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偽りに濡れた夜 - タテ書き小説ネット

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偽りに濡れた夜 - タテ書き小説ネット
偽りに濡れた夜
リンダ・ハワハワ
!18禁要素を含みます。本作品は18歳未満の方が閲覧してはいけません!
タテ書き小説ネット[R18指定] Byナイトランタン
http://pdfnovels.net/
注意事項
このPDFファイルは﹁ノクターンノベルズ﹂﹁ムーンライトノ
ベルズ﹂﹁ミッドナイトノベルズ﹂で掲載中の小説を﹁タテ書き小
説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は当社に無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範囲を超え
る形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致します。小
説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
偽りに濡れた夜
︻Nコード︼
N3761CA
︻作者名︼
リンダ・ハワハワ
︻あらすじ︼
カルネヴァーレの夜は人を狂わせる。
仕事の都合で訪れた感謝祭。人々が浮かれざわめくヴェネチアで、
女は道化師の扮装をした男と出会い、一夜を共にする。
それが彼女をより危険で、甘い迷宮へと誘うことも気がつかずに︱
︱。
残酷表現タグをつけておりますとおり、レイプ殺人に関するえぐい
1
描写がある回がございます。
﹃少々ハーレクイン企画﹄参加作品です。王道ということで、思わ
ぬ一夜の情事、仮面舞踏会、俺様金持ち男子と使ったことのないよ
うなテンプレ設定をつめっつめにしてみました。
当たり前ですが、完全にフィクション︵妄想︶の世界です。私自身
ヴェネチアどころかヨーロッパ大陸に足を踏み入れたことがござい
ませんので、設定の貧乏くささ、間違い等々などには目をつぶって
いただけると幸いです︵爆︶
と思いつつ書いておりますので、
ちなみに当方ほとんどハーレクイン読んだことがないのであらすじ
眺めて、こういう感じですか?
ハーレクインファンの皆様ごめんなさい!
2
#1
霧雨のような雨は明け方にただの霧へと変わった。雨の夜は︱︱
特に雨具で自分を守れる程度の雨は何か洗い流すというよりも、そ
の場に留められているような感覚があって嫌いだ。そう女は寝不足
気味のだるい体を起こした。どうして自分はこんな遠い誰もいない
異国にいるのかとふと思うが自嘲する。自分が選んですべてを捨て
て、ここにやってきたんじゃないかと。
ホテルの部屋のカーテンを開けて、窓の外を見ると乳白色の霧が
漂っている。
﹁カルネヴァーレだっていうのに残念﹂
そうあまり残念そうでない口調でつぶやいて、朝食を食べるため
に身支度を始めた。体が資本であることを考えるとどんなにつらい
ことがあっても女は食べることだけはやめれない。そんな自分に自
嘲の笑みを浮かべながら。
﹁カルネヴァーレだというのに残念だな﹂
そう背後からワインのボトルとチーズの大きな塊と生ハムがこれ
でもかと盛られた皿を抱えて、恰幅のよい男が話しかけてくるのを
見て男は苦笑した。本当に、酒と食事と︱︱楽しめることはすべて
楽しむという姿勢にこちらも元気にならざるをえない。彼のローマ
の酒と酒宴の神の扮装は本当によく似合っている。今朝、彼の部屋
の扉を開けたらでっぷりとした白い体に縋るように白と黒の美しい
3
女が2人、体を絡めて満足そうに眠っていた。数瞬だけその満たさ
れた美しさを堪能して、男は扉を閉めて一人朝食の席に着いたこと
を思い出す。さぞかし今夜も楽しむのであろう。
﹁湿った石畳でお前は滑らないように気をつけないとな﹂
そう苦笑しつつ、彼から注がれたゴブレットを持ち上げて一口飲
む。
︱︱苦い。
このワイン独特の苦さは嫌いではない。むしろ好ましいとも言え
た。良質の熟成された苦味。ただ、今は正直、のどに絡みつくよう
で重く感じた。
﹁今夜は忘れろとは、言いづらいが、できる限りの策は打ったんだ
ろ?﹂
少しだけ心配そうにバッカスが、やはりゴブレットを空けながら
そう言う。
謝肉祭の最終日
﹁ああ。周りも説得したし、スケジュールも人も調整しつつある。
マルディグラが終われば、新しいスタッフと顔合わせだ﹂
そうぼんやりという男を見ながら、﹃とはいえ、忘れられるもん
でもないか﹄、そうバッカスはつぶやいて生ハムをぺろりと口に入
れた。その心配はしているが、どう慰めを見せればいいかわからな
い様子に男は微笑んだ。人の好い友人の不器用な心配りが、男には
嬉しい。︱︱が、その分だけ彼女を思って苦しくなる。
﹁傷つけられてはいないし、大事にしていることもわかっている﹂
4
ただそれでは、大事な大事なものが未来永劫守られるかというこ
とではない。相手の意図や心情はわからないが天真爛漫な彼女が、
いつか歪んでいくかもしれない恐怖を感じて少しからだの奥が震え
る。そしてそれは男にとって体中を細い針で刺されるような痛みを
感じさせられる。この痛みは不安と恐怖であることはわかっていた。
男はそれを振り払うように立ち上がる。
﹁少し冷たい空気を吸ってくる﹂
そう言って、腰をかがめて身にまとったマントの裾を持ち上げて
お辞儀をバッカスにした。そう︱︱。彼が今扮している道化にぴっ
たりの仕草で。そんな仕草も男の優雅で堂々とした普段の姿を覆い
隠せるものではない。適度な運動で鍛え上げられた背中を、バッカ
スは少し悲しく微笑んで見送った。
晴れていれば、水路から聞こえる明るく気持ちのよい水音を楽し
めるが、湿った空気と白い霧に覆われた町並みは、幻想的といえば
聞こえがいいが、水路にうっかり落ちるものもいる。歩いていて目
の前が開けた瞬間に通路の端にいたということもある。特に石畳の
道は滑りやすい。男は注意しながらもカルネヴァーレで浮かれる人
々の間を縫うように、そしてだんだんと人通りが少ない道へと辿っ
ていく。ベネチアの町並みはすべて大きな広場に通じている。つま
りそこに背中を向ければ人の流れとは違う方向へと向かうことがで
きるのだ。乳白色の霧の中を心細く感じるような路地に入りながら、
男はか細い声を聞いた気がして歩みを止めた。
﹁⋮⋮ゃっ﹂
空耳ではなかったらしい。観光客が流入するこの時期、確かに治
安は多少は下がる。小さく舌打ちして、男は声が聞こえた方向に歩
5
みを進める。路地のどん詰まりとも言える場所に、黒衣の女が男に
腕をつかまれて壁に押し付けられていた。
﹁何をしている﹂
誰何する声を聞いて、女は一瞬、自分が相手の男に下そうとして
いた動作を止めた。確かに、自分をめちゃくちゃにしてしまいたい
という気持ちがどこかにあって、うっかり油断して引きずり込まれ
てしまったのは確かだ。カルネヴァーレは身分もなにも関係なく、
自分たちの欲望に忠実に身を任すこともできる。すべては仮面に閉
じ込めて、目の前にある快楽を受け取ればいい。そういうものだと
いうこともわかっている。
だが︱︱。
軽薄そうに自分の目の前に現れた男になんとなく狭い路地に引き
ずり込まれて、女は少しだけパニックになった。金品を奪われる程
度ならまだいい。もしかすると特殊な性癖を持つ男なのかもしれな
い。どうにでもなれと、思っている自分がどこかにいるのは確かだ
った。だが、この街には新しい雇い主になるであろう相手との面接
のために訪れていた。もし自分が痛めつけられて警察沙汰などにな
っては、今回の仕事を用意してくれた元上司に迷惑がかかってしま
う。
そう瞬時に判断して、男の手を払いのけた。ただ、普段とは違い、
たなびくドレスの裾が邪魔で女の動きを妨げてしまい、思うように
動けず、壁を背に囲い込まれるように追い込まれてしまった。どう
するべきか。そして自分がいったいどうしたいのかと少しだけ揺れ
る。迷惑をかけたくない。ただでさえ、この数ヶ月はいろんな人間
に迷惑をかけた。だが、気持ちのどこかにすべてを終わりにして堕
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ちるところまで堕ちてみたいという願望もあって、女は自分がどう
したいのかが決められず、すべての対応が後手に回っていることを
感じた。
ここでこの男に犯されて金品を奪われる程度で済めばいいが、相
手の男の目の奥にそれでは済まないような安い捕食者の輝きを見つ
けてしまった。
︱︱カルネヴァーレで行方不明になったり犯罪に巻き込まれたり
する観光客って大体どれくらいだろう?
そんなことをぼんやりと考えていた。そんなときに、誰何の声が
聞こえた。
﹁何をしている?﹂
と目線だけ︱︱といっても3人とも仮面をつけて
﹁あんたには関係ないだろう﹂
そうなのか?
いるのだが、道化の紛争をした男が女を見た。女はゆるく横に顔を
振った。
﹁彼女はそう思ってないようだが?﹂
﹁うるさいっ﹂
そう男の注意がそれた瞬間に女はごつんとひざを蹴り上げた。
﹁︱︱!!!!﹂
女を囲っていた男が思わず股間を抑えてうずくまる。女は道化の
男を促して、暗い路地から一緒に走り出した。
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﹁余計なことをしてしまったか?﹂
しばらく走って、追っ手がないことを確認してから二人は足を止
めた。女は口元にかすかに微笑を浮かべて首を横に振る。
﹁いいえ。︱︱いえ、少しだけ乱暴にされてみたいということもあ
ったから、ちょっとだけ余計だったかもしれませんね﹂
そう落ち着いたアルトの声で答えた。男は一瞬だけはっとした気
配をまとってから、思わず噴出してくつくつと笑った。相手の呼吸
が乱れておらず存外冷静なことにも気がついていたが、今は笑いの
ほうが男の中で優先された。
﹁それはカルネヴァーレを楽しみたいということで?﹂
﹁そうですね。羽目をはずしてみたいというのは、貴方はないんで
道化師
すか?﹂
﹁私はパリアッチョだからな。面白いことが好きさ﹂
そう、マスクを被っていてもわかるおどけて楽しそうな声を男は
立てた。
﹁よかったら、私があなたをめちゃくちゃにしてやろうか?﹂
おどけながらも艶っぽい声で女を誘う。確かにこの男なら仮初め
の一夜を自分にくれるだろうと女の勘が継げている。ハーフマスク
からはみ出た唇がゆっくりと弓形に釣りあがり、男が差し出した手
に自分のものを女は重ねた。
8
#2
全身真っ黒な衣装が、女の白い肢体を浮き立たせているようだっ
た。男は女の手をとってゴンドラに乗せてから彼女をすっぽりと囲
い込むように抱きしめながら観察する。適度についた︱︱しかし鍛
えられている筋肉。先ほどの動きを見ているとしっかりスポーツを
してきた体つきのように感じる。
アルトの低い声は男の耳にビロードを撫でるような心地よさを感
じさせてくれる。ただし緊張しているのか、先ほどからあまり発せ
られないが。仕方なく男は女に、今通っている場所の説明をする。
﹁よく知っているんですね﹂
﹁まぁ、カルネヴァーレの季節には必ず来るからな﹂
お互い素性を知らせないようになるべく会話をしているが、この
程度は許容範囲であろうと男は口にする。女の表情はほぼ見えない。
青く鮮やかなラメが入ったブルーのアイシャドウを広範囲に塗り、
それを黒と青銀で彩られた仮面が覆っているからだ。それがなくて
も表情をあまり表に出さない気がした。だからこそ、この女が何ら
かの強い反応をするところをみたいと男は思った。
オディール
﹁名前が、わからないのは不便だな﹂
﹁そう︱︱ですか?﹂
﹁ああ。︱︱あなたを黒鳥と呼んでも?﹂
そういった男に女はやはり弓形に釣りあがった微笑で応えた。そ
の微笑をみて、男は女の指に口付けをひとつ落とした。ようやくゴ
ンドラが男が指定した場所に到着する。女を大事に包み込むように
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しながら男は、その場所に導いた。
﹁ここは︱︱﹂
﹁私の隠れ家﹂
そうシニカルに唇の端をあげながら、男は女の唇に自分のものを
押し付ける。やわらかく甘い︱︱若い女のみずみずしい唇。先ほど
手に口付けを落としたときに気がついていた。よく使われている短
い爪。ただ肌は若く張りがあり、甘い気がする。そこに重なる自分
の手を見て少しだけ笑う。同年代の男たちはそろそろ体型が崩れだ
している者もいるが、男は定期的に時間を取って鍛えていた。ただ
どうしても手には年齢が出てしまう。太い静脈が浮き出る大きな手
は魅力的に感じる者もいるだろうが、女の若さとは似合っていない
ようにも思える。
ただ今夜はカルネヴァーレだ。どうせこの場限り。似合う似合わ
ないと考える自分の思考におかしみを感じる。
そんなことを一瞬考えながら女の唇を楽しんだ。甘くやわらかい
唇はすでに引いている口紅が取れてしまっているが、男が軽く噛ん
だりしながら吸っていたせいか、腫れぼったく⋮⋮そして赤味が差
している。
﹁ん︱︱﹂
口付けを深めつつ、女の頬を右手の人差し指の背で撫でていると
女が首を振る。
﹁どうした?﹂
﹁仮面︱︱はずさないで﹂
カルネヴァーレの夜だから、仮初めの関係だと言われた様で、少
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し自分のどこかで不満が膨れ上がりそうになるのを男は押さえつけ
る。かすれた声で﹃わかった﹄と囁いて女を、口づけを交わしなが
らたどり着いた部屋にある大きな寝台に縺れ込むように倒した。
オディール
﹁私の黒鳥﹂
ひくりと女が少し反応するのを男は笑いながら、黒いドレスを肩
から引きずり落とす。まるで縫い付けられた何かのように、袖が絡
まって女は手を動かせない。
﹁貴女の望みどおりに︱︱めちゃくちゃにしてあげよう﹂
吐息を絡めながら男は女の唇に再び唇を落とす。柔らかく挟んだ
りしながら、女が唇を開いていくのを仮面の向こうからほくそ笑み
ながら眺める。男は女が綻ぶように体を預けていく様子が楽しくて
しかたがない。縫いとめるように拘束していたドレスの袖をさらに
引き下げて女の上半身をあらわにする。胸がたゆんと揺れて布地か
らまろび出てくる。ミルクが多めのミルクティ色の乳輪に舌を伸ば
して舐めとる。仮面の下から女が快楽への期待と恐れを抱いた視線
を男に投げていることはわかった。女に目線を合わせながら男は頂
点が少し濃いピンクへと変わっていく彼女の尖りを舌先でなぶる。
﹁︱︱っ﹂
小さく、くぐもった喘ぎを抑えようとして、それでも漏れだす声
に自身の下半身がきゅっと反応をする。女を乱れさせてもっと飲み
込んでしまいたいと、喉の奥が乾くような心持を感じる。舐め取っ
ている方ではなく、もう片方に自分の右手を伸ばして人差し指と中
指ではさんで転がす。
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﹁はっ⋮⋮。あっあ﹂
﹁感じやすいな﹂
オディール
黒鳥と名づけた自分の秀逸さに驚きながら、女の肌を丹念に辿る。
本当に羽のように柔らかくて触り心地がいい。一晩どころかいつま
でも触れて女を喘がせてやりたい。それくらい、まだ上半身しか嬲
っていないのに、男自身も昂ぶりを覚えた。そのままゆっくりと女
のドレスを徐々に美しいパッケージを解いていくように、恭しい手
つきで下に落としながら、舌先と両手を使って、なだらかな曲線を
描く腹へと落としていく。
﹁んっふっ⋮⋮﹂
喘ぎをなるべく抑えるようにシーツに唇を押し付ける女の顔を掬
い上げて唇をなだめるように噛んだ。
﹁そんな風にしていたら仮面がずり落ちるぞ﹂
そういった男の言葉にはっと目を見開いて女は、男の首に自分の
顔を押し付けてくる。自分にすがってくる女の体温がうれしくて男
は彼女の腰を抱きながら、ドレスを剥ぎ取ってきれいに床に落とし
た。ぽすんとスプリングが効いた寝台に寝かされて少しだけ女の体
がはねた。一瞬女の白い肢体を撫で回すように眺める。きめの細か
い白い肌。自分が嬲りすぎたせいで、ぽってと腫れて赤くなった半
開きの唇に親指をねじ込むと、温かくぐにゃりとした彼女の舌が纏
わりついてくる。その感触を楽しみながら、さらに女の奥を暴くた
めに男は指を伸ばした。
﹁︱︱っっ!﹂
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思わず声を上げそうになる。女の潤った場所へと指を入れた瞬間
に衝撃だったのか、くわえていた指に歯を立てられたからだ。
﹁ご、ごめんなさ⋮⋮﹂
思わず身を起こそうとする女をなだめて男は、女の歯形がついて
傷ついた指を突きつける。
﹁舐めろ﹂
そう。そう短く、ただ誰も逆らえない口調で女に命じた。一瞬躊
躇した後、女は男の傷を舐め取った。小さく喉の奥から時たま漏れ
る喘ぎが男の気持ちをあおる。ただ躊躇せずに女の体を暴いていく
と、思いもよらぬところで快楽の声を上げる。ぐにゃりと何度か気
をやった女の中に自分を埋めたときの熱さや絡みついてくる女の膣
内に男は思わず熱い吐息を漏らした。
この女が誰か正体が知りたい。そのためには︱︱。そう思って、
まだ快楽の中でまどろんでいる女の頬にゆっくりと男は手を伸ばし
た。羽のように軽く、指の背でなでると女が熔けてしまったような
潤んだ瞳を男に向けた。それを見た瞬間に男は、口の端だけを持ち
上げて、それから女の唇に軽く、ごく軽く自分の唇を落とした。
そっと目を開けて、自分の顔にそっと指を這わせる。しっかりと
かぶった仮面の感触に安堵の吐息を小さくついた。隣で眠っている
男の体にそっと視線を走らせる。一朝一夕に作り上げることができ
ない年輪を重ねた体。大きな手がすぐそばに落ちている。このたく
ましく骨ばった手が繊細に夕べは自分を暴いたことを思い出して女
は慌てたように赤くなる。
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気配を立てないように寝台の下に落ちている自分のドレスをすば
やく身に着ける。きっと昨日あそこまで乱された自分はひどい顔を
しているに違いない。一晩だけとはいえ、自分をあそこまで翻弄し
た男にそんな醜い顔を見せたくなくて、女はそそっと物音を立てな
いように移動した。扉から出るときに再度男に目を向ける。
昨日噛んでしまった指の怪我に視線を止めたときに男が身じろぎ
をしたので、慌てて女はその部屋から出た。
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#3
顔色が少しでもよく見えるようオレンジのシャドウを塗りこめて、
その後、鏡を見てチェックする。地味に見える黒のスーツ。ただし
動きやすいように、パンツスーツである。低めでそして脱ぎにくい
ヒールの靴。少し腕を回したりして、自分の体にフィットしている
か、動きやすいかをアマンダは確認した。いつでもどんなときでも、
柔軟に対応ができるようにと深呼吸をする。
この仕事は確実にほしいものではないが、自分を押してくれた人
間に恥をかかせない程度は心得なければならない。採用されるされ
ないは、必要な要素にはまっているかどうか︱︱そう言う判断まで
もっていかねばならない。
︱︱私が自棄になっているのをわかっていてわざとハードルをあ
げてきた。
そうアマンダは苦笑する。彼は、自分になにが起こったかなんて
聞いてはこない。ただ本質的にどういう種類のトラブルに巻き込ま
れたかを察知したのだと思った。だからこそ、あのときの仕事を急
に逃げるようにやめても責めず、こうして新しい仕事を紹介してく
れたんだと思った。
﹁アマンダ・トゥーリスです﹂
指定された入り口からアマンダは通された。指定の時間にここに
たどり着くまでに、何人かの尾行の目を確認し、それを振りほどい
て歩いてきた。数日前に入ってこの街の迷路のような街並みを研究
しておいてよかったと胸をなでおろす。そのために、カルネヴァー
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レにも巻き込まれて、そして︱︱。あの夜にあったことを思い出し
て、少し喉元が熱くなったがポーカーフェイスを装う。
とても隙のない、執事とは思えない執事が彼女を部屋へと案内し
た。すぐに面接と思いきや、そこには数人のスタッフが彼女を待っ
ていた。
﹁︱︱?﹂
﹁あら、なかなかに油断した身だしなみの娘ね﹂
﹁髪とか全然ケアしてないし!﹂
そういきなり声をかけられて一瞬と惑う。
﹁あの⋮⋮?﹂
あまりのことに身構えていいのかどうか悩んで、守りの姿勢だけ
とろうとすると、後ろに控えていた執事に﹃そのような格好で主の
前に出ていただくのは困りますので﹄といわれてそのまま固まって
しまう。
そのような格好って、自分的にはかなりお高めのスーツであるの
に、それをそのような格好!?と今までにない出来事に動きをとめ
る。その隙にてきぱきと周りに服を脱がされて、あっという間に着
替えさせられ、メイクもすべてやり直される。
﹁︱︱!?﹂
鏡の前に立った自分があまりにも別人過ぎて思わず凝視するほど
であるが、なぜ面接なのにこのようなドレス姿にと思っていると、
彼女にメイクを施したリーダーとおぼわしき男が、﹃まずそこで早
足で駆けてみて﹄と言ってくる。確かにドレス姿とはいえ動きやす
い。そのまま自分なりの動きをチェックしていると、再び執事がや
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ってきて、案内を促してくる。そうして案内された場所はさすが水
の都というべき、水路が通った中庭であった。美しく整った庭に年
月でしか培うことのできない石畳。そんな場所の真ん中に圧倒的な
存在感を持った男がたたずんでいた。
黒い髪を撫で付けるように後ろに流しており、光沢のある黒の三
つ揃いを着て、アマンダに目を向けている。よたりと一瞬ぐらつき
そうになった自分を励ましながら、アマンダはその男に近づいた。
﹁︱︱!﹂
しゅっと空気を一瞬震わす音が聞こえた瞬間に体が反応する。布
地を巻きつけるようなドレープが美しいドレスは、アマンダの動き
を封じることはない。太ももがあらわになるのも気にせずに、彼女
は蹴りを繰り出し、そのまま、襲い掛かってくる男たちを無効化す
るために、動きを繰り出す。蹴りをいれ、そしてそのまま、こぶし
を繰り出してくる相手の手首を握って、そのまま懐に飛び込むよう
にひじを使ってダメージを与える。怪我をさせないように配慮はし
ているが、余裕がそれほどあるとはいいがたかった。
パンパンと手をたたく音がした。
それまで襲ってきていた男3人が身を引いたのを合図に、アマン
ダも身を引いて息を整えた。
﹁空手の使い手か﹂
そう蒼い双眸をアマンダに男が向けた。小さくうなづいたアマン
ダにもっと近くによるように合図をする。息は大体整ってきている
が、予想外に動いたせいで少し喉が枯れていて、うまく声が出ない。
﹁この庭園に何人いるかは?﹂
17
﹁︱︱私の計算違いでなければ、あなたを入れて7人ほどいらっし
ゃいます﹂
﹁なるほど﹂
﹁射撃の腕はA級で、ナイフファイティングは若干苦手?﹂
そういわれてうっと詰まってしまう。確かにナイフファイティン
グはあまり上手ではない。履歴にはその件は載っていないはずなの
に指摘されて、戸惑いつつうなづいた。
﹁3ヶ月前に仕事を急に降りたようだが﹂
﹁私事で⋮⋮﹂
そう小さく言葉に乗せた瞬間に、ふんと鼻を鳴らされる。
﹁私事は通用しない﹂
﹁契約期間中は全ういたします﹂
これはだめだろうと思いつつ、アマンダはそう答えた。いままで
仕事を放棄したことはない。あの1件だけだ。
﹃アマンダはいつもずるいわ﹄そう脳裏に鈴のような女の声が聞
こえる。自分にはない細くて儚げな肢体。長く美しく手入れの整っ
たブロンドの髪。美しく整えられた爪先を突きつけられて糾弾され
るといつも何もいえなかった。
﹁私は妥協はしない﹂
﹁イエス、サー﹂
そう答えると再び眉をひそめられる。ただ段々とアマンダは自分
が開き直ってきていることにも気がつく。そもそも面接のためにド
レスに着替えさせたり、いきなり襲ってきたり、完全に上から︱︱
18
しかもナイアガラの滝上から位の目線の雇用主なんて気が合うわけ
がない。であれば、さっさとこの面接を打ち切ってもらって、自分
はどこかに、誰も追いかけてこない場所に行ってビールでもかっ食
らってしまいたい。彼の答えを聞いたら元上司に面接失敗と笑って
連絡してそのままどこかに消えてしまおう。
﹁ヨーロッパ風じゃないが、まぁきみはアメリカ人だったな⋮⋮﹂
﹁ご期待にそえず申し訳ありません﹂
少しイラっとしてそう無骨に答えた。
﹁まぁ準備期間中に、そのあたりはどうにかしよう﹂
そう笑った男に思わず驚いて目線を向けてしまう。
﹁採用だ。︱︱書類面と調査報告と、君の推薦者の推薦内容でほぼ
決まりだったが、実際動くところを見て決めたかった﹂
その言葉を聞いて、最近の行動を見張られていたことに気がつい
た。自分はいったいどういう調査されたのか、追跡されていたのか、
まったくわからず、アマンダは少し混乱する。
﹁出国する直前からヴェネツィアに君が入った数日間までは﹂
﹁︱︱え﹂
そんなことも気がつかなかった自分に頭痛がしてきそうだった。
﹁一番の心配は君の容姿だったが、まぁそれだけ化けれれば十分だ。
私の新しい恋人として︱︱﹂
﹁はぁっ??﹂
19
思わず大きく口を開けてしまったのを、くつくつと笑われる。
﹁とりあえず、2週間ほどですべての私の要求とチームワークを培
ってもらう。ディミトリ﹂
横に控えていた執事が返事をする。
﹁彼女に部屋を案内してやれ。そのあと、チームに引き合わせてく
れ。ああそれから、マナーや必要事項を10日以内に叩き込め﹂
﹁え?﹂
﹁私の恋人がいかにもアメリカ娘ということでは困るからな﹂
そう言って笑われる。
﹁あの︱︱﹂
私にだって仕事を選ぶ権利があると言おうと話しかけようとした
瞬間に、男の蒼い瞳を見てぎくりとする。何かがひっかかった。彼
の射抜くような視線と鮮やかな蒼がアマンダの記憶を刺激した。
﹁君の声は︱︱とてもハスキーだな。そこはなかなか私の好みでも
ある。ただ少し早口だ。ディミトリ、発声も練習させてくれ﹂
いやなんでそうやっていろいろなことを勝手に決めるんだっと、
まったくこちらの意思の確認など必要のないかのような態度にいら
だつ。そんな自分の感情などまったく気にもしていない、自分より
ずいぶん年上であろう男をぎゅっと見つめる。その様子を見て﹃向
こう気の強い女はいいな。屈服させたくなる﹄そう笑いながら、筋
張った手を伸ばして少し乱れたアマンダの髪を直した。
20
﹁︱︱っ﹂
その瞬間に男の大きな骨ばった指が目に入る。指先の傷が目に入
った瞬間に、断ってやると思っていた気持ちが一瞬にして霧散した。
﹁あとのことは、ディミトリの指示に従え﹂
そう言って歩み去っていく男の背中をアマンダは呆けたように見
つめることしかできなかった。あれはどう考えても自分が噛んで傷
つけた傷跡。
道化師と、アマンダは口の中で呟くしかできなかった。
21
#4
﹁私、引き受けるなんていってません﹂
そう、弱弱しくアマンダはディミトリに向かって言う。
﹁我が主が決定なさったことですから﹂
﹁︱︱わ、私に選択権はないと?﹂
そういうアマンダをかわいそうなものを見るような視線でディミ
トリが見下した。
﹁お断りになるのであれば、あの方に直接言うべきでしたね﹂
一瞬飲まれてそのチャンスを逃したアマンダに選択の余地はない、
そう言外にディミトリは匂わせた。慇懃な物腰だが、この男も油断
がならない振る舞いをしていることは、アマンダにもわかった。そ
もそも自分が数日でも見張られて気がつかないような手練たチーム
を持っているのにいまさら自分レベルの人間が必要なのか。
﹁そもそも、なぜここまで精鋭を集めているのに、私なんて︱︱﹂
﹁女性でないと、あの方のすぐ近くにいて不自然に見えますから﹂
ディミトリが感情なく淡々と伝える。そう言われてアマンダはな
るほどと思う。ボディガードとして最後の防衛線を担える女性のガ
そう思って素直にディミトリに聞く。
ードを探していたのかと。しかし今まではそのような女性のボディ
ガードはいなかったのか?
22
﹁少々事情がございまして。ただ、あなたがこのあと本当に相応し
いかどうか︱︱﹂
﹁試すと?﹂
﹁あの方の隣に相応しいところまで、あなたが仕上がれば主からお
話があるでしょう﹂
なるほど、自分はまだ試されているということかと、アマンダは
思う。正直、自分の新しい雇用主に対しては、いまだ困惑するしか
ない。だが簡単に明かされない雇い主の思惑は気になる。非常にい
け好かないヨーロッパの古い血を体現しているような男でもだ。そ
して、お互いの正体を知らなかったとはいえ、あのカルネヴァーレ
の一夜を共にした男。あの夜の男の熱い吐息にどこか醒めた視線を
思い出すだけで体の奥がとろりと溶けそうになる。アマンダはふる
りと一瞬震えた。
﹁少々庭では冷えます。あなたのお部屋にご案内します﹂
そう、ディミトリに促されて、アマンダは小さくうなづいた。
︱︱どのみち私の居場所はどこにもないんだし、しばらくはここ
にいても問題ないわ。
﹁あらいやだ。すごいクマだわ﹂
そう美容チームに眉をひそめられることにももう慣れた。面接の
あと、アマンダはディミトリに、思わずあっけに取られるような豪
23
奢な部屋に案内され、雇い主の警護のチームとも引き合わされた。
そこからが非常に、非常に地獄の始まりであった。まず貴婦人とし
ての立ち居振る舞い、マナー、会話術などを叩き込まれ、夜は雇い
主の交友関係の名簿を暗記させられる。翌日は朝一にその内容を試
験され、そして警護チームとの連携の練習や、夜会用のドレスなど
の採寸などなどなど、アマンダにとっては未知の世界の要求をさせ
られる。唯一、暗記は仕事する上でも得意なので、交友関係などに
関しては、それほど苦にはならない⋮⋮が物量が恐ろしいまでの多
さである。500人ほどの人間関係の相関図と、嗜好や現在興味を
持っているものなどなど、聞かれたら瞬時に答えないといけない。
勢い睡眠時間が削られ、そうなるとスタイリストに眉をひそめられ
るご面相となっている。
﹁ほんと、ちゃんと毎日お手入れ欠かさないと、30になったとき
に後悔するんだから﹂
そんなことを、しかも遺伝子上は男性にそんなことを指摘されて
しゅんとなる。あれから雇い主とはまったく顔を合わしていなかっ
た。彼の仕事は大企業でもなく、上場などしていないが非常に忙し
くしているらしい。スイスを拠点にしている銀行業を中心に展開し
ているということは聞いてはいるが、雇い主自身の仕事や個人的嗜
好含めて、全容は教えてもらえない。そういえば、この仕事を紹介
してくれた元上司も雇い主の素性はほとんどぼかしていた。話を聞
いたときは、どこにでも今、自分がいる場所でなければどこに行っ
てもいいと、自棄になっていたからあまり気にもしていなかった。
ただ、段々とこの大掛かりな準備に、興味を引かれているのも事
実だ。
そして、いまだ名前さえ知らないのにお互いの体だけをむさぼり
あった男に興味を引かれつつある自分にも気がついていた。
24
﹁ん。ボディラインも大分よくなってきたわね﹂
そういわれてぎくりとする。この男︱︱ニコラに最初させられた
ことはトランクを開けることだった。そして化粧品から、下着まで
すべてを暴かれてこき下ろされるところからすべては始まった。彼
曰く、こんな下着じゃおっぱい垂れるどころか、腹と胸の境界線が
なくなると散々なことを言われたのである。そのあと採寸されて、
まずこの下着を着けなさいと言われたものをこの10日ほどつけて
いる。確かに胸がワンサイズでかくはなった。きっと恐ろしく高い
であろう下着と、化粧品のことを考えるのは憂鬱である。ほかにも
憂鬱なねたは満載であるが、なにが悲しくて男にボディチェックを
毎日されなければいけないのかと、アマンダは、とほほと泣きそう
になる。
﹁採寸しなおして、ドレスに微修正かけないと﹂
ニコラの合図でアシスタントがアマンダの採寸をしなおしていく。
正直細かすぎてうんざりだ。しかもこれが終わらないと何も食べら
れない。採寸が終わるころに、バターと珈琲のよい香りが漂ってき
た。
﹁そろそろいいかしら?﹂
そう言って部屋にトレーとともに入ってきたのは、この屋敷の食
事をすべて管理するダニエラと呼ばれる女性である。真っ白に染ま
った髪を肩先で切りそろえてふわりと整えている。化粧品もアクセ
サリーも過剰ではないのにどこか華やかな感じのする50代半ばの
女である。皺が寄っているが、料理をするせいか油分でしっとりと
潤った手にささげ持つトレーには、珈琲とともに、スクランブルエ
ッグと薄いトースト、野菜とにんじんをベースにしたジュースが置
25
かれている。
﹁ああ。ちょうど一段楽したところよ。まったく10日でここまで
仕上がるなんて、私って天才かもよ﹂
そういいながら、ニコラはバスローブをアマンダに渡して座席に
座らせる。くうーと胃が匂いにつられて鳴ったところで、レディー
は腹の虫を抑えれると注意を受ける。食事できるのはうれしいが、
ここからもレッスンである。要は食事の作法というかもっと広義の
意味での作法である。優雅な所作、話しかけられて答えるタイミン
グなどなど。忙しいとプロテインと栄養価の高いミニバーで食事を
取っていたアマンダにとっては、食事を取るということ自体の意味
が違う。
すべては雇い主の隣にいて不自然じゃないということを装うため
だけの準備である。あまりの大掛かりさ加減にため息が漏れる。こ
れが終わったら、警備チームとフォーメーションのおさらいと、実
地訓練もまっている。
﹁アマンダ﹂
そこに執事のディミトリがやってきた。
﹁今日の訓練ではあざは作るなよ。明日の夜は出かけてもらうから。
ニコラも準備の方を頼む﹂
短くそれを伝えて、部屋を去っていく。説明がないので、アマン
ダ自身は一体何事かと思っているとニコラが、うれしそうに手を打
った。
﹁ふふ。明日は腕の見せ所だわ﹂
26
そう笑うニコラの顔を見てアマンダはいやな予感に冷や汗をかく
しかなかった。正直、雇い主が満足するような基準に自分は達して
いるかどうか自信がなかったが、いよいよ実地に入っていくらしい。
﹁こんなぴらぴらのドレスじゃ心もとないです!﹂
﹁でも観劇だしね。これくらいじゃないと目立たないわよ﹂
﹁目立つ必要が︱︱﹂
﹁あはは。当たり前でしょ。ご主人様の新しい恋人のお披露目なの
よ﹂
そうニコラに笑われながらも、アマンダはぎゅっと胸を隠す。首
から胸まで薄いシフォンで覆われて、胸から下はかっちりとアマン
ダの体のラインがきれいに辿られているぴっちりした膝丈のドレス
である。大きなアクセントにもなっているピアスは実はインカムが
仕込まれており、警備チームと連携することができるようになって
いる。また、太ももまでのガーターストッキングの根元には小さな
ナイフを仕込んでいる。
﹁動いてみろ﹂
警備チームのトップのライアンに短く言われて、アマンダはいく
つかの空手の型を披露した。
﹁動きにくさはあまりかんじないか﹂
当たり前でしょ、私が仕事してんのよとニコラが自慢そうに呟く
27
のをライアンは、視線だけで黙らせる。
﹁普段よりは当然動きにくいですけど、思っていたほど動きは制限
されません。ただ︱︱﹂
﹁ただ?﹂
﹁銃が仕込めないのが⋮⋮﹂
﹁はっ﹂
短く笑われてアマンダはむっとする。
﹁あんな劇場で銃をぶっ放されるようなことがあったら、その前に
俺たちが取り押さえている。それに銃に頼り過ぎない訓練は必要だ﹂
そう言われると、ぐうの音も出ない。確かに銃に頼りすぎるのは
ガードとしてはさまざまな局面に対応する方法論が安直になってし
まう。自分は今までこの世界でそれなりの実力を持っていると思っ
ていたが、ライアンたちと行動するようになって、まだまだだった
ことに気づかされた。彼らは最終的に剛の力ですべてを制圧するが、
基本的には繊細に状況を把握し、あまり目だたないように雇い主を
守ることに注力していた。それは、表に出たがらない雇い主のオー
ダーであるからだ。
そのためにさまざまな下調べをし、作戦を立てる。アマンダの最
初の訓練はこの屋敷のすべてを確認して、雇い主が襲われた場合ど
ういう風に守って脱出するかのシミュレーションであった。
﹁大体満足に武器がない場合、主を守らなきゃいけないことをいつ
も念頭に置いておいてもらわないと困る﹂
そんな場合が、あるのかといいたいようなシチュエーションをい
28
くつも想定されて、アマンダは半ばヒステリーを起こしたくなるこ
ともしばしばである。ただ、雇い主のそばにいる位置ということは、
ライアンたちのように装備面で自分の体を守ることはできないこと
が多い。だからこそ、ライアンはアマンダに銃に頼るなとしつこく
教えていることはわかった。この10日あまりでガード以外の訓練
をされたのは状況に合わせてか弱い女というものまで駆使して雇い
主のそばを離れず、守ることを可能にするためなんだろうとアマン
ダなりに考えていた。
先ほど動いたときに乱れた髪や衣装をニコラが丁寧に直し終わっ
たときに、扉が開いて雇い主が現れた。
﹁︱︱10日ほどで化けるもんだな﹂
彼なりの褒め言葉なのかもしれないが、10日ぶりの顔合わせで
言われた言葉がそれかと少しむっとする。横でニコラがうれしそう
に私が手がけたんですからといっているのをライアンに一睨みされ
ている。それを見て、男にも女にも無駄にモテる男だなという印象
を強めた。
﹁表情に気をつけて。私とあなたは恋人同士なんだから﹂
そう言いながら男はアマンダに肘を差し出した。白の手袋で覆わ
れた指先にアマンダがつけた噛み痕は覆い隠されてどうなったかは
わからない。もうとっくに完治してしまっているだろうと少しだけ
ツキンと胸が痛むような気がしてアマンダは男の腕を取るついでに
振り払うように首を振った。
愛しい人
﹁私のことは、ミケーレと呼ぶように。イナモラート﹂
男はアマンダの胸の内など、感知せずにそう言って微笑んだ。
29
30
#5
思わずその建物を見上げて口をあけそうになってしまう。それほ
どすばらしく絢爛な建物であった。
﹁初めてか?﹂
﹁はぁ⋮⋮。まぁイタリア自体来るのが初めてですけどね﹂
そう、おっとりとした笑顔を刷きながらアマンダは周囲に目線を
さりげなく走らせる。自分が覚えさせられたファイルに載っている
人物たちが多数、周りにいることに思わずぞぞっと背筋がこわばる
ような気持ちがした。政財界の著名人達ばかりである。男の仕事に
複雑に利害関係で絡んでいる。ただし表面的な情報のみだ。詳細は
いまだ教わっていない。ただこのあと段階が進めば、さらにいろい
ろなデーターを蓄積させられることだろう。︱︱そして、現状のデ
ーターでさえ、この短期間の契約終了後、相当な縛りを課さないと
自分を野に放つのは危険なデーターであろうとも思う。雇い主︱︱
ミケーレはそんな彼女の考えなどなんとも思っていないのかにこや
かに、リストの人間たちと握手をし、アマンダを新しい恋人として
紹介をする。
提携先、ライバル銀行の頭取、昔少し親密に付き合った相手、学
校の同窓生の貴族の三男坊⋮⋮。目の奥がちかちかするのを抑えな
がらアマンダは彼らがどういう人物か、そして会った人間を覚えて
いく。新しいデーターがあればそれを上書きし、後ほどディミトリ
に伝えることができるように瞬時に整理していく。すべての作業が
必要かどうかはわからない。ただ、自分が試されているということ
のみ知っているだけだ。警護としての力を要求されるならこの建物
31
自体を、まず事前に調べ上げておく時間をもらえただろうと思うが、
それはもらっていない。ということは⋮⋮。そう思って、シャンパ
ンを啜りながら、アマンダは建物の構造をできる限る頭に入れる。
立ち入り禁止部分や、パントリーの出入り口、非常口はどうなって
いるのか︱︱などなど、自分がわずかな情報から得ることができる
ものは何なのか。この男を守るために自分が必要とされるのはどう
いうことか。
そんなことをつらつらと考えつつも、表面的にはにこやかに恋人
役に興じる。
︱︱なぜだろう。この仕事自体気が重いし、課せられるハードル
はあがる一方なのに。
さっさと降りたというには負けず嫌いすぎるのかもしれないし、
この謎だらけの男がここまで手間隙をかけて何かを成そうとしてい
ることを見てみたいという好奇心かもしれない。目の前で繰り広げ
られる男と女のボタンの掛け違いによる愁嘆場を目に移しながらア
マンダはいろいろな情報を自分の中に取り込み、そして、考えてい
く。
﹁アマンダはこういうのは好きじゃないのか?﹂
必死にいろいろなことに頭をめぐらしているとミケーレが微笑み
ながらひそりと聞いてくる。
﹁︱︱無骨者ですし、緊張してます﹂
ライアンたちの姿が見えないことが、ここまでプレッシャーにな
るとは。あれほど誰かを頼らずにミケーレを守れるように注力しろ
といわれていただけに、心臓が段々と重たくなってくるような奇妙
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な浮遊感のようなものと戦いながらアマンダは頭の中でシミュレー
ションを行う。
﹁あなたはとてもまじめだ﹂
そう雇い主が底の知れない微笑でアマンダの頬を指先だけで撫で
た。思わずカルネヴァーレの夜の濃密なやり取りを思い出して身を
こわばらせる。
﹁そして、かなり︱︱潔癖﹂
まさかあの夜のことを言うわけにも行かず、アマンダはふるりと
身を震わせた。そんなアマンダをにこりと微笑をたたえて見つめな
がらミケーレはさらに爆弾を落とした。
﹁3ヶ月ほど前の出来事があなたをそんな風にしてるんだろうか?﹂
﹁︱︱!﹂
ぎょっとした顔をミケーレは見て少し微笑む。この柔和そうに見
える笑顔は曲者だと思った。これは猫がねずみをいたぶる笑みだな
とアマンダはふと思った。
﹁自分が雇おうと︱︱しかも命を預ける人間だから﹂
﹁調べられたんですね﹂
もちろんという代わりに、片眉を上げてまじまじと見据えられて、
自分がどうするべきかと瞬時悩む。いまだに自分でも消化ができな
い出来事だった。それを簡単に調査され、客観的に判断されている
のかと思うとなんともいえない、むなしい怒りがわいてくる。
33
﹁怒︱︱ったか﹂
﹁⋮⋮いいえ﹂
彼は雇い主として当たり前の行動をしただけだ。ただ彼が文字で
読んだ陳腐などこにでもあるような出来事は、自分にとってはいま
だに振り返れば血が噴出すことである。目の前では元娼婦の女が、
愛する男を振り切って死の間際へと追い詰められている。彼女のよ
うに自分の心情や思いを噴出させてはだめだ。そう、ここで何か問
えば自分の負けだということを感覚的にアマンダは悟っていた。
そんな様子をミケーレは気を使うそぶりもなく、そろそろここか
ら出ようと声をかけた。まだ幕が下がったばかりで扉の向こうから
は人々の興奮した気配を感じながら二人は劇場に背を向けて歩く。
仲睦まじそうに身を寄せながらも、アマンダの体は硬かった。外に
出てライアンたちの位置を確認する。長くも短くもない距離。そし
てライアンたちと合流するにはまだ少しあるところで、耳に鋭い破
裂音が届いた。アマンダは音源に自分の体を向けて、ミケーレを庇
うように障害物のほうへとミケーレを誘導した。障害物に身を潜め、
ナイフを取り出して、ライアンたちの動きを確認する。そして、攻
撃がきた場合に備えてアマンダはミケーレを守るように体を起こし
たら肩を押さえられた。
﹁大丈夫だ。今のは爆竹だ﹂
﹁は?﹂
ミケーレは裾についたを振り払って、アマンダを助け起こす。そ
うして片眉を上げた男の表情を見て、すべてを悟って憤然とするし
かなかった。
﹁合格だ︱︱。アマンダ﹂
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そんな顔を紅潮させて怒りを抑える女にミケーレは平然と言った。
﹁劇場で私の過去を言って平常心を失わせるところから︱︱ですか
?﹂
﹁それなのに、あなたは私を庇い、しかもライアンたちの動きを冷
静に確認して、犯人を追い詰めるのではなく私を守るために留まっ
た﹂
﹁怒り、を、あおって、それでも、私が職務を遂行できるか︱︱﹂
﹁見事に合格した。あなたは﹂
そう片眉を上げてにやりと微笑みながらミケーレはアマンダに手
を差し出す。
﹁超絶むかつく方ですね、ミケーレは﹂
そう言ってアマンダは差し出された手をにらむ。さぞかしエレガ
ントからは程遠い表情で彼をにらんでいるんだろうと自分でもわか
る。ミケーレがあまりにも楽しそうにこちらを見ているからだ。黒
髪をきれいに撫で付けて、恐ろしいほど高価な仕立てとわかる美し
い三つ揃いのスーツを空気のように身にまとっている。それは時間
という流れの中で磨かれた宝石のような存在だった。片方の手はそ
のスーツのポケットに突っ込まれており、片手だけがアマンダに差
し出されている。その手にパシリと鋭い音をさせて自分の手を撃ち
つけるように取った。
﹁さぞかし私の好奇心を満足させてくれるんですよね﹂
そう怒りで、きらきらと光をたたえるアマンダの瞳を、ミケーレ
は見つめながら、柔和な口調なのに男らしい艶を含んだ声音で、も
ちろん、と答えてアマンダをエスコートしながら歩き出した。
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やむ落ち。#1︵前書き︶
幕間的なお話です。
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やむ落ち。#1
﹁︱︱様、ミケーレ様﹂
そっとそう呼ばれてミケーレはうっすらと目を開ける。枕に押し
付けていた自分の顔に違和感を感じる。
オディール
﹁黒鳥⋮⋮﹂
仮面を手にとってつぶやくミケーレの様子に特に頓着せずにディ
ミトリは、ミケーレの世話をてきぱきと始める。
﹁湯浴みの準備は出来ておりますので﹂
そう言われて、ミケーレはすっきりするために、浴室へと向かっ
た。熱い湯を浴びながらすっきりして夕べの事を整理する。あんな
風に黙って出て行かれるとは思いもよらなかった。今まで一夜をと
もにした女達はミケーレの背後にある富をかんじるとべたべたと手
垢をつけるように擦り寄ってくるのが定番であった。顔を洗いなが
オディール
ら、ふと自分の両手に目をやる。
黒鳥と名づけた若い女の張りがある肌、ただ何かをはじくという
オディール
ことではなく、ふんわりと撫でると柔らかく自分の下で呼吸をする。
そっと触れると、焦れたようなくぐもった声をあげる。黒鳥の太も
もの間に体を滑らして、弾力のある乳房にかじりついたときの唇に
触れた滑らかさ、そして感じた声を上げてミケーレの髪を乱すよう
に髪をすいてきて、そのまま彼女の少しだけ節が立った両手が首へ
と流れてくる。
その感触を思い出すだけで、自身が昂ぶっていく。
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豪雨の中にいるような熱い湯をかぶりながらミケーレは少しでも、
女の手がかりはなかったかということを思い出そうとした。
﹁ディミトリ﹂
浴室から出てきながら、腹心の部下の名前を呼んだ。当然ながら
夕べの残り香はすでに取り払われて、寝室は冷たいとも言えるほど
の空気をまとっていた。複数の経済紙を用意し、好みの濃さで入れ
られた熱々のエスプレッソを用意していたディミトリが言葉なくう
なづく。通常なら、そのまま腰掛けて、何も言わずにエスプレッソ
を飲み、新聞に目を通す自分の主が、自分の名前を呼んでから、数
瞬指示を出すのを躊躇していることに内心驚きながら。
﹁︱︱ライアンに、夕べ私が連れてきた女を探し出すように指示し
てくれないか?﹂
意外な指示にディミトリは自分の表情に驚きが表れていなかった
か、少し考え込んだ。
﹁夕べの︱︱でございますか?﹂
﹁ああ。黒いシンプルなドレスに青と黒の仮面の女だ﹂
夕べは警護も最低限で、ミケーレ自身の無事を確認しただけであ
った。女がそっと何も怪しい動きをせずに出て行ったこともあり、
当然あとをつけることなどもしなかった。しかも仮面をはずさなか
ったので顔の造作自体、不明である。彼女のコスチュームをレンタ
ルした場所を見つけるところから手がかりを探すしかない。自前の
衣装を用意する観光客も多数であるので、もしそうだった場合はか
なりこの業務は難航をするであろうことは予想がつく。
内心、天を仰いでため息をつきたくなる。
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とはいえ、並み居る美女たち︱︱しかも血統もお墨付きだ︱︱に
見向きもせず、不惑を迎えた主が、自分が知る限り初めて心を動か
された女である。どうにか、この主人の望みをかなえるのが自分の
勤めである。
﹁そうなりますと、彼女につけている者を動かしても?﹂
表情に出さずに、現在ライアンの頭を楽しく悩ませている主を思
い浮かべてか、ミケーレの目が和む。
﹁つけられていることに気がつかないのに、見事に撒いているよう
だな﹂
﹁ええ。それは見事に﹂
﹁夕べも?﹂
﹁カルネヴァーレですので、最初から放棄していたようにも見受け
られますが︱︱﹂
﹁まぁ、マルディグラが終われば、面接だ。もう充分だろう﹂
そう言われてディミトリは一礼してライアンに早速指示を与える
ために、ミケーレの前から歩み去った。
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やむ落ち。#2
﹁あらやだ﹂
さもとんでもないものを見つけたような声を上げられて、アマン
ダはぎくりとする。先ほどからこの声の持ち主の持ち物チェックと
いう名のガサ入れには随分苦労させられている。まず洋服から始ま
って、下着などすべてをそれほど多くない荷物を現在ひっくりかえ
されている。というか、トランクに入ってる荷物の物量からまずケ
チが入った。彼曰く、これだけの装備で移動してくるなんて女性と
して怠慢であるということである。
﹁あー⋮⋮。何かあったかしら?﹂
初対面の男にホテルから引き上げてきた荷物をひっくり返されて
まず機嫌がいいわけがなく、アマンダはいつもより2トーンほど低
くなった声で確認する。
﹁化粧品ってこれだけなの?﹂
﹁そうだけど﹂
﹁まじでー。うわーなぁに、ブラシひとつ満足に持ってないの?﹂
マスカラも一本だし、このアイシャドウ一体何ヶ月使ってるの、
などなどと取り繕う暇がまったくない。そして大きくない化粧品ポ
ーチから出てくるものの大半をゴミ袋行きにされた。まぁさっきか
ら自分の愛用というか、大抵服を買う世界的規模の激安大衆ブラン
ド物の洋服などは見た瞬間にゴミ袋に入れられているので、いまさ
らな気分である。この男どもは、執事も警備もアマンダの見た目を
40
担当するニコラにいたるまで、自分の新しい雇い主の毛並みに合わ
せてすべてを判断する。
﹁︱︱まさかと思うけど﹂
そう静かに言われて再びアマンダはどきりとした。
﹁基礎化粧品ってこれしかないの?﹂
﹁あー⋮⋮まぁ⋮⋮ぇぇ﹂
アマンダは自分が段々小さくというか、ニコラが段々大きくなる
25歳の女がっ! 肌のお手入れのために持ってい
ような錯覚を覚えた。
﹁妙齢のっ!
るのが、8ユーロのクリーム︵ニベアの青缶︶一個って!!!﹂
と思う。
あーもう信じられないっとぶつぶつ言いながら、それは捨てずに、
避けられてアマンダはおや?
﹁このチョイスは悪くないけど、ただほかがなさ過ぎよ!﹂
そう言ってニコラはポーチ自体をそこに入れてから、ゴミ袋をア
シスタントに片付けるように言った。
41
やむ落ち。#2︵後書き︶
拍手をつけてみました。よろしかったら誤字脱字報告などお願いい
たします。
42
やむ落ち。#3
﹁ライアン。あの調査は︱︱。打ち合わせ中でしたか、失礼しまし
た﹂
ライアンたち警備の事務室に入ってきて、アマンダとライアンが
顔を突き合わせながら打ち合わせるのに気がついて、ディミトリが
そう言った。
﹁ああ。まぁべつにたいした打ち合わせでもなかったから、どうし
ました?﹂
﹁いえ。主が︱︱﹂
少しばつの悪そうな顔でアマンダに視線を一瞬向ける。
﹁︱︱はずしましょうか?﹂
﹁いえ。お邪魔したのは私のほうなので、のちほど⋮⋮﹂
そう言って出て行こうとするディミトリの空気を読まずに、ライ
アンが言葉を重ねた。
﹁あー。あれって結構マジな感じだったんですね。すいません。あ
まり優先順位は上ではないのかと思ってましたよ﹂
﹁私ももう少し手がかりがないとと申し上げたんですけどね﹂
﹁少し気に留めておきますが、どれくらい上げておけば?﹂
﹁気に留めておく︱︱より上程度で大丈夫かと。それではお邪魔し
ました﹂
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そう言ってディミトリは去っていった。アマンダはこの二人のや
り取りに首をかしげると、ライアンが笑いながら少し説明をしてく
れる。
﹁カルネヴァーレの夜にミケーレ様が出会った女性を探せるような
ら探せって言われてるんだ﹂
﹁︱︱は?﹂
﹁あの時はあまり警護もついてなくて、俺達もそれほど注意してな
かったんだが、朝そっとミケーレ様の目の前から去っていったらし
い。あんな豪勢な屋敷に案内されて、一夜をともにしてそのまま去
っていくってのもちょっと笑うけどな﹂
︱︱なに照れて
それはもしやしなくとも、自分のことじゃないかと、アマンダは
少し頬を赤らめた。
﹁あんな透かした顔しててなかなか面白いだろ?
というか雇い主の生々しい話な
るんだよ。さては、アマンダもミケーレ様に⋮⋮﹂
﹁そ、そんなわけありませんっ!
んか聞きたくないですよ﹂
少し顔をそらして、今まで打ち合わせしていた図面に目をそらせ
る。ライアンはその初々しい様子を見て口の端に笑みを浮かべた。
男が圧倒的に占めるこんな職業についてる割に純情だと思って。ア
マンダはあの夜の道化師の男との秘めやかな一夜を思い出して赤面
していたのだが。
44
やむ落ち。#3︵後書き︶
拍手をつけてみました。よろしかったら誤字脱字報告などお願いい
たします。
45
#6︵前書き︶
殺人︵グロ表現ございます︶に関する表現があります。苦手な方は
ブラウザバックしてください。
※本日うっかり2話更新しております。
46
#6
屋敷に戻って、楽な格好でミケーレの執務室に来るようにと指示
されて、アマンダはデニムにざっくりしたセーターに着替えて向か
う。2月の寒さとは関係なく、空調がすばらしく整っているこの古
い屋敷ではそんな格好でも快適である。分厚い木の扉をたたくと、
すぐ近くに控えていたのであろうディミトリが開けてくれて、中に
入るように促す。そこにはほかにミケーレ、ライアン、ニコラがい
た。
︱︱つまり、この4人が中心人物ということか。
そうアマンダは胸の中で一人ごちる。ここまで大掛かりに自分を
テストして、一体何を始めようというのだろうと思った。
﹁はー。相変わらず雑な格好ね﹂
せっかくいろいろなものを用意してるのに、まったく⋮⋮。そう
ニコラが文句を言う。確かに今アマンダが身につけているものはニ
コラに処分されなかった自分のものであった。彼にはどうやらアマ
ンダの服に関するセンスが認めてもらえないらしい。ニコラの文句
などものともせず、ディミトリがアマンダの座るべき座席を指示し
て、コーヒーの用意をする。どういう好みか言ったことはないのに、
完璧にアマンダ好みの薄いコーヒーをたっぷりと注いで、手渡され
る。横には薄いビスケット。これもアマンダが好きなタイプの菓子
である。恐ろしいほどの完璧さだと思う。アマンダがコーヒーを一
口飲んで落ち着いたのをみて、ライアンが説明を始める。
﹁アマンダはメキシコの麻薬カルテルのことを知ってるか?﹂
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﹁メキシコ︱︱。実はあまり知りませんが、大規模な掃討作戦を政
府が繰り広げてますよね。約3万人規模で死傷者が出ていたり﹂
﹁まぁそうだな。ただやつらも随分狡猾で、実際上は政府との癒着
も噂されている﹂
そういってプロジェクタをつける。スクリーンが下りてくる数瞬
の間沈黙が降りて、居心地が悪い思いをアマンダは感じた。
﹁メキシコは麻薬供給の中間地点といわれている。生成されたもの
を加工し、それを最大の供給地アメリカに運ぶ。そのためには彼ら
はさまざまな人物を巻き込む。たとえば連邦下院議員もラ・ファミ
リア・ミチョアカーナの幹部だったという事実がある。彼らは利用
できるものは利用するし、邪魔をするものは排除する。たとえば︱
︱﹂
そういってライアンはプロジェクターにある画像を映した。とて
も強い意志を持った美しい聡明な女性が黄色いスーツを着て映って
いる。
﹁彼女は、メキシコシティの女市長だった。麻薬カルテルの撲滅の
ために働いて、2回の暗殺未遂にあったが、3度目は子供を人質に
とられて︱︱﹂
過去形であることにアマンダは、彼女の行く末をその瞬間に悟っ
た。それを見守ったかのようにライアンは数枚の画像を映し出して
いく。激しい拷問でひしゃげた彼女の体が映し出されていく。頭部
への強い攻撃痕、手や足に残る痛々しいやけどや縄の跡。次々にラ
イアンが死体の説明をしていく。
SNSでカルテルの話題を出し、それらを糾弾した人間。カルテ
ルとは無関係の一般市民だったのに、惨殺されその死体を橋の上か
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らつるされて見せしめにされた。また、彼らを捉えようとして尽力
を尽くした警官4人は首を引きちぎられるように切られて、彼らの
愛車とも言えるパトカーの上にさらされた。
アマンダは軍属の経験はなく、本当に警備一辺倒のキャリアでや
ってきた。死体と言ってもここまで凄惨なものは見たことがない。
あまりの凄惨さに少し青ざめる。
﹁彼らは麻薬のみならず、それに付随するさまざまなビジネスを展
開している。たとえば︱︱ポルノだ﹂
そこに映し出されるのはさらに凄惨である。アマンダとて妙齢の
女性であるので、何度かポルノは見たことがある。喉にクリストス
がある女性のものや、ポルノ業界で人気を博して、ついにはハリウ
ッドデビューした女優のものなどは見たこともあり、あまりの男達
のドリームッぷりに笑いながらポップコーンとビールを友人達と飲
み交わしながら見たことがある。ただ、今ライアンが上映している
ものはまったく別である。 全裸で震える女が立たされている。
何日も梳っていない髪が乱れて顔にかかっているが、元は端正な
顔立ちとわかる。ただし目はくぼみ、唇はひび割れている。
片手をもう一方に回してこすりつけながら自分を守ろうとしてい
る。その手首にはそれとわかる拷問に使われた縄の跡が赤黒くこす
れている。ざらりとした画面がどこか妙にリアルに見えた。登場す
る男にその後散々痛めつけられ、段々と抵抗が小さくなっていく。
血溜りが出来上がったころに男が大きな刀というには無骨すぎる、
鉈のようなものを出して彼女の首にそれを当てた。それまでの抵抗
はどこか諦めたような声も小さなものであったが︱︱。断末魔とは
こういうことかということがわかるようなかすれた大きな声が上が
り、首からびくびくと大量の血が流れ出し女は絶命した。
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そこで終わると思った瞬間に、男がまだびくびくと痙攣したよう
な動きをする女の体を開いて、自分の大きくそそり立った一物をど
ぷりとそこに埋めた︱︱。
あまりのことに、アマンダは口元に手をやって耐えるしかなかっ
た。
﹁彼女は女優だった。ただ、カルテルの逆鱗に触れて、最終的には
こうなった。これが彼らのビジネスであり、やり口のひとつでもあ
る﹂
青ざめてはいるが気丈な様子のアマンダを確認して、ライアンは
ミケーレを見た。ミケーレが小さくうなづいて新たな画像が映し出
される。
50
#7
そこにはミケーレと負けず劣らず上等のスーツを着た長身の男の
画像が映し出された。ただし南米系の浅黒く彫りの深い顔立ちはエ
キゾチックでまったく違う魅力を持つ男である。
﹁カルロス・パラシオス。メキシコで最大級ともいえるカルテルの
幹部だ。年はまだ30代半ば。経歴自体は真っ白だ。スラム出の男
にしては異常︱︱つまりかなり昔から用心深い性格ということだろ
うな﹂
ライアンはアマンダの理解がどこまで出来ているかを確認するた
めに、表情を覗った。真摯に何かを構築していくために必要な情報
を結び付けていこうという姿勢のように見える。つまり、何の後ろ
盾もない最下層からこの男が組織でのし上がるために、とても重要
な任務について、そしてそれをうまく成功させたことを予想してい
るだろう。経歴が真っ白ということは、犯罪検挙率2パーセント程
度のメキシコでも不可避である。カルロスが組織の中で何か大きな
仕事をやり遂げ、たぶんクリーニングされた経歴を持って世に躍り
出たことを彼女は予想をつけた。
﹁彼の表向きの職業は?﹂
﹁︱︱いわゆる実業家⋮⋮だな。マイアミなどのリゾートホテル経
営をメインに、ラグジュアリー嗜好の上流階級や金持ち達を相手に
している﹂
﹁つまり上流階級への麻薬の供給も?﹂
﹁そうだな。高級志向の麻薬倶楽部に、ダンスクラブ、売春︱︱﹂
51
大体のところは、アマンダも想像がつく。快楽に紐づくものは貧
富の差はあまりない。項目としては︱︱。ただサービスと価値が恐
ろしく違うだけである。そこに、銀行家であるミケーレがなぜ絡ん
でくるのであろうと、眉を潜ませた。
そんなアマンダの疑問に答えるように今まで沈黙していた雇い主
が口を開いた。
﹁私が個人的に持っているあるリゾート地の小島を彼は欲した﹂
﹁︱︱お断りになられたんですね?﹂
沈黙のままやんわりと微笑む雇い主にアマンダはその答えを悟っ
た。この男との付き合い自体はほんの数日。しかもあったのはわず
かに2回︱︱あの夜をいれれば3回︱︱だが、きわめてヨーロッパ
的なことはアマンダなりに理解している。無駄なことは口にせず、
こちらに匂わせるだけである。だからこそのライアンやディミトリ
達のような部下は、彼の意向はどこまでなのか、なにが満足という
領域なのかを自分なりに判断して遂行するのだろう。
自分の頭でまずは最低限の要件を考えろというのが、基本姿勢で
ある。
ミケーレはアマンダの様子を見て、ふっと片手を挙げた。ディミ
トリ、ニコラ、ライアンはその合図で立ち上がって部屋を出て行く。
出て行く前に室内の落とされていた光源をつけられたので、ミケー
レの表情が先ほどよりは見える。
﹁先ほど、私はあなたを怒らせた﹂
オペラを見に行ったときにほのめかしたことだろうと思った。
﹁雇い主が︱︱特に自分の命を預ける人間をお調べになるのは当た
り前です﹂
52
﹁あなたが唯一、キャリアに黒星をつけた出来事だから気になった﹂
﹁好きな男に捨てられただけで仕事を捨てた、メンタルの弱い人間
かもしれないと、お思いになられたんですよね?﹂
﹁長年付き合っていた恋人を、自分の義理の妹に寝取られて平気な
人間などいない。メンタルが揺れた状態で傷をえぐった相手にあな
たはどうするかが知りたかった﹂
そういわれてまだ気持ちが揺れる。ハイスクール時代からの恋人、
自分の一番の理解者だと思っていたのに。アマンダはそのことを思
い出して喉の奥からうめき声が上がりそうになるのを懸命に抑える。
思い出そうとするだけで胸が千切れそうな気持ちになる。子供のこ
ろから女らしくなく、空手にはまり、果てはこんな仕事についた女
らしくもなんともない自分。そんなアマンダのことを好きだとささ
やいて、告白してくれた彼の真摯な光をいまだに疑ったことはない。
あれほど自分のことを理解してくれると思っていたのに。いつの間
に心が離れていたのかも全く想像がつかなかった。
ある日突然すべてが壊れていたことに気づかされた。足元のすべ
てが崩れるほどの衝撃だった。彼だけは絶対に大丈夫だと思ってい
たのに。
﹁よくある⋮⋮話です。陳腐な﹂
﹁そうかもしれない﹂
そう言ってミケーレがアマンダのすぐ傍に身を寄せて、そっとほ
つれた髪を救い上げる。あの夜の羽のような指の軌跡にどきりとす
る。言葉は柔和なのに低い耳の奥に響く声に熱い体温で暖められた
ミケーレの男物のコロンと体臭が混じった、体の芯がざわめくよう
な香りが、甘い記憶がよみがえる。思わずふるりと身を震わせて、
ミケーレを見つめた。
ミケーレは感情の読めない微笑を唇に漂わせて、胸ポケットから
53
テゾーロ
一枚の写真を取り出した。8歳くらいの少女の写真である。
﹁これは︱︱?﹂
﹁イルマ。⋮⋮私の宝だ﹂
﹁え︱︱?﹂
﹁あなたが言うような陳腐な話のひとつだ。ある男から取引を申し
込まれた。私は断った。そしてこの子が私の手の内からいなくなっ
た﹂
そう言って笑みを深くする。ただし目の奥には傷ついた光が宿っ
ている。
﹁カルロス・パラシオス︱︱が﹂
﹁ああ。彼の屋敷にとらわれている。もともと彼とは因縁のある間
柄だったから、私の宝の存在には気がついていたんだろう﹂
﹁取引に応えられるおつもりは?﹂
﹁ああいった男達は一度許せば、ずかずかと入ってくる。断固とし
て繋がりは持ちたくない。それに︱︱あの島は家族の大事な思い出
の島なんだ﹂
そう言って男は指先で写真の表面を撫でた。
﹁一族には認められていない子供だ。さっきの映像を見てあなたに
も想像がつくと思うが⋮⋮﹂
﹁︱︱子供だろうが容赦しないということですか?﹂
﹁ああ。今は大事に彼の屋敷内に保護されているが⋮⋮﹂
キッズポルノというジャンルはアメリカに住んでいるアマンダに
とっては耳にした事のある話ではあった。行方不明の子供達の少な
くない数はそういう組織にさらわれて、被害にあっていると言われ
54
ている。ただアマンダは軍隊経験も警察組織での経験もない。善良
に育てられた恵まれた子供であったのでまったく感覚的についてい
かない。そんなものがあるという話は聞いたことがある。ただしど
ういうものかは彼女にとっては想像外のものであった。
﹁まさか。7歳か8歳︱︱ですよね?﹂
﹁カンボジアやタイの売春宿ではその年頃の子供なんてごろごろし
ている﹂
﹁︱︱っ﹂
﹁一族の直系というのは正直、雑用係のようなものだ。大事なとき
に自分の決断はままならない。あの子を救うために、カルロス・パ
ラシオスとの取引に応じることを一族は拒否した﹂
家族の大事な思い出の地を手放すことを彼の一族は拒否したのだ。
そのためにいたいけな子供が犠牲になろうとも。そして確かに取引
に応じればあとはずるずると入り込まれていくというのも確かなの
だろう。あんな徹底した暴力の世界に生きている組織に目をつけら
れたくない。アマンダはミケーレの一族の選択もわからないわけで
はないとは思った。
﹁彼の屋敷に招待されている。もちろん、中には護衛は連れて行け
ない﹂
ああ。だから、女の護衛を捜していたのかと、アマンダはぼんや
りと思う。自分を恋人に仕立てて、マフィアなどよりも恐ろしいメ
キシコのカルテルの幹部の屋敷に一人の子供を救いに行くために。
﹁たとえ救い出せても⋮⋮﹂
その後、彼の周りはさらに危険になるのではないかと、アマンダ
55
はとっさに口にする。
﹁それは、策というか、賭けのようなものだが、どうにかなると思
う﹂
ミケーレが賭けのようなものという割りに、太い笑みをその貴族
的な容貌に浮かべるのをアマンダは見た。ふと気がつくとミケーレ
のひざに自分のひざがぶつかり合うほどお互いが近づいていたこと
に気がついて少し身を引く。その様子をミケーレが緩めた笑みを浮
かべた。
﹁アマンダ。説明したとおりだ。あなたにも相当な危険を負わせる
と最後になるであろう選択をミケーレが突きつけて
ことになるが︱︱﹂
どうする?
きた。
アマンダはいまだ写真を撫でるミケーレの指先を見た。もうすで
にあの夜につけた噛み痕はどこにもない。男らしいのに整った乾い
た指先がそこにはあるだけだった。
56
#8
﹁まずは数日はミケーレ様との親密なところを見せ付けるためにカ
ルロスの持つリゾートホテルで過ごしてもらうことになる。それか
ら、あっちへの滞在期間は3日間を予定している﹂
そうライアンがアマンダに説明をする。そしてニコラが先ほど綺
麗に並べた装飾品を手に取った。
﹁まず、ピアスにはインカムを仕掛けている。たぶんミケーレ様の
ボディチェックの方が念入りだと思うし、このピアスはある操作を
しないとインカムとしての電波を発することがない﹂
つまり、ボディチェック時に作動していなければ見つかる可能性
は低いということである。しかし、一見とんでもなく高価に見える
ダイヤモンドのピアスにそんな仕掛けがなされているとは⋮⋮。そ
う思うとアマンダはミケーレがとんでもなく財力を持つ一族の人間
であることを思い知らされて、澱のように何かが自分の中にたまる
のに気がついた。そんな気持ちを脇に押しやりながらライアンの説
明を聞く。
﹁彼女がとらわれていると思われる屋敷の区画はこの辺り﹂
ざっくりとした絵図面の一角を指差す。
﹁一人あそこで家事をやってる女を口説いてはいるが、どこまで協
力してくれるかは不明だ﹂
57
実際、こちらの目的を明かすのは危険だろう。やれるとして、何
かの受け渡しが出来るかできないかくらいだとアマンダは考えた。
武器を持ち込めないということはとても不安だった。
﹁そんな不安な顔するな。どうにかしてアマンダが使えそうなもの
を差し入れしてやるし、少し仕込む程度はできると思う﹂
ライアンが安心させるように笑った。出来るといっても薄いナイ
フくらいだろうと、アマンダは思う。そうなると自分が苦手として
いる分野である。しかも肉弾戦となると、体力的に男との差は明白
だ。空手が自分の唯一の武器だと思ったほうがいいかもしれない。
﹁アマンダ。武器になるものは意外と転がってるはずだ。これしか
ないって思わないように気をつけろ。ただ︱︱武器に頼るな。俺達
があんたに望んでいることは⋮⋮、アマンダに依頼している仕事は
無事にミケーレ様と3人で脱出することだ。相手をやっつけること
じゃない﹂
そうライアンは笑って、バックアップ部隊の配置や、ミケーレの
宝を確保できた場合のシミュレーション案をアマンダに話した。も
う耳がたこになるくらいこのシミュレーションは繰り返されている
が、体に叩き込んでいく上ではとても重要である。彼らの屋敷の中
はまったくわからない。警備も見える部分はあるが大半はまったく
見えないし、想像することは出来るが実際と違っている可能性は大
きい。そういう準備を整えても不安は多い。
﹁ミケーレ様﹂
58
書類からふと顔を上げて、ミケーレは執事の顔を見た。
﹁アマンダの仕上がりは?﹂
﹁どこから見ても貴婦人のように仕上がったとは言えませんが⋮⋮﹂
﹁付け焼刃にしては︱︱ということか。まぁいい﹂
﹁ミケーレ様⋮⋮﹂
無表情に見えてミケーレを心底心配しているディミトリにミケー
レは唇の端だけの微笑を浮かべる。彼が自分の世話役になり、そし
て執事として自分の屋敷を守るようになってからの年月はそれほど
長くはない。ただ短くもない年月である。大抵のことはディミトリ
に知られていることもわかっているし、そして何も言わなくてもミ
ケーレが考えてることや感じていることを察してくれる関係は心地
よかった。
﹁私しか、彼女を救うことは出来ないからな﹂
一族が拒否した子供。それでもミケーレにとっては愛おしいだけ
の存在である。自分が子供のころから大事にしてきた女が残したた
った一つの宝。彼女の面影を強く残した少女。自分の腹心の︱︱と
呼べる部下達は自分が彼女をどれほど慈しんでいたかを知っている。
だからこそ、一族の決定が出た後のミケーレの行動をバックアップ
し、さらに命を失うよりもひどい運命に転ぶかもしれないのについ
てこようとしている。
﹁私達がこの屋敷を出た後のことは、以前から打ち合わせしている
通りに﹂
﹁心得ております﹂
59
そう頭を少し下げる相手をミケーレは退室するように言おうとし
て、少し手を止めた。そういえば︱︱。
﹁私が頼んでいた︱︱﹂
言いよどんだ自分に苦笑をしたが、ディミトリが少しだけ不思議
そうな表情でミケーレを見つめる。今そのことを話題に乗せても自
分は一体どうしようというのだと思い苦笑した。
﹁いや。なんでもない﹂
そう言ってディミトリが部屋から出て行くのを確認してミケーレ
は長いため息を吐いた。自分でも年甲斐もなく彼女を思い出すと腹
の底が熱くなる。カルネヴァーレの夜に自分の腕の中に納まった、
一夜の夢のような女。
彼女の素性を探すべく調査をさせていたが︱︱、時間切れである
ことをミケーレはため息とともに受け入れた。
長い間にそんなことはたくさんある。もちろん手に入れたものの
方が多いのは自覚しているが、諦めたもの、壊してしまったもの⋮
⋮。それを諦観という名の仮面で受け入れ、そして自分がどこに行
くべきかを決めてやってきた。
だからこの甘くて痛い胸の内にとぐろを巻くように巣食っている
ものもいつか消えてなくなるだろう。そして自分には成すべき事が
ある。すでにすべては動き出している。そして動き出したからには
奔流に流されるようにここではないどこかへ行き着くことになる。
行き着く目的地はすべてミケーレの中に細かく計算されて居座って
いる。決定的に動き出してしまえば、ミケーレでさえ止めることは
出来ない。確かに今なら引き返すことが出来る。︱︱尊い子供の犠
牲というものがついてくるが。もちろんそんな選択肢はない。自分
が最も失ってはならないものを手に入れることに集中すべきだ。そ
60
んなことはわかっている。ただこの2週間ほどの準備期間の間に賭
けた。彼女が再び自分の腕の中に訪なうことを︱︱。そう思いつつ
もミケーレは再びため息をついた。
オディール
﹁私の黒鳥⋮⋮﹂
そんな呟きとともに︱︱。
61
やむ落ち。#4︵前書き︶
#8の後のひとこま。
62
やむ落ち。#4
﹁ライアン︱︱。あ、失礼しました﹂
そうライアンたち警備の事務室に入ってきて、ライアンとニコラ
が顔を突きつけているのを見て、ディミトリがきびすを返そうとす
る。
﹁いえ。たいした話ではないので、別にかまいませんよ。どうしま
した?﹂
ライアンに促され、ディミトリは足を止める。最近こういうシチ
ュエーションが多い。以前は部屋の向こうの人の気配を読むことが
出来たが、最近はどうもその能力が鈍くなっているのかもしれない
とディミトリは少し苦笑をする。
﹁あの調査はどうなりましたか?﹂
ディミトリは答えを予想しつつもライアンに尋ねる。
﹁ああ。正直難航中です。それに︱︱この件以上の優先順位があり
ません﹂
﹁︱︱そうでしたね。確かにそうです。申し訳ありません﹂
そうディミトリがばつの悪そうな表情を微妙に浮かべて謝った。
自分よりも10は年上の初老の男に頭を下げられて、ライアンは頬
を指先で少しだけ掻いた。
63
﹁こちらこそ申し訳ありません﹂
頼まれた依頼の重要度を見誤ったことをライアンが気にしている
のかもしれないと、ディミトリは軽く頭を下げる。
﹁ところで、アマンダは?﹂
﹁今は美容の時間よ。ピッカピカに磨かせてるわよ﹂
そうニコラに、にっこりと微笑まれて、ディミトリはうろたえた。
というか、アマンダの叫びが聞こえるような気がして、後でアマン
ダの好きなオレンジのフレバーティーとショートブレッドを差し入
れようと決意する。今回の件で最もミケーレに近いところで身を挺
する役目をすんなりと引き受けてくれた気のいい︱︱というにはあ
まりにもお人よしな女性は、貴婦人としての立ち居振る舞いに関し
ては、頭が痛くなるほどひどい。ただ、ニコラの美容部隊のエステ
を毎日受けさせられ、ライアンたちとの警備訓練、そして必要事項
を覚えるために毎晩睡眠時間を削ってがんばっていることは知って
いる。
そのため、より一層ニコラに絞られる羽目になっているわけだが。
少しだけ同情の気持ちは禁じえない。終了予定時間をニコラに確認
して、ディミトリは警備の事務室を去っていった。
扉が閉まるのを確認してから数瞬、ニコラとライアンはだまって
息を殺していた。ディミトリが入ってきたときにさり気に手元から
隠した写真を取り出して見つめる。
﹁ニコラ、絶対だな?﹂
かすれた低い声でライアンが確認する。ライアンが取り出した写
真の一部を美しく整えた爪先で指差した。
64
この頬骨の高さ。鼻の少し曲がった部分。確か
﹁もちろん。私が毎日あの子の顔どころか体を管理しているのは知
っているでしょ?
のこの写真だとざらりとしてるし、仮面もかぶっているけど体つき
も、ここにきたときに近いわ。それになんといっても︱︱耳の形が
かなり似ているわ﹂
自信を持ってそう断言されて、ライアンは頭を抱えた。耳は確か
に目立たないがかなり特徴は出る。不鮮明な画像ではあるが、そう
ニコラに言われるとライアンはこの二人が同一人物だったことを認
めざる終えない。ガシガシと短い金髪をかき回して、喉の奥からな
んとも言えない叫び声が低く出る。その様子を見てニコラが気の毒
そうに肩をすくめる。まもなくここ数ヶ月、ミケーレに最優先とい
われて準備をしてきたミッションが始まってしまう。しかも、その
中心人物になるであろう女がミケーレが捜し求める女だったとは⋮
⋮。
非情といわれてもいたし方がないが、ライアンは最後はアマンダ
を切り捨てることも厭わないつもりである。だが、彼女があの夜の
女であったことをミケーレが知ったときに、一体どうなるのか⋮⋮。
そう考えると非常に頭が痛い。痛いどころか回答を思いつけない。
オディール
ディミトリがやってきたときに反射的に写真を隠したのはそのため
だ。今この時期に、黒鳥と称している女の写真を見ているというこ
とは物事の進展を悟られてしまうためだ。
﹁偶然か、故意か⋮⋮﹂
﹁偶然じゃなければ、運命なんじゃない?﹂
そうにっこりとライアンの葛藤を踏みつけるようにニコラが笑う。
﹁ニコラ⋮⋮﹂
65
少し情けなさそうに眉を下げる壮年の男の手から、あの夜に監視
カメラが撮った画像を引き伸ばしたものを、アマンダを調査したフ
ァイルの中にすっと入れ込む。
﹁もし偶然じゃなければ︱︱。なるべくしてなるわよ﹂
オディール
ニコラはアマンダのファイルを警備の人間の個人情報をまとめた
棚に入れて仕舞う。確かに、現時点でアマンダが黒鳥であったこと
をミケーレに伝えてもいいことがない。彼自身が立てた策のほとん
どが灰燼に帰し、ミケーレもアマンダもすべてを失ってしまうほど
の危険に合う確率が高くなる。そう考えると、ニコラの対応は正し
いのかもしれない。ライアンは小さくため息を吐き、そうだなと呟
いて、ファイルの棚の鍵を閉めた。
66
#9︵前書き︶
人種差別的な箇所がありますが、物語の特性上必要な箇所です。ご
理解ください。
67
#9
﹁いかがいたしましょうか?﹂
そう、部下に言われて、カルロスは自分が考え事をしていたこと
に気がついた。白と美しいブルーで彩られたホテルのプール沿いで
会話を聞かれないように話していた最中だというのに。自分がおぼ
えている直前の会話を思い出す。話しだして相手の反応を覗うと自
分がそれほど長い間、思考の迷路に入っていなかったことに気がつ
いて少しほっとする。いくら自分がある程度の地位まで上り詰めて
おり、カルテルに莫大な利益をもたらしているとはいえ、油断は大
敵である。たとえ、8年来の部下であろうとも。
孤独︱︱。それはカルロスのような男達が必ず罹患する病である。
ましてや、カルロスの場合はより一層の重みを持っている。静かに
部下の顔を見るカルロスを相手は緊張した面持ちで見つめている。
ラテン系らしい日に焼けた茶褐色の肌に、撫で付けた黒髪︱︱そ
して印象的な黒い瞳。口の端に笑みを浮かべれば、大抵の女はとろ
りとした視線で彼の顔を見つめることしか出来ない。6フィート近
い身長にその身長を補うべく適度についた筋肉。大抵の女は彼のス
ーツの内側を想像するだけで生唾を飲み込む。ただそんな男にじっ
と視線を合わされると居心地が悪い思いをすることも事実であった。
慣れているとはいえ、その視線にさらされると思わず生唾を飲み込
んで、発言を待つしかなかった。
﹁その情報はどこから?﹂
﹁ハリウッドの確かな筋からです﹂
﹁では、本人ということか。いま、彼女は?﹂
﹁パウダールームにいます﹂
68
パウダー
パウダールーム。普通であれば化粧室のことであるが、この場合、
麻薬の粉を指す。カルロスが高級志向な顧客に麻薬の売買を行うた
めに作った場所である。非常にラグジュアリーな内装を施した部屋
に客は案内されると、着飾った孔雀のような男が接客をする。案内
された個室で、客はその男によって施術︱︱という名目で麻薬を楽
しむ︱︱される。
パライーソ
そこで夢うつつに男や女に抱かれることもできるし、眠るだけと
いうこともできる。客はそれぞれの天国を楽しむわけである。そこ
に著名な女優がやってきたことを報告されたわけである。彼女は目
下のところ、カルロスが手をつけているエンターテイメントビジネ
スの邪魔となる一派に後押しされている女であった。
いまどき昔風のハリウッドの良作を作ろうとするユダヤ人一派で
ある。現在カルロスが買おうとしている小説の権利を争っている。
原作者が権利で得る金銭ではなく、スタッフやキャストにこだわり
を見せることが難航していた。
今流行の若い母親や20代30代のヤングアダルト小説で育った
世代が熱狂的に支持する作品である。旬を過ぎればこういう作品は
エンターテイメントとして成り立たない。さっさと綺羅星というよ
りも流星のような若手俳優たちをそろえて封切ってしまうのに限る。
それなのに、交渉がなかなか進まず、カルロスとしては手を引くか
引かないかのぎりぎりのところで、相手側が旗印のようにキャスト
の有力候補として担ぎ出した女が自分の手の中に飛び込んできたの
だ。
﹁これ以上とない弱みを握れ﹂
そう普通の口調で静かに言う方がより冷酷さを相手に与えた。件
の女優に何も含むことはない。金色の飴細工のような細い髪、きゅ
っとくびれた腰に画面からも柔らかさを予想できるとろりとした肌、
69
美貌にあふれ、もちろん運にも恵まれていた︱︱これまでは、だが。
彼女は恵まれたものの傲慢という名の迂闊さで踏み込んではいけ
ない場所へと踏み込んでしまった。そんな場所へと踏み込んでおき
ながら、こんな場所で簡単に背中をさらしてしまうような行為を取
った。麻薬とセックスは著名人︱︱特にティーンの支持を得るため
にクリーンなイメージで売り出している女優には致命的だろう。確
か、ワールドワイドに展開しているフランスのコスメブランドとも
契約をしていたはずであるから、スキャンダルをつかめば違約金だ
けでも大打撃であろう。そうなるとあとは転がっていくことは簡単
だ。
︱︱草原で群れからはぐれてしまったガゼルを狩ることなど容易
い。
カルロスはそう思って口の端にゆがんだ微笑を浮かべた。彼がこ
の10年の近くの間で自分の唇に刻むようになった捕食者の笑みで
ある。もちろん、ゴシップの証拠を匂わせて揺さぶりをかけ、これ
女優
をネタにまずは有力者との取引を有利にするためにカルロスが操る
売春婦にする。もちろん価値が落ちればポルノムービーで主演女優
として活躍してもらう。たった一人の女の運命をたやすく地獄に振
り落とすことに何の躊躇も迷いもかんじることはなかった。
ただ先ほど、部下の報告を受けながら思い浮かべていたことを思
い出す。そして白い建物と抜けるような青い空と海に視線をやった。
その中で自分に笑いかけていた女のことを自然と思い浮かべた。
いつでも心の隙間に入り込むように彼女の屈託のない笑いがカルロ
スの思考にふいっと訪れる。久しくそんな瞬間はなかったから、カ
ルロスも忘れていた。︱︱自分に孤独を忘れさせ、そして、更なる
孤独に突き落とした女のことを。なぜ唐突に彼女のことを思い出し
たのかは、カルロスにはわからない。
70
思い起こした彼女に対して何の気持ちも今は思い浮かばないこと
に、どこか安堵している自分がいた。ただ何か予感めいた何かが彼
の神経を尖らせていることを認めはしていなかったが。
71
#10
アマンダは困っていた。
困っているというよりも困惑していた。確かに、ミケーレの恋人
兼警護役として︵正確には警護をするための恋人役なのだが︶雇わ
れることには同意した。だからここにくるまでに、毎夜、ミケーレ
とともにあちこちに出かけた。仕上げのようにカルロスの持つホテ
ルで彼らの目がある場所でいちゃつくことも仕事のうちである。
ここまではライアンたちも周りにいるので、それほどアマンダ自
身に負担はかかっていなかった。
︱︱だからといって⋮⋮。
そう思いながらアマンダは鏡に映る自分を思わず見てしまう。プ
ールサイドで待っていると微笑んだミケーレ。きらりと宝石のよう
に一瞬光ったきれいな瞳と口元にしっかり浮かぶ笑みに見ほれてし
まったが、あれは、あの笑顔は完全に猫がねずみを甚振るときのよ
うな微笑だったことにフィッティングルームに入ったときに思い出
した。短い付き合いではあるが、ミケーレは本当に︱︱人が悪い。
自分より一回り以上も年上だし、落ち着いて見えるし、見えるだけ
でなくあの低い心地よい声で理路整然とした考え方を述べられると
確かに説得されてしまう。︱︱が、ああ見えて遊ぶという衝動にあ
まり勝てない人のようでもある。ピピ⋮⋮というブレスレットから
と思い、着るように指示
電子音が鳴った。それでミケーレから離れて10分以上たっている
ことに気がついて、アマンダはままよ!
された水着を手に取った。
﹁は、恥ずかしい⋮⋮﹂
72
白いパレオは確かにこの場所には似合っているかもしれないが、
自分の肢体の大半がさらされる水着に思わず背中が丸まりそうにな
る。しかも、こんな面積だと丸腰過ぎて、さらに心もとない。何度
も尻のほうの布地を調整しながら歩く。ただ、ミケーレに恥をかか
すようなまねをした場合、ニコラやディミトリが黙っていないのも
わかっているのできわめて表面的には自分の体に自信のある女のよ
うにさかさかと、しかし優雅に水を滑るようにとニコラに教えられ
たとおりの歩行法でプールサイドへと向かう。プールサイドでミケ
ーレを見つけて一瞬だけ気を抜いたのがまずかった。
緑の影から一人の男がやってきたことに気がつかずドンとぶつか
ってよろけて尻餅をついてしまった。
﹁︱︱!﹂
ぶつかった男を思わず見上げると冷えた瞳にぶつかる。6フィー
ト近い身長に見合う分厚い胸板。スーツからのぞく肌はラテン系特
有の褐色。濡れ羽色の黒髪はミケーレとはまた違うつややかさを発
していた。
︱︱カルロス・パラシオス⋮⋮!
思わずびっくりして目が零れそうなほどに見開いたアマンダが自
分に見ほれたと勘違いして、カルロスは微笑みを浮かべた。
﹁失礼。セニョリータ﹂
そう、笑って尻餅をついて固まってしまったかのように見えるア
マンダの手首を取って引き上げた。アマンダからするとカルロスの
後ろに控える男が、︱︱銃を握っていたのだろう︱︱さっと手を胸
73
元から引き出すのを確認していて、これまた立ち上がりながらバラ
ンスを崩した。ぽすんと軽い音がなったかと思ったら、不思議な甘
さを感じるタバコの香りが鼻に漂う。背中から腰にそっと撫でられ
るような気配を感じてアマンダは頬を赤らめて体勢を整えた。そん
な初々しい態度とアマンダ自身の均整の取れたすらりとした肢体を
カルロスは目を眇めて眺めた。確かに女優やモデルのような美しさ
ではないが、健康的な美しさとうっすらと肉に覆われた腹筋、長い
足というのは、カルロスにとって非常に魅惑的な女性に見えた。
もう少し彼女のことを知りたい。珍しくカルロスは声をかけよう
と口を開きかけた。その口元に引き寄せられるようにアマンダはふ
らりとカルロスに近づきそうになる。危険な男だとわかっているの
に目が離せない。そしてついつい惹かれて、飲み込まれていくよう
な錯覚を覚えた。
﹁︱︱アマンダ﹂
そんなアマンダを見抜いたように落ち着いた男の声が二人の間に
響く。
﹁ミケーレ﹂
後ろを振り返って、アマンダはミケーレの元に駆け寄る。プール
サイドに来いといった割には、ミケーレ自身は麻のスーツである。
一体自分に水着を着せる意味があるのかとアマンダは思うが、演技
続行中である。というか、いきなりカルロスの前で本番状態である。
気持ちの中では非常にあせっていたので、カルロスの目には恋人に
ダンドロ⋮⋮﹂
誤解されないようにあわてて駆け寄っていく女のように見えた。
﹁セニョール
﹁シニョーレ パラシオス。こんなところでお会いするとは﹂
74
驚いたような言葉をつむぐ割には落ち着いたミケーレの言葉にカ
ルロスは、一瞬の驚きを持って笑いかける。間に立っているアマン
ダは気が気ではない。これから下手をすると命のやり取りをするこ
とになるであろう男との偶然の邂逅に非常にメンタルがゆれていた。
思わずライアンたち警護チームの配置を確認したくなるがぐっと我
慢をする。彼らがいることを信頼して自分は自分の役割を演じなけ
ればならない。
﹁ミケーレ?﹂
そう小首をかしげて紹介を促す。
愛しい人
﹁イナモラート。シニョーレ カルロス・パラシオス、今回君と一
緒に行く屋敷の持ち主だよ﹂
﹁まぁ。はじめまして。滞在させていただくのをとても楽しみにし
てますの。アマンダ・トゥーリスです﹂
そうアマンダはニコラに教えられたとおりに手を差し出した。ア
メリカ式の握手ではなく、貴婦人のように手の甲を上に向けて。カ
ルロスはその手を持ち上げるようにして指先に口付ける。ぞくりと
背中にふっと触れられた瞬間になんともいえない衝撃が走るがアマ
ンダは笑いを浮かべながらカルロスの目を見つめた。
スナッフフィルム
こんな風にジェントルな振る舞いが似合う男であるが、ミケーレ
に見せられた殺人ビデオの画像が目の奥にちらついた。この男のど
こかにああいうものでビジネスをする冷酷な局面があることを忘れ
てはならない。そしてミケーレを守るためにはこの男を出し抜かな
ければならない。そう思いつつも、カルロスの瞳の奥に見えるゆれ
る光に吸い込まれそうになった。
75
﹁こんな美しい人を隠していたとは﹂
そう笑いながらカルロスはアマンダの手を離した。それを合図に
ミケーレはアマンダの腰を引き寄せてカルロスに一言二言世間話を
して会釈をした。にこやかに笑いながらもアマンダはがっちりと自
分の腰に回ったミケーレの腕の熱さに緊張感を感じて自分の失敗を
悟った。自分の雇い主に助けてもらうとは⋮⋮。
﹁申しわけありません﹂
﹁あんなところで彼にまさか会うとはな︱︱。あなたの引きの強さ
にはびっくりしてしまう﹂
そう茶化されてほっとする。
﹁アマンダ︱︱﹂
少し甘く笑われてドキッとする。あの夜の道化師の仮面の向こう
にこんな甘くて安心できる笑みがあったことを思い出す。あの一夜
の出来事をミケーレはどう思っているのだろうかとアマンダはふと
思う。自分の素肌にまきつく乾いた指先は不自然にならないように
ふんわりとしかアマンダの体を覆っていない。その羽のような感触
が、アマンダの肌を掠るたびに体の奥底に火をつけていく気がした。
﹁私はあなたを金で雇っているが、お互い信頼しあわないとだめだ﹂
アマンダがそんな状態になっていることを察してもいないのであ
ろう。ミケーレは低く掠れた声でアマンダの耳元にささやく。傍か
ら見れば恋人に甘くささやく姿に見えるだろう。
﹁ここから先はどこでも警戒しないといけない。盗聴含めてだ。確
76
テゾーロ
かに私は私の宝の救出を優先する。だからといって、あなたを見捨
てるつもりはまったくない﹂
﹁ミケーレ⋮⋮﹂
とても厳しい仕事を要求されているのは自覚しているし、それに
ついてのやりがいも感じている。ただ、ミケーレに自分がどうなっ
てもいいと思っていることを見抜かれているような気がした。確か
に、恋人に裏切られてから、自分の居場所がどこなのかがわからな
いという気分がついて回っている。
﹁あなたがこんな仕事を引き受けてくれたときに、あなたがあまり
自分を大事にしていないのはわかった。それでもあなたがいいと。
あなたにかけようと思った。だからこそ私と一緒にあなたも生きて
あそこから戻ってくれ。でないと︱︱だめだ﹂
この仕事自体が失敗すると言外に言われて、アマンダは目を見張
る。生きて帰る⋮⋮。そのつもりがなければきっと誰一人として助
からないとミケーレは思っている。そしてそれはきっと正しいのだ
と反射的にアマンダは悟った。自分が、どうなってもいいと思って
いるアマンダの気持ちの奥底を理解しているのである。その上で自
分の命を大事にしない人間では、きっと最後の最後でミケーレを守
れない。そういうことを彼は伝えているのだろうと思う。
﹁私と一緒に生き残って。そしてそれからあなたは生き方を考え直
しても遅くないだろ?﹂
そう覗き込まれながら、ミケーレはアマンダの指に口付けを落と
す。先ほどカルロスが触れた場所である。ミケーレは意外と縄張り
意識が強いということに、改めて気がついてアマンダは少し噴出し
た。突然笑ったアマンダにミケーレは不思議そうな表情をしたがア
77
マンダは、気にせずに腰に巻きついたミケーレの手に自分のものを
絡めた。
﹁ええ。ミケーレ。一緒に生きて戻りましょう﹂
アマンダはどこか信じていない自分がいることも悟っていながら、
ミケーレの言葉に縋るようにそう言った。
78
#11
アマンダとミケーレと別れたあと、カルロスは後ろを振り向いて
しまった。目の端に仲睦まじく雑談する二人の姿を捉える。
﹁︱︱。アマンダ・トゥーリス⋮⋮か﹂
﹁カルロス様?﹂
胸騒ぎを感じる。一見、無害な女性に見える。アメリカ人の女性
がたまたまイタリア旅行に行った先で、ああいう類の男に見初めら
れることは、決して高い確率ではないが皆無ともいえない。非常に
幸運に見舞われた女であるが、そこに奢っている気配は感じられな
かった。経歴を見ていると普通の女性である。軍籍などもなく、ア
メリカでは会社員をしていたらしい。子供のころに両親と死別して、
両親の友人に引き取られて育ったことが、少し特異といわれれば特
異な点ではあるが、それほど珍しいことでもない。ハイスクール時
代からの恋人と別れて、傷心旅行で訪れたイタリアでミケーレに出
会ったと報告書にはあった。
それほど危険性のない彼女の経歴に、あまり深堀はしなかったわ
けであるが︱︱。
彼女の目を覗き込んだときに、自分も見覚えのある深く傷ついた
ことのある人間が宿す光を一瞬見た気がした。少しだけ腰に手をま
わしたときの肌の滑らかさ。さらりとした滑らかさのある肌は何度
もなぞりたくなるほどの気持ちよさだった。ただそれだけでない、
女性として好ましく感じる以外の何かをカルロスはアマンダから感
じ取った。
︱︱が。
79
ミケーレがアマンダに声をかけた瞬間の彼女がわずかに見せた反
応。少しだけ背筋が伸びて目に力が宿った気がした。恋人もしく庇
護者に誤解されるような現場を見られたからの反応とも取れるが、
何かがカルロスにそうではないものの予感を伝えた。
こういった違和感が自分の命をつないできたことをカルロスはわ
かっている。横にいた部下に再度アマンダの身元を調べるように伝
えてカルロスはミケーレたちを迎える準備に抜かりはないかを考え
た。
ミケーレ・ダンドロ。ヴェネチア共和国の黎明期からヨーロッパ
大陸で縦横無尽に暗躍した古い古い血の一族の頂点に立つ男。表舞
台に出ない︱︱わざと出てこない彼らであるが、圧倒的な力を持っ
ている。銀行家の冷徹さと、先を読む力。そしてなんといってもさ
まざまな秘密を秘する彼ら一族の鉄則。共和国時代のヴェネチア政
府に請われて、各国の情勢を探るという業務を代々請け負っていた
ときからだ。今は各国の有数の実業家達の秘密を一族で握っている。
そして金の紳士録と呼ばれる貴族の男達の系譜にも記されている一
族である。カルロスの生き様とは完全に逆すぎて、彼を理解するこ
とは出来ないと思えるほどだ。
あの冷徹な実業家を前にするとたまに自分が子供のように感じて
しまう。彼との初めての邂逅のとき、カルロスはただのチンピラ︱
︱いやただの野良犬だった。
メキシコシティ近くのスラムでドブ鼠のように育ち、いつかここ
を出て行ってやる。そのときは真っ白なスーツを身につけて出てや
ると馬鹿な子供の夢を胸の内に、あらゆることをしてきた。最初は
麻薬組織の本当に使いっぱしりから⋮⋮。
彼は見張りの才能があり、何らかの嗅覚が働く子供だったのも幸
いしたかもしれない。そのうち売人組織の幹部に整った容姿と用心
深い性格を気に入られて彼はなかなか恵まれた待遇を獲得していっ
た。
80
学校に通わせてもらえたのも幸いした。当時のボスがどれほど、
カルロスのことを気に入っていたのかが振り返るとよくわかる。
ただしもちろん犯せといわれれば男だろうが女だろうが犯したし、
言われるままの方法で殺しもした。ボスは容姿のよい彼を男娼のよ
うに使い方もしたし、さらに残酷なことをさせたりもした。たとえ
ば当時の自分のボスを裏切った女を簡単には死なないよう切り刻ん
でから、生きたまま土の中に埋めて処分したこともある。それにつ
いて良心の呵責など感じたことはなかった。︱︱というよりそんな
環境に育った自分が良心など持ちえることなどなかった。
彼が良心らしきものの存在を知ったのは、ほんの10年ほど前で
ある。
徐々に頭角を現して後ろぐらい仕事だけでなく段々と自分の才気
で表向きのビジネスも成功し始めていたが、カルロスは表向きのビ
ジネスをどういう風に展開するかを悩んでいた。マーケットを広げ
ていくには富裕層をターゲットにするべきだと感じていた。食べる
もの、ロケーション、ゴージャスなショーというものに加えて麻薬
と売春をセットに巧妙に表と裏の仕事を展開することが効率的であ
ると考えた。そうしてはっと気がつくと金持ちたちは泥沼にはまっ
てカルロスの提供するサービスから離れることが出来なくなってい
るという寸法である。
ビジネスの方法もそれなりの資金も持っていたが、彼が持ってい
ないような富裕層に強い人脈が必要である。
そのためにカルロスが目をつけたのは、とある議員の娘である。
アメリカにしては古い血の出身者で、最初の顧客開拓のためには、
悪くない相手である。身持ちも悪く、火消しに周りがかなりの確立
で走り回っている︱︱が、やはり政治家志望の古い一族の男との婚
約も整っていた。こちらも自制はしているようであるが、それなり
に遊んでいる。周到に彼らの身辺調査やのちのち彼らの首ねっこを
81
押さえれるような証拠を押さえながら、カルロスは女に近づいた。
カルロスに女はたやすくと身をゆだねた。女がそのうちカルロス
に執着するようになったことが誤算であった。女がビジネスの提携
の境界を越えるような態度を度々取るようになったが、あいにくと
まだ彼女の利用価値はある。うまくごまかしながら付き合ってはい
るがさすがに辟易としている自分に気がついた。
少し息抜きにと自分が次にホテルを構えるならどこにするかとい
う下見を兼ねて訪れたリゾート地。そこで、カルロスは出会ってし
まった。無垢な瞳を持つガブリエッラに。ガブリエッラが、カルロ
スに良心と︱︱人を恋しく感じる心を教えた。そして、あっという
間に目の前から去っていった。
そこまで思い出してカルロスは自嘲の笑みを口にたたえた。
彼女は無垢などではなかった。確かに抱いたときには初めてだっ
たし、男に不慣れだったのは確かだ。愛を語ることも︱︱初めてだ
っただろう。何度も軽い口付けを交わしても頬を染めて、きらきら
とした瞳でカルロスを見つめてはいた。
だが、最終的にはカルロスを捨てて、自分が元いる世界へと戻っ
ていった。
つまり、彼女の一族が選んだ男が提供する富と虚飾の世界へ。
ガブリエッラはミケーレの一族の人間で、︱︱そして婚約者だっ
た。
今でも簡単に思い出すことができるのはなぜだろうとカルロスは
思う。ガブリエッラの髪の感触や微笑よりも鮮明に、ミケーレと始
・ ・
・ ・
めてであったときの事を思い出せる。自分より7つほど年上の男が、
完璧なスーツを、完璧に着こなしてある日目の前に現れた。ゆるく
撫で付けられた黒髪が程よく男の余裕をあらわしているように感じ
82
て思わず気遅れを感じた。世の中には思わず頭を下げたくなるよう
な男が存在することをカルロスは知ったのである。
今まで自分をいいように使おうとするボス達には感じた事のない
感覚を覚えて慌てた。
﹃ガブリエッラは返してもらう﹄
交渉でもなく断定で、ミケーレはカルロスに告げた。カルロスの
当時のボスがいる組織にはすでに話はついていた。もちろんお互い
あったことは口外せずなかったこととされた。そこまで整えられて
しまうと圧倒的な財力と人脈、力の差を見せ付けられて、何も言え
ずそれを呆然と受け入れるしかなかった。
その瞬間から、カルロスは﹃孤独﹄というものを知る羽目に陥っ
たのである。
83
#12
アマンダはミケーレにひじをとられてそのままプールサイトの真
ん中に連れて行かれた。
﹁ここなら盗聴の心配はほとんどないと思うが、あまりいろいろな
ことは話せない﹂
万一のことがあるとミケーレはアマンダにささやく。自分の上に
座ってと指示をし、まごつくアマンダを引き寄せるようにひざの上
に乗せた。あまりのことに顔に朱が上る。近づいてきたウエイター
に飲み物を運んできたら、しばらく周りに人を寄せ付けないでくれ
とチップを弾むのも忘れない。
﹁ミケーレ様⋮⋮﹂
自分のヒップや太ももに当たる麻のざらりとした感覚と乾いて冷
静な言動とは程遠い、熱い体温を直に感じて居心地の悪い気持ちに
なる。彼女が落ちないようにとむき出しの背中や腕に回る指先に戸
惑いを深めた。傍から見ると仲睦まじいようにも見えるだろうし、
カルロス側の見張りからは先ほどの件を甘く責めている様にも見え
るだろう。これは演技だということはわかっていても、戸惑いをア
マンダは隠せない。
アメリカ人ではあるが、空手にはまり、空手教室の日本人の師に
多大な影響を受けている。しかも早くに両親をなくし、義理の妹に
気を使って新しい家族にもあまりおおっぴらな愛情表現で接するこ
とはしてこなかったため、スキンシップについては奥ゆかしい側面
を持っている。だからミケーレが仕事のためと称して自分の体に触
84
れてくることに、嬉しさと戸惑いをどうしても感じてしまう。
﹁様はなしだ。とっさに出ては困ると前から言ってるだろう。︱︱
今なら多少の質問なら応えれる﹂
﹁︱︱﹂
短い付き合いの中で自分の主が、ほとんど何も教えてくれないこ
とに気がついていた。特にこのホテルに入ったときに盗聴機器はあ
る程度排除したが、それでもわざと部屋に残しているものもある。
だから何かあってもミケーレやライアンたちが指し示すジェスチャ
ーや短いメッセージだけですべてを考えていかねばならなかった。
頬を染めながらぎこちない手つきでミケーレの上衣に手を滑らせな
がらアマンダは考える。
﹁どうして⋮⋮、私だったんですか?﹂
先ほどのやり取りで二人の間には今回のリゾートを巡る争いだけ
でないものをアマンダは感じ取っていた。先ほどのカルロスとミケ
ーレは、にこやかにほんの二言三言話しているだけなのに少し不自
然であった。ふたりは会釈は交わしたが握手は交わさなかった。そ
して二人の視線にどこか剣呑なものも感じていた。そう考えると﹃
屋敷に招待﹄というものも不自然なものを感じた。そもそも攫った
少女を彼はなぜ自分の手元に置くのか、そして、なぜ自分達を招待
するのか。ミケーレはわざわざアマンダのような警備の経験はある
が実戦経験のない人間を雇ったのか。剣呑なやり取りに合うような
人材が本当はいいのではないかとアマンダは考えた。
﹁あなたが警備のプロだからだよ﹂
ミケーレがそう応えた。そんな短い答えだと軍属でもなく警察関
85
係者でもない自分のような人間を選んだミケーレの意図がわからな
い。
﹁行けばわかる﹂
そうにこやかに笑う。もっと情報がないとわからない。ただ自分
の主から情報を引き出すのはとても難しいことは悟っていた。彼の
意図はライアンに叩き込まれたとおりだ。思い込みではなく、その
場で最も使えるものを選択するために固定観念にとらわれないとい
うことだ。それに特に周りに情報が漏れる恐れがある今は難しいだ
ろう。イタリアにいるときになぜ気づかなかったのか。少し唇を噛
むと顎に指がそっと触れる。
﹁噛んだら唇が荒れる。ニコラにまた怒られるぞ﹂
そう普段は感情を見せない淡い瞳が緩んでいるのを目の当たりに
して、自分の体の奥が潤うような気がした。白いパレオの下のビキ
ニに意識がついつい向いてしまった。もう随分経つのに彼に抱かれ
た感触がふとよみがえることがある。どきどきとしてしまうが、確
かにミケーレは恋人としてアマンダに接するときはスキンシップが
激しいように見える。ただ一夜を共にしたアマンダにしてみれば、
彼なりに気を使って最低限にしていることには気がついている。だ
からもどかしい。あの熱い抱擁を知っているだけに、今の自分が惨
めな気分であった。自分は思わずミケーレが抱きしめたいと思うよ
うな女ではないんだと知らされ続けていると思った。彼の取り澄ま
してコントロールされた顔を乱してやりたい、そう思うものの成功
したためしがなかった。
そして本当はこういう風に彼の名前を呼んだり近づいたりは出来
ない隔たりが二人の間にはあることをアマンダはかみ締めていた。
そんな風に硬くなった彼女の様子をミケーレは見てもう少し情報を
86
与えることにした。
﹁︱︱。彼とは今回の件ではなく10年近く前にも実はぶつかった
仲だ﹂
﹁え?﹂
﹁イルマの母親を取り戻すために彼と出会ったのが最初だ﹂
そう少し遠い目で過去を覗き込むようにミケーレが話し出した。
彼の一族の少女が、バカンスに訪れたリゾート地でカルロスに出会
ったこと。そして付き添っていた一族の人間も気がつかないうちに
深みにはまり、彼女はイルマを残して損なわれてしまったこと。言
葉少なに述べられる事実は胸に痛くて、その痛みがミケーレへの愛
情だということにアマンダは気がついていた。
﹁その方のことをお好きだったんですよね?﹂
﹁もちろん。従姉妹だったし、年が離れていたけれども、彼女が生
まれた日の喜びを私は覚えている。まるで年の離れた兄妹のように
育って、お互い気心も知れていた。彼女はなんと言うか目が離せな
い子供だった。美しいというのもあったけれどもどこか危なっかし
くて⋮⋮。まぁいろいろ面倒を見させられたよ。一族の人間は彼女
と私が結ばれると思ってただろうな。いつか︱︱﹂
﹁イルマ様は⋮⋮その⋮⋮﹂
少し言いよどむアマンダの意図を察して、ミケーレはそのまま答
えを唇にのせる。
﹁ああ。私の子供ではないよ。ガブリエッラ︱︱イルマの母親の名
前だが、彼女と私の間にはそういった行為はなかったから。彼女が
私の手元に戻ってきたときには、すでにイルマが彼女の胎にいた﹂
87
そう薄く笑うミケーレを見てアマンダの胸はツキツキと痛んだ。
愛する女の子供を大事に受け入れた心境はいかほどのものかと思っ
た。そしていまだこんなに切ない表情をする男にさらに愛おしさを
感じて、アマンダは絶望した。この男に心を手に入れることは出来
ないのだということに。
﹁アマンダ︱︱﹂
少しだけ甘く呼ばれて、アマンダは目をぱちくりとさせる。
﹁そんな風に悲しそうにされると、誤解してしまう﹂
﹁!!﹂
思わずひざから降りようと、アマンダは体を起こしたが、すぐに
抱え込まれて笑われる。
﹁もうっ。ミケーレ様!﹂
﹁様はなしだと言わなかったか?﹂
腕の中に抱え込まれて、そこから脱出しようと思えば出来るのに、
アマンダはミケーレの体温から抜け出せない。喉元でくくくっと笑
うミケーレにアマンダは困惑を隠せない。
﹁そんな風な反応をされてしまうと、誤解してしまうよ、アマンダ﹂
﹁そうやっていろんな女の人を誑してきたんですね!﹂
ぐいっとミケーレの胸を突いて、アマンダはひざから降りる。
﹁アマンダ。怒ったのか﹂
﹁怒ってません!﹂
88
そう言いながらもミケーレに背を向けながらアマンダは歩き出す。
だから、彼の低い声が聞こえなかった。
﹁今まで誑かした女は君で2人目だよ、意味合いは違うが﹂
そうミケーレは、何かを一瞬思い出したかのようにかすかな微笑
みを口元に浮かべたあとに、アマンダの機嫌をうかがうために距離
をつめて、彼女の腰に腕を絡めた。
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#13
ついにこの時が来てしまったか⋮⋮とアマンダは、にこやかな表
情の裏で冷や汗を流していた。自分達が昨日まで宿泊していたホテ
ルからさほど遠くない場所にカルロスの屋敷はあった。ライアンに
見せられた図面や写真などで大きさや造りはある程度確認していた
が、実際目の当たりにすると圧倒される。正門は有刺鉄線をめぐら
されて当然ながら数えるのがいやになるような警備︵もちろんライ
イルマ
フルを手に持った男たち︶を確認するだけでうんざりとした。
依頼された少女を救出して、ミケーレとともにここを脱出できる
のか。考えるほどに不安が胸の奥底に積もって息焦燥感を感じでア
マンダはこくりと口にたまったものを飲み込んだ。
そんな様子をなだめるようにミケーレは見つめて、アマンダの手
に自分のものを重ねた。乾いた温かい体温に励まされてアマンダは
顔を上げる。広い玄関先に着くとカルロスがにこやかに彼らを出迎
えた。挨拶している最中もずっとアマンダの体に触れているミケー
レを見てカルロスが穏やかそうな表情を浮かべる。
﹁よほど、セニョリータアマンダをお気に召されているようだ﹂
あなたがそんな風に女性の体にずっと触れているのを初めて見ま
したよと、カルロスはおどけた調子でいうが目の光は鋭い。なにか
確実に疑われるようなことはしていないが⋮⋮。そう考えつつもア
マンダは自分の経験のない領域に踏み込んでいる自覚はあった。そ
んな彼女の冷たい指先をミケーレがぎゅっと握った。目を見ると穏
やかな視線に、カルロスのあの鋭さはもしや焦りが混じっているの
かもしれないと思った。
90
﹁彼女は私に初めての感情ばかりくれるから、大事にしないとと思
っているだけだ﹂
思わず頬に朱が上るくらいであるが、そんなミケーレの言葉を聞
いて、カルロスの気配が険しくなったことに気がつく。これは挑発
なんだとアマンダは考えた。1人の女を結果的に取り合うことにな
った男達の戦いはすでに始まっているのだということを。
ただそのやり取りにアマンダは違和感を感じる。
カルロスはガブリエッラにまだ未練があるように見える。ただ、
あのスナッフフィルムの映像がアマンダの思考を縛る。一度だけ見
ただけなのに、血だらけになっていく女の叫び声が脳裏を離れない。
そんなものを作る人間達の世界で生きる男がそんな柔らかい感情を
持っているのだろうか?
アマンダはミケーレからガブリエッラの身に起こったことを聞い
ている。一度でも愛した女にあのような残酷な行為を強いたあとに
こんな風な未練を見せるものだろうかと、そこに違和感を感じた。
ただ、利用できるものはすべて利用する種類の男だ。一度でも愛し
た女の子供︱︱自分の子供かもしれないのに、攫い、後ろ暗い商談
の切り札にしようとしている。今見ているもので判断すること自体
がアマンダにはどうしても難しかった。
﹁それでは商談は後ほど﹂
そう、怜悧な男の声でアマンダは引き戻される。いけない。自分
がわかる限りミケーレとイルマのために働かなければ。そう思って
アマンダは周囲を注意してそれとわからないように観察をする。こ
れはヴェネチアにいるときにライアンに随分指導された。さりげに
鋭い視線を飛ばさずに、周囲の情報を手に入れていく。そうしてい
くと警備の規模やパターンが大体アマンダの頭の中に浮かんでくる。
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︱︱そうか。だから警備を職業にしている私を選んだんだ。
ミケーレはカルロスに戦争を仕掛けるつもりはない。単に、イル
マを無事に取り戻したいだけだ。ライアンにも銃はなるべく使うな。
使ったら終わりだと思えと念を押されている。つまり戦わず、彼ら
を守って脱出すること。そのために、いくつもの警備シミュレーシ
ョンが身についているアマンダのような人間を選んだのであろう。
アマンダはカメラの様子を目の端に焼き付ける。そのカメラと連動
している機材はどういうものかも、大体わかった。図面は何度も検
討して、警備のための部屋のあたりもつけている。
落ち着かず大きなダイヤモンドのピアスに手を添えて、くるりと
いじくった。
ライアンにイルマを救出できたら、すぐに連絡するように言われ
ている。ただし微弱な信号さえも危険なので直前まで決してこのピ
アスのインカムの電源をつけることは禁止されている。
そのときが来ることが怖いと思った。もし失敗したら、自分だけ
テゾーロ
でなく、ミケーレの身もただではすまないだろう。もちろん、私の
宝とミケーレが呼ぶイルマの運命も危うい。彼がここに呼ばれたの
は﹃商談﹄のためである。その商談のルールを外れればどんな目に
あわせられてもしかたがない。
つまりイルマは現在はカルロスの所有物であり、取引したい商品
である。それを勝手に盗み出せば、ルール違反になる。ここにミケ
ーレがやってくること自体、相当なリスクを犯していることは段々
とアマンダにも染み込んできていた。
夕食に案内されたダイニングはとても豪華であった。煌々と輝く
シャンデリアにしつけが行き届いた使用人たち︱︱。南米の珍味を
さり気に取り入れたフルコースに、常なら舌鼓を打つところである。
ワインもすばらしかった。南米産にこだわったものであるがこの地
が非常に滋味深いということがわかる。ただし、アマンダにはまっ
92
たくそんな余裕はなかったが︱︱。
ミケーレとカルロスの余裕のあるやり取りなのにどこか緊張感を
はらんだ会話の応酬にもとても疲れてしまう。やっと開放されて、
部屋に戻ったがここにも盗聴は仕掛けられていることは容易に想像
できる。
﹁アマンダ、大丈夫か?﹂
少し青ざめたアマンダの表情を確認してミケーレがはなしかけて
くる。
﹁はい。少し緊張してしまって⋮⋮﹂
気丈に微笑むを浮かべるアマンダの頬を人差し指の背でくすぐる。
メキシコの蒸留酒
・ ・
﹁このあとカルロスにメスカルでもと、誘われているがしばらく一
人でも大丈夫だね?明日、君には商品を確認してもらうことになる。
いいね?﹂
﹁商品⋮⋮﹂
﹁そうだ。私はこの目で見ることができないが、頼めるね?﹂
彼女が健やかにすごしているか、ちゃんとアマンダの言うことを
理解できるかどうか。イルマという少女を知らないだけにいろいろ
と不安になる。何も事情がわからず、環境が激変して泣いたりして
いないのか。それともカルロスになつきすぎていないのか。ろくな
説明もなく自分のいうことを聞いてくれるかどうか︱︱考えるだけ
で喉がからからに干乾びる。カタカタとどこか震えそうになるのを
何とか押さえようと、唇を噛んだ。
﹁アマンダ、ニコラに怒られるぞ﹂
93
そう落ち着いた声で諭されると、少しだけ落ち着く。大丈夫。ミ
ケーレはいつもどおりだ。太い血管が浮き出た乾いた大きな手でア
マンダを撫でる。そうされると落ち着いてくる。ほんの1ヶ月程度
の付き合いだというのに。
﹁なんとなくこの3日で、ニコラにいっぱい怒られそうなことして
しまいそうです﹂
﹁ははっ。そうだな。まぁ彼は優秀だからすぐにアマンダの美貌を
磨いてくれるさ﹂
そういわれて少しうえっとなる。表情に出ていたのだろう。ミケ
ーレが珍しく声を立てて笑ってアマンダの頬に口付ける。
﹁では私は行ってくるから君は風呂でもゆっくり使いなさい﹂
そう言って出て行く主を見守ってからアマンダは長いため息を吐
いてから、風呂に入るためにバスルームへと向かう。
本当に無駄に色気のある男だと、アマンダは入浴剤を落とした湯
船につかりながら思ってしまう。もしあの夜がなければ、雇い主の
そんな疑問が頭の中によぎった。あの夜のことはしっかりとア
ことを冷静に見れたのだろうか。自分はこの仕事を請けただろうか
?
マンダの体と記憶と心に余韻のように根を張って残っている。マス
ク越しの口付け。口付けながらお互いの瞳の奥に秘密と傷跡をかん
じた。お互いの獰猛な気持ちのまま繋がりあうことも出来たかもし
れない。それでもまるでアマンダの体を丁寧に愛でるように指先で
撫でて、快感でおかしくなってすすり泣くアマンダをなだめながら
根気よくお互いの感覚を共有してくれた。
ミケーレに体を許すまでは、アマンダにとって男性というものは、
ハイスクール時代からの恋人であるジェイクだけだった。ただ、ハ
94
イスクール時代に体を許したためか、アマンダの快感を引き出すと
いうよりも気持ちが高まってそのままアマンダは引きずり回される
ように彼に組み敷かれていた。
とはいえ、最後のほうはそういう風な状況になることはかなり減
っていた。理由はアマンダが忙しかったせいもある。不定期なシフ
トに雇い主に頼りにされれば断れないアマンダ。しかも任務に就く
のに、詳細を語れず、本当はワシントンDCにいるのにフランスに
2週間出張といった嘘をついて任務に当たることもあった。そう言
ったこともあり、ジェイクに語れないことが積もり積もって、お互
い何か越えられない壁のようなものを築いてしまった。だからお互
い肌を合わせるのが億劫になってしまったのかもしれない。
ジェイクとの手痛い別離を経て、ヴェネチアのあの夜。仕事にち
ょうどついていないのもあったし、別人を装っていたのもある。そ
うしてミケーレに抱かれた。
﹃私があなたをめちゃくちゃにしてやろうか?﹄
その言葉通り、ミケーレはアマンダの体を、感覚を、めちゃめち
ゃにした。あんな風に喘いでわけのわからなくなる時間をすごすこ
とになるとは自分でも思わなかった。 いまだにその快感とため息
のようなミケーレの睦言がアマンダの体の芯を震わせる。思わず自
分の秘裂に指が伸びる。ぬめっとした感触なのに渇いた望みに、唇
を舐めて湿らせた。そのまま指をうずく箇所に埋めようとした。
ピチョン⋮⋮。
天井からしずくが垂れて、はっと我に返る。いけないここでは気
を抜いてはいけない。わざわざ風呂に浸かったのはもちろん、疲れ
を取るためであるが、最も盗聴も盗撮もしにくい場所だからだ。ア
95
マンダは持ち込んだ書類を注意深く眺める。四つ切にされた数葉の
と聞いた
写真を手にとって眺める。最初はばら色に頬を染め上げたかわいい
少女の写真である。ガブリエッラはどうしているのか?
らミケーレが差し出してきた封筒に入っていた。その動作の静かさ
にいやな予感を覚えてはいたが⋮⋮。何度見てもアマンダには消化
が出来ない。9年ほど前にミケーレの一族を襲ったであろうこの災
・ ・
禍を。そしてそこに繋がる現在、アマンダも巻き込まれてしまった
この商談を。
ガブリエッラ。ミケーレと同じく天使の名前を持つ女。
最後の一葉の唇からはみ出たかすれたルージュ、涙で滲んだブル
ーのアイシャドウとマスカラ、そして薬で浮腫んだ顔。明らかに娼
婦の装いの女と先ほど写真を見比べる。それをみてアマンダは忘れ
てはいけない、と自戒する。自分の恋人を底辺の娼婦に必要とあれ
ば落とすくらいのことをする。先ほどまでにこやかに自分をもてな
した男はこういうことのできる男だと。自分の中の印象と、彼が今
までやってきたことに違和感を感じようと、忘れてはならない事実
だと自分に言い聞かせた。
96
#14
急速に眠りのふちから戻ってきて、ぱちりと目を開ける。子供の
ころから目覚めに苦労したことはない。
そういえば、自分がずっと見守ってきた従姉妹は眠りについては
バリラ
自分と正反対だったことを思い出してミケーレは口元に微笑を浮か
べた。眠るときはお化けが怖いといって、乳母を困らせていたこと
を思い出す。大人になっても随分と起きることさえ苦労していたが
︱︱。
結局自分は、彼女がいつの間にか大人になっていたことに気がつ
かないままであった。幾度となく眠り姫とからかったガブリエッラ
のことをそんな風に思い出すこともずいぶんと少なくなっていた。
10も年の離れた従姉妹を女として見ることはついぞなかった。た
だ、一族が用意した見合いを断っていたら、いつの間にか彼女がミ
ケーレの花嫁候補になっていただけである。別段それについては何
も思わなかった。おてんばで好奇心の強い彼女が、そんな自分の定
められたレールに疑問を持っていたことさえ気がつかなかったが。
にいさま
︱︱ちょっと旅行をしてみたいの。いいでしょ、お従兄様。
耳に涼やかな彼女の声が残っている。
すでに彼女の両親はなく、後見役のひとりとして、そういう彼女
に旅を許した。結婚の準備を、一族の総領の妻としての教育が本格
的に始める前に、ほんの少し羽目をはずしてみたい。そういうこと
はあると思っていたし、下手な事件にさえ巻き込まれなければかま
わないと思っていた。そう、ミケーレはガブリエッラの処女性さえ
特に執着はなかった。わがままでかわいい妹。多少羽目をはずして
も、窮屈な自分の人生に巻き込むのだから目をつぶろう。しばらく
97
多少の自由を与えれば、そのうち落ち着くであろう。そう思ってい
た。
だから初めての彼女の恋が無残に敗れるどころか、幕引きのあま
りの残酷さに己を責めた。どうしてもっと籠の鳥のように管理しな
かったんだろうか。なぜ、彼女の同級生と旅に出ることを許してし
まったのか。もっと警護をつけるべきだったと、振り返れば後悔ば
かりである。結果、彼女の同級生が、ガブリエッラの恋を応援する
ために、彼女の不在を取り繕い、ミケーレは少しだけガブリエッラ
の消息を見失った。
そんな自分の心根自体が間違ってることにすべてが終わってから
恥じて、そしてどうにもならない後悔を抱えることになったのだが。
だからこそ、彼女が残したイルマをなんとしても助けなければなら
ない。
ただ、今度こそ何もかも失わずに無事に戻らなければ。
そんなことを思い浮かべながら自分と同じベッドのふちに眠る女
の背中を見つめた。この役割を担わせてから同じベッドで眠るよう
に無理やり説得して引きずり込んだ女は深い眠りに落ちている。彼
女もミケーレと同じで短時間深い眠りを取るタイプだ。首の付け根
のぽっこりと出ている骨から続く背骨が寝衣の首から少し見える。
反射的にすっと腕を伸ばして、すいっとその凹凸を指先でかすかに
なぞった。
﹁ん︱︱﹂
ころりと寝返りを打ってアマンダがミケーレのほうに向く。決し
てミケーレのそばに寄ってこないのに安心した表情で眠る女をミケ
ーレは薄い瞳を和ませながら見つめた。目を覚ませば慌てたように
周りを見回す彼女を、けん制するように朝の挨拶をする。それがこ
こ数日のミケーレの習慣になりつつある。自分が役回り以上のもの
98
を彼女に強いているのは理解していたが止められなかった。そうい
った衝動に打ち勝てないことにミケーレは思わず苦笑する。これが
年を取るということかと。もしかすると、自分の命さえも危うくな
るかもしれないこの状態に、我ながら我慢が効かなくなっているの
かもしれない。
カルネヴァーレ
そして目の前にいる女は、自分の箍をはずした初めての女のよう
に消えてなくならない。あの夜の出来事はミケーレの中ではなくな
っていないが、無理やり自分の事情に引きずり込んでしまった女に
も惹かれていることを自覚している。
惹かれたからこそ、この自棄になっている女の事情を利用して、
無理やり自分の警護を引き受けさせたようにも振り返ると思ってし
まう。結局自分はとても勝手な男だと、そんなほろ苦い思いを隠し
て、もうすぐ目覚めを迎えるであろう震えるまつげをミケーレは見
つめていた。
やらねばなるまい。そう自分に気合を入れて、アマンダはここの
ところ習い性になったコルセットの紐を結んだ。人間を商品として
やり取りするような商談に巻き込まれたことに吐き気はするが、そ
うも言ってはいられない。理不尽だ、正義ではない、法律を守って
いない、人権侵害だ、そういう叫びはあげたとしても通用はしない
ことをアマンダはひしひしと感じていた。
ここはそういう国だ。世界だ。
そう思ってもっとも守らなければならないものを守るために、自
分が出来ることをしないといけない。
支度が終わってバスルームを出ると自然とエスコートをしてくれ
99
る男を見上げる。この人はどれほど理不尽な目にあってきたんだろ
うと。そう考えると自分のどこかが癒されつつあることを感じた。
新しい恋に癒されるのではなく、ミケーレ・ダンドロという男の生
き方に自分の傷をさらしたことで癒されつつあるようにかんじた。
この強い男の側にいればいるほど、自分の恋心がちっぽけなよう
に感じてしまう。
︱︱今夜だ。
そう目覚めて目の前にあることになかなか慣れない美しい顔にび
っくりしていたら、いつものように苦笑されてから、そう言われる。
盗聴を用心して、唇だけで語られたが、強い意志は十二分にアマン
ダに伝わった。実行時期については、ライアン含めて何度も話をし
たが、やはり今夜しかないということになった。夕べ、ミケーレの
戻りを待ってから、アマンダはそっと客室を抜け出して、目星をつ
けていた箇所をいくつか回った。確かに、警備コントロールをして
いる部屋はそれなりの人員を配置はされていたが︱︱。
夜陰に乗じての仕事は不得意である⋮⋮というより訓練自体受け
たことが少ない。そもそも警護の世界に入ったのは、自分にできる
特技が空手であったことと、恋人のジェイクと離れたくなかったか
らだ。軍隊に入れば数年は自由な身にはならない。配属先の問題も
ある。かといって進学するという選択肢で、養い親にこれ以上の負
担を強いることもできなかった。だからこの世界に入っただけであ
る。
ライアンに普通、要人警護はそういうものもあるだろうと笑われ
たくらいである。とはいえ、最後は一応の及第点はもらえたことに
自分を奮い立たせる。
今日、邸内の明かりがある程度落ちた頃合に、ライアンたちのバ
ックアップチームが地下に侵入する予定である。
100
﹃邸内の電源を落とす﹄
そうライアンは言っていた。ただし、自家発電に変わるのを防ぐ
こと含めて時間的には10分程度が限界だと。その間にアマンダが
警備室を落とせるかどうかである。電源が落ちたらミケーレはイル
マがいるであろうと思われる部屋に向かう。今日、アマンダがイル
マから部屋の場所を聞きだすことができれば、成功の確率は上がる。
警備室を夜陰に乗じてアマンダが無効化して、それから通用出口で
二人は合流する。個人が立てられることができる作戦はそれくらい
が精一杯である。
﹃ただし︱︱。失敗したと判断した場合、わかってますね?﹄
失敗した場合、どんな醜聞になろうと自分はあらゆる手を打つと。
ダンドロ家の総領が麻薬カルテルの幹部の屋敷に出入りしていたこ
と自体が表に出ようと、ライアンもディミトリもありとあらゆるカ
ードを切ってでも、ミケーレを救い出すつもりだ。それも時間がか
かれば、アマンダとイルマの命はまずなくなるであろう。ミケーレ
というカードは金になるが、この二人は見せしめにされてしまう可
能性のほうが大きい。そうアマンダは冷静に判断している。
自分はともかく、イルマとミケーレは逃がさなければと、気持ち
を固める。
そんなことを考えながら二人は、朝食を取るための部屋に案内さ
れて入った。このあとアマンダはイルマに会わせてもらうために、
庭に案内される予定だ。先に席についていた一見柔和な笑顔をたた
えた男が危険な色香を漂わせながら二人に朝の挨拶をしてくるのに
アマンダは笑顔で応えた。
101
#15
﹁とても素敵なお庭ですね﹂
そうアマンダは鍛えられて硬い男の腕に自分の手を絡ませながら
歩いていた。表側の庭については、警備の問題か低木と芝生程度の
若干殺伐とした雰囲気であるが、中庭は美しく整えられている。リ
ゾートらしい温かい気候なのに、さぞかしこの中庭の維持には金と
手間暇がかかっているだろうと想像させられた。
﹁たまにゆっくりする時くらい、こういう場所でくつろぎたいです
からね﹂
見てるほうがまぶしくなるような笑顔をカルロスは浮かべながら
アマンダに応える。完璧なエスコートのように見えるが、居心地が
悪い気分にアマンダはなった。自分が見せられている一面も、見せ
ている一面も確かに偽りのものであるが。朝食を終えて、食後のコ
と。
ーヒーを所望しているときに、カルロスに天気がいいので屋敷の庭
で今日はくつろがれてはいかがですか?
もちろん織り込み済みであったので、是非にとは応えたが、まさ
かその本人に庭に案内されるとは非常に心苦しい、というか、息苦
しい。初めて会った時から、カルロスの裏の顔を信じられない気分
にさせられる自分に気がついていた。
ミケーレとは違う野生的な美貌に、一見柔和に見えるしぐさ。と
ても荒事を経て、麻薬カルテルの幹部に上り詰めたような男には見
えない。ただ、彼にエスコートされるときに指にできているたこを
見て、彼はナイフの使い手かもしれないとふと思った。やはり見た
目で判断するのはとても危険だ。だからこそ、アマンダは自分の心
102
の内のどこかで感じる違和感を無視しようと苦労をしていた。
そんな心中を察してなのか、カルロスが微苦笑を浮かべた。
﹁それほど、俺が怖いですか?﹂
なるべく見ないように勤めていた美貌をアマンダは思わず戸惑っ
て見上げてしまう。
﹁あなたのように美しい人にそんな風に警戒されると悲しいな﹂
からかうように笑われて、アマンダは頬を染めてしまう。舌が干
乾びてしまったかのように声がでない。
﹁初めて会ったときのあなたは、まっ白なビキニで健康的な女性だ
なと思いましたよ。俺の胸に飛び込んできた時の目が大きく開いた
あの表情。口説こうと思っていたのに、まさかセニョールダンドロ
のパートナーとはね﹂
とても残念だ、そういいながら預けた指先に軽く口付けを落とさ
れて、アマンダは自分の芯のような部分に戦慄を覚える。こくりと
思わず唾を飲み込んだアマンダの様子を、カルロスは目を細めて眺
めた。
﹁セニョリータアマンダは、この後もずっとセニョールダンドロと
?﹂
﹁︱︱。どういう意味でしょう?﹂
﹁いえ。ぜひ彼に飽きたら俺のことを思い出してほしいだけですよ﹂
にこやかにとんだことを言って来る。ぎょっとした様子にカルロ
スが声を立てて笑った。
103
﹁本当に、セニョールダンドロに夢中なんですね﹂
﹁ミスターパラシオス⋮⋮﹂
﹁どうぞ、カルロスと。最初からとてもかわいい人だと思ってまし
たが、本当に愛らしい方だ﹂
立ち止まって、アマンダのほつれた髪を掬い上げるように、頬に
触れる。くどき文句も手馴れているが、うそ臭さをかんじる。
﹁やめてください﹂
﹁そうですか。とても残念だ﹂
そう覗き込んだ瞳がぞっとする色を帯びていることに気がついた。
自分には理解できない何かでこの男はできているのだろうと、アマ
ンダは思う。ぞっとするほど孤独な微笑み。ミケーレの孤独とは違
う。あれは王者の孤独だ。周りに人はいるからこその孤独だが、カ
ルロスの孤独は違う。どこまで行ってもたった一人である孤独さだ。
一体何を体験すれば、こんな風な孤独を自身の中に蓄えれるのか。
想像もつかない冷えた何かを感じてアマンダは体を震わせる。早く
この男の手の届かないところに行きたいと思うが、目的はイルマだ。
イルマに引き合わされるまでは我慢しなければならない。
自分の直感をどこまで信じればいいのかもわからず、アマンダは
引きずられるように中庭の中にしつらえた東屋に促される。温かい
飲み物が飲みたい⋮⋮そんな気分でアマンダはそのエスコートに身
をゆだねる。ミケーレはそっとアマンダを気遣って触れてくるが、
カルロスは違う。ぐいっと強引に自分を導こうとする。硬いコルセ
ットの上からでも指の力を感じるほどだ。
﹁コルセットですか?﹂
﹁え?﹂
104
﹁いえ、触れた感じが⋮⋮﹂
﹁︱︱ええ、ミケーレにつけられた美容のプロの方に薦められて﹂
とか言いそうにないですけどね。︱︱マイ・
﹁なるほど。セニョールダンドロはヒギンズ教授ということですか﹂
﹁スリッパはどこだ?
フェア・レディをご存知なんですか?﹂
﹁スラム育ちでも、今はハリウッドにも出資してますからね﹂
にこやかに笑って言われる。そういえばこの男の主な収入はホテ
ル業︱︱しかもラグジュアリー層をターゲットにしたものだったこ
とを思い出す。そういうものには豪華なレビューが付き物だし、そ
の延長線上で映画出資ということもあるのだと思った。一体、この
すべてが完璧に思えるエキゾチックな顔立ちの男はどういう風に育
ってきたのだろう。単純な好奇心をアマンダは覚えた。
﹁ミスターパラシオスの子供のころって想像がつかないですね﹂
﹁はは︱︱。確かに。子供時代はなかったといっても間違いじゃな
いですからね﹂
﹁え?﹂
﹁セニョリータアマンダ、あなたの子供時代は?﹂
逆に質問を返されて、アマンダは口ごもる。確かに両親は早くに
亡くなったが、養い親にも恵まれて、当初は義理の妹もそこまで敵
愾心なく一緒に遊んでいたように思う。夕方、外から帰ってきたら、
甘いシチューの香りと、粗い小麦粉で作られたパンの匂い︱︱。ア
メリカの中流階級と呼ばれる層の慎ましやかな日常だ。ただ、きっ
と彼はそんな日常さえ想像もできないような日常を生きてきたのだ
ろうとアマンダは気がつく。報告書から読み取ろうと思えば読み取
れるような些細な想像力だというのに。
失敗したと思った。
105
﹁そんな罪悪感を感じられなくても大丈夫ですよ﹂
そう微笑まれる。
﹁あなたはたまたま、アメリカの中産階級に生まれることができた。
俺はたまたまメキシコのスラムに生まれた。それだけの違いですよ﹂
世の中は単純で残酷な理で仕切られている。
生まれる場所は誰も選べない。たったそれだけでその後の生きる
世界を分けられてしまう。苛烈な、誰も守ってくれない世界で幼少
のころから戦って、一人のし上がってきたこの男の孤独な横顔をふ
と見ると痛々しい気持ちを持ってしまう。それが安っぽい同情だと
いうこともアマンダにはわかっている。それに︱︱なんと言っても、
彼は自分の今の主の敵である。そして先ほど一瞬だけかいま見たカ
ルロスの光の差さない瞳。彼が自分を完全に敵とみなしたときにど
うなるか。そう考えると思わずゾクリとしてしまう。
もしかすると自分はとても死に近いところへと向かっているので
はないかという予感にアマンダは震えた。
106
#16
﹁アマンダ、どうだった﹂
部屋に戻るなり、ミケーレがそう言ってくる。アマンダはなんと
もいえない思いを抱えながらミケーレを見つめた。
﹁会えました﹂
そう言いながらアマンダは死角とも言える場所へ移動しながら、
携帯モジュールを取り出して立ち上げる。結局イルマの具合があま
りよくなくて、アマンダはやすやすと彼女が現在私室として使って
いる場所まで案内されたのだ。そうなるとなぜカルロスが庭にわざ
わざ案内したのかがわからなくて少し混乱している。
﹁少し体調を崩されたようで、お部屋にいらっしゃいましたが、寝
込んでいらっしゃるというよりも大事を取ってという感じです﹂
アマンダは、屋敷の簡単な見取り図を呼び出し、その場所をミケ
ーレに伝える。ミケーレはその言葉を吟味するようにモジュールを
見つめる。モジュールを確認するミケーレにアマンダは口頭でイル
マの様子を語った。ほんの30分ほどであったが、イルマははつら
つとした少女であった。カルロスがミケーレの代理だと自分を紹介
いつ会えるの?﹄と聞いてくる。年よりも少し幼い口調に
した瞬間に警戒心を簡単に解いて、﹃おじしゃまもいらっしゃって
るの?
アマンダは少し眉をひそめた。警戒心なく、ミケーレの近況を聞い
てくる様子に、如何にミケーレを頼りにしているかということがよ
くわかった。ただし、カルロスへのなつき方に少しアマンダはうろ
107
たえたが。この二人がイルマの前に同時に現れる局面など修羅場以
外アマンダには想像がつかないが、イルマにとっては大好きなおじ
さまと、現在の庇護者であるカルロスおじさまが仲良くしていると
ころしか想像がつかないようである。
カルロスの柔らかな表情にも嘘がないように見える。
とはいえ、ことが起これば豹変するのは目に見えている。この男
は目的にたどり着くことが最重要事項なのだ。自分が一時でも関係
を結んだ女の子供だろうと容赦はしないだろう。
﹁つまり︱︱?﹂
作戦
﹁ミケーレの落し物は無事だということです﹂
﹁では、このまま商談を進めても問題ないということだな﹂
淡々と言うミケーレに少しアマンダはいらだったが、彼の目を覗
き込んで言葉を引っ込めた。どう考えても珍しく潤んでいる。どさ
りと近くのソファに座り込んでいた男をアマンダは思わず近づいて、
彼の頭を抱きしめた。
﹁︱︱﹂
﹁あなたでもそんな顔をされるんですね﹂
そうアマンダは少し驚いた表情のミケーレを笑う。そんなアマン
ダのコルセットに押し上げられた柔らかい胸にミケーレは自分の頬
オディール
を寄せて笑った。柔らかくて暖かい女の胸だ。ふと、あのカルネヴ
ァーレの夜を唐突にミケーレは思い浮かべた。黒鳥とアマンダはま
オディール
ったく違うというのに。確かに身長や筋肉質なところは似ているが、
黒鳥のあのどこか消えてしまいたいと言うような生気のなさと、ア
マンダのどんなにつらい目に合おうとどこか強い光を宿す瞳は似て
も似つかない。
そう思ったが、心のどこかに﹃本当に?﹄という疑問がミケーレ
108
オディール
の内に起こった。どこかで死を望んでいるような投げやりなところ
のあるアマンダと、めちゃくちゃにして欲しいと望んだ黒鳥はもし
かすると似ているのかも知れない。自分はそういう女に惹かれやす
いのかもなと、ミケーレは唇をゆがませて、アマンダのすべらかな
二の腕に己の指を滑らせた。
﹁アマンダ。私はこの状況を見逃すような枯れた男だと思ってる?﹂
﹁︱︱まさか。ただあなたの自制心を存じ上げてるだけで⋮⋮。︱
︱んっ!﹂
ミケーレのそんな様子に気がつかずに、少しからかうように笑う
アマンダを自分に引き寄せてミケーレは噛み付くような口付けをア
マンダに与える。両方の腕をぐいっと引き寄せられてソファに座る
ミケーレの両足の間に体を落としてしまう。そうすると、両手に回
っていたミケーレの手が首筋と、腰にしっかりと回りさらにアマン
ダの空気を奪い取るように口付けを深める。
﹁ふ⋮⋮ん、んっ﹂
くちゃりと薄い唇から少し肉厚の舌がアマンダのものを捉えるた
めに口腔に入ってきて蹂躙する。なぜ突然こんな風にスイッチが入
ったんだろうとアマンダはぼんやりと考えてしまうが、ミケーレは
その思考さえも奪うように口付けを求めてくる。体の隙間を埋める
ように抱きしめられると、ミケーレの雄の部分をアマンダは自分の
腹の付近に感じて頬を染める。壮年の男の鍛えられた胸板に触れた
あの夜の記憶が生々しくよみがえってくる。言葉通りめちゃくちゃ
にしてくれた男の指先に体中がぞくぞくと甘い記憶を呼び起こされ
る。
﹁ミ、ケーレ⋮⋮﹂
109
﹁ふっ。君の唇は甘いな﹂
息切れしているアマンダを余裕の微笑で見つめてくる。﹃これだ
とセクハラだな﹄そう、唇の動きだけでミケーレは伝えた。
﹁ここでやめないと、ディナーの支度が間に合わなくなってしまう﹂
綺麗にしておいでと、名残のようにアマンダのあごを齧ってミケ
ーレがそう声に出して言う。わざと茶化すように、声に出されたこ
とでアマンダの意識も引き戻された。そうだ、今は今夜を生き延び
ることに二人して集中しないとと、甘やかな余韻を払拭するように
軽く首を振った。
ヒューっとモニタールームで見ている警備の人間が思わず口笛を
吹く。映像は残念ながら二人のいる位置が微妙で、ソファーに膝ま
づくアマンダの足とミケーレの靴くらいしか見えない。ただ濡れた
ようなリップ音が時折モニタールームに響いた。それだけで先に進
まない二人に思わず残念な声が上がる。
誰一人として二人が親密な関係であることを疑う余地がなくなっ
た。実際カルロスも、表立ってるところでのスキンシップは見てき
たが、ホテルに仕掛けた盗聴器から、ミケーレとアマンダの関係は
偽装されたものかもと疑惑を抱いていた。同じベットで眠るが、触
れ合った形跡がなかったからだ。イルマの無事がわかったからこそ
の安堵感でミケーレがああいった態度をアマンダにしたのかもしれ
ない。本人も商談を進めれると喜んでいたことにカルロスは少しだ
け息を継ぐ。油断は大敵であるが自分が欲しいと思っていたメキシ
110
コ湾に面する島を手に入れることができる。ごくごく小さな島であ
るが、メキシコ湾を使えば麻薬の供給など裏のビジネスも行いやす
い場所である。
ただ、どこか、油断できない小さな違和感を感じるのは何かと考
えて、引っかかったものを思い起こした。
時折であるがアマンダがなんとも言えない寂寥と、爆発する寸前
の想いが交差する表情でミケーレを眺めていることが脳裏に浮かぶ。
とても幸運な恋を手に入れた女の有頂天さからは程遠い。彼女の表
情は時折カルロスを刺激する。アマンダが持たない天真爛漫さを持
った女の表情となぜか被る。ガブリエッラがカルロスを時折見つめ
る表情となぜか重なった。
ガブリエッラは狂おしいほどの表情でこっそりとカルロスを見つ
めることがあった。あれはやはり、自分を見捨てるタイミングを計
っていたのだろうかと、過去に思い馳せる。
その表情が、あれほど自分に光を与えてくれた女にそぐわなくて、
とても気になった。違う世界に生きる恋人同士だからこその隔たり。
そんなものを含んだ表情に当時のカルロスは問い詰めることもでき
ず、というより問い詰める術を持たなかったというほうが正しい。
だからわざと見過ごした。今だったら決してそんなことは許さない
だろう。
最後の逢瀬となったあの日、モーテルの部屋で、日差しを遮れて
いない白いカーテンを見ながら彼女を抱きしめていた。二人の間柄
は見つからないようにと細心の注意を払っていたために、場末の小
さなモーテルで抱き合うことが多かった。自分にはまだ繋ぎとめて
おかなければならない合衆国の令嬢がいたし、ガブリエッラは古い
家に縛られていたから。監視を振り切って短い時間に会う⋮⋮そん
な不自由な関係にお互い少し疲れていたかもしれない。ただどうや
っても離れることは無理だった。だから自分に身を任せてシーツを
まきつけただけのガブリエッラの巻き毛を後ろから梳きながら、彼
女が何を考えているかわかればいいのにと思っていた。
111
﹁ね。カルロス︱︱﹂
そう呼びかけたガブリエッラがそのあとの言葉を言いよどんだの
を、どうして自分は問い詰めなかったのかと振り返ると思う。別れ
の言葉だったらと恐れを感じて、唇を塞いだことを鮮明に覚えてい
る。その後3日ほど彼女と連絡が取れなくなり、4日目にミケーレ
が自分の元にやってきた。あのモーテルで彼女の憂いを含んだ唇を
なぜ自分のもので塞いだのか。もっとちゃんと話を聞きだすべきで
あった。その後の9年の歳月、ずっと時折カルロスは繰り返しあの
モーテルの日差しを思い出す。まぶしい無垢な光。その光を反射す
るようなガブリエッラの肌、少しだけ背中に散ったそばかすを数え
るようにキスを落とした。
あの日、自分はなぜ、ガブリエッラの言葉を引き出さなかったの
か︱︱。
112
#17
照明をかなり絞った室内でアマンダはミケーレのひざに乗ってゆ
っくりと彼のタイを解く。親密な男女のやり取りに見えるがアマン
ダもミケーレも鋭い視線である。盗聴を気にしてお互いなるべく近
づいて話すことが癖になっていた
﹁交渉は無事、終わられたんですか?﹂
﹁ああ︱︱。明日、書類にサインしたら終わりだ﹂
﹁そうなんですね。こういうリゾートはのんびりできますけど、ち
ょっと退屈でした﹂
﹁アマンダは体がなまったんじゃないか?﹂
﹁この一週間ジムにも通ってないですから⋮⋮。でも明日が終われ
ば︱︱﹂
そう艶っぽい声でアマンダがミケーレの胸元に指を走らせる。
﹁あっ⋮⋮﹂
﹁どうした? 食堂にブレスレットを落としたかも⋮⋮﹂
﹁え?﹂
﹁ミケーレにいただいた赤いルビーの⋮⋮﹂
少し荒々しくミケーレがアマンダをひざから落とすように降ろす。
﹁まったくあれほど気をつけなさいと言ったのに。︱︱私が取って
くるよ﹂
﹁︱︱ごめんなさい⋮⋮﹂
113
そう言ってミケーレが部屋の外に出て行った。アマンダはそれを
見送ってからため息をついてバスルームにむかう。バスルームに入
った瞬間に大急ぎでドレスを脱ぎ、赤外線ゴーグルなどを必要なも
のを取り出した。ふと、もうこの部屋には戻ってこないのだなと思
い、持ち込んだ荷物の中から書類を取り出す。すべての荷物は高価
なもの含めてすべて置いていけという指示ではあったが、アマンダ
にとって、これは置いていけないというものがあった。
︱︱ガブリエッラ様。一緒にイルマ様と戻りましょう。
そう思って数葉の写真と報告書をたたんでコルセットの胸元に忍
び込ませた。イルマとはほんの一瞬の邂逅であり、実際ガブリエッ
ラが何を考えていたのかはわからない。ただ、なんとなくカルロス
にこの写真は見せたくないという気持ちが沸き起こっただけだ。そ
れに、不思議と死んでもいいという気分はどこかに消えていた。自
分は生きて戻る。だから彼女も連れて行く、アマンダにとってそれ
が自然であった。ジェイクに裏切られてからいつも自分の心のどこ
かに死ぬということが居座っていたというのに。コルセットの内側
におさめたあと、ぴっちりと体のラインが出てくるが動きやすい戦
闘用のボンテージスーツを着込んで、照明が落ちるのを彼女は呼吸
を整えてまった。
ボンという音がしたような気がしたあと室内の照明が消える。段
取りを頭に描きながら、用意していた赤外線ゴーグルをつけ、アマ
ンダは静かに部屋を躍り出た。月夜ではあったが雲が覆い隠して真
っ暗闇に近い。ライアンには10分程度といわれているが、7分で
決着をつけるようにとシミュレーションを重ねてきた。この暗闇の
中、きっとミケーレは自分についたカルロスの見張りをどうにかし
てから、イルマがいるであろう部屋へと向かっているはずだ。
アマンダの役割は警備室の無効化だ。無効化さえすれば、裏口を
114
ライアンたちのチームが何とか無力化する。警備室で裏口を手薄に
する指示を与えるのもアマンダの仕事であった。やったことのない
荒事に思わず冷や汗が流れる。
静かに突然の停電にあわてる暗闇の中を気配を殺してアマンダは
警備室までたどり着く。息を整えながら、中の気配をうかがう。
︱︱二人⋮⋮ってところ。
そう思ってアマンダは警備室に踊りこむ。気配を察して、相手が
拳銃を構える気配がしたが暗闇の中なので当然何もできない。赤外
線ゴーグルで彼らの動きを確認し、獣のように低く躍り出たアマン
ダは、まず手前の人間に蹴りを入れて、2人目の首の急所にこぶし
を叩き込む。死にはしないが相当な苦しさだろうと思うが、さらに
一人目に止めを刺して気を失わせる。
ずっとつけていたダイヤモンドのピアスを教えられた要領で押し
まわす。
﹁ライアン?﹂
﹃︱︱アマンダ!﹄
そうインカムから聞こえてきた声に安堵する。
﹁今、警備室に入りました。これから通用口を手薄にするために表
玄関に音を鳴らします。様子を見て突破してほしいのと、ここのコ
ントロールルームを一時的に使用できないようにします﹂
﹃できるか﹄
﹁ええ。予想通り触ったことのある機材だわ﹂
ミケーレが警備会社経験者をまず探したのは穏便にカルロスから
イルマを取り戻すためである。そのため警備機材をある程度知って
115
いる人間を探していた。いくつか候補のある機材すべてにアマンダ
は精通していた。多少のカスタマイズはされているものの根本的な
つくりは変わっていない。すべての盗聴器、カメラを無効化し、彼
女は配線を断線した。断線したことで、当然どこかに連絡がいくだ
ろうが、応援が来るまでに撤退しないと意味がない。
﹃アマンダ。あと数分で照明が戻るぞ﹄
﹁わかってます!﹂
そういいながら汗を額に滲ませてアマンダは作業を済ませて、警
備室を抜け出した。表玄関に向かう男達が小さなライトをかざして
向かうのを何とかやり過ごしながら、ミケーレとの待ち合わせの通
用口へと向かう。暗闇に身を潜ませるといっても経験値が圧倒的に
少ない。だからあせる気持ちを抑えつつ、どうしても慎重に進む形
になる。ミケーレは無事だろうかと思いながら、カルロスの声が聞
こえなかったことに冷や汗が流れた。
彼は一体どこにいるのだろう?
すんなりとイルマの部屋に入り込めたのが、少し順調すぎたかも
しれないとミケーレは考えていた。アマンダが面会した場所と部屋
は変わっておらず、簡単にイルマを見つけることができた。しかも
見張りはおらず、彼女の世話をしている女が一人だった。その女も
転寝をしていたので彼女の口をふさぐのはとても簡単であった。
テゾーロ
﹁私の宝﹂
116
そう囁いて、イルマの体をしっかりと抱きしめる。少し年齢より
発育が悪いのは母親の状態のせいもあっただろうと思う。数日とは
いえ過度のストレスと恐怖にさらされた従姉妹のことを思い出すと
また切ない気持ちが押し寄せてくる。あの状況でそれでもガブリエ
ッラはイルマを堕胎することはなかったし、産むまで気力だけで生
きていたと思う。そんなガブリエッラが自分の命と引き換えにこの
世に生み出した大事な娘がイルマだ。だからこそ大事に大事に成長
を見守ってきたのにこんな風に危険にさらしてしまったふがいなさ
をミケーレは感じていた。
﹁︱︱おじちゃまっ!﹂
﹁静かに。迎えに来たよ。今から何があっても声を立てちゃだめだ。
約束できるね﹂
そう暗闇の中、小さなペンライトで彼女の顔を確認して抱きかか
える。月の光が差し込む窓が呪わしい。アマンダはこれに悩まされ
ていないだろうかと思いながら、しっかりとイルマを抱えてミケー
レは通用口へと向かう。スーツに取り付けたカフスボタンに話しか
ける。
﹁ライアン、私だ﹂
﹃ミケーレ様。ご無事で!﹄
﹁アマンダのほうは順調か?﹂
﹃先ほど警備室をぶっ壊したのは確認しました。照明ももうしばら
くは戻らないと思います。こっちは通用口を無効化してる最中です﹄
そうライアンの声とともに男のくぐもったうめき声が聞こえる。
順調だがそれだけに非常にいやな予感がする。ライアンはカルロス
のことに触れていなかった。彼は一体どこにいるんだろうとミケー
117
レは考える。ただなるべく無音で、集合場所へと向かった。
﹁セニョールダンドロ﹂
そう静かにただし、低く剣呑な声で呼びかけられて思わずミケー
レは足を止めて振り返る。暗闇の中、大きなガラス窓に月の光が光
っている。それを反射するように長身の男のシルエットが浮かび上
がっていた。
﹁シニョーレパラシオス⋮⋮﹂
﹁もてなした人間の家で、盗人とはあなたらしくない﹂
﹁もともと私のものだ﹂
自分はそれを取り戻しただけ。そう言いながらミケーレはイルマ
を下ろして背中にかばう。イルマも見たことのない二人の殺気じみ
たやり取りにおびえて半泣きながらも声を出さずに、ミケーレの後
ろに隠れた。
﹁だが俺が手に入れたものですよ﹂
凄みながらカルロスは胸ポケットからベレッタを取り出して、ミ
ケーレの胸に照準を合わせようとした。
118
#18︵前書き︶
女性が殴られる表現および、残酷表現があります。
119
#18
まずいと、照明が消えた瞬間にカルロスは思った。反射的に表玄
関か、通用口か、はたまた違う出入り口かを予測する。ただ、二人
の狙いはイルマしかない。なるべく音を立てないよう、すばやくカ
ルロスはイルマに与えた部屋へと向かう。完全に荒事に向いていな
いように見受けられる二人に油断したのかもしれない。
また、イルマを手に入れてからミケーレが、手のひらを返したよ
うに交渉に応じたのも確かに今振り返ると不自然であったことに苦
笑する。カルロスは単純に愛する従兄妹と成した子供愛おしさにあ
る程度のラインは譲ってくると踏んだ当時の自分の甘さを嗤った。
あの鋼鉄の意志を持つ貴族が簡単に交渉に乗ってきたこと自体疑う
べきであった。どうやら自分は、ミケーレに何か気後れするところ
があるらしい。だからどこか、彼に対する対応が甘くなる。口元に
苦い笑みを浮かべてから、気を引き締めてカルロスはミケーレの足
音や気配を探る。所詮相手は小さな子供をつれた素人。必死の音を
殺して移動しているが、どこか気配の見え隠れするものを追って、
気を抜きそうなところでカルロスは声をかけた。
﹁セニョールダンドロ﹂
普通なら飛び上がって慌てるであろうところを振り向いた男は、
確実に喉元に食いつかれる寸前だというのに優雅であった。この男
を殺すわけにはいかないが、四肢をまず使用不可能にしてやろう。
そしてその優雅な表情に涙と血、そして懇願を浮かべさせてやれば
どれほどの心地になるのだろうか。その様子を彼が大事にする子供
に見せ付けたら一体どういう表情をあのすかした顔に浮かべるのか。
そんなことを一瞬夢想した。カチリと激鉄に手をかけて、その音を
120
味わおうとカルロスは口元に粗野な笑みを浮かべた。
自分の中に嵐のように振り落ちてくる暴力の甘美な味わい。それ
が巻き起こるのを歓喜とともに感じようとした︱︱。
彼に銃口が向かいつつあるのをみて、アマンダはなりふり構わず、
走り出して宙をとんだ。体勢を立て直せようが出来なかろうが構わ
なかった。ミケーレに向かってる銃口がまるで自分の命までも掴み
潰しそうな感覚を感じたからだ。
﹁ミケーレ様っ!﹂
叫ぶのと同時にドンと、カルロスに絡みつくように、アマンダは
床を蹴って飛びつく。飛びつかれた勢いを使って、手にかじりつい
たのもあり、カルロスの手からベレッタが飛びだす。一瞬だけ虚を
つけたとはいえ、すぐに相手はアマンダの四肢を取り押さえようと
やってくる。完全にもみ合いである。
﹁アマンダッ!﹂
﹁早っ⋮⋮く、行ってください!!﹂
カルロスともみ合いながらアマンダは叫ぶ。インカムからライア
ンの焦った怒声が頭を揺らすようであった。
﹁君も一緒じゃないと︱︱﹂
﹁だめっ!﹂
121
そう叫ぶと、アマンダはカルロスに集中する。彼の力も利用して、
アマンダは猫のように回転してすっくりと立ち上がる。低い姿勢で
カルロスから目を離さない。暗闇の中では黒とも見える赤みがかっ
た乱れた髪の間から厳しい光を宿らせた瞳が光る。手を軽く握って、
胸の辺りに出し、攻撃に備える。
﹁セニョリータアマンダ。あなたはやはり⋮⋮﹂
にやりと笑いながら、ジャケットをカルロスが脱いで、アマンダ
に対峙する。
﹁ミケーレ様!﹂
アマンダはひたりとカルロスを見据えたまま、逃げるように促す。
インカムからはライアンがミケーレに話しかけているのが聞こえて
くる。ライアンをはさんで一方通行なのでミケーレがなんと答えて
るかは正確には聞こえない。ただ最初から全員で決めていたことが
ある。こうなった局面に、何よりもまずイルマを優先する。それは
ミケーレも認識している。カルロスに集中しながらも背後にも気を
使うことはアマンダの集中力を分散させてしまう。ミケーレはじり
じりとイルマを抱えつつ後退する。
アマンダはその気配を感じながら、ミケーレが飛び出す気配に合
わせてカルロスに飛び込むために、じりじりとすり足で間合いをつ
めていく。カルロスがどういった武器を持っているのか、まったく
持っていないのかはこの時点ではわからない。
﹁なるほど、体術が得意なんですね﹂
本当にこの男は油断ができない。相手に飛び込むのはアマンダの
場合、恐怖が勝ったときが多い。怖くて怖くて、ただ逃げられない
122
からこそ立ち向かおうとする。飛び込むように見せてアマンダは蹴
りをカルロスに繰り出すが、腕でやすやすと足をつかまれて止めら
れるが、その力を利用して、アマンダはもう一方の足を体を回転さ
せることで、カルロスの側面を打った。くるりと床に手をついて体
勢を立て直して流れるような動きで拳をカルロスの胸に叩き込む。
もちろんそれを手のひらで受け止められ、にやりと笑われる。
まったく攻撃が効いていないことに少しだけ頭に血が上り、蹴り
を右に左にと入れていく。特定の型はないのでストリートファイト
で培ったのであろう。アマンダの攻撃をよく読んでくる。︱︱その
ときにアマンダは思い出した。武術を習っているものはルールを準
拠する傾向があることを。ライアンにそういわれたことを思い出し
た。それであれば、カルロスは自分が変な手を使うとは思っていな
いであろう。そう思いながらチャンスを探る。攻撃をすべて腕で防
がれたときにカルロスが少し口元に微笑を浮かべた瞬間にアマンダ
はゴチっと頭突きをカルロスにかまして、後ろ蹴りを放った。
﹁く⋮⋮はっ﹂
頭を抑えているところにわき腹にヒットした蹴りにさすがのカル
ロスも、ダメージを受けてアマンダを乱れた髪の隙間から一瞬睨ん
だ。
﹁︱︱っっ!﹂
睨まれたと思った瞬間に、カルロスの顔が至近距離になった。そ
してすぐに頬が熱くなり、ジンとした痛みがその後にやってきて頬
が張られたことにアマンダは気がついた。口元をぬぐいながらにや
りとこちらも微笑む。
︱︱少しは本気になった。
123
そう思いながら、カルロスの胸に飛び込みお互い胸倉をつかみ合
いになる。本気になればなるほど、ミケーレから彼の気はそがれる
はず。そう思いながらアマンダはカルロスにとって魅力的なえさで
あるように飽きの来ない攻撃を繰り出そうとした。カルロスが自分
の胸元を握る力を借りてアマンダは両足を使って蹴り上げるが、彼
女の動きを予想をしていたかのようにそのまま床に倒される。
﹁っは⋮⋮!﹂
どう考えても170ポンドを超えてる体を受け止めながら押し倒
されてはたまったものではない。自分はどう見積もってもカルロス
の体重の三分の二が関の山だろう。じんわりとわき腹がしびれたよ
うになっているのに、カルロスの張り手がやはり飛んでくるのをア
マンダは馴染んだ動きで防ごうとするが、少し緩慢な動きだったた
めか逸れて耳が叩かれる。ライアンが何かわめいているような気が
するが、衝撃でなにを言っているかがわからない。ミケーレが出口
を飛び出した瞬間は自分がカルロスの懐に飛び込む際に確認したか
ら、きっとミケーレとイルマを保護した叫びだろうと、アマンダは
少しだけ安堵する。
﹁︱︱なにを笑っているんです?﹂
アマンダの動きを封じるためにカルロスは彼女の両腕を挟み込む
ようにアマンダの上にのしかかって、アマンダの耳元にささやく。
ぞっとするほどの艶を含んだ視線に背骨がしびれるようである。
﹁これからあなたの身に起こることを考えればそんな余裕はないは
ずですよ?﹂
124
そう囁くカルロスをアマンダは見上げる。ばたばたと遠くから、
この屋敷の警備︱︱もしくは荒事に慣れたカルロスの部下たちが霍
乱に気がついてこちらに向かってくる。それと同時に自家発電がつ
いたのか薄暗い明かりが灯った。
カルロスはなぜか手で制して、彼らの足を止めさせる。薄暗くて
もその動きは明白に伝わった。
﹁あなたにはなにが似合うんでしょうね。ただ︱︱このきれいな両
手両足は邪魔かもしれない﹂
そう言って、膝をアマンダの腕にぐりっとこすり付けて抑える。
﹁ぅあっ⋮⋮!﹂
反射的に短い悲鳴を上げるアマンダを満足そうにカルロスは見つ
めた。
﹁別に両手両足なくてもそういうのが好みだという好事家はいます
からね。ああ。局部麻酔でそれをぶった切るところをちゃんと見せ
てあげますよ。麻酔なしで切ると痛みでたまに狂ったり、ショック
死する場合がありますしね。舌は︱︱まぁ噛まれてしまうと困りま
すから歯は抜かせていただきますけど﹂
微笑を浮かべながら、カルロスが甘く囁く。ぞわりとその微笑に
魅入られそうになる自分が怖くなるが、覗き込むカルロスの瞳から
目が離せない。そのまますいっと、アマンダの谷間が見えるボンテ
ージに指を入れてジッパーを指一本で引き下げて前を開けていく。
﹁ああ⋮⋮。コルセット。あなたがこんなにオイタが得意でなけれ
ば十分、その体で俺を儲けさせてくださったんでしょうけど。セニ
125
ョールダンドロは本当に趣味がいいですね。あなたの胸は白くてや
わらかそうだ。その上、このくびれ⋮⋮ん?﹂
コルセットの大部分が露になるほど前を開けられてからカルロス
の指が止まった。コルセットの胸元にちらりとのぞく白い紙に気が
ついてそれを引き抜いた。数葉の写真が折りたたまれているのを開
いて、カルロスの指が震える。
﹁︱︱こ、れは⋮⋮﹂
そうかすれた声音で写真とアマンダを交互に見やる。少し揺れた
瞳にアマンダはカルロスの動揺を見て取った。そんな隙を見逃すほ
どアマンダものんきではなかった。先ほどダメージを与えたであろ
うカルロスの額をめがけてもう一度頭突きをかました。自分も目か
ら星が飛び散るかと思うほどの激痛と、目の前がショートしたよう
な衝撃であるが、それでよろけたカルロスの体の下から抜け出し、
アマンダはあまり働かない視力ながらも、コルセットのボーン部分
から薄いナイフを抜き出して、カルロスに突きつける。
﹁っ︱︱﹂
少しだけ首を振りながらもカルロスはそんなアマンダの様子を見
てにやりと笑う。
﹁なるほど。そのコルセットはとても便利だ。︱︱だけど、この写
真のことを教えてもらいますよ﹂
パチリ。
そう小さな音とともに、月光を受けてカルロスの指に光るものが
現れたかと思った瞬間に、アマンダの視界が縦に割れた。
126
キン⋮⋮っ!
反射的に受け止めて防げたのは、アマンダの技術というよりもカ
ルロスの動揺に多く依存していたのかもしれない。きゅるりと空気
を切るようにナイフを指で一回転させて、唇をなめるカルロスを見
てアマンダはそう思った。この男は何人も人を殺してきていて、自
分はそんな経験は皆無だ。ただ、生き残るためにはこの男を︱︱。
そうアマンダは思って、ナイフを繰り出した。
127
#19︵前書き︶
戦闘シーンにつき流血表現あります。
128
#19
裏口を出たところでライアンたちが暗がりに立ってミケーレたち
を守るための陣形を取っていた。完全にこの場所は掌握したのだろ
うとそれで判断できる。ライアンはイルマとミケーレの二人しかい
ないことに気がついて一瞬何か言おうとしたが、無言でイルマを塀
の向こうに運ぶためにロープと滑車を用意させて、少しぐずるイル
マをなだめつつ、自分の部下とともに移送させる。それを見届けて、
ミケーレは後は頼んだと一言言って、再び先ほどの道を戻るために
走り出した。
﹁ミケーレ様っ﹂
そう後ろであせったライアンの抑えた声が聞こえたが、ミケーレ
は気にも留めずに走る。頭の中は先ほど置き去りにしてしまった女
のことで占められている。
ライアンが怒号を上げているのは分かったが、ミケーレは足を止
めることはなかった。自分がやむなく置いてきた女を救うためには
自分を差し出すくらいのことは厭わない。彼女を救うためなら︱︱。
そこで本末転倒に陥ってる自分に苦笑した。
取引に応じないと決めていたのに、今、自分の頭を占めるのはた
った一人で戦おうとする女のことだった。いつの間にか惹きつけら
れていた。触れる彼女の柔らかい体をもっとむさぼりつくしたいと
いう思いと戦い始めたのはいつからだろうか。
ライアンからもディミトリからも、やんわりとアマンダに心を傾
けすぎないように注意をされていた。確かに、ミケーレにすれば、
アマンダは捨て駒にしか過ぎなかった。そのために周りとのかかわ
りが薄い人間を条件の中に盛り込んだ。ただ、ここまで密に彼女と
129
時間をともにして、彼女に惹かれていく自分をとめることが出来な
かったのは誤算であった。
それに、彼女に死ぬことは許さないといったのは自分である。も
し、死ぬこともできず、カルロスに捕らえられた後の彼女の運命は
息をすることさえ苦痛な生でしかないだろう。彼女には笑っていて
ほしい。満たされてほしいと思った。こんなことに安易に女を巻き
込むのではなかったとミケーレは改めて思う。一族に反対されたと
きに、自分はなぜ人の命も何も考えずに、この選択をしたのか。
今となっては悔いるしかない。たとえ、自分のプライドがずたず
たに裂けようとも、一族の者たちに制裁を加えられようとも、あの
島を売るべきだった。馬鹿な感傷といわれようとも、ガブリエッラ
が眠ることを望んだあの島をカルロスに売るべきだった。
ナイフファイティングは特に思考をしてはならない︱︱というよ
り不可能だ。相手を見て流れるように技を繰り出すしかない。弧を
描くように頭上から振り落とされた刃を横になぎ払い、アマンダは
カルロスの胸に自分の持つ刃をそのまま突きつける。もちろんそれ
も払われ、きゅるきゅると回るようなナイフの軌跡、お互いの息遣
いと、刃が作り出す音がその場を支配する。カルロスの部下たちも、
本人が手を出すなといったために見ているだけである。アマンダも
カルロスのシャツを何度か切り裂いてはいるが、何度かコルセット
に刃は入っていた。正直防弾チョッキ代わりに特別に作られたこの
コルセットがなければとっくの昔にアマンダは倒れていただろうと
思う。
お互いナイフだけではなく、拳も当然入れてはいるが、決定的な
打撃は入れられない。話す余裕などもちろんなく、アマンダは自分
130
の手がぬるぬるとしだすのに焦りを覚えていた。汗でナイフがすべ
る。そろそろ決着をつけないと、体力的な差ももちろん計算にあっ
た。
﹁︱︱っ﹂
アマンダの視線が揺らいだのを見て取って、カルロスはアマンダ
の体にこん身の一撃を繰り出そうとした瞬間に目の前のアマンダが
横に飛んだことを確認してすぐに攻撃を変える。彼女を追いかけ、
そのわき腹を蹴り上げた。
﹁ぅあ⋮⋮っっ!﹂
そのまま横に吹っ飛んだアマンダが顔を伏せているのをカルロス
は後頭部を引っつかんで顔を上げさせる。歯があたって唇を切った
のか血がにじんでいる。
﹁セニョリータアマンダ。あなたは思っていた以上に楽しい人だ﹂
そう言ったかと思うと、カルロスは無表情に、アマンダの太もも
にナイフを刺した。声にならない悲鳴がアマンダの口中から沸き起
こる。ボディスーツもそれなりの強度はあるが、躊躇なく突き立て
られた鋭いナイフはやすやすとアマンダの肉を割る。
熱い、熱い、熱い︱︱!
頭の中はその気持ちで支配されてしまう。のどの付け根に指が入
り込み、完全にアマンダはカルロスの手中に落ちたことを次の瞬間
に悟った。なるべく痛みを顔に出さないようにアマンダはそのまま
目を開いてカルロスを見上げた。何の意思も見えないような星も月
もないような闇夜のような視線にぶつかる。敵意さえも見受けられ
ない。
131
﹁セニョリータ。あの写真はなんなんですか?﹂
﹁︱︱な⋮⋮﹂
まさかそんなことを聞かれるとはと、アマンダは訳が分からなく
なる。
﹁しゃし、ん?﹂
﹁そう、あなたがその胸に持ち歩いていた写真です﹂
﹁ガブリエッラ様の⋮⋮﹂
ひくりと喉に当てられた指先が少しだけ動く。カルロスの動揺な
のかとアマンダは一瞬にして、悟るが、太ももに入ったナイフの存
在をすぐに思い出させられる。ほかでもないカルロスがぐいっと、
刃をさらに押し込んだからだ。
﹁︱︱っぅ!﹂
﹁セニョリータ、答えてください﹂
そう甘さを含んだような声音が全く行動と則していない。この男
は敵に止めを刺すときが最も慈悲深いのかもしれない。そうアマン
ダは脂汗が流れるような激痛と戦いながら思考の片隅で考えた。そ
して、彼の心の琴線にガブリエッラの写真が触れたことも。まだ勝
機はある。諦めるなと痛みと放出し続けたせいで下がりつつあるア
ドレナリンの残骸をかき集めるように、自分を保とうとした。なる
べく疲労困憊した態を装い、ゆっくりと答える。
﹁あれは︱︱ミスターダンドロにいただいたんです﹂
そんなアマンダの様子に少しだけカルロスの指の力が抜けるのを
132
感じる。
﹁あなたがどれほど非情な人なのかを知るために︱︱﹂
﹁どういう⋮⋮﹂
﹁だってあれはあなたがやったことでしょう﹂
そういわれて思わず息を呑んだ瞬間にアマンダがふたたび体を起
こそうと力の入り方がかわったのをカルロスはバランスを取って押
さえつける。
﹁残念でしたね﹂
﹁アマンダ!﹂
カルロスの声にかぶせるように、普段そんな大声を出すようなこ
とはないであろう男の声が響いてカルロスもアマンダも思わずぎょ
っとする。先ほど逃げたはずの男、ミケーレがその体にぴったりな
銃身を振り上げながら、カルロスを狙っていた。普段は綺麗に撫で
付けられている黒髪がほつれている。ざわりと当のカルロスに手出
し無用といわれて様子を見ていた部下がミケーレに銃身を向けたが、
どちらかが銃を撃てば、カルロスの命もなくなるであろう。どの道、
手は出せない。
形のよい額がアマンダの太ももから生えているナイフを確認した
瞬間に皺がよった。冷静に見えるが相当怒っているのをアマンダも
カルロスも認識した。ただ、カルロスはその様子をにやりと笑って、
体の力を抜いて立ち上がる。
﹁︱︱!﹂
アマンダからすると信じられなかった。自分も確かに足に怪我を
しているとはいえ、まだ戦闘能力はある。なのにそれを放棄するよ
133
うにカルロスはゆったりと力を抜いたのだ。まるで大型の獣がくつ
ろぐようなゆったりとした微笑をミケーレに向け、同時にその場に
残っていたカルロスの部下がアマンダに照準を向ける。
︱︱ありえない。
そうアマンダは冷や汗をかいていつでもミケーレの盾になるべく、
銃口を気にしつつもにじり寄ろうとする。
﹁セニョリータ。動かないで﹂
慈悲とも見える微笑を口元に浮かべて、カルロスはミケーレにゆ
ったりと低い声で話しかける。
﹁セニョールダンドロ。︱︱何か誤解があるようですね﹂
そう、ゆったりと腕を下ろして無抵抗をアピールするカルロスを
ミケーレは片眉を上げて見つめた。
134
#20
ライアンの盛大なお説教を聞き流すミケーレの様子をBGMにア
マンダは多少は揺れる機体の中で治療を受けていた。イルマはとっ
くに乳母に預けられて、すでに眠っている。切り裂かれた太ももは
特に血管や神経を大きく傷つけてはいなかったが、それでも痛みは
アマンダを苛んだ。ゆっくりと痛み止めが痛みと発熱を克服してい
く上で発生するまどろみにアマンダは落ちていきながら、先ほどの
カルロスとのやり取りを思い出していた。
﹁︱︱俺たちがそれぞれ誤解していることがあるようですね﹂
そうカルロスは、攻撃の姿勢を解いた。ただし、アマンダに向け
られている銃身は下ろさせない。対話の姿勢を見せただけだ。一見
不利に見えてカルロスのペースに持ち込まれてしまったことに、ア
マンダは臍をかんだ。ただ、ミケーレはそれを無表情で見つめてい
る。ミケーレの後ろには彼を追ってきたと思われるライアンたちが
いたが、こちらも状況を見て武器はあえて構えていない。
﹁誤解とは?﹂
銃身を脇に構えたままミケーレがそれを受ける。お互いが話を聞
く姿勢ではあるが緊迫感が漂う。カルロスの優美な微笑を浮かべる
様子を見て、アマンダはあまりの緊張感に喉がからからに渇いてい
135
る自分に気がついた。
﹁彼女をこんな目に合わせたのは誰か?
ということです﹂
カルロスはアマンダから取り上げたガブリエッラの写真をミケー
レに見せる。ミケーレはわずかに顔をしかめてそれを眺めた。
﹁いまさら君は何を言ってる?﹂
﹁この写真を見れば彼女がどんな目に合わされたかくらいは分かり
ます﹂
カルロスが指した写真は、どう見ても殴られつつも陵辱された形
跡のある女の写真だった。彼女の消息をたどっていたミケーレの手
のものがミケーレに報告するために医者に連れて行ったときに撮影
した写真である。顎の付近に拳骨のあとがくっきりとついた青あざ
をはじめあらゆる折檻のあとが残る無残な体に何度も目を背けたく
なる。涙でマスカラが黒い筋を頬に作っている安い化粧を施された
場末の娼婦の痛めつけられた姿。蝶よ花よと育てられた貴族の娘と
は思えない。アマンダはミケーレからガブリエッラを見失った後、
最低の娼館で働かされているところを見つけたと聞いていた。てっ
きり別れ話のもつれで、ガブリエッラをそういう目にあわせたので
はないかとミケーレは思っていたが、カルロスの態度を見てそれが
思い込みであったことに気がついた。
少し目を見開いたあと、ミケーレはカルロスに静かに確認した。
﹁誰なんだ?﹂
﹁それは俺が知りたいです﹂
そう物騒にきらめく視線にミケーレはカルロスが怒り狂っている
ことに気がついた。これほど感情を押し殺さねばならない男に同情
136
を禁じえない。怒りの姿勢さえすべてコントロールしなければ、生
きていけない世界とは。ミケーレ自身も厳しい世界に身をおいてい
るが、スラムから一人でここまでのし上がるためにはこうまでなら
なければなしえないのかと。
﹁俺がガブリエッラを見失った3日目にあなたがやってきた。︱︱
だからてっきりあなたが交際のことを知って彼女を連れ去ったんだ
と⋮⋮。﹂
カルロスが彼女を見失ったのはミケーレにガブリエッラを確保さ
れ、そのまま自分との縁を切らせるためだったとカルロスは今の今
まで思っていた。ただ、アマンダが隠し持っていた写真を見るまで
は。
﹁︱︱私も彼女を1日だけ見失った。君とのことは⋮⋮。これから
の代償のひとつだと思っていた﹂
ガブリエッラも一族の娘。しかもミケーレのような年の離れた兄
とも慕う男との結婚を控えていた。お互い男女としての愛情は持ち
えないことをはっきり認識していたし、それでも一族のためだから
と二人とも受け入れていた。結婚前に学生時代の友人と旅に出たい
と言われたときにこれを最後に籠の鳥に入ることを覚悟した表情で
あったからミケーレはそのわがままを許した。ガブリエッラもミケ
ーレ同様一族の一員であることは自覚があった。むしろありすぎる
ほどだったからミケーレも安心していた。
だから、彼女がカルロスとそういうことになったこともすぐに報
告は受けていたし、彼女が駆け落ちなど、万が一おろかなことを考
えることがあればすぐに動けるように彼女の周りに人を配置してい
た。ミケーレの気持ちとしては仮初の恋愛でも彼女には許してやり
たかったから。それはミケーレがガブリエッラのことをかわいい妹
137
としか見ていないということの表れでもある。
もちろん、こんなことが起こった後、一族はガブリエッラを療養
と称して彼女を精神病院に閉じ込めた。すぐに妊娠が発覚したこと
もあり、ミケーレとの結婚は当然なくなった。いまだ一族内ではタ
ブーとされるほどのスキャンダルである。
﹁心当たりはあるのだろ?﹂
ミケーレはカルロスの静かな態度から心当たりがあることに気が
ついていた。
﹁︱︱あります﹂
﹁私が聞いても?﹂
そう見据えるミケーレにカルロスは不思議な微笑を口元に浮かべ
るのみで答えた。失態と言葉に出して認めることはできない。ただ
カルロスの中で、これは誰にも譲らずに自分が決着をつけるべき事
柄だということは決めていた。その表情を見てミケーレは一瞬目を
伏せて、そうかと小さくつぶやいた。
﹁では︱︱君に決着は譲ろう。彼女の⋮⋮最後のときに、私はそば
にいた。彼女は生まれたばかりのイルマの姿を見て、少し微笑んで、
自分の墓はメキシコ湾の見える場所へ葬ってくれと。私は彼女の手
を握ってうなづいた。それを見て彼女は安心したようにそのまま長
い︱︱最後の息を吐いた﹂
そうして目を瞑って眠るように事切れたことを今でもミケーレは
すぐに思い出せる。あの愛おしい何かを生まれたばかりの赤ん坊を
通して見つめるようなまぶしい視線。あんな視線をずっと彼女とと
もにした年月の中でミケーレは見たことがなかった。ガブリエッラ
138
と自分は似たもの同士だった。なのにそんな風にいとおしげな視線
を持つことができる何かを見つけた彼女に強烈な羨望をミケーレは
テゾーロ
持った。だからこそ、彼女が命と引き換えにして産み落としたイル
マはミケーレにとって宝となった。
それまでは大事な従兄妹を踏みつけにした男の子供としか思えな
かったのに。
﹁君とのことは、従兄妹の口から上ることはなかった﹂
それだけ大事な自分の中に秘めておきたい事柄だったのだろうと
ミケーレは思う。ガブリエッラと自分は本当に似ていた。心に秘め
ると一度決めたら彼女は決して誰にも漏らさなかったから。
﹁決着がついたら連絡をくれ。君が望んだ島に招待しよう﹂
﹁ありがとうございます。︱︱残念ながら、私は早急に事後処理を
しなければならないので、お見送りはできません﹂
簡潔にカルロスはミケーレに告げた。ミケーレはアマンダに向け
られた銃口が下がったのを確認して自分も持っていた銃を下ろす。
そのまま半身を起こして二人のやり取りを見守っていたアマンダの
元へと向かう。彼女を抱き上げて歩き出すミケーレの背中にカルロ
スが声をかける。
﹁あなたの大事にするものがこれからも光とともにありますように﹂
イルマに係わらない︱︱自分の子供だと認めることさえしないこ
とが、彼にとってできる精一杯で唯一のことだとカルロスが思って
いる言葉なんだとアマンダは思った。
139
#21
目が覚めて、アマンダはシーツのさらりとした感触をしばらく味
わっていた。天蓋の大きなベッド。アマンダが与えられていた客室
はとても豪華なものだった。あれから自家用ジェットでメキシコか
らヨーロッパまで戻ってきた。すぐに病院に再度連れて行かれて、
精密検査をされ、全身の小さな打撲さえ手当てを施された。雑菌が
傷口から入ったため、移動中に高熱を発したのもあり、一晩だけ入
院し、その後この屋敷へとアマンダは連れてこられた。
屋敷にはすでにニコラやディミトリといったミケーレの腹心とい
えるスタッフが、主たちを快適に迎えれるようにすべての準備を整
えて待っていた。彼らの手によってアマンダは快適なベッドへとあ
っという間に連れて行かれて怪我の治療に専念するように言い渡さ
れた。
ヨーロッパではあるだろうがどこの国にいまいるのか、アマンダ
はいまいちわかっていなかった。まだ外も暗く部屋は分厚いカーテ
ンに閉ざされているが夜明けは程遠い気配がした。ただ、鎮痛剤の
おかげでずっと眠っていたせいか妙に目がさえている。この数ヶ月
自分の身に起こったことに自然とアマンダの思考は向いた。
ハイスクール時代からの恋人であったジェイクに裏切られ、身も
世もなく感じた。思えば幼い時に家族を失い、養い親に温かく迎え
られたとはいえ、どこか家族の一員ではないと肌に感じていた。だ
からジェイクへの精神的な依存が激しかったのだと思う。もし彼が
選んだのが自分の義妹ではなく別の人間であったらあんなに心は痛
まなかったのかもしれない。彼は知っていたはずだったから。いか
にアマンダが義妹にいろいろなものを奪われてきたことを。
傷ついてという言葉では表現できないほどだった。だから自棄の
ように⋮⋮いや、完全に自棄でこの仕事を引き受けた。そして霧の
140
立ち込めるヴェネチアでの道化師の仮面の男とのつかの間の逢瀬。
その男が自分の雇い主だということを知って驚いた。だがミケーレ
はきっとあの夜の女が自分だと気がつくことはないだろう。
彼と自分の住む世界は全く違うことをアマンダは日々感じさせら
れていた。親を失ったとはいえ、アメリカの中流階級で育った自分
と、何百年という連綿と続いてきた家柄の頂点にいる男。その差は
埋められることはないだろう。
︱︱ずっと彼のそばにいたい。
そう思う気持ちがどこかにあることを感じながらも、アマンダの
大半は﹃そばにいることが耐えられない﹄と思っている。ミケーレ
の体温を自分は知っている。あの夜とそして彼の恋人役を勤める上
で何度か、抱きしめられた。枯れた指先で何度もなぞられたその感
触に胸が締め付けられる思いがする。彼はいつか、誰かと結婚する
ことになるだろう。きっとガブリエッラのことがあったから、今ま
で結婚していなかっただけだ。彼女が遺したイルマのためにこんな
ことをするほど、ガブリエッラをミケーレは愛していたし、忘れる
ことができなかった。だが、カルロスとの決着を経た今、近いうち
に振り切れるだろうとアマンダは思う。
ミケーレが懐かしむような、それでいて痛みを耐えるようにガブ
リエッラのことを語ったことがアマンダの脳裏に張り付いていた。
彼はどこかずっと愛した女のことを胸に抱きながら、誰かを妻に迎
えるんだろうとアマンダは思う。
ガブリエッラの影さえ超えることができない自分が、果たしてほ
かの女を大事にするミケーレを見守ることができるんだろうかとも
思う。︱︱そして、今回の件で、自分はボディガードとしては力不
足なことも実感していた。たまたまこの件に関しては条件がそろっ
ただけに過ぎない自分が、今後も警護の人間としてミケーレのそば
にいれるわけがない。たとえ許されたとしても、そんな惨めな気持
141
ちでミケーレのそばにいることに自分は耐えられるのか?
いや、
耐えれるわけがないと自然とほろりと目じりからこぼれる涙を止め
るように目を瞑った。
﹁ミケーレ様﹂
﹁どうした。ディミトリ﹂
珍しく口ごもる執事を見て、ミケーレは片方の眉を上げて問いか
ける。さすがのミケーレも疲れていた。メキシコから戻ってそのま
ま働き詰めだからである。︱︱とはいえ事後処理は速やかに行わな
ければならない。ミケーレはその処理に忙殺されていた。自分がイ
ルマを取り戻すためにこの2ヶ月ほどの時間を使ったため、従来の
仕事が山積みになっていたし、あわせてイルマを安全に守れるため
のセキュリティの強化など懸念事項は山積みであった。ディミトリ
やライアンたちが如何に優秀だとはいえ、ミケーレが捌くべき仕事
はなくなることがない。
アマンダの様子も気にはなっていたが、彼女が目覚めている時間
に部屋を訪れることはできなかった。ましてや、眠っている時間に
彼女の部屋にはいることなど、単なる主従関係のみになった今、で
きなかった。ただ、そろそろ鎮痛剤の量も減っていると聞き、数日
以内にアマンダに会えるだろうとミケーレは考えていた。そこに妙
にためらうようにやってきた執事が一通の手紙を差し出してきた。
こんなインターネットが普及しているような時代に手紙︱︱。そ
の時代錯誤なものを見た瞬間にミケーレは苦笑を浮かべた。一族の
長老たちだろうと察知できたからだ。
一族︱︱とはいえ、家業もそれぞれ違い、多岐に思惑は分かれる。
142
ミケーレはそれらを統べる総領ではあるが、かといっていろいろな
ことを好き勝手出来るわけでもない。大きな案件は彼らの総意をは
かり、時に説得し、時に取引をし⋮⋮と、なかなかに時間を取られ
るし、無視するわけにもいかなかった。特に今回のようなミケーレ
自身を危険にさらしたことに関しては彼らからなんらかの非難が来
ることはわかっていた。
﹁来たか﹂
気の毒そうな表情をうっすらと浮かべた執事の前で少しだけ本音
が転び出た。ただこの呼び出しを待っていた。手紙を開けて確認し
て、ミケーレにとって、特に面倒な面子がそろっていることを見て
取ってさらに微笑がこぼれた。面倒な面子だからこそ、一挙にすべ
て片付けることができる。そして非難されようと総領として彼らを
押さえなければならない。ミケーレはディミトリに彼らの最新の弱
みや悩みなど資料としてまとめて持ってくるように言い、彼にして
は乱暴に執務机に置いてあったスコッチを乱暴にグラスに注いで呷
った。
旅立つ前にアマンダに会いたいという考えがよぎったが、怪我を
しているアマンダを無理やり起こしてもミケーレが伝えたいことが
伝わらないだろうと考えて、思考を切り替えた。彼らを納得させる
のがまずは急務だと︱︱。
ミケーレが旅立った翌日に警備の事務室に松葉杖姿のアマンダが
やってきた。
143
﹁アマンダ。歩いてもう平気なのか?﹂
﹁まぁ、熱も出血も止まりましたし。歩くのが少し不自由なだけで
すから﹂
そう少し緊張しながらもアマンダはライアンに答えた。
﹁ただまだ療養中だろう。無理はするな﹂
﹁︱︱ええ。そうですね⋮⋮﹂
少し口ごもるアマンダにライアンは少し表情を緩めて、尋ねた。
﹁それでもここまで来るって言うことは何か用事があったんだろ。
まずは座れ。コーヒーを入れる﹂
そう言ってライアンはコーヒーサーバーからコーヒーを注いでア
マンダに渡し、自分も一口二口飲み込んだ。アマンダも少しだけ口
をつけてほっと息を継いだ。カフェイン中毒気味なことは自覚して
いたので、こちらに戻ってから初めて口に入れるカフェインがアマ
ンダに少しだけ勇気をくれるような気がした。
﹁コーヒーは久しぶりです。こちらに戻ってきてからはカフェイン
は止められていたので⋮⋮﹂
﹁先ほども言ったが無理はするな﹂
そうきびきびとコーヒーをまたがぶりと呷るライアンを見てアマ
ンダは少し居住まいを正して尋ねる。
﹁ライアン。ルール違反かとは思いますがここにいらっしゃる前は
あーそうだなぁ⋮⋮﹂
どこにいらっしゃったかうかがっても?﹂
﹁あ?
144
こういう世界の男たちは過去を隠したがる人間が多い。だがあえ
てアマンダがその話題を出したことをライアンは瞬時に汲み取った。
そもそも自分の動作は軍人上がりだということはすぐにわかるだろ
うと思い、開示しても問題ない範囲で答える。
﹁まぁ、故郷の軍隊でちょっとした問題に巻き込まれてな。結局い
ろいろあってやめたあとにミケーレ様に拾われたのさ﹂
﹁ダニエラはエリゼ宮でしたよね﹂
﹁プライベートシェフだがな﹂
アマンダは自分の周りにいるスタッフたちの経歴を軽く確認した。
ライアンははっきり言わないが特殊部隊の1部隊を率いていたし、
ニコラは閉鎖的な貴族の間で引っ張りだこだったコーディネーター
だし、ダニエラは大統領の私的なシェフを勤めていた。ディミトリ
に関しては代々ダンドロ家に仕える家柄の出身で、貴族ではないが
出身は名家とも行って遜色ない古い家である。ライアンの部下の人
間たちもライアンの元部下を核として、基本的にアマンダが足元に
も及ばない技量の持ち主たちである。
﹁一体、何を調べてる。まさか、俺たちの弱みを握って何かすると
かか?﹂
そうライアンがおどけて言うのをアマンダは少しだけ噴出して受
け止めた。
﹁いいえ。ライアン、今後、私が復帰したときにどうお考えですか
?﹂
﹁︱︱。どういう意味だ﹂
﹁言葉通りです。冷静に言えば私のポジションがありません。私の
145
ランクでは力不足ということはお分かりですよね﹂
﹁アマンダ⋮⋮﹂
ライアンは悲しそうに微笑むアマンダの顔を見つめた。
146
#22
ニコラは怒鳴り倒していた。誰にかというとライアンにである。
怪我がしっかり治ってからとかいくらでも丸め込めるで
﹁そんなこといっても、本人がどうしてもっていうんだからさ﹂
﹁はっ!
しょうよ!﹂
﹁とはいってもなぁ⋮⋮﹂
アマンダはライアンに自分自身が戦力外であることを理由に、契
約の継続を断ってきた。ライアンとしても警護の人間のレベルとし
ては実力が足りないことも否定できなかった。彼女は荒事に対する
経験がなさ過ぎる。もともと今回のイルマを取り戻すミッションが
終わった時点で、契約の更新に関しては話し合うことになっていた。
﹁どうしてあんたは素直にアマンダを手放しちゃうのよ﹂
﹁だってなぁー。お前、ミケーレ様に何か頼まれていたか?﹂
﹁え?﹂
﹁俺はアマンダの進退に関しては何もミケーレ様には言われていな
い。ミケーレ様もアマンダをどうしたいかは言っていなかった﹂
つまり、今のライアンの状態だと、アマンダから契約更新の辞退
がくれば受け入れるしかない。そしてそれを決めるだけの権限を持
っていた。確かに彼女の持つ機密事項に関しては念入りに漏洩のな
いように注意することなど噛んで含めてから、彼女の希望を飲んだ。
﹁そんな⋮⋮﹂
﹁正直言って、俺はこの件に関してはアマンダの味方だ。ちゃんと
147
伝えていないミケーレ様が悪い﹂
ミケーレ様も少しは慌てればいいさと、ライアンはニコラに薄く
笑った。さんざっぱら無理を通させ、弱っている彼女に付け込んで
今回の件に引き込んだ。ライアンももちろん片棒を担いだ認識はあ
る。そばでずっと二人を見ていたライアンは惹かれていく二人にも
もちろん気がついていたし、ミケーレが雇い主の特権を活かして役
得を味わっていたことも知っている。だからこそ、言葉と行動を惜
しむなと同じ男として思う。ニコラもディミトリもミケーレに過保
護すぎる。40の声を聞いた︱︱しかも一流に分類されるであろう
男が愛する女を手に入れるのに自分で動かないなど甘すぎると少し
だけ突き放した気分になるのはいたし方がないであろう。
もちろん、戻ってきたミケーレにこき使われて大変な目にあう自
分も折込済みである。
﹁あ︱︱。そういえばあのファイル見つかったときの言い訳を考え
ておいたほうがいいぞ﹂
オディール
そう2人が現在絶賛隠蔽中の黒鳥の正体が記されたファイルのこ
とを同僚に忠告するのも忘れずに、ライアンはこの話しは終わりと
ばかりに手元の書類に目を落とした。
自分はどこに行けばいいんだろう、そうアマンダはふと思った。
居場所がなくて逃げてきた。逃げた先で、新たな居場所を提示さ
れた。ただそこも自分の意思で出てきてしまったわけだが。
148
︱︱さてどうしようか。
アマンダはジャケットに両手を突っ込んで空を見上げる。カルロ
スの追撃はないとは思っているが、万が一を避けるために、故郷に
戻ることは念のため避けたい。そう考えると自分の望みは叶ったん
だということにアマンダは笑ってしまう。あそこには二度と帰れな
い理由がずっとほしかった。思えば、恋人の裏切りよりもずっと前
からそうだった気がする。心の片隅で、自分の居場所はここではな
いというような感覚。どこかしっくりこない自分の居場所であった。
友人も思い出もあるが、今考えるほどそこまで大事なものではない。
ほんの2ヶ月たらずしかいなかったミケーレの隣はどこかしっくり
と自分になじんでいた。
︱︱どうせそのうちそれさえも違和感を感じるようになる。
きっと自分はずっとこの感覚と付き合って生きていくんだろうと、
アマンダは皮肉な微笑を口元に漂わせる。どこかにいってしまいた
かったのに、どうしてあの腕の中にとどまれなかったんだろうとも
思ってしまう。曇天を浮かべるイタリアの空を見上げた。この空の
続くところに彼はいる。きっとあの乾いた指先で、さまざまな難題
を今も解こうとしているんだろう。彼は変わらない︱︱つまり、恋
しくて胸が壊れそうになっているのはアマンダひとりである。
ニコラに雑な服を着てとしかられそうだが、なるべく観光ツアー
でやってくるような観光客から浮かないように、世界的チェーンの
大型アパレルの服を着てローマの石畳を歩く。そう。自分に似合う
服装はこれなんだと。毛並みのいい主の横に並んでもおかしくない
ようにと、名だたるオートクチュールをそろえられた。あれはまっ
たく自分にあってなかった。ああいったものの似合わない、自分は
ミケーレに相応しくないのだ。気がつくとそう言い聞かせてる自分
にむなしさを感じる。
149
そんなことはどうでもいいのだ。
自分はもうどうしようもないほど捕らわれている。ミケーレに。
そう思ってアマンダは絶望する。ジェイクとの仲が終わった後で
さえ、これほどの焦燥感、渇き、居場所のなささえ感じなかったと
今だから言える。あれは時間が癒す種類の傷だった。︱︱だがこれ
は違う。
ずっと一生、ミケーレが恋しくて、でももう二度と彼を目にする
こともなく、ひりひりと渇きながら自分は生きていくんだというこ
とを、アマンダは理解していた。
﹁アマンダ﹂
甘い掠れた声が自分を呼び止めて思わず、まだ調子の整わない足
を止める。ただ足元が崩れ落ちそうになって、振り返ることができ
ない。
﹁アマンダ⋮⋮﹂
再び、呼ばれて、心臓が壊れるほど鼓動を打っているのを感じな
がらアマンダはゆっくりと振り返る。周りの喧騒がとまったような
気がする。そんなはずはないのだが。なんと言っても自分が立って
パァパ
いるのはヴァチカンの前にある広場だ。円形の美しい支柱が立ち並
ぶ古都の中心地。何かあれば法王が全世界のキリスト教徒たちに語
りかけを、赦しと、祝福を与える場所だ。いまもたくさんの観光客
がいる。ここで彼に悪意がある人間が何かを仕掛けるのは簡単だろ
うと思う。なのに、こんなところに一人でたたずんでいていいわけ
がない男が一人アマンダにまっすぐな視線を飛ばして立っている。
150
﹁ミケー⋮⋮レ、さま﹂
﹁なぜ︱︱﹂
なぜと言われても隣に立てない絶望感から逃げ出した。決して彼
の隣に並ぶ誰かをアマンダは許せるほど悟っていない。だから逃げ
るように彼の前から去ったのだ。カクリとまだ完治していない脚の
力が抜けて蹲ってしまう体を抱き起こされた。
﹁まだ怪我も治っていないのに﹂
﹁⋮⋮﹂
戸惑うアマンダと少しだけ不安そうな色を乗せたミケーレの視線
が合う。
﹁なぜ、ここに?﹂
﹁もちろん君に会いに﹂
︱︱なぜ?
そう思うも、目を見開いてミケーレを見つめることしか出来なか
った。アマンダの肘を下から掬い上げるように支えるミケーレが片
膝をついているのに気がついてアマンダは小さく悲鳴を上げる。
﹁ミケーレ様、服が汚れます﹂
﹁そんなことはかまわない﹂
低く冷静に言われるがアマンダは慌てて体勢を立て直そうとする
と、ミケーレがそれを手伝うように支える。
﹁アマンダ。なぜ黙っていなくなった﹂
151
﹁︱︱﹂
どうしてそんなことを聞かれなければならないのか、そして自分
がなぜ答えなければならないのか。アマンダの頭の中は混乱して言
葉を繰り出すことが出来ない。混乱から息が上がる。
﹁すまない。そういうことが言いたいわけじゃなかった﹂
アマンダから手を離してミケーレは居住まいを正した。アマンダ
は肘に感じていたミケーレのぬくもりが消えてしまって少し不安に
なる。
﹁君はきっとどこでも行くことができる人だ。あんなふうに死に近
づいても君はちゃんと戻ってきた﹂
カルロスとの戦いではなく、彼女がどこか死を望んでいたところ
から戻ってきたことをさしていることはわかった。
﹁だが私は違う﹂
はっきりと強くそういわれて、アマンダは口を開こうとしていた
ところを、つぐんでミケーレの表情をうかがった。冴え冴えとした
蒼く光る瞳に初めて彼に捕らわれた夜を思い出す。
﹁君がいないと私はだめだ﹂
ふるふるとアマンダは首を横に振るがミケーレの口元の微笑みを
見て、彼が本音でそう言っていることに気がついた。
﹁私は、ずいぶん君より年上だ。しがらみも⋮⋮いっぱいある。き
152
っと君が私の手を取ってくれた後は、絶対に自由にさせないと思う﹂
それでも︱︱と、ミケーレはアマンダに手を差し出した。躊躇し
て、その手を見つめていると、微かに震える指先に気がついてアマ
ンダは彼の手をとった。すぐに引き寄せられて暖かい硬い体の感触
とミケーレの香りに包まれてアマンダもほっとする。まだ震えてい
るミケーレの様子に気がついて、アマンダは微笑を浮かべてミケー
レを見上げた。普段の薄い瞳ではなく、下から見上げてるせいもあ
るだろう。いつもよりずっと濃い蒼の瞳にぶつかる。すべてを持っ
ていて自信も実力もある男の気弱な瞳にアマンダは気がついた。自
分がミケーレを受け入れた後はきっぱりと自由にさせないとまで言
うその臆病さにも。
その時にアマンダにはわかった。彼がこんな弱い自分を見せるの
は、後にも先にも自分だけだということに。そうしてすべてを包み
込むように微笑んでミケーレの体を抱きしめた。
153
#23
﹁ミケーレ様﹂
そう主人の書斎にディミトリが入ってきた。ある意味無表情とも
言えるほど感情を見せない主人が、上機嫌であることはすぐ長年の
付き合いであるディミトリにはわかった。起きてすぐにシャワーを
浴びたあとなのであろう、まだ少し湿ったような髪にカフスをはめ
ていないシャツ姿という主人にしては非常に隙のある格好であった。
上機嫌の理由は書斎と続き部屋であるミケーレの私室で眠っている
のであろうとディミトリは判断する。
彼女が眠っている間に少しだけ書類仕事を進めようとしていたミ
ケーレはディミトリにどうしたと促す。
﹁ご依頼のあったアマンダ︱︱様のファイルです﹂
そう言って、彼女を雇うときにまとめたアマンダの履歴書や調査
が入ったファイルをミケーレに差し出した。ミケーレはそれを手に
取り、中を改めながらディミトリに結婚式の時期に関して告げて、
準備などニコラと協力しながら行うように指示をする。ディミトリ
は、内心その準備期間の短さに冷や汗をかいたが、かしこまりまし
たと言って、部屋を出て行こうとした。
﹁︱︱っ﹂
何か主人が小さくつぶやいたが聞き取れず、ディミトリはミケー
レを振り返った。
154
﹁いや。なんでもない⋮⋮。ああ、昼食前にライアンにここに来る
ように言ってくれるか?﹂
﹁アマンダ様のファイルに不備でもございましたか?﹂
﹁いや︱︱。ただ少し確認点があるだけだ﹂
﹁かしこまりました﹂
昼食前とはまだかなり時間があるとは思ったが、ディミトリはそ
んな疑問をおくびにも出さずに退室した。それを見守って、ミケー
レはアマンダのファイルを机の引き出しにしまってそっと私室へと
向かう。朝ではあるが、分厚いカーテンが光を遮断している。薄暗
いベッドの一部がこんもりと盛り上がって規則正しく上下に動いて
いるのを見て少しだけ頬を緩めた。
キシリとその山のすぐ横に座り、眠っているアマンダの顔にかか
る乱れた髪をどけてやる。お互いの気持ちのありかを確認してすぐ
に彼女をホテルの寝室に閉じ込めた。まだ赤く盛り上がる肉が痛々
しい怪我を気遣って最後まで抱かなかったが、キスを交わして彼女
が痛みを訴えない程度には触れ合った。一緒に時を過ごせば過ごす
ほどミケーレは自分が飢えていたことに気がついた。アマンダを抱
きしめているだけのことで充足している自分にミケーレは驚いてい
る。
確かに女の存在にいままで慰められたことがなかったかといわれ
れば、もちろんそれはあった。つい最近であれば、カルネヴァーレ
の夜に出会った女だった。彼女を探したが、時期が悪く、見つける
ことは出来なかった。彼女のことは気になってはいたが、ミケーレ
の心の中にアマンダがいつの間にか入り込んでいた。アマンダはミ
ケーレが慰められたどの女たちとも違う。
彼女の前なら、弱い自分が姿を現す。今回のことやガブリエッラ
のことなど、すべてをさらけ出しても彼女は自分を受け止めてくれ
た。ミケーレ自身を受け止めてくれようとする存在など今まで皆無
であったことにミケーレは初めて気がついた。
155
ローマで一泊したあとはこの屋敷に連れて戻った。夕べもずいぶ
ん遅くまで彼女といろいろなことを話した。まだ無理はさせられな
いと思い、ミケーレはじっと我慢をしていたが、アマンダも同じ思
いを抱えてくれてたのだろう。彼女からキスをくれたのには理性が
振り切れるかと思った。
﹁ん︱︱﹂
頬をそっと撫でながらアマンダの顔を見ていたが、まもなく目覚
めるのであろう。仕事柄かアマンダの眠りはオンオフがはっきりし
ている。目が覚めるとぱちりと目を開けるが、その後数瞬だけ非常
に無防備な表情を楽しむことが出来ることにミケーレは気がついて
いた。
オディール
﹁アマンダ。私の黒鳥﹂
そう耳元に直接囁くと、体の下に組み敷いた女の体がはっと反応
した。色気がにじんでいる流し目でアマンダの様子をちらりと見る
と、少し頬が赤く色づいて、どう反応すればいいのか困惑している
表情が見受けられた。その様子にミケーレはにやりと笑う。そして
アマンダの鼻先を少しだけ甘噛みをしてみずみずしく柔らかな唇を
楽しむ。
﹁んっ︱︱。ミケー、レさ、ま﹂
﹁様はなしだといっただろう﹂
そう言って少しだけ開いたアマンダの唇の間にミケーレは自分の
舌をすべりこませる。粘膜がこすりあう湿った音が二人の間に響く。
アマンダは染まった頬をさらに染めて、ミケーレの首に自身の腕を
巻きつけて、ミケーレの唇と甘く感じる石鹸の香りを楽しむ。じゃ
156
れあうようなキスから、だんだんと求めるスピードが加速するよう
なキスへと深まっていく。
﹁こんな近くにいたとは﹂
唇を少し離してミケーレがつぶやく。アマンダは小さく謝罪の言
葉をつぶやくが吸い取られるようにまたキスを落とされた。ミケー
レの首に指を這わせて、まだセットがされていない柔らかな髪に指
を通らせる。ミケーレが怪我の調子を確認してきたときにアマンダ
は首を横に振ってもう大丈夫だと伝えた。
次の瞬間に寝衣代わりにしていた大き目のTシャツの隙間からミ
ケーレの大きな手が入り込んでアマンダの胸を包み込んだ。短いキ
スを繰り返しながらゆるゆると胸を手の甲で撫でられたり、はじか
れたりされるだけで、頭が沸騰しそうになる。アマンダはミケーレ
の腰の辺りに手をやって、シャツをスラックスから引きずり出し、
そこから手を入れた。暖かいというよりも熱く感じるミケーレの素
肌に指を這わせると細かい筋肉の動きが直接伝わる。
ぷっくりと立ち上がった頂を親指でこすりあげられるだけで甘い
うめき声が喉の奥から出るのをアマンダはとめられない。這わして
いた指をミケーレの腰骨にこすりつけるようにして、焦燥感をミケ
ーレに伝える。
ふっとその様子を目元を染めて笑いながら、ミケーレはアマンダ
の手をとった。つかんだままミケーレは下着を脱がせながら、アマ
ンダの秘所にこすり付けると、恥ずかしいとアマンダがつぶやくが
その様子を散々楽しみながら下の蕾をアマンダの指をつかってミケ
ーレは反応を楽しむ。膨れてぬるぬるとするそれをアマンダが自分
でかき混ぜだすほど理性が溶け出した頃合に、蜜道に指をそっと滑
り込ませる。熱くて湿ったそこは細かく蠕動してミケーレの指を奥
へと誘おうとする。
快感に涙を浮かべるアマンダの目じりに唇を落としてほの甘い気
157
がした。膣内に差し込んだ指とは別に親指で、アマンダの秘所をい
じる指を少し強めに押すとアマンダが高いうめき声を立てて、ぐっ
たりとベッドに体を預ける。
ミケーレはスラックスを緩めて、果てたばかりのアマンダの中に
自分自身をゆっくりと埋め込んでいく。
﹁っ⋮⋮はっぁ。ミ、ケ⋮⋮レ﹂
んんっと歯を食いしばりながらアマンダはミケーレを受け入れて
いく。痛いような自分でもよくわからない感覚を感じながらミケー
レは苦しそうにしているのに自分に手を伸ばしてくるアマンダの手
をとって口付ける。そうして、根元まで彼女の中に入り込んだとき
に恐ろしいまでの幸福感が襲ってくるのをミケーレは感じた。アマ
ンダはミケーレの唇を、快感に震える指先でミケーレの唇をたどっ
た。そして吐息のような声で﹃あなたがどんな人でも一緒にいる﹄
とミケーレに切れ切れになりながらも伝えた。
ほんの少しだけ目を見張ってミケーレはアマンダの頬に熱い雫を
落として、腰をぐいっとアマンダにさらに押し込んで、お互い快感
の波に浚われるように抱き合った。
気持ちと体が繋がった二人はお互い溺れるように抱き合い続けた。
﹁カルロス様﹂
腹心の部下が、そっと話しかけてきたのでカルロスはオフィスの
入り口を見て手招きする。自分が信頼する男の一人だった。彼に特
別に調査をさせていたことがまとまったのであろう。そっと差し出
158
された書類をはらりとめくりながら、そのときに感じた疑問をいく
つかその男にぶつける。
﹁やはり︱︱﹂
そう言って、部下に次の指示を出して出て行ったあとに書類を机
に疲れたように乱暴に放り投げた。そこには報告書とともに美しい
が30代にはいったばかりの上品な女の写真が添えられていた。
地方議員の妻となったかつてのカルロスの上顧客である女である。
そして︱︱カルロスからガブリエッラを奪った女であった。この女
一人でこんなことが出来るわけがない。
だが︱︱。
カルロスは立ち上がってオフィスのブラインドを開けて目の前の
メキシコ湾を睨んだ。この湾の小さな島に眠るガブリエッラを探す
ようにいつまでも青い海原を見つめてた。
159
#23︵後書き︶
︻登場人物︼
アマンダ・トゥーリス アメリカ シアトル出身でセキュリティー
サービス会社に勤めていた。空手を使える。
ミケーレ・ダンドロ 黒髪に蒼瞳を持つ男。ヴェネチア共和国建国
までさかのぼれる家柄の総領。
カルロス・パラシオス メキシコ人。甘いマスクだが、あらゆる悪
事に手を染めてきた麻薬カルテルの一員。
ディミトリ ミケーレの執事。
ライアン ミケーレのボディーガードのリーダー。アマンダの上司。
ニコラ 180cmを超える長身の女装の男。アマンダに女性とし
ての立ち居振る舞いなどを教える。
イルマ ミケーレが﹁私の宝﹂と呼んで庇護している少女。年より
幼い言動が見受けられる。
ジェイク アマンダの別れた恋人。
ガブリエッラ ミケーレの従姉妹。カルロスの思い人でもあった。
160
あとがきという名の蛇足。︵前書き︶
あとがきです。
最終話も一緒にアップしております。
161
あとがきという名の蛇足。
﹃少々ハーレクイン企画﹄参加作品、お楽しみいただけましたでし
ょうか?
さて無事最終回を迎えましたので、いろいろ書かさせていただこう
かなーと思います。以下あとがきという名の蛇足でございます。
王道ってそういえば書いたことないわみたいな話をしていて企画を
することが始まったわけですが、私は当初は波津彬子さんが昔かい
てた社長シリーズのような明るくて楽しいコメディを書くかなぁっ
てうっすら考えておりました。
で、ハーレクインを調べていく上で、書き手仲間の皆さんにお話し
たら大笑いされたのですが、excelを立ち上げまして、設定と
タグのパターンの仕分けをいたしました。途中で飽きたけどwww
たとえばヒーローって列に﹁俺様﹂﹁金持ち﹂﹁カウボーイ﹂﹁エ
ーゲ海出身﹂みたいなのを書き連ねていくだけなんですけどね。
それで書いてみようぜってことになったんですが、excelで整
みたいな感じ
理したタグとか設定を眺めながらも頭の中で渦巻いているのは暗い
物語でしかないという、コメディはどこに行った?
です。自分の中で今まで書きたいけどなかなか難しいと思っていた、
映画に
気がつけよ! み
どろどろな血の物語が書けないかなってその時点ではなってました。
もうそのあたりからすでに王道外れてるって!
たいなw
﹃予告された殺人の記録﹄︵ガルシア・マルケスの名著!
162
もなってますよ!︶や、ここ数年のお勧め映画で薦めて見た人の半
分くらいに何でこれを薦めるんやといやな顔をされる﹃灼熱の魂﹄
とおもって
とか、もちろん﹃犬神家の一族﹄とかとか。血にまつわるようなど
ろどろした物語が大好きなんですよね。
それで、いつかどうしても分厚い血の物語を書くよ!
おりまして。
でもいきなりものすごく分厚いのってかけないもんなんですよ。当
然、まずはテーマ、そして資料とかはもちろんですけど、書くとい
う経験値が必要というか、地層のように書き進めてたまっていくも
のがあってやっと書けるような気がします。もちろん最初から書け
る方はいらっしゃるんでしょうけど、私の場合はまだまだ無理。
でもやっぱり、書いていかないと、そこにはたどりつけないんだよ
なーってことで、今回のお話は生まれました。
ミケーレ
よく古い家の血はどろどろしてる︵犬神家の一族とかw︶っていい
カルロス
ますけど、そうじゃない場合もあるよねってことで古い血と新しい
血それぞれの血が背負っているものみたいなものにチャレンジして
みました。だからこの2人のダブルヒーローはヨーロッパとメキシ
コという場所で生息していることが必要だったわけです。そしてそ
れぞれが捕らわれていて破壊していかなくちゃいけない、もしくは
綺麗にしていかなくちゃいけないものを少しでも表現したいがため
の残酷表現でした。
そんなお話を表現するためにとても美しいけど、どこか黒々とした
部分を持つヴェネチアを最初の舞台に選びました。マスケーラもあ
るので、ミケーレとアマンダのお互いが偽った姿の出会いにもちょ
うどよかったですし。
ヨーロッパは行ってみたいけど出無精&社畜&乗り物酔いの私は足
を踏み入れたことはありません。なので完全に今まで読んできた憧
れの書で感じたものをこねくり回しました。
163
Maschera﹂とかです。特に﹁La
Mascher
具体的には塩野七海さんの﹁海の都の物語﹂や、吉野朔美さんの﹁
La
a﹂を初めて読んだときにヴェネチアにその時点まで持ってたイメ
ージが完全にがらりと変わりました。
近松門左衛門的な情と痴と執着の物語が展開できる土地柄という風
に。
そして﹁海の都の物語﹂で彼らの非常にシステマチックな政治や成
り立ち、清濁飲み込むための覚悟のようなものが染み込んだ街のつ
くり︱︱。
GoogleEarthや写真で見た霧と路地。そんなものがミッ
クスして私のヴェネチアは出来上がりました。たぶん実際いってみ
たら絶対違う印象だと思いますが︵苦笑︶
あと、書くときに決めたのはヒロインが戦う、ヒーロー戦わないっ
ていうのとか、ヒロインにはナイフファイティングはさせようとか、
そういう感じのいくつか書いてみようと思うことを盛り込みました。
本当はカルロスに鈍器で戦わせたかった︵アクションの基本は殴り
合いですし︶んですけど、設定的にスタイリッシュな男にした時点
でやっぱこっちもナイフでしょとなりました。
ひとつ心残りは今回の企画仲間の間で盛り上がったはずの﹁ヒーロ
ーは絶倫﹂ってのが抜けちゃって、あまりエロくなくて申し訳ない
です。
そんな自分なりに決めたチャレンジを詰め込んでみましたが、少し
は表現できてたら嬉しいなと思います。
みたいな︱︱。ただし現状ではカ
あと、ハーレ的な作品にたまに見える連作っぽい要素も盛り込みま
した。
ミケーレのあとはカルロスか?
ルロスの物語を発表する気は残念ながらありません。だって、どう
考えても﹁ドカッバキッグシャッブッシュゥゥゥッ﹂みたいなお話
164
ですしね。
ただ彼がやはりこの物語の中心にいたのは事実なので、最終回の一
番最後にあれを持ってきたのは、﹃アイアンマン﹄や﹃アベンジャ
ーズ﹄などのMARVELコミック系の映画を意識した感じですw
︵映画のスタッフロールが終わったあとにおまけが必ずあるパター
ンですね︶
仕事が予想外に忙しかったりで、完結まで思ってた以上に時間がか
かってしまいましたが、私としては反省点はたくさんあるものの、
精一杯背伸びして、がんばって書けてよかったなぁと思っておりま
す。
ここまでお付き合いいただきましてありがとうございました!
いくつか番外編をこの後ご用意しておりますので、こちらもお楽し
みいただければ幸いです。
165
やむ落ち。#5
やたらすっきりした顔の雇い主に書斎に呼ばれてライアンは珍し
く緊張した。勘が働いたというか、彼に呼び出されるとすれば今は
その件でしかないであろうということでニコラも無理やり連れてき
た。二人で雇い主の書斎に入ると彼は右眉を少し上げて二人を見つ
めた。
﹁私の用件がわかっているようだな﹂
思わず息をのんで押し黙った。
﹁ではあえて聞こうか。なぜだ﹂
といいながら片眉を上げた。
そう口元を微かに上げて雇い主が聞いてくる。少し緊張をにじま
してライアンは答えた。
﹁何か指示がございましたか?﹂
それを聞いてミケーレは、つまり?
﹁ぶっちゃけ女一人口説くのに、あなたは人の手を借りる御仁では
ないということですよ﹂
それをきいてミケーレは噴出した。確かにそうだ。自分は確かに
情けなさを今回さらしたが、そこまで情けない男ではない。だから
こそライアンは雇い主の意向など気にせずにアマンダを野に放った
のだろうとそれで納得する。しかも彼女を完全に放置したわけでは
166
なく、機密を知るものとして監視までつけてだ。結局のところ、こ
の事態をライアンは予想して準備をしていたということだ。ひとし
きり笑った後、ミケーレは咳払いをひとつして口を開いた。
﹁なるほど。まぁ確かにそうだ﹂
﹁それでご一族は了承されたんですね?﹂
ライアンはどうせならと切り込んだ。ミケーレ自身、一族の総領
ではあるが好き勝手は出来ない。それはヴェネチア共和国黎明期か
らの裏に表に手広く家業を広げたこの家の特性にある。今回イルマ
の件でミケーレは一族の長老たちへの説明を求められ、そのために
何日もこの館を離れることになってしまった。その間にアマンダが
職を辞してしまったということがあるのだが。
﹁無論。アマンダとの結婚も了承させた﹂
すべての交渉を済ませて帰ってきたということかと、ライアンも
ニコラも目を見張った。ただ、そういう強引な交渉をこの主は涼し
い顔でしてくる。呆れるほど自分の雇い主は面の皮が厚いに違いな
いと昔からライアンは思っていた。一族の人間たちはガブリエッラ
の件でミケーレが結婚に対して消極的になることを許した。きっと
今回はそれを逆手にとってきたのであろうとライアンは推測した。
でないと一族の総領が40になっても結婚も子供もなしていないと
いうことはありえない。
大きな懸念事項がなくなり、ほっと息を抜いた二人に、持ち場に
もどれといいつつ、ミケーレはさらに仕事を与えた。ニコラにはア
マンダのことをあと数ヶ月のうちに一族の手のものが完全に納得す
るような淑女に仕上げることを。ライアンについてはさらにもっと
微妙顔になる試練を与えた。
167
︱︱カルロスを影から手伝うようにと。
もちろん、アマンダとイルマを含めた新しい警護のシステムの構
築と、結婚式の準備をしながらだ。
ライアンはこの雇い主に一生ついていくと誓った自分を少しだけ
呪った。
168
やむ落ち。#6
気持ちのよい海風が吹いている。
カルロスは、セスナから降りて顔を上げると見知った顔を見つけ
て、彼にしては珍しくかすかに驚愕の表情を浮かべた。
﹁意外と時間がかかったな﹂
タラップを降りるとそう40を超えてより一層磨きがかかる自信
とそれに裏づけされた存在感をたたえた男が笑いかけてきた。その
笑顔はカルロスが知っている笑顔とは違い少し柔らかみを感じさせ
た。
﹁セニョールダンドロ﹂
差し出された手をぐっとカルロスは握り返した。まさか彼がここ
で出迎えてくれるとはと、カルロスは本当に驚いていた。彼との死
闘︱︱彼の妻になった女との死闘が正しいが︱︱を繰り広げてから
まだ半年ほどしかたっていない。その原因が実は自分の甘さから出
たことだったことも苦い思い出だ。彼の愛するものを横から掻っ攫
ったばかりか、守りきれず永遠に失ってしまった自身の過去が、今
更ながら抜けない棘のようにカルロスの中で静かに存在感を増して
いた。そう、だからこそ今、彼は自分の気持ちをどう扱っていいか
わからずに、ここにいる。混乱して困惑している感情をどうにかす
るために。そしてガブリエッラの墓標を見て彼女に捧げてしまった
自分の心を思い出したくて。彼女への気持ちが嘘ではなかったこと
を確認したかった。
169
﹁ガブリエッラの眠る場所まで歩いてもらうが大丈夫か?﹂
﹁ええ。そんな柔ではありませんよ﹂
そう静かな気持ちでカルロスはミケーレに答える。
﹁セニョーラアマンダはお元気ですか?﹂
﹁ああ。元気だ。少し体調が不安定なので、ヨーロッパの屋敷にい
るが︱︱﹂
﹁︱︱。それはおめでとうございます﹂
﹁君は相変わらず察しがよすぎるな﹂
そうミケーレは苦笑する。元気なのに体調が不安定ということで
あれば妊娠の可能性が高いだろうと、カルロスはあたりをつけただ
けだったのだが、そんな風に笑われるとは思わなかった。それにア
マンダとはお互い生死をかけて戦った中である。たぶんそれもあっ
て、お互い顔を合わせてもいったいどうすればいいんだということ
もあるだろう。
﹁彼女は君に対してそんなに悪感情は持ってないさ﹂
そんなことはないはずだと思うが、カルロスはこの話題を続ける
気はなかった。ミケーレもそれはわかったんだろう。カルロスがも
う一度おめでとうございますと言って、そしてミケーレはありがと
うと目を細めて笑った。その笑顔をまぶしく見つめながら、カルロ
スはミケーレの笑顔がやわらかい理由がわかった気がした。ただそ
れは、ガブリエッラを失い、彼女との子供の存在を知らなかった自
分には経験することはないだろうことだと思ったが。
﹁あそこに彼女を葬った﹂
170
ほんの10メートルほど前にある大きな木のすぐそばをミケーレ
が指差した。そこで足を止めたので、ミケーレも自然と足を止める。
﹁気が済むまで滞在してくれ。帰りはライアンに送らせる﹂
背後でミケーレを守るように歩いている男達を振り返って示した。
﹁彼はライアンという名前でしたか﹂
﹁役に立ったか?﹂
﹁ずいぶんと助けていただきました。それに彼の部下を︱︱﹂
﹁あの男が君につきたいと言ってきたことだ。気にしなくていい﹂
そうミケーレは寛容に笑って、結果的にライアンの部下の一人を
カルロスが引き抜いてしまったことを許した。
﹁︱︱。セニョール⋮⋮﹂
カルロスは珍しく口ごもった。多分ここで別れれば、二度とこの
男と会うことはないだろうとカルロスも直感的に感じた。自分の心
の中が整理されていない状況で何を言えばいいかわからなかった。
そんなカルロスの様子を見て、ほほえましいとミケーレは思った。
﹁迷うのはいいことだ﹂
そうミケーレはなんとなく思いついたことを口にした。だからカ
ルロスも素直に聞いてみたかったことを口に出した。そんなことは
彼の人生の中ではなかったことだった。このゆったりとした自然の
彼女を喪くさなければどう
中だからというのもあるのかもしれない。
﹁セニョールはこうは思いませんか?
171
なっていただろうと﹂
﹁︱︱きっと、ガブリエッラと結婚しただろうな。そして皆に望ま
れているように子供を作って、周りの期待通りに生きてただろうな﹂
それはそれで予定調和を多くはらんではいるが、充実した生であ
ろうとミケーレは思う。ただ、アマンダを知らなければだ。彼女を
手に入れてから自分の中で変化したことを言葉には出来ない。非情
の世界にいる男達にとってその言葉や考え方は陳腐だ。
﹁俺はきっと野良犬のままでした⋮⋮﹂
ミケーレは肯定も否定もせずに、ガブリエッラが眠る場所を凝視
するカルロスを見つめる。何か大事なものを見つけてしまったよう
な男の顔立ちだとふと思う。ただミケーレ自身がそうであったよう
にそれを手に入れるまで自分が︱︱不完全であったことに気がつか
なかった。それが手に入ったときの幸福感。いまだにその幸福感が
ずっとミケーレの中で途切れることなく続いている。
カルロスにそれを手にしろとは言おうとは思わない。正直言って
二人の間にはいろいろありすぎた。ガブリエッラを喪ったからこそ、
今のミケーレの幸福が結果的にあるとはいえ、愛する従姉妹のこと
は消化しきることが出来ない。ただそれでも、それを手に取るチャ
ンスはあってはいいと思う。アマンダを手に入れる前はそんなこと
考えもつかなかった。ただ、大事な従姉妹が身も心を許し、そして
結果、死に至る原因となった男にそんなことをわざわざ教えてやる
ほどミケーレはお人よしではない。
そもそも、ミケーレがここに来たのは、これを逃せばカルロスと
二度と会うことはないだろうからと思ったからだ。ミケーレ自身も
カルロスに対する感情は非常に複雑だ。彼に助け舟を出しつつ、許
せない気持ちも当然ある。消化することも割り切りもきっと不可能
なことだろうと思う。
172
ライアンやカルロスを手助けすることを選んだ部下からの報告で、
現状何が彼の身に降りかかりつつあるかをミケーレは正しく理解し
ていた。そして彼がなにを思い悩んでいるかも想像はついていた。
だからこそ、迷いを振り切るために恋人の墓標を訪ねたいといって
きたんだろう。
もちろん、彼が成そうとすることは、死の匂いがついている。死
を覚悟してという局面も無論あるはずだ。
ただ︱︱。
そこまで考えて、充分彼には塩を送ったと思い至り、唐突に会話
を打ち切るようにいった。
﹁私はここで失礼するよ。︱︱ガブリエッラとよく話すことだ﹂
カルロスをしっかりと見据えてからミケーレは背を向けた。カル
ロスはミケーレの背中をしばらく眺めてからガブリエッラの墓に手
に持ってきた美しい花輪をかけて跪く。しばらくじっと見つめてか
ら彼は低く何かを語り始めた。
それはあまりに低すぎて、そばにいるライアン達に何も届くこと
はなかったが長い長い間続いた。
まるで夜明けを待つ巡礼者のようだと、その様子を見つめていた
ライアンは思った。
173
やむ落ち。#7
﹁おはよう、アマンダ﹂
レースのカーテンにさえぎられて程よいやわらかさの光が窓から
漏れている。アマンダはその光を背に受けて微笑む自分の夫を数瞬
ぼんやりと眺めた。硬いが寝心地のいい恐ろしく広い寝台にもずい
ぶん慣れた。
﹁今朝の調子は?﹂
﹁もうぜんぜん大丈夫ですよ﹂
そうアマンダはミケーレに向かって微笑む。妊娠してからずいぶ
んと屋敷の人間たちに甘やかされている。厨房に行くと最初は吐き
気をもよおしたためそれから厨房での打ち合わせはなくなっている。
ダニエラとは昼食の準備の前に会って打ち合わせをする形に変わっ
ていた。厨房でいろんな食材やダニエラの雑学を聞くのが楽しみだ
ったので、それは妊娠してから残念なことの一つとなっていた。
その代わりといっては何だが、朝にミケーレとゆっくり話をする
時間が増えた。ただ今日はいつもより起きるのが早い気がする。そ
んなことを考えていたせいか、ミケーレがアマンダの寝衣の前ボタ
ンを開けて、するりと手を滑らせることを防げなかった。
﹁ん︱︱。ミケーレ⋮⋮﹂
少しだけ艶をはらんだ瞳がアマンダを見つめる。ミケーレのもの
になって、毎晩のように求められていたのに、妊娠してからはそう
いった行為を避けてはいる。ミケーレもある程度は我慢してはいる
174
が時たま、どうにもならないようであった。そんなときは大抵はア
マンダのやわらかさと甘い吐息を楽しんで満足をする。
今もそっと、アマンダの白い胸の輪郭を指先でたどりながらまろ
みを楽しんでいるだけだった。自分自身を満足させるというよりも、
女の満足をどちらかというと楽しむ傾向が自分の夫にはあるという
ことにアマンダは気がついていた。
﹁胸を見たい﹂
そう短く言われて頬が染まる。朝っぱらからこの人はなんてこと
を言うのかとは思うものの、あれほど毎晩のようにアマンダを甘く
啼かしていた夫が妊娠がわかってからこんな風に恐る恐るとしかア
マンダに触れてこないことを考えると、これくらいの要求をかなえ
ることはかまわないかと思う。そっと開けられてミケーレの手が滑
り込んでいる寝衣の前をさらにくつろげた。ほろりと白い胸の片側
がミケーレの目前に出てくる。
﹁⋮⋮あっ﹂
そう思わず声を上げてしまう。見るだけといったはずのミケーレ
がそこにかじりついたから。舌で胸の頂をぐるりと舐められて甘い
刺激にミケーレの肩をぎゅっと握ってしまう。早めに目が覚めたせ
いかすでに彼はワイシャツにスラックスといういでたちに着替えて
いた。皺になってしまうと、握った後すぐにアマンダはぱっと手放
したが。
﹁皺になるとか気にしなくていい﹂
からかいの笑いを含んだ声でそう言われ、アマンダも思わず反応
してしまう。
175
﹁見るだけって言ってたじゃないですか﹂
﹁ああ。つい⋮⋮な﹂
そう言ってアマンダが放してしまった寝衣の前の部分を広げた。
あっと思ったとしてもすでに遅かった。さらにほろりとまろび出た
胸を凝視される。ミケーレはふむと少しだけうなづいた後に、胸が
やはり大きくなっていることや、さわり心地の変化、前は薄いミル
クティ色だった頂が少し濃くなっているんじゃないかとまじめに言
ってくる。
﹁も、もうっ﹂
あまりの羞恥にアマンダがミケーレの胸に顔をうずめる。小さく
ミケーレは声に出して笑ってさらにアマンダの胸をそっともみ始め
る。ふにふにと最初はやんわりと触るミケーレだったがだんだんと
アマンダの息が荒くなるのを見て目を細める。敏感な頂を掠めるよ
うに触れたりしてだんだんとアマンダの腰が揺れてくるのを楽しん
でいる。
﹁︱︱ずるい⋮⋮﹂
そんなミケーレの様子にアマンダは思わず口にしてしまう。
﹁ずるい?﹂
﹁ずるいです。私ばっかり⋮⋮﹂
そう言ってアマンダはミケーレのスラックスの前をくつろがせて、
自分の手を差し込んだ。
176
﹁アマンダ﹂
珍しく困惑の気配を漂わせる夫に少しだけうれしくなる。この出
来すぎる年上の夫に驚かさせられることはあっても、なかなかびっ
くりさせたり困った顔をさせることは少ない。一瞬だけそんな表情
を覗えて、少しうれしくなる。そのまま彼のものをアマンダはしご
き始める。
﹁私も、ミケーレの気持ちのよさそうなところが見たいです﹂
そうミケーレに微笑む。ドクリと手のものが少し脈打って表情に
は出ないのにミケーレが喜んでくれたことを感じて幸せな気持ちが
湧き上がる。本当は口でしてやりたいが、体勢的に腹が重いし、え
づくのも怖い。ただこんな風にいつでも自分を求めているのにそっ
と触れるミケーレを少しでも気持ちよくしてやりたかった。そっと
覗うと半眼で快感に耐えているように思える。アマンダはちゅっと
リップ音を立ててミケーレの唇に自分のものを押し付けた。
﹁お医者様からは、激しくなければっていわれてますよ?﹂
そうアマンダも自分の手の中のものが大きくなるにつれて、自分
自身も煽られていることに気がついた。
﹁君の中に入って、激しくならないようになんて出来ない﹂
夫がそう返すのを見てアマンダは目をしばたたかせた。それなり
に腹もせり出している自分にそんなことを言ってくれるのかと思っ
てアマンダはうれしくなる。どこか妊娠で体が変わっていく自分が
怖かったこともあるかもしれない。
177
と掠れた声でミケーレがアマンダの耳元でささや
﹁いま︱︱だって、君にそうやって触られているだけで⋮⋮﹂
わかるだろ?
いた。確かに手の中のものがどんどんと大きくなっていくし、先走
りの透明な液体がアマンダの手を濡らしていた。そのぬめりを使っ
て、先の割れた部分を刺激しながら、太い血管の存在を意識させら
れる棹の部分を強弱をつけてさする。ミケーレの瞳が艶をまして熱
い吐息がアマンダの耳元を擽る。確かにこういう吐息は癖になるか
もしれないとどきどきと胸が高鳴った。突然、鋭く息を呑む気配が
したと思ったら、アマンダの両手に熱いものが降り注がれた。
﹁君には本当に困らさせられる﹂
清められて、後ろから抱きしめられながら寝転んだ瞬間にそんな
風にささやかれる。アマンダはその少し困惑したようなミケーレの
様子に思わず笑った。
178
拍手お礼小話
﹁あらおはよう。アマンダ﹂
そうにっこりと美しく年を経た白い髪をふわりと揺らしてダニエ
ラが挨拶をした。
﹁朝食ここで食べてもいい?﹂
毎朝のことながら、そう彼女が問うのをダニエラはベージュ色の
ルージュで彩った唇をふっくらと微笑ませる。
﹁ええ。どうぞ。今朝は焼きたてのブリオッシュが手に入ったから、
フレンチトーストにしてみたわ﹂
温めた真っ白な大皿にブリオッシュのフレンチトーストと、たっ
ぷりとした温野菜を配置されたものを出された。彼女の嗜好がわか
っているのでフレンチトーストの横にはカリカリのベーコンも置か
れている。そしてたっぷりのアメリカンコーヒー。最初それをリク
エストしたときには、あまりいい顔をされなかったが、アマンダの
カフェイン中毒気味の嗜好を知ってからは黙って出してくれている。
﹁甘さ控えめでこういうフレンチトーストの食べ方もいいですね﹂
そう舌鼓を打っているとダニエラがまたにっこりと笑う。
﹁そういえば、ダニエラはエリゼ宮で働かれていたんですよね?﹂
﹁ええ。3年ほど、大統領のプライベートシェフを勤めさせていた
179
だいたわ﹂
そんなすごい場所で働いていたのにどうしてやめちゃったんだろ
うと、アマンダは素直に思ったが、ダニエラの微笑みの奥にある鋭
い光に気がついてその質問を繰り出せない。この50代半ばにして
まだ輝くように美しい女シェフが簡単に質問の答えをくれることは
ないことは、短い付き合いながらもアマンダは気がついていた。そ
の後、その日の各人の予定から晩餐の内容を打ち合わせして、アマ
ンダはミケーレに朝食を運ぶために厨房を出た。
﹁おはよう﹂
主に厨房から朝食を運ぼうとしていると、その主が新聞をかかえ
て書斎に向かうところに出会った。
﹁また君は厨房で食事してきたのか﹂
そう微笑まれて、身を縮めた。確かに行儀のいいことではない。
ただ一見してとんでもなく贅沢な朝食室で食べるより、厨房で食べ
たほうがなんとなく気持ちが安らぐし、皿も冷める間がない。
﹁打ち合わせも含めてですし⋮⋮﹂
そう、しどろもどろと言い訳をするアマンダに少しだけ意地の悪
い微笑を浮かべて主に書斎へと促される。
﹁今日はブリオッシュのフレンチトーストか﹂
﹁あまり甘くなくて、おいしいですよ﹂
180
﹁ダニエラとずいぶん仲良くなったなぁ﹂
そうにやりと笑いながら優雅に皿のものを片付けていく。あんな
にきれいにすばやく優雅に食事をすること自体がアマンダには不可
能だと思ってしまう。
﹁そういえば、ダニエラが働いてらっしゃったときの大統領ってど
なたでしたっけ?﹂
主が挙げた名前の男を記憶の中からアマンダは頭の中を検索した。
ダニエラとも年齢的なつりあいの取れる壮年の精力的な政治家だ。
たしか、長年のパートナーと関係を解消して、エリゼ宮に入った年
を経るほどに魅力的な男の経歴や記事をアマンダは思い起こした。
﹁アマンダ﹂
甘く低い声で呼ばれてはっとする。
﹁私の前で別の男のことを考えるとはいい度胸だな﹂
そう意地悪く微笑まれてアマンダは赤くなるしかなかった。
181
婚礼の日︵前書き︶
テキスト整理してたら出てきましたので投下︵汗︶
182
婚礼の日
ブラインドの隙間から明るい日の日差しが指しているのを、目を
細めて男が確認している。ゆったりとした礼服は一目で高価とわか
るようなうっすらとした光沢をはらんでいる。外の様子を一時見て
から室内を振り返る。明るい場所を見つめていたせいか室内の男た
ちの表情はよくわからない。
﹁残念ながらいい日よりですな﹂
そう室内のソファーに腰掛けるしわがれた声がそういう。一族の
長老の一人である。表情はまだ見えないが苦虫をかみつぶしたとい
うのにふさわしい表情をしているのだろうと思う。この屋敷では上
から数えた方が早い広い部屋に20人ほどの男たちが集っていた。
この館の主︱︱つまり自分たちをとりまとめる総領は教会での誓い
を終えて、お色直しをしている花嫁を取り澄ました表情で待ってい
る事はわかっている。
﹁ああ。ダンスが始まりますね﹂
そう窓の近くに陣取っていた男が、耳に届いた音楽で察する。
﹁ミケーレは一体どういうつもりだ﹂
﹁どういうつもりも何も、おじさんたちが長年夢見ていた結婚をし
ているのだと思うのですが﹂
そうとぼけて男は言う。
183
﹁わしゃ認めてない!﹂
﹁認めるも何も、総領が決めたことですし、それに︱︱、ちゃんと
許可したじゃないですか﹂
とぼけたような表情で男は言うが、その瞬間の表情を目にした者
は静かに生唾を飲み込んだ。総領と、この一族の闇の部分を受け持
つ家の男は一見柔和なとぼけた男のように見えるが、修羅場をくぐ
り抜けた数だけはこの部屋にいる男たちの誰よりも多い。
﹁まぁ、もっともおじさんたちは、ガブリエッラでさえ、気に入ら
なかったわけですから﹂
そう言って、男は静かにその部屋を出た。向かった先は今日の宴
会場ともいえる庭である。総領の嫁の友人と親族の出席はほぼいな
いため、ガーデニングパーティになったのはミケーレの采配である。
それも長老たちの気に入らないところである。
︱︱っったく。祝いに来てんだか、わざわざすねてるところ見せ
に来てるのか微妙なジジィどもだ。
そう男は独りごちながら、本日の主役たちがダンスを踊り終わる
のを待った。いつもスカして表情のないように見える瞳。その瞳が
今日は明らかに輝いている。新婦も体を鍛えているのが一目でわか
る体幹。ダンスと言うよりもまるで何かお互い武器を持って戦って
いるような美しさである。表情は柔らかであるが、戦う二人なんだ
ろうと、男は思う。しかもそれぞれ受け持つ戦場は違うようである
が。ミケーレに必要なのは守ってやる対象ではなく、一緒に戦って
いく女だと言うことが、なぜおっさんどもにはわからないのだろう
と、男は思う。
40代にしてはしっかりと鍛えた肩の稜線に確かに関節は目立つ
184
が、ほっそりとした女の手が絡みついてくるくると回る。その周り
を小さい子供たちが楽しそうに飛び跳ねてみている。よくある結婚
式の風景だ。
音楽が一段落し、花嫁の耳元でミケーレが何かを囁く。花嫁が真
っ赤になってミケーレの胸に自分の頭を押し当てる。そのままミケ
ーレは彼女の唇に自分のものを押し当て、周りがそれを見てはしゃ
いだところで次の曲が始まった。
新郎新婦がお互い支え合いながらダンスの輪を抜けて歩いてくる
のを男は見守った。
よくある結婚式の幸せな風景だ。そう男は自分の一族の総領の幸
せを祈りながら、ミケーレが自分に気がつくのを待った。目が合え
ば、彼に伝えなければならない。北方の国から自分たちのビジネス
を脅かす組織の存在があることを︱︱。
幸せに酔う今日のような日にも、自分たちには休みはないことを
ミケーレも男もよくわかっていた。
まるで疫病神のようだなと、ミケーレと目が合ったときに自分の
ことを男はそう評したが、にこやかな微笑みをまとって、歩を進め
た。
185
PDF小説ネット発足にあたって
http://novel18.syosetu.com/n3761ca/
偽りに濡れた夜
2016年8月17日01時52分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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