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歴史人口学から見た日本の歩み
第 56 回歴史教育研究会報告(環境班)2012/1/21 歴史人口学から見た日本の歩み <報告者> 渡部玲子(共生文明論・M1) 鉄本麻由子(共生文明論・M1) 藤田弘晃(西洋史学・M1) 荒木陸(東洋史学・M1) <目次> 第1章:歴史人口学について(渡部) 第 2 章:縄文時代から安土桃山時代の人口(鉄本) 第 3 章:江戸時代の人口 -経済社会化から見る第 3 の波-(藤田) 第 4 章:明治以降の人口(荒木) はじめに ・人口学の優れた特徴:将来の人口予測は経済や社会予測と比較してはるかに正確 ・過去の人口の動きを知ることによって、21 世紀の人口減少に対して、賢明に対応できる 第1章 歴史人口学について(担当:渡部) 1.歴史人口学と周辺分野 ◆マルサス『人口論』(1798 年) ・「人口原理」:人口が経済を押し上げようとする積極的作用を生みだす人口の増殖原理 ・人口:抑制されない限り幾何級数的に増加(1、2、4、8、16……) ・食糧:算術級数的に増加(1、2、3、4、5……) ⇒罪悪と窮困を伴わない予防的妨げによって人口増加問題を抑制する必要がある ◆アナール学派 ・歴史学の主流に対して異議申し立て(リュシアン・フェーヴル、マルク・ブロック) →『社会経済史年報』(1929 年)つまり、『アナール』誌第 1 巻の発行 →アナール=年報 ・歴史と他の人間諸科学を統合化させる役割を果たそうとする →歴史人口学などの分野を開拓した ◆歴史人口学 1950 年代に誕生した、歴史学と人口学の二つの分野の交点に成立した歴史学の一分野 ・歴史研究における数量的アプローチ:人口という分析対象 ・歴史の社会・経済は人口に反映される=人口の変化は諸側面に多様な影響を与える ⇒社会の最小構成単位は家族・個人の生活 →特定の社会についての歴史像を知るために、多数の詳細な信頼度の高い人口学的情報が有力になる 2.歴史人口学の成立 1950 年代にフランスで誕生、次いでイギリスでも発展 ◆フランス ・19 世紀後半から総人口の伸び悩みと高齢化の趨勢(政治的議論の対象) →現実の人口事情への関心と重なり歴史人口学が発展 ◆イギリス ・ケンブリッジ・グループ:統計以前のイギリス社会について、村落単位で人口動態や家族構成を研 究 ・パーソンズによる「工業化以前の社会は大家族で構成→工業化の進展とともに核家族が広まった」 という主張の検証 3.ヨーロッパの人口調査 ◆教区帳簿(フランス) ・教区内でのカトリック教徒の洗礼・婚姻・埋葬について司教が記録したもの ・教区帳簿は個人別・所帯別に記録されていたわけではない →人口動態情報が明らかになる ◆住民台帳(イギリス) ・イギリス国教会の教区帳簿は、フランスに比べ内容が簡略であるものが多く家族復元が困難 ・16 世紀から宗教上あるいは行政上の理由により住民台帳が作成 →住民台帳に基づいて世帯の規模や構成員の続柄、奉公人の数、人口の入れ替わりなどについてケ ンブリッジ・グループのラスレットらが研究 →世帯の静態情報が明らかになる ◆家族復元法 ・フランスの人口学者ルイ・アンリが考案 ・教区内での出来事をもとに家族の構成を復元し、それらの集積からそれぞれの家族の全体像を復元 する方法 → 夫婦関係と親子関係が復元される e.g.家族復元によって、工業化以前の西ヨーロッでは男女とも晩婚型で、子どもは多産多死型だった ことが明らかになった(前近代はみんな早婚というのは誤り) →子どもが多産多死型であったことから、平均寿命を取ると大変短かった 4.アジア・日本の人口調査 ・戸籍制度が確立するのは 6-7 世紀(隋、唐の時代)で、中国の均田制にならって日本では班田収授 制を行い人口調査が実施された →歴史人口学で扱う史料としては不適切 ◆人畜改 ・16 世紀末から 17 世紀初めにかけて始まった、戦争の準備として行なわれた人口調査 →戦争時に動員できる領内の物的・人的資源を把握する必要 ・家畜も同時に調査されたため「人畜改」 ◆人別改帳 ・人畜改の系列を引いたもの ・江戸時代を通じて幕府や少数の藩が随時作成 ・世帯構成員の動静について出生や死亡の月が記載 ・宗門改帳と異なり、世帯構成員の動静だけでなく、生まれて死んだ者、病人、奉公の出入り、土地 の持高、なども記録 ◆宗門改帳 ・宗門改=キリスト教厳禁の方策として、全住民対象の信仰調査 ・宗門改帳=宗門改の記録 ⇒信仰調査という元来の建前+人口・世帯の状況を知る資料としても ・寛永 15(1638)年から明治 5(1872)年にかけて全国的に、原則的に毎年作成された ・内容:世帯、現在住んでいる構成員、それぞれの属する寺院(宗門改の証明に必要な情報)+その 他の情報(年齢、土地、家畜など=人口調査の内容) →ヨーロッパと違い、人口や生死といった変化(動態)と、状態(静態)の両方が書かれてある 5.近代国勢調査 ・世界的に広がったのは 19 世紀後半から ・日本の場合非常に遅れて 1920 年(大正 9 年)に最初に行われた 6.日本の人口推移 ◆日本の人口推移:四つの波 ・第 1 の波:縄文時代の人口循環 ・第 2 の波:弥生時代に始まる波 ・第 3 の波:14・15 世紀に始まる波 ・第 4 の波:19 世紀に始まり現代まで続く循環 第2章 縄文時代から安土桃山時代までの人口 1.縄文時代 ◆小山修三による遺跡数を根拠とした人口推計 ・方法 ①人口を計る規準として 8 世紀の人口推計から、当時の関東地方の集落当たりの人口を求め る。そして、縄文時代と 8 世紀の集落規模を比較することで、縄文時代の関東地方の1集 落当たりの人口を割り出す ②導き出した関東地方の集落人口を規準にして、1965 年にまとめられた『全国遺跡地図』 (文 化財保護委員会)における各時期の遺跡分布を参考にし、縄文時代の各期(早期~晩期) の地域別人口を推計する ⇒奈良時代の人口、関東地方の遺跡というより確実な証拠を基準にして導き出そうという人 口推計 ・人口変化(第1の波)・・・北海道、沖縄を除く全国(内地)人口は激変。 →早期 2.0 万人、前期 10.6 万人、中期 26.1 万人、後期 16.6 万人、晩期 7.6 万人 ◆人口密度分布 ~人口は東高西低型~ ※縄文人の食料資源 最も多く出土した植物・・・堅果類(ドングリ、クリ、クルミ) 現代の日本列島:北緯38度を境に北東地域に落葉広葉樹林帯が広がり、南西は常緑の照葉樹林帯が 優勢 ・落葉広葉樹林:コナラ、クリ、クルミ、トチなどの多くの堅果類が実り、秋から冬にかけて葉を落 とすことで林床は明るくなり、植物や動物が多く生きる ・照葉樹林:カシやシイ、生産量は圧倒的に少ない ⇒縄文時代は、落葉広葉樹林帯と照葉樹林帯の境界が日本列島の気候の変化とともに移動 ①縄文前期~中期 ・前期(6000 年前):現在より年間平均気温1℃高い → 樹林帯の境界線は中部地方 ⇒東日本:豊富な食べ物が得られ、安定的な食生活が営まれる → 人口増加 西日本:食料資源が比較的少ない → 人口増加緩慢 ②縄文中期以降 ・中期(4500~2500 年前):日本列島は再び寒冷化 → 前期より年間平均気温3℃低下 ⇒東日本:海岸沿いの平野部に照葉樹林が押し寄せる(生産力の高い落葉広葉樹林帯ではなくなる) → 人口激減(南関東で 90%以上、北陸で 80%以上減) 西日本:もともと食料資源に乏しい → 早くから食物を管理する必要性・朝鮮半島南部と密接に交 流 → 植物栽培の知識・農耕技術による食生活の安定化 → 人口倍増(晩期には減少する が、前期と比較しても 1.5 倍増) ◆縄文時代の古人口学* *古人口学・・・おもに出土人骨に基づいて古い時代の人口現象を研究する分野 ・小林和正による縄文時代の 235 体の人骨の死亡年齢の測定 →推定 15 歳未満の人骨は、全人骨の 50%以上、15 歳まで生き延びれば平均余命は 15 年⇔ 平均寿 命はせいぜい 15、6 年でしかなかった 2.弥生時代から奈良時代 人口変化(第2の波)…弥生時代から奈良時代にかけて、人口はほぼ 10 倍に ◆澤田吾一による 8 世紀の人口推計 各国の出挙稲数と、戸籍残簡から計算した成人男子人口(課丁数)割合とを手がかりにして、奈良時 代の良民人口を算出し、これに出挙稲に反映されない奴婢や浮浪人口を加える ◆人口密度分布 ・縄文時代と比較して、西日本の比重が大きく高まる →近畿を中心とする西日本は、稲作起源地の大陸により近く気候が温暖であるために早くから稲作 が定着 ・寒冷気候による海水面低下によって海岸平野や三角洲性の沖積平野、自然堤防が発達 →自然灌漑による直播可耕地を容易に利用できる…東日本でも関東を筆頭に人口増加 ◆稲作の導入による人口増加の二側面 ①稲作の高い生産力による日本列島の人口支持力の上昇。また、食料供給の安定化による出生率の向 上(ただし発掘された人骨から推定される平均余命は、縄文時代から目立った変化が認められない) ②水稲耕作の国家的事業性。生産余剰の拡大と支配階級の誕生 ⇒人口増加と国家形成の連鎖反応の継続…4 世紀中ごろのヤマト王権の誕生 3.平安時代から安土桃山時代 人口を直接記録した史料がない時代 →670 年に庚午年籍がつくられ、690 年の一斉造籍(庚寅年籍)から 6 年に一度、籍帳を作成して班田収 受を行うサイクルが成立 ⇔ 824 年を最後に一斉造籍行われなくなる ◆平安時代 ・国別の耕地面積の記録をもとに推計 →8 世紀を過ぎる頃から人口の増加率は低下し、10 世紀以降は停滞的であった ・人口が停滞した4つの理由 ①渡来民の減少・・・8 世紀頃には減少 ②致死率の高い伝染病(はしか、インフルエンザ、天然痘)の流行 ③気候の変化・・・11・12 世紀は温暖乾燥の時代。気温の上昇による日照り、旱魃の頻発(西日本のみ*) ④社会体制の変化・・・乙巳の変からの中央集権体制 → 権力の地方分散(荘園の出現と人口登録制 度の崩壊) *寒冷で農耕に不向きだった東北地方では、気温の上昇により安定した耕作が可能になり、東北の開 発が進むにつれて人口分布における東日本の地位が上昇。温暖化によって勢力の基盤であった東国 の稲作の安定化 ⇔ 東国の鎌倉幕府が置かれたことと関係? ◆ファリスによる人口推計 ・1280 年:国ごとに作成された太田文(一国内の田地面積あるいは領有関係を記録した台帳)を利用。 九州(6 カ国)、中西部(近畿、山陰の 5 カ国)、能登、常陸の 13 カ国の水田面積にもとづ いて推計 ・1450 年:武士人口に着目。山名氏と畠山氏が抱える武士の人数を利用して、室町時代の守護大名(37 家)の武士人口を算出。 ◆鎌倉時代 ・土地支配と経済構造に決定的な変化は起きなかった →出生率を引き上げて人口増加をもたらす誘因はかけていた…人口の変化はあまりなかった ・致死性の高い伝染病(天然痘など)に対する免疫 →一度天然痘にかかると免疫を持つ…伝染病が一度流行すると、免疫を獲得した人が増える ・戦争と飢饉 →1181~82 年(源頼朝の挙兵・養和の飢饉)、1231 年(寛喜の飢饉)、1258~59 年(正嘉の飢饉)・・・ この期間の死亡率は上昇したと推測される ⇒出生率があがらず、死亡率は上昇したと考えられるので、人口は減少したと推計される ◆室町時代 ・出生率をあげる現象 →農業・・・牛馬耕の発達、二毛作の普及(1 年のうちで飢饉が最も発生しやすく、被害が大きくなる 春の終わりから夏の始まりにかけての期間の食糧不足を補う = 食糧問題の解決) ・市場経済の拡大…江戸時代に継続する市場経済化へ向かいはじめた時代 ◆戦国時代 ・飢饉・・・2 年に1回の割で、慢性的な飢饉の状態(戦国以前の飢饉は3~5年に1回) ・疫病・・・ヨーロッパ世界の拡大によって、梅毒が持ち込まれる 戦国大名による富国強兵(軍役や年貢の徴収、生産拡大のための土地と人口の把握) →耕地調査、戸口調査の復活・・・豊臣秀吉による太閤検地、 「人掃令」 ⇒第2の人口の波の停滞局面から、第3の波が始まり、近世の増加へ大きく転換する時代 第3章 江戸時代の人口 -経済社会化から見る第 3 の波- (担当:藤田) 1.江戸時代の人口変動 ◆人口変動の特徴 ・17 世紀に人口が飛躍的な上昇を見せ、18 世紀には人口が停滞・減少する ◆18 世紀以降の人口停滞の通説的な理解 ・小氷期による寒冷化、虫害による飢饉が多発する →江戸時代の三大飢饉(享保・天明・天保)は 18 世紀以降に起こっている ・コレラなどの疫病が都市を中心に蔓延する ・生活に困窮した農民が間引きや嬰児殺しを行う ⇒最近の研究成果で、18 世紀の人口減少や停滞に関して環境・災害面以外に経済発展や、経済発展に伴 う家族形態の変化から江戸時代の人口の変化が論じられるようになる 2.「経済社会化」と経済成長 ◆「経済社会化」 ・速水融により、江戸時代の経済成長・変化を「経済社会化*」という概念で説明される *経済社会化…市場経済の勃興により、人々が経済的に合理性を重視した行動をするようになり、生 産の効率化や拡大、利潤獲得のために意欲を出すようになる ⇒人口変動の第 3 の波を引き出す原動力として捉える ◆市場経済の進展 貨幣経済の進展が見られ、農村における自給自足の生活から変化が生じる →地代の銭納化、肥料・農器具・生活必需品の購入など貨幣が重要になる ◆産業の発展 地場産業の発展が見られ、農民が農業以外の仕事に関わるようになる →家内制工業や農村マニュファクチュアが進展し、農村から労働力の確保や人口の移動が見られる これにより農民は重要な労働力の一部となる ◆農業生産の向上 農業生産(石高)の向上により食糧生産の増加 ・農器具の改良や新田開発が進む ・農業生産の形態が名主経営から家族中心の小農経営が増え、労働意欲の低い隷属農民への依存 が減り、農業の効率化が行われる ⇒食糧生産が増え、養うことのできる人口が増加し、17 世紀の人口増加の要因になる。 3.小農経営と家族の変化 ◆小農経営の進展と家族のあり方の変化 ・家族経営中心の農業になることで、結婚せずに生涯を終える隷属農民が減る ・直系親族を中心とする家族構成が進む ◆「婚姻革命」 ・土地相続や家の継承をさせるという観点から、子孫を残す役割を担う直系家族が増えることで、結 婚の必要性が高まる ・結婚により有配偶者率が向上するようになり、出生率の上昇につながる ◆17 世紀の人口増加の要因について ・結婚率の上昇が、出生率の上昇につながる ・食糧の生産が増え人口増加を支える ⇒経済成長と家族形態のあり方が従来と変わり、17 世紀の人口増加につながる 4.農村における奉公と晩婚化の進展 ◆農村からの奉公 ・「社会経済化」や貨幣経済の進展により、農業外の貨幣収入重要になる →奉公が農民にとって農業外収入を得る、非常に重要な機会になる ◆都市の「蟻地獄」問題 ・都市の「蟻地獄」(速水融) 奉公先の都市では劣悪な衛生面、男性に偏った人口比率により、人口の再生産が追い付かなくなる 都市では死亡率が高く、農村からの人口移動により、人口を維持するようになる。 ⇒奉公先の都市への移住や死亡により、奉公に出ることで人口供給源の農村での人口減少につながる ◆奉公の経験階層 ・階層と奉公の経験は関わりが見られる →地主階層では奉公に出る割合が減り、小作人層では奉公に出る割合が増える ◆奉公経験と初婚年齢の関わり ・奉公の経験と女性の初婚年齢に違いが生じる(男性では大きな差が出ない) →奉公経験者:25.9 歳 奉公未経験者:21.5 歳 ◆持ち高と初婚年齢 ・持ち高と初婚の年齢が関連するようになる →持ち高が多いと初婚年齢が下降し、少なければ上昇する ◆18 世紀以後における未婚率と晩婚化 ・初婚年齢が高くなり、経済状況により未婚のまま生涯を終える場合もある ◆18 世紀以後の人口停滞 ・18 世紀以降になると経済発展に伴い、奉公の重要性が高まる ・奉公は晩婚化や都市への移住を進めることになり、18 世紀以降の人口停滞・減少に結びつく ⇒経済状態や、労働により晩婚化が進み、人口停滞・減少社会を迎える江戸時代は、現代日本と同じ構 造になっている 第4章 明治以降の人口(担当:荒木) 1.人口の概観 ・明治以降、日本人口は太平洋戦争期を除き増加を続け、2010 年ごろより減少(第4の波) 【図1】 →出生率・死亡率の変化から、4 期に区分することが可能【図2】 2.人口の4期区分 ◆第1期(1872 年~1924 年):高出生率・高死亡率。出生率はさらに上昇 ①女性の有配偶率の増加→出生率上昇 ・産業化の開始と共に、都市の就業機会が増大→都市での結婚機会の増加 ・有配偶率の増加により、出生率も上昇 ②都市における死亡率の上昇【図3】 ・明治時代、行政制度の転換により、上水管理・ごみ処理システムに混乱がおこる →都市の環境は江戸時代より悪化 ・さらに開港以降、これまでにはなかった頻度でコレラなどの伝染病が流行し、これらにより都市の 死亡率は江戸時代に比べ上昇 ・1900 年代に入ると海港検疫制度、公衆衛生にたいする法律が制定され、都市の高死亡率は改善 ③結核、スペイン・インフルエンザ(スペイン風邪)の流行 ・結核:大正期、繊維業が大きく進展。紡績工場が多く建てられ、主に農村出身の女工が労働力とし て利用される→その劣悪な労働条件から結核を患うものが多発 ※結核患者が出身の農村に帰り、空気感染で農村一帯に広めてしまう、というケースも ・スペイン・インフルエンザ:1918 年、ヨーロッパに始まった流行病。4000 万人が病死。日本でも 1918~1919 年の流行で 38 万人が死亡した。【図4】 ◆第2期(1924 年~1945 年):出生率・死亡率共に低下。人口転換の始まり この時期、出生率・死亡率が低下し、人口転換がおこる ・人口転換:多産多死の伝統社会から、多産少死を経て、少産少死の近代社会への転換が起こり、その 過程で人口が増加すること。社会の近代化、産業化によってまず死亡率が低下し(第1局 面)、人口が増加する。これをうけて産児制限によって出生力が低下し(第2局面)、人口 は減少すると考えられている。しかし、伝統社会といっても、どの地域も一律に多産多死 であったわけではなく、地域によって出生率、死亡率は相当に異なっていたのではないか、 などという疑問が呈されている。 ・日本の人口転換:まず死亡率の低下から始まり、次いで出生率が低下 ①医学の進展、生活水準の上昇→死亡率低下(特に都市での死亡率が低下) ②都市への人口集中、晩婚化、核家族化→出生率低下【図5】、【図6】 ◆第3期(1945 年~1974 年) :出生率は上昇した後、大きく低下。死亡率も大きく低下し、人口転換が 完成。人口は急速に増加 ①戦争終結による軍人・民間人引き揚げ(500 万人増加) ②ベビー・ブームの到来(1947~1949 年)→1950 年代には急速に出生率低下 ・1948 年に合法化された人工妊娠中絶が大きく貢献 ③抗生物質など医薬の普及による伝染病死亡者の低下、栄養の改善→死亡率低下 ・1960 年代後半には、少産少死にいたる人口転換が完成する ⇒この急激な人口増加は、戦後復興の日本において重圧となる →1960 年代から始まる高度経済成長は、彼らの労働力を吸収。このことが日本の経済発展の大きな助 けとなる ◆第4期(1974 年~):出生率のさらなる低下(少子化)。死亡率は変化せず、人口減少へ 合計特殊出生率は 74 年の 2.05 より低下を続け、2005 年には 1.26 まで低下。その後 微増して今に至る。(2010 年現在 1.39)【図8】 ①産業化によって、子供の労働力としての意義が減退。社会保障の充実もあり、子供に老後保障を期 待することが少なくなる。また、未婚化・晩婚化もさらに進展【図6】、【図7】 ②1973 年の石油危機は、人々にエネルギー枯渇の恐怖を植え付ける →出生抑制の訴えが始まり、1975 年から出生率は低下していく ③また、教育費の増大も出産抑制の要因となる。 ⇒70 年代以降日本を含む先進諸国の出生率は相次いで、人口を維持できる水準(合計特殊出生率 2.07) を割り込んでしまう。=「第 2 の人口転換」 →日本人口の将来推計:2053 年に 1 億人を割り込み、2105 年には 4459 万人まで低下 おわりに ・歴史的に見て大きな人口増加は、新しい時代への過渡期を意味している ・生産力の発展による人口支持力の上昇が人口を増大させた ・人口と社会・経済は密接な関わりがあり、過去の人口を知ることにより、社会・経済の変化や動向を 知ることができる 参考文献 梅村又次、新保博、西川俊作、速水融 1976『数量経済史論集 1:日本経済の発展』日本経済新聞社. 大淵寛、森岡仁 1981『経済人口学』新評論. 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