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西田 良枝
西田 1 良枝 さんのお話 「刷り込まれていたことへの気づき」 みなさん こんにちは 浦安から来ました西田と申します。肩書きはパーソナル アシスタンスともとなっておりまして、社会福祉法人、地域生活を支える社会福祉 法人をやっておりますけれども、今日は重度な障害をもつ子どもの母親として今ま で体験したことを少し発表させて頂こうと思っております。今の家の娘はですね1 8歳の、寝かせておけば寝たっきりの これは3年前くらいの写真で今もこんな状 態で、起こしておけば起きられる、座れるという状態なんですけども、ことばでコ ミュニケーション取れませんし、昨年は夏には胃瘻を造設して口から食べることが あまりできなくなってしまったりとか、もともと脳障害ですので、そういう状況で す。でも彼女が生まれてからいろいろなことを体験しつつ、ずうっと通常学級で皆 と共にやってきました。でまず最初のことなんですけど、多分私の話はとても情緒 的な これだけの環境で今まで来たというだけの話です。ただ、そこの後ろ支えを してくれた法律ですとか 私の根元である怒りの源の法律であの学校教育法ですと かそういうものに支えられていままで来ました。 でもともと、私はすっかり忘れてたんですけれども、障害のある子どもと小学校 の時に、知り合ったことがあります。それは私の同級生のお友だちのお姉さんが多 分脳性麻痺でした。すごい首をかしげて、おかしな歩き方だなというふうに思って たんですけど、放課後は一緒に遊ぶんだけれども、気がつくと学校にはそのお姉さ ん居なかったんですね。それを私、江里が生まれてつい 10 年位まで、そういう体験 したこと忘れていました。記憶の中になくなっちゃってたんですね。ある時、ふと 思い出したんですね。やはり、そこは体験と なんか子どもごころになんでお姉さ んと一緒に遊んでいるのに同じ学校に居ないんだろうって思った体験とそれから娘 が生まれて来た時に考えたことが一緒だったと思います。 娘が障害があるとわか ったのは生後 7 ヶ月くらいだったんですけれども、その時はまあ普通ですよね、悲 しいし何とかしなくっちゃていうふうに思っていました。で一番最初に思ったのは はじめての子だったので、まあ、初めてで最後の子なんですけど、一人っ子なので、 えーとまあ、本当にそこで宇宙人を授かってしまったんじゃないかという風に思っ てしまいました。知らない生き物をどうやって私が育てていったらいいんだろう、 障害児というのは何なんだろうというふうに思いました。で、障害児専門の病院に 当然行くわけですけど、その時、私はスリッパを触ることもできなかったし、娘を ベッドに降ろすときには、自分が持って行ったバスタオルに降ろさないと降ろせな いみたい、何かあの障害者に対しての特別感を持っていたんだと思います。で ま あそうは言ってもこの写真を見ていただいてもわかるように、障害があるといわれ た後もこんな感じでいるんですね。そうすると私が思っていた障害児の姿と自分が ほんとにかけがえのないなと思って自分が生んだ娘というのがまったく結びつかな くて、気がつくと ああ私は社会像として、障害者は隔離されるものとか一緒に学 校に行けない人とか可愛そうなウラ街道を歩く人とかそういうようなイメージを刷 り込まれていただけで、このように普通の、私にとっては普通の赤ちゃんなんだな ということをこの時に強く認識しました。ですけど、やはりリハビリをしなきゃ、 やっぱり健常者になって欲しかったのでリハビリを一生懸命していくわけですが、 ある時ふと思ったんですね、このまんまこの人動けないししゃべれないので、私が ずうーっと抱え込んでいれば外に自分から出て行くことできないんです。つまり、 友達を作りたくとも友達はできないし、ほんとに昔で言う座敷牢になってしまうん じゃないかなと思って、先程言った私が考えていた障害者像と単なるひとりの子ど もという所と座敷牢というところが妙に結びついてしまって、普通に子どもを育て ていこうという風に考えました。 2 「江里にとって 全国で一番のところって?」 で、多分これがこの後、ここに書いてある意味もあると思うんですが、発達保障 をどうするかということ、どこで育てるか、場所をどこにするかという二つの矛盾 を一致させて行きたいなあという風に思いました。でも、幼稚園に入る前に、私は 養護学校、その当時特別支援学校ではなく養護学校だったんですけれど、養護学校 や、通園施設(北療育医療センター)に通っていたんですけれども、全国で一番い い教育を受けさせてくれる機関を探そうということで東京、千葉いろいろと行きま した。で多分あの江里という娘の状態だったらこの学校がいいんじゃないかと言う 所、三、四箇所当ったんです けれども、その時見た光景というのは今でも、忘れられないですね。なぜかと言 うと、その学校は個別に併せた支援をしますので、障害種別にその子に併せたカリ キュラムをしますということで、クラスが幾つにも分かれていて、まあ例えば江里 のような子だったら寝たきりの子が三人、その隣のクラスはちょっと寝返りを打て て、坐位を保てるような子が四人、その次が車椅子で移動できる子が三人、それか ら杖を使えば歩ける子が五人、それからたった一人車椅子で黒板に向かって教科書 などで勉強している子が一人、そういうクラスを見ました。 そうすると家の娘だったら、この一番、寝たきりのクラスに 音楽、水分補給、 リラックス、給食、リラックス、ほかに体育かなんか、そんな12年間をずっと過 ごすのだと思ったら、なんかどうしても居ても立っても居られなくなり、すごく不 自然だなっていうふうに思いました。それで違う道を探そうと思いました。 3 「体験、出会いを 奪ってはいけない!」 それからもうひとつは、その頃、就学後の人生がどうなるかということを知りた くて、障害者の入所施設や通所施設を見て回りました。 その時に、それも、印象 的だったのが自閉症の男の子が個室に入っていて、新聞紙とか紙をぱらぱらーぱら ぱらーとその部屋でちぎっては投げちぎっては投げしてあって、その部屋には柱が あるんですけどそこにクッションがぐるぐる巻きに巻いてあったんですね。 担当 の方に聞くとこの人はお食事もこの部屋で差し入れをして一人で食べさせると。で、 ぐるぐる巻きの柱は、頭を打ち付けてしまうので打ち付けてもいいようにああいう 風になっていますと。で、この暮らしをずーっと続けますと聞いた時に、本当にそ れが人としての暮らしなのかなっていうこと。それから個別支援ていうかその人に 合わせた教育や 生活の支援の最終結果がこうなのかと思った時に、私にはいろん な友達が居たり、いろんな人と出会って今の自分の人生があると思っていましたの で、あのほんとにわが子、いくら障害があっても普通の命を授かった子どもとして は、豊かな人生を送って欲しいと思えば、いろんな体験やいろんな人と出会い 奪 ってはいけないんじゃないかというふうに思いました。 で、ちょっといろいろはしょり過ぎてはいますが、そんなこんなで幼稚園に入っ て介助をつけて頂きました。これは単純に普通の小学校に入るために幼稚園に入っ たようなもので ここは私の 余裕なかったんですけど でも実際この二年間は子 どもたちがもともと人を差別するものとして生まれてはいないとか、多様性をとて も受け入れられる、人はそういう風に出来ているんだなとかそういうことを教えら れた二年間でした。 4 「触れ合いの中で、できる仲間」 − とても、大切な学籍 − で、この写真私はすごく好きなんですけど、いま、小学校二年生の時にこういう 写真、こういうクラスづくり、この写真にあるような障害ある子もない子もほんと に幸せに学べる将来的な姿があるんですが、じゃあ、今の社会がこういう風になっ ていますかというと全く全然そういう風になって居ないわけで、本当に日本の社会 がどんな教育にビジョンを持って、先ほどから共生社会の話しがありますけれども、 障害のある人とない人共に生きられる社会につなげた教育というところにまで落と し込まれているのかなというのが本当にいささか疑問があります。 で、私がこのように彼女を普通の学校にこだわったのは、ひとつは先程、曽根さ んの話しにもあったかと思いますけど、遠くに居る人のことを自分のことのように は思えないですね、やっぱり一緒に遊んだり、じゃれあったり、ほんとに肩を並べ て、机を共にしたり、そういうこう触れ合う中でしか自分ごとに思えないんじゃな いかというふうに思いました。ですから すごく学籍はとても大事で、たとえ仮に 100%、たとえば給食と体育と音楽しか同じクラスで授業、受けられなかったと しても、通常学級一年一組の西田江里ちゃんということを、に、こだわりがあると いう風にずっと思って来ました。こちらにいらっしゃる皆さんはいろんな障害のあ る人たちが通常学級で学んでいる姿ご存知だと思いますので、たいした珍しい風景 ではありませんけれども、放課後から学校の授業まで、それから行事とかですね、 すべてみんなと同じようにやってきました。 5 「誰が決めるの? 子どもの幸せ」 いくつか途中で私の中ですごく腹立たしいことはたくさんありました。まず、教 育委員会の通常学級に入る時に、当然私の就学指導委員会は受けませんでした。就 健を受けないということで、就学指導委員会にかからないで通常学級の席を手にし たんですけれども。その時に何度も何度も呼ばれて話しました。教育委員会の人た ち呼ばれた時にキーワードがありました。子どもの幸せというキーワードです。教 育委員会の人たちの言う子どもの幸せと 私が言う、私たち夫婦が考える子どもの 幸せっていうものがどうしても一致しないんですね。 で、その、じゃあ、子ども の幸せってのは誰が決めるんですか、それから何が幸せなんですかということを、 それって、どっちかっていうと価値観というか、それぞれの考え方なので、その決 定権がどこにあるのかということが、その時には明確になっておらず、それが基本 的に、教育委員会に決定権があるんだとその時代には、言われておりましたけれど も、最後まで教育委員会の人たちと議論して、最後の議論はですね、あの5人目位 に課長にあった時だったと思うんですけれども、課長にはお子さんいますか、お子 さんの進学とか教育に悩んだ時誰に相談しますか、その後、決定をするのは誰です かって言った時、課長は、親類や女房と相談しますと。で最終的に自分の子どもの ことですから、私たち親が決めますっていう風におっしゃって、私たち障害児には それが許されないんでしょうかって話しをしたところ、そうですねって、言って、 ま、入っていいですよっていうこともありました。 6 「障害ある子以外の教育を 完全にするための法律って」 そういう時に、私が、いろいろその頃は子どもの権利条約が批准されていたりと かサラマンカ宣言があったりとか、そういうことでそういう文言をノートから引っ 張り出してきて教育委員会の人と話しをしたことがあります。でも、何でこんなに 教育委員会の人たちがわからないのかなあという風に考えた時に、これはちょっと あの後で誰か、どなたかに教えて頂きたいんですけども、実は昭和 36 年、1961 年に特別教育の使命ということを、当時の文部省が文書で全市町村の教育委員会に 通達したそうです。それはその当時50人学級だったんだけれども、結局は書いて あることは、特別な障害児以外の健康な子どもたちの教育を完全にするために、そ の人たちに特別学級に分かれて貰うというようなことがはっきりと明言されていて、 私はそれを ま、きっとこの、二年生の頃に読んだんだと思うんですけれども、こ ういうことが脈々と続いていて、法律として、施行令とか規則とかもそうですけど も、変わっていかない限り常に常に通常学級に入っていても例外的な子どもであり、 本来ここに居るべきではないっていうことの、否定的なまなざしの中に居なきゃい けないのかなあというふうにとても苦しい思いをしたことを思い出します。 同じ頃に、やはり、学校教育法全部読んでみたんですけれども、 「故障」というこ とばを障害のある子どもに使っていて、今でも忘れませんが、家の娘は「故障」者 なんだ。おもちゃがこわれているみたいに「故障」してるんだって、これで完全な 人間であるにもかかわらず、 「故障」って言う風に日本の法律ではこの人たちを位置 づけて居るんだなっていう、なんか深い怒りを、悲しみをもってここまでやって来 た訳です。 ちょっと学校の中のことを伝えますと、この後ろのピンクのベッドとかは、ずう っと娘が車椅子で座ってばかりは居られないのであのベッドを用意してここで寝な がら授業が受けられたり、こうやって立ってトレーニングしながら皆と授業が受け られたりということをしてきました。それから運動会にも例えば、同じ100メー トル走るんでも、家の娘はゴールの手前1メートルから皆と同じヨーイドンで走っ て皆と同じテープを切るというようなことをしてきました。それから中学校でもそ のまま通常学級へ行きましたし、就学旅行とか林間学校とかそれも全て行きました。 卒業して、高校は体調が悪くなってここからてんかんの発作が起こり夜間の無呼 吸が起こり、食べ物も食べられなくなりというちょうど過渡期でもあり、それから 今までは義務教育で、介助員が配置されて、バリアフリーにも全部改修して頂いて、 障害児の規則という施策もできて親と保護者の希望する学校に入れるというような 制度を作って頂いていたので何とかここまで来れたんですけども、高校の体調の悪 さと相まって、高等部と養護学校の高等部と友だちが立ち上げてくれた地元のフリ ースクールに併用して行く事になりました。結果として養護学校への通学は本人が 拒絶したので訪問学級に学んだんですけれども。 高校 3 年間は、彼女自身の目標を、高校を卒業するまでに47都道府県を旅する ことと決めて、フリースクールに通いながら、全国制覇を達成しました。 7 「いろんな人の中に 居たからこそ、保てた尊厳」 じゃあ、何がメリットで何がデメリットかと言うと、今は社会福祉法人の職員と して働いているんですけども、12年間私にとっての彼女の通常学級での学びとい うのはいろんな事を諦めないで済むということの結論を貰えたなということだと思 っています。 諦めないというのはですね、どうせ寝たっきりだからどこにも行けないだろうと か、どうせわからないんだから、たとえばオムツしたまんま歩かせてもいいだろう とか、そういうことは全くなく、通常の人ができる同じプロセスを量は少ないけれ ども、体験することができ、たとえば、車椅子の人たちだけ、養護学校の先生が言 っていたことばなんですが、平気でオムツを車椅子の上にその子の膝の上に置いて トイレに行ったりするんだそうです。相手は全然わからないから、みんなわからな いから、わからない。 でも交流学級の高校生が来た時に、私たちは自分の下着を持ってトイレには行き ませんよねと健常の高校生に指摘されて恥ずかしい思いをしたと先生から話しを聞 きました。だから、そうやって、一人の人間として尊厳をもっている存在なんだと いうことを、感じながら、居続けられたの、は、いろんな人の中に居たからこそだ と思っています。 時間が超過してしまってスミマセン、 、 、 、 、 。