の を 工 場 か ら 運 ん だ り し な け れ ば な り ま せ ん。 父 は 自 分 の 危 険 を か え り み ず、 わたくし わたくし 工 場 へ 走 っ て 行 き ま し た。 も し も、 爆 弾 が 落 と さ れ た ら 町 中 が 火 の 海 に な り ま す。 だ か ら、 私 と母は近くの山へ逃げました。私 たちの家族だけではなく、町の全ての人が山に逃げていっ たのです。 。だから、街灯も 夜、空襲をするために飛んでくる飛行機は、町の明かりを目指して来ます とう か かんせい 消し、 家の光が外へもれないようにしなければなりませんでした。これを灯火管制と言います。 72 第2章 けいぼうだん ぼうさい 町の家々ではふろしきを電灯のかさの周りをグルリと取り囲むようにしてまき、外へ光がもれ けいぼうだん ないようにしながら、 ご飯を食べたり、勉強をしたりしました。外に光がもれると敵に見つかっ てしまうので、警防団の人が交代で見回りをしていました。もし、光がもれている家があると ﹁そこ、光がもれているぞ。﹂と大きな声 わたくし でどなるのです。 しゅう 私 た ち は、 学 校 の 体 操 場、 今 で 言 う ぼう くう えん 体育館で防空演 習 というものを行って いました。上から飛行機が爆弾を落とし 73 てきたときのための練習です。爆弾が落 わたくし 防空壕 とされると、ものすごい爆風で目をやら れ て し ま い ま す。 そ こ で 私 た ち は、 目 を押さえるのです。そして、鼻をふさぎ ま す。 爆 発 で お き た 熱 い 空 気 を 吸 え ば、 肺がやられてしまうからです。また、爆 こ まく 発の大きな音で耳の鼓膜がやぶれてしま うこともありますので、耳も押さえます。 このように、逃げる訓練をすることが防 ぼうくうごう 空演習です。また、爆弾が落とされたと きにかくれるためのあな、防空壕もみん なでほりました。 空襲におびえ、空腹に泣いて イメージ図 ○警防団 地元の防災の ために 地 域 の 人 々 で 作 ら れた組 織 。 第 二 章 ぼうくうごう ぼうくう ず きん わたくし 空頭巾を必ずもって行きました。爆弾から自分の頭や目や鼻や耳を 学校へ通うときには、防 守るためには、無くてはならないものだったのです。だから、子どもだけではなく、大人もみ ん な 防 空 頭 巾 を 持 っ て 歩 き ま し た。 こ ん な に 怖 が っ て い た 空 襲 で す が、 幸 い な こ と に 私 た ち の町では、爆弾はひとつも落ちてきませんでした。 空襲だけでなく、食べるものがないことでもつらい思いをしました。米は貴重なので大根を 混ぜたりして、 少しでお米を少なくしながらおなかがいっぱいになるよう工夫しました。また、 イメージ図 パンにも雑草を混ぜて焼いていました。 74 また、当時は自由に買い物もできませんで した。米も、みそも、しょうゆも、家族の人 きゅう 金属回収で出されたお寺の鐘 数によって決められた量の分だけキップをも はい らえました。そのキップと食べ物を交換する のです。これを配 給 といいます。この当時、 物は全て配給でした。 わたくし しかし、配給される食べ物だけでは生きて いけないのです。おなかがへって死んでしま う の で す。 そ こ で、 私 の 母 は 農 家 に お 金 や やみいち 着るものを持って行き、お米や食べるものと 取り替えてきていました。また、闇市という 場所もあり、かくれて物を買ったり売ったり することができました。しかし、これらは法 かね き ん ぞ く か い しゅう ぼん しょう ○梵 鐘 お 寺 の つ り 鐘 。 第 二 章 律に違反することなので、警察官に見つかると、せっかく手に入れた食べ物も全て取り上げら れてしまうのです。 わたくし どうしても食べ物がなくなると﹁次のときに返しますから、少しだけでも分けてください。﹂ と近所の家に食べ物を借りに行きます。それでも食べ物がないときには、お母さんがこう言っ て 私 にだけ食べさせてくれました。﹁お母さんはおなかが痛くてご飯が食べられないから、お 前だけ食べなさい⋮。﹂本当は自分もおなかが空いているはずなのに、子どもに食べさせるた めにうそをついていたのです。当時の生活は苦しく、よく母と二人で泣きました。そのころの きょう しゅつ しょう 75 ことを思い出すと、今でも涙が出てきます。 ぼん 平成20年度手稲区平和事業 聴き取り ・平成20年12月3日 ・前田小学校 金津豊文(かなつ・とよふみ)さん ・昭和11年(1936年)生まれ ・札幌市手稲区在住 戦争がいよいよはげしくなってくると、 供 出 が始まりました。資源が少なくなって飛行機 や 武 器 を 作 れ な く な っ て き た の で、 家 に あ る 鉄 や 銅 を 出 さ な け わたくし れ ば な ら な か っ た の で す。 な べ や、 や か ん な ど、 家 中 の 鉄 や 銅 かね を 出 し ま し た。 私 の 家 は お 寺 だ っ た の で、 梵 鐘 と い う お 寺 の 大きな鐘を出すことになりました。さらには、川にかかってい る橋の手すりまで材料のために持っていってしまいました。 戦争というのは、戦った人だけではなく、その後ろにいる全 て の 人 々 は み ん な つ ら い 生 活 を し な け れ ば な ら な い の で す。 ど ん な こ と が あ っ て も、 人 と 話 し 合 っ て 解 決 す る 気 持 ち を 忘 れ て しまうと、みんなが不幸になるのです。死んで命を落とした人 たちがかわいそうです。戦争は、絶対にやってはならないこと なのです。 空襲におびえ、空腹に泣いて DATA