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NO2 ケニアNo2

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NO2 ケニアNo2
ニエリのホテル
両側に紅茶畑が続く細い凸凹道をしばらく登り、夕方薄暗くなってからようやくホテルにたどり着い
た。羽田を出てからもう 30 時間も移動していて、ゆっくりとした休息をとっていない。さすがに疲れ
ていたので夕食を摂り早々にシャワーを浴びて就寝した。ケニアで過ごす最初の夜は明日からの行動の
準備として、休息することに専念する。もっともホテルの周囲には何も無く、真っ暗闇で星も出ていな
かったので、出かけるわけにもいかない。
(写真 9 左)途中で見かけた露店。道路際に並んだ店。飲み
物やスナック菓子、それに果物や野菜類が棚に並べてある。
(写真 10 右)ニエリ村の風景。紅茶畑が見える。
樹や緑が多く。木々の緑も豊富で日本の里山と変わら
ない。
宿泊したホテルは「OUTSUPAN HOTEL」である。日本人のツアーで泊まるのは近くのアバーデ
ア国立公園内にあるロッジが普通である。建物の前にある水飲み場に野生動物が水を飲みに来るのが居
ながらにして見られるということで人気である。
我々が泊まったこのホテルは国立公園から離れていて、紅茶畑が連なる農村地帯にある。日本のガイ
ドブックにも載っていないから、日本人で泊まったのは我々くらいのものかもしれない。人里近くなの
で、野生動物を近くで見ることはないだろう。少し残念に思っていたが、あとで話すが思わぬ出会いが
あった。
翌朝、明るくなってから見ると、中々良いホテルである。木造 2 階建ての英国風な邸宅である。敷地
も広く建物も大きい。宿泊客は我々一行だけのようだが部屋数も充分ありそうだ。柱はチョコレート色
の塗装がされていて、壁は白の漆喰である。建物の内部もよけいな装飾はない。英国の代表的なチュー
ダー様式で質素な作りであるが重厚感はある。
(写真 11)庭から見た客室。
(写真 12)一階オープンテラスの食堂、二階は客室。
1階の食堂は庭に張り出したテラスにつながっていて、屋外で食事やお茶が飲めるようになっている。
テラスの先は広い芝生の庭になっていて、その向こうに大きな樹が立ち並んで境界を示していた。
いかにも英国式のガーデンといった景観になっていた。おそらくは英国の植民地の時代に、ここは紅
茶プランテーションを管理していた英国人の邸宅として使用されていたのだろう。
通常の観光ホテルに比べて不便さはあるが、ケニアの歴史の一端をうかがえるので興味深い。
(写真 13 左)庭の花と小鳥。
(写真 14 右)孔雀が放し飼いされている。
とてもアフリカに居るとは思えない。高地で気候も良く、英国の田園にでもいる感じがする。
ところがここで思ってもみなかった出会いがあったのである。翌日の出発前にガイドのダンカンが私
に「このホテルに、ボーイスカウトの記念館が有りますよ」と言ったのだ。
英国植民地のケニアにボーイスカウト運動があってもおかしくない。ただ、その記念館が首都のナイ
ロビにあるのはある程度判るのだが、こんな田舎の観光客も少ないここにあるのを不思議に思った。
「ボーイスカウトのどんな記念なんですか?」とダンカンに聞いてみた。
すると、ダンカンは知らないんですかというような顔をして、
「ボーイスカウトの創始者の記念館です。
あの人はここで亡くなったのです」と答えた。
ケニアとボーイスカウトの関連も創始者がケニアで亡くなっていたことも私は知らない。半信半疑の
気持ちで出発前の僅かな時間をさいて見学に行った。明確な案内板もない。フロントに場所を聞いてそ
こに行くと、1階の一角にそれはあった。
普段宿泊客が利用する場所ではないので、薄暗い照明しかついていない。廊下に大きなショーケース
があって、そこに、英国人らしい夫妻の写真と愛用していたボーイスカウトの服装と道具類が展示され
ているだけの簡単なものだった。そこには確かに、ボーイスカウトを創始したロバート・パウエル卿の
遺品と書かれている。
帰国後、百科事典で調べて見ると、「ボーイスカウト運動を創始した英国人のロバート・パウエル卿
が 1938 年にケニアのニエリにあるコッテージを購入し、そこをバックトウと名付けて転居した。
1941 年 1 月 8 日ケニアで永眠。ケニア山の麓ニエリに葬られた」と履歴の一部に記載されている。こ
れによっても、パウエル卿が晩年ここで生活し、2 年あまりで亡くなったというのは確かな事実である
ようだ。
ホテルの玄関脇に小さな案内板があるだけで広く紹介されていないので、あまり訪れる人もいないの
だろう。偶然であったが、自分も中学からは体操の練習で遠のいてしまったが、小学校の時にはボーイ
スカウトに入団していた。ここでボーイスカウトに触れることが出来たのはダンカンが教えてくれたお
陰であり、彼には感謝しなければならない。まったく目立たない所にあるので、彼に言われなければ恐
らく知らずに通り過ぎて居ただろう。或いは彼も少年時代スカウトの一員だったのかもしれない。そん
な雰囲気を持っている男だ。偶然のことであるが、パウエル卿の旧宅に宿泊し、記念の品々を見ること
ができたのは幸いであった。
グリーンベルト運動の村
昨夜はぐっすり就寝しているので疲れは取れていた。午前中はマータイ女史のグリーンベルト運動の
成果を見学する予定になっている。それに先立って近くに有るというので、まずマータイ女史の生家を
見学する。
ダンカンが何でこんなところに日本人がわざわざ尋ねてくるのか不思議だと聞いてくる。理由を述べ
ても納得した様子はない。普段車が通ることは殆どないのだろう。紅茶畑の続く農道を登っていく。途
中で子供を背負って、頭には荷物を載せた農婦とすれ違う。この付近に住んでいる人達はキクユ族だと
いう。小柄で丸い顔と丸い目をしていて、人の良さそうな感じがする。肌の色は黒褐色で皆恰幅がいい。
マータイ女史の生家は紅茶畑の一角の林の中にあった。土壁の平屋が二棟建っている。大きな家では
ない。一つが母屋でもう一つが倉庫に使っているのだろう。母屋にはまだ年老いた母親が住んでいると
いうことで家の中を見学は出来なかったが、周囲にある同じ様な家の一軒からマータイさんの親戚にあ
たり、彼女の運動の支持者であるという中年の婦人が出てきて応対してくれた。
(写真 15 上)マータイ女史の生家。生憎の雨で庭は泥んこだ。
右が母屋、左にあるのは作業小屋と思われる。手前の木は彼女が植えた
最初の植林。母屋の壁(写真 16 右)は土壁で屋根はトタンで煙抜きが
ある。
(写真 17 左)マータイ女史の生家の裏に在った羊小屋。
紅茶畑に家畜小屋。これがここの原風景になっている。
昔はこの辺は樹が少なかったが、生家の前の林は
彼女が初めて植えた樹であるということだ。すでに
10mを超えて 20m近くにまでになっている。
人間社会にとって緑の重要性が大きく唱えられて
いる昨今では、ただ口で必要性を唱えることは簡単
な話であり誰でもやれるが、それを自ら実践し、継
続して大きな運動にしていくことはなかなか出来ることではな
い。マータイさんの原点を見ることで、あらためて彼女の人柄
の大きさを知る思いがした。
ここを訪れてきた人には必ず植樹をしてもらっていると樹の
苗を渡されたので、我々も記念にマータイ女史の家の庭に 2 本
の植樹をした。
(写真 18 右)案内してくれたマータイ女史の縁者。
村の小学校
また近くに彼女の卒業した小学校があるというので、まったく
予定には無かったが見学させてもらうことにした。どこの国へ
行っても、子供と接するのは楽しいし、子供達を見ると、そこ
の生活環境が良くわかる。マータイさん家から車で数分の所に、
その学校があった。歩いても林を抜けてすぐの場所だが、突然
雨が降って来たので車に乗って回り道をいく。
この村の人口がどのくらいか聞かなかったので判らないが、思ったより学校は大きい。煉瓦積みで壁
に土を塗った、5 教室くらいに区切られた平屋建ての校舎が 2 棟並んでいて他に教員室もある。
敷地は広い。校門から校舎までも余裕があるし、校舎の脇には芝生の運動場があり、サッカー用のポー
ルが立っている。一面は充分余裕をもって取れる広さで、その先はまた紅茶畑になっていて農婦が茶摘
みをしている姿が見える。
(写真 19 右)小学校の正面。奥に教室が続く。
(写真 20 上)運動場。手前にトイレが並んでいる。トイレは全て屋外にしかない。
(写真 21 右)教室。薄暗く、前の壁に小さな黒板
があるだけの粗末なものだ。
教室は薄暗い、粗末な机と椅子が並んでい
て、前に黒板があるだけの簡素なものである。
手を洗う場所は校舎に付随してあるが、トイ
レは校舎から離れた外にある。
敷地の中と運動場に行く手前に 10 個くらい
離れ離れに点在している。
大きさは四方が 1mより少し広いくらいの箱型である。よく日本でお祭り等の行事で仮設する簡易トイ
レくらいの大きさであるが、作りはもちろんプラスチックなんかではない。4 本の木の柱に板を打ち付
けただけで、きちんと製材された板でないから隙間だらけである。
興味があったので中に入って見る。扉を開けて中に入ると大人には狭い。内鍵も木製の閂であったが、
がたがきていてよく閉まらない。こんな掘っ立て小屋みたいなトイレだが恐ろしく清潔なのに驚いた。
中は木が二本渡してあって、そこにまたがって用をたすことになるのだが、その下に肥い溜めがあるわ
けではない。2cm くらいの木片が一面に敷き詰められているだけなのだ。
用をたしたあともないし、アンモニア臭もまったくない。汚れ物もちり紙さえもない。全てを調べた
わけではないが、数箇所見ても皆同じであった。
この木片はあるいは脱臭効果があるものかもしれない。用をたしたあとはその木片をかぶせておく。
乾燥地帯で風通しも良いからすぐに乾燥して臭いがなくなる。用をたした後は手洗い場から持参した水
で洗うから、ちり紙を使うことがない。
こういう場所に住んでいる人達は我々の知らない生活の知恵をもっているし、厳しく躾られている。
一定期間が経てば集められて、木片と共に肥料になるか、微生物で分解されて土になるのだろう。その
清潔さに驚くと同時にエコの実践を見た気持ちになった。もちろん、職員用のトイレも同じである。教
員室に近いだけで差はない。
先ほどのマータイ女史の親戚の婦人が校長先生と話をつけてくれて、授業を中断して見学させてくれ
ることになった。100 人くらいの子供たちが我々のまわりに集まってくる。集まるといっても、すぐ近
くにはなかなか来ない。数メートル先にいて、ニコニコして、友達同士で話しては笑いあっている。こ
ちらの方が観察されているのだ。
(写真 22、23)教室から出てきた子供たち。高学年の小学生だろう。
この辺りは観光地ではないし、おそらく外国人を見かけることもないだろう。日本人を見るのは初めて
かもしれない。躾が行き届いているから、観光地の子供と違って、何か欲しいと手を差し出す子は 1 人
もいない。好奇心に満ちた目でこちらを見て、ニコニコしているだけだ。
こちらが見ていても目をそらすことはない。ついこちらも微笑んで「ジャンボ」と挨拶して近寄ると、
可愛い声で「ジャンボ」と答えると初めて、ワーッと取り囲んで来て手を差し出してくる。握手をしよ
うというのだ。我々はそれぞれ全員と握手をし、肩を組んでの記念写真を撮る。デジカメの液晶で写っ
た自分達の姿を見るとキャッキャッともう大騒ぎである。我々の手を引いて教室を案内してくれる子も
いるし、低学年の小さな子は手を握って離そうともしない。皆明るく純真な心をした良い子供達である。
(写真 24)笑顔の子供たち。
帰り際に急の訪問に時間をさいてくれた校長先生に
お礼を述べ、こういう事もあるかもしれないと、予め皆
が日本から持参してきた文房具をおみやげに手渡した。
我々が校門を出て、それぞれの車に乗り込んで出発する
まで子供達が全員手を振っていた。
学校を出てすぐの所に、マータイさんがグリーンベル
ト運動を開始して最初に仲間たちと植樹した場所があ
る。少し広い農道の脇に 20mを超える並木が道沿いに
長く連なっていた。車の移動中に見たので、樹種は判らなかったが並木は皆同種で枝張りが良くユーカ
リ系かもしれない。これが彼女の最初の成果の場所である。
このニエリの村(或いは町かもしれない)の全てを見て廻ったわけではないので、正確なことは言え
ないが、森の緑と茶畑、中には羊等の家畜を飼っているところもある。日本の農村風景と似ているこの
辺りはケニアでは豊かな部類の地方なのかもしれない。身体の特徴が似ているので、聞いてはいないが
ガイドのダンカンも或いはキクユ族の人かもしれない。彼の話はキクユに好意的である。キクユ族は特
産輸出品の紅茶を生産しているので、収入もあるし、食料も穀類(トウモロコシ)、野菜類に家畜の羊
肉と豊富である。それに教育程度も皆高い。それに比べてマサイ族は牛を飼うだけで食料も牛から出来
るものしか食べていない。絶えず牧草を求めて移動して定住していないから教育程度も低く、トラブル
メーカーだと評価は厳しい。
ケニアには 40 をこす部族がいる。その中でキクユ族は最大勢力であるが、それでも全人口(約 3,430
万人)の 20%を占めるに過ぎない。しかし首都のナイロビも古くからのキクユ族の勢力範囲であり、
政治、経済をにぎっている。それに対して反キクユ体制が包囲網を作り、現在のケニアの政治情勢は混
乱している。ナイロビでは政治デモと暴力沙汰が続き治安がよくないので、我々も外出をひかえるよう
に日本を出発する前から注意されている。
∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼
(写真 25)小学校裏の紅茶畑と茶摘。
(写真 26 右)マータイ女史の庭に有った通称ブラシフラワー。
コップを洗うブラシに形状が似ている。
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