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老 い に つ い て

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老 い に つ い て
老
い に つ い て
小田垣雅也
今 年 四 月 の説 教 で、東 京 駅 のステーション・ギャラリーであった、戦 没 画 学 生 が遺 した絵 を集 めた
『無 言 館 』の展 覧 会 を観 てきたことを話 した。先 日 、信 州 の上 田 市 にあるその無 言 館 に行 ってきた。無
言 館 は、たぶん経 済 上 の理 由 だろうと思 うが、手 入 れされていない雑 木 林 の山 の上 にある。建 物 はコン
クリートの打 ちはなしで、外 壁 をレンガやタイルで飾 るというところがない。コンクリート打 ちはなしの建 造 物
は二 、三 〇年 前 に流 行 したが、この無 言 館 は、それだけの理 由 で、コンクリートのままになっているので
はなさそうだ。その場 合 でも、建 物 の内 壁 は壁 紙 が張 られたり、塗 られたりしているが、無 言 館 は展 示 室
の壁 も、むきだしのコンクリートのままである。入 口 も出 口 も、間 口 半 間 ぐらいの、目 立 たないものである。
窓 もない。それは無 言 館 全 体 が、永 久 に完 成 にはいたらないということ、「中 断 」であること、を物 語 って
いるようであった。
床 面 積 は明 らかな十 字 架 の形 に配 置 された、四 つの長 方 形 の部 屋 からなっていた。しかしわたしは
この十 字 架 を、教 会 建 築 にしばしばある、キリストの十 字 架 を象 徴 しているものだとは思 わない。無 言 館
は教 会 ではない。わたしは十 字 架 形 をした無 言 館 を見 ながら、十 字 架 という形 の意 味 について考 えた。
○印 は完 結 を表 現 していよう。禅 の円 相 を思 い出 してみればよい。×印 は拒 絶 を表 わしている。拒 絶 に
は、その背 後 に拒 絶 の主 体 がある。わたしたちは小 学 校 の頃 、答 えを間 違 えると×印 をもらった。△形 は
注 意 標 識 、つまり○と×の中 間 である。わたしが留 学 していた頃 、アメリカの道 路 標 識 のストップ標 識 は、
いまもそうだと思 うが、逆 △形 であった。それに対 して十 字 架 は何 をあらわしているか。それはたぶん、
「中 断 」を表 象 していると思 う。十 字 架 を超 えて、その向 こうに行 くことはできない。中 断 の向 側 にはニヒリ
ズムが待 っている。それが中 断 ということの意 味 だ。そして中 断 という暗 示 がまず先 にあるから、神 の子 と
して生 きることを中 断 されたイエスの十 字 架 も、少 なくとも神 学 的 な意 味 を持 つのではあるまいかと、わた
しはそのとき――異 端 的 思 考 だが――考 えたのである。中 断 とは、今 後 あるべき本 来 の生 活 を無 にする
こと、その無 念 さと哀 しさを内 包 している。
以 上 すべての無 言 館 のたたずまいが、中 断 を象 徴 しているように思 われ、これらの絵 を描 きかけのま
ま、それを中 断 させられて、戦 死 した青 年 たちの悔 しさと空 しさが、無 言 館 の閉 ざされた空 間 に、濃 密 に
満 ちあふれているようであった。わたしたち観 客 は無 口 になった。
しかしわたしは今 日 の説 教 で、無 言 館 の中 断 の無 念 さを言 おうとしているのではない。中 断 というのな
らば、わたしたちの生 そのものがすべて中 断 の生 ではあるまいかと思 うのだ。わたしは当 年 七 十 五 才 にな
り、この青 年 たちの三 倍 以 上 を生 きていることになる。しかしわたしが数 年 のうちに死 んだとしても、わが
生 が中 断 であるとの感 はぬきがたい。八 〇才 まで生 きたから、天 寿 を全 うし、中 断 を免 れたとは言 えぬの
ではないか。
わたしは自 分 の年 令 や死 のことを、これまであまり考 えたことがなかった。しかし先 日 、何 かのキッカケ
で、妻 と死 後 のお墓 のことをいろいろ話 したことがあった。人 間 とは墓 を作 る動 物 であるということを、むか
し何 かで読 んだことがあるが、自 分 の墓 はどうするのか。そして結 局 、墓 とはこの生 の中 断 にたいする、
人 間 の空 しい記 念 、生 の空 しさに対 する一 種 の抵 抗 ではないか、とわたしは思 った。先 日 も父 母 の墓
のある雑 司 が谷 墓 地 の中 を歩 いていて、朽 ち果 てた墓 がそこここにあった。そして「この墓 の所 有 者 は
連 絡 するように」という墓 苑 事 務 所 の掲 示 が立 っていたりした。
中 断 への抵 抗 ばかりではなくて、墓 にも良 い点 はある。わたしのところでも、お彼 岸 には父 母 の墓 に兄
弟 姉 妹 が集 まって墓 を掃 除 し、その後 レストランへ行 って、お互 い同 士 の久 闊 を叙 し、兄 弟 姉 妹 の交
わりを深 める習 慣 がある。それはよいことだ。しかしそれにしても、何 代 か後 にはこの墓 も朽 ち果 てるであ
ろうし、人 間 の生 が、結 局 は中 断 であるという事 実 は残 るだろう。墓 参 ということが背 後 にもっているある
種 の切 なさは、そのことに関 わっていよう。死 は生 の中 断 であるということに、だ。
この間 テレビで、いろいろな葬 式 のありかたをやっていた。葬 式 や墓 が何 十 万 円 かかるか、というような
話 であったが、それと並 んで、自 然 葬 のことも放 映 されていた。自 然 葬 とは、故 人 の遺 骨 ないし遺 灰 を、
山 に撒 いたり、海 に流 したり、または庭 に埋 めたりして、自 然 に帰 す葬 式 である。わたしたちの教 会 に来
ていた K さんは(わたしと同 年 輩 )、何 年 か前 、癌 で亡 くなったが、遺 骨 を館 山 にあった別 荘 の、海 の見
える庭 に埋 めたそうである。墓 の類 は一 切 ない。その話 を聞 いて、わたしは羨 ましく思 ったが、生 を自 然
の懐 に帰 すといっても、死 がやはり人 間 の生 の中 断 であることには変 わりがないのではないか。テレビで
船 上 から暗 い海 に流 される遺 骨 をみて、わたしは人 間 の生 の空 しさと、海 の恐 ろしさに胸 を突 かれた。
庭 や山 林 に埋 めるほうがまだよい。もっとも庭 に埋 める場 合 は、近 隣 の人 々の了 解 が要 るそうだ。
こういう話 も新 聞 に出 ていた(朝 日 新 聞 、今 年 六 月 二 五 日 、夕 刊 )。死 んだ人 の遺 骨 を、マグカップ
一 杯 、遺 灰 なら二 四 〇ミリリットルを、四 〇〇〇度 の熱 で焼 き、二 〇万 トンの圧 力 をかけると人 造 のダイ
ヤになるよし。それを指 輪 などにして身 につけていれば、故 人 を身 近 に感 じられるという。費 用 は形 にもよ
るが四 〇万 円 程 度 で、墓 にくらべれば高 くはない。昨 年 秋 の販 売 開 始 以 来 、一 五 〇家 族 からの申 し
込 みがあったそうである。
しかし中 断 は中 断 のままであるのが、本 当 の中 断 だ。中 断 の中 に人 生 の真 実 もあるのではなかろうか。
墓 や葬 儀 、まして人 造 ダイヤなどで自 分 たちの生 の中 断 に結 論 をつけることはできない。それらは中 断
の引 き伸 ばしであるにすぎぬ。そして現 代 のわたしたちが、天 国 や涅 槃 によみがえり、そこで人 生 の結 論
が得 られるという終 末 論 が信 じられぬ以 上 、いわゆる生 の結 論 なるものは、この生 の中 断 という現 実 の
中 で、その空 しさと哀 しみの中 に、見 出 されるべきものではあるまいか。その意 味 では、わたしたちの生 と
戦 没 学 生 の間 には、――言 葉 は慎 まなければならないが――違 いはない。人 間 の生 の空 しさ、中 断 の
生 は、共 に同 じだ。それが戦 没 学 生 へ奉 げるわたしたちの挽 歌 ではなかろうか。挽 歌 は、同 じ人 間 によ
って歌 われるべきものだ。さもないと、挽 歌 は単 なる同 情 になってしまう。
わたしは近 頃 、歴 史 、それも中 世 の歴 史 の本 をよく読 む。講 談 社 学 術 文 庫 の『中 世 都 市 ・鎌 倉 』
(河 野 真 知 郎 著 )とか、『中 世 ヨーロッパの城 の生 活 』(ジョセフ・ギース、フランシス・ギース著 )といった
類 の本 である。また塩 野 七 生 のイタリア物 なども、娘 から借 りてよく読 む。これは歴 史 のどの時 代 でも同
じだが、各 時 代 は、それはそれとして、歴 史 の永 遠 性 に触 れていると感 ずるからだ。歴 史 書 を読 みながら
感 ずるある種 の懐 かしさは、そこにあるだろう。啓 蒙 主 義 の歴 史 観 が考 えたように、歴 史 の流 れは、前 の
時 代 を超 克 して次 のより良 い時 代 に続 くというような、完 結 した合 理 主 義 的 法 則 で発 展 するものではな
かろう。各 時 代 、またその時 代 に生 きた人 々は、中 断 の生 を生 き、そのことに哀 しみながら、その哀 しみと
いう現 実 の中 で、永 遠 に触 れながら生 きていたのである。なぜなら、永 遠 とか天 国 という生 の結 論 をわた
したちが知 っていなければ、中 断 の空 しさ、悔 しさもまた、わたしたちは感 ずることができないからだ。中 断
の空 しさは、完 結 した結 論 に裏 打 ちされているのである。そう考 えることによってのみ、わたしたちは戦 没
画 学 生 にたいする挽 歌 も歌 え、また自 分 の老 いと死 に対 するある種 の納 得 も、一 条 の光 のように見 えて
くるだろう。
なぜ中 世 かといえば、人 間 の生 が中 断 の生 であることはどの時 代 でも同 じだが、たとえば中 世 の神 秘
主 義 、ロマンティシズムは、わたしたちの生 の中 断 と、その中 にひそむ永 遠 の生 への憧 れを、著 しく表 現
していると思 うからだ。それにくらべて古 代 は、もともと人 間 の自 覚 が発 生 していないから、ロマンチシズム
も神 秘 主 義 もない。古 代 ローマやエジプトにあるのは、神 秘 主 義 ではなくて魔 術 であろう。ローマのコロ
シアムで行 われた剣 闘 士 たちの殺 し合 いを残 虐 と感 ずるとしたら、それはわたしたちが近 代 以 降 に発 生
したヒューマニズムの目 でそれを見 ているからだ。また近 代 史 は、合 理 主 義 ないし合 理 主 義 という名 の
主 観 主 義 によって彩 られている。そこには人 間 の明 るい讃 歌 のみがあって、中 断 の生 の哀 しみは少 ない。
老 いとか生 の哀 しみは、近 代 精 神 には無 縁 である。
今 日 の聖 書 のテキストは、コリントの信 徒 への手 紙 一 の一 三 章 一 三 節 で、これは普 通 「愛 の讃 歌 」と
呼 ばれている部 分 の最 後 の言 葉 である。「愛 の讃 歌 」の中 でパウロは、愛 のさまざまな位 相 について語
っているが、その最 後 で、パウロは「信 仰 と、希 望 と、愛 、この三 つはいつまでも残 る。その中 で最 も大 い
なるものは愛 である」と言 っている。信 仰 と希 望 と愛 の中 で、愛 が最 も大 いなるものであると言 うのである。
このことの解 釈 はいろいろあるであろうが、信 仰 と希 望 は、個 人 的 美 徳 であって、したがって中 断 すること
がありうる。信 仰 はしばしば挫 折 し、希 望 も失 われることはよくある。しかし愛 が「最 も大 いなるもの」である
のは、愛 は未 完 結 な本 性 のものだからであろう。愛 は隣 人 との関 わりのことであり、個 人 的 問 題 ですむこ
とではないから、中 断 されることがないということではあるまいか。愛 は自 分 の成 り立 ちのためには隣 人 が
必 要 だという、いわば自 他 不 二 のことで、個 人 の営 みである生 や、生 の中 断 を超 えでたところがあるから
だとわたしは思 う。(05701)
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