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2012 年 東洋英和女学院 全学院新年度礼拝

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2012 年 東洋英和女学院 全学院新年度礼拝
2012 年
東洋英和女学院
聖書 ルカによる福音書
全学院新年度礼拝
第11章5-13節
説教 「求めよ、探せ、門をたたけ」
東洋英和女学院理事・評議員
日本基督教団
鳥居坂教会牧師
張田
眞
「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探
しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」
(9節)とあります。古い文語訳聖書では、最初の言葉が、「求めよ、さらば
与えられん。」と翻訳されており、この訳が広く知られています。おそらく、
キリスト者でない人でも、多くの人が知っておられるのではないかと思います。
しかし、他の聖書の言葉と同様に、知られているほどには、正しく、理解さ
れていない言葉でもあります。今日は、この主のお言葉をご一緒に心に留めて、
神様を賛美したいと思います。また、キリスト教学校における教育の眼目とい
うことにも思いをはせることができればと、思っています。
「求めよ、探せ、門をたたけ」これは、言うまでもなく命令する言葉、促し、
呼び出し、誘う言葉です。聖書の研究者は、この求めよという命令が、現在形、
で書かれていることに注目するように、と申します。新約聖書はコイネー・ギ
リシャ語で書かれています。この聖書のギリシャ語には、二種類の命令形があ
ります。一つは、ある特定の時に、その時になすべきことを指示する命令形で
す。不定過去という時制が用いられます。これは過去形なのですが、独特なニ
ュアンスを含んでおりまして、尐しややっこしいところがあるのです。
例えば、小さな子どもが戸を開けっ放しにしてしまう。母親が注意して「今
開けた戸をちゃんと閉めなさい」と言う場合はこの不定過去で言い表すのです。
こういう言い回しは、教育現場でもよく用いられるのではないかと思います。
「ちょっと静かにしてね」「礼拝が始まるから静かに、急いで、講堂に行きま
しょう」というようにです。あまり、この命令形が多くなると、困ったことに
なりますね。
ある特定の時になされる、一回かぎりの命令。それが、現在のこと、今、す
ぐにそうしなさいという命令であっても聖書のギリシャ語は過去形でそれを言
い表します。それは一回限りのことで、結局は過去の事柄となるからでしょう
か。
もう一つの場合は現在形で語られる命令形です。これは、現在形ですから、
今すべきことが命じられていると思われるのですが、そうではなくて、いつも、
いつでもすべきである、為し続けなければならない、そのような事があります
とこれを用います。それは、いつでも、現在のこととなっているということで
しょう。けっして、過去のことにはならない。
この現在形の命令は、不定過去で言い表される、一回限りの命令よりも、ず
っとずっと深く、意味のある事柄に当てはまるのではないかと思います。教育
現場でも、「努力し続けること」「志を高く持ち続けること」「探求を怠らな
いこと」、そのように生徒さんたちに呼びかけているし、そのことが身につけ
ば、教育の目的の大半は達せられたということにもなりましょう。
「求めよ、探せ、門をたたけ」という聖書の言葉は、この現在の命令形で記
されています。ですから、正確には「求め続けなさい、探し続けなさい、門を
たたき続けなさい」という意味です。根気よく続け、諦めないように、とイエ
ス・キリストは仰せになったのでありました。
しかし、いったい何を求め続けたら良いのでしょうか。何を求めよ、と語り
かけられているのでしょうか。この言葉を読んで、誰でも最初は、戸惑うので
はないかと思います。肝心の「何を」ということが、すなわち、求めること、
探すこと、門をたたく「対象」「目的」を告げる言葉が記されていないからで
す。
それで、この言葉は人それぞれ違った目的をもって生きているけれども、自
分の目的を成就するために、それぞれが賢明に努力し、追い求め続けるように
という励まし、叱咤激励の言葉として、一般には広く理解されるようになって
います。そうすれば、必ず良い結果が伴う、というご褒美までついてです。
これも意味のある大切なことですが、それが、必ず良い結果が伴うかどうか
は、分かりませんね。また、よい結果を伴ったとしても、それだけのことであ
れば、いつかは過去のこと、過ぎ去ることとなりましょう。
聖書は、そういう意味でこの言葉を記しているのではありません。
実は、何を求めたらよいのかを、この言葉は、はっきりと示しているのであ
ります。しかも、何を求めたらよいのか、その目的となる事柄を記さないこと
によってです。求め続ける目当て、目的を、書き込まないことによって、はっ
きりと示されます。
それは、究極的な関心事です。聖書の言葉で申しますと、神の国、あるいは
天の国、御国とも呼ばれますが、神の恵み深いご支配です。神の主権・義・知
恵・力・愛によるご支配です。
ですから、私たちがそれを実現することができるとか、私たちが求めてそれ
に到達することができるとか、私たちが開けようとして開けることができるよ
うなこととは違います。神が、そのようにして下さらないなら、開かれること
もないし与えられることもないものです。
善きお方、永遠なるお方、その主権、その義、その知恵、その力、その愛に
よるご支配、神の国です。聖書によれば、そのことこそが、神によって造られ
た人間にとっての究極的関心事ということになります。
神の国、それがどのような有り様なのかは誰も知り得ません。ほんの尐し、
味わい知るということはあります。そうではありますが、この地上で、あるい
は、私たちの歴史の中で、それが実現している、あるいは実現すると言えるよ
うなことではありません。しかし、私たち人間、この世界と歴史は、この神の
国と無関係ではなく、神の国という究極的な関心事のもとで、より良く、意味
あるものとして、存在し、生きることになる、ということであります。
聖書の時代に人々は、求めよ、と命じられると、それはこの究極的関心事の
もとに身を置き、生きることを求めるということなのだとすぐに理解できたよ
うであります。
聖書の時代の人々もそうですが、私たちもその時々に必要なもの、手にいれ
たいと思ういろいろな物がありましょう。あれもこれもという願いがあります。
それらは、必ずしも、自分勝手な、自分の欲求を満たすということとは限らな
い、他の人のために、皆の幸せのために心をくだき願い求める、そのために必
要な物です。
しかし、それらに先だって、何よりも求めるべきもの、究極的なもの、無く
てならないものははっきりしていました。神とその恵のご支配です。その関わ
りのもとに身を置き、生きることができるということです。
イエス・キリストのお言葉に、思い煩うな、思い悩むな、というみ教えがあ
ります。マタイ福音書6章の言葉が有名ですが、ルカ福音書ではこの後、12 章
に記されています。私たちには生きることに伴う、思い煩いというものがあり
ます。思い悩む、それがわたしたちの日々の生活ですが、主イエスは、空の鳥
を見よ、野の花を見よと仰せになって、神がそれらを養い飾っていてくださる。
そのように、いや、それ以上に、神はわたしたちを養い飾っていてくださる。
だから、神を信頼して生きるようにとお教えくださったのであります。その一
連の言葉の最後に、「何よりもまず、神の国と、神の義を求めなさい。そうす
れば、これらのものはみな加えて与えられる」という、有名な言葉が続いてお
ります。
求める。わたしたちが求めることは、それ以外ではないはずであります。で
すから、求めよ、探せ、門をたたけ、という主のお言葉には、何をという目的
を指し示す言葉が必要なかったのであります。
ルカ福音書の今日の箇所は、主の祈りの言葉、イエス・キリストが祈りの言
葉をお教えになったそのすぐ後に記されています。主の祈りというのは、神の
国、御国を求める祈りです。神のご支配を求め、そのご支配のもとに、私ども
が共に生きることができるようにと祈る祈りです。そして、その祈りを、祈り
続けるようにと教えるために、求めよ、探せ、門をたたけとの主イエス・キリ
ストの言葉が記されているのであります。ですから、ある人はこの言葉を「祈
りの憲章」と呼んでいます。
東洋英和女学院は、キリスト教学校でありますが、その存在の意味は、この
究極的関心事、御国を求める祈りと共に、この地上のいっさいの事柄、わたし
たちが思い煩う日々の糧の問題、傷つきながらも平和と和解を求め続ける日々
の労苦、悪しきこと、すなわち、すべてのものを混沌へといざなう力、カオス
との日々の格闘、その課題と取り組み、取り組み続けることができる上よりの
力のもとに、生徒さんたちをも導くということなのではないかと思います。祈
りつつ、この地上の、そして歴史の問題に関与する力を養う、そのようであり
たいと願います。これは本学院のモットーである「敬神奉仕」という言葉に含
蓄されていることなのではないかと思っております。
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