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脱エリート経済学
大阪経大論集・第63巻第4号・2012年11月
1
脱エリート経済学
アダム・スミスのミッシング・リンク
渡
1. は
書名に同感して読んだ
下山の思想
じ
め
辺
大
介
に
の中で, 著者の五木寛之氏は次のように述べてい
る。
私たちは明治以来, 近代化と成長をつづけてきた。 それはたとえていえば, 山に登る
登山の過程にあったといえるだろう。
も ほう
だからこそ, 世界の先進国に学び, それを模倣して成長してきたのである。
しかし, いま, この国は, いや, 世界は, 登山ではなく下山の時代にはいったように
思うのだ1)。
登山したら下山するのは当たり前のことだが, 行き詰まり状態にある現在の日本では,
これは正に発想の転換である。 バブル経済崩壊後の20年余の間に, 発想の転換が必要だと
言われたことはあったが, 今日にいたるも, マス・メディアを通じて執拗に言われている
のは, 「経済成長」 である。 しかし, 坂の上の雲を目指して登りきったいま, 経済成長と
言っても, それは山頂でジャンプするようなもので, さらに高く登ることはできないので
ある。 それゆえ, 発想を転換して下山すべきなのだが, 下山するには勇気が必要で, 日本
画伯・速水御舟 (1894∼1935) が言ったという, 次の言葉を思い出す。
梯子の頂上に登る勇気は貴い。 更にそこから降りて来て, 再び登る勇気を持つ者は更
に貴い。 大抵は一度登ればそれで安心してしまう。 そこで腰を据えてしまう者が多い。
登り得る勇気を持つ者よりも, 更に降り得る勇気を持つ者は, 真に強い力の把持者であ
る2)。
降りて再び登るという御舟の言をヘーゲルは, 前進とは根源的かつ真なるものへの後退
であり, 後退とは基礎付けであると表現しているのであろう。 下山するのも梯子を降りる
のも, 根源的かつ真なるものへ戻り, それに基づいて再び造り上げるということである。
だが, それには根源的かつ真なるものを知っておく必要がある。
根源的かつ真なるものと言えば, 厳めしく敬遠したくなるけれども, 新たな人間社会を
考える場合, それは経済の原理のことである。 作家・画家・哲学者に限らず, 人々は経済
1) 五木寛之 下山の思想 幻冬舎新書 2011年 16頁。
2) ネットで 「速水御舟の言葉」 とインプットして検索すれば, 知ることができる。
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大阪経大論集
第63巻第4号
活動によって生み出された財・サービスを用いて生活している。 経済活動は, 生活のすべ
てではないけれども, 人間生活の基礎であるから, 下山し, そして再び登るには, 経済の
原理を改めて認識し直す必要があるわけである。
資本主義経済とも市場経済とも言われている現在の経済に関して, その原理は競争であ
ると言われており, 働いている人々もそれに疑いを持っていないようだが, 競争原理に留
まる限り, 理論展開のプロセス・イノベーションは生じても, 現在のものとは異なる経済
理論
異なる社会を作るプロダクト・イノベーションは起こらない。 経済の学的研究に
おいても, 今や競争原理からの下山が必要で, 本稿はその敢行である。
2. ケインズの覚書
経済学者ケインズは,
雇用, 利子および貨幣の一般理論
の結語的覚書, その最後の
ところで, 次のように述べている。
経済学者や政治哲学者の思想は, それらが正しい場合も誤っている場合も, 通常考え
られている以上に強力である。 実際, 世界を支配しているのはまずこれ以外のものでは
ない。 誰の知的影響も受けていないと信じている実務家でさえ, 誰かしら過去の経済学
者の奴隷であるのが通例である3)。
実務家でさえ過去の経済学者の奴隷であるのが通例だとすれば, 一般人はなおさらそう
であろう。 五木寛之氏の
漢字源
下山の思想
を開くと, 「まず, はじめに」 記されているのは,
から引いた, 民の語源の残酷な意味である。
ど れい
〈目を針で刺すさまを描いたもので, 目を針で突いて見えなくした奴隷をあらわす。
(中略) 物のわからない多くの人々, 支配下におかれる人々の意となる4)
市場経済で働く人民を, 奴隷として支配下においている 「過去の経済学者」 の代表は,
経済学の父と言われるアダム・スミスである。 スミスの
国富論
は現在も一般の人々の
経済学的教養を高めるため, 解説書が出版されている。 社会主義経済の崩壊後, 勝利した
はずの資本主義経済国で生じたサブプライムローンの破綻, それに続く危機的状況の中で,
国富論
は経済の在り方を再考するために立ち戻る原点と考えられているからであろう
が, 隷属から抜け出すためには, スミスが見逃した原理の考察こそ肝要である。
3. アダム・スミスのミッシング・リンク
アダム・スミスのミッシング・リンクとは, スミスが見忘れた社会的労働の輪 (和) と
いう意味である。
スミスは第1章で分業は結合労働だと述べているにもかかわらず, 第2章以後ではその
ことを忘れたように交換論を展開し, そして, 分業がひとたび確立すると誰もが交換によっ
て生活する, つまり, ある程度商人になる商業的社会になる, と言っている。 しかし, 分
3) ケインズ著 間宮陽介訳 雇用, 利子および貨幣の一般理論
4) 五木寛之 前掲書 15−6 頁。
下 岩波文庫 2008年 194頁。
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業が確立した市場経済は, 働く人々が企業単位で労働の輪を作り, その輪が一つ一つの鎖
の輪をなし, 経済全体の輪を作るのであって, 商業的社会ではなく, 協働の社会が発展す
る。 先進資本主義国だけでなく, 新興資本主義国においても, 男性だけでなく女性も加わ
り, 益々多くの男女が各種の労働に参加している事実が示しているように, 市場経済の実
相は, マルクスが解明し得ず, そしてソ連崩壊後に死語になったも同然の, かの社会主義
経済であり, 人々が共に生産活動に従事し, その成果を分かち合って生活するという意味
の, 共産主義経済なのである。 そして, スミスの有名な 「見えない手」 は, スミスには見
えなかった市場経済の仕組みである。
スミスが市場経済の仕組みを 「見えない手」 にしてしまったのは, いったん結合労働と
述べながら, その後の展開で無視していったからである。 面白いことにこのことは, 最新
の山岡洋一訳
国富論
においても現れている。 以前の学者の訳本 (例えば, 1965年の水
田洋訳) の第1章の訳文と山岡訳文とを比較して見れば, 学者の訳文にある結合労働が山
岡訳では省かれている。 この事実は, スミスの忘却が訳文からの忘却としても現れている
という関係になっている。 なぜ, 市場経済の原理に関わる結合労働あるいは労働の結合が
忘れ去られて, 労働の交換としての物と物の交換になるのか。
労働の結合と労働の交換とは質が異なるのである。 私的労働に基づいて, 私的財産の種
類を増加させるには, 余剰生産物を用いて他の財と交換するという方法を用いることにな
る。 しかし, 人々が労働能力を結合して社会的生産能力を形成し, 社会的必要量を作り出
したときは, 生産物を分かち合うことになる。 そのときに用いる方法は交換とは異なる方
法である。 にもかかわらず, その方法を生み出す労働の結合を, スミスは簡単に放棄した
のである。 なぜだろうか。 スミスの労働の認識がその程度のものであったからではないだ
ろうか。
4.
スミスは
国富論
国富論
の序論
スミスの労働認識
の序論で, 労働について次のように述べている。
すべての国民の年々の労働は, その国民が年々消費する生活の必需品や便益品のすべ
てをその国民に供給する, もともとの原資であって, それらのものはつねに, その労働
の直接の生産物であるか, あるいはその生産物で他の諸国民から購入されるものであ
る5)。
スミスの労働に関する上の記述は, 利潤 (利益) と地代の元になる資本財や農地 (土地)
を周到に除外しているが, 工場の建物や機械などの資本財も労働の生産物である。 農地に
関しても同じで, 原野の開墾によって作り出された田畑も労働の産物である。 そして, 上
農は土を造るというように, 農地に堆肥を鋤き込んで肥沃な土造りをするのも労働である
(スミスもそう言っているのだが)。 しかし, それだけではない。
労働は身体を使う人間の活動として行われるが, この活動の本質は, 人間と自然の対立
5) アダム・スミス著 水田洋監訳 杉山忠平訳 国富論
1 岩波文庫 2006年 19頁。
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大阪経大論集
第63巻第4号
を統一する関係で, 人間が自然に働きかけて欲求の充足手段を生産することである。 した
がって, この関係は労働主体から見れば, 自然を欲求の充足手段に変える活動として現れ
る。 他方, 労働主体の作用を受ける母なる自然から見れば, 労働主体を知恵のある人・物
造りする人に変える活動である (分業によって特定の能力を持つ職業人が生まれることはス
ミスも述べている)。 そしてさらに, 自然は, 労働主体を他の動物とは異なる動物, すなわ
ち労働の成果である生産物を所有して生活する人間に変える。 労働は生産物を生み出すと
共に, 労働する人々を生産物の正当な所有者として生み出すからである。
しかしながら, スミスがそうであったように, 経済学者は, 労働が生活手段を生み出す
ことを認めても, 労働がその正当な所有者を生み出すことを歴史的に無視してきている。
経済学者は, 自己の労苦を伴う研究すなわち知的労働の成果に関して, 自分がその正当な
所有者だと主張するだろう。 しかし, 労苦を伴う肉体労働はしないから, 肉体労働をした
人が, その生産物の正当な所有者だとは認識できないのである。 労働が生産物の正当な所
有者を生み出すことを無視しているので, 経済学は今なお貨幣の本質を解明することがで
きないのである。
5. アダム・スミスの分業論
国富論
の序論に続く第1章は分業の説明である。 自由競争がスミスの理想だとして
も, 競争は経済の原理にはなり得ないから, 理論展開の原理を述べるべき箇所に競争を置
くことはできないのである。 競争の代わりに経済の原理として置かれたのは 「分業」 であ
る。 分業は歴史的に発展してきた市場経済の, 多種多様な財・サービスを大量に生み出す
労働あるいは生産の支配的方法であるから, それが原理として最初に置かれるのは極めて
自然である。 しかし, スミスは分業を社会的分業と企業内分業 (職場内分業) に区別して
説明してはいない。 スミスの分業論は, ピン造りの例が示すように, 企業内分業や技術的
分業の例示に偏っていて, 社会的分業のモデルとしての例示がなく, さらに, 分業と対を
なす協業の説明もないのである。 ただし, 協業に関して, スミスは次のように結合労働と
いう用語を使っている。
たとえば, 日雇労働者の身体をおおう毛織の上衣は, たとえ粗末で手ざわりの荒いも
のにみえようとも, 多数の職人の結合労働の産物である。 この質素な生産物でさえ, そ
そ もうこう
の完成のためには, 羊飼い, 選毛工, 梳毛工または刷毛工, 染色工, あらすき工, 紡績
工, 織物工, 縮絨工, 仕上工, その他多数が, 全員それぞれの手仕事を結合しなければ
ならない6) (下線は引用者によるもので, 山岡訳にない用語である)。
結合労働は joint labour の訳語である。 スミスは division of labour に対しこの用語 joint
labour を用いたのではないかと推理してみると, 前者を分業と訳せば後者は協業と訳した
方が良いのではないかと考えるのだが, それはさておき, 結合労働が何を生産するのかに
関する考察, したがって説明はないのである。 しかし, ここで有名なピン造りの分業の例
6) 国富論 1 34頁。
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示を借りて, 労働の結合すなわち協働あるいは協業についてまず一言しておくことにする。
スミスによると, ピン (留め針) 造りは, 針金を引き伸ばす作業, それを真っ直ぐにす
る作業, その針金を切る作業, 切った針金を尖らせる作業, 頭部を付ける先端を削る作業
というように約18の別々の作業に分割されていたという。 そして, それらの作業の一つ一
つが別々の人によって行われる仕事場もあれば, 1人がそれらの作業の二つか三つを行う
仕事場もあったと言うが, スミスは10人がピン造りに従事していた仕事場を見て, 次のよ
うに述べている。
(それだから) この10人は, 自分たちで1日に4万8000本以上のピンを造ることができ
たわけである。 したがって各人は4万8000本の10分の1を造るわけだから, 1日に4800
本のピンを造るものと考えられていいだろう。 しかし, もし彼らがみな個々別々に働き,
まただれもがこの特定の仕事にむけて教育されていなかったとすれば, 彼らはまちがい
なく, 1人あたり1日に20本のピンも, おそらくは1本のピンも造ることができなかっ
ただろう。 つまり, 彼らが現在ではさまざまな作業の適切な分割と結合の結果なしえて
いることの, 240分の1ではなく, おそらく4800分の1でさえなかっただろうというこ
とは確実である7) (漢数字は算用数字に変えて引用。 下線は引用者による)。
上記引用文でスミスは, 「特定の仕事にむけて教育されていなかったとすれば」 と条件
を付けているけれども, 個人がすべての作業を行ったときは, おそらく1本のピンも造る
ことができなかっただろうと記している。 スミスは, 人間の本性の中にある交換性向が分
業を生む原理だと考えているが8), 人間が個人の力を結合して集団の力, さらに社会的生
産力を造るのは, 個人の持つ力が小さく, 弱いからである。 集中豪雨による洪水の前に人々
は, なす術がなく, ただ避難するしかないのであって, その人々が知的エリートであって
も金メダリストであっても, 同じことである。 ところが, 自然を無視してしまうと, その
個人が, 弱者だとか弱小国などと言う強者に早変わりしてしまい, 協働あるいは協業を看
過して, 交換→競争という非論理の使い手になる。
人間という動物は, 個人としては能力不足だから, 生きるための生産活動において, 個々
人が協働あるいは協業するのである。 そして協働する場合に, 高い生産性を実現する分業
方式が普遍化して行く。 ただし, 現在も農林水産業はある程度, 個人で営まれている。 穀
物や野菜, 魚, 樹木という財自体を自然が造るからで, 人間の力では造り出せないのであ
る。 衰退産業と目されているこの産業では, 完成品自体の生産活動は昔からオートメーショ
ンである。 人間にできるのは, その補助的な作業であるから, ある程度, 個人労働で行え
る。 それに対して工業では, 完成品自体を人間が造り出すので, 生産活動を分業化するこ
とができ, 分業化すれば生産力が増大する。 そしてまた, 分業化した活動を機械化しオー
トメーション化して行く。 工業は衰退産業の生産工程を後追いしているが, 教育などのサー
ビス業では, 工業的オートメーション化を試みるほど, 人間造りに失敗するようである。
ピン造りの分業はまた次のことを明らかにしている。 すなわち, 個々の作業が代行業と
7) 同書 25−26頁。
8) 同書 37頁。
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して行われていることである。 針金を引き延ばす作業をする人は, 他の作業をする人の代
わりにそれを専門的に行うのである。 次の針金を真っ直ぐにする作業をする人も, 針金を
切る作業をする人も, 先をとがらせる作業をする人も, 頭を付ける作業をする人も, 他の
作業をする人々の代わりにその作業をするのである。 そして, ピンの完成品はそれを使う
消費者に販売されるわけだが, それもまた, 消費者の代わりにピンを専門的に製造して手
渡すということである。 そしてこの最後の, つまり完成したピンを消費者の代わりに造っ
て渡すという代行業を, 各種の財の生産に適用すれば, 社会的分業の形になる。 したがっ
て, 代行業として行われる分業は, それが企業内分業であれ, 社会的分業であれ, 全体と
して協業を形成しているのであって, 同じことをして優勝劣敗を争う競争にはなり得ない
のである。 逆に言えば, 競争に基づいて社会的分業は遂行できないのである。 にもかかわ
らず, スミスも,
国富論
を解説する経済学者も, なぜ競争を後生大事に述べるのだろ
うか。
今度は一つの問を提起しておくことにする。 10人が分業して生産した1日のピンの生産
量4万8000本は, いったい誰が所有するのか, という問である。 この重要な問に答える説
明をスミスはしていない。 それは, 先に述べたように, 労働が生産物の正当な所有者を生
み出すという認識がスミスにはないからである。 スミスの意識にあるのは個人の私的所有
であるから, 分業=結合労働を無視して, いとも簡単に同じ第1章で次のように述べるこ
とができるのである。
どの職人も自分自身が必要とするところを超えて, 処分しうる自分の製品を多量にもっ
ており, また他のどの職人もまったく同じ状況にあるため, 彼は彼自身の多量の品物を
それらの人々の多量の品物と, あるいは同じことになるが多量の品物の価格と, 交換す
ることができる9)。
そして, さらに第4章 「貨幣の起源と使用について」 の冒頭でも述べている。
いったん分業が完全に確立してしまうと, 人が自分自身の労働の生産物で充足できる
のは, 彼の欲求のうちのきわめてわずかな部分にすぎない。 彼がその欲求の圧倒的大部
分を充足するのは, 彼自身の労働の生産物のうちで彼自身の消費を超える余剰部分を,
他人の労働の生産物のうちで彼が必要とする部分と交換することによってである。 こう
してだれもが交換することによって生活するのであり, いいかえれば, ある程度商人に
なるのであり, 社会そのものが商業的社会と呼ぶのが当然なものとなるに至るのであ
る10)。
分業が確立するということは, 個人が単独ですべての作業を行っうのではなく, ピン造
りの例が明らかにしたように, 企業内分業方式で生産するということ, すなわち同じ財を
多数の人々が分業方式で大量生産するようになるということである。 そうであれば, 分業
による生産物が, どのようにしてその従事者に所有されるのかを説明しなければ, 引用し
たような個人間の交換はできないはずである。
9) 同書 33−34頁。
10) 同書 51頁
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6. スミスの貨幣論
スミスは第4章で 「貨幣の起源と使用について」 述べている。 スミスによれば, 貨幣は
「商業と交換の共通の用具」 あるいは 「共通の商業用具」 である。 ただし, 「貨幣とは商業
と交換の共通の用具である」 とスミスが定義しているわけではない。 スミスは次のように
言っているのである。
肉屋は彼の店に彼自身が消費しうる以上の肉をもち, 酒屋とパン屋はどちらもその一
部を購買したいと思っている。 ところが, 彼らはそれぞれの職業のことなる生産物以外
には交換にさしだすべきものをもっておらず, 肉屋のほうはすでに, 彼がさしあたって
必要とするパンとビールをすべてもちあわせている。 このばあいには, 彼らのあいだで
交換が行われることはありえない。 彼が彼らの商人であることも, 彼らが彼の顧客であ
ることもできず, こうしてだれもがそれだけ, 相互の役にたたないのである。 このよう
な情況の不便を回避するために, 分業が最初に確立されて以後, 社会のすべての時期の
すべての慎慮ある人は, 自然につぎのようなしかたで, 彼の問題を処理しようとつとめ
たにちがいない。 それは, 人々が自分たちの勤労の生産物との交換を拒否することはほ
とんどないだろうと彼が想像する, 何かある商品の一定量を, 彼自身の勤労の特定の生
産物のほかに, いつも手もとにおいておくということである11) (下線は引用者による)。
上の長い引用文の下線部を引いた 「何かある商品」 を, その後の説明の中で, スミスは
商業と交換の共通の用具と表現し, それを貨幣の意味として使っている, と読者としては
理解せざるを得ないのである。 手元の解説書では 「交換の媒介物」 あるいは 「交換媒体」
と言い換えられているが, そう言い換えたとしても, スミスの 「貨幣」 は分業に基づいて
導出されたものではない。 肉屋は余剰生産物を持っているが, 酒屋とパン屋に余剰生産物
がない, という状態は分業が実現した (確立した) 状態ではない。 したがって, 分業に基
づいて貨幣の起源を明らかにしたことにはならないのである。 解説書で使われている次の
ような例も同じである。
私がアンパンを持っているけれども, 私はアンパンが嫌いで酒を手に入れたいと願っ
ている状況を考えました。 そこへ向こうから酒を提げた人が現れたので, ふたりの間に
交換が起こる場面をお話ししたのでした。 でも, この交換は果たしてうまくいくでしょ
うか。 たまたま向こうから酒を提げた甘党の人が歩いてきてくれればよろしいのですが,
相手の持っている品物が饅頭では取り替えても仕方がないですね。 また相手がせっかく
一升提げていても, 先方も酒好きでは, やはり交換は成り立たないでしょう12)。
市場に行ってみたけれども, 欲望の二重の一致を満たす相手が結局見つからないとい
う場合もあるのではないでしょうか。 この問題を解決するためにこういう工夫がある。
好き嫌いがある酒やアンパンではなく, 普遍的な欲望の対象と申しましょうか, 誰もが
11) 同書 51−52頁
12) 丸山徹 アダム・スミス
国富論
を読む 岩波書店 2011年 64頁。
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大阪経大論集
第63巻第4号
売却した物品の見返りとしてよろこんで受領する, つまり普遍的受領可能性を有する財
たとえば金や銀
があったら, 事態は随分と改善されるのではないでしょうか13)。
この解説で用いられている例を読むと, 分業の対概念としての協業に対する認識がない
と思わざるをえないのである。 嫌いなアンパンを持っている 「私」 と酒を提げている人の
間には, 分業関係が成立していないのである。 嫌いなアンパンをどうして持っているのか,
その理由が分からないから, 分業関係が成立していない, と言っているわけではない。 そ
うではなく, 二人が互いに異なる物を持っていることと, 二人が分業していることとは,
同質ではないからである。 二人の間に分業関係がなければ, 交換は成立しないのである。
次の例は分業の例であるから, (労働の) 交換が成立する。
いたつけ
漁船も造船技術も持つ者が17人いた。 そして板付舟をつくった。 宝島から北の島々は
くりぶね
刳船をつくり, それを利用していたが, 宝島だけは板付舟建造の技術を身につけていて,
その人たちが舟をつくる。 技術を持たない人は持つ人に舟をつくってもらい, その間だ
け船大工の家の畑仕事にいく。 つまり労働交換である。 島には鍛冶屋が一軒あった。 こ
の鍛冶屋は年中カンカンと鍬や鎌をつくっていた。 すべて村人の注文で, たいていは古
くなったものの打直しであるが, 鍬なら鍬をたのみに来た百姓は, 打直してもらう時間
の二倍あまりを, 鍛冶屋の畑で働く。 だから鍛冶屋はほとんど畑へ出ることはないが,
こうして村の百姓たちによって植付けから取入まで完全に行われたのである14)。
上の引用で, 島の鍛冶屋と百姓との間には分業が行われている。 鍛冶屋は百姓の代わり
に鍬や鎌を打直し, 百姓は鍛冶屋の代わりに畑作業をする。 したがって, 双方の間に協力
関係が成り立っている。 この事例では鍛冶屋も畑を所有しているが, その畑の所有権を百
姓に移転すれば, 鍛冶屋は専ら鍬や鎌を造り, 百姓は農作物を造ることになり, 鍬や鎌と
農作物が両者の間で交換されることになるわけである。 しかし, 畑の所有権を他者に譲り
渡してしまえば, 鍛冶屋自身は鍬や鎌を必要としないから, すなわち, 鍛冶屋の生産物が
鍛冶屋にも必要な消費財ではないから, 次のような分業の本質的内容を認識するには, 適
切な事例になりにくい。
二人の間で分業が行われている場合, 例えば個人Aは米を造り, 個人Bは布を造る場合
は, Aは2人分の米を造り, Bは2人分の布を織るのである。 それゆえ, AとBは (スミ
スがいう余剰部分の) 米と布を交換することができ, 交換すれば, AもBも同じ米と布を
持つ同じ人間になる。 これが分業すなわち協業の意味である。 こういう認識に基づいて,
先のアンパンと酒の例示は分業の例示ではないと言ったのである。 スミスの例に戻って,
肉屋と酒屋とパン屋の間に分業関係が成り立っている形を示すと, 下・左側の形になる。
肉
屋: 肉
肉
肉
肉
屋:
肉
肉
肉
酒
屋: 酒
酒
酒
酒
屋:
酒
□
□
パン
パン
□
□
パン屋:パン
13) 同書 65−6 頁。
14) 宮本常一 生業の歴史
パン屋: パン
日本民衆史6 未来社 1995年 28頁。
脱エリート経済学
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ところが, スミスは右側の形を使って, □の空白部分を貨幣で埋めているのである。 こ
れは分業を前提にして貨幣を導き出す学的方法ではないと言わざるを得ない。
スミスの貨幣の説明を読むと, 経済学者の小野善康氏が, 日本経済新聞のインタビュー
に応えて, 「経済学は, お金と正面から向き合っていなかった」15) と言っている理由がよく
分かるけれども, 氏が
成熟社会の経済学
で次のように述べている貨幣観が, その本質
を突いているとも思えないのである。
つまりお金とは, 価値があるという約束事を持った紙です。 実は紙すらいらず, これ
だけの価値を持っているいう情報だけで十分です。 実際, 最近導入されたネット・バン
キングや株券の電子化などは, 電子情報だけです。
そういうものを人びとが欲しいと思うのには, 色々な理由があるでしょう。 しかし,
すべては何にでも交換できて取引に便利だから, ということから始まっている16)。
7. 社会的協業と貨幣
フランスの経済学者R. ボワイエ氏は, 雑誌
環
が特集した 「貨幣とは何か」 に関す
る編集部とのインタビューの中で, 次のように言っている。
確かに現代的な貨幣, 貨幣が金銀ではなくなって, たんなる紙切れ, あるいは紙切れ
ですらなくなっているという状況になってきますと, 貨幣は純粋の信用でしかなくなっ
てきます。 そうなりますと, これはたんなる共同の幻想であるかどうかということになっ
てきます。 確かにそれは手段的な幻想という側面をもっているけれども, われわれの見
解, つまりレギュラシオン・アプローチからの貨幣の見解はいくつかありますけれども,
共通して言えることは, そうした幻想的な側面をもっているけれども, 貨幣はやはり実
体経済に関わる基盤をもっているということです。 それは債権債務の関係と同時に, 労
働に関わる分業の関係です17)。
上に引用した箇所の最後の指摘, すなわち 「労働に関わる分業の関係」 は, スミスの貨
幣論の基と同じである。 にもかかわらず, 分業労働に基づいて貨幣が認識できないのは,
社会的分業が社会的協業 (社会的な労働の結合) として行われるという認識がないからで,
研究の目を社会的協業に向けないからである。 社会的協業に目を向ければ, 貨幣は共同幻
想ではなく, 社会的協業としての労働の結合が造り出す, 正当な所有者あるいは所有権だ
ということが分かると同時に, 分業を協業として営む市場経済では, 交換とは異なる方法
を用いて, 各種の生産物を個々人が入手することも分かってくる。 このことを説明するた
めに, 社会的分業を協業として行う例を, 次に掲げることにする。
社会的分業は, 社会を構成する個々人の身体に, 男女の違いや大小の違いがあっても,
共通の諸欲求があることに基づいて行われる経済活動である。 経済学は方法論的個人主義
15) 「お金と向き合う
小野善康さんに聞く」 日本経済新聞2011年11月12日夕刊。
16) 小野善康 成熟社会の経済学 岩波新書 2012年9頁。
17) ロベール・ボワイエ 「(インタビュー) 貨幣とは何か
号51頁。
社会関係としての貨幣」
環
2000年3月
10
大阪経大論集
第63巻第4号
というほど, 個人中心であるから, 下の例も4人の個人A・B・C・Dが, 4人に共通す
る欲求a・b・c・dを充足する手段として, a財・b財・c財・d財を分業で生産する
という内容にしている。
図1
社会的分業のモデル (消費財の場合)
生産物の種類と数量
個人A:a財 a財 a財 a財
個人B:b財 b財 b財 b財
個人C:c財 c財 c財 c財
個人D:d財 d財 d財 d財
欲求
→ a
→ b
→ c
→ d
4人の
個人に
共通する
諸欲求
欲求の充足手段が各々4単位, つまり4人分生産されているのは, そうしなければ, 4
人が分業していることにはならないからである。 分業は代行業であると, すでに述べたけ
れども, 改めて言えば, Aは4人に共通する欲求aの充足手段, すなわちa財を他の3人
の代わりに生産し, Bはb財を, Cはc財を, Dはd財を他の3人の代わりに生産するか
ら, 各自4人分造るわけである。 これが分業の内容である。 このように人は, 分業すると
き, 自分の能力を他の人々の欲求を充足するたに発揮する。 その活動は利他的生産活動で
ある。 仮に, 分業方式で生産しているa・b・c財が肉・酒・パンだとすれば, AもBも
Cも, それを飲食する人が美味しいと満足できるように工夫して造るわけで, スミスのよ
うに, 次のように言うことはできないのである。
われわれが食事を期待するのは, 肉屋や酒屋やパン屋の慈悲心からではなく, 彼ら自
身の利害にたいする配慮からである。 われわれが呼びかけるのは, 彼らの人類愛にたい
してではなく, 自愛心にたいしてであり, われわれが彼らに語るのは, けっして我々自
身の必要についてではなく, 彼らの利益についてである18)。
図1の例示に再び戻って, 生産物の交換に関して述べることにしよう。 分業方式で生産
したa・b・c・d財は, 互いに物々交換できるのである。 経済学は, 欲求が二重に一致
したときに, 二人の間で物々交換が行われるが, 二重に一致しなければ物々交換ができず,
それゆえ, 交換手段としての貨幣を用いて, 間接的交換すなわち売買をする, と説く。 し
かし, 例示したとおり, 各自に共通する諸欲求の充足手段 (この例では消費財) を分業方
式で生産すれば, (各財1単位の生産労働が同一の場合) 物々交換をすることができ, 交換
すれば, それぞれa財・b財・c財・d財を1単位ずつ持つ協業が実現する。
分業の真理は, 競争でも交換でもなく, 協業 (分業した人々が同じ人間になること) だか
ら, 貨幣が生まれ, 物々交換ができるにもかかわらず, 交換とは異なる方法を用いるので
ある。 それを知るには, 図1を次頁の図2に変えれば良い。 その操作は簡単である。 する
と, 交換しなくても, 分業を協業として実現できることが分かる。 市場経済は, スミスや
後継の経済学者の説明とは異なる仕組みになっている, と図が形を変えながら教えてくれ
るわけである。
18) 国富論 1 39頁。
脱エリート経済学
図2
a財
b財
c財
d財
‥
個人A
11
社会的協業の実現
a財
b財
c財
d財
a財
b財
c財
d財
a財
b財
c財
d財
‥
‥
‥
個人B 個人C 個人D
上の図で, 分業の成果である4種類の財16単位を線で囲い込んだ形は, 場所としての市
場, 例えばスーパーやデパートを表している。 そこへ個人A・B・C・Dが, 各自の生産
物を運び込んで並べておく。 その下部に個人A・B・C・Dが横に並んだ形は, 市場へ足
を運んで, 自分の諸欲求を充足する品々の前に立った形である。 分業の成果が種類毎に横
に並んでいる形を縦に見れば, 4種類の財が, 交換することなく, 各個人に分配される形
に変わり, 協業の実現を表す形になっていることが分かるはずである。 このように分業を
協業として実現する方法は交換以外にもあり, この方法を使って現実の市場経済は営まれ
ているのだが, その実像はミスの労働観・分業論では見えないのである。 しかし, 労働=
所有論に立脚すれば, 交換論で隠されている仕組みが見えてくる。 それゆえ, 改めて分業
の遂行者と生産物の関係に考察の目を向けることにしよう。
個人Aが労働してa財4単位を生産したとき, Aはa財4単位の正当な所有者になる。
同様に個人B・C・Dも, 労働の結果, それぞれb財4単位, c財4単位, d財4単位の
正当な所有者になる。 そして, 4人の労働は互いに無関係に行われた労働ではなく, 分業
として行われている。 ここで, (スミスの言った) 分業は 「結合労働」 だという関係を思い
起こせば, 4人の分業は4人の労働を結合させ, したがって4人の正当な所有者を一体に
するということが分かる。 これは目で見て分かることではなく, 思考によって初めて認識
できることである。 社会的分業が労働の結合になるということは, 分業の対概念である協
業すなわち協力関係を考えれば不思議なことではなく, 労働の結合こそ協業の内容である。
社会的分業が各種の欲求の充足手段を生産するのに対して, 社会的協業は分業の遂行者を
結合させ, 巨人化した正当な所有者を生産する。 この一者になった正当な所有者こそ貨幣
の正体である。 このことをさらに説明するために, 先に掲げた社会的分業の例を修正する
ことにする。
先の社会的分業の例では, 個人が一つの社会的分業を遂行することにしていたが, 個人
の能力は小さく, 1人で一つの社会的分業を担うことはできないので, スミスのピン造り
のように人々が協働して行うようにする。 一つの社会的分業を遂行するために人々が集まっ
て協働する組織が企業の本質であるから, 個人A・B・C・DをA・B・C・D企業に変
えることにする。 そうすれば, 次頁の図3のようになる。
今度は各企業で働く人々の数を5人にしている。 また, 各財の数量は20単位に改めてい
る。 分業に従事する人数は合計20人で, 20人が協業を実現するように分業方式で生産する
12
大阪経大論集
第63巻第4号
には, 各々20単位が必要量になるからである。 各企業の生産量は, 社会的分業に従事する
人の数が多くなるほど, 多くなる。 現実の日本経済では何千万もの人が働いているので,
大量生産が企業で行われるのである。
図3
20人が一体化し
正当な所有者
を形成する。
社会的協業の生産物としての貨幣
正当な所有者
+
正当な所有者
+
正当な所有者
+
正当な所有者
← A企業(従業員5人) −所有−a財20単位
← B企業(従業員5人) −所有−b財20単位
← C企業(従業員5人) −所有−c財20単位
← D企業(従業員5人) −所有−d財20単位
まずA企業について述べよう。 A企業では5人が労働し企業内分業を行って, a財20単
位を生産したわけである。 労働は生産物の所有であり, そして分業は協業すなわち労働の
結合だから, a財20単位を生産したとき, 5人は一体化してa財20単位との間に所有関係
を形成する。 それゆえ, 一体化した5人は, a財20単位の正当な所有者になる。 これは,
他の企業においても同じで, B企業では従業員5人がb財20単位の正当な所有者に, C企
業では従業員5人がc財の正当な所有者に, そしてD企業でも従業員5人がd財20単位の
正当な所有者になる。
このように各企業の従業員は各企業の生産物の正当な所有者になるが, 社会的分業は社
会的協業を形成しているから, 言い換えれば, 企業単位の労働の更なる結合であるから,
4企業の従業員は合体して20人から成る一つの社会集団を造り, その一つの社会集団が財
a・b・c・d各20単位の正当な所有者になる。 社会的分業に従事する人々が構成する社
会集団 (以下単に社会という) が協業によって実現し獲得した正当な所有者という性質が
貨幣の正体である。 貨幣とは一つの社会が獲得した, 分業方式で造り出したすべての生産
物 (財・サービス) に対する正当な所有者のことである。 所有者としての正当性が承認さ
れた形を権利と表現すれば, 貨幣とは労働する人々が構成する社会の所有権, つまり社会
的所有権である。 この所有権を, 働いた人々が分け合って持つのが, 働いて賃金・給料を
受け取るということである。 各人が同じ所有権を持っていることを表すのが, いわゆる現
金で, 現金は社会的所有権という貨幣の存在を証明する形式, すなわち貨幣形式である。
人々が同じ現金を持っているということは, それらを加算してみれば分かる通り, 一個全
体の存在物があって, それが多数の部分に分割所有されていることを表しているのである。
では, なぜ, 貨幣形式を用いるのか。 他の権利と同様, 社会的所有権は目で見ることが
できないからで, その存在を証明するものが必要だからである。 現在, この貨幣形式は社
会的分業の一環として, 中央銀行から発行されているが, 歴史的に遡れば, 国王 (君主)
によって発行され経済活動に投入されたのである。 銀や金は, 貨幣そのものではない。 そ
れらが貨幣であるのは, 社会的所有権と結合しているからである。 したがって, 社会的所
有権と結合することがなくなれば, それらは単なる貴金属に戻るのである。
脱エリート経済学
13
地上の一部分を食糧確保のために社会的に囲い込んで, 動物である人間が植物化した形
が国家であり, 神から王権を授けられた国王が月の神, あるいは太陽の神を象徴する金属
の銀や金を貨幣形式として用いたのである。 その銀・金は, 価値ある生産物であったため,
貨幣と他の生産物の交換と解釈できる余地があったけれども, 中央銀行券ではその解釈は
最早なり立たない。 それゆえ, 貨幣とは何か, それが依然として不明の状態にあるわけだ
が, 貨幣の正体を認識するためには, 貨幣の実質と貨幣の形式を区別する必要がある。 R.
ボワイエ氏は, 経済のシステムにとって, 内生的, 内在的に貨幣は必要であるけれども,
貨幣を発行するのは経済のアクターである商人ではなく, 主権者=君主である19), と言っ
ているが, 貨幣の実質と貨幣形式を区別すれば, この矛盾は無理なく解ける。 内生する貨
幣を証明するために, 社会を代表する君主が貨幣形式を発行してきたのである。 社会的所
有権の存在を証明する形式を, 個々人が勝手に造って使用するのは, 貨幣の社会性に合わ
ないからである。 にもかかわらず, この歴史的経緯に妨げられて, 働く人々は, 貨幣形式
が自分たちの社会的労働を証明するために発行されていることを知り得ず, 未だそれを認
識する経済学を持ち合わせていないのである。
8. 市場経済の方法
社会的分業を社会的協業として営む市場経済では, 社会的分業によって各種の生産物が
大量に生産され, 社会的協業によって, それらの生産物に対する社会的所有権 (正当な所
有者)=貨幣が生産される。 最初に社会的分業が行われたとき, 生産物と貨幣は結合して
生み出され, 次に, 生産物と貨幣を分離する。 元もと人と生産物は分離しているので, 双
方を分離するというのはおかしいが, 所有関係を維持するためには, 人は物を直接所持す
るか, 身近に置いて使うようにせざるを得ないのである。 しかし, この場合は積極的に分
離して, 貨幣の方は企業単位で従業員に分配し, (消費財の場合) 生産物の方は場所とし
ての市場へ移動させる。
企業単位で労働に従事した人々に貨幣を分配するためには, 予め貨幣形式を用意して,
その貨幣形式を使って所有権の存在を証明する形で分配する。 他方, 生産物は場所として
の市場へ移動させるが, このとき生産物が貨幣の分配を受けた人々の所有対象であること
を明らかにするため, 貨幣から分離した印を生産物に付ける。 これが価格である。
生産物に価格を付けるには, その生産物と共に生み出された貨幣の大きさを計算する必
要がある。 貨幣の大きさは, 生産すなわち所有に要した労働時間数に時間当たりの金額を
乗じて計算する。 この点を先の例を用いて示すことにする。
各企業で働く人々の能力は同等とし, 1人の労働時間=8時間, 5人の総労働時間=40
時間で20単位を生産したと仮定する。 そして1時間=¥1 で金額に換算すると, A企業の
場合, a財20単位と共に生み出したその所有権すなわち貨幣の大きさは, ¥40 (=5×8×
¥1) になる。 したがって, a財1単位と共に生み出した貨幣は ¥2 (=¥40÷20) になる
19) ボワイエ 同インタビュー 45頁。
14
大阪経大論集
第63巻第4号
から, a財1単位に ¥2 の印, すなわち価格を付けるのである。 他のb・c・d財も (同
じ仮定をしているので) 1単位=¥2 という価格の表示になる。 このように価格を付けて場
所としての市場に置くのである。 他方, A企業で5人が生み出した貨幣 ¥40 を平等に分
配すれば, 1人の給与は ¥8 である。 もちろん, 貨幣形式を用いて, それを表わすのであ
る。 B・C・D企業の従業員1人の給与も同額である。 貨幣の平等な分配には, 格差是正
を唱える人も納得しないかも知れないが, 人々の身体に宿る生命は人間として平等である,
という考えに基づいて平等な分配にしている。
貨幣と生産物を分離し, 生産物は場所としての市場へ運び込み価格を付けて置く。 そし
て, 各企業で働いた人々が貨幣を持ってその市場へ行けば, 下に図示したように, 貨幣と
生産物が再結合する形ができる。 各種の社会的分業が社会的協業へ移行する形が, 価格メ
カニズムである。 私的生産物の交換が価格メカニズムを造るわけではない。
図4
社会的協業の実現:貨幣と生産物の再結合
a財 ¥2
b財 ¥2
c財 ¥2
d財 ¥2
a財 ¥2
b財 ¥2
c財 ¥2
d財 ¥2
a財 ¥2
b財 ¥2
c財 ¥2
d財 ¥2
a財 ¥2
b財 ¥2
c財 ¥2
d財 ¥2
貨幣形式 ¥8
+所有権
貨幣形式 ¥8
+所有権
貨幣形式 ¥8
+所有権
貨幣形式 ¥8
+所有権
・ ・ ・
・ ・ ・
+
個人A
+
個人B
+
個人C
+
個人D
・ ・ ・
上の図4の個人
例えばA
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
は, 社会的協業によって生み出された貨幣=社会的所有
権総額 ¥160 の20分の1を給与として得, それを証明する貨幣形式 ¥8 を持っている。 他
の諸個人も同じである。 図から分かるように, 市場に集まる消費者とは, その市場に集め
られた各種の財を生産した人々である。 各個人は生産者と消費者の二役を務めるのである。
したがって, 生産者が財に付ける価格と, その消費者が受け入れる価格は同じ論理に従っ
て決定されることになる。 右下がりの需要曲線と右上がりの供給曲線は, 生産者と消費者
が対立しているという経済学者の見方を表すものであるが, この見方は社会的分業の考察
から出てくるものではない。
貨幣を持って市場に現れた個人は, 次に貨幣を使って各種の財を入手する。 そのとき,
いったん分離した貨幣と生産物が, 再結合することになる。 個人Aは貨幣=社会的所有権
¥8 を行使してa・b・c・d財を各1単位入手する。 個人B・C・D・・・も同じであ
る。 社会的協業の本質は貨幣であり, 個人が入手した各種の財は, その実現形式である。
場所としての市場で貨幣と財が再結合すれば, 社会的所有権は行使されて無くなる。 そ
のことを表すのが, 個人が貨幣形式を手放す形である。 それに対応して財に付いた価格も
消え去って, (消費財の場合は) 社会の力で生産された財が各個人の私的所有物へと移行す
脱エリート経済学
15
る。 このようにしてから, 個々人はそれらの財を使用・消費して自己の個人生活あるいは
家庭生活を営む。
ところで, 財を入手したときに個人が手放した貨幣形式はどうなるのであろうか。 図4
には, その流れを示してはいないが, 貨幣形式は入手された財の生産企業へ戻され, 再び
使用される。 20人がa財 ¥2 を20単位購入したとき, 合計 ¥40 の貨幣形式がA企業に流
入する。 いったん流出した貨幣形式が流入したとき, 社会的分業は社会的協業として結実
したことになる。 貨幣は各種の社会的分業の遂行に参加した人々が形成する協業の全体で
ある。 つまり, 貨幣は全体である。 その全体性を表す貨幣の形式が部分に分かれて, 企業
を単位に循環するとき, 個別の企業は全体を構成する部分になる。 そして, 企業を単位に
一定額の貨幣形式が反復的に循環する限り, その企業は市場経済を構成する部分として存
続する。 それゆえ, 各企業は自企業の活動に伴う貨幣形式の循環, つまりキャッシュフロー
を認識する会計活動を行い, 市場への適応活動をチェックするのである。 これが, 一見無
政府的に, 言い換えれば, 自由に企業を単位に私的利益の追求が行われているにもかかわ
らず, 経済全体が秩序を保ち得る 「見えない手」 の仕組みである。
9. 貨幣の選択機能と真の所有対象
ここで立ち止まって, 貨幣の選択機能と真の所有対象を述べておくことにする。
貨幣は選択権ではないが, 貨幣と生産物が分離し, そして再結合するとき, 貨幣は選択
機能を発揮し得る。 すでに掲げた図では財の種類を限定したので, 例示することはできな
いが, 貨幣という所有権は, 場所としての市場で各種の財と再結合するとき, 選択機能を
発揮して, 消費者をして自分の好みに合う財を選択させる。 貨幣が発揮するこの選択機能
が資源の有効配分を実現するように働くのである。
小田実 (故人) は,
中流の復活
の中で20), デモクラシーは貧乏人の政治で, 富裕層
による政治はプルートクラシーであると記している。 さらに, 2007年の雑誌
世界
に掲
載された遺稿では, デモクラシーはギリシャ語で言えばデモス・クラトスで, デモスは民
衆, クラトスは力, すなわち民衆の力であると書き残している21)。
小田実の言葉を借りて言えば, 市場経済は, 民衆の力で社会的分業を社会的協業として
遂行する経済で, 民衆個々人が貨幣の選択機能を働かせて, 資源配分を実現して行く仕組
みになっている。 そして政治活動では, 民衆個々人が選挙権を持ち, 自分の政治的代表者
を選ぶことができる。 つまり民衆による政治経済を実現できるところまで, 歴史は進んで
きている。 ところが, 民衆自身がそれに気付かず, 富裕層によるプルートクラシー, つま
り金権政治に身を委ねている。 格差の拡大はその結果である。
今度は, 貨幣の真の所有対象に関してである。 貨幣と生産物が再結合する図4を見れば,
貨幣の直接の所有対象は財になる。 しかし, その財は自然がなければ, 生産できないのだ
20) 小田実 中流の復興
21) 小田実 「世直し大観」
生活人新書 NHK 出版協会 2007年 210−11頁。
世界 2007年12月号 235−6 頁。
16
大阪経大論集
第63巻第4号
から, 貨幣の間接的な所有対象は自然になる。 日本人は米を食べるが, 米は田で造られる。
したがって, 1人が1年間に食した米を生み出した田は, その米を食した人の専用の田で
あったわけである。 法的には他者が直接所有する田が, 間接的には, その米の購入者の田
になっている。 「間接的に」 というのは 「本当は」 という意味である。 ただし, 間接的な
所有対象になっているのは田だけではない。 田に水を引き込む水路も, 水路に流れる水を
生み出す山林も, 間接的な所有対象をなす。 そして, さらに米造りをする人の能力もそう
である。 人の能力が貨幣の所有対象になっていることは, 医療・教育・芸術などのサービ
スを見れば分かるであろう。 財の背後に隠れている自然と社会の多様な能力こそ, 貨幣の
本当の所有対象である。 貨幣の本質から, 教育や労働を見て, 考えるべきである。
人間は自然を土台にして, その上に個々人が構成する社会の能力という土台を積み上げ
て, 個人としての生活を成り立たせている。 言い換えれば, 母なる自然に包まれ, 社会の
優れた能力に包まれて, 個人として生きている。 にもかかわらず, 自然と個人の間に社会
が存在するということを, 経済学は無視あるいは軽視している。 それは, 社会を直接見る
ことが難しいからであろうが, 個人が使う言葉は, 社会の言葉であり, 経済学書で使われ
ている文字は, 社会の文字である。 社会を否定するならば, 自ら私的な言葉と文字を造っ
て用いるのが, 利己心に相応しい行為ということになる。
10. 社会的分業の多様化
スミスは分業の効果として, 作業の習熟効果・作業の変更に掛かる時間の節約効果・機
械の発明 (使用) による労働の軽減効果の三つを挙げている22)。 作業の個人的習熟効果は
個人の努力の成果とも言えるが, 組織的習熟効果や作業変更に掛かる時間の節約, そして
機械化に伴う労働の軽減は協力関係の成果である。 それらの成果が社会的分業を遂行する
単位すなわち企業で現れ, 生産性が上昇したとき, その成果は二つの形で現れる。 一つは
当該企業が生産する財の数量増加である。 もう一つは, 社会的必要量を増やす必要がなけ
れば, 企業の従業員数を削減するか, 各自の労働時間を短縮することができる。 各企業の
従業員数を減らす場合は, それら余剰化した人々が協働して新たな欲求の充足手段を生産
することができる条件になる。 下に掲げたのは, その例示である。
A企業=5人でa財20単位生産
4人でa財20単位生産
B企業=5人でb財20単位 〃
4人でb財20単位 〃
C企業=5人でc財20単位 〃
4人でc財20単位 〃
D企業=5人でd財20単位 〃
4人でd財20単位 〃
+ E企業=4人でe財20単位 〃
こうして社会的分業が多様化するほど, より多くの欲求の充足が行われるようになる。
スミスは, 分業は市場の広さによって制限されると言うが, 社会的分業は1国というよう
に限定された空間のなかでも, 生産性の上昇によって発展 (多様化) しうるのである。 1
22) 国富論 1 29頁。
脱エリート経済学
17
国の中で行われる社会的分業が多様化して財・サービスの種類が増加するほど, 働く人々
の給与は実質的に増加して行く。
11. 利益の取得と競争原理
スミスの 「見えない手」 は, スミスには見えない市場経済の仕組みのことで, 前節で明
らかにしたが, その仕組みに乗って私的利益を追求するのである。 私的利益を得る手段は,
土地や資本の私的所有で, これは歴史的経緯による。 土地や資本 * の私的所有とは排他的
*企業の貸借対照表に掲げられる資産であるが, ここでは労働手段と貨幣形式の意味で用いる。
所有であり, 権力に基づく場合も, 節約による自己の貯蓄から購入資金が出る場合も, そ
の所有者はエリートとして振る舞うのである。 そのためにこそ, 非エリートが必要になる。
たとえ広大な農地を所有していても, 所有しているだけでは穀物は実らず, 穀物を栽培す
るためには, 所有からいったん排除した人々に耕作してもらわざるを得ない。 資本の場合
も同じで, 機械が大量生産に役立つとしても, 所有しているだけでは財の大量生産はでき
ないのである。 機械の所有から排除した人々を就業させ, 機械を労働手段として用いて,
財の大量生産をしてもらい, 貨幣形式を用いて賃金の支払いをするのである。 にもかかわ
らず, 所有者と非所有者とでは, 非所有者の方が弱い立場になるから, 前者が上位者, 後
者が下位者になる。 したがって, 土地や資本の所有者は非所有者が遂行する市場経済の上
に乗り, 市場経済から利益あるいは利潤 (地代はその配分額) を吸収して生活するのであ
る。 基本的に, このような二重構造になっている経済が資本主義経済で, この構造を表す
のが価格構造である。
図5
資本主義経済の構造
私 有 経 済
利益
価
市 場 経 済
原価
格
上の構造から分かるとおり, 市場経済を手段にしなければ, 私的利益の追求はできない
のである。 つまり, 社会的分業を遂行する企業を経営して, 価格メカニズムを利用して利
益を実現するわけである。 それゆえ次に, 例示をもって, 企業を単位にして利益を得る方
法を明らかにしよう。
A企業=5人×16時間×¥1=¥80
で
a財40単位生産
@¥2
B企業=5人×16 〃 ×¥1=¥80
で
b財40単位 〃
@¥2
C企業=5人×16 〃 ×¥1=¥80
で
c財40単位 〃
@¥2
D企業=5人×16 〃 ×¥1=¥80
で
d財40単位 〃
@¥2
企業で利益が生まれるようにするには, 企業の従業員は, 余分に働いて生産量を増加し
なければならない。 上の例では, 4企業とも, 1人=8時間ではなく, 1人=16時間働い
て財を40単位生産したことにしている。 利益を生み出す元は, 個人の自己消費分を超える
労働にあるのではなく, マルクスが言うように, 必要労働を超える剰余労働にあるが, 資
18
大阪経大論集
第63巻第4号
本所有者にとって必要労働は犠牲すなわち原価になり, 剰余労働が利益になる。 それゆえ,
利益を増加させるための原価の削減
性が向上すれば
生産性の向上が, 企業の不断の課題になり, 生産
例えば1.6時間で10単位生産できるようになれば, 4人×16 (時間) で
40単位の生産ができるので, 1人削減ということになる。
市場経済では, 財の生産後, 貨幣と財を分離させて, 貨幣を従業員へ分配する。 これが
私有制では, 資本所有者が従業員に賃金を支払って, 財を私的 (排他的) に所有するとい
う形になる。 しかし, 資本主義経済では, 貨幣の授受があれば, 売買が行われたと解釈す
るので, 賃金として貨幣を渡したとき労働者から買ったものは何か, が問題になる。 それ
は労働力か労働サービスか, それとも労働の使用権なのか。 これらの見方は, 市場経済の
方法を踏まえない点で共通している。
次に, 場所としての市場で貨幣と生産物が再結合するとき, 資本所有者は, 私有化した
財の価格を, 原価に利益を加算した金額にして, 働いた人々に売り渡し, 賃金としていっ
たん渡した貨幣=社会的所有権の一部を企業に吸収する。 前掲の従業員の賃金は1人=¥
16 であるから, 1単位 ¥2 であれば, 1人が所有する各財は2単位ずつになる。 ところ
が, 価格が原価 ¥2+利益 ¥2=¥4 になる
価格を水増しする
と, 20人が各財を1単
位ずつ購入したとき, 原価 ¥2 に対応する所有権は行使されて無くなるが, 利益 ¥2 に対
応する所有権は未使用のまま企業に吸収される。 その結果, 各自の手元に残る貨幣はゼロ
になる。 それに対して, 例えばA企業では, 20単位が販売されて無くなるが, 20単位は残
り, 貨幣の方は ¥40 の支出で ¥80 の収入が実現した形になる。 これを資本所有者から見
ると, 40単位を私的に所有するのに犠牲 (支出) にした貨幣は ¥80, 20単位では ¥40 に
なり, その ¥40 が ¥80 の成果を生み出したという認識になる。 すなわち, 売上高 ¥80−
売上原価 ¥40=利益 ¥40 と計算する。 原価に利益を加算して価格設定をした結果, 利益
として得た貨幣=所有権 ¥40 と, それに対応する20単位が, 働く人々の手から企業に吸
収されたわけである。 この方法を等価交換と説明する経済学は, 利益追求者にとっては救
いの神である。
ところで, 企業に残された20単位を資本所有者は, どのようにして取得するのか。 予め
生活のために持っている貨幣形式を使って取得するのである。 仮に, 各企業の資本財所有
者が財を5単位ずつ入手することにすれば (労働者の5倍の生活内容にすれば), ¥80 を使っ
て5単位ずつ購入することになる。 このとき, ¥80 のうち ¥40 は所有権と結合した貨幣
として使用されるが, 残りの ¥40 は単なる貨幣形式のまま企業に流入する。 しかし, そ
の結果, 各企業で合計 ¥80 の利益が生じ, この利益を資本所有者が得れば, 同じことを
再度行うことができるわけである。
資本の所有者が土地を借りて経営しているときは, その利益の中から地代を支払うこと
になる。 仮に4つの企業が使用する土地を1人の地主が貸しているとすれば, 地主は4企
業から地代を受け取る。 その金額を ¥16 とすれば, 合計 ¥64 になり, 4単位ずつ各財の
購入ができる。 他方, 各企業では支払地代 ¥16 が減額されて, 利益は ¥64 になる。 こう
して, 労働者の所得が地代と利益あるいは利潤に分かれて取得されるのである。
脱エリート経済学
19
資本主義経済構造の上位者である土地所有者や資本所有者が, 利益の先取りをする形で
より多くの貨幣形式を支出すれば, 財の生産量が増え, 雇用も増える。 逆に, 支出を減ら
せば, 生産量が減少し雇用が減る。 これがトリクル・ダウン効果である。 政府が財政支出
を増やせば, この効果が減殺されるので, 富裕層から小さい政府論が出てくる。
今度は, 企業が価格設定の手段として用いる原価計算を, 先の例を利用して示し, 市場
経済の仕組みから資本主義経済の現象形式へと上向してみよう。
図6
垂直的分業と原価計算の関係
素材 (材料費)
A企業:a財1単位 ¥4
B企業:b財1単位 ¥4
燃料 (経費)
原価計算
C企業:c財1単位
↓ 完成品販売
¥4
経 費
4
労務費
2
+ 利 益
2
c財の販売価格=¥12
D企業:d財は無形財すなわちサービスとする。
↓ 消費者へ販売
材料費
価格=仕入原価 ¥12+販・管費 ¥2+利益 ¥2=¥16
図6の原価計算に関して, A企業のa財は素材としてC企業で使用され, B企業のb財
は燃料としてC企業で使われると仮定している。 原価計算では素材の使用は材料費として
認識され, 燃料の消費は経費として認識される。 C企業で新たに付加される労働は労務費
として認識される。 それゆえ, c財1単位の原価計算をすれば, 図6の通り ¥10 になる。
C企業は, 完成したc財1単位の原価 ¥10 に ¥2 の利益を加算し, 価格を ¥12 にしてD
企業へ売り渡すことにする。 D企業はC企業からc財を仕入て消費者個々人へ販売する。
このとき, D企業のd財を (図に記した通り) 有形財ではなく無形財, すなわち販売と管
理に要するサービスとして, そのサービス労働が生み出す貨幣を財1単位につき ¥2, そ
れに加算する利益も ¥2 とし, D企業はc財1単位を ¥16 で消費者に売り渡すものとす
る。 こうして40単位を販売したとき, 次の損益計算書が作成される。
図7
D企業の損益計算書
現 金
¥560
+
−
損益計算の例示
売 上 原 価 ¥480
売 上 高
現 金
¥640
販売費・
一般管理費
利
益
¥640
+
−
80
80
¥640
¥640
(注) 売 上 高:¥16×40 (単位)=¥640
売上原価:¥12×40 (単位)=¥480
販・管費: ¥2×40 (単位)= ¥80
D企業の損益計算書に表示されている利益 ¥80 は, 右側の売上高 ¥640 から左側の売
上原価 ¥480 と販売費・一般管理費 ¥80 を控除した残額で, 売上高の一部である。 した
20
大阪経大論集
第63巻第4号
がって, 企業が利益を得るには, 売上高を実現しなければならないが, 売上高は, その財
を消費する個人あるいは企業との間で実現するのであって, 競争企業との間では実現しな
いのである。 そしてまた, 売上高によって流入する現金は, 自企業の活動が協業の一部を
構成したことを表すのである。 この点を認識すれば, 金を目当てに行われる企業活動は,
社会的分業=社会的協業を実現する限り, 神の見えない手に導かれる活動になるが, 私的
利益の追求として行われる場合は, 見えない手に替わって, 競争が神の口から出る言葉に
なる。 スミスは次のようにその言葉を記している。
だれでも, 正義の法を犯さないかぎり, 自分自身のやりかたで自分の利益を追求し, 自
分の勤労と資本を他のどの人またはどの階層の人びとの勤労および資本と競争させよう
と, 完全に自由にゆだねられる23)。
スミスの自由競争の原理は, 分業論から生まれるのではなく, 土地や資本の私的所有す
なわち排他的所有から生まれる。 この点を図7を利用して説明しよう。
仮に, 市場経済の規模を2倍にして, A・B・C・D企業に加えて, A’・B’・C’・D’
企業があり, A企業とA’ 企業はa財を造るというように, 同じ財を生産・販売する企業
が2企業ずつあるとしよう。 そして, 私的利益を追求することにすれば, AとA’ 企業は
互いに競争する同業者になる。 他の企業も同様である。 先に掲げたD企業の損益計算書が
教えてくれるように, 販売量が増え, 売上高が増加すれば, 利益が増え, 逆に販売量が減
れば, 売上高が, したがって利益が減少する。 それゆえ, 利益追求のために行われる競争
は, 基本的に, 同業者間で展開される消費者あるいは顧客の争奪戦である。 その争奪戦は
国内を越えて他国へと拡がる。 国際的分業は国際的協業の実現でなければならないのに,
国際的協業を国際競争にすり替えて, 利益の追求に血道をあげる。
競争のプレッシャーを受けるのは従業員であるが, それにお構いなく, 競争が経済活動
を効率化させる唯一の手段であるかのように, 学者やメディアは自分の競争能力を棚上げ
して, 熱心に競争論を唱える。 しかし, それはピン造りの分業の例示に反する言説である。
協働するから大規模な生産設備もでき, その改善も行われるのであり, 原材料も含めて新
製品が生産できるのである。 競争を唱える経済学者が自分の担当科目を看板に掲げて個人
企業を立ち上げ競争すれば, 教育の効率化が進み, 現在の所得を上回る所得が得られるだ
ろうか。 実験経済学としてそれを行えば, 惨憺たる結果になるだろう。 教育研究という社
会的分業を遂行する協働組織で働けばこそ, その力によって得られる所得である。
現在の社会は法的には身分制社会ではないけれども, 企業単位で見ると, 規模が大きく
なるほど管理組織が組み込まれて, ピラミッド型の身分制組織になっている。 このピラミッ
ド型組織に対応して, 逆ピラミッド型の所得分配が行われる。 競争はこのような組織構造
を維持する方法であるから, 組織の上層の地位を排他的に得たエリートは, 競争主義者に
なる。 スミス自身, 知的エリートである。 それゆえ, 初期未開の社会では, 労働の全生産
物は労働者に属していたが, 土地が私有化され, 特定の人々の手に資本が蓄積されると,
23) 国富論 3 339頁。
脱エリート経済学
21
財の価格 (交換価値) は賃金・地代・利潤 (利益) に分かれると説いて24), 土地所有者や
資本所有者というエリートに同感した理論構成をしている。 図5の二重構造を真上から俯
瞰すれば, 目に映るのは私有経済であり, そこでは, 封建経済を突き破って発展してくる
経済の特徴, すなわち, 分業による諸財の生産, 貨幣を媒介にした財の交換 (貿易), 交
換を手段にした私的な利益追求の自由競争が現れていて, 私有経済の下に位置する市場経
済の実相は見えないのである。
12. 南海トラフ地震と経済学
アメリカの高校生が学ぶ
経済学
という訳書を開くと, スミスの
国富論
(引用
文では 「諸国民の富」 と訳されている) について, 次の記述がある。
アダム・スミスが1776年に 「諸国民の富」 を出版した頃, 工場は平均的には小規模で,
市場は競争的だった。 政府は商業取引や貿易に介入すべきでないという哲学, レッセフェー
ル (Laissez-faire) がスミスの著書を特徴づけている。 「レッセフェール」 とは 「自由
にさせる」 という意味のフランス語だ。 レッセフェールの下では, 政府の役割は私有財
産保護, 契約履行, 紛争解決, 外国商品に対する国内企業保護に制限される25)。
このように教育されて, 政府による規制緩和が競争のために当然のこととして人々に受
け入れられるほど, その教育効果は, 社会の状態を次のように変質させる。
米英両国で, 1980年代初めから30年間で最富裕層が所得を爆発的に増やしていること
が分かった。 特に米国で今や上位10%が国民総所得の50%を得ている。 30年前は30%台
だった。 上位1%は今, 国民総所得の17%ほどを得ている。 この1%は30年の間, 経済
成長で増えた分の60∼70%を手にした。 不公平の度合いは極めてゆゆしい26)。
これは, 米英だけのことではない。 グローバル・スタンダード, つまり 「みなさんそう
なさってます」 と言われて, 日本もその後追いに懸命である。 すなわち, 1990年以降, エ
リート層がバブルの崩壊を利用して, 市場経済をデフォルメし, 非正規労働者を増大させ
て行く中で, 日本のスミス経済学のプロセス・イノベーションが生じているのである。
日本経済新聞の 「やさしい経済学」 欄, その西村和雄稿 「危機・先人に学ぶ
アダム・
スミス」 では, 次のように書かれている。
・個々の主体が自分のために行動するなら, 競争が生じる。 競争には競争の場を成立さ
せるルールがあるが, 放任はルールを伴わない。 自由競争は自由放任とは異なるので
ある。
・例えば野球を考えてみよう。 ルールがなければゲームが成り立たない。 ・・・ルール
が細かく厳しすぎると, 参加者のやる気をそぎ, 見ていても面白さが半減する。 ・・・
最小限のルールで, 自由に競争するから面白いのだ。 これを経済の言葉でいえば, 自
24) 国富論 192−95頁。
25) ゲーリーE. クレイトン著 大和総研教育事業部監訳 大和証券商品企画部訳
学ぶ 経済学 WAVE 出版 2008年 108頁。
26) 「編集員が迫る トマ・ピケティ氏」 読売新聞 2012年5月12日。
アメリカの高校生が
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大阪経大論集
第63巻第4号
由な競争で総生産量が上がり, 社会の利益にもつながることになる27)。
また, 堂目卓生著
アダム・スミス
を読めば, 次のことが記されている。
・スミスにとって,市場は富を媒介にして見知らぬ者どうしが世話を交換する場であった。
・同感という能力を用いて, 見知らぬ者どうしが富 (=世話) を交換する社会, これが
市場社会なのである。
・経済成長とは富が増大することだけでなく, 富んだ人と貧しい人の間につながりがで
きることを意味する。
・貧しい人は, 賃金という形で富を手に入れ, 平静な生活を送ることができる。 経済成
長の真の目的は, ここにある28)。
これらをスミス理論のプロセス・イノベーションと言うのは, 彼の
道徳感情論
の内
容を理論的に組み込んでも, 競争と交換という基本が変わっていないからである。 競争す
ればするほど人々は社会性を失って行き, そういう個々人が辛うじて社会性を維持するた
めに行うのが交換である。 だが, 交換は人々が一点で接する, あるいは需要曲線と供給曲
線が一点で交わる経済に過ぎないのである。 このようなスミス経済学で, 2012年8月29日
に公表された南海トラフ地震, 例えば死者32万3千人という被害を想定して, 事前と事後
の対策ができるだろうか。
スミスに従えば, 労働の全生産物が労働者の所有になるのは, 初期未開の社会である。
ところが, 資本主義経済の土台をなす市場経済は, 未開社会の経済ではないにもかかわら
ず, 労働による全生産物の所有を実現させる。 南海トラフ地震で被害を受けるであろう住
宅・資本財 (建物や機械など)・公共財 (公共建造物や道路など) の生産に関して, それら
を分業方式で生産する市場経済のモデルを提示すれば, 次の通りである。
下のモデルは, 100人が社会的分業を協業として行う場合を表している。 このように市
場経済では, 過去も現在も将来も, 人々の生活に直接・間接必要な物が, 個人単独の力で
はなく, 社会の力で生産され, そして貨幣所得の内訳が表しているように, 分業の従事者
がその成果を分かち合うのである。 市場経済は, 無言の競争 competetion ではなく, communicate すなわち分かち合う経済なのである。 したがって, 南海トラフ地震に備える場
合も, 被災後も, 自己責任・自助努力で行うのではなく, コミュニケーションを図って,
消費財:30人×270日×¥1=¥8,100
住
生産量100 (セット)
宅:30人×270日×¥1=¥8,100
〃
X (戸)
資本財:20人×270日×¥1=¥5,400
〃
Y (台)
公共財:20人×270日×¥1=¥5,400
〃
Z (km2)
個人の年間貨幣所得=270 (日)×¥1=¥270
@¥81
内訳:消費財 ¥81
住
宅
81
資本財
54
公共財
54
27) 西村和雄 「危機・先人に学ぶ アダム・スミス」 2 日本経済新聞 2012年7月17日。
28) 堂目卓生 アダム・スミス 中公新書 2008年 272−3 頁。
脱エリート経済学
23
社会の力で安全対策を講じ, 復興事業を推進して行くことができるのである。 下山する,
あるいは梯子を降りるということは, 資本主義経済の下に存在する経済, すなわち市場経
済の実相に認識の目を向けるということで, 再び登るとは, 資本主義経済よりも高い山と
しての市場経済
人々が安心して働き暮らせる経済社会を創造することである。 その山
を目指し登るために, 言い換えれば, 上のモデルを根源かつ真なるものと措定した上で,
社会的分業を遂行する企業のキャッシュフローを実現させる, もう一つの方法を述べるこ
とにする。
モデルの下に掲げた個人の貨幣所得は平等な分配にしている。 そうすれば, 個々人に共
通する大切なことが分かりやすくなる。
市場経済で働く人々は, 社会的分業で生産されている各種の財に対する所有権を持つ。
所得の中に消費財に対する所有分が含まれているのは, 常識であるが, 住宅に対する所有
分も当然含まれており, この所有分が住宅ローンの原資をなすことは, 未だ常識になって
はいないであろう。 経済学の交換論では, 賃金で購入するはずもない資本財や公共財に対
する所有分もまた, 働く人々の所得の中に含まれて貯蓄をなすのである。 問題は, 所得の
中に含まれているこれらの所有分に相当する貨幣の使い方である。
企業活動と市民生活に必要な資本財・公共財のすべてを1年間に生産できれば, 貨幣形
式を企業に戻して循環させる問題は生じないが, 毎年それらの生産活動を継続する場合は,
いったん得た貨幣の形式を, それらの生産企業に戻す必要がある。 問題は, そのときに何
と引き換えに戻すのか, である。 現在使われているのは, 企業の場合は株式や社債で, 国
家の場合は (税金として得るのでなければ) 国債である。 しかし, この方法では, 資本財・
公共財と, 労働者個人との間に成立している所有関係が見えなくなって, 例えば貸借関係
に変質する。 公共財に関して言えば, 国債を使って繰り返し資金調達をすると, 国家に債
務が積み上がる。 国民が分業方式で公共財を生産すれば, どうして国家の負債が増えるの
か, と考えれば, 国債を使う方法がおかしいということが分かるはずである。 市場経済に
合うその方法は, 所有証券と引き換えに貨幣形式を循環させる
キャッシュフローの実
現方法である。 そうすれば, 国家債務が累増する形にはならない。 所有証券を使えば, そ
れを売って現金化することはできなくなるが, 働く人々が資本財・公共財の所有者である
ことを証明する形が実現し, 所有対象の内容と質および全体に考えを向けることができ,
た
足るを知る人間へ成長する条件を所有することにもなる。
例示した市場経済のモデルでは, 社会的分業に従事する人々は100人であったが, その
人数を6,000万人, さらに7,000万人にすれば, 日本の現実になるだろう。 そのときの1個
人は正に小さな存在者に過ぎないけれども, その個人が, 例えば6,000万人が働く市場経
済の全体を自己の精神の中に含み込んで, 20頁で引用したスミスの精神よりも, 大きくな
る。 大きくならなければ, 6,000万人が造る生産能力を使って, 全国規模で善い生活環境
を作り上げて行くことはできない。 大河の一滴に過ぎない個人の身体が, その大河だけで
なく地球さえも精神の中に取り込むことができるところに, 人間の偉大さがある。 南海ト
ラフ地震の場合も, この偉大な人間的精神をもってしか, 対処できないのである。
24
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13. 結びにかえて
アダム・スミスの
国富論
に関する研究書・論文は膨大であろう。 したがって, 門外
漢の私が, それらの研究書・論文をサーベイすることは不可能である。 たとえ, その専門
の研究者であったとしても, それらを読んでいるだけで, 日暮れて道遠しの状態で終わる
のが必定。 したがって, プロダクト・イノベーションを志す場合は, 異なる方法を工夫す
る必要がある。
スミスは経済学者として出発したのではなく, 素人として経済の学的考察を始めたので
ある。 それゆえ, 原理が曖昧なのである。 にもかかわらず,
国富論
の研究から経済学
のパラダイム・シフトは未だ生じてはいない。 それは若くして研究活動を始めると, 吸収
力の良さに助けられて, 先人の知識を身に付け, いつしか無知を脱却し立派な知識人にな
るからである。 知識人になることは大切なことであるが, その知的状態の中に自己欺瞞も
また同居しており, 別居することは不和に成らない限り生じないのである。 つまり, 書物
を通して知識を得るほど, 過去の知識の奴隷になり, 子供の目を失うことが多くなる。
その失った子供の目を取り戻すのは至難であるが, 老化は知識を自然に消し去る働きと,
身を子供さらに赤子へと連れ戻して行くだけでなく, その途中で子供の目を再生する働き
も, また, するようである。 子供の目が人生の経験を媒介にしたときに, 何を見出すかは,
人それぞれであろうが, 高齢期は貴重な人生の一時であるに違いない。 それゆえ, そのと
きを大切に過ごすことができる生活条件を持つべきである。 人はまた 黄昏迫る そのとき
に かのミネルバァの 梟になる, こういう可能性も宿っているからである。
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