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真也のカンボジア便り ~その5~ ~ハッピーイースター&ハッピーニュー
真也のカンボジア便り ~その5~ ~ハッピーイースター&ハッピーニューイヤー!!~ 「正月はもうとっくに終わったのに、何をうかれているんだ?」と、皆さん思われるかもしれませんが、カン ボジアは4月14日から新年が始まるのです。今回は、盆(キリスト教の復活祭ですが)と正月がいっぺんに やって来たこの喜び時期に体験したことを皆さんと分かち合いたいと思います。 ~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~ ☆ クメール(カンボジア)正月 カンボジアのお正月はタイのお正月と一緒の時期で、毎年その時期が変わります。どうやってそのお正月が 始まるかというと、新しい年のテヴァダー(天使)が天から降りてきて、前の年のテヴァダーと入れ替わるの です。今年は14日の午前6時48分にテヴァダーが降りてきて新年が始まりました。テレビでは役者によっ てその様子が演じられ、自分もその番組を見たのですが、雪も降らず、漫才番組もやっていないカンボジアで は、まだお正月だと実感するには至りませんでした。 そんな時、JLMMのスタディツアーでお世話になっているカンボジア人ドライバーのヴッダーさんに、お 寺に連れて行ってもらえることになりました。 仏教徒(上座部仏教)が9割以上を占めるカンボジアでは、お正月には毎日のようにみんなお寺に足を運 びます。そこでは一体何が行われているのでしょうか? お寺に着くと、まず各自が用意してきたお供え物を仏様やお坊さんに寄進します。店で買える食料品もあり ますが、その他にも手作りの様々な料理(種類は大体決まっているようです)を皆が持ち寄ります。そのお礼 として、ありがたいお坊さんの念仏を聞いたり、祝福の水をかけてもらったりしました。 その後、お寺のあちこちに用意された場所を回り、お線香やお米、お金をお供えします。勝手の分からない自 分は、ヴッダさんに教えてもらいながら、見よう見まねでお供えして回ります。一通り全て回り、お寺の歴史や 仏教にまつわるお話を聞きました。 お寺にはそれぞれの檀家があって、先祖の納骨堂がある、自分のお寺に檀家の人は通います。お寺にはたく さんの人が集まり、親戚中がそこで顔を合わせ、おしゃべりしている様子です。お寺が、村や親戚の交わりの場 になっていました。古くからある田舎のお寺で、全然派手じゃなくて、お坊さんも少なくて(ついでにすごく 貧しいお寺なのだそうです…)、でも、そこに集まっている人達はみんな笑顔で優しそうでした。自分はこの 垢抜けていないお寺がとっても好きになりました。日常から切り離された神聖な空間ではなく、日常生活の延 長線上にあるこのお寺は、とっても魅力たっぷりでした。 自分ひとりでは来ることの出来ないこういった場所で、暖かいお寺の雰囲気に触れられて本当に良かった です。キリスト教徒の自分でしたが、これでもかと仏様にいろんなお願いをして、カンボジア正月を体験出来 たという満足感と共に帰ってきたのでした。 1 新旧テヴァダーの引継ぎの様子。二人とも美人です。 どことなく仏さまと同じ顔ではありませんか? ☆ イースターを迎えて 仏教国のカンボジアにも、カトリック教会の共同体はあります。地元の教会はカンボジア人よりもベトナム 人の方が圧倒的に多いのが現状です。また、外国人の共同体もたくさんあります。そんな中で日本人クリスチ ャンの自分は、イースター前の聖週間と呼ばれる一週間を、カンボジアとベトナムの共同体で過ごすことが出 来ました。教会の青年達と寝ずの晩をしてのご聖体礼拝(キリストの体であるパンを安置した聖櫃の前で祈 ることです)をしたことや、みなと一緒に夜中にロザリオを唱えたことなどは、カンボジアに生きる人の信仰 に触れられるとても良い経験でした。 そんな行事に参加して満足していた自分でしたが、いま一つ自分の気持ちはしっかりしておらず、刺激が多 いけど消化しきれていない感じでした。そんな中、金曜日のミサの最中に、ジワジワと自分の中にたまってい た罪の意識のようなものが感じられて、苦しくなってきました。自分で気づかないフリをしてきた、たくさん の罪が自分の前に置かれました。 自分の甘えや弱さ、優しさのなさや配慮の足りなさ、怠け癖や嫉妬心などなどが頭に浮かんできました。特 にカンボジアに来てからの自分の思い、言葉、行いを振り返ると、どうしても悪いことばかりが思い浮かんで くるのです。 「こんな自分で本当にいいのだろうか?」。そう思った瞬間、涙と鼻水が溢れて来てしまいました。自分が泣 き虫であることは承知しているのですが、急で思いがけないことだったのであせりました。恥ずかしくなった のですぐに外にでてしまいました。 その後家にバイクで帰る間も、自己嫌悪に陥りながら、泣きながら運転していました。 「自分はカンボジアに 来て何してるんだろう。怠けてばっかりだなあ。」そんなことを思っていました。怠け癖は日本に居たときとさ ほど変わっていないのですが…。カンボジアに来て、何か自分が劇的に変われると思っていたから、何にも変 わってない自分が情けなく思えたのかもしれません。 カンボジアでの生活をエンジョイして、順調に毎日を過ごし、満たされていると思っていただけに、自分が こんな風に感じたことがショックでした。そんな風に苦しんでいた自分に、ある聖書の箇所が与えられました。 土曜の夜、復活祭の前夜、コンポンルアン教会で皆と一緒にお祈りしていた時です。 2 律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、 恵みはなおいっそう満ち溢れました。 ・・・わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。 それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、 わたしたちも新しい命に生きるためなのです。 ・・・罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、 恵みの下にいるのです。 (ローマの信徒への手紙5章20節~6章14節) この御聖体の前で、午後9時から朝6時まで祈りました。 ベトナムのロザリオの祈りは抑揚があり歌のようでした。 この聖書の箇所を読んで、ホッとしました。 「ああ、今のままでいいんだ」という感覚。つまらない過ちを犯し 続けるちっぽけな自分でさえもなお、ゆるし、愛し続けてくれる神様がいます。そして、そのことを何度忘れて 同じことをしようと(こうやって今書いていることも、きっとすぐに忘れてしまう自分です)、ずっと救いの 手は差し伸べられています。コンポンルアンの夜に、そう気づき、救われました。過ちや罪に打ち勝ち、新しい 命をまた歩み出すチャンスがいくらでもあることって、なんと素晴らしいことでしょう! カンボジアに来たからといっても、新しい自分に生まれ変わるわけではありません。日本で出来ないことは、 カンボジアでも出来ません。カンボジアでの毎日は、何も出来なくて歯がゆい思いの連続なのです。 「毎日楽しいなあ」なんて思って生活していましたが、実際はいろんな所で悔しい思いや寂しい思いをしてき ました。負けず嫌いなので、それを認めるのが嫌でした。 自分を見失って、泣いて、苦しんだ今回の体験は、神様が新しい気づき、恵みを与えてくれた体験でもありま した。 「だめだ、だめだ。こんなんじゃだめだ!」そんな風に思って苦しんでる中だからこそ与えられる大きな 恵みがあるとは、なんとも面白いではありませんか。神様のやり方はなかなかに憎いものです。神様が意地悪 そうに見えても、実はそれは山あり谷ありの人生のドラマを演出して盛り上げているのかも知れないなと思 ったのでした。みなさんが主役の人生ドラマも、監督・脚本・演出はきっと神様ですね! 3 ~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~ 自分の語学研修期間もあと1ヶ月となりました。相変わらず、自分の周りは宇宙人だらけで、何を話してい るかさっぱり分かりません。宇宙人に囲まれた中で、 「共に生きる」ことを、よ~く考えていきたいなと思いま す。面と向き合えば同じ人間!そう思える日はそんなに遠くないという手ごたえも感じている、今日この頃で す。 それでは、みなさんどうぞお元気で! (発行 2006年 4月25日) 4