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rbk027-06
牧人、職人、「アメリカ人」 ―出稼ぎがもたらしたギリシャ山村の繁栄と衰退― 内 山 明 子 はじめに (1) 1980年代の後半に調査 を行ったギリシャの山村カロニ村は、早くから 男性たちの多くが石工を中心とする職人として各地で働いてきた、いわゆ (2) る職人村の一つであった。調査に入る前、村を紹介してくれたカロニ人 たちからこのことを聞いた私は、「職人村」という言葉に強く惹かれ、農 業や牧畜の村々とは異なる職人村ならではの特徴を求めてしまった。そし て、カロニ人たち、とりわけ教師や医師をしていた高学歴のカロニ人たち が、「外の世界と早くから接していたため人々は開明的で進歩的、都会風 の暮らしがあった」と自分たちの村を語ることに対して、それを早くから 遠方に出稼ぎに出ていた職人村ならではの特徴と受け取ったのだった。調 査が進むにつれ、村がもっともこの特徴を帯びたのは、アメリカ合衆国へ の出稼ぎ者がもたらした豊富な現金で村が最も繁栄した20世紀前半、とり わけ1920年代から30年代前半を中心とする50年ほどの間だったということ がわかってきても、アメリカへの出稼ぎで成功した者たちの多くが元職人 たちであったため、特に気にすることもなくカロニ村の繁栄を職人村の名 のもとで捉え続けてきたのだった。 このたび、当時のフィールドノートや職人村に関する資料を読み直して みて、カロニ村の繁栄のあり方が、代表的とされる職人村の繁栄のあり方 とずれていることに、もう少し丁寧に向き合う必要があることに改めて気 駒沢大学『文化』第27号 平成21年3月(35)130 づかされた。本稿では、この反省をもとに、カロニ村の発展経緯や繁栄の あり方を再検討し、周辺の代表的な職人村のケースと比較しながら、先進 性や都会風な暮らしといったカロニ村の特徴とされるものが具体的に何を さし、人々によってどう受け取られてきたのか紹介していきたい。 (3) 調査地周辺の地理と歴史概略 バルカン半島を背骨のように南北に貫く山脈の南端、すなわちピンドス 山脈がつくる険しい山岳地帯で占められるイピロス州と西マケドニア州か らなるギリシャ北西部は、北側がアルバニアや旧ユーゴスラヴィア・マケ ドニア共和国との間の長い国境線でふさがれ、ギリシャの中心都市である アテネやテッサロニキとの間も険しい山々で隔たれており、ギリシャ有数 の過疎地帯となっている。しかし、もともとこの地は、国民国家ごとに分 断されるまで、小アジアとヨーロッパを結ぶ主要街道が何本も走る交通の 要所という地位を占め、古来、様々な言語や宗教をもった人々が行き交い 住みついてきた場所であった。 14世紀後半にオスマン帝国によって征服されて以降、狭いが肥沃な平地 はしだいにイスラム教徒の大土地所有者の支配下におかれ、時と共にそこ で小作人として暮らすキリスト教徒(以下ギリシャ正教徒の意味で用いる) たちの間でイスラム教への改宗が進行した。一方、大部分を占める不毛な 山間部にはキリスト教徒の村々が集中した。言語の分布をみると、全体と してギリシャ語が優勢であったものの、北部を中心にアルバニア語やスラ ヴ語が広く話され、また、標高の高いところにはルーマニア系の言語を話 すキリスト教徒でヴラヒと呼ばれる人々も暮らしてきた。1821年にいち早 くオスマン帝国からの独立を宣言したギリシャ南部に比べると、この地域 は住民構成がより複雑で近代的な民族意識の形成もあいまいであり、ギリ シャをはじめとする周辺諸国が領土拡大の食指を伸ばす中、1912年までオ スマン帝国の支配下に置かれていた。 129(36) ギリシャ領に編入されて以降、少数言語を話す人々にはギリシャ民族へ の同化が積極的に推し進められる一方、イスラム教徒たちはトルコに暮ら してきたキリスト教徒たちと強制的に交換されたため姿を消した。今日、 ギリシャは少数民族の存在を公的には認めておらず、ヴラヒとの間には緊 張関係はほとんどないが、国境地帯に集中するアルバニア系やスラヴ系の 言語を話す人々は、ギリシャ政府から常に疑惑の目を向けられてきた。ま た、イスラム教徒との交換でトルコからやって来たキリスト教徒たちは、 当初トルコ語しか話せない者が多く、習慣も元々いた人々とは異なり、今 日でも同じギリシャ民族とみなされる一方で「小アジア人」や「難民」な どと呼ばれ区別されている。なお調査地のカロニ村は周辺の村々同様、オ スマン帝国時代からギリシャ語を話すキリスト教徒が暮らしてきた山間部 (4) に位置する村である 。 さて、キリスト教徒が住んでいた山間部は、人口が希薄だった時代には 自給自足的な農業と牧畜に頼る生活を送ってきたが、経済の発展とともに、 交通の要所という地の利を生かして大規模な隊商を組んで各地を結ぶ運搬 業者や交易商人として活躍する者たちが大勢出現し始める。とりわけ、18 世紀後半から19世紀にかけては、ヨーロッパと交易を行う商人たちがこの 地から大勢誕生し、彼らの出身地を中心に新興中産階級が形成されていっ た。彼らの中にはギリシャ語以外の言語を母語とする者たちも少なくなか ったが、ヨーロッパとの接触を通して古代ギリシャ人の末裔としてのギリ シャ民族意識を形成し、オスマン帝国に民族主義をもたらすとともにギリ シャ独立に多大な貢献を果たしている。 山間部の人口は経済発展にともなう増加に加え、圧政から逃れたり故郷 を追われたりした人々の避難先にもなったため、時代を追うごとに増加し 始めていった。とりわけ18世紀末から19世紀はじめにかけてこのあたりを 支配したアリ・パシャ(1744-1822)はキリスト教徒の村や町を大規模に破 壊したため、避難先となった山間部の人口はますます増大していった。人 牧人、職人、「アメリカ人」―出稼ぎがもたらしたギリシャ山村の繁栄と衰退―(37)128 口の増加に対処するため新たな生業が必要となったが、そこで大きな役割 を果たしたのが、様々な特殊技術である。村ごとに得意とする特殊技術が あり、その内容は仕立屋や鋳掛屋、金銀細工師、民間医師など多岐に渡っ ていたが、もっとも多かったのは建築関連の技であった。その中には、床 や天井、建具などを扱う木工から、壁画などを描く絵師やステンドグラス 職人まで多様な職種が揃っていたが、中心を占めたのは建物本体を造る石 工である。ギリシャでは職人村というと、石工をはじめとする建築職人を (5) 多く出す村をさしてきた 。 職人村はギリシャの他地域にも分布するが、もっとも数が多く、かつ腕 の良い職人を輩出してきたことで知られるのが、ここで扱うピンドス山脈 一帯である。調査地はこのうち西マケドニア州の職人村の中心地である、 かつてアナセリツァと呼ばれた地域の南端に位置している。次にアナセリ ツァ地域の代表的な職人村の一つで比較的まとまった資料があるディロフ (6) ォ村を中心に、コンスタンチノプル で働いていた職人がリードして発展 した職人村の姿を紹介しておく。 127(38) 調査地周辺地図 斜線部は職人村が集中している場所 牧人、職人、「アメリカ人」―出稼ぎがもたらしたギリシャ山村の繁栄と衰退―(39)126 代表的な職人村の発展経緯 ディロフォ村は、アナセリツァ地域の職人村の中心であるペンダロフォ ス村とカロニ村の間にあり、カロニ村との間には婚姻関係も結ばれてきた。 この村の主要生業は牧畜と石工中心の職人たちによる出稼ぎで、牧畜のほ うは18世紀末ごろから大規模化し、7000頭もの家畜を所有する地域でも有 数の大規模経営者も誕生している。その後、規模は縮小していくが、19世 紀半ばまでは3000頭からの家畜を所有する者をはじめ大規模経営者たちが 村で最も裕福な層を形成していた。一方、石工や木工の技術は、18世紀半 ばに村にやってきた人々がもたらし、それ以降、村の大多数の男性の生計 手段となった。彼らは冬を村で過ごし、それ以外の季節はテッサリアやル ーメリ中心に仕事をしてきたが、18世紀末にはルーマニア、ブルガリア、 コンスタンチノプルといった遠方に数年滞在しては戻ってくるという働き 方をする者たちも増えていった。とりわけコンスタンチノプルは常に仕事 があり最も賃金相場が高かったため、多くの石工たちを引き寄せ、19世紀 末には村の人口の約4分の1にあたる80∼100人ほどの石工がそこで働いて いたという。コンスタンチノプルで働く石工たちとその家族は、ポリテス (文字通りには「町の人」)すなわち「コンスタンチノプル人」と呼ばれ、 19世紀後半から1920年代まで牧畜経営者に替わって村で最も裕福な層を構 成した。一方、毎年、夏の間村を離れテッサリアやルーメリなどの町や村 をまわりながら仕事をする大多数の職人たちは不安定な生活を強いられ貧 (7) しい生活を送っていた 。 コンスタンチノプルにはディロフォ村以外の職人村からも大勢が働きに 出ていた。彼らは故郷の村に豊富な現金と都会風の豊かな生活を持ち込み 村の繁栄に貢献していたが、ディロフォ村の場合はコンスタンチノプルへ の進出が早く数も多かったため、そこで働く職人が中心となって繁栄がも たらされたようだ。一方、近くにあるクリミニ村は、石工や木工になった 者が多かったといえ、商人や仕立屋など他の職業に就いて成功する者たち 125(40) も少なくなく、職人村といわれていてもディロフォ村とは状況が異なって いる。出稼ぎ先も小アジア一帯からアトス山がまず浮上し、コンスタンチ (8) ノプルが主要な出稼ぎ先となったのは19世紀後半に入ってからである 。 ディロフォ村もクリミニ村も、オスマン帝国最末期にあたる19世紀後半 から1910年代までが村の繁栄の頂点であった。西マケドニアが1913 年にギ リシャ領に組み込まれた後もオスマン帝国内への出稼ぎは引き続き行われ 繁栄をもたらしていたのだが、トルコ民族主義が高まる中、次第に仕事が しにくくなり、1920年代半ば、ついにコンスタンチノプルへの出稼ぎは完 全に終わりをとげる。このときディロフォ村では職人たちがコンスタンチ (9) ノプルにもっていた資産が紙くず同然になってしまったとあり 、同じよう なことは他の職人村でも起きていたと思われる。残念ながらいずれの村も その後の職人たちの生活についてはほとんどわからない。大勢の村人がア メリカに渡り、コンスタンチノプルの職人たちと同じように故郷に教育資 金(主に村が雇った教師の給金用)などを送るための団体を作ったりして いるが、彼らと「コンスタンチノプル人」との関係はわからず、また、ギ リシャ国内で働いていた職人たちの暮らしについても文献は何も触れてい ない。 さて、調査地のカロニ村はこれらの村が繁栄の頂点を過ぎ衰退し始めた ころから急速に発展していくが、同じ職人村とはいえこの違いはどこにあ るのだろうか。次に19世紀後半から20世紀前半の約100年にわたってカロ (10) ニ村の経済がどのように進展したか、その経緯を簡単に紹介していく 。 カロニ村の発展経緯 ディロフォ村では、職人の技が村に伝わって間を置かずに大勢の男たち が農作業のある夏場に村を離れる生活に入っており、自給自足的な農牧業 が早くから衰退を始めている。それにたいし、カロニ村では職人の技の伝 来を伝える話はなく、すでに職人技をもった者たちが住み着いてできた村 牧人、職人、「アメリカ人」―出稼ぎがもたらしたギリシャ山村の繁栄と衰退―(41)124 なのか、あとから職人たちが入ってきたのか不明である。しかし、いずれ にせよ草分けとされる家族(伝承では4戸とも言われる)は、自給自足的 な農牧業を中心に現金収入を得る職人仕事を組み合わせて生計を維持する 暮らしを送っていたらしい。その後、19世紀始めに頂点を迎えるアリ・パ シャの時代前後から村に移り住む者が増え、一説によれば1830∼40年ころ (11) には20戸ほどの家があったという 。それが世紀の変わり目には、100戸を 超えるほどの家々が立ち並ぶようになっており、19世紀後半に村が大きく なっていったことが伺われる。 もちろん、この間も各地から村に移り住んだ者たちはいたが、戸数の増 加のほとんどは、大家族が次々と分裂し、新しい家を構えていったことに あるようだ。このあたりには、兄弟たちが結婚後も長期に渡って親元で暮 (11) らすいわゆる複合家族制度があり 、カロニ村でも兄弟は結婚したら自分 の妻子とともに親の家に住むのを当然としていた。4∼5人兄弟がともに暮 らすケースも珍しくなかったが、19世紀半ばあたりからそのような大規模 な家族がいくつも分裂しはじめ、村の戸数を一気に押し上げていったよう だ。 19 世紀後半に入っても、自給自足的な農牧業は全体として盛んで、注 (10)で触れた村の司祭の手記によれば、職人たちの多くは村に時々戻っ て農作業や家畜の世話をするため、村に比較的近い地域一帯で働いていた という。また、テッサリアやハルキディキなどに冬に働きに出ていた者た ちは復活祭には村に戻ったとある。一方でペロポネソスや東トラキア、さ らにはコンスタンチノプルなどの遠方に長期に渡って出稼ぎに出る者たち もいた。この場合は数年にわたって村を離れるのが普通で、ときには十年 以上も村に戻らない者やそのまま帰らず村とのつながりを絶つ者も少なく なかったようだ。遠方への出稼ぎ職人は収入が良く、中にはそれを元手に 村に店を開いたり水車小屋を建ててその主人に納まったり子供に教育を与 えて教師や司祭にしたりしたケースもある。 123(42) 一方、牧畜経営で食べていく者たちもいたが、彼らのほとんどは、ア リ・パシャ時代前後を中心に村に移り住んだ大規模牧畜経営者の子孫たち である。これらの家族はいずれも村での生活に不可欠な畑や家などを購入 するための資金を家畜の売却で調達でき、その後は残った家畜の世話をす る1∼2人を除き皆、職人となっていった。その中には遠方で働いていた者 も多く、かなりゆとりのある暮らしをしていたと思われ、家族が分裂する さいには4∼5人からいた兄弟たちが皆、それぞれ十分な家財とともに新し い家を村の中に構えている。 19世紀後半の村の発展を支えていたのは、前述した大規模牧畜経営者の 子孫たちの家族と、それ以外であっても遠方で働く職人を多く出してきた 家族であり、歴代の村長や司祭をはじめとする村の有力者たちはいずれも これらの家族から出ている。その中にはコンスタンチノプルを働き先にし ていた者たちもいるが、先述した司祭の手記によれば周辺の村々と比べる とそこで働く職人の数はごくわずかだったという。おそらくそのことがカ ロニ人のアメリカ進出に有利に働いたようだ。ディロフォ村はじめ多くの 職人がコンスタンチノプルで働いていたところでは、アメリカへの出稼ぎ が始まった後も、先述したように裕福な職人たちが大勢コンスタンチノプ ルで働き続け、結局、有利な仕事先もそこで築いた資産も失ってしまった ときには、アメリカへの出稼ぎはピークを過ぎていたのだった。一方、カ ロニ村の場合は、遠方に出稼ぎに出ていた裕福な職人たちが、周辺の村々 と比べても最も早い時期にあたる1990年代末には渡米し、いち早く足場を 築き成功を収めていけたのである。彼らの成功を引き金に1900年代から10 年代をピークに大勢のカロニ人が海を渡り、渡米経験者が誰も出ていない 家はほとんどないというほどであった。アメリカで成功し送金できるよう になった者とその家族は「アメリカ人」と呼ばれる裕福な層を形成し、20 世紀前半のカロニ村の繁栄を導いたのだった。 ちょうどそのころ、村に比較的近い地域で働いてきた職人たちのあいだ 牧人、職人、「アメリカ人」―出稼ぎがもたらしたギリシャ山村の繁栄と衰退―(43)122 でも仕事先に大きな変化が起きていた。1910年代なかばころから村に近い 地域一帯での仕事がなくなり、大勢が仕事を求めて夏にテッサリアなどで 働き始めたのである。この時期はちょうどギリシャ領に編入されたころに あたり、オスマン帝国内で働いてきた職人たちはしだいに仕事先が限られ、 ギリシャ領内で働き始めており、職人たちの競争が激しくなってきた時期 にあたる。いずれにせよ、このころを境にカロニ村では、多くの職人村で すでに展開されていた、春先に村を離れ冬の初めに村に戻るという移動の 仕方が職人の当たり前の生活形態として定着したのだった。 「アメリカ人」の出現と職人の出稼ぎの長期化は、現金収入が増加する 一方、農作業などにたずさわる男手の減少をもたらした。加えてこの時期 (13) に治安も改善し複合家族を維持していく必要性も低下していった 。実際、 兄弟3人が20年以上にわたって同居していたような家族が、1910年代から 20年代を中心に次々と分裂している。こうして新しい家が増え1920年代末 には総戸数は140∼150戸、人口は500人近くに達し、個々の世帯規模は縮 小、幼い子供をかかえた核家族が増加していった。 このような変化は、1920年代半ばころから自給自足的な農牧業の急速な 衰退をもたらした。実際、それまではどの家でも犂を引くための牛を1頭 から2頭飼っており、1905年生まれの女性は当時の様子を「子供の頃、牛 はとても大切で、家の前を牛が通るときは司祭が通るときと同じように皆、 立ち上がってあいさつした」と語っている。ところが、20年代半ばを境に 牛はほとんどいなくなり、畑は女たちが鋤を使って耕すものになっていた。 また、どこの家でも自家用のチーズやバターを賄う目的で 50頭100頭と家 畜を飼っていたというが、やはり1920年代半ばになると、大多数の家で自 給用に飼われていた家畜を手放してしまっている。そして、それと入れ替 わるように、1930年代半ばには飲料やヨーグルト用に少量の生乳を賄う目 的でヤギを2∼3頭飼うことが一気に普及したのだった。 このように食料自給率が低下するなか人々は日々の食料を購入すること 121(44) になったが、かなりの食料は村の中で購入できたという。その中心は毎週 日曜日に広場に立った市だった。いつごろから始まったか不明なもののこ の市には、グレヴェナの平地の村々から野菜や小麦などが運ばれ、周辺の 牧畜中心の村々からはチーズなどの乳製品が運ばれ山積みになったという。 その後、増加する一方の小麦の需要を見越してカロニ人の一人によって小 麦専門の商いも始まっている。食料雑貨店は短期間で閉まってしまうもの もあったが、19世紀末には1∼2軒、20年代に入ってからは3軒から4軒の店 が常に開いていた。また、肉屋も19世紀末から開店していた。カロニ村の 市や店には周辺の村々からも人々が買い物に訪れ、にぎわったという。 カロニ村の繁栄はこのような変化の中でもたらされたわけだが、もちろ んすべての家で同じような変化がおきていったわけではなかった。村の中 でもっともこの変化を先導したのは、少なくとも30戸はあったと思われる 「アメリカ人」の家である。そこでは一部の例外を除き食料はほとんど生 産されなくなり、たとえ一年分の小麦を賄えるだけの畑をもっていても耕 作を放棄している。それどころか、「アメリカ人」の家族出身の教師の家 では、不必要という理由で畑を一切相続しなかったケースもある。他にも、 1924年生まれの「アメリカ人」の女性が、戦争になって畑を耕さざるをえ なくなるまで鎌を一度も使ったことがなかったと語るなど、農作業とは縁 のない生活を送っていた家が少なからずあったことがうかがえる。 一方、村の大多数を占める職人の家では、収入が極めて不安定なため、 どの家でも農作業は手放せなかった。男たちは村に戻っている冬の間、一 日中、広場で来シーズンの仕事の契約のための情報収集にいそしんでいた というが、女性たちは、たとえ数か月分の小麦しか賄えなくても一日の多 くを畑で過ごす生活を送っていた。 いずれにせよ「アメリカ人」の家も職人の家も世帯規模は小さくなって おり、程度の差こそあれ食料自給率の低下が起きていたが、牧畜経営者の 家ではかなり様相が異なっていた。当時、牧畜経営者の家は5戸ほどしか 牧人、職人、「アメリカ人」―出稼ぎがもたらしたギリシャ山村の繁栄と衰退―(45)120 なく、その経営規模も年々縮小し、500頭あったら大きいとみなされてい た。しかし、いずれも畑を開墾するなど食料自給率を高める努力をしてお り、また、30年代に入っても兄弟同士が結婚後もしばらく同居するなど、 複合家族を維持する傾向があった。同居する兄弟の中には、牧畜の仕事を 行う者のほかに職人や「アメリカ人」をしている者もいたが、兄弟の妻た ちは皆で協力して畑を耕し、中には身の回りの世話をするため職人の妻が 舅と義兄とともに冬の牧草地に一緒に下りていたケースもある。 さて、カロニ村の繁栄をリードした「アメリカ人」の存在は当時のカロ ニ社会にあって極めて大きかったと思われるが、当時を知るカロニ人たち は、村を牧人と職人の村と捉え、そのことを「男子は、相続できる家畜を 世話する者以外、ほとんど全員が職人見習いに出された」といった言葉で 語っていく。そして、所有する家畜で食べていける牧畜経営者のことを村 で最も裕福だったとし、大規模経営者の敬称であるツェリンガスの名で敬 意を込めて語る。それに対し、家畜という財産を持たない職人は貧しいも のととらえている。実際にはコンスタンチノプルなどの遠方で働いていた 職人の中にはかなりゆとりのある生活をしていた者たちもいたと思われる が、ディロフォ村のように、職人を裕福な「コンスタンチノプル人」と貧 しいその他の職人とに分けることはしていない。職人を貧富の違いで区別 するものとしては他にイピロスのピルソヤニ村でも報告されており、そこ では棟梁が食料雑貨店主やアメリカなどからの送金生活者とともに裕福な (14) 人々とされていたという 。しかし、カロニ村では棟梁は尊敬されつつも 貧しい職人の一員とされ、棟梁が一般の職人より余分に受け取る給金は、 仕事を請け負うための必要経費とみなされている。いわば、職人は職人と して働いている限りまとまった財産をつくることはできないと考えられて いるようだ。 では、牧人でも職人でもない別の生き方を選んだ者たちはどのように位 置づけられているのだろうか。ごく限られた者たちは、最初から牧人や職 119(46) 人の道を歩むことなく教育を受けて司祭や教師になったり、親が用意した 店の主など別の生計手段に頼ったりすることができた。しかし、大半は人 生の途中で積極的に転身を試みていった者たちであり、その中心を占めた のが「アメリカ人」だった。とはいえまず、カロニ人たちが「アメリカ人」 になるのであれ、ならないのであれ、どのように転身をしていったのか、 それがどう語られているのかを次に紹介しておきたい。 牧人や職人からの転身 牧人の場合、転身を試み成功していったという話はまず聞かない。アメ リカで働いている親戚を頼って渡米した者たちはいるが、私が話を聞いた ケースでは皆、短期間で帰村し以前の仕事に戻っている。そのうちの一人、 1880年に生まれた男性は、大規模な牧畜経営者の四人息子の一人で、一番 上の兄とともに牧畜の仕事に従事していた。その後、家畜を相続し独立し たがうまく家畜が増えず苦しい生活が続いていた。やがて第一次世界大戦 が始まると、他の大勢のカロニ人同様、彼も兵役を逃れるため職人をして いた二人の兄弟とともにアメリカに渡った。そこでは弟一人だけがアメリ カに残り成功していくが、当人含め他の二人は一年で帰国する。この男性 は再び渡米し数年滞在したがうまく稼げず、村に戻った時には経済的にか なり困窮していた。妻がわずかな現金を得るために身寄りのない高齢者の 世話をすることになったが、その高齢者が亡くなった後、彼の財産を相続 でき家畜も増えていって牧畜経営者として成功している。 牧畜経営は常に病気や寒さなどで家畜を全滅させてしまう危険性をもっ ていた。実際、1935年にテッサリアの冬営地で160頭の羊を寒さで全滅さ せてしまった男性もいる。しかし、彼は毛皮を売ってお金を作り、村に戻 ってからは自給目的の農業をしながら、農地や牧草地の監視人の仕事につ き子供たちを養育している。 家畜や土地に縛られやすい牧畜経営者に比べると、職人ははるかに身軽 牧人、職人、「アメリカ人」―出稼ぎがもたらしたギリシャ山村の繁栄と衰退―(47)118 で条件の良い仕事を求めて移動することができた。基本的に毎年、棟梁と 契約を更新するので、条件のよい仕事を多く請け負える腕の良い棟梁と契 約しようと多くの職人が最新の情報を集めており、毎年のように棟梁を変 える者も少なくなかった。一方、棟梁も幅広く情報網をはり、稼げる仕事 があると知ると、いかに早くそこに駆けつけられるか、その機動力が問わ れた。1920年代に入るとタバコ景気に沸いたカヴァラとその周辺で建築ラ ッシュが続いたが、カロニ村の職人がいち早く入り込めたため、その後も 多くのカロニ人が、賃金相場が高く仕事も多くあったカヴァラ一帯で仕事 をすることができたらしい。中にはテッサリアでカヴァラの話を聞き、仕 事仲間全員で 9 日間歩いてそこまで行ったが、その間にお金がなくなり、 (15) 着いてすぐラバを売る羽目になった者たちもいたという 。 このころになると、昔ながらの仕事仲間の単位で伝統工法による仕事を 請け負うだけでは食べていけなくなっており、仕事仲間単位で会社に雇わ れて大規模な建築現場で働くこともあった。また、仕事仲間単位で仕事を 探したり働いたりすることをやめ、個々人で直接、会社に雇われたり、近 代的な仕事請負業者と契約したりして働いたりするケースが増えている。 時には職人以外の仕事についたり志願したり徴収されたりして兵役に就い たりした。アメリカへの出稼ぎも、良い仕事を求めてどこにでも行く、と いう感覚で大勢出て行ったようだが、多くはあまり長居せず戻ってきて再 び職人として働き始めている。全体として、大半の職人たちは、第二次世 界大戦から内戦あたりまで、途中に様々なタイプの仕事をこなしつつ基本 的には昔ながらの仕事仲間単位で旅しながら仕事をこなす生活を送ってき たようだ。 しかし、その一方で一部の職人たちは、まったく別の仕事を始め新しい 生き方を積極的に追求していった。チャンスをつかんだ職人たちは、村や 町に店を開いたりアパート経営を始めたり製粉所を建てたり子供に教育を 与えたりするほか、結局は失敗しているが、家畜を購入して牧畜経営者に 117(48) 預けその上がりを得ようとしたり、アーモンドの木を植えて収入を得よう としたりと、実に多方面に投資を行っている。しかし、その元手となる資 金は、まじめに働き節約して作り出したという風にはまず語られない。積 極的に語り伝えられているのは、もっぱら機転や運のよさでいかに財産を つくったり転職のチャンスをつかんだりしたか、という部分を強調した話 である。たとえば1914年生まれの女性は、自分の父親について次のように 語っている。 ある日、父親がツォティリ(職人村が多く集まる地域にある町、カロニ 人もよく利用していた定期市が毎週立っていた)に向かっていると、乗っ ていたラバが突然道を外れて勝手に歩き始めた。立ち止まった場所には金 貨の入った壷があり、それでツォティリに家を買った。また、カロニ村の 泉の近くにやはり金貨が埋まっているのを夢に見、実際に掘ってみると本 当にあったのでそれも手に入れた。さらに、石工として仕事をしていた土 地で、トルコ人長者の家の前を通ったとき、その長者の妻が金貨を連ねた 首飾りを井戸に落としたかもしれないと騒いでいるところに出会った。父 は井戸に入って落ちているかどうか確かめてほしいと頼まれたので、井戸 に入り底を探ってみると確かに首飾りが落ちていた。父はそれを懐にしま い落ちていなかったといって自分のものにした。この首飾りはカロニ村の 家の中に隠しておいたが、内戦(1946-49)が終わって家が壊れてしまって もそのままにしておいた。ある日、首飾りを探しに村の家に行ったがどこ にも見当たらなかった。きっと誰かが夢で見て持ち出したのだろう。父は このようにたくさんの金貨を集める機会に恵まれ、ツォティリの家でパン 屋を開き、その後、ホテルとレストランも建てた。村の家では一時雑貨屋 も開いていた。 この男性は、兄弟五人全員が石工で、その中には腕のよい棟梁として知 られた者やコンスタンチノプルによく行っていた者もいた。男性には息子 と娘が二人ずついたが、娘二人はカロニ人と結婚し戦後もしばらく村で暮 牧人、職人、「アメリカ人」―出稼ぎがもたらしたギリシャ山村の繁栄と衰退―(49)116 らしていた。一方、息子二人は小学校を終えた後は父親とともにツォティ リに暮らし、父の店などを継いでいる。 また、1920年生まれの教師をしてきた男性は、自分の父親(1885年生) がいかに機転を利かせながら仕事を替え成功していったかを語っている が、その話のあらましは以下の通りである。 父親は最初、コンスタンチノプルと村の間を往復してお金や物を運ぶ仕 事をしていた。ある日、村人にキリストが掛けられた十字架の木片を持っ てきてほしいと頼まれお金を渡されたがすっかり忘れていた。村に戻ると 栗の木の破片をオリーブオイルに浸した布で何重にも巻き、さんざん奢ら せてから手渡した。このお守りは弾をはじくとして多くの人が欲しがって いたもので、受け取った村人は本物と信じ戦争に行き無事、帰ってきた。 その後、一時、村で店を開き、それから町で宿屋を一時開いたりもした。 仕立屋として働いていたこともあったが、やがて教師の見習いとして近く の村で働き始めた。その後、非正規の教師をしばらくしたあと、教師の免 状をもらうため三年間、テッサロニキで勉強し、正規の教師になった。 大規模牧畜経営者として村に住みつき司祭や村長を出してきた一族の一 人であるこの男性には、「浅はか」というあだ名がつけられていたが、他 にも山賊を銃で追い払った話や、教師として働いていたときに働きぶりを 見に来た視察官をからかった話などいろいろな話がカロニ人たちの間に伝 わっている。なお息子たちは石工になった者もいれば教師や医師になった 者もいる。また、娘たちも教育を与えられその一人は教師になっている。 ここで紹介した二人はいずれもアメリカには渡っていないが、渡米した 職人たちの中には、その前になんらかの大金を稼いでいたと伝えられてい る者もいる。たとえば、19世紀後半に石工として働いていた男性は、ある ときその入手経路は不明なものの大変な額の現金を村に持ち帰ったことか ら、「お大尽」という意味のあだ名をつけられ村で最初の店を開いた後、 渡米している。また、19世紀末にルーマニアで働いていた石工たちの一部 115(50) (16) が大金を持ち帰ったという話も伝わっている 。全部で何人いたか不明なも のの、そのうちの一人はアメリカへの出稼ぎが始まると第一陣として真っ 先に加わっている。 さてカロニ村では、このように何らかの方法で突然大金を手にしたとさ れる職人であれ、そのような話は伝わってないもののコンスタンチノプル をはじめとする遠方で働いていた職人であれ、かなり生活にゆとりのあっ た者たちがまっさきに渡米し、彼らが中心となって「アメリカ人」を構成 していった。彼らは村を外の世界と大規模、かつ急速に結びつけ、豊富な 現金をもとにそれまで村になかった新しい生活スタイルを導入していっ た。それは、高学歴者を中心としたカロニ人たちが今日、「開明的で進歩 的、都会風な暮らし」といった言葉で語るカロニ村の特徴であり、私が職 人村ならではの特徴とみなしたものでもあった。しかし、周辺の代表的な 職人村ではそのような暮らしぶりが「コンスタンチノプル人」をはじめと する「豊かな職人」たちによって持ち込まれたのに対し、カロニ村の場合 は大半が、確かにもとは職人たちであったとはいえ、その後は職人とはま ったく別のカテゴリーにくくられる「アメリカ人」たちによって持ち込ま れている。次に、「コンスタンチノプル人」の場合と比較しながら、「アメ リカ人」が送っていた新しい生活スタイルがどのように記憶され語られて いるのかを紹介していきたい。 「アメリカ人」の暮らしぶりと有志団体 さて、「コンスタンチノプル人」も「アメリカ人」も、村にそれまでな かった珍しいものや新しい物、考え、価値観、制度などを持ち込む役割を 果たしてきたとみなされている。ディロフォ村の本では、「コンスタンチ ノプル人」はコーヒーやスパゲティを村に初めて持ち込んだ人々であり、 地元にはない高価で珍しい食品や香辛料などをわざわざコンスタンチノプ ルから運んできて料理に使うことのできる人々として言及されている。た 牧人、職人、「アメリカ人」―出稼ぎがもたらしたギリシャ山村の繁栄と衰退―(51)114 とえば、「ディロフォ村では米(リジ)を食べるがモルフィ村では匂いを 嗅ぐだけ(ミリジ)」という言い回しが紹介されているが、そこに出てく るモルフィ村も多くの職人をコンスタンチノプルに送り出してきたことで 知られている職人村の一つである。そこからは、それぞれの村の「コンス タンチノプル人」の贅沢さの度合いで村全体の豊かさや文明度の高さを競 (17) い合う雰囲気があったことをうかがわせる 。 カロニ村の場合、東トラキアの都市で働いていた石工がコーヒーを村に 最初に持ち込んだことが先述した司祭の手記に記されているが、村の歴史 などに関心を持つ高学歴者たちはこの点にはほとんど関心を示さない。彼 らが注目しているのは、コンスタンチノプルで働いていた木工が村に初め て新聞を持ち込んだ話である。その木工は「新聞」とあだ名をつけられた が、子孫たちはそのあだ名を姓として名乗り、その一人で、調査時にカロ ニ女性の有志団体会長をしていた女性は、カロニ村が早くから開け進歩的 な考えを積極的に取り込んできたことを示すものとして祖先の話を扱って いる。しかし、この話を除くとカロニ村とコンスタンチノプルのつながり はとりたてて語られず、周辺の村々が昔の職人の話としてコンスタンチノ プルに大勢働きに行っていたことをよく口にするのとは大きく異なってい る。ところが、「アメリカ人」の話になると、今でも元「アメリカ人」自 身か否かを問わず積極的に話をしていく。それもアメリカでの仕事や苦労 話ではなく、もっぱら村の中での贅沢な暮らしぶりが詳しく語られるので ある。 たとえば、食生活だと贅沢さの象徴として肉を食べる回数が注目されて いる。「アメリカ人」の家では多いと週に2回、少なくても月に2∼3回は食 べていたようだが、その家畜を提供する牧畜経営者の家では年に1∼2回し (18) か食べないというように家によってかなりの開きがあった 。他にもパン の白さが贅沢の証で、職人の家では自分の畑で作った小麦や購入した小麦 が足りなくなると、ライ麦入りの黒いパンを食べざるを得なかったのに対 113(52) し、「アメリカ人」の家では購入した小麦だけで作った真っ白いパンをい つでも食べられたという。とりわけ、村で小麦の商いを始めたアメリカ帰 りの男性を父親にもつ1919年生まれの女性は、アメリカ産の小麦粉でパン を作るととてもよく膨らみ真っ白に仕上がっておいしかった、となつかし そうに語ってくれた。 カロニ人たちが今でもよくうわさをするのが、「アメリカ人」の家の内 装の贅沢さである。定番は腕の良い木工を頼んで天井や作り付け家具など に手の込んだ彫刻を施してもらったり、村では一軒しかないが、他村から 絵師を呼んで壁に絵を描いてもらったりといった昔からあるお金のかけ方 であるが、他にもアメリカから持ち込んだビニル製のカーペットで床を覆 うといった例もある。これらを施した部屋に入ったことのない者たちにと ってはとても気になるらしく、私が豪華な内装で知られている家を訪ねた と知ると、うわさを確認しにくることがよくあった。しかし、何よりも 「アメリカ人」の家に欠かせなかったのはテーブルや椅子といった家具で、 とりわけ「鉄製のベッドはアメリカ人のしるし」だったという。 とはいえ、もっとも「アメリカ人」らしさを人々に見せつけたのは衣服 の違いであったようだ。食事や住居面での贅沢な暮らしぶりは、「コンス タンチノプル人」たちの延長上にあったが、「アメリカ人」の女性たちが、 アメリカから送られてきた薄手の、時には色鮮やかなプリントが施された 工業製品の生地を使った流行を取り入れた衣装をまとい教会などに参列す (19) る姿は、当時の人々に強烈な印象を与えたと思われる 。当時、カロニ村 では、女性たちは持参財として結婚後身につける衣装をすべて用意する習 慣が存在していた。しかし、その一方で「すべてのファッションはカロニ から」と言われたほど、「アメリカ人」女性たちの衣装は目を引いたらし い。アメリカから戻って村に店を開いた父親をもつ1910年生まれの女性は、 14歳で結婚したが、そのときの結婚衣裳をめぐって他の女性と競い合った 話を次のように語っている。 牧人、職人、「アメリカ人」―出稼ぎがもたらしたギリシャ山村の繁栄と衰退―(53)112 あるとき、同じ日に結婚式をあげることになっている少女との間でどん な衣装にするかが話題になった。彼女が二人とも茶色いビロードのドレス にしようというので、私は仕立屋をしているいとこに頼んで茶色いドレス を縫ってもらうことにした。式の二日前、金曜日の夜に彼女の家を訪れた ところ、壁に真っ白いドレスが掛かっているのが目に入った。どうしたの かと尋ねると、彼女は「あなたの夫はフスタネラ(男性のスカート状の民 族衣装)を履くのだから茶色のビロードのドレスが似合うけど、私の夫は 『アメリカ人』だからズボンを履くでしょ。だから白いドレスの方が似合 うと思って」と答えた。びっくりした私は急いで家に帰り父に話したとこ ろ、父は仕立屋のいとこをすぐに呼びに行かせ、三人で一緒に父の店に行 って真っ白なとても良い生地を選んでくれた。いとこは日曜日の朝までか かって素敵なドレスを縫い上げてくれた。 このように「アメリカ人」の話は贅沢な消費生活の有様に集中するが、 村の歴史などに関心をもつ高学歴者たちは「アメリカ人」がイニシアチブ を取って始まった、村の教育や公共空間の整備などを目的とする有志団体 を高く評価している。18世紀末ころからは、ヨーロッパやロシアなどで暮 らす商人たちがこのような有志団体を積極的につくりギリシャ民族意識の 形成や独立運動に多大な影響をおよぼしたことが知られているが、西マケ ドニアは、そのような商人を大勢輩出してきた中心地のひとつであり、有 (20) 志団体の活動は故郷の人々にも大きな影響を及ぼしていた 。このような 有志団体は商人層だけでなく職人たちの間でも早くから結成されており、 たとえばクリミニ村では1865年にアトス山で働いていた職人たちが有志団 (21) 体を結成し村に大きなイコンを寄贈している 。しかし、職人による有志 団体の大半は、コンスタンチノプルで19世紀末を中心に次々と結成されて いったようだ。とりわけ大きな影響力をもったのは、1871年に西マケドニ アの石工を中心に結成された有志団体で、故郷にギリシャ人が高等教育を 受けるための学校を建設することを最大の目的とし、趣旨に賛同した職人 111(54) たちが出身村ごとに有志団体をつくり資金集めを行った。その結果、当時 はイスラム教徒が多く住んでいた町であったにもかかわらずツォティリに (22) 1877年、ギリシャ人のための高等学校が設立され今日に至っている 。カ ロニ村の場合、コンスタンチノプルで働く職人が少なかったことからこの ような有志団体は結成されなかったが、ツォティリの高校は19世紀末以降、 教師や司祭をめざすカロニ人の登竜門となり、彼らが中心となってその後、 (23) 次々とカロニ人の有志団体が結成されていく 。 すでに触れたように、コンスタンチノプルに多くの職人を出していたと ころでは、アメリカへの出稼ぎが遅れたため、渡米者たちによる有志団体 結成は少々遅れて始まった。一方、カロニ村の場合は、アメリカで1904年 にカロニ人最初の有志団体が結成されたのを皮切りに、次々と村の中で新 しい有志団体が結成されていった。アメリカでつくられた有志団体は村の 教育資金の援助を最大の目的とし、コンスタンチノプルをはじめとする遠 方で働いていた元職人たちが中核メンバーとなっている。これに呼応する 形で村でも1908年に有志団体が作られ、村で雇った教師の給与の支払いな どを行っているが、この団体については詳しいことはわからない。しかし、 村がもっとも繁栄する1920年代に入ると、アメリカの有志団体で中核メン バーだった者たちの家族が中心になって、2つの有志団体が村のなかにつ くられ活発な活動を展開する。その一つは、1920年に作られた女性の有志 団体で、泉や教会などの美化や整備、また貧しい家庭への援助などを行っ た。当時、女性だけによる有志団体は非常に珍しいということで、高学歴 者たちはカロニ村が早くから開けていたことを示す重要な証拠のひとつと (24) して高く評価している 。もう一つの有志団体は、女性の会の主要メンバ ーの家族にあたる男性たち、とりわけ学生や教師をしていた若い世代たち が中心となって26年に結成された。この会では、村に図書室を設けたり成 績優秀な生徒を表彰したり、郵便局や裁判所の支部の誘致運動をしたりと いった活動を展開しているが、この時期、似たような性質の有志団体が周 牧人、職人、「アメリカ人」―出稼ぎがもたらしたギリシャ山村の繁栄と衰退―(55)110 辺地域一帯に次々と結成されている。有志団体には「好学」とか「進歩」 といった言葉を入れた団体名が多いが、とりわけこの時期に若者を中心に 作られた有志団体には「進歩」という言葉が好まれている。 当時、有志団体が活発な活動を展開できた背景には、一般のカロニ人た ちの間でそれなりの支持があったことをうかがわせる。しかし、当時を知 る人々に話を聞いても、活動の中核メンバーだった者たちを除き、積極的 に自分から有志団体のことを話す者はおらず、女性の有志団体に対しては、 「一日中、家にすわっていられる奥様たちがしていたこと」と話す者もい た。また、先述した司祭が残した手記には、当人もかかわった1926年結成 の団体が村の緑化運動を展開し放牧禁止地区を設けたため牧畜経営者たち と対立がおき、それ以降、活動が下火化したとあるが、その話も今日、カ ロニ人の間でまったく語られていない。 カロニ村を繁栄に導き様々な活動を行った「アメリカ人」たちであるが、 30年代半ばころから少しずつ家族ぐるみで離村していく者が目立つように なった。やがて第二次世界大戦の勃発によりギリシャ全土で食糧不足が深 刻化すると、食料のほとんどを購入していた「アメリカ人」たちは畑を多 く持っていた者以外次々と離村してしまい、カロニ村の繁栄も終わりを告 げたのだった。 最後に 調査時、カロニ村は夏の間だけ避暑目的でやってくるカロニ人たちによ って大いに賑わう典型的な避暑村となっていたが、戦後、寂れる一方だっ たカロニ村の現状を憂え最初に行動を起こしたのは、アメリカ在住のカロ ニ人たちであった。64年に村を訪れたジャーナリストをしていたカロニ人 は、30家族ほどしか住民がおらず雑草で覆われた道や壊れるがまま放置さ れた家々を目の当たりにして衝撃を受け、67年、アメリカ在住のカロニ人 たちに「村を何とかして維持しなくてはならない。そうすることで私たち 109(56) の望郷の思いも維持できるのだから。……(中略)……村をこのまま死な (25) せてはならない」と呼びかける記事を書いている 。この記事は、帰国後 も大切に保存している人がいるほど、在米カロニ人に危機感を与えたよう で、休眠していた有志団体も復活し村の公共空間の整備のために送金を開 始した。 その後、ギリシャ各地の町に暮らしていたカロニ人たちも、年金生活に 入ったことをきっかけに大勢が夏を中心に戻り始め、そこに子供や孫たち も加わる形で70年代以降、カロニ村は一気に避暑村としての様相を帯びて いった。そして、戦前の有志団体の主要メンバーやその子供たちが中心に なって高学歴のカロニ人たちが再び新しい有志団体を結成し、村の環境美 化や公共空間整備、カロニ人同士の親睦などを目的とする活動を始めてい く。カロニ村を「早くから都会風の生活を行い進歩的な村」と語ってくれ たのは、これらの活動に熱心に取り組んでいた者たちであった。しかし、 彼らは、村がそのような特徴を帯びるのに貢献した「アメリカ人」や、早 くからカロニ村を外の世界と結び付けてきた職人に焦点を絞って語ること はしていない。むしろ、もともとのカロニ村が牧畜の村としていかに豊か だったかが強調される傾向すらある。その点、ピルソヤニ村の有志団体が、 自分たちの村を職人村としてはっきりと打ち出し、元石工たちの話を中心 に村の歴史や文化をまとめた定期刊行物を発行して外部に対しても職人村 (26) の姿をアピールしていったのとは大きく異なる 。 私は、あまり深く考えずカロニ村を職人村の一つとして捉えそこから村 を眺めようとしてしまったが、ピルソヤニ村の有志団体の活動を知ってい たカロニ村の高学歴者たちが、自分たちの村を職人村としては積極的にア ピールせず、出稼ぎの村と牧畜の村の双方の顔を求めていたのはなぜだっ たのか。この点については、別の機会に考えていきたい。 牧人、職人、「アメリカ人」―出稼ぎがもたらしたギリシャ山村の繁栄と衰退―(57)108 注 (1)主な調査は、1987年から89年まで毎夏3ヶ月を村に滞在して行い、そ れ以外の季節は主に各地に住むカロニ人たちに話を聞く形をとった。 92年と96年の夏にも1カ月ずつ村に滞在して補足調査を行った。 (2)どこに住んでいようと、カロニ村の出身者とその配偶者をカロニ人と よんでいる。カロニ人のアイデンティティーに関しては、内山明子「村 を再考する─ギリシャ・カロニ村のフィールドワーク」森明子編『ヨー ロッパ人類学 近代再編の現場から』2004.新曜社 (3)この章は、Vakalopoulos,A., History of Macedonia 1354, 1833, Thessaloniki, 1973を中心に、イピロス州に関してはVakalopoulos,K., Istoria tou Voreiou Ellinismou Ipeiros, Thessaloniki,1992を主に参照した。 (4)今日では忘れ去られているが、かつてはすぐ近くに広がるヴラヒの 村々と婚姻関係が結ばれていた。カロニ村があるクパチャノホリアと よばれる地域は、ギリシャ語を話すようになったヴラヒたちが冬も山 を下りずに定住した場所とする説もある。たとえば、 Mpouschten, R.,Anapoda Chronia, Athens,1997,p.24 (5)Vogiatzioglou,M., Ellinikos Laikos Politismos vol.2, Athens, 1986 ,pp.5358 ここでは、中等教育レベルの教師向けのギリシャ民俗に関する本に ある職人村の記述を参照した。職人や職人村に関しての代表的な研究 としてはMegas,G.および、Moutsopoulos,N.の著作がある。 (6)今日の表記に従えばイスタンブルになるが、オスマン帝国時代まで コンスタンチノプルが正式名称として用いられていた。ギリシャ人が 別格の都にはふさわしくないとして嫌うイスタンブルの名称は避ける ことにした。 (7) Tzioufas,S., To Dilofo Vouoi, Thessaloniki, 1977 、 Tsaras,G., “ To Anekdoto Imerologio tou Papa-Nikola Koukoli ap’ to Limpochovo tis Dytikis Makedonias(1817-1926)”Makedonika 8,1968pp17-21,なお後者は村の司祭 が残した詳細な日記を編集、紹介したもので三箇所ほどカロニ村の名 107(58) 前もあがっている。 (8)Papanikolaos,F., Istoria tou Kriminiou, Thessaloniki, 1959, pp23-26 (9)Tzioufas,S., 1977, p.72 (10 )カロニ村では住民登録簿などの公式文書が二度にわたって焼失して おり、過去を詳細に検討することは困難であるが、ここでは、村の司 祭( 1877-1966)が残した手記の一部を1950年にタイプ印刷したもの、 一部復活された焼失前の公式文書、およびカロニ人の口頭伝承をつき あわせながら19世紀以降の村のおおよその変遷をみていきたい。 (11)Tzimourakas,F., Kalloni Nomou Grevenon, Thessaloniki, 1979, p.17 (12)Byrenes,R(ed) ., Communal Families in the Balkans:The Zadruga, Indiana, 1976 (13 )民俗学ではギリシャ独立にかかわった英雄として扱われてきた、ク レフティスやアルマトロスの名で知られる山賊や追剥の類、さらには オスマン帝国やアリ・パシャに雇われたアルバニア兵、そしてマケド ニアの領有をめぐって主にブルガリアと戦うためにクレタなどから押 し寄せた志願兵など多種多様な人々がこのあたりを通過しては村人を 襲ったり村を焼き払ったりしてきた。カロニ村でも様々な話が伝えら れている。ギリシャ領になって以降、その数は減少しカロニ村では 1926年を最後に襲われなくなったという。 (14 )ピルソヤニ村はイピロス州にある職人村の一つで、オスマン帝国時 代にはコンスタンチノプル始め各地に石工を輩出してきているが、ギ リシャ領下に入ってからの職人たちの暮らしを伝える資料が多くある。 ここで紹介した話は、以下の文献による。 Nitsiakos,V., Oi Oreines Koinotites tis Voreias Pindou, Athens,1995,p.92 (15 )伝統的な石工たちのもっとも一般的な働き方は、仕事のワンシーズ ンをともにする棟梁と契約した職人たちでつくった仕事仲間の単位で 旅をしながら仕事をこなす形であった。仕事仲間の基本形は民家つく りに必要な職人をそろえたもので、カロニ人の少年のほとんどは10 歳 牧人、職人、「アメリカ人」―出稼ぎがもたらしたギリシャ山村の繁栄と衰退―(59)106 から 12歳ぐらいになるとたいていは父親に連れられて仕事仲間に助手 として加わることで石工の技を少しずつ身につけ、20前後で独立した。 詳しくは、内山明子「ギリシャの出稼ぎ石工について 職人の種類と 技術」『中近東職人・商人研究会会報』創刊号 1999 (16 )政情不安が高まっていたこの時代、落ち着いたら再び戻ってくるつ もりで多くの富裕層が屋敷内に金貨を入れた壷を隠しておいたが、石 工は家の構造を良く知っているので簡単に見つけられたという話もあ る。 (17)Tzioufas,S.,1977, p.72 (18)1920年代ころまでは肉を食べるため家畜泥棒が盛んに行われていた といい、牧畜経営者の男性が盗んだ家畜を屠殺して肉にしたものを産 着でくるみ揺りかごに入れて妻に揺すらせて隠した、といった話が伝 わっている。 (19)ピルソヤニ村でも、「『アメリカ人女性』はいい服を着ていた。一目 で違うとわかった。 」といった話が語られている。Nitsiakos,B.,p.107 (20)Vakalopoulos,A.p.435 (21)Papanikolaos,F.p.43 (22)Papadopoulos,S., Ekpaideutiki kai Koinoniki Drastiriotita tou Ellinismou tis Makedonias kata ton Teleutaio Aiona tis Tourkokratias, Thessaloniki, 1970, p.189 (23 )カロニ村の有志団体については、内山明子「郷土愛がもたらす『村 人』の連帯と対立」 『社会科学ジャーナル』国際基督教大学30、1991 (24 )マケドニアの領有をめぐるギリシャと周辺諸国との間の対立が激化 していく1900 年代初頭から、カロニ村周辺の町々で女性たちが貧しい 人々への慈善活動や教育支援といった目的で有志団体を結成している。 たとえばTzinikou-Kakouli,A., I Makedonissa sto Thryro kai stin Istoria, Thessaloniki,1986, pp156-226 (25)Papafotiou,K., “I Ellinoamerikaniki Skopia” National Herald, no.29, 1967 105(60) (26)Syntaktiki Epitropi, “Proodeutiki Enosi Pyrsogianis” Armoloi, 10, 1980, pp.66-67 牧人、職人、「アメリカ人」―出稼ぎがもたらしたギリシャ山村の繁栄と衰退―(61)104