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ブルゴーニュ小史(3)
HOPE ブルゴーニュ小史(3) 文芸評論家 饗庭 孝男 あえば・たかお 1930年、滋賀県生まれ。甲南女子大学文学部教授。フランス文学専攻。著書に、 『石と光の思想』 (勁草書房)、 『小林秀雄とその時代』 (文芸春秋)、 『恩寵の音楽』 (音楽の友社)、 『西欧と愛』 (小沢書店)、 『幻想の都市― ヨーロッパ文化の象徴的空間―』 (新潮社) 『ヨーロッパの四季』 (東京書籍) など多数。 (一) さな教 会が つくられるようになる。つまり貴 族が 村 につくった個 人 的 礼 拝 堂が 聖 別され 、 ミサをあげ、 ところで725年から732年にかけて、 とくにロワール、 ポワトゥーにイスラム勢 力が 侵 攻してきた。6 世 紀か 秘 蹟をさずける司 祭が農 村 の中心となり、彼らと生 らはじまった彼らの中 近 東 、西ヨーロッパ へ の 攻 撃 活をともにするようになったのである。むろん 農 家 は7 1 1 年にはアフリカからジブラルタルとアルジェシ は十 分 の一 税をおさめ、供 物を出していたから、司 ラスに向い、720年にはガリアに向けられたのである。 祭 の 教 会と彼らは 一 心 同 体となり、か つ て都 市 的 その結 果がブルゴーニュ地 方を含めた中部フランス であったキリスト教は農村的となって浸透して行った。 ヘ の 北 上 であった 。しかしこの 7 3 2 年にカール・マ だが、その分だけ、地 方の古くからの異 教 的 習 慣が ルテル 指 揮 のフランク軍が 彼らをツールとポワティ 逆に司 祭に影 響を及 ぼし、1 0 世 紀 の 公 会 議が 妖 エ の 間 で破ったことによって西ヨーロッパは 辛うじ 術と占いを農 村 の 司 祭に禁 止 するようになったの て愁眉を開いたのである。とはいえ8世紀のこの時代、 もその一 つの例である。 地中海もほぼ完全に「イスラムの海」となった。 ローマ教 皇はシャルル・マルテルに聖ペテロの墓 (二) の鍵を送り、ローマ教 会 の保 護 者であることを希 求 このような農 村 のキリスト教 化と、他 方 、クリュニ したのである。シャル ル・マルテルはムーズ地 方 の ー修 道 会 、及 び 後 のシトー修 道 会 がブルゴーニュ ペ パン家の出で、前 回でふれた宮 宰であったが、や 地 方に生れ 、この地 方が中世におけるキリスト教 会 がて、マルテルの息 子 、パペン・ル・ブレフは教 皇ボ の中 心となる迄には 尚 いくつ か の 過 程 があった 。 ニファキュスに戴 冠 式を与えられ 、以 後この家 系か 7 6 1 年 の、オータンからシャロンにかけてのアキテー らのみ 君 主をえらぶことが 命じられたのである。そ ヌ軍 の侵 攻がブルゴーニュの抵 抗を圧 倒 するとい の息 子がシャルルマーニュ大 帝となり、 「 神 の恩 寵 う出 来 事もあり、 またノルマンの広 汎なヨーロッパへ による王 」と自他ともに認めるようになり、教 会 の守 の出 現が8 世 紀 の末からはじまった。彼らは長 身 金 り手として生 涯を送り、フランク王 国を統 一した。い 髪で、底の浅い舟を巧みに操って河川をさかのぼり、 わゆるカロリンガ王朝の栄 光を示すことになる。 村や町、修 道 院を襲った。これにかなうものはなく、 さて、キリスト教 会の展 開に戻りたい 。ローマ時 代 人々はひたすら内 陸 へと逃げる。たとえばロワール から古代都市には司教がいたが、次 第に農 村に小 河 口にあるノワルムティエ島の聖フィリベール修道 13 HOPE 院 の人々が聖 遺 骨を奉じて各 地を逃げ、ついにブ 的 発 電 所」となる。 ルゴーニュのトウルニュに安らぎを得たことは、その もとよりこのピラミッド構 造 の精 神とは、ベネディク 一例であろう。8 7 5 年のことである。 トウス(モンテ・カシーノ)の修 道 院 規 律 へ の統 一 的 こうしたノルマンに対する防 衛から堅 牢な城が各 回 帰であった。それと同 時に中 世 の学 芸 文 化 の中 地に生 れ 、そこから「 耕 す 人 」 「 戦う人 」 「 祈る人 」 心となる。1 2 世 紀 の 硯 学 、アベラールもここに生き という三 身 分をもつ 封 建 制 度が出 現してきた。それ た時 期をもったものである。 ゆえ、この 城を中 心として村が つくられ 、地 方 権 力 が形 づくられ 、いわゆる「中世」が成 立してくるので ある。イスラム、 ノルマンに加えてハンガリーの 平 原 からヨーロッパを席 巻したマジャール( 牧 畜 民 族 ) も 逸 することはできまい 。先に挙げたブルゴーニュの トウルニュにある聖フィリベール 教 会もその 例 外 で はなかった。彼らはその残 忍さで「アンティクリストの 使 者」とさえ言われたのである。彼らが荒しまわった のは主として東フランクであったが、それ はフランス のロワール河周辺、 ブルゴーニュ地方にまで及んだ。 しかし最 後にマジャールは9 3 3 年と9 5 5 年 、ザクセン 侯 出 身 の 国 王 ハインリッヒとその 子オットーに破 れ てその攻撃は終息したのである。 とはいえこの 間もブルゴーニュ地 方 の 諸 教 会は オーセロワのサン・ジェルマン( 9 世 紀 半 ば)やサン・ レェジェ・ド・シャンポー、ヴェズレーの下にあるサン・ Chateau de Chailly ぺ 一 ル 等が興 隆し、やがて9 1 0 年 、アキテーヌのギ ョーム大 公によってクリュニー修 道 院が 創 立され 、 シャトー・ドゥ・シャイイ それまで世 俗 の権 力に左 右されがちであった修 道 中世がいまだに息づいているブルゴーニュにいらっしゃいませんか? 院がローマ教 皇 直 属 の自 立した形をとるに至った の街並、美しく広がる大地や小さな村々、豊かな生命力と「はだのぬく のである。この指 導 的 役 割を演じたのが、オド、マイ もり」を感じる地方、 それがブルゴーニュです。 数々の銘酒を生み出すぶどう畑、 グルメレストランの数々、中世そのまま お問い合わせは(株)佐多商会ブルゴー二ュ事業部へどうぞ ヨール 、オディロ、大 ユーグ、それ に尊 者 ペトルスで TEL:03−5762−3010 担当:岩沢、田中 あり、その多くは貴 族 出 身であった。クリュニ一では 貨 幣 鋳 造 権があり、司 教 へ の服 従はない 。やがて このソーヌ河 支 流につくられた小さな修 道 院が2 世 紀 後にはキリスト教 世 界 の大 修 道 院 帝 国 の中 心と なり、その数3000に及ぶ小修道院が傘下におかれ、 フランスを中心としながら、 ヨーロッパに遍在する「霊 14