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展示会パンフレット

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展示会パンフレット
平成22年度 日本大学文理学部資料館展示会 古代ローマの港町
オスティア
日本大学文理学部資料館
ごあいさつ
日本大学文理学部資料館展示会「古代ローマの港町オスティア」にご来館いただき、誠
にありがとうございます。
「オスティア遺跡」と聞いても、耳慣れない方が多いと思います。ローマの都市遺跡と
しては、なんといってもポンペイが有名ですが、実はオスティア遺跡はポンペイ遺跡に勝
るとも劣らない重要性を持っています。都市そのものの性格から言えば、ポンペイが豊か
ではあっても地方都市のひとつに過ぎなかったのに対し、オスティアは、帝政期には人口
100 万を数えた首都ローマの食料をはじめとする物資補給を支えた港町でした。
現在地表面に出ているのは、大部分帝政期のオスティアの姿で、この時代の経済活動や
人々の生活、宗教活動などを、眼前に髣髴させてくれます。
このたび、九州大学の堀賀貴研究室の方々の全面的な協力を得て、オスティアの姿を、
写真パネル、3D アニメーション、レプリカ、模型、オルソ画像により、お伝え致します。
これらの多くは、レーザ・スキャンという方法を用いて得られたデータをもとにしていま
す。遺跡調査の最新の方法についても、ご理解が得られるのではないかと思います。
最 後 に、 調 査 を 許 可 し て い た だ い た オ ス テ ィ ア 考 古 管 理 事 務 所(Soprintendenza
Speciale per i Beni Archeologici di Roma. Sede di Ostia)
、ならびに技術協力を賜りまし
た株式会社大建測量エンジニアの方々に深く感謝申し上げます。
平成22年11月
日本大学文理学部・日本大学文理学部資料館
例 言
1. この冊子は、平成 22 年 11 月 10 日(水)~ 11 月 19 日(金)の期間、日本大学文理学部資料館にて開催する「古代ローマの港町
オスティア」展の展示図録である。
2. 展示企画、解説および図録の執筆は、坂口明(日本大学文理学部教授)
、毛利晶(神戸大学大学院人文学研究科教授)
、堀賀貴(九
州大学大学院人間環境学研究院教授)、味岡収((株)計測リサーチコンサルタント)が行った。
3. 編集は坂口明、山本興一郎(日本大学大学院文学研究科外国史専攻博士後期課程)、大平知香・三本悠(日本大学文理学部資料館
学芸員)が行った。
4. 本文中の解説内で、遺構名のあとのローマ数字とアラビア数字は、遺構の位置(regio,insula, 地番)をあらわす。
「レリーフのレプ
リカ」の解説中の inv. は、所蔵番号をあらわす。
5. 本図録掲載の写真は、展示番号と一致しない。
6. 画像及び模型作成は、九州大学堀賀貴研究室が行った。
7. 本図録掲載写真の無断転載を禁ずる。
8. この展示会は、科学研究費補助金(基盤研究(B))
「古代ローマ都市オスティア・アンティカの総合的研究」
(研究代表者日本大学
文理学部 坂口明)による研究活動および成果発表の一環として行うものである。
表紙の画像:ディオスクリの家の床面モザイクのオルソ(正投影)画像、九州大学堀賀貴研究室作成。
目 次
Ⅰ.オスティアの歴史と社会
1.オスティアの位置……………………………………………………………………2
2.共和政期のオスティア………………………………………………………………2
3.オスティアの経済活動………………………………………………………………4
4.オスティア市民の生活………………………………………………………………6
5.宗教……………………………………………………………………………………9
Ⅱ.遺跡調査の新しい方法:レーザ・スキャンの成果
1.3 Dレーザ測量………………………………………………………………………10
2.レリーフのレプリカ…………………………………………………………………10
3.モザイクのオルソ(正投影)画像…………………………………………………12
4.オスティアとポンペイの模型………………………………………………………12
5.3 Dディスプレイ……………………………………………………………………12
主要参考文献
オスティア略年表
紀元前 7 世紀後半 ・・・・伝承では、アンクス ・ マルキウス王がオスティアを建設。
紀元前 4 世紀末 ・・・・・・最古の遺構。
紀元前87年 ・・・・・・・・マリウスとスラの争いの中で争奪の対象になり、略奪を受ける。
紀元前80年 ・・・・・・・・スラが市壁を建設。
紀元後 1 世紀中頃 ・・・・クラウディウス帝が新しい港を建設、ポルトゥスの町ができる。
2 世紀初め ・・・・トラヤヌス帝がクラウディウス帝の港に隣接して新しい港を建設。
2 世紀 ・・・・・・・・オスティアの最盛期。
3 世紀 ・・・・・・・・衰退が始まる。
410 年 ・・・・・・・西ゴート族の略奪を受ける。
6 世紀中頃 ・・・・歴史家プロコピウスがオスティアの衰退した姿を記述。
(中世を通じて、オスティアは次第にティベリス川の運ぶ土砂に埋没していった。)
18世紀末 ・・・・発掘が始まる。
1805 年 ・・・・・・ローマ教皇ピウス 7 世による体系的な発掘が始まる。
1938-42 年 ・・・ムソリーニ政権の下での大規模な発掘。
1
Ⅰ.オスティアの歴史と社会
1.オスティアの位置
オスティアは、ローマ市内を流れるティベリス川
(テヴェレ川)がティレニア海に注ぐ河口に位置する。
ローマ
道
街
ゥス
ルト
ずオスティアの港に陸揚げされた。ティベリス川は、
ポ
ポルトゥス
道
ア街
ティ
ス
オ
海洋航行船が通行できるほど大きな川ではないから
ラウ
レンテ
ィヌス
街道
ス川
べリ
ティ
地中海周辺の各地から船で運ばれてきた物資は、ま
である。オスティアに集められた物資の一部は倉庫
に貯蔵され、一部は川舟でローマに運ばれた。
このオスティアの船着場は、多くの船がやってく
るようになると手狭になり、また、大きな船を収容
することができなかったので、1世紀のなかばにク
ラウディウス帝はオスティアの北西約 3km に新しい
港を建設し、さらに 2 世紀はじめにトラヤヌス帝は
オスティア
古
代
の
海
岸
線
1.オスティアの位置
もう一つの港をつくった。新しい港の周辺にはポル
トゥスと呼ばれる新しい町が発展したが、帝政末期
まで行政的にはオスティアの管轄下におかれていた。
オスティアは、北はティベリス川に接し、東西約 1.5km、南北約 0.5km の広がりを持つ。北側以外は、ローマ都市の常と
して市壁で取り囲まれていた。この中に、最盛期で約 5 万人の人口を擁していたと考えられている。最近の研究では、市壁の
外にも市街が大きくひろがっていたとする指摘もある。
都市プランとしては、デクマヌス・マクシムス(東西に走る大路)をメイン・ストリートとして、その両側に公共建築物や
店舗が立ち並び、少しはなれて住宅や工業施設、浴場や倉庫が建てられていた。
2.共和政期のオスティア
2.
1 最古のローマ植民市オスティア:カストルムの東の城門と西の城門
伝承は、オスティアの建設を、ローマ 4 代目の王アンクス・マルキ
ウス(紀元前 7 世紀後半)の事績に数えているが、オスティアの遺跡
で現在のところ確認できる最古の遺構は、紀元前 4 世紀の終わり近く
のものである。ローマは紀元前 4 世紀以降、エトルリアの南部からカ
ンパニアの北部に至る海岸地域で守備を目的とした小規模な入植活動
を行っており、ティベリス川の河口近くへの入植もその 1 つと考えら
れている。最古のオスティア(所謂カストルム)は、石灰岩の切石を
積み上げた城壁が周囲を囲む 2.5 ヘクタール足らずの方形の要塞だっ
た。ただ、カストルムからは、紀元前 4 世紀の初頭にまで遡る陶器
や建材として用いられたテラコッタの破片がわずかながら出土してお
2.カストルムの東の城門
り、城壁で固められた要塞が築かれる以前からこの地で定住が始まっ
ていたことをうかがわせる。
カストルムの内部は、東西に走る大路デクマヌス・マクシムスと、
中央でこれと直角に交わる南北に走る大路カルド・マクシムスによっ
て 4 つの地区に分けられ、2 本の大路が城壁に突き当たる所には、堅
固な城門が作られていた。カストルムの城壁の一部と東(写真 2)お
よび西(写真 3)の城門の遺構は現在も残り、植民市建設当時の面影
をしのばせる。
3.カストルムの西の城門
2
カストルムは、ほぼ直線の道(オスティア街道)でローマと結ばれ、オスティア街道は東の城門を介してデクマヌス・マク
シムスと繋がっていた。他方、カルド・マクシムスが終わる南の城門は、南のラテン人都市ラウィニウムの領域に至る道(ラ
ウレンティヌス街道)の起点となっている。デクマヌス・マクシムスは西の城門を出たところで枝分かれし、
片方(河口への道)
はティベリス川の河口へ、もう片方(後にオスティアの市域がカストルムの城壁を越えて拡大すると、デクマヌス・マクシム
スとなる)は海岸へと通じていた。もともと「河口への道」とラウレンティヌス街道はラウィニウムの領域とティベリス川の
河口を結ぶ1本の古道だったが、カストルムが築かれたとき一部が切り取られて2本の道に分かれたと考える研究者もいる。
共和政期
4.共和政期のデクマヌス・マクシムス
写真2の東の城門址の前を走る道がデクマヌス・マクシムス。帝政
期のデクマヌス・マクシムスとの間には 1 メートルほどの落差がある。
帝政期
左の写真4の人物が立っている道が共和政期のデクマヌス・マクシム
スで、上段の道が帝政期のデクマヌス・マクシムスである。
2.
2 共和政期の神域と神殿 今日私たちがオスティアで目にするのはロー
マ帝政が最盛期だった頃(紀元後 2 世紀)の都
市の姿だが、共和政期にまで遡る神域や建物の
遺構も一部に残っている。
その1つ「共和政期の神域」は、カストルム
の西側の城壁と、西の城門の前でデクマヌス・
マクシムスから枝分かれした「河口への道」が
作る三角形の区画に存在する。この神域で出土
した最古の遺物はペペリーノ(アルバヌス丘の
マリーノで採石された凝灰岩)
製の 4 基の祭壇で、
おそらく紀元前 3 世紀の中葉に奉納された。神
域には共和政期の神殿が3つあるが、どれも帝
政期に改修されており、しかも残るのは基壇お
よび柱と内陣の壁の一部にすぎない。
5.ヘルクレスの神殿址(Tempio di Ercole. I.XV.5)
最も大きな神殿(写真5)はヘルクレス(ヘラクレス)神を本尊とし、紀元前 2 世紀の終わり頃から紀元前 1 世紀の初め
にかけての時期に建立された。神殿の基壇に立つ像(レプリカ)は、基壇の階段の前で出土したもので、オスティアで二人役
(最高の公職)を 3 回務めたガイウス・カルティリウス・ポプリコラを英雄化した姿で描いている。
神域の北側の神殿もヘルクレス神殿とほぼ同時期に建立され、おそらく医神アエスクラピウスを祀っていた。3つ目の神殿
は「河口への道」とヘルクレス神殿に挟まれて建つ。これは建立の時期について議論があり、また、誰を本尊としたのかも分
からない。
ヘルクレス神殿の近くからは、腸占い師ガイウス・フルウィウス・サルウィスが奉納したレリーフが出土している。
レリーフは 3 つの場面からなり、右側は漁夫が網にかかったヘルクレス神の像と箱を引き上げる様子、中央はヘルクレス神
が少年に預言を記した板を手渡す様子を描く。左側は端の部分が欠損しており、トガを着た男性と空を飛ぶ勝利の女神ウィク
トリアだけが残る。神殿の祭壇に刻まれた碑文は、
本尊を「無敵のヘルクレス(ヘルクレス・インウィクトゥス)
」と呼んでおり、
祭儀が軍事的な性格を帯びていたことをうかがわせるが、レリーフはこのヘルクレスが同時に預言の神の性格を併せ持ってい
たことを示している。
なお都市ローマでも、ティベリス川の中州にアエスクラピウスの神殿があり、また、ティベリス川の左岸にはヘルクレス・
インウィクトゥスの神殿があって、ローマとオスティアで祭儀に対応関係が見られる。
3
3.オスティアの経済活動
3.1 商店
デクマヌス・マクシムスをはじめとする主要な街路の両側には、ほとんど隙間なく商店(taberna)が立ち並んでいた。い
くつもの商店が集まったマーケットもあった。
6.デクマヌス・マクシムス沿いの商店街
7.商店の内部
8.マーケット(Caseggiato del Larario. I.IX.3.
列柱の奥に商店が並んでいた。
かまどがあるので、食品を売っていたと
AD120 頃)
しゅくじゅう
思われる。
3.2 パン屋と縮絨場
9.パン屋(Panificio. I.XIII.4)
10.縮絨場(Fullonica. II.XI.1)
パン屋では、小麦を挽いて練り、窯で焼くまでの
縮絨は、毛織物工業の重要な工程である。できあがった布地を薬品に浸し、
工程をおこなっていた。写真は、粉挽きの石臼。上
足で踏んで柔軟性をもつ製品に仕上げる。洗濯屋とする説もある。
部の石にあけられた穴に棒を通しラバやロバに縛り
付け、臼の周りを回らせることによって、小麦を粉
に挽いた。
3.3 穀物やその他の食料の計量と貯蔵
オスティアには、北アフリカやシチリア、サルディニア、南フ
ランスなどから大量の穀物をはじめとする食料が運ばれてきた。
これらは、国家の官吏である食糧供給長官(praefectus annonae)
の管理下に入り、計量され、すぐにローマに運ばれるもののほか
は倉庫に貯蔵された。オスティアとポルトゥスには、巨大な倉庫
がいくつも建てられ、大都市ローマの食料供給を支えていた。
11.穀物計量官の集会所の床面モザイク(Aura dei Mensores.
I.XIX.3)
計量官が、運ばれてきた穀物を量っている。
12.大倉庫(II.IX.7)
オスティアには 10 以上の倉庫があったことがわかっている
が、これは最大のものの一つで、大倉庫(Grandi Horrea)と
よばれている。国家によって建てられた穀物倉庫と思われる。
4
13.エパガトゥスの倉庫(Horrea Epagathiana. I.VIII.3. AD140-150 頃)の入口
14.ポルトゥスの倉庫
私人によって経営されていた倉庫で、おそらくは穀物ではなく、オリーヴ油な
どのより高価な物資を貯蔵していた。
Ⅶ.
4)
3.4 組合の広場(Ⅱ.
劇場の舞台の背後に、組合の広場とよばれる広場がひろがっている。ケレス(穀物の女神)の神殿といわれる神殿を中心と
して、60 の事務所(statio)が並んでいたが、その多くは地中海沿岸各地の船主(navicularii)の組合の事務所であった。彼
らは、北アフリカ沿岸、サルディニア、ガリア(フランス)南岸などから集まり、ここに事務所を構えたのである。したがっ
てこの広場は、地中海世界の商業のネットワークの結節点ともいうべきものであった。それぞれの事務所の前の床面モザイク
には、船主の本拠である地方名と、その地方の特徴や船主たちの活動をあらわす図が描かれている。
15.劇場から見た組合の広場
中央にあるのが神殿址(円の中)。中庭を囲んで三方に事務所が並ん
でいる。
↑ 16.床面モザイク
文字は、STAT(io) SABRATEMSIUM
「サブラタ(リビアの都市)人たちの
事務所」。象の図は、象牙の交易を示
すものか。 ↑ 17.床面モザイク
文字は、NAVICUL(arii) KARTHAG(inienses) DE SVO「カルタゴ
の船主たちが、自らの費用で(これをつくった)」
← 18.床面モザイク
やしの木の間にアンフォラ(壺)があり、下では魚が泳いでいる。魚
はもちろん海の象徴。アンフォラには MC という文字が書かれているが、
おそらくマウレタニア・カエサリエンシス(Mauretania Caesariensis 北
アフリカの属州)を示すものであろう。アンフォラは、オリーヴ油の交
易をあらわすものか。
5
4.オスティア市民の生活
4.
1 住居
← 19.富裕者の邸宅 円形神殿の家(Domus del Tempio rotondo. I.XI.2)
水盤をもつ中庭の周囲に部屋を配置するという、比較的伝統的な構
造を示している。
20.集合住宅 ディアナの家(Casa di Diana. I.III.3-4) →
人口密度がポンペイよりはるかに高かったオスティアで
は、多層の集合住宅が数多く建てられた。このディアナの
家はその一例で、4 ~ 5 階建てであったと推定されている。
4.2 水
オスティアには水道が引かれ、道路の下に水道管が埋設されていた。富裕者は自宅に水を引き入れ、
生活用水として使うほか、
庭園にも泉水を設けていた。また街のあちこちに給水所があり、庶民はそこから水をくみ出して使っていた。この水は、防火
用水の役割も果たしている。道路の下には、下水も通っていた。
21.オスティアに水を供給した水道の址 22.街路に設けられた給水所
4.3 安全と衛生
← 23.消防隊の営舎(Caserma dei Vigili. II.V.1)
オスティアには、常設の消防隊があった。これは、ローマ市以外ではあまり例が
ない。ほかの都市では、市民が消防隊を組織し、火事のときに出動するというのが
普通であった。おそらく、ローマ市に供給する食料を貯蔵した倉庫群を焼失から守
る必要性があったためであろう。
写真は消防隊の営舎の中庭。正面には、皇帝たちにささげた像の台座が並んでいる。
24.公衆便所(Forica) →
オスティアには随所に公衆便所があった。
写真は、フォルム浴場の近くにあった公
衆便所で、最も立派なもの。
便座の下には水が流れており、下水に通
じていた。
6
4.4 市民の楽しみ
25.劇場(Teatro. VI.VII.2)
26.劇場の観客席
約 3000 人収容の劇場。かなり修復の手が加わっている。ここで演じられたのは、主に喜劇やパントマイムなど肩のこらない出し物だっ
た。現在でも、夏季には演劇やコンサートが催される。
27.フォルム浴場(Terme del Foro. I.XII.6)
28.フォルム浴場の浴槽
浴場は、ローマ人にとって単に体を洗うというだけの場所ではなく、会話を楽しんだり、付属のパラエストラ(運動場)でスポーツを
楽しんだりする娯楽施設であった。入浴者は、たっぷりと時間をかけて温度の異なる湯や水につかり、マッサージを受けた。
オスティアでは、大小 20 ほどの浴場が確認されているが、フォルム浴場はその中でも最大のもので、フォルム(市民広場)に近いこ
ともあって、市民にとって最も重要な浴場であったと思われる。左側写真 27 は、パラエストラから見たもの。
30.居酒屋(Caupona di Fortunato. II.IV.1)
ネプトゥヌス浴場の近くにあった居酒屋の床面モザイク。クラテ
29.レストラン(Termopolium della via di Diana. I.II.5)
ル(ワインを湯などで割る容器)の図が描かれている。文字は、
「フォ
ルトゥナートゥスは言う、君はのどが渇いているのだから、このク
ラテルからワインを飲みたまえ」という意味。
7
4.5 組合
ローマの都市では、同じ職業の人々、特定の神の信者、官吏仲間などが集まって、組合(collegia, corpora)をつくっていた。
オスティアでは、70 あまりのこのような組合が知られている。組合結成の目的は、社交、相互扶助、情報収集などであった
と考えられる。組合の活動は、市民生活の中で重要な位置を占めていた。
31.トラヤヌスのスコラ(Schola del Traiano. IV.V.15)の入口
32.建築業者(Fabri tignuarii)の組合のスコラのトリクリニウム
スコラとは、組合の本部、集会所のこと。このトラヤヌスのス
(Caseggiato dei triclini. I.XII.1)
コラは、オスティアのスコラの中でも最大級のものである。一般
建築業者の組合は、オスティアで最も大きく、重要な組合の 1
に船大工(fabri navales)のものと考えられているが、おそらく
つであった。写真は、そのスコラのトリクリニウム(正餐室)の 1 つ。
はオスティアの船主(navicularii)のスコラと思われる。
ローマでは、正式の食事は、長椅子に横座りになり、手でテーブ
ルの上の料理をとって食べるというのが作法であった。トリクリ
ニウムは、三方に長椅子、中央にテーブルを置くという形をとる。
このスコラでは、長椅子は作り付けになっている。
ともに食事を取るというのは、組合の活動の中でも重要な意味
を持つものであった。
4.6 埋葬
ローマでは、帝政前半期まで火葬が普通であった。市壁内に埋葬することは禁じられていたので、墓地(ネクロポリ)は市
門を出た街道沿いにつくられた。大きな家門では、集合墓を建設し、奴隷や被解放者、子孫もここに葬った。
33.オスティアにあるローマ門の外のネクロポリの集合墓の1つ
34.イゾラ ・ サクラ(ポルトゥスのネクロポリ)の墳墓
壁に取り付けられた碑文には、「マルクス ・ サエニウス ・ アリス
ここでは、より完全に墓が残っている。
トが、自らと被解放者とその子孫のためにつくった」とある。壁
に作られたくぼみの中に骨壺が収められた。
8
5.宗教
オスティアでは、ほかのローマ都市と同様、さまざまな神々が信じられていた。ユピテルをはじめとするローマの伝統的な
神々のほか、セラピス(エジプト起源)、キュベレとアッティス(小アジア起源)
、ミトラス(イラン起源)などの東方の神々も、
多くの信者を持っていた。ユダヤ教のシナゴーグも市壁外にある。4 世紀になると、キリスト教の教会が市壁の内外に建設さ
れた。
35.フォルムのカピトリウム
オスティアの中心であるフォルム(市民広場)の北端に立つ。オス
ティアで最も高い建物である。ローマ市のカピトリウムと同様、ロー
マ国家宗教の主要3神(ユピテル、ユノ、ミネルウァ)が祀られてい
たと考えられている。
36.ミトラエウム(ミトラス神の礼拝所)(I.XVII.2)
オスティアでは、20 近いミトラエウムが確認されている。ほとんどが 2 世紀以降、
既存の建物(家屋、倉庫、浴場、ほかの神の神殿)の一部を改造して設けられたもので
ある。この時代に、ミトラス教が多くの信者を獲得したことがうかがわれる。ミトラス
神は、イラン起源の神で複雑な性格を持つが、この時代のローマの図像では、ミトラス
教の神話に基づいて、洞窟の中で牛を殺す若者の姿であらわされる。礼拝所も、洞窟を
イメージして暗く狭く作られた。
9
Ⅱ.遺跡調査の新しい方法:レーザ・スキャンの成果
1.3D レーザ測量
3D レーザ・スキャナは、様々な地形や建物の測量に利用できる
3D 形状計測装置で、短時間で広範囲を測定することができ(一度の
スキャニングで大量のデータを取り込む)、そこから必要な3次元座
標データを抽出することによって、形状計測、変位計測を行うこと
が可能な最先端のリモート・センシング3次元計測システムである。
レーザ照射部から発射されたレーザが対象表面で反射してレーザ
受光部へ取り込まれ、発行から受光までの時間と入射角度から対象
の 3 次元座標を得ることが出来る。また、測定データを既知座標に
関連付けて変換することによって、座標系にあわせた 3D データを
3D レーザ・スキャナ
生成することができる。
スキャニング速度と範囲は
機種によって様々であるが、速
度 は 概 ね 2000 ~ 100000 回
/ 秒、 範 囲 は 1m ~ 800m 程
度である。文化財などの触れる
ことが出来ない対象の計測や、
立ち入りが難しい場所の計測、
遺跡や土木構造物などの広大
な規模のものの計測を効率よ
く正確に安全に行うことがで
きる。
この 3D データを元にして点群モデルからサーフェイスモデルを作成すれば、等高線や任意断面の抽出、体積の算出など、
通常の計測では困難な成果を容易に取得することができる。
2.レリーフのレプリカ
墓地などで発掘されたレリーフは、人々の生活、とくに働く姿を生き生きと伝えてくれる貴重な資料である。展示されるのは、
レーザ ・ スキャンによって得られたデータにもとづき、精密に作成されたレプリカである。ここでは、原物の写真を掲載して
いる。原物は、すべてオスティア考古管理事務所のオスティア遺跡収蔵庫蔵である。
1.モザイク工? 大理石 44.5 × 48cm inv.132 紀元 1 世紀末
2.八百屋 大理石 43 × 35cm inv.198 紀元 3 世紀前半
墓のレリーフ。上段では、腰かけた 2 人の男が石を細かく砕い
1 人の女性がテーブルの向こうに立っている。テーブルの上には、
ている。おそらくモザイクの石片を作っているのであろう。後景
様々な野菜が描かれている。女性のかたわらにも、おそらく野菜
には、右端の男の指図で荷を担ぐ 2 人の人物がいる。下段は、眠
の入った籠がある。
りの神ヒュプノス。
10
3.刃物商 テラコッタ 41.5 × 40.5cm inv.14259 4.鍛冶屋 テラコッタ 40.5 × 41.5cm inv.14260 イゾラ ・ サクラ(ポルトゥスの墓地)で出土 AD160-180
イゾラ ・ サクラで出土 AD160-180 ナイフやはさみなどの商品が、所狭しと並べられている。右上
左の人物は、やはりエプロンをつけ、仕事台の上でつるはしを
に描かれた人物は、革製と思われるエプロンをつけ、台の上に敷
鍛えている。右側には、様々な製品があらわされている。もしか
かれた革の上でなにかを研ぐか磨くかしている。下の腰掛けた人
したらこの人物は、3 と同一人物なのかもしれない。
物がなにをしているかは不明。
5.食料品店 大理石 21 × 54cm inv.134 紀元 2 世紀後半
女主人か女性店員が、お客に台の上の籠から商品(果物?)を渡している。台は、鶏や兎を入れた籠の上に載っている。左側の2人の
客はおしゃべりをしているが、1人はなにか動物を手に持っている。この店で買ったものだろうか。女性の右には大きな籠と、不釣合い
に大きく描かれたエスカルゴが見える。中央の腕木には、鶏がつりさげられている。右端の 2 匹の猿は、なぜここにいるのだろうか。
6.助産婦 テラコッタ 28 × 41.5cm inv.5203 イゾラ ・ サクラで出土 AD140 頃
出産の場面。椅子を使った出産の方法は、古代の医学者の記述と一
致している。写真を撮られるときのように、助産婦、産婦、介助の女
性の 3 人とも、こちらに顔を向けている。
11
3.モザイクのオルソ(正投影)画像
このモザイクは、ディオスクリの家(Domus dei Dioscuri. III.IX.1)の床を飾っていたものである。この家は、帝政末期の富
裕者の邸宅と考えられている。
モザイクは、2 人のトリトン(海神)の支える貝殻に乗ったウェヌス
(ヴィーナス)
(中央)
と、
海獣に乗った 8 人のネレイデス(海
神ネレウスの娘たち)をあらわしている。上の文は、
「あなた方が、
より多くをつくり、
よりよきものを捧げるように」
という意味。
展示されているオルソ(正投影)画像は、レーザ・スキャナから得られた 3 次元の点群を面で結んで、その上にデジタルカ
メラの画像を貼り付けて(マッピング)作りだした画像である。たとえば、デジタル画像はピクセルという単位からできてい
るが、1 ピクセルを 2mm の大きさとして描くことが可能である。つまり、通常の写真では、周辺にいくほどレンズからの距
離が大きくなるため、被写体は小さくなっていくが、オルソ画像は全ての部分で、レンズからの距離が等しくなるように再計
算された画像と言える。単なる写真ではなく、実際の大きさをそのまま体感できる画像なのである。
ディオスクリの家の床面モザイク画像
4.オスティアとポンペイの模型
展示品は、ポンペイ遺跡、オスティア遺跡の 500 分の 1 の模型である。ポンペイは東西に約 1.2 km、南北に約 0.8 km
の大きさで都市の周辺に市壁が巡らされており、都市域を視覚的にとらえることができる。なお、市壁の内側に約 30%の未
発掘地区が残されている。一方、オスティアの模型は、東西約 2 km、南北約 0.5 kmの部分が模型で表現されているが、実
際のオスティアはこの模型の範囲を超えて大きく広がっていたことが知られている。また、ポンペイには最高でも 3 階の建物
しか残されていないが、オスティアには、5 階以上の建物の痕跡が残されており、ポンペイよりもより立体的に都市が展開し
ていたことがわかる。
5.3D ディスプレイ
レーザ測量では、全ての対象物を 3 次元座標をもつ点群として計測する。そこで、3 次元空間の中に視点を設定すれば、最
近の3D映画やテレビと同じように、立体画像を作ることが簡単にできる。3 次元画像の原理はすでに一般的に知られているが、
簡単に説明すると、立体物は右目と左目で見える画像に少し違いがあり、
脳はその違いを立体感として認識している。そこでは、
近いものほどそのズレは大きくなるので、今回の画像でも、同じように視点からの距離が近いほどそのズレを大きくすること
で、立体を体感できるようにしている。
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主要参考文献(オスティアとポルトゥスを対象とした著書のうち主要なもの)
J.Th. Bakker, Living and Working with the Gods. Studies of Evidence for Private Religion and its Material Environment
in the City of Ostia , Amsterdam 1994.
J.Th. Bakker (ed.), The Mills-Bakeries of Ostia , Amsterdam 1999.
J.S. Boersma, Amoenissima Civitas. Block V.ii at Ostia , Assen 1985
B.M. Boyle, Studies in Ostian Architecture , Diss. Yale U. 1968.
Ch. Bruun, A.G. Zevi (a cura di), Ostia e Portus nella loro relazioni con Roma , Roma 2002.
G. Calza et al., Scavi di Ostia I-XVI, Roma 1953-2004.
G. Calza, G. Becatti, Ostia , Roma 1968.
G. Calza, E. Nash, Ostia , Firenze 1959.
R. Chevallier, Ostie antique , Paris 1986.
J.-P. Descœudres (dir.), Ostia. Port et Porte de la Rome antique , Genève 2001.
S. Gallico, Guide to the Excavations of Ostia Antica , Roma 2000.
G. Hermansen, Ostia. Aspects of Roman City Life , Alberta 1982.
S. Keay et al., Portus. An Archaeological Survey of the Port of Imperial Rome , London/Rome 2005.
R. Meiggs, Roman Ostia , 2nd ed., Oxford 1973.
C. Pavolini, La vita quotidiana a Ostia , Roma/Bari 1991.
C. Pavolini, Ostia (nuova edizione), Roma/Bari 2006.
A. Zevi, A. Claridge (eds.), Roman Ostia revisited , London 1996.
H. Schaal, Ostia. Welthafen Roms , Bremen 1957.
V.S.M. Scrinari et al., Ostia and Porto , Milano 1982.
Japanese Research Group of Ostia Antica, Report of the Investigation of Ostia Antica in 2008 , Tokyo 2009.
Japanese Research Group of Ostia Antica, Report of the Investigation of Ostia Antica in 2009 , Tokyo 2010.
謝 辞
本展示会を開催するにあたり、下記の関係機関に多大なるご協力を賜りました。ここに記して、深く感謝
致します(順不同)。
オスティア考古管理事務所
九州大学堀賀貴研究室
株式会社大建測量エンジニア
日本大学文理学部資料館展示会「古代ローマの港町オスティア」
会 期:2010(平成 22)年 11 月 10 日~ 19 日
主 催:日本大学文理学部・日本大学文理学部資料館
展示図録『古代ローマの港町オスティア』
編 集:日本大学文理学部資料館
発行日:2010(平成22)年 11 月 10 日
印 刷:文成印刷 〒 168-0062 東京都杉並区方南 1-4-1(TEL:03-3322-4141)
発 行:日本大学文理学部資料館
〒 156-8550 東京都世田谷区桜上水 3-25-40(TEL:03-5317-8590)
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