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を 歩 け ば ︱︱︱︱
栢木寛照 今回は前回の赤山禅院を出て雲母坂を
案内したいと思う。雲母坂は京都側から
比叡山への主要参道で西坂といい、大津
市坂本側からの主要参道を本坂という。
比叡山には全部で三七本の登叡の道があ
り、雲母坂は途中で一本に合流するが、
かつて登り口は数本あったらしい。今回
は、雲母坂と雲母坂梅谷道の二道を紹介
する。
赤山禅院を出て修学院離宮正面まで行
き、右に曲がって進むと音羽川に出る。
雲母坂は音羽川に架かる雲母橋近くに登
り口がある。橋を渡るとすぐ﹁親鸞聖人
御旧跡﹂碑があり、親鸞上人が毎夜比叡
山の大乗院から京の六角堂へ参籠するた
め上り下りしたことを示す。さらに進む
と離宮の裏側に﹁雲母不動堂旧跡﹂
︵現在
は赤山禅院に移築され雲母不動尊として
祀られている︶碑がある。やがて坂も急な斜
面になり、長年風雨に浸食され道は深い谷底
を歩いているようで、道路状態も悪い。
また、赤山禅院山門を出てすぐ右に折れ、
赤山北側から桧峠を経て登る道が雲母坂梅谷
道である。四〇∼五〇分歩くと
﹁水飲対陣之跡﹂
碑に到着する。一三三六年六月比叡山に立て
こもった官軍と、雲母坂から攻め上ってきた
足利軍が対峙したところとしてこの碑が建て
だ。雲母坂は浮舟が僧都の下山を日々待ちわ
られた。ここで修学院離宮裏からの道と合流
している。振り返ると京の町
びた道でもある。後に浮舟は出家し尼となる。
であると線引きされた場所の
結界はここからが清浄の領域
浄刹とは清浄な領域のこと、
に﹁浄刹結界跡﹂碑がある。
で吉岡一門を破り、その足で雲母坂から山上
吉川英治の﹃宮本武蔵﹄では、一乗寺下り松
勅使が使う主要道路なので勅使坂ともいう。
の宣命を読み上げる原則があり、補任のつど
さて、この浄刹結界から引き返すもよし、
さらに山上に向かって登るもよし。この雲母
の大乗院へこもった道でもある。
悲田、西は水飲、南は般若寺、
坂を通った先人の思いをはせながら歩いても
北に結界を定めている。東は
北は楞厳院が浄刹結界と定め
らえればと願う。
の修行僧は、定められた者以
外はむやみにこの結界から外
に出ることはできない。また
滋賀県生まれ。著書に﹃親が育てば、子も育つ﹄など
坂 ● ●
雲母 「水飲対陣之跡」碑
当時比叡山は女人禁制の山で、
道
谷
この結界から女性は入山でき
梅
なかった。
源氏物語の第五十一帖に浮
舟の話がある。浮舟は絶世の
美女で多くの男性に求愛され、
板挟みになり苦悶し宇治川へ
曼殊院
●
入水するところを横川の僧都
︵比叡山横川の恵心院に住む
通称恵心僧都のこと︶に助け
られ、僧都を慕って小野︵現
︿かやき
か ん し ょ う ﹀ 比 叡 山 延 暦 寺 慈 光 院・ 比 叡 山 麓
三宝莚・天台宗金乗院・天台宗浄光院住職。一九四六年、
られ、かつても現在も比叡山
ことである。比叡山は東西南
また当時は比叡山の天台座主が新たに補任
さらに二〇〇㍍ほど進むと、 されるたびに必ず勅使が比叡山に登り、天皇
水飲地蔵に到着する。その奥
がよく見える。
上:
「親鸞聖人御旧跡」碑。左奥の道が雲母坂
への登り口につながる
右:音羽川に架かる雲母橋
在の赤山禅院の辺り︶に住ん
「雲母不動堂旧跡」
碑
● 川
羽
●
音
「親鸞聖人御旧跡」
碑 雲母橋 修学院離宮
●
「浄刹結界跡」
碑
赤山禅院
●
至比叡山
▲ 雲
母
赤山
坂
5
2014 新春 No.482
三洋化成ニュース
6
雲母坂
右:深い谷道が続く雲
母坂
下右:
「水飲対陣之跡」
碑。急坂を登って一息
つくにふさわしい地点
にある
下左:後方の「浄刹結
界跡」碑を守るように
立つ水飲地蔵
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