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筑波大学附属病院看護職
筑波大学への期待 筑波大学附属病院看護職の立場での提言 赤沢陽子 前筑波大学附属病院看護部 看護部長 はじめに 昭和51年開院の経験で学んだこと 筑波大学が昭和 48 年の開学から 30 年を 昭和51年4月、大学病院はまだ建設中の 迎えた今日、折りしも国立大学を法人とし 鉄骨のみの姿であった。建設中のその姿か て国の組織から独立させる法律が国会で成 ら、新構想大学の理念に基づく大学附属病 立した。筑波大学の設置は当時の大学改革 院の組織・運営の改革も進行していること のモデルとして建学の理念に改革の意義と が想像された。永い歴史をもつ学部講座制 その内容が明確に述べられている。その一 を廃止して、開かれた大学病院の医療・教 部を引用すると「従来の大学はややもすれ 育・研究の新しい姿を描きながら、大きな ば狭い専門領域に閉じこもり、教育・研究 期待と希望を抱いてつくばの地に赴いた日 の両面にわたって停滞し、あらゆる意味に が鮮明に思い出される。早速の採用時オリ おいて、国内的にも国際的にも開かれた大 エンテーション・研修は、看護宿舎が完成 学であることをその基本的性格とする(以 しておらず、宿泊所を兼ねて国立教育会館 下略) 」と明記されている。ここにはすでに、 分館で行われた。その内容は本学の理念と 今日で言う大学の構造改革のあるべき姿が 組織・機能を医療担当副学長・学群長・学 示されていると考えられる。私は、今回の 系長が、病院の組織・運営は病院長・準備 国を挙げての変革が筑波大学にとって、自 室の方々によって行われ、新病院創設の希 主・自律の努力により建学の理念の具現化 望と力に満ち溢れたものであった。 をさらに推し進める機会としてとらえ、筑 理念の実現のための具体的な理解は、各 波大学附属病院について元看護部職員の立 構成員がそれぞれの職務を創造的に全う 場で期待を述べたい。 するための最低水準の教育であり、それは 38 筑波フォーラム特別号 新世紀への礎 同時に組織体そのものの力となったと考え 員があらゆる研究・教育のための共有の場 られる。毎年、新しい教職員を迎える上で、 として活用することができる。さらに、今 このような組織の意志の十分な理解と組織 日の社会が要求している地域との連携によ 人としてのアイデンティティーが高められ る患者中心の医療提供の実現には、これら るプログラムが現任教育として準備される の特色の上に以下に述べるいくつかの方策 べきであると考える。 が有用と考える。 またこの年、看護部にとって重要な決定 ① 前述した通り、医療の提供の場が広く があった。国立学校設置法施行規則の改正 学生・教職員全体により共有されなけ により、国立大学病院に看護部が設置され、 ればならないので、その最高責任者で 看護部長の配置と共に業務所掌が明確にさ ある病院長は、全学の立場から、管理・ れ、看護部が看護を提供する部門として診 運営の責任を果たすために副学長とし 療部門に並び自立した看護の提供が社会的 て大学運営に参画することが不可欠で 責務であることになった。今日、大学病院 ある。 への批判に応えて患者本位の、十分な説明 ② 患者中心の病院としての医療の運営に により意思決定できる医療を提供するため あたっては、全学および病院各部門か には、それぞれの部門が自主・自立し尊重 らの病院運営についての発言が平等に しあってこそ、真の協働による医療が実現 評価されるよう組織運営を改革するこ できると考えられる。この意味においても と。 看護部の設置は病院の発展にとって極めて 具体的には、医師、薬剤師、看護・助産 重要な改定であった。 師、 検査技師、 放射線技師、 栄養士、 学生・ 教官・事務職員等の組織からの運営に 附属病院の改革について ついての自由な発言が平等に尊重され 本大学の特色は閉鎖的な大学を社会に開 る必要がある。 くために学部講座制を廃止して研究を中心 ③ すでに述べたことではあるが、全ての とした教員組織の学系と、教育組織として 教職員に対して現任の研修教育を徹底 の学群・学類とに分離して運営するところ させることが重要である。 にある。この基本的立場に立てば、病院を ④ 病院において医療に従事する教官の第 研究・教育から独立させて大学直属とする 一の責務は医療そのものであることを ことにより、学内全ての分野の学生・教職 明確にした体制づくりが必要である。 筑波大学への期待 39 教育はこの第一の責務の実践を通して 行われ、研究はこの第一の責務に貢献 する立場でなければならない。 おわりに 以上、看護部運営の経験から筑波大学並 びに附属病院への期待を述べた。筑波大学 附属病院は、医療・教育・研究の重要な社 会資源であり、地域社会・全学学生・教職 員の財産であることを強調したい。 (あかざわ ようこ) 40 筑波フォーラム特別号 新世紀への礎 筑波大学への期待 開学30周年を迎えた筑波大学に期待する 阿部帥 元筑波大学副学長(改革・医療担当) 現茨城県立医療大学長 この30年を振り返って 京教育大学の筑波移転決定から筑波大学の 筑波大学開学30周年を心から祝したい。 開学まで10年を要したのは、単なる大学の 30 年も過ぎると、第一回生の入学式に教 移転が新構想大学の新設に切り替えられた 員として参列した人はすでに少なくなって ためだと当時の新聞は報じている。確かに、 いるものと思う。筑波大学は大変難産の末 安田講堂事件を頂点とする学園紛争があ 誕生した。私は5年前、本学の退職に当って り、また労使の対立も続いていた。このよ 24 年間奉職した筑波大学の生い立ちと生 うな左右の激しい対立の中で、新構想大学 長を確かめておきたくて、図書館に通い縮 が我国の高等教育の在り方の議論から逸れ 刷版の新聞を読んだことがある。新聞紙面 て与野党の政治対立の具となってしまった はおそらく今の若い人には信じ難いであろ ことは情けない。当時は多くの教育者や市 う内容を伝えていた。正に激動の時代だっ 民、マスメディアまでもが冷静さを失って たのである。筑波大学の誕生は東京教育大 この渦の中に巻き込まれてしまった。挙げ 学の筑波地区移転の閣議決定(1963 年)に 句の果てに筑波大学法案の国会審議も難航 始まっている。この頃経済の高度成長と共 し、 100日国会といわれた会期の超延長の未 に大学の大衆化も始まっていた。また新制 可決、 9月29日公布、 10月1日開学という難 大学が発足して15年を経過しており、旧制 産の末の誕生であった。当時、筑波大学の 度を組み替えた程度で基本的改革がないま 開学に関するマスメディアの論調はきわめ まで出発した新制大学では、我国の高等教 て厳しいものであった。国立大学の法人化 育や学術研究が世界に伍して行くことがで を軸とした大学改革に関するマスメディア きないと考えたのは当然の事であろう。東 の最近の論調と比較すると、隔世の感を禁 筑波大学への期待 41 じ得ない。 の運営に当っては、教育・研究の多様性を 筑波大学は大学改革の実験大学として誕 十分に尊重した運営が望まれる。 生した。筑波大学は法人化を前にして新た 筑波大学は大研究科構想に始まる研究科 な挑戦が求められているが、この原点を忘 の統合・重点化を達成し、図書館情報大学 れてはいけない。この際、 30 年前に与えら との統合を成し遂げて30年目を迎えた。こ れた使命の何が達成できて、何が達成でき の時期に法人大学へ生まれ変ることになっ なかったかについて厳しい検証が必要であ たことは、きわめて幸運であり大学改革の ろう。この検証の上に発展的な改革の方策 好機である。国立大学法人法に盛られてい を構築して、法人大学としての新生筑波大 る内容をみると、筑波大学ではすでに30年 学に生まれ変ってほしいものである。 前から可成り似た形の管理運営制度が導入 されていた。この点を考えると筑波大学は 筑波大学の利点を生かせ 他大学に先んじて改革し、法人大学として 国立大学の法人化はすでに準備の途上に の運営を軌道に乗せることができる筈であ あるが、大学改革の実験大学からみれば法 る。しかし、大学改革は組織や制度改革だ 人化は改革の道程で取り入れなければなら けでは成就できない。法人大学として大学 ない必然の制度であろう。筑波大学が新構 改革を進め、円滑に運営して実績をあげる 想実験大学として開学して大学の法人化が には、構成員の意識改革こそ必要であろう。 国の制度として決まるまで 30 年を要した。 これは大学改革の難しさを象徴するもので あり、また我国の指導者の問題解決能力の 法人筑波大学に期待する 筑波大学は、開学10年を過ぎた時に自己 不足が背景にあったことも否めない。 評価報告書を発表している。これは企画調 学園紛争の時、国立大学は自律性に乏し 査室が中心になって開学時の目標の達成度 く、危機管理能力に欠けているとして国民 と問題点、改革の方策をまとめたものであ から厳しい批判を受けた。筑波大学では管 る。繰り返し検討を重ね、稿を改めて発表 理・運営・企画を中心に一元化し、教育と したものだけあって充実したものとなって 研究を分離した上で大学の自治を維持する いる。報告書は当時の状態を厳しく検討し、 という仕組みをつくった。しかし、この制 問題点を浮き彫りにして改革の指標を提示 度は一方では個々の学問領域の個性ある発 している。新構想には必ずしも実践に適し 展を阻む可能性も否定できない。法人大学 なかったものもあるが、構成員の意識の低 42 筑波フォーラム特別号 新世紀への礎 さや指導的立場にあった人のミスリードに つぎに、人事については筑波大学で助手 よって思わぬ方向へ流れてしまったことも を廃止したのは失敗ではなかったかと思う。 ある。組織は一度走り出すと、改革や軌道 大学院生と専任教員の間をつなぐ職がない 修正をするには多大なエネルギーを必要と というのは人材育成には極めて都合の悪い する。法人化に当って注意すべきであろう。 制度である。しかも開学前に聞かされてい ここで、法人筑波大学の今後の発展を期待 た技術員の定員は削減されて「外国の大学 して二、三の私見を述べてみたい。 のような研究室」は夢と消えてしまった。 筑波大学は教職員3900余名、学生9000余 助手やポスドクの居ない筑波大学では教 名、大学院生5000余名の大総合大学に生長 育の観点からみても研究の側面からみても した。今後大学院重点化大学として大学院 専任教員として優秀な人材を外から集める を軸に運営の舵取りが行われるとも聞こえ 必要がある。法人化に際しては教員の任期 てくる。大学院の重点化による発展は誠に 制度を全面的に導入すべきだと考える。任 けっこうなことである。しかし学部の教育 期制度は筑波大学の創設準備の段階で検討 がおろそかになるようなことがあってはな の俎上に上っていた。しかし、当時は人事 らない。とくに、今後予想される方向とし 院の見解として法律上導入は不可能との事 て専門教育の重点が大学院に移行して行く であった。 ことを考えると、総合大学としてはリベラ 最後に、法人化した後の学長は実行力の ルアーツの充実を伴うことが望ましい。私 ある方を選考するべきであろう。法人化後 は以前から総合大学の在り方として、筑波 の大学は評価の時代、大競争時代に突入す 大学は人文社会系を充実することが望まし る。形式ではなく実績が重要視される時代 いと考えてきた。講座制を廃止し、学部・ が来る。調整能力より実行力、真の指導力 学科・研究科の縦割りの教育組織をとらな が求められる。 かった筑波大学は、時代が求める真に広い (あべ つかさ) 視野をもった人材を育成できると考えたか らである。研究面でも、最近の研究の中に はいわゆる文系・理系の垣根をも超えいわ ゆる学際研究が多くなってきた。筑波大学 においてはこのような研究の発展が大いに 期待できるのではないかと思われる。 筑波大学への期待 43 筑波大学への期待 大学の法人化に当たって 新井敏弘 前筑波大学教授(物理工学系) 現筑波大学名誉教授 はじめに 学問の継承・発展と言うアカデミックな一 大学の法人化云々が取り沙汰され出し 面であり、他は社会のニーズに答えると言 たのは、私が筑波大学を去った直後位だか う実用的な一面であろう。筑波大学は開学 らもう 7, 8 年は経っているだろう。その間 の理念にこの二つの面を強調している。そ 大学としてその対策は充分練られて居ら れに加えて “開かれた大学” と言う事も謳っ れる事だろうから、今更私のごとき者が何 ている。そしてこれらの目標達成の為に努 も言う事は無いと思うが、筑波大学が発展 力をして来たし、その目標は今でも当を得 し、そこに働く方々がよりよい研究・教育 ている。ただその実現の為の方法論が本当 の環境下で充分力が発揮出来る事を祈って、 に効果的であったかどうかを見直す必要も 「三十周年記念筑波フォーラム特別号」へ あるかと思う。特に大学院における教育目 の寄稿の機会を利用して、一言私見を記さ 標・体系を考える必要があるのではと思っ せて頂く事にしました。的外れな所が多々 ている。 あるかも知れないし、皆様が考えられた改 以下それについて考えて行こう。 革に既に折り込み済みの事ばかりだと思う が、筑波大学の発展を祈るばかりの老婆心 からだと、御容赦願いたい。 学群教育 大学が大学である為には、単に本に書い てある事を教えるのではなく、教育と研究 現代の大学の使命 が一体化していなければならない。この考 私は現代の大学には二つの大きな使命が えに基本を置いた教育を学群の教育に於い あると思う。その一つは言うまでもなく、 ても行なうべきである。そこに高等学校と 44 筑波フォーラム特別号 新世紀への礎 の差があるかと思う。筑波大学には、そう 商品や装置の機能・性能が充分に伝わり 言う教育を為しうる各分野の専門家が揃っ 人々に安心して且つ安全に使用されるであ ている筈だと思っている。その方々が学群 ろう。表現法における訓練は、外国語表現 で各自の専門を生かし、来るべき大学院の の訓練の基礎にもなり、諸般の国際化にも 教育に対する基礎や、学群を終えて社会に 対応する下地を作る事にもなろう。 出る学生が広い視野に立ち融通性を持つよ うな教育をするように心がけて頂きたい。 大学院教育と研究 その為には近い分野の方々での授業内容の 次に大学院での教育であるが、修士課程 打ち合わせ、相互チェックは勿論、異分野 と博士課程での人材育成の目標を明確に との相互理解と相互補助が欠かせないであ して頂きたい。大学開学当時はそれは明確 ろう。 に分けられていた。即ち修士課程は高度の もう一つ学群の授業で力を入れて頂きた 実務技術者・技術開発者の育成であり、博 いのは“表現法”の授業内容の充実である。 士課程は学問の継承・発展に携わるアカデ これは私が筑波大にいた時から強調して来 ミックな研究者の育成であった。しかしこ た事でもあるが、どの分野であろうが、自 の三十年の間にその辺りが明確でなくなっ 分の思う事や考え方等を他の方々に正しく てしまった様な気がする。大学独立法人化 伝え、それらの内容を正しく理解して頂く の時機を捕らえて、その辺の環境を整え直 事は非常に大切である。新時代の教育の傾 したら如何だろうか? 向として、初等・中等学校時代から debate (1)教員は勿論学生も、各自の属する課程 の訓練が行なわれているようだが、その基 の人材育成目標を明確に自覚する事、及 本であるべき思考の表示手段である文章表 びそれに対する組織のバックアップ体 現の訓練が等閑になっている気がする。文 制の確立。 章力を鍛える事は、思考を深めまとめる事 (2)教員の担当課程を各人の個性・特性に でもあり、大げさに言えば、人生の意義を 従って分ける。従来は院の担当手当を始 考える事にもつながり、ひいては哲学する めとして、修士課程軽視の傾向がなかっ 心であり、審美への道に至るようにも思え たとは言えないが、独法化でそれは拭わ る。そんなに大上段に振りかぶらないでも、 れるだろう。 “社会のニーズにこたえる” 商品のパンフレットや装置の操作手順書を と言う意味で、修士課程はより重視され 正確に分かり易く簡単に記す事が出来れば、 るべきと思う。勿論研究の段階での担当 筑波大学への期待 45 課程の変更の自由度は必要だろうとは 配分等の学内優遇制度を設けたり、科研 思う。 費申請援助等が出来ればと思う。 (3)修士課程では、学生と共に企業等との (7)最後に蛇足ながら筑波大学の置かれ 共同研究、独自にプロジェクト研究を設 た環境即ち研究学園都市内にある利点 立し企業や官公を取り込む、更には必要 を充分活かして頂きたい。金銭的な問 なら企業等への学生の派遣や、自らの出 題だけでなく他研究機関と有機的に繋 講等を積極的に行なうと同時に、学内の がりお互いに影響力を及ぼし合う事が プロジェクト研究施設や技術サービス 大切である。更に私の経験から言えば、 センター等の中核となり、学生の科学技 術教育・社会情報教育に資する。 “Tsukuba”の名前は諸外国にもよく知 られているばかりでなく、本学をはじめ (4)博士課程では、各学問の基礎的研究を 学園都市内の諸研究機関に滞在した研 深化させるのは勿論だが、他学問分野へ 究者にも会う事も多く、それらの方々は 各自の専門を拡張する事にも力を入れ 筑波大学を“Tsukuba”の中心として考 るべきだと思う。 えて下さっている。この利点を活かして、 (5)博士課程のプロジェクト研究等への関 国際性をより高める方策をとるべきで 与の仕方だが、これは専門によって大き あろう。例えば国際プロジェクト研究の く異なるであろうから一概に言う事は 設置等も考えられる。 出来ない。ただ修士課程の学生は二年間 と限られた期間がある事を考えると、博 以上思いつくままの事を、文の推敲もせ 士課程の人々も何等かの形で、プロジェ ず記したままの乱文を投稿致します。真意 クト研究等に関与する必要はあるだろ が伝わらないとしたら、私の表現法の訓練 う。 が足りないので、反面教師の例と捕らえて (6)大学院の学生には2年ないし5年に期間 が限られている。しかし本当に後1∼2年 はと担当教員が思った時には、その人を 何等かの形で雇用出来るような学内措 置制度は出来ないだろうか?これは若 手の励みと育成に有効だと思う。更に講 師など若い教員に海外派遣・特別研究費 46 筑波フォーラム特別号 新世紀への礎 頂きたい。いずれにせよ筑波大学の発展を 陰ながら熱望致しております。 (あらい としひろ) 筑波大学への期待 教養を学習しよう −病んだ社会の再生のために− 石田友雄 前筑波大学教授(歴史・人類学系) 前筑波大学副学長(改革担当) 現筑波大学名誉教授・バッハの森代表 病んでいる社会 発覚後しばらくの間、これらの事件はマ 今月(2003年7月)初め、日本中を震撼さ スコミのトップニュースになるが、たちま せる事件が立て続けに起きた。まず12歳の ち風化して、世間から忘れ去られていく。 少年が 4 歳の幼児を性的衝動から誘拐・殺 しかも、同種の事件が次々に起こるから、 害した長崎の事件。次に少女を含む中学生 ニュースヴァリューすらなくなってきた。 4 人が長時間にわたって仲間の少年をリン 少年犯罪は年々増え続け、特異に見える長 チ殺害し、死体を墓地に埋めた沖縄の事件。 崎の事件も、類似の犯罪が 6 年前に神戸で どちらの事件の加害者たちも、犯行後、平 起きている。カネがからむ政治家の不祥事 然と日常生活を送っていたことから、これ にいたっては、四六時中摘発されているか らの非行少年たちには、そもそも罪悪感が ら、いちいち覚えていられないほどである。 欠如しているらしいと報道された。 間違いなくわれわれの社会は病んでいる。 同じ時期に、埼玉県知事が、彼の長女が しかも罪悪感という社会の土台が腐り始め 政治資金規制法違反で逮捕されたため辞職 ているのだ。 したが、少年たちが引き起こした犯罪ほど には誰も驚かなかった。大多数の政治家が 実学の研究・教育機関 法網をくぐり抜けて私財を蓄えているので この状況に、日本の大学は(敢えて筑波 はないかと、誰しも疑っているからである。 大学とは言わない)どう対応しているのだ しかし、この知事が、最初、辞職しないと ろうか。何もしていない、と言ったら言い 強気の発言をしたのには驚いた。彼にも罪 すぎなら、社会倫理の確立に、大学として 悪感が欠落していたのである。 貢献している大学があるだろうか、と質問 筑波大学への期待 47 を変えてみる。建前や題目ではなく、通り 学問の研究・教育機関であって、道徳心の 一遍の学生指導でもなく、本当に「豊かな 涵養を目的に活動している組織ではないと、 心の育成」を具体的なプログラムとして実 多分、大学人全員が考えているだろう。だ 践している大学があるのだろうか、という から、理論観の育成を大学に求めること自 質問である。 体、門違いだと言うことになる。 例えば、最近、早稲田大学の学生が中心 実際、建前はともかく、今の大学の実態 になって、大々的なレイプ・サークルを運 は、学問、それも実学の研究・教育機関で 営していたことが表沙汰になった。刑事事 ある。実学とは役に立つことを学ぶこと。 件になったため、さすがに早稲田大学は問 役に立つとは、端的に言って、経済的利益 題の学生を退学処分にし、学生問題担当者 があることである。国立大学の独立法人化 が記者会見の席上頭を下げたが、今後、よ もCOEプログラムの選定も、すべては実学 り適切な学生指導をするという通り一遍の の振興を目指している。 挨拶で一件落着。 しかし、これは他人事ではない。筑波大 形骸化した教養科目 学に在職中に世間を騒がせた事件を思い起 このようなわけで、今の大学の教員は全 こす。筑波大学で医学を学んだ医師が愛人 員、 実学の専門家である。 だから、 彼らに 「豊 に入れあげ、妻子を殺害して死体を横浜の かな心の育成」の教育を期待することは専 海に放り込んだ事件。筑波大学の大学院で 門違いだ、と言う意見がある。一見、正論 化学を専攻した男がオウム真理教に帰依し、 である。 猛毒サリンを精製してサリンを撒く実行犯 それにもかかわらず、土台から腐り始め に提供した事件。 た社会の諸問題を無視して、大学は、実学 どちらの事件が起きたときも、大学の教 の研究と教育に専念していればいいという 育が間違っていて申し訳ありませんでした、 のか。実学を応用する場としての社会がな と社会に向かって謝罪した者は誰もいな くなってしまったら、元も子もないではな かったと記憶する。要するに、これは、事 いか。常識ある人々が誰しも感じている疑 件を起こした個人の問題であって、大学の 問である。 教育の結果起きた事件だとは、誰も考えて 戦後成立し継承されてきた大学のカリ いないからだ。 キュラムの大枠の中に、専門、すなわち、 勿論、大学人には言い分がある。大学は 実学の教育とは別に、学生の人格の陶冶を 48 筑波フォーラム特別号 新世紀への礎 目的とする科目がなかったわけではない。 ようにはならないだろう。 教養科目である。 確かに、この科目に全く効果がなかった 教養教育の提案 とは言わない。この科目の活性化のため努 通常、学生は18歳から22歳までの4年間、 力した大学や教員個人がいたことを仄聞し 大学に在学する。大学院まで含めればあと ている。しかし、日本の大学全体を見渡し 2年から5年、留年すれば20代全体にわたる。 たときに、教養科目が弱体化、形骸化の一 各人にとって、自分が一生何を目指すのか、 途をたどってきたことも事実である。 その方向を決定しなければならない重要な 思うに、それは、学生全員が、幅広く浅 歳月を大学で過ごしているのだ。 い知識の習得を目指すという、教養科目の 学生時代の最優先課題が実学の修得で 目的の設定に原因があったのではないだろ あることは当然である。だが、同時に、何 うか。そもそも片々たる知識の雑然とした のための実学修得か、という各自の人生に 集積を教養と呼ぶことが間違っている。本 とって根元的な問題を自問自答する、最後 当の「教養」を身につけるためには、しば のチャンスだということを、われわれは余 しば専門技術の習得以上に時間がかかるの りにも軽く見過ごしてきたようだ。戦後半 である。 世紀、経済的復興を目標に、この根元的な そのよい例が外国語だ。教養科目の中に 問題の自問自答が、人間として生きるため 必ず入っている科目に、英語を初めとする にいかに重要かということを教えないまま、 諸外国語がある。外国語を1週2時間2年間 大学は「役に立つ」人材を世に送り出して で習得することなど、出来るはずがない。 きたのではなかろうか。その結果、日本は 私自身の経験では、外国の大学で講義を何 経済大国になり、経済的な豊かさは達成さ とか聞き取れるようになるのに、留学して れたが、社会の土台は腐り始めたのである。 から毎日毎日その国の言葉を朝から晩まで 今、次世代の担い手である学生諸君が、 学んで1年かかった。 実学を習得しながら、同時に「何のため」 世間一般の常識からするなら、英語こそ という自問自答を始めなければ、われわれ 実学の最たるものである。それなのに、大 の社会は再生する機会を永遠に失うのでは 学で「役に立つ」英語を教えていないこと ないかと危惧している。そのためには、こ は周知の事実だ。教養科目から実学科目に の問題を自問自答することができる「豊か 移さない限り、大学の英語が「役に立つ」 な心」を育成することが緊急の課題なのだ。 筑波大学への期待 49 それは、人命は何よりも貴い、というよう 発に活動している。 10代から70代まで各世 な題目を唱えさせることでも、既製の倫理 代、 7、 8人で男女比は1対2、筑波大学2年生 や道徳を教え込む教育でも達成できること の男子学生も 1 人いる。なお普段は集まれ ではない。 (例えば、古典的宗教書、哲学書、 ない会員が約200名全国にいる。 文学の類から、音楽、美術などの芸術作品 断るまでもなく、バッハの森に何年いて のような)偉大な文化遺産の学習や、 (例え も何の資格も得ることができないから、お ば、知恵遅れの子供たちのケアにヴォラン よそ「役に立たない」のだが、数時間かけ ティアとして参加するような)社会の片隅 て遠方から毎週集まるメンバーが何人もい にいる人々と接触する体験を通して、各自 る。最近、 30 代後半から 40 代のメンバーが が自分なりに人間存在について思考するこ 数人で、バッハの森が目指す「教養」を理 とから始まるのだ。このような、理性と感 解するのに 10 年かかったと述懐するのを 性と体験の総合的な学習の指針を与えるこ 聞いた。 とを、私は「教養教育」と呼ぶ。 このように、バッハの森は進化しながら 教養教育が実学教育と根本的に違う点は、 活動しているが、その「科目」は限定され 「役に立たない」ということである。従って、 ている。バッハの森の活動に参加した筑波 出席時間数、試験、ペーパーなどの義務で 大学の学生は、 18年間に、多分、 20人もいな 縛った卒業要件としての単位獲得のシステ いだろう。だから、今後、大学キャンパス ムは、教養教育には相応しくない。それは、 の内外に、多種多様のテーマを掲げた教養 単位にもならなければ、卒業要件にもなら 教育のサークルが多数出現して、学生諸君 ないが、そのテーマに各人が抱く好奇心や に「教養」を学習する場を提供することを 感動といった内的な衝動から、各自が自発 期待している。 的に参加する学習サークルでなければなら (いしだ ともお) ない。 このような学習サークルの一例として、 筑波大学の西 5 キロの地点で、 18 年前から、 オルガニストの家内と共同で開いてきた教 養教育の私塾、バッハの森を紹介したい。 現在、 30 数名の一般市民が、毎週 1 回以上、 合唱、レッスン、研究会などに参加して活 50 筑波フォーラム特別号 新世紀への礎 筑波大学への期待 筑波大学への期待 ̶ 退職職員からの提言 植田 豊 元筑波大学人文・数理等教育研究支援室室長補佐 現科学技術振興事業団事務参事 昭和48年10月1日に創立開校した翌年の どう処理していけばいいのか先輩達に聞い 4 月に事務局職員として、およそ開学と同 ても、なにしろ新しくできる大学の為、他 時に就職し、 30 周年を迎える本年 3 月に定 大学から転勤してきた人達と地元で採用 年を迎え、退職した事は、まさに、この 30 された人ばかりなので、確かな答えをいた 年間は筑波大学と共に歩み、筑波大学と共 だく事も出来ず、とまどいと不安の連続で に、一区切りをつけたことは光栄であった あった。 と実感している。 仕事には心身共に非常に疲れ切っていた 筑波大学に就職した当時は、昼間はあち が、エネルギッシュに前向きに取り組んで こちで道路や建物の建設工事の真最中で、 いた。 学園都市の至る所でブルドーザーの騒音 さて、私の筑波大学での30年間を一事務 が鳴り響き、なんとなく我々の気持も活気 職員として振り返り、事務側からみた苦言、 に満ちあふれ、夜ともなるとあたり一面が 提言を述べながら、筑波大学の今後の発展 シーンと静寂に一変していたものである。 に期待したい。 これからどんな都市や大学ができるのだ とにかく、この 30 年間という期間、事務 ろうと期待に夢をふくらませ、皆が明るい の見直し、事務組織等の在り方について、 笑顔で職場に向かっていった事がなつかし いつもの事ながら、議論、討論、そのため く思い出させる。 の会議、打合せの連続に明け暮れた。 私は筑波大学では在職期間の大半を経理 その結果、何が改善されたのか、残念な 畑を歩んできた。 がらぐるぐる空ら廻りして、 進んだり、 戻っ 開学当時は、何をしていいのか解らず、 たり目に見えるものは、それ程無かったの 筑波大学への期待 51 ではないだろうか。この時間の浪費は相当 会で審議中の国立大学法人法案は、間違い なものである。原因は色々あるが、最も強 なく成立する。明治時代の帝国大学、戦後 く感じた事は、上司が交代する度に視点が の新制大学発足に続く今回の法人化は、国 変わって、一貫性がなかった事も一因であ の権限がすべて移譲される。大学運営の予 る。 算や人事の権限が与えられる事は、責任も 筑波大学へ転勤されてきた人達は、せい 伴う事は当然の事である。又、大学間の競 ぜい2∼3年で転勤していってしまい、議論 争は益々激しくなるであろう。この機会に を重ねて、いよいよ集約という段階に、新 本当に立派な人材を育てる事によって、筑 しい人が、また最初から、問題点を出し検 波大学はこれだという特色と伝統を早く確 討するという事が多かった。 立する事を願っているものである。 また、学内でも絶えず人事異動が行わ れ、折角、教官から信頼を得、学群、学系等 の種々の問題を検討している最中に突然異 動の内示を受け、教官からも不満の声が多 かった。 これでは、職員も真剣に問題に取り組も うとする心構えは持てないであろう。色々 な業務を体験する事は必要ではあるが、こ れからはエキスパートを育てる方が、大学 の運営において、今後はむしろ必要となっ ていくのではないだろうか。 「 この業務については、あの人に聞けば 」 という人を育てていけば良いと思う。職員 ひとりひとりが、それぞれ専門職になり全 体的に大学が、良い方向に発展出来れば良 い。 そして職員に自信と落着きを与え、 じっ くり取り組む環境を作る事を希望する。 そのうえ、一生懸命努力し、目的を達成 した者に、夢と希望を与えてほしい。今国 52 筑波フォーラム特別号 新世紀への礎 (うえだ ゆたか) 筑波大学への期待 26年前のこと 齋藤定 元筑波大学研究協力部研究協力課 体芸事務区技官(写真) 2003年夏・新宿で 1977年秋・筑波研究学園都市 先日、仕事を終えた後に、新宿で久しぶ 筑波大学には、専門学校の写真の授業で りに写真仲間の 4 人と酒を酌み交わした。 教えていただいた大辻清司先生の導きで、 話の多くは当然ながら写真のハードやソフ 1977 年の秋に技官として赴任した。いろい トの問題が中心となってしまうのだが、古 ろな匂いがこもる常磐線に乗り込み、いつ い写真の話から、幼年の頃の鮮明に残る記 到着するのか見当がつかない土浦からのバ 憶について話しが進んだ。偶然にも 2 人が スに揺られて大学西のバス停に降り立った 父親との思い出をあげたのだが、私は、 3− とき迎えてくれたのは、杭打ちのドーンと 4 歳の頃、家にいたる数分の緩やかな坂の いう音であった。間違いなく着いたという 砂利道を父の手を握ってゆっくりと歩いて 安堵と、初めてのことの緊張感ゆえに、そ いる姿が記憶に残っている。幾度か思い出 の音が私の身体を地響きのように揺らした す記憶というものは、回を重ねるごとにイ 記憶がある。 メージが増殖したり変容していくものであ いたるところが仮囲いで、目的のガラス ろうか、いまではその情景を客観的に見た ブロックの建物はすぐに探し当てることが かのごとく、前や後ろから、また真横から できたが、当時はその体芸棟の中に事務局 その光景を想起することができる。現在の 本部が置かれていて、芸専棟には現在の学 私は50歳を過ぎて、父親はこの世にあらず 系棟ができるまで教官室があった。教官室 生家も取り壊されたが、父と共に思い出す は間仕切りもない大部屋で、机や椅子、書類 その道は舗装されたりはしているが、私と などが所狭しと置かれている状態の中、狼 父ほどには変化はしていない。 煙のようにあちらこちらで細く立ち昇るタ 筑波大学への期待 53 バコの煙が部屋に充満していた記憶がある。 スに乗れない時などは同僚や先生方が相乗 在籍中の何人かの先生方に紹介されたの りで寮まで送ってくれるのだが、当時の環 だが、近所のおじさんのように穏やかに笑 境下ではそれも至極当然のように誘ってく みを返されて、到着したという気負いと同 れたのだった。つくばは車がないと生活で 時に、私の神経は妙に安らいだようだ。当 きないということを、その頃に強く実感し 時 30 歳にもならないどうとでもなる身軽 たものである。 さと自由の意気込みでやって来たのだが、 外に広がる発展途上の風景と作業が終了し 「甘い生活」 た夕暮れ時の工事現場の静けさは、過去と つくばで生活するための必需品の買い入 未来の狭間で右も左もわからない私を実際 れのために、土日はよく土浦にでかけた。 以上に感傷的にしたような気がする。大学 映画の好きな私は、土浦での買い物ついで での仕事は授業の補助や研究の補助が主要 によく映画を見たものである。当時はまだ な業務であったが、工事途上の学系棟や工 週末は特別にオールナイト上映が行われて 房棟のための設備備品関係の資料収集や、 いて、学生や新住民のために、あまり興行 東京教育大学からの移品管理、設備機器の 収益の望めない映画でも深夜上映されてい メンテナンスなどさまざまで、知らないこ たのである。 とも多くて同僚に聞いたり、メーカーに直 赴任して 2 年後に結婚した妻とは土曜日 接電話したりの日々であった。 の深夜にもたびたび映画館にでかけたが、 住まいは東大通りと土浦学園線が交差す フェデリコ・フェリーニの「甘い生活」を る西側の中高層の独身寮で、見晴らしのよ 見た時は劇場には私たちのほかに客は 1 人 い空間に気分は晴れるのだが、そこから大 で、その客も 30 分もせず消えてしまい、残 学まで通勤するのがこれまた一仕事だった。 りの 2 時間半、あのおどろおどろしい映画 区画整理が終了したばかりの当時の学園中 を 2 人で貸しきりで見たことがあった。な 心地区は土がかぶった道路と残土と草むら んとも贅沢でかつ不安と不吉が入り交じる ばかりで、東大通りは上に架ける歩道橋工 映画に自身を重ね合わせて、暗闇で集中し 事でバスは通らず、バス停は現在のNTTあ たことを思い出す。その映画館も数年後に たりにあったのだが、雨や雪の日の道はド は映画「ライト・ショウ」のごとく深夜興 ロドロで乾いた日には砂埃が舞って、行き 行をやめてしまったが、不毛なつくばに住 も帰りも困難の連続だった。帰りの最終バ む映画好きに生涯忘れることのない経験を 54 筑波フォーラム特別号 新世紀への礎 1980年 永年勤続表彰 記念撮影 させてくれたことは、感謝とともに記憶に 写真の仕事をして生活しているのだが、当 残っている。 時を振り返ってつくばを見ると、竜宮城か 当時のつくばではこんな経験もした。年 ら戻った浦島太郎が玉手箱を開けてしまっ 末年始をつくばで過ごすことにした最初の たほどに私も白髪になり、つくばも筑波大 年、大学も休みとなり学生たちも帰省して 学も、その頃の面影を見つけるのは難しい 静まり返った学内から、さて昼飯でもと学 ほどに変貌した。浦島太郎は楽しさに飽き 外の飯屋にゆくと、扉には年末年始休暇の て戻って来た時にあまりにも長かった空白 張り紙。それではと何軒か回ってみたがす を感じるのだが、ずっとつくばに住んでき べてが休業中で、まずい……といういやな た私も、埋めることのできない空白を感じ 予感どおりに小売店もすべて営業しておら る時がある。その空白とは、ひとつの大学 ず、たった 1 人孤島に取り残されたことに の、そしてひとつの街の成長とともにあっ 気がついたのである。時すでに遅い12月30 た自分の暮らしや周囲の人々との交友が、 日のことだった。 私の肉と化したことの無意識によるものな のかもしれない。 2003年の浦島太郎 (さいとう さだむ) あれから26年、私はいまもつくばに住み 筑波大学への期待 55 筑波大学への期待 さらなる発展を願って 篠澤公平 元筑波大学事務局長 現木村看護教育振興財団理事長 ここ数年、年に一度の事務職員OBの「筑 そして、教育と研究活動を組織の上で分離 峰会」に出席するために、大学を訪れるよ し、管理・運営についてもまったく新しい うになった。そしてその都度驚くことは、 システムを導入したまさに新構想による運 開学当時に植樹した木々が成長し大学の 営が、一応レールに乗っていた時期であっ キャンパスが鬱蒼とした林の中に静かなた たと思う。 たずまいを示していることだ。私の記憶に それまで、文部本省を離れ、大学の経験 誤りなければ、確か大学の土地は、以前は は東大での経理部長、北大と京大での事務 松の疎林で樹木は大きくは育たないやせた 局長を通じた 7 年弱、旧帝国大学だけとい 土地と聞かされていた。 30 年という年月は、 う片寄った経験しか無かった私には、話に 私にとっては須臾の間にも感じられるが、 きく新構想大学、筑波大学は大変に新鮮な 自然の環境のみならず学園都市の変化は驚 印象を与えてくれた。管理・運営に遺漏な くばかりである。大学としても同じであろ ければ教育・研究の発展を十分期待できる う。 のでは、と感じるにはさほど時間を必要と しなかった。その認識は今でも変わってい 筑波大学が華々しく新構想大学として旗 ないし、また事実筑波大学の現状は、 「大学 揚げして早や30年、私が在籍した1980年は、 の概要」などを見る限り、私の認識に誤り すでに創設から 7 年を経過し、学長は三代 がなかったことを示しているように思う。 目、事務局長は四代目となっていた。大学 教職員の今日に至るまでの取り組みと努力 紛争から10年を経て、どうやら学生運動も に敬意を表したい。 一応の落ち着きを示してきた時期である。 56 筑波フォーラム特別号 新世紀への礎 特別な行事予定がなければ、週に一度定 例の学長・副学長会議が行われるほか月に る。筑波大学はすでに国立大学法人を前提 一度の評議会、年に数回の参与会その他で、 とした将来構想について検討を重ね、この 今まで経験した大学における事務局長と学 3 月に報告書が出されていると聞く。元事 内の諸会議へ係わる度合いは比較的少な 務官の立場から願うことは事務職員、技術 かったように思った。それだけ自由な時間 職員等がいかに所属する大学への帰属意識 を持つことができたと思う。それに同じフ を持ち、誇りを持って業務に専念出来るよ ロアーで四六時中 5 人の副学長と顔を合わ うな体制を整備することが必須である。 せることが出来たのは日常的にお互いの意 国から交付される一定の運営資金、特定 思疎通をはかるうえで業務遂行上好都合で の事業に対する補助金以外に教育・研究に あり、楽しく仕事をさせてもらった。 投入すべき必要な資金をどのようにして確 保するかは極めて重大な問題である。さら 歴史の偶然とは言え、この7月9日、国立 に人事管理について言えば、任命権者が国 大学法人法など関連法案が国会を通過し、 (文部科学大臣)から個々の国立大学法人 いよいよ明年 4 月から全国立大学が国立大 の学長となることから、人事の良い意味で 学法人として新たに出発することになった。 の外部との交流が閉ざされ、引いては人事 筑波大学開学30年の記念すべき年が「国立 の活性化が損なわれ、仕事に対する意欲減 大学法人筑波大学」発足の年に当ることに 退を招来するという結果に陥ることのない なったことに、何か因縁めいたものを感じ ようなシステムを早急に検討されることを ざるを得ない。法案の細部にまでは知るよ 期待したい。 しもないが、その大要を見ると、ある部分 その上で教職員一丸となって、この報告 は筑波大学においてすでに先行実施してい 書に盛られた計画の実現に努力されるよう、 るところもあり、新構想筑波大学発足時の あの 30 年昔の熱いエネルギーを再び振い 考えが一部下敷きになっているようにも思 おこしてほしいものである。 われる。 (しのざわ こうへい) この度の歴史的な改革は大学の自主・自 立を根幹とし、あらゆる面において大学の 裁量権が大幅に拡大されたことはまことに 意義深い。それだけ社会に対する大学の責 任も大きいことをあらためて感じさせられ 筑波大学への期待 57 筑波大学への期待 そだつキャンパス 高橋 義英 元筑波大学施設部企画課主任専門技術職員・施設担当教官室付 現松井建設(株)営業本部営業三部部長 開学 30 周年と聞いて先づ頭にうかんだ これにもとづいたマスタープランとして立 のは、 「もう」と「まだ」の二つであった。赤 案され学園の整備が進められた。 松林と栗林、 畑地と田圃とがキャンパス (予 東京教育大学の移転統合の用地検討の 定地)の総てであったのがついこの間で 段階からと考えると、筑波大学の整備プロ あったのにもう 30 年も経ってと云う感慨 ジェクトは、 40周年と云える。 と、ようやく姿になってきた常磐新線(つ この間、昭和39年から昭和59年までの20 くばエクスプレス)がまだ乗れない、と云 年間にわたりマスタープランの作成・実施 う思いである。 計画の立案など施設環境整備計画に施設部 昭和 30 年代半ばに首都圏整備委員策定 員および施設委員会の下に設けられていた の研究学園都市構想による筑波研究学園都 施設担当教官室員としてかかわらせていた 市プロジェクトが開始され、その主要機能 だいた立場で、又、その後の大学の姿を一 として総合大学が位置付けられ、時を同じ 人のプランナーとして見つづけている立場 く東京教育大学の移転統合・拡充計画が八 で、成長するキャンパスについてのべてみ 王子地区・武蔵丘陵地区・筑波地区を対象 る。 として検討され、キャンパス用地の十分な 確保・周辺都市機能整備の確実性などから、 パイオニアツリーがシンボルツリーに 東京教育大学を母体とした新構想大学の整 大学の南側から構内へ入ると立派な並 備が決定した。 木道をとおる。 「ゆりの木通り」と呼ばれる 昭和 40 年代に入り新構想大学の整備計 様に、この並木樹は「ゆりの木(袢纒天木・ 画が研究機能を学系、教育機能を学群とし、 チューリップツリー) 」で、今や大学を代表 58 筑波フォーラム特別号 新世紀への礎 する様な景観をつくり出している。この木 されたもので、プロジェクト研究に携わる は樹齢が4・50年となっており、この樹種に スタッフが各学系から集まり、各テーマに とっては最盛期を過ぎようとしている。大 そって協同して効率よい研究活動を行える 学がこれから21世紀の発展段階に入るのに 場を提供するもので、研究終了後は次のプ 並木樹に寿命が来ては困ると云うことにな ロジェクトのスタッフに場を引渡す方式と るかもしれないが計画的にはもう一つの仕 し施設の効率的な利用を計るための施設で、 掛がなされており、冬期にゆりの木が葉を 特定目的の施設とはせず、その時々の研究 落すとそのすぐ外側に白樫の列植が姿を見 ニーズによって必要な設備を補充して使用 せることに気付かれると思う。なぜこの様 するものとした。 な植栽方式をとったかと云うと、ゆりの木 平成10年代になって、学系の研究活動の は、その成長速度が早いため、大学の景観 進展拡充に対応して「総合研究実験棟」の 環境を早期に重厚なものとするためのパイ 計画整備が各国立大学同様に行なわれるよ オニアツリー (先駆樹)として用いたもので、 うになったが、この「総合研究実験棟」の 4・50年経過後には伐採し、後背植栽の白樫 計画の基本的な考え方は、 まさに 「プロジェ が並木として活るように考えた。 クト研究棟」の考え方をベースにし、より しかし、今では、この並木道は「ゆりの 柔軟な利用を計ろうとするものとなってお 木通り」として、その姿が近隣の人々に大 り、筑波大学の整備計画の考え方が大学の 学の一つのシンボルとして認知されている 枠をこえて成長し、研究活動のより有効な ようで、今後この並木道の「ゆりの木」を 方法として広く使われるものとなっている。 大学のシンボルツリー (象徴樹)として位 置付けて活かしてゆくことやその植栽更新 開学30周年を迎えて、開学前の云わば胎 の方法なども検討していただけるとよいと 動期から直接・間接に施設整備にかかわっ 思っている。 た関係で、まだ、施設環境管理(フアシリ ティマネージメント) ・構内交通・共同溝 プロジェクト研究棟は総合研究実験棟 と設備システム等々や建築学会賞受賞のこ 昭和 50 年代に大学の施設整備が一期の となど、あまり皆さんが知らないことが思 概成を向えたころに「プロジェクト研究 い浮んでいるが、又の機会にしたい。 棟」の整備が行なわれた。有限期間にプロ (たかはし よしひで) ジェクト研究を集中して行う場として計画 筑波大学への期待 59 筑波大学への期待 教育研究施設のリニューアルに期待する 原正昭 前筑波大学施設部長 現三機工業株式会社常任理事 若い頃から一度は訪れてみたいと思って かいつまんで業務の内容をご紹介する いたイタリアへ行く機会がやっとできた。 3 と、大学の校舎や研究棟等の建設や改修を 月にはイラク情勢が戦争にまで発展し、さ 行うための予算要求、実施のための設計・ らに SARS (新型肺炎)が各所で心配される 積算、維持管理など(現在は施設のマネー 状況で、やや消極的であった外国旅行の計 ジメントも重要な業務となっている)であ 画であったが、約 37 年の勤めに終止符を る。ひとつの建物を造るには当然建築の専 打った区切りと長い間家庭を支えてくれた 門家が必要であるが、建築以外にいわゆる 妻への感謝もあり、 “ルネサンスの旅”と銘 建築設備と称される電気設備、通信・情報 打った団体旅行の見出しに、思わず旅行社 設備、機械設備等の専門家が必要である。 へ電話したのが4月下旬であった。 5月の中 私はその内の機械設備の分野の専門家の卵 旬に 9 日間の予定で実施される、ミラノか であった。ところでこの建築設備のうち電 らローマまでの旅である。 特にミラノで 「最 気設備や通信・情報設備については、おお 後の晩餐」 、フィレンツェで「ウフィツィ美 よその内容が想像できることと思うが、機 術館」見学が組み込まれたもので、期待に 械設備について直ぐには具体的な内容が 胸を膨らませて出発したのであった。 思い浮かばない方が多いと思う。就職当時 私は昭和41年、熊本大学の施設部に採用 の私がそうであった。機械設備の具体的な となり、社会人として期待に胸を膨らませ 内容は、聞いてしまえばごく普通の、誰で て公務員のスタートを切った。が、私は施 もよく知っている内容であるが、例えば給 設部の業務内容について、十分把握した上 水、排水の設備、都市ガス設備、冷暖房設 での就職ではなかった。 備などである。羅列すれば建築物には当た 60 筑波フォーラム特別号 新世紀への礎 り前のものばかりで(これ以外に特殊な設 やレンガで造られた多くの建築物が今でも 備類もあるが) 、備わっていて当然のもの 十分に機能し利用されていることに感動を ばかりである。ところで当時はこれらの設 受ける。と同時にそれぞれの時代の要求に 備類を建築附帯設備と称して、建築のプラ マッチしたリニューアルをどのように実行 ンが固まってから部屋の隅などを利用して してきたかに興味をそそられるのである。 器具などを配置するものだから、ユーザー 建築設備を専門とする者の立場から見ると、 や建築プランナーの期待を裏切る形になら 新たなニーズに対応する設備の増強や更新 ざるを得ないところがあった。時代は高度 等をいかにして実施しているのか、まして 成長期を反映して先進の建物が続々と建設 や大学などの先端的研究への改造などは、 され、当然建築設備も新しいニーズに対応 イタリアその他諸外国ではどのように計画 すべく進歩しつつあった。現在では当たり されるのか、大いに関心を引かれるのであ 前の設備であるところの空調設備でも、当 る。 時はデパート、ホテルや病院など大規模な 筑波大学も30周年を迎え、年月の積み重 建築物に限られていたのである。このよう ねが構内の樹木などに正直に現れて、学園 な時代の流れの中で大学の建築物について の風景に重厚さと大らかさが感じられるよ も、当然建築設備に対する期待や要求が高 うになった。同時に各研究棟や実験棟は、 まり、それらに応えるべく、建築基本計画 それぞれの経過した年数分老化してきた。 の段階から建築設備の担当者は、建築のプ 建築物と建築設備との老化速度の違い、建 ランナー等に同席して、計画に対する意見 築設備に対する時代の要求の変化など幾つ を述べたり、提案をプレゼントすることが も重なるファクターに対する最適改修改善 重要になってきたのである。丁度そのよう サイクルの想定等は、まだまだ手探りで検 な時代背景のころ筑波大学も建設が本格化 討している場合が多い。イタリアへの“ル し、私も筑波大学の病院地区の整備に参加 ネサンスの旅”を終えて、特に建築物の再 することとなり、昭和50年4月に文部省(当 生についてのおもいは深まる一方だし興味 時)へ転勤したのであった。 は尽きない。筑波大学が30年の節目を迎え て、更なる発展のための礎となる教育研究 施設再生への期待 施設の再生等が、順調に展開することを期 ところで、特にイタリアでは、古くから 待する。 残る遺跡は兎も角、一世紀以上経過した石 (はら まさあき) 筑波大学への期待 61 筑波大学への期待 先導的役割を再び担う大学へ 村上和雄 前 筑波大学教授(応用生物化学系) 現 筑波大学名誉教授 大学を63才で卒業 生活を送ってきた私は、今後、そのお返し 1999 年 3 月、私は筑波大学を定年退官し を国民の皆様にしたいと考えたのです。 ました。 その際、 普通は定年退官パーティー そして、イネの全遺伝子(完全長 cDNA) を開いてもらうのですが、私はこのパー 暗号解読という、国家的プロジェクトに参 ティーの名を「新しい門出を祝う会」にし 画することになりました。 てほしいと頼みました、なぜなら、私はそ 2002 年末に、日本を中心とした国際チー の時から新しい門出が始まると考えていま ムはイネゲノム(全遺伝情報)解読の終了 したから。 宣言を出しました。イネだけでなくて、植 私は18才で大学に入学し、 63才で定年退 物全般の科学や技術の歴史に残る素晴らし 官するまで、大学という社会しか知りませ い成果です。 ん。落第に落第を重ね、やっと 63 才で大学 を終了したのです。大学を終え、社会人一 年生になった気持ちでした。 難渋を極めた暗号解読作業 しかし、イネゲノムの暗号だけでは、は この時から、私の第二の人生ではなくて、 じめて読むお経のようなもので、その 90% 第一の人生が始まったのです。そして、今 は意味が分かりません。そこで、その意味 までの経験を生かして、人々に役立つ研究 を完全に解読するためには、イネゲノムの をしたいと考えました。 中にわずかに点在している遺伝子を取り出 なぜなら、私の大学生活の殆どは、国立 し、その暗号を解読しなければなりません。 大学でした。国立大学は、国民の税金で運 この研究を私どもはピンポイント作戦と名 営されています。そのお陰で、教育・研究 付けて実行していました。 62 筑波フォーラム特別号 新世紀への礎 このピンポイント作戦の成果が、 2003 年 学の連携がうまくいったことと、イネの遺 7月18日発行の米国のサイエンス誌に発表 伝子の研究だけは、どうしても日本で成功 されました。この論文には、約3万個のイネ させたいという、私どもの執念があったか 遺伝子(正確には完全長 cDNA)を取り出 らです。 し、その暗号を99. 99%の精度で解読し、さ らに、この遺伝子の機能を推定した結果が ゼロからの出発 掲載されています。 この遺伝子暗号解読の研究のスタートは、 イネ遺伝子の研究では、日本が独走して 私が1976年4月筑波大学に赴任した時の様 います。そして、イネゲノムや遺伝子の応 子とよく似ていました。 用研究の本番がこれから始まろうとしてい 開学間もない大学には、教員実験室も無 ます。イネ遺伝子の研究に、私が所属して いような状態でした。しかも、筑波大学の いる国際科学振興財団は、予算の獲得段階 評判は必ずしも良くありませんでした。し から積極的に動きだし、その後、生物資源 かし、新しい国際的に通用する大学を作ろ 研究所、理化学研究所と協力してこの研究 うという理想と熱気がありました。今では、 がスタートしました。 当たり前になりつつある「開かれた大学」 しかし、この研究は難渋を極めました。 は当時非常に新鮮な響きを持っていました その一つは、厳しい国際競争に勝ち抜くた が、その構想はなかなか理解されず、開か めに、最初の5年計画を3年に短縮したこと れた大学とは、門のない大学であると一部 です。もう一つは、その暗号解読精度を 99. では揶揄されていたとのことでした。 99%と極めて厳しい条件を課したことです。 しかし、この外部に開かれた構想が、ア この精度は、 1万個に1個の暗号解読のミス メリカの IBM 研究所に 30 年以上もおられ も許されません。この精度を保つためには、 た江崎玲於奈博士を学長に選んだのではな 同じ暗号を 10 回も繰り返し読むという大 いかと思っています。産・学・共同研究も 変な作業が必要なのです。 今では当たり前になりつつありますが、 30 私どもの財団チームは、この研究を行う 年も前にその構想を掲げた先見性にも敬服 場所、人、設備などをゼロから準備し出発 すべきものがあります。 そして、学問や しました。そのため、悪戦苦闘の毎日が続 教育の狭い壁を打ち破る目的で、新しい組 き、一時私は体重が8キロも減りました。し 織での学際教育、学際研究を打ち出したの かし、成功することができたのは、産・官・ です。これらの試みは、一定の成功を収め 筑波大学への期待 63 たのではないでしょうか。ノーベル化学賞 を受賞された白川英樹名誉教授の研究を始 切です。 また、教育や研究の評価をどのようにし め、筑波大学の教員のすぐれた研究には、 て行うかが大きな問題です。研究の醍醐味 学際的色彩があり、大学の新しいシステム は、予想外の結果や驚きにあるので、計画 も有効に働いたのではないかと思われます。 どおり進行する研究からは、大きな成果は また、江崎学長のリーダーシップのもと で誕生した先端学際領域研究(TARA)セ 生まれないと思います。 さらに、独法化したときの大学の管理、 ンターは、筑波大学の特色を生かして、確 運営のできる外部の人をどう確保するかな 実な成果が出ていると外から見ていて思い ど、問題は山積しているように思います。 ます。 しかし、このような大きな節目こそ、筑波 大学の出番であり、真価が問われる時期で 初心に返る す。 筑波大学をはじめ国立大学は、国立大学 30 年前、ゼロから出発した新構想の大学 法人化を直前に控え、歴史的な転換期にき をつくった初心に返り、単に、筑波大学の ております。これは、大学を国から切り離 ためだけでなく、日本の大学の先導的役割 し自主的な運営を認めるもので、いろいろ を再び果たしていただくことを期待してお の規制から自由になり、個性を出せる機会 ります。 となり得ると思いますが、この自由には責 任が伴います。大学は競争社会の試練にさ らされ、個々の教官としての評価が厳しく 問われることになります。 そして、この独法化は、両刀の剣で、年 次計画や評価のための書類作成などのため、 教官が教育や研究に割く時間が、ますます 少なくなるのではないかと心配しておりま す。私が企画調査室にいたとき、会議を少 なくするための会議を開いたことがありま したが、教官が教育や研究に使える自由な 時間を出来る限り確保することが非常に大 64 筑波フォーラム特別号 新世紀への礎 (むらかみ かずお) 筑波大学への期待 市民にとって開かれた学園:筑波大学 山添悦子 前筑波大学保健管理センター薬剤師 医療施設のほとんどなかった筑波に歯科 かれたどんな大学ができるのか楽しみにし 医師の夫と家族 5 人で引越ししてきてはや ていました。 30年です。 昭和48年に出された「筑波大学の創設準 林の中に筑波大学を中心にして筑波研究 備について」 (青表紙)に筑波大学の全体構 学園都市が生まれ育ってきたのを、人の一 想の特色として次の三つのことが書かれて 生を見るような思いで自分もその中から時 いました。 には外から楽しみながら眺めてきました。 1.教育と研究の新しいしくみ マスタープランやビジョンに託された多 大学院の重視など くの人々のあの熱き思いは、働き盛りの 30 2.新しい大学自治 代になった筑波大学に今どれほど実現され 学長の権限の強化など ているのでしょうか。家族を犠牲に、自分 3.開かれた大学 の体を酷使してがんばってきた教職員がた 社会への大学開放、理想的な くさんいたことを忘れてはいけないと思っ 学園の建設など ています。一つ思い出すと次の記憶がよみ 地域との交流 がえり過去の思い出話は尽きることはあり 教育、研究面での大学開放はいろいろな ません。 ところで実現されていることでしょう。し 開かれた大学 かし一般の市民からみた開かれた大学とは 昭和48年の開学当時から、開かれた大学 もう少し人間の顔の見える大学ではないで という言葉が錦の御旗のようにいつも掲げ しょうか。 られていました。この何もないところに開 西の京都市は、大学を中心にした街づく 筑波大学への期待 65 りに関する新プランを策定するために「大 なるべく車は学内には入れない。春日地 学のまち・京都推進懇談会」を設置したそ 区に大駐車場を作り「のりのりバス」とか うです。東のつくば市にも市民も参加でき 大学の構内以外では乗れないような自転車 る同じような趣旨を持ったものがあればい で移動してもらう。 いなと思います。民間の研究所も各工業団 大学で何が起きてるかわかるように大学 地に数多くあります。また地元の伝統をい 新聞を一般の人も簡単に読めるように公民 ろいろ守っている方など、新旧問わずこん 館、役所、インフォメーションセンターな なに人材のそろっている地域は珍しいの どに置く。 などなど ではないでしょうか。そのようなところか 30年前の青表紙に施設・環境計画の基本 ら講師をお招きして公開講座など生涯教育 的な考え方「大学は、その立地する都市と をいまよりもっと幅広く参加しやすくおこ の間に空間的、機能的な連続性を持つこと なっていただきたいです。産学公と地域連 が必要であり、そのキャンパスは、全体と 携をして市民にとって本当の開かれた大学 して開放的に計画し、大学人と市民との間 であって、できたら負担の少ない所から初 に連帯感をかもし出せるように考慮する。 」 めてほしいものです。そのような体制をつ と書かれていました。 くるにはどうしたらよいでしょうか。 良いことも悪いこともある社会の中で、 筑波大学のことを熟知している定年退官 自分を守りながら自由に勉強の成果を発揮 した大学の元教職員が筑波大学近辺にかな できることも大切なことではないでしょう り住んでいらっしゃいます。そのようなか か。 たたちがリーダーシップをとってボランテ これからの少子化時代に対応して魅力ある イアまたは NPO 活動として大学の開放に 大学になってほしいと思っています。大事 協力するというのは実現可能と思います。 なことはルールはしっかりと決める。立ち 例えば、大学の周囲にサイクリングロー 入り禁止地区ははっきりさせる、その上で ドやウォーキングロードをつくりサイクリ 真の開かれた大学を目指していただきたく ングの会や学内を歩く会などつくる。 思います。 大学会館、 開学記念館、 体育施設などもっ ある市民に言われました と開放する。 「筑波大よもっと自由に泳げ」と 筑波大学ならではの美術館をつくり休日 (やまぞえ えつこ) も市民が憩えるようなところにする。 66 筑波フォーラム特別号 新世紀への礎 筑波大学への期待 絵画の網の目 山本文彦 前筑波大学教授(芸術学系) 現筑波大学名誉教授・画家 2000年3月に停年退官してやっと専業画 る。作品と制作技能、美術家の交流や美術 家になった。作品構想を考えながら自らの 市場を通して、政治、産業経済、国際交流 生涯の仕事と余命の意味を思い、ものごと 等に幅広い活動の場があり、コンピュータ の広がりを味わうようになった。経済中心 ・グラフィックス(CG) 、高速ネットワーク のデジタル情報時代の網の目から漏れ落ち 等の先端技術と結びついて、絶えず新領域 そうな絵画分野の事柄を、雑駁な知識のま が生まれ、著作権法徹底の機運によって、 まに述べて見ようと思う。 新規事業も拡大しつつある。文化財の創造、 「絵を描いて何になるのか」と質問する 保存の意味は大きいし、幼児から青年期の 画学生のことを大学美術系担当の友人か 美術教育は不可欠だなどとひとしきり話は ら聞いた。だいたい絵をやろうという人 弾んだ。さてしかし、大学でこのような多 は、一途に決意してこの道に入ってくると 方面の知識と技能をどの程度教育し、有為 思っていたので意表を衝かれた。反省すれ の人材を送り出しているかといえば、カリ ば、絵画制作と作品が、人の心と生活、社 キュラム、教員の配置、施設設備の現状等 会、経済等にどのように働くかという将来 について反省する点が多いと思った。 展望が曖昧だからだ。そもそも絵画は、目 明治初期に高橋由一は「描いて知識をひ と心の楽しみ、図像を読み解く能動的な鑑 らき、世間に大いに理益を与えることがで 賞者の創造活動の契機であり、 「意味」を内 きる」と信じて油絵の迫真的写実を探求し 包した絵画作品という物体は、精神性の高 た。材質感に着目して、新しく絵具を作っ さと技巧的完成の結晶として見る人に新し て『鮭図』を描き、近代日本洋画の最初の いヴィジョンを提示し、心を癒し豊かにす 画家になった。この時点で人々のものの見 4 4 筑波大学への期待 67 4 4 方が変革された。絵画という「治術」で自 整、描画技法(地塗り、下塗り、前描き・転 然と人間を認識し、社会に貢献しようとす 、箔押し、画面の 写、下描き、素描、彩画法) る態度が意味深い。この認識は、技巧を通 書き入れ(サイン・刻印ほか) 、裏面の書き してテーマ、モチーフ、表現の様式と形式 いれ(題名・所蔵名ほか) 、老化・損傷、保存・ を考えることだった。思想は形と色によっ 修復、保管・展示、科学技術の応用研究(X て初めて共有され理解される。形は意思を 線検査等)等々の材料研究と技術習得とい 伝え、色彩は感情を、明暗は質量を表す。 う多方面にわたる。この絵画学の分野だけ 絵画はこれらの要素を構成し表現する技術 でも大学院までの修業年限では足りない。 によって、理念、思想、永遠の存在など見 さらに、時代の要請は通常の美術課程を越 えないものを表そうとする。 えて、芸術経営や芸術経済等の学際領域や 以前、あるメーカーから、高精細画像を 各種実技の強化にあるようだ。特定領域の 高速処理するコンピュータで古画の復元や 特色ある大学になってほしい。 CG 製作を試み、毛筆による精細表現ので 20 世紀の西洋絵画の表現様式は、めまぐ きる画家と協力して文化財の保存・修復に るしい造形思考の消長と共に変遷し拡大し 貢献したいという話があった。 CGの精細な た。例えば、色彩の発見、形の分析・再構 加工技術が細密描画技術と連携して、表現 成、動きの表現、心理世界の探求、社会批 や修復等の新領域が生まれると期待が大き 判、寓意と象徴の物語、感情・精神の真実性、 かった。しかし、毛筆で細密な線描表現の 行為の痕跡(gesturalism) 、空間・立体と できる画家がいなかった。微細な線描のた の融合、色面の意味、ものの意味の再確認、 めには材料、用具、技法の探求が不可欠だ。 日常生活の再発見、視覚の刺激、写真映像 技術的修練を要するから育成に時間がかか の現実美、概念の芸術、配置の意味、既成 る。江戸時代の画法がすでに継承されてい 物の利用と批判、 ハイテクの芸術効果、 等々 なかった。美術の継承の底の浅さを実感し である。絵画は、平面の静止画というジャ たことだった。 ンルを超えて、彫刻、音楽、演劇、動画、 CG、 研究対象として絵画作品は組成材料と美 建築都市空間や自然と融合しつつある。そ 的技術、美術的内容と史料が分析される。 して昨今の画学生の卒業後実技系の進路は、 油彩画の実技を例にとれば、基底材(布、板、 絵本、 CG画像デザイン等出版や装飾業界に 石、金属) 、顔料、水性糊料(卵、膠、アクリル、 多く、画家を志すものは少数になってきた。 カゼイン等) 、油脂、樹脂、道具、絵具の調 68 筑波フォーラム特別号 新世紀への礎 残念な気もするが、美術文化の拡大という 点では、意欲的な志望様態は結構なことだ 筑波大学では芸術学の中に美術を置いて とも思う。 いる。芸術学は芸術作品の学問であり、芸 このような領域拡大は、そのつど時代様 術の名称を選んだのは広い視野の造形活動 式をリードする原型とも言える特色ある表 を考えたからに違いない。美術は「美と術」 現が引き金になった。造形芸術の一分野と についての活動として広義にとらえたいと して、絵画はこのような美の原型を作り出 思う。いずれにしても「ものつくり」の領 す役割があると思う。デジタルネットワー 域だ。しかし、単なる技術追求ではなく根 ク文化を彩るのは、明快で斬新な形と色で 底に美意識がなければならない。難解な机 あり、その創作が求められている。その原 上の空論ではなく美術の要素を発見し、実 型は、情報時代の今日、複製使用されてこ 技を通して、調査研究し、実現する内容で そ時代変革の力になる。一点の傑作が珍重 ありたい。学風、芸風という言葉にも憧れ されるだけではなく、無数の類型が生活に がある。筑波大学芸術領域はどのような美 浸透して、日常の底辺から意識を変えて行 と術をつくり上げるのか。学内にどのよう く。 な文化財を蓄積するのか。筑波大学のシン 作品のWeb化が進むなかで、著作権が創 ボルはどのようなものになるのか思いは果 作者を守る力になる。美術業界では現在、 てしない。 作品の移転を中心に商取引が行われ、作者 (やまもと ふみひこ) の無体財産権(知的所有権)は軽んじられ ている。作品の思想・感情、創作性、表現 内容等に関わる著作権が作品と共に移転す ると誤解したり、著作者の権利には著作権 と著作者人格権があることや、著作物を公 衆伝達する者には著作隣接権が定められて いることを知らなかったりして許諾手続き が無視されている。著作権法、著作権等管 理事業法、外国著作権、作家・作品のコー ド化、自由利用マーク、国際動向や条約等 の理解なしには創作者の生活が保障され難 くなるようにも思われる。 筑波大学への期待 69