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想いは秘めたままで - タテ書き小説ネット

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想いは秘めたままで - タテ書き小説ネット
想いは秘めたままで
チカ.G
!18禁要素を含みます。本作品は18歳未満の方が閲覧してはいけません!
タテ書き小説ネット[R18指定] Byナイトランタン
http://pdfnovels.net/
注意事項
このPDFファイルは﹁ノクターンノベルズ﹂﹁ムーンライトノ
ベルズ﹂﹁ミッドナイトノベルズ﹂で掲載中の小説を﹁タテ書き小
説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は当社に無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範囲を超え
る形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致します。小
説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
想いは秘めたままで
︻Nコード︼
N6660DG
︻作者名︼
チカ.G
︻あらすじ︼
病気の妹のために翔子は自分が勤めている会社の上司が持ちか
けた話を受け入れた。
それは契約で結ばれた関係。
契約の条件は3つ。1つめは必ず自分の婚約者として紹介させる
事、2つめは男を誘惑してなにかしらの関係を持つ事、そして3つ
めは衆目の中、不貞を糾弾しその場で翔子と婚約解消する事だった。
それでも妹のためならば、翔子にとっては不貞という不名誉な評
1
判など気になるものではなかった。
そのせいで、本当に愛した相手を失うことになってしまっても・・
・
3/4夕方6時より全9話のリクエスト小話を1日1話ずつ毎日
更新します。そちらもよろしくお願いします。
2
1.︵前書き︶
以前私の話を読んでくださった方には、お久しぶりです。
そうでない方には、初めまして。
私の作話タイトルに目を留めてくださって、ありがとうございま
した。
余裕がある時は毎日更新を目指しながらも、のんびり隔日更新し
ていこうと思っています。
まずは最初の3日間は毎日更新します。
おそらく30話前後になるのでは、と思っていますので、のんび
りとお付き合いいただけると嬉しいです。
それではしばらくの間、よろしくお願いします。
3
1.
カチカチと時計の針の音がやけに大きく聞こえる。
さのはら しょうこ
10畳ほどの部屋にいるのは自分と目の前の男だけだった。
日系商社で働いている佐野原翔子は、居心地の悪さを感じながら
も目の前の男をじっと見つめている。
先ほど話があると言って呼び出された時には、まさかこんな話に
なるとは夢にも思っておらず、翔子はまだどこか現実味を感じずに
おおこうち けんいち
頭の中で目の前の男の話を反芻している。
目の前の男、大河内賢一は翔子が働く大河内カンパニーのロスア
ンゼルス支社専務代理だ。
翔子は彼の姿をたまに会社の建物の中で見る事があったくらいで、
彼とこうして個人的に話をするのはこれが初めてだ。
だから、いきなり彼から呼び出された時、一体何事なのだろうと
思いながらここにやってきたのだ。
外は8月の熱気に包まれているだろうが、この支社の専務代理用
の応接室はクーラーが効いていて肌寒いほどだ。それなのに翔子は
なぜか額にうっすらと汗をかいているのだ。
それはもちろん先ほど賢一の口から出た話を聞いたからだろう、
ということは判っている。
賢一の切り出した話はどう考えても翔子にとって都合のいいもの
で、しかも彼女にとって最高のタイミングだったからまだ信じられ
ないのだ。
だから柔らかいソファーに埋もれるように座った翔子は、目の前
のリクライニング・チェアーに座った彼の事を探るような目でじっ
と見つめた。
﹁と、いう訳だ。こちらからの見返りは先ほど提示した通りに支
払うよ﹂
4
﹁でもそんな大金・・・・﹂
﹁きちんと書面にも残すよ。口約束だけじゃない。そうすればこ
ちらが踏み倒すかもしれない、という不安もなくなるだろう? も
ちろん、ちゃんと弁護士を通して書面は作成するから法的に効力の
あるものだ﹂
男が提示した金額は、おそらく翔子が一生かかってやっと稼げる
かどうか、というほどの大金だった。
自分にそれだけのお金を払う価値があるのだろうか、と思う。
確かに大河内の提案を受けるとなると、翔子に対する世間の評判
はガタ落ちになるだろう。
﹁こっちの都合で君には不名誉な評判を背負わせてしまう事にな
るんだ。これくらいは当然だと思うよ?﹂
﹁でも・・・・﹂
﹁余った金を返せ、とも言わない。これもちゃんと約束する。余
った金は貯金するなり何か買うなり、君の好きに使えばいい。再就
職するまでの資金も必要だろうから、そのために貯めておいて就職
活動を始めた時に使うのもいいんじゃないかな﹂
賢一が提示した金額は、翔子がこれから必要とする金額プラスか
なりの額となる。それだけのお金があれば、なんの不安を感じる事
なく専念できるだろう。
それに彼の言う通り、全てが動き始めたら翔子は仕事を辞めざる
を得ない。今自分が働いている会社はそれなりの企業だが、それで
も5年もの間休職させてくれる職場ではないからだ。
おまけに彼の提案に乗れば、どう考えても辞めざるをえないだろ
う事は判りきっている。
﹁今すぐに返事をして欲しいと言っているんじゃないんだ。そう
だな・・・・来週の今日、返事を聞かせてくれないか?﹂
﹁・・・随分と急ぐんですね﹂
﹁すぐにでもケリをつけたいからね。大体決まったからってすぐ
に動くわけじゃない。ある程度の準備期間だって必要だからね。そ
5
れに爆弾を落としてからも全てを僕の思う形にするまでには1年ほ
どはかかると思っているから、早く一緒になるためにもできるだけ
早く取り掛かりたいだけなんだ﹂
﹁・・・判りました﹂
確かに賢一の話を聞けば、一筋縄でいくようなことではないと翔
子も思う。
だから、この計画通り話を進める事ができても、それから先の事
を考えると男が一刻も早くしたいという気持ちは判る気がする。
翔子にはそこまで思う相手はいない。
だから、羨ましい、と思う。
自分の事をそこまで思ってくれる人と出会えるのだろうか?
ふとそんな事を考えて、翔子は小さく頭を横に振った。
今は自分の事よりも大事な事がある。
﹁来週の今日、お返事させていただきます﹂
﹁いい返事を期待してもいいのかな?﹂
﹁・・・多分﹂
多分、と答えながらも翔子は賢一の計画に乗る自分の姿が頭に浮
かんだ。
これが最初で最後のチャンスなのだ。
もしこれを断れば、きっと自分は一生後悔する。
もう二度となんの力もない自分を責めて泣く事はしたくない。
自分が無力だと理解していても、もし、と考える事は止められな
いのだから。
翔子は小さく頷いてからソファーから立ち上がり、賢一に軽く礼
をしてから部屋を出て行った。
6
7
−−1週間後−−
これはあの日と同じ。
翔子はデジャ・ビュを見ているような気がしていた。
けれど、あの日と同じではない事は判っている。
今日翔子がここにいるのは、あの日の返事をするためだ。
﹁さて、あれから1週間だ。返事を聞かせてもらえるかな?﹂
あの日と同じように翔子の目の前に座っている賢一は、優雅にテ
ーブルの上に置かれたコーヒーを飲みながら話を切り出した。
とはいえ、口元に薄く笑みを浮かべた男には、翔子の返事など判
っているのだろう。
それでもこうやって聞くのは、翔子から言質をとるためだ。
﹁はい・・・受けさせていただきます﹂
﹁本当にいいのかい? 僕としては助かるけど、でもこれを受け
ると君の評判は悪くなるよ?﹂
﹁判っています﹂
この男からの提案を受け入れて彼の予定通りに事が進めば、きっ
と翔子は今の会社を辞めなければいけなくなるだろう。
それでも今の翔子にはこの提案は渡りに船なのだ。
﹁私にとっては破格の条件です。むしろここまでしていただいて
いいのか、と思うほど﹂
﹁いやいや、それは最初に言ったと思うけど、君みたいな綺麗で
若い女性に不名誉な評判を背負わせるんだ。僕としてはこれでも少
8
ないと思っている﹂
﹁いいえ、今の私にはお金が必要ですから・・・本当に助かりま
す。もしかして私の現状を知っていたから、私に声をかけてきたん
ですか?﹂
﹁あ∼・・・・そうだね。それも、あるかな? でも一番は君が
信用できる人間だ、って事だよ。いくらなんでも信用できない人間
にこんな事は頼めない﹂
﹁そうですか・・・では、ありがとうございます、と言わせてい
ただきます﹂
賢一が﹁信用﹂という言葉を持ち出した事に少し意外さを感じた
が、それでも翔子の事をどう評価しているかが判って嬉しく思う。
﹁じゃあ、金曜日の仕事の帰りにでも僕の弁護士のところに行っ
てくれないか? 書類は全て用意してあるから、それにサインをす
ればいいだけになっている﹂
﹁・・・私が断るとは思わなかったんですか?﹂
﹁そうだね、もしこれが君個人の事であれば断られる可能性も考
えていたよ。でもそうじゃない、だろ?﹂
﹁・・・はい﹂
﹁そう思って、僕は先週のうちに弁護士に書類作成を頼んでおい
たんだよ﹂
自分の事を見透かされているのは面白くないが、目の前の男はそ
ういう男だった事を思い出すと翔子は小さく溜め息をついた。
﹁僕との契約期間は10月から6ヶ月だ。とはいえ今日からすぐ
にでも僕は君に色々と便宜を図ってあげられると思うよ。それも君
にとっては都合がいいだろう?﹂
﹁・・・はい、そうですね﹂
﹁君の件についても多少の便宜は図ってあげられると思うから、
君の方の進捗状況も時々教えてもらえると助かるよ。これも契約の
一部だと考えてくれればいい﹂
﹁・・・ありがとうございます﹂
9
自分が働いている会社の専務代理である賢一の口添えがあれば、
翔子もいろいろとやりやすくなるのは事実だ。
そう思うと自然と口からお礼の言葉が出ていた。
そんな彼女の礼に満足したのか、賢一は鷹揚に頷きながらコーヒ
ーを口に運ぶ。
﹁まぁ、僕にはこれくらいしかできる事はないからね﹂
﹁いいえ、十分です。この申し出がなければ、どうしようもなか
ったでしょうから﹂
きっとどうしようもない不甲斐なさに自分を責めていただろう、
と翔子は思う。
﹁じゃあ、早速10月の最初の週末にあるパーティーから始めよ
うか﹂
﹁判りました﹂
﹁来週の昼休みに僕がいつも行く店に行ってドレスを注文してお
いで。ちゃんとこっちから連絡を入れておくから﹂
﹁えっ・・?﹂
﹁だから、10月のパーティーに着ていくドレスだよ。まさかス
ーツで出るつもりじゃないよね?﹂
﹁それは・・・でも・・・﹂
﹁支払いの事は気にしなくてもいい。必要経費だから、こっちで
持つよ。ああ、どうせなら2−3着用意しておくといいよ。契約期
間中にもう1−2回はパーティーに連れて行く事になると思うから
ね﹂
﹁でも注文って・・・・﹂
﹁オーダーするんだよ。まさか既製品を着ようなんて思っていな
いだろう? 僕のパーティーでのパートナーが既製品を着ていたら、
僕の本気の相手だとは思ってもらえないからね﹂
﹁でも・・・判りました﹂
賢一が出るようなパーティーに着ていくドレスとなると5桁のお
金ではきかないだろう、ましてやオーダーメイドとなるとさらにゼ
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ロが1つ増えるのではないか、と翔子は思うが、目の前の男はそれ
を必要経費だといってお金を払うという。
断ろうと思ったもののそんなお金、自分に支払えるはずもない。
そもそもお金が必要だから彼が持ちかけたこの話に乗ることにした
のだ。
賢一としてもその事を判った上での申し出なのだ、と判断した翔
子は素直に頷いた。
﹁他にもこの件に関して必要なものはいつでも言ってくれ、僕が
払うから﹂
﹁でも、それでは・・・﹂
﹁その事に関してもちゃんと書面にしておくよ。あとで金を払え
とは言わない﹂
﹁そんな事するわけないと、判ってます。ただ・・・﹂
﹁無理な提案を聞いてもらったお礼だと思ってくれればいい﹂
﹁・・・判りました﹂
翔子の返事を聞いて賢一は口元に笑みを浮かべて頷いた。
﹁それじゃ、もう一度確認するよ。僕が君にしてもらいたい事は
3つ。まず1つ目は僕の婚約者になってもらう事、これは絶対だ。
恋人でも良いけど、やっぱり婚約者っていう立場の女性の方がより
インパクトがあるからね。2つ目は僕の知り合いを誘惑する事。で
きれば既成事実まで持ち込んでもらいたいけど、どうしても無理な
ようなら衆目を集める場所で誘惑してもらいたい。相手は僕の知り
合いであれば誰でも良いけど、できれば僕と親しい男が良いかな。
その方がよりドラマティックだから。そして最後の3つ目、君には
申し訳ないけど、これまたたくさんの人の前でそれを理由に君との
婚約を破棄する。これのせいできっと君に不名誉な評判を与える事
になるけど、それが一番大事だから婚約破棄される僕の相手を演じ
てもらいたい﹂
﹁判っています。その事は先週この話を持ちかけられた時に、説
明を伺っていますから﹂
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心底申し訳ない、という表情を浮かべた彼は、それでも他に手が
ないのだ、と付け加えた。
﹁謝る必要はありません。これはビジネス、そうですよね? お
互いの利益を交換したビジネスです﹂
﹁・・・そう言って貰えると助かるよ﹂
﹁私には専務代理が提供してくれるお金が必要で、専務代理は私
の手助けが必要、ただそれだけですよ﹂
﹁本当はもう少し色をつけてあげたいんだが、今僕が自由にでき
る金額はその程度なんだ﹂
﹁十分です。多すぎるくらいです﹂
﹁そんな事はないだろう? 多くて困る事はない。もし余るよう
であれば、そのお金を使って新しい人生を始めればいい﹂
﹁・・・そうですね﹂
﹁もし必要とあれば僕が紹介状を書いてもいい﹂
﹁それは無理ですよ。計画がきちんと進めば、専務代理の紹介状
で仕事を探す事の方が、何もない形で探すより大変になると思いま
す﹂
﹁そうか・・・そうだな﹂
自分が翔子に提案した事を考えると、確かに彼女の言う通りだと
思う。
翔子は賢一との契約とはいえ彼を裏切る婚約者を演じるのだ。裏
切り者にわざわざ自分の紹介状を渡すような男はいないだろう。
だが影から手を差し伸べてやる事はできる。
その時がくれば助けてやればいい、賢一は目の前に座っている翔
子を見ながら思う。
そして気持ちを切り替えてパン、と手を叩いた。
﹁レッツ・ショー・タイム﹂
にっこりと笑みを浮かべてそう言いながら立ち上がる男につられ
るように立ち上がった翔子は、もう一度男に頭を下げてから部屋を
出て行った。
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13
1.︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
14
2. ︵前書き︶
早くも100人以上の方からブクマ登録していただきました。
本当にありがとうございます。
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2. ざわざわと少しうるさい室内を隣の男と並んで歩く事は、ある意
味一種の苦行だと翔子は思った。
パーティー会場に入った途端、室内の人間全ての視線が自分立ち
の方に向いたと思ったのはおそらく気のせいではないだろう。
一瞬室内がシン、と静まりかえり、次いですぐにざわざわとざわ
おおこうち けんいち
めきたったのだから。
隣の男、大河内賢一はそれを見て面白そうに口元を歪ませてから、
自分の肘を掴ませるように翔子の手をそこに置いて歩き始めた。
賢一の身長は175センチほどで、今夜は薄いグレーのフォーマ
ルスーツを着て濃いめのワインレッド色のハンカチーフを胸ポケッ
トに入れている。
そして翔子が着ているのは賢一のハンカチーフと同色のドレスだ
った。デザインはシンプルだが、流れるようなラインが腰から足元
にかけてのラインを綺麗に見せている。
ブラの線のあたりまで伸びている髪は今は上でシニョンにまとめ
られていて、銀色の細いチェーンが飾り代わりに翔子が動くたびに
揺れているのが見える。
慣れない格好をして煌びやかな場所に連れてこられてまだ戸惑い
を隠せない翔子は、にこやかな笑みを浮かべた賢一に上手くリード
されながら、ゆっくりとパーティー会場の中を進んでいく。
﹁専務代理・・・﹂
﹁今は専務代理じゃないよ。僕の名前、忘れた?﹂
﹁い、いえ・・・覚えてます﹂
﹁じゃあ、そっちで呼んで。今日は一応プライベートだからね﹂
﹁はい・・・じゃあ・・・賢、一さ・・ん﹂
﹁なんだかねぇ、すごくぎこちないな・・・また今度、オフィス
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に2人きりの時にでも練習しようか﹂
どこかぎこちない翔子に、苦笑を浮かべながら提案してくるが、
それを聞いて翔子は慌てて頭を横に振った。
周囲の視線を気にしながら歩いているものの、2人は日本語で言
葉を交わしているのでそれほど声を落とす事はしていない。
﹁い、いえっ、大丈夫です﹂
﹁そう? まぁ、君がこうやって日本語で僕の名前を呼んでいれ
ばきっとぎこちないってバレないかな? 僕たち2人の間では今み
たいに日本語で話せばいいんだから﹂
﹁・・・頑張ります﹂
真面目な顔で返した翔子の顔を覗き見て、賢一はクスクスと笑う。
﹁そんなに肩肘張らなくても大丈夫だよ。それよりもう少しリラ
ックスしてくれた方が本物らしく見えると思うけどね。まぁ僕の婚
約者って言う立場でこんな場所に来るのは初めてだから緊張してい
るって言えば、それはそれでアリかもしれないか﹂
﹁今まで一度も専・・賢一さんとパーティーに来た事はありませ
んから、緊張していても仕方ないと思っていただけると助かります。
それにこんなフォーマルなパーティーも来たことありませんし﹂
﹁そうだね。確かに君とこういった席に来た事はないね﹂
﹁というか、当たり前だと思いますよ。専・・賢一さんは我が社
の専務代理で、私は総務の下っ端ですから﹂
﹁なんか君の言い方って日本人みたいだね﹂
器用に片方の眉をあげて翔子を見下ろしてくる賢一を見上げて、
彼女は少し困ったような表情を浮かべる。
﹁私・・・日本人ですよ﹂
﹁ああ、いや、そういう意味じゃないんだ。君は現地採用の日本
人だろ? だから僕の中では、どちらかというとアメリカ人のくく
りに入っていたんだよ。なのに今の君の言い方を聞くと、現地の日
本人というよりは日本に住んでいる日本人みたいだな、って思った
だけなんだ﹂
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﹁あぁ、そうですか・・・私、アメリカに来たのって17の時な
んです。生まれも育ちも日本ですよ。だから日本的な考え方を持っ
ているんでしょうね﹂
﹁なるほどね・・・﹂
翔子の父親は車の修理工をしていたのだ、と母親から聞いた事が
あった。彼は翔子がまだ7歳の時に家に帰る途中飲酒運転の事故に
巻き込まれて亡くなった。
それから翔子の母は苦労しながらも女手1つで彼女を育てていた。
そうやって親子2人で暮らしていたのだが、翔子が15の時に当時
知り合って付き合っていた駐屯中のアメリカ人兵士と再婚したのだ。
そしてその翌年、任務を終えてアメリカに戻るという義父に連れ
られて、翔子たちは義父の故郷であるカリフォルニアにやってきた
のだ。
﹁でもお父さんはアメリカ人だったよね?﹂
﹁彼は義理の父親です。私の父親は私が小さい頃に事故で亡くな
りました。それから母が再婚した相手がアメリカ人だったんです﹂
﹁だから見た目も名前も日本人なんだね。僕はてっきりハーフか
何かだと思ってた﹂
まだまだお互いの情報交換が足りてないね、と賢一が翔子の耳元
でいうと彼女は小さく頷いた。
﹁また時間がある時にもう少し細部まで設定を決めようか。その
方が何かのタイミングで1人になった時も返答に困らないだろうか
らね﹂
﹁そうですね・・・そのあたりも書面に書き出しておけば、時々
確認も出来るかもしれないですね﹂
﹁カンニング・ペーパー? いいアイデアだね﹂
楽しそうに笑い声をあげる賢一を振り返る周囲の視線を感じなが
ら、翔子は少しだけ視線を伏せる。
きっと今の2人は仲の良い恋人のように見える事だろう。
今までこういったパーティーに女性を伴って参加した事のない賢
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一と、そんな彼にエスコートされている翔子とは一体どんな関係な
のだろう、とみんな興味津々に違いない。
ふと真面目な顔をした賢一が、不意に翔子に体を向けた。
﹁そういえば君はいくつだったっけ?﹂
﹁25です﹂
﹁誕生日は?﹂
﹁5月です﹂
翔子の誕生日は5月20日なのだが、あえて細かい日にちまでは
言わなかった。
﹁じゃあ今、25歳と5ヶ月って事か・・・・若いねぇ﹂
﹁専・・・賢一さんは30歳は過ぎてますよね?﹂
﹁うん、来月35になるよ﹂
思ったより若かったな、と翔子が小さく口の中で呟くと、それを
聞き咎めたように賢一の左の眉が上がる。
﹁それは僕はそんなに年をとって見えるって事かな?﹂
﹁えっ・・・と、その・・・そうじゃなくて・・・専務代理をし
ているからもっと年配なんだと思っていました。それに日本人は見
かけより若く見えますから﹂
﹁なんかそれって僕が平均的な日本人より老けて見えるから年相
応って言われてる気がするんだけどね?﹂
そう言われて、翔子は賢一と腕を組んでいない方の手でパッと口
元を抑えた。
確かに今の自分の言い方は老けて見えるといっているようなもの
だ、と気付いたのだろう。翔子は更にアワアワと焦ったようにクチ
をパクパクさせるものの、なんといってフォローしなおせばいいの
か思いつかない。
そんな翔子をみて賢一はクスリ、と口角を上げながら笑う。
﹁まぁ、いいか。それってよく言われるんだよ、実際。君のいう
通り見た目より若いんだなって、面と向かっていう人もいるね。そ
ういうヤツは無視しているけど、取引先とかの人間だと適当に切り
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返してから仕事の話を進めたりするんだけどね﹂
﹁でも若いと舐められるから、年相応に見えた方が商談の時など
はいいんじゃないんですか?﹂
﹁そうだね、そういう時もある。でも、いつもそう言われるとま
るで僕がジジむさいって思われてるような気がしてね、おもしろく
ないよ﹂
﹁専・・賢一さんの事をそんな風に思う人っていないですよ。い
つもビシッとスーツを着こなしているし、どう見てもジジむさいな
んて言えないです﹂
﹁君は年齢より若く見られるだろう? 多分高卒くらい?﹂
﹁そう・・ですね。働き始めた頃は、ティーンエイジャーのアル
バイトか? って見られる事がよくありましたね﹂
﹁いや、それきっと今もだろう? とてもじゃないけど25歳に
はみえないもの﹂
キッパリと言い切られて、今度は翔子がムッとした表情を浮かべ
る。
途端に笑いを零す賢一を翔子がジロリと見上げるが全く堪えてい
ない。
﹁きっと薄化粧だから、だろうね。あと服装が清楚だから、だと
思うよ﹂
﹁でも、日本の商社だとそういうものじゃないですか﹂
﹁うん、もし君が日本にいれば、そうだね。でもここはアメリカ
だよ? 残念ながらそんな事気にするような連中じゃない﹂
﹁それは・・・でも、私は日本人ですから。だから、日本の流儀
に合わせるのが順当かと﹂
日本のオフィスでは男性に限らず女性もスーツを着ているのが当
たり前だろう。
だが、アメリカではオフィスにワンピースでやってくる女性が当
たり前にいる。もちろん、大手企業となるとそれなりに身なりに気
をつける女性もおおいのだが、それでも小さな会社であれば好きな
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格好で仕事に来ている女性が多い事も否めない。
翔子としてもその事は知っているが、それでも自分が勤めている
のが日本企業という事もあり、会社での服装はそれに準じたものを
選ぶようにしているのだ。
﹁まぁ、僕としては化粧が濃い女性よりは君みたいな薄化粧の女
性の方が好感は持てるから、一緒に連れて歩く相手としては申し分
ないね﹂
﹁・・・ありがとうございます﹂
﹁今夜のドレスも似合ってる﹂
﹁ちょっと派手な気もするんですけど﹂
﹁いいんだよ、そのくらいの方が。僕の婚約者として今夜はみん
なに紹介するつもりなんだから、君の社交界デビューにぴったりの
装いをしてもらわなくちゃね﹂
だから、僕もお揃いの色のハンカチーフを胸に刺しているんだ、
と賢一は胸元を指差した。
そう言われて視線を彼の胸元に向けると、確かに翔子が着ている
ドレスと同色のハンカチーフが見えた。
﹁絶対に僕のそばを離れるなよ。周囲は敵ばかりと思った方がい
い﹂
﹁それはどういう・・・﹂
﹁そのために君が僕の婚約者になるという契約だよ。あの日、言
っただろう?﹂
﹁・・・では、今夜ここに?﹂
﹁いいや、来る筈ない。と言いたいところだけど、今までの事を
思うとキッパリと言い切る自信はないね﹂
﹁・・・そうですか﹂
肩を竦めてそう言いながらも、彼は真っ直ぐ前を向いて歩く。
2人はすでにパーティー会場の真ん中辺りまで来ているのだが、
目指すは今夜のパーティーのホストのところだ。
﹁あぁ、見つけた。ほら、あそこにグリーンのドレスを来た女性
21
がいるだろう?﹂
﹁・・・あの、ブロンドの女性ですか?﹂
﹁そうそう、彼女とその隣に立っている男が今夜のパーティーの
主催者だよ。スミスフィールド夫妻だ。彼らはうちの会社の取引先
でね、僕の父の代からの付き合いなんだ。だからちょっとくらい失
敗しても大丈夫だからね﹂
﹁そう言って貰えると助かります。さっきも言いましたが、こん
なパーティーに参加するなんて初めてなので、どこでどんな失敗を
するか判りませんから﹂
﹁そんな心配しなくてもいいと思うけどね。でもまぁ、だから翔
子と一緒に出席するパーティーデビューは、これに決めたんだ﹂
由緒ある家柄の主宰するものでないから気が楽だし、彼らは細か
い事は気にしないからテーブルをひっくり返しても大丈夫、と翔子
の耳元に口を寄せて囁く。
含みのある笑みを浮かべて翔子の耳元で内緒話のように話す賢一
を、パーティー会場にいる全ての人間が注目している気がする。
翔子は彼がわざと内緒話のように話しかけてきたのを知っている
から動揺はしなかったもののそれでも﹃視線が痛く感じる﹄という
したのは初めてだ。
この仕草全てが賢一の仕組んだものだ、と今更ながら翔子は気づ
く。
﹁とりあえず衆目は集める事ができたみたいだね﹂
﹁そうですね﹂
﹁ではホストに挨拶に行こうか。それから何か飲み物をもらおう﹂
今夜はまだ始まったばかりだ。
翔子は彼に促されるまま夫妻の方に向かって歩いて行った。
22
2. ︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
06/26/2016
@
12:10pm
読者様より誤字脱字報告をいただきましたので訂正しました。
Edited
23
3. ︵前書き︶
ブクマ登録、ストーリー評価、文章評価、本当にありがとうござ
います。
まだ2話なのにたくさんのブクマに、本当にびっくりしてますが
嬉しいです。
これから最後までお付き合いしていただけると嬉しいです。
﹃﹄は日本語、﹁﹂は英語です。
24
3. ﹁こんばんは﹂
賢一と翔子がスミスフィールド夫妻の元に着いた時、丁度会話が
途切れたタイミングだったので、賢一は5メートルほど先で談笑し
ている人たちに聞こえるように少し大きめな声で挨拶をした。
エドワード・スミスフィールドは身長180センチほどの白髪交
じりの茶髪に同じ色の瞳をした男で、賢一の会社と取引をしている
会社の1つで、主に輸入食材を取り扱っている。年齢は50代とい
ったところで賢一より大分年上だが、賢一の父の代からの付き合い
なので気さくな関係を保っている。
その妻のジョアンナ・スミスフィールドは夫より5歳ほど年下の
こちらも同じく白いものが混じり始めているものの、元の色が金髪
のせいかあまり歳をとったようには見えない。そんな彼女はダーク
グリーンのドレスをとても上品に着こなしている。
﹁こんばんは。あら? ケン、今夜は1人じゃないのね?﹂
﹁いつも1人で参加していたんじゃ淋しいですからね﹂
﹁よく言うわ、初めて会ってからもう1年以上経つけど、その間
いつだってあなたは1人でパーティーに来てたじゃない﹂
﹁そうでしたか? まぁあの頃はなれなかったもので﹂
﹁それこそ嘘ね。私がいくら可愛い子をセッティングしてあげて
も、あなた全く興味持たなかったくせに﹂
﹁いえいえ、高嶺の花すぎて腰が引けたんですよ﹂
﹁まぁっっ、言うわね。そんな事ちっとも思ってなかったくせに﹂
振り返ったジョアンナ・スミスフィールドは、賢一を見ると途端
に破顔して近寄ってきた。
そして威勢のいい言い合いに、翔子はびっくりしたように目を丸
くしたまま2人を交互に見てしまう。
25
そんな彼女にようやく気付いたのか、ジョアンナがコホンと小さ
く咳をしてから笑みを浮かべた。
﹁あら、お客様の前で失礼しました。恥ずかしいところ見せちゃ
ったわね﹂
﹁いいえ・・・お気になさらず﹂
﹁ミセス・スミスフィールド、だからいつもご主人がもっと落ち
着くように、と言うんですよ﹂
﹁あら、だってビックリしたんですもの﹂
口元を隠しながら、ミセス・スミスフィールドは翔子にむかって
微笑んだ。
レィディ
﹁だから私がいつも言ってるだろう? もう少し落ち着けばおま
ダーリン
えも淑女に見えるんだから、って﹂
﹁あなた、もうそっちはいいの?﹂
﹁ああ、おまえがケンたちを見つけた途端にあっという間に離れ
ていったからね。彼らも遠慮したみたいだ﹂
﹁あら・・・ごめんなさいね﹂
﹁いいさ。そろそろ他の人たちにも挨拶をしなければ、と思って
いたからね﹂
丁度いいタイミングだった、と笑みを浮かべたエドワードは、そ
のまま手を伸ばして賢一と握手をかわす。
﹁それにしても珍しい事があるものだ。まさかケンが女性連れで
うちのパーティーに参加する日が来るなんて夢にも思っていなかっ
たよ。そのせいで明日嵐にならなければいいんだけどね﹂
﹁ひどい言われようですね、ミスター・スミスフィールド。僕は
そこまで朴念仁ではありませんよ﹂
﹁いやいやいやいや、いつも1人でパーティーに来ていただろう
? そんな君にそんな事を言われても説得力はないよ﹂
﹁1人で来ていたのは仕方ないですよ。大切な掌中の珠を見せた
くないのは、男としては当たり前だと思いますから﹂
澄ました顔で答える賢一を見て、エドワードは器用に片方の眉を
26
あげた。
﹁ほぅ・・・・なるほど、ねぇ﹂
﹁あらあらあらあら、そうだったのねぇ﹂
ジョアンナは両手を握りしめて、嬉しそうにはしゃいだ声をあげ
た。
﹁それは、つまり、そういう事なのかい?﹂
﹁そうです。僕もようやく生涯を共に過ごしたいと思える相手に
巡り会えたので、是非ともお2人には紹介したいと思って今夜は無
理を言って連れてきたんです﹂
﹁それって、今夜が初めて、って事?﹂
﹁そうです。お2人なら安心して紹介できますからね。彼女はあ
まりこういった場に慣れていないので、それをとても不安に思って
いたんですよ。だから僕がお2人のパーティーだったらそんな心配
はしなくてもいいから、って説得して今夜一緒に来てもらいました﹂
笑みを浮かべてエドワードとジョアンナに言いながら、賢一はそ
っと隣に立っている翔子を自分の方に引き寄せた。
それはとても自然な動きで、翔子は引き寄せられるまま賢一に体
を寄せる。
﹁彼女の名前は翔子・佐野原。僕と同じ日本人です。とはいえ僕
と違って17の時からアメリカに住んでいるから、僕よりはるかに
英語は上手ですけどね﹂
﹁初めまして、翔子・佐野原です。よろしくお願いします﹂
﹁初めまして、私の名前はエドワード・スミスフィールドだ。こ
ちらは妻のジョアンナ。今夜はパーティーに来てくれてありがとう﹂
﹁初めまして。今、隣の主人が紹介してくれたけど、私がジョア
ンナよ。ようこそパーティーへ。来てくれて嬉しいわ﹂
ニコニコとしながら差し出されたエドワードの手を握り返して、
両手を広げてやってくるジョアンナに抱きしめられると、翔子はよ
うやく賢一の隣に戻る事ができた。
﹁ショーコは可愛いわねぇ﹂
27
﹁ケン、こんな若い子をどこで引っ掛けてきたんだい? まさか
まだ成人していないような子供じゃないだろうね﹂
﹁彼女はちゃんと成人していますよ﹂
﹁ここはアメリカだよ。アメリカは日本と違って成人は21歳な
んだけどな﹂
﹁そうよ。まさか騙したんじゃないでしょうね?﹂
﹁まったく・・・ミスター・スミスフィールドもミセス・スミス
フィールドも酷い事を言う﹂
やれやれ、と肩をすくめる賢一を見て2人は笑い声をあげた。
﹁ケン、その堅苦しい呼び方はやめてほしいって言っていただろ
う? 私たちの事はエドとジョーでいいんだって﹂
﹁私的な場所ではそう呼びますよ。でもここは公式の場所ですか
らね。誰が聞いているか判りませんから﹂
﹁いいから。そんな事、気にしないの。誰かに何か言われたら、
エドとジョーに脅迫されてるのでそう呼んでいますって言えばいい
のよ﹂
憤慨したようにむぅっと口元を尖らせていうジョアンナは、まる
で子供のようだがその仕草はなぜか彼女に良く似合う。
﹁あなたもね、ショーコ。私たちの事はエドとジョーでいいの。
ミスターとかミセスとかって言われると一気に年寄りになった気が
するからそう呼ばないでね﹂
﹁えっと・・・・﹂
﹁だそうだよ。この2人は気に入らない人にはそんな風に呼ばせ
ないらしいから、翔子の事をよっぽど気に入ったって事だね。だか
ら、これからはエドとジョーって呼べばいいよ﹂
﹁でも、私は・・・﹂
﹁いいからいいから、細かい事は気にしないで言われた通りにす
ればいいんだよ。この2人は立場とかって事を気にしない人たちだ
からね。翔子が何を気にしているのか判らないでもないけど、2人
が喜ぶからって言う理由でエドとジョーって呼べばいいんだ﹂
28
会社経営者と一社員となると立場が違う、と翔子が考えている事
をすぐに読み取った賢一は笑みを浮かべて気にするな、と言う。
﹁わ、かりました。ではそう呼ばせていただきますね﹂
﹁ああもうっ、その堅苦しい話し方も止めてね。もっとフランク
でいいのよ﹂
﹁でも、目上の人に・・・﹂
﹁ここはアメリカよ、ショーコ。年上だろうと年下だろうと普通
でいいの。そういう事を気にする人もいるだろうけど、私たちは気
にしないから。だから普通に話してくれる方が嬉しいの﹂
ぽん、と軽く腕を叩かれて、翔子は少し困ったような表情を浮か
べながら小さく頷いた。
ティーンエイジャー
﹁日本人は若く見えるって事は私も判っているつもりだが、まさ
か彼女は十代じゃないだろうね?﹂
﹁まさか、そんな訳ないですよ。彼女はこう見えても25歳です
よ。ちゃんと大学も卒業してます﹂
﹁25っ? ホント? どうみても高校生じゃない。でも日本人
だから20歳くらいかなって思っていたのに・・・まさか25歳な
んて、ねぇ・・・﹂
少ししかめっ面をして賢一に尋ねたエドワードとジョアンナは、
彼の言葉に驚いて翔子を改めてじろじろと見るが、翔子としてはそ
んな反応も特に珍しい事ではないので苦笑を浮かべたままだ。
﹁大学を卒業してからずっとうちの会社で働いてくれているんで
す。もう3年になりますね﹂
﹁でも、会った事ないわ・・・そうよね?﹂
﹁ええ、彼女はうちの支店の方で働いていますから﹂
大河内カンパニーはロス支社があるが仕事の内容の関係により支
社は空港のすぐ横にあり、そのため支店をロス市内に出している。
翔子が働いているのはその支店で、彼女は基本支店にやってきた
営業担当者を相手に仕事をしているのだ。
﹁なるほどね、じゃあうちの営業担当者に聞けば知っているかも
29
しれないね﹂
﹁そうね、また聞いてみようかしら?﹂
﹁お2人とも、真面目に働いている社員を虐めてはダメですよ。
彼らは僕たちの事を知らないんですから﹂
﹁そうなの?﹂
﹁そうです。ずっと周囲にバレないように付き合ってきていたん
ですよ。ただそろそろ周知した方がいいかな、と思って彼女を説き
伏せて今回このパーティーに参加したんです﹂
つまり今夜初めて公に翔子を自分の相手だと知らせた事になる、
と説明している賢一の隣で﹃確かその話、さっきもしてなかったっ
け?﹄と思いつつ翔子は口元に笑みを浮かべたまま聞いていた。
﹁それは、つまり、正式に、という事なのかな?﹂
﹁そうですね。僕としてはそう考えています。だから、この指輪
を贈らせてもらったんです﹂
そっと翔子の左手を取りあげて、スミスフィールド夫妻の前で指
輪の嵌った薬指にキスを落とした。
そこに嵌っているのはこのパーティーにくる10分ほど前に手渡
されたルビーのついた指輪だった。
ルビー自体はそれほど大きくはないが、質がいい事は宝石に詳し
くない翔子にも判るほど綺麗な石で、それがプラチナの台座にこじ
んまりと収められている。
﹁あら、もっと大きな石を贈らなくちゃ﹂
﹁まだ正式に婚約した訳ではありませんからね。でもとりあえず
僕の気持ちを込めて贈らせてもらったんです。きちんと正式に婚約
をする時にはとっておきの石を贈ろうと思っています。彼女、僕の
プロポーズに頷いてくれていないんですよ。なのでこれからもう少
し頑張って口説き落とそうと思っています﹂
﹁あなたが急ぎすぎたんじゃないの?﹂
﹁それはあるかもしれないですね。だってこんな魅力的な女性で
すから、他の男に取られないかと心配なんですよ。だから今は前向
30
きに検討してくれているって言う彼女に、虫除けの指輪をつけて貰
いました﹂
チュッと音を立ててもう一度翔子の薬指にキスをすると、ゆっく
りと彼女の手を離してくれた。
翔子はたったそれだけの事で顔が熱くなる事を止められなかった
が、目の前の2人はそんな彼女の初々しい反応を見て笑っている。
そして、周囲がざわついている事にようやく気付いた。
どうやらパーティーに来ていた人たちが4人のやり取りを聞いて
いたようだ。
今まで一度も女性を同伴してきた事がなかった賢一が女性を伴っ
てにこやかにパーティーのホストであるスミスフィールド夫妻と談
笑しているのだから、周囲の視線を集めない訳はない。
やはりパーティー会場に来てからずっと緊張していたのだろう、
翔子はその事にようやく気付いた。
その途端、周囲の人間の視線が自分の左手の薬指に集中している
気がしてきたほどだ。
いや、おそらくそれは翔子の気のせいではないだろう。
全員とは言わないまでも、かなりの数の人間が翔子の薬指に嵌る
指輪を見ているはずだ。
慌てて見上げるとそこにはしてやったりといった表情を浮かべた
賢一がニヤニヤとしながら翔子を見下ろしている。
﹃専、賢一さん・・・もしかして﹄
﹃うん。確信犯﹄
つまり、周囲が自分たちに注目している事を知っていて、わざと
翔子の左手をとって指輪の嵌っている薬指にキスをしたという事だ。
﹃手っ取り早く周囲に僕たちの噂を広げようと思ってね。上手く
いっただろう?﹄
翔子の耳元で囁くように日本語で言う賢一の言葉は、彼が醸し出
す雰囲気にそぐわないような言葉だったが、元々そのために今夜の
パーティーに参加しているので、翔子としては小さくため息をつく
31
だけだ。
﹁あら? 2人で内緒話?﹂
﹁いいえ、ただ翔子が見られているって事に今気付いたみたいな
ので、気にするなよって言っていたんです﹂
﹁そうね。あんな人たちの事、気にする事なんてないわよ。カボ
チャかジャガイモが並んでいるって思っていればいいのよ﹂
﹁ジョー、流石にそれは失礼だよ。彼らは一応私たちのお客様な
んだから。せめてマネキンくらいにしておきなさい﹂
冗談なのか本気なのか、あまりフォローになっていない言葉で妻
を諌めるエドワードはにこやかな笑みを浮かべたままだ。
﹁大丈夫よ、ショーコ。彼らは無害だから。何か言ってきても無
視しておきなさい。これはあなたとケンの問題であって、彼らには
関係ない事なんだから﹂
﹁ちゃんと僕もフォローするから、気にしなくてもいいよ。何か
言ってきたら文句は僕に言ってくれって言えばいい﹂
﹁そうそう、こんなところに連れて来れば周囲が騒がしくなる事
は判っていたと思うからね。文句や誹謗中傷はケンを窓口にして受
け付ければいいんだよ﹂
﹁・・・はい﹂
まだこれは序の口なのだ、と翔子は周囲の視線に突き刺されなが
らも心の中で自分に言い聞かせた。
これからもっと酷くなる。自分の出自とかただの社員だとか、そ
ういった事で色々と言われる事が増えるだろう。
そして、それ以上の事だって起こり得るのだ。
そして最後は・・・・
翔子はそこまで考えてから小さく頭を振って、とりあえずこのパ
ーティーをこなしてしまおう、と心の中で呟いた。
32
33
3. ︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
34
4.︵前書き︶
ブクマ登録、ストーリー評価、文章評価、本当にありがとうござ
います。
たくさんの方からそれらを頂いた事がとても嬉しく、今週は書き
溜め分を放出して毎日投稿します!
なので毎晩遊び︵読みに、とも言う?︶に来てくださると嬉しい
です
﹃﹄は日本語、﹁﹂は英語です。
35
4.
あのあと、すぐにシャンパンを用意しよう、とはしゃぎだしたジ
ョアンナを説き伏せるのがこれまた大変だった。
そばにいたウェイターに今すぐここにある一番いいシャンパンを、
というのをそこまで大騒ぎにしたくない、と言って断ったのだ。
賢一は、翔子がまだこんなパーティーの雰囲気に慣れていないか
らまた次の機会に、と断ってくれた事に抛っとしたのも束の間だっ
た。
そこからは怒涛の勢いで、周囲に集まってきた人たちに紹介され
た。
正直、賢一によって紹介された相手の殆どの顔と名前は一致しな
いだろう、と翔子は思う。
それほどたくさんの人に一気に紹介されたのだ。
いや、賢一が紹介させられたのだ、と言った方が正しいだろう。
和やかにスミスフィールド夫妻との挨拶と会話を終えて、翔子は
賢一に促されるまま夫妻から離れた途端に数人の若い女性に囲まれ
た。
その後ろには更に数人の連れだろう男性陣が控えており、そこか
らはただただ見知らぬ人相手に翔子は﹁はじめまして﹂﹁よろしく
お願いします﹂などと言った言葉を延々と繰り返すだけだった。
そしてようやくその列がひと段落した頃、翔子は心身ともに疲弊
してしまっていた。
そんな彼女を尻目に賢一は飄々としていて、今も口元に余裕の笑
みを浮かべて立っている。
おそらく彼にとっては大した事ではなかった、という事なのだろ
う。
﹃疲れたかい?﹄
36
﹃そうですね・・・少し﹄
通りかかったウェイターから自分にはワイン、翔子のためにはウ
ェイターに聞いてアルコール分の少ないスパークリングワインを選
んで渡した。
﹃ありがとうございます﹄
﹃そんなに長居をするつもりはないんだけど、もう数人だけには
会っておかないといけなんだ。大事な商談相手だからね。だから、
もう1時間くらいは我慢してくれるかい?﹄
﹃大丈夫です﹄
仕事の邪魔をする気はない、と翔子が返すと、賢一はにっこりと
笑みを浮かべた。
﹃僕と一緒に商談相手の所に来てもいいけど﹄
﹃あの・・・ちょっとだけ外に出てもいいですか?﹄
﹃外って?﹄
﹃そこのテラスから庭に降りられるって言ってたのを聞いたんで
す。今は夜間照明が点いていて、すごく綺麗だって﹄
先ほど挨拶にやってきたグループの中の女性が隣の女性とそう話
しているのを聞いたのだ。
人混みに疲れて少しだけ外の新鮮な空気にあたりたい、慣れない
パーティーに初参加だった翔子がそう思っても仕方ないだろう。
﹃1人で大丈夫かい?﹄
﹃大丈夫ですよ。そんなに長い間出ているつもりはありませんか
ら。ただ、ちょっとだけ外の空気が吸いたいかな、って思って﹄
﹃そうだね・・・・判った。でも30分で戻ってくる事。それが
条件だ﹄
戻らなかったら探しに行くよ、という賢一に翔子は小さく頷いた。
﹃僕は向こうに集まっているグループの所にいるからね﹄
﹃はい﹄
﹃ちゃんと30分で戻ってくるんだよ? じゃなかったら捜索隊
を出すかもしれないよ﹄
37
﹃そんな大げさな事言わないでください。心配するような事なん
てないですよ﹄
クスリ、と翔子が笑いを零すと賢一はなぜか大きなため息をつい
た。
それに頭を少し傾げていると、賢一は翔子の左手をとって、その
指に嵌っている指輪を指先で摩る。
﹃あのね。普段の君は薄化粧でとても可愛いけど、今夜の君はと
ても綺麗だ﹄
﹃えっと・・・あの・・・その・・ありがとうございます﹄
思いもよらぬ賢一の言葉に、翔子はしどもどしながらなんとかお
礼を言う。
﹃君は気づいていなかったかもしれないけど、僕の隣でにっこり
と微笑んでいた君に興味を持った男は数人はいたと思う﹄
﹃まさか・・・﹄
﹃もちろん、僕の連れていた女性だから興味を持ったのかもしれ
ない。けど、純粋に君本人に興味を持ったヤツだっていた筈だ。そ
んな君が外に出て1人でうろうろしているのを見かけたらどうなる
と思う?﹄
﹃どうなるって・・・だってこのパーティーに来ている人って大
抵女性連れですよね?﹄
﹃うん、そうだね。でも1人でくるヤツだっているよ。僕がこの
前までそうだった﹄
﹃それは・・・﹄
確かにスミスフィールド夫妻が賢一はいつも1人でパーティーに
来ていたと言っていた。
彼の話では、仕事の付き合いもあるからパーティー全てを断るわ
けにもいかなかったから、仕方なく最低限のパーティーには参加し
ていた、との事だった。
それを考えれば他にも1人で参加している男がいてもおかしくな
い事は翔子にも判る。
38
判るが、自分の事を気にとめるような物好きはいないだろう、と
も思っている。
﹃・・ったく、その顔は本気にしてないね。まぁいいよ。とにか
く僕の言葉を忘れないでくれよ。それから、30分だ。それも覚え
ておくように﹄
﹃判りました﹄
ヒラヒラと手を振って少し諦めたように肩を落とす賢一に、翔子
はなんとも言えない表情を返すが、それでもとりあえず許可が降り
たので外に出てみる事にした。
﹃僕はあっちにいるからね﹄
﹃30分でちゃんと戻ります﹄
翔子は小さく頭を下げてから、ゆっくりとテラスに向かって歩い
た。
開いたままのテラスのドアからは、中の音楽がBGMのように聞
こえてくる。
翔子は薄暗い足元に気をつけながら、ゆっくりとテラスから中庭
に伸びている階段を降りていく。
目の前の中庭にはサイドウォークに沿ってフットライトが設置さ
れており、それがとても幻想的な風景を作り出している。
もちろん明かりはそれだけではなく、一定の間隔をあけてサイド
ライトや常備灯も灯っているので、庭は翔子が思ったほど暗くはな
い。
それでも明るい室内から出てきたばかりの翔子の目には薄暗く感
じるので、とりあえず階段を降りきるまでは足元に気をつけている
のだ。
なんとか転ける事もなく無事に階段を降りきる事ができた翔子は、
39
そのままゆっくりとフットライトが照らしている小道を歩く。
確か先ほどの話ではこのさきに噴水がある筈だ。
とりあえずそこまで歩いてから、またゆっくりと歩いてパーティ
ー会場にもどればいいだろう。
時折吹き抜ける風が心地よい。
10月とはいえカリフォルニアはまだまだ暑い。
今夜のドレスは裾と袖がヒラヒラとしていて涼しいのだが、その
代わり小道からはみ出ている茂みに引っかけないように気をつけな
ければいけない。
翔子は小道の真ん中あたりを歩きながら、明かりに照らされた庭
を眺める。
白と黄色の花が咲いているのが見えるが、翔子にはなんという名
前の花か判らない。それでも小さな花が咲いているのを見ているだ
けで気持ちが落ち着いてくる。
5分ほど歩いた頃だろうか、ようやく視線の先に話に聞いた噴水
が見えてきた。
耳に届く水の音が涼しげで、なんとなく蒸し暑さが半減した気が
する。
﹁誰だ?﹂
﹁えっ・・・?﹂
あと10メートルほどで噴水に辿り着く、というところで不意に
声がして翔子は足を止めた。
目をこらすと視線の先に黒い影が動いているのが見える。
﹁何しに来た﹂
﹁何しにって・・・噴水を見に来たんです。別に邪魔をするつも
りじゃあ−−−﹂
﹁良く言う。どうせ俺がここにいる事を誰かに聞いて調べて、そ
れで来たんだろう﹂
先に噴水にいた相手の邪魔をするつもりではなかった、と謝罪し
ようとした翔子の言葉は棘のある男の言葉に封じられた。
40
翔子はろくに彼女の話を聞こうとしないで決めつけた言い方をす
る男の言葉にムッとしたものの、ここで揉め事を起こすのは良くな
いと文句の言葉を飲み込むとそのまま数歩前に進み出る。
﹁近寄るなと言っただろう。とっとと向こうに帰れ﹂
﹁ここはあなただけの場所ですか?﹂
﹁どういう意味だ?﹂
﹁私は自由に庭を歩いていいと許可をいただいてるんです。まさ
かここはあなただけが独占できる場所、というわけではないですよ
ね?﹂
﹁ふんっ。口ばかりは達者だな。だが、だからと言って俺に近づ
けると思ったら大間違いだ﹂
鼻を鳴らしながら陰から完全に出てきた男は、ジロリと翔子を睨
みつけるとそのまま彼女の正面に立つ。
先ほどまでは噴水の薄暗い陰にいたので判らなかったが、目の前
にやってきた男は身長は185くらいありそうだ。黒かこげ茶の髪
は少し長めにセットされていて、あげられた前髪がいく筋か額に落
ちてきている。目の色は茶色だが、時折光の加減で違う色に見える
気がする。
じろじろと見ていたのは翔子だけではなかったようだ。目の前の
男もじろじろと翔子の顔を見ている。
﹁見た事ない顔だな。新入りか﹂
﹁はっ?﹂
なんの事だろう? と翔子が頭を傾げていると、すっと伸ばされ
た男の手が翔子の顎にかかり彼女の顔をあげさせた。
いきなり触られて、翔子は男の手を振り払ってそのまま1歩後ろ
に下がった。
﹁なにするんですかっ!﹂
﹁そのつもりで来たんだろう? 純情ぶったって俺には効かない﹂
﹁誰と間違えているのか知りませんけど、私はあなたなんかには
全く興味ないですっ﹂
41
﹁良く言う。だったらどうしてここに来たんだ?﹂
﹁人の熱気にあたったので、涼みに来たんです。ここに来れば噴
水があるからって言われたので、それでここまで足を伸ばしたんで
す﹂
なのに自意識過剰な男がいるとは思ってもいなかった、と翔子は
心の中で付け足した。
けれど翔子のそんな気持ちは顔に出ていたのだろう。
男はどこか鼻白んだ表情で翔子を見下ろしてきた。
強い光を宿らせた男の目に一瞬引き寄せられたが、翔子は強い意
志の力で負けないように見返した。
自意識過剰な男だが、確かに男は魅力的だ、と思うのだ。
背が高く高級そうなスーツが良く似合う男だ。先ほどから言って
いるように、女から追いかけられる事に慣れていて、それが煩わし
いのだろう。
けれど、いわれのない文句を唯々諾々と受け入れる気は翔子には
全くなかった。
だから翔子はまっすぐ男を見返した。
そんな翔子の態度に、男はまた鼻を鳴らす。
﹁それが本当だと俺が信じるとでも思っているのか?﹂
﹁信じるも何も事実ですから・・・まぁもうそんなのどうでもい
いわ。いつまでもあなたに訳の判らない事を言われるのも面倒なの
で、私はもう向こうに戻ります﹂
﹁・・そう言って俺の気を惹こうとしているんだろう?﹂
﹁好きに言ってください。私はあなたが誰なのか知らないし、興
味もありませんから。それにいつまでも自意識過剰なあなたに付き
合うほど暇でもありません﹂
一体どこまで自意識過剰なんだろう、とわざと大きな溜め息を着
いてから、翔子はくるりと男に背を向けて今来た道を戻る。
背後から強い視線を感じるが、だからと言って振り返る気は全く
ない。
42
それどころか少しでも早く男から離れたいという気持ちの方が強
かった。
男からはそれ以上の言葉を投げかけられる事はなかったが、翔子
は男の視線をずっと感じていた。
そしてようやくテラスが見えてきた時にはホッと息を零したほど
だった。
翔子は階段を駆け上がるように早足でテラスに上がると、そのま
ま開いたままのドアから体を滑り込ませて賢一を探したのだった。
43
4.︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
44
5.︵前書き︶
ブクマ登録、ストーリー評価、文章評価、本当にありがとうござ
います。
ちょっと設定説明をしてます。なのでグダグダしてて申し訳あり
ません。
45
5.
ああ、周囲の視線が痛い。
翔子は支社の廊下を歩きながら痛くなってきた胃を抑えたい衝動
を必死に抑えながら、ポーカーフェイスを顔に貼り付けたままなん
とか自分の席に戻った。
部署に入る時にきちんとドアはしめたから、わざわざ用もないの
にそのドアを開けて中を覗き込もうとする人はいないだろう、と自
分の席に辿り着くとそのまま座り込んだ。
﹁はぁ・・・・・﹂
思わず小さな声が溜め息と同時に口から漏れたが、こればかりは
仕方ないだろうと翔子は思う。
そして翔子の机の前に座るスーザン・ウィルソンは、面白そうに
そんな彼女を口元に笑みを浮かべて声をかける。
﹁大変そうね﹂
﹁スーザン・・・そうね﹂
﹁ショーコ、あなた一躍有名人ね。うちの会社であなたの名前を
知らないって人、きっといないわよ﹂
﹁・・・そうね﹂
クスクス笑いながら投げかけられる言葉に、翔子は投げやりな返
事をするだけだ。
そんな2人の会話を同じ部署の人間は周囲で黙って聞いている。
聞いていない訳ではない事は、今までの事で翔子は知っているの
だ。
どうせここで話に上がった事をどこかで吹聴する事は判っている。
そうやって今まで何度も知らない間に話のネタになっていた事は翔
子自身が聞いて知っているのだ。
ただ、まさかあそこまで堂々と噂のネタとして提供されていたと
46
は知らなかったが。
賢一に言われてロス市内の支店から支社に移動になってから、特
に態度を変えずに話してくれるのは目の前のスーザンの他にはほん
の数人しかいない。
翔子をここに異動させたのは他ならぬ賢一だが、彼がその話をし
た時彼女は今の支店から離れたくない、といったのだ。
けれど、これもパフォーマンスの1つだから、と言われるとそれ
以上断る事もできなかったのだ。
今回の異動もどうやら彼の中では契約事項の1つらしい、そう思
うと翔子はそれを受け入れて支店にやってくるしかなかった。
そして、その時にはすでに翔子と賢一の事は話題になっていたの
で、﹃あれが賢一の選んだ女﹄という目で見られる事を甘受するし
かなかったのだが、実際にこうも精神的に大変だとは思ってもいな
かった。
﹁それで仕事はもう終わったの?﹂
﹁今日の分は、ね。もともと私の担当している分は多くないし、
他の人でもできる仕事だから﹂
﹁何やさぐれてるのよ。私としてはあなたがここに来てくれたお
かげで仕事が減って楽になっているのよ?﹂
答えるスーザンに翔子は思わず
﹁そう? だったら少なくとも1人は私がここに来てよかった、
って思ってくれてるってわけね﹂
﹁そうそう﹂
ツンと顎をあげて澄ました顔で
笑い声をあげてしまった。
彼女のこういうところのおかげで、ささくれだっていた気持ちが
落ち着くような気がする。
﹁それで、手伝う事は?﹂
﹁ないわ。一応手元にあった分はきちんと終わらせたから。明日
からまた来週まで仕事に来れないけど、気にするなって言われてる﹂
﹁じゃあ安心して病院に行けるわね﹂
47
﹁うん・・・そうね﹂
浮かない顔で頷く翔子を見て、スーザンは器用に片方の眉をあげ
る。
﹁どうしたの? また何か言われた?﹂
﹁いつもの事よ﹂
﹁遊びに行くって言ってるんじゃないんだから、気にしなければ
アイリーン
いいのよ。言いたい人には言わせておきなさい﹂
﹁それは判ってるけど・・・﹂
﹁そんな連中はほっといてショーコは妹の事を考えてればいいの。
だいたいその事もあってここに異動になったんでしょ?﹂
﹁うん・・・﹂
小さな声で翔子の妹の話をするスーザンは、周囲の人間に変な知
識を与えないためだ、と以前言っていた。
賢一のせいで有名になってしまった翔子は周囲から色々と言われ
て心労が溜まっている。そこに妹の事をネタに色々言われないよう
に、という配慮だ。
愛莉の事は支社の中でもほんの数人しか知らない。スーザンは彼
女の事を知っている数少ない社員だ。
アイリーンというのは愛莉の愛称で、今では翔子以外は全員彼女
の事をアイリーンと呼んでいる。
そしてスーザンの言う通り妹の事もあって支社異動になった、と
いうのは間違っていない。
もちろんそれだけが理由ではなかったのだが、それでも休みが取
りやすいように、という賢一の配慮もあっての事だというのは本当
だ。
事務仕事をしている翔子は、支店では彼女ともう1人の2人体制
だったのでなかなか有給を取る事ができなかった。
それでも妹を病院に連れて行かなければならない時は、午前中だ
けを休みにしてそのあと職場に戻って残業という形で仕事を片付け
たりしていた。
48
だが支社となれば10人体制で事務仕事をしており、そこに新し
く入った翔子が休みをとっても元に戻るだけなのでそれほど影響は
ない筈だ、むしろ翔子がいる事で普段は仕事量が減るのだから気に
しなくてもいい、と賢一に言われたのだ。
なので賢一に言われた事もあり、支社に異動になってからは妹を
病院に連れて行く時は丸一日有給を使うようになっている。
アイリ
﹁明日の午前中が検査だったっけ?﹂
﹁うん、そう。午後は愛莉を交えて専門医と一緒に話をする事に
なっているの﹂
心臓が悪い翔子の妹の愛莉は学校に行く事もできず、日中はお隣
のグェンドリン・スマルダーの家で翔子が帰ってくるのを待ってい
る。
翔子の義父のドナルドが翔子たちを連れてアメリカに戻った時、
一家みんなで移り住んだ先が彼の母の家だった。
ドナルドの父親は彼が高校の頃に亡くなっていて、その家に母と
2人で暮らしていたという。
それからドナルドが軍に入って日本に駐屯している時も母親はず
っと1人でその家に暮らしていた。
だからドナルドが嫁と子供たちを連れて戻ると聞いた時、一番喜
グランマ
んでくれたのがこの母親だったらしい。
グランマ
妹の愛莉はすぐに彼女の事をおばあちゃんと呼んでいたが、翔子
は照れくささもあっておばあちゃんと呼ばずにバーバラ、またはバ
ーブと呼んでいた。
連れ子である翔子にもとても良くしてくれたバーバラ・ライトラ
ンドは翔子が大学に入る年にガンで亡くなってしまったが、それで
もとても可愛がってくれたと思う。
それから4年後、翔子が大学を卒業する間際に両親も事故で亡く
してしまったのだ。
それまでは家族みんなで愛莉の世話をしていたのだが、事故の後
では翔子1人となってしまい全ての負担がかかるようになってしま
49
った。
当時まだ8歳だった愛莉を1人で家に置いておくわけにもいかな
かった上に、いつ心臓の発作が起きるか判らなかったからだ。
そんな翔子に手を差し伸べてくれたのが、お隣のグェンドリン・
スマルダーだった。
グェンも夫を翔子たちが引っ越してくる1年前に心筋梗塞で亡く
しているからか、両親を亡くした翔子と愛莉を何かと気にかけてく
れているのだ。
彼女はドナルドの事もよく知っていて、今では27歳になる息子
のジョー、24歳の娘サマンサ、それに20歳の息子であるベンの
3人の子供も、母親と同じように翔子と愛莉を何かと手助けしてく
れた。
翔子はスーザンと話をしながらも、本当にすごくお世話になって
いるな、と今愛莉がいるスマルダー家の事を思い出す。
﹁今日は早く帰るの?﹂
思いを飛ばして意識散漫になった翔子の耳に、スーザンの声が入
ってきた。
﹁えっ? あぁ、うん、そう。明日の準備もあるしね。それに今
日の仕事はもう終わったから帰っていいよって言ってもらったから﹂
﹁じゃあ、とっとと帰ったほうがいいわよ﹂
﹁・・・えっ?﹂
﹁いつまでもいるとわざと仕事を持ってきそうなのがいるから﹂
﹁・・・あぁ﹂
スーザンのいうわざと仕事を持ってきそうな相手に心当たりがあ
って、翔子は苦笑を浮かべながら小さく頷いた。
﹁帰り前にボスのところに行く事になっているから、それを口実
にここを抜け出すわ﹂
﹁グッド・アイデアね﹂
﹁それより、スーザンの方の仕事は? 何か手伝える事があれば
手伝うわよ?﹂
50
﹁私のほうはいつも通りよ。こっちの分は終わってるんだけど、
ソーリー
相手のほうが・・・ねぇ﹂
﹁ご愁傷様﹂
﹁ホント、そう思うわ。でも自分では仕事ができる!って思って
いるんだからタチが悪いっていうか・・・ねぇ﹂
肩に掛かるカールした髪を後ろにはね除けながら肩を竦めてぼや
くスーザンは、そんな仕草がとても似合う35歳の2人の子持ちだ。
離婚してシングルマザーとして働く彼女に、翔子はここに配属さ
れた当初からとてもお世話になっている。
大河内賢一の女、という色眼鏡なしで見てくれるとても貴重な存
在に、気を使わないで接する事ができて本当に精神的にも助かって
いる。
そんな彼女がぼやいている相手は同じ部署の人間なのだが、賢一
の取引先の上役から頼まれて雇い入れているという事もあり、仕事
をサボっていてもあまり文句は言えないらしいのだ。
その辺りは日本っぽいな、なんて翔子は思った記憶が有る。
とはいえ、それはあくまでも翔子たち末端の社員の前であって、
賢一たち上司の前ではできる女を演じているからという理由もある
のだが。
どうやらスーザンは彼女が仕上げる書類を待って次のステップに
移りたいらしいが、肝心のその書類がなかなか予定通りにできてこ
ない事で苛立っているようだ。
﹁ショーコ、気をつけなさいよ﹂
﹁・・・何を?﹂
﹁ア・メ・リ・ア。彼女、ケンを狙ってるから。些細な事で蹴落
とされないようにね﹂
﹁あぁ・・・・だから、なんだ﹂
道理で時々睨まれると思った、と小さく付け足す翔子をスーザン
はジロリと見る。
51
﹁気づいてたの?﹂
﹁そりゃ・・・あれだけあからさまに睨まれたら気づくなって言
う方が無理じゃない? ただ私はてっきり新しく入ってきた新入り
に対しての敵意だと思ってたから﹂
﹁まぁアメリアの場合、それもあると思わよ? 誰に対しても、
自分より下に見たい人だから。大して仕事もできないくせにね。で
も彼女の場合は会社の中でのケンの立場をよく知っている人の娘だ
から、彼の上にドルマークが見えてるんだと思うわね﹂
ケンと結婚すればお金は使い放題、って思っているのだろうと辛
辣な言葉を言うスーザンに、翔子は思わず笑ってしまった。
それを言うなら自分も、と思ったからだ。
今自分が彼の隣にいるのは彼がお金を持っているから、なのだか
ら、翔子としてもあまり彼女の事を笑えない立場なのだ。
﹁もしかしたら本当にボスの事が好きなのかもしれないわよ?﹂
ひとっこと
﹁ないない。だったらボスを気遣う言葉1つくらい言うでしょ?
彼女そんな一っ言も言った事ないもの。彼女の口か出るのって、
ケンの実家がどれくらい大きな企業なのか、とか彼の背広のブラン
ドがどこか、とか、そんな話だけだものね﹂
﹁自分が勤めている会社のボスだから興味があるんじゃないの?﹂
﹁もしデートに誘われたらどこのレストランに連れて行ってもら
うんだ、なんて事言ってるのに? ないないって。誰が見たって彼
女の目にはドルマークしか見えてないから﹂
辛辣なスーザンの言葉に翔子は苦笑いを浮かべながらも引き出し
からバッグを取り出した。
あと30分ほどで終業時間になるからだ。今日は定時で上がると
言ってあるので、急がないと愛莉の迎えが遅れてしまう。
﹁ま、ほら、そろそろ行きなさい。じゃないと書類の束を抱えて
やってくるわよ﹂
﹁判った。まずはボスの所に行ってから、それから帰るわね﹂
﹁オッケー、ボスの所に行くのね。じゃあ、また来週ね∼﹂
52
ボス
ヒラヒラと手を振るスーザンはみんなに聞こえるように大きめの
声で、翔子がこれから賢一の所に行くのだと牽制をかけてくれる。
それを聞いてまで翔子の所に仕事を押し付けにやってくるものは
いないだろう、と思っての事だ。
それが判っているから、翔子は小声でありがとうとお礼を言って
からバッグを手に部屋を出て行った。
53
5.︵後書き︶
読んでくださって、本当にありがとうございました。
54
6.︵前書き︶
ブクマ登録、ストーリー評価、文章評価、本当にありがとうござ
います。
﹃﹄は日本語、﹁﹂は英語です。
55
6.
家の前の道路の定位置に車を停めて、翔子は車のエンジンを切る。
褪せたゲレーのその車は、母がアメリカに来た時からのっ亭た古
いものだ。買った当時すでに中古だったその車は今では20年前の
モデルだが、それでも問題なく走ってくれる。
翔子たちがアメリカに移ってしばらくした頃、テレビのニュース
で同型の車を1万マイル乗り続けたという人が話題になっていた。
ブレーキやトランスミッションは交換したもののエンジンは当時
のままで、それだけの距離を走っても大丈夫なエンジンという事を
証明してくれたから、という理由でその車のメーカーがその年の新
車をプレゼントした、とニュースになったのだ。まぁ車のオーナー
はもらった新車を車庫に閉まったまま、古い愛車を乗り回していた
ようだが。
翔子の母親の啓子は、私の見立ては間違ってなかったでしょう、
と凄く自慢そうに言っていた事を何かにつけ思い出す。
生きていれば今もこの車を乗り回していた事だろう。
ふとそんな事を思い出しながら翔子は助手席においてあったバッ
グを手を伸ばした。
表は道路にすぐ面しているせいで壁と階段しかないが、裏には猫
の額ほどの広さの庭がある。
とはいえ北側なのであまり日も当たらないから日陰でも大丈夫な
ホスタ程度しか植えていない。
翔子はバッグを手に車から降り、ロックしてから家に向かわずそ
のまま左隣の家に向かった。
呼び鈴を押すとすぐにグェンが出てきた。
﹁おかえり、ショーコ﹂
﹁ただいま、グェン。ちゃんと予定通り帰ってきたでしょ?﹂
56
﹁えらいえらい。もしかしたらまた仕事で遅くなるかもしれない
って思ってたのよ﹂
グェンにとって翔子はいつまでもティーンエイジャーなんだろう、
彼女は翔子の頭をポンポンと撫でてから中に入れてくれる。
﹁愛莉はどうしてました?﹂
うたたね
﹁あぁ、アイリーンはいい子だったわよ。いつものようにカウチ
いざな
で転寝もしてたけど、ちゃんと勉強もしてたしね﹂
ニコニコと中に誘うグェンは、そのまま翔子を愛莉が待っている
リビングの前まで案内すると、そのままキッチンの方へ行ってしま
った。
おそらく翔子のために何か飲み物を用意するつもりなのだろう。
リビングに入ると、そこにはカウチの上でゴロゴロしている愛莉
がいた。
彼女は翔子を見た途端、カウチに座り隣をポンポンと叩く。
﹁ハイ、愛莉。いい子にしてた?﹂
﹃お姉ちゃんっ、本当に早かったんだ﹄
﹃なによ、その言い方。ちゃんと約束したでしょう?﹄
﹃うん、でも、ほら、仕事があるじゃない? だからもしかした
ら遅いかなって﹄ あんまり期待していなかった、と舌を出しながら言う愛莉の頭を
軽くポカリと叩いてから、翔子は彼女の隣に腰を下ろした。
﹃さっきね、ジョーも帰ってきたの。私がお姉ちゃんと一緒に晩
御飯食べに行くって言ったら、一緒に来たいって言ったんだけどか
まわない?﹄
﹃そりゃいいけど・・・でもグェンが晩御飯用意しているんじゃ
ないの?﹄
﹃ううん、グェンおばちゃんは今日はベンの帰りが遅いから、ジ
ョーと一緒に晩御飯に行くつもりだったから作ってないんだって言
ってた﹄
﹃じゃあ、グェンも一緒にって事?﹄
57
﹃うん、そう﹄
ベンは大学生で、今の愛莉の話だとおそらくバイトで帰りが遅い
のだろう、と翔子は思った。
翔子が残業のある時は、グェンが愛莉の分の夕食も作ってくれて
食べさせてくれるのだ。それなら今夜は翔子がグェンに夕食を連れ
て行ってもいいだろう。
ジョーも愛莉の事を妹のように可愛がってくれる。実際、実の妹
のサマンサより可愛いなどと言って兄妹ゲンカが何度か勃発してい
るのだ。 そしてそんな妹のサマンサ︵サムはサマンサの愛称︶は、自分の
娘のように愛莉を可愛がってくれている。
サマンサは21の時に結婚して今では2歳の娘がいるのだが、し
ょっちゅうグェンのところに戻ってきては愛莉を構ってくれる。
﹃じゃあ、ジョーとグェンを誘って4人で一緒に晩御飯に行こう
か?﹄
﹃うんっっ﹄
翔子の返事に気を良くした愛莉はそのままの勢いで立ち上がりか
けたが、翔子はそんな彼女に手を伸ばして止める。
﹃落ち着いて。グェンもジョーも逃げないんだから。それよりこ
こでバタバタはしゃいで発作が起きたら晩御飯に行けないわよ?﹄
﹃うん・・・判った﹄
翔子にそう言われ、愛莉は大きく1つ深呼吸をするとゆっくりと
カウチから立ち上がった。
シッシー
それからゆっくりとキッチンに向かう。
﹁グェン、お姉ちゃんがいいって。みんなで晩御飯を食べに行き
ましょうって﹂
﹁あらあら、無理言ったんじゃないの?﹂
﹁そんな事ないもん﹂
プンっとむくれているだろう愛莉の声に思わず吹き出しながら、
翔子はキッチンで交わされている2人の会話を聞く。
58
﹁ちゃんといいか、って聞いたもん﹂
﹁アイリーンはいい子ね。ちゃんと聞けたんだ。じゃあ、ジョー
にも教えてあげてくれる? きっと返事を待ってると思うから﹂
﹁判ったっっ﹂
﹁ちゃんと階段は歩いて上がるのよ。走って階段を踏み外して落
ちちゃったら、晩御飯食べに行けなくなるからね﹂
﹁はぁい﹂
そのまま愛莉が階段を1段ずつゆっくりと上がっていく音を聞い
ていると、お茶の乗ったお盆を持ったグェンが入ってきた。
﹁ありがとう。別に気を使ってくれなくても良かったのに﹂
﹁私も丁度飲みたかったからいいのよ。それに、このまますぐに
食事にでかけるんでしょ?﹂
﹁そうね・・・その方が混まなくていいかな?﹂
今日は水曜日で平日なのだが、それでも夕食時間となると混むか
もしれない。
そう考えて翔子はグェンに頷いた。
﹁でも良かったの? 私たちの事は気にしなくても良かったのよ
?﹂
﹁ううん、久しぶりに一緒に外食もいいかな、って思ったの。ほ
ら、私が学生の頃はたまに一緒に行ったじゃない﹂
﹁そうね・・・でもジョーが働き出して、サムが結婚してからは
行く機会が減っちゃったわね。まぁそれも仕方ないんだけどね﹂
お盆をコーヒーテーブルに置いて、グェンは先ほどまで愛莉が座
っていた場所に座ると、そのまま手を伸ばして自分と翔子の前にマ
グカップを置いた。
中身はグェンが愛用しているハーブティーだ。
スウィートナー
翔子はそれをそのまま飲むが、グェンは自分のカップに2袋分の
甘味料を入れている。
上から聞こえてくるくぐもった話し声をBGMにして、翔子とグ
ェンはしばらく黙ってお茶を飲んだ。
59
﹁ねぇ・・ショーコ﹂
﹁何?﹂
﹁多分アイリーンの事だから言ってないと思うけど・・・・あの
子、昨日発作ってほどじゃないけど調子が悪くなったのよ。すぐに
薬を飲ませて休ませたら、2時間ほどで顔色も良くなったんだけど・
・・﹂
﹁そんな事・・・﹂
聞いてない、と翔子は口の中で呟いた。
昨日仕事が少し遅くなって迎えに来た時には愛莉はすでに夕食も
済ませており、翔子の手を引っ張ってすぐに家に帰ったのだ。
今思うとあの時翔子の手を引いてまで家に帰ったのは、グェンの
口から具合が悪かった事を言われたくなかったからだろう。
﹁アイリーンが大丈夫って言うから病院に連れて行かなかったの。
病院は明日どうせ行くから、って言われちゃったし・・・すぐに調
子も良くなったみたいだったから・・・﹂
﹁グェン・・・﹂
﹁やっぱり・・・連れていった方が良かったかしら?﹂
﹁ううん・・・気にしないで。あの子、ああ見えてすごく頑固で
しょ? きっとグェンが連れて行くっていっても足を踏ん張ってで
も行かなかったと思うから﹂
済まなさそうなグェンに頭を振ってみせると、彼女はホッとした
ように小さく息を吐いた。
おそらく気になっていたのだろう、と翔子は申し訳なさでいっぱ
いになる。
もともと善意で愛莉の面倒を見てくれているのだ。
翔子も当初は愛莉を見てもらっているのだから、と僅かながらも
お金を払おうとしたのだが、隣なんだから気にするなといって受け
取って貰えなかった。
だから時々翔子はテイクアウトの料理を持って帰ったり、休みの
日に愛莉と一緒にサマンサの子供のベビーシッターを買って出たり
60
したのだ。
﹁そんなに気にしないで。私、本当にグェンには感謝しているん
だから。もしグェンがいなかったら、どうすればいいのか困ったと
思うもの﹂
両親が亡くなった時、大学はあと半年というところだったからと
りあえず卒業しなければと思っていた。
それでも家に愛莉を1人だけで置いておくわけにもいかなかった。
その上仕事を見つけたら、その間愛莉の面倒を見てくれる人も探
さなくてはならなかった。
しかし大卒の貰える収入などたかがしれていて、いくら両親の生
命保険金があったとしてもいつまでも人を雇う事は出来なかっただ
ろう。
というより、そのお金がなかったら翔子は愛莉を病院に連れて行
く事すら出来なかったかもしれないのだ。
そんな状態でいた翔子に手を差し伸べてくれたのはグェンただ1
人だった。
﹁バーバラがここに家を持っていてくれてよかった。グェンがお
隣でよかった。ドナルド父さんがここに戻ってくる事にしてくれて
よかった。私、本当にそう思っているのよ﹂
﹁ショーコ・・・﹂
﹁だから、気にしないで。グェンはできる事をしてくれてるじゃ
ない。それだけで十分よ﹂
そっと伸びてきたグェンの手をとって、そのまま翔子は彼女を抱
きしめる。
いつもならグェンが翔子を慰めるために抱きしめてくれるのだが、
今日は立場が逆だ。
けれど、たまにはこんな風に感謝の気持ちを込めて彼女を抱きし
めるのもいいものだ、と思う。
2人はそのまま2階から愛莉とジョーが降りてくるまで黙って抱
き合っていた。
61
62
6.︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
63
7.︵前書き︶
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います。
64
7.
夕食は楽しかった。
ジョーと愛莉が決めた場所は、たまに行くステーキハウスだった。
どうやらジョーに晩御飯の事を話すために2階にあがった時に2人
で話し合ったようだ。
そこはメインの料理を選んで、残りはサラダバーへ取りに行く形
式のレストランだった。
サラダバーと言っても、そこにあるのはサラダだけではなく、ス
ープから始まって様々なサイドメニューが並んでいる上にデザート
も豊富に並んでいる店で、少量でもいろいろ食べたい愛莉にもがっ
つり肉が食べたいジョーにも都合のいいレストランだった。
お腹いっぱいになって、4人はジョーが運転する車で帰る。
ジョーはグェンと翔子にお酒を飲めばいい、と言ってくれたのだ
が明日の事を考えると翔子はとてもではないが飲む気にならず、グ
ェンもいらないと言って誰も飲まなかった。
﹁ショーコ、ごちそうさま﹂
﹁本当はもっといいところに連れて行ってあげたいんだけど・・・
﹂
﹁あそこで十分よ。みんなが楽しんで食べれる場所が一番でしょ
?﹂
﹁うん・・・そうね﹂
自分が払うと言ったジョーを押し切って、愛莉の面倒を見てもら
っているお礼だと言って翔子は夕食を全員分支払った。
グェンもジョーも遠慮したのだが、そこは翔子が強引に押し切っ
た。
2人も翔子が愛莉の面倒を見てもらっている事を気にしている事
を知っていたので、渋々ながらも翔子に支払わせてくれた。
65
﹁またこんな風にみんなで食事に行きたいわね、グェン﹂
﹁そうねぇ・・・今度はサムやベンも誘いましょうか。大勢で食
べるとまた楽しいわよ﹂
﹁考えておくわ﹂
ツンと澄ましてグェンに答えると、運転席からぷっと吹き出す音
が聞こえた。
﹁・・ジョー﹂
﹁いや、だってさ・・・ごめん﹂
耳聡く聞きつけた翔子が咎めるように名前を呼ぶと、ジョーは笑
いながら謝ってくる。
﹁考えるって言っても、どうせサムとベンがいたら声をかけるだ
ろ?﹂
﹁そりゃ・・・・﹂
﹁だから笑ったんだよ。ショーコはなんだかんだ言って2人には
甘いからね。絶対に一緒に行くって言われたら断れないよ﹂
17歳の時からの付き合いなのだ。年上のジョーと違ってサムと
ベンは翔子にとってはお隣さん、というよりも弟妹のようなものだ。
そんな2人が一緒に行きたいと言えば、ジョーの言う通り断らない
だろう。
それが判っていてジョーに反論できない自分が悔しくて、そのま
まの感情で恨めしい目で彼を睨んでしまうのは仕方ないだろう。
そんな翔子をミラー越しに見ながら笑うジョーを無視して、翔子
はグェンに体を向ける。
愛莉は彼女の希望で助手席に座っているのだが、どうやらお腹が
いっぱいで眠ってしまったようで、今も頭がこくりこくりと動いて
いるのがヘッドレスト越しに見える。
そんな愛莉をちらりと見てから、翔子はふと思い出した事を口に
した。
﹁そういえばベンは今日はバイト?﹂
﹁そう。来週末はホーム・カミングだから、今のうちにシフトに
66
入っておくんだって﹂
﹁なるほどね。今しっかり働いておけば、来週末休みを入れても
文句を言われないって?﹂
﹁そうみたい。まぁ、ちゃんと授業も出ているんだから、私とし
ては文句はないわ﹂
ベンは近くの大学に通っていて、予定ではあと1年半で卒業だ。
アメリカの大学は入れても卒業は難しいと言われているが、その通
りだと翔子は思う。大学によっては入学時の半数しか卒業できない
というところもあるようだ。
それでも真面目に大学に通って単位をとっているベンは、きちん
と予定通り卒業できるようだ。
そんな話をしているうちに、どうやら車はグェンの家の前に着い
たようだ。
﹁ほら、着いたよ。母さんは先に家に戻っていればいいよ。俺は
ショーコを手伝ってアイリーンを運ぶから﹂
﹁えっ? いいわよ、大丈夫。私が連れて行くわ﹂
﹁無理しなくてもいいよ。アイリーンも結構大きくなったからシ
ョーコの手には余るだろ?﹂
﹁そりゃ・・・・﹂
心臓を患っていて他の子供よりも体が小さいとはいえ、11歳の
子供を抱いて帰るのは大変だ。愛莉の部屋は1階の両親が使ってい
た部屋にしてあるが、それでもドアを開けるという事を考えると手
伝ってもらう方が楽なのは確かだ。
それでも申し訳ないという気持ちが先に立ってしまう。
そんな翔子の気持ちを察したのか、さっさと車のドアを開けなが
らグェンがポンと翔子の腕を叩いた。
﹁遠慮しないでいいのよ、ショーコ。今夜の食事のお礼だって思
ってジョーはこき使っていいから﹂
﹁なんか酷い言われ方だな。でもま、そうだよ。お礼させてほし
いな﹂
67
﹁えっと・・・じゃあ﹂
﹁どうしても気になるんだったら、コーヒーでも1杯ごちそうし
てやって。それで運び賃はタダ、って事でいいんじゃない?﹂
﹁それなら・・・﹂
愛莉をベッドまで運んでもらうお礼にコーヒーを飲ませるくらい
はなんでもない。
そう思った翔子が小さく頷くと、ジョーは翔子が車から降りる前
に降りて助手席のドアを開けるために移動する。
﹁じゃあ、私は帰るわね。次は来週の月曜日からって言ってたけ
ど、もし手が必要ならいつでも言ってね﹂
﹁ありがとうございます。多分大丈夫だと思うけど、もしもの時
はお願いすると思うわ﹂
﹁お茶を飲みに来るだけでもいいわよ。日曜日にはサムが子供と
一緒にくると思うけど、それ以外は私1人だから﹂
毎週日曜日に礼拝に行く前に、サマンサは子供と夫を連れてやっ
てくる。そしてグェンをピックアップして教会に連れて行くのだ。
﹁そうね・・・愛莉がいいと言ったら愛莉と一緒にクッキーを焼
いてお茶をご馳走になりに行くわ﹂
﹁あら。楽しみね﹂
﹁焦げ焦げのはよけて、食べれそうなのだけ持って行くから安心
して﹂
一度真っ黒になったクッキーを勝手にグェンのところに持って行
った事を思い出して翔子がそう言うと、彼女もそれを覚えていたの
か声を出して笑った。
﹁あれはあれで嬉しかったわよ? だってアイリーンが初めて焼
いたクッキーだったんだもの﹂
﹁でももっといい状態のクッキーもあったのに、まさかあれを持
って行くなんて思いもしなかったわ﹂
﹁アイリーンにとってはどれも自分が初めて焼いたクッキーだっ
たのよ。きっと焦げてた事なんて考えなかったと思うわ﹂
68
クスクスと笑うグェンにさよならを言ってから、すでに家のドア
の前で待っていたジョーのところに早足で鍵を片手に近寄る。
﹁そんなに慌てなくてもいいよ。アイリーンはぐっすり寝てるか
ら﹂
﹁でも、重いでしょ?﹂
﹁そんな事ないよ。軽いもんさ﹂
薄暗い街灯で照らし出された鍵穴に鍵を差し込んでドアを開けて、
すぐにドアの横にあるライトをつけた。
それからジョーを招き入れてドアを閉めて鍵をかける。
この辺りはそれほど治安は悪くないのだが、それでも用心は必要
だ。
鍵を閉めている間にジョーはさっさとアイリーンを彼女の部屋へ
と連れて行った。
昔から何度も来ているだけあって、翔子の家の事をよく知ってい
る。
そんなジョーの後ろ姿を見送ってからキッチンに移動した翔子は、
冷凍庫の中からすでに挽かれているコーヒー豆を取り出してコーヒ
ーメーカーをセットした。
コポコポとコーヒーが入る音がし始めた頃、ジョーがキッチンに
やってきた。
﹁コーヒーのいい匂いがアイリーンの部屋にまで漂ってきてたよ﹂
﹁ちゃんと寝てる?﹂
﹁ああ、グッスリだよ。ベッドに下ろしても身じろぎもしなかっ
たくらい﹂
﹁はしゃぎすぎて疲れちゃったのね、きっと﹂
ジョーはキッチンのカウンターに置かれているストールに座ると、
カウンターに肘をついてそこに顎を乗せて翔子がコーヒーを淹れる
のを見ていた。
﹁向こうに座っててもいいわよ、持って行くから﹂
﹁いや、いいよ、ここで﹂
69
﹁そぉ? クッキーでも出しましょうか?﹂
﹁アイリーン製の真っ黒クッキー?﹂
﹁それはまだできてないわ﹂
﹁残念だ。母さんの言う真っ黒クッキーを味わってみたかったん
だけどな﹂
クスクス笑うジョーにつられて、翔子も思わずぷっと吹き出した。
﹁なぁに、グェンとの話を聞いてたのね﹂
﹁そりゃあんな大きな声で話してたら聞こえてるさ。あいにく本
人はグッスリ寝てて聞いてなかったみたいだけどね﹂
﹁そうね、聞いていたらきっと盛大に文句と言い訳を言ってたと
思うわ﹂
はい、とコーヒーの入ったマグカップをジョーの前に置くと、翔
子はカウンターの向こうで立ったまま自分のマグカップを手に取る。
﹁美味いな﹂
﹁そう? ありがと﹂
﹁ショーコが淹れてくれるコーヒーはいつだって美味いよ。母さ
んより上手だ﹂
﹁そりゃグェンはお茶専門だもの。私はどちらかというとコーヒ
ーの方が好きだから、じゃないのかしら?﹂
グェンの家にもコーヒーメーカーはあるが、彼女が使っているの
を翔子は見たことがない。
いつも翔子に出してくれるのはハーブティーだけだからだ。
﹁ああ、それもあるかもな。母さんが淹れると薄過ぎるか苦いか
だからなぁ・・・ってか、あそこまで渋いコーヒーを淹れられるの
も一種の才能かもしれない﹂
﹁酷い事いうのね。告げ口しちゃうわよ?﹂
﹁それは困るな。そんな事されたら、帰ってもご飯がないって日
が続きそうだ﹂
銀行で働くジョーは早番と遅番があって、遅番の時は帰りが9時
をすぎるのでいつもグェンは彼のために夕飯を冷蔵庫に入れておい
70
てくれる。
その事を知っているから、翔子も軽口を叩けるのだ。
﹁そんな事はないと思うけど? ちゃんと真面目に働いている息
子を飢えさせる訳ないでしょ﹂
﹁多分ね。けど、ショーコも覚えているだろ、俺が大学に入った
ばかりの時の事﹂
﹁・・・あぁ、あれ、ね﹂
いつだって子供の事を考えているグェンが仕事で遅くなる息子の
ために食事を用意しない訳がない、と翔子は思ってからかっていた
のだがジョーの言葉で1つだけエピソードを思い出した。
﹁でも、あれは仕方ないわよ。確か3日くらいご飯がなかったん
だっけ?﹂
﹁・・・5日間。あれはマジで辛かった﹂
﹁そんなに長かったかしら? まぁいい薬になったって事ね﹂
ジョーが大学に入学した最初のクリスマスの事だ。大学の講義の
合間にバイトをしていたジョーは、バイト代もあった事でクリスマ
ス・ディナーのためにシャンパンを買ったのだ。
クリスマスだし自分は大学生だから、まだ成人年齢になっていな
くても飲んでも構わないだろうと考えたのだが、もちろんグェンは
それを許さなかった。
結局普段通りのアルコール無しのクリスマス・ディナーになった
のだが、その夜こっそりと部屋にサマンサとベンを呼んでシャンパ
ンを飲んだのだ。
サマンサはグラスに半分くらい飲んであっという間に寝入ってし
まったが、残りともう1本をジョーはベンと一緒に飲んだ。
初めて飲むお酒という事もあり、ベンは加減が判らずグイグイと
飲んでしまい、ジョーが気付いた時には体を震わせて苦しそうに唸
っていた。
慌てたベンはグェンを起こして事情を説明して、すぐに彼女は救
急車を呼んですぐに病院に搬送した。
71
もちろん、病状は急性アルコール中毒だ。
ベンが無事に家に戻った時、グェンはとても大きなカミナリをジ
ョーに落とした。
その時彼女がやったのが、5日間ジョーには家で食事を作らない、
という事だった。食べ盛りのジョーにとって家に帰っても何も食べ
るものがない、という事は結構堪えたようだ。そして何より母親を
大事に思っている彼にとって母の手作りご飯は別格なのだ。
今もその時の事を思い出しているのか少し渋い表情を浮かべてい
る。
﹁もちろん、あれから二度とベンにもサムにも飲ませていない。
とっくに成人している2人が勝手に飲む分には俺には責任はないか
らな﹂
﹁そりゃ当たり前でしょ? 何もなかったから良かったものの、
急性アルコール中毒で死んじゃう人もいるんだからグェンは怒って
当然﹂
次の日に事の顛末をうちにやってきていたグェンから両親と一緒
に聞いた翔子は、苦笑いを浮かべる両親の隣で呆れていたものだ。
まだアメリカにやってきたばかりで言葉もままならなかったのだ
が、それでもなんとか母親が時々解説を入れてくれたおかげでなん
とか理解する事ができた。
﹁だから、母さんに言わないでくれよ﹂
﹁・・・・仕方ないわね﹂
﹁ありがとう﹂
目の前で頭を下げるジョーに渋々といった風を装って﹁仕方ない﹂
というのは、今では恒例行事のようなものだ。お互いそれが冗談の
やりとりだと判っているから、顔をあげたジョーも腕を組んで彼を
見ている翔子も2人とも笑っている。
﹁じゃあ、そろそろ帰るよ。ショーコたちは明日早いんだろ?﹂
﹁うん、7時には出るつもり。もう少し遅くてもいいんだけど、
そうなると朝のラッシュに巻き込まれて車に乗ってる時間が長くな
72
っちゃうから﹂
﹁気をつけて行ってこいよ﹂
﹁ありがとう﹂
立ち上がるジョーについて玄関に向かい、そのまま翔子はドアの
ところでジョーを見送る。
﹁おやすみ﹂
﹁おやすみなさい﹂
ジョーは少しかがんで翔子の頬にキスをしてから、軽く手を振っ
て帰っていく。
翔子はそんなジョーが隣の家の玄関を開けるまで見送った。
73
7.︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
74
8. ︵前書き︶
ブクマ登録、ストーリー評価、文章評価、本当にありがとうござ
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﹃﹄は日本語、﹁﹂は英語です。
75
8. いつものように愛莉を担当のナースに預けて検査に向かわせると、
翔子はそのまま2階にあるカフェテリアにやってきた。
カフェテリアと言っても店内はコンビニ仕様で全てセルフサービ
スとなっている。
ドリンクは壁側に並んでいるマシーンから好きなものを自分でカ
ップに入れてそれをレジに持って行き、食べ物はサラダバーのよう
なところで適当に自分で皿に持ってレジに持っていくと秤に乗せて
金額を決めるようになっている。
今日検査がある愛莉は12時間絶食しなければならなかったので
彼女は食べていないが、翔子は今朝愛莉が起きてくる前に簡単な朝
ごはんを食べた。
スウィートナー
今は飲み物だけが欲しいなと思った翔子は、600mlのコーヒ
ーカップを手に取ると甘味料のパックを1つとってカップにいれる。
それからコーヒーをカップ8分目くらいまで入れると、隣にあるミ
ルク・マシーンに行く。そこで少し悩んでからハーフ・アンド・ハ
ーフとヘーゼルナッツ・フレーバーのクリームを入れた。
ジョーに﹁ブラック・コーヒー以外はお子様用のフレーバー・コ
ーヒーだ﹂とからかわれた事もあるが翔子にはブラックは苦すぎる。
それに同僚のスーザンに比べればマシな方だと思っている。
なんせ彼女はコーヒー1杯につきスプーン5杯分の砂糖を入れる
のだから。それも今翔子が飲んでいるのより1サイズ小さいカップ
を使って、だ。
コーヒーを手にレジでお金を払ってから、翔子はカフェの中を見
回して窓際の空いている席に座った。
窓はスモークガラスになっているから日差しはそれほど強くない。
それでも10月の南カリフォルニアはそれなりに暑い。
76
スウィートナー
コーヒーの蓋をとって、翔子はフーッと息を吹きかけてから一口
飲んだ。
いつもなら甘味料は2つ入れるのだが、今日はヘーゼルナッツフ
レーバーのクリームを入れたので1つだけでも十分甘い。
その甘さにホッと小さく溜め息をついてから、翔子はスマフォを
取り出して操作するとニュースアプリをタップする。
ニュースのアプリは英語と日本語の両方のものを幾つかダウンロ
ードしてあり、こうやって時間がある時に使っている。
ゲームも幾つかダウンロードしてあるのだが、滅多に遊ぶ事はな
い。そちらはどちらかというと愛莉のおもちゃになっている。
そういえば今日は本を持ってくるのを忘れたな、と1時間ほどス
タブロイドマガジン
マフォでニュースを読んだりしていた翔子はそれにも飽きて手持ち
無沙汰になった。
いつもなら病院にくる前にコンビニに寄って週刊誌を買ったりす
るのだが、今朝はすっかり忘れてしまっていた。
病院のショップに行けば何か買う事もできるが、もうそろそろす
ると最初の検査を終えた愛莉が戻ってくる頃だ。彼女が来た時にい
ないとナースが困るだろう。
それに彼女が帰ってきたら、一度病院をでてランチに連れて行く
と約束している。
ならば近くの雑誌のラックから何かを探そうか、と思ってラック
がある方を振り返ろうとした時視線を感じてラックとは反対方向に
ある出入り口の方を振り返った。
振り返った先には入り口から入ってすぐのところに立っている男
と目が合った。
どこか睨みつけるような険しい視線を向けてくる男の顔を凝視す
るが全く知らない男で、どうして自分があんな目で見られるのか翔
子にはまったく見当もつかない。
﹃どこかで会ったっけ・・・﹄
なんとなく会ったような気もするが、どこであったのかさえも記
77
憶にない。
そんな翔子とは対照的に男は翔子の方を凝視したままだったが、
彼女はそのまま軽く肩をすくめると男に対しての興味を無くす。
そして男から視線を外すとそのままつい先ほどまで思っていた雑
誌のラックに向かう。
あまり大した雑誌はないようで、それならと今朝の新聞を手に取
った。
新聞は取っていないのでいつもはテレビのニュースを見るだけな
のだが、たまにはこうやって活字を読むのもいいだろう。
適当に地元に新聞を手に取って、翔子はそのまままた先ほどまで
座ってた席にもどると、自分以外誰もいないテーブルの上に持って
きた新聞を広げる。
相変わらず世間のトップニュースは政治の事のようだ。
まぁこの辺はテレビも新聞も同じのようだ。つまり大した出来事
が起きてないという事なのだろう。
そんな事を思いながら新聞のページをめくろうとした翔子の前に
誰かが座った。
ガタン、キィッ、と椅子を引いた音がしたので顔をあげると、そ
こにはつい先ほどまで翔子を睨みつけていた男が座っていた。
周囲を見回すが、カフェテリアは3割ほどしかテーブルは埋まっ
ていない。
つまり、目の前の男は翔子と相席する必要はない、という事だ。
それなのに彼女の前に座ったという事は、席がない、というわけ
でないという事になる。
こんな睨みつけるようにして翔子を見るのならナンパという事は
ないだろうが、それでもこんな知らない男と関わりになりたくない
翔子は、また視線を新聞に移して先ほどまで読みかけていた記事の
続きを読み始める。
そんな翔子の態度が気に入らなかったのか、男は指先で苛立たし
げにテーブルを叩きながら新聞の上にもう片方の手を置くと、低い
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唸るような声で問いかけてきた。
﹁ここで何をしている?﹂
﹁・・・何を、って。待っているんですけど?﹂
﹁俺をか?﹂
バカにするように鼻で笑う男に視線を向けると、その顔にはどこ
か侮蔑の笑みが浮かんでいる。
﹃はぁ? なんで私が﹄
こいつ、バカなんじゃない? と思いながらも問うように顔を見
るが、どうやら本気で言っているようだ。
﹁なぜ私があなたを待たなけれないけないんですか?﹂
﹁違うのか? あの晩だってあそこまで俺を追いかけてきたくせ
に﹂
﹁・・・・あの晩?﹂
あの晩、と言われても翔子には全く心当たりがない。
﹁あの晩、噴水のところまで追いかけてきただろう? 俺がせっ
かく人のいないところで一息ついていたっていうのにわざわざ追い
かけてこられて迷惑したんだ﹂
﹁・・・・噴水? ・・・あの晩?﹂
﹁白々しいんだよ。俺がパーティーから抜け出したのを見て、す
ぐに追いかけてきたくせに﹂
﹁・・・パーティー・・・噴水・・・ぁあああっ、あの時の嫌な
男﹂
思わず指差して大きな声を出してしまい、翔子は慌てて口を手で
押さえた。
賢一に連れて行かれたパーティーの事だ、とここに来てようやく
気付いた。
人混みに酔って疲れたので少し涼もうと思って、パーティー会場
のテラスから庭にある噴水まで散歩がてら歩いていて出会った尊大
な男だ。
あの時は薄暗くてなんとなくしか判らなかった男の顔が、日中の
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明かりの下とてもよく見える。そして街灯だけだったので黒か焦げ
茶か判らなかった髪の色も今なら焦げ茶だと判るし、茶色っぽいと
思っていた瞳もヘーゼルグリーンだという事が判る。
あのパーティーの夜はフォーマルなスーツを着ていたが、今はプ
ライベートなのか薄いカーキ色のスラックスに焦げ茶のポロシャツ
を着ている。
そんなカジュアルな格好であるのに、その物言いはあの晩同様尊
大で鼻持ちならない。
﹁まさかプライベートな時間にまで追いかけてくるような女がい
るとは思わなかった﹂
﹁・・・だから、どうして私があなたを追いかけてここに来てい
るって思うんですか?﹂
﹁違わないだろう? それ以外お前のような女が病院に来る理由
なんてないだろう﹂
﹁バカみたいに高いプライドをへし折るようで申し訳ないですけ
ど、あなたの事なんてたった今話しかけられるまですっかり忘れて
ました。あなたが声をかけてくるまで記憶にも残っていなかったし、
あなたが誰なのか知らないからどうしてそんなに自信満々に私があ
なたを追いかけていると思えるのか全く見当もつかないですね﹂
肩を竦めて見返す翔子の瞳は全く媚びるような色も浮かんでおら
ず、それを見た男は器用に片方の眉を上げて見返す。
﹁それより、用件はそれだけですか? だったら別の席を探して
ください。私は今新聞を読むのに忙しいんです﹂
﹁そうやって素気ないフリをして男の気を惹くのか?﹂
﹁そんなつもりないですよ。あなたが期待しているようなポーズ
じゃないです﹂
﹁そんな事判らないだろう?﹂
女はいつだってそう言うんだ、と困ったもんだと言わんばかりの
口調の男に呆れるばかりだ。
﹁はぁ・・・もういいです﹂
80
﹁何がだ?﹂
﹁だから、あなたが移動してくれないんだったら、私が移動しま
す。どうせもうそろそろしたら検査に行っている妹が戻ってきます
から﹂
自意識過剰なこの男には何を言っても無駄だ、と翔子は男の手の
下にある新聞を引き寄せて軽く畳んでそのまま立ち上がる。
それから飲み干したコーヒーカップを手に取り、そのままテーブ
ルから移動する。途中にあったゴミ箱にコーヒーカップを捨てて、
少し考えてから手に持っていた新聞をラックに戻す。
それから戻ってきた愛莉が見つけやすいように出入り口付近のテ
ーブルに座った。
バッグからスマフォを出して時間を確認すると愛莉が検査のため
エックス・レイ
にナースとともに行ってからもう少しで1時間になろうとしている。
いつもの定期検診プラス血液検査にレントゲン、他に何があった
っけ、と今日の愛莉の検査の内容を考えてみるもののよく覚えてい
ない。
再来週は検査結果とこれからの事を話し合う事になっている。
おそらく手術の事だろう、と翔子は眉間にしわを寄せる。
チルドレンズ・ホスピタル
心臓の手術だ。しかも愛莉はまだ11歳でしかない。今まで定期
検診は子供病院で受けていたのだが、今回心臓の手術をする事を前
提としているので3ヶ月ほど前からここに来ている。
愛莉は顔見知りのナースがいなくて初めの頃は心細かったようだ
が、今ではこの病院のスタッフにも慣れてきたようで、翔子として
もホッとしている。
賢一との契約のお金のおかげで、手術を受ける事を前提として考
える事ができるようになった事は、翔子の不安を少しは取り除いて
くれている。
彼がもしあのお金を提供してくれなければ、愛莉には選択肢もな
かったのだから。
おかげでこの3ヶ月の間に治療法を変えてみたり、手術をしない
81
方法を考えてみたり、とドクターとともにいろいろ考える事ができ
たのだ。
それらの試行錯誤の末、やはり将来の事を考えると手術した方が
いいだろう、という事になったのだ。
とはいえすぐにすぐ手術が必要というわけでもないので、とりあ
えず少しでも手術の生存率を上げるためと術後の回復の事を考えて、
その前に愛莉の体質改善をしようという事になったのだ。
手術はこれから体質改善をするのに3ヶ月。それまでは月に2回
の定期検診と血液検査。そして春になってから手術という事になっ
ている。
春になれば愛莉も12歳になる。
愛莉にはまだ言っていないが、彼女の12歳の誕生日の次の週に
手術の予約を入れる事でドクターと事前に話した時に仮予約はいれ
てあるのだ。
それまではできるだけ安静にしながらも、病院が手配してくれる
理学療法士が家に来て体力をつけるためのエクササイズを始める事
になるだろう。
今日は愛莉とランチを食べた後、ドクターを交えて3人でその事
について話をする事になっている。
手術やエクササイズの事を愛莉がどう思うか、それだけが翔子は
不安だった。
﹃お姉ちゃんっっ﹄
不意に愛莉の声がして顔をあげると、カフェテリアの入り口で翔
子に手を振っている愛莉が目に入った。
﹃愛莉。検査は終わったの?﹄
﹃うん、やっと終わった。これでご飯が食べられるんだよね?﹄
﹃そうよ。愛莉の食べたいものを食べに行こうか?﹄
走りかけた愛莉は彼女をここに連れてきたナースに肩を叩かれて
舌を出している。
そんな彼女の元に翔子は仕方ないな、と苦笑を浮かべながら歩い
82
ていく。
﹁ちゃんといい子にしてましたか?﹂
﹁はい、アイリーンはいい子でしたよ。ねぇ?﹂
﹁うん。痛くてもちゃんと我慢した﹂
そう言いながらも顔をしかめているところを見ると、本当に痛か
ったのだろう。
翔子は愛莉を連れてきてくれたナースに頭を下げて礼を言うと、
そのまま愛莉と手を繋いでカフェテリアから出て行った。
そしてそんな彼女をじっと見送っていた男の視線には全く気付い
ていなかった。
83
8. ︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
84
9.︵前書き︶
ブクマ登録、ストーリー評価、文章評価、本当にありがとうござ
います。
﹃﹄は日本語、﹁﹂は英語です。
85
9.
﹁翔子、ちょっといいかな?﹂
﹁えっ? あ、はい、ボス。大丈夫です﹂
ノックもなしに開かれたドアから顔を出したのは大河内カンパニ
ーの専務代理である大河内賢一だった。
周囲の視線が翔子と賢一を行ったり来たりしているのを感じなが
らも、翔子は返事をするとすぐにデスクの上の書面を引き出しに入
れて鍵をかけてから立ち上がり、スーザンに視線を向けた。
﹁スーザン。ちょっと出てくるけど、何かあったら連絡してね﹂
﹁何もないと思うわよ? それにいいの?﹂
スーザンは賢一の方をチラリと見てから翔子に確認する。
﹁うん、仕事だから大丈夫よ。多分急ぎの電話はないと思うけど、
それでも念のために、ね﹂
﹁それならいいんだけど・・・判った﹂
﹁じゃあ、頼むわね﹂
ありがとう、と付け足してもう一度きちんとデスクが片付いたの
を確認してからドアのところで待つ賢一のところまで行くと、彼は
とてもすっと翔子の腰に手を回して廊下へと誘う。
その仕草がとても自然で女性慣れているな、と翔子は少し冷めた
頭で思っただけだったのが、周囲はそうは思わなかったようだ。賢
一の手が翔子の腰に回った時点で、2人がただの関係ではない事を
アピールしている事に気付いた。
﹃ちょっとやりすぎなんじゃ・・・﹄
﹃そんな事ないよ? 丁度良い加減・・?﹄
﹃はぁ・・・﹄
周囲に聞こえない程度の声で、それでも聞かれるとまずいので日
本語で賢一に声をかけるが、判ってやっている事だと気づくと思わ
86
ず溜め息が漏れた。
賢一がドアを閉めたとたん、部屋の中でどよめきが起きたように
感じたが、気のせいだと自分に言い聞かせながら翔子は彼について
専務代理の部屋に入る。
﹃それで、どうだった?﹄
﹃どう、って?﹄
﹃先々週のパーティーだよ。なかなか堂々としていたから大丈夫
だと思ったんだけど?﹄
翔子が部屋に入るなり賢一は席を進める事もなくいきなり聞いて
きた。
聞かれて気づいたが、そういえばあのパーティーの夜以来、仕事
が忙しい賢一とこうやって個人的に話をする機会はなかった。
﹃そう・・・ですね。あの視線にはすぐには慣れないと思います
が・・・でも多分、なんとかやっていけると思います﹄
﹃そっか、よかった。あぁ、座って座って﹄
賢一は今気づいたと言わんばかりに翔子にソファーを勧め、自分
はデスクの向こうのいつもの椅子に腰を下ろす。
﹃明後日の夜もまたパーティーがあるから、大丈夫かな、って思
ったんだ﹄
﹃今度はちょっと郊外にでるんでしたよね?﹄
﹃そうそう。と言っても2時間かからないくらいだからね。ただ
渋滞に巻き込まれるとそれ以上の時間がかかるかもしれない﹄
ロスから南になんかしたところにある高級住宅エリアにある邸宅
でパーティーが行われる事になっていて、それに参加して2人が仲
睦まじいところを周囲に知らしめよう、というのが賢一の計画だ。
そこに呼ばれるのは今回は地域の著名人という事らしく、賢一の
仕事関係者はあまり招待されていないようだが、とにかく周囲に周
知するという事を目的としているらしい。
﹃あっ、そうそう。この前の店に翔子ちゃんのドレスを注文して
おいたから、また時間がある時に取りに行ってくれないかな﹄
87
﹃ドレスって・・・すでに3着作ってますよ?﹄
﹃うん、そうだね。でも最低でも10着は作ってもらわないと、
パーティーに同じドレスを着回す事になっちゃうだろ? さすがに
それはマズイからね﹄
﹃・・そうなんですか?﹄
何がどうマズイのか、翔子にはまったく見当もつかない。
﹃大河内カンパニーの跡取り息子のパートナーという形で、翔子
ちゃんをパーティーに連れて行っているんだ。そんな君が同じよう
なドレスばかり着ていると、俺がドレスの1つも与えられない男だ、
とか、大口叩いているけど会社は儲かっていないんじゃないのか、
とか、とにかく周囲が煩いんだよ。それに僕が本当はそれほど君に
ゾッコンになっていないから、君にあまりドレスを買い与えていな
いんじゃないか、なんて事も言い出すかもしれない。だから、面倒
でも数は揃えておかないとね﹄
﹃別に面倒とは・・・でも、まさか私が着るドレス程度でそんな
風に思う人は・・・﹄
﹃いるんだよ。そういうところなんだよ、社交界っていうのは。
だからまぁ、とにかく、ちゃんとドレスは引き取りに行ってもらわ
ないとね﹄
面倒くさいよねホント、と小さく溜め息をつく賢一は心底そう思
っているようだ。
﹃ま、それはいいとして・・・これからの事を少し話そうかな、
と思って呼んだんだ﹄
﹃パーティーの感想だけじゃないんですね﹄
﹃そりゃそうだよ。それだけの事だったら翔子ちゃんに電話掛け
れば済む事だよ﹄
それはその通りだ、と思わず翔子は頷いてしまった。
﹃もう11月だから、ってわけでもないんだけど、そろそろクリ
スマスや年末年始の予定を決めていかないと動けないだろう?﹄
﹃クリスマスもパーティーなんですか?﹄
88
﹃うん、といっても当日じゃなくてイヴに、ね。やっぱり当日は
家族や恋人と過ごしたいから、誘われても僕はいかないし翔子ちゃ
んだって妹ちゃんと一緒にすごしたいだろう?﹄
初めて賢一と一緒にパーティーに参加して以来、彼は翔子と妹の
事をちゃん付けで呼ぶようになった。周囲に人がいる時はそんな呼
び方はしないが2人きりの時は呼びやすいからといってそういうの
だ。
﹃それは・・・はい﹄
﹃じゃあ、問題ないね。イヴのパーティーは8時開催だから帰り
が遅くなるけど、それはまぁ我慢してもらうしかないね﹄
﹃大丈夫です﹄
﹃ま、1時間くらいで帰るつもりだから、それほど遅くならない
と思うよ﹄
契約を交わしている以上、賢一がパーティーに出ろと命令すれば
翔子には断る事はできない。
それでもできれば愛莉と一緒にクリスマスは過ごしたいと思う。
﹃イブまでに3つパーティー参加を入れてあるから﹄
﹃3つ、ですか?﹄
﹃思ったより少ない?﹄
﹃えっと・・・ええ、そうですね。もしかしたら毎週末パーティ
ーって言われるかもしれないって覚悟してました﹄
主催者は違えど、誰かしらが週末はパーティーを開いていると聞
いている。
だから賢一が翔子との仲を知らしめるためにそれら全てのパーテ
ィーに出ると言い出しても仕方ない、と覚悟していたのだ。
﹃そんなの僕が嫌だよ。今こうやって売名行為のために出ている
のでさえ面倒くさいのに﹄
﹃それを言っては身も蓋もないというか・・・﹄
﹃それに招待状を送ってきているパーティー全てが売名行為に役
に立つか、と言うとそうでもないしね。取捨択一して最低限必要な
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ものだけを選んでるんだよ﹄
確かに全てのパーティーに出席するよりは、より効果的なものだ
けに出る方が記憶に残るだろう。
それにそうする事で少しでも煩わしいパーティーの数を減らす事
もできる。
﹃ただ、申し訳ないけど大晦日の夜に行われるニュー・イヤー・
パーティーには参加しないといけないんだ。真夜中のカウントダウ
ンなんて面倒なんだけど、それでもそれに出ないわけにもいかない
からね﹄
﹃判りました。大丈夫ですよ。グェンに頼みます﹄
﹃グェン? あぁ、お隣さんだったね。じゃあ、妹ちゃんの事も
大丈夫かな?﹄
﹃多分、仕事を兼ねた接待の手伝いをしなくてはいけない、と言
えば多少は文句もいうと思いますけど、それでも我慢してくれると
思います﹄
﹃悪いね﹄
賢一は心底申し訳なさそうな顔で、小さく翔子に頭を下げた。
それを見て思わず驚いて目を見開くが、それについては何も言わ
ずに小さく頭を横に振る。
﹃気にしないでください。私の仕事、なんですよね、それ?﹄
﹃うん、まぁ・・・契約のうちというか﹄
﹃じゃあ、謝る必要ないです。専務代理は既に色々と便宜を図っ
てくれてますから、本当にありがたいと思っているんです。クリス
マスだって私が妹と過ごす時間をとってくれてるし。だから、気に
しないで予定を言ってくれれば、その通りに動きます﹄
賢一は翔子に心臓が悪い妹がいる事を知っている。
だからそれを鑑みて、翔子に負担がかからないようにパーティー
参加も調整してくれているのだろう。
それが判っているから、彼女としても文句をつける事はない。
むしろもっと強引に命令してきてもおかしくないのだ。彼はそれ
90
だけの金額を翔子に志原ってくれているのだから。
﹃正式に婚約を発表するのはニュー・イヤー・パーティーの日に
決めたよ。カウントダウンを終えてシャンパン片手に盛り上がって
いる時に発表しようと思ってる﹄
﹃・・・そうですか﹄
﹃クリスマスに翔子ちゃんにプロポーズして承諾してもらった、
っていう設定にしたいんだ﹄
クリスマスにプロポーズ、なんてベタなシチュエーション、と心
の中で呟きながら小さく頷いた。
けれどそんな翔子の考えを読んだのか、賢一は嫌そうな顔で彼女
をジロリと見る。
﹃そんな顔しないで欲しいかな。よくあるシチュエーションとか
って思っているんだろうけど、意外とそういう展開の方が受け入れ
・・
られやすいんだよ? それにタイミングもちょうどいいかなって思
ったんだよね﹄
﹃タイミング・・・ですか?﹄
﹃うん、そう。ニュー・イヤー・パーティーに彼女が来るって話
だからね﹄
﹃・・・あぁ、なるほど﹄
クリスマスに日本に戻らない事にした、と言う賢一と会うために、
わざわざその日のパーティーに参加するから、という口実で日本か
らアメリカにやって来るのだろう。
﹃大丈夫。君には手出ししないように気を配るから﹄
﹃私は別にいいんですけど・・・・愛莉に手を出したり、しませ
んよね?﹄
・・
﹃君を脅すために、って事かな? う∼ん・・・多分﹄
賢一が話してくれた彼女の事を思うと、ふと不安が頭を持ち上げ
てきた。
﹃そうだね。一応こっちでも手を打っておくよ。僕や君ならまだ
対処できるかもしれなけど、さすがに君の妹ちゃんに手を出される
91
と怖いからね﹄
﹃よろしくお願いします﹄
﹃向こうを出たら連絡が入る事になっているから、それから警戒
態勢に入れば間に合うと思う。大河内の名前を使って一応釘は刺し
ておくつもりだけど、それを気にとめるような人じゃないからねぇ・
・・﹄
﹃それだけ愛されてるって事なんじゃないんですか?﹄
﹃愛されてる?!? 冗談じゃないよ。あんな毒蛇より怖い女、
見た事ないよ。側にも来てもらいたくない﹄
ゾッとする、と言わんばかりに両手を振って訂正する賢一を見て
いると、彼女の何がそこまで彼に嫌悪を抱かせるのか、話しか聞い
ていない翔子にはよく判らない。
もうこの話は終わりだ、と言わんばかりに手を振ってから賢一は
話を戻した。
﹃あとでメールでニュー・イヤー・パーティーまでの予定を送る
よ。その時に妹ちゃんの病院の予定も送ってくれると、こっちも計
画を立てやすいから助かる﹄
﹃判りました。帰って予定を確認してから送ります﹄
﹃ありがとう。じゃあ、そういう事で頼むよ﹄
どうやら話は終わったようだ。
翔子は小さく頷いてから立ち上がると、そのまま専務代理室から
出て行った。
92
9.︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
93
10. ︵前書き︶
ブクマ登録、ストーリー評価、文章評価、本当にありがとうござ
います。
﹃﹄は日本語、﹁﹂は英語です。
94
10. 愛莉の手術の日が決定した。
手術をしなくても日常生活程度ならなんとかやっていける、と言
われたもののそれは今のように行動を制限された上での話で、もし
愛莉が普通の子のような生活をしたいのであれば手術は必至だ、と
説明を受けた。
手術の成功率はそれなりにある。
それでも100%の成功率でない事が、翔子を躊躇わせていた。
結局、手術をする事に決めたのは愛莉だった。
6歳で発病するまで普通の生活を送っていたのだ。
あの頃のように元気に暮らしたい、というのが愛莉の希望だった。
それを聞いてしまえば、不安があると言っても翔子は彼女を止め
る事はできなかった。
手術は翌年の4月3日と言う事で、体力をつけるために週に3回
エクササイズを教えてくれる女性がきてくれるようになり、それ以
外の日もグェンが近所の公園に散歩に連れて行ってくれている。
とはいえ徒歩ではあまり安全ではないだろうという事で、そうい
う日は早番のジョーかバイトがないベンが車で連れて行ってくれて
いる。
身内でないのにそこまでの面倒をかける事に申し訳ないと思った
ものの、翔子は仕事の関係で家に帰るのは早くても7時前だ。
それでも自分で連れて行こうと思っていたのだが、結局グェンに
諭されて彼女たちの好意に甘える事にした。
ただ定期検査だけはなんとか仕事の方を休んで自分で連れて行っ
ている。
そうして2ヶ月ほどすぎた今日も、朝から翔子は愛莉とともに病
院にやってきていた。
95
フィジカル
﹃今日は定期検査だけじゃなくて、ここでエクササイズも済ませ
て帰るんだよね?﹄
﹃そうね。確かそんな事言ってたわね﹄
﹃・・・でも、その前にお昼ご飯、食べれるんでしょ?﹄
・セラピー
今日の予定は血液検査といつもの定期検査、それから午後に理学
療法をする事になっている。
しかし血液検査のために夕食後は絶食している愛莉としては、お
腹が空いて力が入らない時にエクササイズはしたくないので病院に
向かう車の中で確認する。
﹃もちろん。お腹ペコペコだったら、歩けって言われても歩けな
いでしょ?﹄
フィジカル・セラピー
﹃そんな事ないけど・・でも、力は入んないよ﹄
﹃そうよね。だから理学療法は午後からにしてあるわ。検査が終
わったらランチを食べに行こうね。愛莉の行きたいところに連れて
てあげるから﹄
﹃やったぁ! じゃあね、じゃあね・・・えっと・・・﹄
﹃そんなに焦らなくても大丈夫よ。検査を受けている間に考えれ
ばいいわ﹄
﹃判った﹄
繋いだ手をブンブンと振っている愛莉は本当に嬉しそうだ。
﹁アイリーン﹂
﹃あっ、ほら、迎えが来たみたいよ?﹄
﹃ホントだっ﹄
視線をあげると、受付の向こうから顔見知りのナースが愛莉の名
前を呼びながらやってくるのが見える。
﹁早かったわね﹂
﹁思ったほど道路が混んでなくって助かりました﹂
受付で名前を書いていると、ナースがカウンターの向こうで愛莉
の定期検査のための用紙を持ってくる。
﹃愛莉、ちょっと待ってね﹄
96
﹃うん﹄
翔子の手を離して、愛莉はカウンターの向こうにいるナースと話
し始める。
二人の会話を聞きながら、翔子はいつものように記入していく。
毎回同じ事を書いているので、コピーでも用意してくれればいい
のに、なんて事を思う。そうすればサインだけしてしまえばすむの
に、と機械的に記入しながら思うが、さすがに医療に関する事でそ
こまで手を抜く訳にはいかないだろう事も判っている。
﹁できました﹂
﹁はい・・・全部記入できてますね﹂
﹁いつもの事ですからね﹂
﹁じゃあ、ちょっとアイリーンをお借りしますね﹂
カウンターの向こうから出てきたナースは愛莉に手を差し伸べる
と、彼女は素直にその手をとる。
﹃ちゃんといい子にするのよ?﹄
﹃判ってるよ﹄
いつもの会話を交わしてから、ニコニコと手を振りながら迎えに
チルドレンズ・ホスピタル
来たナースと一緒に歩いていく愛莉を見送った。
子供病院であれば、保護者という事で翔子も一緒に検査について
いけるのだが、ここでは8歳以下の子供でなければ保護者がついて
いく事は許されていない。
今でこそ慣れてしまったが、最初の頃はとても不安だったものだ。
スウィートナー
その頃の事を思い出しながら、翔子はそのままいつものカフェテ
リアへと移動する。
まずはカップをとってから甘味料を1つカップに入れて、ハーフ・
アンド・ハーフとフレンチバニラフレーバーのクリームを入れた。
それからコーヒーをそのカップに注ぐ。
カップ7分目くらいまで入れてから少しだけ味見をする。
﹃ま、こんなものかな﹄
小さく頷いてからカップいっぱいにコーヒーを入れてから蓋をし
97
てレジに行って支払いをすませると、翔子はそのままいつもの窓際
の席に座る。
もうすぐクリスマスだな、なんて思いながら翔子は窓の外に視線
を移した。
この次の定期検査はクリスマス明けになる筈だ。
クリスマス・プレゼントは何にしよう?
テディー・ベアがいいだろうか?
愛莉のベッドには20近くのテディー・ベアが置かれている。
5歳の誕生日に両親からもらった茶色の大きなテディー・ベアを
貰って以来、愛莉はコレクションのように集めているのだ。それも
自分で気に入った物だけ。
気に入らない物は人にあげてしまうので、翔子はカスタム・テデ
ィー・ベアを作る事ができる店のギフト・カードがいいかな、なん
て思う。
それなら自分で気に入ったテディー・ベアを作る事ができるから
だ。
今年は仕事も休みが取れそうなので、安心してクリスマスは愛莉
と過ごす事ができそうだ。
とはいえ、その前に賢一に付き合ってパーティーに参加しなくて
はいけないが、それでもクリスマス当日は家でのんびりと過ごせる
のはありがたいと思う。
今週末は翔子一人でパーティーに出る事になっている。今回は1
時からのお茶会、というものらしく夕方にはおひらきになるのだと
聞いている。
これはどちらかというと翔子の知名度を上げるためのものだと、
賢一は説明してくれた。
呼んでくれた相手は夫人の集まりを牛耳っている人らしく、そこ
に呼ばれる事はとても名誉らしい。
まぁ、呼ばれた理由は賢一に誰かいい人を紹介するためだったら
しいから、そういう事に興味がない彼としては行く意味がなかった
98
という事もあるだろうし、ノコノコと出かけて行って女性を押し付
けられても困る、というのが理由だったようだ。
今回は翔子を周囲に見せるために行く、と言っていた。
と言っても急に仕事が入ってしまった賢一は不参加だ。
それでも相手の顔を潰す訳にはいかないから、という理由で翔子
一人で行かなければいけない。
一応パーティーを主宰するシンディー・マッケイランドとは2回
ほどパーティーで顔を合わせているので、全く知らない相手ではな
いし他の参加者も数人はすでに顔見知りらしいから、一人で困る事
はないだろうと賢一は言っていた。
それでも一人でパーティーに参加する事を思うと思わず溜め息が
出てしまうが、それでも彼の援助があるからこうやって愛莉を定期
検査に連れてこられるし手術を受けさせる事ができるのだと思うと
文句も言えない。
﹃契約婚約・・・か﹄
ニュー・イヤー・パーティーで賢一は翔子との婚約を発表すると
言っていた。
今は翔子の顔を売るためのパーティー参加らしい。
それもあって今週末のパーティー参加は必要なのだとか。
翔子が賢一と共にパーティーに出かけるようになって2ヶ月にな
る。その間に参加したパーティーは4つ。
どれも主催者が賢一の会社と懇意にしている取引先らしい。
−−その方が翔子ちゃんもやりやすいだろう?
というのが賢一の弁だ。
クリスマス・イヴのパーティーの帰りにプロポーズ、という設定
らしいのでそれを忘れないようにしなくちゃ、と自分に言い聞かせ
る。
コーヒーを一口飲んでから、翔子は窓の外に視線を移した。
−−仕事、大変なの?
ふと昨夜グェンが訪ねて来た時の言葉が蘇った。
99
−−今まで大晦日に接待の仕事が入った事なんてなかったでしょ
? だから、仕事が大変になってきたのかなって、ちょっと気にな
ったのよ。
昨夜愛莉を迎えに行った時、翔子はクリスマス・イヴと大晦日の
事を頼んだのだ。
グェンは二つ返事で愛莉の世話を受けてくれたのだが、その時に
とても心配そうな顔を翔子に向けたのだ。
﹃心配、かけてるわね、私・・・・﹄
それでもまさか彼女に自分が賢一と契約を結んで婚約者の役を務
めている事をいう訳にはいかない。
かといって、彼を自分の婚約者だとグェンに紹介するつもりはな
い。
これはあくまでも契約婚約なのだから。
グェンにぬか喜びをさせて、春に婚約解消なんて話をしたくない
のだ。
−−アイリーンの事だけじゃなくて、何か他にも力になれる事が
あれば言ってね。 −−大丈夫よ、グェン。今はただ・・えっと、仕事が忙しいだけ
だから。それに専務代理の秘書がパーティーについていく事になっ
ていたんだけど、それがダメになって私に白羽の矢がたった、てだ
けなの。
−−でも、クリスマス・イヴやニュー・イヤーまで仕事をさせる
なんて・・・
普通の会社であれば、確かにそんなホリディ・シーズンに仕事は
していないだろう。
それが判っているだけに、苦しい言い訳だな、と翔子も思ってい
る。
−−仕方ないわよ。仕事の規模を大きくするためにあちこちに顔
を出さなくちゃいけなくなったんだって、それだけの事よ。その代
わりに特別ボーナスをくれるっていうから、私も二つ返事で引き受
100
けちゃった。
−−ショーコ、もしお金が必要なら・・・
−−大丈夫よ。両親が残してくれた保険金もまだあるから。ただ、
他に引き受ける人がいなかったって事と、ボーナスが魅力的だった
から、なの。
特別ボーナスなんていう話は翔子の作り話だ。
けれど、愛莉が手術をするために必要なお金を出してくれている
事は事実だから、ある意味ボーナスと言っても差し障りはないだろ
うと思っている。
﹃グェンに心配かけちゃってるなぁ﹄
しつこく聞かないところが彼女のいいところだが、それ故に心配
をかけている自覚はあるのだ。
もし、あそこで恋人ができたからデートに行きたい、といえば良
かったのだろうか?
そう思ってから翔子は頭を軽く振った。
グェンとはアメリカにやってきてからの付き合いだ。
翔子がデートのために愛莉を預けるなんて事をする筈がない事な
ど判りきっている。
﹃デートって事にもできないし・・・だからと言って本当の事を
いう訳にもいかないしなぁ・・・﹄
頼りになる隣人だが、こういう時にごまかしが効かないというの
も、どうすればいいのか判らなくなる事の1つだ。
ペーパーバッグ
とはいえいつまでもこの事を考えていても埒は明かない。
翔子は気を取り直して、バッグから1冊の単行本を取り出した。
この前グェンが貸してくれたミステリーだ。
あまり馴染みのない作者だが、グェン曰くとても面白いそうだ。
まだ1ページも読んでいないが、試しに読んでみようと思って持
ってきたのだ。
バッグを膝に戻してからテーブルに置いたそれを手にとって読も
うと思った時、不意にテーブルに人影が落ちた。
101
なんだろう、と思って顔をあげた翔子はそこに立っている人物を
見て思わず動きを止めてしまった。
﹁久しぶりだな﹂
低い声は2ヶ月ほど前に聞いた男の声だった。
102
10. ︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
103
11.︵前書き︶
﹃﹄は日本語、﹁﹂は英語です。
104
11.
男は翔子に断る事もなく、そのまま椅子を引いて彼女の前に座っ
た。
﹁元気だったみたいだな﹂
﹁・・・・﹂
また何か嫌味を言われるのではないか、と構えていたのだが意外
な事に男は普通に話しかけてくる。
あの日病院で再会したパーティーで言葉を交わした男は尊大な口
調でどこか侮蔑の視線を向けていたので、もしかしたらまた会うの
かもしれない、と翔子は次に愛莉について病院に来た時周囲を見回
したものだ。
けれど、あれ以来男とは顔を合わせる事もなかったので、もう会
う事はないだろうと思っていたところの再会だ。
﹁どうした?﹂
﹁・・・なんの御用でしょう?﹂
﹁別に用はない。ただ、通りかかったらいたのを見かけたから声
をかけただけだ﹂
﹁・・・そうですか﹂
別に声なんてかけてこなくてもいいのに、と思ったものの言葉を
飲み込んで曖昧な表情で男を見返した。
﹁なんだ、不満そうだな﹂
﹁いいえ、別に不満なんてないですよ﹂
﹁だが、何か言いたそうだ﹂
どこか翔子を揶揄うような口調が今までの男のイメージとは違っ
て思わず男の顔を凝視してしまったが、彼はそれを気にも留めてい
ないようだ。
むしろそんな翔子を面白そうに見ている。
105
翔子は気を取り直して目の前のコーヒーカップを手に取るとその
ままゆっくりと飲む。
それからどうしよう、と思いつつも何を言えばいいのか判らない。
ここで男が今までのように高飛車な態度を取ってくれればそのま
ま席を立って離れていく事ができるのだが、今日はどうやら普通に
翔子と接するつもりのようで席を立つきっかけが掴めない。
どうしよう・・・
コーヒーカップを弄びながらもどこか気まずい空気が流れるまま
翔子が黙って手元に視線を落としていると男が口を開いた。
﹁・・・この前ここにいたのは俺を待っていた訳じゃなかったん
だな﹂
﹁えっ・・・?﹂
﹁酷い態度を取ったな・・・悪かった﹂
﹁・・・・えっと?﹂
思わぬ謝罪に翔子が顔をあげると、目の前に座っている男が軽く
頭を下げているのが見えた。
﹁それではあの晩、噴水のところで会ったのも偶然か?﹂
﹁・・・あれは、偶然っていうか、誰もいないと思っていたから
行っただけで・・・いきなり暗いところからあなたが出てきてビッ
クリしたわ﹂
﹁・・・・そうか。俺の後をつけてきた訳じゃなかったんだな﹂
﹁パーティーに慣れてないから人混みに酔っちゃったんです。そ
れでちょっと外の空気に当たりたいなって思って、テラスから外に
出ただけ。丁度庭が綺麗だとか噴水が綺麗だとかって話を聞いてた
から、どんな場所かなって思いながら歩いていたらいきなりあなた
が出てきたんだもの﹂
あの晩勝手に決めつけてこちらの話を聞かなかった男に、翔子は
ここぞとばかりにあの晩の状況を説明する。
男の方もそれが判ったのだろう、特に口を挟む事なく翔子が話終
えるまでバツが悪そうな顔で聞いていた。
106
一通り話したせいかなんとなく喉が渇いた気がして、翔子はカッ
プに残っていたコーヒーを飲み干した。
﹁何か新しい飲み物を買ってこようか?﹂
﹁えっ? いいえ、大丈夫です﹂
﹁もうしばらくはここにいるんだろう?﹂
﹁そう・・ですね。多分もう30分くらいかかるのかな?﹂
フィジカル・セラピー
﹁まぁ定期検査だけのようだからな。あぁ、そういえば午後から
は理学療法があるんだったか﹂
﹁・・・どうしてそれを?﹂
どうやら目の前に座っているこの男は、翔子がここにいる理由を
知っているようだ。
なぜそれを知っているんだろう、と翔子は眉間に皺を寄せる。
﹁そんな顔で睨まないでくれ。俺は一応この病院の理事に名前を
連ねているからな。ある程度の情報は手に入れることができる﹂
VIOLATION︶に
﹁個人情報なのに? 私とはほぼ初対面ですよね? それって医
ヒッパ・バイオレーション
療関連個人情報保護法違反︵HIPAA
なると思うけどいいんですか?﹂
﹁確かにね。だがそれを悪用している訳じゃないから気にしなく
ていい﹂
﹁はぁ? そういう問題じゃないと思いますけど?﹂
何を言っているんだこの男は?
どんな立場の人間であろうと見知らぬ他人の個人情報を勝手に入
手しておいて、悪用している訳じゃないから気にするなと言われて、
はいそうですね、なんて言える筈がない。
﹁そう言われるんでしたら、こちらから州の政府機関に苦情申し
立てをしていいんですね?﹂
﹁何を言っている?﹂
﹁ですから、私としては個人情報を勝手に流出されてとても不快
に思っているので、その件について苦情の申し立てをする、と言っ
ているんです﹂
107
﹁何もそこまでする事はないだろう? 現にこれといった被害が
出ている訳でもない﹂
被害が出ていなければ勝手に個人情報を入手してもいい、と本気
で思っているのだろうか?
ふざけるな、だ。
いわ
初めて顔を合わせてからずっと鼻持ちならない態度を取られて、
謂れのない嫌味も言われた。
そんな相手が自分の唯一の家族である愛莉の個人情報を持ってい
るというのだ。
これでにこやかな態度が取れると思っている男の方がおかしい、
と翔子が思っても仕方ない。
﹁被害が出ている、出ていない、って事が問題なんじゃないの。
勝手にこっちの事を調べられた事がムカつくって言ってるのよ。ふ
ざけんじゃないわよ。悪用していないから良い? バカにしてるの
?﹂
﹁・・・そんなつもりはない。それに俺が知っているのは君の妹
の事だけで、プライベートを調べた訳じゃない﹂
なんていう法律ができたか判ってない
﹁だから、そういう事を言っているんじゃないのっ。なんのため
に医療関連個人情報保護法
のか、って聞いているのよ。勝手に他人が個人的な情報を知る事が
ないように、って事でしょ? 誰だって赤の他人に個人的な事を知
ヒッパ・バイオレーション
られたくないし、それを尊重してもらいたいって思っているわ。だ
から、あなたがした事が医療関連個人情報保護法違反︵HIPAA
VIOLATION︶じゃないって言うんだったら、どこがどう
違反していないのか説明してもらいたいわね﹂
﹁・・・・﹂
﹁他人でも信頼している相手なら許可するわ。もしもの時にそれ
が妹を助けてくれるかもしれないもの。だけど、全くの赤の他人で
ある信用もしていない相手に大切な家族の情報を知られて安心でき
る訳ない。あなただって私があなたの事をあなたの知らないうちに
108
知っていたらどう思う? いい気分にはなれないと思うけど? だ
って、あれだけ私に悪口雑言を吐いていたんだから﹂
勘違いとはいえ、あれだけ翔子に後をつけたきたのか、とか、誰
かに聞いて調べた、とか糾弾していたくせに、自分はそれをしても
いいと思っているその神経が判らない。
だから、はっきりと言ったのだ。
あれであの晩噴水のところで自分が言った事に思い至らないので
あれば、その程度の人間だと翔子が判断しても誰も文句は言わない
だろう。
まぁおそらくそんな事を認める事もなく、腹を立てて席を立って
行ってしまうだろう。
そう翔子は思いながらも、男の反応を待っていると、彼女の予想
とは反対に男は頭を下げてきた。
﹁すまなかった﹂
﹁えっ・・・﹂
思わぬ反応に翔子は言葉を失う。
まさか非を認めて謝ってくるとは思いもしなかった。
﹁確かに君の言う通りだな。俺は自分があれだけ嫌がっていた事
を君にしていたんだな・・・言われるまで気づかなかったが、君が
怒っても仕方ない﹂
﹁・・・・そうね﹂
﹁ただ、あのあと君が言っていた事が本当かどうかを確認したか
ったんだ。近づくつもりはないと言いつつも近寄ってくる輩が俺の
周りには多すぎるからな。だから真偽を確かめたくて、あのあとす
ぐに君の妹を連れてきたナースに君の事を尋ねたんだ﹂
それなら愛莉と翔子の事を知っているのは当たり前だろう。
特にナースたちは、2週間に1度やってくる愛莉の事を可愛がっ
てくれるのだから。
﹁それで、疑惑は晴れましたか?﹂
﹁ああ、俺の完璧な思い込みだった。本当に済まないと思ってい
109
る﹂
﹁はぁ・・・じゃあ、いいです。謝罪は受けます。でも、二度と
勝手に私たちの事を調べないでください﹂
﹁判っている。もう二度とあんな風に君に絡まないよ﹂
初対面での印象が最悪だったせいか、今の彼の態度に翔子は面食
らっている。
最初から随分と傲岸不遜な態度で翔子に絡んできていた男が、こ
こまで殊勝な態度で自分に謝ってくるなんてありえないとさえ思っ
てしまう。
それでも男のそんな態度には好感が持てる。
先ほど男は自分がこの病院に理事に名前を連ねていると言ってい
た。という事は彼自身ある程度高い地位にいる人間という事だろう。
そんな人が他人に頭を下げる事など滅多にないに違いない。
なのに、彼は自身の非を認め、躊躇う事なく翔子に頭を下げたの
だ。
﹁どうした? 何か言いたい事でもあるのか?﹂
﹁えっ?﹂
﹁いや、じっと俺の顔を見ているから、何か言いたい事でもある
のかと思ったんだが?﹂
﹁あぁ・・・そうですね﹂
どうやら考え事をしながら、いつの間にか男の顔をじっと見てい
たようだ。
﹁何か言いたい事があるんだったら言ってくれればいい﹂
﹁別に・・・ただ、どうしてあんな風に謝ってくれたのかなって
思っただけです﹂
﹁あんな風にって?﹂
﹁あなたがどんな立場の人か知りませんが、あんな風に私みたい
なのに頭を下げても良かったのかなって﹂
﹁自分が間違っていたんだから、謝るのは当然だろう?﹂
﹁それはそうですけど・・・・﹂
110
﹁まぁ、言いたい事は判る気がする。だが、自分の非を認める事
もできないような人間は、他者の上に立つべきではない、と俺は思
っている﹂
正論だ、と翔子は思う。
けれど、それができる人間は少ないのではないか、とも思う。
たったそれだけ言葉を交わしただけで、翔子の中で男に対する好
感度が上がった気がするから現金なものだ。
﹁では、俺の謝罪を受け入れてくれるのか?﹂
﹁はい、私も結構失礼な態度をとったと思います。申し訳ありま
せん﹂
﹁いや、君が謝る必要はない。あれは俺のせいだからな。俺があ
んな態度を最初に取らなかったら、君があんな風に言い返してくる
事もなかった。そうだろう?﹂
﹁それは・・・﹂
そんな事はない、と言い切れずに言いよどんでしまった翔子を見
て、男は小さくぷっと吹き出した。
﹁それより、名前を聞いてもいいだろうか?﹂
﹁名前・・・ですか?﹂
﹁ああ、過去の俺の非礼を水に流して、これからもただの顔見知
りというだけでなく、せめて名前を知っている顔見知りになれれば
と思ったんだ。俺の事はクィン、と呼んでくれればいい﹂
まずは自分が自己紹介と言わんばかりに、名乗ってくる男はフル
ネームを言わずにクィンとだけ言った。その方が翔子も名前を言い
やすいと思ったからだろう。
確かに翔子としてもフルネームをいうよりは、名前だけの方がい
いやすい。
まだ男の事をフルネームを教えるほど信用していないからだ。
まぁ調べようと思えばすぐに調べられるだけの地位を持っている
事は知っているが、あくまでも翔子の心情的に言いやすい、という
事だ。
111
﹁私は翔子、です﹂
﹁ショーコ、変わった名前だな?﹂
﹁日本人ですから﹂
﹁ああ、なるほど・・・だが、君の妹は確か・・・﹂
愛莉の事を言いかけてやめたのは、どうやら先ほどの翔子との会
話を覚えていたからだろう。
﹁愛莉、です。こちらではみなさんアイリーンって呼んでますけ
どね﹂
﹁そうだったのか・・・﹂
﹁それにあの子はこっちでの暮らしの方が長いですから・・・あ
の子の事を愛莉と呼ぶのは私だけです﹂
その事実は今でも翔子の心は揺れるが、自分だけでもあの子の本
当の名前を呼ぶ事ができるのだ、と揺れる想いを宥める。
クィンと名乗った男は翔子の声音から何かを感じ取ったのか、そ
れ以上何も言わずに2人して窓の外に視線を向ける。
﹃お姉ちゃんっっ﹄
そうして5分ほど経った頃だろうか、愛莉の元気な声が聞こえた。
カフェテリアの出入り口を見ると、ナースに手を惹かれた愛莉が
手を振っているのが見える。
﹁あの・・・じゃあ、妹が戻ってきましたから行きますね﹂
﹁・・・ああ、今日は付き合ってくれてありがとう﹂
﹁いえ・・・こちらこそ﹂
翔子は立ち上がってクィンに小さく頭を下げた後、彼女がくる
のを待っている愛莉のところへと向かった。
そんな彼女の後ろ姿をクィンは黙って見送った。
112
12.︵前書き︶
﹃﹄は日本語、﹁﹂は英語です。
113
12.
﹃居心地悪いなぁ﹄
翔子はボソッと口の中で呟くと、そのまま周囲を見回した。
賢一が一緒にいれば話し相手になってくれるのだが、今日はたっ
た1人でお茶会に参加している。
主催者のシンディー・マッケイランドは賢一が翔子と一緒に来ら
れなかった事をとても残念がっていたが、その分自分がみんなに紹
介するわね、と言ってくれた。
2回ほど他のパーティーで会っている事もありその点は助かった
が、殆どの招待客とはここで会うのが初めてだった。
﹃それにしても、若い女の子ばっかり﹄
おそらく招待客の半分は翔子と同年齢くらいの女性だ。10代後
半から20代後半までの、言ってみてば適齢期という年齢層だろう。
そして、招待されている男性陣も20代から30代の働き盛り。
こちらも結婚適齢期と言っても過言ではないだろう。
今更ながら、これはある意味婚活パーティーなのだろう、と気づ
いたのだが、なぜ自分がそんなお茶会に呼ばれたのか判らない。
賢一も招待客の事を知っていれば、そのくらいの事気づいたはず
なのだが、彼は全くそんな事を言っていなかった。
つまり、知っていて翔子を1人でここに送り込んだ、という事な
のだろう。
﹁ショーコ、こんなところに1人でいたのね﹂
﹁ミセス・マッケイランド。とても盛況なパーティーですね﹂
﹁ありがとう。あなたも楽しんでいるといいんだけど?﹂
不意に後ろから声をかけられて翔子が振り返ると、そこにはパー
ティー主催者であるシンディー・マッケイランドが立っていた。
﹁お茶も美味しいし、デザートは絶品です。あんまり食べすぎる
114
と太りそうです。でもついつい食べちゃいます﹂
﹁あらあら、それは大変。でもあなたは太ってる訳じゃないんだ
から、そのくらいで丁度いいんじゃないかしら?﹂
﹁そうですか? でもやっぱり服が着れなくなると困りますよ﹂
クスクスと笑うシンディー・マッケイランドに、翔子も笑みを返
す。
﹁そうそう、こちらの方を紹介しようと思って連れてきたの﹂
﹁初めまして、ミス・ショーコ﹂
そう言ってシンディー・マッケイランドの後ろから出てきたのは、
ボブカットの黒髪に髪飾りをつけた淡いピンク地に真っ赤な牡丹が
見事な振袖を着た女性だった。
﹁初めまして、ミス・・・?﹂
﹁サヤカ・コンドウよ﹂
﹁初めまして、ミス・コンドウ﹂
今日は庭先でお茶会という事でヒールの低いパンプスを履いてい
た翔子は156センチしかない。それに比べると目の前の振袖の女
性は165センチくらいあるだろうか。
みくだ
顎をツンとあげて翔子をじっと見つめているその様は、翔子を見
みお
下ろしている。
いや、見下ろしているのではなく、見下しているのだろう。
口元には笑みを浮かべているが、彼女の視線はどこまでも冷たい。
﹁彼女、東京に本社がある取引先のお嬢様なの。丁度アメリカに
遊びに来ているっていうから、今日のパーティーにお誘いしたのよ﹂
﹁シンディーには無理を言っちゃったみたいで、申し訳なかった
わ﹂
﹁あら、何言っているのよ、サーヤ。あなたのお父さんにはお世
話になっているんですもの。彼の可愛い娘をパーティーに誘うのは
当たり前じゃない﹂
笑顔を交わしている2人は、そのままお互いの近況を訪ねあう。
自分がここにいる意味ないんじゃないのかな、なんて思いながら
115
も失礼にならないようにそばを離れる事なく2人の話を聞くともな
しに聞いていた。
それにしても、と翔子は黙って2人を観察する。
近藤沙也香を写真でなく実物としてみたのはこれが初めてだ。
賢一から彼女についての情報は貰っていたものの、会うのはニュ
ー・イヤー・パーティーだと思っていたので不意を突かれた感じだ
が、それでも彼が彼女の事を蛇女と呼ぶ意味がよく判った気がする。
目が笑っていなかったのだ。
顔全体を見れば彼女が笑顔を浮かべている事は遠目からでも判る
だろう。
それなのに、彼女の目はどこか冷めた感じでまるで冷血動物のよ
うな目だと翔子は思った。
相手を値踏みするようでいて感情を浮かべていない、そんな目だ
った。
そんな事を考えていると、向こうからシンディー・マッケイラン
ドを呼ぶ声がした。
﹁シンディー、あなたの事を呼んでるわよ﹂
﹁そうみたいね。せっかく楽しく話していたっていうのに﹂
どうやらまた数人のゲストが到着したようだ。
﹁それじゃあ、私は暫く彼女と話をしていますわ。シンディーは
ホステス
他の方に挨拶をしなくちゃいけないんですよね?﹂
﹁そうねぇ・・・仕方ないわね、今日は私が主催者だから。まだ
当分いるんでしょ?﹂
﹁もちろん。みなさんが帰ってからまた2人でお茶でもしましょ
う﹂
﹁いいアイデアね。じゃあ、ショーコ、サーヤ。楽しんでね﹂
名残惜しそうに沙也香をハグしてから、シンディー・マッケイラ
ンドは立ち去った。
そんな彼女を笑顔で見送ってから翔子を振り返った沙也香の顔か
ら笑みは完全に消え去っていた。
116
﹃さて、ようやく話ができそうね﹄
﹃話・・・ですか?﹄
﹃そう。私、ずっとあなたと話をしてみたかったの﹄
﹃話って・・・私、あなたと会うの、初めてですよね?﹄
よく判らない、と言わんばかりに翔子は頭を少し掲げてみせる。
・・
﹃そうね。私には庶民の知り合いなんていないから、私とあなた
は初対面で合っているわ﹄
﹃・・そうですか。それで、その庶民に一体なんの御用でしょう
か?﹄
﹃だから、話がしてみたかった、って言ったじゃない﹄
バカにするような口調の沙也香にカチンときたものの、それでも
まだ理解できていないような表情を彼女に向ける。
おそらく沙也香がここに来たのは、賢一の婚約者候補である翔子
を見に来たのだろう。
あと1ヶ月ちょっと待てばニュー・イヤー・パーティーで会う機
会があるのに、それすら待てなかったようだ。
近藤沙也香、21歳。
東京に本社を持つ食品製造機器メーカー、近藤マシナリーの娘。
東京のお嬢様短大を卒業したあと、形だけだが父親の経営する近
藤マシナリーに入社。同社秘書課に籍を置くものの、週に2回ほど
しか出社せず、それも大抵は午後出勤。父親よりも短い出勤時間の
間も席に座っているだけで電話番をするでもなくただスマフォで遊
んでいるか爪の手入れをしているだけ。
社内での評判はすこぶる悪い。女子社員が廊下で挨拶をしても返
事が返って来る事はないが、男性社員にはとてもにこやかな笑みを
浮かべて返すそうだ。
秘書課にいても仕事は全くせず、仕事を頼んでも無視、または、
エラそうに仕事を頼むな、と怒鳴りつける。
117
それが賢一から教えてもらった沙也香の情報だった。
食品製造機器メーカーと食品も扱う商社という事で、少しではあ
るが接点があり沙也香はたまたまパーティーに来ていた賢一に目を
つけたそうだ。
賢一は次期社長候補の1人で、専務代理という肩書きを持ってい
る。その上今はロスにある支社の支社長を務めている。
沙也香からすれば賢一は最優良物件なのだろう。
現に最近になって周囲のお嬢様たちに、さも自分が賢一と結婚す
るような事を言っているそうだ。
そんな沙也香にとって、翔子は目の上のタンコブ以上に邪魔な存
在だろう。
﹃あなた、賢一さんの会社で働いているんですってね﹄
﹃はい、会社は働きやすいし、彼はとてもいい上司です﹄
﹃どうやって取り入ったの?﹄
﹃取り入った、とは?﹄
﹃だから、どうやって賢一さんを騙したのか、って聞いているの
? ただの普通の女のあなたなんかを賢一さんが本気で好きになる
なんてある訳ないじゃない。一体どうやって彼を誑かしたのかしら
?﹄
﹃別に誑かすなんてしてません。私はロス市内にある支店で働い
ていて、賢一さんが声をかけてくるまで彼が支社長だなんて知らな
かったんです﹄
翔子は自分からは声をかけていない、声をかけてきたのは賢一の
方だ、と沙也香にいう。
もちろんそれを聞いて沙也香が気分を害する事を計算した上で、
だ。
﹃賢一さんがあなたなんかに声を掛ける訳ないじゃない。あぁ、
そうね、あなたが仕組んだんでしょう? 彼が声をかけざるを得な
118
い状況をわざと作った、って事ね﹄
﹃わざと声を掛けるなんて、どういう意味でしょう? 私、彼と
知り合って食事に行くようになってから、初めて彼が自分の会社の
上司だった、って知って本当にビックリしたんです﹄
﹃・・・・﹄
﹃だから、彼が専務代理だって判って、食事に行く事を断るよう
にしたんですけど、彼、強引でしょ? 結局断る事もできなくって・
・・﹄
困ったような表情を浮かべて、翔子は俯いた。
沙也香は全く気にしていないようだが、おそらく周囲からは沙也
香が何か言って翔子が傷ついて俯いた、というように見えている筈
だ。
そのあたりも賢一の計画通りだ。
とはいえ、その計画を使うのはニュー・イヤー・パーティーの時
だったので前倒しになってしまったが、それでもあらかじめある程
度の状況を予想してシミュレーションをしていてよかった、と思う。
俯き加減の顔をあげて不安そうに沙也香を見ると、彼女の顔には
表情が浮かんでいなかった。
けれど、翔子と目があった途端、口元が弧を描いて上がるとその
ままバカにしたような言葉を発する。
﹃面白みすらない女ね、あなたって﹄
﹃・・・・そんな事・・・﹄
﹃ま、きっと物珍しくって声をかけたのね。だって、彼は私みた
いな立場の人間ばかりに囲まれてるから、庶民と付き合うってとっ
ても新鮮だったと思うわ﹄
﹃そうですね・・・そうかもしれません。この前一緒にハンバー
ガーを食べにファースト・フード・ショップに行ったんですけど、
賢一さんって入った事ないって言って楽しそうでしたから﹄
ギャフンと言わせてやろう、とバカにした口調で貶めるような事
をいうのに、翔子はそれを逆手にとって惚気に変えてしまう。
119
そんな翔子を忌々しそうに睨みつける沙也香の視線を、何も判ら
ないといった表情で受け止める。
﹃今日はどうしてあんた1人なのかしら? もう早速振られたっ
て事?﹄
﹃いいえ、賢一さんに仕事が入っちゃったんです。一緒に来る予
定だったんですけど、仕事だったら仕方ないですよね。淋しいけど
仕事の邪魔しちゃ迷惑だから、彼の代わりにと思って1人で来たん
です﹄
﹃賢一さんの代わりなんて務まるのかしらね﹄
﹃どうでしょう・・・私には役不足だと思います。でも賢一さん
が頑張って、と応援してくれたので頑張ってます。あとで電話くれ
ると言っていたので、その時に褒めてもらえるようになりたいです
から﹄
そこまで言って翔子は少し照れくさそうな笑みを浮かべた。
照れくさいながらも嬉しさを滲ませている翔子を見る沙也香の顔
はすでに笑みすら浮かんでおらず、どこかギリギリと歯ぎしりが聞
こえそうなほど歯を噛みしめているのが判る。
それでも翔子はそんな事にも気づかない鈍感な娘を演じ続ける事
にした。
120
12.︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
121
13.︵前書き︶
すみません、予約投稿し忘れていましたっっ!
なので今頃投稿しています。
それで、ですね。実はタイトルを変更しようと思っているのです
が・・・・
ずっとタイトルがしっくりきていなくて、それがすごく気になっ
ていたんです。というのも、タイトルが話の内容にそぐわないとい
うか、なんというか・・・
なので変更しようかどうか今迷っています。もしかしたら次回か
らタイトルが変わっているかも・・・変更後の1−2日は新タイト
ルをカッコでつけて、それから新タイトルのみにしようか、なんて
考え中です。
﹃﹄は日本語、﹁﹂は英語です。
122
13.
﹃あなた、あんまり社交界の事判っていないみたいね? そんな
事でやっていけると思っているの?﹄
﹃そうですね・・・私は一般人ですから、近藤さんのおっしゃる
通りこういった世界とは無縁でしたね。なのでやっていけるかどう
かって聞かれると判らないとしか答えられません﹄
﹃判らないって言っている段階ですでにダメなんじゃないのかし
ら? そんな事で賢一さんを支えられるのかしら?﹄
﹃それは・・・・﹄
﹃余計な事を考えないで、彼から離れた方がいいわよ。だって、
今のあなたが彼のためにできる事ってなんにもないじゃない? そ
れとも、あなたの体の具合がそんなにいいって事かしら?﹄
﹃なっ・・・何を言うんですかっ。結婚もしてないのにそんな事・
・・・﹄
どうやら沙也香は翔子がベッドのテクニックで賢一を落としたと
考えているようだ。
沙也香自身、そちらに関してはかなり奔放なようでそれに関して
も報告書には書かれていたが、賢一が最も嫌悪する理由の1つがそ
の事だとは全く想像もしていないのだろう。
だから翔子はそんな彼女とは正反対の女性を演じる。
実際に顔が赤くなったり青くなったりしているのかどうか翔子に
は判らないが、それでも表情でそんな事をいう沙也香に羞恥と嫌悪
の感情を見せる。
﹃あらあら、ウブな事。そんな事じゃ賢一さんを満足させられな
いわよ﹄
﹃まっ・・・満足って・・・私たち、そんな関係じゃありません
っ﹄
123
﹃あら?あなた、まさか賢一さんに我慢を強いているのかしら?
自分の事だけを考えていたら、賢一さんに捨てられるわよ?﹄
翔子の反応に沙也香は更にバカにしたような視線を彼女に向ける。
﹃け、賢一さんはそんな人じゃありませんっっ﹄
﹃あら、今はそうかもしれなわね。でも彼だって男よ? いつま
でそうやって我慢させるつもりなのかしら? 精力的に働く男には
癒しが必要なの。あなた、彼みたいな精力的に働く男の癒しになれ
てないみたいね。そんな事でよく彼の恋人だなんて言えるわね。私
だったら恥ずかしくって人前に出れないわね﹄
﹃そんな事・・・・﹄
﹃ない、なんて言わないわよね? だって、本当の事だもの。全
く賢一さんもどうしてこんな洗練されていないイモ娘を連れ歩いて
いるのかしら? 確かに毛色の変わった今まで周囲にいないタイプ
だけど、だからと言ってここまで何もしない女を選ぶ事はないと思
うわ﹄
物珍しさで手を出して引っ込みがつかなくなったのかしら、見下
したように言う沙也香の目はまるで獲物を狙っているように翔子を
見る。
﹃あなた、賢一さんのお金目当てで付き合っているんだろうけど、
そろそろ別れたら?﹄
﹃えっ?﹄
﹃あなただってもう十分美味しい思いはしたでしょう? それに
もう十分住む世界が違うんだって事も判ったんじゃないの?﹄
﹃それは・・・・﹄
煌びやかな世界に憧れる少女を諭すような優しい声で、沙也香は
話しかけてくる。
﹃もういいんじゃない? あなたみたいな人には縁のなかった世
界を見る事ができたし、一般人なら入る事すらできなかった社交界
のすら見る事ができたじゃない。それに賢一さんからも十分プレゼ
ントとかもらったんでしょ? そのドレスとか﹄
124
﹃どうしてドレスの事・・・﹄
﹃あら、だってそんな高級そうなドレス、あなたに買える訳ない
じゃない﹄
やっぱりこういう人たちには判るんだなぁ、と自分ではパッと見
て高級品と普通の品の違いがイマイチ判らなかった事を思い出す。
﹃きっとあなたの半年分以上のお給料ね。まぁ・・・それともそ
れが愛人手当、なのかしら?﹄
﹃あっ、愛人なんかじゃありませんっっ。賢一さんは私の事をこ
っ、恋人だってちゃんと言ってくれてます﹄
﹃それも物珍しさからよ。あなた、もしかして自分だけが恋人っ
て言ってもらった、なんて思ってないでしょうね?﹄
﹃それは・・・あんな魅力的な人ですから今まで恋人がいなかっ
た、って事はないと思います。でも今は私だけだって言ってくれる
し、私も彼の言葉を信じてます﹄
信じている、と言い切ってから笑みを浮かべて見せると、沙也香
の目がすぅっと細くなったのが見えた。
﹃・・あら、そう・・・? でもあんまり信じない方がいいわよ。
その方が裏切られた時のダメージは少なく済むから﹄
﹃賢一さんは私を裏切りませんよ。そんな人じゃないです﹄
﹃でも好きだっていいながらもまだベッドにすら一緒に入ってい
ないような関係じゃない。そんな事でいつまでも彼を引き止められ
るって、本気で思っているのかしら? 私だったらそんな面白みの
ないような女、飽きて捨てちゃうと思うわ﹄
肉体関係だけが全てではない、と翔子は思う。
一目惚れ、という事にはどこか懐疑的な気持ちがあるからあまり
信じていない。
知り合ってゆっくりとお互いを更によく知っていった上で、恋愛
感情が生まれ育まれ、そしてその段階に肉体関係があるのだ、と翔
子は思っている。
出会っていきなりベッドに直行、そのまま恋に落ちる、なんて恋
125
愛小説の世界だけだ。
全く知らない相手にそんな感情を抱くという事自体、翔子にとっ
ては有り得ない事である。
だから、目の前の沙也香のように気に入った相手となら誰とでも
ベッドを共にできる、という感覚が全く理解できない。
﹃そんな簡単にベッドを共になんて、そんな関係は私には無理で
す。少しずつお互いを知っていって、そのうち自然にそんな気持ち
が芽生えると思ってますから﹄
﹃あらあら、あなた、まだまだ子供なのねぇ。気持ちだけで判り
あえるなんて、夢物語をその年になっても信じられるなんて﹄
クスクスとバカにしたように笑う彼女の顔にムカついたが、それ
を顔に出さないように気をつける。
﹃そうですね、そうかもしれません。でも、賢一さんはそれでい
いって言ってくれてますから。私もちょっと不安だったんです。ほ
ら、すぐに肉体関係を持とうとする男の人って多いから・・・だか
ら、賢一さんと知り合って、付き合ってほしいって言われた時、本
当は不安だったんです。もし彼がすぐにベッドに行こうって誘って
きたらどうしよう、って﹄
﹃・・・・﹄
﹃でも、杞憂でした。彼、私の気持ちを尊重するよ、って言って
くれて・・・それに賢一さん、肉体関係にルーズな人間は嫌いだか
ら、私のそういうところがすごく気に入ったって言ってくれて・・・
﹄
すごく嬉しかったんです、と翔子は沙也香から視線を外して俯い
てから小さな囁くような声で付け足した。
暗に誰とでも寝るような女は賢一の好みじゃないよ、と伝えたの
だ。
彼女がその事に対してとてもルーズだという事は判っているのだ。
だから、翔子はそういう事で沙也香では無理だ、と伝えたかった
のだ。
126
俯いていても沙也香の刺すような視線は痛いほど感じる。
きっと睨みつけているんだろう。
もう十分彼女には付き合った、といい加減演技をする事にも疲れ
た翔子はそろそろここで彼女から離れる事にする。
﹃じゃあ、私、向こうに行きますね。知り合いの方全員に挨拶を
しておかないと、賢一さんに褒めてもらえないですから﹄
翔子はぺこり、と頭を下げてから沙也香の返事も待たずに彼女の
そばから離れる。
それから数少ない顔見知りの元へ行くために沙也香に背を向けた
ものの、彼女の視線をヒシヒシと感じる。
とりあえず、賢一にメールしておかなければ、とそれだけを考え
ながら足早に移動した。
はぁぁぁぁぁぁ・・・
思わず大きな溜め息が漏れた。
とりあえずこの1ヶ月ちょっとの間に賢一と一緒に出かけたパー
ティーで知り合った人たちに簡単に挨拶だけを済ませて、翔子はシ
ンディー・マッケイランド自慢の庭を散策する事にした。
ロス郊外にあるこの邸宅の敷地は、さすがアメリカでも指折りの
資産家のものだけあって広々としている。
あずまや
しかもここは別荘だというのだから、ニューヨークにある本宅な
ど翔子には想像もつかない。
現在お茶会が開かれているのは邸宅の西側にある四阿を中心とし
た庭で、今翔子がいるのはその反対側である東側から車庫の裏に位
置する小さな庭園だった。
ここまで来るとパーティーでかけられている音楽も人の声も、遠
い雑音程度にしか聞こえてこない。
127
翔子は庭園の隅の方に置かれているベンチを見つけて、そこに座
り込んだ。
それからスマフォを取り出して、賢一に近藤沙也香と接触した事
を報告する。
彼女がここに来たのは賢一が来る予定だったからだろう。
それが賢一は当日になって来れない旨の謝罪の連絡を入れたのだ
が、どうやらシンディー・マッケイランドはその事を沙也香に伝え
ていなかったようだ。
それでも翔子の品定めをするためにシンディー・マッケイランド
に頼んで紹介してもらったのだろう。
短く簡潔なメールを打ってそれを賢一に送り、翔子はスマフォを
ジャケットのポケットに仕舞うと、そのまま大きく背伸びをした。
﹃まさか今日会うなんて思ってもいなかったなぁ﹄
思わぬハプニングに、翔子は肩が凝ってきた気がする。
それでも予定通り可愛い世間知らずを演じることができてホッと
する。
沙也香がプライドの高い女であることから、賢一は翔子に可愛い
女を演じるようにと言っていたのだ。
彼としては、自分は沙也香のようなタイプでなく可愛い翔子のよ
うなタイプの女性が好みだ、と暗に伝えたかったからだそうだ。
﹃まぁ、あんまり伝わってないような気はするけどね﹄
どう考えても彼女は翔子のことを蔑んだように見ていた。
彼女は翔子をライバルとは思っていないだろう。おそらく翔子を
選んだのは賢一の気の迷い、と思っている気がする。
﹃メンドくさいなぁ・・・ああいうタイプって執念深そうだから、
ニュー・イヤー・パーティーもあんな感じで接してくるんだろうな
ぁ・・・あ∼ヤダヤダ﹄
思わず声が大きくなってしまって、思わず口を塞いで周囲を見た
が誰もいない事を確認してホッと溜め息をついた。
翔子は日本語で独り言を言っているので、今日のゲストの中では
128
沙也香以外には何を言っているか判らないだろう。
それでももしかしたら、と思ってしまう。
ピロロ∼ン
スマフォが鳴ってポケットから取り出すと、賢一からメールが来
ていた。
︽お疲れ様。彼女が来ているとは知らなかったよ。でもまぁ有り
えない事ではないかな。なんだったら1時間ほどして電話しようか
? それを口実に帰ればいいよ︾
賢一の電話を口実にお茶会から抜け出す、というのはなかなか魅
力的な提案だった。
とはいえ元々2時間程度しかいるつもりはなかったので、賢一が
電話をしてくる頃には家に向かっているかもしれない。
そう考えて、翔子は大丈夫だ、と簡単にメールを入れる。
何かあれば電話するから、と付け足してからメールを送った。
﹁ショーコ・・?﹂
シュッというメールが送られる音がしたと同時に名前を呼ばれて、
翔子はバッと音がするような勢いで顔をあげて声がした方を振り返
った。
﹁・・・・ミスター・クィン?﹂
﹁ああ、やっぱりショーコだ﹂
そう言って近づいてきたのは、つい数日前に顔を合わせたクィン
と名乗る男だった。
129
13.︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
130
14. ︵前書き︶
土曜日にポカをしたので、日、月と書き溜め分を再び放出・・・・
﹃﹄は日本語、﹁﹂は英語です。
131
14. まさかこんなところで彼と会うとは思いもしていなかった。
﹁どうしてここに?﹂
﹁俺もパーティーに誘われたんだ。出る気はなかったんだが、親
父の命令で仕方なく参加だ﹂
来たもののあまりにもつまらないから、周囲に人がいなくなった
のを見計らって抜けてきた、とクィンはしてやったりといった表情
を浮かべている。
﹁そうですね。私も人と話すのに疲れちゃったので、ちょっとこ
こまで避難してきました﹂
﹁シンディーはお節介だから、ほうっておくとどんどんパーティ
ーに来ている人に紹介されてしまうからな﹂
彼の場合は女性を勧められるんだろうな、と思う。
どう考えても今日のパーティーはお見合いみたいなものだ。
まぁそこまではっきりとしたものでなくても、20代30代が知
り合う場、なのだろう。
ここで同じ環境の同年代の知り合いを増やしていって、将来のた
めの足がかりにするのだろう。
なかなか考えられたお茶会、だと翔子は思う。
﹁隣に座ってもいいかな?﹂
﹁えっ? あっ・・はい、どうぞ﹂
﹁ありがとう﹂
﹁すみません、ちゃんと席を勧めるべきなのに﹂
﹁いや、気にしなくていい。それに俺はいつも無断で君の前に座
っていたからね﹂
それもそうだ、と思わず頷きかけて思いとどまる。さすがにそれ
は失礼だろう、と思ったからだ。
132
それでもなんとなく今の彼は冗談を言っても許されそうな雰囲気
を纏っている。
﹁そうですね、そういえばいつも病院では気がつくと私の前に座
ってましたね﹂
﹁最初の時は勝手に憤っていたし、2回目の時は君が立ち上がっ
て出て行く前に話をしたいと思っていたからね﹂
﹁あれは・・・失礼な態度で申し訳ありませんでした﹂
﹁ショーコが謝る必要はないよ。あれは俺が悪かったんだから﹂
﹁でも・・・﹂
病院で再会した日、クィンのあまりにも酷い態度に腹が立った翔
子は、目の前に座る彼に断る事もしないまま立ち上がって彼から離
ひとこと
れたのだ。
せめて一言失礼、とでも言っておけばまだマナーの範囲だっただ
ろうが、あの時の翔子はそこまで考えていなかった。
もちろん二度と会う事はないだろうと思っていたから気にもとめ
ていなかったのだが、あれから病院でまた彼に会った時に彼の方か
ら謝罪があったのだ。その事を思うと自分も謝罪しておくべきだと
翔子は思う。
﹁気にする事はない。あれは俺が全面的に悪かった。むしろその
事で文句を言われても仕方ないと俺は思っている﹂
﹁でも、あなたかきちんと私に謝罪をしてくれました。だから私
もきちんと謝りたかったんです﹂
﹁そうか・・・じゃあ、謝罪を受け入れるよ。だからもうこれ以
上謝るのは無しだ﹂
﹁判りました﹂
﹁じゃあ、これでこの話は終わり、それでいいな?﹂
﹁はい﹂
素直に頷いた翔子の隣で満足そうにクィンが頷く。
﹁それで、妹さんのア、アイ、リーは元気?﹂
﹁アイリーンでいいですよ。はい、彼女は変わりなく、ですね﹂
133
愛莉と言おうとしたものの、どうしても発音は英語風になってし
まう。
それは仕方ないと翔子は思っている。彼女の名前にしても翔子と
日本の発音で言えるものはおらず、みんなショーコ、と伸ばした発
音になってしまうのだ。
﹁日本人の名前は発音が難しくて悪いな﹂
﹁気にしないでください、慣れてますから﹂
フィジカル・セラピー
﹁そうか・・・アイリーンも変わりない、という事は良い事だな﹂
﹁はい、発作もこの1ヶ月以上は起きていないし、理学療法も真
面目に受けてます。たまにめんどくさいって文句は言ってますけど、
それでも今の所1日もサボってませんね﹂
﹁そりゃ凄いな。たいしたもんだ﹂
11歳の子供が自分で手術をすると決めたのだ、とクィンは聞い
ている。それだけでも凄いが、そのあともちゃんと頑張っていると
聞くと思わず応援してしまう。
﹁私もそう思います。あんな小さな体で頑張っているんだと思う
と、私も負けていられません﹂
﹁ちゃんと面倒をみているじゃないか。あれだって大変だと思う
よ﹂
﹁そう・・ですね。でも私ができるのはあの程度のことだけです
から﹂
﹁それでも仕事を休んだりしなくちゃいけないんだろう? その
分他の負担がかかっている筈だ、十分頑張っているよ﹂
﹁・・・ありがとうございます﹂
アイリーンが頑張っていると言われる事はあっても、翔子の事を
そう言ってくれる人は殆どいない。せいぜいお隣のグェンの家族く
らいのものだろう。あとは、賢一が本気かどうかは判らないが頑張
っていると言ってくれたくらいだ。
こうしてまだよく知らない相手からそう言われると、なんとなく
むず痒い気がするが、それは嫌ではない自分がいる。
134
照れくさそうな翔子をクィンは眩しそうに見てから、思い出した
かのように口を開いた。
﹁そういえば、今日のお茶会にはもう1人日本人が来ていたが・・
・ショーコは会ったのか?﹂
﹁もう1人・・・はい、日本のキモノを着ていた方ですよね?﹂
﹁あぁ・・・すごく派手な格好をしていた女だよ。まさか昼間の
お茶会にあんな派手な格好でくるような女性がいるとは思ってもい
なかった﹂
﹁日本では日中でもおかしくない服装ですよ。あれは振袖と言っ
て、日本では未婚の女性が着るタイプのキモノなんです﹂
﹁なるほど・・・習慣の違いなんだな﹂
確かにこちらだと派手なドレスというものは夜会に着られる事が
多い。
そう考えると振袖は確かに夜会向きかもしれない。もちろんそこ
にはダンスはしない、という前提だが。
﹁ショーコの知り合いなのか?﹂
﹁えっと・・・そう、ですね。知り合いといえば知り合いかも・・
・﹂
﹁・・・そうか﹂
﹁ただできればあまり関わりたくないかな、と﹂
先ほど言葉を交わしたので知らない間柄、とは言えなくなった気
がして翔子は曖昧に返事をする。
ただクィンにも言ったようにできればあまり関わりたくない、と
いうのが本音だ。
とはいえ賢一の事があるから、全く関わりを持たないという事は
できないだろう。
﹁さっき、シンディーに呼び止められて、彼女を紹介されたんだ。
彼女は、なんというか・・・なかなかな性格の女性だな、と驚いた﹂
﹁はぁ・・・・﹂
﹁あんな日本人女性もいたんだな・・・﹂
135
返答に困るような事を言わないで欲しい、と翔子は彼に判らない
ように小さく溜め息を吐いた。
﹁ショーコがあまり関わりたくないというのも判る気がする。俺
もできれば関わらないで済めば良い、と思ってしまったくらいだっ
たからな﹂
﹁個性的な方ですよね﹂
ワン・オブ・カインド
﹁ああ、あれを個性的、と呼んで良いのかどうか判らないが、確
かに個性的だったな﹂
疲れたような表情で頭を振っている彼は、初めて会った時に威圧
的な男と同一人物とはとても思えない。
おそらくかなりの勢いでアタックされたのだろう、と推測できる。
沙也香はとても鼻が利く女性だ、というのが報告書を読ませても
らった翔子のイメージだ。
パッと見ただけでその相手がどれほどの地位の人間か、どのくら
いの資産を持っているか、判って接しているところがあるような気
がする。というかそう思ってしまうほど的確に相手を選ぶのだ。
そんな彼女に狙いを定められたという事は、おそらくクィンもそ
れなりの資産家だという事だろう。
﹁他の方と話をしなくてもいいんですか?﹂
﹁何? もう俺を追い払いたくなった?﹂
﹁そうじゃなくって・・・私でさえ挨拶をしなければいけない人
が結構いたので、もしかしたらミスター・クィンにもいるのかな、
って思って。ほら、あと1時間ほどでお開きですよね﹂
﹁あぁ・・・そうなんだけどな。なんだか向こうに戻るのが面倒
くさくて。確かに数人には声をかけなくちゃいけないから、まぁ適
当に向こうに戻るよ﹂
揶揄うように追い払いたいのかと聞いていたくせに、ウンザリと
いった顔で翔子に返答する彼は、すっかり翔子の前でリラックスし
ているようだ。
最悪の初対面だったのに翔子も彼と一緒にいてリラックスできて
136
いるのが不思議だ。
﹁けど、あと1時間でお開きなのか?﹂
﹁多分、ですけどね。確か2−5時って聞いてます﹂
﹁ああ、それは形式だけだよ。5時に解散って事になっているけ
ど、そのあとで夕食が必要なら言えば用意してくれるし、このあと
知り合いだけで固まって食事に出かけてもいいんだ﹂
﹁そうなんですか・・・・﹂
そういえば夕食がどうの、って聞かれた気がするな、と今更なが
ら翔子はシンディー・マッケイランドと挨拶をした時の事を思い出
す。
﹁ショーコは食べて帰るのか?﹂
﹁えっ? いいえ、もう帰ります﹂
もうここは十分です、と翔子が付け足すとクィンは声を出して笑
った。
﹁一緒に食事でもどう?﹂
﹁えっと・・・いいえ。誘っていただいて申し訳ないんですが、
愛莉が家で待ってますから﹂
﹁あぁ・・・そうだな﹂
愛莉は今日もグェンと一緒にいるのだが、それでも今日は一緒に
いられなかったから夕飯くらいは一緒に食べたい。
﹁じゃあ、そのうちアイリーンも一緒にランチでも食べよう﹂
﹁えっ?﹂
﹁病院にまた来るだろう? その時にタイミングが合えば一緒に
ランチでも食べよう。もちろん、アイリーンがいいといえば、ね﹂
﹁あ・・・はい﹂
どう返事をしようかと悩んだが、翔子はそのまま頷いた。
そんな翔子の返事でも良かったのか、彼はふっと笑みを浮かべて
立ち上がった。
﹁俺はそろそろ行くよ。挨拶を済ませておかないと食事に誘われ
るかもしれないからな﹂
137
﹁そうですね。終わってなかったら有無を言わさず、かもしれな
いですね﹂
﹁怖いこと言うなよ。けど確かにシンディーならそれを口実に無
理矢理夕食の席に座らせられそうだ﹂
確かに彼女だったらこっちの話を聞かないで、勝手に決めてしま
ってもおかしくない。
傲岸不遜なクィンが反論する間も無く強引に夕食の席に座らされ
ている姿を想像して、翔子は思わずぷっと吹き出した。
それを見てクィンが器用に片方の眉をあげて翔子を見下ろす。
﹁ごめんなさい﹂
﹁いや・・・どうせシンディーの強引さを想像したんだろ?﹂
﹁そうです﹂
﹁まぁ彼女は強引だからなぁ・・・あの迫力には負けるよ。つく
づく彼女が商談相手でなくてよかった、って思う﹂
苦笑いを浮かべて頭を振る彼と翔子は頷きあう。
﹁じゃあ、また機会があれば﹂
﹁ええ、また機会があれば﹂
軽く手を振ってから翔子に背を向けてクィンは元来た道を歩き出
した。
そんな彼の背中を見送りながら、翔子も帰り支度のために立ち上
がった。
138
14. ︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
139
15. ︵前書き︶
土曜日にポカをしたので、日、月と書き溜め分を再び放出・・・・
﹃﹄は日本語、﹁﹂は英語です。
140
15. グェンが淹れてくれたハーブティーは、今日はレモングラスとい
うものらしい。
まずは顔を近づけて香りを嗅ぐと、すっきりとしたレモンのよう
な香りがする。それに加えてどこかメンソールのように鼻をすっき
りさせてくれる香りも混じっている。
それから一口飲んでみると、ほんのりと酸味がある風味が口に広
がった。
その名の通りレモン、そんな事を思いながらも、翔子は両手でカ
ップを持ったままリビングのカウチでゴロゴロしながらもテレビを
見ている愛莉に視線を投げる。
﹁あの子、もしかしているもあんなに行儀が悪いの?﹂
﹁いつも、って事じゃないわよ。ご飯はキッチンテーブルで食べ
るわよ。その間はテレビは無し。カウチでおやつを食べる時は、ち
ゃんと座らないともらえないって判ってるし﹂
﹁でも、あの格好はちょっと・・・ねぇ﹂
お気に入りのテディー・ベアを抱きしめたまま寝っ転がった格好
で、片方の足を背もたれに、もう片方の足をブラブラさせているの
だ。
﹁よくジョーやベンにからかわれてるわね。でも2人ともなんだ
かんだ言ってアイリーンに甘いから、彼女の枕になって一緒にテレ
ビを見ているわよ﹂
うまく愛莉にせがまれて膝枕をしてやっている、という事なのだ
ろう。
その情景が頭に浮かんで、翔子は思わずぷっと吹き出した。
﹁まったく・・・そうやってみんなが甘やかすから﹂
﹁そういうショーコが一番甘やかしている気がするけど?﹂
141
﹁私はいいの、お姉ちゃんだから﹂
ツンと澄まして言うと、グェンがぷっと吹き出した。
それを見て翔子も釣られて吹き出すと、しばらく二人で笑った。
﹁それで明日のプレゼントの用意はできたの?﹂
﹁うん。一応、かな?﹂
﹁お昼にはうちに来るんでしょ?﹂
﹁そのつもり。でもいいの? サムのところも来るんじゃないの
?﹂
﹁そうよ。サムもショーコとアイリーンに会えるのを楽しみにし
てるわよ﹂
クリスマスは家族で祝うものだから、自分たちがいると邪魔にな
るのではないか、と翔子は思うのだがグェンは翔子たちも家族だか
らといって誘ってくれた。
毎年グェンは翔子たちを誘って、毎年翔子は同じように一旦断る
のだ。こうやって毎年毎年同じ会話をするのだが、これも恒例行事
となってしまっているような気がする。
﹁まぁアイリーンはもうサンタがいないって事知ってるから、シ
ョーコがプレゼントを用意しているって判ってるんでしょ?﹂
﹁うん。だから、今年はギフトカードにしたの?﹂
﹁ギフトカード?﹂
﹁そう。ほら、新しくできたモールにテディー・ベアをカスタマ
イズできるお店ができたじゃない。そこのお店のギフトカードよ﹂
﹁ああ、あそこ? いいアイデアね。テディー・ベアが好きなア
イリーンにぴったりのプレゼントじゃない﹂
﹁だといいんだけど。あの子、あんまりあれが欲しいとかって言
ってくれないから、何を買えばいいのか判らなくってね﹂
本当なら自分で選んで愛莉にあげたかったのだが、翔子には何に
も思いつかなかったのだ。
テディー・ベアも翔子がカスタマイズしようかと思ったが、自分
がするよりは愛莉が納得するものの方がいいと思ってギフトカード
142
にしたのだ。
﹁ジョーたちも用意しているみたいよ?﹂
﹁毎年申し訳ないわね﹂
﹁いいのよ。あの子たちも楽しんでいるみたいだから。アイリー
ンは末っ子の妹みたいなものよ﹂
翔子も愛莉と一緒にグェンたちへのクリスマス・プレゼントは用
意してある。
とはいえあまり高いものではないのだが、それでも愛莉と2人で
一生懸命選んだものだ。
それらは自宅のクリスマス・ツリーの下に愛莉が並べてくれた。
﹁それで、今夜は帰りは遅いの?﹂
﹁う∼ん・・・どうだろう? 日にちが変わる前には帰ってこれ
ると思うけど・・・できれば10時くらいには帰ってきたいんだけ
どな﹂
﹁そりゃ無理でしょ? 確かパーティーが始まるのが8時って言
ってたじゃない﹂
﹁そうなのよねぇ・・・でも、ボスは2時間くらい付き合えば帰
れるって言ってたから﹂
今夜はクリスマス・イヴという事で、賢一が言っていたようにパ
ーティーに参加する事になっている。
6時に迎えの車を寄越すと言っていたので、時計を見るとあと1
5分ほどで迎えがくるだろう。
今翔子が着ているのは白いシャツにダーク・グリーンのパンツス
ーツだ。
ドレスは賢一がホテルに用意してあるというので、向こうに到着
してから着替える事になっている。
﹁それにしてもショーコも大変ねぇ。ボスに付き合ってパーティ
ーに出なくちゃいけないなんてねぇ﹂
﹁仕方ないわよ。ボスのパートナーが長期入院しているから、公
のパーティーとなると1人で参加する訳にはいかないからこうやっ
143
て社員が交代でパーティーに付き合っているのよね。でもその分特
別ボーナスが貰えるから、ラッキーってみんなで言ってるわ﹂
﹁特別ボーナスを貰っても帰る時間が遅くなると疲れない?﹂
﹁大丈夫よ、今日明日は休みだからのんびりするわ。それに30
日から5日間、また休みになるしね﹂
我ながら白々しいな、と思いつつも翔子は賢一と考えた言い訳を
口にする。
つまり、会社のボスである大河内賢一には大切なパートナーがい
るが、今は病気で長期入院しているので一緒に公の場に出てもらえ
なくて困っている。だから信頼できる社員に代わりにパートナーと
して公の場にいかなくてはいけない時に付き合ってもらっている、
という事にしているのだ。
﹁遅くなったら迎えに来るのは明日でいいわよ。どうせ明日も午
後から来るでしょ?﹂
﹁うん。でも愛莉は今夜は帰りたがると思うから﹂
﹁そう? あぁ、そうね、イヴだものね﹂
﹁もうサンタの事は信じてないけど、それでもクリスマスの朝は
家で迎えたいと思うのよね﹂ そうなると帰りが遅くて申し訳ないのだが、クリスマスくらいは
愛莉の希望通りにしてやりたいと思うのだ。
﹁まぁ、ショーコはうちの合鍵も持っているから、それを使って
入って来ればいいわ。アイリーンはビングのカウチで寝ていると思
うから﹂ ﹁ありがとう、いつもごめんね﹂
﹁気にしないで。家族でしょ﹂
﹁・・・ん﹂
家族、とグェンが言ってくれる事が嬉しい。
﹁ま、私が寝てても多分ジョーかベンが付き合っていると思うわ﹂
﹁そう? そういえばベンは今夜はバイトなんだっけ﹂
﹁そうそう、帰りはショーコと同じくらいになるんじゃないかし
144
ら? その代わり明日明後日の2日休みだって言ってたわ﹂
﹁で、ジョーは遅番だったわね、今夜﹂
昨日愛莉を迎えに来た時にドアを開けてくれたジョーがそう言っ
ていた事を思い出す。
バンク
﹁そう、その代わりあの子も明日明後日が休みだって言ってたわ﹂
﹁銀行だから、日曜祝日は元から休みじゃない。でも、2日続け
てって、よく貰えたわね﹂
﹁その代償が今日の遅番、って事﹂
﹁あぁ、なるほどね﹂
という事は、グェンは寝ているかもしれないけれど、ベンとジョ
ーは起きているかもしれない、という事だ。
それなら愛莉も淋しくないし、グェンも無理して起きている必要
はないから良かった、と翔子は胸を撫でおろす。
そんな翔子に手を伸ばして、グェンはポンポンと彼女の腕を叩く。
﹁それより、明日、ちゃんと来なさいよ﹂
﹁サムたちは何時に来るんだっけ?﹂
﹁あの子たちは1時に来るって言ってたわね。多分4時か5時く
らいまでここにいて、それから今度はボビーの家に言ってそこでク
リスマス・ディナーだって言ってたわ﹂
グェンは顎に手を当てて少し考えながら、サムとの会話を思い出
す。
﹁じゃあ、私は12時過ぎに来るわね。それなら少しは手伝える
でしょ?﹂
・・
﹁別にそんな事気にしなくてもいいのよ?﹂
﹁それくらいはさせてね。だって、家族でしょ?﹂
﹁もうっ、ショーコったら﹂
プッと小さく吹き出したグェンに釣られて翔子も一緒になって吹
き出す。
﹁約束通り、愛莉と一緒にクッキーを焼いて持ってくるわね﹂
﹁真っ黒クッキー?﹂
145
﹁多分、焦げ茶クッキーくらいだと思うわ﹂
ちゃんとタイマーをセットして、愛莉がネタをオーブンに入れた
タイミングで温度もチェックしよう、と翔子は心の中にメモをとる。
﹁私はレモン・メレンゲ・パイを作るわね。愛莉が多分手伝うっ
ていうと思うけど﹂
﹁メレンゲはやめて、ただのレモンパイにすれば? あれならオ
ーブンで焼かないから、焦げないわよ﹂
﹁もうっ、グェンったら・・・愛莉の希望なのよ、レモン・メレ
ンゲ・パイ。だから、諦めて﹂
﹁仕方ないわね﹂
ふふっと笑みを交わしていると、翔子のスマフォがブブブッと震
えた。
﹁あっ、多分迎えが来たんだと思うわ﹂
﹁ちゃんと迎えかどうか確認して乗るのよ﹂
キッチンテーブルから立ち上がって翔子が玄関から外を覗くと、
そこには黒いハイヤーが停まっているのが見える。
見覚えのあるあれは、賢一が翔子の迎えに送り込んできたものだ。
﹁間違いないと思うわ﹂
﹁それでも乗る前に確認するのよ﹂
﹃イエース。愛莉っ、お姉ちゃん、もう行くわね﹄
グェンに軽くハグをして、翔子はリビングで寝転んでいる愛莉に
日本語で声をかける。
﹃気をつけてね∼﹄
﹃グェンに迷惑をかけちゃダメよ﹄
﹃判ってま∼す﹄
﹁じゃあ、愛莉の事よろしくね﹂
﹁大丈夫よ。ほら、行ってらっしゃい﹂
テレビに視線を向けたまま手を振る愛莉を見て呆れて頭を振るが、
そんな翔子を急き立てるようにグェンがドアを開けた。
﹁いってきます﹂
146
バッグを手に取り忘れ物がないか確認してから、翔子はグェンに
てを振ってから迎えの車に乗り込んだ。
147
15. ︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
148
16.︵前書き︶
﹃﹄は日本語、﹁﹂は英語です。
149
16.
バタン、とドアが閉まり車が走りだしたところで、翔子は思わず
大きな溜め息を吐いていた。
﹃大丈夫かい?﹄
﹃えっ、あぁ、はい﹄
﹃疲れちゃったかな?﹄
﹃そうですね、挨拶する人が多かったから・・・でも、初めての
パーティー参加の時を思えばまだ大丈夫です﹄
﹃確かにね、特にクリスマスのパーティーは大きな規模のものが
多いから仕方ないな﹄
どうやら翔子自身、自分が大きな溜め息を吐いた事に気づいてい
なかったようで、賢一に尋ねられて少しバツの悪そうな表情を浮か
べるが聞かれるままに素直に答える。
賢一に連れられて初めてパーティーに参加した時は、カチカチに
緊張していて何が何だか判らないうちに終わっていたのだ。
その事を思えば、今夜はまだマシだ。
ただ今夜は挨拶しなければいけない人が多すぎて気を使いすぎて
疲れたのだと思い、翔子がそう言うと賢一もそれに同意した。。
﹃でも良かったんですか?﹄
﹃何が?﹄
﹃まだ10時になってないですよ? こんなに早くパーティーを
抜け出しても良かったんですか?﹄
﹃大丈夫大丈夫。最初に挨拶に言った時に、今夜は長居できませ
ん、って言っておいたから。そしたら、せっかくのクリスマス・イ
ヴにビジネスを兼ねたパーティーは無粋でしたね、って言ってたよ﹄
つまり、恋人と過ごす時間が欲しいからパーティーを早めに抜け
出した、と思われたようだ。
150
﹃こっちとしても、そう勘違いしてくれる方が助かるからね。特
に今回のパーティー参加者の3割くらいは僕たちが出る予定のニュ
ー・イヤー・パーティーでも会う筈だから、今夜こうやって仲良く
パーティーにやってきて早く切り上げて帰って行ったと噂してくれ
ると根回し代わりになって助かるよ﹄
﹃そんなに噂にならないような気がしますけどね﹄
﹃判らないよ? まぁ、噂にならなくても彼女の耳に入るだけで
十分かな﹄
賢一が言う彼女、とは先日お茶会で顔をあわせた近藤沙也香の事
だ、と翔子にはすぐに判った。
﹃彼女、今日のパーティーには来てませんでしたね﹄
﹃呼ばれてないからね﹄
・・・・
﹃でも、この前のお茶会も呼ばれてなかったけど来てましたよ?﹄
ホスト役のシンディー・マッケイランドの紹介では、たまたまこ
っちに来ていたから誘ったと言っていた記憶があるので、招待状が
なくとも参加してくるかもしれないと翔子は思っていたのだ。
﹃あれはシンディーが主催していたからだよ。顔見知りだからね。
つて
でも今夜のパーティーの主催者と彼女との間にはなんの接点もない
からね﹄
﹃でも彼女だったら知り合いの伝手とか使ってでも来てもおかし
くない、ですよね?﹄
﹃まぁね。目的のためだったら手段は選ばないってところ、ある
からねぇ・・・﹄
ホスト
はっきりと断言できないのは賢一にも完全に予想がつけられない
からだろう。
﹃でも今夜のクリスマス・パーティーの主催者はそういうイレギ
ュラーが好きじゃないタイプだから、多分手を回しても無理だろう
なとは思っていたんだよ﹄
﹃そうだったんですか﹄
﹃うん、あの2人はきちんと計画を立ててその通りに動くのが好
151
きなんだ。だからパーティーの出欠も1ヶ月くらい前に返事を聞か
れたし、本番までに招待した客の下調べも済ませるから客である俺
たちとの会話も凄くスムースだっただろ?﹄
ホスト
﹃そういえば・・・はい、そうですね﹄
主催者の夫妻と挨拶をした時、夫は賢一と言葉を交わして夫人の
方は翔子と言葉を交わしたのだが、その時に変に突っ込まれる事も
なく普通に会話が成り立っていたな、と今更ながら思い出す。
﹃だから、1ヶ月以上前からパーティーに参加するために行動し
ていたって言うんならともかく、そうじゃなかったら絶対に潜り込
めないさ。招待客以外はご遠慮くださいって招待状に書いてあった
からね﹄
つまり招待された賢一は、出席すると返事をした時にはあらかじ
め翔子を連れて行くと連絡をしていたのだろう。
ホスト
でなければ翔子を連れて行くことはできなかった筈だ。
・・
なるほど、確かにイレギュラーが嫌いな主催者たちだ、と翔子は
納得する。
﹃まぁ、ニュー・イヤー・パーティーの参加者リストには彼女の
名前があったから、そこでは嫌でも顔を合わせる事になるだろうね﹄
﹃それはもう覚悟してます﹄
﹃そう? 僕は覚悟できてないなぁ・・・あの勢いで迫られたら
なんて考えるだけでウンザリするよ。誰か他の人にターゲットを移
してくれればいいのに﹄
﹃賢一さんだけにターゲットを絞っているって事ですか?﹄
﹃ん∼・・・そういう訳じゃないみたいなんだけどね。一応パー
ティーなんかで知り合う若い男には色目を使って反応をみているみ
たいだね。それでその中の誰が一番お買い得か、って頭の中で計算
しているんだろう﹄
八方美人で誰にでも愛想良く振舞うようだ。
少しでも条件のいい男を捕まえれば、今と同等かそれ以上の贅沢
な生活をさせて貰えるという、自分の生活レベルを変えないための
152
努力という事だろう。
好きという感情を抜きにした、ただ打算だけの感情で結婚相手を
物色するという行為が理解できない翔子には全く理解できない。
﹃どこかに若くてお金を持っていて、あんな女でもいい、ってい
うもの好き、いないかなぁ・・・﹄
﹃賢一さん・・それは﹄
﹃僕の希望だよ、あくまでもね。よっぽどのボンボンでもない限
りあんなのを引き受けるような物好きはいないんだろうけどね。ま
ぁ、彼女の家とどうしても繋がりが欲しいっていう人間だったら我
慢するだろうけど、でも彼女の実家のビジネスは万人に受けるよう
なものじゃないからねぇ・・・食品製造会社とかっていうんだった
ら多少の便宜を図って貰えるんだろうけど、でもそれだけじゃあ無
理に結婚するだけのメリットはない。ま、それが判っているから彼
女も頑張って婚活しているんだろう﹄
なかなか辛辣な事を言うが、翔子としてもその通りだと思うので
諌めるつもりはない。
﹃確かに美人だからアクセサリーとしては役に立つだろうけど、
一生付き合う相手として考えるとあの蛇のような性質はドン引きだ
よ。あれで性格がもう少し良かったら相手も簡単に見つかるんだろ
うけど﹄
﹃なんだか本当に酷い言い方ですね﹄
﹃えっ? だって、本当の事だよ? 僕なんて初めて会ったパー
ティーでロック・オンされてからずっと付きまとわれているんだか
ら、もう彼女の性質は見抜いたって自負しているよ。ただ彼女は自
分の容姿には自信があるから、自分から積極的に迫れば断る男はい
ないって思ってるんだろうね﹄
﹃あ∼・・・まぁ、それは私も思いました。今すぐ別れろって言
われたし、毛色の変わった相手という事で興味を持っただけですぐ
に飽きると断言されましたしね﹄
あんな風に蔑まれたのは初めての経験で、翔子は面食らって少し
153
言葉は出なかったのを思い出す。
けれど一度気を撮り直したあとは、賢一と打ち合わせていた通り
あまり世間を知らない無知な可愛い系の娘を演じた。
頭に血が上っていた彼女は、翔子が賢一のタイプの女性を演じて
いたとは思ってもいないだろう。
﹃まぁ自分は何を言っても許される、って思っているんだろうね。
それより、次のパーティーの事だけど、泊まりで大丈夫なんだよね
?﹄
﹃えっ? あっ、はい。グェンに頼んでおきました。愛莉も納得
してくれたので大丈夫です﹄
彼女の話など不愉快な気持ちになるだけだから、と話題を変えた
賢一に、翔子は小さく頷いた。
﹃そっか、無理言って申し訳ないって、お隣さんにも言っておい
て。妹ちゃんにもごめんって伝えてくれるかな。やっぱりお姉さん
と一緒に過ごしたかったと思うから﹄
﹃大丈夫ですよ。どうせ愛莉は10時には寝てるから。それに愛
莉はカウチで寝てたけど、去年はグェンのところでカウントダウン
をテレビで見たんですよ。だから、今年は同じ事を私抜きでするだ
けですね﹄
﹃いやいやいや、それでもやっぱり小さな妹ちゃんはお姉ちゃん
と一緒に居たいだろう? なんだか気がひけるんだよね﹄
心底申し訳ない、と言わんばかりの表情を浮かべる賢一は本当に
そう思っているんだろう。
﹃これも契約のうちですよ。だから、気にしないでください﹄
﹃いや、そうは言っても・・・まぁ、なんだ。判った﹄
じっと見つめる翔子から視線を外して、賢一は渋々ながら頷いた。
この契約を持ちかけられた時、翔子は賢一の事を打算的で冷たい
男と思ったが、実際こうして契約のためとはいえ一緒にいると彼が
全く冷たい男などではない事にすぐに気づいた。
何かと気を遣ってくれるのだ。
154
翔子は契約を結んだ理由が妹の愛莉にある事を知っている。とい
うか、愛莉の事があるから翔子に話を持ちかけてきたのだろう。
それでもできるだけ翔子の負担にならないように気を遣ってくれ
るので、周囲に気を遣ってばかりいた翔子にはとても助かっている。
﹃じゃあ、大晦日は8時に迎えに行くよ﹄
﹃ドレスはどれを着ればいいんですか?﹄
﹃いや、普段の格好で来ればいいよ。ホテルに部屋を取ってある
から、そこに用意してあるドレスに着替えればいい。その方が君も
楽だろう? 宝石類もいろいろ用意してあるから、向こうで髪を仕
上げてもらう時に一緒にあわせてもらえばいい﹄
﹃宝石って・・・・﹄
﹃ちょっと今回は豪華バージョンで行くつもりだから﹄
豪華バージョンと言われても、どんなものか想像もつかない。
所詮一般人でしかない翔子にとっては、今まで参加したパーティ
ーで身につけたものでさえ既に豪華としか思えないのに、それ以上
着飾る事になるのかと思うと不安になってしまう。
﹃一体、どんな格好をさせられるんでしょう?﹄
﹃それは当日のお楽しみ、だよ。君はスタイルがいいからきっと
似合うよ﹄
﹃・・・なんだか不安しかないんですけど・・・﹄
・
﹃大丈夫大丈夫。君はもっと自分に自信を持つべきだよ。妹ちゃ
・
んの事もあって話を持ちかけやすいって事もあったけど、君は十分
彼女に張り合えるほど魅力的な女性なんだから。そう思ったからこ
そ、僕はこの話を君に持ちかけたんだよ﹄
面と向かってこんなセリフを言われた事のなかった翔子は、頰が
熱くなってくるのを止められない。
﹃そんな君に似合うだろうな、って思って選んだドレスを着て僕
と一緒にパーティーに参加してもらいたいんだよ。既に君の事は噂
になっているんだ﹄
﹃・・・噂、ですか?﹄
155
﹃そう、噂。僕が連れて歩いている魅力的な女性は誰だ? って
ね。もちろんうちの会社の人間だって事は既に知れ渡っているみた
いだよ。でも素性はまだはっきりと判っていないみたいだね。あと、
今はどこでどうやって僕たちが出会ったのか、っていう憶測がいろ
いろと飛び交っているところ、かな?﹄
﹃まさかこっそり調べられたりなんてしないですよね?﹄
﹃調べられて困るような事、ないんだろう? だったら心配しな
くてもいいよ。うちの会社で働いている一般人女性って事程度じゃ
ないかな?﹄
とはいえおそらく彼女の妹が通院している事なども調べ上げられ
ているだろう、と賢一は思っているのだがそんな事は翔子に伝える
必要はないだろう。
むしろ病気で大金が必要な妹を一生懸命に支える姉という事で、
健気だという噂が出るかもしれない。
もちろん、妹の通院のためのお金目当てで賢一に近づいてきたの
では、という憶測も飛び交うだろうという事も予想の範囲内だ。
お金目当てなのか、純粋な恋心なのか、その辺りの事を好きにゴ
シップしてくれればいい、と思っているのだから。
そうやってかき回して周囲を撹乱する事ができればそれが一番だ。
飛び交う噂のどれが本物でどれが嘘か、それが判らない状況を作
り出す事も、賢一が翔子を選んだ理由の1つである。
賢一がそんな事を考えながら暫く何も言わないまま車の振動に体
を任せているうちに、見知った通りに車が停まった。
﹃ついたみたいだね﹄
﹃ありがとうございました﹄
着替えの入った紙袋を掴んで翔子が車から降りたところで賢一が
窓を開ける。
それに気づいた翔子は、車を回って窓を開けた賢一のところに回
り込む。
﹃ちょっとこっちに近づいてくれるかな?﹄
156
﹃えっと・・?﹄
手招きして翔子が近づくと、賢一は少しだけ車の中央に移動する。
そのせいで翔子は窓から中を覗き込むようにぐっと近づかなけれ
ばならなかった。
遠目にはまるで翔子がキスのために窓から中を覗き込んでいるよ
うに見えるのだが、そんな事に彼女は全く気づいておらず賢一の言
葉を待っている。
・・
﹃明後日、悪いけど10時くらいに僕の部屋に足を運んでくれる
かな? その時にもう少し彼女の情報を渡したいんだ﹄
﹃判りました﹄
﹃じゃあ、メリークリスマス﹄
﹃メリークリスマス﹄
小さく頭を下げてから、翔子は車から離れるとそのまま走り去る
車を見送った。
157
16.︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
158
17. ︵前書き︶
﹃﹄は日本語、﹁﹂は英語です。
159
17. 遠ざかっていった車のテールライトが角を曲がって見えなくなっ
てから、翔子はフゥッと小さくため息をついてからグェンの家の玄
関に向かった。
そしてバッグからスマフォを取り出して時間を確認する。
時刻はまだ11時少し前だ。
今ならグェンは無理としてもジョーかベンくらいは起きているか
もしれない。
そう思って呼び鈴を押そうとしたところで、玄関がいきなり開い
た。
﹃うきゃっ﹄
驚いて小さな変な声をあげて一歩後ろに下がると、ドアからジョ
ーが姿を現した。
﹁ジョー・・・驚かさないでよ﹂
﹁・・・遅かったんだな﹂
﹁そぉ? 思ったより早かったなって思ったんだけど?﹂
どこか不機嫌そうなジョーの声に、翔子は小首を傾げる。
グェンには真夜中になるかもしれない、と伝えてあったのだ。
それがありがたい事に11時前に帰ってくる事ができたのだから、
翔子は遅いとは思っていない。
﹁もう11時になるのに早いのか?﹂
﹁グェンには帰るのは真夜中過ぎちゃうかも、って言ってたんだ
けど? パーティーは8時からだったんだけど、10前には会場を
出る事ができたから11時前には帰ってこれたのよ﹂
まるで言い訳だな、と思いつつもなんだかんだと言って心配して
くれているジョーに説明する。
けれど、彼は翔子を見ていない。彼の視線は賢一の乗った車が去
160
っていった方向だった。
﹁で、一緒にパーティーに行ったパートナーであるボスが送って
くれたのか?﹂
﹁そう、タクシーで帰ろうとしたんだけど、ボスが危ないからっ
て言って送ってくれたの﹂
﹁危ないってこの辺は安全だと思うけどな﹂
﹁そうね。でも暗くなってから女性を1人で帰らせるのは心配だ、
って言って送ってくれたのよ﹂
というか、パーティー会場で別々に別れて帰るわけにはいかなか
ったから、というのが一番の理由だがジョーにそんな事までいうつ
もりはなかった。
﹁向こうの都合でこんな夜中まで引っ張り回されているんだから、
そのくらいの気配りは当然だろう﹂
﹁これも仕事みたいなものよ。別に無給でこき使われているわけ
じゃないし﹂
﹁当たり前だよ。大体パーティーに連れて行く相手がいないって
言うんだったら1人で出れば済むだけなのに、どうしてショーコに
迷惑をかけなくちゃいけないんだ?﹂
﹁迷惑じゃないわよ。それにパーティーに1人で出るわけにもい
かなかったんでしょ。ビジネス関係のパーティーだから、パートナ
ーがいた方が色々と便利なのよ﹂
苛立つ声で賢一の文句をいうジョーをなんとか宥めようと説明を
するが、彼は聞く耳を持とうとしない。
﹁まったく、ショーコは気が良すぎるよ。もっとはっきりと迷惑
だって言っても構わないんだ。別にショーコが行かなくても、派遣
コンパニオンを雇ってもいいんだからな。断ったからってクビには
ならない﹂
﹁そうね。でも、私は仕事として請け負ったの。その事について
文句は言われたくないわ﹂
﹁ショーコ﹂
161
まさか翔子が言い返してくるとは思っていなかったのだろう。
ジョーはどこか驚いたような表情を浮かべて翔子を見下ろした。
﹁そりゃ確かにグェンには迷惑をかけているわ。だって、毎日愛
莉の面倒を見てもらっているんだもの。でも、ちゃんとグェンに相
談してこの仕事を受けるって決めたのよ。もしグェンが愛莉の面倒
を見れないって言ったら請け負わなかったわ﹂
﹁けど・・・﹂
﹁心配してくれている事は判ってるし、本当にありがたいって思
ってる。でも、私の仕事の事に口を出されたくないわ。ちゃんと自
分で考えて、この仕事を受けたの。できないと思ったら受けていな
いわ﹂
この仕事、という言葉をジョーがパーティーでのパートナー役と
受け止める事は判っているが、翔子にとってそれは賢一の提案した
契約の事だ。
誰にも言っていない契約だ。
きっとこの話をしたらグェンは止めるだろう、と翔子は思う。
ジョーやベン、それにサマンサも何を考えているんだ、と言って
やめさせるに違いない。
けれど、翔子は猶予としてもらっていた1週間の間、しっかり考
えたのだ。
そして賢一の持ち抱えた話に乗る事にした。
お金が必要だった。たった1人の家族である妹のためだったら、
翔子はなんだってする。
それに賢一はすごく気を遣ってくれるのだ、それこそ翔子が申し
訳なく思うほどに。
彼のおかげで2週間に1度の愛莉の通院にも遠慮なく通う事がで
きているし、一番心配だったお金の問題も解決した。それまでは1
カ月に1度すら金銭的に大変だったのだから。それができていたの
はひとえに両親の保険金があったからで、それすらもあとどのくら
い継続できるか、というところまで残金が減っていたのだ。
162
医療費が無茶苦茶高いアメリカで、こうやってきちんと愛莉を病
院に連れて行く事ができているのは、賢一が翔子にこの話を持ちか
けたからだ。
来年手術をすれば、最初の1年は毎月通う事になるが、そのあと
はそこまで病院に通う必要は無くなるし、愛莉も普通の生活に戻る
事ができるのだ。
﹁私のボスはいい人よ。今夜だって遅くならないように気を遣っ
てくれたから、こんな時間に戻る事ができたの﹂
﹁けど、夜まで仕事しなくたって﹂
﹁今までだって残業で帰りが10時過ぎる事あったじゃない? どうして残業はよくてパーティーのおともがダメなのか判らないわ﹂
﹁それは・・・・﹂
支店で働いていた時には週に1度は残業で帰りが10時過ぎる時
があったのだ。
それを思うと今は滅多に残業はないし、あってもせいぜい1時間
程度だから遅くても8時には家に戻れる。
﹁とりあえず中に入っていい? 愛莉を迎えに来たの﹂
﹁あっ、ああ﹂
翔子に言われてようやくジョーは自分が玄関を塞いでいた事に気
づいたのだろう、慌ててからだを横に動かした。
できたその隙間からスルリと家の中に入ると、手に持っていたバ
ッグを床におろす。
﹁それは?﹂
﹁えっ? あぁ、それ、私の着替えよ。パーティー会場で着替え
ていたら遅くなるから、って持って帰ってきたの﹂
﹁そうか・・・そのドレス、綺麗だ﹂
﹁えっと・・ありがとう﹂
身につけていた宝石の類はすでに賢一に返してあるので今身につ
けているのはドレスだけだった。
ジョーに言われて見下ろすと、そこには今夜のパーティー用だと
163
言われて受け取ったドレスが目に入る。
光沢のある濃紺の無地に刺繍されたビーズが部屋の明かりを受け
て、まるで夜空の星のように煌めいている。
おそらく本当に夜空をイメージしたのだろう、左腰のあたりから
裾に向かって流線状に広がっていくビーズの幅は、まるで天の川の
ようだったし、その周辺にバランスよく配されている少し大きめの
ビーズは星のようにみえる。
﹁愛莉はいつもの場所?﹂
﹁ああ、カウチで丸まっているよ﹂
﹁あの子、本当にここのカウチが好きね。うちだとそこまでカウ
チでゴロゴロしてないのに﹂
家ではカウチよりも自室のベッドの上でゴロゴロしている愛莉を
思う。
﹁まぁここには自分の部屋がないからな。サムの部屋でゴロゴロ
してて良いって言った事もあるけど、リビングのカウチがいい、っ
て言われたよ﹂
﹁サムに遠慮してるのかしら?﹂
﹁いや、ただテレビが見れないからカウチ︽ここ︾が良い、って
言ってた﹂
﹁まったく、あの子は・・・﹂
翔子自身あまりテレビを見ないせいか、家ではあまりテレビをつ
けている事がない。
だから部屋でゴロゴロしているのかも、と今更ながら愛莉が家と
ここでいる場所が違う意味がわかった気がした。
﹁寝てるの?﹂
﹁多分、ね。俺が帰ってきた時はまだ起きてたけど、シャワーを
浴びて出てきた時には寝てたからな﹂
﹁じゃあ、抱っこして連れて帰るかな﹂
﹁手伝おうか?﹂
﹁ううん、大丈夫。あの子くらいならまだ抱き上げられるから﹂
164
病気のせいか、愛莉は同年代の女の子に比べると一回り小さい。
本人はそれを気にしているが、翔子としては補助をしてやりやす
いので助かっている。
そっとリビングを覗くと、ジョーの言う通りそこには丸まって眠
っている愛莉がいる。
翔子は音を立てないように近づいてから、起こさないように愛莉
を抱き上げた。
﹁玄関の鍵を開ける手伝いは?﹂
﹁それも大丈夫。そのバッグの中に入っているからすぐに出せる
から﹂
抱き上げた愛莉が落ちないように右手で気をつけながら抱えて、
左手で先ほど床においたバッグを取り上げる。
玄関の前まで来ると、ジョーがドアを開けて支えてくれる。
﹁ありがとう﹂
﹁どういたしまして﹂
開けてくれたドアを出て、フロント・ポーチの階段を降りていく。
その後ろをジョーがついて降りてきた。
﹁明日、12時くらいに来るから、ってグェンに言っておいてく
れる?﹂
﹁判った。けど、昨日母さんがショーコは12時頃来るって言っ
てたから大丈夫だと思うよ﹂
﹁そう? でもまぁ、念のために、ね﹂
明日は愛莉と一緒にパイを焼くつもりだ。時間があればついでに
クッキーも作ろうと翔子は思っているが、その辺りは明日起きた時
間次第だろう。
﹁・・・そういえば、来週はアイリーンがうちに泊まるって言っ
てたけど、本当なのか?﹂
﹁来週? あぁ、大晦日ね。グェンに頼んだのよ。ニュー・イヤ
ー・パーティーに参加するボスについていく事になっているから、
帰って来る前に日付が変わってると思うから﹂
165
﹁また、ボスと行くのか﹂
﹁そうね。仕事の話もあるし、今夜のパーティーの延長みたいな
ものだから、今夜パートナーを務めた私が丁度いいみたいね﹂
ふと思い出したように愛莉が泊まる事を口にしたジョーは、翔子
が賢一とまたパーティーに参加すると聞いて不機嫌になる。
しかもニュー・イヤー・パーティーとなると、カウントダウンす
るまでは帰る事もできないだろう。
﹁何もショーコが行かなくても−−﹂
﹁ジョー、また始めるつもり?﹂
﹁けど、ショーコ﹂
﹁愛莉が家にいて迷惑かもしれないけど、グェンがいいって言っ
てくれたんだから我慢してくれると嬉しいわ﹂
﹁アイリーンは迷惑なんかじゃない。ただ、俺が心配なだけだ﹂
また始まった、と翔子は内心うんざりしたが、それを表情に出さ
ないように気をつける。
﹁ジョー・・・さっきも言ったけど、私は子供じゃないの。仕事
として引き受けた事には責任を持つ、それだけよ﹂
﹁パーティーパーティーって、そんなに楽しいのか? 金持ちの
パーティーなんかに気を取られてアイリーンの事を蔑ろにしている
としか思えないけどな﹂
﹁そんなつもりはないわ﹂
﹁どうかな? いつもショーコにほっとかれて、アイリーンは寂
しい思いをしているんだぞ﹂
両親が亡くなってから1人にしてしまう事が多い愛莉が寂しい思
いをしている事は、翔子が一番よく知っている。
それでも仕事をこなさなければ生活していけないのだ。
そして賢一との契約がなければ、愛莉を病院似通わせ続ける事も
できないのだ。
﹁愛莉が寂しい思いをしている事、私にだって判っているわ。だ
けど私が働かなかったら生活していけないもの。ジョーが何を思っ
166
てそう言っているのか判らないけど、ボスの仕事のパートナーとし
てパーティーに出る事で臨時ボーナスが入るのよ。それがあれば愛
莉を病院に通わせる事ができるの。私にとって愛莉が一番大切なの。
だから今の私はジョーに何を言われてもやめるつもりはないわ﹂
﹁アイリーンが病院に行かなくちゃいけない事なんか判ってるよ。
もしそのためのお金が必要なんだったら俺が−−﹂
﹁施しを受けるつもりはないわ。これは私と愛莉の問題よ﹂
﹁ショーコ、だけど−−﹂
食い下がるジョーが更に言葉を続けようとした時、通りを走るバ
イクのヘッドライトが2人を照らし出した。
そのヘッドライトはそのままグェンの家のドライブウェイに入っ
てくる。
﹁・・・ベンが帰ってきたみたいね﹂
﹁ああ・・・﹂
キィっというブレーキの音がしてエンジンが切られると、ベンが
ヘルメットを外しながら翔子たちの方に向かって歩いてきた。
﹁2人とも、何してんだい?﹂
﹁愛莉を迎えに来たのよ。これから帰るところ﹂
﹁遅かったんだね﹂
﹁そうね。今夜はボスのパートナーとしてパーティーに参加して
いたの﹂
﹁あぁ、そういや母さんがそんな事言ってったっけ﹂
翔子の言葉に頷いてから、彼女の腕の中で眠っている愛莉の髪を
そっと撫でる。
﹁じゃあ、帰るわ﹂
﹁また明日。来るんだろ?﹂
﹁ええ、多分ね。迷惑だったらやめるつもりだけど﹂
﹁まさか。ショーコたちが来てくれると母さんが喜ぶよ。そうだ
ろ、ジョー﹂
﹁・・・ああ﹂
167
どこか歯切れの悪いジョーの声にベンは頭を傾げるが、それに対
しての返事は来ない。
﹁とりあえず、来る前にグェンに電話するわ﹂
﹁ショーコ・・・﹂
﹁おやすみなさい﹂
何か言いたそうに翔子の名前を呼ぶジョーを一瞥してから、翔子
は短く挨拶をしてそのまま自宅に向かって歩いて行った。
168
17. ︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
169
18.︵前書き︶
﹃﹄は日本語、﹁﹂は英語です。
170
18.
クリスマスが終わると、一気に雰囲気が寂しくなるように思える
のは気のせいだろうか?
翔子はそんな事を思いながら、病院の2階にあるいつものカフェ
テリアにやってきていた。
愛莉は暫く前にやってきたナースが検査に連れて行ったのでカフ
ェテリアに1人になった翔子は、いつものようにセルフで自分好み
に仕上げたコーヒーを窓際の席で飲んでいる。
どこか閑散とした感じのカフェテリアには、つい2日前まで流れ
ていたクリスマスソングとは打って変わって静かで落ち着いたクラ
シックが流れている。
クリスマス前まではどこか慌ただしかった雰囲気もあったのだが、
今はみんな大騒ぎした後の落ち着きを取り戻して、なんとなく行き
ペーパーバック
交うナースたちの足取りも落ち着いている気がする。
そんな事を思いながら、翔子は持ってきた文庫本を取り出して、
まだ折り目も付いていない真新しいページを開いていた。
これはクリスマスの日にグェンがくれたロマンス小説だった。
事故で家族を全てなくした女の子が、陰ながら彼女を支えてくれ
た男性と少しずつ愛を育む、そんな話だと後ろの解説のところに書
いてある。
グェン曰く、とても泣ける話、だそうだ。
まぁ少し読み進めてから、この小説の話をお茶の時にしてもいい
かな、とネタのようなつもりで今日読む事にしたのだ。
クリスマスの日、翔子はジョーに宣言した通りグェンにまず電話
をいれた。
それから家族だけで過ごした方がいいのではないか、と提案した
のだがグェンはその場で却下してしまった。
171
昨日パーティーに出かけるまではそんな事を言っていなかったの
で、何かあったのか、と聞かれたがそれに関しては適当に言葉を濁
したものの、結局午後からグェンの家に行く事は変更にならなかっ
た。
愛莉が楽しみにしていた事もあり、翔子は気まずいながらもグェ
ンの家に行ったのだ。
結果的には翔子もそれなりに楽しめたのだが、それでもジョーと
言葉をあまり交わす事なく食事を楽しんで家に帰った。
グェンには翔子とジョーの仲がギクシャクしていた事はバレてい
たようだが、だからと言って特に何かを言ってくる事もなかったの
でホッとした。
翔子にはどうしてジョーがあそこまでこだわるのか判らない。
﹃パーティーが続いていたから、遊んでいると思われたのかなぁ・
・・﹄
気を使うばかりで疲れるのだが、ジョーからすれば華やかな席で
楽しんでばかりいるように見えたのかもしれない。
それはそれで仕方ないと思うが、できればこれも翔子の仕事だと
割り切ってくれるとグェンの家にも行きやすいのにと思わずにいら
れない。
﹃今週もまたパーティーに出なくちゃいけないのに、グェンのと
ころで顔を合わせるのがちょっと気まずいなぁ・・・﹄
特に今回は愛莉をグェンのところに預けて迎えに行くのは翌日な
のだ。
11時前に帰ってくるパーティーであれだけ言われたのに、元旦
に愛莉を迎えに行く時にはどれくらい言われる事やら、と思うと今
ペーパーバック
から溜め息が出そうになる。
ボゥッと目だけは文庫本に向かっているものの、肝心の内容は全
く翔子の頭に入ってきていない。
そのせいで目の前に人が座った事にもすぐに気付かなかった。
﹁・・・コ・・・ショーコ﹂
172
﹃へっ?﹄
ペーパーバック
手にしている文庫本の端を突かれて、翔子は初めて目の前に人が
座っている事に気づいて顔を上げた。
﹁・・・ミスター・クィン?﹂
﹁さっきから名前を呼んでいたんだけど。随分読書に熱中してい
たな﹂
﹁あっ・・・ごめんなさい﹂
﹁いや、読書の邪魔をしたのはこっちだから、ショーコが謝る事
はないよ﹂
少しだけ申し訳なさそうな表情を浮かべたクィンに、翔子は小さ
く頭を横に振った。
﹁大丈夫です。本は開いていただけで、ぼぅっと考え事をしてい
ただけですから﹂
﹁そうなのか?﹂
﹁明後日からまた3日ほど休みなんです。それで仕事を済ませて
おかないと、休みに休日出勤が入ると困るな、って思って頭の仲で
手順を考えていたんです﹂
﹁仕事熱心な事はいい事だと思うが、ここにいる時くらいはのん
びりしてもいいんじゃないかな﹂
まさかジョーの事を言うわけにもいかず、翔子は適当に頭に浮か
んだ言い訳を口にするが、クィンがそれを真に受けたので少し彼に
申し訳ない気がした。
﹁そうですね・・・あんまり難しく考えないようにします﹂
﹁うん、それがいいと思うよ﹂
﹁それで、ミスター・クィンはどうしてここに?﹂
﹁仕事を兼ねての巡回だよ、今年もあと少しだからね。あとはこ
の前今日アイリーンの検査があるって言っていたから、もしかした
らここにショーコがいるかもしれないと思って来てみたんだ﹂
そういえばそんな話をしたような気がする。
というか、勝手に調べられて腹を立てた翔子に謝ってから聞かれ
173
たのだ。
あの時、きちんと謝ってくれた事に正直驚いたせいで、翔子も聞
かれるままに愛莉の通院予定を話してしまった事を今更ながら思い
出した。
クィンとの出会いと再会が本当に最悪の状態だったので、翔子は
彼に対していいイメージを全く持っていなかった。
しかし、それからきちんと話す機会があり、その時に彼が相手を
見下す事なくきちんと謝罪できる人間だと知る事ができた。
だから今こうやって普通に話をする事ができるのだと翔子は思っ
ている。
﹁アイリーンはまだ検査中?﹂
﹁そうです。多分あと15分か20分くらいで戻ってくると思い
ます﹂
﹁いつもここでこうやって待っているのか?﹂
﹁はい。きちんと検査が終わる時間も判らないから、愛莉が戻っ
てきた時に誰もいなくて困った、なんて事になると可哀そうですか
らね﹂
﹁それは・・・確かにそうだな﹂
愛莉はまだ11歳だ。本人は一人で大丈夫と言うが、それでも翔
子は心配なのだ。
そんな翔子の不安をクィンは肯定してくれた事がなぜか嬉しかっ
た。
﹁そういえば、この前会った時の話、覚えているか?﹂
﹁この前・・・もしかしてお茶会での事ですか?﹂
﹁そうだ。あの時、今度機会があればアイリーンとショーコに俺
の3人でランチでも食べようって言っただろう?﹂
﹁そういえば、そうでしたね・・・でも、今日はちょっと予定が
あるんです﹂
今日はこの後、愛莉と一緒に買い物に行く予定になっている。
明後日から仕事は休みになるのだが、その前に愛莉をテディー・
174
ベアの店に連れて行くのだ。
翔子がクリスマスに愛莉にプレゼントしたカスタム・テディー・
ベアを作れるカードは、愛莉をとても喜ばせた。
それは翔子が休みに入るまで待てなかったほどだ。
﹁いや、別に今日じゃなくてもいいんだ。ただ、いつなら都合が
いいか聞いておこうと思ったんだよ﹂
﹁そうですね・・・でもいいんですか? 気にしなくてもいいん
ですよ?﹂
あれは社交辞令、だと翔子は思ったのだ。
だから、何も無理に翔子と愛莉を食事に誘う事はない。
﹁そういうつもりで声をかけたんじゃないよ。あの場限りで言っ
たんだったら、わざわざこうやって声をかけに来てないさ﹂
﹁でも、忙しいんですよね?﹂
﹁もちろん、仕事があるからな。でも、ショーコとアイリーンを
ランチに連れて行く時間くらいはあるよ﹂
﹁じゃあ・・・いつ行くかを決める前に、愛莉に相談してもいい
ですか? 彼女はミスター・クィンの事を知りませんから、もしか
したら、その・・・﹂
愛莉が嫌がるかもしれない、と言いかけて、他にもっと柔らかい
表現を探したのだが思いつかなくて言葉煮詰まった。
﹁そうだな、見知らぬ男と一緒にランチに行こうと言われても困
るだろうな。じゃあ、アイリーンが来るまでここにいても構わない
かな?﹂
﹁えっと・・・別にそれはいいんですけど、ミスター・クィンは
仕事があるんじゃないんですか?﹂
﹁俺の方の仕事はクリスマスの日が最後だったよ。今日から2週
間は休みだから心配しなくてもいいよ﹂
どうやらクリスマス休暇中のようだ。とはいえ、話ではクリスマ
ス当日までは仕事だったようだが、それでもこれからしばらくは仕
事を休めるらしい。
175
﹁ところで、そろそろそのミスター・クィンっていうのを止めて
くれないかな?﹂
﹁えっ・・・と?﹂
﹁俺の事はただのクィンでいいよ﹂
﹁でも・・・﹂
クィンと呼び捨てて構わないと言われても、彼の事をよく知らな
い翔子でもパーティーに招待されたりこの病院の理事を勤めていた
りという事で彼がかなりの地位にいる事は想像できる。
そんな相手を呼び捨てにしていいものかどうか、と思うのだ。
﹁もしかして俺が初対面の時に偉そうにしたのが悪かったか? あれは俺が一方的に悪かったと思っている。だから、あの事を忘れ
てもう少し・・そうだな、堅苦しさを取り払って欲しいと思ったん
だが﹂
﹁いえ、その・・・あの事はもう謝罪を受け入れていますから気
にしないでください。ただ・・その、ですね。私のような一般人が
馴れ馴れしい口を利く事を快く思わない人もいるのでは、と思って・
・・その・・﹂
﹁そんな事は気にする必要はない。俺がいいと言っているんだ。
文句を言ってくる奴がいれば、俺が許可したと言えばいい﹂
クィンはなんだそんな事かと言わんばかりにあっさりと言う。
だが彼に文句を言うものはいないだろう。その事で実際に文句を
言われるのは翔子なのだ。
﹁何を躊躇う事があるんだ。この病院のナースでも俺の事をクィ
ンと呼んでいるんだぞ?﹂
﹁そ、そうなんですか?﹂
﹁ああ、だから、ショーコが遠慮する事はない﹂
もちろんそれはクィンが許したものだけなのだが、そこまで翔子
に言う必要はないと思っている。
﹁えっと・・じゃあ、クィン・・?﹂
﹁ああ、それでいい﹂
176
翔子が彼を呼ぶのを聞いて、納得したように頷いている。
そんな姿は相変わらず尊大に見えるが、それでもあの時と違って
彼が翔子を見る目には冷たさはない。
なんとなく視線を交わしたまま沈黙が漂ったが、それは不快なも
のではなかった。
翔子はコーヒーカップを手にとって、それを1口飲む。
そんな彼女の前で、クィンも持っていたカップに口をつける。
二人は静かな沈黙に委ねて、暫くそのまま言葉を交わす事もなく
コーヒーを飲んでいた。
177
18.︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
178
19.︵前書き︶
﹃﹄は日本語、﹁﹂は英語です。
179
19.
﹃お姉ちゃんっ﹄
そんな2人の間に流れていた心地よい沈黙を破ったのは、翔子を
呼ぶ愛莉の声だった。
その声に気づいて顔をあげると、愛莉はカフェテリアの出入り口
のところでナースに左手を繋がれて、右手で手を振りながら翔子を
待っている。
﹃愛莉? もう済んだの?﹄
エックス・レイ
﹃うん。今日はあんまり他の患者さんがいなかったから早かった、
ってレントゲンのおじちゃんが言ってた﹄
椅子から立ち上がって出入り口まで愛莉を迎えに行くと、彼女は
ポスンと音を立てて翔子に抱きついた。
﹃ちゃんと看護婦さんにお礼言ったの?﹄
﹁あっ、今日もありがとうございました﹂
﹁いえいえ、アイリーンはいい子でしたよ。じゃあ、また2週間
後にね﹂
﹁はぁい﹂
バイバイ、と自分をここまで連れて来てくれたナースに手を振り
ながら、翔子と繋いだ手を出入り口から出る方角へと引っ張る。
﹃愛莉、悪いけどちょっとだけ待ってくれる?﹄
﹃えっ? だってこれからくまさん、作りに行くんでしょ?﹄
﹃そうよ。でも、愛莉に会いたいっていう人が向こうで待ってる
の﹄
嫌そうな顔で立ち止まったものの自分に会いたいという人がいる
と言われ、好奇心を浮かべた視線を先ほどで翔子が座っていたテー
ブルに向ける。
﹃・・・あの人?﹄
180
﹃そう、お姉ちゃんの知り合いなんだけど、いいかな?﹄
﹃う∼ん・・・仕方ないなぁ。ちょっとだけよ?﹄
﹃うん、それでいいわ。ありがとう﹄
顎に手を当てて少しだけ考えるポースをとって、いかにも仕方な
いと言わんばかりの愛莉の態度に翔子は笑わないようにする。
シ
そんな翔子に気づいていない愛莉は、彼女の手を引っ張るように
して窓際のテーブルに向かう。
向かう先ではクィンが二人の方に体を向けて座ったままだ。
﹁愛莉、この人はクィンっていうの﹂
﹁はじめまして、愛莉です﹂
﹁はじめまして、わざわざ来てもらって悪かったね﹂
ッシー
﹁大丈夫。ちょっとだけだったらね。私、忙しいんだけど、お姉
ちゃんがお願いするから﹂
﹁あっ、愛莉っ﹂
ツンと顎を上げて偉そうに言う愛莉を咎めようと翔子は声をあげ
るが、クィンは気にするなというように軽く手を振った。
﹁そういえば今日はこれから出かけるんだったね﹂
シッシー
﹁そう。私の新しいお友達を作りに行くの﹂
﹁お友達?﹂
﹁テディー・ベアよ。お姉ちゃんがクリスマスに新しいお友達を
作ることができる魔法のカードをくれたの。今日はこれからそのカ
ードを使ってお友達を作るのよ﹂
シッシ
翔子と繋いでいない方の手を腰に当てて、愛莉は自慢そうに言う。
﹁へぇ、すごいなぁ﹂
ー
﹁でしょ! 本当はもっと早く行きたかったんだけど、お姉ちゃ
んはお仕事があったから、仕方ないから今日まで待ってあげたの﹂
﹁そっか、ちゃんと待てたんだ。アイリーンは偉いんだね﹂
﹁偉くないわ、当たり前の事よ﹂
愛莉のあまりの態度に翔子は額に手を当てるが、目の前のクィン
はそんな愛莉の態度に腹を立てた様子はなく、むしろ面白そうに彼
181
女の話に乗っている。
﹁いやいや、偉いぞ。だって、大切なお姉さんのためにそうやっ
て我慢できたんだから。じゃあ、そんな偉いアイリーンをご飯に連
れて行ってあげたいんだけど、どうかな?﹂
﹁ご飯?﹂
﹁なんでもいいよ。アイリーンの食べたいものを言えばいい﹂
﹁今日?﹂
﹁今日でもいいし、もし忙しいんだったらまた別の日でもいいよ﹂
笑みを浮かべたクィンの顔を見てから、愛莉は少し考えるように
俯いた。
その間に翔子はクィンと視線を交わして、すみませんと言うよう
に小さく頭を下げる。
﹁じゃあね、愛莉、レッドコーラルに行きたい﹂
﹁・・レッドコーラル?﹂
﹁ビュッフェスタイルのレストランなんです﹂
レッドコーラルと言われても判らないという表情を浮かべたクィ
ンに、翔子は済まなさそうに教える。
このレストランは料理の種類が200種類を超えるというのが売
りの店で、デザートの種類だけで30種類はあるのだ。
おそらく愛莉はこのデザートが食べたいがゆえにそこに行きたい
と言ったのだろうと翔子は踏んでいる。
﹁行った事ないの?﹂
﹁ああ、言った事ないなぁ﹂
﹁仕方ないわね。じゃあ、愛莉がどうすればいいのか教えてあげ
るわ﹂
﹃あっ、愛莉っ。ちょっと言い方が失礼よ﹄
クィンが子供相手に怒るとは思えないが、それでもあまりにも失
礼な物言いに翔子は思わず日本語で愛莉を叱った。
﹃どうして? だって、このおじちゃん、何にも知らないみたい
なのよ? だから愛莉が教えてあげるって言ってるの﹄
182
﹃でもね、言い方っていうのがあるでしょう? そんな風に偉そ
うに言うと、相手に失礼よ﹄
﹃でも私、親切で言ったのに﹄
﹃そうね。愛莉が教えてあげようって言ってるのは良い事だと思
うの。でもね、もし愛莉が教えてもらう立場で、相手がすごく偉そ
うだったらどう思う? 偉そうに言ってくる人に教えてもらいたい
って思うかしら?﹄
愛莉は心臓が悪く学校に行けていないが、頭の回転は早い方だと
翔子は思う。
元教師だったグェンが自宅で愛莉のホーム・スクールの先生をし
てくれているが、彼女も愛莉が教えた事はすぐに覚えると言って、
楽しそうに愛莉に勉強を教えてくれているほどだ。
だから翔子は頭ごなしに間違っている、と愛莉に言った事はない。
順を追ってきちんと説明すれば、愛莉はちゃんと理解すると思っ
ているのだ。
﹃そうだね・・・うん。偉そうに言われると嫌、かな?﹄
﹃じゃあ自分がクィンに言った言葉を思い出せる? それで、そ
の言葉、どう思うかな?﹄
﹃う∼ん・・・・ちょっと、偉そうかな?﹄
はっきりと偉そうだった、と認めないところが愛莉らしい、と翔
子は思わず笑ってしまう。
それでも一度認めた愛莉は、クィンを見上げて目を合わせてから
すぐに頭を下げた。
﹁ごめんなさい。私、ちょっと偉そうだったわ﹂
﹁偉そう?﹂
﹁そう、教えてあげるなんて言い方、偉そうじゃない? おじち
ゃんが教えてって言っているんだったらいいけど、私が勝手に教え
てあげるなんて決め付けたんだもの﹂
﹁・・・・﹂
﹁だから、言い直すの。おじちゃん、愛莉の手助け、必要?﹂
183
﹁・・・・﹂
頭を傾げて尋ねる愛莉をじっと見たまま固まってしまったクィン
は何も返事をしない。
もしかして、何か失礼な事を愛莉は言ったのだろうか?
翔子は今も短い会話からどこが失礼だったのだろう、と考えるが
思い当たる部分がない。
謝るにしてもとにかく何が気に障ったのかを知らなければどうし
ようもない、そう思った翔子は思い切って声をかける事にした
﹁あの・・・﹂
﹁あっ、ああ、すまない﹂
﹁えっと、妹が失礼な口を利いてすみません﹂
﹁い、いや、気にしていない﹂
﹁そうですか?﹂
﹁ああ・・ただ、ちょっとショックだっただけだ﹂
苦笑いを浮かべたクィンは小さく手を振って翔子の言葉を否定す
るが、どう見てもクィンの言う通りだとは思えない。
翔子は愛莉の方をチラリと見てから、じっとクィンを見つめる。
その視線を受けて、どうやらごまかせていないようだ、とクィン
は思ったのか小さなため息を吐いてから口を開いた。
﹁いや・・・アイリーンはしっかりしているよ。そんな彼女に対
して怒る筈はないだろう?﹂
﹁でも、そんな風に見えませんでしたよ?﹂
﹁ただ、彼女に言われた言葉にショックを受けたんだ﹂
﹁愛莉の言った言葉、ですか?﹂
そう言われて頭の中で反芻してみるものの判らない。
﹁その・・・アイリーンからすれば、自分はおじさんなんだな、
と思ったらショックだった﹂
﹁・・・は?﹂
﹁よく考えたらそうなんだな、って自覚するともっとショックだ
ったよ。確かに11歳のアイリーンからすれば、35歳の俺はおじ
184
さん、なんだよな﹂
﹁えっと・・・・﹂
どうやらクィンは愛莉からおじちゃん呼ばわりされた事がショッ
クだったようだ。
翔子から見ればクィンはとてもかっこいい男性だと思うが、11
歳でしかない愛莉にすればおじさんに見えたとしても仕方ないだろ
う。
なので、翔子は彼にどう言葉をかければいいのか判らず言葉に詰
まってしまう。
そんな翔子の困ったような表情を読み取ったのか、クィンはふっ
と口元に苦笑を浮かべてから視線を愛莉に戻した。
﹁俺はアイリーンに教えてもらえると嬉しいよ﹂
﹁ホント?﹂
﹁ああ、それにアイリーンの態度は気にならないから気にしなく
てもいいよ。でも、これは俺とアイリーンの間だけ、だからな﹂
﹁う・・・と、他の人には気をつけろって事?﹂
﹁そうだな。俺は気にしないけれど、中には腹を立てる人もいる
かもしれないだろう? そういう人はアイリーンに文句を言わない
で、ショーコに文句をいうかもしれない。そうなったら嫌だろ?﹂
﹁うん、そうだね・・・判った﹂
大好きな姉の翔子が愛莉のせいで文句を言われるかもしれない、
と聞いて愛莉は途端に真面目な顔になって頷いた。
﹁それから、俺の事はクィン、って呼んでくれるかな?﹂
﹁クィン?﹂
﹁そう。おじちゃんはあんまり嬉しくない﹂
﹁仕方ないね。判った。これからはクィンって呼ぶね﹂
﹁ああ。ありがとう﹂
何があっても自分の事をおじちゃんと呼ばれたくないクィンを見
て、翔子は思わず小さく吹きだした。
そんな翔子をジロリと睨みはしたものの、クィンもすぐに翔子と
185
同じように吹き出した。
そんな2人を交互にみる愛莉にはどうやら意味が判っていないよ
うだ。
﹁じゃあ、これからランチを食べに行こうか﹂
﹁レッドコーラル?﹂
﹁もちろん、アイリーンはそこに行きたいんだろう?﹂
﹁うんっっ!﹂
嬉しそうな愛莉に頷いてから立ち上がるクィンに、愛莉は小さな
手を差し伸べる。
クィンはその手を見て困惑したような顔を愛莉に向けた。
そんな彼に愛莉は得意そうに答える。
﹁クィンは行った事ないから、私が連れて行ってあげるね﹂
﹁・・・ありがとう、アイリーン﹂
﹁どういたしまして﹂
どこか眩しそうに愛莉をみるクィンを翔子は反対側から微笑まし
そうに見てから、2人を促してカフェテリアをあとにした。
186
19.︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
187
20. ︵前書き︶
﹃﹄は日本語、﹁﹂は英語です。
188
20. 広い店内にはこれでもか、というほどのテディー・ベアが飾られ
ている。
小さいものは15センチくらいから、大きなものになると軽く1
メートルほどはありそうな大きさの色とりどりのテディー・ベアた
ちを見て、愛莉は店に入ったと同時に悲鳴のような歓声を上げて翔
子とクィンを入り口に置き去って店内に入って行ってしまった。
﹁なんか・・凄いな﹂
﹁確か1000匹以上のテディー・ベアが店内に飾られているそ
うです﹂
ぐるっと見回すと、基本の色が5色ある事が判る。白、黒、薄茶、
茶、焦げ茶の5色だ。他にもレインボーカラーやパステルカラーも
あるが、ギフトカードを買いに来た時に店員が基本色が5色あるの
だ、と言っていた事を翔子は今更ながら思い出す。
そして、店の奥にはちょっとしたワードローブが取り付けられて
いて、そこには100種類以上のテディー・ベア用の服が用意され
ていて、更にはこれまた100種類以上のアクセサリーが用意され
ている。
﹁確かに自分だけのテディー・ベアをカスタマイズできそうだな﹂
﹁それが売りみたいです。最近出来たばかりのお店なんですけど、
愛莉のギフトカードを買いに来た時は本当にごった返してて、もの
凄く待たされた上にもみくちゃにされたんです﹂
﹁そうだろうな・・・だったら、やっぱり今日来てよかったんじ
ゃないのか?﹂
﹁そう思います。クリスマスも終わったし平日だから、ちょっと
閑散としていて愛莉ものんびりと店内を見て回る事ができそうだし﹂
ごった返す店内に愛莉を連れてきてもしもの事があったらと思う
189
と、翔子はクィンの言葉に頷いた。
愛莉の希望通りレッドコーラルでランチを食べた後、クィンはそ
のまま愛莉をカスタム・テディー・ベアの店に連れてきてくれた。
病院からレストランに行く時に車を別々にしようと翔子は言った
のだが、クィンは食事の後一緒にテディー・ベアの店に行ってみた
いと言いだしたのだ。
病院から出てすぐに﹃車をどうするか﹄で揉めたのだ。
翔子は食事の後でカスタム・テディー・ベアの店に行く事が判っ
ていたので、別々の車で行こうと言ったのだが、クィンは自分の車
1台で行こうと提案してきたのだ。
﹁そんなに面白い場所じゃないですよ?﹂
﹁山ほどのテディー・ベアがあるんだろう? そんな場所見た事
ないから面白そうだ﹂
﹁でも・・・すぐに決められないと思うから、かなり待たされる
と思いますよ?﹂
﹁大丈夫さ。どうせ休みなんだからな。たまには時間を気にせず
にのんびりしたいと思っていたんだ﹂
面白そうに笑みを浮かべて言うクィンを見て、翔子はどうしよう、
と愛莉を見下ろす。
そんな愛莉の前にクィンはかがみこんで視線を合わせる。
﹁クィン、一緒に行きたいの?﹂
﹁ああ、アイリーンがいいって言ってくれれば、君が新しい友達
を選ぶのを見たいな﹂
﹁私、妥協しないから時間かかるよ?﹂
﹁妥協って・・・アイリーンは難しい言葉を知ってるね。うん、
じっくりと時間をかけて選べばいいよ。だってアイリーンの大切な
190
新しい友達なんだろう?﹂
難しい顔をしてクィンと話す愛莉を見て、一体どこでこんな言葉
を覚えたんだろうと思う。
﹁私を急がせない?﹂
﹁当たり前だろう?﹂
﹁・・・じゃあ、クィン、一緒に来てもいいわ。その代わり、も
しかしたら決められないかもしれないから、その時は私にアドバイ
スをしてね﹂
﹁もちろん、俺で役に立つならね、頑張らせてもらうよ﹂
相変わらず偉そうな物言いだがそんな愛莉にクィンは腹を立てる
でもなく、むしろ笑みを浮かべて彼女と話をしている。
にっこりと笑みを浮かべた愛莉の前にクィンは握り拳を突き出し
た。
それを見た愛莉も同じように小さな握り拳を作って、クィンの握
り拳にトンと当てる。
どうやら翔子を抜いたまま2人は協定を結んだようだ、と彼女は
小ため息を吐いたのだった。
店のほぼ中央の辺りから翔子はクィンと並んで愛莉を見ている。
﹁どれを選ぶと思う?﹂
﹁ん∼・・・多分、薄茶のベアー?﹂
﹁どうしてそう思うんだ?﹂
﹁パステルカラーのテディー・ベアは好きじゃないって言ってた
から、そうなると基本色から選ぶんじゃないかなって思ったんです。
その中でも無難なのが薄茶色のベアーでしょ?﹂
191
忙しなく顔をキョロキョロさせながら色々なテディー・ベアに手
を伸ばしては触ってみたり抱き上げてみたりしている愛莉は本当に
楽しそうだ。
﹁無難な色を選ぶとは限らないぞ?﹂
﹁そうですね。でも、愛莉ってあんまり冒険しない子だから。う
ちにあるテディー・ベアの中で貰い物じゃないベアーは基本色の物
ばっかりです。あっ、そういえば1つだけ、くすんだ赤色がいます﹂
﹁1つだけ?﹂
﹁そう。あの子にしては珍しいな、って思ったのを覚えてますね﹂
貰い物のテディー・ベアの中にはレインボー・カラーもあれば蛍
光色もあるが、愛莉が選ぶテディー・ベアは無難な色が多い。それ
でも1つだけくすんだ赤い色がある。
それは愛莉の父親であるドナルドが彼女と一緒に出かけた時に2
人で選んで買ったものだ。
だから愛莉が選んだとは言い切れないが、それでも彼女が納得し
て買って帰ってきたものだ。
﹁クィンは何色を選ぶと思いますか?﹂
﹁そうだな・・・・黒?﹂
﹁黒、ですか?﹂
﹁店の奥に並んでいるテディー・ベア用の服があるだろう? 黒
だったらあの中のどの服でも合うんじゃないかなって思ったんだ﹂
﹁なるほど・・・﹂
言われて見れば、確かに明るい色の服が多い気がする。
翔子は横目で愛莉を見てから、そのまま店の奥にあるワードロー
ブと書かれたコーナーに向かう。
﹁なんか・・・すごい種類があるから、選ぶのが大変かも﹂
﹁そうだな・・・T−シャツが多いが、それだけでもかなりの種
類がありそうだ﹂
テディー・ベアにT−シャツは定番だが、そのT−シャツ1つと
っても種類が豊富すぎて、愛莉が全てを選ぶまでにどのくらいの時
192
間がかかるだろう、と心配になってきた。
﹁あの・・・もしかしたら凄く時間がかかるかもしれないので、
その時は先に帰ってくださいね﹂
﹁今日は特に急ぐ予定もないから、気にしなくてもいいよ﹂
﹁でも・・・多分、すっごく時間がかかる気がします﹂
﹁まぁ、確かにな。服だけでもこれだけ種類があると、アイリー
ンも決めかねるだろうな﹂
苦笑いを浮かべて翔子に同意するクィンは、そのままハンガーに
かかっている服を1つ手に取る。
﹁一応ボーイ用とガール用があるみたいだけど、俺にはあそこに
並んでいるテディー・ベアの性別は判らないな﹂
﹁ふふっ。それは私も一緒です。全部同じに見えますからね。で
もよく見るとなんとなく表情が違うのが判ります﹂
﹁そう言われれば、確かに微妙に表情が違うな﹂
﹁きっとそれも自分だけのスペシャル・テディー・ベアを作る為
の物なんでしょうね﹂
なんとなく笑っているようなものから、真面目な顔、少しコミカ
ルなもの、とじっくり見れば色々な表情がある事が判る。
﹃お姉ちゃんっ﹄
店の向こうから愛莉が呼ぶ声がして振り返ると、両手に1つずつ
テディー・ベアを抱えて一生懸命手招きしている姿が見えた。
﹁呼んでるな。行こうか﹂
﹁本体は決まりそうですね﹂
クスクス笑いながら、翔子はクィンと連れ立って歩いていく。
﹃あのね、どっちにしようかって悩んでるの﹄
愛莉が抱きしめているのは体長が50センチほどの焦げ茶と黒の
テディー・ベアだった。
﹁どっちも可愛いな﹂
﹁そうなの。だから、どっちがいいか、決められなくって﹂
﹁じゃあ、先に着せる服を見てきたら? それが似合う子にすれ
193
ばいいんじゃないの?﹂
﹁そっか・・・もしかしたら私が選んだ服が似合わないかもしれ
ないものね﹂
翔子に言われて頷くと、愛莉は2人をその場に残したままとっと
とワードローブに向かっていってしまう。
そんな彼女を見送りながら翔子は小さな溜め息を吐いた。
﹁元気で何より、だろ?﹂
﹁・・・そうですね﹂
疲れたと言わんばかりの翔子の背中にさりげなく手を当てて、ク
ィンは彼女をワードローブの方に促した。
2人がワードローブのコーナーにやってきた頃には、愛莉はすで
に数枚の服を選んでいた。
愛莉が選んだテディー・ベア用の服の1つが若草色のドレスだっ
た事から、彼女が抱きしめているのは女の子なのだろう。
﹁あら、可愛い服を選んだのね﹂
﹁うん。でもたくさんあって決まんない﹂
そう言いながら色々と選んでいる愛莉は、定番のT−シャツには
目もくれずにドレス系の服ばかり見ている。
﹁これはどうだ?﹂
﹁それ? う∼ん・・・まぁまぁね。でも私の好みじゃないわ﹂
一心不乱に服を選んでいる愛莉の前に、クィンはピンク色のドレ
スを差し出したが、あっさり却下されてしまう。
﹁ん∼、じゃあ、これは?﹂
﹁それ? さっきのよりはマシだけど・・・この子達には似合わ
ないわ﹂
結局クィンが選んだ服はすべて却下され、最終的に愛莉が選んだ
のは若草色のドレスに白のエプロンが付いたものだった。
﹁これだとこっちの子の方が似合いそうね﹂
﹁じゃあ、そっちの黒いのは棚に戻してくるわね﹂
愛莉から黒いテディー・ベアを受け取った翔子はそれを棚に戻す
194
と、そのまま愛莉と連れ立ってレジに向かった。
愛莉は選んだテディー・ベアとドレスを手渡すと、ポケットから
クリスマスに貰ったギフトカードを取り出してそれも手渡した。
箱にするか袋にするかと聞かれた愛莉は袋を選んで入れてもらう。
﹁それでは・・・12ドル27セントですね﹂
﹁えっ?﹂
﹁判りました﹂
バッグから財布を取り出している翔子の腕を愛莉が心配そうにぎ
ゅっと引っ張る。
﹃お姉ちゃん。魔法のカードだけじゃ買えなかったの?﹄
﹃大丈夫よ。ほら、いろんな種類があるから、どれになるか判ら
なかったじゃない? だから、魔法のカードの小さいのにしたの。
多分足らないだろうなって思っていたから気にしないで﹄
﹃でも・・・﹄
子供なんだから遠慮する必要はないのだが、両親が亡くなってか
ら愛莉は無理を言わなくなった。
それが頼もしくもあるが、寂しくもある。
翔子は愛莉の頭をそっと撫でてからもう一度財布を取り出そうと
して、彼女の横にやってきたクィンに止められた。
﹁これも足してくれ﹂
彼はテディー・ベア用のドレスをもう1枚台に乗せて、財布から
取り出したクレジットカードを差し出した。
﹁ク、クィン﹂
﹁俺からのプレゼントだ。アイリーン、君の新しい友達に着替え
を買ってあげたいけどいいかな?﹂
﹁・・・いいの?﹂
﹁うん、新しい友達も着たきりすずめだと困るだろう?﹂
慌てて彼を止めようとした翔子を遮って、クィンは少しかがんで
愛莉に尋ねる。
﹁それ、さっき私が選んでいたやつ?﹂
195
﹁うん、そうだよ。アイリーンはこれとそれのどっちにしようか
って悩んでいただろう?﹂
クィンが持ってきたのは、クリーム色生地に白のレースで縁取ら
れたドレスで、愛莉は先ほどまでそれと若草色のドレスのどちらに
しようかと悩んでいたのだ。
﹁2日遅れたけど、俺からのクリスマス・プレゼントって事で受
け取ってくれるかな?﹂
﹁ん・・・ありがとう﹂
少し考えてから、愛莉は嬉しそうに頷いた。
それを見てしまうと、翔子もダメだと言えなくなってしまう。
レジ係から受け取った袋を抱きしめている愛莉と手を繋いで、翔
子は店から出てすぐにクィンに頭を下げた。
﹁すみません。お昼ご飯を奢って貰ったのに、愛莉にプレゼント
まで﹂
﹁気にしなくてもいいさ。アイリーンがあんまり一生懸命選んで
いたから、着替えの代わりに買ってあげたかったんだ﹂
﹁ありがとうございます﹂
﹁本当は黒いテディー・ベアを買ってあげようかと思ったんだが、
きっとショーコがダメだというだろうと思って、それでドレスにし
たんだ﹂
間違ってないだろう? と揶揄うようにいうクィンに翔子は肯定
するように頷いた。
﹁愛莉が断ると思います﹂
﹁そうだね。俺もそう思ったんだ。ショーコも断るだろうけど、
アイリーンが断るだろうな、って﹂
﹁私もクリスマス・プレゼントは1つだけ、って言われてますか
ら﹂
軽く肩を竦めて言うと、クィンが小さく吹き出した。
﹁しっかりした子だな﹂
﹁そう思います﹂
196
﹁また、食事に誘ってもいいかな?﹂
﹁多分・・・愛莉がいいって言えば﹂
﹁私? いいわよ。クィンと一緒ならご飯食べてあげる﹂
﹁光栄だな、ありがとう。じゃあ、また誘うよ﹂
どこから聞いていたのか判らないが、愛莉が偉そうにクィンに許
可を出すと彼は笑いながら礼を言う。
翔子はそんな2人を笑いながら見ていたのだった。
197
20. ︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
198
21.︵前書き︶
﹃﹄は日本語、﹁﹂は英語です。
199
21.
今夜はいよいよニュー・イヤー・パーティーだ。
家を出る前に愛莉をグェンの家に連れて行き、少しだけ言葉を交
わす。
リビングにジョーがいるのが見えたが、彼は翔子の方を振り返る
事もなくテレビを見ており、そこにやってきた愛莉と話をしている。
あの夜から少しだけぎこちない二人の関係は相変わらずぎこちな
いままで、翔子としては気づいていても何も言わないでいてくれる
グェンに申し訳ない気持ちがあるものの、今は賢一との契約の事が
あるからどうしようもないと諦めている。
いつも賢一とともにパーティーに出るようになった最初のうちは
自分ですると言っていたのだが、やはりプロに任せた方が仕上がり
も良く、賢一のために素直に言われるままにするようになった。
パーティーの度にいつの間に用意したのか、というようなドレス
が待っていたのだが、今回翔子は更に驚かされた。
﹃ドレスって言ってたのに・・・・・﹄
思わず小さな溜め息を吐いてしまったが、翔子は悪くない。
というのも、ホテルの部屋で翔子を待っていたのは、鮮やかな振
袖だった。
薄い青が下にいくほどに濃い青になっていき、白い波が裾を彩っ
ている。その波の上を小さな白いカモメが飛び、更に周囲に花が散
らされているという不思議な絵柄だったが、意外と上品に纏まって
いて派手さはないものの華やかさを醸し出している。
振袖を見せられて戸惑った翔子に構う事なく、50代くらいと3
0代くらいに見える、おそらく日系であろう2人の女性はテキパキ
と彼女の着付けを済ませてそのまま化粧を施していく。
髪は軽く結い上げて、銀細工に青い石を使った花から垂れ下がる
200
かんざし
シルバーのチェーンの先には花の部分より濃い青の小さな石が揺れ
ている簪を仕上げに刺してくれた。
ホテルにはない筈の大きな姿見に翔子が自分の姿を映して見てみ
ると、そこに映っているのはまるで自分ではない気がする。
﹁よくお似合いですよ﹂
﹁あ、ありがとうございます﹂
﹁先ほど到着したと連絡がありました。もうそろそろ部屋に来ら
れる筈です﹂
50代に見える女性が鏡越しに翔子に話しかけるのと同時に、部
屋のインターホンが鳴った。
﹁ああ、来られましたね﹂
にっこりと笑って、30代の女性がドアを開けるために行くのを
横目で見てから、翔子はもう一度自分の姿を鏡で見た。
日本に住んでいた頃、成人式に振袖を着れるといいな、と思った
事はあるが17歳の時にアメリカに移住したのでもう着物を着る事
はないだろうと諦めていた。
特に貧乏だったわけではないが、それでもアメリカでは滅多に着
る事のない着物が欲しいとは言えなかったし、愛莉が小学校に入る
としに彼女の病気が判明したのでお金が必要になった両親は更に仕
事をするようになったのだ。
そして大学在学中に両親が亡くなってからは、愛莉のためにも無
駄遣いしないように質素な暮らしをしていたから、着物が欲しいと
思った気持ちは心の奥に封印していたのだ。
それが今、とても綺麗な振袖を着ている自分が鏡に映っているの
だ。
﹃ああ。思った通りだ。よく似合うよ﹄
﹃専・・賢一さん﹄
声をかけられてようやく翔子は賢一が自分の後ろから鏡を覗き込
んでいる事に気づいた。
そこには濃い青のスーツを着こなした賢一が立っている。胸元に
201
は薄い青のハンカチーフを差し込んであり、翔子の振袖の色に合わ
せているのだろう。
﹃君の好みを聞いた方が良かったんだろうけど、僕のスーツの色
と合わせたいと思っていたから勝手に決めたんだけど良かったかな
?﹄
﹃あの・・・いいんですか?﹄
﹃いいって、何が?﹄
﹃ドレスって聞いていたのに・・・これ・・振袖です。こんな高
いもの・・・﹄
﹃いいんだよ。今夜は特別だ。なんせ僕たちの婚約を公表するん
だから﹄
ニンマリと企むような笑みを浮かべた賢一は、まるでイタズラを
仕掛ける子供のように見える。
いつもであれば呆れたような表情を浮かべる翔子だが、今夜は振
袖のショックが大きすぎて困ったような表情を浮かべたままだ。
﹃翔子は17歳の時からアメリカに住んでいるだろう? だった
ら着物なんて着た事なかったんじゃないかな、って思ってね。だっ
たら可愛く見える振袖がいいんじゃないか、って思ったんだ。それ
に振袖を着ていればダンスを踊る必要はないからね﹄
﹃それは・・踊れないですね。私としては誘われても断る口実が
できて嬉しいですけど、その分賢一さんに誘いが来るんじゃないん
ですか?﹄
﹃大丈夫。大切な婚約者のそばを離れたくないから、って言って
断るよ﹄
﹃あの・・・ありがとうございます・・・﹄
着物、初めてです、と小さく付け足す翔子に、賢一は優しい笑み
を返す。
﹃じゃあ、気に入ってくれた?﹄
﹃はい、こんな綺麗な振袖、見た事ないです﹄
﹃古典柄にしようかとも思ったんだけど、現代柄の方が今夜のよ
202
うなパーティーにはいいかな、って思ってそれにしたんだ。それに
僕としてはあんまり派手な柄は好きじゃないからね。良かったかな
?﹄
﹃私も派手な柄は苦手ですから・・・﹄
そう言いつつ思い浮かんだのは、鮮やかな真っ赤な牡丹が描かれ
ていた近藤沙也香が着ていた振袖だった。
もし賢一があんな振袖を選んでいたら、着るのを躊躇ったかもし
れない。
﹃凄く素敵な柄です、これ﹄
﹃面白いだろう? 僕も最初見せてもらった時、海にカモメはい
いけど、なんで花が飛び交っているんだ、なんて思ったんだ。それ
なのに派手じゃなくて、でも華やかさはある。色も僕のスーツに合
わせやすいなって思ってね﹄
そう言われて改めて賢一を見ると、彼のしているネクタイに白い
カモメが飛んでいるのが見えた。
色はハンカチーフと同じような薄い青なのだが、そこに刺繍のカ
モメがいろいろな方向に向かって飛んでおり、それが翔子の着てい
る振袖に合わせてのものだと判る。
﹃あ、気づいた? 翔子の振袖を選んだ時に思いついてね、僕の
ネクタイにカモメの刺繍をしてもらったんだ。色だけじゃなくて、
ネクタイもお揃いだね﹄
クスクスと笑う賢一に、翔子も思わずつられて笑う。
﹃徹底しているんですね﹄
﹃そりゃそうだろ? 大切な婚約者をみんなに見せびらかせるた
めなんだからね﹄
﹃ネクタイにカモメって初めて見ました﹄
﹃僕も見た事ないけど、意外に似合っているだろ?﹄
﹃はい。でも、意外、じゃないですよ。自由奔放な賢一さんにと
てもよく似合っています﹄
思わず口に出してから、アッと口元を押さえて顔を赤くした翔子
203
に、賢一は小さく吹き出した。
﹃すみません・・・﹄
﹃ありがとう。大丈夫だよ。僕も自分でそう思ってるから。だか
ら、日本は居心地が悪かったんだよね﹄
﹃あぁ・・・日本はいろいろと規律が厳しいですからね﹄
﹃そうそう、それに周囲の目を気にしなくちゃいけなかったから、
余計に大変だったよ。だから、親父がロスに行け∼って言ってくれ
て、ホント嬉しかったよ﹄
仕事はきっちりするものの、賢一は秘書に何も言わずに出かけた
り、勝手に携帯をオフにしたりして行方をくらます事が多々あるの
だ。
翔子はその理由を知っているが、他の社員はそんな事は知らない
からか、賢一の事をいい加減な上司と思っている人も少なくない。
ただ、きちんと仕事をこなし数字にそれを叩き出すから面と向か
って文句をいう事もないのだ。
さすが実力主義のアメリカ、というところだろう。
これが日本であれば、たとえきちんと数字を出していても賢一の
行動は認められないだろう。
﹃着替えはこのままここに置いておくから気にしないでいいよ﹄
言われて振り返ると、先ほど翔子を着付けてくれた女性2人が備
え付けのクローゼットに翔子の着ていた服をハンガーにかけて入れ
てくれているところだった。
﹃とりあえず僕たちは行こうか。今夜はここに泊まるように手配
してあるから、帰ってきてもし着替えの手伝いがいるようだったら
フロントに連絡を入れてくれればいいよ﹄
﹃判りました﹄
﹃財布は・・・そうだね、バッグに残しておいてもいいけど・・・
﹄
キョロキョロとベッドの上に視線を向けていた賢一は、見つけた
と言わんばかりに笑みを浮かべてそちらの方に向かう。
204
それから小さな巾着を手にして戻ってきた。
﹃これに入れて持っていけばいいよ﹄
﹃かわいい・・・﹄
賢一が持ってきたのは翔子の振袖の柄に似ている巾着で、翔子は
それを受け取ってから椅子に置いたままだったバッグに手を伸ばし
てスマフォと財布だけを入れてから、少し考えてハンカチとティッ
シュも入れる。
﹃その辺りは日本人だね﹄
﹃えっ? ああ、そうですね。こっちに来てからもついつい持っ
て歩いちゃうんですよ。でも意外と使う機会があって便利です﹄
翔子は賢一がハンカチとティッシュの事を言っている事に気づい
て頷く。
﹃そうだよねぇ・・・こっちでアメリカ人がそういうものを持っ
ているのって見た事ないからね﹄
﹃まぁ・・・その、手を洗わない、っていう人も多いですから﹄
﹃男なんてほとんどが洗わないよ? 僕なんてそういう相手との
握手はしたくないんだけど、そうもいかないからなぁ﹄
﹃それは・・・﹄
﹃ほら、パーティーの時にトイレで顔を合わせる事があるだろう
? そういう時にさ、手を洗わないで出て行くのを見ちゃうと、ガ
ックリ来る訳。ついさっき握手をしたのに、って思うと途端に洗う
手に力が入っちゃうんだよね﹄
ほとほと嫌になる、と言わんばかりの賢一に翔子は苦笑するしか
ない。
確かに女同士ではあまり握手をする機会はないが、男同士だとビ
ジネス商談などの時に握手する機会は多いだろう。
そんなビジネス相手が手を洗わないままトイレを出るところを見
てガックリする気持ちは判らないでもない。
なんせその相手といつも商談などで握手をするのだろうし、パー
ティーで顔を合わせて握手をしたばかりなのに、トイレで手を洗わ
205
ない事が判ってしまうと洗う手に力が入るのも判る気がする。
﹃あれは、私もきてからビックリしましたからね﹄
﹃だよね。僕もまさかアメリカみたいな先進国でこんなカルチャ
ー・ショックを受けるとは思わなかったよ﹄
2人で顔を見合わせてクスクス笑ってから、賢一は腕時計に視線
を落とす。
どうやら出かける時間のようだ。
﹃もう出かけた方がいい時間だね﹄
﹃判りました﹄
﹃忘れ物はない?﹄
﹃大丈夫です。最低限いるものはここに入れましたから﹄
﹃じゃあ、そろそろ行こうか﹄
キュッとネクタイを締め直してから、賢一は翔子の背中に手を置
いて彼女を促した。
翔子はもう一度おかしなところはないかを鏡に映った自分を見て
確認してから、賢一に促されるままドアに向かって歩き出した。
206
21.︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
207
22.︵前書き︶
﹃﹄は日本語、﹁﹂は英語です。
208
22.
﹃そうだ﹄
車に乗って20分ほど経った頃だろうか、賢一が不意に思い出し
たと言わんばかりに声をあげた。
﹃これを渡そうと思っていたんだ﹄
﹃なんですか?﹄
スーツのポケットに手を入れて、小さな箱を取り出す賢一に翔子
は頭をかしげる。
﹃ほら、僕たち、今日から本物の婚約者だからね。必要だろ?﹄
そう言って取り出したのは、プラチナの台に乗った大粒のサファ
イアだった。
驚いて目を見開いている翔子の手をとって、以前彼女に渡した小
粒のルビーのついた指輪を抜き取ってから、賢一はゆっくりとサフ
ァイアのついた指輪を彼女の指に嵌める。
﹃ああ、丁度いいサイズだったね﹄
﹃これ・・・﹄
﹃婚約指輪だよ。振袖の色が青だから、サファイアにしたんだ﹄
サファイアの周囲を取り巻いているのはホワイトサファイアなん
だ、と賢一は付け足しながらそれまで翔子が嵌めていた指輪を今ま
でサファイアの指輪が入っていた小箱に仕舞う。
﹃本当はもう少し大きな石にしようかと思ったんだけど、翔子の
手はそれほど大きくないから似合わないだろうと思ったんだ。やっ
ぱりこのくらいの大きさが丁度いいみたいだね﹄
﹃あの・・・以前貰ったルビーの指輪で十分なんじゃあ・・・﹄
﹃ダメだよ。あんな小さな石の指輪を婚約指輪だって言っても誰
も信じてくれないよ﹄
賢一は小さな石だというが、あのルビーの指輪だって安いもので
209
はない筈だ、と翔子は思う。
一般人の婚約指輪とすれば、以前貰ったルビーの指輪なら十分だ
と思うのだ。
とはいえ相手は賢一だ。一般人とはいえないだろう。
﹃でも前の指輪も君のものだからね、ちゃんと着替えと一緒に入
れておくから心配しなくてもいいよ﹄
﹃べ、別にそんな心配はしてないです。ただ、その、ですね・・・
﹄
﹃値段は気にする必要はないよ。これも必要経費だと思って受け
取っておけばいいんだ﹄
﹃それは・・・﹄
簡単に受け取れるような金額ではない、と言いたいのだが賢一に
は言っても無駄だろうと翔子にも判ってきている。
今まで賢一がこの契約のために翔子に使ったお金はドレスだけで
も数百万だと思っている。それに加えてこサファイアの指輪となる
と、もう翔子にはなんといえばいいのか判らない。
﹃とにかく気にしないでくれると嬉しいかな。もしどうしても気
・・
になるんだったら、今夜の特別ボーナスだって思ってくれればいい
よ。なんせ今夜は彼女と対決だからね﹄
﹃・・そういえば、今夜来るんでしたね﹄
﹃ああ・・・もう今から気が重いよ。だから、絶対に僕のそばに
・・
いるんだよ? どうしても離れなくちゃいけない時は絶対にパーテ
ィー会場からでちゃダメだ。それから、絶対に彼女と2人きりにな
らないように。1人になれば絶対に近づいてくるから、僕がそばに
いられない時は人が多いところに行くんだよ。そうすればイチャモ
ンをつけられる事態も回避できるかもしれないからね﹄
﹃判ってますよ。もう何度も言ってるじゃないですか。もし彼女
と対峙する時は、周囲に人がいて聞き耳立ててもらえるようにしま
すから﹄
﹃そうそう、そうすればあとで因縁はつけられないだろうからね﹄
210
・・
お茶会で突然やってきた彼女対決となってしまった事を気にして、
賢一はそれ以来翔子が申し訳なくなるほど心配性になってしまった
ようだ。
口が酸っぱくなるほど、絶対に、という単語付きで色々と言って
くる。
けれどそれが翔子の事を心配した上での事だと判っているから、
翔子としても素直に頷くようにしている。
それからしばらく車が会場に到着するまで賢一のレクチャーは続
いた。
やってきたパーティー会場で一番に目に入ったのは、会場の奥に
設置されているシャンパンタワー用のシャンパングラスの山だった。
シャンパングラスの山はシャンデリアからの光を反射してキラキ
ラと輝いていて、会場のどこにいても目がいってしまうだろうと思
わせるほど目立っている。
翔子がシャンパンタワー用のグラスの山に驚きの目を向けている
事に気づいた賢一は、彼女をそちらに方に促した。
﹃すごいだろう?﹄
﹃すごいですねぇ・・・これってニュー・イヤーの乾杯用なんで
すか?﹄
﹃うん、そう。カウントダウンをする前にこれにシャンパンを注
ぐんだよ。それをパーティーに来ている全員が持って、カウントダ
ウンを祝うんだ﹄
流石金持ちはする事が違うなぁ、と翔子がどこか呆れたような面
211
ホスト
持ちで考えていると、賢一は彼女の腰に手をあてて歩くようにと促
した。
﹃これからまずはパーティーの主催者のところに挨拶に行こうか﹄
﹃あっ・・はい、そうですね﹄
まだパーティーは始まっていないのだが、始まってからだと混み
合うので、今のうちに挨拶を済ませてしまおうと賢一は思っている
ようだ。
翔子はそんな彼に遅れないように少し早足で歩こうとすると、賢
一は彼女に立ち止まって苦笑を浮かべた顔を向ける。
﹃ごめん、草履だと歩くのが大変だよね。ゆっくり歩くから大丈
夫だよ。それでも速かったら言ってくれたらいいよ﹄
﹃すみません﹄ ﹃いいんだよ。振袖だと歩く歩幅が小さくなっちゃうからね﹄
ドレスであればある程度は歩幅を変える事ができるのだが、着物
となるとどうしても小さくなってしまうのだ。
﹃それより、腕を組もうよ﹄
﹃えっ? あぁ・・・はい﹄
ホスト
申し訳ないと小さく謝る翔子に賢一は左腕を差し出すと、翔子は
遠慮がちに彼の腕に手をかける。
﹃ほら、あそこにいるのが今夜の主催者だよ﹄
﹃えっと確か・・ミスター・サッターフィールドでしたよね?﹄
﹃そうそう。彼はこのホテルのオーナーでもあるんだ﹄
サッターフィールド・グループというホテルチェーンのオーナー
だと賢一が教えてくれた人物は、以前ビジネスペーパーに載ってい
た写真と同じように前髪を後ろに流して固めた金髪の持ち主で、目
の色は淡いブルーだったと翔子は記憶している。
少し距離はあるが、確かに見た感じはビジネス・ペーパーで見た
通りの風貌だった。
ただ写真では判らなかったが、身長は低いようでおそらく160
センチちょっとくらいだろう。
212
それでもホテルチェーンのオーナーだけあって、威風堂々として
おり存在感のある男性だ。
2年ほど前に妻を病気で亡くしており、それからは大抵のパーテ
ィーには1人で参加しており、たまにパートナー同伴のパーティー
にも参加する事があるがそういう時は相手は嫁に言った娘が一緒に
いる。
今夜は主催者と言う事で、パートナー無しのようだ。
賢一がそんな彼の方に向かって歩いて行くと、彼に気づいたのか
アンガスが軽く手をあげた。
﹁アンガス。今夜は招待してくれてありがとう﹂
﹁よく来てくれたな、ケン。ちゃんと来てくれて嬉しいよ﹂
﹁アンガスに誘われたとなると断れませんからね﹂
堅苦しい事が嫌いだというアンガス・サッターフィールドに対し
て、賢一は最初から敬語を使わずに挨拶をしていく。
﹁秘書が君に招待状を送っていた事は知っていたんだが、忙しく
て誰が来るかまでは覚える事ができなかったんだ﹂
﹁500人近い人が招待されていると聞いてますからね。そんな
参加者全員の名前なんて、僕だって覚えられないですよ﹂
﹁と言うか、めんどくさくて秘書に丸投げしておいたんだ。だか
ら、はっきり言って招待客名簿に目を通していないんだ﹂
小さくウィンクしながら言うアンガスに賢一は思わず吹き出した
が、彼はそんな事気にもしてないようで一緒になって笑っている。
﹁それで、そちらのお嬢さんは?﹂
ようやく笑いが収まった頃、アンガスは翔子に視線を向けた。
﹁彼女は私の婚約者でショーコと言います﹂
﹁婚約者?﹂
﹁はい、クリスマスにプロポーズして、無事に受け入れてもらえ
ました﹂
﹁おぉっっっ。それはめでたいっっ。おいっっっ﹂
賢一の言葉に破顔したかと思うと、そのまま近くにいたウェイタ
213
ーを呼び止めた。
﹁シャンパンを持ってきてくれ﹂
﹁もうですか?﹂
﹁タワー用じゃない。祝い事ができたんだ﹂
﹁判りました﹂
頭を傾げていたウェイターは、それでも一礼してから厨房の方へ
と向かった。
﹁ケンもやっと身を固める気になったんだな﹂
﹁やっと、って酷いですね﹂
﹁だがそうだろう? あれだけ引く手数多だったくせに、のらり
くらりと躱していただろう?﹂
﹁あれは自分に最適な相手を探していたんですよ﹂
﹁ふんっ、まぁいい。そういう事にしておいてやろう﹂
バンっと大きな音がするほどの強さで、アンガスは賢一の背中を
叩いた。
隣に立っていた翔子はびっくりして目を見開いている。
﹁アンガス。彼女を脅かさないでくださいよ。すごい音がしたか
らびっくりしてます﹂
﹁おお、すまんすまん﹂
体の大きさに見合わないような豪快な笑い声をあげたアンガスは、
ようやく戻ってきたウェイターからシャンパンの入ったグラスを受
け取った。
賢一もウェイターからシャンパンを2つ受け取って、1つを翔子
に手渡した。
翔子は戸惑いながらもシャンパングラスを受け取ってから周囲を
見回すと、他の客にもシャンパンを配っているのがみえる。
そして遠巻きにではあるが、彼らは翔子たちの方を見つめている
ようだ。
﹁さあ、みんな、シャンパングラスを受け取っただろうか?﹂
ニコニコと笑みを浮かべたアンガスは周囲を見回してから小さく頷
214
いた。どうやら客たちがグラスを持っているのが確認できたようだ。
﹁今夜はカウントダウンの音頭を取るだけのつもりだったんだが、
そうはいかなくなったようだ。ここにいる私のビジネス仲間が爆弾
を落としてくれたからな﹂
少しざわついていた客たちはアンガスが話し始めると静かになる。
﹁彼、ケンがついに年貢の納めどきとなったようだ。こちらにい
る可愛らしいお嬢さんと婚約をしたと私に報告してくれたのだ﹂
﹁おぉっっ﹂
﹁コングラチュレーション!﹂
途端に湧き上がる歓声はどれも好意的なもので、どよめきの中に
おめでとうと言う声も聞こえてくる。
﹁カウントダウンまでまだ暫くあるが、その前に二人の為に乾杯
をしようではないか﹂
アンガスの声に合わせて、客たちは手に持っているシャンパング
ラスを掲げた。
﹁それでも二人の婚約に・・・乾杯っっっ!﹂
﹁乾杯っ﹂
﹁乾杯っ﹂
﹁おめでとうっ﹂
﹁幸せにね﹂
﹁うまくやったなっ﹂
アンガスの音頭でカチンというグラスが鳴る音があちらこちらか
ら響いてくる。
そんな中、まだ戸惑う気持ちを持ったままの翔子は、賢一とアン
ガスのグラスに自分のグラスをぶつけてから一気に半分ほど飲み干
した。
﹁なかなかいい飲みっぷりだね﹂
﹁ええ、頼もしいでしょう?﹂
﹁さっそく惚気かい? まったく。今までの君からそんな言葉が
出る日が来るなんてねぇ﹂
215
そっと賢一に抱き寄せられるまま翔子は体を彼に預けて、まだボ
ゥッとした意識のまま2人が楽しそうに話している横でただ会話を
聞いているだけだった。
216
22.︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
217
23.︵前書き︶
﹃﹄は日本語、﹁﹂は英語です。
218
23.
﹁3・・・2・・・1・・・﹂
﹁ハッピー・ニュー・イヤーッッッ!!!﹂
カウントダウンの声が途切れると、アンガスの大きな声が新年を
宣言した。
途端に口笛や歓声が周囲から聞こえてくる。
パンッパンッというクラッカーの鳴る音がしたかと思うと、天井
からたくさんの紙吹雪が降ってきた。
一体どこに仕掛けていたのだろう、と見上げるものの翔子にはさ
っぱり判らない。
そんな彼女が手にしていたシャンパングラスに賢一が自分のグラ
スをカチンと当ててきたから、慌てて翔子は彼の方に向き直る。
すでに3杯ほどカクテルやシャンパンを飲んでいるので、翔子の
頰はほんのりと赤くなっている。
﹃あけましておめでとう﹄
﹃あけましておめでとうございます﹄
耳元に日本語で囁く賢一を小さく微笑みながら見上げた時、不意
に彼の顔が近づいたかと思うと翔子の唇に柔らかいものが触れた。
驚いて目を見開いたまま固まっていると、賢一が少し困ったよう
な笑みを浮かべて屈み込で耳元で囁く。
﹃もしかして・・・初めて、じゃないよね?﹄
﹃えっと、それは・・・ちがいます﹄
﹃よかった。君の反応を見てドキっとしちゃったよ﹄
高校の時に初めてできたボーイフレンドが翔子のファーストキス
の相手だった。
それから大学に入ってからも恋人はいた事はある。
ただキス以上の関係になる前に翔子と愛莉の両親が事故で亡くな
219
り、翔子に彼と付き合い続けるだけの余裕がなくなった事と、愛莉
の病気の事があって疎通になってしまってそのまま自然消滅したの
だ。
﹃みんなが見ているからね。サービス? ってか、これがホント
のリップサービス?﹄
アレ
変なダジャレをいいながら翔子を抱きよせて、彼女の顔を自分の
胸に押し当てたまま流れている曲に合わせて体を揺らす。
﹃怒ってないよね?﹄
ひとこと
﹃えぇ・・ただ、驚いただけです﹄
﹃ごめん、する前に一言断っておけばよかったんだけど、彼女が
こっちにやってこようとしていたから、その牽制のためにわざと見
アレ
せつけたんだ﹄
彼女、という言葉で翔子はハッとして顔を賢一の胸元から上げよ
うとしたが、彼の手が彼女の頭をぐっと自分の胸に押し付けたので
動く事もできない。
﹃ほら、カウントダウンが終わったタイミングで隣の人とキスを
するだろう? 彼女、それを狙ってこっちに向かって来ていたみた
いだね﹄
﹃そういえば・・・今来たんですか?﹄
﹃いいや。少し前に来てたみたいだね。僕たちは僕の友人たちに
囲まれていたから、そのせいで近くに来れなかったみたいだ﹄
知らなかった、と翔子が小さく呟くと、賢一が小さく笑うのが胸
の振動で判った。
アンガスに紹介されてシャンパンで乾杯をしてから、翔子は賢一
の知り合いたちにか込まれておめでとうと言われていたので、すっ
かり彼女の事が頭から抜け落ちていた。
﹃今も隣の人と話をしているけど、目だけをこっちに向けてみて
いるんだよね﹄
﹃あの・・・アンガスさんが私たちの婚約を祝った事、まだ知ら
ないんでしょうか?﹄
220
﹃あれはパーティーが本格的に始まる前だっただろ? だから多
分、彼女と個人的に付き合いがある人たちは言えないんだと思う。
ほら、あの性格だからね。でもそのうち彼女と特に付き合いがない
人が耳に入れるんじゃないかって期待しているんだけどね﹄
聞いていると他力本願だと思えるが、こういうパーティーではそ
れが一番効果的だろう。
翔子が振袖を着ているため賢一はステップでその場から動く事は
せず、ただ体を音楽に合わせて揺らしているだけだがそれなりに踊
っているように見える。
それでも草履を履いている翔子には負担がかかっている。
﹃足、大丈夫かい?﹄
﹃はい・・多分﹄
﹃この曲が終わったら向こうに椅子が並べてあるから移動しよう
か﹄
﹃はい・・でも、いいんですか?﹄
﹃いいよいいよ。もう十分挨拶はしただろう? このまま帰って
も怒られないと思うよ?﹄
今夜は遅くなる事が判っているため翔子は家に帰らずに、そのま
まホテルに泊まる事になっている。
先ほど着替えのためによったホテルの部屋が今夜の宿だ。
たくさんの人と言葉を交わしたせいで気分的に疲れている翔子と
してはその言葉尻に乗って帰りたいところだが、今夜ばかりはそう
・・
もいかない事も判っている。
﹃ダメですよ。まだ彼女と対決してません﹄
﹃あ∼・・・そうだった。メンドくさいなあ﹄
﹃そのために私が一緒にいるんですよね?﹄
﹃うん。無理言って来てもらったんだから、ちゃんと予定通りに
事は進めなくちゃいけないよねぇ﹄
どこか気乗りしないと言わんばかりの賢一の態度に翔子は思わず
ぷっと吹き出した。
221
そんな翔子に聞こえるように大きなため息をついたところで曲が
終わった。
﹃とりあえず何か飲むものをもらいに行こうか。ついでに何か食
べてもいいしね。お腹すいてないかな?﹄
﹃そうですね、少しだけ。でもお酒はもういいです﹄
﹃僕ももうお酒はいらないかな﹄
翔子から体を少し離して賢一は、彼女の腰に手を回して壁際に並
んでいるテーブルに向かった。
﹁うそっっ!﹂
不意に後ろから大きな声が聞こえてきた。
﹁信じられないっっ!﹂
一瞬動きを止めかけた翔子の背中を賢一の手が動きを止めるなと
言わんばかりに押してくる。
どうやらあの声の主を知っているようだ。
1度しか会った事がない翔子でさえ判るのだから、賢一に判らな
い筈はないだろうが。
﹃賢一さんっっっ﹄
翔子がもの言いたげに賢一を見上げた時、グイッと翔子の背中に
回していた賢一の腕が引っ張られた。
と同時にドンっと突き飛ばされた翔子はバランスを崩したが、賢
一が反対側の腕を回して彼女の腰を支えたのでなんとか転倒は避け
られた。
バランスを取り戻した翔子が見たのは、賢一の腕にしがみついた
真っ赤なドレスを着た沙也香だった。
﹁何をするんだっ﹂
﹃賢一さんっっっ﹄
翔子を支えながら珍しく賢一が大きな声をあげたが、賢一の腕を
引っ張った沙也香はそんな彼の声に気づかなかったのかもう一度彼
の名を呼んだ。
そんな沙也香から腕を引き抜こうとしたものの、がっちりと沙也
222
香が掴んでいるせいで抜く事ができない。
﹁離してくれないか﹂
﹃賢一さんっっ、本当なのっ?﹄
﹁腕を離してくれと言っているんだ﹂
﹃みんな、嘘を付いているのよねっっ?﹄
﹁いいから、離せっっ﹂
落ち着いた声で腕を離してくれと言ってみたものの、沙也香には
言葉が通じていないかのように、ただ自分が聞きたい事だけを聞い
てくる。
賢一はそんな彼女に業を煮やしたのか、声を荒げて無理やり自分
の腕を彼女の拘束から引き抜いた。
沙也香はとても傷ついたと言わんばかりの顔を賢一に向けるが、
彼はそんな事を気にも留めず取り戻した腕を軽く振っている。
そしてもう片方の腕は翔子の腰に回ったままだ。
ちょうど音楽が途切れたタイミングだったせいか、シンと静まっ
た会場中の視線が3人に向かっているように思えるのは、翔子の気
のせいではないと思う。
﹁大丈夫かい、ハニー?﹂
﹁ええ、もちろん。おかげで助かったわ﹂
﹁よかった。君に何かあったら僕の気が狂ってしまうからね﹂
取り戻した手をあげてそっと翔子の頰に触れ、そのままかの女の
額に軽いキスを落とす。
それからそっと抱きしめると、翔子も賢一に逆らう事なくそのま
ま体を彼に預けた。
﹃賢一さんっっっ!﹄
そんな仲睦まじい2人を見て、沙也香は悲鳴に近い声をあげた。
賢一はそんな彼女に鬱陶しそうに視線を向けるが、沙也香には彼
の視線の意味が届いておらず、ただ彼が自分に視線を向けてくれた
というだけで途端に大きな笑みを浮かべる。
﹃もうっ、今夜のパーティーに来るって聞いてたからずっと探し
223
ていたのよ?﹄
﹁何か用があるのかな?﹂
﹁冷たいわね。でもそんなところも賢一さんらしいわね﹂
日本語で話しかけてくる沙也香に対して英語で返すと、彼女もす
ぐに英語に切り替えた。
周囲の人に2人の会話を理解してもらうためにわざと英語で話し
ているのだが、沙也香は賢一が自分と話をしてくれているという事
が嬉しくて、そこまで頭が回っていない。
﹁冷たいも何も、君にそんな風に言われる筋合いはない。何か用
があるんだったらさっさと言ってくれないかな。僕はこう見えて忙
しいんだ﹂
﹁あら? 楽しむためのパーティーなのよ。忙しいなんて野暮な
事言わないで﹂
﹁パーティーっていうのは、顔を繋ぐためのビジネスの場でもあ
るんだよ﹂
﹁相変わらず仕事熱心ね。でもたまには仕事を忘れてのんびりす
る事も覚えた方がいいわ﹂
クスクス笑いながら沙也香は賢一に手を伸ばそうとするが、彼は
そんな彼女から一歩体を後ろに引いて捕まらないようにする。
そんな彼の態度に一瞬沙也香は鼻白んだが、それでもすぐに笑み
を浮かべ直す。
﹁カウントダウンの前から探していたのよ、もう。私、一緒にカ
ウントダウンしたかったのに﹂
﹁それは失礼したね﹂
﹁せっかくアメリカにいるんだから、アメリカ風のカウントダウ
ンもいいかなって思ってたの。そりゃ、一番は2人きりでカウント
ダウンが良かったんだけど﹂
沙也香の言う2人きりとは自分と賢一という意味だろう。
けれど賢一の腕の中には翔子がいるのだ。
まさか彼女には翔子が見えていないという事はないだろうと賢一
224
は思うが、今の彼女の態度はどう考えても翔子を無視している。
﹁そうだね。僕も2人きりでカウントダウンしたかったんだけど、
アンガスに誘われたから顔を出さなくちゃって思ったんだ﹂
﹁えっ?﹂
﹁それでもアメリカ風のカウントダウンも堪能したから、文句は
ないんだけどね﹂
﹁えっ?﹂
一体何を言っているのだ、と言わんばかりの表情を浮かべた沙也
香の事など眼中にないと言わんばかりに、賢一は腕の中の翔子の結
い上げた髪をそっと唇で触れる。
賢一の腕の中で困ったような表情を浮かべた翔子は、ふと視線を
感じて沙也香の方を振り返ると睨みつけんばかりの目が自分を見て
いる事に気づいた。
2人きりでカウントダウン、と賢一が言った時、沙也香は自分と
2人という意味だと思ったようだが、すぐにそれが翔子を指してい
る事に気づいたのだろう。
﹁なんだか困ったような顔をしているね﹂
﹁だって・・・みんなの前でキスをしたって・・・﹂
﹁ああ、ごめんねハニー。恥ずかしがり屋の君の事をこんな風に
人前で言っちゃいけなかったんだったね﹂
﹁もうっ・・・﹂
﹁でもアメリカ風のカウントダウン、良かっただろう?﹂
揶揄うようにクスクス笑いながら言う賢一から離れようとするが、
彼は翔子を離してくれない。
﹁アンガスに挨拶して、とっとと帰ろうか?﹂
﹁いいのかしら?﹂
﹁いいんだよ。カウントダウンも済ませたからね。もういつでも
帰れるよ﹂
﹁ダメだよ﹂
腕の中の翔子を抱きしめながら、賢一は沙也香に2人の睦言を見
225
せびらかしていると、不意に後ろからアンガスが声をかけてきた。
﹁もう少しのんびりして行ってもらいたいんだがね﹂
﹁アンガス?﹂
﹁まだ全員に挨拶をしていないんだろう? 顔を繋ぐのもビジネ
スなんだろう?﹂
揶揄うような口調のアンガスに、賢一は笑いながら頭を下げた。
226
23.︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
227
24. ︵前書き︶
﹃﹄は日本語、﹁﹂は英語です。
228
24. ﹁それは去年までの話ですよ﹂
﹁カウントダウンを済ませたから、もうビジネスの話は終わりな
のかい?﹂
ゆっくりと歩いてきたアンガスはそのまま賢一の隣に立つ。
﹁もう手厳しいなぁ。たまにはいいでしょう?﹂
﹁まぁ、今夜くらいは大目に見よう。でも、もう少しくらいはい
てくれよ?﹂
﹁判りました。じゃあ1時まではいますよ﹂
それで勘弁してください、と笑いながら賢一は小さく頭を下げた。
﹁仕方ないなぁ。まぁ、婚約したばかりだったら、彼女と一緒に
いたいと思っても仕方ないかな﹂
﹁その通りです。僕はすぐにでも翔子と2人きりになりたいです
ね﹂
﹁と言ってるが、ショーコはどうなんだ? もう少しパーティー
を楽しみたいだろう?﹂
﹁そんな事ないだろう? 僕と居たいよね?﹂
﹁えっと・・・﹂
アンガスと賢一の両方から問われたものの、翔子は返す言葉を思
いつけず返事に困ってしまう。
翔子としてはすぐにでも帰りたいというのが本音なのだが、パー
ティーを主催しているアンガスに帰りたいとは言えない。
困った顔をして言葉に詰まっていると、そんな彼女の心情を察し
たようにアンガスと賢一が声を上げて笑う。
そしてようやく笑いが収まってから、アンガスは真面目な顔を賢
一に向けた。
﹁ところで、こちらのお嬢さんは、君の知り合いかい?﹂
229
﹁一応顔見知りではありますが、知り合いというほとではありま
せん﹂
﹃賢一さんっっっ!﹄
﹁彼女の父親と仕事上の付き合いがある程度ですね﹂
顔見知り程度と言われ沙也香は賢一の名前を叫んだが、賢一はそ
んな事を気にも留めていない。
﹁サヤカ・コンドウです。近藤マシナリーの社長の娘さんです﹂
﹁近藤マシナリー・・・申し訳ないが記憶にないな。うちとは付
き合いはないようだが、今夜はどうやって招待状を手に入れたのか
な?﹂
賢一はアンガスに沙也香の事を紹介したものの、彼には彼女の父
親の会社の名前に覚えがないようだ。
それはそうだろう。日本国内ではそれなりに知名度はあっても、
近藤マシナリーはアジア方面に事業を展開しているのだ。
アメリカに住んでいて、ホテルチェーンのオーナーであるアンガ
スとは全く関係のない分野なのだから、彼が知らないとしてもおか
しい話ではない。
﹁わっ、私の父と懇意にしている・・その・・﹂
急にたどたどしくなった英語で、沙也香は招待状の入手経路を説
明する。
﹁なるほど・・・﹂
それでも彼女がパーティーに来るために持っていたのが本物の招
待状という事で、アンガスはそれ以上突っ込む事はやめたようだ。
﹁それで、さっきから賑やかだったが、何かあったのかな?﹂
﹁ああ、いきなり彼女がやってきたんです﹂
﹁君とショーコのところにかい? なかなかのツワモノじゃない
か。私だったら当てられるだけだから、用がなければ近寄らないよ。
なんせさっきからすぐに惚気に話がすり替わっていたからね﹂
おどけたようにアンガスが言うと、周囲にいた男の数人が笑う。
﹁当たり前でしょう? ようやく彼女を口説き落として婚約まで
230
持っていったんですから﹂
﹁どうりで早く帰りたがるはずだな﹂
﹁2人きりになりたいってところかな?﹂
賢一の返答に周囲からからかいの言葉がかかるが、賢一は真面目
な顔をして頷いた。
﹁その通りです。なのでビジネスの話は次回、という事にしてい
ただけると嬉しいですね﹂
﹁まったく。どこか飄々として掴みどころがなかった君がこんな
風に1人の女性にメロメロになるとは思いもしなかったよ﹂
﹁恋は人を変える、って言葉、君を見ていると本当だって思える
よ﹂
やれやれと言わんばかりに頭を振る客の1人に同調するように頷
く数人の男たちと、どこか戸惑ったような表情を浮かべた翔子、そ
して全く相手にされずにプルプルと怒りで震えている沙也香。
賢一は自分を取り巻く人たちをぐるりと見回してから、翔子の手
を取ってサファイアの指輪が嵌っている指にそっとキスをする。
﹁大丈夫かい、ハニー?﹂
﹁ええ・・ちょっとびっくりしただけ﹂
自分を取り巻く展開についていけてないだけだ、と苦笑交じりの
笑みを賢一に返す。
そんな2人に温かい目を向けていたアンガスが今気づいたと言わ
んばかりに、翔子の指に嵌った指輪に視線を向ける。
﹁すっかり骨抜きだな、ケン。だがその割に贈った婚約指輪は情
熱のルビーじゃないんだね?﹂
﹁これですか? 結婚を意識してもらうために以前彼女にルビー
の指輪を贈ったんですよ。僕の気持ちが本物だって伝えたかったか
らですね。それだけ熱い思いで僕は君の事を思っているんだって。
そしてこれは、これからの2人の関係がサファイアの石言葉通りに
あればいい、という気持ちを込めて送りました﹂
﹁サファイアの石言葉?﹂
231
よく判らない、と頭を傾げながらアンガスが聞き返す。
﹁宝石にはそれぞれ意味があるって知りませんか? ほら、ダイ
ヤモンドを送るのはその宝石の意味が﹃不変の愛﹄だから、ですよ
ね?﹂
﹁ああ、そういやそんなのがあったな﹂
欲しいと言われたものを買って与えるだけだったからそんな意味
は知らなかった、と笑いながら言うアンガスに苦笑いを浮かべなが
ら賢一が言葉を続ける。
﹁サファイアの石言葉は﹃誠実﹄です。お互いに誠実でありたい、
という事ですね﹂
﹁なるほど。お互いだけを思い合って誠実であれ、という事だな﹂
﹁その通りです。僕は自分の結婚相手が誰にでも愛想を振りまく
事を良しとしませんからね。嫉妬深いと言われても、そこは譲れま
せん﹂
賢一は翔子の指に嵌った指輪をアンガスに見せるようにしながら
も、指先で彼女の薬指をそっと撫でる。
ヴァージン
﹁他の男が触った女は欲しくありません。ましてや、遊びだと言
って誰とでもベッドに行くような女は願い下げですね﹂
﹁はははっ。なかなか手厳しいな、君は。という事は彼女は生娘
だったのかな?﹂
﹁それについてはノーコメントですね。ただ彼女は僕しか知らな
い、それは事実です。それでいいんです。僕は他の男と自分の女を
共用する気は全く無いですから。ですので、他の男と愛想よく過ご
すような女には全く興味はないです﹂
どこまでも傲慢に言い放つ賢一は、そのまま視線だけを沙也香に
向けたが、彼女は俯いていてその表情は見えない。
しかし、おそらくだが賢一が誰の事を言っているのかは伝わって
いるだろう。
賢一は、自分は金目当ての女たちにとって条件の良い物件だとい
う事を知っている。
232
彼女たちはいつだって賢一自身ではなく、彼の背後にある大河内
カンパニーを見ているのだ。
沙也香もそういった女の1人だ。
自分にしつこく付き纏ってくる女の事はいつでも調べる事にして
おり、沙也香が男との関係に奔放である事も調べが付いている。
ボーイ・フレンドたち
そして彼女が賢一の妻の座を射止める事ができれば使い放題のお
金が手に入ると言っている事も、賢一と結婚してからも遊び友達と
の関係をやめる気がないと言っている事も、音声付きで知っている
のだ。
﹁君がそんなに貞操観念が強い男だと知らなかったよ﹂
﹁ただのガールフレンドにはそこまでの事は求めませんよ。でも
結婚相手は別です﹂
﹁一生一緒にいる相手だからこそ誠実さを求める、って事か﹂
﹁そうですね、もちろん僕も相手には誠実でいるつもりです。自
分は浮気をしてもいいけど、相手にはゆるさない、なんて自分勝手
じゃないですか。一方的な誠実さを求めるのはおかしいですからね﹂
結婚したら相手に対して誠実であるために浮気もしない、賢一は
そう高らかに宣言した。
つまり賢一が翔子と結婚したあとで、それでも沙也香がお金を挟
んだ体の関係を望む事があっても、賢一にはその気は全くないとい
う事をこの場ではっきりさせたのだ。
﹁じゃあ、もし君に言い寄ってくる女がいて、その女には男友達
が複数いるとする。だが君がその女の事を気に入っていればどうな
んだ?﹂
﹁そんな女、最初から気にいる筈もないですよ﹂
﹁だから、もしも、の話だよ。一目見ただけじゃあ、その女が貞
淑かどうかなんて事判らないだろう?﹂
おそらくだが、アンガスも賢一が誰に向けて喋っているのか気づ
いているのだろう。
だからわざとらしくこんな事を聞いてくるのだろう、と賢一は思
233
う。
﹁そうですね・・・もし僕が知り合った相手が誰とでもベッドを
共にするような女だと判った時点で、別れますね﹂
﹁だがその時にはすでに時遅く君は骨抜きになっているかもしれ
ないぞ?﹂
﹁そうだとしてもです。男と金にルーズな女は、僕には必要ない
です。僕に必要なのは、僕の心を癒してくれる相手です。仕事で疲
れて家に帰って、更に結婚相手の事で疲れを増やすなんて事、愚の
骨頂です﹂
﹁なるほど・・・﹂
頷きながら相槌を打ってから、アンガスは少し考えるように片方
の手で顎を撫でる。
﹁だが、相手が無理矢理体を奪われたらどうするんだ?﹂
﹁それは・・・そうですね。その時になってみないと判りません。
その状況にもよるし、相手にどれだけの気持ちを持っているかにも
よるでしょう。許せると言いたいけど、もしかしたら許せないかも
しれない﹂
﹁無理矢理でも、かね? なかなか厳しいな。男の力に女は敵わ
ないぞ?﹂
﹁それは判ってます。でも、頭では判っていても感情がその事実
を許せるかどうか、ですね﹂
少し驚いたような表情を浮かべたアンガスは、それでも賢一の言
葉を否定する事はしなかった。
﹁つまりそれだけ女性には貞節さを求める、という事か﹂
﹁相手にだけじゃないですよ。僕だって、相手に対して同等の貞
節さを返すつもりです﹂
﹁そうだな、一方的に押し付ける事は不公平だからな﹂
うんうん、と頷くアンガスに賢一も頷いた。 そして横目で俯いている沙也香に視線を流すが、彼女は俯いた体
勢のまま微動だにしない、
234
﹁僕は運が良かったんですよ。翔子は僕と同様に貞操観念がきっ
ちりしていますからね。浮気とか、彼女に関しては心配する必要は
ないです﹂
﹁今時珍しい女性だね﹂
﹁本当にそう思います。こうやって出会えた事に感謝しています﹂
隣に立っている翔子をそっと抱き寄せながら、その髪に触れるだ
けのキスを落としてくる賢一をそっと見上げてから、翔子がふと視
線を感じて斜め横を見ると俯いた沙也香と視線が合った。
憎々し気な沙也香の視線に翔子がビクッと体を震わせると、それ
に気づいた賢一が少しかがみこんで彼女の顔を覗き込んできた。
﹁翔子?﹂
﹁・・・﹂
﹁翔子、大丈夫かい?﹂
﹁えっ・・・あっ・・はい﹂
すっと沙也香から目を逸らした翔子の視線を捉えて、賢一が心配
そうに声をかけてきた。
彼は翔子の視線がどこに向いていたのかに気づいてか沙也香の方
を見たが、彼女はすでに頭を更に俯かせていたので賢一には顔を見
る事ができなかった。
﹁疲れたかな? 向こうで飲み物を貰ってこよう﹂
そっと翔子の背中を押してから、賢一はアンガスの隣に移動した。
﹁じゃあ僕らは向こうで飲み物を貰ってきますよ﹂
﹁ああ、いろいろ取り揃えてあるから楽しみにしてくれ﹂
﹁お酒以外もあるんですよね?﹂
﹁ああ、もちろんだ。なんだ、もう酒は飲まないのか?﹂
﹁もう十分いただきましたよ。酔いを冷ますために、何か軽いも
のを飲みたいなと思って﹂
帰ってから二人で楽しみたいですからね、と小声でアンガスに言
うと、彼は大きな声で笑った。
﹁全く、ケンには困ったもんだ。だが、気持ちは判るから、これ
235
以上の野暮は言わない事にしよう﹂
﹁アンガス、バラさないでくださいよ﹂
2人の会話に周囲が小さく笑ったのを機に、アンガスに先導され
た賢一は翔子とともに会場の壁側に向かって歩いていく。
彼らの周囲にいたパーティー客たちも同様に会場に散っていった。
その場に残されたのは、俯いたままの沙也香だけだった。
236
24. ︵後書き︶
06/26/2016
@
12:12pm
読んでくださって、ありがとうございました。
Edited
237
25.︵前書き︶
﹃﹄は日本語、﹁﹂は英語です。
238
25.
もう帰るという事で、賢一と翔子はアンガスに今夜のパーティー
のお礼を言ってから、既にエントランスに回されていた車に乗り込
んだ。
そこでようやく周囲からの視線から解放された翔子は、思わずと
言った風に大きく深呼吸をした。
今夜、翔子が晒されていた視線は実に様々なものだった。
賢一を射止めたという羨望、賢一が選んだ女という好奇心、この
2つが主なものだったが中には翔子が上流社会の出ではないという
事に対しての侮蔑のものもあった。
そして一番翔子が疲れた視線は、やはり沙也香からのものだった。
あれ以来賢一と翔子に絡んでくる事はなかったが、それでも翔子
は肌がピリピリするような沙也香からの視線を常に感じていた。
あれは嫉妬、というより憎悪、だと翔子の直感が訴える、そんな
視線だった。
﹃疲れた?﹄
﹃えっ・・? あぁ、はい、そうですね﹄
﹃済まないね。最後の方は肝心のカウントダウンよりも僕らの事
の方がお祭騒ぎになっていたからなぁ﹄
﹃大丈夫ですよ? 今夜はもうホテルで休むだけですから﹄
車はあと10分もしないうちにホテルに着くだろう。
今夜泊まるホテルはアンガスが所有しているものの1つで、翔子
はパーティーに出る前は知らなかったのだ。
アンガスと言葉を交わしたあとで賢一がその事を教えてくれた。
﹃そう言えば、アンガスが部屋を変えたから、フロントで確認し
てくれって言ってたよ﹄
﹃えっ?﹄
239
﹃もともと今夜は彼のホテルに予約をしているって事は話してい
たんだ。でもいつもだったら真っ直ぐ家に帰る僕がどうしてホテル
をとったんだろう、って思ってたみたいだね。そこに君が登場した
から、彼なりに察したようで、さっき部屋を変えといた、って言わ
れたよ。荷物も新しい部屋の方に移してあるってさ﹄
賢一がとってくれた部屋はダブルツィンで、ダブルサイズのベッ
ドが2つ並んでいるものだった。おそらく翔子が着替えをするのに
広めの部屋がいいだろう、という事でとってくれたんだろう。
その部屋が変えられている、という事はどういう事なのだろう?
翔子は少し不思議に思ったものの、とりあえずは頷いておいた。
それからは暫くとりとめのない世間話をしているうちに、車はホ
テルのエントランスに停まった。
﹃ほら、着いたみたいだよ﹄
エントランス側の車のドアが外から開けられると、翔子は先に降
りた賢一に続いて車から降りる。
そのまま賢一は車に戻るものと思っていたのだが、彼は翔子をエ
スコートしてホテルのフロントに向かった。
﹃賢一さん・・・?﹄
﹃どんな部屋か僕も気になるからね。それに、一旦君の部屋に入
ってから出て行った方が周囲を欺く事ができるだろう?﹄
﹃はぁ・・・﹄
誰かが見ているかもしれない、と思っているようだ。
おそらくその誰かは沙也香、もしくは彼女の手の者なのだろうが、
パーティーという衆目の場であそこまで完全に拒否されたのだから
もう関わってこないと翔子は思うのだが、賢一はそうは思わないよ
うだ。
それでも賢一を断る事はできない。
翔子は黙って彼にエスコートされるままフロントに辿り着いた。
﹁大河内だ。部屋が変わったってアンガスに言われたんけど?﹂
﹁オーコーチ様、ですね・・・・はい、お部屋が変わっておりま
240
す。荷物の方は既に新しい部屋の方に運ばせていただいております﹂
フロントにいた女性は彼の名前とアンガスと言うオーナーの名前
を聞いてすぐに思い当たったようで、コンピューターになにやら打
ち込み始めた。
それから引き出しからカードを1枚取り出して、それをちいさな
ボックス状の装置に差し込んでからまた打ち込んで、それからカー
ドを引き出して賢一の前に差し出した。
﹁では、こちらが新しい部屋のキーになります。少しお待ちいた
だければ案内をさせます﹂
﹁いや、大丈夫だ。気にしないでくれ﹂
﹁そうですか? では、あちらのエレベーターをお使いください﹂
鷹揚に頷いてから賢一は翔子の腰に手をやってエレベーターに乗
り込んだ。
﹃結構いい部屋をアンガスは奮発してくれたみたいだね﹄
﹃そうなんですか?﹄
部屋のある階でエレベーターを降りて、賢一はカードキーを使っ
て部屋のドアを開けた。
先に翔子に中に入るように促してから、続いて中に入ってドアを
閉めた。
﹃なんか・・・広いですね﹄
﹃うん、スイート・ルームみたいだね﹄
部屋の右側にドアがあるので、そちらがベッドルームのようだ。
窓から外の景色を眺めている翔子を見てから、賢一は備え付けの
冷蔵庫から水のボトルを取り出して、それを手にリクライニング・
チェアに座る。
﹃あっ、すみません﹄
﹃いいよ、気にしないで﹄
ソファーに座った賢一を振り返って、翔子は彼がボトルを手にし
ている事に気づいた。
﹃翔子も何か飲むかい?﹄
241
﹃そうですね・・・じゃあ、私も水を貰います﹄
賢一と同じように冷蔵庫から水のボトルを取り出して、それを持
ったまま翔子は賢一の対面にあるソファーに座る。
﹃今日はお疲れ様。これで3月まではパーティーとかに出なくて
もいいからね﹄
﹃そうなんですか?﹄
﹃うん、まぁそれなりに招待状はきているけど、婚約したばかり
で2人きりでいたい、って言って断るよ﹄
﹃でも・・・その・・﹄
それでは沙也香の事はどうなるんだろう、と思ったのだがそれを
どう言葉にすればいいのか判らない。
けれど翔子が何を言いたいのか理解したのか、賢一はボトルの水
・・
を一気に半分ほど飲んでから彼女に頷いた。
﹃彼女の事は暫く放置しようと思ってね。ここは日本じゃないか
らね。そうなるとパーティーくらいしか僕とは接点はない。その肝
心のパーティーに僕たちが出てこなければ、彼女にはどうしようも
ないだろう? だから、暫くその接点を無くす事で焦らしたいんだ﹄
﹃あの・・今夜の事で諦めた、って事は・・・・﹄
﹃諦める? ないない。彼女に限って言えば、それはないと思う
よ。アレは蛇みたいな女だからね。狙った獲物にはしつこく付き纏
って逃がさない﹄
﹃でも、あんな風に拒絶されると諦めるんじゃないんでしょうか
?﹄
もし自分だったらあんな事を言われてしまうとそれ以上関わりを
持ちたくないと思う、そんな事を翔子は考える。
とはいえ、賢一の言葉から察するに、沙也香はかなり男関係が乱
れていたようだから、そういう女性の気持ちが判るとは言えない事
も確かだ。
この点に関しても賢一と契約の話をした時に聞かれているのだか
ら。
242
賢一が契約婚約の相手を決める条件はいくつかあったようだが、
最も大事な条件は2つ。自分を裏切って沙也香側につく心配のない
相手である事、そして男を知らない処女である事。だった。
翔子にはどうしてもお金が必要だった。そのお金を得るために賢
一を裏切るわけにはいかない。もちろん沙也香もある程度の金額を
提示する事はできるだろうが、賢一が提示してくれた金額には到底
及ばないだろうと思う。
そして翔子はまだ男を知らない。付き合った男性は3人ほどいる
ものの、そういう関係になる前に別れているので、未だにキス以上
の行為は未経験だった。
あえて言えば、それにプラスして翔子が日本人だ、という事も対
・・
沙也香という事を考えると賢一には都合がよかっただろうと思える。
﹃彼女だったら、その辺で処女膜再生手術くらい受けて未経験で
すって言いかねないよ。それに男の話だって、自分に似た誰かじゃ
ないかくらいはいいそうだな。もちろん、自分にそっくりの女性を
見つけ出してから、だろうけどね﹄
﹃それはさすがに・・・無理があると思いますけど﹄
﹃うん、常識で考えれば無理がありすぎるよ。でも、そんな常識
を持っているような女じゃないからね、アレは﹄
﹃でも無理に賢一さんじゃなくても・・・日本国内であればいく
らでも彼女の条件に合う男性はいそうなんですけど・・・﹄
経済大国と言われる日本だ、お金を持っている男はそれなりの数
いると翔子は思うのだ。だから無理に賢一に拘る理由が判らない。
そう思いながら話しているせいか、翔子の言葉は話しながらも尻
すぼみになってしまう。
﹃そりゃそうだよ。彼女の条件は、お金を持っている事が第一だ
からね。でも、もう国内じゃ無理なんじゃないかな﹄
﹃それはどういう意味なんでしょうか?﹄
﹃彼女が既にそういう男たちに迫っていない筈がないだろう? きっと日本では無理なんだろうさ。だから海外に住んでいて彼女の
243
日本での悪評判を知らないであろう僕にターゲットを絞ったんだろ
うね﹄
﹃でも今はネットとかもあるから、賢一さんは日本と連絡を取ろ
うと思えばいつでもできますよね? それにきっとそういう人の中
には賢一さんと懇意にしている人だっていただろうし・・・﹄
﹃そう、だから常識的に考えれば、そういう考えに辿り着くだろ
うね。でも彼女にそんな常識を当てはめちゃ駄目だよ。日本じゃな
いから、って自分の都合のいいように考えるだろうから﹄
都合のいいように考えるにしても、あまりにもあり得ない気がす
るのは翔子だけだろうか。
﹃いくらなんでもそんな馬鹿な事は・・・だって、普通で考えれ
ば賢一さんのような立場の人が自分に迫ってくるような女性の素性
を調べない筈はないですよ﹄
﹃うん。彼女が自分に自己紹介してきた時に、名前と父親が経営
する会社の名前を教えてくれたね。僕だって親父がロスに飛ばす前
は日本に住んでいたんだから、彼女の父親の会社の名前くらいは知
っていたよ。だから、簡単に彼女の事を調べる事はできた﹄
﹃だったら・・・﹄
﹃うん。僕が日本にずっといれば、少しは知恵も回ったかもしれ
ない。でも、僕は1年のうち2−3ヶ月程度しか日本にはいないか
ら、彼女から見れば僕はアメリカにずっと居住しているって事にな
るんだろう。で、アメリカに住んでいるのであれば、簡単に僕を篭
絡できるって思ったんだろうね﹄
なんだか堂々巡りのような気がしてきたが、おそらくそれが彼女
の思考回路という事なんだろう。
翔子には信じられないが、実際被害に遭っている賢一が言うのだ
から間違いはないのだろう。
﹃ホント、おめでたい頭をしているからこっちは大迷惑だよね。
早く日本に帰ってくれればいいのに。でもまぁもしかしたら父親に、
どうにかしてアメリカで結婚相手を見つけろ、って言われたのかも
244
しれないね﹄
﹃それは・・・彼女のお父さんの会社には彼女と結婚するような
相手はいないんですか?﹄
﹃お兄さんと弟がいるからね、彼女と結婚するメリットがないよ。
彼女の会社と縁を結びたいっていう会社はあるだろうけど、そうい
う会社だと彼女の浪費には耐えられない﹄
彼女の父親の会社と縁を結ぶという事は同レベルの会社だろうが、
その会社の現経営者または次期経営者だと彼女に使いたいだけのお
金を渡す事ができない、という事か。
半分呆れ気分で賢一の話を頭の中でまとめてみるが、翔子にはお
そらく一生理解できないだろうという事だけは断じる事ができる。
﹃私は庶民だから、彼女の考える事はよく判らないです﹄
﹃僕は庶民じゃないけど、それでも彼女の事は全く理解できない
よ。夫となる相手の会社を潰す気満々で結婚するつもりなんだろう
ね﹄
それで潰れた後は離婚して慰謝料がっぽりを目論んでいるのさ、
と苦々しげに付け足す賢一の言葉に、翔子は同意するように頷いた。
﹃まぁ、とりあえずはここでひと段落って事を言いたかったんだ
よ、僕は。翔子の方も妹ちゃんの手術の事とかがあるだろう?﹄
﹃はい。手術の日程は決まりました﹄
﹃いつだったっけ?﹄
﹃4月の第1週です。それまでに愛莉の体調管理と定期検査の結
果がきちんと出ていれば、ですけどね﹄
今はまだまだ先の話という事で、愛莉も文句を言いながらも病院
に定期検査を受けに行ってくれているし、体調管理の方もそれなり
にできていると翔子は思っている。
けれど、その日が近づいてくれば不安でストレスが溜まって、そ
れが体調管理や検査結果に影響するのではないか、と翔子は危惧し
ているのだ。
とはいえまだ11歳の愛莉に不安になるなという事もできない。
245
今の翔子にできるのは彼女のそばでサポートする事だけだ。
﹃僕でよければいつでも力を貸すよ﹄
﹃・・・ありがとうございます﹄
﹃金銭面だけじゃなくて、もし仕事の方で困った事があれば言っ
てくれたらいいよ。そっちの方でも力になるから﹄
﹃でもそれはさすがに・・・﹄
﹃いいんだよ。この契約が解消されるまで翔子は僕の婚約者なん
だから、そのくらいの便宜は図っても誰も文句は言わないさ﹄
いや、そんな事はないだろう、と翔子は思うものの、そう言って
くれる賢一の気持ちはありがたくもらっておく。
﹃そういえば・・・2つ目の条件の事だけど・・・﹄
﹃2つ目の条件って・・・ああ、そうですね﹄
﹃できればこっちでそれもお膳立てしたかったんだけど、日本な
らともかくアメリカに協力者はいないんだよねぇ・・・﹄
2つ目の条件、つまり翔子がなにかしらの関係を持つ相手の事だ。
﹃それはギリギリでも大丈夫ですよね? それまでになんとかし
ます。いざとなれば賢一さんには申し訳ないんですが、会社の中で
探してみます﹄
﹃済まないね。僕の方もいざとなれば日本から呼ぶ事もできるん
だけど、さすがにそれだと信憑性がないかな、なんて思ったりもし
てね﹄
﹃私もどうしようもなくなったら、知り合いに頼んでみます﹄
会社とは関係がないのでそれでは条件に当て嵌まらないかもしれ
ないが、それでも全くいないよりはマシだろうと翔子は考える。
﹃じゃあ、そろそろ僕は帰るよ﹄
﹃あっ、はい。車を呼びましょうか?﹄
﹃駐車場で待ってるはずだから、エレベーターに乗ってる間に呼
ぶから大丈夫だよ﹄
﹃判りました﹄
立ち上がる賢一に続いて翔子も立ち上がると、部屋のドアのとこ
246
ろまで見送りに出る。
そんな翔子を抱き寄せてから、チュッと触れるだけのキスを頰に
落とした。
﹃その振袖、よく似合ってたよ。みんなが君に見とれてた﹄
片付けの手伝いが必要なら受付に言えば連絡を入れてくれるよ、
と言ってから軽く手を降って賢一は部屋から出て行った。
そんな彼の背中が自動で閉じていくドアの向こうに消えていった。
247
25.︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
248
26.︵前書き︶
お久しぶりです。体調は・・・まぁまだまだですが、とりあえず
頑張って更新再開していきたいと思っています。
﹃﹄は日本語、﹁﹂は英語です。
249
26.
ピンポーン
翔子の家と同じ音の呼び鈴を押して、グェンがドアを開けてくれ
るのを待っていると、すぐに家の中からバタバタと早足で歩く音が
してドアが開けられた。
﹃お姉ちゃんっっ﹄
﹃おはよう、愛莉。もう起きてたのね?﹄
﹃もうって、9時だよ﹄
遅い、と文句を言う愛莉の頭をそっと撫でていると、ドアの向こ
うにグェンが見えた。
﹁おはよう、グェン﹂
﹁おはよう、ショーコ。もっと遅いかと思ったわ﹂
﹁愛莉は遅いって文句を言ったんだけど?﹂
﹁アイリーンは7時過ぎに起きたみたいよ。それからずっとショ
ーコが来るのを待っていたの﹂
﹁だって・・・﹂
くすくす笑いながらいうグェンに文句をいいかけたものの、言葉
が思いつかなかったのか、愛莉はそれ以上何も言わずプイッと横を
向いた。
シッシー
﹁やっぱりショーコがいいみたい﹂
﹁当たり前。私のお姉ちゃんだもん﹂
﹁じゃあ、今度はショーコと一緒に泊まりにきてくれる? それ
ならいいでしょ?﹂
﹁ん∼・・・・多分ね﹂
顎に片手を当てて考えるフリをしてから、愛莉はグェンに大きく
頷いた。
そんな彼女をみて翔子は思わず苦笑いを浮かべる。
250
﹁ショーコ、朝ごはんは食べたの?﹂
﹁朝早くてお腹が空いていなかったから、コーヒーだけ飲んだわ﹂
﹁私は食べたわよ﹂
﹁そうね、アイリーンはシリアルを食べたわね﹂
﹁オレンジジュースも、よ﹂
翔子はホテルの部屋をチェックアウトしてから、1階のカフェテ
リアでコーヒーをテイクアウトして、それを飲みながらタクシーで
ここまで戻ってきたのだ。
賢一が用意してくれた振り袖は、彼の指示通りホテルに置いてき
た。
ドレスと違ってクリーニングには出せないから、賢一が知ってい
る人に頼んで綺麗にしてもらうのだそうだ。
そこまでしなくても自分でなんとかするとパーティーに行く前に
言ったのだが、今日の着付けをしてくれた人に頼むというので任せ
る事にしたのだ。
なので翔子が持っているものといえば、ホテルを出る前にカフェ
テリアで買ったマフィンの入った小さな箱だけだった。チョコレー
トチップ、クランベリー、ブルーベリー、それにバナナブレッド味
のマフィンは、グェンの好みを優先して選んだものだ。
﹁これ、グェンが好きだと思って買ってきたんだけど﹂
﹁あら、マフィン? 嬉しいわね。じゃあ、お茶を入れるからシ
ョーコとアイリーンも食べてから帰りなさいね﹂
﹁えっ。別にいいわよ。ジョー達と食べればいいのよ?﹂
﹁うちの男連中が甘いものが好きじゃないって知ってるでしょう
? 無理やり食べさせるよりは、一緒になって美味しいって言って
食べてくれる方が楽しいじゃない﹂
どうしよう、と思いながら愛莉を見下ろすと、彼女は目をキラキ
ラさせて翔子が持ってきたマフィンの入った箱を開けて中を見つめ
ている。
﹁ほら、アイリーンも食べたいみたいよ?﹂
251
﹁そうみたいね・・・じゃあ、お邪魔するわ﹂
﹁そうそう、私も一緒に食べてくれる人がいると嬉しいわ﹂
﹁やったー!﹂
手を叩いて喜んでいる愛莉を見て、グェンと翔子は顔を見合わせ
て思わず笑う。
﹁ほら、アイリーンもこんなに喜んでる事だしね﹂
﹁もうっ、まるで私がうちでマフィンを食べさせてないみたいな
シッシー
喜びようね﹂
﹁だってお姉ちゃん、いっつもちっちゃいのしか買ってきてくれ
ないじゃない﹂
どうやら翔子が買ってきたマフィンが大きなものだから、余計に
喜んだようだ。
﹁じゃあ、私と半分こする? それならいつもと同じサイズよ?﹂
﹁もうっっ、やだっっ。絶対に1個全部食べるの﹂
﹁朝ごはん、食べたんでしょ?﹂
﹁シリアルだけだもん﹂
マフィンの入った箱は渡さない、と言わんばかりにぎゅっと両手
で抱きしめている愛莉の後ろについて、翔子はキッチンに入ってい
く。
キッチンに入って左側にダイニングテーブルがあり、愛莉はまっ
すぐそこに行くとテーブルの上にマフィンの入った箱を置いてから
いつもの定位置に当たり前のように座る。
呆れた顔でそんな愛莉を見てから、翔子は彼女の隣に座った。
流しの方ではグェンがポットをコンロにかけているところだった。
﹁お茶は何がいい?﹂
﹁なんでもいいわ。グェンのお勧め?﹂
﹁そうね・・・じゃあ、今日はブラック・セーロンなんかどう?﹂
﹁オッケー﹂
﹁アイリーンには蜂蜜入りのホット・ミルクね﹂
﹁はぁい﹂
252
元気に返事をする愛莉と翔子の前に小皿とフォークを並べると、
早速愛莉は箱の中から自分の前にバナナブレッド味のマフィンを置
シッシー
いた。
﹁お姉ちゃんはどれにする?﹂
﹁そうね・・ブルーベリーかな?﹂
﹁判った﹂
小皿の上に置かれたマフィンはとても大きい。翔子の握りこぶし
よりも1回り以上大きな気がする。
﹁愛莉、ホントに全部食べれるの?﹂
﹁うん、大丈夫﹂
﹁その代わりランチが食べられないかもしれないわね﹂
﹁う∼ん・・・その時はその時?﹂
﹁はいはい﹂
早速マフィンを食べ始めた愛莉は、翔子に頭をコテンと傾げて答
える。
呆れて頭を振る翔子の耳にグェンの笑い声が届いた。
﹁ショーコ、アイリーンなら多分全部食べれるわよ。それよりコ
ーヒーしか飲んでいないあなたはちゃんと全部食べなさいね﹂
﹁そんなにお腹空いていないんだけど?﹂
﹁それでも食べなさい。コーヒーだけなんて体に悪いわよ﹂
甘いマフィンもどうかと思うけど、と思ったものの口にする事な
く翔子は小さく頷いた。
﹁おはよう﹂
﹁ジョー、起きたの?﹂
﹁ああ、アイリーンが大きな声で騒いでいたからな﹂
﹁そんな事ないもん﹂
キッチンの入り口から声をかけてきたジョーは、そのままテーブ
ルまで歩いてきたかと思うと箱の中からチョコレートチップ入りの
マフィンを取り出した。
﹁ジョーはいっつもチョコレート﹂
253
﹁いいだろ、好きなんだから﹂
生意気な口を利く愛莉の髪をくしゃっとしてから、空いている席
に座った。
﹁おはよう、ってか、ハッピー・ニュー・イヤー﹂
﹁ハッピー・ニュー・イヤー﹂
マフィンに齧り付きながらそういうジョーの言葉に、そういえば
新年の挨拶をしていなかったな、と今更ながら思い出して翔子も同
じ言葉を返した。
﹁あら、そういえばそうね。ハッピー・ニュー・イヤー、ショー
コ。それにアイリーンもね﹂
﹁ハッピー・ニュー・イヤー、グェン、ジョー﹂
マフィンを飲み込んだ愛莉が同じように言葉を返す。
カタンと小さな音を立てて愛莉と翔子の前にマグカップを置いた
グェンは、そのまままたキッチンの方に戻ったかと思うと冷蔵庫か
らオレンジジュースを取り出してグラスに注ぐと、グラスと自分用
のカップを手にして戻ってきた。
﹁ほら、あなたにはオレンジジュースね﹂
﹁ありがと﹂
ジョーの前にオレンジジュースの入ったグラスをおくと、グェン
はそのまま彼の隣に座って箱の中からクランベリーの入ったマフィ
ンを取り出した。
元旦の朝ご飯がマフィンに紅茶、翔子はアメリカらしい朝ご飯に
思わず口元を緩めた。
﹁朝帰りか?﹂
﹁ジョー﹂
クリスマス・パーティーの帰りに愛莉を迎えに来た時にちょっと
した言い合いをしてから、ジョーとは少し気まずくなっている。
そのせいで彼の口調に棘があるように思えるのだが、翔子の気の
せいではない翔子に、グェンが咎めるように彼の名前を呼んだ。
﹁いいだろ。別に文句言ってるんじゃないんだから。ただ、今帰
254
ってきたのかな、って思っただけだよ﹂
﹁そうよ。ちょっと前に愛莉を迎えに来たの。お土産にマフィン
を買ってきたから、一緒に食べる事になっただけ﹂
﹁ふぅん﹂
﹁仕事だから仕方ないでしょ? それに私はアイリーンと一緒に
寝られて楽しかったわ﹂
﹁そうよ。グェンと一緒に寝たのは初めてだけど、楽しかった。
ねっ﹂
うんうん、と愛莉はグェンの方を見て頷いた。
﹁まぁ、仕事、だからな﹂
どこか意味深な言い方に翔子は思わず片方の眉をあげてジョーを
見たが、彼は何か考えているようで翔子の方を見ていなかった。
﹁それより、変な奴に気をつけろよ?﹂
﹁・・・ジョー?﹂
﹁変な奴って?﹂
不意に口調が変わって警告するような言葉を口にしたジョーに、
グェンと翔子は真剣な顔になる。
﹁2日ほど前、かな? うちの周りを変な奴がウロついていたん
だ﹂
﹁変な奴・・って?﹂
﹁よく判らないけど、この辺じゃ見かけない奴だった。そいつが
うちの前の通りを行ったり来たりしてたんだよ。道に迷ったのかな、
って思って見てたんだけどさ。そいつ、そのまま通りの木の陰にじ
っと立ったままこっちを見ていたんだ﹂
﹁それって・・・見張っていた、って事?﹂
翔子やグェンが住む家のあるこの辺りは古い住宅街で、昔からの
顔見知りが多い地域だ。 だから、家の前を歩いている人のほとんどは顔見知りだと言って
もおかしくない。
﹁それは判らないよ。けど、怪しいな、って思ったんだ﹂
255
﹁それって昼間?﹂
﹁いや、夕方。俺が早番で帰ってきたのが3時過ぎだっただろ?
それからシャワーを浴びて外を見ていた時にそいつに気づいたん
だ﹂
日本と違って正月休みのないアメリカでは、銀行は12月の31
日まで開いている。正月も元旦のみが休みで、2日からは通常通り
だ。
コップ
﹁多分30分くらいはそこにいたと思うな。もう1度外を見てい
たら警察を呼ぼうかと思っていたんだけど、その時にはもう誰もい
なかった﹂
﹁そんなに待たないで呼べばよかったのに﹂
﹁そうはいかないだろう? 素性が判らないだけで呼べないさ。
知らない男が家の前に立っています、調べに来てください、って言
えないよ﹂
﹁それは・・・そうだけど。だったら、どうして今頃言うのよ﹂
﹁忘れてたんだよ﹂
肩を竦めていうジョーをグェンが睨んでいるが、特にこれといっ
た被害があるわけでもないのだ。ジョーの言う通り簡単に警察に通
報などできなかっただろうと翔子も思う。
﹁ま、そういう事だから、ちょっと気をつけておいた方がいいん
じゃないかな、って思ったんだよ﹂
﹁判ったわ、気をつける。ありがとう、ジョー﹂
素直に頷いてお礼を言う翔子を少し驚いたように見てから、ジョ
ーが笑みを浮かべて軽く手を振った。
﹁気にすんな。俺が気になっただけだから﹂
﹁でもうちには愛莉がいるから。変な人に目をつけられたくない
もの﹂
﹁あ∼・・・まぁ、俺もそれは思った。だから、ショーコには言
っておこうと思ったんだ﹂
﹁ありがと﹂
256
なんだかんだと言いながらも、ジョーは愛莉の事を気にかけてく
れる。
改めて感じたたったそれだけの事が、翔子の中の小さな蟠りを溶
かしてくれた気がした。
257
26.︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
258
27.︵前書き︶
﹃﹄は日本語、﹁﹂は英語です。
259
27.
どんよりとした曇り空を窓越しに見上げながら、翔子は愛莉の検
査が終わるのを待つ。
新年になって最初の病院での検査がある今日は、今にも雨が降り
そうな天気から始まった。
このところ乾燥していたから雨が降るのはちょうどいいのだが、
車での移動の事を考えると家に帰るまで天気が持ってくれるといい
なと思ってしまう。
﹃帰りは愛莉を連れてランチに行くから、そのあとで降り出すと
助かるんだけどなぁ・・・﹄
定期検査の日は、ランチに愛莉が食べたいもの、というのが定番
になっている。
普段は体調管理のためにある程度の節制を強いているので、せめ
て定期検査の日だけは彼女が食べたいというものを食べさせる事に
したのだ。
﹃確か今日はピザって言ってたっけ﹄
脂質の高い食品はあまり食べさせないように、と言われているの
で普段であれば翔子が低脂肪チーズを使って家で作るのだが、それ
だとやはり普通のピザに比べるとアッサリしていて食べ甲斐が無い
らしい。
ぶーぶー文句を言いながらもいつも完食する愛莉の顔を目を閉じ
て思い出しながら笑っていたせいか、目の前に人がやってきた事に
すぐに気づかなかった。
﹁なんだか楽しそうだな﹂
﹁・・・クィン﹂
﹁久しぶりだな﹂
﹁そうね・・・休暇だったんじゃないの?﹂
260
﹁ああ、明日まで休みだな﹂
そう言いながらも翔子の正面の席に座ると、クィンは手にしてい
たコーヒーカップのうちの1つを彼女の前に置いた。
﹁ありがとう﹂
﹁どういたしまして﹂
翔子の前にあるもう1つのカップの中身は既に飲み干してしまっ
ていたので、彼女はありがたくクィンが持ってきてくれたコーヒー
を1口飲んだ。
﹁それで、何を笑ってたんだ?﹂
﹁愛莉の事よ﹂
﹁アイリーン?﹂
ダイエタリスト
﹁そう、今日はピザが食べたいんだって言ってね。うちで作ると
どうしても栄養士の指示通りの低脂肪チーズを使って作るから美味
しくないって文句を言うのよ。ま、それでも結局は全部食べちゃう
んだけど﹂
﹁ああ、なんとなく文句を言いながらも両手にピザを持って食べ
ているイメージが沸くな﹂
クィンがククッと喉の奥で笑う。
﹁その通りよ、なんだかんだって言いながらも愛莉はピザが好き
だから。でも文句を言うと私が取り上げようとするから、先に両手
にピザを1切れずつ持って、それから文句を言うのよね﹂
﹁あの子は賢いからね﹂
﹁そうね・・・なまじ頭が良いから色々考えちゃうみたい・・・﹂
まだ11歳なのに愛莉はどこか達観しているところがある、と翔
子は思う。
おそらく自分の病気のせいで遠慮がちになり、周囲の反応を気に
しているのだろう。
翔子にしてみればそんな事きにする必要はないのだが、愛莉とし
ては自分の病気のせいで周囲に迷惑をかけていると思っているのだ
ろう。
261
﹁ああ、子供らしくないところがあるな。それはそれでアイリー
ンらしいと言えるんだが・・・だからこの前のカスタム・テディー・
ベアーの店で見せたような子供っぽい行動を見るとなんとなくホッ
とする﹂
たかがテディー・ベアだとクィンは思ったのだが、愛莉は数ある
テディー・ベアの中から自分の好みのものをとても真剣に選んでい
たのだ。
﹁もうそろそろしたら、アイリーンのテストも終わる頃かな?﹂
﹁そうね・・・もう来てもおかしくないんだけど﹂
﹁じゃあ、アイリーンが良いと言ったら、また俺もランチに参加
しても良いかな?﹂
﹁そりゃ、愛莉が良いって言えば私は気にしないけど・・・でも、
忙しいんじゃないんですか?﹂
﹁まだ一応休暇中だから大丈夫だよ。昨日までアメリカを離れて
いたから、ここには様子を見に顔を出しただけなんだ﹂
そういえばイギリスに行くと言っていたな、と翔子はクリスマス
後にあった時の会話を思い出した。
彼の祖父母はもともとイギリス人で、カナダでビジネスを添加し
ていたのだが、引退してからまたイギリスに戻って住んでいるらし
い。
﹁でもクィンはピザなんて食べるの?﹂
﹁もちろん、俺がピザを食べないように見えるか?﹂
﹁ん∼・・そうね。見えない、かなぁ・・・ピザよりも分厚いス
テーキを好んで食べそうね﹂
﹁ああ、それは確かに。ピザよりはステーキの方が好きだな。け
ど週末に家で宅配のピザを食べながらテレビのフットボール中継を
見たりする時もあるぞ?﹂
どこか揶揄うような口調で言うクィンは、翔子との会話を楽しん
でいるようだ。
﹁クィンがテレビでフットボールを見ているところなんて想像で
262
きないわね﹂
﹁そうか? こう見えても大学でフットボールをしてたんだけど
ね﹂
﹁そうなの?﹂
﹁まぁうちの大学は強かったわけじゃないからね。それに俺がプ
レイしていたのは2年間だけで、後は勉強が忙しくなって退部した
からなぁ﹂
当時を懐かしむような口調のクィンは少し目を細めている。
そんな彼を見ても、翔子には彼が大人しくテレビの前に座ってい
るところなど想像できない。
﹁ショーコは部活動してなかったのか?﹂
﹁私? ううん、部活はしてなかったわ﹂
17歳になるまでは日本に住んでいたが、両親共に働いていたの
で愛莉のために翔子は家に変える必要があったのだ。
そしてアメリカに移住してから愛莉が心臓病を発病してしまった
ので、そのために仕事を増やした両親に替わって必然的に翔子が愛
莉の面倒を見るようになったのだ。
﹁愛莉がいたから毎日学校が終わったら家に帰っていたわ﹂
﹁ああ、そうか・・・でもアイリーンは喜んだだろうな﹂
﹁そうね、あの子は学校に行けなかったから・・・﹂
小学校に入学する年に発病してしまった愛莉は、結局学校という
ものに一度も通ったことがなかった。
﹁じゃあ勉強はどうしているんだ?﹂
﹁ホーム・スクール・システムよ。運良く愛莉の面倒を見てくれ
ているお隣のグェンが元学校の先生なの。だから彼女が愛莉を預か
ってくれながら、勉強も教えてくれているのよ﹂
﹁あの子は頭が良いから、教える方もやり甲斐があるだろうな﹂
﹁そうね・・・でも、思わぬ質問を受けるから、一緒になってネ
ットで検索する時もあるって言ってたわね﹂
﹁それくらい好奇心があった方が勉強にも力が入るだろう?﹂
263
﹁確かにね。うちに戻ってからも、私の手が空いていれば色々と
ネットで検索する手伝いをさせられるもの﹂
﹁あの偉そうな口調で、か?﹂
﹁そうそう﹂
なぜか上から目線の口調で偉そうにクィンに話していた愛莉を思
い出して、翔子は彼と一緒になってプッと吹き出した。
口調は生意気なのだが、なぜか憎めないのだ。
笑っているところを見ると、おそらくクィンも同じように思って
いるのだろう。
それでも彼が笑っている事に、翔子は不思議な気持ちになる。
初めて会った時とここで再会した時の彼の不機嫌な顔を思い出し
てしまうからだ。
どこか蔑むようですらあった彼の目つきを思い出すと、今こうや
って翔子の前で自然に笑っている彼が別人のような気がするほどだ。
それでもこんな風にクィンと笑い合う事は嫌ではなかった。
というより、こんな風に笑うクィンを見ていると少しドキドキす
る気がするのだ。
そんな自分を悟られないように、翔子はコーヒーカップに手を伸
ばして心を鎮めるために1口飲んだ。
﹃お姉ちゃんっっっ﹄
そうして暫く二人でコーヒーを飲んでいると、カフェテリアの出
入り口から翔子を呼ぶ声がした。
﹁戻ってきたみたい﹂
﹁そうだな﹂
翔子が立ち上がって愛莉を迎えに行くと、愛莉は握っていたナー
264
スの手を離して彼女に抱きついた。
﹁今日もいい子でしたよ﹂
﹁私、いつだって良い子よ?﹂
﹁そうね、アイリーンはちゃんと言われた通りにできるものね﹂
﹁そう﹂
良い子だった、と翔子に報告するナースを見上げて自分は良い子
だったと言い切る愛莉は生意気だが、それでもそんなところが彼女
らしい。
﹁じゃあ、また2週間後ね﹂
﹁は∼い﹂
﹁ありがとうございました﹂
﹁いえいえ、気をつけて帰ってくださいね﹂
お互いに会釈をしている翔子とナースのやり取りを翔子の手を握
りながら見ていた愛莉を連れて、翔子はまだ座ったまま2人を待っ
ているクィンのところに連れて行く。
﹁あれ、クィン?﹂
﹁そう。よく名前を覚えていたね﹂
﹁当然よ﹂
ツン、と顎を上げて答える愛莉を見て翔子は呆れたように頭を横
にふるが、そんな愛莉の態度に気を悪くした風もなくクィンは笑っ
ている。
シッシー
﹁今日はピザを食べに行くんだって?﹂
﹁そうよ、お姉ちゃんから聞いたの?﹂
﹁ああ、アイリーンが食べたいって言ってたって教えてくれたよ。
だから、俺も一緒に連れてってもらえないかな、って聞いたらアイ
リーンが良いって言えば、って言われた﹂
﹁そうね・・・・クィンだったらいいわよ﹂
少し頭を傾げて片方の手を顎の下に当てて考えてから愛莉は小さ
く頷いた。
﹁愛莉、あなた態度が大きすぎるわよ﹂
265
﹁そぉ? そんな事ないわよ﹂
﹁あります。全くこの子は、もうっ。クィン、偉そうでごめんな
さい﹂
﹁いや、気にしてないよ﹂
﹁ほら、いいって言ってるわよ?﹂
﹁愛莉っ﹂
申し訳なくてクィンに頭を下げる翔子とは対照的に、愛莉は偉そ
うに頷いている。
そんな2人を見てクィンは笑っている。
﹁アイリーンは行きたいピザ屋さんってあるのかい?﹂
﹁行きたいピザ屋さん? いつもはピザキャップに連れて行って
もらうの﹂
﹁ああ、あそこか・・・あそこもいいけど、違う店に行ってみな
いか?﹂
違う店、とまた頭をかしげる愛莉の頭をクィンはそっと撫でる。
﹁そう。俺の知っている店にブリック・オーブンでピザを焼いて
くれる店があるんだ﹂
﹁ブリック・オーブン?﹂
﹁レンガで作られた焼き釜だよ﹂
﹁ふぅん﹂
ブリック・オーブンと言われてもピンと来ていない愛莉はそれで
もクィンの話に興味があるようだ。
﹁だから、一度試してみないか?﹂
﹁そこ、美味しいの?﹂
﹁ああ、俺は美味しいって思うよ﹂
﹁低脂肪のチーズ、使ってない?﹂
﹁低脂肪? いいや、使ってないよ﹂
低脂肪チーズ、と言われてクィンは一瞬考えたものの、先ほどの
翔子との会話を思い出して頭を横に振った。
﹁多分、ピザキャップのチーズより濃厚だと思うな﹂
266
﹁ふぅん・・・じゃあ、いいわよ。クィンがどうしてもって言う
んだったら、そこに行ってあげる﹂
﹁愛莉、なに偉そうに言ってるの﹂
﹁だって、行きたいって言ったのはクィンよ? だから私が妥協
してあげるって言ってるの﹂
﹁まったく・・・ごめんなさい﹂
思わず咎めてみたものの、愛莉はどうして翔子が咎めたのか判っ
ていないようだ。
思わず溜め息をついた翔子はクィンに謝る。
﹁いや、気にしなくていい。確かにその店に行きたいのは俺だか
らな﹂
﹁ほら、クィンだってそう言ってるじゃない﹂
﹁愛莉っ。だから・・・あぁ、もう、いいわよ﹂
これ以上言ってもだめだ、と言わんばかりに翔子は頭を振る。
そんな彼女を見てからクィンは立ち上がった。
﹁じゃあ、そろそろ行こうか? あんまり遅くなると混むかもし
れないからね﹂
﹁そうね、待つのは好きじゃないから急いだ方がいいわ﹂
﹁だから、愛莉・・・あぁ、もうっ﹂
なぜか2人で納得したように言葉を交わすのを見て、翔子はこれ
以上どう言って窘めればいいのか判らない。
けれど、クィンと愛莉の2人はそんな翔子の葛藤に気づかないま
ま頷きあっている。
﹁私はお店を知らないから、クィンが連れて行ってくれるの?﹂
﹁俺がエスコートしてもいいかな?﹂
﹁いいわよ﹂
じゃあ、と言って差し伸べられたアイリーンの手を前回に比べる
と少し慣れた仕草でクィンは取った。
それから愛莉は繋いだままだった翔子の手をぎゅっと握ってから
2人を先導するように歩き出した。
267
そんな彼女の頭上で苦笑いを浮かべながらクィンと翔子は視線を
交わしてから素直について行った。
268
27.︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
269
28.︵前書き︶
区切り損ねたので、いつもより少しだけ長いです。すみません。
﹃﹄は日本語、﹁﹂は英語です。
270
28.
今日もなんとか定時で仕事を終えて帰る事ができた。
支社が職場になってからは、賢一が翔子に気を使ってくれるおか
げで、以前に比べるとはるかに定時で帰れる日が増えている。
それでもなんとか時間内に仕事を終えようとするので、疲れはそ
れなりに溜まっている。
そんな翔子が家のある通りに車を走らせていつもの場所に車を停
めようとしたものの、サイドウォークには数人の人が集まっている。
それも翔子の家の前に、だ。
眉間に皺を寄せながらも、それでも車をいつもの場所に停める。
それからサイドシートに置いていたバッグを手にして車から降り
る。
﹁ああショーコ、いいところに帰ってきたな﹂
﹁ジョー・・・?﹂
車から降りた翔子にすぐに声をかけてきたのは、隣に住んでいる
ジョーだった。
ジョーに声をかけられて改めてサイドウォークにいる人を見ると、
近所の知っている顔ばかりが並んでいる。
﹁一体どうしたの?﹂
﹁いや・・・俺が説明するより自分で見た方がいいと思う﹂
﹁見るって・・・・えっ?﹂
言葉を濁しながら言うジョーから彼が指差す自宅の前に視線を移
した時、思わず驚きの声が出た。
翔子と愛莉が住んでいる家は奥に細長く伸びていて、通りに面し
ている部分には玄関とその横にある小さなポーチが付いている。そ
の作りはこの辺りではよくあるもので、周囲を見回せば似たような
家が並んでいるのが見える。
271
グェンの家のポーチにはベンチが1つ置いてあるのだが、翔子た
ちの家のポーチには父親の趣味で天井からチェーンで吊り下げられ
たベンチ型のブランコがある。
だが今翔子の目の前のポーチには片方のチェーンが切られて、そ
のままチェーンが切れた側がポーチの床部部分に落ちて無様な格好
になっているブランコがある。
そして更にポーチの玄関ドア周辺は真っ赤だ。どうやらペンキが
ぶちまけられたんだろう。
﹁あれ・・・どうして・・・?﹂
﹁30分ほど前に大きな音がしたんだ。ガタンっていう何かが落
ちる音と、バンっていう何かがぶつけられた音が、ね。それで俺が
通りに出てきたら走り去る車が見えたんだ﹂
﹁私達も一緒よ。大きな音にビックリして出てみたの。最初は何
が起きたか判らなかったんだけど、ビルがショーコの家を指差して
私にドアのペンキを教えてくれたの﹂
﹁俺もビルとベッカが指差してくれなかったら気づかなかったよ﹂
ジョーの家は隣だから、ただポーチに出ただけでは翔子の家のド
アまでは見えない。
しかしビルとベッカの老夫婦は通りを挟んでの向かいの家に住ん
でいるから、翔子たちの家のポーチの様子が見て取れたのだろう。
ジョーは二人が指差す事で異変に気づく事ができた、という事ら
しい。
﹁ジョー・・・愛莉は?﹂
﹁大丈夫だよ。母さんと一緒に家の中にいるよ﹂
ジョーの言葉にホッと小さく息を吐いてから彼の家の方に視線を
向けると、その先に窓から外の様子を見ている愛莉がいた。
彼女も翔子が自分を見た事に気づいたのだろう、窓から姿が消え
たかと思うとすぐに玄関から出てきた。
﹃お姉ちゃんっっ﹄
﹃愛莉、大丈夫?﹄
272
﹃うん、でもすっごく大きな音がしてビックリした﹄
早足でやってくる愛莉に向かって翔子も歩いて行くと、そのまま
彼女の腰にしがみついてきた愛莉を抱きしめた。
﹃あっ、あれっ!﹄
翔子の腰にしがみついたまま顔をあげた愛莉は、顔を我が家の方
に向けて声をあげた。
どうやら玄関ポーチの異変を目にしたようだ。
﹃イタズラされちゃったみたいね﹄
﹃イタズラって・・・お姉ちゃん・・・﹄
不安そうな表情を浮かべた愛莉を宥めようと、目の前の出来事を
ただのイタズラという事にしようとした翔子だが、あまり上手くご
まかせていないようで愛莉は不安そうな表情を浮かべたままだ。
翔子はぽんぽんと自分にしがみついている愛莉の背中を叩いてか
ら、自分の隣に立っているジョーに顔を向けた。
ペイント・リムーバー
﹁悪いけど、もう少しだけ愛莉を見ててくれないかしら?﹂
﹁どうするんだ?﹂
﹁これからホーム・センターに行ってくるわ。そこで塗装剥剤を
買ってくる﹂
﹁今からか?﹂
﹁ええ、今ならまだペンキも完全に乾いていないだろうから、拭
き取りやすいと思うの。でもその前にポーチのブランコのチェーン
をみて、新しく買い直さないといけないようならついでにそれも買
ってくるわ﹂
ジョーたちの話では30分ほど前にペンキを投げつけられたよう
だから、今からすぐに始めれば少しは手間が楽だろうと考えたのだ。
﹃私も一緒に行くっっ﹄
﹃愛莉・・・すぐに帰ってくるからグェンのところで待ってて﹄
﹃いやっ! 一緒にいたいのっっ﹄
ぎゅっと抱きついてくる愛莉の体が少し震えているように見える
のは翔子の気のせいではないだろう。
273
やはり、不安なのだ。
ジョーたちが愛莉に見せないようにと気を使ってくれたものの、
翔子を見つけて外に出てきたせいで家の惨状を見てしまった。
それは愛莉にショックを与えるに十分なものだっただろう、と思
う。
翔子でさえかなりの衝撃を受けたのだ。まだ11歳でしかない愛
莉がショックを受けない筈がない。
﹁ショーコ。アイリーンも俺も一緒に行くから、連れていってや
れよ﹂
﹁ジョー・・・でも・・・﹂
﹁アイリーンは心配なんだよ。それに俺も心配だから、一緒に行
きたいんだ。俺が運転するからさ﹂
﹁・・・判ったわ・・ありがとう﹂
翔子にしがみついたままの愛莉の頭をくしゃっとしてから、ジョ
ーは車の鍵を取りに家に戻った。
﹃ごめんね、お姉ちゃん・・・わがまま言って﹄
﹃ううん、いいの。愛莉だって不安だものね﹄
﹃・・・ん﹄
黙ってジョーの後ろ姿を見送っていたせいか、愛莉は翔子が怒っ
ているのだと思ったようだ。
そんな愛莉の心境が判るから、翔子はそっと愛莉の頭を撫でてや
る。
ローファット
﹃まだ夕飯には早いけど、きっと片付けをしていたら遅くなると
思うから、帰りにテイクアウトのピザでも買おうか?﹄
﹃・・・・いいの?﹄
﹃うん、たまにはいいんじゃない? それとも愛莉は低脂肪のご
飯の方がいい?﹄
﹃ううんっ、ピザがいいっ﹄
意地悪な翔子の言葉に慌てて答える愛莉に、思わず吹き出しなが
らも翔子はジョーが出てくるのを待った。
274
結局愛莉と翔子でペンキを除去して、ジョーがブランコのチェー
ンを直した頃には9時前になっていた。
それからシャワーを浴びている間に買ってきたピザを温め直して
から食べ終えた頃には、更に1時間が過ぎようとしている。
ブランコのチェーンを直すのを手伝ってくれたジョーは、シャワ
ーの後で翔子たちの家にやってきてピザを食べた。
ジョーの分の夕飯は明日グェンが愛莉と一緒にランチに食べる事
になるらしい。
ダイニングテーブルでウトウトと船を漕ぎ始めた愛莉を抱き上げ
て、ジョーはそのまま彼女を翔子の部屋のベッドに連れて行ってく
れた。
翔子は彼が愛莉を翔子のベッドルームに連れて行ってくれている
間に、コーヒー・メーカーでコーヒーを用意した。
もしかしたら今日の出来事のせいで愛莉の気が高ぶって眠れない
かもしれない、と少し心配したのだがどうやら杞憂のようだ。
それでも十分ストレスになっただろうから、明日は仕事に行く時
にグェンに気をつけるように言っておいた方がいいかもしれない、
そんな事を翔子が考えているとジョーが戻ってきた。
﹁ありがとう、ジョー﹂
﹁どういたしまして。ベッドに下ろしてもぐっすり眠ったままだ
ったよ﹂
﹁良かった﹂
とりあえず夜中に目を冷ますかもしれない事を考えて、愛莉を自
分のベッドに運んでもらったのだが、ベッドに下ろした拍子に目を
覚まさなかったと聞いてホッとする。
﹁でも良かったのか?﹂
275
﹁いいのよ。愛莉が不安になって目を覚ました時に私が側にいた
方があの子も安心するじゃない?﹂
﹁そりゃそうだけど・・・﹂
どこか納得いかない、という表情を浮かべるジョーを見て、翔子
は頭を傾げる。
﹁何かおかしい? 今日みたいな事があったら、そのせいで嫌な
夢を見て起きちゃうんじゃないかな、って心配だっただけなんだけ
ど?﹂
﹁あ∼・・・まぁ・・そりゃあ・・・でも、ショーコのベッドル
ームはアイリーンの隣なんだから、もし起きたとしてもすぐに行け
るんじゃないかな、って﹂
﹁そりゃ・・・でも、起きても我慢しちゃうかもしれないもの﹂
﹁それは・・・﹂
ないとは言い切れない事はジョーにも判っているようだ。
どこかワガママなイメージのある愛莉が実はそれほどでもない事
をジョーも翔子も知っている。
彼女がワガママをいうのはそれを言ってもいい状況の時だけだ。
それが翔子の負担になるとすれば愛莉はワガママを言う事もなく我
慢するのだ。
というより、言いたい事すらも我慢して口にしないのだ。
それが判っているからこそ今夜は自分のベッドで愛莉と一緒に寝
よう、と翔子は思ったのだ。
﹁それより、コーヒー、飲む?﹂
﹁ああ、もらうよ﹂
翔子はジョーの返事を聞いてから戸棚からマグカップを取り出し
て淹れたばかりのコーヒーを注いでから彼の前においた。
ジョーはピザを食べていた時に座っていた場所に座ると、カップ
を取り上げるとそのままコーヒーを一口飲む。
翔子はそれを見ながら自分にもコーヒーをマグカップ注いでから
席に着いた。
276
﹁明日、仕事に行くのか?﹂
﹁えっ? もちろん行くわ﹂
﹁休んでアイリーンと一緒にいればいいのに﹂
﹁そんな訳にはいかないわよ。それに明日は金曜日だからなんと
かなるわよ﹂
どうやらジョーは翔子が愛莉を1人にする事を心配しているよう
だ。
﹁それに来週は愛莉の定期検査があるから病院に行くためにまた
休みを貰わなくちゃいけないから、それを思うとそう簡単に休めな
いわ﹂
﹁けど・・・﹂
﹁隔週で休ませて貰っているんだもの。あんまり無理は言いたく
ないの﹂
翔子としてもできれば愛莉の側にいてやりたいと思う。
けれど、そのために仕事を蔑ろにする訳にもいかないのだ。
﹁なぁ・・・﹂
﹁なぁに?﹂
どこか奥歯にものが挟まったように、言いにくそうにジョーが言
葉を紡ぎ出す。
﹁その・・・仕事を辞めよう、とは思わないのか?﹂
﹁仕事? 辞めないわよ。っていうか、辞められないわよ。生活
がかかっているんだもの﹂
仕事を辞めるという事は生活が立ちいかなくなるという事なのだ。
少しは両親が残した保険金があるとはいえ、愛莉の病院通いの事
を思うと簡単に辞められない。
それに賢一との契約の事もある。彼との契約で手に入れたお金は
大金だが、それでも愛莉の高額な手術代やその後の治療の事を思う
といつまでもあるとは思えない。
加えて、賢一の計画通りに事が進めば、翔子は近い将来仕事を辞
める事になるのだ。
277
その事を考えると、今ここで仕事を辞める事は得策ではない。
﹁もしさ・・・俺が面倒をみるって言ったら、仕事を辞めるかな
?﹂
﹁・・・・はっ?﹂
ポカンと口を開けて翔子はジョーを見るが、彼の顔は真剣そのも
のだ。
﹁・・・それって・・・﹂
﹁ショーコとアイリーンの面倒をみたいんだ﹂
﹁ジョー・・・・﹂
﹁ずっと好きだったんだ﹂
翔子が隣の家にやってきた時から気になっていた、ジョーはそう
付け足した。
﹁あの頃のショーコはまだ高校生で、俺にとっては妹のサムと同
じだったんだけど、そのうちだんだん1人の女性として意識するよ
うになったんだ。でもショーコは俺の事を仲のいいお隣さんくらい
にしか思っていなかっただろう? だから言い出せなかった﹂
﹁それは・・・・﹂
﹁けど、ドンやケーコが亡くなって、ショーコが1人で一生懸命
アイリーンの世話をしているのを見て、俺はずっと手を差し伸べた
い、って思っていた﹂
ただあまりにも一生懸命すぎて言い出せなかったんだ、とジョー
はどこか自嘲混じりの笑みを浮かべる。
﹁でもそんな事今まで1度も・・・・﹂
﹁ああ、そうだったな。俺もショーコを急がせるつもりはなかっ
たんだ。けど、そうも言ってられなくなっただろ?﹂
﹁・・どういう事?﹂
﹁最近のショーコは会社のボスとばかり過ごすようになっただろ
? だから・・・多分俺は焦っているんだと思う﹂
﹁あれは・・仕事だって言ったじゃない﹂
﹁ああ、聞いたよ。けどあいつの態度はどう見てもそうは思えな
278
かったんだ﹂
﹁どう見てもって・・・会った事もないじゃない﹂
﹁直接的には、ね。けど、俺はいつも窓からショーコがあいつの
車で帰ってくるのを見てたよ。あいつは絶対にショーコに気がある﹂
﹁そっ、それは・・・﹂
演技だから、と言いたいのだが、そう口にすればジョーに説明を
しなくてはいけなくなってしまう。
翔子は誰にも言わない、と契約したのだ。 だから、たとえ気心が知れているジョーといえども言うわけには
いかない。
﹁ジョー・・嬉しいけど、私は−−﹂
﹁今すぐに返事をしてもらいたいって言っているんじゃない。考
えてみて欲しいんだ﹂
ジョーの気持ちに応えられない、と言おうとして翔子の言葉をジ
ョーは手をあげて制した。
﹁でも・・・﹂
﹁そりゃ俺にはショーコの会社のボスみたいなお金はない。でも
ショーコを想うこの気持ちは本当だよ。贅沢さえしなければ、俺の
給料でショーコとアイリーンを養っていけると思う。だから、前向
きに考えてもらいたいんだ﹂
﹁ジョー・・・・﹂
まさか彼が翔子の事を真剣に思ってくれているとは思いもしなか
った。
翔子にとってジョーは頼りになるお隣のお兄さんで、彼に対して
恋愛感情は持っていない。
けれどそれを口にする前に、彼に止められてしまった。
翔子が言葉を考えあぐねているうちに、ジョーはコーヒーを飲み
干して立ち上がった。
﹁今夜はこれで帰るよ﹂
﹁・・・・その、今日はありがとう﹂
279
﹁ショーコたちのためだったらいつだって手を貸すよ﹂
﹁それは・・・﹂
立ち上がって玄関まで送るためにジョーの後をついて歩く翔子を
振り返って、ジョーは彼女の頰にキスを落とした。
それはいつもの事だが、今夜は彼から告白された事もあって少し
抵抗があって思わず体を引いてしまった。
ジョーはそんな彼女をぐっと引き寄せて、その唇に触れるだけの
キスをした。
﹁ジョッ・・・﹂
﹁ごめん、我慢できなかった﹂
言葉では謝っているものの、口元に笑みを浮かべているジョーは
本気で悪いとは思っていないようだ。
それでもそれ以上文句を言われる前に、と彼はそのまま玄関から
出て行ってしまう。
そんな彼の後ろ姿を翔子は困ったような表情を浮かべて見送った
280
28.︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
281
forth
29.︵前書き︶
Happy
記念日です。
of
July! という事で、独立
え∼っとですね、きっと既にお気付きだと思いますが、30話前
後で終わるだろう、と言った言葉、訂正します。
終わりそうにないですよ、まったく・・・・もうあとどのくらい
かも見当がつきません。
ですので、よろしければこれからどのくらいのお付き合いになる
かわかりませんが、それでも最後までお付き合いいただけると嬉し
いです。
﹃﹄は日本語、﹁﹂は英語、そして︽︾は電話の声です。
282
29.
﹁ありがとうございました﹂
﹁いえいえ、また何かあればご連絡ください﹂
﹁判りました﹂
玄関でにこやかに笑みを浮かべて今まで色々と設置してくれてい
た業者を見送った翔子は、ドアを閉めると同時に大きな溜め息を吐
いた。
ようやく業者が帰って行った。
今日は土曜日だというのに、1時にやってきた業者に家の中を案
内して、それから勧められるままに幾つかの防犯設備を設置しても
らった。
本来であればもう少し時間がかかるものだが、賢一が手を回して
くれたおかげでペンキを投げつけられた2日後には業者が家にやっ
てきて防犯設備を設置するに至ったのだ。
翔子としては賢一に知らせるつもりはなかったのだが、昨日会社
に行くとすぐに賢一のオフィスに呼び出され問いただされたのだ。
﹃明日は何か予定があるのかな?﹄
﹃明日、ですか? いいえ、特には﹄
﹃じゃあちょうどいいね。午後から業者を行かせる事にしている
から、彼らとよく話し合って防犯設備を取り付けよう﹄
283
﹃えっ? どうして、ですか?﹄
﹃どうしてって、昨日の事、僕が知らないと思っているの?﹄
昨日の事、とはペンキを投げつけられた事を言っているのだろう、
とすぐに翔子には見当がついたが、何故彼がそれを知っているのだ
ろう、と不思議に思う。
﹃どうしてそれを知っているんですか?﹄
﹃ニュー・イヤー・パーティーでの事があったばかりだからね、
一応念のために君の周辺には目を光らせているんだよ﹄
つまり、沙也香の事を警戒している、という事なのだろう。
﹃だから、明日の午後、君の家に防犯設備会社の業者が行く事に
なっている。その場ですぐに設備を取り付ける事が出来るようにと
言ってあるから﹄
﹃えっ・・? で、でも専務には関係ない事なのに・・・﹄
どこの誰がやった事か判っていないのだ。警察には連絡したもの
の、とりあえず巡回の回数を増やす事くらいしかできない、と言わ
れた。
そんな個人的な事で彼の手を煩わせる事になる、と翔子は慌てた
のだがそんな彼女に彼はデスクに座ったまま手を振った。
﹃いいや、多分だけど、僕がらみだと思うよ﹄
・・
﹃どうして・・?﹄
﹃多分、彼女だと思う﹄
賢一のいう彼女が誰を指しているか、翔子にはすぐに見当がつい
た。
﹃で・・でも、彼女はもう諦めたんじゃ・・﹄
﹃だから、それはないって言ったよね? 甘いよ。あれはそんな
可愛げのある女じゃない。多分、だけど嫌がらせだよ﹄
確かにブランコのチェーンを切ったり、ペンキをドアにぶちまけ
たり、といった事は嫌がらせというにふさわしいやり口だろう、と
翔子は思う。
﹃もう僕を手に入れる事は諦めているかもしれない。でも、八つ
284
当たりのターゲットに君を選ばない、とは言えない。そう思わない
か?﹄
﹃そう思わないか、って言われても・・・私には判りません﹄
﹃まぁ僕も確証がある訳じゃないから、たまたまランダムに選ば
れただけかもしれないけどね。でも、大事をとるに越した事はない
だろう?﹄
﹃はい、それは・・・﹄
﹃だから、気にせずに防犯設備をを設置して貰えばいいよ﹄
これでこの話は終わり、と言って翔子に反論する隙を与える事な
く、賢一は彼女に部屋を出るように言ったのだ。
それでも翔子は賢一に反論しようとしたのだが、運悪くそのタイ
ミングで電話が鳴った。
賢一はヒラヒラと手を振ってから電話に出てしまったので、翔子
としてはそれ以上その場にいる事もできず、彼の好意を受け入れる
事にしたのだ。
愛莉はついさっき部屋に様子を見に行くと、ベッドでゲームをし
て遊んでいる。
﹃愛莉、晩ご飯作るけど、何か食べたいものある?﹄
﹃ん∼・・・ピザ?﹄
﹃ピザは駄目。一昨日食べたばっかりじゃない﹄
﹃あ、そっか・・・じゃあねぇ・・・おにぎり?﹄
﹃・・・おにぎり?﹄
一昨日の出来事の夜、時間がなかった事もあり夕飯はテイクアウ
トのピザだったのだ。
食事制限がされている事もあり、さすがに翔子としてもピザは駄
285
目だとしか言いようがなかったのだが、代わりに返ってきた返事に
翔子は思わず聞き返した。
﹃うん。おにぎりがいいな。それと、具沢山のお味噌汁?﹄
﹃そんなのでいいの?﹄
﹃うん。お姉ちゃんのおにぎり、愛莉好きだよ﹄
﹃そっか・・・じゃあ、何かそれに合うようなおかずをつけるわ
ね﹄
﹃うん﹄
どうやら今夜は簡単な夕飯となりそうだ。
具沢山の味噌汁がいいというのであれば、豚汁でいいだろう。
あとはキュウリの酢の物にほうれん草のおひたしくらいで十分だ。
できれば卵焼きもつけてやりたいところだが、これは栄養士から許
可が出ないだろうと思うので最初からメニューにいれていない。
丁度今朝食料品は買い出しに言ったばかりなので、愛莉の希望の
夕飯の材料は揃っている。
ゲームで遊んでいる愛莉に手を振ってから翔子はキッチンに戻っ
て夕食の下ごしらえを始めた。
と言ってもご飯を仕掛けて、豚汁の準備をすれば、あとは簡単な
ものだ。
翔子がほうれん草を冷蔵庫から出そうとした時、キッチンカウン
ターに置きっ放しにしてあったスマフォが鳴った。
誰だろう? と思いつつ画面を見るとそこには懐かしい名前があ
った。
﹁ハロー、シンディー﹂
︽ハーイ、ショーコ︾
電話をしてきたのは大学時代の親友だったシンディーだった。
﹁ひさしぶりね。どうしたの?﹂
︽元気かな、って思って電話したのよ? 最近ショーコったら電
話くれないんだもの︾
どこか拗ねるようなシンディーの口調を聞いて、翔子は彼女が口
286
を尖らせているところを思い浮かべる。
シンディーは翔子が大学に入った時にできた最初の友達だった。
彼女は大学卒業後に母方の叔母が住んでいるテキサスに遊びに行
って、そこで運命の出会いをした。
叔母の牧場の隣の牧場を経営する家族の長男が、シンディーの運
命の相手だった。
せっかく決まっていた就職先もすっぱり辞め、彼女は出会って2
ヶ月の相手と結婚してテキサスに移り住んだのだ。
ウィル
﹁今大丈夫なの?﹂
︽大丈夫。息子はロジャーが見てくれてるわ︾
時計を見ると丁度6時になろうとするところだった。ということ
はテキサスはまだ夕方の4時という事だ。
﹁ママが恋しいって泣くんじゃないの?﹂
︽大丈夫だってば。さっきミルクをあげたばかりだから、暫くは
おやこ
寝てるわよ。今もロジャーと一緒にカウチで寝てるわ︾
つまり、父子で昼寝中、という事なんだろう。
﹁いつこっちに里帰りするの?﹂
︽当分はしないわよ。クリスマスにこっちで会ったばかりだもの︾
﹁あぁ、そういえばみんながテキサスに来るって言ってたわね﹂
︽そうそう。それより、いつショーコは会いに来てくれるのかし
ら?︾
﹁そう簡単にはいかないわよ。仕事だってあるんだから﹂
シンディーは結婚してテキサスに引っ越して以来、彼女は事ある
ごとに翔子にテキサスに遊びに来いと言ってくるのだ。
翔子としても彼女に会いに行きたいと思うのだが、なかなかタイ
ミングが合わない。
そしてそうこうしているうちに両親が亡くなってしまったから、
愛莉の事を考えると会いに行く事など出来なかったのだ。
けれど、と、ふと翔子は思い出した。
賢一の計画通りであれば、愛莉の手術のあとからは暫く時間がで
287
きる筈だ。
このままここにいてもいいのだが、おそらく何かと周囲が騒がし
くなるだろう事は翔子にも想像がつく。
それならば、その間はテキサスで愛莉の療養をしてもいいのかも
しれない。
﹁そうね・・・もしかしたら夏前くらいに行けるかもしれないわ
ね﹂
︽・・・・ショーコ?︾
﹁まだはっきりとは言えないけど、愛莉に聞いてみるわ。もしタ
イミングが合えば、愛莉と一緒にそっちに行けるかも﹂
︽ホント?!? だったら嬉しいわっ︾
まだどうなるかは判らないからここで約束はできないが、それで
も行けるかもしれないと言う翔子の言葉にシンディーはとても嬉し
そうに声を弾ませた。
シンディーが結婚してから、1度だけロスにある実家に戻ってき
た時に会う機会はあった。けれどそれ以外は月に数回お互いの近況
を伝え合うために電話かテキストをしていた。︵テキストは携帯メ
ールの事です︶
それでも直接顔を合わせて話す事に比べれば、どうしても味気な
く感じてしまうのだ。
﹁まだ判らないわよ﹂
︽判ってるわよ。アイリーンの手術の事もあるものね。あっ、そ
っか・・こっちで療養するって事?︾
﹁環境を変えたほうがいいかもしれないな、って思ったの。でも、
それも私が勝手に思っているだけだから、愛莉は知らないわ﹂
︽アイリーンだったらきっと喜ぶわよっっ︾
﹁でもまぁ、とにかく手術が先ね。それから愛莉の容体を診てお
医者様と相談するわ﹂
シンディーには愛莉の手術の事は教えてある。
と言うより、不安になった時についシンディーに電話をしたのだ
288
った。
自分には関係ない事なのに、シンディーは翔子のためにとても真
摯に相談に乗ってくれた。
それもあって、できれば今度は直接会って礼を言いたかったとい
う気持ちもあるのだ。
﹁でもあんまり期待しないでね﹂
︽判ってるわよ。ショーコだって仕事があるものね︾
仕事、と言われて翔子は思わず苦笑を浮かべた。
その頃には新しい仕事を見つけているだろうか?
それともまだ職探しの最中だろうか?
ウィル
どちらなのかは判らないが、シンディーが知っている今の翔子の
職場ではないだろう事は確かだ。
︽もし来てくれたら、あちこち案内するわね︾
﹁そう? でも無理しないでね。シンディーの息子くんに会える
だけで私は楽しみよ﹂
︽私のお気に入りの場所を案内するわ。もちろんコブ付きよ︾
あ∼もう楽しみっっ、そう電話口で声を弾ませているシンディー
と翔子はそれからもう暫くの間雑談をする。
お互いの近況を交換しあってから翔子は電話を切った。
289
29.︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
290
30. ︵前書き︶
﹃﹄は日本語、﹁﹂は英語です。
291
30. 週も半ばになり、ようやく忙しさが落ち着いてきた頃、翔子は賢
一のオフィスに呼ばれた。
﹁ショーコ、ボスが呼んでるわよ﹂
﹁オッケー、スー。これ片付けてから行くわ﹂
とりあえずやりかけの仕事を引き出しにしまってから鍵をして、
親指を立ててニカッと笑っているスーに軽く手を振ってから賢一の
いるオフィスへと足を運ぶ。
賢一が翔子を呼んだのは、おそらく彼女の家の警備システムの事
だろう。
週明けは賢一も忙しくあちこち飛び回っていたから、まだ翔子も
警備システムのお礼を言えていないので、これから顔を合わせる時
に礼を言おうと思っている。
コンコン
ドアをノックすると中から﹁入れ﹂という声がしたのでドアを開
けて中に入る。
﹁お呼びでしょうか?﹂
﹃あれ、もう来たんだ? 早かったね。仕事は大丈夫だった?﹄
﹃はい、急ぎの仕事は抱えていないので﹄
﹃ちゃんとやりかけの仕事はどこかにしまった?﹄
﹃はい、ちゃんと引き出しに仕舞って鍵をかけましたから﹄
﹃そっか、じゃあ、大丈夫だね﹄
賢一との事が噂になり始めた頃、2回ほど翔子のやりかけの仕事
が汚されてしまう、という事があったのだ。
翔子としては子供じみた真似、としか思っていなかったのだが、
さすがに書類を汚されると仕事が増えるだけでなく、取り返しのつ
かなくなるものもあるので、それ以来机の上に仕事を残さないよう
292
にしているのだ。
﹃とりあえず、そこに座って。あっ、その前にコーヒー、淹れて
くれるかな? 君の分もね﹄
﹃はい、判りました﹄
賢一に言われてコーヒーを淹れる事はいつもの事なので、翔子も
慣れた手つきで部屋の隅に置いてあるコーヒー・メーカーで2人分
のコーヒーを淹れる。
賢一が自分用にいつも使っている紺色のマグカップと自分用に白
のマグカップにコーヒーを注いでから、翔子は紺色のマグカップを
彼のデスクに置いてからその前に自分のカップを置いて座る。
﹃警備システムはちゃんと設置出来たかい?﹄
﹃はい、その日のうちに全部設置してもらいました。ありがとう
ございます﹄
﹃その日のうち? じゃあ、基本警備システムしか導入しなかっ
たって事?﹄
﹃いいえ、基本警備システムプラス幾つかのカスタムを設置して
もらいました。2階建ての家という事と隣の家との距離があまりな
いという事で、基本だけよりはそういった点を踏まえた警備システ
ムの方がいいだろうと言われたので﹄
郊外の一軒家であれば庭も広く死角よりも隣近所や道路から見え
る場所の方が多くなるのだが、翔子の家のように隣の家との間が狭
いとそれだけで死角が増えてしまうのだ。まして2階があるとなる
とその分の死角もまた増えてしまう。
以前のように両親が一緒に住んでいればまだしも、今は翔子と愛
莉の2人だけしか住んでいない。
特に翔子の目の届かないところで愛莉に何かあれば、と思うと業
者の言う通りに念には念を入れた警備システムを選ぶ事になったの
だ。
その分費用は嵩んだが、その分翔子が払うと言ったのだが、業者
は賢一から予算として提示されている金額よりは少なく住んでいる
293
のでその必要はない、と言ったので払っていない。
﹃でもかなり費用がかかった、と思うんですけど・・・﹄
﹃ああ、そんな事は気にしなくてもいいんだよ。っていうか、基
本警備システムプラスちょっとだけ、って事は僕が思っていたより
も安いしね。あの程度の支出で君たちの安全が確保できるんだった
ら安いもんだよ﹄
﹃ありがとうございます﹄
﹃それで、警察からは何か連絡はあったかな?﹄
﹃いいえ・・・通り魔みたいなものだから、って言われました。
おそらくランダムにターゲットを選んだだけだろうから、犯人を見
つけるのは難しいだろう、って﹄
週が明けてから警察に調査状態を確認するための電話をしたのだ
が、あまり芳しくない返事しかもらえなかったのだ。
けれど毎日の犯罪件数を考えると、死傷者が出た訳でもない翔子
の家の事にまで手が回らないのだろうと思うしかない。
﹃僕の方でも彼女の動向には目を光らせるようにしているんだけ
ど、今回の事に彼女が関わっているのかまでは判らなかったんだ﹄
﹃そうだったんですね・・ありがとうございます﹄
﹃もしかしたら彼女の方も興信所みたいなところに頼んでいるの
かもしれないけどね﹄
﹃それは・・・・﹄
﹃まぁ、それは無い、と僕は思っているけどね。だってお金がか
かるだろう? いくら社長令嬢とはいえ、そんなに自由になるお金
を持っているとは思えないんだよね。ま、そんなお金があるんだっ
たら僕なんかに固執する必要は無いからさ﹄
それでも、と翔子は思う。
賢一が持っているのはお金だけではない。その地位も沙也香のよ
うな女には魅力的に見えるはずだ。
けれどニュー・イヤー・パーティーで直接的では無いがはっきり
と、彼女には興味は無い、と断言したのだ。
294
自分だったら諦めるだろう。
﹃それより、今日、車で来た?﹄
﹃えっ? いいえ、バスです﹄
いきなり話が変わって、翔子は目をパチクリさせて賢一を見る。
翔子が会社に車で来る日は、帰りに買い物をする時だけだった。
普段はバスで通うようにしている。その方が楽だから、だ。朝の
渋滞の事を考えると自分で運転するよりはバスの方が気が楽なのだ。
ただ食料品などを会社帰りに買う時は、車の方が移動も楽だし荷
物を運ぶ事を考えても楽だから、そういう時は車で会社に来る事に
している。
﹃じゃあ、帰り、送るから﹄
﹃・・・えっ?﹄
﹃仕事はちゃんと定時までに片付ける事。定時に迎えに行くから
それまでには片付けも済ませておくんだよ﹄
﹃今日、ですか?﹄
﹃うん。僕の方の時間が空いたんだ。だから、ね﹄
﹃ああ・・・向こうにはちゃんと聞いたんですか?﹄
﹃もちろんだよ。夕方になるけど、って言ったらそれでも大丈夫
だって言ってくれた﹄
嬉しそうに笑みを浮かべた賢一を見て、翔子もついつられて笑み
を浮かべた。
﹃よかったですね・・・2週間ぶり、くらいですよね?﹄
﹃そう。仕事が忙しかったからね。これからまた暫く忙しくなる
から、このチャンスは逃したくないんだ﹄
バレンタインはなんとか午後だけは確保できたんだけど、と少し
残念そうな賢一だが、それでも今日これから会いにいける事は嬉し
いのだろう。
﹃手ぶら、じゃダメですよ﹄
﹃判ってるよ。この前翔子に言われたから、花束を持って行った
んだ。すごく喜んでくれた﹄
295
﹃ほら、だから喜びますよ、って言ったでしょう?﹄
﹃ありがとう。僕じゃあ思いつきもしなかったよ﹄
近寄ってくる女を適当にあしらう事しかしてこなかった賢一は、
ある意味恋愛初心者だった。
だからちょっとした翔子のアドバイスも素直に聞き入れてくれる
のだ。
﹃今日は鉢植えを予約したんだ。君のところに行く途中にピック
アップする事になってる﹄
﹃ああ・・・あの角にあるお店ですか?﹄
﹃うん。前に品揃えがいいって教えてくれただろう? この前の
花束もあそこで作ってもらったんだよ﹄
どうやら翔子を家に送ってからそこで花束を買ったようだ。
﹃香りのいい花の鉢植えが欲しい、って言ったらいいのがあるっ
て言われたんだ﹄
﹃いいアイデアですね。ジュリアさんには嬉しいプレゼントです﹄
﹃翔子もそう思う? じゃあ、間違いないね。ジュリアにはなん
でも買ってあげたいんだけど、僕が買いたいものは彼女が遠慮する
からさ。プレゼントも考えつかなかったんだ﹄
﹃当たり前ですよ。彼女は一般人ですからね。専務代理と同じ感
覚は持っていません﹄
翔子には自分と同じような普通の庶民であるジュリアが困惑する
姿を思い浮かべる事は容易いのだ。
仕事においては冷徹と評価される事すらある賢一なのに、ことジ
ュリアに関してはその評価は役に立っていない。
彼女のちょっとした言葉や態度に一喜一憂する賢一は、仕事上の
彼を知っている人が見ればきっと同一人物だと信じられないだろう。
﹃そういえばジュリアが翔子に会いたがっていた﹄
﹃私に、ですか?﹄
﹃うん。ほら、前に1度紹介しただろう? すごくいい人みたい
だって言ってね﹄
296
﹃私はただの社員だって、ちゃんと説明しておいてくださいよ﹄
彼女に誤解されたくないので、その点はきちんとしておいて欲し
い、と付け加えると、賢一は判っていると頷く。
﹃彼女は君の事をそんな風に見ていないよ。ちゃんと僕の部下だ
って判ってる。ただ・・あの件は言ってないけどね﹄
﹃それは・・・言っちゃダメですよ。きっと気に病むと思います
から﹄
賢一の言うあの件というのは、翔子との契約のことだろう、と彼
女にはすぐにピンときた。
賢一が何を犠牲にしても守りたい、という彼女に翔子を会わせて
ジュリア
くれたのは偶然ではなく翔子の覚悟を見るためだった、とジュリア
に会った時にすぐに気づいたからだ。
契約の話を持ちかけられた時に賢一は言ったのだ、彼女を守るた
めなら僕は悪魔に心を売り渡してもいい、と。
翔子にはそこまで思う恋人はいないが、自分を犠牲にしてでも守
りたいと思う妹がいるから、彼の気持ちはよく判る気がした。
だから引き受けたのだ。
ジュリア
愛莉の医療費のためにお金が必要だった、という事もあるが、そ
れ以上に彼女を守りたいという彼の気持ちに共感したからこそこの
話を引き受けたのだ。
﹃いつも隠れ蓑に使って悪いね﹄
﹃気にしないでください。私としては家まで送ってもらえて助か
りますから﹄
﹃そう? そうだ、花屋に寄った時に君の妹ちゃんにも花を贈っ
ていいかな?﹄
﹃そんな気を使わなくてもいいですよ﹄ ﹃いやいやいや。僕が贈りたいんだよ﹄
ちっちっち、と顔の前で指を振りながら目が宙を彷徨っている事
から、翔子には賢一が何を贈ろうか考えている事が判る。
﹃そうだな・・・チューリップなんてどう?﹄
297
﹃きっと喜びます・・ありがとうございます﹄
﹃黄色がいいかなぁ・・・それとも赤、かなぁ・・・いや、いっ
その事色々な色を組み合わせてもらってもいいのか﹄
ブツブツと言いながら賢一はどうやら愛莉に贈るチューリップの
花の事を考えているようだ。
﹃そんなに考えなくてもいいですよ。専務代理が鉢植えを取りに
行く時に目に付いたものを選んでくださればそれで十分ですから﹄
﹃いや、さすがにそれはダメだよ。でも、そうか・・・どんな花
があるかは店に行かないと判らないからね、行ってから可愛いのを
選んでもいいのか﹄
どうせ君の家に行く途中にあるからね、と付け足した賢一は、よ
うやく考えが纏まったようだ。
﹃ん∼・・じゃあ、そういう事でいいかな?﹄
﹃はい、定時ですね﹄
﹃そうそう﹄
どうやらこれで話は終わったようだ。
賢一は手をひらひらと翔子に振ったかと思うと、目の前の書類を
手にした。
﹃それでは失礼します﹄
﹃じゃあね﹄
もし翔子が商談相手ならドアまで送り出すのだろうが、あいにく
ただの社員だ。
賢一は既に翔子の方を見る事もなく仕事を始めている。
そんな彼に小さく頭を下げてから、翔子は彼のオフィスから出て
行った。
298
30. ︵後書き︶
07/07/2016
@
CT
読んでくださって、ありがとうございました。
Edited
20:23
299
31.︵前書き︶
﹃﹄は日本語、﹁﹂は英語、︽︾はアナウンス、です。
300
31.
今日はバレンタイン、という事で翔子は愛莉の希望を叶えるため
に朝から大きなチョコレートケーキを焼いていた。
そんな翔子の隣で、愛莉は焼き上がったクッキーを溶かしたホワ
イトチョコレートを使ってデコレーションしている。
﹃ねえ、お姉ちゃん。これ、ハートに見える?﹄
﹃ハート? う∼ん・・・まぁ、見えるって言えば見えるかな?﹄
溶けたチョコレートをサンドイッチ用のビニル袋に入れ、その角
を小さく切り取って絞り機代わりに使って愛莉は色々な模様を書い
いびつ
ているのだが、今愛莉が尋ねたクッキーに描かれたハート型は、ど
ちらかというと耳の歪なウサギのように見える。
けれどハートだと言われるとなんとなくそんな気がするので、翔
子は返事に困ったのだが、聞いた本人である愛莉はそんな返事でも
満足したのか頷きながら次のハートを描いている。
フード・カラー
﹃ねえ、ピンク色とかはないの?﹄
﹃ピンク? う∼ん、着色料もある事はあるけど・・・愛莉は食
べれないわよ?﹄
明日は愛莉の定期検査の日なのだ。
その時によって検査の内容が変わってくるから毎回ではないのだ
が、検査によっては赤色の着色料を摂取しないようにと言われるも
のもあるのだ。
定期検査の予約管理している部署に電話で聞けば明日の検査の内
容もすぐに判るのだが、あいにく休日の今日だと部署には誰もいな
いだろう。
﹃明日、検査があるでしょ? だから、ピンクはダメだと思うな﹄
﹃えっ? あっ、そっか・・・う∼ん、じゃあ私は白いのだけ味
見する。だから、ピンクも欲しい﹄
301
﹃それなら、仕方ないわね。じゃあ、ちょっと待ってて﹄
翔子はパントリーのドアを開けて中に入ると、奥の普段は使わな
いものを並べてある棚に向かうとそこに並べてある食品着色料が入
った小さな箱を取り出した。
その中には赤青黄の3色の小さなチューブに入った着色料が入っ
ている。翔子は赤を取り出すと今度はホワイトチョコレートを取り
出して包丁で小さく削るとそれを愛莉が使っているのと同じサンド
イッチ用のビニル袋に入れてから1滴だけ着色料を入れ、それを熱
湯の入ったボウルに入れてチョコを溶かす。
愛莉は翔子がピンクのチョコレート・アイシングを作るのを見て
から、まだ残っているホワイト・チョコレートのアイシングを使っ
て花柄やハート柄をクッキーに描いていく。
﹃明日、病院でみんなにあげてもいい?﹄
﹃病院で、かぁ・・・そうねぇ。患者から物を受け取る事は出来
ないって言ってたと思うんだけど、バレンタインだからっていえば
大丈夫、かな?﹄
﹃ダメだって言われたらあきらめるから﹄
﹃だからこんなにたくさんのクッキーを焼くって言ったのね﹄
﹃だって、たまにはいいかな∼って思ったんだ﹄
﹃グェンにもちゃんとあげるのよ?﹄
﹃もっちろん﹄
愛莉なりに病院のスタッフに気を使うつもりなんだろう。
それに学校に通っていない愛莉には、バレンタインにプレゼント
を渡す相手が限られているという事もあるのかもしれない。
だからバレンタインにクッキーを配ろうとするのだ、と翔子は苦
笑を浮かべながら愛莉の手伝いをする。
﹃できたらグェンのところに持っていっていい?﹄
﹃いいわよ。明日はクッキーを持っていく時間がないかもしれな
いものね﹄
﹃うんっ。それに出来立てが一番、でしょ?﹄
302
楽しそうに笑う愛莉に溶けたチョコレート・アイシングを手渡す
と、翔子は作りかけのケーキの仕上げに取り掛かった。
愛莉が作ったクッキーは金額が張るようなものではなかったせい
か、病院でいつも担当してくれているスタッフに渡す事ができた。
翔子はニコニコと嬉しそうにクッキーの入った小さな袋を手渡し
てから検査に向かった愛莉を見送ってから、いつものカフェテリア
にやってきてコーヒーを手に窓際に席に座る。
それから小一時間ほど持ってきていた本を片手に時間を潰してい
たところに、両手にコーヒーの入ったカップを持ったクィンが現れ
た。
﹁おはようございます﹂
﹁おはよう、ショーコ﹂
﹁ありがとうございます﹂
ほら、とコーヒーを手渡してくれたクィンに礼を言ってから、翔
子は一口飲んだ。
翔子がここに来た時に買ったコーヒーは既に冷たくなっていたの
で、温かい飲み物はありがたい。
﹁アイリーンはまだまだ検査?﹂
﹁そうです。多分もう少ししたらここに戻ってくると思います﹂
﹁じゃあちょうどよかったかな。ほら、これをあげるよ﹂
﹁・・・えっ?﹂
スマートな動きでクィンは小さな包みを翔子に差し出した。
思わず差し出された包みを受け取ってから、翔子は驚いたような
声を出してしまう。
303
﹁あの、これ・・って﹂
﹁今日はバレンタインだからね。ショーコとアイリーンにプレゼ
ントだ﹂
﹁えっと・・でも、私は何も差し上げるものを用意してないんで
すけど・・・﹂
﹁別にショーコたちから何か貰いたくて用意したわけじゃない。
ただ、アイリーンとショーコが喜ぶかな、と思って用意しただけだ
から気にする必要はない﹂
﹁・・・じゃあ、ありがとうございます・・・﹂
気にするな、と言われても気になってしまうのだが、それ以上固
辞するのも失礼な気がして、翔子は小さな声で礼を言った。
﹁えっと、開けてみていいですか?﹂
﹁いいよ。そんなに大したものじゃない﹂
それじゃあ、と早速包みを開けると中から10センチ四方くらい
の大きさの箱が出てきた。
翔子は取り出した箱の蓋を開けて中を見ると、そこにはチョコレ
ートを彫って作ったのだろうと思われるバラの咲いた花の形のチョ
コレートが1つ入っていた。
﹁・・・綺麗﹂
﹁気に入ったかな?﹂
﹁はい・・なんだか食べるのがもったいないです。その・・・あ
りがとうございます﹂
﹁アイリーンにも買ってあるんだ。このままここで彼女がくるの
を待っていていいかな?﹂
﹁もちろんです。愛莉も喜びます﹂
そう言ってから、翔子はふと愛莉が作ったクッキーの事を思い出
した。
確か愛莉はもしかしたらクィンがいるかもしれないから、と言っ
てクッキーを用意していたのだ。
少なくとも愛莉からはクィンに何かあげるものがある、と思うと
304
少しだけホッとする。
﹁バレンタインだから定期検査の日程を変えるかと思ったんだけ
ど、この前会った時にアイリーンが次にくるのはバレンタイン当日
だって教えてくれたから、だったら今日ここに顔だせば会えるだろ
う、って思って用意しておいたんだ﹂
﹁すみません、わざわざ気を使ってもらって。でも愛莉は家族以
外からはバレンタインにプレゼントをもらった事がないからきっと
すごく喜ぶと思います﹂
﹁友達から貰うん・・・ああ、そうか。そういえば学校には行っ
ていなかったんだな﹂
﹁はい。それなりに日常生活は送れるんですが、さすがに学校生
活までは体力的に無理だって言われてて・・・だから、バレンタイ
ンにプレゼントをくれる相手と言ってもお隣の家族くらいですね。
でも彼女たちは愛莉にとってはお隣さんというよりは、もう1つの
家族だと思うから・・・﹂
﹁ああ、そういえばショーコが仕事に行ってる間の面倒を見てく
れているんだったな。それに勉強も見てくれているんだったら、確
かに家族と言ってもおかしくないだろう﹂
雑談のように翔子が話していた事をクィンが覚えていた事に驚い
てしまう。
﹁じゃあ、もっと豪華なものを用意すればよかったかな?﹂
﹁いいえ、あんまり豪華だと、あの子受け取りませんよ?﹂
﹁ああ、そういえばそうだった。しっかりしているからな、アイ
リーンは﹂
きっといつもの偉そうな口調で、豪華なものは受け取れない、と
力説されるんだろう事はクィンにも容易に想像ができる。
﹁誕生日とクリスマスだけです﹂
﹁バレンタインは?﹂
﹁毎年、手作りのチョコレート・ケーキが欲しいとリクエストさ
れるくらいですね﹂
305
﹁・・・もしかしてご両親が存命の時から?﹂
﹁はい・・・あの子らしいといえばらしいんですけど、両親は子
供のくせに気を使うな、って言って色々と押し付けていました。で
も両親が亡くなってからは、受け取ってくれなくなっちゃって・・・
﹂
医療費ですら気にしていたのだ。
だから翔子は自分が払っているのではなくて、支援グループにお
願いして出してもらっているんだ、と愛莉に伝えてある。
それだったら大切なお金を無駄にしちゃいけないわね、と言って
辛いであろう検査も食事制限も我慢してくれているのだ。
全く子供らしくない、と翔子は思う。
けれど、だからこそなんとかして愛莉が子供らしくなれるように
してやりたい、と思うのだ。
﹁そうか、本当にしっかりした子なんだな﹂
﹁はい、自慢の妹ですから﹂
﹁そういうショーコもアイリーンの自慢のお姉さんだと思うよ﹂
﹁えっ・・・っと・・・﹂
﹁たった1人で妹の面倒を見ているんだ。アイリーンが自慢する
のは当たり前だろう?﹂
﹁そ、そんな事は・・﹂
面と向かって褒められると、翔子としてはなんと返事をすればい
いのか判らない。
そのまま返事に困ってオロオロしていると、そんな彼女の内心に
思い至ったのかクィンが小さく笑う。
﹁もっ、もうっっ。揶揄わないでくださいっっ﹂
﹁別に揶揄っている訳じゃ̶̶̶̶﹂
︽コード・ワン・サウザンド、コード・ワン・サウザンド、第3
検査室前通路︾
両手をあげて翔子の言葉を否定しようとしたクィンは、不意に聞
こえてきたアナウンスに言葉を止める。
306
﹁コード・ワン・サウザンド?﹂
聞いた事のないコードだ、と翔子は頭をかしげる。 翔子が知っているのは、コード・レッド、イエロー、そしてオレ
ンジの3つだけだ。
コード・レッドは火災発生、コード・イエローは武器所持者が病
院内にいる、そしてコード・オレンジは危害を加えかねない人物が
いる、ということを表していたと翔子は記憶している。
しかし、今まで訓練としてアナウンスでその3つは聞いた事はあ
るものの、今回のワン・サウザンドは聞いた事がない。
マイナー
﹁クィン、ワン・サウザンドってなんですか?﹂
ドリル
﹁コード・ワン・サウザンドは未成年が行方不明、または誘拐、
拉致、という意味なんだが、今月のコード訓練は既に終わっている
と聞いているんだが・・・﹂
︽コード・オレンジ、コード・オレンジ、第3検査室前通路。コ
ード・オレンジ、第3検査室前通路︾
クィンの説明が終わる前に再びアナウンスが聞こえてきた。
たった今コード・ワン・サウザンド、とアナウンスがあったばか
ドリル
りの同じ場所に今度はコード・オレンジのアナウンスのようだ。
﹁これって・・・﹂
﹁ああ、おそらく同一人物による者、だろうな﹂
﹁じゃあ、訓練じゃないって事ですよね?﹂
﹁今月の訓練は終わっている筈だからな。それに訓練だったら、
そうアナウンスで言う筈だ﹂
クィンは病院の理事に名前を連ねているおかげで、そういった病
院内での訓練予定なども知っているようだ。
その彼が訓練ではない筈、という事は本当に誰か行方不明になっ
たという事なのかもしれない。
けれど、その事に翔子が思い至るより先に、そういえば今日愛莉
は第3検査室で検査を受けている筈だ、という事が記憶に蘇る。
﹁ミス・ショーコ!﹂
307
と同時に、カフェテリアのドアから見慣れないナースが翔子の名
前を呼びながら入ってきた。
翔子がその声に驚いて立ち上がると、ナースは小走りで翔子の元
にやってくる。
﹁ミス・ショーコ、アイリーンがっっ﹂
﹁愛莉? 愛莉がどうしたんですか?﹂
﹁第3検査室の前で変な男に掴まれて、そのまま人質としてナイ
フを突き立てられたまま・・・﹂
﹁・・・・え?﹂
思わぬナースの言葉に、翔子は声にならない声を出した。
愛莉が?
ナイフ?
翔子はナースの言葉を頭の中で反芻するが、脳が理解してくれな
い。
そんな翔子の腕を掴んで立たせたのは、目の前に座っていたクィ
ンだった。
﹁行くぞ﹂
﹁行くって・・どこへ?﹂
﹁第3検査室だ﹂
﹁えっ・・・﹂
﹁ほら、歩け。歩けないって言うんだったら抱き上げて行くぞ﹂
﹁いっ、いやっ、いいですっ﹂
翔子の膝裏に腕を入れようとしたクィンの手を押しのけて翔子が
頭をブンブンと振って抵抗すると、クィンは彼女の腕を掴んだまま
引き摺るようにして先導するナースのあとをついていった。
308
31.︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
309
32.︵前書き︶
﹃﹄は日本語、﹁﹂は英語です。
310
32.
第3検査室の前にはたくさんの病院のスタッフが取り囲むように
立っていた。
そのせいで愛莉の姿は見えないものの、男の声が聞こえて来る。
﹁だからっ、早く金よこせっ、ってんだろうがっっっ﹂
﹁金ならすぐ用意するから、その子には危害は与えないでくれ﹂
﹁うるせぇっっっ!﹂
バンッッ
何かを叩く大きな音がして、翔子は思わず足を竦ませてしゃがみ
込みそうになる。
そんな彼女の腰に手をやってその場にしゃがみ込まないように支
えてやりながらも、クィンは少しずつ前に向かって移動していく。
そんな彼を咎めようとする者はいない。
いや、いた事はいたのだが、彼は自身の病院での理事の立場を表
に出して邪魔をさせなかっただけだ。
そうして少し前に出ると、翔子にも状況が見えるようになった。
第3検査室のドアの前におそらく20代半ばくらいだろう男がナ
イフを片手に振り回しているのが見える。
そして、その男に掴まれているのが、翔子の妹の愛莉だった。
﹁あぃ・・・・﹂
﹁大丈夫だ。ちゃんと助ける﹂
﹁でも・・・﹂
ぐっと口を噛みしめている愛莉の顔を見て、翔子は小さく声を漏
らす。
コード・オレンジという事で、病院内にいたエンジニアリングや
医療スタッフの男性陣が10人ほど翔子とクィンの前に立っており、
彼らはできるだけ男を刺激しないような言葉を選んでなんとか愛莉
311
に危害が及ばないように説得してくれているが、男にどこまでそれ
が伝わっているかはまったく見当もつかない。
﹁ヘイ、ジョナサン。彼はヤク中か?﹂
﹁えっ、ミスター・マクファーラン? はい、おそらくですが、
彼の言動からそんな気がしますね﹂
クィンが病院スタッフの中に見知った相手を見つけて声をかける
と、声をかけられた男はそこで初めてクィンがその場にいる事に気
づいた。
﹁それで、どうやって中に入ってきたんだ?﹂
﹁ERにやってきたようですよ。痛み止めの薬が欲しい、ってね。
処方箋を書いて欲しいって事で受付も済ませたようなんですが、そ
のうち待合室の中をウロウロと歩き回ったり、訳の判らない事をブ
ツブツと言いだしたそうです。それで暫くしてERの待合室を出て
行ったかと思ったらこっちにやってきて、ちょうど検査をおえて検
査室から出てきたばかりのあの子を捕まえたんだと聞いています﹂
﹁そうか・・・﹂
そういう事であれば病院内にいてもおかしくはない、とクィンは
思う。
﹁警察には連絡を入れたのか?﹂
﹁はい、コード・オレンジの放送と同時に受付の人間が警察の方
コップ
にも電話を入れている筈です。多分もうそろそろ姿を現わしてもお
かしくはないと思うんですけど﹂
コップ
﹁まぁ、だからと言ってここに来た警官を見てあいつが逆上して
も困るけどな﹂
﹁それも判っています。一応、警官がきたらすぐにハウス・スー
プの方に行かせるように指示は出してあるはずです。事情説明はハ
ウス・スープがした方が話が通りやすいだろうって事になっていま
す﹂
医療スタッフの陰で情報交換をしている2人の会話を聞くとなし
に聞いていた翔子は、警察、という言葉を聞いてクィンを見上げた。
312
﹁警察が来るの?﹂
ハウス・スー
﹁ああ、こういう時はすぐに連絡を入れる事になっている﹂
ハウス・スーパーバイザー
﹁・・・ハウス・スープって?﹂
﹁病院内監督者の事だ﹂
パーバイザー
病院では医療スタッフの他に、彼らを統括して指示を出す病院内
監督者という人がいる。彼または彼女は病院の患者状況やスタッフ
が足りているかを常に確認して、足りないところに余っている人手
を回したり電話をして手を貸してくれるスタッフを探したりしてい
る。
他にも新しい患者をどのフロアに割り振るか、どの医者に連絡を
とるか、などといった事もしている。
だからここでハウス・スープが警察に事情説明をするのは当たり
コップ
前の事だろう。
コップ
﹁ここに警官が来たらあいつが逆上して何をするか判らないから
な。けどあいつはどう見たってヤク中だから、警官が来たからって
安全とは言えないだろうな﹂
﹁そうですね・・・なんとかしたいと思っているんですけど﹂
ナイフを持っているから手を出すに出せないのだ、とジョナサン
は悔しそうに言う。
﹁あいつの気を逸らす事が出来ればなんとかできるか・・・・﹂
﹁ミスター・マクファーラン?﹂
クィンは今自分たちがいる位置の配置を頭に思い浮かべてみる。
この病院の歴史は古く、そのせいで当時の建物に何度も建て増し
をしたせいか、初見の人間には迷路のような作りになっている。
だが、その代わりと言ってはなんだが通路が幾つも入り組んでお
り、男に見つからないように愛莉たちの後方に行く事はできるだろ
う。
﹁オーケー、ジョナサン。手を貸してくれないか?﹂
﹁手をって、何をするつもりなんですか、ミスター・マクファー
ラン?﹂
313
﹁ちょっと、な﹂
クィンはそのままジョナサンに耳打ちをする。
翔子はそんな彼の方に視線を向けたものの、それよりも愛莉の方
が気になるからすぐに彼女の方に向き直す。
コップ
﹁それは・・・大丈夫ですか?﹂
﹁多分な。それに警官が来るのを待っているよりはいいだろう?﹂
どうせすぐにすぐこちらに来れるわけじゃないんだから、と苛立
つ声で付け加えるクィンに、ジョナサンは苦笑いしながらも小さく
頷いた。
どうやら彼も今の状態が続くことを良しと思っていないようだ。
﹁じゃあすぐに2−3人連れて行きます﹂
﹁頼む﹂
小さく一礼してから、ジョナサンは翔子たちのそばから離れてい
く。
その間も男はナイフを振り回しながら、金を寄越せ、と騒いでい
る。
﹁ショーコ、大丈夫か?﹂
﹁私は・・・でも、愛莉は﹂
﹁判っている。少しでも早くなんとかするよ﹂
﹁でも・・・﹂
なんとかする、と言う事は簡単だが、一体どうやった愛莉を助け
るのか翔子には全く見当もつかない。
﹁1人で立てるか?﹂
﹁えっ? あっ・・はい。大丈夫です﹂
どういう意味? と尋ねるような表情を浮かべてから、翔子はよ
うやくクィンが自分の腰を支えてくれていた事に気づいた。
途端に体をクィンから離して小さく頭を下げるが、クィンは全く
気にしていないようだ。
﹁そのままそこで待っててくれ﹂
﹁・・どういう意味ですか?﹂
314
﹁いいから﹂
クィンはもし翔子がバランスを崩しても大丈夫なように壁側に立
たせると、そのまま彼女から離れていってしまう。
翔子は彼を呼び止めようとしたものの、彼がそのまま愛莉たちの
方に向かって歩いていくのを見て言葉を飲み込んだ。
そんな彼を止めようと声をかけた医療スタッフもいたが、相手が
クィンだと判るとそのまま彼に道を開ける。
﹁なんだっっ、おめぇはっっ﹂
﹁私はこの病院の理事のクィンシー・マクファーランだ﹂
﹁はぁっっ?﹂
﹁金が欲しいんだろう? 私はそのためにここに呼ばれてきたん
だが?﹂
﹁おっ。おうっ、欲しいぜっっ﹂
一番前に並んでいた医療スタッフの間を抜けて前に出てきたクィ
ンにナイフを向けながら、男は更に愛莉を自分の方に引き寄せる。
そんな彼をそれ以上興奮させないように、クィンは口元に笑みを
浮かべてゆっくりと二人に近づいていく。
﹁金なら私が持っている。とりあえずそれをそちらに差し出そう
と思っているんだ﹂
﹁ちょっとやそっとの金じゃあねえぞっっ﹂
﹁判っているよ、いくら欲しいんだ?﹂
﹁いくらっ・・・・全部だよっっっ﹂
ナイフを振りながらも、クィンが金の事を口にしたせいか、男の
口元が笑みに歪む。
愛莉は男に掴まれたままだが、やってきたのが顔見知りのクィン
だと言う事で少し安心したように見える。
そんな愛莉と目を合わせて小さく頷くと、クィンは懐に手を入れ
た。
﹁変な真似すんじゃねぇぞっっっ!﹂
﹁変な真似はしないよ。金が欲しいんだろう? 財布を取り出し
315
ているんだ﹂
﹁だっ、だったらっ、ゆっくり動かせっっ﹂
﹁判っているよ﹂
クィンは男から3メートルほど離れた場所まで近づいてから歩み
を止める。
それから懐に入れかけた手を広げて何も持っていない事を男に見
ドラ
せてから、クィンは彼の言った通りゆっくりと手をジャケットの内
ポケットにいれるとそのまま茶色の革の財布を取り出した。
﹁さて・・・いくらあるかな?﹂
﹁全部寄越せっっっ﹂
イバーズ・ライセンス
﹁全部と言ってもカードとかは使えないだろう? それに私も運
転免許証くらいは手元に置いておきたいからね﹂
﹁んなもんっこっちで捨てちまうっっ﹂
さっさと寄越せと言わんばかりに男はナイフを振り回すが、クィ
ンはそれに動じる事なく財布の中身をゆっくりと取り出した。
彼が財布から取り出した紙幣はかなりの数があるようで、ナイフ
を振り回していた男がゴクリと唾を飲み込んでナイフを振る事を忘
れたほどだ。
しかしクィンはそんな男の様子を気にもとめず、パラパラと取り
出した紙幣を両手で見やる。
﹁さて・・・1ドル札はいらないだろう﹂
﹁おっ、おいっっ﹂
クィンは財布から取り出した札の中から見つけた1ドル札をその
ままレシートを捨てるように足元に落とす。
﹁これは・・5ドル札か。これもいらないだろうな﹂
﹁なっ、何やってんだっっっ!!﹂
1ドル札を足元にポイッと落としたクィンをみて動揺したような
声を上げた男は、今度は5ドル札を取り出して同じように足元にポ
イッと捨てたクィンを怒鳴りつける。
﹁何って、そちらに渡す金を探しているんだ﹂
316
﹁嘘つけっっっ! おめぇっ、金捨ててんじゃねえかっっっ!﹂
よ
﹁違うよ。どうせなら20ドル札とか100ドル札の方がいいん
じゃないか、と思って選り分けているだけだよ﹂
﹁だっ、だったらっっ、早くしろっっっ!﹂
﹁さて、と・・・・とりあえず1500ドルくらいならあるみた
いだが、それでいいかな?﹂
チェック
﹁たっ、たったそれっぽっちかよっっ﹂
﹁なんだったら小切手を書いてもいいよ。それなら4−5万ドル
くらい書けるくらいの現金が銀行にあると思うから﹂
﹁んっ、んなもん換金できるかどうか判らねえじゃねえかっっ﹂
確かに書いてすぐに銀行にチェックの換金を差し止めてしまえば、
男は金を手にする事はできないだろう。
﹁そうだね・・・じゃあ、私のクレジットカード・・・いや、こ
れも差し止める事ができるな・・だが、今すぐに現金を持って来さ
せるにしても時間はかかると思うんだ﹂
﹁じゃっっ・・・じゃあ、それだけでいいから寄越せっっっ!﹂
クィンは顎に手をやって思案するようなポーズをとる。
視線は男の方を向いているように見えるが、その実彼は男の背後
を見ていた。
そこには先ほどまでクィンと話をしていたジョナサンが通路の影
からこちらの様子を見ているのが見える。
どうやら配置についたようだ。
﹁本当にこれでいいのか?﹂
﹁いいっつってんだろっっ﹂
﹁判った。じゃあ、取りに来るかい? それともこっちから行こ
うか?﹂
﹁ゆっ、ゆっくり歩いてこいっっっ! 変な事考えんじゃねぇぞ
っっっ﹂
馬鹿な真似をしたらこいつがどうなるか判るだろ、と手にしてい
たナイフで愛莉の頰をピタピタと叩いてみせる。
317
それを見て翔子は思わず息を飲んだが、それでも声を出す訳にも
いかないから漏れそうになる悲鳴を抑えるために口元を右手で覆っ
た。
動揺している翔子とは対照的に、クィンは落ち着いた雰囲気のま
ま男の言う通りゆっくりと近づいていく。
それから男から1メートル少しのところで立ち止まると、男に向
かって紙幣を持っている手を差し出した。
﹁なっ、なんだよっっ﹂
﹁これ以上私が近づく事は嫌だろう?﹂
﹁そっ、そりゃあ・・いいからもう少し近づけよっっ。変な真似
すんなよっっ! そんな事したらこのガキがどうなるか判ってるだ
ろうなっっ!﹂
﹁ああ、判っているよ。だから、言われた通りにしているだろう
?﹂
﹁あっ、当たり前だっっっ!﹂
落ち着き払っているクィンの態度が気に入らないと言わんばかり
に男は顔を顰めるが、それでも男の言葉に逆らう事なく言われた通
りにする彼をナイフでしゃくる。
﹁さあ、これだけ近ければ受け取れるだろう?﹂
そう言ってクィンがもう一度男に向かって腕を差し伸ばすと、男
は躊躇いながらも男はナイフを持った手をクィンの差し出した現金
に向かって伸ばした。
﹁あっっっっ﹂
そして男の指先が紙幣に触れた、というところでクィンは手をパ
ッと開いた。
318
32.︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
319
33. ︵前書き︶
﹃﹄は日本語、﹁﹂は英語です。
320
33. クィンが手を開いた事で、当然彼が手にしていた札がバラバラと
床に散らばっていく。
﹁おいっっ、テメェ、何しやがんだっっっ!﹂
男はナイフを持っていたせいで、クィンの手から落ちていく紙幣
を掴み損ねた。
途端に怒声をあげて文句を言うが、男の視線は散らばって落ちて
いく紙幣に向いている。
そしてそれこそがクィンが待っていたタイミングだった。
愛莉を掴む手は緩んでいないものの男の気は完全に紙幣に向いて
いる、そのチャンスを見逃すようなクィンではない。
クィンはつい先ほどまで紙幣を持っていた手をそのまま伸ばして、
ナイフを持つ男の手を叩いてその手からナイフを落とす事に成功す
る。
そしてそれと同時に男の背後から走り寄ってきていたジョナサン
は、男が落としたナイフを拾おうと手を伸ばした隙に愛莉を掴んで
いる手を強引に引っぺがすとそのまま愛莉を確保した。
﹁人質、確保っっ﹂
﹁てっっ、テメェッッッ!﹂
慌てて愛莉の方を振り返った男の首元にクィンが手を回し、その
まま男が動けないように片方の手を掴んで男の背後に回す。
もう片方の手はジョナサンの背後にいた医療スタッフと思しき男
が掴んで完全に男の動きを止めた。
﹁男は確保した、とハウス・スープに連絡してくれ﹂
﹁はいっ、判りましたっ﹂
エンジニアスタッフと思える男は、クィンの指示に従って院内携
帯電話をポケットから取り出して、すぐにハウス・スーパーバイザ
321
ーに電話をかけ始める。
翔子はそんな彼らの動きを壁に半分体を預けたまま口元を手で覆
ったまま見ている。
クィンはやってきた別の医療スタッフに男を引き渡すと、そのま
まジョナサンが抱き寄せている愛莉に向かって歩いていく。
﹁アイリーン、大丈夫かい?﹂
﹁う、うん・・・﹂
目に涙を溜めた愛莉は声をかけてきたクインを見上げると、その
ままジョナサンから離れてクィンに抱きついた。
クィンはそんな愛莉を抱き上げると、そのまま先ほどから動く事
ができないまま壁に寄りかかっている翔子の元に連れて行った。
﹃お姉ちゃんっっっっ﹄
﹃愛莉っっ﹄
クィンの腕から両手を伸ばしてきた愛莉の上半身を抱きしめると、
そのまま翔子は愛莉の頭に顔を埋めた。
その様子は周囲から見るとまるで3人で抱擁をしているように見
えるのだが、翔子はそこまで気が回っていない。
それどころか、翔子はクィンの体ごと愛莉を抱きしめてしまうか
ら、クィンとしては翔子が彼を抱きしめているように思えてしまう。
﹁ショーコ、俺ごとじゃなくてアイリーンだけ抱きしめてくれな
いか?﹂
﹁・・・えっっ? あっ・・・ごめんなさい﹂
クィンに言われて顔をあげた翔子は自分が愛莉だけでなく彼も抱
きしめてた事に気づいて、顔を真っ赤にして慌てて彼の腕から愛莉
を受け取る。
愛莉はクィンの腕から翔子の腕に抱きとめられると、彼を振り返
って小さく手を振る。
その顔は姉と再会した事で嬉しそうに笑っていたが、なんとなく
顔が赤い気がする。
それでも2人が言葉少なに会話をしているのを暫く見ていたが、
322
いつまで経っても愛莉の顔は赤く呼吸も早いままで落ち着かない事
に気づいた。
﹁ショーコ、アイリーンの調子が悪そうだ﹂
﹁・・・・えっ?﹂
﹁アイリーン、具合は悪くないか?﹂
﹃・・・判んない﹄
﹁えっ?﹂
﹁判らない、って言ってます﹂
クィンは英語で尋ねたのだが、愛莉はそれに日本語で返事をした。
もちろんクィンには日本語は判らないから思わず翔子を振り返る
と代わりに愛莉が言った事を英語で返す。
いつもであれば英語で聞かれれば英語できちんと返事をする事が
できる愛莉が日本語で返事をした、それだけの事で翔子には愛莉が
いつもと違う事が判る。
﹃愛莉、気分はどう?﹄
﹃ん∼・・・判んない﹄
﹃そっか・・・﹄
そっと愛莉の顔をあげさせて覗き込むと、なんとなく顔が赤い気
がする。
それにいつもの元気が今の愛莉には見当たらない。
﹁呼吸が早い気がしないか?﹂
﹁えっ? そう、ですね。そう言われればそんな気もします﹂
﹁ERドクターに診てもらった方がいいかもしれないな﹂
﹁そうですね・・・﹂
心配そうに愛莉の顔を覗きこむ翔子の横を2人の警官が歩いてい
くのが見えた。
﹁ああ、ようやく来たみたいだな。ジョナサン﹂
警官がやってきたのを見て、クィンはすぐ近くにいたジョナサン
に声をかけた。
﹁この子の具合が悪そうなんだ。聞きたい事はあるだろうが、と
323
りあえずERに連れて行くよ﹂
﹁判りました。もし聞かれたらそちらに行くように伝えます﹂
﹁ありがとう﹂
軽くジョナサンの肩を叩いてからまた翔子たちのところに戻って
きたクィンは、そのまま二人をERのある方向に促す。
﹁・・・クィン?﹂
﹁アイリーンの主治医に連絡をとるよりは、ERに行った方が早
い。それにどうせ入院となるとそっちを通さないといけないからな﹂
どうしてERに行くと言ったのか今1つ判っていないだろう翔子
の顔を見て、クィンは簡単に説明をする。
ここは総合病院だから愛莉の主治医がどこかにいる事は判ってい
る。
けれど、病院の規律によって踏まなければならない手続きはある
し、アメリカの病院に基本外来というものはない。
まず行くのは主治医のいる医院だ。そこで病気の具合を調べて、
その結果次第でそのまま入院するためにそ病院へ送られる。
ホスピタリスト
そして入院中は、主治医が1日に1−2回巡回をするか、病院専
属の医者に治療を任せる事になる。
この病院は確かに愛莉が月に2−3回通っている病院ではあるの
だが、医院ではないため外来のための受付がないのだ。
だから、ERの受け付け窓口を通して医者に見てもらうのが一番
手っ取り早い。
そうクィンから説明を受けながら、翔子は愛莉を抱きしめたまま
彼に誘導されるままERの受け付け窓口へと歩いて行った。
324
ナース
静かな部屋の中で、かすかな愛莉の呼吸音だけが聞こえる。
ガラスドアの向こうでは看護師たちが忙しそうにしているのが見
える。
翔子は愛莉が眠っているベッドのすぐ傍に移動させた椅子に座っ
て彼女の寝顔をずっと見ていた。
あの事件のあと、クィンに促されるままERに行き、そのまま彼
が自身の特権を使って待合室で待っている人を尻目に中に入らせて
もらった。
そのまますぐに検査をしたERのドクターは、心臓にストレスが
溜まっているようだから大事をとって今夜は泊まった方がいいと翔
子とクィンに告げると、クィンはそのまま翔子に入院のための手続
きをさせた。
コンコン
ノックの音に顔をあげると、ナースがドアに手をかけているのが
見えた。
翔子が小さく頷くと、ナースはそれを了承ととったのか、そのま
ま静かにドアを開けて中に入ってくる。
﹁ちょっとアイリーンちゃんの様子を確認させてくださいね﹂
﹁どうぞ﹂
入ってきたナースは先ほどリアナと自己紹介した女性で、日勤の
間はアイリーンの担当となるのだと言っていた。
﹁脈拍は少し落ち着いてきましたね。呼吸の方も・・・入院した
ばかりの頃よりは落ち着いたかな?﹂
リアナは壁にあるモニターを見上げて、独り言と言うよりも翔子
に言い聞かせているような声の大きさでそう言うと、首にかけてあ
った聴診器を取り出して愛莉の胸元にあてる。
﹁うん、胸の方も雑音はないから大丈夫。この調子なら多分明日
には帰れると思うわよ﹂
﹁本当に・・・?﹂
325
﹁絶対、とは言わないけど、多分ね。ほら、脈拍も100くらい
にまで下がっているでしょう? それに呼吸回数も24回くらいま
でになっているから、かなり落ち着いてきているって事だと思うも
の﹂
リアナは翔子が判るように、と思って数値を教えてくれたのだが、
それらの数字の意味があまりよく判っていない翔子には彼女が大丈
夫、だと言ってくれた事の方が大事だった。
﹁それにしても、今日は大変だったわね﹂
﹁・・・はい、本当に・・・﹂
﹁ごめんなさいね、アイリーンちゃんを本当に怖い目に遭わせち
ゃったようで﹂
﹁いえ・・・こればっかりはどうしようもなかったと思いますか
ら﹂
弱々しくともなんとか笑みを浮かべる事ができた翔子は、そう言
って小さく頭を下げた。
もし愛莉が大怪我でもしていればきっとひどい言葉をかけただろ
う、と翔子は思う。
けれど実際睨み合いをしてはいたものの、医療スタッフはできる
限りの事をしてくれたのだ。
そして、クィンがあそこで自身を危険に置いてまでも愛莉のため
に動いてくれたから、愛莉は素早く男から解放されたのだと翔子は
思っている。
﹁今日はこれ以上の検査はないけど、早朝に幾つかの血液検査が
入っているから、その結果次第でアイリーンちゃんが帰れるかどう
か判ると思うわ﹂
﹁そうですか・・・﹂
﹁そういえばアイリーンちゃん、昼食は食べなかったみたいね﹂
﹁何も食べたくない、って言って・・・それよりも疲れていたみ
たいですぐに寝てしまいました﹂
﹁そう・・・じゃあ、もしアイリーンちゃんが起きて何か食べた
326
いって言ったら連絡してね。夕食前でもフロアのキッチンでちょっ
とした軽食なら用意できるから﹂
﹁ありがとうございます﹂
そう言われてテレビの横にかかっている壁掛け時計を見上げると、
もうすぐ5時になろうとしているところだった。
翔子はこのまま今夜は愛莉の病室に泊まる事にしている。
職場の方には賢一の携帯の方に直接連絡をいれてあるので、明日
の仕事の事は心配しなくてもいいだろう。
明日は木曜日だが、賢一はそのまま今週は休めばいいと言ってく
れた。
きっと明日愛莉が退院したとしても、翔子が気になって仕事にな
らないと判断したのだろう。
コンコン
そんな事を考えていた翔子の耳に、またノックの音が聞こえた。
リアナは部屋に来た時に持ってきていたノートパソコンを使って、
これから愛莉に使う予定の点滴をチェックしていたので、医療スタ
ッフ以外一体誰が来たのだろうと思うが翔子には思い当たる節はな
い。
そう思ってガラスドアの方をみると、そこにはクィンが立ってい
た。
翔子がどうぞと声をかける前に、リアナがドアに近づいて彼が入
れるように開けてくれた。
﹁お邪魔、かな?﹂
﹁いいえ、大丈夫ですよ。私はアイリーンちゃんの点滴をするた
めに来ただけですから﹂
ノートパソコンで点滴の再チェックをしたリアナは、そのままア
イリーンのベッド脇にあるマシンに点滴のチューブを差し込んで、
それから点滴量を入力する。
愛莉の左腕には入院してすぐに点滴用のチューブが血管に差し込
まれており、リアナは準備ができた点滴を愛莉の腕のそれに差し込
327
むだけだ。
リアナは愛莉の腕に差し込んだ点滴がきちんと流れているかどう
かマシンを見て確認してから、すぐに翔子とクィンに一礼してから
出て行った。
翔子はその間黙ってリアナの動きを見ていて、視線はクィンの方
に向けられなかった。
彼の顔を見て、愛莉を抱きしめた時に彼にも抱きついていた事を
思い出したからだ。
それでもいつまでも横を向いているわけにもいかず、翔子は自分
の隣にあった椅子を彼に提供する。
﹁ほら、何も食べていないだろうと思って持ってきたんだ﹂
﹁えっ?﹂
﹁軽いものなら食べられるかな、と思ってスープとサンドウィッ
チにした﹂
﹁・・ありがとうございます﹂
クィンは翔子が提供した椅子に座る前に、彼女が座っている椅子
のすぐそばにあるベッド用のテーブルの上に置いて、すぐに手を伸
ばそうとしない彼女のために紙袋から中身を取り出した。
﹁定番だけどね、チキン・ヌードル・スープにターキー・サンド
ウィッチだ﹂
﹁ありがとうございます。でも・・・﹂
﹁そんなに腹が減ってないっていうんだろ? でも食べた方がい
い﹂
体力が落ちるぞ、と軽くジョークのように言ってから、クィンは
スープの蓋を開けて翔子に差し出す。
体力が落ちては愛莉が心配する、ともう一度言われて翔子は小さ
く頷いてからクィンからスープを受け取るとスプーンで一口飲んだ。
懐かしい味が口に広がって、翔子は自分が思ったよりも空腹だっ
た事に気づく。
それから顔をあげて、隣に座っているクィンを見上げた。
328
﹁クィンは食べたんですか?﹂
﹁俺は・・あ∼、まぁな﹂
歯切れの悪い彼の言葉から、翔子の事を心配して食事を持ってき
たくせに自分は食べていないのだ、と気づくと、翔子はスープをテ
ーブルの上に置いてからサンドウィッチの包みを開けた。
﹁じゃあ、せめてサンドウィッチは半分こしましょう﹂
﹁いや、それは・・・﹂
﹁クィンが言ったんですよ。食べないと体力が落ちるって﹂
﹁そりゃあ・・・﹂
だから食べてください、と強く言ってから半分に切られたサンド
ウィッチを彼の手に押し付けた。
クィンはそんな翔子の勢いに負けて、素直に受け取ると彼女と並
んで座って食べ始めた。
329
33. ︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
330
34.︵前書き︶
﹃﹄は日本語、﹁﹂は英語です。
331
34.
結局、愛莉は夕食の時間に起きる事もなく、そのまま眠り続けて
いた。
一応翔子が起こしてはみたのだが、目を開け続ける事もできずに
そのまままたすぐ眠ってしまうので、諦めた翔子は愛莉を寝かせる
事にした。
翔子がスープを飲んでいる時に少し目を覚ましたのだが、食べた
くないと言って少しクィンと話をしてからまたすぐに眠ってしまっ
たのだ。
クィンは翔子にスープとサンドウィッチを持ってきて一緒に食べ
たものの、愛莉と少し話した後ですぐに出て行ってしまった。
彼曰く仕事があるから、だそうだ。
今までクィンにどんな仕事をしているのかと言った事を聞いた事
はなかったのだが、それでもそれなりの地位に付いているのだろう
事は翔子にも想像がつく。
そうでなければ愛莉が入院しているこの病院の理事などになって
いないだろう。
けれど彼の方からその事に触れないので、翔子から聞く事でもな
いだろう、と聞いた事はなかった。
コンコン
控えめなノックの音がしたのでガラスドアを振り返ると、そこに
はジョーとグェンが立っていた。
愛莉が入院する事になってすぐにERからグェンには電話をして
いたのだが、気になって様子を見にきてくれたようだ。
翔子はすぐに立ち上がって2人が中に入ってこれるようにドアを
開ける。
﹁ショーコ、大丈夫?﹂
332
﹁アイリーンは?﹂
ジョーとグェンがすぐに声をかけてくれるが、翔子が口元に指を
当てて静かに、と伝えると2人はすぐ判ったようで声を落としてく
れた。
﹁アイリーンは眠っているの?﹂
﹁ええ、ここに来てからずっと・・・ご飯も食べないで眠ってい
るの﹂
﹁多分疲れたんだろうな。眠れないよりはいいだろう﹂
グェンが翔子の肩越しにベッドを覗き込むようにして、眠ってい
る愛莉に視線を向ける。
とりあえず翔子は2人に奥に入るように手招きしてから、愛莉の
ベッドの奥側に備え付けられていた椅子をジョーに、その横のリク
ライニングチェアをグェンに勧めた。
それから自分は先ほどまで座っていた椅子に座る。
﹁ショーコから電話があってびっくりしたわ﹂
﹁俺は職場でラジオのニュースで病院での事を聞いてたんだ。け
ど家に帰るまでそれがアイリーンの事だとは知らなかった﹂
マイナー
﹁そうだったのね・・・ラジオのニュース担ってるなんて知らな
かったわ。でも、愛莉は未成年だから名前を言わなかったんだと思
う﹂
﹁そりゃそうだな。アイリーンの名前が出ていたら、ますます大
騒ぎになっていたかもしれないからなぁ﹂
ジョーの話ではどうやら地元のニュースで流れていたらしいが、
愛莉の名前がでていなかった事に翔子はホッとした。
ボンド
﹁男の方は名前が出ていたけどな。とりあえず今は留置場にいる
らしいよ。保証金が10万ドルだっていうから、そうやすやすとで
てこれないだろうから、そっちの心配はいらないと思う﹂
﹁10万ドル・・・大金ね﹂
﹁そうね。でも子供を人質にとったんだから、それでも少ないく
らいよ。多分あの犯人が簡単に出てこれない金額を設定したんでし
333
ょうね﹂
グェンは本気で腹を立てているらしく、いつになく厳しい事を言
っている。
この保証金とは、留置所から仮釈放されるために支払わなければ
ならないお金で、立て替え屋に頼めばその10分の1を払えば釈放
してもらえるのだが、あれだけ金を欲しているような相手であれば
それだけのお金すら支払えないだろう事は想像がつく。
だから逆恨みで翔子たちの前にまた姿を現わすという心配はしな
くても済みそうだ。
﹁それで、アイリーンは大丈夫なの?﹂
﹁うん。ちょっと心臓にストレスが溜まったような症状がでてい
るから、とりあえず今夜は病院で様子を見ましょう、って言われた
の﹂
﹁そうか、なら明日には退院できそうって事か?﹂
﹁多分、ね。さっき愛莉の様子を見にきてくれたナースも、多分
明日には帰れそう、って言ってくれたし﹂
翔子はグェンたちとは愛莉の眠っているベッドを挟んで座ってい
るので、彼女たちを見ながら時々視線を愛莉に向けながら2人と会
話を続ける。
﹁ショーコ、仕事は?﹂
﹁そっちはボスに連絡をとったら、今週はこなくていい、って言
ってくれたわ。私としてはとりあえず明日だけでいい、って言った
んだけど、退院しても妹の事が心配だろうから、って言って﹂
﹁そうか・・・﹂
ジョーはどこか面白くなさそうな表情を浮かべたものの、それで
もすぐにホッとしたような表情に切り替える。
翔子にはジョーが誰を思い浮かべているのか想像はつくものの、
余計な事を言って彼を刺激する気は無いので、気づかないふりをし
て愛莉に視線を移した。
その時、愛莉が身じろぎをしたかと思うとうっすらと目を開けた。
334
﹁愛莉?﹂
﹁ん・・・・﹂
﹁アイリーン、起きたの?﹂
﹁んぅうぅん・・・﹂
返事をしているのかただ唸っているのか判らない声をだしてから、
愛莉はベッドの中でモソモソと動く。
そんな彼女の腕には点滴のチューブが付いているので、翔子は慌
てて手を伸ばして彼女がチューブに絡まらないように手を貸す。
﹃・・お、姉ちゃん・・?﹄
﹃起きたの、愛莉?﹄
﹃ん∼・・・・眠たい﹄
モゾっと動いてから翔子のほうに手を伸ばしてくるので、彼女は
そのまま愛莉の手を握った。
﹁おい、アイリーン。大丈夫か?﹂
﹁んんん・・・ジョー?﹂
﹁ああ。とりあえず俺は判るんだな?﹂
﹁当たり前でしょ? それと・・・グェン? どうして?﹂
目を開けて翔子とは反対の方向を振り返ると、椅子に座っている
ジョーとグェンが目に入った。
﹁アイリーンの事が心配で様子を見に来たのよ﹂
﹁どうして・・・? あぁ・・・そっか﹂
﹁お前、一躍有名人だぞ?﹂
﹁えぇぇぇぇぇ・・・﹂
まだ目が覚めたばかりで頭が回っていなかった愛莉も、ジョーと
話しているうちに今日の出来事を思い出したのか少しだけ不安そう
な表情を浮かべたが、そのあとのジョーの一言に心底嫌そうな顔に
なる。
﹁大丈夫、心配しないで。ニュースになっていたけど、名前は出
てないから﹂
﹁まぁ当たり前だ。下手な事までニュースで流したら、それだけ
335
で訴えられるからな﹂
﹁私はそんな事しないわよ?﹂
﹁アイリーンはしなくても、そういう奴がいるって事だよ。大体
アイリーンみたいな未成年の名前をそう簡単にポンポンとメディア
に出せないよ﹂
﹁ふぅん・・・・﹂
まだ眠そうに目元を擦りながら、愛莉はゆっくりと上体を起こそ
うとすると、翔子はベッドに付いているコントローラーのボタンを
押してベッドの背もたれ部分を起こしてやる。
﹁愛莉、何か食べる?﹂
﹁う∼ん・・・お腹は空いてないかな?﹂
﹁そう? でもあなたほとんど食べてないわよ?﹂
﹁でもお腹減ってないんだよ? あっ、でも何か飲みたいかな?﹂
﹁水ならベッドサイド・テーブルにあるわよ﹂
とりあえずそれでいいや、という愛莉に翔子は水を差し出すとス
トローを使って数口飲む。
ハフっと小さく息を吐いてから、愛莉は上体をベッドの背もたれ
に預ける。
﹁アイリーン、ジュースか何か買ってきてやろうか?﹂
﹁ううん、今はいいの﹂
﹁まぁあとでなにか欲しかったら言えばいいわ。さっき来たナー
スも軽食くらいならここのフロアにあるキッチンで用意してくれる
って言ってたから﹂
﹁判った﹂
あの様子では何も食べないだろうな、と思いつつ声をかけてみた
ものの、その通りだったので翔子は思わず苦笑いを浮かべる。
﹁アイリーンも疲れているみたいだから、私たちも帰るわね﹂
﹁わざわざ来てくれてありがとう﹂
﹁いいのよ。ただちょっと気になっただけ﹂
立ち上がったぐぇんはそのままアイリーンのベッドを迂回して、
336
その側に座る翔子のそばにやってきて彼女をぎゅっと抱きしめる。
ジョーはグェンのあとを追うように立ち上がったが、ベッドの上
のアイリーンの髪をクシャッとかき混ぜてから声をかける。
﹁明日帰ってくるんだろう?﹂
﹁ん∼・・多分、ね。判らないわ﹂
﹁さっきショーコが明日には帰れそうだってナースが言ってたっ
て教えてくれたぞ?﹂
﹁そお? だったら、帰れるのかもね﹂
﹁元気だったら、週末にどこかに連れてってやろう。今回よく頑
張ったご褒美だ﹂
モールで買い物でもいいぞ、といつもであれば文句を言う行き先
でも連れて行ってやると言う、ジョーとしては破格のご褒美だ。
けれど、頷きかけた愛莉は、そのまま頭を横に振った。
﹁ダメ、週末は約束があるの﹂
﹁約束?﹂
うち
﹁そう。ちゃんと明日退院できたら、クィンがおうちに招待して
くれるの﹂
﹁クィン?﹂
﹁私のお友達よ。そこのお家にはね、すっごく大きな犬がいるん
ですって﹂
クィンが誰の事かジョーにはまったく見当もつかないが、どうや
ら愛莉はそこの家にいる犬が見たいようだ。
大人びたところがあってもやっぱり子供だな、とジョーは思わず
吹き出したが、そのまま愛莉の頭をまあくしゃっとかき混ぜる。
もし翔子が聞いていれば、挙動不審になっただろうし、それを見
てジョーは翔子にクィンが誰なのか尋ねただろう。
そして翔子は返答に困ったはずだ。
けれど翔子にとっては運良くそれ以上の追求もなく、愛莉はただ
大きくて白っぽい犬に会う、それだけをジョーに伝えた。
﹁もうっっ、ジョー、髪がくしゃくしゃになるわ﹂
337
﹁良いだろ、どうせもう寝るだけだ﹂
﹁それでもダメ﹂
﹁はいはい﹂
愛莉にジロリと見られて、ジョーは両手をあげて降参する。
﹁じゃあ、明日無事に帰ってこれたら、みんなで夕食に行こうか
?﹂
﹁ホント? あっ、でも、お姉ちゃんに聞かないと﹂
﹁俺が頼んでやるよ﹂
﹁そお? じゃあ、この前みんなで行ったお店でパスタが食べた
いわ﹂
﹁判った。俺が頭を下げてショーコに頼んでおくよ﹂
﹁お願いね﹂
頭を少しだけ下げてお礼を言う愛莉から、ジョーは視線を翔子に
向ける。
﹁ショーコ﹂
﹁なに?﹂
﹁明日無事にアイリーンが退院できたら、ご褒美に夕食に連れて
行きたいんだけど、いいかな?﹂
﹁明日? そうね・・・多分大丈夫だと思うわ。一応愛莉のドク
ターに聞いてみるけどね﹂
﹁判った。アイリーンはパスタを食べたいって言ってたから、パ
スタを食べて良いかもついでに聞いておいてくれよ﹂
﹁判ったわ﹂
少し考えたものの、翔子としてもジョーと同じ気持ちだったから、
とりあえずドクターが良いと言えば今日頑張った愛莉にご褒美とし
て夕食を外で食べる事に合意した。
それを見たジョーがベッドから自分を見上げている愛莉の顔の前
に拳を差し出すと、愛莉は小さな手をシーツの下から出して同じよ
うに握りこぶしを作るとそのままジョーのそれにコツンとぶつけた。
﹁よっしゃ、ショーコの返事はもらったぞ? 後は明日アイリー
338
ンが頑張るだけだ﹂
﹁頑張るけど、どうなるかは判らないわよ?﹂
﹁いいよ。ダメだったら、その時だよ。けど、無理はすんなよ?﹂
愛莉はジョーの言葉に小さく頷く。
﹁じゃあ、また明日な﹂
﹁うん、バイバイ﹂
ヒラヒラと手を振る愛莉にジョーは同じように手を振り返すと、
そのまま翔子を抱きしめているグェンの隣にやってきた。
﹁ほら、母さん、帰るよ﹂
﹁・・そうね。じゃあ、また明日ね﹂
﹁ええ、グェンの気をつけて帰ってね﹂
﹁ショーコたちこそ気をつけるのよ﹂
病院で何を気をつけるのだ、と翔子はグェンに言葉を返そうと思
ったが、つい先ほどの事を思い出して、それ以上言葉にしなかった。
愛莉が病院でヤク中の男の人質になっていたのだ。
もう何が起きてもおかしくない、そう思ってしまうと軽口すら出
なかった。
それでもおそらくグェンは翔子が何を考えていたのか判ったのだ
ろう、苦笑を浮かべたまま翔子をもう一度抱きしめてからジョーと
2人病室から出て行った。
翔子はそんな2人をドアのところで見送ってから、また愛莉のそ
ばの椅子に戻った。
339
34.︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
340
35. ︵前書き︶
﹃﹄は日本語、﹁﹂は英語です。
341
35. コン、と小さな音が聞こえた気がして翔子がガラスドアの方を見
ると、そこにはクィンが立っており彼女に向かって手をあげる。
それを見て翔子はガラスドアのところまで行くとドアを開けて、
そのまま彼が立っている廊下にでた。
﹁クィン、こんな時間にどうしたの?﹂
﹁夜遅くに悪いね。ただ、ちょっと気になったから様子を見に来
たんだ﹂
﹁それは別に構わないんだけど・・・仕事じゃなかったの?﹂
夕方、クィンは翔子にスープとサンドウィッチを持ってきてくれ
てから、仕事があると言って帰ってしまったのに、と翔子は頭を傾
げる。
﹁それはついさっき終わらせたよ。それで帰る前に様子を見よう
と思って立ち寄ったんだ﹂
﹁中に入る? 愛莉は眠っているけど、寝顔を見るくらいはでき
るわよ﹂
﹁そうだな・・・そうしようか﹂
開けたドアからクィンを先に中に入らせると、翔子もそのあとに
続いて中に入りドアを閉めた。
それから半分だけ閉めてあったカーテンを4分の3ほどまで閉め
てしまう。
廊下のライトは午後9時を回った頃に落とされていたが、それで
もカーテンを閉める事でもう少し暗くなるので、これなら愛莉を起
こす事はないだろう。
クィンは中に入るとベッドの横に立って、丸くなって眠っている
愛莉を見下ろした。
翔子はそんな彼の隣に並ぶように立って、同じように愛莉を見下
342
ろした。
﹁よく眠っているな﹂
﹁そうね・・・今日はここに来てから殆ど眠っているわ﹂
﹁夕飯は食べたのか?﹂
﹁夕飯が来た時はまだ眠たいっていって食べなかったわ。でもそ
のあとでグェンたちが愛莉の様子を見にきてくれた時にちょっとだ
け目を冷ましたから、ナースに頼んでプディングとアップルジュー
スを貰ったの。それだけを食べたらまた眠っちゃったわ﹂
グェンたちがきたのは午後7時半過ぎくらいで、彼女たちが帰っ
てから愛莉が食べたのは8時半くらいだっただろう。
いつもであればもう少しちゃんとしたものを食べるように言うの
だが、さすがに今日は愛莉が食べれそうなものを食べさせたのだ。
そして今は夜の10時を少し回っている。
﹁もしかして今までずっと仕事をしていたの?﹂
﹁ああ、まぁな。ついでにアイリーンの事件の書類もあったんで、
それもついでに済ませてきたんだ﹂
﹁それは・・・﹂
﹁謝るなよ﹂
愛莉を捕まえた男に関しての書類だと察した翔子は、そのせいで
仕事を増やしてしまったと思い謝罪を口に仕掛けたが、それより早
くクィンにジロリと睨まれた。
﹁あれはショーコのせいでも、ましてやアイリーンのせいでもな
い。運が悪かった、じゃ済ます事はできないが、それでも悪いのは
あの男であってアイリーンのせいじゃない﹂
﹁でも・・・﹂
﹁それより、あんな不祥事を起こしてしまったこちら側の不手際
だ。ショーコは謝る必要はない。むしろ病院側としては怒鳴り散ら
されたって仕方ないと思っている﹂
﹁そんな事しません。だって、愛莉を助けてくれたのはクィンで
すから﹂
343
驚いたようにクィンを見てから、翔子は頭を横に振って否定して
みせる。
あの場にいたスタッフたちも愛莉の事を心配してくれていた事は
判っている。
けれど、男を取り囲むようにしていただけではなく、実際に行動
に移してくれたのはクィンだけだった。
﹁あの時、愛莉を助けるためにすぐに動いてくれたから・・・だ
から愛莉は警察が来るまで男に捕まったままでいなくても済んだん
です﹂
﹁あぁ・・あれは相手がヤク中の症状を見せていたあの男だった
からできたんだ。というか、すぐに行動に移さなかったから、って
うちの病院スタッフに苦情は言わないでくれると助かるかな? 一
応病院のマニュアルに、ああいった相手には警察が来るまでは手出
しするな、って事になっているんだ﹂
だから彼らは動けなかったんだ、と苦笑いを浮かべたままクィン
は白状した。
﹁それは・・・苦情はないです。ただ、どうして早く愛莉を助け
てくれないんだろう、とは思いましたけど。でもそういう事であれ
ば仕方ないですよね。それでもそこを押して愛莉のために行動に移
してくれた事は本当に嬉しかったんです﹂
そうだとしても、愛莉を助けてくれたクィンには本当に感謝して
いる。
﹁だから・・ありがとうございました﹂
﹁こっちこそ、歯痒い思いをさせて済まなかった﹂
お互いに頭を下げあってから、顔をあげると目があう。
翔子はクィンを見上げたままフッと口元に笑みを浮かべると、ク
ィンも同じように笑みを浮かべた。
それから、ふと思い出したようにクィンに尋ねた。
﹁・・・そういえば、良かったんですか?﹂
﹁何が?﹂
344
﹁愛莉の事です。あの子、週末に家にお邪魔する気満々なんです
けど・・・﹂
夕方クィンが顔を出した時、愛莉が目を冷まして愚図ったのだ、
家に帰りたい、と。
その時クィンは今夜我慢したら、自分が飼っている犬を見にこな
いか、と誘ったのだ。
﹃もう帰りたいよ﹄
﹃愛莉・・・今夜だけ、よ?﹄
﹃私、大丈夫なの。だから、家に帰りたいの﹄
目が覚めた時、一瞬自分がどこにいるのか判らなかったのだろう。
キョロキョロと周囲を見回して翔子を見つけると、すぐにお姉ち
ゃん、と声をあげたのだ。
驚いた翔子はすぐに愛莉の手を握って落ち着かせようとしたのだ
が、愛莉は半泣きの顔で彼女に帰りたいと訴えたのだ。
翔子としても彼女の願いを叶えてあげたいが、このまま家に連れ
て帰って何かあっては、と心配なのだ。
﹁ヘイ、アイリーン﹂
﹁・・・・クィン?﹂
﹁そうだ。なぁ、家に帰りたいのか?﹂
﹁うん・・・ここは、いや﹂
クィンを見上げた愛莉は、いやいやというように頭を横に振る。
﹁今夜だけ我慢してくれないか? ほら、今日アイリーンは大冒
険をしただろう? だから、もしかしたら体調を崩すかもしれない
って、みんなが心配してるんだよ﹂
﹁でも・・・おうちがいいの﹂
345
﹁そうだな・・・おうちでアイリーンの友達のテディー・ベアー
たちが待っているからな﹂
﹁うん﹂
愛莉のベッドには10を越す数のテディー・ベアーがある事は、
何度かランチをした時に彼女から聞いている。
﹁じゃあ・・・今日我慢してくれたら、ご褒美にうちに来ないか
?﹂
﹁・・・クィンのおうち?﹂
﹁そう。テディー・ベアーじゃないけど、でっかいクマみたいな
犬がいるんだ﹂
﹁・・・クマみたいな犬?﹂
﹁ああ、ニュー・ファンドランドって言う種類の犬なんだけど、
これが毛むくじゃらでね。まるでクマみたいなんだ﹂
クィンの話に興味を持ったのか、愛莉は彼の話に頭を傾げてみせ
る。
彼はポケットからスマフォを取り出して指先で操作をしてから、
目的のものを見つけたのかそのままスマフォを愛莉の目の前に差し
出した。
﹁ほら、これが俺の飼っている犬だよ﹂
﹁わぁっっ﹂
スマフォの画面を覗いた愛莉は、そのまま歓声をあげた。
クィンはその画面を今度は翔子にも見えるように彼女の前に差し
出した。
そこには画面いっぱいの真っ白な毛の塊が写っている。
﹁こいつはでっかいんだ。もしかしたらアイリーンくらいなら背
中に乗れるかもしれないな﹂
﹁えぇ∼∼、愛莉、おっきいもん﹂
﹁そうだな。でもこいつはもっと大きいぞ? 自分の目で確かめ
てみないか?﹂
﹁・・・クィンがどうしても、って言うんだったら見に行ってあ
346
げる﹂
﹁ああ、そうだな。是非ともアイリーンには会ってもらいたいよ。
だから、今夜はここで我慢してくれないか? 今日は木曜日だろう
? だから明日家に帰ってゆっくり休んでから、土曜日に遊びにお
いで。そのままうちに泊まればいいよ。もしかしたらこいつと一緒
に寝れるかもしれないな﹂
﹁・・・・・行く﹂
﹁ちょっ、クィン﹂
﹁いいだろ、ショーコ? アイリーンのためだ﹂
クィンの家に愛莉が泊まりに行く、という事で話がまとまってし
まったところで、ようやく2人の話に追いついた翔子が言葉を挟も
うとするが、期待に満ちた目で見上げてくる愛莉と目を合わせてし
まった後ではダメだとは言えない状況になってしまっている。
﹁もちろん、ショーコも一緒に来てもらいたいな。うちには住み
込みの家政婦がいるんだ。ショーコもゆっくりして、アイリーンの
事を見て貰えばいいよ﹂
﹁それは、ちょっと・・・・﹂
﹁とにかく、アイリーン、今夜はここでおとなしくできるかい?﹂
﹁・・・仕方ないわ。クィンがどうしても、って言うんだったら
今夜はここに泊まる。でも、約束、忘れないでね﹂
﹁もちろん。こいつの名前はバック、っていうんだ。忘れないで
くれよ﹂
﹁それくらい、簡単に覚えられるわ﹂
うんうんと頷いている愛莉から視線をクィンに移してジロリ、と
睨みつけたものの彼はそんな彼女に笑みを返すだけだ。
﹁じゃあ、俺はそろそろ仕事に戻らなくちゃいけないけど、アイ
リーンはここでいい子にしていろよ﹂
﹁言われなくても、私はいい子、よ﹂
﹁プッ・・・そうだな﹂
思わず吹き出したクィンは、それでも愛莉と同じように頷いてか
347
ら病室から出て行く。
翔子はそんな彼を慌てて追いかけた。
﹁クッ、クィン﹂
彼は翔子が追いかけてくる事を予想していたのか、ガラスドアを
出たところで彼女を待っていた。
﹁勝手に決めて悪かったって思ってる。でも、アイリーンを病院
に留まらせるためのいいアイデアかなって思ったんだ﹂
﹁クィン・・・気持ちは嬉しいけど・・・﹂
﹁もうアイリーンと約束したんだ。2人で遊びに来てくれよ﹂
﹁でも・・・﹂
﹁バックはでかいけど気性はおとなしいから、アイリーンが背中
に乗っても踏んづけても我慢できるよ﹂
﹁そういう問題じゃあ・・・﹂
ない、と言いかけて、翔子は彼の言い草に思わず笑ってしまった。
ニュー・ファンドランド犬は翔子はテレビでしか見た事はないの
だが、大きな犬だったと記憶している。
それに彼の言う通り毛むくじゃらでテディー・ベアーのようだ、
とも。
﹁・・・判ったわ﹂
﹁とりあえずこれが俺の携帯の電話番号だ。ショーコのも教えて
くれないか?﹂
そう言われて、確かにお互いの連絡先を交換しておいた方がいい
だろうと、翔子は素直にクィンに携帯の番号を教えた。
それからすぐにクィンは仕事があると言って帰ってしまったのだ。
348
35. ︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
349
36.︵前書き︶
﹃﹄は日本語、﹁﹂は英語です。
350
36.
そして今、仕事を終わらせたクィンが愛莉の様子を伺いに病室
に来ている。
﹁俺が誘ったんだ。いいに決まっているだろう?﹂
何を今更、と言わんばかりの表情を返されて、翔子は困ったよう
な顔をする。
﹁そんなに気にしなくてもいい。俺がアイリーンに来てもらいた
いから誘ったんだ。テディー・ベアーが大好きだって言っていただ
ろう? そう聞いた頃からそのうちうちのバックを見せたい、って
思っていたんだ﹂
﹁でも忙しいんじゃないんですか?﹂
﹁そりゃそれなりに仕事はあるよ。けど週末くらいは家でのんび
りする時間くらいは取れる。だから、そののんびりする時間をアイ
リーンやショーコと一緒に過ごしたいって思っただけだよ。まぁ病
み上がりのアイリーンに無理はさせられないから、バックと一緒に
昼寝をしているだけでもいいしな。その間、ショーコものんびりす
ればいい。夕方の時も言ったけど、うちには住み込みの家政婦がい
るんだ。彼女がアイリーンの面倒もみてくれるよ﹂
翔子と愛莉が行く事はクィンの中では確定のようだ。
それに愛莉もすっかり行く気になっているのだ。
もしここで翔子が反対したら、愛莉はきっとガッカリするだろう。
そう思うと強硬に反対する事もできない。
そんな事を考えながら、翔子は視線を愛莉に戻した。
ベッドで眠っている愛莉は少し疲れているように見える。
今日の出来事を思えばそれも仕方ないだろうが、そうでなくても
弱い心臓に負担がかかったのではないかと思うと心配になってしま
う。
351
両親が亡くなってしまった今、愛莉だけが翔子にとって唯一の身
内なのだ。
何があっても愛莉を失うような事はできない。
自分を犠牲にしてでも、愛莉は守らなくてはいけないのだ。
﹁・・・えっ?﹂
不意にぎゅっと抱きしめられて翔子がハッと顔をあげると、クィ
ンの腕の中で翔子は自分の両手で震える自分自身を抱きしめている
事に気づいた。
﹁クィン・・・?﹂
﹁ショーコが辛そうで・・・すごく不安そうに見えたんだ﹂
だから、と言ってそのままクィンは翔子を抱きしめたまま自分の
顎を彼女の肩に乗せた。
そんな彼の仕草に、翔子はつられるように自分の頭をクィンの頭
に添えてそっと大きく深呼吸をすると、翔子の瞳から涙が溢れてき
た。
いつもの翔子であればここですぐにでもクィンの腕の中から抜け
出そうとするのだが、今日は色々な事が起こりすぎて情緒不安定に
なっている事になんとなく気づいている。
そんな彼女にとって、抱きしめてくるクィンから伝わってくる彼
の温もりは、ささくれ立っている気持ちを落ち着かせてくれる。
愛莉の前では見せる事ができない弱さを、今この時だけは我慢し
なくてもいい、そんな風に思えているのだ。
ずっと不安だった。
この半年ほどはそれなりに体調を崩す事もなく過ごせていたが、
それでもいつ体調を崩すか判らない愛莉の事を思うと、不安は消え
るどころが大きくなるばかりだった。
もしかしたら自分をおいて逝ってしまうのではないか、否定でき
ないそんな思いが心の中で燻っているのだ。
それでも愛莉に不安に思っているというような顔を見せるわけに
はいかなかった。
352
翔子が不安に思えば、その気持ちは愛莉に伝染するだろう事は判
りきっている。
だから翔子はいつだって気を張っておかなければいけなかった。
けれど今クィンの腕の中で翔子はそんな気持ちを隠す事もなく、
声は殺したまま涙をこぼした。
そうしていたのはおそらくほんの10分ほどの事だろう。
ようやく少し落ち着いた翔子はギュッと目を閉じてから頭をあげ
た。
彼女の身じろぎに気づいたクィンは、翔子の頭が離れるのと同時
に同じように頭をあげた。
﹁・・・ごめんなさい﹂
﹁謝る事なんかないよ﹂
﹁でも・・・﹂
泣いたせいで少し赤くなった目元に困ったような表情を浮かべる
翔子をクィンはもう一度抱き寄せた。
﹁たまにはいいんじゃないのか? そうやって四六時中張り詰め
ているわけにはいかないだろう?﹂
﹁べ、別に張り詰めているわけじゃあ・・・﹂
﹁そうか? アイリーンのためにしっかりしなくちゃ、って構え
ているんじゃないのかな?﹂
﹁それは・・・﹂
﹁だから、たまにはいいんだよ。あんまり自分を押さえつけてい
ると、そのうち神経が擦り切れてしまうぞ? そうなる前に時々ガ
ス抜きをした方がいいんだよ﹂
ショーコは頑張りすぎだ、とどこか文句を言うような口調のクィ
353
ンに、翔子は返す言葉はない。
それはグェンがよく言う言葉だからだ。
自分ではそうは思っていないのだが、どうやら端から見るとそう
見えるらしい。
﹁だから、ショーコは俺のところにいる間はのんびりすればいい。
アイリーンの事はマーサとバックに任せて、ショーコはプールサイ
ドで日光浴をしていればいいよ﹂
﹁・・・プールがあるんですか?﹂
﹁プールが嫌だったら、ビーチへ行ってもいいさ。うちからだと
10分とかからない﹂
一体どれほどの家なのだろう、と翔子は思ってしまう。
確かにカリフォルニアだとプールのある家というのはそれほど珍
しくはないのだが、それでもある程度の裕福な家でないと維持でき
ない。
そういえばクィンと初めて会ったのは、賢一に連れて行かれたパ
ーティーだったな、と思い出した。
ああいったパーティーに呼ばれるくらいだ、クィンもそれなりに
裕福な階層の人間なのだろうという事は翔子にも判る。
この病院の理事を務めるくらいだから、ある程度の地位にいる事
は確かだろう。
﹁アイリーンは泳いでも大丈夫なのか?﹂
﹁・・少しくらいなら、多分。病気が判ってからは泳ぎに連れて
行った事ないから判らないけど・・・﹂
﹁・・・そうか﹂
﹁愛莉に聞いてみるわ。もし泳ぎたいって言ったら、明日帰りに
水着を買いに連れて行くわ﹂
何時間も、と言う訳ではなく、なんなら10分程度でも水に浸か
るだけでも楽しめるのではないか、と翔子は思う。
少しだけ水に入って、そのあとはプールサイドでクィンの飼って
いる犬のバックと一緒にのんびりしていれば、それだけで愛莉は十
354
分楽しめるだろう。
﹁じゃあ、週末は俺のところに来るのでオッケーなんだな﹂
﹁・・・仕方ないわ﹂
何を今更のように聞いてくるのだ、と言う代わりに翔子はわざと
らしく大きな溜め息を吐いた。
そんな翔子の頭上で、プッと小さくクィンが吹き出した声が聞こ
えた。
﹁迎えに行こうか?﹂
﹁大丈夫よ﹂
﹁俺の家、知らないだろう?﹂
﹁住所を教えてくれたら、なんとかなるわ﹂
﹁ちょっと入り組んでるぞ?﹂
﹁大丈夫。スマフォがあるから、位置検索機能を使えばなんとで
もなるわ﹂
翔子の乗っている車は両親が乗っていた古い車なのでナビは付い
ていない。
それでもスマフォの機能を使えばなんとでもなる、と思っている。
実際その機能を使って買い物に出かけた事もあるのだ。
けれどそれはクィンが欲しかった返事ではなかったようで、彼が
小さく舌打ちした音が聞こえた。
翔子は彼の腕から逃れるように体を1歩後ろに引こうとしたが、
クィンががっしりと掴んでいるので下がれない。
﹁クィン、離して﹂
﹁もう少しこのまま﹂
﹁駄目﹂
﹁あと5分だけ﹂
﹁・・・もうっ﹂
朝起こそうとした翔子にいう愛莉の言葉と全く同じ返事に、翔子
はクィンの背中を軽く叩いてから呆れたような声を返す。
そんな翔子から仕方ないと言わんばかりにクィンがゆっくりと体
355
を離した。
﹁判ったよ。ショーコの命令とあれば聞くしかない﹂
﹁そろそろ帰ったほうがいいんじゃないの?﹂
﹁・・・そうだな﹂
体を離したクィンに即座に帰った方がいい、と翔子が言うと彼は
顔を顰めた。
テキスト
それでももうかなり遅い時間という事は判っているので、文句は
口にしない。
﹁あとで住所をメールで送る。だがやっぱりどこかで待ち合わせ
しないか?﹂
﹁家に直接行かない方がいいの?﹂
﹁そうじゃなくて、判りにくいんだ。だからうちの近くにある公
園で待ち合わせした方が楽だと思う﹂
そう言ってからクィンが口にした公園は翔子もよく知っている場
所だった。
確かにあの辺りであれば判りにくいと言うクィンの言葉にも頷け
る。その地域は古い街並みに新しい家がどんどん増えていった場所
で、道が妙に入り組んでいるのだ。
﹁ほら、そろそろ帰った方がいいわよ。明日も仕事があるんじゃ
ないんですか?﹂
コット
﹁それよりショーコの方こそ、今夜は1人で大丈夫か?﹂
﹁・・大丈夫よ﹂
﹁ショーコはそこの折りたたみベッドで寝るのか?﹂
﹁そうよ﹂
コット
そこ、とクィンが顎で指す場所には夕食後にベッドとして整えた
折りたたみベッドがある。
幅は1メートル程度しかないから寝返りを打つ事は難しいが、そ
れでも椅子に座ってうたた寝をするよりははるかにマシだ。
﹁まぁ・・仕方ないな﹂
﹁椅子よりはマシだから、大丈夫﹂
356
﹁それはそうだが・・・﹂
クィンはまだ何か言いたそうにしていたが、言葉は飲み込む事に
したようだ。
その代わりに手を伸ばしてもう一度翔子を抱きしめた。
﹁クィン・・・?﹂
﹁週末、絶対に来るんだぞ﹂
﹁愛莉が楽しみにしているから行くわよ﹂
﹁そうじゃなくて・・・ショーコも楽しみにしていてほしい﹂
﹁・・・楽しみ、よ﹂
最初はいきなりクィンと愛莉の間で決まってしまったクィンの家
に行くという話だったが、楽しみにしている愛莉と話しているうち
に翔子も楽しみに思うようになっていたのだ。
だから、楽しみ、といった翔子の言葉に嘘はない。
楽しみだ、という気持ちを込めて顔をあげてクィンを見上げた翔
子の唇に、ふわっと温かいものが触れた。
それがクィンの唇だ、と翔子が認識した時にはもう一度彼の唇が
翔子のそれに触れた。
啄むようなそれはまるで翔子が抵抗するかどうかを確かめている
ように思えるが、いきなりの事すぎて翔子はどう反応すればいいの
か判らず、そのままの体勢で硬直してしまう。
﹁キスは初めてか?﹂
﹁・・そんな事は・・・﹂
﹁じゃあ、俺のキスは嫌か?﹂
﹁・・・それは・・・﹂
硬直してしまっている翔子に気づいたクィンは彼女の顔を覗き込
んで訪ねてくるが、彼とキスをしたという事で真っ赤になっている
顔を見られたくない翔子はそのまま顔を横に背ける。
﹁ショーコ﹂
﹁・・・・﹂
心臓がバクバクと音を立てている。あまりにもその音が大きすぎ
357
てクィンにも聞こえるのではないかと思って動揺しまくりだ。
だから彼が自分の名前を呼んでも、返事をする事ができない。
﹁ショーコ﹂
﹁・・・・﹂
﹁頼むから何か言ってくれないか?﹂
﹁・・・・﹂
﹁怒ったのか?﹂
怒ってなどいない。そう言いたいがあまりにも動揺しすぎていて、
翔子にできたのは頭を少しだけ横に振る事だけだった。
それでもそれだけでクィンには翔子が嫌がっていない事は伝わっ
たようだ。
テキスト
彼はそっと翔子をもう一度抱きしめてから、彼女を自分の腕の中
から解放した。
﹁じゃあ、そろそろ行くよ。明日の午後にでも電話はメールする﹂
﹁・・・・はい﹂
チュッと小さなキスの音を立てて翔子の頰にキスを落とすと、ク
ィンはそのまま病室から出て行った。
後に残ったのは、暫くその場で立ったままドアの方を見つめてい
た翔子だけだった。
358
36.︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
359
37. ︵前書き︶
﹃﹄は日本語、﹁﹂は英語です。
360
37. クィンの家は思った以上の豪邸だった。
彼の家の近くの公園で待ち合わせた翔子と愛莉は、彼の車に先導
されてそのまま家の敷地に車を乗り入れた。
翔子の家のように目の前の通りに車を停めるスペースがあるよう
な小さな場所ではなく、U字型のドライブウェイに乗り入れると、
そのまま家の前に車を停めたクィンの車の後ろに同じように車を停
める。
車から降りてきたクィンはすぐに翔子たちの車のところまでやっ
てくると、トランクを開けるように手で指示する。
翔子は素直にトランクを開け中の1泊分の荷物が入ったバッグを
彼に任せると、そのまま車から降りてバックシートに座っている愛
莉が車から降りるのを手伝う。
﹃大丈夫?﹄
﹃うん。1人でちゃんと降りれるわよ﹄
丁度翔子がドアを開けたところでシートベルトを外し終えた愛莉
は、手を差し伸べてきた翔子の手を借りてそのまま車から降りる。
﹃なんだかおっきなおうちだね﹄
﹃そうね・・・﹄
翔子と愛莉の前にある家は、アールデコ調の白壁に赤茶色の屋根
瓦、それに同色のレンガがアクセントとして使われている、一体何
部屋あるのだろうと思うほどの大きな家だった。
その家の玄関のドアは2人が住んでいる家のドアの1.5倍ほど
の幅があり、その高さも2メートル以上ありそうだ。
そんな2人の横にトランクからバッグを取り出したクィンがやっ
てきた。
﹁なに突っ立っているんだ? 中に入ろう﹂
361
﹁えっ? あっ、はい﹂
﹁おっきなおうちでビックリしてたの﹂
声をかけられるまでクィンが隣にやってきていた事にも気づいて
いなかった翔子は驚いたような声をあげたが、愛莉は気づいていた
のか落ち着いた声で返事をする。
﹁広いと言っても建物の全部を使っているわけじゃないんだよ。
まぁ、とりあえず中に入ろう﹂
﹁はぁい﹂
ぽん、と愛莉の頭に手を乗せて促すと、愛莉はクィンを見上げて
大きく頷くと手を差し出した。
﹁アイリーン?﹂
﹁いつもは私がクィンを案内してあげるでしょ? でもここは私
の知らない場所だから、クィンに案内してもらいたいわ﹂
﹁っ、そうだな。判った﹂
いつもの少し生意気な口調でクィンに頼む愛莉に思わずプッと声
を出さずに吹き出してから、差し出された愛莉の手をとって玄関に
向かって歩き出す。
翔子はそんな2人の後ろを小さく溜め息を吐いてから追いかけた。
開かれた玄関から中に入ると一番に目に入ったのは吹き抜けのホ
ールだった。その正面には2階へと上がる階段がまっすぐ2階の半
分くらいの高さまで伸びて、そこからは左右に分かれて上がれるよ
うになっている。
クィンは愛莉と手を繋いだまま左手のドアに向かう。
362
そこはリビング・ルームのようで、正面には石で組まれた暖炉が
あり、ドアから入って左手には大きなテレビがある。
そして右手には開放的なスライディング・ドアがあり、そこから
プールが見える。
﹃おっきぃっっっ﹄
けれどそんなものよりも愛莉の目を惹いたのは、暖炉の前のタイ
ルの部分に寝転がっていた犬だった。
その犬はどう見ても翔子や愛莉が見た事のある犬の倍くらいの大
きさがあった。
﹁ああ、あれがバックだ﹂
﹁バック?﹂
自分の名前を呼ばれた事が判ったのか、寝転んでいた犬が頭をあ
げてドアの方を見る。
﹁・・ホントにクマみたい・・・﹂
﹁だろう?﹂
思わずといった愛莉の呟きに、クィンは面白そうに頷いた。
﹁ニュー・ファンド・ランド犬っていうんだ。あれでもまだ大人
になっていないんだ﹂
﹁えっ・・・ホントに?﹂
﹁ああ、バックは1歳ちょっとだから、もう少し大きくなる筈だ﹂
﹁ふわぁぁ・・・﹂
クィンは驚いてなんとも言えない声をあげた愛莉の隣にしゃがみ
込んで、寝転がっていたバックを呼んだ。
バックはすぐに立ち上がって尻尾を振りながらクィンのところま
で小走りでやってくる。
その勢いはとても見た感じ通りの小走りとは思えないスピードで、
愛莉は思わず隣にしゃがみ込んでいるクィンの肩にしがみついた。
﹁大丈夫だよ﹂
﹁・・ホント?﹂
﹁ああ、子犬だから、はしゃいでいるだけだ﹂
363
クィンの真ん前にやってきたバックは嬉しそうに尻尾を振りなが
ら彼に頭を撫でられるままだ。
そんなバックを見て、愛莉は恐る恐る手を伸ばしてバックの背中
に触ってみる。
﹁すごい・・・フワフワ﹂
﹁ああ、結構毛が長いからな。マーサがたまに毛並みを整えてく
れるんだが、さすがに彼女の手にはあまるみたいで、グルーミング
の店に連れて行ってケアをしてもらっているんだ﹂
﹁私もしてみたい﹂
﹁いいよ。あとでマーサにどこにブラシがあるか聞いてみればい
い﹂
﹁判った﹂
どうやら愛莉はバックの毛繕いにチャレンジするつもりのようだ。
翔子はそんな2人のやり取りを黙って後ろから見ていたが、コロ
コロという音がホールの方から聞こえてきたのでそちらを振り返る
と少し年配の女性がお茶のセットが乗ったカートを押してやってく
るのが見える。
﹁ああ、丁度いい。アイリーン、ショーコ。彼女がマーサだ。こ
の家の面倒を見てくれているんだ﹂
﹁いらっしゃいませ。お茶をお持ちしましたよ﹂
﹁あっちのテーブルに置いてくれたらいい﹂
﹁判りました﹂
愛莉は立ち上がったクィンに連れられてそのまま中に入ってテレ
ビの前にあるソファーに座ると、隣の席を叩いて翔子を呼ぶ。
翔子は思わず笑ってから、後ろから来るマーサに小さく頭を下げ
て礼をしてから愛莉が叩く場所に座った。
クィンはバックを愛莉のすぐ隣の足元に伏せさせると、二人とは
直角の右側にある1人がけの椅子に座った。
愛莉は足元に座った、というか寝そべったバックに小さな手を伸
ばしてそっと毛を撫でている。
364
﹁マーサもそこに座ってくれたらいいよ。自分の分も持ってきて
いるんだろう?﹂
﹁もちろんですよ。お2人を紹介してもらわないといけませんか
らね﹂
でもその前にお茶を入れましょう、と付け足してマーサはテーブ
ルの横に押していたカートをとめると、ジュースを愛莉に、そして
コーヒーをクィンと翔子のカップに注いだ。
それらをクィン、翔子、愛莉の前におくと、今度はカートの下の
段から小皿にのせられたタルトを全員の前に置いた。
﹁お口に合えばいいんですけど、それは今朝焼いたリンゴのタル
トです﹂
﹁美味しそう﹂
﹁アイリーン。美味しそう、じゃなくてマーサの作るお菓子は美
味しいんだよ﹂ ﹁ありがとうございます﹂
マーサは全員の前に飲み物とタルトを並べると、翔子たちの正面
にあるラブシートに座る。
﹁ようこそお越し下さいました。私はこの家のお世話を任されて
いるマーサと申します﹂
﹁は、初めまして。私は翔子・佐野原。こちらは妹の愛莉・ライ
トランドです﹂
﹁ああ、こちらのお嬢様がアイリーン様なんですね﹂
マーサは愛莉を見て嬉しそうに顔を綻ばせた。
﹁クィン様からお聞きしています。とても可愛くて聡明なお嬢様
だ、と。つい先日も大冒険をされたばかりだとお聞きしています﹂
どうやらクィンは一昨日の病院での出来事を彼女に話しているよ
うだ。
﹁とても勇気のあるお嬢様だった、ととても自慢されていました﹂
﹁自慢、って?﹂
﹁病院で大変な目に遭ったのに、泣く事もなく頑張っていた、と
365
お聞きしています。私だったらきっと泣いてしまっていたでしょう
ね﹂
﹁クィンが助けてくれたもの。泣くほどの事じゃなかったわ﹂
﹁いえいえ、私だったらきっと泣いていますよ。だからアイリー
ン様はとても勇気があるお嬢様です﹂
満面の笑みで褒め称えるマーサに、愛莉はツンとした顔で返事を
する。
それでも愛莉がどこか嬉しそうにしている事は、翔子には見え見
えだ。
﹁アイリーン。あとで彼女にバック用のブラシを持ってきてもら
うから、ブラシのかけ方を教えて貰えばいい。バックの毛繕いをす
るんだろう?﹂
﹁あっ、そうだったわ﹂
﹁あらあら、バックの毛繕いをされるんですか? 大変ですよ?﹂
﹁大丈夫よ、私、もうすぐ12歳になるのよ。ゆっくりだったら
私でもできると思うわ﹂
﹁そうですね、でしたら無理しないようにすれば大丈夫ですね﹂
翔子は思わず窘めようとしたものの、クィンが気にするなと言わ
んばかりに手を振る。
﹁とりあえずタルトを食べてジュースを飲んだら、マーサと一緒
に外に出てバックの毛繕いをしてやってくれないか?﹂
﹁仕方ないわね。でもしてあげる﹂
バックはいい子みたいだもの、と相変わらず片方の手でバックの
背中を撫でている愛莉はジュースを飲む事も忘れて彼の毛並みに夢
中になっているようだ。
﹁なんだか・・すごく大人しいんですね﹂
﹁ん? ああ、バックはあんまりはしゃぐような犬じゃないから
な。というかニュー・ファンド・ランド犬は牧羊犬だから、どちら
かというと落ち着いたタイプの犬だと思う﹂
﹁とても子犬には見えません﹂
366
﹁まぁ殆ど成犬と同じくらいの体躯にはなっているんだ。あと少
し育てばそれ以上大きくはならないだろう﹂
寝そべっていてもソファーに座っている愛莉が体を動かす事なく
触れる程度には大きいのだ。
またが
﹁でも、これだけ大きかったら、本当に愛莉くらいなら背中に乗
せる事ができそうですね﹂
﹁そうだな。多分今こいつに跨っても文句を言わずに背中に跨が
らせたままだと思う﹂
毛がフワフワしているからそう見えるのかもしれないが、バック
はどう見ても翔子より体重がありそうだ。それにおそらく後ろ足で
立ち上がったら、翔子とたいして背の高さが変わらない気もする。
翔子がそんな事を思っている間に、愛莉はバックを触りながらも
出されていたジュースとタルトを完食してしまっていた。
ごちそうさま、と手を合わせてから立ち上がると、そのまま床に
寝転がっているバックの背中にダイブする。
﹁愛莉っっ﹂
あまりの乱暴さに、翔子はもしかしたらバックが反射的に愛莉を
攻撃するのではないか、と一瞬ひやっとしたもののバックはそんな
事を気にも留めていないという感じでただ少し頭をあげて愛莉の顔
をペロッと舐めただけだった。
愛莉はそのままフワフワの毛の中に顔を突っ込んだ。
﹃もふもふ∼∼﹄
﹁愛莉、もう少し優しく接しないと、嫌がられるかもしれないわ
よ﹂
﹁えぇっ、それは嫌﹂
﹁じゃあ、飛びつくのはやめましょうね。抱きつくにしてももっ
とそっとしてあげないと、バックが痛いかもしれないでしょ?﹂
﹁判った。ごめんね、バック﹂
神妙な声で謝りながらも、バックに抱きついたままだ。
﹁アイリーン。どうやらバックと仲良くなれたみたいだな﹂
367
﹁もちろん。簡単よ﹂
﹁じゃあ、今夜はバックと一緒に寝るか?﹂
﹁・・・いいの?﹂
﹁ああ、とは言ってもバック次第だから、彼に優しくしてあげて
くれよ﹂
﹁判ったわ﹂
うちでは仕事をしている翔子と病気を抱えている愛莉だけだから、
世話ができないという理由で動物は飼っていないのだが、こんな愛
莉を見ると申し訳なく思ってしまう。
けれど愛莉の手術が済んで落ち着けば、もしかしたら小型犬か猫
くらいなら飼えるかもしれない。
今年は無理だとしても手術をして1年ほども経てば、翔子は楽し
そうに犬に抱きついている愛莉を見ながらそんな事を考えながらコ
ーヒーを口に運んだ。
368
37. ︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
369
38.︵前書き︶
﹃﹄は日本語、﹁﹂は英語です。
370
38.
愛莉は翔子が驚くほどマーサに懐いた。
夕食はマーサと並んで食べると言い、彼女の隣にバックを足元に
侍らせたまま食事をした。
そしてシャワーを浴び終えた翔子がリビングルームにやってきた
頃には、ソファに座るマーサの足元に寝転んでいたバックを枕にし
て大きなテレビの前で映画を見ていた。
翔子はマーサの事をクィンの家の家政婦と思っていたのだが、話
を聞いてみるとこの屋敷の元々の持ち主である祖父の家政婦だとい
う事だ。
クィンにとっては祖父の家政婦というよりはもっと身内に近い存
在らしく、いつも夕食は一緒に食べているし寝るまでの時間はマー
サはこのリビングでのんびりしているらしい。
らしい、と言うのは大抵の場合クィンは仕事があって帰りも遅く、
家でこうやって食事をする事はあってもそのあとはすぐに書斎に入
って仕事をしているので、夕食後マーサと一緒に過ごす事は滅多に
ないらしい。
今夜リビングで愛莉やマーサと一緒にテレビを見ていたのも翔子
たちが来ていたからだろう、と言うのがマーサの弁だ。
﹁愛莉、バックが重いって言ってるわよ?﹂
﹁言ってないもん。バックは私が傍にいて嬉しいの。そうよね、
バック?﹂
言いながらも愛莉はバックの真っ白なフサフサの毛の中に顔を埋
める。
そんな愛莉を呆れたように見る翔子と対照的に、マーサはあらあ
らと言いながら笑っている。
﹁今日くらいはいいんじゃないか、ショーコ。アイリーンはバッ
371
クに会いに来たんだから﹂
﹁それでももう少しバックに優しく接してあげないと可哀想じゃ
ない?﹂
﹁私はバックを可愛がってあげてるわよ?﹂
﹁それにしてはバックは愛莉の枕になっている気がするだけど?﹂
﹁スキンシップよ。バックだって本当に嫌だったら私の下から出
て行ってるわよ。ね、クィン?﹂
﹁まぁそうだな。ショーコ、バックは俺があんまり家で構ってや
れないから、アイリーンに構ってもらえるのが嬉しいんだよ﹂
どこか疑わしそうな目でクィンを見るが、彼は笑っているだけだ。
そんな2人を見て翔子は仕方ないと言わんばかりに大きな溜め息
を吐いた。
今夜は愛莉のしたいようにさせるしかない、と諦めたのだろう。
﹁でも愛莉、本当に1人で大丈夫なの?﹂
﹁もちろんよ。バックが一緒にいてくれるんだもの。平気よ﹂
﹁でも・・・﹂
﹁ショーコ。愛莉の事は今夜はバックとマーサに任せてくれない
か? もし愛莉に何かあれば必ずバックが教えるよ。それに隣の部
屋にはマーサだっているんだから﹂
その事は何度もクィンから説明を受けた。それにマーサからも大
丈夫だと声をかけられた。
それでも愛莉を1人で眠らせる事が心配なのだ。
このところ愛莉と一緒に寝る夜が続いていた事もあり、翔子は愛
莉を1人にする事に抵抗がある。
シッシー
けれどもともと1人で寝ていただろう、と愛莉から言われてしま
うとあまり強く反対もできない。
﹁今夜はバックと一緒に寝るっていってたでしょ? お姉ちゃん
だって家を出る時はいいって言ってたわ﹂
﹁それはそうだけど・・・﹂
まさかここまで大きな犬だとは思わなかったのだ。
372
クィンが大丈夫だというのであればその通りなのだろうが、それ
でも心配なのは仕方ないと翔子は思う。
﹁大丈夫だよ、一緒に寝たってバックはアイリーンを押し潰さな
シッシー
いよ﹂
﹁おねえちゃん、もしかしてそんな事心配してるの?﹂
﹁それはないわよ。でも・・・一緒に寝るんだったらそういう事
も有り得るのかしら?﹂
﹁ないない、そんな事ないってば。むしろおっきな毛布にくるま
っているって感じ﹂
愛莉はそう言ってモフモフの毛並みに顔を埋めて両手でバックを
抱きしめる。
バックはそんな愛莉の行動に尻尾を少しだけパタパタと振るだけ
で、逃げる事もなく彼女の好きなようにさせている。
それを見て翔子は小さく溜め息を吐いた。
確かにこんな姿を見せられては、危ないからなどと言っても愛莉
は納得しないだろう。
﹁・・・判ったわ。その代わり、何かあったらすぐに言うのよ?﹂
シッシー
﹁もちろんよ。それくらい、私にも判っているわ﹂
﹁もしなんだったら私も一緒に−−﹂
﹁ダメ、私はバックと一緒に寝たいの。お姉ちゃんは上の部屋で
寝てね﹂
キッパリと言い切る愛莉に、翔子はまた溜め息を吐いた。
バックと寝るから、という事が問題なのではないのだ。
翔子としては愛莉が1人でバックと一緒に寝るという事が気にな
っているのだ。
バックは1階だけ入る事ができる事になっている、そうクィンが
言ったのは夕食の後だった。
けれど彼が翔子たちに用意した部屋は2階なのだ。
だからもし愛莉がバックと一緒に寝たいのであれば、1階に1つ
だけある客室を使う事になるのだ。
373
もう1つ部屋はあるが、そこはマーサが自室として使っているの
で、まさか彼女にその部屋から出て2階の客室へ行けとはさすがに
翔子も言えない。
それに70歳になるマーサには階段を上る事は容易ではないそう
だ。
そう言われるとバックと一緒に寝たい愛莉を1人にする事になっ
てしまう。
家の玄関先を荒らされて不安になっていた上に、先日の病院での
出来事が翔子を過保護にさせている自覚はあるものの、それでも心
配なものは心配なのだ。
﹁ショーコ、諦めた方がいい﹂
﹁クィン・・・﹂
﹁アイリーンは1人でバックと寝たいんだ﹂ ﹁それは判ってますけど・・・﹂
﹁大丈夫。アイリーンの部屋の隣がマーサの部屋だからね。何か
あれば彼女が対処しれくれるよ﹂
確かに彼の言う通り、愛莉が大きな声を出せばマーサがすぐに手
助けしてくれるだろう。
それは判っているのだ。
﹁とにかく、今夜くらいはアイリーンのしたいようにさせてあげ
ないか? ここは安全だよ。だれもアイリーンに危害を加える事は
できない﹂
﹁・・・そう、ですね・・・﹂
この区画の邸宅の持ち主同士がよりあって、私設警備員を雇って
いるから警備という点では安全だと言うクィンが正しいのだろう。
﹁判ったわ。でも、ちゃんといい子にしているのよ?﹂
﹁当たり前よ。私、ちゃんといい子だもん﹂
ツン、と顎をあげて返答する愛莉に、翔子は聞こえないくらい小
さな溜め息を吐いた。
374
海が近いからだろう、なんとなく磯香りがする風がテラスから外
を眺めている翔子の髪を揺らしていく。
クィンが翔子に用意してくれた部屋は、翔子が自宅で使っている
部屋の2倍ほどの広さのある部屋でツィンルームだった。
とはいえ、愛莉は1階の客間に移動しているので、結局は翔子1
人だけで使っている。
その2つ右隣にあるクィンの部屋は更に広かった。
彼の部屋はスイーツのようで、翔子が通されたリビング・ルーム
は客間と同じくらいに広さで、隣に続き部屋としてベッドルームが
あるのだそうだ。
1階で映画を見終わった後、嬉々としてバックをつれて客間に行
ってしまった愛莉を見送った翔子はどことなく手持ち無沙汰になっ
てしまい、少し付き合わないか、というクィンに誘われるまま彼の
部屋にやってきたのだ。
クィンはリビング・ルームに付いているミニ・バーで、翔子と自
分用の酒を用意している。
﹁お待たせ﹂
﹁あ、りがとう﹂
ボゥッとテラスから見える景色を見るともなく見ていた翔子は、
声をかけられて初めて気づいた目の前に差し出されたグラスを受け
取った。
﹁あまり強くない方がいいって言っていたからソーダで割ったけ
ど良かったかな?﹂
375
﹁はい、十分です﹂
﹁甘いのもあるけど?﹂
﹁お酒は飲みなれないから、これで十分です。それに甘いと悪酔
いしやすいって聞いてますから﹂
﹁そうかな?﹂
そんな事聞いた事ないな、と頭を傾げるクィン。
﹁まぁ、ワインとかもあるから、飲みたいものがあれば言ってく
れたらいい﹂
﹁判りました﹂
頷く翔子のグラスに、カチン、と小さな音を立てて自分のグラス
を当てたクィンは、そのままクイっと一口飲んだ。
色だけを見ると、どうやら彼の分はストレートのウィスキーのよ
うだ。ただ氷が入っているから彼が一口飲んだ時に氷がカランと音
を立てた。
それを見て翔子もそっとグラスに口をつけて一口飲んだ。
﹁もう少し酒の量が多い方がいいかな、とか思ったんだが好みが
判らなくて薄めにしたんだが大丈夫か?﹂
﹁十分お酒の味がしますよ、これ﹂
﹁そうか? 色が判らないくらい薄いと思うけどな﹂
﹁いえいえ、これで十分です﹂
たった一口飲んだだけだが、それでもなんとなく頰が熱くなる。
滅多にお酒など飲まないから、翔子としてはこれだけで十分酔え
る気がする。
﹁今日は、ありがとうございました﹂
﹁何が?﹂
﹁愛莉を誘ってくれた事・・・あの子、すごく楽しそうでした﹂
﹁ああ、だったら良かったな﹂
﹁うちでは動物は飼ってないので・・・だからずっと一緒にいた
んだと思います﹂
﹁バックも喜んでいると思う。いつもは家でマーサと二人きりだ
376
からな﹂
散歩にも連れて行ってないんだ、と苦笑いを浮かべるクィン。
そうはいってもこの家には広い庭が付いているから、無理に散歩
じいさん
に連れて行かなくても十分だと翔子は思う。
﹁ここは元々祖父の持ち家だったんだ。俺はカナダに住んでいた
からここにはクリスマスの休暇によく来ていたよ﹂
じいさん
﹁そうなんですか?﹂
﹁その祖父は2年前に亡くなって、祖母は入院している﹂
﹁もしかして病院でよく会うのは?﹂
﹁ああ、あそこに入院しているんだ﹂
祖父が亡くなってからめっきり弱くなったクィンの祖母は、心臓
が弱くなってしまい度々入院するようになったらしい。
じいさん
ただ年齢的な事もあり、1年の半分以上病院で過ごしているそう
だ。
﹁あの病院の理事も祖父がしていたのを引き継いだだけなんだ。
まぁそのうち俺もまたカナダに戻る事になるだろうけどな﹂
﹁カナダ、が地元なんですか?﹂
﹁ああ、向こうに生活の基盤がある。だが今は仕事の関係もあっ
ばあさん
てここに住んでいるんだ。丁度祖父母の家がここにあったから、ア
パートメントを借りる事もなくここに住む事にしたんだ。祖母の事
も気になっていたしね、それにマーサの事も﹂
今まで色々と病院のカフェテリアで話をしたが、彼のプライベー
トの事を聞いた事はなかったから、今彼が話してくれる事は全て耳
に新しい事ばかりだ。
ばあさん
﹁マーサもいい歳なんだが他に身寄りもいないから、うちでその
マーサさん
まま住んでもらっている。祖母の話だと古くからの友人、なんだそ
うだ﹂
﹁いい人ですよね、ミス・マーサは。愛莉があそこまで初対面の
人に懐くのって初めてみました﹂
﹁そうなのか? マーサもアイリーンの事を気に入って、孫みた
377
いに思っているみたいだな﹂
ここで紹介されてからずっとニコニコと笑みを浮かべた顔しか見
ていない気がするな、と翔子はマーサの顔を思い浮かべなら思った。
どちらかというと偉そうな口の聞き方をする愛莉の事を叱る事も
せず、むしろ面白そうな顔で彼女の相手をしてくれていた気がする。
きっと今もバックと一緒に眠っている愛莉の様子を見てくれてい
るだろう。
自分より犬の方がいいと言った愛莉は、きっとそうやって様子を
見に来てくれるだろうマーサに生意気な事を言っているのだろう。
翔子はそこまで考えて溜め息を吐いた。
378
38.︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
379
39.︵前書き︶
﹃﹄は日本語、﹁﹂は英語です。
380
39.
﹁大丈夫か?﹂
﹁・・・えっ?﹂
﹁溜め息を吐いていたから、何か悩みでもあるのかと思ったんだ
が?﹂
﹁ああ・・・大丈夫です﹂
気づかないうちに溜め息を吐いていたようだ。
翔子はとってつけたような笑みを浮かべてから、心配そうに顔を
覗いているクィンに頷いてみせる。
それでもクィンはまだ心配そうに翔子を見ている。
﹁その・・ちょっと考え事はしていたんですけど、そんなに深刻
な事じゃないので大丈夫ですよ﹂
﹁でも心配事みたいな感じだな﹂
﹁それは・・・﹂
心配事、なのだろうか? 翔子にはよく判らない。
﹁というより、不安そうだ、って感じだな。何をそんなに不安に
思っているんだ?﹂
﹁別に不安なんて・・・私が考えていたのは愛莉の事ですから、
不安に思うような事はないですよ﹂
愛莉の病気以外は、と翔子は小さく付け足す。
﹁アイリーンの事は心配しなくても大丈夫だ。バックはちゃんと
訓練を受けているから、アイリーンに危害を与えるような事はしな
いよ。約束する﹂
﹁そんな事は心配してません。そりゃバックは大きな犬だから最
初はすごく心配でしたけど、愛莉が抱きついても怒るどころか彼女
の好きにさせていたのを見たら、そんな心配はなくなっちゃいまし
た﹂
381
マーサさん
﹁じゃあ、何が引っかかっているんだ? マーサか?﹂
﹁ミス・マーサは・・・とてもいい人です。愛莉の事を気にかけ
てくれると思います﹂
そう口にしながらも翔子は素直にそれを喜べない自分がいる事に
気づくが、クィンにそんな事は言えない。
けれど、翔子の胸の内などクィンにはお見通しのようだった。
﹁ショーコ﹂
﹁はい?﹂
﹁そんなに不安に思わなくても、アイリーンは君の事を必要とし
ているよ﹂
﹁えっ・・・・?﹂
﹁確かにマーサにとても懐いているかもしれない。だが、ショー
コがいなくてもいい、という訳じゃない。だからそんなに心配しな
くてもいい、と言っているんだ﹂
﹁・・・﹂
翔子はクィンに言葉を返せず黙ったままだった。
だがそれは彼の言葉が的を射ていたからではなく、その言葉で自
分が不安な気持ちになっていた理由が判ったからだ。
どうしてそんな事を思ったのだろう?
そういう思いを込めた目をクィンに向けると、彼は口元に苦笑を
浮かべてから手にしていたグラスから一口飲んだ。
﹁アイリーンがショーコと一緒に寝るのを断った時の顔を見れば
判る。ご両親が亡くなってからずっとショーコがアイリーンの面倒
を見てきたんだろう? それにアイリーンの心臓の事もある。きっ
と病気が判ってからずっと出かける事もなく家にいる事が多かった
アイリーンは、ショーコの後ろを付いて回ってばかりだったんだろ
うな﹂
﹁・・・・﹂
﹁だからショーコはアイリーンを守って暮らしていたんだ。まぁ
それはおそらく無意識の内に、だろうな。だけどここに来てアイリ
382
ーンはショーコの手から離れてしまった。まぁそれもどうせ今夜一
晩だけの事だろうけど、それでもショーコには思ってもいなかった
アイリーンの拒絶と感じたんだと思うよ。アイリーンが自分の元か
ら離れていってしまう、と不安に思ったんじゃないのか?﹂
そこまで言われて、ようやく翔子にもクィンが何を言おうとして
いるのかが判った。
ずっと自分1人で庇護してきた愛莉が、自分の庇護を拒否したの
だ。そばに犬が一緒にいるとはいえ、知らない場所なのに1人で寝
る事を選んだのだ。
翔子にとっては差し伸べた愛莉を助けるための手を振り払われた
ようなものだったのだろう。
愛莉としてはそんなつもりは全くなく、ただここでしか一緒にい
られないバックと過ごしたい、ただそれだけの理由だったのだが、
愛莉に拒否されるという事は翔子に思わぬダメージを与えたのだ。
しかも翔子本人はそれに全く気付いていなかった。
﹁私は、別にそんなつもりはなかったんですけど・・・でも、そ
うかもしれませんね﹂
﹁今夜だけだよ。明日になればまたいつものようにアイリーンは
翔子のそばを離れなくなるよ﹂
だから心配しなくてもいい、と空いている方の手でクィンは翔子
の頭をポンと叩いた。
﹁過保護すぎたんですね、私・・・﹂
﹁ショーコは過保護じゃないだろう? ちゃんと駄目だって事も
言えてるさ﹂
﹁そうでしょうか・・・?﹂
﹁ああ、そう思う。そうじゃなかったらアイリーンはもっと我が
儘に言いたい放題やりたい放題だと思う﹂
﹁・・・今でも十分我が儘だと思いますけど?﹂
﹁あんなの我が儘じゃないさ。あの年頃の女の子ならもっと我が
儘を言ったっておかしくない。それどころかアイリーンは遠慮して
383
いるところだってあると思うよ。どこかで自分を抑えているんだろ
うな、って思う事が何度かあった﹂
よく見ている、と翔子は少し目を見開いてクィンを見上げる。
翔子自身彼の言う通り愛莉がどこかで遠慮している事に気づいて
いたのだが、まさか数回一緒に過ごしただけのクィンがそこまで見
ているとは思ってもいなかった。
﹁それは・・・きっと自分の病気の事があるから遠慮しているん
だと思います。姉の私にもそういう遠慮をしますから﹂
﹁そうか・・・もう少し伸び伸びと我が儘を言ってもいいだろう
にな。まぁ、そうしないところがアイリーンらしいといえばらしい
のか﹂
﹁そうですね﹂
お互い顔を見合わせてフッと笑う。
それから翔子はグラスを口に運んだ。
その横でクィンが同じように手にしていたグラスを口元に運んで
いるのが目の端に映る。
カラン、と2人の持っているグラスの中の氷が音を立てる。
その音にクィンが視線を翔子の空になったグラスに向けた。
﹁ああ、もう空っぽだね。新しいのを作って持ってくるよ﹂
﹁え? いいえ、もう大丈夫ですよ?﹂
﹁もう1杯くらいは付き合えるだろう? 同じものでいいかな?﹂
﹁でも・・・じゃあ、何かお勧めでお願いします﹂
﹁判った﹂
先ほどの1杯で程よくて酩酊感を味わえる程度だったのだが、も
う1杯くらいであれば大丈夫だろう。
部屋に通してもらった時に見せてもらったミニバーにはかなりの
種類のお酒が並んでいた。
あの中から今度は何を持ってきてくれるのだろう、と思いながら
翔子は彼が戻ってくるのを待った。
384
そうやって翔子がテラスからボゥッと何かを考えるでもなく夜景
を眺めていると、両手にグラスを持ったクィンが戻ってくる。
﹁ありがとうございます﹂
差し出されたグラスを受け取って礼をいうと、翔子は視線をグラ
スに中身に向けた。
そのグラスはオレンジジュースで満たされていたが、底の方には
赤い色の液体が溜まっているのが見える。
﹁これは?﹂
﹁ああ、簡単なカクテルだよ。というか、これくらいしか俺はカ
クテルの作り方を知らない﹂
﹁カクテル、ですか?﹂
﹁そう。テキーラ・サンライズって言うんだ。聞いた事くらいは
あるだろう?﹂
翔子は少しだけ頭を傾げて考える。
﹁えっと・・・名前くらいは、多分?﹂
ステップ・ダド
﹁多分って、有名なカクテルだと思うけど?﹂
﹁昔、義父が聞いていた曲にそんなタイトルがありました﹂
﹁ああ、なるほどね、イーグルスか﹂
ステップ・ダド
翔子の曲、という単語だけでクィンにはなんの事かすぐに判った
ようだ。
﹁グループの名前は覚えてませんけど、よく義父が口ずさんでま
した﹂
﹁有名な曲だからな﹂
﹁そうなんですね・・・でもカクテル自体は初めて見ます﹂
﹁口当たりは良い筈だ﹂
385
クィンの言葉になるほど、と頷いてから翔子は試しに飲んでみよ
うとグラスを口元に近づけたところで、細めのガラスでできたマド
ラーが付いている事に気づいた。
﹁あの、これ、混ぜた方がいいんですか?﹂
﹁ん? ああ、底に溜まっている赤い液体は甘いんだよ。だから
最初から混ぜて飲んでもいいし、最後に甘いのを一気に飲んでもい
い﹂
﹁甘いって事はシロップみたいなものって事ですよね・・・じゃ
あ、混ぜます﹂
少しくらい甘いのであれば翔子も気にせずに飲めるが、最後にシ
ロップを飲むようなマネはしたくない。
カラカラ、と氷とマドラーが当たる軽い音を立てながら混ぜると、
オレンジジュースは赤みがかったオレンジ色になる。
それから恐る恐る口をつけてみると、さっぱりとしたオレンジジ
ュースにほんのりと甘みを付け足したような風味になっている。
テキーラの風味も口に広がるが、オレンジジュースのせいか口当
たりがよくて飲みやすい。
﹁これ、飲みやすいですね﹂
﹁ああ、そうだな。カクテルの中では飲みやすい方だと思う。だ
がテキーラは強い酒だから、飲みすぎないように気をつけた方がい
いぞ﹂
翔子がそのままグラスの3分の1ほどを一気に飲んでしまったの
で、クィンは翔子の注意を喚起するために声をかけたものの、翔子
にはその言葉は頭に入っていないようで彼女はそのままグラスの半
分以上を一気に飲んでしまった。
386
39.︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
387
40.︵前書き︶
﹃﹄は日本語、﹁﹂は英語です。
388
40.
﹁そんなに一気に飲むと酔っ払うぞ?﹂
﹁・・・えっ?﹂
﹁だから、ゆっくり飲め、と言っているんだ﹂
﹁でも美味しいですよ﹂
﹁ベースはオレンジジュースだからな、飲みやすいだろうが、酔
っ払うぞ?﹂
ニコニコと飲んでいる翔子をみると止めにくいのだが、具合が悪
くなっても困るのでクィンはさりげなく中に入るように促した。
もし酔って寝入ったとしても、テラスで寝入るよりはマシだろう、
と思ったからだった。
﹁ここがいいです﹂
﹁寒くないのか?﹂
いくらカリフォルニア南部だとはいえ、まだ春先と言った今の季
節はそれなりに冷える。
﹁大丈夫ですよ。少し肌寒いけど、お酒を飲んでいるから﹂
﹁ショーコがそう言うんだったらいいが・・・けど寒くなればす
ぐに言え﹂
﹁はい﹂
口元に笑みを浮かべたまま小さく頷いた翔子に、クィンはそれな
ら、とその場に留まる事にした。
翔子は体を夜景の方に向けたまま、グラスの中身を口に運ぶ。
その目は夜景を見ているようで、それでいて焦点を合わせる事な
く何かを考えているようだった。
クィンはそんな彼女に何か話しかけようとしたものの、彼にして
は珍しく言葉を思いつく事ができないまま翔子と同様にグラスを口
に運びながら黙って彼女の横顔を見ていた。
389
そうしてお互いのグラスがほぼ空になった頃、翔子はゆっくりと
隣に立っているクィンを振り返った。
﹁・・多分、私、不安だったんでしょうね﹂
﹁何が不安なんだ?﹂
いきなりの言葉に、クィンは翔子が何を話しているのか判らなか
った。
﹁・・・いつか愛莉がいなくなってしまうんじゃないか、って﹂
﹁ショーコ・・・﹂
彼女の言葉を聞いて、クィンは翔子がつい先ほどの会話の続きを
話しているのだと気づいた。
クィンとしては話の内容が重くなったからあのタイミングで翔子
にもう一杯勧めたのだが、あまり役に立たなかったようだ。
そんな彼に気づく様子もなく、翔子は話続ける。
﹁だって・・・今の私には、もう愛莉しかいませんから・・・﹂
﹁それは・・・﹂
﹁両親が亡くなって大変だったけど、愛莉がいたから私はずっと
頑張ってこれたんです﹂
ずっと不安だった。
特に両親が亡くなって以来、その不安はどんどん大きくなってい
った。
事故で2人が亡くなって、自分には愛莉しか残されていない、と
葬式の日に感じたのだ。
自分には愛莉しか残されていないのに、その大切な妹は心臓に病
を抱えていて、いつ何があってもおかしくないという不安が常に胸
の奥に燻っていた。
普段はそんな思いを胸の奥に押し込めて見ないようにしていたの
だが、木曜日の事件の事があってその不安が溢れてきたのだろう。
あの時、何があってもおかしくなかったのだ。
﹁両親が亡くなって、私にはもう愛莉しかいません。あの子はあ
んな小さな体で必死になって病気と闘っている。でもいつか力尽き
390
て、私の前からいなくなってしまうかもしれない、と思ってしまう
事もあるんです﹂
﹁それは・・・だが、そうならないために手術を受けるんだろう
?﹂
﹁そうですね・・・でも、手術は100%じゃないんです。たと
え手術が上手くいっても、他に問題が起こるかもしれないし・・・
再発だってあるかもしれない。運が悪かったら、術後の合併症だっ
て出るかもしれない。そう思うと・・・・﹂
もしもの事を考えてしまった途端に不安な気持ちが湧いてきて、
翔子は自分の手が震えている事に気づいた。
そんな翔子の手からクィンが空になったグラスを取り上げて、背
後にあるテーブルの上に自分のグラスと一緒に置く。
﹁愛莉に・・・もし、あの子に何かあったら・・・﹂
私は一人ぼっちになってしまう!
両親が亡くなった時、愛莉がいたから頑張ってこれた。
けれど、もし愛莉が亡くなってしまったら、翔子はもうそれ以上
頑張り続ける事ができる気がしない。
﹁ショーコ・・・﹂
﹁愛莉がいなかったら私は・・・﹂
﹁ショーコ﹂
﹁もう頑張れない・・・﹂
﹁ショーコ!﹂
いつの間にかクィンが翔子を抱きしめていた。
そんな事にも気づかないほど、翔子は動揺してしまっていた。
クィンに強く名前を呼ばれて、ハッと我に返った翔子はゆっくり
と顔をあげた。
目の前10センチほどの距離にあるクィンは背後に部屋の明かり
を背負っているせいか薄暗くてよく見えない。けれど、緑がかった
茶色の瞳が自分をじっと見つめている事は判る。
﹁大丈夫だ、アイリーンは大丈夫。ショーコを残して逝ったりし
391
ない﹂
﹁でも・・・﹂
﹁ほら、少し落ち着いて﹂
もた
おそらく飲みなれない酒に酔って、普段は心の奥に隠していた不
安が頭を擡げてきたのだろう、とクィンは思いながら翔子の背中を
そっと撫でてやる。
たった1人で幼い妹の面倒をみてきたのだ。大変だったろう、と
クィンは思う。
翔子のことは病院で会った時に話したことくらいしか知らないが、
それでも彼女が妹の愛莉を大切に思っている事は十分クィンにも伝
わっている。
翔子はぎゅっとクィンのシャツを握りしめたまま、その顔を彼の
胸に埋めて小さな嗚咽を漏らしている。
そんな彼女を抱きしめる腕にクィンは知らず力を込めた。
その時間はおそらくほんの5−10分程度だっただろう。
少し落ち着いて嗚咽も止まった翔子が腕の中で身じろぎをした事
で、クィンは込めていた事に気づいた腕の力を緩めた。
が、その腕の中から翔子を離すほどではない。
﹁大丈夫か?﹂
﹁はい・・・すみません﹂
﹁謝る事はないさ﹂
﹁でも・・・﹂
﹁たまには感情も溜め込まずに吐き出したほうが良いんだ﹂
その通りだと思うのだが、それでもクィンに見せるのは恥ずかし
い、と翔子は思った。
392
そのせいで顔を上げる事ができずにいる。
彼に抱きしめられるのは初めてではない。
そしてそんな彼の腕の中にいる事を心地よく思っている自分がい
る。
﹁ショーコは1人で頑張りすぎなんだ。もう少し周囲の人間に頼
っても良いと思う﹂
﹁そう、ですか? もう十分周囲には迷惑をかけていると思うん
ですけど・・・﹂
﹁誰も迷惑だと思っていないだろうな。むしろアイリーンのため
だったら少々の我が儘くらい許してくれると思うぞ?﹂
﹁ふふっ・・・そうですね。あの子、生意気な口を利くけど、み
んな笑って許してくれますから﹂
﹁そうだな。俺としてはアイリーンがあの口に利き方を止めたら、
むしろ心配になる気がするよ﹂
﹁判る気がします﹂
その点に関してはクィンの言葉に賛成だ。
時々嗜めるもののあの口の利き方が愛莉らしい、と翔子も思うの
だ。
﹁あの子、ドクターにもあの調子なんです。ドクターは笑ってい
るけど﹂
﹁いいんじゃないか? 別に誰かに不快な思いをさせてるわけじ
ゃないだろう?﹂
それはその通りなのだが、せめてドクターにはと思わないでもな
い。
もうすぐ手術という事で、担当にドクター以外にも麻酔医や手術
クルーとも顔を合わせる機会は断然増えているのだ。
そんな中でも、愛莉は相変わらずこまっしゃくれた口調で受け答
えをしている。
手術まであと3週間だ。
その前日に病院に入って、最後の検診を受ける事になっている。
393
それまでに愛莉を万全な状態に保たなくてはいけない。
もう1度検査のために病院に行かなくてはいけないが、現代階で
は手術に耐えうるだろう、とドクターは言っていた。
そして手術を受けたら・・・
そこで不意に翔子はそれからの予定を思い出した。
手術を受けて愛莉の容体が安定した頃、翔子は仕事を辞めている
だろう。
もしかしたらその前に辞めているかもしれない。
ハッとして翔子は顔をあげてクィンを見上げた。
くだん
急に翔子が動いた事で、クィンは何事かというように彼女を見下
ろしていた。
そんな彼と視線が合う。
﹁ショーコ・・・?﹂
賢一との契約もそのパーティーの夜に終わる予定だ。
愛莉の手術の2週間後に、翔子は賢一に連れられて、件のパーテ
ィーに参加する。
そこで翔子は彼との契約通り、最悪の婚約者を演じる事になって
いるのだ。
これといった相手を見つける事もできなかった翔子のために、パ
ーティーの10日ほど前に賢一が用意した相手と出歩いて浮名を広
げなくてはいけない。
もしかしたら、それらはクィンの耳に入るかもしれないのだ。彼
が病院で理事をしている事以外彼に関しての事は何も知らないが、
それでも理事をしている事やパーティーに参加していた事を考える
と彼がそれなりの地位にいる人間だと判る。
というより、この家を見れば彼がそれなりに財を持った人間であ
る事など一目瞭然だ。
そこまで考えて翔子は彼と初めて会った時の事を思い出した。
どこか潔癖と言わんばかりの彼の態度を思えば、もう2度と会う
事もないかもしれない。
394
それは翔子の胸の奥にズキリ、と痛みを与えた。
−−そっか
ストン、と胸の奥に引っかかっていたものが落ちてきた。
−−クィンの事が、好きなんだ
初めて会った時、なんて横柄な人なんだろう、と思った。
再会した時も一方的に難癖をつけてきて、傲慢な人だ、と思った。
けれど、自分の非を認めると、きちんと謝る事もできる人だった。
愛莉の事も子供だから、と扱わずにきちんと彼女の言葉を聞いて
くれた。
彼の傍にいると不思議と安心できたのも、病院で愛莉が男に拉致
されていた時も彼の言葉を素直に聞き入れる事ができたのも、彼を
信頼していたからだ。
そんなクィンの事を好きになる事は、不思議ではなかった。
けれどだからこそ、この先彼とこうやって一緒にいられない未来
が翔子の心を傷つける。
翔子は自分をじっと見下ろしている彼の胸元に手を置いて背伸び
をした。
そのままそっと目を閉じてから彼の唇に自分の唇を重ねた。
少しひんやりとしたクィンの唇はとても弾力があり、それだけで
翔子は胸がいっぱいになる。
ほんの数秒の触れ合わせてから唇を離して、翔子はクィンを見上
げた。
﹁・・・ショー、コ﹂
﹁クィン・・・﹂
もう一度唇を触れ合わせようと目を閉じて背伸びをしたところを、
クィンの両手が彼女の腰をがっしりと捕まえた。
驚いて目を開けると、もう目の前の彼の顔が迫っていた。
そのままの勢いでクィンは翔子の唇に荒々しく自身の唇を重ねる
と、そのまま強引に彼女の唇を割ってその中に舌を捩じ入れた。
﹁・・はっ・・・﹂
395
あまりの強引さに、離して、と翔子は言葉にしようとしたものの、
その言葉ごとクィンに口に飲み込まれる。
クラクラするほどのめまいを感じながらも、翔子は必死になって
彼の胸元にあった手で彼のシャツを掴んだ。
そうしなければ、翔子はその場にしゃがみ込んでしまいそうだっ
たのだ。
舌を吸われそのまま彼の歯が甘噛みをしてくる。
そんなキスをした事のない翔子には刺激が強すぎて、もうなにが
なんだか判らなくなってしまっている。
クィンがようやく唇を離した時、彼女の息は完全にあがっていた。
それでもそんな風に自分を求めるようなキスをされた事が嬉しか
った。
﹁・・あんまり煽るな﹂
﹁クィン・・・﹂
﹁我慢しているんだ。そんな風に俺を煽ると取り返しのつかない
事になるぞ﹂
唸るような怒るような低い声で言いながら、クィンはぐいっと自
身の腰を翔子に押し付けた。
押し付けられたそこにはっきりと翔子を求めている硬さを感じて
思わず顔が熱くなったが、彼がこんな自分でも求めてくれるのだ。
それだけで口元に笑みを浮かべてから彼の胸に体を寄せた。
﹁ショーコ。自分が何をしているのか判ってるのか?﹂
﹁・・・・﹂
﹁黙っていたら判らないぞ。勝手にこっちの都合のいいように解
釈するぞ?﹂
はっきりと判っているわけじゃない。
けれど、自分の心が彼に寄り添えと体を動かしたのだ。
﹁ショーコ。せめて返事くらいはしてくれ﹂
﹁クィン・・・・﹂
﹁いいのか?﹂
396
﹁・・・・ん﹂
焦れたように翔子の肩を揺するクィンをそっと見上げると、彼の
痛いような鋭い視線が翔子を見下ろしている。
それを見た瞬間、彼がどれほど自分を欲しているのか伝わってき
た気がして、翔子はそのまま小さく頷いた。
翔子が頷いたのを見た瞬間、クィンは彼女をひょいっと抱きあげ
るとそのまま中に入っていった。
397
40.︵後書き︶
07−31−2016
@
10:15CT
読んでくださって、ありがとうございました。
Edited
愛莉の手術の日程とパーティーまでの日程を変更しました。
398
41. ** R−18 ** ︵前書き︶
﹃﹄は日本語、﹁﹂は英語です。
** 40話での愛莉の手術の日程とパーティーまでの日程を変更
しました。 **
399
41. ** R−18 ** ベッドサイドのテーブルの上にあるランプにだけ明かりが灯って
いる部屋には、大きなベッドが備えられていた。
濃緑のシーツに濃淡の緑系のカバーが付いた4つのクッションが
その上に置かれている。
ヘイゼルグリーン
それらのクッションはなんとなくクィンのイメージとはマッチし
ていないのだが、ただ色合いは彼の茶色混じりの緑の瞳の色に似合
っている気がする。
そんなことを考えているうちにクィンは翔子をベッドの端にそっ
と下ろした。
それからおもむろにシーツをベッドから剥がすと、翔子の手を取
って立ち上がらせる。
﹁本当に、いいのか?﹂
翔子の前に立つクィンの瞳はベッドサイドのランプに照らされて、
ヘイゼルグリーン
先ほどよりよく見える。
その茶色混じりの緑の瞳の中に自分が映っている事がなぜか翔子
には嬉しかった。
今クィンが見ているのは翔子だけだ。
たったそれだけの事が翔子の背中を押してくれる。
﹁クィンこそ・・・私でいいんですか?﹂
﹁ショーコが欲しい﹂
﹁私も・・・・﹂
誰が見てもハンサムだと答えるクィンが自分の事を欲しがる事が
信じられないが、今だけだとしても翔子は彼とこの時を過ごしたい
と思う。
クィンは翔子をそのままベッドに座らせるように押すと、そのま
ま彼女の体をベッドの真ん中あたりまで押しやる。
400
まだ服を着ているとはいえベッドのシールを素肌に感じて、翔子
は途端に自分が何をしようとしているのかに気づいて顔を赤くして
視線をそらせた。
そんな翔子をみてクスリ、と低く笑ったクィンは、そのままベッ
ドサイドのランプに手を伸ばして明かりを絞って暗くすると、着て
いたシャツだけを脱いで翔子の隣に横たわる。
﹁すごく緊張してるな﹂
﹁そ・・そうですか?﹂
﹁ああ、ガッチガチだ﹂
そう言われてもどうすれば緊張を解す事ができるのか翔子には判
らない。
﹁慣れてないのか?﹂
﹁そう・・ですね﹂
﹁そうか・・・﹂
慣れてないどころか、翔子はこういう経験をした事がないのだ。
けれど、ここで経験がないと言うとクィンはやめてしまうかもし
れない。
そう思うと素直に経験がない事を口にできなかった。
翔子個人としては特に処女性に拘っていたわけではなかったのだ
が、今まで付き合ってきた相手とはそこまで深い関係になりたいと
思わなかった。
そしてそうしているうちに両親が亡くなり、働く傍ら愛莉の面倒
を見なければならなかったのでそれどころではなくなっていたのだ。
そんな翔子の心情を知らないまま、クィンは彼女の慣れていない
という言葉を鵜呑みにし、翔子が男慣れしていないというその事に
ホッとしていた。
自分の周囲に集まってくる女たちは、誰も彼もが彼の金や地位が
目当てだった。
そんな女たちに辟易していた時に目の前に現れたのが翔子だった
のだ。
401
最初、彼は翔子の事を他の女たちと同様だと辛辣な言葉をぶつけ
ていたのだが、それが誤解だと判った時どこか残念だと言う気持ち
があった。
特に美女というわけでもない翔子は、そんな彼の事など歯牙にも
かけていなかったのだが、妹を大切にしてクィンの事を特に特別扱
いするでない彼女にどんどん惹かれていった。
翔子の妹をダシにして2人の間に入っていくほどに、だ。
そんな彼の気持ちに翔子が気づいていない事に、クィンはすぐに
気づいたが、そんなところでさえなぜか好感が持てた。
ただ、事を急ぐつもりはなかったのだ。
今夜も翔子と愛莉が自分の家にやってきて過ごすだけで、十分だ
と思っていた。
しかしどこか意気消沈していた翔子を1人にできず、お酒を飲む
だけと自分に言い聞かせていたのに、なぜか翔子の方が自分の忍耐
を試すようにすり寄ってきたのだ。
それでもまだ我慢できる、と思っていた。
だが、彼女が自分からキスをしてきた時に、すでにクィンの忍耐
は限界を超えていたような気がする。
頷いた彼女を掬い上げて、そのまま攫うようにベッドルームに連
れてきてしまったのだ。
そんな彼女が今、自分のベッドに横たわっている。
クィンは少しだけ体を彼女の上に乗り上げさせて、少しぎこちな
い翔子の唇にそっと触れるだけのキスを何度も落とす。
翔子は彼の体の下にある右手をそっと動かして彼の背中に回すと、
そのまま彼の背に手を添わせた。
もう片方の手は彼のシャツの胸元を掴んでいる。
なぞ
啄むようなキスに慣れてきたのか少しだけ翔子の体から力が抜け
た感じがして、クィンは舌先で彼女の唇の輪郭を擦る。
途端にびくりと体を動かせた翔子だが、彼がゆっくりと舌先で擦
っているうちにまた力を抜いた。
402
と
つつ
それを見計らって、今度はそっと舌先で彼女の唇の綴じ目を突い
た。
ヘイゼ
つい先ほどテラスで深いキスを交わしたばかりなのに、翔子は驚
ルグリーン
いたように目を見開いて、ほんの2−3センチ先にクィンの茶色混
じりの緑の瞳が自分を見ている事に気づいて更に動揺する。
﹁しーっ・・・大丈夫だ。少しだけ唇を開けて﹂
﹁クィッ・・・ン﹂
唇に彼の親指が触れた感触が伝わってきて、思わず彼の名前を呼
ぼうとして開いた唇の隙間から彼の舌がするっと侵入してきた。
そのまま翔子の歯の裏を擽るように触れると、彼女の舌を絡め取
り吸い上げる。
そんな深いキスなど今までした事もなかった翔子は、それだけの
事でもう頭がボゥッとしてしまうが、置いて行かれないようにと言
わんばかりに彼にしがみついていた。
クィンは余裕のない翔子の様子に、そっと左手で彼女の背中を宥
めるように撫でてやる。
﹁ちゃんと呼吸しろよ﹂
﹁っはぁっ・・・﹂
どこか揶揄うようなクィンに言われて、翔子は自分が息を止めて
いた事に気づいて大きく吸い込んだ。
彼女のどこか慣れてない仕草がクィンには嬉しい。
自分以外の男が彼女に触れたかと想像するだけで、胸の奥にどす
黒い感情が湧き上がってくるのだ。
そんな事を考える自分が嫌ではない、と思える。
クィンは翔子が息を整えているうちに、彼女が来ている部屋着の
シャツのボタンを1つずつ外していくが、翔子はそんな事に気づい
ていないようだ。
﹁ショーコはキスにも慣れてないのか?﹂
﹁だって・・・﹂
﹁鼻で息をすればいいんだ﹂
403
口を塞がれるとどうしていいか判らない、と小さな声で言いかけ
た翔子にクィンが口角をあげて教えると、左手で軽く彼の胸元を叩
いた。
﹁ほら、練習してみようか﹂
﹁えっ・・ん・・﹂
文句を言いかけた口をクィンは自身の口で塞ぐと、そのまままた
先ほどのように舌を翔子の舌に絡ませて彼女を翻弄する。
翔子も必死になって彼に応えようとするのだが、あいにく彼女の
経験値は彼ほど高くないので翻弄されっぱなしで息も絶え絶えにな
っている。
それでも息を止める事もなくクィンに言われた通りに鼻で息をし
ているようだ。
そんな彼女の反応に思わず笑みを浮かべながらも、クィンは空い
ている右手を使って先ほどの続きである翔子のボタンを外し始めた。
と言ってもすでに半分の3つのボタンは外し終えていたので、残
りの3つのボタンを外してしまえば翔子のシャツの前を肌ける事は
できる。
クィンはゆっくりとシャツの前を肌けて肩に指を這わせる。
今彼の指先に触れるのはブラのヒモだけで、彼はそのまま背中に
回していた左手を使って翔子のブラのホックを外す。
﹁あっ・・・んぅ・・・﹂
クィンがブラのホックを外した事に気づいた翔子は思わず目を開
けて声を出そうとしたが、クィンは更に翔子の舌に自身の舌を絡め
て翻弄するとそれ以上の声を出す事はできなかった。
ホックを外した事でずらしやすくなったブラを顔の方にあげてそ
っとその膨らみを手のひらで包み込んだ。
翔子は着痩せするのか、その膨らみはクィンが思っていたよりも
大きく弾力があった。
﹁あっ・・ちょっ・・ん・・﹂
その弾力を楽しんでいると、翔子が頭を横に振って声を上げ掛け
404
たものの、クィンが翔子の首元に唇を這わせると言葉にならない声
が嬌声になった。
慌てて翔子は口を閉じて堪えようとするが、あまり上手くいって
いない。
首筋を這っていた唇はそのままゆっくりと下へ降りていき、クィ
ンの手のひらが包み込んでいない方の膨らみの先にある頂を口に含
んだ。
﹁んぁあっ・・・﹂
キュッと唇で摘まれた刺激で翔子は小さな悲鳴をあげるが、クィ
ンはその反応に気を良くして更に唇で刺激を与える。
いつの間にか翔子は両手でクィンの頭を抱え込むように抱きしめ
ているが、本人は全くその事に気づいていないだろう。
クィンは翔子の背中に回していた手を使って彼女の肩からシャツ
を落として、ブラも同様に動かして脱ぎやすくする。
翔子は小さく喘ぎながらもクィンが動かす通りに体を動かして、
無意識のうちに彼の手助けをしてシャツを脱ぎ捨ててしまう。
クィンは翔子のシャツをベッドの横にあるサイドテーブルに置く
と、そのまま上体を起こして自分がきているシャツを脱ぎ捨てた。
ボゥッとした表情でクィンを見上げている翔子の目の焦点はあっ
ていない。それはおそらく先ほどまで与えられ続けていた刺激のせ
いなのだろう。
うっすらと開かれた唇にクィンは触れるだけのキスを落とす。
その感触に無意識にふわっと口元に笑みを浮かべた翔子に、クィ
ンはもっと深いキスを仕掛ける。
熱い吐息を交換しながら、クィンの手は翔子の胸の頂をキュッと
摘む。
途端に翔子の口から更に熱い吐息が漏れる。
それを受け止めながら、クィンの手は更に下へと移動していく。
翔子の足の間にはクィンの膝が入り込んでおり、足を閉じること
ができないようにしてある。
405
とはいえ翔子はキスと胸の刺激に夢中で、そんな事に全く気づい
ていないだろう。
そう思うと思わずまた口元に笑みが浮かぶが、そんななれない仕
草の翔子が可愛くて仕方がない。
そっと指先を翔子の足の間に差し入れると、そこは熱く濡れてい
た。
﹁クッ・・・インッッ・・・あぁっっ﹂
襞に沿って指を動かすとそれだけで翔子はクィンのキスから逃れ
るように頭を振って声をあげた。
あまりの刺激の強さに、翔子はクィンの腕を掴んで爪を立ててし
まう。
自分が爪を立てている事に気づいた翔子はハッと目を開けて手を
離そうとするが、クィンはそのタイミングで指を動かして翔子に快
感を与える。
そのせいでまた翔子は彼の腕に爪をたてたのだが、その程度の痛
みなどクィンにはなんでもない。
むしろそれほどの快感を翔子に与える事ができている、という事
の方が大事なのだ。
クィンは翔子に腕を掴ませたまま、また頭を下げて翔子の露わに
なった胸元に唇を這わす。
胸元と足の間の両方から快感という名の刺激を与えられ、翔子は
もうクィンの腕にしがみつく事しかできなかった。
406
41. ** R−18 ** ︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
407
42. ** R−18 ** ︵前書き︶
﹃﹄は日本語、﹁﹂は英語です。
408
42. ** R−18 ** 慣れない感覚に翔子はどうすればいいのか判らなくなって、ただ
クィンの腕にしがみつくだけだった。
なんとか止めてもらおうと声を出そうとするのだが、その度にク
ィンの巧みな指の動きが邪魔をして翔子の口から出るのは小さな嬌
声だけだった。
﹁クッ・・・んあぁっ・・・やっ﹂
クィンの指は足の間の襞に隠れている小さな粒を見つけると、そ
れを回すようにクルクルと指を動かす。
翔子の腰はその動きに合わせるかのように揺れているのだが、本
人はそんな事に気づく事もなくただただ快感に翻弄される。
﹁やっ・・・・ぁああっっ﹂
ピン、と翔子のつま先がこれ以上ないほど伸びて体を硬直させた。
達したのだろう、とクィンは指の動きを止めると、荒い息を吐い
ている翔子の唇に啄むようなキスを何度も与えた。
﹁・・クィン・・・﹂
﹁大丈夫か?﹂
﹁・・・はい﹂
ようやく焦点があった翔子の目がクィンを見上げて彼の名前を呼
んだ。
クィンが乱れて顔にかかった髪をそっとかき上げてやると、その
時初めてクィンの腕をぎゅっと掴んでいた事に気づいた翔子は慌て
て手を離す。
﹁すみません・・・その、腕、大丈夫ですか?﹂
﹁腕? ああ、大丈夫だ。気にする事はない﹂
翔子に言われて自分の腕を見下ろして、クィンは初めてそこに深
く爪の跡が付いている事に気づいたが、彼女に言った通り彼は全く
409
気にしていない。
それどころかそれほどまでに自分が与えた快感に夢中になってく
れた事の方が嬉しい。
けれど、それが彼女にとって初めての快感である事までは気づい
ていない。
﹁もう息が整ったか?﹂
﹁・・・えっ?﹂
﹁もう終わり、なんて言わないだろう?﹂
チュッと音を立てて翔子の唇にキスをすると、クィンは止めてい
た指の動きを再開する。
﹁えっ・・・ちょっ・・・待ってっっ﹂
﹁待たない﹂
﹁でもっっ・・・だって・・・ゃあっ・・﹂
グイッと膝を少し上にあげて翔子の足が更に開くようなポジショ
ンにつくと、クィンは襞を指先で伝いながら更に奥深くに進めてい
く。
そこは十分に潤っており、クィンはゆっくりと指先をそのまま奥
へと入れる。
思わぬ場所に感じた違和感に翔子は思わず眉間に皺を寄せるが、
広げられる感覚はあるものの痛みはない。
﹁痛いか?﹂
﹁いえ・・・痛みはないです﹂
﹁でも、きついな。慣れてないのか?﹂
﹁・・・・はい﹂
だったら時間をかけた方が翔子にも楽だろう、とクィンは思う。
少しでも翔子に痛みを与えないように、と彼女の顔をじっと見つめ
たままゆっくりと指を更に奥へと進めていく。
それからゆっくりと抜き差しをしながらも、同時にそこを広げる
ように回してやる。
大丈夫だろうか、と見下ろした翔子は困ったような顔をしてクィ
410
ンから顔を背けて目を瞑った。
翔子としてはじっと自分の顔を見られる事が恥ずかしいのだ。
こんな生々しい触れ合いは初めての経験だった。
今まで彼氏はいたものの、最後まで経験した相手はいないのだ。
だから、こんな時にどうすればいいのか判らない。
困惑している翔子のこめかみに柔らかなクィンの唇が触れた。
翔子はそっと目を開いて横を向いたまま彼の方に視線を向ける。
﹁大丈夫か?﹂
﹁はい・・・﹂
こんな状況で大丈夫かと聞かれても困るだけだ、とは恥ずかしく
て口にできない。
それでも彼が翔子の事を心配して声をかけてくれている事は判っ
ているので、翔子は消え入りそうな小さな声で返事をした。
しかもそんな風に言葉を交わしながらも、クィンの指先は動きを
止める事もなくゆっくりと翔子の体を開く準備をしているのだ。
﹁痛かったら言ってくれ﹂
﹁・・・はい、大丈・・ぅあっ・・ひゃっっぁ・・﹂
翔子のその部分を慣れさせるために動いている指が不意に翔子の
敏感な場所に触れ、翔子は変な声をあげてしまう。
﹁ここか﹂
﹁こっ・・・んゃああっっ﹂
ここって? そう聞きたかったのに、続くクィンの指の動きに言
とっさ
葉にならない声しか出す事ができない。
咄嗟にまた彼の腕を掴んで、頭を左右に振って刺激を逃そうとす
るものの、刺激の方が強すぎて翔子は声にならない声をあげながら
口を大きく開いた。
その刺激の強さに恐怖すら感じた翔子の見開いた瞳からスゥッと
涙が一筋流れる。
それをクィンの唇が優しく受けとめ、少しだけ指の動きを緩めて
やる。
411
﹁ク、ィン・・・怖いっっ・・・﹂
﹁怖くない。大丈夫だ。痛くはないんだろう?﹂
﹁いっ、たく・・ないけどっっ・・・怖いっっ﹂
体の奥から湧き上がってくる波に飲み込まれそうな気がして、翔
子は必死にクィンにしがみつく。
﹁感じてくれ﹂
﹁感っじっ・・・・やぁあああっっっ﹂
グッとクィンが翔子の中のどこかを強く押した気がした。
と同時に彼女は自分の体がどこかに投げ出されたように感じると、
そのまま背中を仰け反らしてクィンの腕を強く握りしめた。
光のような何かが目の前で弾けたまま、翔子が目を閉じたまま息
を整えていると、クィンが彼女の足の間に体を入れてきた。
ハッとして目を開けると、ほんの数センチのところにクィンの顔
が迫っていた。
﹁落ち着いたか?﹂
﹁・・・私・・・﹂
どうしたんだろう? と思い出そうとした翔子の記憶は、チュッ
と触れてきたクィンの唇の感触で一気に戻ってきた。
途端に顔に熱が集まるのが判ったが、それでも彼の唇の感触が嬉
しくてそのまま彼の口づけを受ける。
最初は触れるだけのものだったそれがだんだんと深くなり、最後
にゆっくりと舌を絡み合わせてから離れていく。
それからそっと頰に触れてきた彼の手のひらに無意識のうちに翔
子は自分から頰を擦り寄せる。
フッとクィンが笑った気配がして目を開けると、口元に笑みを乗
せたクィンの顔が見えた。
ほんの数秒ほどお互いを見つめあったあと、クィンが腰を押し付
けてくる。
そこは熱く硬く、思わず翔子は小さく口を開いた。
﹁おっ・・・﹂
412
﹁今更やめろ、とは言うなよ?﹂
﹁そっ・・それは・・・﹂
﹁無理だからな﹂
﹁わ・・・・はい﹂
ヘイゼルグリーン
どこか揶揄うような口調の割に表情は余裕がありそうに見えるが、
それでも目の前の彼の茶色混じりの緑の瞳は熱を抑えきれていない。
だから、というわけでもないが、翔子は素直に頷いた。
今更ここまで来てやめてほしい、という訳がない。
翔子を欲しいと思う彼と同様に翔子も彼の事が欲しかった。
もしかしたらこれが最後になるかもしれないのだ。
いや、きっとこれが彼と肌を合わす最後のチャンスだろう、と翔
子は思う。
だからこそ、今ここでやめてほしくない。
翔子はクィンの腕を掴んでいた手をあげると、そのまま彼の頰を
両手で挟むと自分から彼の唇にキスをした。
そして驚いた彼の唇を割って舌を滑り込ませると自分から彼の舌
に自分の舌を絡ませる。
初めて見せる翔子の積極なキスに最初は驚いたクィンではあるが、
すぐに主導権を奪い取るとそのまま強引と言っていいほどに彼女の
舌を吸い上げ蹂躙する。
小さな悲鳴が翔子の口から漏れた気もしたが、クィンはその事に
気を留める事もなく右手で翔子の左足を掲げ、左手で彼女の腰を掴
んでそのまま自身の腰を進めた。
﹁あぁっっ・・・・っっ﹂
少しだけ彼女の潤った内に進めると、翔子は小さな声をあげる。
クィンは彼女の顔に苦痛が出ていないか確かめながら腰を進める
が、そんな事に気づいていない翔子はそのまままた両手でクィンの
腕にしがみついた。
﹁痛いか?﹂
﹁大、丈夫・・・﹂
413
初めて感じる違和感と強引に広げられる内の感じる痛みに、翔子
は思わずキュッと唇を噛んだが痛いとは言わなかった。
もしここで痛いと言ったら、もしかしたら彼はやめてしまうかも
しれない。
そう思うと、絶対に痛いとは言わない、と心で誓う。
それより少しでも早く、と言わんばかりに翔子はクィンに掴まれ
ていない右足を彼の腰に回した。
それが合図になったようで、クィンはそのまま一気に腰を一番深
いところまで進めた。
﹁んぁあっっ﹂
﹁ショーコ﹂
﹁大・・丈、夫・・﹂
あまりの衝撃に噛み締めていた口から声が漏れ、涙が閉じた瞳か
ら零れた。
無理やり開かれたそこがジンジンと痛い。まるで引き裂かれたと
感じるほどだ。
けれど同時に、今自分の内に彼がいるのだ、と思うとそれだけで
痛みが少し和らいだ気がする。
﹁・・初めて、だったのか?﹂
﹁えっ・・・?﹂
あまりの衝撃と痛みにクィンが何を言ったのか聞き取れなかった
翔子に、彼はどこか困惑したような表情を一瞬浮かべたものの、そ
のまま触れるだけのキスを唇に落とした。
﹁初めてならそう言ってくれれば、もっと優しくしたのに﹂
﹁・・・えっと・・・﹂
﹁慣れてない、っていうのは嘘だったな。慣れてないどころか経
験さえない、の間違いだ﹂
﹁・・・ごめんなさい﹂
どこかムッとした口調のクィンに、翔子は思わず目を開けるとそ
こには不機嫌と困惑を合わせたような表情の彼がいた。
414
けれど翔子が謝ると、困ったような表情に代わり頭を振る。
﹁怒っているんじゃない。ただ・・・もし初めてだって言ってく
れたらもう少し優しくできただろう、って言っているんだ﹂
そう言いながら頰にキスをしたクィンだが、翔子はもし自分が初
めてだと言っていたら彼は手を出していないだろう、と思う。
﹁もう・・初めて、じゃないわ﹂
﹁・・・そうだな﹂
少し強がるような翔子の言葉に、クィンはフッと笑うとそのまま
少しだけ腰を動かした。
﹁もう止められない、って言ったしな﹂
﹁・・・止めないで﹂
﹁煽るなよ﹂
﹁煽ってない・・・止めないで﹂
唸るようなクィンに翔子はもう一度繰り返す。
止めないで。
クィンは翔子の唇に噛み付くような口づけを落とすと、そのまま
ゆっくりと腰を動かした。
途端に少しだけぴりっという痛みを感じたものの、それでも彼が
与えるものは痛みよりも不思議な感覚の方が強くなる。
不思議な感覚で翻弄され、翔子はぎゅっとクィンの腕にしがみつ
いた。
415
42. ** R−18 ** ︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
416
43.︵前書き︶
﹃﹄は日本語、﹁﹂は英語です。
417
43.
会社のロッカーで、翔子は着替えたばかりの服装を確認する。
薄いピンクのブラウスにワインレッドのスカート、それに白のカ
ーディガンを羽織っている翔子は、いつもの仕事用のスーツ姿より
も年齢相当に見える。
翔子は服装に乱れがない事を確認してからロッカーのドアを閉め、
バッグを手にするとそのままロッカールームから出る。
これから彼女は賢一の指示通り、車で15分ほどのところにある
カフェに行く事になっている。
そこで彼女のお付き合い相手という男と会う事になっているのだ。
本来であれば自分でそういう相手を見つけて浮名を流す事になっ
ていたのだが、そういう事に慣れていない翔子からよく知らない男
に声をかけて誘うという行為ができなかったのだ。
たしな
当初の賢一の予定では翔子には彼が知るある程度知名度が高い男
を誘ってもらうつもりだったのだが、翔子の性格とジュリアから窘
められた事もあり彼が手を回して相手を用意する事になったのだ。
そしてその相手との顔合わせが今日だった。
・・
﹃初デート﹄に行く事になると帰りが遅くなる。
グェンには仕事で遅くなると言って、今日は愛莉の夕食も彼女に
頼んできている。
翔子は小さくため息を吐いてからカフェに向かった。
カフェに着くとまずは店内を一通り眺める。
418
賢一の話では相手は金髪碧眼、身長は180センチくらい、テー
ブルの上に青いルーズリーフホルダーを置いている、という事だ。
キョロキョロと視線を店内に彷徨わせていると、ふと窓際の男が
手を振っているのが見える。
そちらに視線を向けると、賢一のいう通りの容貌の男とルーズリ
ーフホルダーが見えた。
﹁ショーコ?﹂
﹁あっ、はい﹂
翔子が十分席に近づいたところで、男が立ち上がり声をかけてき
た。
﹁僕はブライアン、まぁ名前くらいはケンに聞いていると思うけ
ど?﹂
﹁はい、聞いています﹂
﹁じゃあ、まぁ今日はよろしくね?﹂
﹁はい、こちらこそ﹂
とりあえずコーヒーでも買っておいで、とブライアンに言われ、
翔子は素直に頷いてSサイズのコーヒーをもらって戻ってくる。
﹁はじめまして、だね。名前くらいはケンから聞いた事はあるん
だけど、彼とは仕事上ではあまり付き合いがないからなぁ﹂
﹁そうなんですか?﹂
﹁うん。僕とケンが知り合ったのは、お互いが大学にいた頃だっ
たからさ﹂
どうやら賢一の大学時代の知り合いらしい。
﹁ケンは親の仕事のために暫く日本に戻っていただろう? だか
らこっちに戻ってきているなんて知らなくってさ。いきなり連絡が
来た時はびっくりしたよ﹂
﹁申し訳ありません﹂
﹁ショーコが謝る事じゃないだろう? あいつは詳しい事は教え
てくれなかったけど、どういう状況を作り出さないといけないのか
は聞いているよ﹂
419
賢一がこちらに戻ってきたのは2年以上前なのだが、その間彼に
は戻ってきている事は知らせていないらしいが、ブライアンの方か
らも連絡を取っていなかったようなのでお互い様なのだろう。
それでも一応今回の顔合わせの理由は説明してあるようで、翔子
はホッとした。
もしかしたら自分が詳しい説明をしなくてはいけないのかもしれ
ない、と少しだけ心配になったからだ。
﹁ショーコもケンから聞いていると思うけど、今日から週に2回
くらいこうやって人前で二人でいるところを目撃してもらわなくち
ゃいけないんだけど大丈夫?﹂
﹁はい、私は・・・でもブライアンは大丈夫なんですか? 最初
彼の話では2−3回会うだけにするって事だったんですけど、それ
じゃあ信憑性がないだろうって言い出して・・・・﹂
最初はパーティーの10日ほど前に彼と2−3回会うだけ、とい
う事になっていたのだが、それだと恋人というには急すぎて信憑性
に欠けるだろう、と賢一が言い出したのだ。
それで急遽パーティーの1ヶ月前から準備を始めよう、という事
になった。
翔子としては愛莉の手術がパーティーの2週間前という事で正直
なところ断りたかったのだが、賢一の言い出した事に異論を唱えら
れる立場ではなかった。
﹁僕としては寂しい一人の夜を過ごす時間が減るから助かるよ﹂
﹁でも忙しいんですよね?﹂
﹁まぁね。それなりに仕事はあるから。でもケンが頼みごとをし
てくる事って滅多にないから力を貸してやりたいし、ここで恩を売
っておくのも悪くないだろう?﹂
悪戯っぽくウィンクをしてくるブライアンに翔子は思わず破顔し
てしまった。
﹁笑顔、可愛いね﹂
﹁あ・・ありがとうございます﹂
420
﹁あれ、照れてんの? 言われ慣れてると思ったんだけど?﹂
﹁そんな事ないですよ﹂
面と向かって可愛いと言われ、翔子はどう反応して良いのか判ら
ないが、そんな彼女の反応がブライアンのツボに入ったのか思わず
と言うように声をあげて笑う。
﹁まぁ僕としては嬉しいな。こんな可愛い子が期限付きとはいえ
僕の彼女になってくれるんだから﹂
﹁それは・・でも大丈夫なんですか? その・・・彼女とか奥様
とか・・﹂
﹁ああ、そっちは平気。半年前に離婚したばかりの独身だから大
丈夫。今の所付き合っている相手もいないしね。まぁだからケンは
僕に連絡をよこして頼んできたんだろうけど。ショーコは大丈夫?
彼氏がいたらちゃんと説明するんだよ?﹂
説明、とブライアンに言われて頭に浮かんだのはクィンの顔だっ
た。
お隣のいつも愛莉が世話になっているグェンでもジョーでもなか
った事よりも、もうおそらくに度と会う事はないクィンの顔が浮か
んだ事に翔子の胸は小さな軋んだ音を立てた。
説明するも何も、クィンは何も知らない。
その事実が鋭い刃となって翔子は思わず目を閉じて彼との最後の
時を思い出した。
遠くで携帯電話の着信音が聞こえてきて、翔子の意識が眠りの底
から浮上する。
モゾリ、と翔子の隣の部分のベッドが動く。
421
自分を包み込んでいた温もりが消えて、フルっと体を震わせた翔
子はそのままくるりと先ほどまで自分を抱きしめていた温もりがあ
った方に体を向けた。
するとスマフォを片手に立ち上がって窓際に歩いていくクィンの
後ろ姿が視界に入る。
﹁・・・ああ・・・全く・・・判った・・・﹂
クィンの返す言葉からは全く何を話しているのか判らないものの、
それでもそれが良い内容でない事はどこかイラついた声で返事をし
ているクィンの声から推測できる。
﹁判ってる・・・ああ、すぐに出る﹂
ピッとスマフォの通話を切る音がして、どこか苛立ったような表
情浮かべたクィンがベッドに戻ってきた。
﹁・・・クィン?﹂
﹁ショーコ・・・起こしたか?﹂
﹁ううん﹂
ゆっくりと上半身を起こして頭を横に振る翔子に、クィンは近づ
くとそのまま彼女の頭をポンポンと叩いた。
﹁悪いな。仕事だ。すぐに出なくちゃならない﹂
﹁・・大丈夫・・?﹂
﹁ああ、ちょっとしたトラブルだ。ただ、すぐには戻ってこれな
い。悪いが俺が仕事に向かったとマーサに伝えておいてくれ﹂
﹁はい﹂
そういえば彼の仕事はなんなのだろう?
今までクィンに彼の仕事の事を聞いた事はなかったが、今ここで
そんな事を聞いている時間はないだろう。
クィンはすぐに着替えをクローゼットから取り出すとそのまま簡
単にシャワーを浴びるためにバスルームへと歩いていく。
そんな彼を見送ってからベッドサイドに目をやると、時間は朝の
2時半を少し過ぎたところだった。
翔子は周囲を見回して自分の服を探すと、それらは翔子が眠って
422
いた側のベッドサイドに重ねられていた。
畳まれていなかったせいか少し皺になっているが、ただの部屋着
なので少々の皺など問題はない。
翔子は少し重い体をゆっくりと動かして、時間をかけてそれらを
着ていく。
とりあえず部屋着を身につけてから今まで寝ていたベッドのシー
ツを簡単に直していると、バスルームのドアが開いてクィンが出て
きた。
﹁ショーコ、何しているんだ?﹂
﹁何って・・簡単にベッドを直しているんです﹂
﹁このまま寝ていればいいんだぞ?﹂
﹁いいえ・・その、えっと・・とりあえず自分の部屋に戻ります﹂
﹁そうか・・・﹂
なんとなく気恥ずかしくて翔子は少し俯き気味にクィンから視線
を逸らすが、彼はそんな彼女の隣にやってきてそのまま抱きしめた。
﹁クッ、クィンっ・・﹂
﹁遠慮しないでここで眠ってもいいんだぞ?﹂
﹁で、でも・・その着替えは向こうにありますから﹂
﹁ああ、そうだな・・・それに寝すぎてアイリーンが呼びに来た
時にショーコが部屋にいなかったら心配するか?﹂
そう言われてハッと顔をあげると、少しいたずらっぽい笑みを浮
かべたクィンと視線が合う。
確かに朝愛莉が翔子を探しに来た時に、どうしてクィンの部屋に
いたのか聞かれたら大変だ。
まだ体がだるい上に重く感じるから、このまま用意された客室に
戻ってベッドに入ってしまえばそのまま寝てしまうだろう。
そのまま寝すぎてしまうと、確かにクィンの言う通り愛莉が翔子
を起こしにやってくるかもしれない。
﹁ショーコはこのまま午後には帰るんだろう?﹂
﹁はい﹂
423
﹁まぁ、俺も今日はいつ帰ってこれるか判らないから、ここで待
っていてくれとは言えないな﹂
﹁愛莉も疲れていると思います。昨日あんなにはしゃいでいたか
ら・・・﹂
﹁そうだな。アイリーンに負担をかけないようにしてやらないと
な﹂
﹁それより、時間、大丈夫なんですか?﹂
﹁ああ、そろそろ出た方がいいか﹂
名残惜しそうに翔子から離れると、クィンは彼女の頰に手をあて
てその唇にキスを落とす。
それからすぐに部屋を出ていった。
﹃まるで・・・恋人同士、みたい・・・・﹄
甘い雰囲気とクィンの温もりに包まれていたほんの数時間前の事
を思い出す。
たった今の会話も、どこか甘さを含んでいた気がする。
﹃クィン・・・・﹄
それでも、それはこれで終わり。
夢のようだった一夜は終わったのだ。
もしかしたらクィンから連絡があるかもしれない。
もしかしたら、その時にまた翔子に会いたい、と言ってくれるか
もしれない。
翔子はゆっくりと彼と2人で過ごした部屋を見回した。
まだベッドのシーツは少し乱れたままだが、そこだけを見ても昨
晩そこに寝ていたのが2人だとは判らないだろう。
それがなぜか淋しかった。
けれど翔子はそんな自分の気持ちに蓋をして、ベッドルームから
出て隣のリビングルームに移動する。
そこでもまた翔子は周囲を見回して自分の目に焼き付ける。
もしかしたらクィンにとってはよくある行為だったのかもしれな
い。
424
こうやって女性を連れてくる事は珍しい事ではないのかもしれな
い。
それでも、翔子は昨夜の事を全て覚えておきたかった。
﹃ありがとう・・・﹄
素敵な一夜をありがとう。
大切な思い出をくれた事に翔子は感謝する。
﹃さようなら・・・﹄
そして、もう二度と訪れる事がない部屋に別れを告げた。
425
43.︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
426
44.︵前書き︶
﹃﹄は日本語、﹁﹂は英語です。
427
44.
﹁・・・コ? ショーコ?﹂
﹁・・・えっ?﹂
名前を呼ばれてハッと目を開けると、そこには少し心配そうな顔
で翔子を見るブライアンがいた。
﹁ご、ごめんなさい。ちょっと考え事をしてました﹂
つい考え事に没頭してしまい、自分が今カフェにいてブライアン
と顔合わせをしているところだという事をすっかり忘れてしまって
いた。
﹁大丈夫かい?﹂
﹁はい、大丈夫です﹂
﹁ならいいんだけどね。それにしても随分と真剣な顔で考え事を
していたね。やっぱり僕との事を言っておかないといけない相手が
いるんじゃないのかな?﹂
﹁いえ・・・大丈夫です﹂
そんな相手はいませんから、と付け加えると彼はじっと翔子の顔
を見つめた。
﹁僕は詳しい事はケンから聞いていないんだけど、あいつとジュ
リアの事は知っているよ。だから、彼女がらみの事だと思うんだけ
ど﹂
﹁そう・・ですね。全て、というわけではないですけど、ジュリ
アさんを守るため、ですね﹂
﹁そっか・・・全く、あいつは・・・﹂
賢一がどれほどジュリアに固執しているかくらい、翔子も十分承
知している。
﹁ケンはとりあえず週に2回ほどで会ったりしてくれたらいい、
って言ってたけどショーコは大丈夫なのかな? 妹さんがいるんだ
428
ろう?﹂
﹁はい。でもお隣の人が彼女の面倒を見てくれているので、少々
帰宅が遅れるくらいなら大丈夫です﹂
﹁判った。じゃあ、計画をたてていこうか﹂
﹁はい﹂
週に2回会う、という事は決定だそうで、あとは毎週同じ日に会
う事にするのか、それとも週によって変えていくのか、という事に
なってブライアンは同じ日にしたほうがいいんじゃないかと提案し
てきた。
﹁それならお互いの仕事の都合もつけやすいだろう? 例えば僕
は水曜日は比較的自由にできるから、2日のうちの1日は水曜日に
してくれたほうが助かるな﹂
﹁そうですね・・・私の方は2週間に1度妹を病院に連れて行か
なくてはいけないので、その日を外してもらえれば大丈夫です﹂
﹁病院?﹂
﹁はい・・・ちょっと体が弱いんです﹂
﹁そっか・・・判った﹂
はっきりと心臓が悪いのだ、と言った方がよかっただろうか、と
思ったものの翔子としては同情を買うような事はしたくなかった。
ただ、手術がある事は伝えておいた方がいいだろう。
﹁2週間後に手術があるんです。その週は申し訳ないんですが1
回程度にしてもらえると助かります﹂
﹁手術? 大変だね。判った、その辺はなんとでもなるよ。って
か、妹さんが手術だっていうのに男とフラフラしていると、違う意
味で悪い噂がたっちゃうかもしれないからね﹂
苦笑いを浮かべているブライアンの言葉を聞いて、翔子は彼が本
当に賢一から何も聞かされていないのだ、という事に確信を持つ。
もし彼が賢一の計画を聞いていたのであれば、今のようなセリフ
は出ないだろうから、だ。
﹁まぁ、その辺は来週にでも話を詰めればいいかな? あとでケ
429
テキスト
ータイの番号を交換しておこう。そうすればメールもできるだろう
から、何かあれば連絡が取りやすいと思う﹂
﹁そうですね・・・﹂
﹁まずは、ここを出たら一緒に夕飯を食べに行こうか? 車は別
々よりも1台をこの先のモールの駐車場に停めて、僕の車で行こう
と思うんだけど?﹂
﹁判りました﹂
確かに恋人同士が別々の車で移動するのはどうか、と翔子も思う。
おそらくこうして2人で会っているところも、賢一の手によって
写真が撮られている事だろうと翔子は思っている。
口だけの噂だけではなく、きちんとした証拠もなければ信憑性は
低いだろうからだ。
﹁何が食べたい?﹂
﹁特に好き嫌いはないですから、なんでもいいですよ﹂
﹁じゃあ・・・ステーキと、イタリアン。どっちがいいかな?﹂
﹁そうですね・・・ステーキ?﹂
﹁よかった。僕もステーキの方がよかった﹂
ほっと胸をなでおろす仕草をするブライアンを見て翔子は思わず
笑ってしまった。
﹁僕の行きつけの店なんだけど、そこだとステーキだけじゃなく
てロブスターもあるからね。サイドもいろいろあるから楽しみにし
ててくれると嬉しいな﹂
﹁ロブスターもいいですね﹂
﹁そうなんだよ。僕はいっつも決めきれなくって、ハーフサイズ
のステーキとロブスターを頼むんだ﹂
翔子としてはどちらでもよかったのだが、なんとなくブライアン
はステーキの方が好きなのではないか、と思って選んだのだ。
どうやら正解だったようでホッとする。
﹁ショーコはじっくり時間をかけてメニューを選んでくれればい
いよ﹂
430
﹁そうですね。私、レストランのメニューを読むのって好きなん
です﹂
﹁それじゃ、行こうか﹂
﹁はい﹂
翔子は立ち上がったブライアンに続くように、テーブルにおいた
ままだったコーヒーが入ったカップを手にとって彼の後に続いた。
フゥっと大きな溜め息を吐いて車から降りると、翔子はそのまま
愛莉を引き取るためにグェンの家に向かった。
ブライアンが連れて行ってくれたレストランはそれほど格式張っ
た店ではなく、それでも観葉植物や低い壁が配置された半個室と言
った感じの店で、少しざわざわと騒がしいところを除けば料理も美
味しいいいレストランだった。
翔子とブライアンはそこで料理を楽しみながら、これからの事を
相談した。
もちろん料理も楽しんで、少しばかりお互いの立ち位置や個人的
な事を話した。
いつ誰がどんな事を聞いてくるか判らないのだ、そのためには多
少のプライベートな事も話し合っておくべきだというブライアンに
同意したのだ。
ブライアンは話し上手だと思う。
初対面の相手になかなかうまく打ち解ける事ができない翔子でも、
食事が終わる頃には自然な笑みを浮かべる事ができていた。
ただとても心配性だった。
家まで車で付いて行こうか、という彼に大丈夫だと断って帰って
431
きたのだ。
しぶしぶ翔子の言い分を受け入れてくれたものの、そこまで気
を使ってくれなくても、と思ってしまう。
﹁ショーコ﹂
グェンの家のポーチに上がる階段に脚をかけたところで声をかけ
られた。
﹁ジョー? どうしたの?﹂
﹁そろそろショーコが帰ってくる頃だろうと思って待っていたん
だ﹂
そう言われて翔子はスマフォで時間を確認するがまだ9時を過ぎ
たばかりだった。
﹁もうグェンは寝ちゃったの?﹂
﹁まだ起きてるよ。今はアイリーンと一緒にリビングでテレビを
見ている﹂
﹁よかった﹂
もしかしたら起こす事になるのでは、と一瞬心配したがジョーの
言葉でホッとする。
﹁今日は仕事じゃなかったのか?﹂
﹁今日は友達と夕食を一緒にする事になっていたんだけど? グ
ェンにはそう言っておいたんだけど﹂
﹁友達って、男?﹂
﹁えっ・・?﹂
﹁見たんだ﹂
見たって?
翔子はよく判らないと言った表情でポーチに立つジョーを見上げ
る。
﹁ショーコの会社の近くのカフェにいただろう?﹂
﹁どうして・・・﹂
﹁俺、今日は仕事が休みでさ。大学時代の友達と会っていたんだ。
そしたらショーコが誰かを探しているって感じでカフェに入ってき
432
ただろう?﹂ どうやらブライアンと会っていたところをジョーに見られていた
ようだ。
﹁あれ、誰だい?﹂
﹁あれは・・会社で知り合った人よ。ボスの友達なの﹂
﹁仕事、じゃないよな﹂
﹁・・・そうね。仕事じゃないわ﹂
今更ごまかしても無駄だろう、と翔子は本当の事を話す。といっ
ても全てを話すわけではなく、当たり障りのない事だけだが。
﹁付き合っているのか?﹂
﹁いいえ、付き合ってはいないわ﹂
﹁それにしては親密な感じだったよな﹂
﹁そう?﹂
﹁で、そいつと夕飯を食った、ってわけか﹂
﹁そうね﹂
苛ついた声でジョーが問いただしてくるが、それに対して翔子は
どこか冷めたような声で対応する。
そんな彼女の声が更にジョーを苛立たせるが、翔子はそんな事に
気づいていない。
翔子としては落ち着いて話せば、ジョーの頭も冷えて落ち着くだ
ろう、と思ったのだ。
﹁俺がいるのに?﹂
﹁・・・ジョー?﹂
﹁俺がショーコとアイリーンを守ってやるって言ってるのに、ど
うしてあんなヤツと一緒にいるんだ?﹂
﹁どうしてって・・・・﹂
ゆっくりと階段を降りてくるジョーの雰囲気がいつもと違ってお
り、翔子は思わず後ろに後ずさった。
﹁逃げるなよ。アイリーンを迎えにきたんだろう? でもさ、こ
のままここに住めないいんだ。もう隣に帰る必要はないよ﹂
433
﹁ジョー・・・あなた何言って・・・﹂
﹁俺と結婚すればここがショーコとアイリーンの家になる。あの
家はとっとと売ればいい﹂
すっと手を伸ばしてくるジョーの手から逃れるように、翔子は更
に後ろに後ずさった。
﹁俺がショーコの事を愛しているって事は知っているだろう? アイリーンの手術が終わったらすぐに結婚しようか? いや、やっ
ぱりアイリーンが全快して式に出れるようになってからがいいかな
?﹂
﹁ちょっ・・・いやっっ!﹂
ぐっと伸ばされた手に左腕を掴まれた翔子はなんとかジョーから
逃れようとするが彼の腕の力が強すぎてふりほどく事ができない。
﹁俺は寛大な男じゃないからな。浮気は絶対に認めない﹂
﹁浮気って・・・何言ってっっ﹂
浮気も何も自分たちは付き合ってなんかいない、と口に仕掛けた
ものの、いつにないジョーの表情に翔子は言葉を発する事ができな
い。
﹁なんだったら仕事も辞めればいいんじゃないか? 俺の給料だ
と贅沢はさせてやれないけど、それでもショーコとアイリーンくら
いは養っていける﹂
﹁私は仕事を辞める気はないわ﹂
﹁やっぱりショーコのボスと関係しているからか? だけど、俺
と結婚したら浮気は絶対に許さない﹂
﹁ジョー、私はあなたと結婚する気はないわ﹂
﹁何言っているんだ。この前プロポーズしたら、オーケーしただ
ろう?﹂
プロポーズ? と言われて家にやってきた時と愛莉の病室での会
話を思い出した。
けれどあれは彼が考えて欲しいと言っただけで、翔子は承諾した
記憶はない。
434
﹁ジョー、あなたは私に考えてくれ、って言っただけよ﹂
﹁ああ、そうだったかな? でも、考える時間をあげたって答え
は同じだろ?﹂
﹁違うわ。私はあなたに恋愛感情なんて持っていないもの。だか
ら結婚なんてできな−−きゃっ﹂
結婚する意思はない事をハッキリさせようと言葉にした翔子の髪
をジョーがいきなり掴んだ。
435
44.︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
436
45.︵前書き︶
﹃﹄は日本語、﹁﹂は英語です。
437
45.
﹁離してっっ﹂
﹁うるさいっっ! お前は黙って俺のいう事を聞いていればいい
んだっっ﹂
﹁いやっ!﹂
ギリギリと引っ張られた髪が翔子に痛みを与えてくるが、ジョー
が手を離さないのでどうしようもない。
翔子は両手で頭を抑えてなんとか彼から髪を取り戻そうとするの
だが、激昂しているジョーは翔子の言葉に耳を貸さない。
ジョーは翔子の髪を掴んだまま家に向かってポーチへと上がる階
段を上がろうとするが、翔子は髪を引っ張られてバランスが取れな
いので階段に躓いて転んでしまう。
思わず両手を階段についたので顔を直撃する事はなかったが、そ
れで膝と肘をかなり強く打ち付けた。
﹁ジョーッッ!﹂
バタンッッ、とドアが開く音がしてグェンがジョーを呼ぶ声が聞
こえた。
﹁何やっているのっっ!﹂
﹁ショーコを家に連れてきているんだよ。邪魔しないでくれ﹂
﹁そんなに乱暴にしないでっ! ショーコが怪我するわ﹂
﹁乱暴になんかしてないさ。そうだろう、ショーコ?﹂
叱責するグェンに心外だとばかりの口調で返すジョーに、翔子は
痛みで言葉を返す事ができない。
﹁いいからっ、早くショーコを離してあげなさいっっ﹂
玄関から出てきたグェンはそのまま階段までやってくると、ジョ
ーの腕を掴んで翔子の髪から手を離させる。それからまだ転んだま
まの格好の翔子に手を差し出した。
438
顔を上げて差し出された手を受け取った翔子は、困惑したグェン
の顔と目があった。
こんなジョーは初めて見た。
今までも何度か言い合いはした事はあるものの、ここまで激昂し
て翔子に乱暴を働くジョーは見た事がない。
﹁ジョー、あなた、なんて事をしたの?﹂
﹁何もしていないだろう? 俺はただショーコを家の中に入るよ
うに連れてきたんだ﹂
﹁あれは連れてきているなんてもんじゃないわよ。あなたはショ
ーコを無理やり引っ張っていたのよ。一体どうしたの?﹂
グェンは翔子を立たせるとそのままポーチに立っているジョーに
問いただす。
どうにもジョーの反応がいつもと違う事に気づいたグェンは、彼
にそのまま中に入るように言いつける。
﹁ショーコをほっとくのか?﹂
﹁ほっとかないわ。でも怪我しているから手当をしてあげないと
いけないの﹂
﹁ショーコ、大丈夫か?﹂
ふと、今更気づいたと言うようにまだ半分階段にてをついたまま
の格好でいる翔子に、ジョーは心配そうな声をかけてくる。
それが先ほどまでの態度とは全く違っていて、翔子は困惑を隠せ
ないままとりあえず頷いた。
﹁えっ・・・ええ﹂
﹁そっか・・・じゃあ、先に中にはいるよ﹂
﹁ジョー、あなたは部屋に戻っていなさい。あとで話があるから﹂
﹁俺と?﹂
﹁ええ、そうよ。でもその前にショーコの手当をするから、それ
までは部屋で大人しくしているのよ﹂
﹁判った﹂
先ほどまでの態度は一体何だったのか、と言いたくなるような変
439
化に翔子はついていけないが、それでもおとなしく家の中に入って
くれた事にホッと安堵の息を零してそのまま階段へたり込んだ。
怖かったのだ。
あんなジョーなど見た事なかった。
今までも言い合いをした事はあるし、翔子が学生の頃はもっとひ
どい喧嘩もした事がある。
それでもあんな風に一方的な暴力としか言えない事をされた事は
なかった。
少し震えている翔子の肩に手を置いたグェンは、かがみこんで翔
子の顔を覗いてきて思わぬ事を聞いてきた。
﹁ショーコ、警察を呼ぶ?﹂
﹁警察って・・・グェン・・だって﹂
ジョーはグェンの息子なのだ。その息子を警察に突き出してもい
い、とグェンは言っている。
戸惑うような表情を浮かべる翔子に、グェンは真っ直ぐな視線を
向けた。
﹁これはれっきとした暴行よ。あなたが警察を呼んでも文句は言
わないわ﹂
﹁グェン・・・・﹂
﹁とにかく、中に入りなさい。ジョーには部屋に行っているよう
に言ったから﹂
これ以上ジョーに手を出させない、という決意の意思をグェンの
言葉に感じた翔子は小さく頷いて痛む膝と肘を庇いながら彼女の手
に引かれるまま中に入った。
440
リビングの前を通ると、テレビの前で愛莉がうたた寝をしている
のが見えた。
どうやら翔子が待ってくる前に眠ってしまったようだ。
いつもと変わらない愛莉を見て、先ほどのジョーとの事を愛莉に
見られていない事に気づいて翔子はホッとする。
愛莉はジョーをとても慕っているのだ。そんな彼女に先ほどのジ
ョーの姿は見せたくなかった。
翔子はそのままグェンに促されるまま奥へと入り、キッチンの椅
子に座った。
キッチンテーブルについたのを確認して、グェンはバスルームに
置いてある救急箱を手に戻ってくると、早速翔子の傷を見ていく。
﹁擦りむいているだけね・・・でもちょっと泥がついているかも﹂
キッチンペーパーを水で濡らして、それをグェンが軽く擦りむい
た箇所に当てると翔子は思わず小さな声をあげた。
﹁痛かった?﹂
﹁大丈夫・・・ちょっと滲みただけ﹂
﹁そう? でも消毒薬をつける時はもっと滲みるわよ﹂
﹁うぇ・・・判ってるわ・・・﹂
思わず呻き声をあげてしまったが、それでもきちんと消毒してお
かないと治りが遅いだろう事は翔子にも判っているので異論は無い。
それでも思わず構えてしまい、体が硬くなっている事に気づいた
グェンがクスリと笑う。
﹁まったくあなたは・・その辺りは昔から変わってないわね﹂
﹁そりゃ・・誰だって痛いのは苦手でしょ?﹂
﹁そうね﹂
ぐっと歯を噛み締めて呻き声をあげないように我慢している翔子
のために、グェンはできるだけ手早く消毒を済ませると簡単に抗生
物質入りの軟膏をつけてからガーゼを貼り、それから簡単にテープ
で止めると救急の蓋を閉めた。
﹁はい、終わり。今日は濡らさないように気をつけてね﹂
441
﹁ありがとう﹂
手当をしてくれたグェンに翔子が感謝の気持ちを込めて礼を言う
と、彼女はどこか困ったような表情を浮かべて頭を振った。
﹁お礼なんて・・・ごめんなさいね﹂
﹁グェン・・・あなたが謝る事じゃないわ﹂
﹁でも・・・﹂
それでも自分の息子がした事なのだ、グェンが謝るのは仕方ない
だろう、と翔子は思う。
﹁今日のジョーはどうかしていたのよ。いつもだったらあんな事
しないでしょ?﹂
﹁それはそうだけど・・・でも、本当にあの子、どうしたのかし
ら? あんな事するなんて・・・﹂
﹁私もジョーがあんな態度をとったところを見たのは初めてよ﹂
少し疲れたような表情を浮かべたグェンは、大きな溜め息を1つ
吐いてから翔子の前に座った。
﹁今日、出かけてから帰ってきた時はすごく陽気だったのよ。ア
イリーンと2人でジョークを言い合っててね。夕食の時も楽しそう
だったのに・・・﹂
﹁そう・・・私が見た時はあそこまで激昂はしていなかったけど・
・・それでもどこか苛ついているように見えたわね﹂
ジョーと口論をした事は何度もあるけれど、あんな風に一方的に
押し付けるような事を言ってきた事は今までなかったように思える。
と言うより翔子の言葉を全く聞いていなかったように思えるのだ。
﹁あの、ね・・・﹂
﹁なぁに?﹂
﹁さっきジョーと話してて・・その、話が噛み合ってなかったっ
ていうか・・・なんて言えばいいのか判らないんだけど、私の言い
分を全く聞き入れてくれなかったの﹂
だから口論になったのだ、と翔子は考えながら付け足した。
﹁そう・・・あの子、ショーコが帰ってくる30分ほど前から玄
442
関の辺りを行ったり来たりしていたの・・・アイリーンが寝ちゃう
まではリビングでテレビを見ていたんだけどね。でも玄関前でウロ
ウロするからショーコは今夜遅くなるって言ってたって言ったんだ
けど、それでも離れなかったわ﹂
﹁ジョーが?﹂
﹁そう、らしくないでしょ? でもめんどくさいから好きにして
なさい、って言って私はあの子を放ってキッチンでお茶を用意して
いたのよ。ほら、そろそろショーコが帰ってくるかもって、ね﹂
そういえばお茶用意していたんだったわ、と言いながらグェンは
立ち上がるとカウンターに置かれていたカップを手にするとそのま
まテーブルに置いた。
それからコーヒー・メーカーからポットをとってカップに注ぐ。
﹁コーヒー? 珍しいわね、グェンがコーヒーだなんて﹂
﹁ショーコが戻ってきたら多分ジョーもお茶に参加するだろう、
って思ってコーヒーを用意していたんだけど・・・﹂
﹁ああ・・・でも、私としては今はコーヒーの方がいいかも﹂
グェンが出してくれるいつものハーブティーもいいけれど、今は
頭をはっきりさせたいからコーヒーの方がいい、と翔子は思う。
カップを手にしてコーヒーを一口飲むと、ホゥっと小さく息を吐
いた。
それから翔子は顔をあげてグェンを見る。
﹁あのね・・・さっきのジョーとの会話、聞いていた?﹂
﹁いいえ、あなたの悲鳴が聞こえたから慌てて出たら、ジョーが
あなたの髪を掴んで階段を上がろうとしていたのよ﹂
という事は、それまでの話を聞いていないという事だろう。
それなら、と翔子はできるだけ覚えている会話を思い出しながら
グェンに話して聞かせた。
﹁・・そう・・・そんな事を考えてたのね、あの子﹂
﹁あの、ね。だいぶ前にジョーから好きだって言われてたの。私
もジョーの事、嫌いじゃないわ。だけど、私にとって彼はお兄さん
443
なのよ。ずっと頼りになる隣の家に住むお兄さんであって、恋人と
しての好きという感情じゃないの﹂
グェンの事も好きだ。だけど、それはお隣の頼りになるおばさん、
としてであってそれ以上の関係を翔子は望んでいない。
愛莉の事を頼んでいるのにそんな風にしか考えられないのは失礼
かもしれない。
それでも翔子にとってお隣のグェンやジョーの事をを義母や恋人、
ましてや夫などとは思えない。
﹁だから・・・その事をはっきりと言ったんだけど、私の話を全
く聞いてくれなくって・・・﹂
﹁そう・・・・﹂
どこか意気消沈とした雰囲気になったグェンになんと声をかけれ
ばいいのか翔子には判らない。
途方にくれたまま翔子はそのままカップのコーヒーを口に運んだ。
444
45.︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
読者様より誤字脱字報告をいただきましたので訂正しました。
08/12/2016
@
15:08CT
Ed
ited
445
46.︵前書き︶
﹃﹄は日本語、﹁﹂は英語、そして︽︾は電話の声です。
446
46.
そうして暫くお互い黙ったままコーヒーを飲むと、思い切ったよ
うに翔子が口を開いた。
﹁あのね、グェン。もし、その・・・﹂
﹁なにかしら?﹂
﹁あの・・﹂
ジョーの事を考えるとこれ以上お互いが顔をあわせない方がいい
のではないか、と思ってそう口にしようとしたのだが、それをどう
言葉にすればいいのか翔子にはすぐに思いつかない。
﹁だから・・・その、ね。ジョーとグェンに悪いから、愛莉は−
−﹂
﹁アイリーンはうちで面倒見るわよ、今までと同じように、ね﹂
﹁グェン・・・﹂
﹁ジョーの事は気にしないで。大体、アイリーンはこの事を知ら
ないんだから、いきなりうちに来るのを止めた、なんて言われても
戸惑うだけよ?﹂
﹁それは・・・その通りなんだけど・・・﹂
聞い
グェンの言う通り、明日からここには立ち入り禁止、なんて言わ
れて大人しく従うような愛莉ではない。
それどころかどうしてなのかと詰め寄って、詳細を翔子に
てくるだろう。
﹁それに、特に今はアイリーンにはこの事は言わないままでいま
しょう﹂
﹁グェン・・・﹂
﹁2週間後が手術でしょ? その前にあの子のストレスになるよ
うな事は言ったりしたりしない方がいいんじゃないの? だったら
今まで通りの生活を送るのが一番だと思うわ﹂
447
﹁だけど・・・いいの?﹂
E
R
﹁いいからそう言っているんでしょう? 私、これからジョーを
E
R
エマージェンシー・ルームに連れて行こうと思っているの﹂
ドラッグ・スクリーニング
﹁・・・・エマージェンシー・ルーム?﹂
﹁そう。そこで薬物検査をしてもらおうと思って﹂
ドラッグ・スクリーニング
﹁グェン、それって・・・﹂
ドラッグ・スクリーニング
薬物検査は血液を使って体内に薬物があるかどうかを調べるもの
だ。幾つか種類はあるものの大抵の場合、薬物検査といえば6種類
の薬物の検出になる。マリファナ、LSD、METHと言った、ど
こででも手に入れる事ができるものを調べるのだ。
つまり、グェンはジョーがそう言った薬物を使った、と思ってい
るという事になる。
﹁本当にジョーがドラッグに手を出した、って思っているの?﹂
﹁判らないわ・・・だけど、あの変わりようは・・・﹂
﹁グェン・・・﹂
ドラッグ
確かに先ほどのジョーの態度は尋常ではなかった。
けれど、だからと言って彼が違法薬物を使っていたとは考えたく
ないのだ。
﹁念のため、よ。もしかしたらただのストレスかもしれない。だ
けど、ね。もしあの子が本当にそういうものに手をだしていたとし
たら、少しでも早く止めさせたいの﹂
コップ
﹁ジョーが嫌がったとしても?﹂
﹁その時は警察を呼ぶわ﹂
﹁グェン・・・﹂
彼女は本気なのだ。グェンのまっすぐ翔子を見る目を見れば判る。
﹁私はね、今までにもドラッグのせいで人生を破滅させた人たち
を何度も見ているの。私の息子をそんな目に遭わせないためにも、
ここで躊躇っちゃ駄目なのよ﹂
﹁・・・判ったわ﹂
﹁ショーコには嫌な思いをさせてごめんなさいね﹂
448
﹁グェンが謝る事じゃないわ。だから気にしないで﹂
それよりそろそろ愛莉を連れて帰りたい、と言うとグェンは頷い
てから立ち上がる。
翔子も同じように立ち上がると、そのままリビングでうたた寝を
している愛莉のところへ行く。
﹃愛莉、帰るわよ﹄
﹃ん∼∼・・・んぅ﹄
ムニャムニャと口を動かしているだけで、愛莉は目を開ける事も
なくコロンと寝返りを打つ。
それを見て翔子は思わず笑ってしまったが、このままここで寝さ
せるわけにはいかない。
﹃ほら、愛莉。このままグェンのところに泊まるの?﹄
﹃ん∼・・帰る﹄
﹃じゃあ、起きて。じゃないと置いていくわよ﹄
﹃むぅ∼・・・﹄
嫌々ながらもむくっと起き上がると、そのままフラフラしながら
立ち上がると翔子の手を握る。
﹁じゃあ、グェン。ありがとう﹂
﹁いいのよ、気にしないで。じゃあ、また明日ね、アイリーン﹂
﹁はぁい。また明日ね、グェン﹂
小さくバイバイと手を振ると、愛莉は翔子に手を引かれたまま歩
き出す。
翔子はもう一度小さく頭を下げてから愛莉を連れて家に向かった。
449
なんとか愛莉に歯磨きをさせてからベッドに押し込んだ。
目を瞑って小さな寝息を立てているのを確認してから、翔子は愛
莉の部屋のドアを半分だけ閉める。
それから自分の部屋に戻って着替えを用意するとそのままバスル
ームに向かう。
グェンから濡らさないように、と言われていたガーゼの部分はサ
ランラップとテープで覆い、濡らさないようにしてから手にしてシ
ャワーを浴びた。
それだけの事だが、それでも十分気分を落ち着かせてくれた。
翔子はナイトガウンを羽織ったままベッドルームに戻ると、その
ままベッドサイドに腰を下ろす。
それからベッドサイドテーブルにあるアラームクロックに目を向
けるとすでに時刻は11時になろうとしていた。
明日はまた仕事だ。いつも通り6時に起きなければいけない。
判ってはいるものの、眠気はやってこない。
それよりもグェンの事が気にかかる。
彼女は本当にジョーをERに連れて行ったのだろうか?
考えても詮無い事なのだが、それでもどうしても気になってしま
う。
ピロピロピロリン ピロピロピロリン
不意にアラームクロックの横に置いてあるスマフォが鳴った。
翔子が手を伸ばしてみると、そこにはクィンの名前がある。
途端にトクン、と胸の奥が鳴った。
﹁ハロー?﹂
︽ショーコ?︾
﹁はい﹂
︽クィンだ。ちょっと遅いけど、大丈夫かな?︾
﹁はい、起きてましたから大丈夫です﹂
クィンの声は覚えていたのよりも少し低く掠れているような気が
450
する。
︽あれからずっと忙しくて電話もできなかった。悪かったな︾
﹁いいえ、その・・・気にしないでください。仕事ですから仕方
ないです﹂
あれから、と言われて翔子は言葉に詰まってしまった。
彼の言うあれから、というのがあの夜が明けた早朝だったからだ。
翔子は思わず自分の顔が赤くなる事に気づき、電話でよかった、
と思う。
︽アイリーンはどうしてる?︾
﹁元気ですよ。相変わらず生意気な口を利いてます﹂
︽ははっ、それがいいんだよ、彼女は。マーサもすごくいい子だ
って喜んでた。またいつでも連れてこいって言われてる︾
﹁ご迷惑をかけてなかったらいいんですけど・・・﹂
あの朝、クィンが仕事に出かけてしまった、と伝えるとマーサは
いつもの事です、とあっさりと流してくれた。
どうして翔子が伝言を預かったのか、などという無粋な事は聞い
てくる事もなく、ニコニコと前日と同じように翔子と愛莉に朝食を
食べさせ、そのあとは昼前までバックと遊ぶ愛莉を2人でソファー
に座って眺めていたのだ。
︽そんな事ないさ。マーサは今度はいつ連れてくるんだ、ってせ
っついてきているくらいだ︾
﹁そうですか・・・﹂
︽俺も、アイリーンとショーコに会いたい︾
﹁クィン・・・・﹂
会いたい、というクィンの言葉に心臓がドキドキとうるさくなる。
私も、と言いたいけれど、翔子は言葉をぐっと堪えた。
︽だが、そうはいかないみたいだ︾
﹁・・・えっ・・?﹂
︽仕事でカナダに戻らなくちゃいけないんだ︾
﹁カナダ・・ですか?﹂
451
︽そう。俺はカナダ人だからね。アメリカ支社の方の仕事を今は
受け持っているからこっちにいるけど、いずれはカナダに戻る事に
なるんじゃないかな?︾
そんな事も知らなかったんだ、翔子はどこか自嘲じみた笑みを浮
かべる。
翔子が知っているのはクィンという名前だけ、なのだ。それ以外
は先日お邪魔した彼が住んでいる家だけだ。
︽・・・コ? ショーコ?︾
﹁えっ? あっ、はい﹂
︽大丈夫か?︾
彼の事を知らない、という事実に思い当たって、翔子は彼が名前
を呼んでいる事にすぐに気づけなかった。
︽とにかく、仕事の関係で向こうに1か月前後戻らなくちゃいけ
ないんだ︾
﹁1か月、ですか・・・﹂
それが長いのか短いのか翔子にはよく判らない。
︽だから、残念ながらアイリーンの手術の日にそばにいる事はで
きそうにないんだ︾
﹁それは・・仕方ないですよ。仕事の方が大切ですから気にしな
いでください﹂
︽そう言ってもらえると助かるな。その代わり帰ってきたらまた
バックと遊ぶためにうちにきてくれ、って伝えておいてくれないか
?︾
﹁・・喜びますよ、きっと﹂
またクィンの家に連れて行く事があるだろうか?
翔子には判らない。
愛莉の手術が2週間後。それから少しして例のパーティーがある。
そのあと私はどうするのだろうか?
︽マーサも楽しみにしているよ︾
﹁マーサさん、とてもいい方ですね﹂
452
︽そうだな、俺にとってはもう1人の祖母みたいなもんだな︾
というより乳母みたいなもんだ、と笑いながら言うクィンの声に
耳を澄ませる。
︽ああ、悪い。もう遅いからあんまり長話はしない方がいいな︾
﹁いえ・・大丈夫ですよ﹂
︽また電話するよ︾
﹁忙しいんだから気にしないでくださいね﹂
︽愛してる︾
﹁・・・・クィン・・・﹂
思いもよらない言葉に、翔子は彼の名前をつぶやく事しかできな
かった。
︽あの夜、伝えれなかったからな。本当はあの朝、気持ちを伝え
るつもりだった︾
﹁・・・・・﹂
︽ショーコを急かすつもりはないんだ。多分戸惑っているんだろ
うな、って思っているから︾
その通りだ、と翔子は電話を耳に当てたまま頷いた。
そんな彼女の姿は見えないだろうが、彼の言う通り翔子はまだ自
分の中で折り合いをつける事ができていない。
︽できれば前向きに俺と付き合う事を考えてくれないか? もち
ろん、ゆっくり考えてから返事をしてくれたらいい︾
﹁・・・クィン・・・﹂
︽ああ・・・まったく。電話でする会話じゃないな。悪かった︾
焦っているみたいだ、とクィンの苦笑いが電話の向こうから零れ
聞こえる。
﹁いいえ・・・その・・・﹂
︽帰ってきたらすぐに連絡するよ。またうちに来てくれ。もちろ
んアイリーンもだ、バックが待っているからな︾
﹁・・・はい﹂
︽じゃあ、おやすみ︾
453
﹁・・おやすみなさい﹂
切れたスマフォからはプープーという通話が切れた音が聞こえて
くるが、それでも翔子はスマフォを耳に当てたまま彼の声を思い出
していた。
﹃私も・・・﹄
愛してる。
彼の事が好きだ。
けれど、この想いは伝える事ができないのだ。
今の翔子は賢一との契約に縛られている。
それに、と翔子は思う。
クィンは、こんな契約を受け入れた翔子の事をどう思うだろうか?
お金のためならなんでもする女、と思うだろうか?
この契約の事は口外してはならない、と翔子は契約書にサインを
したのだ。
だから。
翔子はいつの間にか頰を流れていた涙に気づかないまま、しばら
くそのままスマフォを耳に押し当てていた。
454
46.︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
読者様より誤字脱字報告をいただきましたので訂正しました。
@
15:10CT
Edited
08/13/2016
455
47.︵前書き︶
﹃﹄は日本語、﹁﹂は英語です。
456
47.
クィンからはその後も週に1−2度の割合で電話がかかってきた。
と言っても、忙しいのか通話時間はせいぜい5分程度だ。
それでも翔子はその時間をとても大切に思っている。
特に愛莉の手術があった夜は、なんとか時間を捻出してくれたの
か30分ほど手術の事やその前後の愛莉の話を聴きたがってくれた。
愛莉は無事に4時間に渡る手術を終え、来週退院の予定だ。
ドクターの話では術後の回復も順調で、家に帰る事になんの問題
もないだろう、との事だ。
とはいえ、今後も定期的な検診は必要だという事ではあるのだが、
それでも順調に回復していると言われて翔子は心底ホッとしたのだ。
愛莉はといえば、術後はベッドの上であまり動かせてもらえない
せいか文句を言っているが、それでもつい先日からリハビリを始め
たおかげで文句の回数も減ってきている。1日2回のリハビリでも
ベッドから出られる事が嬉しいらしい。
翔子は毎日そんな愛莉に会うために仕事の後病院に寄っていた。
もちろんその間もブライアンとは週に2回ほど会っていた。
特に人目につくところへ行くようにと言われて何度か市内でも有
名なレストランに足を運んでおり、その時に数人の会社の中にいる
顔見知りと顔をあわせたせいか、何度か社内でも翔子の顔を見ては
ボソボソと話をしているところを目撃している。
おそらく彼女たちは翔子が賢一と付き合っているのに他の男と一
緒にいる事について、色々と憶測や想像した事を話しているのだろ
う。
それに加えて週に1度は賢一のオフィスにも呼ばれて、一緒にラ
ンチに出かけたりしているのだ。
これで社内で噂にならない筈がなかった。
457
唯一良かったと思える事は、あれ以来家を荒らされる事はない、
という事だろう。
どうやら犯人はみつかったようで、その旨の連絡を警察からもら
っていた。
それだけでも良かった、と翔子はホッと息を吐いていた。
そして、いよいよ今夜は賢一と一緒に例のパーティーに出る事に
なっている。
いつものように賢一が指定したホテルの1室で今夜のパーティー
の準備をする。
部屋には着替えを手伝う女性と翔子に化粧と髪を結ってくれる女
性が待っており、翔子は2人にされるがまま準備をしてもらう。
﹁お綺麗ですよ﹂
﹁ありがとうございます﹂
今夜のために賢一が用意したドレスは、アプリコットカラーと呼
ばれるピンクとオレンジを混ぜ合わせたような色をしており、足首
まである丈の裾の部分はふんわりと広がるようになっている。
V字に開いた胸元には小粒の赤いルビーをハート型に並べられた
ネックレスと、結い上げられた髪にも同色の石を使った髪飾りがつ
けられている。
賢一の話では、懇意にしている宝石店からのレンタルだそうだ。
とはいえ1晩のレンタル料は想像もしたくないくらいの金額だろ
う、と翔子は思っている。
コンコン
足元に差し出されたハイヒールにつま先を差し入れた時、ドアを
ノックする音が聞こえた。
ピープホール
先ほど翔子の髪を結い上げた女性がすぐさまドアに向かって行く
と、覗き穴から外を確認してドアを開ける。 そこには藍色のスー
ツを着た賢一が立っていた。
﹁もう準備できたかな?﹂
﹁はい、丁度仕上がったところです﹂
458
﹁そうなんだ。タイミングよかったみたいだね﹂
部屋に入ってくるなり賢一は翔子の前に立つと、そのまま髪から
ハイヒールまでゆっくりと視線を流すと、満足のいく出来だったの
か大きく頷く。
﹁よく似合うよ﹂
﹁ありがとうございます。賢一さんもとても素敵ですよ﹂
﹁そう思う? だったら成功って事だね﹂
悪戯っぽく笑う賢一はそのまま翔子の手を取る。
﹁じゃあ、後は任せたよ﹂
﹁はい、大丈夫です﹂
﹁彼女が着ていた服はそのままクローゼットに仕舞っといてくれ
ると助かるよ。パーティーの後でここに取りに来るか、もしくはそ
のまま泊まると思うから﹂
﹁判りました。それでは、気をつけて行ってらっしゃいませ﹂
それじゃあ、と言って部屋から出ようとする賢一に手を引かれ、
翔子は支度を手伝ってくれた女性2人に小さく頭を下げる。 その時に小さなバッグ差し出された。
おそらく翔子のスマフォと貴重品が入っているのだろう、と思い
素直に受け取った。
﹁それでは楽しんできてくださいね﹂
﹁もちろん、じゃあ後はよろしくね﹂
翔子の手を持ち上げて2人に見えるようにそっと手の甲にキスを
落としてみせるその姿に、2人はまぁ、と小さな声をあげて嬉しそ
うに笑う。
そんな2人のやり取りを見ながら、翔子は賢一に引かれるまま部
屋を出た。
459
ホテルのから出るとドアボーイの手によって目の前に車のドアが
さっと開けられた。
賢一はその中に翔子を押し込むと、そのままポケットからチップ
を取り出してボーイに渡して翔子の隣に入ってくる。 そのままドアは閉められ、車は2人を乗せてスムースに出発した。
﹃ここから20分くらいだよ﹄
﹃今夜のパーティーは大きいんですよね?﹄
﹃ああ、多分ニュー・イヤー・イブ・パーティーと同じくらいの
規模かな?﹄
﹃それは・・・じゃあ百人以上の人が来るんですね﹄
﹃まぁね、確か三百人ちょっとだって聞いているよ。一応ホスト
の息子が正式に跡を継ぐ、という事を大々的に発表するためのパー
ティーだからね。あちらこちらの方面に顔つなぎをする意味もある
んだ。とは言っても大きな銀行だからどちらかというと家族経営だ
し、父親の方もすぐに跡を譲る訳じゃないんだけどね﹄
さすが賢一が選んだパーティーだけある、と翔子は思った。大手
の銀行家が後継の披露のために開くパーティーであれば、それだけ
でも衆目を集めるだろう。
そして、これは翔子が賢一と一緒に出席する最後のパーティーな
のだ。
﹃よくこのタイミングで、そんなに大きなパーティーを見つけま
したね?﹄
﹃というか、去年からこのパーティーが開かれる事は判っていた
んだ。それに呼ばれるだろう、って事もね。だから、これがあるか
らこの日にケリが付けれるように画策した、って言うべきだね﹄
﹃あぁ・・・だから、わざわざ私を伴って出かける最初のパーテ
460
ィーをあの時期にしたんですね﹄
﹃その通りだよ。まぁ規模が大きくて身元のはっきりした人間が
多数参加するパーティー、という条件で僕は選んだからね。今夜の
出来事は彼らがきちんと覚えてくれると思うよ﹄
﹃そうですか・・・・﹄
﹃あれ? 嫌になった?﹄
﹃・・・いいえ、仕事ですから﹄
﹃そう・・・﹄
これは契約して受けた仕事なのだ、と翔子は自身に言い聞かせる。
仕事だと言い切る翔子の横顔を賢一が見ている事に気づいたが、
彼女はあえてそれに気づいていないふりをして車の進行方向に顔を
向けたままにする。
﹃もちろん、彼女も招待されているよ﹄
﹃彼女って・・ああ、あの人、ですね﹄
﹃そう。ホストとは面識はないんだけど、彼女のためにわざわざ
手を回してあげたんだ。今夜、彼女はホストの友人が連れてくる事
になってる﹄
﹃あの、彼女、まだ諦めていないんですか?﹄
﹃みたいだね。もう日本国内には彼女を相手にするような金持ち
の独身男はいないようだし、海外に手を伸ばそうにも伝手がないか
らそれも無理みたいだな。確かに彼女は会社社長令嬢かもしれない
けど、海外には全く影響力を持たない日本国内のみに通じる程度の
会社だから﹄
だから海外にいて日本事情に疎いだろう、と言う事で賢一がター
ゲットにされているのだろう。
﹃でも会社関係の知り合いがいるから、パーティーに顔を出せて
いるんですよね?﹄
﹃うん、まぁね。一応それなりの規模の会社だからね。けど彼ら
は資材取引での顔見知りらしいから、彼女の親の会社の名前を知っ
ている人は資材取引以外ではいないんじゃないのかな?﹄
461
﹃あぁ、それでいつも連れて来てくれる人がいたんですね﹄
﹃そうそう。こっちにいる間に知り合いに頼んであちこちのパー
ティーに参加していたみたいだけど、そっちの方でも収穫はなかっ
たみたいだから僕を狙っているんだろうなぁ・・・﹄
僕もいい加減ウンザリしているんだ、とボヤく賢一を振り返ると、
その顔は本当に嫌そうに歪んでいる。
﹃そういえばさ。彼女、ジュリアの事を知ったみたいだね﹄
﹃えっ・・それって﹄
﹃僕の本命は君で、彼女は僕の数多い愛人の1人だと思っている
みたいだけどね﹄
﹃大丈夫ですか?﹄
﹃うん、ジュリアは彼女の事に気づいていないし、護衛の数を増
やしておいた。もちろん彼女自身にも見張りはつけてあるから、動
きがどちらにあっても対処できるようにしてある﹄
どこか酷薄な笑みを口元に浮かべる賢一を見て、翔子は小さな溜
め息を零す。
と伝えてあ
彼女、近藤沙也香は全く知らないのだ。今翔子の隣に座っている
男がどれほどジュリアの事を溺愛しているか、を。
迷惑で目障りだ
﹃とりあえずこのパーティーが済んだら、潰す﹄
﹃・・・・﹄
﹃僕の日本の身内から彼女の親に
るんだ。それなのに彼女を止めるために行動する事もなく彼女の好
きにさせている。もうウンザリだ。僕は十分機会を与えた、そう思
わないかな?﹄
﹃そう・・・ですね﹄
どうやら賢一は沙也香個人だけでなく、家そのものを潰すつもり
でいるようだ。
けれど、翔子は賢一をとがめる気には全くなれない。
賢一の言う通り、沙也香はやりすぎたのだ。
﹃でも、だったら無理に今夜パーティーで・・・﹄
462
﹃僕も1度はそう思ったんだけどね。でも彼女にはここまで付き
合わされたんだ。だったら最後まで付き合ってもらおうと思ってい
スケープ・ゴート
るんだ。今後彼女みたいな事を考える人間がでないとも限らないか
らね。今夜生け贄になってもらうよ﹄
沙也香だけなら無理にパーティーで叩きのめす必要はないが、未
来を視野に入れてきっちりと意思表示をする、という事なのだろう。
賢一がそう考えている事を理解しても、翔子としてはやはり可哀
・・
そうな気はしたが、次の賢一の言葉でその同情心はあっという間に
消え去った。
﹃君の家の事も彼女の仕業だよ﹄
﹃・・・えっ?﹄
﹃ペンキ。ようやく裏が取れた。彼女が知人に頼んでやったらし
いよ。君に嫌がらせをしたつもりだったみたいだね﹄
スゥッと頭が冷えた気がして、翔子は視線を賢一に向けた。
彼はゆっくりと翔子を振り返ると、そのまま口元に獰猛としか言
いようのない笑みを浮かべる。
﹃日本の方は既に手を回し始めている。あと1ヶ月もしないうち
に結果は出るよ。翔子、もし君が訴えたいというんであれば、証拠
は全てまとめてあるからいつでもあげる﹄
﹃・・・考えさせてください﹄
﹃うん、ゆっくり考えればいいよ。いつでも連絡をくれれば用意
する﹄
あの日の愛莉の怯えた表情を思い出すと、怒りが込み上げてくる。
けれど、今は愛莉の回復の方が大事だ。愛莉の体調が落ち着いた
ら、改めて考えよう。
﹃今夜は君にはキツイ夜になるかもしれない。覚悟はできている
かい?﹄
﹃キツイ、ですか?﹄
﹃うん、そう。あの女にはどん底を見てもらうつもりだから﹄
﹃・・・覚悟の、上です﹄
463
最初から判っていた事だ。
賢一は翔子を今夜のパーティーの場で貶めるのだ。
翔子だけでなく沙也香の事も貶めるつもりだが、自業自得である
沙也香はともかく、ただ賢一との契約だからというだけで貶められ
る翔子にはキツイものになるだろう。
けれど、賢一はここまできてやめるつもりは全くなかった。
そのせいでどれだけ翔子が傷つこうと、賢一にとって一番大切な
のはジュリアなのだから。
2人はそれ以上話をする事もなく、ただ黙ったまま車が会場に着
くのを待っていた。
464
47.︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
465
48.︵前書き︶
﹃﹄は日本語、﹁﹂は英語です。
466
48.
チアーズ
パーティーもたけなわとなり、もう何度乾杯をしたのか翔子は憶
えていない。
賢一目当てに挨拶にやってくる人たちとにこやかに言葉を交わし
て、彼の隣でにこやかに笑みを浮かべる事にも疲れて少し注意力が
散漫になっている自覚はある。
けれど、先ほどから強い視線を受けている事には気づいていた。
その先にいる人物の見当も付いている。
おそらく隣に立って歓談している賢一も気づいている事だろう。
﹁−−と−−でね﹂
﹁ああ、なるほど−−ですか﹂
﹁そうみたい−−だから−−﹂
﹁では−−ね−−子−−翔子?﹂
賢一に肩を叩かれてハッとして彼を見上げた。
どうやら何かを聞くために名前を呼ばれていたらしいが、話を全
く聞いていなかったので翔子は返事ができなかった。
﹁ごめんなさい。ちょっとボゥッとしてました﹂
﹁大丈夫? 疲れたのかな?﹂
﹁そうじゃなくて、その・・・﹂
どうしても意識が背後から感じる視線に向いてしまって賢一たち
の会話に集中できなかったのだが、そんな事など口にできる筈もな
く翔子は言葉に詰まってしまう。
・・
﹃もしかして、気づいている?﹄
﹃気づいているって・・・視線、の事ですか?﹄
﹃そう、さっきからしつこいよね﹄
﹃すみません、どうしても気になってしまって・・・﹄
言葉に詰まった翔子を見て理解したのか、賢一は彼女の耳元に口
467
を寄せて日本語で話しかけてきた。
﹃いいよいいよ。僕もウザいなって思っていたんだ。まぁそろそ
ろ来るだろうって思っていたからタイミング的にはちょうどいいの
かもしれないね﹄
﹃そう・・ですね。でもこんな風にじっと見られるなんて思って
いませんでしたから﹄
そうなのだ。翔子としては賢一に気づけばすぐにでも声をかけて
くるのではないか、と思っていたのでちょっと拍子抜けしている。 ﹁あらあら、何二人で内緒話をしているのかしら?﹂
﹁二人が仲がいい事は知っているから見せつけなくてもいいぞ?﹂
﹁そうそう、今更だな﹂
賢一は翔子の耳元で日本語を使って話していたから、先ほどまで
一緒に話をしていたメンバーには内緒話にみえたようだ。
﹁いえいえ、もしかしたら彼女が疲れているんじゃないかな、っ
て思って聞いていたんです﹂
﹁すみません、私がボゥッとしていたせいで賢一さんとの会話を
折ってしまって﹂
ぺこり、と頭を下げる翔子に二人の前にいた男は軽く手を振って、
気にするなと言ってくれる。
﹁ついついビジネスの話に熱がはいってしまったようだね﹂
﹁ああ、話が詰まらなければ飽きてしまう。これはこちらのミス
だね﹂
﹁そうよ。こんな可愛いお嬢さんがビジネスの話ばかり聞きたい
筈がないでしょう? もう本当にこの人たちったら仕事の話しか頭
にないんだから﹂
ごめんなさいね、と少し悪戯っぽい笑みを浮かべて謝ってくれる
のは、賢一の会社と取引のある会社社長の妻だった。
﹁いっ、いいえ。こちらこそ、失礼な態度をとりました。本当に
すみません﹂
慌てて翔子も頭を下げて謝るが、目の前の3人は全く翔子の態度
468
を気にしていないようだった。
﹁確かに彼女を放っておいてする話じゃないですね。ではこれか
ら僕は彼女のためにパーティーを楽しむことにします﹂
﹁えっ・・・?﹂
﹁まだ少ししか料理も味わっていないから、何か摘まみに行こう
か? それとも飲み物の方がいいかな?﹂
﹁でっ、でも、まだ話が﹂
﹁気にしないでいいのよ。ビジネスの話ならいつだってできるも
の、ね?﹂
くすくす笑いながら、彼女は翔子たちに行くように促してくれる。
それを見て賢一は翔子の腰に手を回して、そのまま彼女を促して
料理が並んでいるテーブルに向かった。
﹃あっ、あの・・よかったんですか?﹄
﹃ん? ああ、いいんだ。実は僕もあんまり話を聞いてなかった
んだ。だから、ちょうど良かった﹄
﹃それって・・・﹄
﹃うん。君と一緒。どうにも気になってね。一緒にいた人たちの
事もあるから、下手なタイミングで突撃されたらどうしよう、って
心配してたんだ﹄
どうやら賢一は翔子とは違う意味で彼女の事を気にしていたらし
い。
﹃突撃って・・・流石にそれはないんじゃないんですか?﹄
﹃そう思う? 僕はそうは思わないよ。だって、アレがそんなと
ころまで気を回せるとは思えないからね﹄
﹃それは・・・﹄
そう言われると、違う、とは言い切れない部分がある。
今まで2−3回顔を合わせただけだが、賢一の言う通り彼女に空
気が読めるとは思えないのだ。
まぁそのせいで何度も自業自得の状況に陥っているのだ。
﹃それに、ね。今もちゃんと後ろをついてきているよ﹄
469
﹃えっ?﹄
﹃振り返っちゃ駄目だよ。本人はこっちに全く気付かれていない
って思っているんだから﹄
思わず後ろを振り返りそうになった翔子をぎゅっと抱き寄せてか
ら注意する賢一は、端から見れば翔子に睦言を言っているようにし
か見えないだろう。
翔子は視線だけ彼に向けて了承を伝えると、そのまま料理の並ん
でいるテーブルから幾つかの料理を皿に載せる。
﹃賢一さんはお肉が好きでしたっけ?﹄
﹃う∼ん、あっさりしたものの方が嬉しいかな。翔子はお腹が空
いている?﹄
﹃それほどでは・・・着替えのためにホテルに行く前に食べてき
たんです﹄
﹃ああ、なるほどね。僕も来る前に少し食べたからそれほどお腹
は空いてないなぁ。でもあっさりしたものやフルーツくらいなら食
べれるね﹄
そう言われて、翔子はカットフルーツを幾つかとスモークサーモ
ンのマリネ、それに一口大の小さなキッシュを皿に載せてから賢一
に渡す。
それから自分用にも同じものを載せる事にした。
賢一は料理の皿を片方の手に持ち、もう片方の手で翔子を促すよ
うにしてか以上の隅に移動した。
そこには壁に沿って椅子が並べられており、等間隔で小さな丸い
テーブルが置かれている。
﹃そこに座ろうか﹄
﹃はい﹄
賢一はその中でもあまり人が座っていない一角にあるテーブルを
選んで翔子をエスコートする。
翔子はテーブルの上に手にしていた料理を置いてから、促される
ままに椅子に座った。
470
その隣に賢一が同じように料理をテーブルに置いてから座る。
パーティー会場に来てから約2時間ほどの間ずっと立ちっぱなし
だったせいか、座ると途端に脚がつかれた気がして翔子は思わずホ
ゥッと息を吐いた。
﹃疲れた?﹄
﹃そうですね・・・ちょっと足が疲れました﹄
﹃ずっと立ちっぱなしだったからね﹄
そんな会話を交わしながら賢一が飲み物の乗ったトレイを手にし
ているコンパニオンと視線を合わせて頷くと、コンパニオンはすっ
とこちらに近づいてきて飲み物を勧めてくる。
﹁何か飲まれませんか?﹂
﹁そうだね・・・僕には白ワインを。翔子、君はどうする?﹂
﹁私はクラブ・ソーダをお願いします﹂
﹁白ワインはこちらのグラスになります。クラブ・ソーダは少々
お待ちください﹂
﹁お願いします﹂
どうやらコンパニオンが手にしていたトレイには赤と白のワイン
の入ったグラスしかなかったようで、翔子の希望の飲み物を持って
きてくれるらしい。
ちょうど2人が座っている場所のすぐそばにドリンクバーが設置
されていたので、コンパニオンはすぐに戻ってきて翔子に飲み物を
差し出してくれた。
﹁ありがとう﹂
﹁どういたしまして﹂
大きめの氷が入ったグラスを手に翔子は一口飲んでから、すぐに
グラスの3分の1ほどを飲み干す。
どうやら思っていたよりも喉が乾いていたようだ。
賢一はそんな翔子を横目に見ながらも、皿にのったサーモンを口
に運ぶ。
翔子はグラスをテーブルに置くと、皿に乗ったフォークを手にし
471
て一口大にカットされている果物を食べる。
﹃このサーモン、結構いけるよ﹄
﹃そうですか? じゃあ、私も﹄
勧められるままサーモンを口に運ぶと、燻製の風味が口に広がる。
﹃思ったよりも塩辛くないですね﹄
﹃うん。食べやすい塩辛さだ。それにこのキッシュも美味しいよ﹄
ほうれん草とベーコン、それフェタチーズのキッシュを頬張る賢
一は、本当に美味しそうに食べている。
﹃スモークサーモンがあるから白ワインを選んだんだけど・・・
これ、白ワインにも意外と合うね﹄
﹃良かったです﹄
美味しそうに食べてもらえると、選んだ甲斐があるというものだ。
それに美味しそうに食べている賢一に釣られて食べると、同じよ
うに美味しく感じる気がする。
そうやって皿に載せた料理をほとんど食べ終わった頃、すっと誰
かが賢一の隣に腰を下ろした。
翔子が飲んでいたクラブ・ソーダの入ったグラス越しにそちらを
見ると、そこには思った通りの人物が座っている。
﹃お久しぶりですね﹄
にっこりと笑みを浮かべた近藤沙也香は、ニュー・イヤー・イヴ・
パーティーでの事など無かったかのように賢一に触れるほどの位置
に腰を下ろしたが、彼がすっと翔子の方に身体を引くのを見て少し
鼻白んだような表情を浮かべたもののすぐにまた笑みに変える。
﹃何か用かな?﹄
﹃ええ、少しだけお話をしたいんですけど?﹄
﹃僕の方には特にこれといった話はないけど?﹄
﹃大切な事です﹄
きっぱりバッサリと切り捨てるように興味がない、と全身で態度
に表す賢一に臆す事もなく沙也香はこれ見よがしに翔子を見る。
それでも賢一はそんな沙也香の方をそれ以上見る事もなく、立ち
472
上がると翔子に手を差し出して立ち上がらせるとそのまま彼女から
歩き去ろうとする。
﹃賢一さんっっ﹄
﹃悪いけど、僕には君と話すような事は何もない﹄
﹃賢一さんは知っておいた方がいい事ですよっ﹄
﹃今までの事を思うと、君からの話は程度の低いものしかなかっ
たから時間の無駄じゃないかな?﹄
少し小馬鹿にしたような口調の賢一に、沙也香は怯まなかった。
むしろその隣に立っている翔子を見ながら頭を横に振る。
﹃いいえ、知っておいた方がいい事です。だって、あなたの隣に
いる女性の事ですから﹄
﹃翔子の事? 僕は彼女の事だったら君よりもよく知っていると
思うけど?﹄
﹃そうですね。確かに賢一さんだったら色々と知っていると思い
ます。だけど、私はその女があなたに隠している事を知っています﹄
わざとらしく翔子の方を指差しながら、どこか呆れたような表情
を浮かべてみせる沙也香は芝居がかって見えるのだが、本人はうま
く演技をしていると思っているのだろう。
﹁そうかな? 僕はそれなりに彼女とは付き合いが長いからね。
彼女の欠点だって知ってると思うんだけど?﹂
﹁でも全ては知りませんよね?﹂
周囲のパーティー客がこちらをチラチラと視線を寄越してくる中、
賢一は日本語で話していた会話を英語に切り替えた。
沙也香はなぜ急に賢一が英語に切り替えたのか判っていないが、
それでも自分がこれから話す事が周囲の人間にも判るという事は都
合がいい事だと思い英語に切り替える。
賢一が翔子を大切にしている事を忌々しく思っているのだ。
だからこの場で彼女を貶めてやりたいと思っている。
そのためには英語で話をした方が日本語を理解しない周囲のアメ
リカ人たちに伝える事に都合がいいと思ったのだ。
473
﹁その女は尻軽のアバズレです﹂
﹁はっっ?﹂
﹁そんな男癖の悪い女、賢一さんには似合いません﹂
そして沙也香は翔子を指差したまま、にこやかな笑みを浮かべて
きっぱりと言い切った。
474
48.︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
475
49.︵前書き︶
﹃﹄は日本語、﹁﹂は英語です。
476
49.
沙也香の宣言によって、周囲がシンと静まったような気がした。
そんな中、周囲の目は賢一と翔子、それに沙也香の3人に集中し
ている。
﹁それはどういう意味かな? 僕の大事な人を中傷している、っ
て事なのかな?﹂
﹁違いますわ。私は本当の事しか言ってませんわ。だって、私、
自分の目で見たんですもの﹂
﹁見た、とは?﹂
﹁その女、誠実そうな顔をしてなかなか男を侍らせるのが好きみ
たいですわね﹂
あまりにも断定的に宣言する沙也香を前に、賢一はどこか面白い
ものを見たと言わんばかりの笑みを浮かべている。
﹁賢一さんの会社の人にも聞きました。結構噂になっているよう
ですわよ、カ・ノ・ジョ﹂
﹁噂、とは? あいにく僕の耳には全く入ってきていなくてね。
どんな噂がも判らないね﹂
﹁そりゃそうでしょうね。だって、賢一さんがすっごく贔屓して
いるんですもの。彼らだって下手な事は言えないって思って黙って
いるんじゃないんでしょうか?﹂
沙也香は翔子がブライアンと一緒に食事をしているところを見た
のだろうか?
翔子は最近わざと人目につくように出かけていた事を考える。
もちろんそうして出歩いている時に沙也香を見かけたりはしてい
ないのだが、もしかしたら隠れて見ていたのかもしれない。
﹁なるほど・・・﹂
﹁特にこの2−3週間は毎週何日かはその相手と出かけていたみ
477
たいですしね。しかも有名なレストランばっかり。誰かに見られる
かもしれない、って気づかなかったのかしら?﹂
どこかバカにしたような視線を向けられるが、翔子は表情を変え
カ・ノ・ジョ、賢一さんの前ではすっごく真面目で清楚な態
る事もなく沙也香の話を聞いている。
﹁
度でいるじゃないですか。なのに夜のお相手と一緒の時はどこか媚
びるように腕を絡ませて歩いたりしていて、もう、ほんっとうに初
めて見た時はビックリしましたわ。しかも話だけじゃなくって、私
も2回ほど見かけたんです。それですっごく気になったんですの。
だから私、賢一さんを傷つけるような真似をするんじゃないか、っ
心配、という割には鬼の首をとったと言わんばかりの満面の笑
て心配で心配で﹂
みを浮かべているのだが、沙也香はそんな自分の表情には気づいて
いないようだ。
﹁差し出がましいとは思いましたけど、身辺調査する人間を雇い
ましたの﹂
﹁・・・身辺調査?﹂
﹁ええ、私もヒマじゃありませんから、四六時中その女にくっつ
いている事もできませんの。ですから、信頼できる機関に依頼した
んです﹂
身辺調査、と言われて賢一の片方の眉がピクリ、と動いたが目の
前の沙也香は全く気付いていない。
﹁しかも、ですよ。彼女、お相手は1人じゃなかったんですの。
私、ほら、その女が男と一緒にいるところを見たじゃありませんか
? だけど、てっきりその人だけだと思っていたんです。ですけど、
違っていたんですの。もうぅっっ、ほんっとうに私、ビックリしま
したわ。私にはそんな破廉恥な真似、とてもじゃありませんけどで
きませんわ﹂
1人だけじゃなかった、という言葉に翔子は思わずピクリと反応
したが、それを顔に出さないようにキュッと手を握りしめて堪えた。
478
﹁男は複数いるみたいですわね。1人は一緒に食事に出かける相
手。この男とは、お・も・に・夜会っているようですわ。一緒に食
事に出かけてそのまま車で夜の闇の中に溶けていきました。まぁこ
のお相手の事は私も一緒にいるところを見ましたけれど、それはそ
れはとても親密で見ているだけで赤面したほどでしたわね。その上
で、他にもいるようですから、もうどこまで精力的なんだって言い
たいですわね。私にはとてもとても﹂
そんなはしたない真似はできませんわ、と口元を抑えて見せるが、
芝居がかっている事が丸わかりだ。
﹁そうして家に帰ると、今度は他の男に会いに行くんですのよ、
その女。その男は彼女の家の隣に住んでいますの。もう毎日その家
に入り浸っていて、その女は男の妻のように振舞っている、という
噂を耳にしました﹂
呆れたと言わんばかりに頭を左右に振ってから、沙也香は侮蔑の
視線を翔子に向けるが、翔子としてはそれどころではなかった。
﹁彼の事は僕も知っているよ。翔子たちのお隣さんだろう? 彼
女の妹の面倒を見てくれているのがそのお隣さんだ。妹を迎えに行
くために毎日行っていてもおかしくないだろう?﹂
﹁そうですわね・・・でも、私でしたら、いくら妹の面倒を見て
くれている相手だとしても、さすがにキスはしませんけどねぇ・・・
キスなんて、好きな人じゃないとできませんもの・・・﹂
婚約者がいるくせに他の男とキスするなんて破廉恥極まりないで
すわね、と沙也香は少し俯き加減で日本語で翔子と賢一だけに聞こ
えるように付け足す。
それからふと顔をあげて思い出した、というように小さく手を打
った。
﹁そうそう、もう1人忘れてはいけないお相手がいましたわ。そ
の男とは病院で逢引きをしていたようですわね﹂
﹁病院・・・? ああ、彼女の妹が疾患を抱えていてね。月に2
回ほど病院で検査を受けていたんだが、ドクターと間違ったんじゃ
479
ないのかな?﹂
﹁それはないですわ。だって、お相手はいつもスーツをかっちり
と着こなしていた、と聞いておりますから。なかなか高身長のいい
男、らしいですわね。さすが、と申しましょうか・・・まぁ、この
お昼のお相手は妹さんがいたので、日中の数時間だけでしたけど・・
・まぁ、だからと言って夜に会っていないとは限りませんけどね﹂
病院、と言われて翔子は一瞬表情を動かした。
沙也香はそれを見逃すこともなくしっかりと見てから、ニンマリ
と笑みを浮かべた。
翔子はそんな沙也香の表情を目にしたものの、今はそれどころで
はない。
つまり、沙也香は翔子とクィンの事を知っている、と言っている
のだ。
こんな事でクィンに迷惑をかけるような事はしたくない、と思う
ものの、翔子にはどうしていいか判らない。
ブライアンは賢一が見つけてきた翔子のための相手だから、相手
の事でどんな噂が流れようと賢一がなんとかするだろう。
ジョーの事は、翔子にとってはただのお隣さんだ。彼からは好意
を伝えられているものの、それには応えられないと返してある。
確かに数回彼から頰や額にキスを受けた事もあり、1度だけだが
唇にキスをされた事もある。
それでも翔子の事を知っているジョーたちが沙也香の手によって
変な噂を流されてもさほど影響を受ける事はないだろうと言い切る
事ができる。
けれど、だ。
けれど、クィンに関してはそう言いきれないのだ。
翔子が知っているのは彼のクィンという名前だけで、彼の素性な
ど一切知らない。
だからもし沙也香が翔子を痛めつけるために変な噂を流したとし
ても、どうやってそれを嘘だと言って止める事ができるのか全く見
480
当もつかないのだ。
翔子が内心動揺している間も、勝ち誇った笑みを浮かべた沙也香
はそのまま話し続ける。
﹁その女、本当にマメみたいですわね。賢一さんだけじゃなく、
私が知っているだけでもこれだけの男と関係を持っているんですも
の。私みたいな一途な女には、とても真似などできませんわ﹂
沙也香はにっこりと大きな笑みを顔に張り付かせたまま、手に持
っていたバッグの中から4つに折り畳まれた大判の封筒を取り出し
た。
それからゆっくりと賢一の前まで歩み寄ってくると、手にしてい
た封筒を彼に差し出した。
﹁こちらが報告書です。見ていただければ判ると思いますわ﹂
﹁・・・・﹂
満面の笑みを浮かべた沙也香とは相対的に表情を動かす事もなく、
黙って彼女が差し出した封筒を受け取るとゆっくりとした動作で封
を開ける。
中にはタイプされた紙が1枚に、3枚の写真が入っていた。
賢一はまずそこに書かれている調査報告書に目を通す。
と言ってもそこに書いていある事は、沙也香が自慢そうに話して
聞かせてくれた事と全く同じで、それ以上の事は書かれていない。
それから隣に立っている翔子にも見えるように、封筒の中から写
真を取り出した。
まず一番上に会ったのは、ブライアンと翔子がカフェと思しき場
所でコーヒーを飲みながら歓談しているところだった。
それから2枚目は翔子の家の前の通りをジョーに肩を抱かれて歩
いている翔子の姿が写っている。
そして3枚目は病院のカフェと思しき場所で座っている翔子の前
に立ってかがみこんで彼女の額にキスをしているクィンの姿が写っ
ていた。
1枚目と2枚目の相手とはそれなりに面識があった賢一だが、3
481
枚目の写真を見て、おや、と彼の片方の眉が上がった。
﹁翔子、これは誰?﹂
﹁それは・・・﹂
クィンの事をどう説明すればいいのか判らず、翔子は言葉に詰ま
ってしまう。
﹁こっちの男はうちの会社の取引先の相手だね、僕も何度か商談
をした事があるから顔を覚えているよ。こちらは君のお隣さんだ。
何度か君を家に送った時に見た事がある。でも、3枚目の相手は僕
も知らないなぁ﹂
﹁・・・病院で知り合った人です﹂
﹁なるほど、ね﹂
うん、と頷いてから賢一はすっと身体を翔子から離すと、そのま
ま向かい合うように彼女の前に立つ。
﹁何か言いたい事は?﹂
﹁言いたい事・・・ですか?﹂
﹁そう。僕も仕事が忙しいからね。そういつも君と一緒にいられ
た訳じゃない。だから君がフリーの時に何をしているのかなんて、
今まで全く知らなかったよ﹂
つい先ほどまでの温かみのあった瞳は、今はまるで氷のように冷
えた色をたたえている。
それが彼の本当の感情なのかどうか、翔子には判断できない。
元々今夜はここで彼と交わした契約の最後の項目を済ませる事に
なっていたので、翔子としては彼が今のような態度を取る事は予想
していた。
けれど、沙也香が落とした爆弾は翔子が予想したものよりはるか
に大きかったのだ。
まさか彼女がクィンの事まで調べているとは、夢にも思わなかっ
た。
その事を賢一がどのように受け取ったのかも、全く想像ができな
いまま翔子は言葉もなくただ彼の前に立っている。
482
﹁翔子、何か言いたい事は? 別に言い訳でも構わないよ?﹂
﹁・・・・ありません﹂
﹁そう? 僕が君の言い訳を聞くのは今だけだよ?﹂
﹁はい、判っています﹂
﹁そっか・・・﹂
﹁すみませんでした﹂
口調はいつものように軽い感じなのだが、彼の放つ雰囲気が軽さ
を全く感じさせない。
むしろいつにない彼の雰囲気に翔子は完全に飲まれ、ただそれ以
上の言葉を発する事なく頭を下げているだけだ。
﹁ほらね、賢一さん。私が言った通りでしょう? やっぱり育ち
の悪い女は駄目ね。これだから庶民は上流階級の事を全く判ってい
ないのよ﹂
﹁君は黙っていてくれないか﹂
﹁なんだったら私はきちんと始末をつけて差し上げますわ。わざ
わざ賢一さんの手を煩わせる事はないもの﹂
つかつかと歩み寄ってきた沙也香は賢一の言葉に耳を貸そうとも
せず、勝ち誇ったように腰に手を当てて頭を下げている翔子を指差
した。
﹁ほら、あなた。さっさと出て行きなさい。これ以上ここに入ら
れても目障りだわ﹂
﹁黙ってくれ﹂
﹁大丈夫よ、賢一さん。私に任せてくださいな﹂
﹁うるさいっっ﹂
全く賢一の言葉に耳を貸そうとしない沙也香に、賢一は苛立ちの
こもった声を上げた。
まさか賢一が自分に対して声をあげると思っていなかったのか、
沙也香は驚いたように彼を振り返った。
483
484
49.︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
485
50.︵前書き︶
﹃﹄は日本語、﹁﹂は英語です。
486
50.
﹁さっきから1人でベラベラとうるさいな。黙ってくれ、と言っ
ていたのが聞こえなかったのか?﹂
﹁け・・賢一さ、ん・・・私は・・・﹂
﹁これは僕と彼女の問題だ。君が口を出すような事じゃない﹂
﹁それは・・・でも、賢一さんはもうこんな女と話したくないだ
ろうからと思って・・・だったら代わりに私が・・・﹂
﹁大きなお世話だ﹂
ピシャリ、と彼女の言葉をはね返すと、沙也香はそれ以上何もい
う事ができず、ただ賢一を見ているだけだ。
﹁大体僕のために人を雇って彼女の事を調べた、って言ってたけ
どね、本当は﹃自分のため﹄なんだろう? 僕の隣に翔子がいる事
が許せなかった。だから人を雇ってでも彼女のアラを探して、僕の
隣から引き摺り下ろしたかった。そうすれば自分が僕の隣に来る事
ができると思った、違うかな?﹂
﹁そっ、そんな事ないですわっっっ! わっ、私は本当に賢一さ
んの事が心配だったのですから。だって・・・私、賢一さんの事が
好きなんですもの・・・﹂
﹁ふぅん・・・﹂
全身で賢一が好きだ、とアピールする沙也香は、おそらく周囲か
らは彼女が本当に賢一の事を思ってやった事のように見えるだろう。
けれど今までの彼女の行動を知っている賢一には、そこに打算が
ある事が丸見えでしらけてしまう。
﹁信じてくださいっ。私、賢一さんの事しか考えてないですわ。
他の人なんて、全く興味ありませんもの﹂
縋るような視線を向けてくる沙也香に、賢一は鬱陶しいと言わん
ばかりの視線を向ける。
487
﹁以前、君にははっきりと言った事があるよね、男と金にルーズ
な女は僕には必要ない、って﹂
﹁・・・私にそんな事言った事あったかしら? もしかしてその
女に言った事じゃないのかしら?﹂
少し考えるそぶりを見せてから、沙也香はにっこりと笑って言葉
を返す。
﹁なるほどね・・・じゃあ、もう一度ここで言わせてもらおうか。
僕は金と男にルーズな女には全く興味がないんだよ。ただの遊びな
らともかく、一生を共に過ごす相手には貞節を求める。だから、金
のために結婚相手を探すような女とか、相手を選ばずに誰とでもす
ぐに寝るような女には興味はない﹂
﹁それはもちろんよ。だって結婚って神聖なものですもの。そん
な神聖な事をお金なんかで決めちゃ駄目に決まってますわ。それに
相手を一途に思う事ができない人と結婚しても幸せになれませんも
のね﹂
﹁その通りだね﹂
自分の言葉を肯定されて、沙也香は嬉しそうな笑みを浮かべる。
﹁でしたら、その女は駄目ですわ。だって、いろいろな男を侍ら
しているんですもの。結婚する前にその事が判ったのがせめてもの
幸いでしたわね﹂
﹁まぁね。確かに翔子には数人の相手がいたようだ、残念な事だ
けどね﹂
賢一はチラリ、と翔子の方に視線を向けるが、彼女は俯いている
のでどんな表情をしているのか見る事はできない。
﹁翔子、君は先に帰っていいよ。これからの事は、また後で話し
合おうか﹂
﹁・・・はい﹂
翔子はピクリ、と肩を震わせて小さく頷いた。
﹁悪いけど、帰りは送れない。僕はもう少しここにいたいから、
君はタクシーでも使ってくれ﹂
488
﹁あら、だったら賢一さんは今夜は1人になっちゃいますわ﹂
﹁そうだね。でも元々パーティーには1人で参加する事の方が多
かったから大丈夫だ﹂
﹁そうはいきませんわ。小さなパーティーならまだしも、こんな
大きなパーティーに同伴の相手がいないのは不便でしょう? でし
たら私が−−﹂
パートナーとして傍にいると言いたかったのだろう沙也香の言葉
を賢一は手を振る事で遮った。
﹁結構だよ﹂
﹁遠慮する事なんてありませんわ。私は1人でパーティーに来て
いますから﹂
﹁どうやって?﹂
﹁知人に誘われましたの。週末に1人で家にいるのは淋しいだろ
うから、って﹂
﹁ふぅん﹂
このパーティーのホストとは面識のない沙也香が1人でこのパー
ティーに来ている筈がない、と嫌味のつもりでいったのだがどうや
ら彼女には通じていないようだ。
とはいえ、賢一が陰で手を回したところもあるので、あまり強く
はいうつもりはない。
﹁ですので、私では物足らないでしょうが、ぜひとも賢一さんと
一緒に回らせていただきたいですわ﹂
﹁いやいや、それは遠慮するよ。君にはたくさんの相手がいるみ
たいだからね。僕1人ではとても物足りないと思うよ﹂
﹁そっ・・・そんな酷い事言わないでください。私はその女じゃ
ないんですのよ? 私にはそんな相手なんていませんわ。だって私
はずっと賢一さんの事を思っているんですもの﹂
﹁なるほど・・・﹂
賢一は翔子をこの場から逃がしてくれようとしたのだ、と判断し
て頭を下げて下がろうとしたのだが、そこでまた沙也香が口を挟ん
489
できた。
翔子は少しだけ頭をあげて賢一の方を見たが、彼の片方の口の端
が上がっているのを見て、そのままの体勢でこれから起きる事が終
わるまで待つ事にした。
おそらく翔子がこの場にいた方がいいだろう、と判断したからだ。
それは正解だったのだろう。
賢一はチラリ、と視線を翔子に向けて笑みを大きくした。
それからゆっくりとした動作でスーツの内ポケットから招待状と
同じくらいの大きさの封筒を取り出した。
パッと見た感じではかなりの厚さがあるようだが、その中身が何
なのか翔子は全く知らされていない。
今夜賢一が沙也香にトドメを刺す、という話は聞いていたのだが、
その手段までは聞いていないのだ。
賢一に聞いてみようかとも思ったのだが、内容を知っていると上
手く振舞えないような気がして、翔子は聞かない選択をしたのだ。
﹁君は僕に、僕以外の男は全く興味がない、と言うのかな?﹂
﹁興味だなんて・・・そんな言い方は好きじゃありませんわ。そ
れに興味、ではなくて好意です﹂
﹁なるほど・・・で、君は貞節で男を渡り歩いたりはしない、と
?﹂
﹁当たり前です。その女はどうか知りませんけど、私は好きな相
手以外、触れて欲しいとも思いません。ああ、考えるだけで鳥肌が
たちそうですわ﹂
ブルッと震えてから両手で自分を抱きしめる沙也香は、そのまま
縋るような視線を賢一に向ける。
﹁変な事、想像させないでください。ゾッとします﹂
ヴァージン
﹁ふぅん・・・ゾッとする、ねぇ﹂
﹁賢一さん。私は生娘じゃあありませんわ。若くて愚かだった頃・
・・好きな男性ができました。私は全身全霊で彼を愛し・・・求め
られるまま全てを捧げたんです。ですけど彼は私ではなく、私の父
490
の資産が欲しかっただけでした。それに他にも女の人がいたんです。
それが判った私はすぐに彼と別れました。だって、彼は私を愛して
いなかったんですもの。とても恥ずかしい私の黒歴史ですわね・・・
﹂
スッと俯いて左手で口元を抑える沙也香は、自身がした事に対し
て後悔しているように見える。
翔子の目にもそう見えるのだから、彼女の事を全く知らない周囲
の人間には更にそう見えるだろう。
﹁ちなみのその彼は? 日本人?﹂
﹁はい・・・私は日本の学校しか行ってませんから。その・・・
外国の方に対して免疫があまりないみたいで、そのせいで初対面の
外国の方に対してはどうしても恐怖心があるんです。その・・・知
らない外国人に傍に来られるとそれだけで怖いんです﹂
﹁それは大変だね﹂
﹁以前は本当に大変でしたわ。今はその恐怖心をグッと抑えて、
怯えている事を顔に出さないようにする事ができるようになりまし
たが、それでもあまり近くに来られたり触れられると怖いです﹂
﹁本当に?﹂
﹁ええ、本当に﹂
思いきったように顔をあげて、目の前の賢一に勇気を振り絞った
と言わんばかりの笑みを見せるが、彼の顔にはどこか嘲るような笑
みが浮かんでいる事に気づいた沙也香は訝しむ。
何かがおかしい、と沙也香の頭に警鐘が鳴るが、それがなんなの
か彼女には判らないのだ。
それでも今が最後のチャンスだという事は、彼女にも判っている
のだ。
このチャンスを逃せば、もしかしたら二度と賢一とこんな風に言
葉を交わす機会はないかもしれない。
それが判っているから、沙也香は警鐘に気付きながらもこの場か
ら引く事など頭になかった。
491
﹁じゃあ・・・この写真の女性は、だれなんだろうねぇ・・・﹂
ピッと封筒の中から1枚の写真を取り出して、賢一はそれを沙也
香の足元に投げ落とした。
スッと滑るように自分の足元にやってきた写真に目を落とした沙
也香は、今度は驚きのあまりに口元に手を当てた。
なぜならそこに写っているのはベッドの上で喘いでいる沙也香と
彼女の上にのしかかっている男性が写っていたからだ。
﹁その男性は白人かな? じゃあ、こっちはどうだろう?﹂
そう言って賢一は別の写真を沙也香の足元に投げ落とす。
﹁こっちは黒人男性のようだね﹂
それからまた1枚沙也香の足元に投げ落とした。
﹁こっちは・・・メキシコ人、かな? 僕はあんまりどこの国出
身か、っていう事を当てるのが得意じゃないんで言い切れないんだ
けどね。だから、その辺りは君に聞いた方が早いかな?﹂
賢一は軽く肩を竦めてから、次々に封筒の中から写真を取り出し
ては沙也香の足元に投げた。
それらの写真のどれもに写っている沙也香は裸でベッドの上だ。
沙也香は完全に硬直してしまっており、プルプルと震えてもいる。
﹁それね、ニュー・イヤー・イヴのパーティーで、君が絡んで来
てから雇った人間が持ってきてくれたものなんだよ。って事は・・・
・・・・
3ヶ月ちょっと分、って事かな? 彼の報告ではそれ以上の人間と
・・・
一緒にいるところを確認したそうだけど、現場の写真はそれだけし
か手に入らなかった、そうだ﹂
﹁・・・・﹂
・・・
﹁どの写真を見ても、君はとても相手の外国人を怖がっているよ
・・・
うに見えないんだけどねぇ。それに君が見せてくれた翔子のお相手
とやらは3人だけど、君はその倍以上のお相手がいるみたいだね。
僕にはその写真の女性のどこが貞節なのか、教えてもらいたいくら
いだよ﹂
辛辣な賢一の言葉に沙也香は返す言葉もない。
492
﹁なんならこの場にいる男性にそれらの写真を見てもらおうか?
僕は日本人で彼らはアメリカ人だから、もしかしたら文化の違い
で君の事を貞節な女性だっていうかもしれないね?﹂
賢一が周囲を見回しながら言うと、お? と声を上げて数人の男
性が3人に近づこうと動きを見せた。
あざわら
その途端、沙也香はしゃがみこんで、必死になって彼らがやって
くる前に写真を広い集めようとするが、そんな彼女を嘲笑うかのよ
うに賢一は、更に10枚ほどの封筒の中に残っていた写真を沙也香
から少し離れた床にバラまいた。
﹃やめてっっっっっ!﹄
﹁止めて? 今更だろう? 僕は言っただろう、二度と近づくな、
と。それを無視したのは君だよ﹂
必死になって写真を掻き集めたものの、そのうちの数枚は周囲の
男性にしっかりと見られてしまったようで、彼らはヒューっと口笛
を鳴らした。
その上そこかしこから目にした写真の評論している会話も聞こえ
てくる。
は
つくば
﹁ああ、そうそう。他にもこんなのも貰ったよ﹂
床に這い蹲って拾い上げた写真を手に賢一を睨みつけている沙也
香を尻目に、賢一はスーツの内ポケットからスマフォを取り出して
指先で操作すると、そこから悩ましげな声が聞こえてきた。
︽あぁっ、あぁっっ、いいっ、いいっ︾
︽もっとか?︾ ︽もっとよっ︾
︽あんたもセックスが好きだな。これで何回目だよ、あんたに呼
び出されたのって?︾
︽いいじゃないっ・・あぁっ・・・あなたとのセックス、相性っ
っ、いいんだものっ・・んぁあっ︾
パンパンというリズミカルな音の合間に聞こえてくる男女の会話。
そのうちの女性の声は沙也香のものだ。
493
嬌声を上げながらも2人の会話は更に続いており、会話の内容か
らも2人が今までにも関係を持っていた事は明らかだ。
しかも英語でされている会話だから、周囲の人間には会話の内容
もしっかりと伝わっている。
﹁もっと聞きたいかな? 僕が雇った男はなかなか良い腕をして
いたみたいでね、もう4−5つほど君と他の相手の男性との会話や
情事の最中の会話があるんだ﹂
﹃もっ、もうやめてっっっ﹄
﹁止めて? どうして? そういえば君、自分の事を貞節だって
言ってたよねぇ。でも写真やこれを聞く限りとてもじゃないけど貞
節とは縁がない気がするんだけど・・あぁ、もしかして、君は双子
でもう1人がふしだら、なのかな? それとも・・・二重人格、と
か?﹂
必死になっている沙也香はもう英語を使う事もできず日本語で賢
一に話すのだが、賢一は周囲を取り囲んでいるアメリカ人に判るよ
うにわざわざ英語で彼女の言葉も伝えるので、周囲の人間には2人
がどんな会話をしているのかしっかり伝わっている。
﹁ああ、そういえば君、このお相手とはセックスの相性が抜群み
たいだね。だったら、この男性にプロポーズすればいいんじゃない
のかな? きっと知らない僕とよりはうまくやっていけるよ﹂
﹃そっ・・・だって・・彼は・・・﹄
﹁お金がない? それともちゃんとした地位についていない? 別に君の父親の会社の業績は悪くないと思うんだけどなぁ。君がお
金を湯水のように使わなければ、父親からの援助で十分この彼と一
緒にやっていけると思うよ?﹂
賢一は軽く肩を竦めて見せるが、その目は冷たく氷のようだ。
﹃ごっ、ごめんなさいっっ。もっ、もう近づかないからっっ﹄
﹁当たり前だよ。あの時僕ははっきりと言ったよね。謝っても今
更だ。僕の言葉を無視した事をしっかりと後悔する事だな﹂
すべての写真を手に握りしめたまま、沙也香は立ち上がると駆け
494
るように会場を出て行った。
そんな彼女が会場から出て行ったのを見てから、賢一は今度は翔
子の方に目を向けた。
﹁さて・・・翔子とはここでこれ以上話をする気はない。また後
日、話し合いの場を設けたいと思う﹂
﹁はい、それで十分です﹂
﹁じゃあ、君も出ていけばいい﹂
﹁判りました﹂
どこか事務的な会話は、会社の上司と部下の間で交わされている
といってもいい。
翔子が返事をして頭を下げると、賢一はもう興味はないと言わん
ばかりにパーティー会場の中心に向かって歩いていく。
その姿が伏せた目の視界から消えると、翔子は顔を上げて会場か
ら出るためにクルッと体を回した。
あと少しで終わる。
ホッと気が抜けそうになる自分を叱咤しながら周囲を見回した途
端、一瞬翔子の息が止まった。
﹁クィン・・・・﹂
10メートルほど離れた場所に立っている男と目があった気がし
た。
けれど彼は睨みつけるような侮蔑の混じった目で彼女を見てから、
スッと視線を外してそのまま背を向けて会場の他の人の中に入って
いく。
それを何も言えないまま見送った翔子は周囲の好奇の目に晒され
ながらも黙って会場から出て行った。
495
496
50.︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
そしてお気に入り登録、文章評価、ストーリー評価、ありがとう
ございました。とても励みになっています。
497
51.︵前書き︶
気がつくと、お気に入り登録が1000件でした! とても嬉し
いです
m︵︳
︳︶m
という事で、慌てて1日前倒しに更新させていただきます。
本当にありがとうございます。
﹃﹄は日本語、﹁﹂は英語です。
498
51.
会場を出た翔子はそのままエントランスホールに向かわずに、会
場とは反対方向に向かった先にあったトイレに入った。
3つほど並んだ個室の一番奥に入ると、そのままシートに座り込
む。
先ほどの出来事が何度も翔子の頭の中に蘇ってくる。
ハァッと大きく息を吐いて、ゆっくりと顔を両手で覆った。
会場を見回した時に見たクィンの顔を思い出す。
初めて彼と出会った時、どこか翔子をバカにしたような蔑むよう
な視線を向けられた。
あの時はまだ彼の事など全く知らなくて、そんな彼の態度など全
く気にも留めなかった。
けれど、だ。
翔子は彼が優しい事を知っている。間違いを認め謝る事ができる
事を知っている。相手を気遣う事ができる事も知っている。
なにより・・・言葉だけでなく優しく触れる事ができる事も知っ
ているのだ。
そんな彼に向けられた侮蔑の視線は、翔子をこの上なく傷つけた。
﹃判っていた事なのに・・・﹄
愛莉のために賢一との契約を結んだ時に、翔子には彼との契約の
3つ目が終わる時に他者から侮蔑の目で見られるだろう事は判って
いたのだ。
それでも賢一が提示してくれた金額はとても魅力的だった。
あれだけのお金があれば愛莉に手術を受けさせる事ができる、そ
して彼女がある程度回復するまでの医療費も心配する必要がなくな
る、それが判っていたから翔子は賢一からの話を受けて契約したの
だ。
499
それなのに・・・
今、翔子の心は悲鳴をあげている。
まさか今夜、パーティーでクィンと顔を合わせるとは夢にも思っ
ていなかった。
けれど、とも思う。
初めて彼と顔を合わせたのも賢一が翔子を連れて出かけたパーテ
ィーだった事を思えば、何も不思議な事ではないとも思う。
﹃ど・・して・・・﹄
それでも、どうして今夜のパーティーで顔を合わせる事になった
のか、と思わずにいられない。
翔子は気持ちを落ち着けるために、何度か大きく深呼吸をしてか
らようやく顔をあげた。
そこにはまだ哀しみの色はあるものの、先ほどまでの絶望を感じ
させるものは無くなっている。
これは自分が決めた事だから、そのせいでどんな目で見られる事
になっても後悔しない、とあの日賢一と契約した時に決めたのだ。
だから、今ここでその事を嘆いている訳にはいかない。
﹃帰らなくっちゃ・・・﹄
今夜はホテルに泊まる、と言って来ているものの、今の時間なら
ばホテルに戻ってから着替えても十分日付が変わる前に帰れそうだ。
愛莉を迎えに行くのは明日の朝にしても、翔子としては知らない
ホテルの部屋よりも家で眠りたいと思う。
パン、と軽く両手で両頬を叩くと翔子は立ち上がって、トイレの
個室から出た。
ホテルのパーティー会場の近くにある小さなクロークに立ち寄っ
500
て、ここに預けていた小さなバッグとショールを受け取ると、翔子
はそのまま真っ直ぐホテルのエントランスに向かった。
ここから翔子の着替えが置いていあるホテルだとタクシーで15
分ほどだ。
翔子は自動ドアを抜けてロータリーに出ると、タクシーがいない
か周囲を見回した。
もし見つける事ができなかったら、ドアマンにタクシーを頼まな
くてはいけない。
だがそんな心配をするまでもなく、端の方にタクシーが数台並ん
でいるのが見えた。
翔子がゆっくりとタクシーが並んでいる端の方へと歩き出した途
端、背後からどんっと突き飛ばされてそのまま地面に倒れ込んでし
まう。
驚いて顔をあげた翔子の上に誰かが馬乗りになった。
﹁おいっ﹂
﹁何してるっっ﹂
ドアマンらしき男たちの声が聞こえるが、翔子は地面から起き上
がれない。
﹃あんたがっっ! あんたがっっっいなかったらっっ私はっっっ
っっ!﹄
日本語で怒鳴りながら両手を振り回して翔子の身体中を叩いてい
るのは沙也香だった。
顔を叩かれないようにかばいながら見上げると、その先には髪を
振り乱して翔子に馬乗りになった沙也香の姿があった。
﹃あんたがいなかったらっっ私はこんな恥をかかされなかったの
にっっっ! 全部っっっあんたのせいよっっっ!﹄
﹁おいっっやめろっっ﹂
2人の元にやってきたドアマンが沙也香を翔子の上から引き摺り
下ろそうとするが、沙也香は翔子の髪をガシッと掴んだままなので
動かすことができない。
501
﹁何をしているんだ﹂
﹃うるさいっっっっ!!!﹄
振り下ろされる沙也香の腕を掴んだ男の声がして、翔子はその聞
き覚えのある声にハッと息を飲んだ。
﹃離せっっ! 汚い手で触んないでよっっっ!﹄
﹁おい、俺がこの手を掴んでいる間にもう片方の手をなんとかし
ろ﹂
﹁はっ、はいっ﹂
﹃触んなって言ってんのよっっっ! このクソ野郎っっっ!﹄
片方の手を掴まれてそれ以上振り回すことができなくなった沙也
香は日本語で口汚く男を罵るが、男はそんな事に気を留めることも
なくドアマンたちに指示をだす。
沙也香の手から翔子の髪を解き、ドアマン2人によって翔子の上
から体を持ち上げられると、今度は自分を捕まえているドアマンた
ちを蹴ろうと足を振り回す。
翔子が顔から手を避けて見上げると、そこには思った通りクィン
が立っていた。
もしかしたら自分を追いかけてきたのだろうか、と一瞬希望が胸
に浮かんだが、その顔は冷たく凍りついたままだった。
彼はただ翔子を冷たい目で見下ろしたままだった。
﹁おい、警察を呼べ﹂
﹁はっ、判りました﹂
﹁既に呼んであります﹂
ドアマンが畏まって返事をすると、それに呼応するように中から
現れたスーツ姿の男が返事をした。
その男はそのまま翔子の側によると彼女に手を差し伸べて起き上
がる手助けをしてくれた。
翔子はフラフラしながらもなんとか立ち上がると、そのまま簡単
にドレスについた土埃を払う。
﹁あ、ありがとうございました﹂
502
﹁大丈夫ですか?﹂
﹁はい。怪我はしてません﹂
擦り傷くらいならあるものの、それ以上の酷い怪我はしていない。
そんな翔子に口を挟んできたのはクィンだった。
﹁病院に行け﹂
﹁で、でも、たいした怪我はしてませんから・・・﹂
どこか冷たい口調のクィンの声に心を切り裂かれながらも、翔子
はなんでもないように振舞う。
﹁病院に行って診断書を取っておけ。どうせこれから警察がやっ
てくる。その調書と合わせて持っていないと、あいつを暴行罪で訴
えられないぞ?﹂
﹁私は別に訴えようなんて・・・﹂
﹁訴えるかどうかは今すぐ決めなくてもいい。だが、医者の診断
書がなければ認められないぞ? あの女はどう考えても正気じゃな
い。もしかしたらまた手を出してくるかもしれない﹂
﹁それは・・・﹂
ない、と言い切れない。
﹁別に俺は困らないが、もしお前に守る人間がいるのであれば、
念には念を入れておいた方がいい。お前は自分を守れるかもしれな
いが、お前の家族や恋人に危害を加えられたら困るだろう﹂
﹁・・・そう、ですね・・・判りました。助言、ありがとうござ
います﹂
翔子は少し考えてから、小さく頷いた。
翔子とクィンの会話が途切れたタイミングで、先ほどのスーツ姿
の男が声をかけてきた。
﹁警察が来る前に中に入られませんか?﹂
﹁えっ? で、でも・・・﹂
﹁そこのロビーの影にいれば人目につきませんよ。警察の方が来
ればここに出てこなければいけませんが、それまで少し休まれた方
が?﹂
503
﹁そうですね・・・そうさせていただきます﹂
やってきたスーツ姿の男の言葉に甘える事にした翔子は彼に促さ
れるままホテルの中に戻ろうとする。
てっきりクィンも同じように中に入るのかと思ったが、どうやら
彼はこのまま帰るようだ。
それなら、と翔子はここで彼に助けてもらった礼をいう事にした。
﹁助けてくださってありがとうございました。おかげで擦り怪我
で済みました﹂
﹁別に助けるつもりはなかった。ただ、出てきたらあんな状態に
なっていて邪魔だっただけだ﹂
﹁そう・・ですか・・・それでも、おかげで助かりました﹂
﹁そうか・・・﹂
﹁それでは・・・失礼します﹂
﹁・・・1つ、聞かせてくれないか?﹂
彼の前できちんと頭を下げて礼を言うと、そのまま中に移動しよ
うとした翔子にクィンが声をかけてきた。
﹁・・・なんでしょう?﹂
﹁あの男・・・ケンとは婚約していたのか?﹂
﹁・・・・はい﹂
翔子は躊躇ったものの、それでも肯定の返事をした。
契約上の婚約なのだ、と彼に言えたらどんなに気が楽になるだろ
う。
けれど、契約しているから言えないのだ。
この事は一生誰にも言わない事になっているのだ。
﹁なるほど・・・婚約者がいたのに、俺に近づいたのか・・・﹂
﹁それはっ・・・・﹂
﹁今まで何人もの最低な女を見てきたし、付きまとわれたが、こ
こまで最低最悪な女はおまえが初めてだ﹂
﹁ク・・・﹂
下げていた頭を上げて見上げた先には、侮蔑の色しか浮かんでい
504
ないクィンの顔があった。
彼はそれ以上翔子と言葉を交わす事すら我慢できないと言わんば
かりにくるりと踵を返すと、そのままロータリーに並んでいる車の
方に向かっていった。
翔子はぎゅっと唇を噛み締めたまま、黙って彼を見送った。
505
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506
52.︵前書き︶
﹃﹄は日本語、﹁﹂は英語です。
507
52.
﹁大丈夫ですか?﹂
わざわざ翔子のために用意してくれたコーヒーを一口飲んでよう
やくホッと息をついた翔子の前に、先ほどのスーツ姿の男性、ジョ
ナサン・ゴードンが座った。
彼は翔子を席に案内する間に自分がホテルの支配人であると自己
紹介してくれたのだ。
﹁はい、あの・・ありがとうございます﹂
﹁いいえ、あのような事になってしまって、本当に申し訳ござい
ません﹂
﹁そんな、ミスター・ゴードン・・・そちらの責任じゃありませ
んから﹂
﹁いいえ、ホテルの敷地内で起きた事は私の責任管轄内です﹂
ですのでこちらの不始末です、と頭を下げてくる。
﹁警察の方には既に連絡を入れてありますので、すぐにでも事情
聴取にやってくると思います﹂
﹁あの・・・それで彼女は?﹂
﹁あの方ですか? そちらの方はご心配なく。きちんと監視をつ
けて奥の別室の方に待機していただいております﹂
沙也香とこれ以上顔を合わす事はない、とはっきりと言ってくれ
たおかげで翔子は小さく安堵の息を零した。
背後から不意打ちをされたとはいえ、顔を庇った腕の合間から見
た彼女の顔はあまりにも鬼気迫っており、思い出すだけでもゾッと
するほどだった。
あの様子であれば確かにクィンの言う通り、また機会があれば翔
子に危害を与えるかもしれない、と思えてしまう。
﹁ところで、あの方の話している言語がどこの言葉なのか判りま
508
すか?﹂
﹁・・・えっ?﹂
ぼうっと考え事をしていて咄嗟に彼の言っている事を聞き逃して
しまったが、彼はそんな事を木にする事もなくもう一度聞いてくる。
﹁あの方の喋っている言語が何か判るでしょうか? 先ほど彼女
につけている監視の者が、よく判らない言葉を使っていると言って
いたので﹂
﹁ああ・・あれは日本語です﹂
﹁なるほど・・・もしかしたら、と思ったのですが確信がなかっ
たものですから、教えていただいてたすかりました﹂
どうやら沙也香は英語を一切喋らなくなっているようで、ホテル
関係者による事情聴取が進んでいないのだろう。
﹁警察の方には来られたらその旨伝えるようにいたします。それ
と先にこちらに事情聴取に来るようにしたいと思いますが、それで
大丈夫でしょうか? もしもう少し落ち着くための時間が必要であ
るようでしたが、先にあちらの方の方に行ってもらっても構いませ
んが﹂
﹁大丈夫です。ミスター・ゴードンがくださったコーヒーのおか
げで、だいぶ気持ちも落ち着いてきましたから・・・本当にありが
とうございます﹂
﹁それでこの場で事情聴取を受けても構いませんが、ここでは少
し注目を浴びるかもしれませんので、従業員スペースの方に移動し
たいと思いますがいかがでしょう?﹂
﹁・・・いいんですか?﹂
もう既に十分迷惑をかけているというのに、これ以上気を遣わせ
てもいいのだろうか?
そんな不安が顔に出ていたのだろう、ジョナサンはにっこりと笑
コップ
みを浮かべると片方の手を振って木にするなと伝えてくる。
﹁たいした手間ではありませんよ。むしろ警察官は裏からやって
くるので、そちらの方が近いくらいです﹂
509
﹁それだったら・・・﹂
﹁それではすぐに案内しますね﹂
﹁よろしくお願いします﹂
翔子は手に持っていたコーヒーの入ったカップに視線を落とす。
﹁ああ、それはその場に置いてくださって結構です。奥に入った
らまた新しいのをご用意いたしますから﹂
﹁・・本当にありがとうございます﹂
スッと立ち上がるジョナサンに小さく頭を下げた翔子は、そのま
ま言われたようにカップを目の前のテーブルに置くと立ち上がり、
彼に誘導されるままについていった。
警察との事情聴取は本当にあっという間に終わった。
もちろん翔子は被害者、としての事情聴取だから、だった事もあ
るのだろう。
彼女にとって運が良い事に、ドアマン2人が目撃者として証言し
ている上、翔子は自身を守るために顔を庇っていただけで反撃すら
していなかったのだ。
なので15分ほどの質問で全てを終える事ができていた。
そして事情聴取が終わってすぐに現れたジョナサンによって、そ
アサルト
のまま恐縮する翔子は病院へと連れて行かれた。
病院のERで暴行という事ですぐに奥に入れてもらえた事も、翔
X̶レイ
子としてはありがたかった。
すぐにレントゲン、血液検査、尿検査を済ませ、結果は数カ所の
打撲と裂傷だけで、痛み止めを今夜の分だけ貰って帰れる事になっ
た。
ジョナサンは検査が終わるまで待っていると言ってくれたのだが、
510
翔子はそれを丁寧に固辞し帰ってもらっていたので、帰りはタクシ
ーを拾うつもりでERの処置室から出ると、そこには見知った顔が
ボス
待っていた。
﹁専務代理・・・﹂
﹃大丈夫かな?﹄
﹃は・・・はい﹄
どうしてここに、と思うもののそれを聞いて良いのかどうか判ら
ず、翔子は一言返しただけだった。
賢一は翔子の前までやってくると、そのまま彼女の全身に視線を
巡らす。
今の翔子は少し埃まみれになったドレスと、数カ所ガーゼで処置
をされた部分が見えるだけで、それ以上の大きな怪我らしい怪我も
ない。
それを見てホッと小さく息を零した賢一は軽く顎をしゃくった。
﹃ホテルまで送っていくよ﹄
﹃いえ・・・大丈夫です﹄
﹃いいから、言われた通りにするんだ。そのためにここで待って
いたんだから﹄
﹃・・・すみません。ご迷惑をおかけしました﹄
﹃ああ、気にしなくてもいいよ。僕が気になって勝手に来ただけ
だから﹄
ヒラヒラと手を振って気にするな、という彼は普段通りの賢一で
パーティー会場で最後に見た彼とは別人のようだった。
けれど、あれも賢一である事を翔子は知っている。
ERのエントランスから出ると、そこには見慣れた賢一の車で運
転手がドアを開けてその横にたって2人が来るのを待っている。
賢一に促されるまま翔子は先に車に乗り込みその隣に賢一が乗る。
すぐに車は動き出し通りを走り出す。
﹃本当はまた日を改めて、と思っていたんだけど、今回の事で手
511
が取られそうだから今のうちに片付けようと思ってここに来たんだ。
もちろん、翔子の事も心配していたんだよ﹄
﹃・・ありがとうございます﹄
車の流れに乗ってスムースに走り出すと、賢一はすぐに話を切り
出した。
どうやらホテルに着くまでに話を片付けてしまいたいようだ。
﹃まず、悪かったね﹄
﹃別に謝られる事などありませんでした﹄
﹃いやいやいや、まさかあの女があそこで君に危害を加えるとは
思っていなかったよ﹄
﹃・・・見ていたんですか?﹄
﹃いいや、あの女には監視をつけていたからね。そっちからの報
告だよ。監視の方も君を助けるかどうか迷ったらしいんだが、すぐ
にドアマンたちが助けに入ったからそのまま監視を続けたと報告し
てきたよ﹄
それで翔子が病院にいる事を知ったのだ、と納得した。
処置室を出たところで賢一を見て、翔子はなぜ彼が処置室の前に
いたのか不思議に思っていたのだ。
﹃まぁ、あの女の事はこっちに任せてもらえると助かるかな。暴
行罪で訴えるんだろう?﹄
﹃そう・・ですね。まだ少し迷っていますけど・・・﹄
﹃訴えてもらえると色々とこちらの手数が増えて助かるんだけど
ね﹄
﹃そうなんですか?﹄
もう既に十分すぎるほどの手数を持っているのでは、と翔子が少
し頭を傾げると賢一が苦笑いを浮かべる。
﹃ああ、違う違う。僕の方は十分相手を潰すだけのものはある。
けど、これ以上君に害を及ぼさないようにするための抑止力として、
今回の事を手数として使おうと思っているんだ﹄
﹃それでしたら・・・言われる通りにします﹄
512
﹃うん。助かるよ。まぁ、これ以上あの女と顔を合わせるのは嫌
だろうから、こっちで弁護士団を用意するから、今後はそっちと連
絡を取り合ってくれればいいよ﹄
賢一が翔子と一緒にいるところを見られる訳にはいかない事は判
っているので、翔子は素直に頷いた。
翔子とは今夜のパーティーで終わった事になっているのだから。
﹃もしどこかに行くんだったら行き先をここにメールしてくれた
ら、今後はこちらから連絡を入れるようにするからね﹄
﹃どこか・・・ですか?﹄
﹃うん。確かそんな事行っていただろう? 妹ちゃんが良くなっ
たら旅行にでも連れて行くって﹄
﹃あぁ・・そうでしたね﹄
そんな事を言ったような記憶はあるが、あまりよく覚えていない。
けれど、それが今はとてもいいアイデアのような気がする。
このまま家に篭っているよりは、いい気晴らしになるだろう。
そんな事を考えていると、賢一は翔子の前にカードを一枚差し出
した。
﹃それから、これ﹄
﹃これは?﹄
﹃契約遂行報酬だよ。今夜で無事に君と僕の契約は完了した。そ
れから仕事には月曜からもう来なくていいからね。会社の方にはも
う出てこなくてもいいように手を打っておくから気にしなくてもい
い。おそらく月曜日には会社中の人間が知っている事になるだろう
から、そうなると居心地が悪いだろう?﹄
﹃・・・ありがとうございます﹄
﹃気にしなくていいよ。この程度の事しか僕は表立ってしてあげ
られないからね﹄
﹃いいえ・・・十分です﹄
﹃・・・そっか﹄
賢一は十分翔子にしてくれた。
513
契約だというのに、色々と気を使ってくれていた事を翔子は十分
知っている。
翔子はたった今賢一からもらったばかりのカードをバッグにしま
うと、彼の方に向き直った。
﹃ありがとうございます﹄
ボス
﹃お礼をいうのは僕の方だと思うけど?﹄
﹃いいえ。もしあの時、専務代理が話を持ちかけてくれなかった
ら、私は愛莉に十分な医療を受けさせる事ができませんでした。本
当にありがたいと思っています﹄
賢一が提示した金額は破格だった。
契約書にサインした時点で翔子に渡された金額は100万ドル、
そして契約遂行報奨金が50万ドルの合計150万ドルが彼とのこ
の数ヶ月の契約のために支払われたのだ。
既に最初に受け取ったお金の半分以上は愛莉の検診と手術に消え
ており、残りのお金で今後の検診やさらなる治療を賄うつもりだ。
翔子がもう1度頭を下げて礼を言うと、賢一は少し迷ってから声
をかけてきた。
﹃翔子﹄
﹃はい?﹄
﹃後悔、していないかな?﹄
﹃・・・いいえ﹄
﹃本当に?﹄
﹃はい﹄
たった1人の身内である愛莉のためにした事だ、後悔する筈がな
い。
翔子は口元に笑みを浮かべて頷いてみせると、そのまま前を向い
た。
そんな彼女を困惑した顔で賢一が見ていた事に彼女は気づかなか
った。
514
515
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53.︵前書き︶
﹃﹄は日本語、﹁﹂は英語です。
517
53.
ノックをして部屋に入ると、そこには空っぽのベッドがあるだけ
で愛莉はいなかった。
バ
あれ、と思いながら翔子はふと思いついて窓に近寄ってカーテン
を開けた。
ーン
そのまま窓の外を見ると、丁度愛莉が仔犬たちに囲まれながら納
屋に向かって歩いているところだった。
仔犬といってもラブラドールの生後6ヶ月くらいなので大きさ的
には既に中型犬くらいまで育っている。そんな仔犬たちが年齢より
小さい愛莉と一緒にいると成犬に見えてしまう。
仔犬たち4匹に囲まれている愛莉は本当に嬉しそうで、両隣を歩
いている仔犬たちの背中を撫でながら足取りも軽い。
彼女の軽やかな足取りはほんの数ヶ月前までの愛莉からは想像が
できないものだが、そんな彼女を見る事ができている今に翔子は本
当に感謝している。
今、翔子と愛莉がいるのはテキサス州の南部にある小さな田舎町
だ。
大学時代の翔子の親友が結婚してこの地に引っ越しており、今2
人は彼女一家の家に居候として住ませてもらっている。
当初は牧場の近くにアパートを借りるつもりだったのだが、翔子
の親友であるシンディーから強く反対を受け、翔子以外にも愛莉を
見る人間がいるだろう、とゴリ押しされて彼女の家に住み着いてい
る。
初めのうちは愛莉が人見知りをするのではないかと心配したもの
の、彼女はあっという間にシンディーたちに溶け込む事ができ、短
い時間だが毎日彼女たちの牧場の手伝いをさせてもらっている。
翔子としては愛莉が牧場の仕事をする事を心配していたのだが、
518
引っ越すにあたって訪れた病院のドクターは、あまり激しく動かな
いのであればいいリハビリになるだろう、と判断したので心配しな
がらもとりあえず愛莉のしたいようにさせている。
そうして気がつくと、翔子と愛莉がこの牧場にやってきて既に2
ヶ月が過ぎようとしていた。
手術後の愛莉の入院は約4週間で、そのあとは暫く自宅で療養す
るつもりだった。
仕事の方も元々愛莉が退院する前に辞める事になっていたので、
パーティーに参加した次の週末からは家にいるつもりだったのだが、
結局はその前に行くのを辞めてしまった。
その事に疑問を持った愛莉には、会社のボスの好意で一足先にや
めさせてもらえたと説明した。
完全に納得している訳ではなかったようだが、それでも愛莉はそ
れ以上その事を尋ねる事もなく翔子がそばにいる事を喜んでくれた。
翔子が会社に行かなくなってから愛莉が退院するまでの2週間の
間、2人はこれからどうするかを話し合ったのだ。
退院してからそのまま家で療養する、暫く療養してからどこかに
ちょっとした旅行に出かける、それとも、療養を兼ねてどこかの町
で暫く暮らす。
ちょうどそんな話を愛莉の病室でしている時、シンディーから電
話がかかってきたのだ。
シンディーはいつになったらテキサスに来るのか、と聞いてきた
のでそれならテキサスに行こう、と言う話になったのだ。
愛莉はテキサスでカウボーイの真似事ができると言って大喜びで、
おまけに小さな赤ちゃんと遊ぶ事もできると聞いて更に喜んだ。
とはいえ、退院してすぐに出かけるわけには行かないので、愛莉
が退院してから1ヶ月後に行く事に決まったのだ。
そしてその帰りに翔子はテキサスに行く事を伝えるためにグェン
の家に寄る事にした。
519
3日ぶりに立ち寄ったグェンの家は、いつもより静かな雰囲気だ
った。
﹁あら、久しぶりね、ショーコ﹂
﹁久しぶり、グェン﹂
﹁アイリーンの調子はどう?﹂
﹁調子はいいみたいね。その代わり退屈していてベッドでじっと
できないって騒いでいるわ﹂
﹁そう、よかったわ﹂
嬉しそうに顔を綻ばすグェンに勧められるまま、翔子はキッチン
のダイニングに座る。
もう時間的には夕食を食べている頃なのだが、ベンはアルバイト
があるからいつも帰りは9時をすぎてしまう。
そしてジョーは、今は家にいない。
だからグェンはいつも早い時間に夕食を食べてしまうと言ってい
た。
﹁ショーコは夕食を食べたの?﹂
﹁病院のカフェテリアで買って愛莉と一緒に食べたわ。あんまり
美味しくないけど、愛莉1人で食べさせるのも可哀そうだから、仕
方ないわね﹂
﹁そうね。そうじゃなくても病院だから好きなものも食べられな
いものね﹂
クスっと笑いながら、グェンはハーブティーの入ったマグカップ
を翔子の前に置くと、自分の分とクッキーの乗った小皿をテーブル
に置いて翔子の正面に席に座った。
﹁私も最近はテレビの前に持って行って食べているもの﹂
520
﹁グェン・・・・﹂
ドラッグ・スクリーニング
あの一件の後、グェンは本当に彼をERに連れて行って、そのま
ま薬物検査をしてもらったのだ。
そして恐れていた通り、彼からは陽性反応が出てしまった。
その場でグェンは警察を呼ぶ事に同意して、その上で彼を矯正す
るためのリハビリ施設へと行くための手続きをした。
ジョーの職場には事実を話してリハビリに行っている間の1ヶ月
間を休職扱いにしてもらう事ができた、とホッとして話してくれた
事を翔子は覚えている。
今回は初犯という事もあり、リハビリに行く事に同意したという
事も加わって、職場をクビにならずに済んだのだ。もちろんそこに
は普段のジョーの勤勉な職務態度も加味されている。
﹁昨日、ジョーに会いに行ってきたの﹂
﹁そう? どうだった? 元気にしていた?﹂
﹁ええ、そうね・・・なんだかスッキリしたって感じだったわよ。
ショーコにもよろしく伝えて欲しいって言ってたわ﹂
﹁そう・・・良かった﹂
翔子は本心からそう思って頷いた。
薬物に対して免疫のなかったからこそ、あの時のジョーの行動は
異常だったのだ、と翔子は思っている。
もちろん薬物を使用していようがしてなかろうが、あのような行
動は許される事ではない。
それでも今まで一度も暴力を奮った事がなかったジョーの豹変ぶ
りは、本当に翔子にはショックだったのだ。
﹁それで・・・ね。予定では再来週には家に戻ってくるそうよ﹂
﹁良かったわね。これで寂しくなくなるわね﹂
﹁ショーコ、その・・いいの?﹂
﹁何が?﹂
﹁もしショーコが嫌であれば、あの子にはどこかアパートでも借
りて家を出てもらう事もできるのよ?﹂
521
﹁グェン・・・ダメよ、そんな事は。あれはジョーの責任じゃな
いわ﹂
パーティーの翌日に、翔子はグェンにジョーが薬物に手を出した
のは、沙也香が仕組んだ事だった事を伝えたのだ。
つまり、翔子たちがいなければジョーは薬に手を出す事はなかっ
た、と謝るために彼女の元に行って告白したのだが、それでも薬物
に手を出すと決めたのはジョーの責任だ、と言って翔子をその場で
許してくれたのだ。
だから、グェンが気にする事ではない、と翔子は思う。
﹁でも・・・﹂
﹁言ったでしょ? あれはジョーだけの責任じゃないって・・・
むしろ私の方に責任があるのよ﹂
﹁そんな事はないわ﹂
﹁あるのよ。だから、ジョーには気にせずに家に戻って欲しいっ
て伝えて欲しいわ。それにね、実は愛莉と話したんだけど、あの子
が退院してから1ヶ月は家で療養するけど、そのあとでテキサスに
しばらく行こうと思っているの﹂
﹁テキサス?﹂
思いもしない翔子の言葉に、グェンは頭を傾げる。
﹁そう、ほら私の親友だったシンディーを覚えている? 彼女、
結婚してテキサスに行ったでしょ? 丁度今日愛莉と話をしている
時に彼女から電話がかかってきてね。どこかで療養しようと思って
いる、って言ったらテキサスに来い、って言い出しちゃって﹂
﹁なるほどね。きっとアイリーンの方が乗り気なのね﹂
﹁そのとおりよ・・もう、グェンにはお見通しね﹂
くすくす笑いながら頷くと、グェンも同じようにくすくすと笑う。
けれど、翔子はすぐに笑いを引っ込めてから真面目な顔をグェン
に向けた。
﹁それと、ね。もう1つ話があるの﹂
﹁話が?﹂
522
不意に真面目な顔になった翔子をみてグェンは眉間にシワをよせ
るが、頷く彼女の口調が真剣な事から深刻な話なのだろう悟った。
﹁あの、ね・・・まだ愛莉とはちゃんと話し合っていないんだけ
ど・・・﹂
うち
﹁なぁに?﹂
﹁家を売ろうと思っているの﹂
﹁ショーコ・・・・﹂
思ってもみなかった翔子の言葉に、グェンは彼女の名前を呼ぶ以
外できなかった。
﹁愛莉は心臓が悪くて手術をしたんだけど、それで・・・もう少
し空気のいいところに住んだ方がいいだろうって思って・・・気管
支が弱いわけじゃないんだけど、咳き込む事が多いと心臓に負担が
かかるんだって言われたわ﹂
﹁それは・・・﹂
﹁田舎に引っ越そうと思っているの。ほら物価もやすいじゃない
? それに、ここを売ればある程度のまとまったお金もできるから・
・・だから、田舎に引っ越しても十分生活できると思うし・・・﹂
﹁もしかして、お金が必要なの?﹂
﹁・・・それもあるわ。でも、一番は愛莉のためよ。ここにいる
とどうしても心臓に負担がかかるだろう、って言われたの。もう少
し空気がきれいなところだと楽だろうって、言われた事もあるのよ﹂
お金が必要、というわけではない。
けれど、どうやって翔子が愛莉の手術代やその他の医療費を支払
ったのかを、愛莉やグェンには知られたくなかったのだ。
それにこれ以上この街にいると、そのうち2人の耳に翔子と賢一
の婚約と破棄の噂が入るかもしれない、とも思ったのだ。
契約だった、と正直に言えるのであればまだしも、それは口外し
ない約束になっている。
そして沙也香の事もある。
おそらくこれ以上手を出す事はないだろう、と賢一が寄越した弁
523
護士に言われたものの安心はできない。
ありがたい事に賢一は、もし翔子が家を売るのであれば手を貸す
と言ってくれている。
まぁ賢一本人が手を貸すというよりは、彼の代理人である弁護士
たちが手を貸してくれるのだろうが。
﹁ショーコ・・・・﹂
﹁愛莉が退院するまでに決めようと思っているの。もしあの子が
いい、と言ってくれたら売るつもりよ﹂
﹁うちに来て一緒に住んでもいいのよ?﹂
﹁それは、ね・・・無理だってグェンも判っているでしょう? 大丈夫よ。それもあってテキサスに行こうと思っているの。シンデ
ィーの住んでいる街は田舎なんですって。でも空気がきれいだって
言っていたわ。それにテキサスに住むかどうかは別として、愛莉に
も気分転換をしてもらいたいのよ﹂
﹁そう・・・ね。病気が判ってからはずっと病院か家の中、だっ
たものね。あの子も少しは知らない土地でのんびりするのもいいか
もしれないわ・・・﹂
そっと手を伸ばしてくるグェンの手に自分の手を重ねて、翔子は
キュッとその手を握った。
﹁グェンには本当に感謝しているの﹂
﹁こっちこそ・・・私にとってアイリーンは末娘か孫娘みたいな
ものだったわ。本当に家族だって思っているのよ﹂
﹁私たちも、よ。私と愛莉にとってグェンはとても大切なお隣さ
んで、それ以上の存在なの﹂
それだけは変わらない、その思いを込めて翔子は彼女の手をもう
一度キュッと握りしめた。
524
525
53.︵後書き︶
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526
54.︵前書き︶
﹃﹄は日本語、﹁﹂は英語です。
527
54.
バーン
翔子は愛莉が無事に納屋に入ったところまで見届けてから、部屋
を出て階段を下りてそのままキッチンに向かった。
キッチンからはベーコンを焼く香りとオーブンでビスケットを焼
く香りが通路にまで漂ってきていた。
ベーコンを焼いているのはシンディー、ビスケットをオーブンか
ら取り出しているのはシンディーの義母であるシャスタだった。
﹁おはようございます﹂
﹁おはよう、ショーコ﹂
バーン
﹁今日は少しゆっくりだったのね? さっきアイリーンは外に出
て行ったわよ?﹂
﹁部屋から愛莉が納屋に入ったのを見たわ﹂
﹁今朝からは、子牛のエサやりを手伝わせてもらうみたいね﹂
くすくす笑いながら、シャスタが今日の愛莉の仕事の内容を教え
てくれた。
うち
昨夜翔子も愛莉に寝る前に聞いたのだが、内緒、としか教えても
らえなかったのだ。
﹁子牛、ですか?﹂
﹁大丈夫よ、そんなに心配しなくっても。ちゃんと家の連中が側
にいて、一緒に子牛の面倒見てくれてる筈だから﹂
片方の眉を上げてジロリ、と翔子を見るシャスタにシンディーは
笑い声をあげた。
﹁仕方ないわよ、シャスタ。ショーコはアイリーンが心配なんだ
もの。手術してからまだ4ヶ月くらいしか経ってないものね。心配
なのは仕方ないわ﹂
﹁それは・・まぁそうね、仕方ないわね﹂
﹁そうそう、それよりそろそろ朝ごはんができるわ。先に食べる
528
? それともアイリーンが戻ってくるのを待ってから食べる?﹂
﹁そうね・・・待って食べるって言いたいけど、今日は愛莉を病
バーン
院に連れて行く日だからあんまりのんびりしている時間はないのよ
ね。だから、私もちょっと納屋に行って愛莉を連れてくるわ﹂
翔子は少しだけ考えてから、シンディーたちに答える。
昨日の内に愛莉にも伝えてあったのだが、どうやら彼女は自分の
したい事を優先したようだ。
﹁ああ、そう言えばそうだったわね﹂
﹁具合はどうなの?﹂
﹁調子は良さそうですね。痛みももう殆どないみたいだし、息切
れも少なくなってきているって言ってました。それに顔色も良くな
っているので、もう少ししたら定期検診も2週間に1度から1ヶ月
に1度に減らす事ができるかもしれないって前回いわれたので、運
が良ければ今日病院に行ったら次は来月まで行かなくてもいいかも﹂
﹁あら? もしそうだったら、今夜はお祝いね﹂
嬉しそうなシンディーの言葉に、翔子も笑みを浮かべて頷いた。
﹁定期検診が月に1度になったら、そろそろ本格的に住む場所を
考えようと思っているんだけど、その辺も愛莉と相談してからにな
ると思います﹂
﹁無理に出て行く事はないのよ? ここでよければいつまでもい
てくれていいわ﹂
﹁そうよ。もうショーコもアイリーンもうちの家族なんだから﹂
﹁ありがとうございます﹂
家族、と言ってもらえて嬉しい。
翔子は嬉しそうな笑みを浮かべるが、それでもそれに甘んじるつ
もりはなかった。
自分だけで決めるわけにはいかないのだ。愛莉のためにも彼女の
考えを聞く必要がある。
﹁そういえば、カリフォルニアの家は売れたの?﹂
ふと思い出したようにシンディーが翔子たちが住んでいた家の事
529
を聞いてきた。
﹁ああ・・・1ヶ月ほどは売りにだしていたんだけど、いい買い
手が現れなくって・・・それに急いで売る必要もないだろうから、
暫くは貸し家にしておく方がいいんじゃないか、って言われたの﹂
﹁でも貸すにしてもすぐには借り手は見つからないんじゃないの
?﹂
﹁ううん、そっちは大丈夫。もう既に人が入っているみたい﹂
既に貸している、と聞いてシンディーはびっくりしたような表情
をする。
﹁ほら、前に勤めていた会社が社員用に借りてくれたの。あの家
から車で20分とかからないから、丁度いいって言ってくれて﹂
﹁なるほどね。そういうところに貸せば荒らされる事もないわね﹂
﹁そうそう。元々そういう可能性もあったから、家具や大きめの
電化製品は家に残したままにしていたから、それも丁度良かったみ
たい﹂
愛莉と翔子の個人的な物は貸し倉庫に箱に入れて片付けてある。
結局愛莉が売っていいと言ってすぐに翔子は沙也香の件で連絡を
とっていた弁護士に相談したところ、とりあえず売りに出すが売れ
ない場合を考えて貸す事も視野に入れた方がいいと言われたのだ。
その時のために必要出ない家具や家電は家に残したままにした。
それに売るとしても、その前にどこに住むかを決めておいた方が
税金対策としてもいいだろう、と言われた。
家を売れば当然税金が発生するが、売ってから6ヶ月以内に新し
い住居用の家を買えば売り上げを相殺して余った部分にだけ税金対
象となるので、住む場所を決めてからの方が新しい家を買うまでに
時間がかかった時に楽だろうと言われたのだ。
﹁まぁ、とりあえず愛莉を迎えに行ってくるわ﹂
スパチュラ
﹁あっ、私も一緒に行っていい? ロジャーと一緒に朝ごはんを
食べたいから﹂
手に持っていたフライパン返しをさっさとシャスタに手渡すと、
530
シンディーは翔子の腕をとってキッチンを出る。
﹁・・・良かったの?﹂
﹁大丈夫。いつもの事よ﹂
じろり、とシャスタがシンディーを見ていた事に気づいて訪ねた
のだが、彼女にとってはそれもいつもの事のようだ。
バーン
思わず苦笑を浮かべてしまったが、それでも腕は彼女に掴まれた
ままなのでそのままの勢いで納屋に向かって歩いていく。
﹁・・・カリフォルニアに帰るの?﹂
﹁えっ? あぁ・・・判らない。まだどうしようって考えてる﹂
﹁このままテキサスにいればいいじゃない? うちじゃあ肩身が
狭いって言うんだったら、病院のある町に小さな家を買ってもいい
んだし﹂
﹁そうね・・・でも、もしかしたら日本に帰るかもしれない﹂
﹁えっ? どうして?﹂
﹁私も愛莉も元々は日本に住んでいたから。まだ愛莉とはちゃん
と話をしていないけど、もし愛莉が日本の方がいいって言ったらそ
の事も視野に入れて考えるつもり﹂
まさか翔子が日本に戻る事を考えているとは夢にも思っていなか
ったシンディーは、その場で立ち止まってびっくりしたような顔を
彼女に向けた。
こっち
﹁まだ決めたわけじゃないんでしょ?﹂
﹁うん、まだね。まぁ暫くはアメリカにいるわよ。まだまだ愛莉
は病院に通わなくちゃいけないもの。だから家は買わないわ。どこ
ここ
に住むにしても暫くは借家住まいね﹂
﹁じゃあ、テキサスに家を借りて住むかもしれない?﹂
﹁そうね、それもアリかな?﹂
愛莉はここに来てから本当に生き生きと生活をしている。
たくさんの動物に囲まれて、やった事がない事にチャレンジさせ
てもらって、本当に楽しそうだ。
だから、シンディーが言うようにこのままここに暫く腰を下ろし
531
てもいいと思っている。
﹁でも・・・いいの、帰らなくて?﹂
﹁帰るって、カリフォルニア?﹂
﹁うん﹂
少し困ったような顔で聞いてくるシンディーに、翔子は口元に薄
く笑みを浮かべて頷いた。
﹁やっぱりちゃんと説明した方が・・・﹂
﹁駄目よ。言ったでしょ? 本当はあなたにだって言っちゃいけ
ない事だったのに、私・・・﹂
﹁大丈夫。私は絶対に言わないから。ほら、現にロジャーにだっ
て言ってないでしょ?﹂
﹁ごめんね、重いものを引き受けさせて・・・﹂
ここに来た当初、楽しそうに暮らす愛莉に比べるとどこか哀しそ
うだった翔子から、シンディーは向こうで何があったのかを無理や
り聞き出したのだ。
絶対に言わない、と翔子に誓わせられたものの、彼女から聞いて
いて良かったと思っている。
翔子が抱えている秘密は彼女1人で背負うには重すぎるのだ。
そのせいで彼女は初めての本気の恋を失ってしまったのだから。
だから力にはなれなくても、話を聞いてあげる事で少しだけ彼女
の背負っている重荷を受け止めてあげたかった。
﹁彼、カナダ人なんでしょう? もしかしたらもうカナダに帰っ
てるかもしれないわよ﹂
﹁そうね・・・でも、私の事を知っている人がいたら、愛莉の耳
に入っちゃうから・・・・﹂
﹁それは・・・そうね。そういう可能性がある事を忘れてたわ﹂
﹁だからカリフォルニア以外に住むのが一番よ。愛莉には悪いけ
ど、あの子が学校に行っていなくて友達がいなかったから、こうや
って住む場所を簡単に変える事ができて良かったって思っているの。
じゃなかったら、私はあの子から友達まで奪ってしまう事になるか
532
ら・・・﹂
1度だけ、愛莉はクィンと彼の犬であるバックに会いたい、と口
にした事がある。
その時翔子は、今彼は忙しいから、と会いに行けない言い訳を口
にしたのだが、それ以来愛莉はクィンの名前を口にしない。
もしかしたら何か翔子の口調から感じ取ったのかもしれない。
もともと病気で家と病院の往復という生活しか送れなかった愛莉
だから、大人とばかり接するせいか年齢の割にどこか大人びたとこ
ろがあったのだ。
﹁今からでも遅くないわよ? もう少し体の調子が戻れば、学校
に通えるようになるんでしょ? そうなればいくらでも友達ができ
るじゃない?﹂
﹁そうね・・・今なら丁度エレメンタリー・スクールかミドル・
スクールね。十分、お友達が作れるわね﹂
足取り軽く学校に通う愛莉を想像するだけで、翔子は笑みを浮か
べる。
﹁じゃあ、やっぱりテキサスに住む事を考えてね﹂
﹁ふふっ、そうね。愛莉とちゃんと話し合うわ﹂
﹁それから、ちゃんと住む場所を決めたら、犬を飼うといいわ﹂
﹁・・・犬?﹂
犬とはなんの事だろう、と翔子が頭を傾げていると、シンディー
が彼女の耳元に内緒話のように口を近づけて囁いた。
﹁そう。アイリーンがロジャーに言ったみたいよ。いつか自分の
犬が欲しいって﹂
﹁そうなんだ・・・そうね、ちゃんと住む場所を決めて家を買え
ば、うちで犬を飼う事ができるわね﹂
﹁ロジャーがうちの仔犬をやるって言ったらしいんだけど、欲し
い犬は決めてる、って言われたんだって﹂
﹁欲しい犬種まで決まっているの?﹂
﹁そうみたい。でも教えてくれなかった、ってガッカリしてた﹂
533
シンディーの夫であるロジャーは身長が190センチ、体重が1
50キロほどある巨漢の男性で、細身のシンディーと並ぶと大人と
子供のように見えるが、その見た目に反して気遣いができる人でと
ても愛莉によくしてくれる。
﹁ショーコなら知っているんじゃないの?﹂
﹁私? うぅん・・・判らないわね。大体、愛莉が犬を欲しがっ
ている事も知らなかったんだもの﹂
﹁そっか・・・ロジャーがもし家を買って引っ越すんだったら、
引越し祝いにアイリーンが欲しがっている犬をプレゼントする、っ
て言ってるのよね﹂
だから判ったら教えて、とシンディーが楽しそうに言ってくる。
﹁判ったわ。でもあんまり期待しないでね﹂
﹁あら? 期待してるわよ﹂
バーン
揶揄うように肘で翔子の脇を突くシンディーの肩を叩いているう
ちに、2人は納屋の前までやってくる。
そして、そのまま2人で笑いながら中に入っていった。
534
54.︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
そしてお気に入り登録、文章評価、ストーリー評価、ありがとう
ございました。とても励みになっています。
535
55.︵前書き︶
﹃﹄は日本語、﹁﹂は英語です。
536
55.
9月に入ったばかりでもテキサス南部は空気が乾燥しているとは
いえ暑い。
VIVA
気温はおそらく40度近いだろうと思う。
そんな中を翔子は愛莉と手を繋いでヴィヴァと呼ばれる観光用の
バスを降りると、そのまま50メートルほど先にあるアラモと呼ば
れる砦跡へと歩いていく。
昨日から2泊3日の予定で、翔子は愛莉と一緒に小旅行にやって
きていた。
行き先はサン・アントニオ。テキサス南部でも歴史のある街だ。
翔子は愛莉と手を繋ぎながら、入り口でチケットを買うために列
に並んだ。今は丁度レイバー・ディの祝日明けなので思ったよりも
空いていた。
キョロキョロと落ち着きがない愛莉を見下ろしながらも、翔子は
2人分のチケットを買ってから愛莉を入り口に促した。
﹃ほら、中に入るわよ﹄
﹃はぁい﹄
砦跡の壁の外から見るとただの古い石壁しか見えなかったが、中
は壁沿いが博物館のようになっていて冷房が効いていて涼しくて、
思わず翔子はホゥッと息をこぼした。
﹃涼しいね﹄
﹃そうね。ちょっと外は暑かったものね﹄
愛莉も翔子同様に大げさと言ってもいいくらい大きく息を吐いて
いる。
﹃大丈夫? 疲れたらすぐに言うのよ?﹄
﹃うん、大丈夫。ちょっと暑かっただけ﹄
﹃やっぱり秋まで待ってきた方がよかったかしら?﹄
537
﹃いいの。私は今来たかったんだから﹄
ぷんっと横を向く愛莉を見て、翔子は思わず苦笑を浮かべる。
今回の旅行の言い出しっぺは愛莉だ。
先週の定期検診の時に手術の後遺症もないし、きちんと体調もし
っかり回復していると言われたのだ。
無理はできないけれど旅行くらいなら大丈夫、と言われた愛莉が
翔子にねだったのがこの旅行だ。
インターステート
カリフォルニアからテキサスにやってきた時は翔子が愛莉の体調
を心配していたので、州間高速40を使ってのんびりと移動しただ
けで、途中の街で観光は全くしていなかった。
その道中唯一翔子が立ち寄っていた場所は、途中途中にある大き
な土産物屋を兼業しているガソリンスタンドだけだったのだ。
普通に移動だけであればロスからシンディーの住んでいる街まで
は2泊3日程度の日程で移動できるが、翔子は愛莉が疲れないよう
にと2時間ごとにガソリンスタンドによって小休止を入れていたの
で、3泊4日かかって到着したのだ。
その時も愛莉は大丈夫だと何度も翔子に言ったのだが、彼女に聞
き入れてもらえなかったのだ。
とはいえ、シンディーの家に到着して疲れで3日ほど寝込んでい
たのだから、翔子が正しかったのだと悔しげに認めていたのだ。
そして、このサン・アントニオもシンディーの住んでいる街に行
く途中に通り過ぎた街の1つだった。
その時に珍しく愛莉がいつか観光に連れて行ってね、と言ってき
たのだ。
だから今回ここを旅行先に選んだ、という事だ。
﹃ここって、ディビー・クロケットがメキシコ軍と戦ったところ
でしょ?﹄
﹃そうね。確か彼が使っていたナイフが展示されている筈よ?﹄
﹃ホント? テレビ見たようなでっかいナイフなのかなぁ?﹄
﹃さぁね、それは私にも判らないわ﹄
538
﹃じゃあ、ダニエル・ブーンは?﹄
﹃そういえば彼もここにいたわね﹄
あれこれと尋ねてくる愛莉に、翔子は知っている範囲で説明をし
てやり、それでも判らない事は二人で展示品や説明を読んで調べて
いく。
翔子は愛莉が話してくれる古いテレビシリーズの﹃ダニエル・ブ
ーン﹄でのエピソードを聞きながら、2人でゆっくりと展示を見て
回った。
﹃なんだか愛莉の方がよく知ってるわね﹄
﹃だってグェンと一緒にテレビシリーズを見てたもの﹄
そういえば愛莉はグェンの家にいる時はそれなりにテレビを見て
いたな、と翔子は思い出す。
博物館を巡りながら、同時に中庭に出てそこから周囲を取り囲ん
でいる石壁を眺める。
目をキラキラさせて見ている愛莉は、本当に楽しそうにスキップ
しながら歩いている。
そんな愛莉を見る事は元気になった証拠なので嬉しいのだが、そ
れでやはり翔子は心配になってしまう。
﹃愛莉、慌てなくてもいいのよ。ゆっくり回りましょう﹄
﹃えぇぇぇ、でもまだまだいっぱい回るところがあるのよ?﹄
﹃大丈夫。ここにはもう1日泊まるんだから時間はあるわよ。で
もはしゃぎすぎて疲れると、明日の観光ができなくなるわよ? そ
れにまた来ればいいでしょ?﹄
﹃う∼・・・・判った﹄
軽かった足取りが遅くなり、愛莉はのろのろと翔子の隣を歩く事
にする。
それでもすぐにまた好奇心を抑える事ができなくて、キョロキョ
ロと周囲を見回すのだ。
苦笑いを浮かべてそんな愛莉を見ていた翔子は、彼女がはぐれな
いようにと手を繋ぐと中庭からまた次の展示室へと移動した。
539
結局思ったより長い時間をアラモで過ごす事になった2人は、そ
メキシカン・サンドウィッチ
のまま砦跡を出るとすぐ近くにあるメキシカン料理の店でランチを
食べることにした。翔子はエンチラーダを頼み、愛莉はトータを頼
んで、2人で少しずつ分け合って食べた。
お腹がいっぱいになったところで、リヴァー・ウォークに向かう
事にする。
もちろん、移動手段はアラモに来る時に使ったヴィヴァ︽VIV
A︾だ。
ぱっと見はトロリー・バスと言った感じで、のんびりとした速度
で観光スポットを周遊している。
﹃明日は動物園に行くんでしょ?﹄
﹃そうよ、愛莉が行きたいって言ったんでしょ?﹄
﹃うん。だってアメリカの動物園って行った事ないもの﹄
﹃そうだったかしら?﹄
翔子がアメリカに来た時は既に高校生になっていたので動物園に
行きたいと思った事がなかったので気づかなかったが、どうやら愛
莉はずっと動物園に行きたかったようだ。
﹃じゃあ、またカリフォルニアに戻る事があれば、その時はサン・
ディエゴに行こうか?﹄
﹃うんっ、あそこってすっごく大きいんだよね?﹄
﹃みたいね。私も行った事ないからよくは知らないけどね﹄
あそこにはパンダがいるんだって、と嬉しそうに話してくれる愛
莉は、バスから降りる時も喋りっぱなしだ。
﹃キリンが見たいな﹄
540
﹃クマ、じゃなくていいの?﹄
﹃クマはぬいぐるみだから可愛いの。本物は襲ってくるかもしれ
ないでしょ?﹄
当たり前の事を聞かないで、とツンと顎を上げて横を向く愛莉に
翔子は思わず吹き出した。
﹃お姉ちゃんっっ﹄
﹃ごめん。だってね﹄
﹃もうっっ。とにかく私はキリンが見たいの。あとは・・そうね。
狼が見たいかな?﹄
﹃狼?﹄
﹃そうよ。ほら、昔1度だけ見た事あるでしょ?﹄
愛莉に言われて頭を傾げていたが、ぽん、と手を打って頷いた。
まだ両親が健在だった頃、カリフォルニア南部にあるセコイヤ国
立公園に家族4人で出かけた事があるのだが、その時に車の前を1
匹の動物が横切った。両親や翔子はそれを見てコヨーテだろうと言
ったのだが、愛莉だけはあれは狼だったと言って譲らなかったのだ。
﹃あれって・・確かコヨーテじゃなかったっけ?﹄
﹃違うの。あれは絶対に狼だったの﹄
﹃そぉ? じゃあ明日動物園に行ったら、コヨーテと狼を見比べ
てみる?﹄
﹃いいわよ。私が違いを説明してあげる﹄
全く何も知らないんだから、と大袈裟に頭を振ってみせる愛莉の
頭をコツンと叩くと、片方の眉を上げて翔子を見上げてきた。
そんな愛莉をじろり、と翔子が見下ろすと、そのまま2人で見つ
めあってからぷっと吹き出す。
﹃あれは、ほんっとうに狼だったのよ?﹄
﹃一瞬の事だったから、よく見えなかったと思わない?﹄
﹃それはお姉ちゃんとパパとママだけよ。私はちゃ∼んと見たの﹄
﹃はいはい﹄
﹃ホントよ?﹄
541
翔子はリヴァー・ウォークへ行く為の階段を見つけると、愛莉の
手を握ったままゆっくりと降りる。
そこは幅が広めの歩道がずっと川ぞいに続いており、川にはいく
つもの観光用のボートが浮かんで移動しているのが見える。
そして川の反対側は店がズラッと並んでいて、食べ物屋から小物
などの土産を売っている店がどこまでも続いている。
﹃これ、可愛いね﹄
愛莉が足を止めて、小物屋の前のテーブルに並んでいる置き物に
手を伸ばした。
それは直径が2センチほどの磨かれた準輝石に手足がつけられた
ものだった。
別にサン・アントニオでなくてもどこにでもありそうなものだが、
熱心に見ている愛莉にそんな無粋な事を言う気もない。
﹃可愛いわね。1個、自分用のお土産に買って帰る?﹄
﹃う∼ん・・・ウィリーにあげたらダメ?﹄
﹃ウィル? そうねぇ・・・ダメ、かな? ちっちゃいから口に
入れちゃうと喉に詰まっちゃうかもしれないわよ?﹄
﹃え? あ∼・・そっか、ウィリーはまだベィビーだものね﹄
青っぽい準輝石を持って翔子を振り返った愛莉は、顎に左手を当
てて考え込む。
ウィルはシンディーの息子で、愛莉は気安くウィリーと呼んでい
るのだ。
﹃ウィリーの部屋にぴったりだと思ったんだけど﹄
﹃そうね、ウィルの部屋は青で統一されていたわね﹄
﹃うん、だから、ちょうどいいんじゃないかなって思ったの﹄
﹃じゃあ・・・シンディーかロジャーに預かってもらったら? 今はまだウィルにはあげられないけど、大きくなったら上げてくだ
さい、って﹄
﹃いいアイデアね。じゃあ、とりあえず買っておくわ。もし何か
別のものが見つかったら、その時はそのままロジャーにあげる﹄
542
それなら、と愛莉は頷いた。
いいものが見つかったらウィルで何か余ったらロジャーにあげる、
と言っているように聞こえた翔子だが、愛莉が本気でそう思ってい
る事は想像がつく。
﹃じゃあ、お金払ってくるわね﹄
﹃お金、持ってきてたの?﹄
﹃うん。もしかしたら今日はお買い物をするかも、って思ってい
たの﹄
無駄遣いはしないわよ、と伺うような口調の愛莉はたすきがけに
しているポーチからピンクの財布を取り出すと、そのまま小物屋の
中にお金を払うために入っていった。
翔子が払ってやってもいいのだが、今回の旅行のお小遣いとして
ロジャー、シンディー、シャスタから20ドルづつ、それに翔子か
らお小遣い40ドルの合計100ドルを持ってきているので、とり
あえずはそのお金がなくなるまでは愛莉の好きにさせよう、と思っ
たのだ。
おそらくそれは愛莉も同様に考えているのか、今のところ土産を
買う時に翔子にお金をねだる事はなかった。
愛莉が店の奥でお金を払っているのを見てから、翔子は手持ち無
ポスト・カード
沙汰気味に先ほど愛莉がじっと見つめていたテーブルの上のものを
眺めてから周囲を見回した。
この店には売っていないが、どこかで絵葉書きを買いたいなと思
う。
グェンに出したい、と愛莉が言っていたからだ。
そう思って周囲を見回したものの、どうやらこの辺りでは売って
いないようだ。もし見つける事ができなかったら、今夜の宿のモー
テルで尋ねてみるのもいいかもしれない。
そんな事を考えながらぼうっと周囲を眺めるように見ていると、
歩道の向こうからこちらに向かって歩いてくる人が見えた。
平日とはいえそれでも観光地らしくそれなりに人が歩いているの
543
だが、その人はそれらの観光客の波に逆らうようにかき分けて歩い
てくる。
何を急いでいるんだろう、と焦点をその人物に当てた瞬間、翔子
は息を飲んだ。
そのまま視線を外す事もできず、翔子は息を止めたまま男が3メ
ートルほど離れた位置で足を止めるまでじっと見つめる。
﹃ど・・・して・・・﹄
クィン
忘れた事はなかった。
時々夢にまで見た相手が、今目の前にいる。
﹁ショーコ﹂
﹁クィ・・・ン﹂
懐かしい男が翔子の名前を呼んだ。
翔子はとっさに視線を彼の足元に落とす。
これ以上彼を見ていられなかったからだ。
驚きのあまり彼の表情をきちんと見ていなかったが、最後に別れ
た時の彼の表情は今も忘れられない。
もしかしたら今もあの時と同じ表情で自分を見下ろしているのか
もしれない、そう思うと翔子の胸の奥が苦しくなる。
いいや、泣いてしまうかもしれない。
こんなところで弱い自分を晒したくない、ただそれだけのちっぽ
けなプライドが翔子を支えているのだ。
すっと手を差し伸ばそうとしたクィンと動けないままの翔子の間
に黒い影が動いた。
﹁ショーコ、話があるん−−﹂
﹃ダメッッ﹄
クィンの言葉を遮って、愛莉が小さく怒鳴った。
その声と影にハッとして顔をあげると、そこには両手を広げて彼
女を守ろうとする愛莉が立っていた。
544
545
55.︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
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546
56.︵前書き︶
﹃﹄は日本語、﹁﹂は英語です。
547
56.
翔子より頭1つ小さい愛莉が両手を広げて立っているその姿は、
必死になって彼女を守ろうという意思がはっきりと出ている。
﹃愛莉・・・﹄
目の前で両手を広げている愛莉の肩に翔子がそっと手を乗せると、
愛莉はちらっと翔子を振り返った。
﹃大丈夫?﹄
﹃ええ、大丈夫よ﹄
広げた左手に今買ってきたばかりのものが入った小さな袋を持っ
ており、それを翔子に渡すと愛莉はそのまままた真っ直ぐ目の前に
いるクィンを睨みつけた。
﹁なんの用ですか?﹂
﹁アイリーン・・・俺はショーコと話がしたくてきたんだ﹂
﹁私たちには話す事はありません﹂
クィンに向ける愛莉の態度があまりにも冷たくて、翔子は目を見
開いてしまう。
初めてクィンに会った時は別としても、それ以降は愛莉は彼にと
ても懐いていたように思っていたからだ。
彼の家に行った時などは本当に楽しそうで、クィンの飼い犬のバ
ックの事を一生懸命聞いたりして、愛莉がクィンに心を許している
と感じて寂しく思ったほどだ。
それなのに、だ。
今翔子を庇うようにして立っている愛莉を見ると、とてもクィン
を慕っているようには見えないくらい、彼女の彼に対する対応は冷
たいものだった。
﹁アイリーン、少しでいいんだ。ショーコと話をさせてもらえな
いだろうか?﹂
548
シッシー
﹁話を、ですか? それで、またお姉ちゃんを泣かせるんですか
? 哀しませるんですか?﹂
シッシー
﹁それは・・・﹂
﹁これ以上お姉ちゃんが哀しむような目に遭って貰いたくないで
す﹂
愛莉の気迫にクィンが負けている。
それは翔子からすればとても奇妙な光景だった。
いつもの少し甘えたような生意気な口調は鳴りを潜め、今は滅多
に耳にしない丁寧な言い回しを使っている。
その口調が余計に愛莉が起こっている事を伝えるのだ。
とはいえ、クィンの方も愛莉に言われたからといって引き下がろ
シッシー
うという雰囲気ではない。
シッシー
﹁お姉ちゃんと話をしたかったんだったら、もっと早くに来るべ
きだったんじゃないんですか?﹂
﹁こっちにも事情があったんだよ﹂
シッシー
﹁私にはクィンの事情は判りません。それにお姉ちゃんは何も話
してくれないから・・・でも、あんなに哀しそうなお姉ちゃんは、
パパとママが亡くなった時以来です﹂
いつも通りに振舞っているつもりだったのだが、どうやら愛莉に
は翔子が普段とは違っているように見えていたようだ。
それにその理由がクィンだという事もバレていたようだ。
﹁だから、私たちの事はほっといてください﹂
シッシー
﹁そうはいかないんだ。俺はちゃんとショーコと話をしたい。だ
からここまで来たんだ﹂
﹁自分勝手です。きっとその自分勝手だからお姉ちゃんを泣かせ
たんじゃないんですか?﹂
﹁そうかもしれないな・・・・だけど、だからこそその事につい
てショーコと話したいんだ。アイリーンが俺に対して怒っている事
は伝わる。だが、だからと言ってここで引き下がる気はない﹂
真剣なクィンの言葉を聞いて愛莉はどうする? と言いたげな視
549
線を翔子に向けた。
先ほどいきなりクィンが現れて動揺していた翔子だが、愛莉と彼
の話を聞いているうちに少しずつ落ち着きを取り戻していた。
﹃おねえちゃん、どうする? 無理に話を聞かなくてもいいと思
うけど?﹄
翔子の顔を覗き込むように振り返って尋ねる愛莉に、翔子は少し
逡巡した後で大丈夫、と日本語で答えた。
ここにクィンがやってくる事は想定外だった。
けれど、いい機会だとも思う。
ずっと謝りたかったのだ。あの時にクィンの怒りは当然だと翔子
は思っている。自分だってもし彼が翔子を抱いた後で違う女性と一
緒にいるところを見たらどんな反応をするだろう、と後になって思
ったからだ。
しかも彼は賢一の事を翔子の婚約者だと思っているのだから。
﹃お姉ちゃん?﹄
﹃きちんと話をするわ﹄
﹃いいの?﹄
﹃大丈夫﹄
心配しないで、そう愛莉に聞こえるような小さな声を返すと、翔
子は真っ直ぐクィンに視線を向けた
﹁・・・判りました﹂
﹁ショーコ﹂
﹁とりあえずここでは話はできませんから、どこか場所を移しま
しょう﹂
翔子は心配そうな愛莉の肩をぎゅっと抱きしめた。
550
翔子はクィンと再会した場所から5分ほどの場所にあるレストラ
ンに、彼に連れられて愛莉と3人でやってきていた。
このレストランの売りの1つは川を見下ろせるバルコニー席だ。
それも1つ1つが個室状態になっている。庇が出ているので直射
日光を感じる事もなく、その上天井からファンによって風が起こさ
れているのでそれほど暑さを感じない。
そんなバルコニーに、翔子は今クィンと2人で座っていた。
愛莉はそんな2人の姿を見る事ができる室内のテーブルに1人で
座って、じっと翔子の方を見つめている。
クインが食事でも、と言ったのだが、メキシコ料理をランチに食
べたばかりなのでお腹は空いていない。
それでも愛莉はデザートにマッド・パイを見つけて、それをスプ
ライトと一緒に頼んだ。
翔子とクィンはコーヒーだけだ。
ウェイターがやってきて、愛莉のテーブルにパイとドリンクを置
き、それから翔子たちのところにやってきてコーヒーを置いて去っ
ていく。
翔子は普段は入れない砂糖とミルクを1つずつ入れる。
クィンは何も入れないままカップに手を伸ばして1口飲んだ。
それを見て翔子もカップを手にとって1口飲む。
暖かい飲み物が体の中に入るのを感じながら、もう1口ゆっくり
と飲んだ。
少し気持ちが落ち着いた気がする、そんな事を思いながらも翔子
はそっと視線だけで目の前に座っているクィンを見やる。
彼はどうしてここまでやってきたのだろう?
というよりもどうやって翔子がいる場所を知ったのだろう?
翔子は湧いてくる疑問の答えを考えながら、じっとカップの中の
コーヒーを見つめる。
2人がテキサスにいる事を知っている人は、本当に数人しかいな
551
い。
もちろん愛莉が通っていた病院には新しい通院先をテキサスに変
えた事を連絡しているので、そこから翔子たちがテキサスにいる事
を知ったのかもしれない。
けれど、サン・アントニオにいる事までは知らない筈だ。
もしかしたらシンディーの牧場に行って、そこで2人がここにい
る事を聞いたのだろうか?
ふとそんな事を思ったが、それはない、と翔子は思う。シンディ
ーがまったく見知らぬ他人に、翔子たちの居場所を言うとは思えな
い。
特に彼女は翔子が何をカリフォルニアに残してここにやってきた
のかを知っているのだから。
答えがまったく判らないな、などと思いながら翔子がまた視線を
クィンに向けると、彼が自分の事をじっと見つめている事に気づい
た。
バッチリ目があった途端、翔子は手にしていたカップを落としそ
うになり、慌てて持ち直してからそれをテーブルに置いた。
それを見てクィンも自分が持っていたカップをテーブルに置く。
﹁話をしても構わないか?﹂
﹁あっ・・・・はい﹂
少し硬いクィンの言葉に、翔子は小さく頷いた。
﹁それともその前に、聞きたい事があればそれに答えるけど﹂
﹁それは別に・・・いえ、あの、どうやって私たちがここにいる
事を?﹂
特に聞きたい事はない、と言いかけて疑問に思っていた事を口に
した。
﹁ああ、調べたんだ﹂
﹁調べた、って・・・?﹂
﹁思ったよりも大変だったよ。まずは手術後の検診があるだろう
からと思って、いつも通りに病院に来ているかどうかを確認したん
552
だ。そうしたら、退院してから1ヶ月ほどは通っていたが、それ以
降は通院先を変更したって聞かされた﹂
VIO
﹁・・・それって、職権乱用ですよね? それに以前も言ったと
ヒッパ・バイオレーション
思いますけど、医療関連個人情報保護法違反︵HIPAA
LATION︶ですよ﹂
﹁ああ、その点に関しては謝るしかないな。けど俺には他にどう
やって調べればいいのか判らなかった。まぁ、病院の方では教えて
もらえなかったんだけどな﹂
クィンの話では愛莉が病院を変えたので通院していない事は教え
ヒッパ・バイオレーション
てもらえたものの、どこの病院に変更したのかまではまったく教え
てもらえなかった、との事だ。
VIOLATION︶についての愚痴を言った事が医療記
メディカル・
おそらく以前翔子がナースに医療関連個人情報保護法違反︵HI
レコード
PAA
録科に伝わって、事が大きくならないようにきちんと対処された、
という事だろう。
﹁流石に無理やり聞き出す訳にもいかなかったから、そこで躓い
てしまったんだ。それでアプローチを少し変える事にして、ショー
コたちが以前住んでいた場所に行った﹂
のんき
﹁でも、私たちがどこに住んでいるのかは知らないんじゃあ・・﹂
﹁アイリーンがマーサに喋っていた﹂
愛莉っっ!
思わずパッと愛莉の方を振り返ると、彼女は暢気にパイを突きな
がら翔子の視線に気づいて手を振ってきた。
仕方ない、と軽く肩をすくめる。あの時の愛莉は、まさかこんな
事になるなんて思ってもいなかったんだろう。だから、マーサに聞
かれるまま喋ったに違いない。
﹁まぁそういう訳でショーコとアイリーンが住んでいた家に行っ
たんだが、まったく知らない人がでてきたんだ。ショーコを探して
きたんだと言ったら、以前ここに住んでいた人だろうと言われてね。
アテが外れた﹂
553
﹁貸しているんです、あの家﹂
﹁ああ、みたいだな。それで以前隣の家の人にアイリーンを預け
ていたって言っていた事を思い出して、そっちにもショーコたちの
事を聞きに行ったんだ﹂
﹁グェン、ですか?﹂
﹁ああ、彼女、いい人だな。ショーコとアイリーンの事を知って
いる、と返事をしてくれたよ。けど、2人が3ヶ月も前に引っ越し
ていった、って事以外は教えてくれなかった。引っ越し先は知って
いるか? って聞いたが、知らない相手には何も言えない、って言
われたよ﹂
散々アイリーンがどんなに可愛いかを力説したあとではあんまり
説得力はなかったけどな、とクィンはボヤくようにため息と共に言
葉を吐き出す。
グェンには翔子たちがシンディーの住んでいる街にいる事は伝え
てある。
それでも教えなかったのは、翔子たちの事を心配してくれたから
だろう。
翔子はその事に申し訳ない気持ちになるものの、グェンが相変わ
らずなのだと嬉しくも思った。
﹁それ以上の手がかりは俺にはなかったから、人を雇って2人の
行方を探す事にした﹂
﹁ど・・して・・?﹂
なぜそこまでしてクィンは翔子たちを探したんだろう?
﹁どうしても納得できなかったからだ。あの晩別れてから、ずっ
と考えたんだ。俺はまだショーコと知り合ってそれほど一緒にいる
時間はなかったが、それでもあんな事を簡単にできるような女じゃ
ない、という思いをどうしても捨てられなかった。だから、もしか
したら何か事情があったんじゃないかって思ったんだ﹂
翔子は少し躊躇ったあと、頭を横に振った。
﹁・・本当の事です﹂
554
﹁いいや、違うだろう? もしそんな女だったら、俺と知り合っ
た段階ですぐに俺が何者かを調べた筈だ。だが、ショーコはそんな
事しなかった。むしろ俺個人の事以外には興味がないようだったな﹂
﹁それは・・・﹂
ショーコは庶民だ。中流階級の中でももしかしたら下の方だろう
と思っている。
だから彼が金持ちかどうか、どんな影響力を持っているのか、そ
んな事にはまったく興味がなかったのだ。
けれどそれを認めてしまうとあの夜の﹃権力に弱い男好きの女﹄
という位置付けができなくなってしまう上に彼に賢一との関係が作
られたものだとバレてしまう。
だから、それを認めるわけにはいかないのだ。
だが、翔子が認めない事はクィンにも判っていたようだ。
ふっと苦笑いを浮かべたかと思うと、彼は爆弾を投下した。
﹁ケンと会って話をしたよ﹂
﹁それ・・って・・﹂
バッと音がするような勢いで目を見開いて翔子はクィンを見つめ
たが、彼は口元に苦笑いを浮かべたままコーヒーを1口飲んだ。
それから必死になって頭の中を整理しようとしている翔子を見つ
めた。
﹁2人の居場所はケンに聞いたんだ。腹立たしいが俺の雇った連
中ではショーコたちの居場所を調べる事ができなかったから、あり
がたいと言えばありがたいと言えるんだろうな﹂
頭を振ってから、クィンは話を始めた。
555
56.︵後書き︶
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誤字訂正
09−02−2016
556
57. Side Quin 1 of 4︵前書き︶
クィンの話は今話だけで終わるかと思ったんですが、終わりませ
んでした・・・
﹃﹄は日本語、﹁﹂は英語です。
557
57. Side Quin 1 of 4
クィンのカナダでの仕事は順調だったが、とにかくする事が多す
ぎてなかなかカリフォルニアにある家に帰れなかった。
それでもなんとか時間を見つけては翔子に電話をしてお互いの近
況を話していた。
そしてようやく仕事が片付いてロスにある家に戻れる算段がつい
た時、クィンは翔子を驚かしてやろうと思って帰る事を伝えなかっ
たのだ。
その週末には丁度前々から出るようにと指示されていたパーティ
ーがあった事もあり、クィンはそれが終わった次の週末に翔子と愛
莉をまた家に招待しようと考えたのだ。
しかし、その計画は出席したパーティー会場で消えて無くなって
しまった。
ずっと会いたいと思っていた翔子がパーティー会場に来ていたの
を見て、クィンはとても驚いた。
しかも翔子は彼女の会社の上司と一緒に来ていたのだ。
周囲の招待客は2人が一緒にいる事を当然と認めており、その上
はらわた
漏れ聞こえてくる周囲の会話で2人が婚約している事まで知ってし
まった。
そんな2人の仲睦まじい様子を腸が煮え返る思いで見ていると、
日本人らしき女が2人の元へ行くとそのまま大きな声で騒ぎ出した。
といっても騒いでいたのはその女だけで、賢一は特に慌てた風も
なく淡々と接していた。
クィンは3人の会話が聞ける距離まで近づいて、翔子からは見え
ない位置から聞く事にした。
女がクィンの事を翔子の情事の相手の1人だと言った時、頭に血
が上りかけたがなんとかそれを抑えてとにかく何がどうなっている
558
のかを知るためにも全てを聞く事にした。
蓋を開けてみればその女の方がよほど尻軽で翔子の事を口汚く罵
る事など出来なかったのだが、それでもクィンは自分が騙されてい
たうちの1人だと思うとムカムカするだけだった。
だから、翔子が賢一から冷たい言葉を向けられそのままその場に
残されたのを見ても、彼女に近寄ろうとは思わなかったのだ。
それから30分ほどはホストに失礼にならないためにパーティー
会場に留まったものの、それ以上その場にいる事など我慢できなか
った。
なぜなら賢一たちの醜聞行為はその場にいた人間全てが知る事と
なり、現場にいなかった者たちさえも色々と憶測を交えてゴシップ
活動に勤しんでいる。
そんな場所に身を置いて3人の話を聞きたくなかったというのが、
一番の理由だった。
簡単にホストに挨拶をしてパーティー会場を出ながら、駐車場で
待っている運転手に車をエントランスに回すように指示する。
そうしてエントランスに出た時、沙也香が翔子の上に馬乗りにな
って彼女に向かって拳を振り上げている場面に遭遇したのだ。
気がついた時には沙也香の腕を掴んで止めながら、ドアマンたち
に指示を出していた。
なんとか沙也香を翔子の上から引き摺り下ろした。差し出そうと
した手を必死で止めて、ドアマンが彼女を立ち上がらせるのを黙っ
て見ていた。
そのまま立ち去ろうと思ったのだ。
けれど、どうしても聞きたかったのだ、賢一との婚約が本当なの
かどうか、を。
だから聞いた、ケンとは婚約していたのか、と。
あの時の腹立たしさは忘れられない。
まさか翔子がクィンの言葉を肯定するとは思わなかったのだ。
もしかしたら賢一に頼まれて決まった相手のいない彼のパートナ
559
ー役を勤めているだけかもしれない、そう思っていたのだ。
でなければ、あの夜の事は一体何だったと言うのだろう、そう思
っていたのだ。
それなのに翔子の口から出た言葉はたった一言、﹃はい﹄という
肯定の言葉だけだった。
ふざけるな!
そう怒鳴りたかった。怒鳴りつけて、俺をコケにしたのか、と罵
りたかった。
けれどそれをする事はクィンのプライドが許さなかった。
怒鳴りたくなるのをぐっと拳を握る事で堪え、即座にその場を立
ち去った。
だからあのあと翔子がどうしたのかをクィンは全く知らなかった。
そして、その夜から3ヶ月ほど経った頃だっただろうか。
クィンはレストランで新規顧客との商談を終えて帰ろうとした時、
同じようにレストランから出て行こうと女性を腕にしがみ付かせた
賢一を見たのだ。
彼はとても婚約者に裏切られたようには見えなかった。
というより、賢一は翔子と一緒にいた時よりもはるかに楽しそう
かん
さわ
な表情を浮かべていたのだ。
それがなぜか癇に障った。
。
思わず睨むような視線を向けてしまったが、クィンとしてはどう
しても我慢できなかったのだ
﹁クィンシー・マクファーランじゃないか、久しぶりだね﹂
560
﹁やあ、ケン﹂
腹立たしい思いをぐっとこらえてそのまま立ち去ろうとしたクィ
ンに、賢一が先に気づいてしまった。
名前を呼ばれて挨拶をされて、それを無視して背を向けるような
事はできなかったクィンは、苛立ちを抑え込みながらとりあえず平
静を保った。
﹁ロスにいたのかい?﹂
﹁もちろんだ。俺が任されている会社はこっちにあるからな﹂
﹁もう随分長い間見てなかったから、カナダの本社の方に戻った
んだと思っていたよ﹂
﹁ああ・・・暫く仕事の関係で向こうに帰ってたんだ﹂
ニコニコと笑みを浮かべた賢一は女性を腕に捕まらせたまま、ゆ
っくりとした足取りでクィンの方にやってきた。
﹁そうか、だったら見かけなかった筈だね。まぁ仕事が忙しいの
はいい事だよ﹂
﹁忙しすぎるのも面倒だけどな﹂
﹁そりゃそうだ。でも、仕事がなくって困ってないって事はいい
事だと思うよ﹂
仕事がなくなると死活問題だからね、と賢一は1人頷いている。
そんな賢一におざなりに頷いてから、クィンのとりあえず彼の話
に乗る事にした。
﹁そっちはどうなんだ? 忙しいのか?﹂
プライベート
﹁ん∼、そうだね・・・仕事の方は相変わらずだから大して変わ
りばえはしないんだけど、私生活の方はいろいろあってゴタゴタし
てたんだ。でもまぁ、それもようやくこの数日落ち着いてきたとこ
プライベート
ろかな?﹂
私生活という言葉を聞いてクィンは思わず顔を顰めてしまったが、
賢一はその事に気づかなかったように話を続ける。
﹁いろいろと他にも面倒くさい問題もあったんだけどね、3ヶ月
くらい前になんとか片がついたんだ。だからこうやって、ようやく
561
ジュリアと堂々と出かける事ができるようになったんで、本当にホ
ッとしているよ﹂
﹁・・・ジュリア?﹂
﹁ああ、紹介するよ。こちらはジュリア・スタンレー。僕の婚約
者だよ﹂
﹁・・・婚約者?﹂
賢一の婚約者は翔子ではなかったのか?
そう考えてから、そういえば彼女はあのパーティーの場で婚約破
棄をされたんだ、と思い出す。
﹁随分早く代わりをみつけたんだな﹂
自分でも少し毒のある言い方だと思ったが、クィンには止められ
なかった。
けれどそれを聞いても賢一は片方の眉を少し上げただけだ。
﹁代わりって・・・元々、僕の本命はジュリアだからね﹂
﹁・・・その事は、ショーコは知っていたのか?﹂
翔子が賢一の婚約者だったのではないか?
少し戸惑ったような表情を浮かべたクィンに賢一は頷いた。
﹁ん? ああ、翔子ね。もちろん、彼女は知っていたよ。まぁそ
プライベート
うは言っても、表立って公表するわけにはいかないんだけど﹂
﹁どういう意味だ?﹂
﹁そのままの意味だよ。あんまり僕の私生活について細かい事を
周囲に知らせたくなかった、それだけの事﹂
なんとなく含みをもたせた賢一の口調に、クィンは嫌悪感も露わ
な視線を向けたが、彼は全く気にもしていないようだ。
﹁でも、翔子の事、知っているんだね? どこで知り合ったのか
な?﹂
﹁・・・俺が理事をしている病院で顔を見知っているだけの、た
だの知り合いだ﹂
﹁ふぅん、そっか。そういえば翔子の妹ちゃんが病院にずっと通
っていたから、その病院で理事をしていたって事か﹂
562
そう言いながらも口元に笑みを浮かべた賢一の顔を見れば、彼が
それ以上の事を知っている事に気づいたが、だからと言ってそれを
口にしてしまうほどクィンは馬鹿ではない。
﹁あの病院、凄く親身になって助けてくれたって言ってたよ。だ
から翔子も安心して仕事ができたって﹂
﹁・・・・﹂
﹁彼女にはいろいろと迷惑をかけちゃったからね。結構心配して
いたんだ﹂
それは賢一の本心だ。たとえそれがジュリアを守るためとはいえ、
翔子にはかなり辛い思いをさせたに違いない。
けれど、それが判っていても賢一にとって一番大切なのはジュリ
アだから、もし過去に戻ってやり直したとしても同じ事をしたに違
いない、と思っている。
そんな賢一のそばで黙って2人の話を聞いていたジュリアは、頭
を傾げてから賢一の腕を引っ張った。
﹁ケン・・・この人ってもしかして?﹂
﹁うん、多分ね﹂
賢一はジュリアが何を言いたいのかを察して、自分の腕を引っ張
った手をポンポンと軽く叩いた。
それから先ほどと違って真剣な表情をクィンに向ける。
﹁クィン、とりあえず場所を移動しないかな? 聞きたい事、あ
るんだろう? 実は僕も気になっていた事があるんだ﹂
﹁・・・判った﹂
賢一にとって何が気になっているのか判らなかったが、確かに彼
の言う通りクィンには聞きたい事があった。
それを彼に聞く事に蟠りがなかったかといえば嘘になるが、当の
本人に聞くのが一番手っ取り早いだろう。
ここで会ったのもいいチャンスだったのかもしれない。
﹁1つ向こうのブロックに、なかなかいい店があるんだ。そこに
移動しよう﹂
563
﹁・・・アーティーか?﹂
﹁そう、知ってるんだ﹂
﹁時々仕事で使うからな﹂
﹁そっか。僕もその関係で仕事先の人に教えてもらったけど、隠
れ家っぽくていいよね﹂
じゃあ行こうか、そう言って賢一はジュリアを伴ってゆっくりと
した足取りで歩く。
本来の彼であればもう少し足取りは早いのだが、と少し訝しげに
思いながらもクィンは賢一の隣に並んで歩き出した。
564
57. Side Quin 1 of 4︵後書き︶
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話タイトル変更
565
58. Side Quin 2 of 4︵前書き︶
566
58. Side Quin 2 of 4
アーティーは、高級バーとしてこの辺りでは結構有名な店だ。
四角い店内の中心に5メートル四方の水槽があり、その中には色
とりどりの魚が泳いでいるのが見える。
そしてそれを取り囲むように配置されている各テーブル席も周囲
を水槽で囲まれているので、隣のテーブルから顔を見られる事もな
く声が漏れる心配もない。
おまけに観葉植物もたくさん配されているので、壁側の席にいて
もそれは同様だった。
ストゥール
一応店の一番奥まった場所にバーカウンターもある。そこは2つ
ずつ椅子が近づいて置かれており、2つずつの間は席1つ分ほどの
間隔が開けられているので、大きな声で話をしなければ盗み聞きを
される心配はない。
ビジネストークが出来る場所としては最適のバーとなっている。
もちろんやってくる客はビジネスのためだけではなく、仲睦まじ
いカップルが周囲に邪魔される事なく2人の世界に浸れる事でも有
名だ。
そんな場所にやってきたクィンたちは中央にある大水槽の前にあ
るテーブル席に案内される。
賢一はジュリアの手をとって彼女が座るのを手伝うと、その隣に
腰を下ろした。
クィンは賢一の前に座る。
﹁僕は水割り。オススメのウィスキーを使ってくれるかな? そ
れから彼女には・・・スプモーニ、お酒は控えめでお願いできるか
な﹂
﹁こっちはグレンリベット、ダブルで﹂
﹁チェイサーはどうされますか?﹂
567
﹁ああ・・・そうだな、貰っておこう﹂
﹁判りました﹂
注文を済ませると、ウェイターが立ち去るのを待ってからジュリ
アが賢一の腕をつついた。
﹁スプモーニって?﹂
﹁ああ、ジュリアはグレープフルーツが好きだろう? だから少
し甘めのグレープフルーツが入ったカクテルを頼んだんだ﹂
﹁私飲んだ事ないんだけど、大丈夫かしら?﹂
﹁大丈夫だよ。それにもう21歳になったんだから、少しは飲ん
でもいいんじゃないかな?﹂
﹁そうね・・・判ったわ、試してみる﹂
そんな事を話している目の前のカップルを見ているうちに注文し
た酒がやってきた。
﹁じゃあ、とりあえず乾杯する?﹂
﹁別にいいだろ﹂
﹁最初だけだよ。1回くらい、いいだろう?﹂
ジュリアにカクテルを手渡しした賢一に、仕方ないと言わんばか
りの態度のクィンだが、それでも差し出されたグラスにカチンと自
身のグラスを当てて乾杯をする。
その音にジュリアが嬉しそうに笑うと、賢一もそれを見て笑みを
浮かべた。
﹁一気に飲んじゃダメだよ? 少しずつ飲んで酔っ払わないよう
に﹂
﹁大丈夫よ。これ以上は飲まないから﹂
﹁それでも、だよ。まぁ酔っ払ってもちゃんと家までは送り届け
るけど、そんな姿を見せて怒られるのはジュリアだからね﹂
﹁ケンに無理やり飲まされたって言うわ﹂
﹁おいおい、それだけはやめてくれよ。冗談にもならないから。
そんな事になったら僕はもう2度と君を連れて歩けなくなるだろ?
そんな目に遭わせるつもりかい?﹂
568
くすくす笑うジュリアの手をポンポンと叩いて文句を言う賢一は、
とても相手を甘やかしているように見える。
クィンは目の前の2人の会話を聞きながらも、少し驚いて賢一を
見ていた。
彼が知っている賢一はあまり他人に興味を持たない男で、こんな
風に相手を甘やかせまくる姿など見た事がない。
それでも黙って2人のやり取りを聞いていると、ようやく落ち着
いたのか賢一がクィンの方に視線を向けた。
﹁済まないね。こんな風に2人で出かけられる事が珍しくってね。
つい2人してはしゃいでしまった﹂
﹁いや・・・気にするな﹂
﹁それで、さっきの話だけど、もうするかな?﹂
﹁ああ、できればそうして貰いたい。あまり遅くまでここにいら
れないからな﹂
﹁僕もジュリアを家に送り届けないといけないからね﹂
すでに時間は10時近くになっているのだ。
明日も仕事が入っているクィンとしてはできれば今日中に家に帰
りたいと思っている。
﹁あの・・・﹂
﹁何、ジュリア?﹂
﹁私が一緒にいてもいい話かしら?﹂
﹁あ∼・・・そうだね。聞いても構わない気はするけど・・・で
も、翔子の個人的な話になるかもしれないからなぁ・・・﹂
﹁じゃあ、隣の席にいどうしましょうか?﹂
﹁いや、それは・・・でも・・・﹂
先ほどの2人の話を少し聞いていたジュリアが、もし個人的な話
であれば自分はいない方がいいのではないか、と思ったようだ。
クィンとしてはよく知らないジュリアが同じテーブルにいる状態
で話をするよりは席を外してくれた方がいいのだが、なぜか賢一の
歯切れが悪い。
569
﹁大丈夫よ、ケン。隣のテーブルが相手いないかしら?﹂
﹁う∼ん・・・ああ、そうだね、空いているか。じゃあ、店の人
に頼むから、あっちに少しだけいてもらってもいいかな?﹂
﹁いいわよ。あなたから見える場所なら、ね﹂
﹁その点は大丈夫だよ。僕の真正面のテーブルが空いているから﹂
賢一は軽く手をあげると、やってきたウェイターにクィンの背後
のテーブルに彼女が少しの間だけ移っても構わないか聞くと、平日
という事もあり簡単に了承を得る事ができた。
ウェイターにジュリアの飲み物を頼むと、彼は立ち上がってジュ
リアの手を取ってテーブルに連れていく。
彼女が席についてその前にウェイターが飲み物を置くと、彼女の
手を取ってどこに飲み物があるかを教えてからクィンの前の席に戻
ってきた。
それを見ていたクィンは何かいいかけたものの、今は優先する話
がある、と口を開かなかった。
﹁待たせて悪かったね﹂
﹁いや・・気を遣わせたな﹂
﹁大丈夫だよ。彼女はこの程度の事で気を悪くしないからね﹂
ヒラヒラと手を振ってクィンに気にするなと示すと、賢一は水割
りを口に運んだ。
それから真面目な顔でクィンに向き直ると口を開いた。
﹁話をする前に、聞きたい事があるんだけど、いいかな?﹂
﹁・・・なんだ?﹂
﹁クィン、君は翔子の事をどう思っている?﹂
いきなりの核心に、クィンは眉間に皺を寄せる。
﹁なんだ、いきなり﹂
﹁それを知っておかないとどこまで話していいか判らないからね﹂
﹁それはどういう意味だ?﹂
﹁だから、君がただの好奇心で聞いているのであれば、あまり話
570
す事はないって事だよ。だけど君がそれ以上の感情を持っているの
であれば多少の秘密を打ち明けるのも吝かでない、そういう事だよ﹂
﹁・・・・なるほど﹂
確かに賢一の言う通りだ、とクィンは納得する。
おそらく翔子と賢一の間でなんらかの取り決めがあったのだろう、
とそれだけの会話でクィンは確信した。
だから好奇心だけなら話せる内容は限定的なものになる、と言っ
ているのだろう。
﹁・・・俺は彼女を意識している﹂
﹁どういう意味で?﹂
﹁最初は唯の好奇心だったんだと思う。だが・・・ショーコやア
イリーンと接しているうちに、それが好奇心以上の感情だと気づい
たんだ﹂
ここではっきりと好きだ、と口にできない自分にクィンは自嘲す
る。
あのパーティーの夜の事が頭に引っかかっていて、素直に認めら
れないのだ。
そんな彼をじっと見てから、賢一が口を開いた。
﹁それって、好き、っていう意味で? それとも唯の好奇心の延
長?﹂
﹁・・おまえ、なんでそんない突っ込んで来るんだ?﹂
﹁だって、それを知らなかったら話せないから、だよ﹂
つまり賢一はクィンが翔子に対する気持ちを話すまで核心には触
れない、と言っているのだ。
それに気がつくと、クィンは大きな溜め息を吐いた。
﹁あの晩、翔子を助けてくれてありがとう﹂
﹁はっ?﹂
﹁ドアマンたちも助けに入ってくれたけど、客相手に乱暴はでき
なかったからね。君が間に入ってあの女を引き離してくれて助かっ
た﹂
571
﹁おまえ・・・見てたのか?﹂
﹁いいや、あの女につけていた監視が教えてくれた﹂
﹁・・・そうか。別に大した事はしてない﹂
それよりも、その後で彼女を傷つけただろう、とクィンはあの夜
の事を思い出しながら自嘲する。
﹁それでも十分だよ。おかげで徹底的にあの女を痛めつける事が
できた。礼を言うよ﹂
﹁痛めつけたって・・・﹂
﹁きっちりと排除させてもらったよ。もう2度と僕の前には現れ
ない﹂
﹁・・・・﹂
冷たい笑みを浮かべた賢一の顔は、クィンが知っている彼の顔と
は全く違っていて言葉が出なかった。
﹁そのせいでこの3ヶ月ほどは忙しかったんだ。日本とアメリカ
を行ったり来たりしていたからね。ジュリアとも会う時間が取れな
くてストレスが溜まったよ﹂
﹁おまえ・・・ジュリアとは最近知り合ったんじゃないのか?﹂
﹁いいや。彼女とはもう4年以上付き合っている﹂
﹁・・・そんな相手がいたくせにパーティーにショーコを連れ回
していたのか?﹂
思わず後ろを振り返って、そこに座っているジュリアを見てしま
う。
彼女はクィンの視線に気づいていないのか、グラスを両手の中に
囲い込んでカラカラと回している。
﹁それで、翔子に対する気持ちを認めるのかな?﹂
﹁おまえ・・・﹂
﹁好きなんだろ、翔子の事﹂
﹁それは・・・﹂
﹁あの晩、パーティー会場で君を見たんだ。すっごい顔をして僕
の隣にいた翔子を睨んでた。気づいていなかったのかな?﹂
572
バレていたのか、とクィンは少しばつが悪そうな顔をする。
﹁翔子は、ほら、あの通り真面目だからね。っていうか、生真面
目すぎるんだよ。だから君の事をカマかけたけど、教えてくれなか
った。それで気になってね、ちょっとだけ調べたんだ﹂
﹁じゃあ、俺が個人的に2人と出かけたりしていた事も知ってる
のか﹂
﹁うん﹂
﹁そうか・・・﹂
はぁ、と賢一にもはっきりと判るような大きな溜め息を吐いてか
ら、クィンは腹を括ったような顔を彼に向けた。
﹁ああ、俺は彼女が好きだ﹂
﹁友達として?﹂
﹁馬鹿か、おまえは。ここまで突っ込んできておいて、そんな白
々しい事言うなよ。俺は彼女を1人の女として好きだ。欲しいと思
っている﹂
﹁僕がジュリアを想っているように、って事?﹂
﹁ああ、それ以上だな﹂
﹁それはない﹂
僕の方が好きな相手を想う気持ちは強い、と賢一はきっぱりとク
ィンの言葉を打ち落とした。
573
58. Side Quin 2 of 4︵後書き︶
終わらなかった・・・すみません。もう1話続きます・・・多分。
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話
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タイトル変更
574
59. Side Quin 3 of 4
のろけ
あっけらかんと惚気る賢一に少し脱力しながらも、クィンは目の
前の男をじっと見つめた。
そんな彼の視線に気づくと、賢一は困ったような笑みを浮かべて
頭を掻く。
﹁あっさりと認めるんだね﹂
﹁あっさりじゃないだろ? おまえが無理やり言わせたんだ﹂
﹁えっ? そんな事ないよ? ただ確認させて貰っただけだよ﹂
クィンシーが勝手に言ったんだろう、と言い切る賢一は本当にそ
う思っているようだ。
思わずまた溜め息を吐きかけてぐっと堪える。
﹁まぁ、その返事を聞いて少し安心したかな? もし君が翔子の
事を毛色の変わった相手程度にしか思っていなかったら、これ以上
言う事はなかったからね﹂
﹁なんだ、それは?﹂
﹁僕と翔子、そしてジュリアは運命共同体みたいなものなんだよ﹂
﹁ますます意味が判らない﹂
﹁僕は翔子にある提案をした。それは僕の婚約者として周囲に振
舞ってもらう事、誰か別の男と不貞を働いてもらう事、そして人前
でその事を糾弾されて僕に捨てられる事。この3つをこなしてもら
う事で僕から報酬を受ける事になってたんだ﹂
不貞、という言葉にピクリ、とクィンの眉が反応した。
﹁まぁ、不貞といっても不貞を働いている現場を目撃してもらう
ためのもので、本当にしなくても構わなかったんだ。ただ、目撃者
を作ってその証拠として写真くらいは撮らせてやる事にはなってい
たけどね﹂
﹁・・・それを彼女は受け入れたのか?﹂
575
﹁その報酬として、僕からは援助を申し出たんだよ。お互いにお
互いの協力が必要だったって訳。僕としては信用できる相手にその
役をして貰いたかったんだ。ただの契約なのに本物の婚約者ヅラは
されたくなかったからね﹂
確かに賢一が金を持っていると判ると、その金欲しさに本当の婚
約者だったのだと言って婚約不履行の裁判を起こされないとも限ら
ない。
それでも彼の出した提案は未婚の女性にはひどいもののような気
がする。
﹁なんでそんな事を?﹂
﹁ジュリアのためさ。彼女は自分で自分の身を守れないからね。
僕だって護衛の人間はつけているけど、だからと言ってそれで10
0%彼女の安全を保証できるとは限らない。クィンシー、君だって
彼女の目の事、気づいているんだろう?﹂
﹁それは・・・もしかしたら、と思っただけだ﹂
2人に会ってからずっと、もしかしたら、と思ってはいたのだ。
賢一のエスコートの仕方がどう考えても不自然だったのだ。彼女
のための動作は全てゆっくりときめ細かなものだった。いちいち何
をするにも手を差し伸べて、まるで子供のように世話を焼いていた。
先ほど席を移る時もテーブルまで付いて行って座る手助けをして、
わざわざウェイターがテーブルに置いた飲み物を彼女の手に持たせ
た。
Pigim
それらの行動はどう考えても視覚障害者に対する気遣いだったの
だ。
﹁ジュリアは網膜色素変性症︽Retinitis
entosa︾なんだ。4年ほど前に診断されてね。完全に失明し
たのは2年半ほど前だ﹂
﹁全く見えないのか?﹂
﹁見えないね。ただ僕は彼女が完全に失明する前に出会えたから、
彼女には僕の顔を覚えてもらうチャンスがあった。それだけでもあ
576
りがたいって思っている﹂
網膜色素変性症は治療方法が見つかっていない失明する難病だ。
できる治療は失明するのを遅らせる事だけで、それ以外の事はでき
ない。
﹁ジュリアは僕の全てだよ。だけど、僕の周囲には彼女に害する
人間が多すぎたんだ。彼女が健常者であればここまで心配はしなか
ったかもしれないけど、目が見えない彼女を表に出すには不安要素
が多くて心配だったんだ。だから彼女を僕のパートナーとして周知
させる前に、障害になり得る人間を全て排除するために翔子に契約
を持ちかけたんだよ﹂
﹁それが婚約者の真似事だったって事か?﹂ ﹁そうだね。僕の仕事上のライバルなら、僕がなんとかできるけ
ど、僕の妻の座を狙っている女たちはジュリアを狙うだろう、って
思ったんだ。ジュリアには失明というハンデがあるから、きっと結
婚したとしても彼女を執拗に排除しようとする女は出てくると思っ
た。だから僕はそんな相手を許すような甘い相手ではない、って事
を周知させたかったんだ﹂
それが沙也香にした事なのだろう、とクィンには思い当たった。
あの場で直接見ていなかったら、賢一がそんな事をしたと言われ
てもすぐには信じられなかっただろう。それほど普段の飄々とした
彼らしくない手酷い仕打ちだったのだ。
けれどあれだけの仕打ちを見せられてしまえば、おいそれと彼に
手を出そうとするものはいないだろう、と納得もする。
﹁それでも・・ショーコにそんな役目をさせるのはちょっと酷じ
ゃなかったのか?﹂
﹁そうだね。だけど僕にとって一番大切なのはジュリアなんだよ。
僕は彼女を守るためだったら、なんでもするよ。それに僕は翔子に
無理強いしたわけじゃない。ちゃんと彼女の意思を尊重したよ。僕
がしたのは契約を持ちかけただけだ。もちろんそのためにそれなり
の報酬も提示した﹂
577
﹁・・・報酬?﹂
﹁そう。こちらの提案を受けてくれたら100万ドル。成功報酬
に更に50万ドル。合計150万ドルがこの契約婚約の報酬だよ﹂
たかが一時的な婚約者を演じるだけにしては破格の報酬だとクィ
ンは思うが、なぜ彼女がそんな提案を受け入れたのか判らない。
﹁かなりの大金だな﹂
﹁そうだね・・普通に会社勤めしているだけだと手に入らないよ
ね﹂
﹁じゃあなんでそんな大金を提示したんだ?﹂
﹁だって、こっちの都合で彼女の評判を落とすわけだからね。婚
約者がいるのに身持ちがわるい女、なんていう評判があるような女
に興味を持つ男は少ないと思うよ﹂
ま、君は彼女に仮の婚約者がいた事を知らなかったみたいだけど
ね、と軽く肩を竦める賢一をジロリと睨んで見たものの、彼は全く
頓着していない。
﹁それに、彼女にはこのくらいのお金が必要だったしね。僕の周
囲で信頼が置けて、その上お金が必要な年頃の女の子は、翔子くら
いしかいなかったんだ﹂
﹁金? 借金でもあるのか﹂
﹁クィンシー・・・判って聞いているのかな? 君だって妹ちゃ
んに会っただろう? あの子の病気、心臓なんだよ。それに手術を
受けたばかりだ。そのお金がどこから出てきたのか、考えられない
かな?﹂
そうでなくても医療費の高いアメリカで、心臓の手術ともなると
一般人にはとてもではないが払えない。
そういう重病患者は大抵の場合ボランティア活動によって周囲の
人間が集める手助けをしてくれたり、支払えない家族を支援する団
体によって手助けをしてもらうケースが殆どだ。
病院で理事をしているクィンだってそのくらいは知っているつも
りだ。
578
けれど、今賢一がそう口にしなかったから、きっとこれからも翔
子がどこから手術費用を調達したのかと考えなかっただろう。
﹁じゃあ・・・お前と契約することでショーコはアイリーンの手
術費用を捻出したっていうのか?﹂
﹁そう。翔子たちは両親が亡くなった時に土地家屋を相続したけ
ど、あの小さな家じゃあとてもじゃないけど売ったって妹ちゃんの
手術費用にはならないよ。翔子だってそれが判っていたから、僕の
提案を受け入れたんだと思う﹂
そこまで種明かしてしてもらわなければ、クィンには判らなかっ
た。
けれど、言われてみればその通りだと思う。
確かにあれだけの大金を彼女が普通に支払える筈がないのだ。
﹁翔子にとって妹ちゃんは唯一の身内だからね。きっと手術がう
まくいってホッとしていると思うな。リハビリの方も順調らしくっ
てさ、そろそろ月に1度の検診でよくなるって聞いたよ﹂
﹁それは・・﹂
﹁本人から、メールが来たんだ。あのパーティーのあと、彼女は
会社を辞めたからね。残念ながら直接様子を聞く事はできなくなっ
ちゃってね。ジュリアが妹ちゃんの手術の経過を気にしててね、教
えてくれって言ったら月に1回くらいメールをくれるんだ﹂
﹁おまえ・・彼女に言ったのか?﹂
﹁う∼ん・・・言った、っていうか、バレた?﹂
本当は教えるつもりはなかったんだけどね、と困ったような表情
を浮かべる賢一は本当にいうつもりはなかったようだ。
﹁だってさ、ジュリアを守るために翔子を利用したなんて言った
ら、怒るって思ったんだよ。もちろん、ちゃんと対価は支払った、
って言ったんだけど、それでも年頃の娘になんて言う事を頼むんだ、
ってむっちゃ怒られた﹂
﹁当たり前だな﹂
﹁それにジュリアは何度か翔子と話した事があるからね。だから、
579
余計かも﹂
賢一の連絡係として数回ジュリアと言葉を交わした事がある翔子
が、まさかそんな事を彼から頼まれているとは夢にも思っていなか
ったのだろう。
たまたまそれを知ったジュリアは、翔子が受けた屈辱を知ってシ
ョックを受けたのだ。
﹁ジュリアがすごく怒って、翔子に謝罪のメールを送ったりした
らしくってさ。でも翔子は翔子で、そんな事は気にしてないってメ
ールを寄越して来るんだ。そうなると更にジュリアが気にしちゃっ
てさ。だったら、機会があれば何かしてあげようって話していたん
だ。そんな時に丁度君と会ったってわけ﹂
﹁なるほど、ね﹂
﹁それにさ。僕だって彼女の事は嫌いじゃない。仕事だけじゃな
くて信頼できる人間ってそんなにいないからね。だから・・・少し
だけ罪滅ぼしをしようかな、って思ったんだよ﹂
﹁・・・罪滅ぼし?﹂
どういう意味だ? と頭を傾げるクィンに、賢一は言葉を続けた。
﹁あのパーティーの夜、彼女警察と話してからERに行ったんだ
よ。その事をあの女につけていた監視から聞いてね、ERに迎えに
行ったんだ。丁度僕が着いてすぐくらいに治療を終えて出てきた翔
子と合流できたんで、そのままホテルに送って行ったんだ。なんだ
か凄く切ない表情をしていてね、思わず僕は﹃後悔しているかい?﹄
って聞いたんだ﹂
﹁・・・それで?﹂
﹁一瞬辛そうな表情を浮かべてからきっぱりと、後悔していない、
って答えた。何か決意したような顔だったな、あれは・・・だから、
それ以上聞けなかった﹂
﹁・・・そうか﹂
後悔していない、と言うのは翔子の本心なのだろう、とクィンは
思う。賢一から受け取ったお金で愛莉の手術費用がまかなえたのだ、
580
彼女の守るためにした事だから後悔はしていないのだろう。
﹁あの子は、さ・・・真面目すぎるんだよ。確かに他言しないっ
て事も契約の1つだったけど、あそこまで頑なに守る必要はなかっ
た、って思う。そりゃ僕とそういう話をした時はフリーだったかも
しれないけど、その後で好きな相手ができたんだったら、せめてそ
の相手には話してもいいかどうか聞いてくれたら良かったんだ﹂
﹁それができるような性格だったら、ケンだってあそこまで信頼
してなかっただろう? 守秘義務が契約書にあったのであれば、シ
ョーコは何があっても話さないさ﹂
﹁そうだよね・・・きちんと契約内容を重視するから、僕として
も提案できたんだよね﹂
重視しない人間にはそもそも持ちかけていない、と賢一も判って
いるのだ。
﹁なぜ今になって俺に話したんだ?﹂
﹁なんでだろうね? 僕にもよく判らないかな? でも、なんと
かして彼女にも幸せになってもらいたかったから、かな?﹂
僕だけ幸せだと不公平だろう? と真顔で答える賢一を見てクィ
ンは小さく頭を振った。
﹁じゃあ、ショーコとは本当になんでもなかったんだな﹂
﹁だから僕が愛しているのはジュリアだけだって言っただろう?﹂
﹁判った﹂
それさえ判ればクィンとしては十分だった。
あとはなんとかして翔子と話をするだけだ。
酷い態度をとった自覚はある。
けれどあの時は翔子は賢一と婚約していると思っていたのだ。
その腹いせにあんな態度をとったのだと言えば、許してもらえな
いだろうか?
許してもらえるかどうか判らない。まずはともあれ、なんとして
も翔子と会って話をしたい、そう思う。
クィンはテーブルに100ドル札を1枚置いて、すぐにバーを出
581
た。
582
59. Side Quin 3 of 4︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
そしてお気に入り登録、文章評価、ストーリー評価、ありがとう
09−09−2016
09−09−2016
@
@
11:31
07:45
CT
CT ございました。とても励みになっています。
Edited
誤字訂正
Edited
﹃恋人﹄を﹃好きな相手﹄に変更しました。︵お互い告白しあ
@
@
19:18
16:44
CT
CT
ったわけでもなく、恋人と認識できていないのでは、とのご指摘、
ありがとうございました︶
09−10−2016
09−13−2016
話タイトル変更
Edited
Edited
誤字訂正︵読者様からのご指摘、ありがとうございました︶
583
60. Side Quin 4 of 4︵前書き︶
当初の予定ではクィンの話は挿話として本編終了後にでも書いて
入れようかと思っていたのですが、これがあったほうが話が判りや
すいだろうと思いここで入れる事にしました。
それが思わぬ長い話になってしまい、なかなか話が進まなくて申
し訳ありませんでした。
とりあえずクィンの話はここまでです。次回からはまた翔子たち
が登場します。
584
60. Side Quin 4 of 4
クィンはバーを出て歩きながらスマフォを取り出して翔子の電話
番号を呼び出したが、その番号は既に使われていなかった。
今まで頑なに彼女に連絡を取ろうとしなかったから、彼女が電話
番号を変えている事に気付かなかったのだ。
クィンは足を止めてスマフォの画面を見つめる。
翔子が既に仕事を辞めている事は、先ほどの賢一との会話で知っ
ている。
そうなると、あとクィンが知っているのは彼女の家だけだが、そ
の家にいるのかどうか彼には判らない。
賢一は翔子が月に1回ほどメールを寄越して近況報告をしてくれ
ると言っていたので、もしかしたら今まで住んでいた家にはいない
のかもしれないと思ったのだ。
けれど愛莉は手術を終えて退院したからといって、病院通いをす
ぐに止める事はないだろう。
メディカル・レコード
それなら今から病院に連絡して聞いてみてもいいかもしれない。
そう思って腕時計の時間を見ると、当たり前だが医療記録科は閉
まっている。
クィンは小さく溜め息を吐くと、そのまま車を停めているレスト
ランの駐車場に向かった。
バタン
585
どちらかというと閑静な住宅街で、クィンの車のドアを閉じる音
はかなり大きく響いた。
今はまだ午後2時を過ぎたばかりだからだろうか、通りを歩いて
いる人はいない。
クィンは目の前の家のドアを少し眺めてから、ポーチに上がる階
段をゆっくりとした足取りでのぼる。
それからドアベルを押した。
家の奥でドアベルの音が聞こえるが、誰か出てくるような気配は
ない。
しばらく待ってからもう1度ドアベルを押してみるが、やはり誰
もでてこない。
夜に出直した方がいいのだろうか?
そうは思うものの、今週一杯は夜に接待の仕事が入っていてとて
もではないがまたここにくるだけの時間は捻出できそうにない。
どうしようか、と考えていたクィンはふと愛莉との会話を思い出
した。
確か愛莉は翔子が仕事に行っている間、隣に住んでいるグェンと
いう名前の女性のところにいると言っていた筈だ。
もしかしたらその女性に聞けば何か判るかもしれない。
そう思い立つとすぐにクィンは愛莉が言っていた左隣の家に向か
うと、そのままドアベルを鳴らした。
﹁はい? どなたさまでしょう?﹂
待つほどもなく、すぐに内側のドアが開かれた。
﹁私はクィン・マクファーランといいます。ちょっと尋ねたい事
があるんですが﹂
警戒したような少し年配の女性に悪意はない事を示すために、ク
ィンはドアから1歩下がった。
﹁なんでしょう?﹂
﹁お隣に住んでいるショーコとアイリーンの事でお聞きしたいん
ですが﹂
586
﹁・・・﹂
翔子と愛莉の名前を出した途端、目の前の女性の顔が強張ったの
を見てクィンは訝しく思うがその理由は全く判らない。
﹁あの・・・?﹂
﹁あっ・・・・あぁ、ごめんなさいね﹂
﹁いえ。それで、2人の事、知っていますか?﹂
﹁ええ・・・知っていたわ﹂
知っていた、とグェンはどこか淋しそうな表情を浮かべる。
クィンはなぜ彼女が過去形で答えたのか判らない。
﹁先ほど家に行ったんですが、誰もいなかったので﹂
﹁ショーコたちはもう隣に住んでいないわ。隣には違う人たちが
住んでいるの﹂
﹁・・・えっ?﹂
﹁ショーコたちは引っ越して行ったのよ。家は売りに出していた
んだけど、いい話に恵まれなくってね。それで貸し出す事にしたら
しいわ﹂
−−翔子たちは既にここにいない。
ゆっくりとその事実がクィンの頭の中に入ってくる。
﹁・・・それで、いつ引っ越して行ったんでしょうか?﹂
﹁そうね・・・もう2ヶ月くらいになるかしら? いいえ、もう
少し前ね。多分、2ヶ月半くらいかしら﹂
﹁そうですか・・・﹂
もしかしらた引っ越してどこかに行ったかもしれない、とは思っ
ていたのだ。
昨日いつものように病院での理事会の帰りに、いつも愛莉を連れ
てカフェテリアに戻ってきていたナースを見つけて、クィンは思わ
ずその場で声をかけた。
その時に、愛莉がこの病院に来ていない事を聞いたのだ。
587
なんでも違う病院に移ると言って、3ヶ月ほど前に愛莉が術後の
定期検診をしている間に、そのために必要な手続きをしたらしい。
VIOLAT
その話を聞いて、クィンは彼女に愛莉の新しい病院の事を尋ねた
ヒッパ・バイオレーション
のだが、医療関連個人情報保護法違反︵HIPAA
ION︶だから教えるわけにはいかない、と言われたのだ。
おそらく翔子が病院に苦情を申し立てたのだろう、とクィンには
推測できたのだがそれでも思わず顔を顰めてしまった。
とはいえ無理に聞き出す事もできず、それで慌てて今日時間を捻
出してここにきたのだ。
ここに来れば翔子たちがどこに行ったのかわかると思ったから。
﹁申し訳ありませんが、2人の引っ越し先をご存知ないでしょう
か?﹂
﹁・・・引っ越し先、ですか?﹂
﹁はい、私はてっきりショーコたちはまだここに住んでいるもの
とばかり思っていたので、新しい連絡先を知らないんです﹂
﹁それは・・・悪いけど、言えないわ﹂
思わぬグェンの断りに、クィンはクィンは眉間に皺を寄せた。 それを見たグェンは口元に苦笑いを浮かべる。
﹁ごめんなさいね。でもショーコは几帳面だから、引っ越しをし
た時に連絡先が必要な相手にはきちんと引っ越した事を教えている
と思うの﹂
﹁それは・・・﹂
﹁だから、もしあの子があなたに教えていないって事は教えたく
ないって事なのかもしれない。そう思うと私の口からは言えないわ﹂
教えたくない、と言われてクィンはぐっと拳を握りしめた。
その通りだ、と思ったからだ。
あんな酷い事を言った相手に、自分だったらわざわざ教える筈が
ない。
﹁ごめんなさいね。もしショーコから連絡があったら、あなたの
事を聞いてみましょうか?﹂
588
﹁・・・いえ、大丈夫です。こちらでなんとかしてみます。もし
かしたらそのうち連絡があるかもしれませんから﹂
﹁そうね・・・まだ落ち着いていないから。そのうち新しい家を
買ったら連絡が来ると思うわ﹂
今は仮の住まいらしいの、と付け加えてくれたグェンに礼を言っ
てから、クィンは頭を下げて辞去した。
それから伝手を使って調査員を雇い、翔子たちの行方を調べたの
だが全く手がかりがなかった。
素人である翔子たちがそこまで完全に姿を隠せるとは思えないの
だが、まるで誰かが手を回して翔子たちのところにたどり着けない
ようにしているかのように全く手がかりがないのだ。
そう、おそらく誰かが手を回しているのだろう。
その誰か、にクィンは1人しか思い当たる人物はいない。
大河内賢一だ。
クィンはそこに思い至ったその日のうちに、彼が経営を任されて
いる会社に足を運んだ。
運良く賢一は会社にいて、クィンが名前を告げるとすぐに中に通
された。
﹁久しぶりだね﹂
﹁ああ、1週間ぶりだな﹂
ニコニコと笑みを浮かべてクィンを招き入れる賢一をジロリと睨
むが、睨まれた意味が判っていないのか笑みを浮かべたままだ。
クィンは大きな溜め息を着いてから、賢一に勧められるままソフ
ァに座る。
589
すぐに2人の前にコーヒーが運ばれると、そのままドアが閉めら
れた。
﹁それで、何か用かな?﹂
﹁おまえ、知っているんだろう?﹂
﹁知っている、って何が?﹂
﹁ショーコの引っ越し先だ﹂
﹁えっ? うん、まぁね﹂
だって引っ越しの手伝いをしたからね、とあっさりと賢一は認め
た。
﹁あの晩、なぜそれを教えなかった﹂
﹁だって、聞かれなかったよね? 翔子の事を聞きたいだけ聞い
て、さっさとアーティーを後にしたのはクィンシー、君だよ﹂
﹁それは・・・﹂
賢一の言う通りだ。あの時、あれ以上話す事はないとばかりにす
ぐに店を出たのはクィンの方だ。
だから彼にそう言われると返す言葉がない。
﹁・・・それでも俺がどうするか判っていたんなら、教えてくれ
たってよかっただろう?﹂
﹁なんで? 僕には君がどうするかなんて判らなかったよ。そり
ゃもしかしたら探すかも、とは思ったけど確信はなかったからね﹂
クィンは目の前に座っている男を殴りたい衝動をぐっと抑え込む。
けれど賢一にはそれもお見通しのようだ。
﹁だいたい探していたんだったら、なんでここに来るまでにこん
なに時間がかかっているんだよ。さっさと僕のところに聞きに来れ
ばよかっただろう?﹂
﹁・・・すぐに見つけられると思ったんだ。あの後すぐにショー
コに電話をしてみたら、既に使えなくなっていた。それから住んで
いた家まで行ったら、知らない人間が住んでいた。隣の女性に聞い
たが教えてもらえなかった・・・﹂
﹁それなりに努力はしたみたいだね﹂
590
﹁ああ、調査員も雇ったよ。けど、全く足取りが掴めなかった﹂
・・・
おまえが隠しているんだろう、と言わんばかりの視線を賢一の方
に向けると彼は軽く肩を竦める。
﹁彼女たちを守るために僕が頑張ったからね﹂
﹁俺から、か?﹂
﹁まさか。うるさい連中から、だよ。それに特にあの女から、だ
よ。多分もう手を出してくる事はないと思うけど、100%確実じ
ゃないからね。もしかしたら八つ当たりで2人に危害を加えるかも
しれないと思ったから、念入りに2人の足取りを消したんだ﹂
あの女、と賢一に言われてクィンが思い出すのは、あの時ホテル
のエントランスで翔子に乱暴を働いていた女の事だ。
﹁まだ絡んでくるのか?﹂
﹁いいや。今のところはまだ、ね。あのパーティーが終わった次
の週に日本から父親がやってきて連れ帰ったよ。だけど、こっちに
いないからって何もしないとは限らないだろう?﹂
﹁・・・ああ、そうだな﹂
認めたくないが、ああいう輩は何をするか判らないという点では
賢一に同意する。
﹁それに2人はまだ引っ越し先を決めてないよ。今は翔子の友達
の家に間借りしているんだ。もしかしたらそのまま友達の家の近く
にアパートを借りるかもしれない、ってこの前のメールで言ってた
から、そこが引っ越し先になるかもしれないね﹂
﹁友達の家って、どこにあるんだ?﹂
﹁テキサスだよ。パドレ・アイランド・・・ううん、ガルベスト
ンの近く? コーパスとヒューストンの間にある小さな町だよ﹂
﹁遠いな・・・﹂
ガルベストンはテキサスの海沿いに並んでいる細長い島だ。
パドレ・アイランドはその細長い島の西側半分ほどの地名でコー
パス・クリスティーの向かい側で、ガルベストンはヒューストンの
向かい側に位置している。
591
﹁それでも、会いに行くんだろう?﹂
﹁・・・ああ﹂
直接会って話をしろ、と言われているような気がして、クィンは
頷いた。
それを見てようやく賢一は彼が本気だと納得したのだろう、クィ
ンと視線を合わせて頷いた。
﹁じゃあ、居場所を教えようか?﹂
﹁頼む﹂
﹁今週中だったら友達の牧場にいると思うよ。でも来週になると
妹ちゃんと旅行に行くって言ってた﹂
そう言いながら賢一はデスクの引き出しから1つの封筒を取り出
した。
どうやら既に用意していたようだ。
﹁・・・・用意周到だな﹂
﹁そのうち来ると思っていたからね﹂
﹁ふんっ﹂
﹁っていうか、来てほしいな、って思ってた﹂
なんだかんだと言いながらも賢一も翔子の事を気にしているのだ。
その思いがたったそれだけの会話からクィンにも伝わってくるか
ら、彼もそれ以上悪態をつけなかった。
だから一言、﹁ありがとう﹂とだけ言うとクィンは部屋を後にし
た。
592
60. Side Quin 4 of 4︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
そしてお気に入り登録、文章評価、ストーリー評価、ありがとう
ございました。とても励みになっています。
593
61.
長いクィンの話を聞いている間に2人の前のコーヒーは冷め切っ
てしまっていた。
けれど2人ともそんな事には気づいていない。
クィンは大きな溜め息を1つ吐いてから、改めて視線を翔子に向
けた。
﹁最初からケンに聞いておけばもっと早くショーコを探し出す事
ができていた、って事だな﹂
﹁それは・・・でも、どうしてそこまでして・・・・﹂
どうして、と呟くような翔子の言葉にクィンは器用に片方の眉を
上げる。
今までの話を聞いていれば、自分がここにきた理由は判っている
筈だ、と思ったのだ。
﹁俺の話をちゃんと聞いていたのか?﹂
﹁それは・・・はい、もちろんです﹂
﹁じゃあ、俺がなぜここに来たのか、判っただろう?﹂
﹁でも・・・﹂
クィンの話はあまりにも翔子にとって意外すぎて、素直に信じら
れないのだ。
特にあの夜の彼の態度を覚えているだけに、もしかしたら自分の
都合のいいように受け止めている気もしてしまうのだ。
それに賢一と親しい間柄という事は、仕事上の繋がりがあるとい
う事だろう、と翔子は思っている。
その上彼は愛莉が世話になっていた病院の理事だ。
という事はそれなりに裕福、もしくは社会的地位を築いている立
場の人間だという事だ。
そんなクィンとただの一般人である自分が釣り合う筈がない、い
594
くら彼が翔子に好意を持っていてくれていてもそこから先の事は望
めない、それが現実なのだ、と翔子はそう思っている。
﹁俺の言葉は信用できないか?﹂
﹁えっ・・・いいえ・・・その・・・・﹂
そんな翔子の内心の思いを察したのか、クィンが鋭い視線を向け
る。
﹁確かにあんな酷い事を言ったあとだからな。今は何を言っても
信用されなくても自業自得だ。俺としては文句は言えない﹂
﹁そっ、そんな意味じゃあ・・・﹂
﹁でも、信じられないんだろう?﹂
﹁それは・・・﹂
頭を振って翔子から視線を外したクィンに何か言おうと思っても、
翔子には何を言えばいいのか判らない。
どうしよう、と困って視線をウロウロさせていると、ふわっとテ
ーブルの下の膝の上に置いてあった翔子の左手が温かいものに包ま
れた。
驚いて顔を視線をテーブルの下の自分の手に向ける。
もちろんテーブルの下だから見えないのだが、感触でそれがクィ
ンの手なのだと判った途端顔が真っ赤になった。
慌てて手を引っ込めようとしたものの、キュッと力を込められた
のでそれもできず、ただそのまま彼の体温を感じていた。
﹁俺にもう一度チャンスをくれないか?﹂
﹁チャンス、って・・・・﹂
﹁もうあんな事は言わない。あんな風にショーコを扱わない。だ
から、少しずつ、俺を信じてくれないか?﹂
﹁・・・・クィン﹂
﹁本当はすぐにでも俺の事を信じてもらいたい。けど、あんな酷
い事を言ったあとじゃあ、ショーコにそんな事頼めない﹂
﹁そんな事・・・・﹂
ない、と口に仕掛けたものの、翔子はそれを言葉にできなかった。
595
﹁いいんだ。仕方ない。俺のせいだからな﹂
苦笑いを浮かべたクィンはそのまま親指で翔子の手をそっと撫で
る。
﹁でも、諦めるつもりはない﹂
﹁それって・・・﹂
どういう意味? そう言葉に仕掛けた翔子の頰にクィンの手が伸
ばされる。
﹁諦めるつもりだったら、最初っからこんなところまで来ていな
い。ケンから真相を聞かされてもそのまま何もなかった顔をして、
ショーコの事を忘れて今まで通りの生活を送っていたさ。けど諦め
きれないから、こうしてノコノコとマヌケ面を晒してまでもここに
来たんだ﹂
﹁私・・・そんな風に言ってもらえるような女じゃないんです﹂
﹁そんな事はない﹂
﹁いいえ・・・・私・・・私はお金のためにあんな事をするよう
な人間ですから﹂
全てはお金のためにした事だ。たとえ妹の愛莉の病気の治療のた
めだったとはいえ、それは否定できない事実だ。
﹁私はあなたに嘘をつきました。あそこで嫌な思いをさせてしま
ってごめんなさい﹂
ボス
﹁ショーコ、それは・・・﹂
﹁確かに私は賢一さんと契約を交わしてました。だから、本当だ
ったらあんな風にあなたと親しくなるべきじゃなかったんです。病
院で顔を合わせても、そのまま関わりを持たなければよかったんで
す。でも、つい愛莉があんな風に懐くから・・・いえ、愛莉のせい
じゃないですね。私がきちんと線を引いていれば、あなたに嫌な思
いをさせる事はなかったんです﹂
それでも、と翔子は思う。
それでも彼に惹かれる自分を抑える事はできなかっただろう、と。
最初反発しあっていたものの、なぜか彼に惹かれていったのだ。
596
あの状況でそれはまずいと判っていたのに、彼と会う事を止めら
れなかった。
テーブルの下でクィンに包まれていた手をそっと抜き取る。
途端に手が冷たく感じる。
暑い外にいるのに、どうして冷たく感じるのだろう?
翔子はそんな気持ちをぐっと抑えて立ち上がると、彼の目を真っ
直ぐ見つめてからクィンに頭を下げた。
﹁ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありませんでした﹂
﹁・・・﹂
﹁それから、あの時、助けてくださって、ありがとう、ございま
した。本当、に感謝、してい、ます﹂
言葉が途切れ途切れになってしまう。
それでもずっと彼に伝えたかった事を言いたかった。
一番伝えたい翔子の胸の奥の想いは秘めたままで・・・
でも、それでいいのだ。クィンは手の届かない存在なのだから。
忘れられない1夜を共に過ごせただけで翔子には十分なのだから。
あの夜の思い出があれば大丈夫。翔子は胸の奥で自分に言い聞か
せる。
そして、きっとこれが彼とこうやって言葉を交わす最後だと思う
と、なぜか涙が浮かんできた。
涙と共に込み上げてくる嗚咽を漏らさないようにぐっと堪える。
ガタンと椅子が動く音がした。
おそらくこのままクィンは行ってしまうのだろう。
彼がテラスを出て行ったら、顔を上げて彼の後ろ姿を見送ろう。
最後に見る事ができる彼の姿が後ろ姿だというのは残念だが、それ
でも忘れないように胸に刻み付けるつもりだった。
そんな事を思いながら俯いた翔子の視界に磨かれた焦げ茶の靴が
入ってきたかと思うと、そのままぐいっと肩をを掴まれて上体を起
こさせられた。
驚いて上げかけた顔はそのままクィンの胸に押し付けられる。
597
翔子は彼の胸を押し退けようとするが、彼女を抱きしめる腕の力
は強く逃れる事ができない。
﹁クッ、クィンッッ﹂
﹁俺を拒むな﹂
﹁だって・・・﹂
﹁頼むから、俺を拒まないでくれ﹂
﹁私は・・・﹂
拒んでなんかいない、と言いたくても顔を胸に押し付けられてい
るせいで言葉にできなかった。
﹁俺を遠ざけないでくれ。頼むから、一緒にいたい、と言ってく
れ﹂
﹁・・・クィン﹂
﹁酷い事をした。酷い事を言った。俺のせいだって判ってる。だ
が、頼むから俺を拒絶しないでくれ﹂
どうしてクィンが謝っているのだろう?
抱きしめられた腕の中で翔子はぼんやりと考える。
どう考えても悪いのは翔子なのに。
翔子はゆっくりと両手を彼の背中にまわして、そっと抱きしめる。
そうするとクィンの腕の力が少しだけ緩んだ。
大きく深呼吸をしてからゆっくりと頭を上げて見上げると、彼は
どこか途方にくれたような表情を浮かべていた。
こんな顔の彼を見たのは初めてだった。
翔子の覚えているクィンは、いつだってどこか傲慢なほど自信た
っぷりの表情を浮かべていたのだから。
思わず翔子はそっと片方の手を背中から離して、そのまま前に動
かすと彼の頰に触れる。
翔子の手が触れた途端、彼は目を眇めたがその手を離せとは言わ
なかった。
﹁あなたが謝る事はないわ﹂
﹁ショーコ・・・﹂
598
﹁私が最初から全てを話していれば・・・私があなたに近づかな
かったら、あんな嫌な思いをさせなかったのよ﹂
﹁違う﹂
﹁違わないわ﹂
違わない、と翔子は頭を横に振った。
自分が近づかなければ、彼をこんなに苦しめる事はなかったのだ。
﹁違う。俺が勝手にショーコに近づいて話しかけた。そうだろう
? パーティーでも、病院のカフェテリアでも、だ﹂
﹁でもクィンは何も知らなかったじゃない﹂
﹁そうだな・・・だが、あのままお互いが関わりを持たなかった
ら、俺はショーコを知る事もできなかった﹂
﹁クィン・・・﹂
﹁俺は、ショーコとアイリーンを見て、羨ましかったんだ。アイ
リーンの生意気な口の聞き方も、そんな彼女をそばで見守るショー
コも、そんな2人の中にいれてもらって、同じ時間を過ごせた事が
凄く嬉しかった。俺はあんまり家族というのもを知らなかったから、
ショーコたちと一緒にいる事がとても楽しかった﹂
クィンの両親はいつだって仕事ばかりで、彼はいつも家に1人だ
った。だからこそ、カリフォルニアの祖父母との時間はとても貴重
だったのだ。
翔子と愛莉でなければ、そんな大切な場所に招待する事はなかっ
た、と今更ながらに思うほどだ。
﹁ショーコといると、俺は自分でいられる気がする。アイリーン
がいれば尚更だ。だから、これからもずっと俺の傍にいてほしい﹂
﹁でも・・・私は・・・﹂
﹁ケンから話は全部聞いた。だから、あの事を引け目に思う事は
ない。それにジュリアの事も聞いたよ﹂
﹁ジュリアの事・・・って、目の事も聞いたの?﹂
﹁ああ、どうしてあいつが信頼できる人間に頼んだのかも理解し
たつもりだ﹂
599
もし翔子の目が見えなかったら自分も何があっても守ろうとした
だろう、と賢一がどうしてあんな手段をとったか気持ちは判るつも
りだ。
自分だったらもっと強引な手段をとっていた気もするくらいだ。
﹁ケンはジュリアに全て話した﹂
﹁・・・うそ﹂
﹁話した、というより、バレたって言ってたけどな﹂
﹁・・・・そう﹂
勘の強いジュリアの事だ、賢一が誤魔化しきれなかったと言われ
ても納得できる気がする。
﹁ジュリアに滅茶苦茶怒られたって言ってたぞ﹂
﹁気をつけたほうがいいって、言ってたんだけど・・・﹂
﹁ショーコが気にする事じゃないさ。あいつの自業自得だ﹂
酷い言い方をするクィンを見上げて翔子がジロリと睨み付けると、
そんな彼女の唇にチュッと触れるだけのキスを落とした。
﹁クッ、クィンッッ﹂
﹁ごめん、我慢できなかった﹂
﹁・・・もうっ﹂
ハッとして愛莉がいる室内を振り返ると、にっこりと笑みを浮か
べた愛莉と目があった。
バッチリ見られたようだ、と気がついた途端、翔子の顔に血が上
ってくる。
﹁顔が赤いな。やっぱりここは暑いか?﹂
﹁・・・違うわよ。クィンのせいよ﹂
﹁俺か?﹂
﹁こんなところでキスするから・・・﹂
﹁なるほど﹂
もう、っと文句を言いながら彼の胸を軽く叩く翔子の手をとって、
クィンはその手を口元に持ちあげるとそのままそっと唇で触れる。
﹁愛してる﹂
600
﹁クィン・・・﹂
﹁俺を受け入れてほしい﹂
真摯な視線を向けられてじっと見つめられると、翔子は少し逡巡
してから小さく頷いた。
翔子だってクィンの事を愛しているのだ。
それ以上抗える筈がなかった。
601
61.︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
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ございました。とても励みになっています。
602
62.︵前書き︶
﹃﹄は日本語、﹁﹂は英語です。
603
62.
窓からサン・アントニオの街の夜景が見える。
翔子は窓越しにそれを見るともなく眺めた。
あまりにもいろいろな事がありすぎて、頭がパンクしそうだ。
特に、と翔子は閉じられたドアの向こうに視線を向けた。
﹃愛莉ったら、ほんっとうにもう・・・﹄
翔子が見つめたドアの向こうでは、愛莉はもう寝ている頃だろう。
大きなベッドに1メートルほどのテディベアを抱きしめて眠って
いる愛莉を思い出して、翔子は小さく溜め息を吐いた。
クィンの登場にも驚いたが、それよりも彼に対峙する愛莉にはも
っと驚かされたのだ。
けれど、それと同時に愛莉がどれほど自分を大切に思ってくれて
いるかを知ることもできて、そんな彼女の思いがとても嬉しいとも
思っている。
翔子はまた視線を窓の外に向けて、今日の出来事を思い出してい
た。
﹃仲直り、したの?﹄
﹃え・・・ええ、そうね﹄
テラスからレストランの中に入ってきた2人を見た愛莉の開口一
604
番のセリフがそれだった。
その翔子の返事を聞いてから、今度は隣に立っているクィンを見
シッシー
上げた。
﹁お姉ちゃんを泣かせてない?﹂
﹁なんとか大丈夫みたいだな。もし泣かせたとしても、嬉し涙だ
ったらオッケーだろう?﹂
﹁本当に嬉しいと思っているのなら、だけどね。でもどうかしら
?﹂
器用に片方の眉を上げてコツコツとテーブルを指先で叩いてみせ
る愛莉は、どこで覚えたのかと聞きたくなるほどだ。
﹁とっとと帰れ、とは言われなかったな。ホッとしたよ﹂
シッシー
﹁言われてもおかしくない、って自覚はあったのね?﹂
﹁ああ、一応、ね﹂
﹁一応じゃダメね。私、お姉ちゃんがそう言えば、絶対に2人き
りにはさせなかったわ﹂
﹁愛莉っっ﹂
﹁だって、そうでしょ。いきなり現れて﹁話がある﹂じゃあ、通
用しないわよ、普通﹂
一体どこ情報なのだ、と突っ込みたい翔子だが、隣に立っている
せ
クィンが面白そうに笑みを浮かべているのを見ると、それ以上聞く
方が馬鹿らしく思えてしまう。
シッシー
﹁そうだな。だが、ようやく見つけたんだ。気が急いていても仕
方ないだろう?﹂
﹁言い訳、よ。そんな陳腐なセリフじゃお姉ちゃんの心は動かな
いわ。それに探していたっていう割には3ヶ月以上かかったんじゃ
ないの?﹂
﹁それは・・確かにそうだな。悪かったよ﹂
﹁ま、それでも来ただけで十分、かな?﹂
ちら、と翔子の方を見てから、愛莉は小さく頷いた。
﹁でも遅れた分だけポイントは低いわね﹂
605
﹁そうか? でも俺の誠意は伝わるんじゃないのかな?﹂
﹁誠意、ねぇ・・・じゃ、50点ね﹂
﹁厳しいな﹂
苦笑いを浮かべたクィンはそのまま愛莉の隣の席を引くと翔子を
そこに座らせてから、自分は愛莉の正面の席に座る。
﹃お姉ちゃん、本当に十分話をしたの?﹄
﹃十分って・・・﹄
﹁できれば英語で話してくれないかな?﹂
﹁あら? もしこれからも私たちと関わっていくんだったら、少
しだけでも日本語を知っていると何かと便利よ?﹂
﹁覚えておくよ。でも今は英語でお願いしたんだけどね﹂
﹁ふぅ・・・仕方ないわね﹂
肩を竦めて両手をあげてから、仕方ないと言わんばかりに頭を振
る愛莉はなんとも芝居がかっていて、見ている分には面白いのだが
さすがに失礼な態度だ。
シッシー
翔子は小さく愛莉の名前を呼んでジロリと睨んだ。
シッシー
﹁でもね、お姉ちゃん。このあたりははっきりさせておきたいの
よ。だってもうお姉ちゃんが哀しんでいるところは見たくないもの﹂
﹁私は別に・・・﹂
﹁そうね。口にはしなかったけど、元気もなかったし、どこかボ
ンヤリとしていたでしょ? それに時々悲しそうな目をしていたじ
ゃない﹂
そんな態度を取っていた自覚はないのだが、愛莉が言うのであれ
シッシー
ばそうだったんだろう。
﹁クィン、お姉ちゃんを大切にしてくれる?﹂
﹁もちろん﹂
﹁今まで泣かせた分、もよ?﹂
シッ
﹁それ以上幸せにしたいと思っている。ショーコが幸せそうに笑
ってくれれば、俺も一緒に幸せになれる気がするからな﹂
シー
﹁気がする、じゃなくて、幸せになれるわよ。だって私のお姉ち
606
ゃんだもの﹂
ツン、と顎を上げて横目でクィンを見る愛莉と、そんな彼女に笑
いながら頷いているクィンの2人は、翔子には判らない繋がりがあ
るように見える。
そういえば、この2人はいつもこんな感じだったな、と翔子は以
前3人で食事に出かけた時の事を思い出す。
生意気な口を利く愛莉に文句を言うでもなく、クィンはいつも楽
しそうに話をしていたものだ。
シッシー
そんな2人をボゥッと見ていると、愛莉が翔子を振り返った。
﹁お姉ちゃん、これからどうするの?﹂
﹁これから? って・・・・まだ考えてないわ﹂
﹁一緒にカリフォルニアに戻らないか?﹂
﹁えっ? で、でも、そう簡単に行ったり来たりはできないわよ。
それにシンディーとも話をしなくちゃいけないし﹂
﹁荷物を纏めるくらいの時間は必要だって判ってるさ。それに2
人を受け入れてくれた友達やその家族とも別れを言いたいだろうっ
て事もね。だからすぐにすぐっていうわけじゃない。ただ、俺のと
ころに戻ってくれるっていう確約が欲しいんだ﹂
﹁でも、以前住んでいた家は貸し出しているから、すぐには帰れ
ないわ﹂
﹁そうじゃない。うちに来て欲しいって言ってるんだよ。俺の家
に一緒に住んで欲しい。うちだったら部屋数は十分あるからショー
コもアイリーンも自室を作って好きにすればいいんだ。そりゃ俺と
してはベッドルームは一緒にしたいけどね﹂
いたずらっぽく笑ってウィンクするクィンに、翔子は返す言葉も
なく顔を赤くして俯く。
﹁まあ、そのうち、な。考えておいてくれると嬉しい﹂
﹁あのねぇ−−﹂
﹁アイリーンだって、バックといつでもいられるからいいだろう
?﹂
607
口をはさみかけた愛莉の言葉を遮って、クィンは笑みを浮かべた
まま犬をダシにしようとする。
けれど愛莉は両手を上げてクィンがそれ以上言う言葉を止めた。
﹁あのね、私はそんな事聞いていないのよ?﹂
﹁そうなのか? だが、今これからどうするのかって尋ねただろ
う?﹂
シッシー
﹁そうね、尋ねたわよ。でも私が尋ねたのは、今日これからどう
するの? っていう事なの。それに私とお姉ちゃんは明日までここ
にいるから、明日は動物園に行こうって話をしてたんだけど、その
シッシー
辺もどうするのかな、って思って聞いたんだけど?﹂
﹁・・そうか。どうも先走ってしまったな﹂
﹁まったく、浮かれきっちゃってるわね。でも、お姉ちゃんも似
たようなものみたいね。だって一緒になってカリフォルニアの話を
しているんだもの﹂
やれやれ、と頭を振る愛莉を見てから翔子はクィンに視線を向け
ると、彼も丁度翔子の方を振り返ったところで、お互い目を合わせ
てからぷっと吹き出した。
けれど思いがけない形でクィンがこれからどうしたいのかを聴く
事ができて、翔子は口元が緩む事を隠しきれない。
﹁じゃあ、とりあえず今夜は俺が泊まっているホテルに移動しな
いか? 広いからショーコとアイリーンの2人がきても十分だ﹂
﹁ベッドルームは2つあるの?﹂
﹁ああ、スイートだからな。リビングを挟んでベッドルームが2
つあるよ。それに郊外だけど最上階だから景色はいいよ。きっとア
イリーンも楽しめると思う﹂
サン・アントニオの北側にあるホテルだとクィンが言うと、愛莉
シッシー
は少し考え込むように顎に手を当てる。
﹁判ったわ・・・じゃあ、お姉ちゃんとクィンは一緒のベッドル
ームね。もう1つは私が使うわ﹂
﹁あっ、愛莉っっ、あなた何言ってんのよっ﹂
608
﹁何って・・部屋割り? だって、そうした方がゆっくりと話が
できるでしょ?﹂
﹁いいのか? 俺としては嬉しいが?﹂
﹁仕方ないもの。テレビでも喧嘩した恋人同士は1つの部屋で話
し合っているみたいだし﹂
﹁・・・一体どこでそんなもの見たのよ、愛莉は﹂
ソープ・オペラ
﹁えっ? グェンの家よ? ランチの後カウチで寝てると、いつ
も私の隣に座って昼メロ見てたから﹂
ソープ・オペラ
なるほど、と翔子は納得した。
確かに昼メロなら、そういったシーンはいくらでもあっただろう。
まさかグェンも愛莉が起きているとは思ってもいなかったに違い
ない。もし知っていたらチャンネルを変えただろうと翔子は思う。
﹁でも、そうするとアイリーンは淋しくないかな?﹂
﹁大丈夫よ。ちゃんとテディベアを持ってきているもの﹂
﹁そうか・・・じゃあ、俺にショーコを譲ってくれるお礼に、新
シッシー
しいテディベアを送ってもいいかな?﹂
﹁ホント? あっ、でもお姉ちゃんがいいって言えば、だけど﹂
﹁はぁ・・・いいわよ、もう。この先のモールにお店が入ってい
るって言ってたでしょ? そこで買って貰えばいいわ﹂
どうせ買う予定だったんだし、と翔子は溜め息を吐きながら頷い
た。
﹁いいのか?﹂
﹁ええ、もともと元気になったらお祝いに1つ買いましょうって
言っていたの。今日この街で見て回るつもりで愛莉がいろいろと調
べていたのよ﹂
﹁リバーサイド・モールにおっきなテディベアのお店があるの﹂
うん、と頷いてモールがある方向を指差す愛莉に、クィンと翔子
は顔を見合わせて笑う。
﹁じゃあ、そろそろ行こうか?﹂
﹁そうね﹂
609
﹁私はとっくに準備万端よ﹂
誰よりも先に立ち上がった愛莉は自慢げに言うが、どう見ても一
番楽しみにしているようだ。
クィンは立ち上がってから翔子の前に手を差し伸べた。
その手を少しはにかみながらも、翔子は受け取って立ち上がる。
そんな2人を見てニヤニヤ笑っている愛莉を翔子はジロリと睨ん
でから、空いていた席に置きっぱなしになっている愛莉のお土産を
手の取ると先頭をいく愛莉の後ろをクィンと手を繋いだままついて
いった。
610
62.︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
そしてお気に入り登録、文章評価、ストーリー評価、ありがとう
ございました。とても励みになっています。
611
63.︵前書き︶
今週は毎日連載します! といっても5話ですが・・・・そこで
完結予定です。︵^︳^;︶
︵月︶ー︵金︶の毎日連載で終了予定です。
あと少しですが最後までお付き合いいただけると嬉しいです。
612
63.
。
ディナー
ふわっと温かい何かに背中から包まれて、翔子がハッと顔をあげ
ると窓ガラスにクィンが映っている
﹁クィン・・・﹂
﹁何かいいものが見えたか?﹂
﹁・・夜景?﹂
﹁ここから見る夜景は結構有名なんだ。だから夕食も夜景を楽し
んでもらえるだろうと思って、ここの上のレストランの窓際の席を
予約しておいたんだ﹂
リバーサイド・モールで愛莉にテディベアを買った後、クィンは
自分が運転する車で翔子たちが泊まっていたモーテルに行き2人の
荷物を纏めた。
それからその足でこのホテルにやってきたのだ。
翔子の車は彼女が本来泊まる予定だったモーテルに残してきてい
るのだが、ソツのないクィンは2人が荷物を纏めている間に、今夜
のモーテル代金はそのままでいいから車を置かせてもらうように頼
んでいた。
その事はここに来る道中翔子に伝えると、彼女も車の事が気にな
っていたのかそれを聞いてホッとしていた。
ホテルのクィンが予約していた部屋に入って、最初に目に入った
のが真正面のカーテンが大きく開かれた窓の外に広がる景色だった。
サン・アントニオには高層ビルはあまり多くないので、かなり遠
くまで見渡す事ができるのだ。
歓声を上げて窓に走り寄った愛莉と、ドアの前で立ち尽くして窓
からの景色を見ている翔子は対照的だった。
クィンに背中を押されてようやく気付いたように、翔子は部屋の
中に足を踏み入れたのだった。
613
最初に足を踏み入れた部屋は20畳ほどの広さのリビングエリア
で、左右に1つずつドアが付いており、クィンがそれぞれがベッド
ルームだと教えてくれた。
既に日も暮れかけていたので、クィンは翔子たちにとりあえず荷
物はリビングに置いてまずは食事に行く事にした。
食後部屋に戻ってから愛莉は両方のベッドルームを見てから、右
手の部屋を所望した。
本人曰く、右手の部屋のインテリアの方が可愛いんだそうだ。
そして有無を言わさずにその部屋を自分とテディベアで使う、と
宣言した。
翔子はもう1度反論して愛莉と一緒の部屋で寝ると言ったのだが、
それは愛莉が却下した。
愛莉曰く、新しいテディベアと仲良くなるために一緒に寝たいか
ら、だそうだ。
その時の事を思い出して思わず小さな溜め息がでそうになるが、
翔子はなんとかそれを我慢した。
﹁アイリーンは寝てたよ﹂
﹁見に行ったんですか?﹂
﹁まぁな。ショーコが気にしてるかもしれない、と思ってね﹂
﹁ありがとうございます﹂
気にするな、と翔子の髪にキスを落としながら返事をするクィン
をちらっと見上げてから、翔子はまた視線を窓の外に移した。
﹁テディベアを気に入ってくれてよかったよ。抱きついて寝てい
た﹂
﹁まさかあんな大きなテディベアを買ってもらえるとは思ってい
なかったみたいでしたからね。私もビックリしましたけど﹂
﹁今夜は1人で寝るっていうから、だったらベッドの中で小さな
ディナー
テディベアと寝るよりはでっかいのと寝た方が寝つきが良くなるん
じゃないかな、って思ったんだ﹂
﹁まぁ、でも、愛莉のテディベアも一緒に夕食の席に座るとは思
614
いませんでしたけどね﹂
レストランに行く時の騒動を思い出して、翔子は思わず笑ってし
まう。
﹁ああ、あれか・・・まぁ、予約していた席は4人用のテーブル
だったからな。場所は1つちゃんと空いているって判っての事だっ
たんだろうな﹂
﹁無理を言ったようですみませんでした﹂
﹁いやいや、あれはあれで面白かったよ。でもたまにあるみたい
だよ﹂
くすくすと愛莉のテディベアの席を頼んだ時の事を思い出してク
ィンが笑う。
﹁そうなんですか?﹂
﹁ああ、みたいだな﹂
翔子もクィンにつられてふっと口元に笑みを浮かべて、窓ガラス
に映ったお互いの視線を交わした。
クィンは暫し視線を合わせてから、翔子の腰に手をやったままく
るっと自分の方に彼女の体を回した。
驚いた顔を見上げてくる翔子の頰に軽く触れるだけのキスを落と
しそのまま彼女の左手を取ると、スッと滑らかな動きで翔子の前に
跪いた。
﹁クィン・・・?﹂
訝しげに頭を傾げる翔子の手の甲にクィンの唇が触れる。
﹁やっとショーコが俺の元に帰ってきた気がするよ。まさか探し
出すのにこんなに時間がかかるとは夢にも思わなかった﹂
﹁それは・・・﹂
﹁ショーコを責めている訳じゃない。むしろ自分の不甲斐なさを
しみじみ実感しているところだ。もっとちゃんと考えていれば、シ
ョーコが男を手玉にとって遊ぶような女じゃないって事はすぐに判
った筈だからな﹂
初めて会った時から男慣れしているようには思えなかった、とク
615
ィンは今更ながら思う。
それに自分は彼女にとっての初めての男なのだ。
どうしてあの時その事を思い出せなかったのだろう。もしあの時
その事を思い出せていたなら、もう少し状況だけではなくその後ろ
にある事情の事も考える事ができていた筈だ。
﹁あの時、酷い事を言った事を今も後悔している﹂
﹁それは仕方ないと思ってます。だって、私は・・・﹂
﹁あれを察する事ができなかったのは俺が不甲斐ないからだ。シ
ョーコは俺に全てをくれただろう? なのに、その事を思い出す事
もせずに俺はただお前を罵っただけだ﹂
全て、という言葉でクィンが2人の夜の事を言っているのだとす
ぐに思い至った翔子の顔がほんのりと赤くなる。
それでも頭を横に振って彼の言葉を否定した。
﹁いいえ・・・私がもう少し考えて行動していれば、あなたに嫌
な思いをさせる事はなかったんです﹂
﹁それはどうかな? もしショーコが自重して俺が近づいても撥
ね退けていたら、俺はお前の事を知る事もなく未だに1人でいたと
思う。あの時、ショーコとアイリーンが俺を受け入れてくれたから、
俺は誰かを想う、という事を知ったんだ﹂
﹁買いかぶりすぎです。私じゃなくったってそのうち・・・だっ
て、クィンは素敵ですから・・・﹂
﹁他の女に言われたって嬉しくないさ。ショーコが言ってくれて
初めて意味がある﹂
どうして彼はこんなに恥ずかしい言葉を翔子にいう事ができるの
だろう?
翔子は恥ずかしさと照れくささで彼の手を振りほどきたいところ
だが、クィンの表情があまりにも真剣だからそれもできずにただた
だなんとか彼の手から自分の手を取り戻す術を考えようとする。
そんな彼女の心の内を知らないクィンは、手に取っている翔子の
左手をそっと自分の頰に当てた。
616
﹁クッ・・・・﹂
﹁ショーコにずっと傍にいてほしい。これから先、ずっと﹂
﹁・・・・﹂
﹁もしかしたらまた今回みたいなすれ違いがあるかもしれない。
他にもいろいろあるかもしれない。喧嘩だってするだろう。それで
も、最後はこうやって2人で寄り添えたらいい、と思う﹂
﹁クィン・・・・﹂
翔子の左手を包むクィンの手に力が入った。
﹁だから、これを受け取ってくれないか?﹂
そう言いながらクィンは翔子の手を自分の頰から離すと、そのま
まポケットから小さな光るものを取り出して彼女の掌に乗せた。
﹁・・・・これって・・・・﹂
﹁俺と結婚してほしい。俺の妻として、いつも隣にいてほしい﹂
﹁でっ・・・でも・・・私がクィンの隣にいたら迷惑になるわ﹂
﹁どうして?﹂
﹁だって・・・クィンは社交界に出ないといけない立場の人じゃ
ない・・・そんな人の隣に私がいたら・・・﹂
あの夜の出来事を知っている人は、彼がこれからも関わっていく
世界には多い筈だ。
そんな人たちがもしクィンが選んだのが翔子だと知ったら一体ど
んな噂をするだろう?
そう考えるだけで翔子はぞっとする。
自分が悪く言われる事は構わない。賢一との契約だって、大切な
家族である愛莉のためだったから、誰に何を言われても構わないと
思っていたのだ。
けれど、クィンが悪く言われる事は容認できない。それも自分の
せいで、だと思うと余計だ。
﹁そんな瑣末な事は気にしなくていい。そんな事、なんとでもな
るからな﹂
﹁でも・・・﹂
617
﹁俺が嫌いか?﹂
﹁クィン・・・﹂
﹁俺には一生を任せられないか?﹂
﹁そんな事・・・﹂
いられるものならこれからもずっと彼といたい、それは翔子の本
心だ。
ただ、そのせいでクィンに迷惑をかけるかもしれない事が嫌なの
だ。
﹁私といたら、悪く言う人が出てきます・・・私が悪く言われる
のは構わないけど、あなたの事を悪く言われたら、私・・・﹂
﹁そんな事気にしなくていい。まぁ、ショーコに気にするな、っ
て言っても無理だろうけどな。だから、それについてもちゃんと考
えている、って今は言っておくよ﹂
﹁それって・・・﹂
どういう意味なんだろう? と頭を傾げる翔子の左手の指先にク
ィンはキスをしてくる。
﹁これを受け取ってくれたら教えるよ﹂
﹁そんな交換条件なんてダメです﹂
﹁でも、受け取ってくれないんだったら言っても意味がないだろ
う?﹂
﹁それは・・・﹂
﹁変な事考えるな。ただ、自分がどうしたいかを考えればいいん
だ。ショーコは俺と一生付き合っていけないって思っているのか?﹂
﹁私・・・私は・・・﹂
彼と知り合ってまだ1年も経っていない。クィンと愛莉、それに
翔子の3人でランチを食べて、彼の家に行く事があった。
あの日々は翔子にとっても大切な思い出になっている。
あのパーティーの夜から彼と会わなくなって、既に4ヶ月以上が
過ぎている。
何度彼の事を夢に見ただろう? 何度彼の名前を心の中で呼んだ
618
だろう?
翔子は自分の掌に載っているキラと光るものに視線を落とす。
どうやって翔子の指のサイズを知ったのかは判らないが、何事に
もソツのないクィンの事だ、きっと左の薬指にぴったりのサイズに
違いない。
それから目の前に跪いているクィンに視線を向けた。
彼は真摯な表情を浮かべたまま、じっと翔子の返事を待ってくれ
ている。
そんな彼の顔を見て、翔子は何かがストンと心に落ちてくるのを
感じた。
クィンは翔子を探し出して、こうやって彼の気持ちをぶつけてく
れたのだ。
今度は翔子が素直に自分の気持ちを彼に伝える番だろう。
翔子は自分の左手を包んでいる彼の手にもう片方の自分の手を添
えて、クィンの顔をじっと見つめたまま彼と同じように跪いた。
﹁・・・・ショーコ?﹂
﹁初めてクィンに会った時、なんて思い上がった男なんだろう、
って思いました。初対面でエラそうに俺に構うな、って何様、って
思ったの。2回目に会ったのは病院ね。あの時もエラそうで、思わ
ずムッとしたのを覚えてるわ﹂
﹁そ・・それは悪かった﹂
﹁でも、3回目。私の前にやってきた時、私はまた何かエラそう
な事を言われるのか、って構えてたんだけど、あなたはそんな私に
謝ってくれたわ。正直、ビックリしちゃったの。クィンって誰かに
謝るような人に見えなかったから﹂
﹁・・・よく言われる﹂
彼自身、思い当たる事だったのか憮然とした表情でいうクィンに、
翔子は思わずぷっと吹き出した。
そんな翔子を睨みつけるが、クィンを知っている翔子は全く怖く
なかった。
619
620
63.︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
そしてお気に入り登録、文章評価、ストーリー評価、ありがとう
ございました。とても励みになっています。
おまけに誤字脱字のご指摘も本当に助かっています。いつもあり
がとうございます。
621
64. ** R 18 ** 翔子はにっこりと笑みを浮かべてから言葉を続けた。
﹁でもね、それよりも愛莉に付き合ってくれた事の方がもっとビ
ックリだったのよ﹂
﹁そうか?﹂
﹁ええ・・・愛莉も一緒に、なんていう人、お隣の一家以外では
誰もいなかったもの。それにクィンはただ愛莉を誘っただけじゃな
くって、一緒になっていろいろと話をしてくれたり、ちゃんと1人
の人として扱ってくれたじゃない。それが・・・﹂
すごく嬉しかった、と小さく口の中で呟くが、しっかりとクィン
には聞こえていたようだ。
﹁そんなあなたがとても気になってきてもおかしくないと思わな
い?﹂
﹁気になってきた、だけか?﹂
﹁ううん、気になってきたのはキッカケよ。私と愛莉をとても大
切にしてくれるあなたに私はいつの間にか惹かれていったの・・・・
ずっと傍にいたい、って思うほどに﹂
翔子はキュッとクィンの手を握った。
﹁クィン・・・私をあなたの傍にいさせてください。もしかした
ら私のせいで嫌な思いをする事があるかもしれないけど、それでも
私はあなたと一緒にいたい﹂
﹁ショーコ﹂
﹁これを受け取っていいですか? 私の指に嵌めると2度と外さ
ないですよ。考え直すなら今です﹂
﹁絶対に外させない﹂
クィンは空いている方の手の指先で指輪を摘むと、そのまま翔子
の左の薬指にそっと嵌める。
622
プラチナの台に乗ったダイヤモンドが部屋の照明を受けてキラキ
ラと光る。
翔子が薬指に嵌った指輪に見入っていると、クィンはその手を取
って指輪の嵌った左指にそっと触れるだけのキスを落とす。
﹁もう、逃がさない﹂
﹁もう、逃げないわ﹂
ぎゅっと抱きしめてきたクィンのせ中に手を回して、翔子も彼を
抱きしめ返した。
分厚いカーテンのせいで外からの明かりが一切入り込まないベッ
ドルームには、ベッドサイドテーブルにあるランプに小さな明かり
が灯っているだけだった。
立て続けに与えられるキスに溺れていた翔子は、いつの間にかベ
ッドに運ばれていた。
彼女自身いつベッドに横たえられたのかもよく判っていない。
気がついたらクィンの素肌が自分の素肌に重ねられていたのだ。
ここに来てようやく我にかえった翔子が思わず体を起こそうとし
たのだが、クィンはそんな彼女にキスを仕掛けて動きを拘束してし
まう。
﹁クッ、クィンッッ﹂
﹁しー・・・﹂
﹁だっ、駄目っ﹂
顔を左右に振ってなんとかクィンのキス攻撃から逃れると、翔子
623
は両手を彼の胸に当てて自身から離そうとするが、途端に不機嫌な
表情でジロリと彼女を睨む。
﹁だっ・・・だって、愛莉が・・・﹂
﹁アイリーンは寝てる﹂
﹁でっ、でも・・目を覚ましたら・・﹂
﹁そのためにベイビーアラームを設置してもらったんだろう?﹂
クィンはベッドサイドテーブルに視線を向けて、その上に置かれ
ている黒い装置を顎でしゃくる。
それはホテルが貸し出しているものだ。乳幼児がいる部屋にセッ
トしてオンにするだけで、泣き声や何か物音がすればその音を拾っ
てスピーカーからアラーム音と同時に音を発生してくれる。
それは愛莉が1人で寝ると言い張る翔子を言いくるめるために、
クィンがわざわざホテルで借りてきたものだった。
﹁もし愛莉が夜泣きしたらちゃんと聞こえるよ﹂
﹁夜泣きって・・・赤ちゃん扱いしたら怒られるわよ?﹂
﹁まぁな。けどそのためのものだろう? そこからなんにも音が
しないって事は、ぐっすり眠っているって事だ﹂
だから気にするな、と短く言って翔子に触れるだけのキスを落と
すとそのままクィンの唇は彼女の喉を伝ってそのまま真下にある胸
の頂きに触れた。
﹁ぁあっ・・・やっ﹂
キュッと唇で頂きを扱きながらもう片方の頂きを指先でキュッと
摘むと、翔子は思わず小さく声をあげた。
その反応に気を良くしたクィンは、そのままチュッと吸い上げる。
ピクっと跳ねる体を抑えきれない翔子としては刺激が強すぎて彼
を押しのけようとしたつもりだが、結果としてクィンの頭を両手で
抱きしめている。
クィンはクスっと喉の奥で笑い、もう片方の空いている手を翔子
の足の間に差し入れた。
そこは既に潤んでおり、十分クィンを迎え入れる準備はできてい
624
る。
そっと指先を襞にそって動かすと翔子の腰が思わず跳ね、慌てて
足を閉じようとしたが既にクィンの左腿が入り込んでいたので閉じ
る事もできない。
クィンは差し入れている左腿をそっと上下させながら、指を彼女
の秘められた場所にゆっくりと沈めていく。
﹁クィンッッ・・・・・んぁあっっ﹂
﹁痛くないか?﹂
﹁んっっ・・・んな事、聞かなっっ﹂
恥ずかしくて答えらないと言わんばかりに、翔子が抱きかかえて
いたクィンの頭を軽く叩く。
﹁だが、聞かないと判らないだろう? ショーコに痛みは与えた
くないからな﹂
﹁っもう・・・大丈夫・・・多分?﹂
﹁俺に聞くなよ? 俺には判らないぞ﹂
揶揄う口調のクィンの頭を仕返しと言わんばかりにぎゅっと抱き
しめるが、クィンは顔を少し上げて翔子を見上げる。
﹁・・・あれから、何もなかったんだろう・・?﹂
﹁・・・あれから、って?﹂
何を聞かれているのかよく判らない翔子は、潤んだ目をクィンに
向ける。
﹁だから・・・あの時、初めてだっただろう?
﹁そっ・・・それは・・・﹂
﹁あれから他の男とこんな事、してないよな?﹂
﹁・・・馬鹿にしないで﹂
翔子は泣きそうな顔で手を伸ばして、クィンの頰を思い切りぎゅ
っと抓った。
クィンはそんな翔子の手に自分の手をのせるとそのまま自分の頰
に押し当てる。
﹁ごめん・・・﹂
625
﹁そんな女だと思ってたの?﹂
﹁違う・・・ただのヤキモチだ。あのパーティーの夜のショーコ
は綺麗だった。だから、たくさんの男が群がってきたんじゃないか、
って・・・馬鹿な事を言った﹂
﹁ホント、馬鹿な事ね﹂
他の男とこんな事をするような女と思われた事にショックだった
が、それでもそんな事をいうほどヤキモチを焼いてくれたのかと思
うとそれはそれで嬉しいのだから、翔子自身すっかりクィンに惹か
れてしまっているのだろう。
仕方ないな、と思いつつ翔子はもう片方の手もクィンの頰に当て
て、そのまま自分の唇を彼のそれに重ねる。
驚いたようにピクリと動いたクィンだが、翔子を押しのける事も
なく彼女のしたいようにさせるつもりのようで、翔子はゆっくりと
閉じられた唇を舌先で突いた。
フッと開かれた唇の間にそっと舌を差し入れると間髪入れる間も
なくクィンの舌が翔子の舌を絡め取った。
﹁んっ・・・﹂
思わず漏れた声もそのまま彼の口の中に吸い込まれていく。
自分から仕掛けたとはいえ慣れない行為に戸惑う翔子の舌を強く
吸い上げて、そのままもう一度絡め直しながらクィンの指先は再び
翔子の体をゆっくりと撫でていく。
甘い刺激に上げかけた声はそのままクィンに吸い込まれ、翔子は
彼の両腕を掴んで必死になって彼が与えてくる刺激の波に飲み込ま
れないようにしがみついていた。
あの夜だけの経験しかない翔子には、あまりにも刺激が強すぎる
クィンとの触れ合いにすっかり翻弄されてしまう。
そんな翔子の乱れる姿にこのまま一気に、と思うものの経験のな
い翔子に無理はできないと必死になって自身を押しとどめるクィン。
これがただの遊びの相手であればここまで気を使わない、と自分
でも思う。
626
だが、翔子には痛みを感じて欲しくないと思う。経験があの夜し
かない翔子に痛みを全く与えない、というのは無理だと判っている
が、それでもできるだけ痛みを感じることなく、ただ自分を感じて
欲しいのだ。
それがただのクィンのエゴだとしても、そのせいで必死に自身を
抑え込まなければいけないとしても、翔子にはただ喜びを感じて欲
しいのだ。
そうしてゆっくりと翔子の体を解したクィンは、彼女の両膝の下
に手を入れて自身を迎え入れやすい体勢にしてしまう。
それからゆっくりとすっかり潤って準備ができているそこに自身
を埋めていく。
﹁んあぁっ・・・﹂
﹁大丈夫か?﹂
﹁んんぅ・・・﹂
うっすらと目を開けて頷こうとした翔子だが、そのタイミングで
更に奥へと侵入を果たしたクィンのせいで与えられた動きのせいで
返事ができないまま小さなうめき声が出てしまった。
﹁痛いのか?﹂
﹁・・・大、丈夫・・・です﹂
眉間に皺を寄せた翔子の頰に片手を当てて心配そうに声をかけて
くるが、翔子としてはどう返事をすればいいのか判らない。
慣れない行為のせいで痛みがあるのは仕方ない、と思っているか
らだ。
それでも翔子のことを心配するクィンの心遣いが嬉しい。
翔子は大丈夫だと伝えるために頰に当てられたクィンの手に頰を
擦り寄せるようにする。
﹁ショーコ・・・﹂
﹁大丈夫。初めてじゃないから﹂
﹁だが、まだ2回目だ。慣れていないだろう?﹂
それにあれからずいぶん間が空いている、と真面目な顔でクィン
627
に言われ、翔子は思わず顔を赤くした。
﹁そっ、それでも、大丈夫です﹂
どうやら揶揄っていたようで、クスクスと笑う声が聞こえて、翔
子は頰を更にクィンの手に押し付けた。
﹁ごめん・・・痛かったら言ってくれ。我慢しないでいいから﹂
﹁・・・はい﹂
額を汗でうっすらと湿らせたクィンを見上げて頷いた翔子に彼は
そっと唇を重ねた。
触れるだけのキスを数回してから、そっと舌先で翔子の唇を突く
と躊躇いがちに開かれるそこにするりと差し入れる。
それと同時に自身も翔子の中にぐっと押し入れた。
開かれた翔子の口から息が漏れ、それと一緒に舌を吸い上げる。
初めてではないとしてもまだ痛みはあるだろう、とクィンは思っ
ていた。
だから少しでも彼女の気を逸らそうとキスを仕掛けたのだ。
翔子はクィンの背中に両手を回してしっかりとしがみついている。
そんな彼女を片方の手でがっしりと腰を掴んで、更に自身を翔子
の奥へと押し入れていく。
やがて全てを収めきったクィンは、唇を離してから翔子の顔を覗
き込んだ。
少し辛そうにしているものの、痛みを堪えている訳ではないよう
だ。
﹁痛くないか?﹂
﹁・・・少し圧迫感があるだけで・・・大丈夫です﹂
﹁じゃあ、動いていいか?﹂
﹁・・そんな事・・・聞かないでください﹂
チラリ、と恨めしそうに見上げる翔子のこめかみに唇を押し当て
て、クィンは喉の奥でくつくつと笑いながらもゆっくりと腰を動か
し始めた。
628
629
64. ** R 18 ** ︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
そしてお気に入り登録、文章評価、ストーリー評価、ありがとう
ございました。とても励みになっています。
@
20:43
CT
おまけに誤字脱字のご指摘も本当に助かっています。いつもあり
09−21−2016
がとうございます。
Edited
読者様のご指摘による誤字訂正をしました。ありがとうございま
した。
630
65. ** R 18 ** 温もりに包まれて目を覚ました。
愛莉だろうか、とまだ覚醒していない意識の中で考えるがそれに
しては感触が違う。
翔子はそっと手を動かして自分を包み込んでいるモノを撫でる。
弾力のあるあまり柔らかさを感じないソレはどう考えても愛莉の
ものではない。第一、大きすぎる。
不思議に思いながらも更に手を動かしていく。
翔子の腰に纏わりついているのは腕だ。その腕を辿っていくと逞
しい肩に触れる。それから更にその背中に手を動かしていくと、翔
子が触れているモノがピクリと動いた。
あれ?
そう心の中で頭を傾げた時、ぎゅっと抱きしめられた。
﹁もう起きたのか?﹂
頭の上から声が落ちてくる。
その声に翔子は一気に覚醒する。
﹁クィ・・ン?﹂
目を開けると目の前にあるのはクィンの胸筋だった。
裸の胸が目に飛び込むと更に翔子の目は覚め、同時に昨夜の事を
思い出していた。
途端に顔に血が上って真っ赤になるが、そんな翔子に気づく事も
なくクィンは彼女を抱きしめたまま頭にキスをする。
﹁もう少し寝ててもいいぞ? まだ6時過ぎだからな﹂
﹁でも、愛莉が起きてるかもしれないから・・・﹂
﹁まだ寝てるさ、なんにも音がしないからな﹂
そう言われて、翔子はホテルから借りてきたものを思い出した。
どこか上機嫌な雰囲気のクィンはゆっくりと手のひらを動かして
631
翔子の肩から腰に手を上下させる。
﹁クッ、クィンッッ﹂
﹁前回は仕事が邪魔に入ったからな、こんな風に朝を堪能できな
かった﹂
だから今堪能しているんだ、としらっと答えるクィンの胸をポン
と叩いて抗議するが全く効いていない。
それどころかその手を掴んで口元に持ってくると、そのまま指先
にキスをする。
なんとなく簡単にあしらわれている気がして面白くないが、クィ
ンが翔子の指輪の嵌った薬指にキスをするのを見て昨夜貰った指輪
の事を思い出して不安になる。
本当に自分なんかでいいんだろうか?
クィンは翔子がいい、といったのだがそれでも不安な気持ちは残
っている。
昨夜は彼の気持ちが嬉しくて指輪を受け取ってしまったが、こう
して朝を迎えて少し冷静な気持ちが戻ってきた今、自分と一緒にな
った時のメリットよりもデメリットの方が多い事に不安が蘇ってく
るのだ。
﹁・・ショーコ?﹂
視線をクィンの胸元に落として黙ってしまった翔子の顔を覗き込
んでくるクィンになんとか笑みを浮かべて見せようとするがうまく
いかない。
﹁また何か良からぬ事を考えているんじゃないだろうな?﹂
﹁良からぬ事って・・・・別にそんな事・・・・﹂
﹁ショーコは昨日俺からその指輪を受け取った。つまりこれから
も俺と一緒にいてもいい、って事だろう? だったら胸に溜めない
で話して欲しい﹂
翔子は躊躇いがちに顔をあげてクィンを見上げると、真面目な顔
をした彼と目があった。
﹁その・・・クィンは、嫌、じゃないの?﹂
632
﹁何が、だ?﹂
﹁だから・・・私はあなたを騙していたわけだし・・・﹂
﹁その理由はケンから聞いて不本意ながらも納得している﹂
﹁でも・・・嫌な思いをさせたでしょう?﹂
﹁当たり前だ。俺はてっきりショーコに裏切られたと思っていた
からな﹂
はっきりと彼の口から聞く事で翔子の胸が痛む。
﹁なのに・・・私で、いいの?﹂
﹁いいも何も、ショーコ以外はいらない。昨日もそう言っただろ
う?﹂
﹁うん、聞いたわ。でも・・・﹂
﹁ああ・・・そういえば1つだけ、どうしても許せない事がある﹂
﹁・・・えっ?﹂
許せない事がある、というクィンの言葉が翔子の頭の中で反響す
る。
どうしても許せない気持ちがあるのに、翔子と一緒にいられるの
だろうか?
キュゥッと胸の奥が痛んだが、自分が招いた事なのだ。
﹁一応ケンの話を聞いて、ヤツの言い訳を聞いてある程度は納得
したんだ。というより、納得するしかないだろう? だが、1つだ
け受け入れられない事がある﹂
﹁それは・・・どうすれば許してもらえますか?﹂
﹁そうだな・・・﹂
もしこのまま2人の関係が拗れてしまったとしても、それは自業
自得だから仕方ないと諦めるしかないが、それでもせめて2人の間
に禍根だけは残したくない。
どこか悲壮な決意を込めてクィンを見る翔子の体は、不意に彼に
よって組み伏せられた。
驚いて目を見開いた翔子はそのままクィンに深く口付けられる。
思わぬ展開に翔子は何も考えられないままクィンの背中に両手を
633
回してしがみついた。
そんな翔子の腰に片手を回してクィンも彼女をぎゅっと抱きしめ
る。
クィンは唇を離した後も翔子を抱きしめたままで、そんな彼の背
中を翔子はそっと撫でる。
﹁・・金を返してくれないか?﹂
﹁・・・・お金・・ですか?﹂
少しの間に沈黙の後、クィンの声が小さく聞こえた。
けれど翔子には彼が何を言っているのか判らない。
﹁ケンから貰った金をアイツに返してくれ﹂
﹁それは・・・でも・・・﹂
賢一に貰った金、というのは翔子が彼と契約した事で得た金の事
だろう、とすぐにピンときた。
確かに翔子としてもあの程度の事であんな大金を貰ってしまった
事に引け目がない訳ではない。
けれどその金は全てではないが、既に愛莉の手術代と入院費用と
して使ってしまっている。
﹁判ってる。アイリーンの医療費として使ったんだろう?﹂
﹁・・・はい﹂
﹁だから、俺にアイリーンの医療費を出させてくれないか?﹂
﹁クィン? だけど、そんな大金・・・﹂
つまり賢一から受け取ったお金を彼に返して、愛莉の医療費はク
ィンが支払う、と言っているのだ。
思いがけない提案に翔子は返答に迷ってしまう。
賢一とはビジネス契約のようなものだったから、多少の引け目は
あっても割り切って受け取る事ができた。
けれどクィンとはそうではない。お互い将来の話はしたものの、
そんな金額の借金を押し付ける訳にはいかないと翔子は思う。
そんな考えを翔子の表情から読み取ったのだろう、クィンは彼女
の頰を両手で包んだ。
634
シスター・イン・ロウ
﹁ショーコの妹は俺にとって義理の妹になるんだ。そんな大切な
相手を助ける事になんの問題もないだろう?﹂
﹁でも・・・あんな大金を﹂
﹁ケンのヤツに借りを作っている気がして腹が立つんだよ。それ
にそれくらいの資産が俺にはある。だから、俺の金を使ってアイリ
ーンを助けたい﹂
今回の手術と入院費用だけで最初に賢一から受け取った100万
ドルの8割弱が消えたのだ。
これから彼女が成人するまでは定期的に検診も受けなければなら
ないし、下手をすればまた手術という事もあり得るのだ。 そんな大金を彼から受け取る事に抵抗がある翔子だが、クィンは
チュッと唇にキスを落とす。
﹁俺のプライドのためにも、あいつに金を叩き返してくれ﹂
﹁だけど・・・﹂
﹁いう事を聞かないと体に言い聞かせるぞ?﹂
﹁クッ、クィンッッ!﹂
なかなかウンと言わない翔子に焦れたのか、クィンの手が怪しく
動き出す。
体に言い聞かせるというのは冗談だろうが、彼の手に触れられた
箇所は既に少しずつ熱を持ち始め翔子は身体を捩るがクィンに伸し
かかれれているので彼の手から逃れられない。
クィンの頭が胸元に下がってきたかと思うと、そのまま翔子の胸
の頂きをペロリと舐める。
思わず掴んでいた彼の腕をぎゅっと握りしめてしまったが、そん
な翔子の反応に気を良くしたクィンはそのままその部分を咥え込む
と唇を使って軽く扱く。
﹁やぁっ・・・んぁあっっ﹂
昨夜の交歓を覚えている身体は、翔子の意思に反してすぐに熱を
持ってクィンの愛撫に応えてしまい、抑えきれない喘ぎが彼女の口
から漏れてしまった。
635
﹁いい反応だ﹂
﹁ばっ・・・ぁあっっ・・・﹂
いき
胸の愛撫による快感とクィンが既に熱り立つ自身を翔子の腿に押
し当ててくる生々しい動きに翻弄され、翔子は枕の上の頭を左右に
動かして快感を散らそうとするのだがうまくいかない。
﹁ショーコ﹂
﹁んっ・・・・何?﹂
﹁ケンに金を返して、俺の金を受け取ってくれ﹂
﹁だっ・・・んぁやっ・・﹂
﹁一言、はい、って言えばいいんだ﹂
翔子が応えるタイミングでキュッと彼女の胸の頂きを摘んだせい
で、抵抗しようとした言葉が嬌声に変わる。
﹁でっ・・・もっ・・・んあぁっ﹂
﹁アイリーンを治したのがケンの金だと思うだけで嫌なんだ。そ
れだけは我慢できない﹂
わだかま
﹁んっ・・・でっもっっ・・・﹂
﹁ショーコも蟠りがあるだろうが、俺を選んでくれたんだろう?﹂
両脚の間に指が忍び込んできて、そのまま既に潤ってきている秘
められた場所に差し込まれていく。
﹁俺にアイリーンを助けるチャンスを与えてくれないか? 彼女
はショーコの妹いうだけじゃなく、俺にとっても本当に大切な相手
なんだ﹂
﹁・・・クィン・・?﹂
﹁あんな楽しい時間を体験させてくれたアイリーンを俺が助けた
い﹂
いつだって1人で家にいた。学校でそれなりに友達はいたが、そ
れでも愛莉と過ごした時間とは全く違った。
愛莉がくれたのは、クィンが経験した事がなかった家族の時間だ。
そんな貴重な体験をさせてくれた愛莉を助けたいと思うのは、ク
ィンにとっては当然の事だった。
636
翔子の両膝に手をかけてクィンが腰を割り入れてくる。
そして秘められた入り口を自身で軽く突きながら、翔子に深いキ
スを仕掛ける。
﹁クッ・・・・んっっ・・﹂
﹁頼むから、うん、と言ってくれ﹂
﹁でも・・・﹂
﹁ショーコ。頼むよ﹂
﹁・・・・いいの?﹂
﹁もちろんだ﹂
﹁じゃあっっ・・・・・んあぁっっ﹂
じゃあ、と翔子が頷くのと同時にクィン腰を進めて一気に彼女の
中に押し入った。
その衝撃に翔子は顎を上げて仰け反ったが、クィンががっしりと
腰を掴んでいるので逃れる事ができない。
思わず零れた涙をクィンが唇で受け止めてそのまま唇にキスをす
ると、カリッと翔子がその唇を噛む。
﹁・・・馬鹿﹂
﹁悪かった。我慢できなかったんだ﹂
悪びれた様子もないまま謝るクィンを軽く睨んだものの、すぐに
動き出した彼に翔子はしがみついた。
クィンはもう一度そんな翔子の唇に自身の唇を重ねながら、その
まま一気に高みを目指して動き出した。
637
65. ** R 18 ** ︵後書き︶
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おまけに誤字脱字のご指摘も本当に助かっています。いつもあり
がとうございます。
638
66. それからあっという間に3ヶ月が過ぎた。
クィンは翔子にすぐにでもカリフォルニアに戻ってきてほしかっ
たが、愛莉の病院の事や彼女たちが世話になっていたシンディーた
ちの事もあり、結局翔子たちがカリフォルニアに戻ったのはクィン
と再会してから1ヶ月後だった。
クィンは翔子たちがカリフォルニアに戻る準備ができたところで
すぐに迎えに飛んだ。
最初、翔子は車で数日かけてノンビリと帰るつもりだったのだが、
待ちきれないクィンは2人のために自家用機をよこしたのだ。
頑なに断ろうとした翔子だが、クィンが自家用機でシンディーの
牧場に迎えにきたところでそれ以上の抵抗は諦め、彼に連れられる
まま近くの飛行場からカリフォルニアに飛んだのだった。
行き先はクィンが住んでいた彼の祖父の家だった。
出迎えたマーサは大喜びで2人を迎え入れ、そのまま愛莉を彼女
の部屋用として用意されていた部屋に連れて上がる。
クィンは呆気にとられた翔子の手をとって自分の寝室の隣の部屋
に連れて行き、そこが翔子の部屋だと見せたのだった。
仕事に戻ろうか悩んでいた翔子に、クィンはせめて年内はこの生
活に慣れるために仕事はしない方がいい、と言った。
翔子もそう言われるとその方がいいような気がして、とりあえず
年内はのんびりとクィンとの生活を楽しむ事にした。
639
そして、今夜はクリスマス。
例年であれば大きなクリスマス・パーティーが催される時期だが、
今日は愛莉をマーサに任せて翔子はクィンとパーティーにやってき
ていた。
緊張で喉がカラカラに乾いている。
思わずフラッとよろけそうになるが、そんな翔子の腕をクィンが
掴んで助けてくれた。
﹁大丈夫か?﹂
﹁多分・・・ちょっと緊張してるだけ﹂
﹁ちょっと、じゃないだろう? 顔色が悪い﹂
どうやら緊張しすぎて顔色が白くなっているようだ。
翔子は目を閉じて大きく深呼吸をして、なんとか気持ちを落ち着
けようとする。
こんなパーティーに出席するのはあの晩以来だ、と思う。
ゆっくりと目を開けると、心配そうに翔子の顔を覗き込んでいる
クィンと目があった。
﹁大丈夫。本番には強いの﹂
﹁そうか?﹂
強がって言ったものの、どうやらクィンには翔子の強がりは見抜
かれているようだ。
﹁もうそろそろしたらケンたちが着く筈だ﹂
クィンがホテルのエントランスに視線を移すと、丁度そのタイミ
ングでドアの向こうから賢一たちが現れた。
それを見てクィンは翔子の背中に手を当てて、2人の方に歩き出
す。
﹁あれ、待たせたかな?﹂
﹁いや、俺たちもちょっと前に着いたばかりだ﹂
640
ボス
﹁そっか・・・久しぶりだね、翔子ちゃん﹂
﹁はい・・・久しぶりです、専務代理﹂
声をかけられるとは思っていなかった翔子は慌てて頭をさげて挨
ボス
拶を返すが、賢一は気にするなと言わんばかりにヒラヒラと手を振
った。
﹁その呼び方は辞めて欲しいかな。僕はもう君の上司じゃないか
らね。賢一でもケンでも好きに呼んでくれたらいいよ﹂
﹁えっと・・・・﹂
﹁ミスターでいい、名前なんか呼ぶな﹂
﹁酷いなぁ、クィンシーは。焼き餅かな? まぁここではいいけ
ど中に入ったらもっと親しいところを見せつけなくちゃいけないん
だから、今から練習してもいいんじゃないかな?﹂
焼き餅、と言われて憮然とした表情を浮かべたクィンを見れば、
あながち的外れではないという事だろう。
そんな普段見せないクィンの表情に翔子がびっくりした顔を向け
ると、彼は少しバツが悪いといった表情で翔子を抱き寄せた。
そんな2人の様子を賢一がニヤニヤしながら見ていると、彼の隣
の存在が腕をツンと引っ張って彼と腕を組んだまま1歩前に進み出
た。
﹁ひさしぶりね、ショーコ﹂
﹁ジュリア、本当に。元気そうでなによりだわ﹂
少し癖のある髪を軽くまとめて薄いピンクのバラを刺し、バラの
色より少し濃いピンク色のドレスに身を包んだジュリアは、翔子が
最後に会った時よりも大人びて見えた。
スッと差し出された手を握ると、ジュリアはするりとケンから腕
を解いて両手で翔子の手を握った。
それから1歩前に進み出るとそのまま翔子に抱きついた。
﹁来てくれてありがとう、本当に嬉しいわ﹂
﹁今夜は招待していただいて、ありがとうございました﹂
﹁そんな他人行儀な口調はやめて。ショーコに助けられたから、
641
私はこうやってケンと一緒に居られるんだから﹂
﹁そんな事ないわ。ジュリアが彼と一緒に居たいと願ったから、
今こうやって一緒にいるんでしょ?﹂
﹁そうそう。君の僕への愛が実を結んだんだよ﹂
ジュリアの肩に手を置いて賢一が揶揄うように口を挟んでくる。
そしてそのままさりげなくジュリアを翔子から引き離した。
例え相手が翔子であっても、ジュリアが誰かに抱きついている事
が許せないらしい。
そんな賢一をどこか呆れたように見てから、クィンも同じように
翔子の腰に手を回して彼女を自分の方に引き寄せる。
﹁ケンがね、言ってたの。ショーコが手助けをしてくれたって﹂
﹁大した事はしてないのよ。ちょっと、だけ﹂
﹁無理やりじゃなかったんだったらよかったんだけど﹂
﹁そんな事なかったわ。ちゃんと話し合って決めたから、ジュリ
アが気にする事じゃないわ﹂
﹁でも・・・﹂
ジュリアが少し困ったような表情を浮かべると、賢一は彼女の肩
をポンポンと叩いた。
﹁ジュリア、翔子を困らせないようにね。あれは僕と彼女が話し
合って決めた事だった、って言っただろ?﹂
﹁だけどね、ケン。そのせいであなた、彼女に辛い思いをさせた
じゃない・・・﹂
﹁あれは俺も悪かったんだ。だからミス・ジュリアは気にしなく
てもいい﹂
﹁ミスター・マクファーラン﹂
﹁クィンでいいよ。もしくはケンと同じようにクィンシーと呼ん
でくれればいい﹂
クィンとしても例えそれが契約上だけの婚約であったとはいえ、
面白くない事である事には間違いなかった。
それでも翔子と賢一があのような契約をしていなければ、そもそ
642
も最初の出会いがなかったのだ。
そう考えると、あれは自分にとっても必要な事だったのだと自分
に言い聞かせるしかない。
﹁ケンの提案は気に喰わないが、あれがなかったら俺はショーコ
に出会えてなかったからな﹂
﹁ショーコ、そうなの?﹂
﹁・・ええ、彼とは賢一さんが連れて行ってくれたパーティーで
初めて会ったのよ﹂
﹁あんまりいい出会いではなかったけどな﹂
少し苦笑いを浮かべるクィンを見上げて、翔子は小さく吹き出し
た。
それからそのままクィンを見上げる。
﹁そうね。でもとても強烈に記憶に残る出会いだったわ﹂
﹁・・・・確かに﹂
﹁なんだなんだ。その話は僕は聞いていないなぁ。あとで聞かせ
てもらいたいね﹂
﹁いやだな﹂
﹁えぇっ、いいだろ? 減るもんじゃなし﹂
﹁いいや、減る﹂
﹁もう2人とも。子供みたいよ﹂
呆れたような顔で頭を振るジュリアと一緒になって翔子も呆れた
ような顔をクィンに向ける。
そんな2人の視線を受けて、男2人は苦笑いを浮かべた。
﹁とにかく、ショーコ、色々と迷惑をかけてごめんなさいね﹂
﹁ジュリアが謝る事じゃないわ。それに・・・少しでもジュリア
の役に立ったんだったら、頑張った甲斐があったってものよ﹂
﹁でも・・・﹂
﹁それより、すっごく綺麗ね﹂
﹁ありがとう﹂
まだ謝ろうとするジュリアの言葉を遮って、翔子は今夜の彼女の
643
装いを褒める。
これならしっかり主役として誰からも文句はいわれないだろう。
﹁それにしても、あれだけ表に出さないように彼女を周囲から隠
していたお前が、理由があるとはいえ婚約披露パーティーをすると
はな﹂
﹁大切な大切なジュリアを見せたくないんだけどね。こればっか
りは仕方ないよ。だけど妨害しそうな連中は全て排除したから、こ
れ以上彼女に危害が加えられる事はないと思ってね﹂
﹁やりすぎてないだろうな?﹂
﹁まさか。あれでもやり足りないくらいだよ。だけどジュリアが
あんまり手酷くするなっていうから仕方なくあれで我慢したんだ。
それにジュリアも1度はお披露目をかねて公式の場に出てこなくち
ゃいけないからね。だったら僕が自らの手できちんとコントロール
できる場所でお披露目した方が安心だろう?﹂
少し不穏な言葉を聞いたような気がしたが、クィンはあえて聞か
なかった振りをして頷いた。
﹁じゃあ、中に入ろうか﹂
﹁そうだな﹂
腕時計で時間を確認すると、パーティー開始時間だった。
﹁もうそんな時間?﹂
﹁ああ、そうだね。ま、時間通りに進んでいるって事だから、丁
度いいんじゃないかな?﹂
﹁えっと・・ショーコ。多分みんなからジロジロと見られるかも
しれないけど大丈夫?﹂
﹁大丈夫よ、ジュリア。覚悟はできてるわ﹂
﹁ごめんなさいね。私たちの事に巻き込んだりしたから﹂
﹁気にしないで、って言ってるでしょ﹂
どうやら賢一はあの夜の事をある程度ジュリアに説明しているよ
うだ。
ただどこまで話しているのか判らないから、翔子は余計な事を言
644
わないように短く答えた。
﹁ジュリア、今夜はあの晩の挽回をするために今夜はクィンシー
と翔子に来てもらったんだよ﹂
﹁そうだったわね。でも私、やっぱり心配だわ﹂
﹁大丈夫だ。君の隣の男がちゃんと演じれば、全てが丸く収まる
さ﹂
﹁そうそう、僕が頑張るから大丈夫だよ﹂
﹁そうね。私、ちゃんとやれるかしら?﹂
﹁大丈夫だよ。僕の隣に立ってニコニコしていれば、それで十分
だから﹂
そう言ってジュリアをエスコートして先を歩く賢一たちに続いて、
翔子はクィンと一緒に後をついていった。
645
66. ︵後書き︶
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@
19:40 読
おまけに誤字脱字のご指摘も本当に助かっています。いつもあり
09−23−2016
がとうございます。
Edited
者様のご指摘より誤字訂正。ありがとうございました。
646
67. 最終話
パーティー会場に入った途端、賢一とジュリアは招待客に囲まれ
た。
クィンはそんな2人を視界の端に留めたまま、翔子を伴って壁側
にあるドリンクバーに向かうと、シャンパンを2つ受け取って1つ
を翔子に手渡す。
けれど、周囲からの視線が気になって、クィンが手渡したシャン
パンも1口飲んだだけでグラスを握りしめたままだ。
﹁気にするな﹂
﹁クィン・・・でも・・・﹂
﹁パーティー客がどんな目を向けるかなんて、最初から判ってい
た事だろう?﹂
﹁そうね・・・﹂
クィンの言う通りだ。
前回賢一に連れられてやってきたパーティーでの出来事を考える
と、こうなる事は予想できていた。
ただそんな好奇な視線がクィンにまで向けられる事が翔子には嫌
だった。
困ったような表情で自分を見上げてきた翔子に片方の眉だけを上
げて見せ、そのまま彼女の腰に手を回して自分の方に引き寄せる。
﹁見たいヤツには見せておけばいい。それより2人が舞台に上が
ったぞ﹂
﹁えっ? もう?﹂
﹁会場に入ったのが時間通りだったからな。ケンは時間厳守だか
らな。さすが日本人だ﹂
翔子の腰に手を当てたまま彼女を舞台の方に向かせると、そのま
まゆっくりと舞台のすぐ端に移動する。
647
それを見ていた数人がまた陰でコソコソと囁きあっている姿が見
えるが、クィンはそんな事など全く気にも留めず威風堂々としてい
る。
それを見たからではないが、翔子が同じようにクィンに寄り添う
ように体を寄せると、クィンはニヤリと片方の口角を上げて更に彼
女を抱き寄せる。
﹁こんばんは。今夜はここに来てくれて、本当にありがとう﹂
賢一がにこやかにマイクを手に話し始めると、ざわざわとしていた
会場が静かになった。
﹁あんまり長く話をしたら眠くなっちゃうかもしれないからね、
手っ取り早く話しを進めようと思うんだけど、いいかな?﹂
﹁いいぞ∼﹂
﹁早く乾杯だ∼﹂
野次が飛ぶ中、フロアにいる客たちにシャンパングラスが配られ
る。
それを確認してから、賢一は話しを続けた。
﹁では、さっそく本題だ。今夜、僕は婚約した事をここに来てく
れたみんなに知らせるためにこのパーティーを開きました。こちら
マイナー
が僕の婚約者であるジュリア・スタンレー嬢です。彼女との出会い
は今から4年前、まだ彼女が未成年だったので表立って公表する事
ができずにいました﹂
4年前から付き合っていると賢一が言った途端、周囲の視線が翔
子に突き刺さるが、彼女は毅然とした態度を崩す事なく賢一の話に
耳を傾ける。
﹁その上、彼女には視力障害があるので、こういった席に連れて
くる事ができませんでした﹂
視力障害がある、という言葉が更にざわめきを産んだ。
﹁しかし、僕はどうも一部の女性にとっては優良物件だったよう
で、あちらこちらから声をかけられていて、とてもじゃなかったけ
どジュリアを表に出す事ができませんでした。彼女は視力障害があ
648
るから誰かが悪意を向けてもそれに気づく事ができなかったんだ。
だから、僕は彼女に危害を加える可能性のある人物を周囲から排除
するところから始めなければならなかった﹂
賢一は鋭い視線で周囲を見回した。
とりあえず表立って行動していた害虫は全て排除したと思ってい
るが、この会場に良からぬ事を考える輩がいるかもしれないとも思
っている。
だからこうして威嚇行動をとって、もし2人の邪魔をしようもの
なら排除する、と公言しているのだ。
﹁とはいえ、僕には誰がジュリアに危害を与える可能性があるの
かがはっきりと判らなかった。そこで、僕の会社の元部下である翔
子・佐野原に仮の婚約者を演じてもらう事にしたんだ。おかげで危
険な人物を排除する事はできたものの、婚約者を演じてくれた彼女
を不名誉な立場に追いやってしまった。その事は今ここできちんと
明確に謝罪させてもらいたい。そして、彼女の婚約者であるクィン
シー・マクファーランにも迷惑をかけた事をここで謝罪したい。2
人の協力がなかったら、僕はこうやってジュリアを公式の場で紹介
する事はできなかった﹂
そう言いながらも、賢一は舞台の端に立っているクィンと翔子に
舞台の上から頭を下げた。
げんめい
﹁快く引き受けてくれた2人には感謝してもしたりないと思って
いる。だからここで言明する事で、ミス・翔子が僕とはなんの関係
もなかった事、そして2人はとても仲の良い婚約者同士だという事
を宣言したい。特にミス・翔子、本当にありがとう。ジュリア共々、
君には返しきれないほどの恩がある﹂
周囲はまだよく状況を把握しきれていないのか、どうしてもざわ
ざわとした囁きが聞こえてくるが、それでも先ほどまでの好奇心丸
出しの視線が違うものに変わってきている事に翔子は気づいた。
﹁それでは、これ以上僕の言い訳を聞いていても楽しくないだろ
うから、この話はここまでにしよう。実はもう2つほど知らせたい
649
事があるんだ﹂
チンチン、と賢一は手に持っているシャンパングラスを隣に立っ
ているジュリアのグラスに当てて音を立てて客たちの注意を引く。
﹁来年3月を持って、僕が専務代理を勤める会社は親会社である
大河内カンパニーから独立する。会社は僕が買い取ったので4月か
らは僕は専務代理ではなく、社長となります。間違えないでくださ
いね﹂
賢一がおどけるように頭を下げると、クスクスと周囲から笑いが
起こる。
﹁それから最後に、今回僕たちに力を貸してくれたクィンシー・
マクファーランと翔子・佐野原、そしてジュリアの4人で基金を立
ち上げる事にした。﹃チルドレンズ・ハート・サポート﹄といって、
心臓病で苦しむ子供たちとその家族をサポートするためのものです。
こちらも4月から稼働する予定で、その責任者にジュリアとミス・
翔子になってもらう事が決まっています。そうそう、寄付はいつで
も受け付けるから、気軽に声をかけてください﹂
ここでまたドッと会場が沸くが、翔子はそれどころではなかった。
そんな話、全く聞いていなかったのだ。
﹁クィン・・・・﹂
ぎゅっと隣に立つクィンの腕を掴んでから彼を見上げると、笑み
を浮かべた彼が翔子を見下ろしていた。
﹁ど・・して・・・聞いてない、わ・・・﹂
﹁ごめん、内緒だったんだ﹂
クィンは少しかがんで翔子のこめかみにキスをするが、翔子はそ
れどころではない。
﹁ケンと話し合って決めたんだ。あいつもジュリアに言ってなか
った筈だ。ほら、ジュリアを見てごらん。びっくりしているだろう
?﹂
そう言われて舞台を見上げると、翔子と同じように驚いた顔をし
たジュリアの頰に賢一がキスをしているところだった。
650
﹁ショーコがケンから受け取った金があっただろう?﹂
﹁・・・ええ﹂
賢一にお金を返すという話をしていた時の事を思い出して少し翔
子の頰に赤みがさす。
﹁あれを返しに行った時にあいつ、今更受け取れない、って言っ
たんだ。だったらどうするかって話になって、それならその金を寄
付しようって言い出したんだよ﹂
賢一のポケットマネーだと言っていたのにいいのだろうか、と翔
子は思うがありがたい話だとも思う。
﹁どうせ寄付するんだったら、ショーコとアイリーンが苦労して
たから同じような病気の子供たちやその家族が苦労しないで済むよ
うな形がいいな、って事になったんだ。それで、お互いの会社を通
してもう少し金額を増やして基金を立ち上げる事にしたんだ﹂
﹁チルドレンズ・ハート・サポート・・・・心臓病の子供たちの
ため、なのね﹂
﹁ああ、そうだ。アイリーンは運良く手術で良くなってきただろ
? そのせいで元気になった、明るくなった、そう言っていただろ
? だから同じように心臓を患った子供たちにも笑顔で暮らしても
らいたい、ってね﹂
﹁クィン・・・・ありがとう﹂
翔子は込み上げてくる涙を抑えて、彼の胸に顔を埋めた。
﹁それに、ショーコは仕事がしたいって言っていただろう? だ
からこの基金の面倒をショーコに見てもらおうと考えたんだ。遣り
甲斐のある仕事だと思わないか?﹂
﹁そうね﹂
﹁ジュリアも目は見えないけど、誰かの役に立つ仕事をしたいっ
て言っているらしいんだ。だからもしショーコさえ良ければ一緒に
基金を運営してくれたら、ジュリアもケンも安心だと思う﹂
﹁そうね﹂
﹁俺もショーコがどこかで知らない男の下で働くよりは安心でき
651
る﹂
﹁そう・・・もうっ﹂
涙声で﹃そうね﹄としか言わない翔子にわざとそんな事を言うク
ィンの胸をポンと叩くと、頭の上で彼がクックと笑う声が聞こえて
きた。
﹁最初はアイリーン基金という名前にしようか、ってケンが言っ
たんだ﹂
﹁それは・・・愛莉が嫌がるわ﹂
﹁そうだろ? だから俺もそう思ってあの名前にしてもらった﹂
なんだかんだと言いつつクィンも愛莉の事がよく判ってきている
ようだ。
﹁アイリーン基金なんて言う名前になった、って言ったら一晩中
お説教をしたでしょうね﹂
﹁俺もそう思うよ。アイリーンは目立つ事は嫌いみたいだからな﹂
﹁そうじゃないわ・・・あの子は自分が基金の名前になるほど特
別だと絶対に思わないわ﹂
弱音を吐く事もなく辛いリハビリを受けた、術後の痛みにも周囲
に当たり散らす事なく耐えたのだ。
翔子にしてみればそんな愛莉は特別な子供だと思うのに、彼女は
自分がただの普通のちょっと病気がちだった女の子、としか思って
いない。
﹁チルドレンズ・ハート・サポートが活動を始めるまで3ヶ月し
かないんだ。ショーコは忙しくなるぞ?﹂
﹁大丈夫、愛莉にも手伝ってもらうから﹂
﹁そうだな、アイリーンだったら嬉々として手伝うだろうな﹂
﹁もしかしたら彼女が主導権を握っているかもしれないわね﹂
﹁あり得る﹂
クスクスとお互いの顔を見合わせて笑いあう。
﹁俺たちの結婚式も忘れないでくれよ。6月なんて半年先だがあ
っという間だぞ?﹂
652
﹁大丈夫、そっちも愛莉が主導権を握ってあれこれ決める気がす
るわ﹂
﹁アイリーンはフラワー・ガールになるんだろう?﹂
﹁本人はそのつもりよ。一応私が花嫁で主役だからって言って基
調にする色はどんな色がいいか、って聞いてきたわ。私が青色がい
いわ、って言ったら眉間に皺を寄せてたけど﹂
愛莉にとって女の子の色はピンクか紫なのだ。
それなのに翔子が青色と言ったから、色気が足りないと思ってい
るようだ。
その様子が頭に浮かんだのか、クィンがぷっと吹き出した。
﹁俺としてもピンクよりは青の方が助かるな。いくらなんでも3
0を超えた男にピンクはきつい﹂
﹁ふふふっ、クィンがピンクをつける必要はないじゃない﹂
﹁タキシードの胸ポケットに入れなきゃいけないだろ?﹂
﹁それはそうだけど・・・花1輪だけよ?﹂
﹁それでもピンクは抵抗がある﹂
少し憮然とした声で拒絶するクィンの胸に顔を埋めたまま、翔子
はぷっと吹き出した。
それから少しだけ笑ってから顔を上げてクィンの頰にキスをする。
﹁絶対にピンクは阻止するわ﹂
﹁そうしてくれ﹂
翔子はクィンと笑いあってから舞台に視線を向けると、既に賢一
は話終わって丁度舞台を降りるところだった。
﹁ちゃんと聞いてなかったわね﹂
﹁一番重要なところは聞いていたから大丈夫だろ?﹂
﹁もうっ・・・でも2人とも幸せそうに笑っているから﹂
﹁ケンがいるから大丈夫だろ。何があってもジュリアを守るよ﹂
目が見えないのに知らない人ばかりのパーティーにやってきたジ
ュリアは凄い、と翔子は思う。
﹁俺もショーコの事は絶対に守る﹂
653
﹁クィン・・・﹂
﹁だから何を言われても気にするな。俺の隣に立ってニコニコし
ていればいい﹂
﹁・・・そうね﹂
きっとまだこれからも色々と言ってくる人間はいるだろう。
それでも堂々としていればいいのだ、とクィンは言う。
翔子は目の前のクィンに寄り添うと、引き寄せられるままに両手
を彼の背中に回した。
大きく深呼吸をすると彼のつけているコロンの香りが鼻腔をくす
ぐる。
﹁愛してる﹂
﹁愛してるわ﹂
顔を上げた翔子の唇に触れるだけのキスをしたクィンは、そのま
ま彼女を強く抱きしめた。
この腕の中にいれば何も気にならない。
翔子は口元に笑みを浮かべながら、クィンを抱きしめ返した。
654
67. 最終話︵後書き︶
最後までおつきあいいただき、本当にありがとうございました。
当初30話程度だと言っていたにもかかわらず、結局はその倍以
上の67話にまで伸びてしまいました。
その1番の理由は﹃愛莉﹄だと思います。彼女があまりにもお気
に入りのキャラになったせいで、どんどん話が延びていったような
気が・・・︵^︳^;︶
それでも彼女なしでは説明不足部分もあったと思うので、やはり
彼女の活躍は必要だったと信じています。︵*^O^*︶
もしかしたら番外編もあるかもしれません。
いくつかネタはあるのですが、今はちょっと余裕がなくてそこま
で手を伸ばせてません。もしリクがあれば言ってくださいww 今
なら間に合います。︵というか書いてないので・・・苦笑︶
みなさまからの文章評価、ストーリー評価、感想のおかげで最後
まで書けたのだと思っています。
誤字脱字も報告していただけて助かりました。自分では見ている
つもりなのですがそれでも多々あったようでご迷惑をおかけしたこ
とをここでお詫びいたします。
それではまた次の機会がありましたら、その時も読んでいただけ
ると嬉しいです。
655
愛莉︵前書き︶
ーーリクエストーー ﹃愛莉視点﹄みっち様 伽羅様 より、あり
がとうございました。
ですが・・・すみません。
頑張ったんですが・・・愛莉の1人称は、私にはとても難しかっ
たです。
なのでこれで許してください。
656
愛莉
−− これからは2人きりね。
−− 一緒に頑張ろうね。
ダディーとマミーが亡くなった時の事は、私はまだ小さかったか
らあんまりよく憶えていない。
急に姿が見えなくなった2人がもう2度と戻ってこないんだ、っ
て事を理解しただけだった。
2人のお葬式にも出たけど、実感が沸かなかった。
ううん、それが最後なんだって、判っていなかっただけだったん
だと思う。
ただ、憶えているのはお葬式のあと2人きりになった時、お姉ち
ゃんが私にかけてくれた言葉を少しだけ。
その時、ぎゅっと抱きしめてくれたお姉ちゃんの体が少しだけ震
えていた事だけ、私は今も憶えている。
657
じっとテラスが見える窓の向こうを見つめる。
そこにいるのはお姉ちゃんとクィンの2人。
いきなり現れたクィンはお姉ちゃんと話がしたいって言ってきた。
だけどお姉ちゃんが泣きそうな顔をしていたので、思わずクィン
の前に立ち塞がったんだ。
いつも私を守ってくれるのはお姉ちゃんだ。
でも、私だってお姉ちゃんを守りたいっていつも思ってる。
だから、泣きそうな顔をしたお姉ちゃんを守るために、私は両手
を広げてクィンの前に立ったの。
結局、お姉ちゃんはクィンと話をする事にして、その邪魔をしち
ゃダメだからって事で、私はレストランの中からクィンがお姉ちゃ
んを泣かせないかどうかを見張っているのだ。
クィンの事は嫌いじゃない。
大人の人にしては珍しく、ちゃんと私の話を聞いてくれるもの。
それでも、お姉ちゃんを泣かせたら容赦しない。
まぁそれは私の取り越し苦労だったみたい。
658
お姉ちゃんはホッとしたような表情にちょっぴりだけ笑みを浮か
べてた。
﹃仲直り、したの?﹄
﹃え・・・ええ、そうね﹄
少しだけ驚いたような表情になったお姉ちゃん。
でもね、あれだけ淋しそうな顔をしていたんだから、クィンと何
かあったのかなってバレバレだったんだよ?
シッシー
それからジロリ、とクィンを見上げた。
﹁お姉ちゃんを泣かせてない?﹂
﹁なんとか大丈夫みたいだな。もし泣かせたとしても、嬉し涙だ
ったらオッケーだろう?﹂
﹁本当に嬉しいと思っているのなら、だけどね。でもどうかしら
?﹂
口だけは達者なんだから、クィンって。
だから彼に負けないようにと思って、この前テレビで見た女の人
がしていたようにテーブルをコツコツと指先で叩く。
﹁とっとと帰れ、とは言われなかったな。ホッとしたよ﹂
シッシー
﹁言われてもおかしくない、って自覚はあったのね?﹂
﹁ああ、一応、ね﹂
﹁一応じゃダメね。私、お姉ちゃんがそう言えば、絶対に2人き
りにはさせなかったわ﹂
﹁愛莉っっ﹂
﹁だって、そうでしょ。いきなり現れて﹁話がある﹂じゃあ、通
用しないわよ、普通﹂
お姉ちゃんは私を咎めるように名前を呼んできた。
でもね、言いたい事はきちんと言わせてもらいたいんだ。
もしお姉ちゃんを泣かせたら、私は黙っていないて事だけははっ
きりとさせたいんだもの。
生意気な口を利くって言われたって、それだけは譲れない。
だけど、クィンはそんな私を咎める事もしないで、ちゃんと話を
659
してくれた。
そんな彼に私はホッと小さく溜め息を吐いた。
よかった。
私がいう事を子供の戯言だって言わない人で。
この人だったら、お姉ちゃんを任せても大丈夫なんじゃないかな?
今日はこれからホテルをクィンの取っているホテルに移動して、
明日予定通りシンディーの牧場に戻るんだって。
ってことは、クィンはもっと頑張らないといけないって事。
だって、シンディーがクィンにお姉ちゃんを譲るとは思えないも
の。
私とお姉ちゃんがシンディーの家に居候するようになって少しし
てから、私にお姉ちゃんが元気がない理由を聞いてきたんだよね。
私もよく知らなかったから詳しい事は言えなかったけど、そのあ
とでお姉ちゃんからある程度の話は聞いたみたい。
だから私に2人でお姉ちゃんを守ろうね、って約束したの。
お姉ちゃんが元気がなかった理由はクィンだけど、その彼が現れ
たって事はきっとシンディーの家を離れる事になるんじゃないかな?
でも、大丈夫かな?
シンディーもお姉ちゃん大好きだから、私たちが出て行くって言
ってもすぐにうんとは言わない気がする。
私を間に挟んでリバー・サイド・ウォークを歩くお姉ちゃんとク
ィンをそっと見上げる。
2人は嬉しそうに笑いながら話をしている。
お姉ちゃんの笑顔のためにも、クィンはシンディーを説得しなき
ゃいけないのか・・・
ま、クィン、頑張れ。
660
661
愛莉︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
662
シンディー、最強 ー 前編︵前書き︶
紗燈様、ゆこ3様のリクエスト﹃結婚﹄の前振りです。
ーーリクエストーー ﹃クィンのお仕事﹄ みっち様より そして、
幾つかのリクエストをいただいたのですが、とりあえず時系列に並
べて書いていく事にしています。
ですので未だにリクエストが書かれていない、と思われているかも
しれませんが気長にお待ちいただけると嬉しいです。
663
シンディー、最強 ー 前編
サン・アントニオから車で3時間半、コーパス・クリスティーを
経由して海沿いを走ればシンディーの住む牧場に到着する。
サン・アントニオ、楽しかったなぁ。
愛莉は右隣にシートベルトをして座っているクマのぬいぐるみに
手を伸ばして手触りを堪能しながら、視線を前に座っている姉の翔
子と車を運転しているクィンに向ける。
翔子の車はクィンが雇った大学生2人が自分の車と一緒に2台で
運んでくるんだそうだ。それで帰りはもう1台の車でまたサン・ア
ントニオに帰る事になっているらしい。
クィンがその事を翔子に﹁ケンがそうすれば車の心配をしなくて
済むだろうと言っていた﹂と言うと、彼女は﹃代行・・?﹄と日本
語で呟いていた。
愛莉には姉の言っている事が日本語ではあったがよく判らなかっ
た。
それでもクィンはそこまでしてお姉ちゃんと一緒にいたいんだな、
と一人納得して口元に笑みを浮かべる。
初めて会った時からクィンの翔子に向ける好意は見え見えだった
昼ドラ
のに、肝心の翔子には全く伝わっていなかった。
毎日グェンと一緒にランチの時にソープオペラを見ていた愛莉に
はすぐにお互いが惹かれあっているのが判ったけれど、当の本人た
ちはただお互いが気になるという程度だったようだ。
全くお姉ちゃんは鈍いんだから、と何度愛莉は溜め息を吐いただ
ろう。
そういえば、とふと愛莉は思い出したかのように小さなショルダ
ーバッグに手を伸ばして中に入っているあるものを取り出すと、そ
のまま前に座っている2人から見えないようにゴソゴソする事にし
664
た。
翔子の指示通りに車を家の左側に停めると、クィンは思わずとい
った風にハンドルに手を置いたまま車の窓から隣に見える家を見上
げた。
﹁大きな家だな﹂
﹁そうね。私も初めて見た時はびっくりしたわ﹂
﹁これくらい大きかったら確かにショーコとアイリーンがいても
大丈夫だな﹂
翔子は車から降りると、愛莉が出てくるのを手伝うために後ろの
ドアを開けた。
それに気づいてクィンも車から降りると、後ろのドアを開けてテ
ディベアのシートベルトを外してやる。
愛莉はぴょん、と車から降りるとすぐにクィンの方に向かうとそ
のままテディベアを受け取った。
﹁転けるなよ﹂
﹁転けないもん﹂
ムッとした顔でじろり、とクィンを睨みつけてから、愛莉はとっ
とと2人を置いて玄関のあるポーチに向かって階段を上がっていく。
﹁さて・・・俺も一緒に行っていいのかな?﹂
﹁そりゃあ、もちろん。こんなところまで送ってもらって、その
ままって訳にはいかないでしょ?﹂
﹁まぁ、な。だが、俺が一緒に来る事は知らないんだろう?﹂
﹁それは・・・﹂
本当は電話しようと思っていたのだが、シンディーに何を言われ
665
るかと判らなかった翔子は、結局電話していないのだ。
勝手に人を連れてきて怒られるとは思っていないが、クィンの事
を話してあるシンディーが彼を見て何を言うか想像がつかないのだ。
いや、想像がつきすぎて合わせるのが怖い、というのが本当のと
ころだろう。
とはいえ、いつまでもここで2人して立っている訳にもいかない。
﹁大丈夫よ・・・・きっと﹂
﹁気にするな。何を言われても自業自得だって判っている﹂
﹁クィン・・あなただけが悪かったんじゃないのよ?﹂
﹁それでも、ショーコの親友としては何かと言いたい事はあると
思うぞ?﹂
﹁それは・・・﹂
ない、とは言い切れない。
ここに来るまでにシンディーとの関係をクィンに説明したのだ。
大学時代に知り合った大切な親友で、結婚してそのままテキサス
に移り住んだ事、今回の事でどこかに行こうと考えていた翔子に場
所を提供してくれた事、など本当にたくさんの事をクィンに説明し
た。
それを聞いているから、クィンとしても無理矢理翔子をカリフォ
ルニアに連れて帰る事はできないだろう、と諦めたのだ。
思わず溜め息を吐いたクィンだが、すまなさそうな顔で見上げる
翔子に頭を振ってから彼女の肩に手を回して目の前にある家に向か
って歩き出した。
ビクトリア調のその家は周囲を取り囲むポーチの端にはブランコ
があり、ポーチを取り囲むように花壇が作られている。
クィンが翔子の肩に手をまわしたまま階段に足をかけたところで、
ポーチの先にある玄関ドアが開いた。
﹁おかえりなさい、ショーコ﹂
﹁シンディー。ただいま﹂
﹁帰ってくるのを待っていたのよ。さぁ、入って入って﹂
666
待っていた、とはどういう事なのだろう?
翔子は頭を傾げながらも階段を上りきると、ドアを開けて待って
いるシンディーの前にやってきた。
﹁シンディー、紹介するわね。こちらが−−﹂
﹁知ってるわ。初めまして、ミスター・クィンシー・マクファー
ラン﹂
﹁初めまして、ミス・シンディー・ホワイトランド﹂
差し出された手を取って握手をする2人を翔子は頭を傾げたまま
交互に見る。
﹁シンディー? どうして知ってるの?﹂
﹁ふふふっ。まぁその話は中に入ってからでもできるでしょ? 外はまだ暑いんだから、中に入ってお茶でも飲みながら話しましょ
う﹂
いたずらっぽく笑みを浮かべたシンディーに追い立てられるよう
に玄関から中に引き込まれ、翔子とクィンはそのままリビングルー
ムに連れて行かれた。
通されたリビングルームには、既にお茶の用意ができていた。
﹁そちらに座ってね﹂
﹁ありがとう。もうお茶が用意できてたのね?﹂
﹁アイリーンが教えてくれたからね﹂
それにしてもお湯が沸くのに時間がかかる筈だろうと思うのだが、
と翔子が頭を傾げているとキッチンの方から今だにテディベアを抱
えている愛莉がリビングルームに入ってきた。
﹁シャスタに見せ終わったの?﹂
﹁うん。おっきくてかわいいね、って言ってくれたわ﹂
愛莉はシンディーにも良く見えるように抱きしめている大きなテ
667
ディベアを掲げてみせる。
シンディーは愛莉が掲げているテディベアの頭を撫でてその柔ら
かい手触りを楽しんでから、よかったわね、と今度は愛莉の頭をそ
っと撫でた。
﹁アイリーンはミルクでいいの?﹂
﹁ハチミツ、入れてくれる?﹂
﹁もちろん﹂
﹁じゃあ、ミルクでいいわ﹂
﹁そっちの2人はコーヒーでいいの?﹂
﹁ええ、それでいいわ﹂
ハチミツ入りミルクだって、とシンディーはキッチンに向かって
声をかけてから愛莉を振り返る。
﹁シャスタがミルクを用意してくれるからキッチンで貰いなさい
ね。こっちはちょっと話があるから﹂
﹁はぁい﹂
素直に返事をしてキッチンに向かう愛莉の後ろ姿を見送ってから、
シンディーはさっさとカートに用意してあったコーヒーをカップに
注いで翔子とクィンの前に置いた。
﹁ショーコはミルク、でしょ? ミスター・マクファーランは?﹂
﹁俺は何もいらない、ありがとう。それからクィンと呼んでくれ
ればいい﹂
﹁そぉ? じゃあ、遠慮なくそう呼ばせて貰うわね﹂
シンディーは自分用のコーヒーを用意してから、翔子たちの対面
にあるラブシートに座る。
メール
﹁愛莉が教えてくれたって、ついさっきでしょ? 丁度お茶の時
間だったの?﹂
﹁いいえ。30分くらい前にアイリーンがテキストしてくれたか
メール
ら、そろそろ着く頃かなって思って用意しておいたのよ﹂
﹁テキスト?﹂
一体どうやって? と不思議そうにシンディーを見る翔子に、シ
668
ンディーはポケットから携帯電話を取り出してコーヒーテーブルに
置いた。
﹁これ、アイリーンに持たせておいたの。何かあった時にいつで
も連絡ができるようにってね﹂
﹁シンディー・・・・﹂
﹁あら? 一応安全目的よ、もちろん。だってよく知らない街に
行くんだったら、何があるか判らないじゃない。困った事があった
ら連絡してきなさいって言って渡しておいたの﹂
白々しく視線を逸らしたまま、シンディーはそう答えながらコー
ヒーを口に運ぶ。
翔子はそれを見て聞こえるように溜め息を吐いてから、同じよう
にコーヒーを口に運んだ。
﹁全く気づかなかったわ。愛莉ったら、もうっ。何にも言わない
んだもの﹂
﹁アイリーンにはポーチに入れて持ち歩くようにって言っておい
たんだけど?﹂
﹁あの中には財布しか入っていないんだと思ってたもの﹂
どこに行くにも持っていたあの中に、目の前の携帯電話が入って
メール
いたのかと思うとなんとなく納得いかない。
﹁アイリーン、ちゃんと毎晩テキストでその日の出来事を教えて
メール
くれたわよ﹂
メール
﹁愛莉がテキストしてたとこ、見てないんだけど?﹂
﹁多分ショーコがシャワーを浴びている時にでもテキストしてた
んじゃないの?﹂
﹁・・・そうね﹂
ムッとした口調で返事をする翔子は、あとで愛莉と話をしよう、
と心に決める。
﹁それより、ほっといていいの?﹂
﹁えっ?﹂
﹁彼。会話に入れてないわよ?﹂
669
﹁あっ・・・﹂
言われてようやく翔子はクィンが隣に座っている事を思い出した。
シンディーの話が思いがけないものだったので、ついそちらに意
識が集中してしまったのだ。
慌てて翔子が頭を下げると、クィンはそんな彼女の頭をあげさせ
てそのまま抱き寄せた。
﹁大丈夫だよ﹂
﹁その・・・ごめんなさい﹂
﹁いや、気にするな。聞いているだけで面白かった﹂
﹁それは・・・﹂
﹁それより、ちゃんと彼女にも話をするんだろう?﹂
﹁・・・うん﹂
そうだ、シンディーにきちんと話をしておかないと、と翔子は改
めて真面目な顔で彼女を振り返った。
今朝クィンとこれからの事を話をして、そのあとで愛莉とも話を
して決めたのだ。
﹁あのね・・・その・・﹂
﹁カリフォルニアに帰るの?﹂
﹁えっ・・・・うん。帰るっていうか・・・﹂
クィン
﹁判ってるわよ。ショーコたちの家は貸しているんでしょ? だ
ったら、カリフォルニアで行く家は彼の家、よね?﹂
ニンマリ、と笑みを浮かべたシンディーは判っていると言わんば
かりにウンウンと頷いている。
﹁もともとここには休暇としてきていたんだから、そのうち出て
行くと思っていたのよ。ただ、カリフォルニアに帰るとは思わなか
ったんだけどね。でもまぁ、彼が来たのを見ちゃったら行き先は見
当がつくわ﹂
﹁ショーコたちを受け入れてくれたありがとう。俺のせいで彼女
たちに辛い思いをさせた﹂
﹁そうね﹂
670
﹁シッ、シンディーッッ﹂
﹁なぁに? だって、そうじゃない。あなた、ここに来たばかり
の頃すっごく辛そうな顔をしてたのよ? 一生懸命にそれを隠して
普通に振舞っていたけど、バレバレだったわ﹂
すぐにでも何があったのか、聞き出したかったのだ。
それでもショーコの気持ちが落ち着くまでは、と、じっと我慢し
たのだ。
﹁それで、ちゃんと責任はとってくれるのかしら?﹂
﹁もちろん。彼女にプロポーズした。ちゃんと受け入れて貰った
よ﹂
﹁そう、じゃあすぐにでも結婚するって事?﹂
﹁いや・・とりあえず春に結婚しようって話をしている﹂
﹁どうして?﹂
プロポーズして、それを受けたのであれば、すぐにでも結婚すれ
ばいいのに、とシンディーは思うのだが、目の前の2人はそうは思
わないようだ。
シンディーは少し眉間に皺を寄せた顔を翔子に向ける。
﹁愛莉がフラワー・ガールをしたいっていうの。それだったらも
う少し体調が安定していた方がいいだろう、って事になったのよ。
それに冬だと寒いからちゃんと完治させてからじゃないと体調を崩
しやすいんじゃないかな、って思うしね﹂
﹁ああ・・・そうね。アイリーンの事を考えるとそうなるわね﹂
﹁だから、愛莉とも話をして春にしようって事になったの﹂
﹁ふぅん。ちゃんとアイリーンの事も考えてくれる人、って事か﹂
ちらり、とシンディーが横目でクィンに視線を向けると、クィン
は心外というように片方の眉をあげた。
﹁当たり前だろう。アイリーンが喜ばないような事はしたくない﹂
﹁それって、ショーコよりアイリーンの方が大切、って事?﹂
﹁なんだ、それは﹂
﹁だって、もしかしたらショーコはすぐにでも結婚したいかも、
671
よ?﹂
﹁・・・そうなのか?﹂
﹁シンディー・・・馬鹿な事言わないで﹂
クィンとてすぐにでも彼女と結婚したいのだ。ただ、あまり焦る
と翔子が嫌がるのではないかと思って、彼女が望むだろう方向で話
を進めたつもりだった。
だから思いもしなかったと言わんばかりの表情でクィンが訪ねて
くるのを翔子は頭を振って否定する。
﹁ちょっとからかっただけ、よ﹂
ふふふっと笑い声を零して楽しそうに言うシンディーは、いたず
らっぽい笑みを浮かべている。
﹁それで、式はどこでするの?﹂
﹁まだ決めてないわ﹂
﹁じゃあ、ここでしなさい﹂
﹁え・・・?﹂
672
シンディー、最強 ー 前編︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
673
シンディー、最強 ー 後編
今、シンディーは何を言ったんだろう?
翔子は少し頭を傾げてシンディーに尋ねるような顔を向ける。
﹁ここで・・・って、何言ってんのよ﹂
﹁おかしな事じゃないでしょ? うちは場所だけはあるから。ど
うせそんなにたくさんの人は招かないんでしょ?﹂
﹁それは・・・まだそんな事、話し合ってないわ﹂
﹁クィン、あなた、大きな式を挙げたいの?﹂
﹁ショーコの希望通りなら、どんな式でも構わないと思っている。
ただまぁ俺としてはこじんまりとした式がいいと思っている﹂
結婚は個人的なものだから、人をたくさん呼ぶつもりはない、と
クィンはキッパリと言い切る。
﹁でも・・いいの?﹂
﹁どうしても周知しなくてはいけないって言うんだったら、新聞
にでも載せるさ﹂
﹁そうね。クィンだったらきちんと告知しておいた方がいいかも
ね。なんといってもマクファーラン・アンンド・レジェンシーのア
メリカ支部長ね﹂
﹁・・・・えっ?﹂
マクファーラン・アンド・レジェンシーと言う言葉がシンディー
スだ、
の口から出てきて、翔子は驚いたような顔でクィンを振り返った。
﹁あら、ショーコ、知らなかったの?﹂
﹁知らなかったの、って・・・どうして知ってるの?﹂
﹁だって、彼の顔って、雑誌の写真と同じだもの﹂
雑誌、と翔子が小さな声で呟くと、シンディーはフォー
と教えてくれる。
﹁まだショーコには言ってないんだ。そういう話にはならなかっ
674
たからな﹂
﹁そぉ? じゃあ、悪い事をしたわね﹂
﹁いや、隠すつもりはなかったから気にしなくていい﹂
苦笑いを浮かべたままクィンは隣に座っている翔子の膝をトント
ンと叩く。
﹁マクファーラン・アンド・レジェンシー、って聞いた事あるか
?﹂
﹁名前は・・・護衛や警護専門の会社ですよね。その・・・現金
輸送車とか・・﹂
﹁ああ、それで間違っていない。あとは銀行も経営しているな﹂
マクファーラン・アンド・レジェンシーは、アメリカでもトップ3
に入るカナダ・アメリカ両国で展開している大手の警備会社だ。と
はいえ会社の警備というよりも翔子が言ったように現金輸送車の運
営がメインの会社である。
まさかクィンがそんな大きな会社のアメリカ支部長をしていると
は、翔子は夢にも思わなかった。
病院で理事をしているので、それなりの地位についているとは考
えていたものの、実際の彼の地位は翔子が想像する以上のものだっ
た。
果たして自分はクィンの隣にいてもいいのだろうか?
上流社会の事など全くと言っていいほど判らない自分では、その
もた
うちどこかで彼に恥をかかせるのではないだろうか?
ふと、そんな不安が頭を擡げてきた翔子は、そのままふっと目を
伏せた。
そんな翔子の胸の内を読んだのか、クィンはパカンと彼女の頭を
叩いた。
﹁クィン・・?﹂
﹁また何かバカな事を考えてないか?﹂
﹁別にバカな事なんて・・・﹂
﹁どうせ自分でいいんだろうか、とか、釣り合わない、とか、そ
675
んな事考えているんだろう?﹂
﹁それは・・・﹂
図星なので言い返せない翔子をクィンはジロリと見下ろす。
﹁俺は別に金がなくて困っている訳じゃない。後ろ盾が欲しい訳
でもない。俺が必要としているのは一緒にいて肩肘張らない相手だ。
仕事では客に気を使って疲れて家に帰るんだ。その家で待っている
相手にまで気を使いたくない。むしろその相手を見て和みたいんだ
よ﹂
﹁でも・・・﹂
﹁それともショーコは俺と一緒にいたくないのか? だから俺か
ら離れる言い訳を探しているのか?﹂
﹁そんな事っ・・・﹂
そんな風に思われた事が心外だと言わんばかりに言い返そうとし
たが、翔子を見下ろしているクィンの目がなんとなく哀しそうに見
えて言葉が続かなかった。
確かに自分の態度を思い返せば、そう思われても仕方なかったの
かもしれないと思えたからだ。
いつまでも自分に自信がないからどうしても後ろ向きに考えてし
まうのだが、その態度が彼を傷つけていたのだと今更ながら気づい
たのだ。
﹁ごめんなさい・・・﹂
﹁気にしなくていい。こればっかりはショーコの性格もあるんだ
ろうからな。アイリーンみたいに生意気な態度はショーコには無理
だろう?﹂
﹁クィン・・・﹂
﹁ショーコは堂々と俺の隣にいればいいんだよ。誰か嫌味を言っ
てくるような奴がいたら、アイリーンみたいにツンと顎をあげて無
視すればいい﹂
ウィンクしながら冗談めいた口調でいうクィンに、翔子は思わず
口元に笑みを浮かべる。
676
﹁・・・そんな事言ったって、愛莉に言いつけるわよ?﹂
﹁それは勘弁してくれ。あの子には口では勝てない自信がある﹂
﹁そうね、私も時々やり込められちゃうもの﹂
ふふっと笑う翔子にクィンの顔が近づいて、そのまま彼女の頰に
彼の柔らかな唇が触れる。
﹁そうそう、そうやって笑っていればいいんだ。何を言われても
気にするな﹂
﹁・・ありがとう﹂
﹁あ∼∼、はいはい。イチャイチャは後で2人きりになってから
してね﹂
﹁シッ、シンディー﹂
片方の手で顔を扇いで見せるシンディーの声で、翔子は自分がど
こにいるのかを思い出した。
からか
﹁ま、それだけ仲がいいところを見せてもらうと安心するわね﹂
﹁もうっ、揶揄わないで﹂
﹁別に揶揄ってないわよ? 2人が仲がいいんだなって再認識し
ただけ﹂
わざとらしく片方の眉をあげて見せるものの、その口元が笑みを
浮かべたままなのであまり信憑性がない。
それでも彼女がずっと自分の事を心配してくれていた事を知って
いる翔子はそれ以上文句を口にする事もできない。
﹁それで、話を戻してもいいかしら?﹂
﹁話って?﹂
﹁結婚式の事に決まってるでしょ﹂
そういえばそんな話をしていたな、と翔子は先ほどのシンディー
の提案を思い出した。
﹁それって、ここでするって事?﹂
﹁そうよ﹂
﹁無理よ﹂
﹁どうして? 準備は私がシャスタと一緒にするわよ。細かい事
677
は電話やメールで話し合えばいいじゃない。ショーコが用意するの
はウェディングドレスだけ、よ。楽でいいでしょ?﹂
シンディーの中では義母のシャスタを巻き込む気満々のようだ。
﹁でも、クィンにも予定があるから・・・彼の都合に合わせた方
がいいと思うわ﹂
﹁そぉ? じゃあ、ミスター・マクファーラン、うちで結婚式を
あげて﹂
翔子に言われたシンディーはそのままクィンと目を合わせて、と
ても軽い口調で頼んだ。
その物言いがあまりにも軽くて、翔子は思わず頭を抑えかけた。
﹁どうして俺とショーコの結婚式について君が口を挟むのか判ら
ないんだが?﹂
﹁あら? だって、翔子は私にとっては妹みたいなものだもの。
その妹のために姉である私が一肌脱ぎたいって思ってもおかしくな
いと思うけど?﹂
﹁いや、そうじゃなくて、だな﹂
﹁いいじゃない。そんな些細な事で文句を言わなくても。ショー
コもここで式を挙げれば手間暇省けるし、なんと言ってもここなら
アイリーンも安心でしょ? ショーコとアイリーンの事を考えれば、
ここで結婚するのが一番なのよ﹂
よく判らない理論だが、シンディーなりに翔子と愛莉の事を気に
しているのだという気持ちは伝わってくる。
﹁・・・ショーコたち次第だ。彼女たちがここがいいというので
あれば、俺も異論はない﹂
﹁・・・えっ?﹂
﹁だって! 良かったわね、ショーコ。じゃあ、これから色々話
し合いましょうね﹂
﹁えっと・・・?﹂
思わぬクィンの言葉に翔子は驚いたように目を見開いたままクィ
ンとシンディーを交互に見る。
678
﹁俺としてはマーサと数人の友人を呼びたいだけだからな。ショ
ーコとアイリーンさえいいんだったら、俺はここで式を挙げても構
わないと思っている﹂
﹁・・・いいの?﹂
﹁ああ。ただ、その代わり来月にはカリフォルニアに来てくれよ
? その頃にはアイリーンの転院の手続きも終わるだろう?﹂
﹁それは・・はい、大丈夫だと思うわ。でも、本当にいいの?﹂
﹁ああ、俺がダメだと言っても彼女に言い負かされそうだからな、
とっとと白旗を揚げておくよ﹂
押しが強そうなシンディーとこれ以上の口論は無駄だ、とクィン
は判断したようだ。
時間をかけた議論にすれば勝てるだろうが、そこまで反対するだ
けの理由もないクィンとしては、翔子と愛莉が落ち着ける場所が一
番だと思うのだ。
それに傷ついていた翔子を受け入れてくれたシンディーに感謝し
ているのだ。
2人を今までずっと見守ってくれたお礼と思えば、このくらいの
妥協は許容範囲だと思う。
とはいえ、この調子で全てに口を挟まれても困る、というのも事
実なのだが。
﹁じゃあ、3月?﹂
﹁ああ・・・それでいい。ショーコもそれでいいんだろう?﹂
﹁はい・・でも、本当にいいの?﹂
﹁いいよ。そのままアイリーンをここに預けてハネムーンに行け
るしな﹂
﹁あら、いい考えね。うちでちゃんと面倒をみるわ﹂
親指を立てて頷いているシンディーに苦笑いしながら、クィンは
翔子を自分の方に抱き寄せてそのまま耳に唇を近づけた。
﹁せめてハネムーンの行き先くらいは俺に決めさせてくれよ?﹂
﹁・・・いいわ﹂
679
﹁1週間、アイリーンは大丈夫か?﹂
﹁ええ、多分ね﹂
どうやらクィンにはハネムーンとして行きたい場所がすでに頭に
浮かんでいるようだ。
だが、彼は翔子にそれを教える気はないようで、それ以上の事を
口にしない。
﹁ちゃんとカリフォルニアに来てくれよ? いつまでも待たせる
と迎えに来るからな。その時はここでの結婚式は無しだ﹂
﹁クィンってば﹂
﹁当たり前だろう? 俺は十分妥協したと思うぞ?﹂
﹁そうね・・・判ったわ。シンディーを説得する﹂
シンディーの我が儘に付き合って妥協してくれたのだ、これ以上
彼に無理はいえない。
というより、翔子としてもクィンと一緒にいたいのだ。
できればすぐにでも彼と一緒にカリフォルニアに戻りたいとも思
う。
だが、愛莉の病院の事を考えるとそう簡単に即日移動というわけ
にはいかない。
﹁10月1日に迎えに来る﹂
﹁もう少しのんびりしててくれてもいいのよ?﹂
﹁それ以上は俺が待てない﹂
茶々をいれてくるシンディーをジロリと睨んでから、クィンは翔
子のつむじにキスをする。
﹁今月一杯ここに置いて帰るのも本当は嫌なんだが、アイリーン
の事を考えると仕方ないと思って諦めるんだ。だから、結婚式につ
いての話し合いはそれまでに済ませておいてくれよ﹂
﹁はいはい。ま、仕方ないわね﹂
肩を竦めて両手をあげるシンディーは、ふと真顔になってクィン
を見た。
﹁それで、予算は? 上限無し?﹂
680
﹁シンディー、あなた何言ってんのよっっ﹂
﹁だって、予算をちゃんと聞いておかないと何も決められないじ
ゃない﹂
﹁好きにすればいい。ショーコにとって思い出に残る式にしてく
れるなら、金はいくらかかっても構わない﹂
﹁クィンッ﹂
﹁良かったわね∼、ショーコ。予算の上限無しって事なら、なん
でもできるわね﹂
﹁ただし、派手な演出は止めてくれ﹂
﹁大丈夫よ、ショーコも派手な事はしたくないと思うから﹂
ね、ショーコ、と言いながらニンマリと顔一杯の笑みを浮かべた
シンディーを見て、はぁっと翔子は溜め息を吐いた。
﹁あとでアイリーンも一緒に結婚式の事を決めましょうね﹂
﹁それは俺が帰るまで待ってくれないか? 俺は明日の昼過ぎに
はここを出てカリフォルニアに戻らなくてはいけないんだ。ショー
コといる時間を取らないでくれると嬉しい﹂
﹁もう帰っちゃうんですか? そっかぁ・・・じゃあ、ショーコ。
明日の晩御飯のあとからいろいろ決めようね﹂
サン・アントニオから戻る途中にその話はクィンから聞いてはい
たものの、こうして改めて口にされると寂しいと思ってしまう。
それでも仕事だから、と納得するしかない。
カリフォルニアからテキサスまで自分に会いに来てくれたのだ、
これ以上無理は言えないと翔子は思う。
﹁じゃあ、今日はうちに泊まるの? それともどこかホテルでも
取るの?﹂
﹁アイリーンだけここでみててくれないか? 今夜はショーコを
連れて2人でディナーに行きたいと思っているんだ﹂
﹁で、そのままホテル、ね﹂
﹁なんだか身も蓋もない言い方だな﹂
あまりにも明け透けなシンディーの言い方に、クィンは思わず溜
681
め息を吐いた。
﹁あら、だって言葉で飾り付けたところで意味が変わる事もない
じゃない﹂
﹁シンディー・・・もう、ほんっとうにあなたは・・﹂
﹁はいはい。シャスタにもいつも怒られてるからショーコまで言
わなくてもいいわよ。それより、ちゃんとアイリーンの面倒は見る
から2人で楽しんできなさいな﹂
どうやらそう思っているのはクィンだけではないようだ。
クィンは内心彼女の義母であるシャスタに同情を感じながらも、
これ以上長居は無用と言わんばかりに立ち上がった。
﹁じゃあ、俺たちはそろそろ出るよ﹂
﹁あら、アイリーンに言わなくていいの?﹂
﹁アイリーンには車の中で話してあるから大丈夫だ﹂
﹁そぉ?﹂
﹁一応キッチンに行って、一言声をかけてから行くわ﹂
既にクィンと出かける事は言ってあるものの、それでも翔子とし
ても出かける前に声をかけておきたい。
翔子はクィンと手を繋いだままキッチンに行き、愛莉に出かける
と声をかけてから車に向かった。
﹁それじゃあ、また明日ね﹂
﹁ごゆっくり∼﹂
どこか揶揄うようなシンディーの声を背中に、2人は車に乗り込
んだのだった。
682
シンディー、最強 ー 後編︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
683
ジュリアとお茶会︵前書き︶
長いです。分け切れなかったので2話分を1話として投稿しまし
た。
ーーリクエストーー Asuka様より﹃基金のその後﹄ですが・
・・その後、というよりは翔子が考えている基金についての話をし
ています。実際基金を軌道に乗せようと思うとかなりの年月がかか
るので、そうさせていただきました。 これでリクエスト完了、と
していただけると嬉しいです。︵苦笑︶
ですので少し硬い内容ですので、興味のある方に読んでいただけ
れば、と思います。
684
ジュリアとお茶会
ジュリアがやってきたとマーサに言われ、翔子はダイニングルー
ムに向かった。
普段であればリビングルームに誘うのだが、目が見えないジュリ
アにはテーブルがあるダイニングルームの方が安心だろう、という
事で事前に話をしたジュリアの了承を得ている。
﹁お久しぶりです、ショーコ﹂
﹁わざわざ足を運んでくれてありがとう、ジュリア﹂
翔子としてはジュリアのところに行くつもりだったのだが、彼女
がクィンの飼っている犬のバックに興味を示したので、それなら、
という事でここに来てもらったのだ。
ブレック
ジュリアがマーサに勧められた椅子に座るのを確認したあと、彼
Nook︶に移動した。
女の護衛らしき男女2人はダイニングルームを見る事ができる朝食
ファスト・ヌック
用の部屋︵Breakfast
どうやらその辺りの話は家の中に案内された時に既にされていた
ようで、翔子はマーサの手際よさに感心しながらジュリアの正面の
椅子に座る。
﹁目は大丈夫? 眩しかったらブラインドを下ろすけど?﹂
﹁大丈夫よ。このくらいなら丁度いいの。ショーコはケンと同じ
くらい心配性ね﹂
﹁お客様だから、ちゃんとおもてなししないとダメでしょ?﹂
クスクス笑っているジュリアの表情を見ても、部屋の明るさは苦
になっていないようだ。
﹁お茶がいい? それともコーヒー?﹂
﹁グリーンティー、ある? えっと・・・ニ、ホンチ、ャってい
うんだったかしら?﹂
﹁日本茶、ね。あるわよ。ボスに教えてもらったの?﹂
685
﹁そう。ケンが家でね、食後は日本茶が美味しい、だって﹂
翔子は少し驚いたように目を開く。
賢一が日本茶を飲んでいるところは想像ができない、と思ったと
ころで、そういえば、と思い出した。
彼の部屋に小さな給湯施設があり翔子はてっきりそれはコーヒー
のためにあると思っていたのだが、賢一がそこを使って日本茶を淹
れてくれた事があったのだ。
﹁でも、ね。私と一緒に日本茶は飲みにくい、って言われたの﹂
﹁えっ? どうして? ボスだったらジュリアがそばにいればな
んでも嬉しいんじゃないの?﹂
ぼんやりと賢一のオフィスの事を思い浮かべていた翔子は、ジュ
リアの思わぬ言葉に我に返った。
﹁あの、ね。日本茶って、私にはちょっと苦いというか・・・そ
の、私、お茶には砂糖を入れないと飲めないから・・・・﹂
﹁ああ・・・判ったわ。ジュリア、日本茶にも砂糖、いれたのね
?﹂
﹁そう。そしたらケンが見てるだけで自分のお茶も甘く感じて飲
めないって言って・・・やっぱりそれってダメなのかしら?﹂
﹁う∼ん・・・ダメって事はないけどね。でもやっぱり日本人と
しては、日本茶はそのままで飲んでもらいたいわね﹂
﹁そっか・・・﹂
アメリカ
少ししょんぼりとしたジュリアに、翔子は思わず小さく吹き出し
た。
﹁でもこっちだと、コンビニで売っている缶入りのものにはハチ
ミツがはいっているものね。それにレモン果汁がはいっていたりも
するし﹂
﹁そうなの。私、ケンと付き合い出した最初の頃に、彼が日本人
だからグリーンティーは飲めた方がいいかなって思って、試しにコ
ンビニで買ってみた事があるのよ。それにはレモンとハチミツが入
っていたの。だから、てっきり日本茶って紅茶と同じようにして飲
686
むんだって思っていたんだけど・・・﹂
﹁あぁ・・・私も見かけた事があるわ。レモンとハチミツ入りっ
ていうのを見て、私は手に取っただけで買う勇気はなかったんだけ
どね﹂
南部ほど砂糖を大量に入れる訳ではないが、それでも紅茶だと砂
糖を入れたがる人が多い事は翔子も知っている。
﹁でも、同じものが飲みたいのよね?﹂
﹁うん・・・でもね、一度ハチミツ無しで飲んだけど苦かったの。
だからそのままだと私には飲めないと思うわ﹂
本気でガッカリしているジュリアはどこか子供っぽくて翔子は思
わず笑みを浮かべてしまう。
そんな彼女を見てしまうと、なんとかしてあげたい、と翔子が思
ってしまっても仕方ないだろう。
ハウスキーパー
﹁そうね・・誰がお茶を淹れているの?﹂
﹁泊まりの家政婦のマティウスさんが淹れてくれるわ﹂
﹁朝は?﹂
﹁朝ご飯の時、ケンはコーヒーを飲むから。グリーンティーは夕
食の後ね。もちろん外食の時はわざわざかえってまで飲む事って滅
多にないから、週に3回くらいだと思うわ﹂
賢一も仕事の接待でディナーを顧客と摂る事もあるし、ジュリア
を連れて出かける事もある。そういう時は家に帰ってすぐに寝るの
だろう。
なので、のんびりと過ごす時間がある時以外はお茶を飲まないよ
うだ。
﹁じゃあ、彼女に頼んで持ってくる前にジュリア用のハチミツ入
りのお茶を作ってもらえば?﹂
﹁ううん。ケンはポットに淹れてもらうの。それを持ってきても
らって自分で淹れて飲んでるわ﹂
﹁ポット? あぁ、急須の事ね。そっか・・・じゃあ、ジュリア
のカップにあらかじめスプーン1杯分のハチミツを入れておいて貰
687
えば? それならボスにカップに淹れて貰えばいいだけだし﹂
とはいえ、賢一がカップの底に溜まっているハチミツを見てしま
う事になる。
それでもジュリアがそこまで気を使っているのであれば、賢一も
そのくらいの事は我慢してくれるのではないだろうか、と翔子は思
うのだ。
﹁うん、そうね・・・ケンに聞いてみるわ。もし彼がそれなら大
丈夫だっていうんだったら、マティウスさんに頼んでみる﹂
﹁それくらい私のために我慢して、って言えば、ボスはうんって
頷くわよ﹂
﹁ショーコ・・・﹂
﹁少しくらいわがまま言いなさい。好きな女のわがままを聞くの
も男の甲斐性よ﹂
﹁・・・そんな事言って、ショーコだってわがまま言えないくせ
に﹂
﹁ジュリア・・・﹂
軽い気持ちで揶揄うように言った言葉だったのだが、ジュリアは
すぐにそれを翔子に返してきた。
しかもそれが当たっているのだ。
そうなると翔子はそれ以上言葉を続けられなくなってしまう。
﹁お互い様、ね﹂
﹁そうね・・・ジュリアも甘える事が苦手だものね﹂
﹁だって、そういう相手は今までいなかったんだもの。おばあち
ゃんにはちょっとくらいは言ってたけど、あんまり言えなかったも
の。でもそれってショーコも同じでしょ? ショーコだってアイリ
ーンの世話があったから、わがままなんて言ってられなかったでし
ょ?﹂
﹁辛くはなかったけど・・でも、そうね。わがままをいう機会は
なかったかもね﹂
﹁ほら、私も家族がおばあちゃんだけだったから、自分で頑張ら
688
なくっちゃ、って思っていたのよね﹂
はぁ、っと小さく溜め息を吐くジュリアを見てから、翔子も釣ら
れたように小さく溜め息を吐いた。
そんな2人の前に絶妙のタイミングで、マーサがコーヒーを持っ
てきてくれた。
﹁ほらほら、溜め息を吐いていると幸せが逃げますよ。それより、
ちゃんと話もしてくださいな﹂
﹁マーサ、ありがとう﹂
﹁ありがとうございます、マーサ﹂
﹁さっさと話を済ませないと、うちのバックと遊ぶ時間がなくな
りますよ﹂
﹁それは大変っ﹂
ジュリアが慌てたように言ってから、指先に触れていたカップに
手を伸ばす。
けれど、ジュリアは口をつける前に何かを確かめるようにコーヒ
ーの匂いを嗅いだ。
﹁砂糖が2つにクリーマーが2つでしたよね﹂
﹁はい、ありがとうございます﹂
ジュリアは少しはにかんだように笑みを浮かべてマーサに礼を言
うと、そのままゆっくりと一口飲む。
ブレックファスト・ヌック
翔子は片方の眉をあげてから尋ねるようにマーサを振り返ると、
彼女は視線だけを朝食用の部屋に向けて、彼らにジュリアの好みを
聞いた事を教える。
﹁じゃあ、コーヒーの飲んだら始めましょう﹂
翔子はジュリアにそう宣言してから、自分もコーヒーを口に運ん
だ。
689
今日ジュリアが翔子の住んでいるここにやってきた理由は、先日
賢一とクィンが発表した基金について話し合うためだった。
専門的な事は弁護士を雇ってきちんとしていく事になっているら
しいが、その前に翔子とジュリアが話し合ってどのような形の基金
にしたいかを決めるのだ。
﹁対象は病気を抱えている子供達よね?﹂
﹁そうね。でも子供達だけを対象にしちゃったら、それ以上の手
助けができないわよ?﹂
﹁どういう事? 手術に必要な費用を手助けするための基金じゃ
ないの?﹂
コーヒーを飲み終えた翔子は、目の前のカップを下げてもらって
からその場所にノートを開いた。
これから話し合う事をそこにまとめるためだ。
﹁だって、こんな言い方は悪いけど、手術のための費用を用意で
きないって事は、あまりお金に余裕がないって事でしょ? そうい
う家族には手術代の他にも手助けが必要よ。手術を受けるって事は
患者の状態を調べるための検診はうけなくちゃいけないわ。それも
1回だけじゃないから、その度に病院に行かなくちゃいけない。も
し病院から遠い場所に住んでいるのであれば、交通費や宿泊費、そ
れに滞在中の食費も必要になってくる。それって手術の前後も同じ
ように必要になるのよ﹂
たまたま愛莉は病院が近かったからそんな費用は必要なかったが、
地方に住んでいればそういう費用だって必要になっただろうと翔子
は思う。
﹁それに入院中つきっきりになる事だってあるかもしれないでし
ょ? そうなると当然仕事には行けないから、その間は収入が全く
ないって事だってあり得るのよ。収入がないって事はお金がない訳
だから、そのための手助けだっているかもしれないじゃない﹂
﹁ああ・・・なるほどね。そう言われてみればそうよね。私、手
術の事しか考えてなかったわ﹂
690
ジュリアは考えつきもしなかった、とハッとしたような表情を浮
かべる。
﹁それは当たり前よ。私だって自分が経験してなかったら、そこ
まで考えなかったと思うもの﹂
﹁じゃあ・・・手術代とそれに付属する費用って事ね﹂
﹁そう。でもね、金額を設定するんじゃなくって、サポートする
相手の家庭環境や家族の現状も加味した上での補助金を用意する形
にするのが一番いいと思うわ﹂
﹁それもそうね、手術によってはかかる費用も変わってくるだろ
うし、さっきショーコが言ったように手術の日程によって必要経費
も変わってくるでしょうしね﹂
ジュリアはテーブルに肘をついて、その手のひらに顎を乗せて斜
め上を見て考え込んでいる。
そんな姿を見ていると、とても目が見えないようには見えないの
だが、翔子は彼女の目が何も映す事ができない事を知っている。
﹁やっぱり弁護士が決まってから話し合ったほうがよかったのか
しらね﹂
﹁そんな事ないわよ、ジュリア。こうやってある程度の方針を決
めておいた方が、弁護士だってどの方向に進めていけばいいのか判
断ができるじゃない﹂ ﹁でも私、そこまで考えてなかったわ。ケンがショーコの妹の事
を話してくれて、あのパーティーの時に基金の事を教えてくれたの。
多分私が誰かの基金にボランティアとして参加するよりは、自分で
基金を手がけた方が私の負担が少ないだろうって考えてくれたんだ
ろうけど・・・﹂
﹁そうね。でもそれは私も一緒よ。私も上流社会の生活なんて全
く縁がなかったんですもの。だから、クィンとボスがこうやって私
たちが参加できるボランティアを探すんじゃなくて、私たちが手が
ける事ができる基金を作ってくれた事に感謝しているわ﹂
テーブル越しに手を伸ばして、翔子はジュリアの手にそっと触れ
691
る。
アメリカでは上流社会によるボランティア基金活動がとても盛ん
なのだ。お金がある人間はそれを使って社会の貢献するのが当たり
前、という風潮があるから、そんな世界に位置する相手とこれから
の人生を共に歩むという事は、そんな社会の当たり前にも参加しな
くてはいけない、という事なのだ。
とはいえ元々ただの庶民である翔子や、同じく庶民であるジュリ
アにとって、そういった人たちの輪に入って一緒に活動するという
行為はとてもハードルが高い。
下手をすると庶民の出というだけで仲間に入れてもらえなかった
りもする。
そのくせ社会に貢献する事もできない、と陰口を叩かれかねない
のだからどうしようもない。
だからこそクィンと賢一は、そんな翔子とジュリアのためにこの
基金を考えてくれたのだろうと思っている。
﹁それはそうだけど・・・でも方針って言われてもよく判らない
わ。大体、援助の対象にする人をどうやって見つけたり選別したり
すればいいのかも判らないもの﹂
﹁私たちが探そうとすればそうでしょうね。でもね、ジュリア。
そんな事は任せてしまえばいいのよ﹂
﹁任せるって・・・誰か雇うの?﹂
﹁いいえ、そんな無駄な事にお金は使えないわ。ボスとクィンが
かなりの金額を基金のために設定してくれたけど、だからと言って
無駄遣いしていいって事はないもの﹂
﹁じゃあ、どうするの?﹂
﹁病院に頼めばいいのよ﹂
﹁・・・病院?﹂
ジュリアは話が見えていない、というように頭を少し傾げる。
﹁そう。病気を抱えている人は病院に集まるでしょ? そこで病
気を知り、治療方法を説明されるのよ。その段階で患者によっては
692
自分で支払う事ができるかどうかが判るのよ。もし、その時にどう
しても治さないといけない病気だと判ったものの、その金額がとて
も膨大で支払う事ができないから治療を受ける事を諦めなければい
けなかったら? そして、それが自分の子供だったら?﹂
諦めきれるだろうか?
翔子はもしそれが自分だったら、と考えてみる。
もし愛莉の病気を治すお金がないから彼女がだんだん弱っていく
姿を見ながらもあきらめる事ができるだろうか?
答えはノーだ。何があっても愛莉のためにお金を手に入れようと
するだろう。
だからこそ、翔子は賢一の話に乗ったのだ。
翔子たちには両親が残してくれた家があったから、もしもの時に
はそれを売ればなんとかなると思う事ができた。
けれど、みんながみんなそんなに恵まれているだろうか?
﹁私はまず愛莉がお世話になった病院と話をするのが1番だと思
うわ。そこならどんな人が手助けを必要としているか教えてもらえ
ると思うし、どこと接触すれば基金を生かす事ができるのかも教え
てもらえるんじゃないかな、と思うの﹂
﹁そうね・・・私たちが闇雲に動いても本当に必要な人を探し出
せないかもしれないものね。だったら病院に聞けば、一番必要とし
ている相手を見つける事ができる、って事ね﹂
﹁そう。それにもしその病院と話がつかなくても、そのツテでど
こと連絡を取り合えばいいのかを教えてもらえると思うわ﹂
﹁じゃあ、いつ病院に行くかも決めた方がいい?﹂
﹁それはあとでね。最初は病院に連絡を取って、私たちがどんな
基金を設立しようとしているかを説明するためのアポをとるの。ま
ず私たちの基金の主旨を理解してもらわない事には、病院としてど
んな人を私たちに紹介すればいいのか判らないでしょ?﹂
面倒くさくても手順を踏まなくては話は進まないのだ。
﹁私たちの基金が病院の方針に沿うものであれば、話を進めてい
693
く事ができるわ。もし方針と合わなければ、基金を役立ててくれそ
うな病院、または相手を紹介して貰えばいいと思う﹂
﹁でも私たちの基金は病院にとってもありがたい事じゃないの?
お金が払えなくて手術を断る事だってあるでしょ?﹂
﹁そうね。でもね、お金が払えない患者っていうのはいるのよ。
だから病院の方も解決策をある程度は持っているの。例えば年間何
パーセントの治療費が未払いになるか統計をとっていれば、チャリ
ティーや寄付金を募って集めておく事だってできるでしょ?﹂
そのためのチャリティーを年に数回行う病院だってあるし、そう
いったチャリティーのスポンサーを勤めてくれるような資産を持っ
ている人たちによるボランティアグループだっているのだ。
﹁それに、もしかしたら既にそういう基金があるかもしれない。
そうなったら私たちの基金は表に出る事もなく、お金だけを取られ
てその基金の下に組み込まれるかもしれないわ。そうなると私たち
には何の権限もなくなっちゃうもの。だからきちんとその辺りも話
を聞いておかないとね。せっかくの基金がただの寄付金になっちゃ
うなんて、本末転倒でしょ?﹂
﹁ショーコ・・・よく知ってるわね﹂
﹁私の両親が愛莉の病気が発覚した時に、何とかして援助を受け
る事ができないか、って飛び回っていた時に色々と調べたのよ。患
者の年収がいくら以下でないとダメ、だとか、持ち家があるとダメ、
だとか、規制が多すぎて愛莉は援助を受けられなかったの﹂
あの頃はまだ祖母が生きていたから家を売る事はできなかったの
だ。言えば売る事を許してくれたかもしれないが、祖母にとって唯
一残っている祖父との思い出の場所を奪うような真似は義父には到
底出来なかった。
もちろん、愛莉の病状がすぐに手術をしなくても良かったもので
あった、という事も援助が受けられなかった理由の1つであるのだ
が。
﹁だったら病院に手助けが必要な人を探してもらわなくても、私
694
たちの方でそういう基金をしています、って宣伝して患者の方から
連絡をして貰えばいいんじゃないの?﹂
﹁大きな基金だったら、ね。残念ながら私たちの基金だとそこま
では無理よ。広告や宣伝にお金がかかりすぎるもの﹂
﹁えっ? でもケンがクィンの分と合わせて600万ドルが基金
にある、って言ってたのよ?﹂
﹁ジュリア、それだけのお金で何人の子供を助ける事ができると
思う?﹂
﹁何人って・・・そうね。10人か15人くらい?﹂
﹁いいえ、その半分でも手助けする事ができればラッキー、って
ところよ﹂
﹁えっ・・・・﹂
よく判らない、とジュリアは戸惑ったような声をだす。
﹁病状によるけど、愛莉の場合は手術や検診に100万ドルくら
いかかっているの。それでもあの子はこれ以上手術を受ける必要は
ないだろう、と言われているからそれ以上の手術にかかる費用はい
らないわ。だけど病状によっては複数回の手術を必要とする子だっ
ているの。そういう子にかかる費用はおそらくだけど、2−300
万ドルはいつと思うわ﹂
﹁だったら・・・やっぱり手術代だけを援助するようにすれば﹂
﹁それで交通費や手術前後の生活費が捻出できないから、ってい
う理由で手術を諦める人を出すの?﹂
﹁それは・・・﹂
先ほどの翔子の説明を思い出して、ジュリアは言葉に詰まってし
まう。
﹁基金の宣伝や広告にかけるお金で、子供達の家族の負担を減ら
す事ができるの。もちろん、全くしないって事じゃないわよ。手を
取る病院を見つけたら、私たちは基金でこんな事していますよ、っ
ていう表明をするつもりよ。それから年に2回くらいチャリティー
を開いて寄付金を募るわ。その辺りはボスやクィン、それに今度話
695
をする弁護士さんと話し合って決めればいいと思う﹂
﹁ショーコ・・・色々考えていたのね。すごいわ。私、基金に参
加させてもらえるって言う事しか頭になくって、そんな細かい事な
んて全く考えてなかったのに・・・﹂
﹁これから一緒に勉強していきましょうね。私が知っている事は
本当に基本の事だけだから、これからもっと沢山の事を覚えていか
なくちゃいけないから、ジュリアも一緒に手分けして仕事ができる
くらい頑張らなくっちゃね﹂
﹁私に・・・できるかな? 私、見えないから足手まといになっ
ちゃうかも・・・﹂
﹁大丈夫よ。ジュリアにヤル気があればなんだってできるわ。そ
れに私たち2人だけで運営をする訳じゃないわ﹂
﹁・・・そうなの?﹂
﹁ええ、私たちの基金の方針を決めて最低限の運営方針を決めて
しまえば、あとはそれに必要な人員の数と運営にかかる年間費用を
概算すれば、年に何人の患者さんの手助けができるかが判ってくる
わ。そこまで判ったらジュリアと私を助けてくれる人をみつけまし
ょうね﹂
おそらくジュリアと自分にはアシスタントをつける事になるだろ
う、と翔子は思っている。
その数をジュリアには多めにすればいいだけで、彼女が萎縮しな
くても伸び伸びと基金に関わっていける環境を作れると思う。
﹁だからその点に関してジュリアが心配する必要はないの。それ
より、方針を決めてしまいましょう。じゃないとボスが迎えに来る
までに話が終わらないわよ﹂
﹁そうね。ケンが来ちゃうと話ができないものね﹂
気を撮り直したジュリアがにっこりと笑みを浮かべる。
少し不安そうだった彼女も少しは安心してくれたようで、翔子は
それを見てホッと小さく息をこぼした。
﹁せっかく2人が私たちのために用意してくれた基金なんだもの。
696
無駄遣いしないようなシステムを考えなくっちゃね﹂
﹁そうね、むしろ出してよかったって思ってもらえるようなシス
テムにすれば、また寄付してくれるかもしれないしね﹂
クスクスと笑いながら翔子が言うと、ジュリアもそれに乗って軽
口を返してくる。
それから2人はのんびりしながらも、お互いの意見を言い合って
基金の基本システムを決めたのだった。
697
ジュリアとお茶会︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
日本茶の話は、アメリカあるある、でしたwww
気がつくと総合評価が4000を超え、PVも120万を超えて
いました。
お付き合いくださった皆様のおかげです、ありがとうございます。
698
ハロウィーン・スマイル 1︵前書き︶
ハロウィーンということで、今夜から3夜連続してお届けします。
ーーリクエストーー ﹃クィンと一緒に翔子にサプライズ﹄ 伽羅
様より ﹁﹂は英語、﹃﹄は日本語です。
699
ハロウィーン・スマイル 1
﹃よいしょっ﹄
掛け声をかけながら、愛莉は持っていたかぼちゃを玄関の左横に
置いた。
ついさっきキッチンでくり抜いたばかりのちょっと怖い顔をした
かぼちゃだ。
﹁これはこっちに置くわね﹂
愛莉の後ろをついてきていたマーサは、玄関の右横に持っていた
かぼちゃを下ろす。
そちらも愛莉のかぼちゃ同様、くり抜かれて変な笑顔になってい
る。
﹁ハロウィーンっぽくなってきましたね﹂
﹁うん。ハロウィーンが終わったらかぼちゃを裏返せば、そのま
マム
ま感謝祭のデコレーションになるね﹂
﹁そうね。でもその前に菊の花をたくさん買いに行きましょうね﹂
﹁うん﹂
マーサは笑いながらも愛莉のアイデアを否定する事もなく頷いて
やる。
かぼちゃくらい新しいものを買えばいいのだが、愛莉なりに無駄
遣いを減らそうと考えているのだと思うとそのアイデアを否定する
なんて事はできない。
この週末はハロウィーン。
そのための準備をしているのだから、今は愛莉を楽しませてやり
たい、そうマーサは思った。
700
さて、今日はハロウィーン当日の夕方6時。
外から帰ってきたばかりの翔子は、2階からゆっくりと階段を降
りてくる愛莉を出迎えた。
﹃可愛い魔女ね、愛莉﹄
真っ黒のだぶだぶの魔女の服を着て、頭には絵本で見るような魔
女の帽子を被っている。
ただ、裾が長すぎるのか踏まないように歩いている愛莉は、少し
真剣な顔をしていてそれがまた笑いを誘う。
そんな愛莉がやってきた事に気づいたバックが奥から出てきた。
白い体に真っ赤なマントをつけられ、頭には小さな黒い目だけを隠
すマスクのようなものがのっている。
どうやら愛莉の手で仮装をされてしまったようだ。
実は愛莉の希望でバック用の犬の仮装服を見にでかけたのだが、
出かけた店では大型犬用のものは見つける事ができなかった。
ネットで検索して買う事もできたのだが、愛莉が自分の目で見て
納得したものでなければ駄目だ、と言ったのでそうする事もできな
かった。
結局愛莉は人間用の仮装の前で30分ほど唸りながら怪盗の仮装
セットを選んだ。
マントはバックにつけてから愛莉の手によってギザギザになりな
がらも切られ、目だけを隠すマスクはバックの頭につけられた。
その夜愛莉が寝てからこっそりとマーサが、バックのマントのギ
ザギザを丁寧に切って見栄えよくした事は言ってない。
﹃お姉ちゃんは着替えないの?﹄
﹃私はいいの。仮装するような年じゃないもの﹄ ﹃えぇぇぇぇ∼∼。でも一緒に回るんでしょ?﹄
﹃そうよ﹄
701
﹃じゃあやっぱりちゃんと仮装しようよ﹄
私ちゃんとお姉ちゃんの分、用意してあるのよ、とえへんと胸を
張っていう愛莉に翔子は溜め息を吐いた。
﹃愛莉、仮装なんかして車の運転できないわ﹄
﹃大丈夫。他の子供達の家族も仮装して運転してるわよ﹄
﹃それのどこが大丈夫なのか判らないけど?﹄
﹃んっもう、とにかく、お姉ちゃんも仮装するの﹄
愛莉は翔子を階段に向かって背中を押す。
そんな愛莉の頭越しに振り返ると、マーサが楽しそうに手を振っ
ているのが見えた。
どうやらマーサも一枚噛んでいるらしい、と思うとこれ以上仮装
はしないと言っても聞いてはもらえないだろう。
翔子は小さく溜め息をもう一度吐いてから、愛莉に押されるまま
階段を上った。
そして連れて行かれたのは愛莉の部屋だった。階段を上って左に
行くと翔子とクィンが使っている部屋があり、右に行くと愛莉が使
っている部屋がある。
翔子に内緒にして買っていたようだから、自分の部屋に仮装の衣
装を隠していたのだろう。
愛莉によって彼女の部屋に押し込まれた翔子は、勧められるまま
にベッドに座った。
﹃それで、私の衣装は?﹄
﹃じゃ∼ん。これです﹄
﹃これって・・・・えぇっ﹄
クローゼットの奥から愛莉が取り出したのは、真っ赤な布だった。
それをぴら∼っと広げる愛莉は満面の笑顔だが、反対に翔子は顔
を赤くする。
﹃ちょ、ちょっと愛莉、なんなのよ、それ﹄
﹃セクシーでしょ?﹄
﹃セクシーって・・・﹄
702
えへん、と胸を張って翔子に手渡してくる愛莉だが、彼女が手に
していた衣装はどう見ても街角の娼婦が切るようなきわどいドレス
だった。
﹃あなた一体どこでこんなの見つけてきたのよ﹄
﹃・・・内緒?﹄
﹃愛莉﹄
﹃まぁいいじゃない。お姉ちゃんっていっつも地味な格好してる
んだから、ハロウィーンの夜くらい羽目を外してもバチは当たらな
いわよ?﹄
﹃そういう問題じゃないでしょ﹄
真っ赤なドレスは体にぴったりフィットするタイトなもので、そ
の胸元はかなり大きく開いており、おまけのドレスのスカート部分
は太ももの上の方までスリットが入っている。
そしてそれに合わせた大きな羽根のついた髪飾りを愛莉が握りし
めている。
それでもブラをつけて着る事ができるデザインである事に翔子は
ほっとする。
﹃ねぇ、本当にこれ着なくちゃいけないの?﹄
﹃もちろん、私は魔女、お姉ちゃんは西部劇に出てくるバーのお
姉さん。あっ、ちゃんと髪はアップにしてね。その方が羽根の髪飾
りが似合うから﹄
なるほど、愛莉の頭の中では映画なんかの西部劇に出てくるバー
のお姉さん、というわけだ。
まぁ娼婦と言われるよりはマシだと思うが、それにしてももっと
違うものを選ぶ事ができなかったのか、と翔子はじっとドレスを見
つめる。
﹃お姉ちゃん、着ないの?﹄
﹃ちょっと派手すぎない? それに露出しすぎというか・・・・﹄
﹃大丈夫よ。だって、キャンデーを貰いに行くのは私だけじゃな
い。お姉ちゃんは車の中で待っててくれればいいんだから﹄
703
﹃それだったら何も無理に仮装する必要なんてないんじゃないの
?﹄
﹃ダメね、お姉ちゃんは。そうじゃないの。ハロウィーンの夜に
仮装する事に意味があるのよ。車から出るとか出ないとか、そんな
の関係ないじゃない﹄
それを言えば仮装をするかどうかも関係がない気がするが、キッ
パリと言い切る愛莉に口で勝てる気がしない翔子は頭を振りながら
も彼女から衣装を受け取った。
﹃それと一緒にタイツも用意してあるわ﹄
﹃タイツって?﹄
なんとなく嫌な予感がして聞き直すと、愛莉はまたニッコリと笑
顔を浮かべた。
﹃これ、そういうドレスにはこういうタイツがいいんだって﹄
そう言って愛莉が取り出したのは、黒の網タイツだった。
﹃本当はパンプスも用意しようと思ったんだけど、運転の邪魔に
なるからって止めたの﹄
そうね、確かに邪魔ね、と翔子はほっとする。
おそらく愛莉が用意しようとしたパンプスは、真っ赤のピンヒー
ルだろうと予想がついたからだ。
とりあえず着替えてくるわ、と翔子はベッドから立ち上がると自
分の部屋へと向かった。
﹁ちゃんと地図は持った?﹂
﹁もちろん﹂
マーサに聞かれて、彼女の隣に座る愛莉はうんと頷く。
704
シッシー
﹁それに、お姉ちゃんがナビに順番に入れてくれたわよ﹂
﹁何軒回るんでしたっけ?﹂
﹁クィンがこの周辺だけにしておけ、っていうから10軒にした
んだけど、それで十分よね?﹂
運転席に座る翔子は後ろを振り返って2人に確認する。
﹁うん。そんなにたくさんの家に回っても食べきれないもの﹂
﹁そうね、そのくらいが丁度いいわね﹂
頷く2人を見てから、翔子は車を動かした。
﹁それにしても地図で行き先を決めるハロウィーンなんてねぇ・・
・物騒だから仕方ないんだけど﹂
﹁そうですね。昔はどこの家に行ってもキャンデーは貰えました
けど、今は知らない人の家は危ないから、ってわざわざ回っていい
家のリストをもらって、そこから選んで行くなんて、ねぇ﹂
﹁まぁ仕方ないわね。それに住宅地域によっては入り口にガード
が立っているから、中に入れないところだってあるし﹂
かくいうクィンの家も入り口にガードが立っている区域にあるの
だが。
﹁とにかくさっさと行きましょう。遅くならないうちに帰りたい
ものね﹂
﹁どうして? クィンは帰りが遅いって言ってなかったわよ?﹂
﹁だから、早く帰りたいの。彼が帰ってくる前にトリック・オア・
トリートを終わらせなきゃ﹂
クィンが今夜は遅くならない、と言っていたのは翔子も知ってい
る。
だから彼が帰ってくる前に着替えたいのだ。
﹁お似合いですよ﹂
﹁マーサ・・・﹂
﹁うん。とってもセクシーよ﹂
しかしどうやらマーサには、翔子が急いで帰ってきたい理由はバ
レバレのようだった。
705
シッシー
﹁クィンに見せてあげればいいのに。お姉ちゃんのセクシーな姿
を見たら、惚れ直しちゃうわよ?﹂
﹁愛莉﹂
﹁マーサだってそう思うわよね?﹂
﹁はい、お綺麗ですよ﹂
﹁もうっ、2人とも﹂
車を運転する翔子の顔は真っ赤だ。
そんな翔子を見て、後ろに座っている2人は楽しそうに笑ったの
だった。
706
ハロウィーン・スマイル 1︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
みなさまからのリクエストもあと3つくらいでしょうか?
愛莉の学校生活、翔子とクィンの結婚式、それとジュリアと賢一
の出会い、だったと記憶しています。
のんびりと書いていこうと思っているので、気長にお待ちいただ
けると嬉しいです。
707
ハロウィーン・スマイル 2
なんとか無事に予定していた10軒を回る事ができた。
愛莉は用意していたプラスチック製のかぼちゃのバケツの中を覗
いては、キャンデーを1つ取り出して眺めている。
さすが高級住宅街、どこの家もいいキャンデーを用意していた。
翔子が知っているような大袋のキャンデー数個なんかではなく、
ちゃんとした個別に包装されているものだったのだ。
だからたったの10軒と言っても、愛莉が用意したバケツはスカ
スカになる事もなかった。
家の前に車を回すと、どうやらまだクィンは帰って来ていないよ
うだ。
翔子は車を愛莉たちを降ろすために玄関の前に止めると後ろを振
り返る。
﹃ほら、さっさと中に入りなさいな﹄
﹃あれ、クィン、まだ帰ってないの?﹄
﹃そうみたいね。仕事が忙しいんでしょ﹄
翔子がピシャリとそういうと、愛莉は小さな声で何かブツブツと
言ったものの、素直に車を降りて家に向かう。 ﹁ほらほらアイリーン、中に入って晩御飯の準備をしましょう﹂
﹁そうね。お腹すいてきちゃった﹂
マーサは今夜は一緒にトリック・オア・トリートに行く予定にし
ていたので、昼のうちにスープを作って置いたと言っていたので、
おそらくそれが今夜の夕食なのだろう。
マーサは先に車から飛び降りた愛莉のすぐ後ろを鍵を片手につい
ていく。 それを確認してから、翔子は車を発進させてそのままガレージに
車を入れるために移動させた。
708
翔子の車についているガレージのドアを開けるボタンを押すと、
ガレージのドアがゆっくりと上がっていく。大きな家のガレージだ
けあって、3台の車を余裕で停める事ができる。しかも裏手に回っ
たところにももう2台分のガレージがあるのだ。
翔子はガレージの一番左端のいつもの場所に車を停めたところで、
車のヘッドライトがガレージを照らした。
どうやらこのタイミングでクィンが戻ってきたようだ。
翔子はクィンの邪魔にならないように、彼が車をガレージに停め
るまで車の中で待つ。
﹁もう帰ってきたのか?﹂
﹁今帰ってきたところよ﹂
車から降りてきたクィンは、翔子の車のドアを開けて彼女がでて
くるのを助けながら声をかけてきた。
﹁楽しかった?﹂
﹁ええ、愛莉は楽しんでいたわね﹂
ニコニコとかぼちゃのバケツを手にして知らない家の呼び鈴を背
伸びしながら押していた愛莉の事を思い出しながら、翔子はクィン
の手を借りて車からおりてくる。
﹁確か10軒回ったんだったな?﹂
﹁ええ、そう。まぁご近所ばかりだから、1時間ちょっとで終わ
っちゃったのよ﹂
﹁トリートは?﹂
﹁回った家がこの辺りだったから、それぞれの家がくれたトリー
トって大きなものばかりだったのよ。だからあの子が用意したバケ
ツもそれなりに埋まったわ﹂
なるほど、と笑いながら聞いていたクィンの目が不意に真面目な
顔になったかと思うと、一歩後ろに下がって翔子の頭から足先まで
ゆっくりと眺めた。
﹁セクシーだな﹂
﹁セクシー? って、あぁっ﹂
709
にやり、とした笑みを浮かべていうクィンの言葉に一瞬頭にハテ
ナマークをつけてから、翔子は自分の今の格好を思い出した。
﹁ちょっ、見ないでっっ﹂
﹁どうして? よく似合ってる﹂
慌ててクィンの視線から逃れようと後ろを向いた翔子をクィンは
そっと抱きしめた。
﹁にっ、似合ってなんかないわよ。愛莉が無理矢理着せなかった
から、私、こんな・・・﹂
﹁誰かに何か言われたのか?﹂
﹁・・・言われてないわよ。ずっと車の中にいたんだもの﹂
﹁そうか、よかった。他の男に見せたって言われたら、嫉妬でど
うにかなってしまうところだったな﹂
﹁クィン・・・何バカな事言ってんのよ﹂
頭だけ動かしてクィンの方を振り返ると、笑っていると思ってい
た彼の顔は意外にも真剣だった。
﹁本気だよ。ショーコのこんな格好を見てもいいのは俺だけだ﹂
﹁じゃあ、文句は愛莉に言ってね﹂
﹁いやいや、アイリーンにはお礼を言うべきかな。ショーコのこ
んな姿を見る機会をくれたんだからな﹂
﹁もうっ・・ほら、中に入りましょう。マーサが夕食を用意して
くれてるわ﹂
翔子は前に回っているクィンの腕をポンポンと叩いてから、彼を
家に入るように促した。
﹁そうだな、俺も着替えてくる﹂
﹁シャワー?﹂
﹁いや、とりあえず上着だけ脱いでくるよ。シャワーは食後﹂
﹁そう? じゃあ、私も一緒に上がって着替えるわ﹂
﹁いやいや、ショーコはそのままで﹂
﹁この格好でご飯? いやよ、はずかしいもの﹂
﹁俺にじっくり見せてくれ﹂
710
﹁えぇぇぇぇぇ﹂
翔子は体ごと振り返って嫌そうに鼻にシワを寄せるが、その鼻の
頭にクィンはチュッとキスを落とす。
﹁一緒にハロウィーンを楽しめなかった俺のため、いいだろ?﹂
そう言われると嫌だと言えないではないか。
翔子はじろり、とクィンを睨みつけてから渋々ながらも頷いた。
そんな翔子の唇にクィンは嬉しそうにキスを落としてから、彼女
の手を引いて家の中に入っていった。
結局クィンは上着を置くために2階にあがらず、そのまま翔子と
手を繋いだままダイニングに向かう。
﹁おかえり、クィン﹂
﹁ただいま。楽しかったみたいだな﹂
﹁うん。みたい、じゃなくって楽しかったわ﹂
﹁そりゃよかった﹂
ダイニングに入ると、丁度愛莉がフォークとスプーンをテーブル
に並べているところだった。
食器類を並べるのは愛莉の仕事、とマーサがここに越してきた時
に彼女にくれた役割だ。
愛莉はいつも楽しそうに自分の仕事をしている。些細な事でも自
分に役割がある、という事が嬉しいらしい。
そんな事に気づかなかった事で愛莉に申し訳ないと思っていた翔
子だが、彼女自身両親が死んでからは愛莉と2人の生活のために必
死だったのだ。
愛莉だって理解していたからあえて言わなかった訳でもないのだ。
愛莉自身、マーサが仕事をくれたから初めて知った責任感、なのか
711
もしれないと思っている。
﹁おかえりなさい、クィン。今夜は簡単なものでいいと言われて
いたので、スープとサラダ、それにパンですよ﹂
﹁ただいま。ああ、それで十分だよ﹂
席を勧められたクィンがそのままいつもの定位置に座ると、彼の
前にスープがたっぷり入った大きめのスープ・ボウルが置かれる。
トマトベースのそれは、スープというよりもシチューと言った方
がいいだろう。ゴロゴロという大きさの肉や野菜が浮かんでいると
いうよりは、それらが入ったボウルに申し訳程度にスープが入って
いるという感じだ。
スープを見ているクィンの前に、今度は愛莉がサラダをおいた。
そして翔子はオーブンから焼きたてのパンを取り出した。
全員の食事がテーブルに並んだところで、クィンが食事を始める
ためのお祈りを口にした。
﹁主よ、今夜も何事もなく平穏に1日を過ごす事ができました。
こうして温かい食事をいただける事により、明日もまた平穏無事に
過ごせますように。アーメン﹂
﹁アーメン﹂
﹁アーメン﹂
﹁アーメン﹂
全員が祈りを終えてから、顔をあげると愛莉はすでにスプーンを
手に持っていた。
﹃いただきます、は?﹄
﹃あっ、そうだった。いただきます﹄
翔子に言われて慌ててスプーンをテーブルに置いてから、愛莉は
両手を合わせて頭をさげながら、いただきます、と言う。
それからまたスプーンを握りしめ、早速スープを楽しむ。
翔子も小さな声で愛莉と同じようにいただきますと言ってから、
サラダにドレッシングをかけた。
テーブルに置かれていたのは、愛莉の好きなブランドのハニー・
712
マスタード・ドレッシングだ。
以前からドレッシングなどはマーサがその都度作っていたらしい
のだが、翔子たちがこの家に来てからの1ヶ月のうちに愛莉の希望
で買ってきたドレッシングも使うようになった。
マーサも愛莉と一緒に買い物に行って、彼女のレクチャーを聞き
ながらカートにものを入れていくのが楽しいらしい。その上クィン
もそれでいいと言ってくれたから余計に愛莉がいろいろと買うので、
この家で見た事もないようなものが冷蔵庫に並ぶようになった。
そうして全員が食事を終えた頃、愛莉がニンマリとした笑みを浮
かべてクィンを見た。
﹁それで、どう?﹂
﹁ああ、よくやった﹂
﹁でしょ。うまくいってよかったわ﹂
﹁さすがアイリーンだな﹂
言われたクィンは親指を立てて愛莉を褒めているが、マーサと翔
子には一体2人が何を話しているのかさっぱり判らない。
シッシー
﹁あなたたち、何話しているの?﹂
﹁何って、お姉ちゃんの事?﹂
﹁私?﹂
﹁そう。私、頑張ったもん﹂
一体何を頑張ったと言うのだろうか?
胸を張っている愛莉を見ながら翔子が頭を傾げていると、クィン
はくっくっと彼女の隣で笑っている。
シッシー
﹁クィン? 2人でなんの話をしてるの?﹂
﹁お姉ちゃんのハロウィーンの仮装の事﹂
﹁・・・これ?﹂
少し嫌そうな顔で自分が着ている真っ赤なドレスを見下ろしたも
のの、それでもまだよく判っていない。
﹁それ、クィンのアイデアなんだけど?﹂
﹁・・・えっ?﹂
713
﹁だから、それを選んだのはクィン。私がそんなの選ぶわけない
じゃない﹂
シッシー
﹁そんなのって、酷い言い方だな、アイリーン﹂
﹁私だったら真っ赤なんて選ばないわよ。お姉ちゃんに選ぶんだ
シッシー
ったら濃い青のドレスにシルバーのスパンコールを散りばめるかな
? そういった格好ならお姉ちゃんも文句を言わずに着たと思うわ。
それにそっちの方が似合ってる﹂
うんうんと頷きながら言う愛莉を見て、クィンは苦笑をこぼした。
﹁まぁ確かにそういったドレスの方がショーコらしいしな。だけ
どまぁ、今回はハロウィーンらしいものっていうんで俺が選んだん
だ、そこまで貶さないでくれよ﹂
﹁判ってるわ。普通のドレスだったら着ないものね。ハロウィー
ンの仮装だから着てくれたんだし﹂
判ってる口を聞いている愛莉はいつも通り生意気だ。
けれど、翔子はそんな2人の会話を聞いて、ぴくりとこめかみに
力を入れる。
﹁つまり・・・この格好をさせられたのは、クィンが仕組んだ、
って事?﹂
﹁仕組んだとは酷い言い方だな。滅多に見れない格好をしてもら
える唯一の機会だと思ったから、アイリーンに頼んだんだぞ﹂
﹁その見返りは貰ったから、私も頑張ったの﹂
﹁・・・見返り?﹂
﹁そう﹂
﹁何を貰ったのかしら?﹂
﹁・・・・内緒﹂
﹁愛莉﹂
﹁内緒。どうせクリスマスまで待つんだから、言わない﹂
﹁クィン?﹂
﹁アイリーンが内緒だっていうんだから、俺だって黙ってなきゃ
フェアじゃないだろ?﹂
714
どうやら何があっても愛莉は口を開くつもりはないようだ。
クィンもそんな愛莉のために口を開かないつもりのようで、翔子
ができたのはそんな2人をジロリと睨みつける事だけだ。
そんな3人を見て、マーサはコーヒーを飲みながら笑っている。 ﹁まったく・・・2人して何してるのかしらね﹂
シッシー
﹁あら、今日はハロウィーンよ。みんな言ってるじゃない、トリ
ック・オア・トリート、って。お姉ちゃんにしたのはトリックの方
だった、ってだけ﹂
つん、と澄ました顔で言う愛莉は、横を向いてから目だけを翔子
に向けてニッと笑う。
シッシー
その表情があまりにも悪戯小僧っぽくて、翔子は思わず吹き出し
てしまった。
﹁愛莉﹂
﹁なぁに? お姉ちゃん、そのドレス、似合ってるわよ﹂
﹁こんな格好を似合ってるって褒めてもらってもねぇ﹂
﹃その色気で、クィンはイチコロ﹄
﹃愛莉、何言ってんのよ、あんたは﹄
一体どこでそんな言い回しを習ったんだか、と翔子は軽く頭を振
る。
けれど交わされた会話は日本語だったので、クィンには判らない。
﹁何を言ったんだ、アイリーン?﹂
﹁ふふっ、内緒﹂
﹁そうね、内緒﹂
﹁ずるいな﹂
﹁ずるくないわよ。でもどうしても知りたいんだったら、愛莉と
の取り引きを教えてくれたら考えるわ﹂
﹁考えるって、教える気ないだろう?﹂
﹁ふふふっっ﹂
翔子は愛莉と顔を見合わせて楽しそうに笑う。
そんな翔子の肩をぐっと抱き寄せて、クィンは彼女の頰に口付け
715
る。
﹁まぁいいさ。楽しそうなショーコを見ているだけで、俺も楽し
い﹂
﹁クィン・・・﹂
﹁さ、そろそろお開きにしようか。俺は明日も仕事だからね﹂
﹁はぁい﹂
﹁片付けは私がしますから、みなさんは部屋にもどってください
ね﹂
﹁ありがとう、マーサ﹂
壁にかかっている時計を見ると、すでに10時になろうとしてい
た。
確かに明日も仕事があるクィンは寝た方がいいだろう。
翔子はテーブルの食器をマーサに頼んでから、クィンと手をつな
いで一緒に階段を上った。
716
ハロウィーン・スマイル 2︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
愛莉が持っていたかぼちゃのバケツはこんなのです。←
http://10999.mitemin.net/i2149
33/
<i214933|10999>
717
ハロウィーン・スマイル 3 ** R 18 **︵前書
き︶
ハッピー・ハロウィーン!
我が家ではハロウィーンという事で、かぼちゃクリームを塗った
スパイスケーキのロールケーキを作りましたwww
718
ハロウィーン・スマイル 3 ** R 18 **
﹁シャワーを浴びるんでしょ?﹂
なぜか手を繋いだままバスルームへと行こうとするクィンに、翔
子は立ち止まって手を振りほどこうとするが彼の手が緩む事はない。
それどころか彼の手に空いていた方の手をかけて外そうとした時、
クィンは翔子の腰に手を回してそのまま彼女をバスルームへ連れて
行こうとする。
﹁クィンッ﹂
﹁一緒に入ろう﹂
﹁それはダメですっっ﹂
﹁どうして? たまに一緒にはいってるじゃないか?﹂
﹁それは・・・﹂
翔子がその場にぐっと踏ん張って立ち止まると、クィンは少しだ
け鼻の頭にシワを寄せて彼女を見下ろした。
それを見ても翔子としてはここで流されたくないと思うのだ。
クィンと一緒にシャワーを浴びた事は数度ある。
けれどそれは彼と過ごした夜の後に、まだ意識がふわふわとして
いる時なのでそれほど羞恥を感じていなかったからだ。
大抵翌朝になって恥ずかしさに顔が赤くなるのに、それをシラフ
の状態でしようと言ってくるクィンを上目遣いに睨んでみたが、彼
はにっこりと笑みを浮かべるだけだった。
﹁とにかくっ、今は無理です﹂
﹁無理じゃないよ。外のジャグージに裸で入ろうっていうんじゃ
ない。ただのシャワーくらい、いいだろ?﹂
﹁でも・・・﹂
恥ずかしい、と小さな声で呟くように言う翔子の唇にクィンは屈
みこんでキスをする。
719
トリート
﹁俺も欲しいな、ハロウィーンのご褒美﹂
﹁・・・ずるい﹂
﹁ずるくない﹂
クィンにぎゅっと抱きしめられると、翔子はそれ以上文句を言う
事ができなかった。
そのタイミングでクィンは彼女をそのまま抱き上げるようにして
バスルームに引きずり込んだ。
クィンは恥ずかしがる翔子のために照明を一番暗くなるように調
節してやる。
それから彼女の背中に手を回した。
﹁恥ずかしいわ。だから自分でやらせて﹂
﹁いいから、俺にやらせてくれよ﹂
嬉しそうな表情のクィンにそう言われると、それ以上無理に自分
でするとは言えなくなった翔子は困ったような表情で彼を見上げる。
そんな翔子を見て更に嬉しそうな笑顔になるクィンは、翔子に触
れるだけのキスをしてからゆっくりと手を動かし始めた。
背中に回ったクィンの手はそのままドレスの背中のファスナーを
ゆっくりとおろし、それからブラのホックを外す。
ブラのホックを外された事で翔子は逃げようとしたのだが、腰を
掴まれているせいでそれもできない。
それどころかクィンが噛み付くようなキスを仕掛けてきたので、
彼のシャツに捕まっている事しかできない。
キスをしながらも器用に動くクィンの手は、そのまま翔子のドレ
720
スのファスナーを下まで下げ、少しだけ彼女から体を離すとそのま
まドレスは足元に落ちてしまう。
今目の前にいる翔子は黒の網ストッキングとその下に付けている
薄いピンクのパンティだけだ。
﹁いい眺めだ﹂
﹁クッ、クィンッッ﹂
﹁いいだろう? こういう姿が見たくて買ったんだ﹂
﹁・・・バカ﹂
どん、とクィンの胸元に拳を当てた翔子は今度はお返しとばかり
に手を伸ばして彼のシャツのボタンを外す。
クィンは翔子に促されるまま着ていたシャツを脱ぎ捨てて、その
ままキスをしながらも他の着ているもの全てを脱ぎ捨ててしまう。
それから未だにストッキング姿の翔子を見下ろして、本当に残念
そうな顔を見せる。
﹁もったいないが、シャワーを浴びるんだったら脱がせないとい
けないのか﹂
﹁当たり前でしょっっ。こんな格好でシャワーなんて浴びれない
わよっ﹂
﹁仕方ないか﹂
羞恥でほんのりと顔が赤い翔子に文句を言われたクィンは、その
まま残念そうな表情を浮かべて彼女のストッキングに手を触れた。
﹁もうっ・・自分で脱ぐから・・・って、きゃっっっ﹂
ストッキングの手触りを楽しむように腰から太ももを撫でてきた
クィンの手を、パンと小さな音がするほど叩いてから払いのけよう
とした翔子は、そのままクィンの反撃にあう。
彼は翔子を抱き上げて担ぎ上げたかと思うと、そのまま片方の手
で彼女のストッキングと下着を取り去った。
﹁うるさい﹂
﹁ちょっ・・バカ・・・﹂
﹁うるさい﹂
721
クィンは軽く翔子のむき出しになったお尻を叩いてから、そのま
まシャワールームに足を踏み入れた。
そしてクィンは翔子を肩に担いだままシャワーのノズルを回すと、
あっという間に室内は湯気でうっすらと白くなる。
それからシャワーの温度が丁度いいと判断してからすぐに翔子を
下ろした。
﹁クィン・・・﹂
﹁いいだろ、今日くらい﹂
﹁・・もうっ・・・愛莉よりタチが悪いんだから﹂
愛莉と比べられて一瞬目を丸くしたクィンは、そのまま大笑いし
てしまった。
﹁アイリーンほどじゃないと思うんだけどな﹂
﹁一緒よ、一緒﹂
ふん、と横を向く翔子の両頬を両手で包んで、クィンはそっと触
れるだけのキスをする。
﹁許してくれないか?﹂
﹁知らない﹂
﹁一緒に居られるのが嬉しくて、ついはしゃぎすぎたんだよ。そ
れに、ショーコがあまりにもセクシーすぎたのもあるな﹂
あの娼婦のような格好をセクシーと言われてもなんとなく納得が
いかないが、それでもクィンが真面目に謝ってくるのでそれ以上ヘ
ソを曲げている事もできなくなってしまう。
それに、翔子としてもクィンからこんな風に求められる事は嬉し
いのだ。
クィンが翔子を欲しがれば欲しがるほど、彼の隣にいてもいい、
そう思えてくるからだ。
﹁クィンってば、口ばっかり﹂
﹁そんな事ないぞ? なんなら証明しようか?﹂
﹁証明って、何を−−﹂
言いかけた翔子の口をキスで塞いだクィンは、そのまま彼女の両
722
手を自分の両手で掴むと彼女の口を自身の口で塞いで、そのままシ
ャワーヘッドがついた壁に押し付けると自分の体を密着させた。
そうする事で自分がどれほど翔子を欲しがっているかを伝える。
きっといつもの彼女であれば赤くなってそっぽを向くところだが、
生憎今はクィンに両手を固定され、おまけに強引なキスによって顔
を背ける事もできないでいる。
キスを続けているうちに翔子の体から力が抜け、クィンは左手で
彼女の両手を掴むとそのままその手を彼女の両足の間にと移動させる
シャワーの温水はクィンの体に当たって殆ど翔子にはかかってい
ないが、そんな彼女のその部分はとても熱く潤っている。
それが水ではない事は明らかで、そんな彼女の反応に気を良くし
たクィンはそのまま彼女の秘められた襞に沿って指を差し入れた。
ビクン、と跳ねそうになった体はクィンにもたれかかってくる。
彼は翔子の両手を捕まえていた手を離して、その手で彼女の腰を
固定する。
翔子は両手でクィンの上腕を掴むと、そのまま顔を彼の肩に埋め
てなんとか漏れそうになる声を抑える。
﹁ショーコ、声を聞かせてくれよ﹂
﹁いやっ・・はっ、ずかしいっっ﹂
シャワールームは声が響くので、翔子は恥ずかしくてたまらない。
だからいつも一緒にシャワーを浴びようという彼の誘いを断って
いたのだが、そんな事に頓着するクィンではない。
彼は拒否する翔子の足の間に自分の腿を差し入れて閉じれないよ
うにすると、そのまま指を動かしながらその奥の秘められた場所に
差し入れる。
﹁やぁっ・・・だっ、だめっっ﹂
翔子は両手の指を彼の肩に食い込ませるが、そんな事など感じな
いと言わんばかりにクィンは更に激しく指を動かす。 そこから醸し出される快感をなんとか逃がそうと頭を左右に振る
が、そんな事で逃がしきれる筈もなく翔子はどんどん高みへと追い
723
詰められていく。
﹁あっ・・・うぅぅんっっ・・・やぁぁっ﹂
不意に翔子は指を彼の腕に食い込ませて背中を反らし、そのまま
彼の肩に顔を埋めて動かなくなる。
もしクィンが翔子の足の間に腿を入れていなければ、彼女はその
まま崩れ落ちていただろう。
クィンは力の抜けた翔子を支えたまま、そっと顔をあげさせてキ
スを落とす。
﹁大丈夫か?﹂
﹁・・・・ん、多分﹂
先ほどまでとは違って、どこか弱々しい声で返事をする翔子に苦
笑いをしながらも、クィンは彼女の体を少しだけ自分の方に引き寄
せてシャワーのお湯が当たるようにしてやる。
﹁あったかい・・・﹂
そう言われて彼女の背中に触ると、シャワールームの壁に押し付
けていたせいか少し冷たくなっていた。
﹁悪い﹂
﹁ううん・・・﹂
クィンはシャワーのお湯が万遍なく体に降り注ぐようにしてやり
ながらも、手のひらで彼女の背中を暖めるように撫でる。
彼としては翔子の体を暖めるためにしていた事だったのだが、彼
のぼ
女はそうは思わなかったようで、手を後ろに回してクィンの手首を
掴んだ。
﹁もう駄目﹂
﹁ショーコ?﹂
﹁これ以上ここにいたら逆上せちゃう﹂
そう言われてクィンは翔子が彼の手の動きを性的なものと勘違い
した事に気づいて、そうじゃないと言いながら頭を横に振った。
﹁背中が冷たいんだろう? 温めているだけだよ﹂
﹁・・・ホント?﹂
724
のぼ
﹁ああ、ショーコが逆上せても困るからね。続きはベッドで﹂
﹁・・・・バカ﹂
小さな声で抗議してくる翔子にもう1度キスをしてから、シャワ
ーラックからスポンジとソープを取るために手を伸ばす。
﹁ほら、さっさと洗ってしまおう﹂
﹁自分でできるわよ﹂
﹁知ってる。でもさせてくれるだろ?﹂
﹁もうっ・・・﹂
文句を言おうとしたものの、翔子はすっかり疲れてしまっていて
それ以上クィンに逆らうだけの元気は残っていない。
諦めた翔子はそのままクィンに洗ってもらう事にした。
﹁髪も洗う?﹂
﹁ううん・・・もう乾かすだけの元気がないから、明日洗うわ﹂
﹁判った﹂
どうやら翔子の髪も洗う気満々だったようだが、それでも彼女の
事を慮って諦める事にしたクィンは、あっという間に翔子と自分の
体を洗うとシャワールームから出ていく。
いつもであればバスタオルで体を拭くのだが、今のクィンにはそ
こまでの余裕はない。
少しでも早く翔子を抱きたいのだ。
﹁クィン、拭かなきゃっっ﹂
﹁バスローブで十分﹂
クィンは有無を言わさずに翔子にバスローブを着せると、自分も
同じようにバスローブを着ると彼女を抱き上げた。
﹁きゃっ﹂
﹁大丈夫か?﹂
﹁クィン・・らしくないわよ?﹂
﹁判ってる﹂
もう待てないんだ、そう翔子の耳元に囁きながら彼女の耳を食ん
だ。
725
翔子はふるっと体を震わせると彼の首に両手を巻きつける。
﹁明日、仕事なんでしょ?﹂
﹁ああ、でも9時に出れば会合に間に合う﹂
どうやらクィンは今夜こうなると予想して、仕事のスケジュール
を調整したようだ。
翔子は頭を振りながらもおもわず吹き出すと、クィンはニヤリと
してみせる。
﹁・・・もしかして、確信犯?﹂
﹁さぁな。どうだろう?﹂
﹁・・・バカ﹂
翔子は彼の頰に手を触れて、自分を見つめているクィンの唇に自
分の唇を重ねた。
そっと唇を開くと、すかさず彼の舌が侵入して舌を絡めてくる。
﹁愛してる﹂
﹁愛してるわ﹂
唇を離すと、クィンは翔子の耳に愛を囁き翔子も囁きを返す。
そんな2人の夜は始まったばかり。
726
ハロウィーン・スマイル 3 ** R 18 **︵後書
き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
727
Let's Tie The Knot! 1︵前書き︶
大変ご無沙汰しておりました。
なんとかようやく形になったので、リクエスト小話をアップしま
す。
思ったよりもはるかに長くなってしまいました。
今回は全部で9話です。今夜から毎晩1話ずつアップしていきま
すので、お付き合いいただけると嬉しいです。
ーーリクエストーー 結婚式 & 賢一とジュリアの馴れ初め︵
少しだけですけど︶
ゆこ3 様、 紗燈 様、 Asuka 様、 大変遅くなりま
したが、お待たせしました。
︳︶m
って、遅すぎてもう待ってない?!? 申し訳ありませんでした。
m︵︳
728
Let's Tie The Knot! 1
3月のある土曜日。
いつもであれば週末という事で静かな筈だが、今朝は早くから家
の中だけでなく牧場全体がざわついている。
翔子は階下の音で目を覚ました。
ベッドサイドの時計を見ると、まだ朝の6時を過ぎたばかりだっ
た。
翔子は同じベッドで眠っている愛莉を起こさないように、とそっ
とベッドから出るとそのまま椅子の上に用意していた着替えを手に
バスルームに向かう。
顔を洗ってから翔子はT−シャツとジーンズを身につけ、そのま
ま階下に降りてキッチンへ向かう。
﹁おはよう、ショーコ。もう少しゆっくりしてても良かったのに﹂
﹁おはよう、シャスタ。昨夜早く休ませてもらったから目が覚め
ちゃったのよ﹂
ビスケット生地を練りながら声をかけてきたシャスタとベーコン
を焼いているシンディーを見たが、どちらも手伝いは必要なさそう
だと判断した翔子は、そのままキッチンカウンターに置かれている
コーヒーメーカーの方へ行く。
﹁コーヒー、貰うわね。2人も飲む?﹂
﹁私たちはさっき飲んだから結構よ﹂
フリーザー
﹁そぉ? じゃあ、飲み終わったら何手伝えばいい?﹂
﹁冷凍庫からハッシュブラウン用のポテトを出して作ってくれる
?﹂
﹁オッケー。だったら先に仕掛けてからコーヒーを貰うわ﹂
フリーザー
翔子はコーヒーを注ごうと思って手に取っていたカップをカウン
ターに置くと、チェスト式冷凍庫の蓋を開けて中から5パウンド︵
729
約2.2キロ︶入りのハッシュブラウンの袋を取り出した。
﹁どのくらい作るの?﹂
﹁そうねぇ・・・全部使っちゃっていいわ﹂
﹁全部って、多すぎない?﹂
﹁大丈夫よ。足りないよりはマシでしょ?﹂
ふふふっと笑いながらシンディーが答える。
この家に住んでいるのはシンディーにシャスタ、シンディーの夫
のロジャーに息子のウィルの4人だ。
ロジャーは今朝はここにいないが、それに加えて翔子や愛莉の関
係者が合計9人泊まっているのだ。
男たちは全員ゲストハウスだが、それでも9人分の朝食となれば、
確かに全部使っても大丈夫な気がする。
﹁そこのフライパンを使えばいいからね﹂
﹁はーい﹂
翔子はシンディーに言われたフライパンを取り出して、油を引い
て熱されたところに袋の中身を3分の1ほど入れる。それを適当に
フライ返しで均等な厚さになるように広げてから火力を半分くらい
に落とす。
あとは暫くこのまま放置してからひっくり返すだけだ。
翔子はフライ返しを皿の上に置いてからカウンターに戻り、先ほ
ど持っていたカップにコーヒーを入れて、クリーム2つと砂糖を1
つ入れる。
﹁砂糖、やめたんじゃないの?﹂
﹁今日は特別﹂
からかうようなシンディーの言葉に、翔子はツンと顎を上げて答
える。
﹁無理に止めなくてもいいのに﹂
﹁だって・・・太ったんだもん﹂
﹁幸せ太りってやつでしょ。それにショーコは元々太ってたわけ
じゃないんだから、ちょっと体重が増えたくらいで気にしなくてい
730
いのよ﹂
﹁・・・クィンにも同じ事言われたわ﹂
﹁だったら気にするのは止めなさいな﹂
グループ
シンディーは呆れたようにわざと目を回してみせる。
﹁でもね、日本だとあとちょっとでやや肥満の中に入っちゃうの
よ。だからこれ以上太る訳にはいかないの﹂
﹁ショーコ・・・あのね、ここはアメリカなの。なんで日本を基
準にするの? アメリカ基準でいいのよ﹂
﹁えぇぇぇ・・それはちょっと、ねぇ・・・﹂
﹁何よ、アメリカ基準に文句があるっていうのかしら?﹂
腰に手を当てて威嚇してくるシンディーだが、翔子としては素直
に頷けないのだ。
確かにシンディーの言う通りアメリカ基準にすれば、翔子はあと
3キロほど太っても全く問題なく理想体重の枠内に入れるし、やや
肥満ではなく肥満の枠に入るには6−7キロ体重をつけなければい
けない。
そのくらい日本とアメリカでは肥満の枠が違っている。
﹁私達からしたらね、ショーコはもっと太ってもいいのよ?﹂
﹁シャスタ・・・そう言ってくれるのは嬉しいんだけど、でもや
っぱり私は日本人だから日本の基準で気にしたいの﹂
﹁どうして? あなたが住んでいるのは日本じゃなくてアメリカ
なのに?﹂
不思議そうに頭を傾げるシャスタ。
﹁どうしてって・・・ええっと、その・・そう、骨格が違うのよ﹂
﹁骨格?﹂
﹁そう。ほら、こうして比べれば私の手首の骨の方がシンディー
の手首よりも1回りくらい小さいのが判るでしょ?﹂
翔子は自分の右腕をシンディーの腕の横に並べると、左手で自分
の手首を掴んだ時の指の位置とシンディーの手首を掴んだ時の指の
位置を比べてみせる。
731
﹁ほらね、私の手首を掴んだ時は指同士がくっつくけど、シンデ
ィーの手首を掴んだ時は指同士はくっつかないでしょ?﹂
﹁それって、暗に私が太ってるって言いたいのかしら?﹂
﹁ちがうってば。私が言いたいのはそれだけ手首の骨の大きさが
違うって事﹂
器用に片方の眉をあげてジロリと睨みつけてくるシンディーだが、
翔子は彼女が自分を揶揄っているだけなのがわかっているから、そ
んな彼女のノリに合わせて翔子も大げさに呆れたというポーズをと
る。
﹁とにかくね、日本人は骨格が華奢だからあんまりお肉をつけな
い方が良い、って言いたかったの﹂
﹁なるほどね。骨格なんて普段気にした事ないから、言われるま
でそんなに違うなんて気づかなかったわ﹂
﹁でももう少し肉付きがよくてもいいと私は思うけどねぇ﹂
﹁シャスタってば。あんまり太ると服が着れなくなっちゃうわ﹂
﹁だったら旦那に頼んでドレッサーを一新して貰えばいいよ﹂
何が問題なのだ、と言わんばかりにシャスタはとんでもない事を
事も無げに言う。
そんな彼女をジロリと睨みつけてから、翔子はハッシュブラウン
をひっくり返す。
﹁あのね、そんなお金の無駄遣いなんてできないわよ﹂
﹁おや? ショーコのダンナはお金持ちなんだろ? そのくらい
喜んでするんじゃないのかい?﹂
﹁そんな散財、申し訳ないわよ﹂
シャスタの言う通り、クィンなら翔子が新しい服をクローゼット
一杯揃えたとしても文句は言わないだろうと思う。
けれど、翔子としてはどうしても必要なものならともかく、彼に
そんな負担をかけたくないのだ。
少し困ったような表情を浮かべた翔子をシャスタはじっと見つめ、
それからジロリとシンディーを睨みつけた。
732
﹁聞いたかい、シンディー。ショーコはクローゼットの中身一新
をもったいないって言ってるよ。あんたとはえらい違いだねぇ﹂
﹁聞こえてたわよ。でもね、ショーコだってそのうち子供ができ
たら体型も変わるんだから、その時にはクローゼットの中身は一新
するわよ﹂
﹁どうだかねぇ・・・ショーコなら必死になって体型を元に戻す
と思うね﹂
﹁シャスタ、大きなお世話よ﹂
翔子は目を丸くしてシャスタとシンディーの会話を聞いている。
どうやらシンディーが子供を産んだ時にクローゼットの中身を一
新したのだろう。
元々おしゃれが好きなシンディーなのでおかしくはないが、それ
でもクローゼットの中身全部となると、ちょっとやそっとの金額で
は済まない気がする。
2人の会話を聞いて翔子がシンディーに呆れたという目を向けて
も、こればかりは仕方ないだろう。
﹁とにかく、女のクローゼットの中身を一新するのも男の甲斐性
なのよ﹂
﹁まったく、あんたって子は﹂
頭を振りながらもシャスタはビスケットの生地を型でくり抜いて
いる。
﹁でもまぁ、それでもあんたのおかげであの子も結婚する気にな
ったんだから、それを思えばあんまり文句は言えないかねぇ﹂
﹁そぉ? その辺は私にはよく判らないわ。ロジャーは出会って
うち
1ヶ月も経たないうちにプロポーズしてきたんだもの﹂
﹁それこそビックリだったよ。あんたと2人で家に来た時、てっ
きり夜遊びの相手を孕ました、っていうんだとばかり思ってたんだ
よ。なのにさ、惚れた相手ができたから結婚する、なんて言い出す
んだからねぇ。人生、何が起こるか判らないもんだよ、ほんとうに
ねぇ﹂
733
初めて聞くシャスタ側の話に興味津々になりながらも、翔子は焼
きあがったハッシュブラウンを大皿に盛り、次ぎを作り始める。
﹁あら、私は夜の女に見えた?﹂
﹁見えたねぇ。ロジャーが初めてあんたを連れて来た時の格好、
覚えているかい?﹂
﹁ん∼・・・覚えてないわ﹂
少し考えてから、シンディーは頭を横に振る。
﹁真っ黄色のT−シャツに短パン、サングラスでね。神はてっぺ
んにボールペンを使ってまとめてあげてたよ。あの子がよくあんな
格好を許したなぁと思ったもんだよ、ホント﹂
﹁そんな格好だったかしらね? あの1時間くらい前にロジャー
に5回目のプロポーズを受けたのよ。私がイエスと言ったら、その
足でここまで引っ張ってこられたのよねぇ﹂
﹁後であの子に聞いたら、あんたの気が変わる前に私に紹介して
現地を取るつもりだった、なんて言ってたよ﹂
なるほど、それならシンディーの格好に文句をつける事なくここ
に連れて来ての結婚になったのだ、と納得できる。
﹁結婚に全く興味がなかったロジャーをその気にさせて、おまけ
に可愛い孫息子まで授けてくれたんだ。あんたのそのくらいの無駄
遣いは多めにみないとね﹂
﹁・・・すごくいい話だったのに、最後の言葉で台無しだわ﹂
釈然としない顔でぼやくシンディーを見て、翔子は思わずぷっと
吹き出した。
そんな翔子に釣られて、シンディーとシャスタも吹き出した。
﹁そろそろビスケットを焼き始めるから、みんなを起こしておい
で﹂
﹁はぁい﹂
ようやく笑いが収まったシンディーと翔子はお互いの顔を見合わ
せてから、みんなを呼びに行くために2人仲良くキッチンから出て
行った。
734
735
The
Let's Tie The Knot! 1︵後書き︶
Tie
Knot! の意味は、結婚し
Let's
The
Knot と言います。
よう!です。結婚する事をTie
お読みくださり、ありがとうございました。
736
Let's Tie The Knot! 2
シンディーの家のダイニングルームには10人掛けの大きなテー
ブルがある。
そこに今女性陣、シンディー、シャスタ、翔子、愛莉、マーサ、
ジュリアと彼女の世話のために一緒にやって来たマティウスさん、
そして翔子の良き隣人だったグェンとその娘のサマンサの9人とプ
ラスしてシンディーの愛息子であるウィルが席について朝食を食べ
ている。
今日は、翔子とクィンの結婚式当日だ。
翔子は月曜日に結婚式の準備のためにやって来ていたが、ほかの
参列者は昨日シンディーたちの牧場に到着した。
クィンももちろん昨日到着しているが、ロジャーからバチェラー・
パーティーを開くぞと言われ、断る事もできずゲストハウスの方に
引きずり込まれた。
そしてジュリアの夫である賢一もロジャーに拉致されてゲストハ
ウス泊まりとなり、そのまま牧場で働くカウボーイたちも入れて一
晩中飲み明かした筈だ。
当初、翔子とクィンは結婚式に誰を招くかでかなり悩んだ。
なにせ場所がテキサスである。
カリフォルニアからわざわざテキサスまで式に参加するために来
レセプション
いと言われても、参加できない客の方が多いだろうと思ったからだ。
そこで仕事関係を含めて呼ぶ予定だった人たちをロスで披露宴を
開いて、それに招待する事にしたのだ。
テキサスに招くのは本当に親しい人たちだけにしよう、と決めた
のだ。
その中にジュリアと賢一が入っているのはいろいろと4人の間で
あったからだ。
737
ただ、クィンはテキサスに自分の親族を招かなかった。
レセ
元々カナダ出身なので身内の殆どはそちらに住んでいるのだが、
プション
どちらかというとビジネスライクな親子関係なので、ロスで行う披
露宴だけで十分だとクィンが決めたからだ。
それに対して思うところはあったものの、クィンの家族の事に口
を挟む事はできなかった。
そういうわけで、ここにいるのは翔子としても気のおける緊張し
なくてもいい人たちだけだった。
﹁男連中はそろそろ起きたかしらね?﹂
﹁大丈夫じゃない? ジョアンとケィラがゲストハウスのメンバ
ーのための朝食を8時になったら作りに行くって言ってたから、今
頃はベッドから叩き出されてるわよ﹂
ジョアンとケィラは牧場で働いているカウボーイたちのうちの2
人の妻たちの名前で、今回の結婚式のための手助けを申し出てくれ
たのだ。
シンディーの言葉で壁の時計を見上げると、時計は朝の8時を1
0分ほどすぎたばかりだ。
﹁9時になったら私たちの着付けをしてくれる人たちが来る事に
なってるわ﹂
﹁ゲストハウスの方は10時半だって言ってたから、あっちはも
う暫くのんびりしててもらいましょう﹂
シンディーとシャスタの言葉にみんな頷いた。
﹁料理はケータリングを頼んであるから﹂
﹁それだけじゃないわよ。ね、アイリーン﹂
ニンマリと笑うシンディーが愛莉に降ると、彼女は大きく頷いた。
レセプション
﹁子豚の丸焼きも用意してあるのよ。私、ちゃんと手伝ったんだ
から﹂
﹁そうよね∼。アイリーンの手助けがなかったら、今日の披露宴
に間に合わなかったかもしれないものね∼﹂
﹁そう。大変だったの。シンディーがちっちゃい豚さんだって言
738
ってたのに、すっごく重たかったんだから﹂
﹁あら? でも大人の豚よりははるかに小さかったでしょ?﹂
﹁それは子供だから当たり前なの﹂
相変わらずの小生意気な愛莉に翔子は眉を顰めるが、シンディー
がそんな彼女の反応を楽しんでいるようなので何も言わない事にす
る。
そんな翔子の耳にくすくす笑いが聞こえてきた。
振り返るとそこで笑っていたグェンと目があう。
﹁ふふふっっ、アイリーンは相変わらずね﹂
﹁相変わらずすぎて頭が痛いわ﹂
﹁いいじゃない。元気がいい証拠よ﹂
﹁ショーコは元気になりすぎて困ってるみたいだけどね、ママ﹂
グェンの隣に座っているサマンサも一緒になって笑っている。
﹁サムも一緒になって。でもそうね。元気なのが一番だものね﹂
﹁そうそう。アイリーンがしょぼくれてると、みんなが心配する
でしょ?﹂
揶揄うようなサムに翔子はついぷっと吹き出してしまったが、そ
んな2人を見ながらグェンが真面目な顔になる。
﹁そういえばアイリーンは学校に通ってるの?﹂
﹁ううん、今はまだホームスクールよ。とりあえず夏の暑い時期
の間、体調を崩す事なく過ごす事ができれば学校に通う事を視野に
入れてもいいだろう、ってドクターからは言われてるの。愛莉は学
校に行きたいって言ってるけど、今はドクターの言うように無理は
しないように、って言い聞かせてるところ﹂
愛莉の性格を考えれば学校に行くために体調が悪くても大丈夫と
言ってもおかしくないのだ。
その点はマーサも同じように思っているようで、翔子やクィンが
いない時はいつも以上にしっかりと見張ってくれているようだ。
﹁でも、良かったわね﹂
﹁えっ・・・?﹂
739
﹁ショーコが幸せそうで、本当に良かったわ﹂
﹁グェン・・・﹂
﹁去年は本当にいろいろあって大変だったものね。引っ越して会
えなくなった事もあって、すっごく心配してたのよ。そりゃメール
はしてたし電話もしてたけど、顔を見て話すのとは違うでしょ?﹂
﹁そうよぉ。ママったらいっつも気にしてたの﹂
グェンの肩に手を置いて言葉を続けるサマンサ。
﹁だからね、ママったらショーコの結婚式の招待状をもらって、
すっごく喜んでたの﹂
グェンはもしかしたら結婚式に呼ばれないかもと思っていたよう
で、サムの言外にジョーと翔子の間に何があったのか知っていると
言われている気がした。
﹁私も愛莉もグェンたちには本当にお世話になったわ。私たちに
とってあなたたちは忠男お隣さんというよりは、本当の家族だって
思っているの﹂
﹁ショーコ・・・私たちにとっても、ショーコとアイリーンは大
切な家族よ﹂
伸ばされたグェンの手をとると、翔子はその手をぎゅっと握りし
める。
この手は、両親が亡くなってからいつも翔子と愛莉の2人を助け
てくれた、とても頼もしい手だ。
﹁ジョーがね・・結婚おめでとうって伝えてくれって言ってたわ﹂
﹁ジョーが・・・﹂
あの夜以来、翔子は彼に会っていない。
彼がドラッグ患者のためのリハビリ・センターに言っていた事も
あるが、翔子自身顔を合わせても何を言えばいいのか判らなかった。
それに賢一からさやかがジョーの手にドラッグが渡るように仕組
んだ可能性があると聞いたので、申し訳ないと言う気持ちもある。
その事についてはグェンがどんな反応をするか予想もつかなかっ
た。それでも黙っているわけにもいかず、彼女の息子の事だから罵
740
られる事を覚悟して全てを話したのだ。
けれどグェンは怒る事もなく、ジョーの弱さがドラッグを使わせ
た、無理矢理使うように仕向けられた訳ではないと言って翔子の謝
罪を受け入れてくれたのだ。
その事に関して翔子は申し訳ないという気持ちとともに、グェン
には感謝もしている。
﹁わざわざここまで来てくれてありがとう﹂
﹁来るのは当然でしょ?﹂
﹁そうよ。ママも私もすっごく楽しみにしていたんだから﹂
﹁でもテキサスまで出てくるのは大変だったでしょ?﹂
ロスからだと直通便に乗っても4時間くらいはかかった筈だ。
﹁飛行機ですぐじゃない。それに空港まで迎えに来てくれたから
すっごく楽だったわ﹂
﹁私はテキサスが初めてだから、楽しみだったの﹂
﹁えっ? グェン、テキサスに来た事なかったの?﹂
﹁ええ、これが初めて﹂
﹁そうそう。だからね、帰りの飛行機を月曜日にしたの。明日1
日観光して、明後日カリフォルニアに帰るつもりよ﹂
サムとグェンはヒューストン発着で飛行機のチケットを用意して
もらってあると言っていたから、明日はヒューストンで観光をする
つもりのようだ。
最初はクィンがグェンたちの飛行機のチケットを用意すると言う
事に申し訳ないからと言っていたのだが、クィンが招待したのだか
らといって強引に承諾させたのだ。
﹁ショーコたちこそ、ハネムーンに行くんでしょ? どこ行くの
?﹂
﹁ガルベストンで3日ほどのんびりするつもり﹂
﹁ガルベストン? ここから目と鼻の先じゃない。せっかくのハ
ネムーンなんだから外国に行けばいいのに﹂
﹁うん、まぁその・・・何かあった時にすぐに戻れる距離がいい、
741
って事でね﹂
びっくりした顔を向けるグェンとサムに、少し言葉を濁しながら
翔子が説明すると、2人はチラッと愛莉に視線を向けてから頷いた。
﹁ああ、そういう事ね﹂
﹁やっぱり心配だものね﹂
﹁でも、それなら一緒に連れて行けばいいのに﹂
離婚率の高いアメリカでは再婚も多いので、子連れのハネムーン
など珍しくもない。
﹁最初はそのつもりだったのよ。クィンが愛莉とマーサの2人を
連れてベリーズのキィ・コーカー島にあるリゾートで1週間過ごそ
う、って言ってたの﹂
﹁ベリーズ? いいじゃない。どうしてやめたの?﹂
﹁クィンがその話をしたら、愛莉が﹃ハネムーンに妹連れて行く
なんて、クィンってムードもへったくれもないのね﹄って言ったの
よ。﹃せっかくのハネムーンなんだから、2人で行ってイチャイチ
ャしてきなさい﹄ですって。クィンは苦笑いしていたわ﹂
﹁まったく、アイリーンはあいかわずね﹂
﹁そうね、あの子らしくって、笑っちゃったわ﹂
その時の情景を想像したのか、グェンとサムも苦笑いを浮かべて
いる。
﹁だけど愛莉がいいと言ってもやっぱり心配でしょ? だから、
ここから近いリゾートっぽいところで、っていう事でガルベストン
にしたのよ﹂
﹁なるほどね。それなら仕方ないわね。でもまた機会を見つけて
4人でベリーズに行けばいいわ﹂
﹁そのつもり。家族旅行といえば愛莉も文句は言わないだろう、
ってクィンが企んでるみたい﹂
﹁ふふふっ、そうね、みんなで行けばショーコも安心でしょうか
らね﹂
グェンの言葉に頷きながらも、翔子はこうして気にかけてもらえ
742
てありがたいと思う。
たくさんの人たちが自分たちの事を親身になって考えてくれてい
ることを改めて感じる。
もちろんクィンが一番2人の事を考えてくれていると思う。
彼が愛莉の事を可愛がってくれるのを見る時、とても幸せだと感
じられるのだ。
その彼との特別は日が、今始まろうとしている。
翔子は口元に笑みを浮かべながら、食事を済ませるためにビスケ
ットを口に運んだ。
743
Let's Tie The Knot! 2︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
744
Let's Tie The Knot! 3
フワッと結い上げられた翔子の頭に花輪のついたベールを被せる
と、位置を整えてから落ちたりずれたりしないようにピンで留める。
﹁はい、できあがり﹂
﹁ありがとう﹂
差し伸べられたシンディーの手を取って立ち上がると、翔子はそ
のまま姿見の前に手を引かれる。
﹁うん、すっごく綺麗﹂
﹁よく似合ってるわ﹂
いつの間にかやってきて鏡を覗き込んでいたサムがシンディーの
綺麗という言葉に頷きながら似合うと褒める。
﹁これならクィンもショーコに惚れ直すわね﹂
﹁じゃなきゃ、新郎失格よ﹂
クスクス笑う2人の会話を聞きながら、翔子は姿見に映る自分の姿
をじっと見つめる。
ノースリーブのトップはV字に胸元が開いており、クィンからプ
レゼントされた真ん中にエメラルドを嵌め周囲にダイヤモンドを散
りばめたネックレスが輝いている。
耳元もお揃いのイヤリングが窓から差し込む陽光を浴びてキラキ
ラと輝いている。
ドレスのスカートの部分はフレアーを3枚重ねてあり、180度
広げてもゆとりがあるように作られていて、今は綺麗なドレープの
線を作り上げている。
そして頭の天辺に結い上げた髪には花輪が嵌り、その花輪からベ
ールが床まで光のシャワーのように流れている。
翔子は綺麗に化粧を施して素敵なウェディングドレスを着て鏡の
前に立っているのが自分だとは信じられない。
745
まるで別人のように見える。
﹁あら、ショーコ。気に入らないの?﹂
﹁まだ式まで時間はあるから、言ってくれたら直すわよ?﹂
いつまでも翔子が立ったまま姿見に魅入っているので、気になっ
たのだろう、シンディーとサマンサが心配そうに両側から彼女の顔
を覗き込んできた。
それようやく翔子は我に返ると、2人を交互に見てから両腕を上
げて2人を抱きしめた。
﹁違うわ。あんまり綺麗に仕上げてくれたから見惚れちゃったの
よ。だって、鏡に映ってる私、まるで別人みたいじゃない?﹂
﹁あったりまえでしょ。今日の主役はあなたなんだから、完璧に
仕上げたわよ﹂
﹁そうそう、式にやってきたすべての男どもをイチコロにするの
よ。やられたーってクィンをやっかませるのが、今日の私たちの使
命なんだから﹂
おどけたようにいいながら、2人は翔子と同じように両側から抱
きしめ返す。
そうして暫く黙って3人で抱き合っていたが、翔子が赤尾を上げ
たところで抱擁を解く。
﹁シンディー、素敵なドレスをありがとう﹂
翔子のウェディングドレスをデザインして縫い上げたのはシンデ
ィーだ。
﹁サム、あなたのメイクのおかげで別人みたいに綺麗になれたわ﹂
サマンサはメイキャップ・アーティストをしているので、今回の
結婚式に招待された時に、メイクを担当させて欲しいと申し出てく
れたのだ。
シンディーとサマンサは嬉しそうにもう1度翔子を抱きしめる。
そして翔子はくるりとベッドの方を振り返って、そこにいた他の
みんなの顔を1人1人見つめた。
﹁シャスタ、素敵なベールを作ってくれてありがとう。マーサと
746
愛莉の花の飾り付けもとっても素敵よ﹂
翔子が今被っているベールと輪の部分はシャスタが作り、翔子
が身支度を整えている間に愛莉がマーサに手伝ってもらいながら花
輪を作った。
その花輪は青を基調にした、とても清楚な雰囲気に仕上がってい
る。
それから翔子はグェンと目を合わせてから胸元のV字の部分に視
線を落とした。
そこには銀と真珠を使って作られた小さな花をモチーフにしたブ
ローチが留められている。大きさは直径3センチもなく真珠を真ん
中に1つとその周囲に配置して花を模しているのだが、それがドレ
スのアクセントになっていて柔らかい雰囲気を醸し出している。
最後に翔子はベッド脇の椅子に座っているジュリアの前に行く。
彼女はニコニコと笑みを浮かべて、膝の上に青とクリーム色の花
で作られたブーケを載せている。
﹁ジュリアたちもわざわざこんな遠いところまで来てくれて、本
当にありがとう﹂
﹁ショーコたちだって私たちの式に来てくれたでしょ? 私とケ
ンが式に参加するのは当然よ。それに私、すっごく楽しみにしてい
たんだから﹂
ジュリアの膝に乗っているブーケは賢一とジュリアからの結婚祝
いだ。
クィンと翔子は2人の結婚式のためにブーケを用意したので、そ
のお返しという訳だろう。
﹁サムシング・ブルーはショーコのベール。サムシング・ボロウ
は胸元のブローチ。サムシング・オールドは左手のブレスレットね﹂
シンディーは確認するように1つ1つ指差している。
翔子の左手のブレスレットは、昨日牧場に到着した時にクィンか
ら渡されたもので、彼の祖母のものらしい。細いチェーンに5つの
ティアードロップ型のチャームが付いていて、それぞれ真ん中にル
747
ビー、サファイア、エメラルド、オパール、そしてダイヤモンドが
嵌められている1960年代のもので、クィンの話では祖父が祖母
との結婚式の時にサムシング・ニューとして贈られたものだそうだ。
そんな大切なものは借りられない、と言ったのだが、ジュエリー
は身につけてこそ意味があると押し切られたのだ。
﹁サムシング・ニューの履き心地はどう?﹂
ブレスレットを見つめながらその時の会話を思い出していた翔子の
耳に、シンディーの揶揄うような声が聞こえた。
﹁私、まだ見てないわ﹂
﹁私は見たけど、よく見てなかったからまた見たいわね﹂
シンディーに合わせてサムとシャスタが話に乗ってくる。
﹁ショーコ、私は見えないから、触ってもいい?﹂
﹁ジュリア、あなたまで一緒になって揶揄うのね﹂
﹁ふふふっ、いいじゃない。おめでたい席なんだもの﹂
悪戯っぽい笑みを浮かべたジュリアに聞こえるように、翔子はわ
ざと大きな溜め息をつく。
﹁別に見なくてもいいと思うんだけど?﹂
﹁ダメダメ、みんなにお披露目しなさいな﹂
﹁そうそう﹂
﹁だって見たいもの﹂
﹁さわってみたいわ﹂
どうやら見せるまでは誰も引かないようだ、と見て取った翔子は
諦めてドレスの裾を持ち上げる。
するとその下から真っ白な足元が露わになる。
﹁わ∼お﹂
﹁すっごいおしゃれ﹂
・・
﹁ウェディングドレスなのに、妙に似合ってるわよねぇ﹂
﹁ドレスにソレって、有りなのねぇ・・・﹂
﹁改めて見ると、セクシーかも﹂
サム、愛莉、シャスタ、グェン、そしてシンディーが言いたい放
748
題の感想を述べる。
それを聞いて喜ぶべきなのか呆れるべきなのか翔子は決め兼ねな
がら、ドレス越しに足元を見下ろした。
そこに見えるのは真っ白のピカピカに磨かれた・・・・・・・・・
ブーツだった。
本来であればとてもウェディングドレスには似合わないカウボー
イブーツだ。しかし白の革に白の糸を使って刺繍が施されており、
かかとも従来のカウボーイブーツに比べると高く、おそらく10セ
ンチはあるだろう。
足にぴったりとフィットするようにサイドにファスナーをつけて
スレンダーに仕上げている事もエレガントさをプラスしているのか
もしれない。
﹁私、ブーツを履いてウェディングドレスを着るなんて、夢にも
思わなかったわ﹂
﹁あら? じゃあ一生忘れないでしょ?﹂
﹁忘れるつもりなんてないわよ﹂
﹁それもそうね﹂
﹁シンディー・・・大切な記念日を忘れる事前提に話をする人っ
てあんただけじゃないの?﹂
舌を出すシンディーを見て、シャスタは呆れたように頭を振る。
それから翔子のブーツに手を伸ばして触っているジュリアと翔子
の2人を見る。
いつの間にかジュリアのために翔子は彼女の方に向き直って、彼
女が触りやすいようにすぐ前に立っていたのだ。
﹁模様までは判らないんだけど、すっごくたくさんの刺繍がある
っていうのは判るわ﹂
﹁花が刺繍されているのよ。ほら、この部分が花、それでこの長
い線の部分は花の蔦みたい﹂
﹁ああ・・・これが花で・・・こっちが蔦なのね・・・ショーコ
の説明のおかげでなんとなくイメージができたわ、ありがとう﹂
749
シャスタは翔子がシンディーのバカな発言を気にしていない事を
確認してホッとする。
おめでたい結婚の日にするような会話ではなかったのだ。翔子が
気を悪くしてもそれは当然だと思ったのだ。
コンコン
そんな時、ドアをノックする音が聞こえた。
﹁時間ですよ﹂
ドアの外から声をかけられて、全員が立ち上がる。
﹁どうやら準備ができたようね﹂
﹁じゃ、先に行って待ってるわね。さ、みんな行きましょう﹂
ジュリアからブーケを受け取ると、ジュリアの介助をしながらマ
ティウスさんが2人並んで先に出ると、残りのみんなもそれについ
て出て行ってしまう。
シンディーは1人残る翔子にウィンクをしてから、後ろ手にドア
を閉めた。
静かな部屋に1人残された翔子は、ドキドキとうるさく跳ねる心
臓の上に両手を置いて気持ちを落ち着けようと深呼吸をしてから近
くにある椅子に腰を下ろした。
もう1度深呼吸をしてから目を閉じて、あっという間に過ぎ去っ
たこの1年ほどの出来事を思い出す。
賢一の提案を発端として、なんと波乱に満ちた1年だったろう。
けれどそのおかげで、翔子は一生を共に歩む相手と巡り会えたの
だ。
賢一の提案を受けていなければクィンとの接点はなく、お互いこ
うして出会う事もなかったのだと思うと不思議な気がする。
そんな事を考えているうちに30分ほど時間が経ち、ドアが再び
ノックされた。
翔子は返事をしてからゆっくりと立ち上がると、ドアに向かって
歩き出した。
750
751
Let's Tie The Knot! 3︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
752
Let's Tie The Knot! 4
翔子は案内の女性に連れられてゆっくりと階段を降りる。
彼女は牧場で働く男たちの妻の1人で、今日の結婚式の手伝いを
してくれる手筈になっている。
玄関は既に大きく開かれており、翔子が外に出るとシンディーの
夫であるロジャーが待ってくれていた。
﹁ひゅぅっ、ショーコ、とても綺麗だな﹂
﹁ありがとう、ロジャー﹂
﹁君のこんな素敵な姿をクィンよりも先に見る事ができるなんて
ラッキーだよ﹂
そんな軽口を叩くロジャーの差し出した手を取ると、彼は翔子を
そのままポーチの右端までエスコートする。
近づくにつれて、ポーチのかどの手摺りが取り外されているのが
判る。
﹁ロジャー、もしかしてわざわざ手摺りを取ったの?﹂
﹁いいや、シンディーとの結婚式の時に取ったんだ。直さずに取
り外しができるようにしておいたんだよ。だから丁度よかったな﹂
そう言われて、翔子はシンディーの結婚式のためにここに来た時
の事を思い出した。
レセプション
レセプション
出会って1ヶ月で結婚した2人は、ここに友達や身内を呼んで式
と披露宴をしたのだ。
その時はシンディーの希望により普通の披露宴ではなく、メキシ
カン・スタイルのパーティーにしたのだ。
と言っても本当にそれがメキシカン・スタイルかどうかは怪しい
もので、ただシンディーが色鮮やかなメキシカン・ドレスを来て、
同じくメキシカン・マタドールの格好をしたロジャーが馬に乗って
登場する、といったものだった。
753
レセプション
こ
あの時は驚いたものだが、奇抜で楽しい披露宴だった事は今も憶
えている。
﹁ほら、ショーコ。こっちだよ。可愛い馬だろ?﹂
﹁可愛いっていうか・・・水玉模様なのね?﹂
﹁そう。アッパルーサなんだけど、全身に水玉模様があるのは珍
しいんだ。この子はおとなしいから馬に乗り慣れてないショーコで
も安心して乗れるよ﹂
ポーチの手摺りのない部分から横付けされた馬に乗れるようにな
っていて、翔子はロジャーにてを引かれたまま馬のすぐそばで立ち
止まる。
﹁・・・もしかして跨ぐの?﹂
﹁それはあとでな、今は横座りでいいよ﹂
ポーチに立つ翔子から見ると馬の頭は右を向いている。
持ち手
これから向かう式壇の左側が翔子の位置なので、そこに横付けし
やすくしたのだろう。
翔子は左手で鞍に付いているロープハンガーを握り、右手にブー
ケを持ったまま鞍の縁を掴むとゆっくりと腰を下ろした。
﹁もう少し深く腰掛けて・・・そう、・・もうちょっとしっかり
サドル
握って・・うん、それでいい﹂
ロジャーの指示に従って鞍の上で体勢を整えていく。
﹁馬はゆっくりと歩かせるから大丈夫だよ﹂
﹁本当にゆっくりね。こんな格好で落馬なんてしたくないわよ﹂
﹁落ちかけたら言ってくれ、頑張ってキャッチするから﹂
﹁ロジャー・・・﹂ ﹁うはははっ、冗談だ。間違ってショーコを落としたら、シンデ
ィーに殺される﹂
大声で笑いながらロジャーはそのままポーチから地面に飛び降り
ると、翔子が乗っている馬の手綱を取る。
﹁よーし、準備はオッケーだな。シエラカーン、そのままゆっく
りと体を揺らさないように歩くんだぞー﹂ 754
﹁馬はあなたの歩みに合わせるんだから、あなたがゆっくり歩か
ないと駄目よ﹂
﹁判ってるって。そうだ、シンディーから伝言だ。会場に来るま
サドル
でには馬に慣れてブーケを持った手は胸元に上げておくように、だ
とさ﹂
﹁慣れたら、ね。慣れなかったら、私は鞍にしがみつくからね﹂
﹁この程度の揺れなら両手を話しても大丈夫だろ?﹂
﹁あなたやシンディーならね。私には無理﹂
ここ
呆れたように頭を振る翔子を見て、ロジャーは大きな声で笑う。
﹁まったく。年に1度は牧場に来るといい。乗馬を教えてやるよ。
もちろん、アイリーンも一緒にな﹂ ﹁愛莉なら喜びそうね。でも年に1回はどうかしら? クィンに
聞いてみないと判らないわ﹂
愛莉なら喜んで頷きそうだが、やはりきちんとクィンと相談して
決めるべきだろう、と翔子は判断する。
﹁ショーコは真面目だなぁ。シンディーも少しくらい俺の言う事
を聞いてくれてもいいと思うんだけど、どう思う?﹂
﹁シンディーだって言う事聞くと思うわよ? もちろん、必要と
あれば、でしょうけどね﹂
﹁そうだよなぁ・・・・はぁ﹂
ガックリと肩を落として歩くロジャーを馬上から見下ろしながら、
翔子は思わず吹き出した。
﹁大体素直に言う事を聞くような子だったら、ロジャーは惚れて
ないでしょ?﹂
﹁そりゃそうだ﹂
なんでも自分の言う事に従うような女には興味ない、とロジャー
は思う。
じゃじゃ馬は慣らしてこそ愛着を感じるのだ。
もちろんそんな事はシンディーには言えないのだが。
﹁大丈夫か? もう少しゆっくり歩いた方がいいなら言ってくれ
755
よ﹂
﹁ううん。そんなに揺れないから平気。それにもうすぐそこじゃ
ない。みんな待ってるもの﹂
今更のように尋ねてきたロジャーに答えながら、翔子は馬の進む
方向に視線を向けた。
そこには高さ1メートルほどの祭壇があり、その前に2列に並べ
られたベンチが左右に5つずつ並んでいる。
結婚式としては規模が小さいものだが、身内だけのこじんまりと
パーティー
した式を望んでいた翔子にとっては十分だ。
カリフォルニアに戻れば大きな披露宴が予定されているが、その
招待客の数は約300人だとクィンに聞いている。
もちろん彼の仕事がらみなので、仕方ないと思う。
だからこそ、この式は特別なのだ。
ロジャーのエスコートする馬は、ベンチの真ん中をゆっくりと進
む。
誰よりも高い位置にいる翔子からは祭壇の上で振り返ってこちら
を見ているクィンがよく見える。
ロジャーはそのまま正面の祭壇の左側に馬を進ませて壇のすぐ横
に止めた。
馬はそのままにロジャーは祭壇にあがると、翔子に手を伸ばして
降りる手助けをする。
もちろんクィンの視線を遮っての立ち位置はわざとだ。
﹁お手をどうぞ﹂
﹁ありがとう﹂
756
﹁俺はショーコの父親役だからね﹂
﹁ふふっ、そうね﹂
両親を亡くしている翔子の父親役をロジャーはノリノリで引き受
けてくれたのだ。
と言うより、ロジャーが父親役をする事に決まったから、と事後
連絡を受けたのだ。
サドル
その時のシンディーからの電話を思い出しながら、翔子は差し出
されたロジャーのを取ると、ゆっくりと鞍から立ち上がる。
それから少し乱れたドレスのスカートの前の部分をブーケを持っ
た手で簡単に整える。
翔子がドレスを整えている間にすぐそばに控えていた男が、乗っ
てきた馬の手綱をとって連れて行き、同じく控えていた女性が祭壇
の下から翔子のドレスの後ろ側を整えてくれる。
そうやって翔子のドレスが整ったところで、ロジャーが翔子の横
に移動したのと、彼女が顔をあげてクィンを見たのは同時だった。
祭壇の上に立って翔子を待っているクィンは白のタキシードを着
ており、射るような視線を彼女に向けている。
クィンのあの強い目に囚われたのだ、と翔子は思う。
初めて会った時から彼はいろいろな感情を乗せた目を翔子に向け、
その目の強さに心を乱されたのだ。
ふっとクィンが口元に笑みを浮かべた事で、翔子は囚われた呪縛
を解かれた。
ロジャーに促されるまま、ゆっくりと数歩離れたクィンのところ
に歩いていく。
﹁俺の可愛い娘を泣かすなよ﹂
﹁ほざけ﹂
にこやかな笑いを浮かべているロジャーに鋭い一瞥を向けてから、
クィンは翔子を見つめてすっと手を差し出した。
怖る怖るそっとその手の上に手を乗せるとギュッと握り締められ、
そのまま腰に回った腕で引き寄せられる。
757
﹁綺麗だ﹂
﹁あ、ありがとう﹂
﹁昨日我慢した甲斐があったな﹂
﹁・・・ばか﹂
昨日の午後ここに到着してから、クィンは一足先にここに来てい
た翔子と少し言葉を交わしただけで、強引なシンディーの命令によ
って今まで顔を合わせる事もできなかったのだ。
それは古いしきたり通りだからとはいえクィンとしては不満一杯
だったのだが、翔子がそれを受け入れているのであれば我慢するし
かないと承諾したのだ。
そして今綺麗に自分のために着飾っている翔子を見て、待っただ
けの価値はあったと納得したのだ。
クィンに促されるまま翔子はゆっくりと祭壇の正面に向き直る。
﹁美しい花嫁の登場ですね﹂
ニコニコと笑みを浮かべた初老の恰幅のいいキムレィ牧師が手招
きするのを見て、クィンと翔子は2歩ほど彼の方に歩みを進める。
﹁はい、そこでいいですよ。それでは始めましょうか﹂
キムレィ牧師はクィンの左に立つ翔子の右手を取ると聖書の上に
載せ、それからクィンにも手を伸ばす。
﹁ミスター・マクファーラン、花嫁から離れ難いのは判るけど、
左手を聖書に載せてもらえるかな?﹂
﹁これは失礼、キムレィ牧師﹂
結婚式を挙げてくれるキムレィ牧師に逆らえる筈もなく、しぶし
ぶといった感じで翔子の腰から手を話すクィンを見て、招待客たち
の方から失笑が漏れる。
もと
それでも翔子とクィンの手が聖書に重ねて載せられると、誰もが
話すのをやめて静粛な雰囲気になる。
﹁今日は天気も良く、空には雲1つ浮いていない青空の下、夫婦
の契りを交わす2人のために集まってくださった皆様に感謝いたし
ます。神と多くの見届け人の前で己を偽る事なく、この場で永遠に
758
続く誓いをたてていただきます﹂
そこで言葉を切り、キムレィ牧師はクィンをまっすぐ見る。
﹁クィン・マクファーラン、あなたは楽しい時も哀しい時も、嬉
しい時も怒れる時も、健やかなる時も病める時も、富める時も貧し
き時も、共に分かち合い、話し合い、歩み寄り、時には妥協もしな
がら、それでも互いを慈しみ、これからの長き時を共に歩む事を誓
いますか?﹂
クィンは小さくキムレィ牧師に頷くと、翔子に向き直りまっすぐ
彼女を見つめて言葉を紡ぐ。
﹁私、クィン・マクファーランは、いついかなる状況においても、
もちろん喧嘩をした時も、どんなに険しい道が2人の前に立ち塞が
っていても、2人手を取り合って一生共に生きていく事を誓います﹂
喧嘩、のところで小さな笑いが聞こえたが、翔子はまっすぐ自分
を射るような視線を向けるクィンから目を離せない。
そんな翔子の聖書に載せている手をそっと叩かれ、彼女はハッと
キムレィ牧師を振り返る。
﹁ショーコ・サノハラ、あなたは楽しい時も哀しい時も、嬉しい
時も怒れる時も、健やかなる時も病める時も、富める時も貧しき時
も、共に分かち合い、話し合い、歩み寄り、時には妥協もしながら、
それでも互いを慈しみ、これからの長き時を共に歩む事を誓います
か?﹂
翔子は大きく深呼吸をしてから、クィンに向き直る。
﹁私、翔子・左野原は、幸せな時はもちろん、どんな困難が2人
の前に立ち塞がったとしても屈する事なく、そしてどんなに怖い目
で睨まれても、常に2人手を取り合って生きていく事を誓います﹂
翔子の誓いの言葉に、また招待客の方から小さな笑いが聞こえた。
笑ったのはクィンと翔子の2人ので会いの話を聞いている、シン
ディー一家、それにジュリアと賢一に違いない。
﹁花婿、花嫁、共に神の前に置いて永遠の契りを誓いました。神
の祝福を授ける前に、2人の結婚に異論のある者がいれば、今この
759
場で異議を申し立ててください・・・・いないようですね。それで
はここに2人が夫婦である事を神の名の下に宣言します。それでは
指輪の交換をします﹂
キムレィ牧師が2人に聖書に載せていた手を離すように言ってか
ら、聖書を台に置いてからすぐ横にある小さなテーブルに置いてあ
った指輪の載った20センチほどの白いクッションを両手で持つ。
それをクィンの前に持っていく。
クィンは2つ並んでいる指輪の小さい方を手に取ると、翔子の左
手を取って薬指にゆっくりと嵌める。
そして翔子も同じようにクッションの上から指輪を取ると、クィ
ンが差し出した左手の薬指に嵌める。
たったそれだけの事なのに、翔子は胸の奥がキュッと音を立てた
これは翔子がクィンの妻になり、クィンが翔子の夫になったと
気がした。
いう証なのだ。
じっと指輪を見つめていた翔子の頬をクィンは上げさせるよう
﹁それでは、花婿は花嫁に誓いのキスを﹂
に両手で挟む。
﹁誰が睨んでいたって?﹂
﹁あなたよ。ものすごく怖い顔だったんだもの、泣きそうだった
わ﹂
﹁よく言う。真っ向と俺に言い返したくせに﹂
﹁ふふフッ。でもあの時のあなたのまっすぐな瞳、ずっと憶えて
いるわ﹂
﹁俺もだ。俺から目をそらす事がなかったショーコの目は、絶対
に忘れない﹂
フット口元に笑みを浮かべたクィンの顔が翔子に近づいてくる。
翔子はそっと目を閉じて、彼の温かい温もりを受け止める。
途端にヒューヒューという口笛や声が招待客席の方から飛んでく
る。
760
でも、それは2人にとってはとても瑣末な事でしかなかった。
761
Let's Tie The Knot! 4︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
762
Let's Tie The Knot! 5
クィンの唇が名残惜しそうに翔子のそれから離れると、翔子はゆ
っくりと目を開けた。
﹁さて、まだまだサーカスは終わってないぞ﹂
﹁そうね。でもたまにはこういうのいいでしょ。きっと一生忘れ
ない思い出になるわ﹂
クィンと翔子がくるりとゲストの方を振り返ったタイミングで、
招待客席から盛大な拍手が送られる。
翔子がこれからどうするのだ、と聞こうと思ったところで、先ほ
ど翔子が乗ったアッパルーサを引いたロジャーとその横で馬に乗っ
たシンディーがやってくる。
そしてシャスタが祭壇に上がってくるのに気付いた。
ライド
﹁ショーコ、覚悟はいい?﹂
﹁シャスタ?﹂
﹁これからお披露目の乗馬だよ。乗る手伝いをするからこっちに
おいで﹂
良く判らないが言われるままに翔子は祭壇のは死に立つと、先ほ
どここに来た時のように翔子の前に馬が停められると、馬を挟んで
同じく馬に乗ったシンディーが並ぶ。
﹁さ、またがって﹂
﹁えっ?﹂
﹁写真撮影もするからね。またがってごらん﹂
﹁でも私、ドレスよ?﹂
﹁それはそのためのドレスなんだよ﹂
シャスタに言われて翔子は自分のドレスを見下ろしてから、成る
程と納得する。
763
﹁変わったデザインだな、って思ってたんだけど、そのためだっ
たのね﹂
﹁そうだね﹂
﹁教えてくれたらよかったのに﹂
﹁それじゃあ面白くないだろ?﹂
﹁面白くないじゃない﹂
ニヤリと笑うロジャーとシャスタに呆れたような視線を向けてか
ら馬越しにシンディーを見ると、彼女はしてやったりと言わんばか
りの絵にを浮かべている。
﹁シンディー・・・﹂
﹁いいでしょ? 私に一任されてたんだから。それより、早く早
く﹂
﹁そうそう、足元に気をつけて乗るんだよ﹂
翔子はそれ以上文句を言うことを諦めて、ドレスの端を持って手
伝ってくれるシャスタの指示に従って馬に跨ると、シャスタとシン
ディーが両脇からドレスを直してくれる。
﹁はい、綺麗にできたよ。じゃあクィン乗っておくれ﹂
﹁クィン?﹂
﹁ショーコは馬に乗れないでしょ? それにたった今結婚したの
に別々に乗ってどうするのよ﹂
﹁すでに別居か?﹂ 余計な事を口にしたロジャーはシンディーに頭を叩かれている。
事は全く聞かされていなかったので、翔子は披露宴があるだけ
レセプション
結婚式については打ち合わせはそれなりにしていても、そのあと
の
だと思っていたのだ。
だから、これから何があるのかさっぱり判らない。
﹁揺れるかもしれないから、気をつけろよ﹂
頭を捻っていると、クィンに声をかけられたのと同時に少しだけ
馬が動いた。
クィンは驚いた翔子の腰に腕を回して落ちないように支えてやる。
764
﹁大丈夫か?﹂
﹁うん、ちょっとびっくりしただけ、ありがとう﹂
﹁掴むところがロープハンガーくらいしかないからな。揺れるよ
うなら俺の腕をつかんでいればいいさ﹂
タンデムシートとはいえ、カウボーイサドル仕様なのでロープを
括りつけるためのロープハンガーはあるので何も掴むものはないと
いう訳ではないが、それでも馬に乗り慣れていない上に高くて少し
怖かった翔子は、素直にクィンの腕をブーケを持っていない方の手
で掴む。
﹁よし、準備できたか?﹂
いつの間にか馬に乗っているロジャーが声をかけて来た。
﹁ロジャー、手綱を持ってたんじゃないの?﹂
﹁んなもんとっくにクィンに渡してるよ。ショーコ、そいつ馬の
扱いは上手いから心配すんなよ﹂
﹁そうなの? クィン、馬に乗れたのね?﹂
﹁カナダに住んでいた頃にな。この数年は乗ってなかったけど、
体は覚えてるもんだ。ただ走らせたりする事には不安があるから歩
かせるだけだけどな﹂
それでも全く乗れない翔子からすれば凄いと思える。
﹁さ、行くぞ∼﹂
ロジャーはくるりと馬を方向転換させてクィンたちの前に来ると、
そのまま馬を歩かせる。
そしてクィンと翔子が乗っている馬の横にシンディーが馬を移動
させて並ぶと、ロジャーと既に打ち合わせでもしていたのかクィン
が迷う事なくその後ろに続くと、結婚式の客席の後ろの方にある広
場に同じように馬に乗っているグループが見える。
そのグループは全員男で、女たちは後ろに控えていたワゴンに乗
ってそこに移動しているようだ。
そして客たちは更に広場の奥に積み上げられている長方形の干草
を固めたヘイベイルのそばに降ろされて、次々とヘイベイルの上の
765
方に上がって座る。
しかもいつの間にやってきたのか、3歳くらいの子供に10代か
ら20代と思しき女性たちも同じように積み上げられたヘイベイル
の上に座ってこちらに手を振っている。
いつのまに? と驚いた翔子は馬に乗って隣を歩いているシンデ
ィーを見ると、彼女は悪戯が成功した子供のようにニンマリと笑っ
て翔子を見ていた。
﹁なんだか人が増えてるんだけど?﹂
﹁そりゃそうよ。私が呼んだんだもの﹂
レセプション
﹁どうして? 身内だけじゃなかったの?﹂
﹁式は身内だけ、だったでしょ? でもお披露目はね、この辺り
ではご近所も招んで賑やかにやる事になってるの﹂
しれっと真面目な顔になってそう言うシンディーだが、その目が
笑っているのでこれが彼女の思いつきなのだとバレバレだ。
﹁みんな、ショーコのブーケトス、楽しみにしてるのよ。それに
男たちはクィンと話がしたいって言ってるみたいね﹂
﹁話? こんな日にまでビジネスの話なんかするつもりはないぞ﹂
眉間に皺を寄せるクィンに、シンディーは違うと言って手をヒラ
ヒラと振った。
﹁そうじゃないわよ。彼らが聞きたいのは、どうやってショーコ
みたいなエキゾチック・ビューティーと知り合ったのか、とか、ど
うやって口説き落としたのか、とか、そんな事よ﹂
﹁なんだそれは?﹂
﹁みんな興味津々って事﹂
﹁昨夜もそんな話をさせられたのに、まだ聞きたいのか?﹂
﹁だって、昨日来ていなかった連中もいるもの﹂
呆れたような口調のクィンの言葉から、昨夜ゲストハウスで行わ
れていたらしいバチェラー・パーティーでどんな話をしていたのか
が知れる。
そんなくだらない話をしているうちに、翔子たちの乗った馬は積
766
み上げられたヘイベイルの前までやってきた。
翔子とクィンを乗せた馬がみんなの前にとまると、その場にいた
全員が拍手しながら祝福の言葉を投げてくる。
﹁よーし、ブーケトス・たいむだぞ∼。参加者は降りてこいよ。
ヘイベイルの上だと危ないからな﹂
ワッと歓声が上がり、ヘイベイルの上に座っていた女の子たちが
10人ほど降りてくる。
﹁クィン、馬を横向きに停めてくれ。ショーコはそのまま顔だけ
反対に向けてくれればいい﹂
ロジャーに言われるとおりクィンが馬を動かすと、翔子たちの右
手に女の子たちが待っている形になる。
﹁クィン、がっちりショーコをホールドしておいてくれよ。ショ
ーコはできるだけ高くにブーケを投げてやってくれ﹂
翔子はお腹に回っているクィンの腕を左手だけで掴むと、顔だけ
を反対側に向ける。
﹁よし、1、2、3!﹂
翔子はロジャーの掛け声に合わせて、できるだけ高く遠くに投げ
る。
途端にキャ∼っという歓声が上がる。
翔子が振り返ると、丁度見た事のない20歳くらいの女の子がブ
ーケを高々と上げてみんなにみせているところだった。
わぁっと声が上がり、周囲の女の子たちから声をかけられている。
﹁ラッキーガールはレイチェルか? ブーケだけじゃダメだぞ∼、
ちゃんと相手はいるのかよ?﹂
﹁大きなお世話よ、ロジャー!﹂
ドッとみんなが笑う声が響く。
そんなロジャーの頭をそばにいたシンディーが叩くものだから、
笑いは更に大きくなる。
ロジャーは叩かれた頭を撫でながら、さっと片手を上げた。
﹁よし、じゃあお嬢様たちは元の場所に戻ってくれよ。今度は野
767
郎どもの番だからな∼﹂
ロジャーに言われて、ブーケを持ったレイチェルを先頭にみんな
ワイワイと話ながら積み上げられたヘイベイルの上へと上がってい
く。
キラキラした笑顔を浮かべた彼女たちを見て翔子は顔を綻ばせる。
きっとこの子たちもそのうち生涯のパートナーを見つけるのだろ
う。
768
Let's Tie The Knot! 5︵後書き︶
* クィンの言った﹃サーカス﹄ですが、お祭り騒ぎというかそう
いうノリの騒ぎの事をこういう言い回しでいう事があります。
ですので、本当のサーカスじゃありませんよ∼www
読んでくださって、ありがとうございました。
769
Let's Tie The Knot! 6
そうして女の子たちが移動を終えるのを見届けてから、ロジャー
は馬に乗った男たちを振り返った。
﹁てめえらっっ、用意は良いかっっ!﹂
﹁おうっ﹂
﹁あったりめえだっ﹂
﹁まかせとけっ﹂
威勢の良い声が上がり馬に乗った男たちが前に出てくる。
今度はいったい何が起きるのだろう?
翔子は頭にハテナマークを浮かべたまま、ちか付いてくる男たち
を見つめる。
馬に乗った男たちは全部で8人だ。
それぞれが手にカウボーイが持つような先端が輪っかになったロ
ープを持っている。
﹁よーし、野郎どもは準備オッケーだ。って事で、クィンので出
番だな﹂
ロジャーがニヤニヤ笑いながら翔子たちを振り返ると、クィンは
小さく溜め息を吐く。
﹁ショーコ、俺は降りるからしっかり捕まっとけよ﹂
﹁えっ? きゃっ﹂
どこか呆れた口調で言いながらなるべく揺らさないように馬から
降りると翔子のすぐそばに立つ。
これから何が起きるのかなどさっぱり判っていない翔子は、すぐ
そばに立っているクィンを見下ろして彼が何か言うのを待つ。
﹁・・クィン?﹂
﹁全く・・・ショーコの親友夫妻はお祭り騒ぎが好きだな﹂
﹁それって、どういう意味?﹂
770
﹁こういう意味だよ﹂
翔子を見上げたクィンと目があったのと、彼が手を馬上にいる翔
子のドレスに手を突っ込んだのは同時だった。
﹁クッ、クィンッッ!﹂
﹁ガーターベルトを取るだけだよ﹂
﹁と、取るだけってっ﹂
﹁ショーコはブーケを投げただろ? 今度は新郎が花嫁のガータ
ーベルトを投げる番だ﹂
そう言いながらもクィンの手は翔子の足首からふくらはぎを通っ
て膝に行き、それからゆっくりと腿まで上がっていく。
その触れ方があまりにも官能的で、翔子は顔が真っ赤になる事を
止められない。
クィンは悪戯っぽい瞳で、そんな翔子の反応を楽しむ。
そしてそんな2人にヒューヒューという口笛や野次が飛ぶ。
とはいえ翔子はとてもそんな事きにするだけの余裕がない。
やがてクィンの手が翔子のガーターベルトと一緒にドレスから出
てくると、ワァっと歓声が上がった。
クィンはそれを高く掲げてみんなに見せつける。
翔子としてはつい今まで身につけていたそれを他人に見せる事に
抵抗があるものの、ガーターベルトトスは結婚式の定番だから、と
思うと文句も言えない。
﹁さ、ショーコ。馬から降りるぞ﹂
﹁落ちちゃうわよ﹂
﹁大丈夫、そこのヘイのそばに寄せるから、ヘイベイルを足場に
すれば大丈夫さ﹂
クィンはそれを手首に通すと、馬の手綱をとるとそのままヘイベ
イルの横に移動する。
それから翔子に手を伸ばして彼女が馬から降りるのを手伝う。
馬を跨いでいたのでもしかしたらドレスの中が見えるかも、と心
配したもののシンディーのデザインしたそのドレスはきちんと翔子
771
を守ってくれた。
なんとかヘイベイルの上に立つと、翔子はドレスの裾を軽く直す。
クィンは翔子が無事にヘイベイルの上にいる事を確認してから、
馬の手綱を取った。
﹁ショーコも落ち着いて見たいだろうから、ヘイベイルの上に上
がってればいい﹂
﹁クィンは?﹂
﹁俺はもう一仕事あるんだ﹂
もう一仕事と言うけれど、あとは男たちにガーターベルトを投げ
るだけなのに、と思いつつも翔子は言われるままドレスの裾を踏ま
ないように気をつけながらヘイベイルに上り、手を振る愛莉の隣に
座る。
﹃お姉ちゃん、すっごく綺麗だった﹄
﹃ありがとう、愛莉。愛莉もその格好すっごく可愛いわよ﹄
﹃当たり前よ。私だもの﹄
翔子が褒めると愛莉はツンと顎をあげるが、褒められて嬉しいの
だと伝わってくる。
﹁ショーコもアイリーンも、2人とも綺麗よ﹂
﹁ありがとう、グェン﹂
﹁そりゃそうでしょ。私は可愛いもの﹂
お互い褒め合っているとグェンが会話に混ざってきてからかって
くる。
﹁あっ、子牛が出てきた﹂
﹁えっ?﹂
愛莉が指差す方向を見ると、確かに首にロープをつけられた子牛
がやってくるところだった。
﹁子牛なんて、どうするのかしら?﹂
﹁バーベキュー?﹂
﹁アイリーン、それはないと思うわよ﹂
まさかみんなの前で殺して食べるなんて事はめでたい結婚式でや
772
る筈はないだろう、とグェンが嗜める。
ペロッと舌をだして肩を竦める愛莉をジロリと見てから見下ろす
と、丁度子牛がクィンの前に連れてこられたところだった。
子牛が止まると、ロジャーはポケットから真っ赤なリボンを取り
出すとそれをクィンに手渡した。
それと交換するように、ロジャーはクィンから馬の手綱を受け取
った。
クィンは真っ赤なリボンを受け取ると、翔子からの戦利品である
ガーターベルトをリボンに通してから、それを子牛の首に結ぶ。
もちろん解きやすいようにチョウチョ結びだ。
けれど、彼が何をしているのか、翔子にはさっぱり判らない。
﹁なにあれ?﹂
﹁さぁ?﹂
尋ねてくる愛莉に翔子は頭を振る。
リボンをくくり終えたクィンはそのまま下がると翔子が座ってい
るヘイベイルまでやってきた。
﹁ねぇ、あれって﹂
﹁しっ。始まるよ﹂
尋ねようとした翔子にクィンは答えず、そのまま子牛を指差した。
﹁さて、野郎ども、こっちは準備ができたぜっっ﹂
﹁待ってましたっっっ!﹂
﹁いつでもオッケーだぜっ!﹂
ロジャーの声に全員がいつでも大丈夫だと返す。
﹁よっしゃ・・・いくぜっっっっ!﹂
威勢のいいロジャーの声とともに、彼は子牛の首に付いていたロ
ープを外した。
それと同時に子牛が一気に走り出す。
そしてそのすぐ後ろを馬に乗った男たちが片手にロープを握った
まま一気に馬を走らせる。
砂埃をあげながらの猛烈なダッシュであっという間に3頭の馬に
773
周囲を囲まれるが、それでも必死になって走る子牛目掛けてカウボ
ーイたちは手にしていたロープを投げた。
ワッという歓声が上がり、子牛が倒れるのが見える。
そしてカウボーイの1人が馬から飛び降りると見事子牛を捕まえ
たロープを手に、そのまま子牛の首に結ばれていたリボンを解くと
リボンごとガーターベルトを手にガッツポーズをとる。
拍手歓声の中、カウボーイたちは馬を歩かせながら戻ってきた。
﹁ラッキー・シングルはどうやらレイチェルとビリーのようだな。
どっちも結婚式の時には呼んでくれよ﹂
ロジャーの軽口に客からの笑い声が上がる。
﹁なんだかものすごいガーターベルトトスだったわね﹂
﹁ああ、俺もビックリだよ。ってか、あれはトスとは言えないだ
ろうに﹂
﹁そうね、ガーターベルトラン、かしらね?﹂
ふふふっと笑う翔子の隣に座るクィンは彼女の腰に手を回して、
戻って来るカウボーイに軽く手を振っている。
﹁ロジャー曰くカウボーイスタイルらしいけど、あれは絶対にあ
いつらの悪乗りだな﹂
﹁そうかもね、私も聞いた事ないわよ、あんなガーターベルトト
スなんて﹂
呆れたと言わんばかりに頭を振りつつも楽しそうなクィンに、翔
子もつられて笑い声をあげる。
こじんまりとした身内だけの式の筈だったが、これはこれで良い
思い出になりそうだ。
﹁さ∼て、そろそろ料理も揃った頃だろうから、ゲストハウスの
方に移動するぞ。もちろん先頭は新郎新婦の2人だ。それからグル
ームズメン、ブライドメイド、その後ろはワゴンにのったゲストだ
な﹂
パンパンと手を叩いてみんなの注目を集めてから、ロジャーはこ
れからの予定を伝える。
774
﹁・・・また馬に乗るの?﹂
﹁ちゃんと手伝うよ。シンディーだって手伝ってくれるさ﹂
﹁・・・・オッケー﹂
ウェディングドレスで乗るのは大変なのに、と思うものの、ここ
に集まってくれたみんなの楽しそうな顔を見ると断る事はできなさ
そうだ。
翔子は小さく溜め息をついてから、ヘイベイルから立ち上がった。
775
Let's Tie The Knot! 6︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
776
Let's Tie The Knot! 7
クィンが操る馬に乗り、馬がゲストハウスに向けて歩き出すと、
ブライドメイドとグルームズメンが乗った馬が2人の後ろに続く。
馬に乗っていない客たちはワゴンに乗ってその後ろに続く。
他のカウボーイたちはワゴンの護衛のように周囲を取り囲んで馬
を進めている。
そうして到着したゲストハウスの前には白いテーブルクロスがか
かったテーブルがいくつも並べられていて、椅子もたくさんその周
囲に並べられている。
﹁いつの間に・・・・﹂
﹁俺たちの朝食を作りながら、パーティー用の料理も作ってたな﹂
﹁そうなの?﹂
﹁シンディーとロジャーはショーコにウェディング・サプライズ
にしたかったみたいだな。現に俺は式の内容は殆ど昨夜教えてもら
ったからな﹂
つまり、何も知らなかったのは翔子1人だという事だ。
﹁全く・・・でも、シンディーらしいわ﹂
﹁みんな、ショーコに楽しい思い出にしてもらいたかったんだよ。
まぁ・・少し悪乗りがすぎていたようなところもあったけどな﹂
クィンの少し疲れたような声音に、翔子は思わず吹き出した。
﹁そうね、ロジャーもシンディーも、馬鹿騒ぎが大好きだから、
これくらい予想しておくべきだったわ﹂
﹁まぁみんな楽しそうだからいいんじゃないのか?﹂
﹁うん﹂
そんな会話をしながらゲストハウスの脇にある納屋に来ると、翔
子が馬から降りるための台が用意されている。
翔子はクィンの手を借りて馬から降りた。
777
するとカウボーイの1人がやってきて、クィンの手から馬の手綱
をケトルとそのまま連れて行く。
周囲を見回すと、ブライドメイドやグルームズメンたちが乗って
いた馬もカウボーイたちが受け取って納屋に連れて行くのが見える。
ゲストハウスの前にあるコンクリートとレンガで整えられたちょ
っとした広場脇にワゴンが停められ、それに乗っていた客たちが楽
しそうに談笑しながら降りる姿が見える。
﹁みんな着いたみたいね﹂
﹁みたいだな。それにしてもワゴンなんかで客を移動させるとは
カウンティー・フェアー
思わなかったよ﹂
﹁郡のお祭りの時のパレードで毎年使うみたいよ。それに期間限
定でゲスト・ランチもしているから、その時にも牧場内の移動に使
うって言ってたわね﹂
﹁ゲスト・ランチ? そんな事もしてるのか?﹂
﹁以前頼まれて1シーズンだけ、って事でやったら、すっごく評
判が良かったんだって。それで毎年春と夏に3週間だけやってるみ
たいね﹂
ゲスト・ランチとは、牧場生活を体験してみたいという人が1−
3週間の予定で牧場にやってきて、カウボーイの真似事をする事、
といえばいいだろうか。
ブランディング
広い牧場の敷地の中で牛を移動させるキャトル・ドライブ、そし
てその間のキャンプ・アウトや、新しく生まれた子牛の焼印押しな
どを体験する事ができる。
そこまで本格的なカウボーイ生活ではなく、ただ牧場生活を楽し
みたいという人たちは、羊の毛刈りや乗馬レッスンといった事が体
験できるよになっていて、こう言った体験が以外と都会からやって
くる客に受けているのだ。
﹁クィン、ショーコ、そろそろ行くぞ﹂
声をかけられて振り返ると、そこには夫婦で腕を組んでいるシン
ディーとロジャーが立っていた。
778
そして彼らの後ろには同じく腕を組んだブライドメイドとグルー
ムズメン3組の姿も見える。
どうやら翔子たちを待っていたようだ。
﹁あっ、もしかして待たせてた?﹂
﹁い∼や、こっちも全員が馬から降りるのを待ってたから、ショ
ーコは気にしなくても大丈夫よ﹂
﹁これからあっちに移動するけど、俺とシンディーで先導する。
クィンとショーコは俺たちの最後尾についてくれ。向こうに着いた
ら俺たちは止まって両脇に移動するから、俺たちの間を2人並んで
広場に移動してくれたらいいよ﹂
﹁そうそう、私たちでアーチを作るから、クィンにはちょっと屈
んでもらうけどね﹂
ふふっと笑いながら、シンディーが付け足す。
それから手をひらひらと振ってからロジャーとともに歩き出す。
そんな2人の後ろを同じように腕を組んだ3組のブライドメイド
とグルームズメンが付いて歩き出す。
翔子は呆れたという笑みを浮かべると、クィンを振り返った。
﹁どうやらこれも段取り通りって事なのかしら?﹂
﹁そうだな﹂
﹁私は何にも聞いてないんだけど、打ち合わせ済みだったのね﹂
﹁一応だけどな。俺は昨夜のバチェラー・パーティーの時に簡単
に聞いたんだ。だけどまさかショーコには全てサプライズになって
いるとは思いもしなかったよ﹂
クィンとしては簡単な式次第くらいは翔子も聞いているんだろう
と思っていたのだ。
﹁私は聞いたのよ。でもね、サプライズだからって、ちっとも教
えてくれなかったの。なんだかんだ言ってうまく誤魔化されちゃっ
たわ﹂
﹁でも準備はしたんだろ?﹂
﹁準備はね。でも部分的なものばっかりだったから、完成品が判
779
らない感じ? いろいろ想像はしていたんだけど、正直想像以上っ
てところね﹂
﹁でも悪いサプライズじゃなかっただろ?﹂ ﹁そうね・・・今のところはとても思い出に残るサプライズね﹂
シンディーと話し合って決めた式の基本部分は全て形になってい
る。
ただ、それ以上の部分が多くてびっくりしただけ。
先頭を歩くシンディーとロジャーが左右に分かれた。
そしてブライドメイドとグルームズメンたちも同じように左右に
分かれて立つ。
それを見ていた客たちも集まってきてその列に参加すると、静か
な拍手が送られた。
翔子がクィンを見上げると、彼は苦笑を浮かべて彼女を見下ろし
ている。
﹁まだまだ祝福は終わってなかったみたいだな﹂
﹁ふふふっ、そうね﹂
﹁じゃあ、行こうか﹂
﹁はい﹂
翔子がクィンの左腕に右手を添えると、クィンはゆっくりと列の
間を歩き出す。
おめでとうと言いながら列に並んでいる客たちは2人が自分たち
の前に来ると、手に持っていた1輪の花を差し出した。
花は全てバラの花だが、白や赤、ピンクに黄色と、様々な色のバ
ラが次々と翔子とクィンに差し出される。
クィンはそれを受け取ると翔子に手渡し、翔子は貰った花をクィ
ンと組んでいる手に移動させ、同じように自分が受け取った花もそ
780
の手でまとめて持つ。
そうして翔子とクィンは花を受け取りながら列の間を歩き、その
列が途切れる頃にはブーケができるほどの花が翔子の手に集まって
いた。
その花はこの花瓶に入れてね、と知らない女性に差し出された透
明なボール型の花瓶に入れると、彼女はそれを中央にあるテーブル
の真ん中に置いてから簡単に整える。
﹁ほらほら、今日の主役は真ん中に来て﹂
シンディーに背中を押され中央に向かうと、シャンパンの入った
グラスを手渡された。
見ると客たちもシャンパンを受け取っているところで、全員に行
き渡ったところでロジャーがパンパンと手を打って周囲の注目を集
める。
﹁みんな、グラスは受け取ったか?﹂
ロジャーが声をかけると、みんながシャンパンの入ったグラスを
掲げる。
中には、おう、と掛け声付きで掲げあげる人もいるほどだ。
真ん中に立っているのはクィンと翔子で、その周囲をぐるりと客
たちが取り囲む形で立っている。
﹁スピーチを始めてもいいか?﹂
﹁やめろよ∼﹂
﹁そうだそうだ﹂
カウボーイたちが野次を飛ばす。
彼らはロジャーたちの牧場で働いている人たちだから、おそらく
そういうシナリオなんだろう。
﹁やっぱ、今更スピーチなんかは新婚の2人は聞きたくないかな
?﹂
﹁当たり前だ﹂
﹁おっと本人もこう言っているところだ、でもまぁせめて俺たち
にもう1回くらいおめでとうと言わせてくれよ﹂
781
おどけるロジャーに笑いが起きる。
チアーズ
﹁それじゃあ、たった今結婚したばかりのクィンとショーコ、結
チアーズ
婚おめでとう。乾杯﹂
﹁﹁﹁﹁﹁﹁乾杯﹂﹂﹂﹂﹂﹂
ロジャーの乾杯の音頭に、あちこちでカチンとグラスが鳴る音が
響く。
クィンと翔子もお互いのグラスをカチンとぶつけた。
シンディーとロジャーがやってきて、2人のグラスに自分たちの
グラスをぶつけにきた。
﹁おめでとう﹂
﹁ありがとう﹂
シンディーとカチンとグラスをぶつけてからシャンパンを1口飲
む。
﹁もうこれ以上のサプライズはないわよね?﹂
﹁ふふふっっ﹂
﹁シンディー・・・﹂
あるともないとも言わないシンディーだが、おそらく尋ねても答
える事はしないだろうと想像がつく。
思わず小さなため息を零すと、シンディーは翔子の頰を突いた。
﹁ため息を吐くと幸せが逃げて行っちゃうわよ﹂
﹁誰のせいよ﹂
﹁誰のせいかしらね?﹂
﹁もうっ﹂
じろり、と睨む翔子にニッコリと微笑むシンディー。
この1週間の間、何度こんな遣り取りをしただろう。
そう思うとまた溜め息が出そうになるが、それでもこんな風に親
友と一緒に過ごす時間はそろそろ終わりが近づいている。
テキサスはカリフォルニアに住む翔子からは遠いのだから。
翔子はもう1度シンディーとグラスを合わせてから、残っていた
シャンパンを飲み干した。
782
783
Let's Tie The Knot! 7︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
784
Let's Tie The Knot! 8
そこから先は無礼講だった。
並べられた料理を楽しみ、シャンパンを飲む。
翔子たちの元にもたくさんの人がやってきてはお祝いの言葉を伝
えてくれる。
そうして30分ほど過ぎた頃、ようやくお祝いラッシュも収まり
ホッとひといき吐いているところに、ジュリアを伴った賢一がやっ
てきた。
﹁おめでとう、お2人さん﹂
﹁おめでとう、ショーコ、クィン﹂
﹁ありがとう﹂
男2人ががっしりと握手をしている横で、翔子はジュリアからハ
グを受け取る。
﹁ジュリア、疲れてない? 大丈夫?﹂
﹁もちろんよ。あのね、すっごく楽しいの﹂
ふふふっと笑うジュリアは本人の言う通り疲れているようには見
あいだじゅう
えなかったので、翔子はホッとする。
﹁あのね、結婚式の間中、ケンがずっとナレーションをしてくれ
てたの。だからすごく想像しやすくってね、本当に楽しかったわ﹂
﹁そう、それなら良かったわ﹂
﹁ほら、私たちの結婚式はとてもシンプルだったじゃない? だ
から、もし私がこんな結婚式がしたいって言うんだったら、すぐに
でも人を集めてするよ、なんて言い出したのよ﹂
﹁あら? その時はちゃんと招んでね﹂
﹁だ∼め。そもそもまた式なんてあげないわ。だからケンにも言
ったの﹃私はもう思い出いっぱいの素敵な結婚式をあげたんだから
結構よ﹄ってね﹂
785
﹁そうね、あなたたちの結婚式だって、すっごく素敵だったわ。
小さな教会の中はキャンドルライトだけで、揺れるキャンドルの灯
りがあなたのベールを揺れる光で照らして、あなたはとても神秘的
な花嫁だったわ。物凄く幻想的な結婚式だったわよ﹂
﹁でしょ? だから、もしケンが余計な事を言いに来たら、ちゃ
んと止めてね﹂
ジュリアの言う余計な事、とは結婚式の事だろう。
確かに賢一ならやりかねない、と翔子も同意する。
﹁頑張るわ。でもジュリアもしっかりボスの手綱を握っててね。
じゃないとすぐに暴走するわよ。ボスはあなたの事になると見境が
ないんだから﹂
あまあま
仕事に関しては冷徹で決して協を許さないと定評のある賢一だが、
ことジュリアの事になるとまるっきり別人の超がつくほどの甘甘男
に変身するのだ。
翔子としては初めて賢一とジュリアが一緒にいるところを見た時
の衝撃は今も記憶に残っている。 ﹁ショーコ、今は無理だろうけど、落ち着いたらまた遊びにきて
ね﹂
﹁もちろんよ。仕事の話だってあるんだから、1−2週間もした
ら連絡するわ﹂
﹁ふふふ、そうね。基金の話だってあるものね﹂
﹁そうよ。来月にはボード・メンバーとの初会合があるから、そ
の前に打ち合わせもしなくちゃいけないもの。その時はランチでも
しましょうね﹂
そんな風に2人くっついて話をしていると、ジュリアが賢一に引
っ張られた。
﹁きゃっ﹂
﹁そろそろ僕の奥さんを返してもらってもいいかな?﹂
﹁ケン﹂
急に引っ張られて驚いた声をあげたジュリアだが、相手が賢一だ
786
と判ると途端に嬉しそうな表情になる。
そんなジュリアに顔を寄せて、賢一が尋ねる。
﹁何を話してたのかな?﹂
﹁あなたの事よ、ケン。すっごい過保護だって話してたの﹂
﹁当たり前だろ? かわいい奥さんを過保護に甘やかす事のどこ
が悪いって言うんだい?﹂
器用に片方の眉をあげてジュリアに返事をする賢一は、甘い視線
をジュリアに落としている。
﹁でもね、あんまり甘やかすと手に追えなくなるかもしれないわ
よ?﹂
﹁いいよ、君のわがままだったらなんでも聞くよ﹂
﹁もうっ、ケンったら﹂
﹁だって僕は君の虜だからね。その代わり他の男にはわがままな
んて言っちゃだけだよ?﹂
﹁当たり前よ。ケンだから、わがままも言えるの﹂
﹁そう、それでいい﹂
くすくす笑いながら賢一の腕にそっと手を添えるジュリアを彼は
抱きしめて彼女の頭にキスを落とす。
目の前でいちゃいちゃし始めた2人を呆気にとられてみていると、
クィンが翔子の腰に腕を回した。
﹁クィン?﹂
﹁2人があんまり楽しそうに話をしてたから、ケンが焼いたんだ。
ま、ヤツはジュリアが何を話しているのか気になったからだ、って
言い訳してたけどな﹂
﹁ふふふ、そうね。ボスはジュリアに関しては丸っきりの別人に
なるものね﹂
﹁変わりすぎだ。俺なんか未だに慣れない﹂
珍ししクィンのぼやきに、翔子は思わず吹き出した。
﹁でもあの2人がいたから、私はあなたに会えたんだって思って、
慣れてあげてね﹂
787
これからもあの2人とは付き合い続けるのだから、という意味を
込めて言うと、クィンは不承ながらも頷いた。
キューピッド
﹁そうだな。その点に関しては感謝するべきなんだろうな﹂
﹁そうそう﹂
﹁でもケンが俺たちの恋の天使だとは思いたくない﹂
キューピッド
どこか憮然とした口調のクィンに、翔子はまた吹き出した。
キューピッド
﹁ボスが天使だったんじゃなくって、きっとジュリアが私たちの
天使なのよ﹂
﹁なるほど・・・それなら納得だ﹂
﹁もうっ﹂
軽くクィンの胸を叩いてみたもののそんな事はクィンには全く平
気なようで、むしろ彼の翔子を抱き寄せる腕に力が入った。
そんなクィンの胸にそっと寄り添うと、クィンの翔子を抱き寄せ
る腕も少しだけ緩む。
﹁あの時・・・あの時、私がボスの話を受けなかったら・・あの
時、あなたがあのパーティーに来ていなかったら・・・あの時ベン
チであなたと顔を合わせなかったら・・・そして病院で何度も顔を
合わせる事がなかったら・・・そんな偶然が重なってあなたとこう
なれたのは、本当に奇跡ね﹂
アンラッキー
﹁あのパーティーは無理矢理仕事だって言われて行かされたんだ。
ラッキー
あの時、自分はなんて不運なんだって面白くなかったんだが、今で
は本当にあの時の自分は幸運だったんだな、って思ってるよ﹂
口元に柔らかい笑みを浮かべて、クィンは翔子の頭にそっとキス
を落とす。
﹁愛してる﹂
﹁愛してるわ。私、あなたと結婚できて良かった﹂
﹁それは俺の方だよ。ショーコがうんと言ってくれて良かった。
じゃなかったら、無理矢理閉じ込めてたかもな﹂
それはないだろう、と翔子は思うが、それでもそう言ってくれる
だけでも嬉しいものだ。
788
﹁おや、信じてないな?﹂
﹁だって、クィンがそんな事するなんて、思えないもの﹂
﹁どうしてだ?﹂
﹁だって・・・﹂
あの時、引き止める事もせず行ってしまったではないか、と思っ
たからだ。
だが、あの時は状況が状況だった事もあるのだが。
﹁もしかして、あのパーティーの時の事を言ってるのか?﹂
﹁・・・﹂
﹁あの時、俺は本当にショーコに騙された、って思ったんだ。だ
から、自分の気持ちを曝け出す訳にはいかなかった﹂
﹁クィン・・・﹂
﹁だが、もしかしたらお前が本当に俺の事を愛してくれているの
かも、と思えたからサン・アントニオに行ったんだ﹂
そこからは覚えているだろう?
と揶揄うような口調のクィンの背中を軽く叩く。
﹁ショーコだって、言い訳すらしないままいなくなっただろう?﹂
﹁それは・・・﹂
﹁判ってる。ケンとの契約だったから弁解もできなかったって﹂
どうやらかなり細かいところまで賢一と話をしていたようだ、と
今更ながら翔子は気づく。
﹁だから、あの時追いかけなかった事は、それで相殺、って事に
してくれ﹂
﹁クィン・・・ごめんなさい﹂
﹁謝らなくていい。ほら、今日はめでたい俺たちの結婚式だぞ?
湿っぽい話は無しにしよう﹂
﹁・・ありがとう﹂
謝るな、というのであれば、翔子は自分を受け入れてくれた事に
礼をいいたかった。
﹁私を受け入れてくれて、ありがとう。私を愛してくれて、あり
789
がとう。愛莉を家族として受け入れてくれて、ありがとう。あなた
と出会えて事に、本当に感謝しているわ﹂
﹁ショーコ﹂
﹁愛してるわ、今までも・・・これからも﹂
﹁俺も。ショーコだけ愛してる﹂
涙を浮かべた顔をあげた翔子の唇に、そっと触れるだけのキスを
する。
唇に触れる温もりが、腕の中にいる翔子が本物だとクィンに伝え
てくる。
いろいろあったけれど、今2人はこうやって一緒に居られるのだ。
そしてこれから先、死が2人を別つまで、ずっとこうやって共に
いる。
その事がとてもクィンには嬉しかった。
790
Let's Tie The Knot! 8︵後書き︶
読んでくださって、ありがとうございました。
791
Let's Tie The Knot! 9 最終話
﹁はいはい、お2人さん。ラブラブなのは判ったから、そんなに
見せつけないでね。僕たちの事を忘れちゃったかな?﹂
﹁そっちが先にイチャつき始めたんだろ?﹂
﹁いや∼、だってさ、素敵な結婚式だっただろ? あてられちゃ
ったんだよ﹂
悪びれずに答える賢一はジュリアを、クィンは翔子をぐっと抱き
寄せる。
そんな2人に抱き寄せられた翔子とジュリアは笑っている。
﹁このパーティーで君たちの結婚式イベントは終わりになるのか
な?﹂
﹁多分な。ロジャーが昨夜話してくれたのはここまでだったよ。
けどショーコの親友夫妻は悪乗りが好きそうだから、なんとも言え
ないぞ﹂
﹁そっか・・・でもまぁ、あと1時間もしたら僕たちは予定通り
出発しなくちゃいけないんだけどね﹂
﹁そういや、夕方の便でロスに帰るんだったな﹂
﹁うん、僕の仕事があるからね﹂
月曜日にかなり大きな商談が入っていて、日曜日はその準備と打
ち合わせをする事になっているのだ。
﹁そういえばグェンとサムも2人と一緒にヒューストンに移動す
るって言ってたけど良かったの?﹂
﹁もちろん。ジュリアが楽しそうに話してくれたよ﹂
昨夜、牧場のカウボーイたちの1人にグェンとサマンサが観光を
したいからカリフォルニアに帰る前日、つまり今日ヒューストンま
で送るように頼んでいると話したところ、ジュリアが一緒に行こう
と誘ってくれたのだ。
792
﹁ショーコ、グェンとサマンサが向こうに戻ったらまた会いまし
ょう、って言ってくれたの。それにここで知り合った人たちも、ま
たいつでも遊びにおいで、って言ってくれたのよ。ショーコの友達
はみんなとてもいい人たちなのね﹂
﹁ありがとう。みんな私の自慢の大切な人たちなの。そう言って
もらえると嬉しいわ﹂
﹁あのね、グェンとサマンサは自分たちと一緒だったら外でラン
チもできるでしょ、って言ってくれたの。だからその時はショーコ
も一緒に来てくれる?﹂
﹁もちろん。私だけのけ者なんて許せないもの﹂
2人でふふっと笑っていると、賢一がジュリアを抱きしめた。
﹁遊びに行くのはいいけど、僕の事は忘れないでくれよ?﹂
﹁ケンったら。私が大切な旦那様の事を忘れる訳ないじゃない。
ケンだって時間のある時は私と一緒に出かけてくれるでしょ?﹂
﹁当たり前だよ。たまにはランチにでも行こうか? それで帰り
にピンク・エレファントに寄ってもいいね﹂
﹁いいわね。私も暫く行ってなかったから、嬉しいわ﹂
﹁僕と君の思い出の場所だからね﹂
賢一はジュリアをの左手を取ると、結婚指輪がはまっている指に
そっとキスをする。
ジュリアが高校2年の時に働いていたカフェがピンク・エレファ
ントは、当時近所に住んでいた賢一がコーヒーを買いに通っていた
店。
その縁でジュリアと顔見知りになり、彼女の人となりを知るうち
に自分のものにすると決めたのだ。
﹁毎週は無理でも月に1回くらいは2人で行こうか﹂
﹁そうね。でもねそのために無理はしないでね﹂
お互い抱き合って触れるだけのキスをしている2人を見ていると、
クィンが翔子を抱き寄せた。
﹁ク、クィン?﹂
793
﹁見せつけられるばかりじゃつまらないからな。俺たちもみせつ
けよう﹂
﹁・・・ばか﹂
自分を抱き締めるクィンの理由があまりにも子供っぽくて、翔子
は思わず笑う。
それでもその気持ちは嬉しいから彼の背中に手を回して抱きしめ
返す。
﹁はいは∼い! そこでいちゃついてる新婚カップル2組さ∼ん
! 現実に戻って私たちの相手もしてくださいね∼∼!﹂
﹁いちゃいちゃラブラブはパーティーのあとで2人きりになって
からの方が、邪魔が入らなくていろいろできていいぞ∼∼!﹂
不意に揶揄うような声がして、顔を上げるとニヤニヤ笑いを浮か
べるロジャーと大げさに手を振っているシンディーがいる。
そしてそんな2人の大きな声に振り返った興味津々な客たちの視
線を受けて、翔子とクィンは思わず顔をしかめる。
﹁シンディー・・・・﹂
﹁ロジャー、お前も﹂
翔子とクィンが2人の名前を呼ぶと、2人は悪びれる様子も見せ
ずに翔子たちのところにやってきた。
﹁いっやぁ∼、あんまりいちゃいちゃしてるんで、どうしようか
∼って思ったよ。だって、声かけにくいだろ?﹂
﹁ほざけ、あれだけデカい声出しておいて何言ってんだ﹂
﹁いやいや、それはさ、シンディーだろ? 俺は2人が振り返る
のを待つつもりだったんだぞ?﹂
﹁あら、私のせいかしら? でもねぇ、せっかくお祝いに集まっ
てくれたお客様たちを放置しちゃダメじゃない?﹂
いかにもちゃんとした理由があったと言わんばかりに胸を張って
いるシンディーだが、本音はわざと邪魔をしたといったところだろ
う。
現にシンディーもロジャーも面白そうに目が笑っている。
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クィンはそんな2人に慣れてきたのか、わざとらしく大きな溜め
息を吐いてから顎を動かした。
﹁それで?﹂
﹁それでって?﹂
﹁用があったから声をかけてきたんだろ?﹂
無邪気を装って聞き返すロジャーに、一瞬殺意を覚えたクィンだ
ったが、隣の翔子の腰を抱く腕に力を込めて我慢する。
﹁用なんかあったか、シンディー?﹂
﹁ダンスよ、ダンスっ!﹂
﹁おっ? そうそう、ダンスの時間だから呼びに来たんだ﹂
﹁新婚さんにファースト・ダンスを踊ってもらわないと、他のお
客様たちが踊れないじゃない?﹂
そうなのか? と問うようなクィンの視線に翔子は軽く肩をすく
めてから小さく頭を横に振り、知らないことを告げる。
そういう話も聞いた事はあるが、それだけだ。
何度か知り合いや友人の結婚披露パーティーに出席した事はある
けれど、ダンスを踊るようなパーティーには出た事がなかった。
﹁ショーコ走らないみたいだぞ? それに普通、ファースト・ダ
ンスっていうのは嫁に行く娘とその父親が踊るもんじゃないのか?﹂
結婚して家をでる娘との最後のふれあいの時、という事でダンス
をする筈だとクィンは記憶している。
﹁おっ? じゃあ、父親役の俺がショーコとファースト・ダンス
を−−いてっっ﹂
﹁寝ぼけた事を言ってるみたいね、ロジャー﹂
﹁す、すまん﹂
後ろからシンディーに頭を叩かれたロジャーは素直に謝る。
そんな彼を一瞥してから、シンディーがにこやかな笑みを浮かべ
る。
﹁うちの牧場では新郎新婦がファースト・ダンスを踊るのが伝統
なのよ。そのあとでみんなでカントリー・ソングに合わせてスクエ
795
ア・ダンスを踊るの﹂
えっへん、と胸を春シンディーだが、どう考えても伝統ではなく
てでっち上げの間違いだろうと翔子は思う。
﹁と・に・か・く、そういう事だから、2人ともきなさい﹂
﹁シッ、シンディー﹂
これ以上の説明は時間の無駄とばかりに、シンディーは手を伸ば
してきたかと思うと翔子の腕を掴んで歩き出した。
﹁ちょっ、ちょっと待ってってば﹂
﹁いいからいいから﹂
聞く耳を持たないシンディーに引き摺られるようになりながら付
いて行く翔子をクィンが時々ドレスに足を取られそうになる翔子を
助けながら付いて行く。
そしてその後ろからロジャーに先導された賢一とジュリアも付い
てくる。
そうしてシンディーに連れられるまま、いつの間にかテーブルが
隅に片付けられている広場の中央に立たさえる。
ロジャーがやってきたのを振り返ると、賢一とジュリアも翔子た
ちの隣に立たされている。
﹁シンディー・・・?﹂
﹁ジュリアたちも新婚さんだって聞いてるわ。いいでしょ?﹂
﹁も、もちろん﹂
そんなのいいに決まってる。
﹁えっ? で、でも・・私たちは・・・﹂
﹁いいからいいから、ショーコがいいって言ったんだからいいに
決まってるの﹂
ジュリアにもファースト・ダンスを楽しんでもらえたら、と思っ
ていた翔子は即座に頷いたが、肝心のジュリアが戸惑いがちに聞い
てくる。
それをあっさりといなしてシンディーはきっぱりと構わないと告
げる。
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﹁ジュリア、いいのよ。シンディーが言ったでしょ、新婚カップ
ルのファースト・ダンスだ、ってね﹂
﹁でも・・・﹂
﹁ジュリア、そんなに心配しなくてもいいんだよ。それにシンデ
ィーやショーコのいう通り、僕たちだって新婚だからね。ありがた
くみんなの好意をうけいれようか﹂
﹁ケン・・そうね。シンディー、ショーコ、ありがとう﹂
少しためらいはしたものの、自分の事まで気遣ってくれる気持ち
が迷惑な筈がない。
ジュリアは見えない目で周囲を見回してから頷いた。
そんなジュリアの手をとってもう片方の手を腰に回す。
クィンもそれに倣って翔子を抱き寄せた。
少しスローなテンポの曲が流れ始めるが、それはダンスというと
思い浮かぶようなクラシックではなくて、翔子でも知っているよう
なポピュラーなカントリー・ソングだった。
﹁ここまできて、予想は外すんだな﹂
﹁ふふふっ、そうね。奇想天外な発想はあの2人ならでは、って
ところね﹂
クィンのリードにあわせてゆったりと体を動かす翔子は、そのま
ま彼の肩に頭をのせる。
レセプション
﹁まさか、結婚して初めてのダンスがカントリー・ソングだとは
夢にも思わなかったわ﹂
﹁そうだな、俺もショーコと踊るのはロスでする披露宴だとばか
り思ってたよ﹂
﹁クィン・・・嫌じゃなかった?﹂
﹁ん? なにがだ?﹂
不意に翔子は顔をあげてクィンを見上げて尋ねる。
その声はとても小さくて、クィンは彼女に顔を近づける。
ほんの数センチのところにあるクィンを見ながら、翔子は言葉を
続けた。
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﹁こんな奇想天外な結婚式、嫌じゃなかった?﹂
﹁ショーコは嫌だったのか?﹂
﹁う、ううん、私はすっごく楽しかったから。でもクィンはこん
な結婚式、想像もしてなかったでしょ?﹂
﹁そうだな・・・というか、誰がこんな結婚式を想像できるんだ
?﹂
﹁それもそうなんだけど・・・﹂
翔子としては思いもよらないような奇想天外な結婚式に驚きはし
たものの、嫌ではないのだ。
大切な親友が一生懸命考えて準備してくれたのだから。
けれど、クィンにとってはどうだったのだろう、と心配になった
のだ。
﹁想像もしていないような結婚式なら、一生のいい思い出になる
と思わないか?﹂
﹁うん﹂
﹁俺はショーコと結婚できればそれで良かったんだよ。それでそ
の結果がこれなら、俺も満足だよ。ショーコが楽しそうで、それを
見ているだけで俺も楽しい気分になれた。きてくれた客のほとんど
を俺たちは知らないけど、それでもそのみんなが楽しそうな笑みを
浮かべて俺たちを祝福してくれた。なんていうか、これが本当の意
味でも結婚式、って気がするよ﹂
知らない人からも祝われて、みんなが笑顔を浮かべている。
そう言われて翔子が周囲を見回すと、クィンの言う通りみんなが
笑みを浮かべている。
それを見ているだけで、こちらも更に笑みが浮かぶ。
﹁そうね、変な事を聞いたわ。ごめんなさい﹂
﹁いいさ。奇想天外すぎて、心配になったんだろ?﹂
チュッと音を立ててクィンが翔子の額にキスをすると、2組の新
婚カップルを囲んでいる客から歓声が上がった。
﹁これから、ずっと一緒ね﹂
798
﹁ああ、離さないならな、覚悟しておけよ﹂
﹁ふふっ、私も離れないから覚悟していてね﹂
こういう覚悟なら大歓迎さ、と翔子の耳に呟いてからクィンは翔
子の唇に自分の唇を重ねたのだった。
799
Let's Tie The Knot! 9 最終話︵後書き
︶
読んでくださって、ありがとうございました。
これで今回のリクエスト小話は終わります。
もう1−2つリクエストはあるんですが、そちらはさっぱりネタ
が・・・なので思いついたら書きたいなぁと思っています。
お付き合いいただけて、本当にうれしかったです。
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PDF小説ネット発足にあたって
http://novel18.syosetu.com/n6660dg/
想いは秘めたままで
2017年3月13日18時35分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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