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ヴィゴツキー理論における自己意識と概念的思考の問題: ヘーゲルの

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ヴィゴツキー理論における自己意識と概念的思考の問題: ヘーゲルの
ヴィゴツキー理論における自己意識と概念的思考の問題:
ヘーゲルの『精神現象学』とスピノザの『エチカ』の精神において
神谷栄司
I スピノザ ― ヘーゲル ― ヴィゴツキー
ヴィゴツキー(1896-1934)は自己の独創的な理論を樹立するとき、実に多数の心理学者、哲学者、言語学者 、
作家などを考察し批判的に摂取した。彼自身が百科事典であったかのように。それは、一方では彼自身の理論
の生命力を証拠立てるものであるとともに、他方では、そのような理論家や作家をヴィゴッキーはどのように読ん
だのか、という観点から考察してこそ、彼自身の理論をより豊かに把握しうることを、示している。ここで取り上げ
るスピノザ(1632-1677)とヘーゲル(1770-1831)はそのような哲学者であり、しかも、ヴィゴツキー理論の最深
部に位置する理論家である。
ヴィゴツキーはスピノザから情動理論を取り出した、という理解は、正しくはあるが、まだ部分的である。ヴィゴ
ツキーは、「スピノザの路線にもとづく私たちの概念の研究」を行おうとしたからだ。彼は自己のメモ帳の一つで
次のように書いている。
スピノザ路線にもとづく概念にかんする私たちの研究
クルーゲル、ケーラー ――知覚における感情
感情の概念は能動的状態であり自由である:
自由:概念における感情
自閉的思考
統合失調症 感情の崩壊
人格発達の壮大な構図:自由への道。マルクス主義心理学のなかにスピノザ主義を蘇生させること。(2006, c. 295)
この引用から明らかであるが、ヴィゴツキーはスピノザから、情動理論を摂取するだけではなく、「概念 ―感情
―自由」の関係を考察しようとしている。それにしても、「自由:概念における感情」とは何を意味するのか。この基
礎的な問題を明らかにしてこそ、「人格発達の壮大な構図:自由への道」の本質も理解可能になるであろう。後
述するように、その解答は『エチカ』のなかにあるように思われる。
しかしながら、ヴィゴツキーが概念と概念的思考を研究するとき、彼は明らかにヘーゲルの弁証法的論理学に
依拠しているのであるから(『思考と言語』第5章を見よ)、上述のメモの意味を概念の研究におけるヘーゲルの
路線からスピノザの路線への転換と見なすわけにはいかない。ここで問題となるのは、ヴィゴツキー理論の観点
から、ヘーゲルとスピノザをどのように関連づけるかにある。先回りして、この点での結論を予め述べるなら、二人
の哲学者の結節点は、自己意識論にある。
II ヴィゴツキーにおける自己意識と概念的思考
きわめて一般的、直接的に言えば、自己意識の規定は事物に関する意識ではなく自己に関する意識である。
1
それ故、自己意識は思考のみではなく意識の全体に関与している(たとえば「自己の感情の認識」にも関与して
いる)が、小論ではまず、思考との関係に焦点づけて論じていくことにする。
ヴィゴツキーはすでに初期の心理学研究のなかで自己意識に言及しているが、もっとも充実した考察が見ら
れるのは自己意識が形成されつつある少年期(ヴィゴツキーの用語を用いれば、 13 歳と 17 歳の二つの危機的
年齢のあいだにある時期)の研究、たとえば『少年の児童学』(1931 / 1984 // 2004)である。
とはいえ、ヴィゴツキーの初期の著作から彼の自己意識論を拾い上げてみると、次のような方法論的に重要
な二つの命題が見つかる。
1 自己意識は他者に対する意識と同じメカニズムを持つ。すなわち他者を認識するのに応じて自己を認識す
る。
自己の意識(自己意識)のメカニズムと他者の認識のそれは同じである。私たちは、他者を意識するので、また自己に対する私た
ちは私たちに対する他者と同じであるので、他者を意識するのと同じ様式で、自己を意識するのである 。(1924 / 1982, с.52 //
1987)
2 自己意識は「〔事物に関する〕意識の意識」である。
プレハーノフが正しく規定したように、自己意識は意識の意識である。(1927 / 1982, с.413 // 1987)
とりあえずここで指摘しておきたいことは、この二つの命題は、後述するように、ヘーゲルの『精神現象学』
(1807 // 2002 // 1997)における自己意識論にすでに含まれていることである。
後の『少年の児童学』のなかには、自己意識と思考との関連についてもっとも直接的に表現された重要な命
題が論じられている。それを仮に第三の命題としておこう。すなわち、
3 自己意識と概念的思考は不可分な関係にあり、自己意識なしには概念的思考は成り立たないのと同時に 、
概念的思考なしには自己意識は形成されない。つまり、自己意識は概念的思考の前提であるとともに所産でも
ある。
念のために、思考の形式と内容としての概念的思考を、ヴィゴツキーがどのように捉えたのかについて述べて
おこう。概念的思考を形式の面から捉えると、概念を用いた思考と捉えるのが一般的であるが、概念的思考より
も発達的に前にある思考は、それぞれの時期にある「概念の等価物」が用いられている。それはまず混合主義的
形象であり、次いで、複合である。こうして形象―複合―概念をもちいた思考が思考形式の発達である(1934 /
1982 // 2001, 第5章参照)。
もちろん、各形式には独特な思考内容が照応している。ヴィゴツキーの考えによれば、概念的思考の形式に照
応する思考の内容は、概ね、以下の三つの内容に集約できるであろう(神谷, 2010, pp.152-3 参照)。
2
1 外的世界の認識と理解にかかわる思考内容である。概念的思考は、「現実の基礎に横たわる深い諸連関
の解明、この現実を制御する法則性の認識、知覚された世界に掛けられた論理的諸関係の網によるその世界
の秩序づけ」をもたらす(1931 / 1984, c.301 // 2004, p.85)。
2 概念的思考は他者を理解し、社会的意識を認識する手段ともなる。「概念は、外的現実を認識するシステ
ムをもたらし、その認識の基本的手段となるだけではない。概念はまた、他者を理解する基本的手段でもあり、歴
史的に形成されてきた人類の社会的経験を適切に習得する基本的手段でもある。概念において初めて、少年少
女は社会的意識の世界をシステム化し認識する」のである(同上, c. 301-2, с.66 , p. 86)。
3 概念形成とともに生じてくるのは自己意識である。 ――「有名な定義によれば、語は自己自身を理解する
手段であるほど、それだけ他者を理解する手段となる。『語はその誕生のときから語り手にとって自己を理解する
手段であり、自己の知覚を統覚する手段である』。そのため、まさしく概念形成とともに、自己知覚・自己観察の
集中的な発達、内的現実、自分自身の心的体験の世界の認識の集中的な発達が始まる。フンボルトの正しい
指摘によれば、思惟は概念においてのみ明瞭となるのだが、まさしく概念形成とともに少年少女は自分自身を
真に理解しはじめ、自分の内的世界を明瞭なものにする。このことなしに、思惟は明瞭さに到達しえないし、概念
になりえない」(同上, c. 300-1, с.65, p. 85)。
このように、概念形成は自己意識や自己理解を可能にするのだが、同時に、明瞭な自己意識なしに概念は成
立しないという逆の関係も指摘されている。自己意識の発達に応じて概念も明確なものになる。これが概念的
思考という形式にもっとも照応した新しい思考の内容であろう。
ここに深く究明すべき理論問題が姿を表している。すなわち、自己意識という個別的・個人的・主観的なもの
が概念的思考さらには真の概念という普遍的・客観的なものにどのように接合していくのか、という問題である。
その解答が見出される場所をあらかじめ指摘するとすれば、それは自己意識の運動(ヘーゲル)のなかに、同じ
ことであるが、自己意識の発達(ヴィゴツキー)のなかにある。
III なぜ「へーゲル『精神現象学』に照らして」なのか?
任意の理論とそれとは異なる任意の理論とを対比し比較してみても、それはあまり生産的な作業とは言えま
い。ヴィゴツキー理論をヘーゲル哲学の、しかも、その一部である『精神現象学』の光を当てる、という作業には、
明確な理由が必要となるであろう。ヘーゲル哲学もヴィゴツキー理論もともに弁証法的であるという理由づけは
間違ってはいないが、まだ十分ではない。少なくとも、ヴィゴツキーの伝記的歴史および理論内容からの考察が
必要である。
第一の側面について鍵を握るのは、グスタフ・シュペット(1879-1937)とヴィゴツキーの関係であろう。ギタ・ヴ
ィゴツカヤら(1996)やザヴェルシネヴァ(2006)の研究から、ヴィゴツキーがシュペットから学ぶことがあったの
は事実だと考えられる。だが残念なことには、ヴィゴツキーに対するシュペットの影響はどのようなものか、前者は
後者から何を学んだのかは、彼女らの研究のなかで示されていない。是非とも実証的な研究が必要なところで
ある。そのシュペットは、ヘーゲル『精神現象学』のロシア語版の訳者であり、しかも、 21 世紀になっても彼のロシ
ア語訳が重版されていることから、彼のものはロシア語による定訳であると考えてよいであろう。シュペットとヴィ
ゴツキーの関係の一つは『精神現象学』にあるというのが、筆者の推測である。
第一の側面に劣らず、いやそれ以上に意味があるのは第二の側面である。つまり、ヴィゴツキー理論のなかに
3
ヘーゲルの『精神現象学』と交差する点やパラレルな面がたしかに認められる。しかも、それらはヴィゴツキー理
論の根幹にかかわってくるような内容であるので、もし第一の側面における筆者の推測が的外れであったとして
も、第二の側面は《自分を研究せよ》と雄弁に迫ってくる。
両者の交差点、接線、パラレルな面をかいつまんで示してみよう。ヘーゲルの意識論を形式的に区分すれば、
「感覚的確信 чувственная достоверность」―「知覚 восприятие」―「悟性 рассудок」という発達図式で表
される。
1
まず、もっとも低次な意識である感覚的確信を取り上げてみよう。感覚の次元で知が掌握するものは「いま」
「ここに」ある個別的な「このもの」であり、そのような知の主体もまた「いま」「ここに」いる個別的な「この人」で
あり、その限りにおいて、「この〔感覚的〕確信は対象からまだ何一つ見逃していないし、それの眼前にある対象
はあらゆる完全さをそなえているのだから」、その知は「もっとも豊かな認識」「無限の豊かさの認識」「もっとも
真なる確信」を表している(1807 // 2002, с.51 // 1997)。しかし、それは外見上のことなのである。なぜなら、時
間の経過にそって「いま」はたえず新しい「いま」となり、また、人も「ここ」から「あそこ」(新しい「ここ」)へと移動
するからであり、もし、そうして感覚的確信の次元で得られる個別的なものの総計を無媒介的に ―つまり感覚的
確信の次元で―抽象すると、そこに姿を現すのは、ただただ無媒介的に「有る」という「もっとも抽象的で貧しい
真理」であるからだ(同上)。こうして何一つ欠けることなく最も豊かに世界を掌握しているかのように思われる
「外見」と、その内実はきわめて貧しい「有る」にしか辿り着けない感覚的確信の本質 ―これがここでヘーゲルの
言いたいことである。
ヘーゲルとヴィゴツキーの交差の観点から着目しておきたいことは、媒介性についてである。ヘーゲルは媒介
性をここでは否定の側面から取り扱っている。ヘーゲルは、感覚的確信は「対象を無媒介的に構成する知」、「無
媒介的なもの」あるいは「有〔有るということ〕の知」であるのだから、感覚的確信への考察も、私たちに示されて
いる通りのものに何一つ変更せず、「概念の助けを借りずに」把握せねばならない、と述べている(1807 // 2002,
с.51 // 1997)。ここに含意されているのは、対象を把握する際の概念(さらには形象、表象)が媒介と位置づけら
れていることであろう。さらにヘーゲルは、無媒介的な感覚的確信は語 слово、ことば речь、言語 язык によって
表現しえない、と考えている。それはどういうことか。ヘーゲルは次のように書いている。
人びとは、私がこれに書く、あるいは、より良く言えば、私が書いたこの一枚の紙を念頭においている。しかし、彼らは自分が念頭
においているものを語で表現できない。人びとが自分が念頭においているこの一枚の紙を実際に語で в словах 表現したいと思っ
ても、また語で в словах 表現したとしても、これは不可能である。なぜなら、念頭におかれた感覚的な「このもの」は、それ自体が普
遍的な意識に属する言語には для языка 達し得ないからである(同上, с.58)。
簡単に解説しておこう。私が書き付けた「いま」「ここに」ある一枚の個別的な紙を皆に示して、これは何か、と
質問すれば、たいてい、《それは紙だ》という答えが返ってくる。ところが、そう言ったとたんに、解答者は《紙一
般》を表す語によって「いま」「ここに」ある「このもの」を捨象し、感覚的確信の次元から抜け出してしまう。解答
者が迷い込むのはすでに普遍性を原理とする知覚の次元なのである。
この点について、ヘーゲルは興味深い指摘をしている。――ことば речь は「その神的本性にもとづいて臆見を
4
反対のものに直接に変形させることができる」(同上、 с.58)。ヘーゲル流にいえば、純粋個別性である感覚的確
信をその対極にある純粋普遍性である知覚へと変形させる《神にも似た》行為を実現するものが、語、ことば、言
語という媒介なのだ、ということであろう。ヴィゴツキーは、語によって媒介された知覚が対象を一般化する性質
をもつこと(「一般化された知覚」)を指摘し、さらにそれにとどまらず、彼はことばによる媒介を人間の心理を理
解する原理の一つに高めているのであるから、ここにヘーゲルとヴィゴツキーが深く交差する一つの点を見出す
ことができる。
2
次に、ヘーゲルとヴィゴツキーとのパラレルな面であるが、それは両者の自己意識の把握に明瞭に現れている
ここではヴィゴツキーが自己意識に関してヘーゲルに直接に言及した箇所を取り上げておこう。
〔自己意識の形成は人格の発達のある歴史的な段階にほかならない、ということについて〕この概念はヘーゲルの哲学にすでに
見られる発達図式に照応している。物自体は発達しない形而上学的存在であるとするカントとは違って、ヘーゲルにとって『自体
〔即自的〕в себе』の概念そのものが意味するのは、事物の発達の初期的モメントないし段階にほかならない。まさしくこの観点か
らヘーゲルは芽を即自的植物とみなし、子どもを即自的人間とみなしたのである。あらゆる事物は最初は即自的である〔それ自体
のなかに始まりがある〕、とヘーゲルは述べている。ア・デボーリンは、この問題設定において興味深いのは、ヘーゲルが事物の認
識可能性を事物の発達と―より一般的な表現を用いるなら―、事物の運動・変化と結びつけていることだ、と考えている。この観点
から、ヘーゲルは完全な根拠をもって、『対自的 для себя 存在』のもっとも身近な事例は私たちにとって自我である、と指摘してい
る。「人間を動物から区別し、したがって、概して自然から区別するのは、主要には、人間が自分を自我として知ることによってであ
る」。
自己意識を発達しつつあるものとして理解することは、移行期〔少年期〕のこの中心的事実への形而上学的アプローチから私た
ちを最終的に解放している(1931 / 1984, с.232 // 2004)。
ヘーゲルは、ほかならぬ『精神現象学』のなかで、自己意識を「即自的な自己意識」から「自由な自己意識」
への発達(弁証法的運動)として哲学的に描いているのであるから、上記のように述べるヴィゴツキーは明らか
に『精神現象学』を意識している、と考えてよいであろう。両者がどのようにパラレルな関係にあるのかについて
は、後述することにする。
3
なお、『精神現象学』において、ヘーゲルとヴィゴツキーの接線として現れているものは、「即自」「対他 для
других」「対自」の概念であろう。ヴィゴツキーは子どもの指示的身ぶり(指差し)を事例にとって、それを上記の
三つの概念を用いて特徴づけ(不首尾におわる捕捉の動作、近くにいる大人による意味づけ、指差しの成立)、
さらに、それを子どもの文化的発達の一般法則にまで高めた(1929 / 2003,с.1021 // 2008, pp.239-40, 1931 /
1983, с.143-4 // 2005, 180-1)。その際、ヴィゴツキーは「ヘーゲルの分解」(1931 / 1983, с.143 // 2005)に言
及し、上記の三つの概念がヘーゲルに由来するものであることを示唆している。もっとも、筆者ははたして「対他」
はヘーゲルのなかに含まれているかどうか疑いを持っていたが、ヘーゲルが考察する自己意識の発達過程のな
かに含まれていたのだ。もっとも、それは「対他」という用語はほとんど使われていないが、内容的には類似した
ものである(後述)。
5
IV 悟性・自己意識・理性
ヘーゲルの『精神現象学』における自己意識論の優れた特質は、(1) 悟性と理性を区別したうえで、(2) 悟性
から理性への移行の中間に自己意識がおかれていること、 (3) さらにその自己意識を発達するものとして考察し
ていること、である。
だが、その前に、『精神現象学』においては、すべてが流動し、運動し、発達していることを強調しておかねばな
るまい。固定的に捉えられがちな「弁証法」そのものも、「真理」も、絶えず運動している。命題(規定)―その否定
(止揚)―否定の否定(止揚の止揚)という弁証法の本質的モメントはいずれにおいても認められるが、たとえば、
「感覚的確信の弁証法」(1807 // 2002, с.57 // 1997)ということばは、感覚的確信の次元における「この存在に
固有な弁証法」(同上, с.52)を含意している。敷衍すれば、本質的モメントは同一だとしても、具体的には、知の
各段階に固有な弁証法が働いていることになり、こうして弁証法そのものも生きいきとするのである。このことに
ヘーゲルが用いる「真理」「真なるもの」ということばも関連してくる。ヘーゲルは真理さえも運動すると捉えてい
る。それは、「感覚的確信の真理」(同上, с.53)、「知覚の真理」(同上, с.62, 63)、「悟性の真理」(同上, с.81)
ということばが含意しており、知の各段階に固有な運動が顕わにする固有な存在こそ、ここでの真理なのである。
しかしながら、本章の問題を焦点化するために、知の壮大な運動―つまり知的側面から捉えられた《人間の
弁証法》―をいったん止めて、ヘーゲルによりながら、感覚的確信、知覚、悟性という《事物―意識》の連関にお
ける知の諸段階にもっとも固有なそれぞれの「真理」とそのそれぞれの限界について指摘しておこう。
1
すでに述べたように、感覚的確信にもっとも固有な真理とその限界は、世界と私との関係は直接的、無媒介的
であり、感覚的確信は「いま」「ここに」ある事物の無媒介的な豊かさをもった知であることだが、それを抽象する
と(止揚すると)、驚くべきことに、豊かな内容がなくなり、ただ残るのは空疎な「有る сущее」のみである。まるで
光と緑と草花とワインに満ちた世界から一挙に闇の世界に転落したかのようなものが止揚の結果であった。ふ
たたび、驚いて、それを止揚すると、もとの「いま」「ここに」に逆戻りする。つまり、感覚的確信の次元における知
の運動は、このように平面において円環を描いているにすぎない。純粋な個別性―内容が空疎な普遍性(この
場合は内容のない「有る」)―その単純な円環の運動は、実は、悟性にいたるまでの《事物 ―意識》の連関にあ
る意識論に尾を引いている。
2
次に登場する知覚は感覚的確信とは正反対に、すでに媒介的な知であり、純粋な普遍性であった。その単純
な普遍性を支えるものは、知覚の過程を表す「指し示す運動」のモメントと「対象」の運動のモメントである(同
上, с.60)。「指し示す」というのは、たとえば、《これは時計だ》という語であらゆる時計という対象を指示すること
を意味する。それが純粋な普遍性である。だが、感覚的確信が個別性を表したのに対して知覚は普遍性を表し
ている、というだけではない。知覚はそれよりも先に進んでいきながら、新しい袋小路につきあたる。知覚は対象
6
との関係では単純な「一つ」の統一から始まるのだが、その統一の内部に「区別」をもたらす。つまり、「一つ」の
もののなかに「多数」の性質が把握される。たとえば、ヘーゲルが述べていることだが、塩という「一つ」の事物に
は、「白くもあり、また辛い味でもあり、また立体でもあり、またある重さもある、等々」(同上, с.61)と「多数」の性
質が認められる。これらの性質は、個別性のなかにあった感覚的確信の知の豊かさが普遍の次元で示されたこ
とに意味をもつものの(同上, с.61)、それらはお互いに影響を与えることができず、知覚の考察はここから先に
は進めない。たとえば、「白い色は立体であるものに影響を与えないし、それを変更しない」(同上, с.61-2)ので
ある。もう一つの袋小路は、知覚には錯覚のような幻想がつきものである、という点にある。ヘーゲルは、知覚の
次元において「対象は真なるもの」であるが、意識は「自己にとって変わりやすく非本質的なもの」であるので、こ
こから幻想が起こることもある、と考えている(同上, с.63)。なお、ヘーゲルは、第一の袋小路に関連して、「一
つ」の統一をなしている事物の多数の諸性質は「言語 язык とはまったく異なる私たちの眼などに照応して」(同
上, с.65)分解される、とより具体的に述べている。このことは第二の袋小路にもかかわってくるであろう。
3
さて、悟性についてであるが、ここではヘーゲルが区別した悟性と理性の相違を念頭において述べることにす
る。「一つ」の事物のなかに区別を設けることは知覚の次元において始まったが、その次元では区別されたモメ
ントがどのような連関ももたないところに特徴があった。知覚が対象とする事物はただ多数の性質をもつという
ことにとどまるのである(塩の事例)。悟性は、それを乗り越えて、区別されたモメントを関連づけるようになる。ヘ
ーゲルは古典力学的な運動を念頭において、区別されたモメントを考察している。それは「自己の外的発現」と
「自己へと逆戻りする力」(同上, с.73)、端的にいえば、力の作用と反作用のことである。力はたしかに二分され
るが、「それら〔二つの力〕の存在はむしろ他のものを通して純粋に措定される」(同上, с.76)のであって、「各々
の力は他のモメントのおかげで…有る」という相互依存性は認められるが、それ以上のものではない(同上)。そ
こには対立性や否定性が見られないわけで、そうであるのは「これらの力には、それらを担いそれらを保持するか
のような固有の実体 субстанция をもっていない」(同上, с.76-7)からである。結局、悟性は力という概念によっ
て現象のなかに入り込み、事物の「内面」〔内的本質〕に浸透しはじめたが、力を重量に還元し、種々に規定され
る諸法則を一つの大法則(万有引力)に溶かし込むことによって、事物の個別性から無制約的な普遍性に戻っ
ていくのである。それは、すでに述べた感覚的確信の真理であった、個別性の放棄による空疎な普遍性の獲得
を、次元は異なるが引きずっている。ヘーゲルが「二つの力の戯れ」(同上 , с.75)と述べたのは、このことであろ
う。
4
二つのモメントの相互依存性とそれを超える(止揚する)ものについて、いくらかの補足を述べておこう。《左》
は《右》があって初めて成立するものであり、その逆に後者の前提は前者でもある。しかし、それらを平面におい
て動かしてみれば、いま《左》であったものは《右》にもなりうる。これらは平面の一つの相対的モメントとして意
味を持ち得ようが、せいぜい、《左》と《右》の対立から出てくるものはそこまでであろう。二つのモメントの相互依
存性が語ることはそのようなものであり、それはそれらのモメントが「固有の実体」を持たない、単純な(したがっ
て空疎な)概念にほかならないからであろう。その対立は真の対立ではない。これが悟性の特質であり、ヘーゲ
7
ルが悟性を「常識」(同上, с.69)と呼んだことはよく理解できる。この悟性を超える理性の立場とはどのようなも
のか。《有る》と《無い》を事例にして考察してみよう。さしあたり、《左》と《右》と同じように、《有る》も《無い》も
お互いを前提にして依存しあっている。考えやすくするために私という存在を例にとれば、私が《有る》というのは、
誕生するまでは私は《無い》ものであったからであり、死にいたって私が《無い》になるまでは《有る》ということ
である。二つの《無い》によって区分された時間に私は《有る》ということになる。これは悟性の認識であり、《私
が死ぬのは私が生まれてきたからだ》と言ったり、《私が生まれてきたのは死ぬためである》と言ったりすれば、
たしかに少々の深みが感じられるものの、悟性から一歩も外に出るものではない。それは《ことばの戯れ》にすぎ
ない。
それに対して、この場合、理性の知は、《有る》ことのなかに《無い》ことを捉え、同じことであるが、《無い》こと
のなかに《有る》ことを把握するところから始まる(有と無の統一)。私が《有る》、つまり、生きていることを細胞レ
ベルの実体として捉えるなら、動物において二つの新しい細胞への分裂を含む細胞発生過程はたえず、「アポト
ーシス細胞」つまり「死につつある細胞」が主として小さくなり、周りの細胞に吸収されていく「プログラム細胞死
programmed cell death」を含んでいる(Lewin, Benjamin et al., 2007, p.534 // 2008, p.431)。また、精神の
次元で捉えるなら、私のなかに新しいアイディアが浮かんだとき、それを同類のそれまでのアイディアと区別、比
較、対立させ、新しいアイディアがより真理に近いと考えられるときには、古いアイディアにはその有効な範囲を限
定するとか、転倒させるとかの変更を蒙らせて(止揚して)、古いアイディアそれ自体の死を準備することになる。
このように《有る》ことは《無い》ことを内に含むのである。
5
だが、ヘーゲルによれば、悟性から理性に移行するには、それまで事物を対象にした意識のなかでの知から、
意識を対象にした意識における知への大きな飛躍が必要であり、そこに自己意識が姿を現してくる。それは人間
の知が事物の「内面」に浸透していく不可欠の媒体である。ヘーゲルの表現を用いれば、現象の「内面」は幕で
遮られている。その幕の前で立ち往生しているのが《事物 ―意識》の直接的連関のなかにある知(感覚的確信、
知覚、悟性)である。その幕の後ろに私たち自身が回りこまねばならない。「『内面』において『内面』を凝視する
こと」(1807 // 2002, с.92 // 1997)が必要だからである。つまり、《意識―意識(自己意識)》の連関が必要とな
るのである。
V 自己意識の発達
『精神現象学』では、それが考察の対象とした「感覚的確信」「知覚」「悟性」「自己意識」「理性」「精神」の
各々とすべてとが流動と生成の相において捉えられているので、自己意識についても、即自的な自己意識から
「自由な自己意識」への移行の過程が考察されねばならない。つまり、直接的な統一をなしている自我、「私は
私である」というトートロジカルな自我、まだはっきりとは意識されていない自我から、そのなかで対象が概念に
おいて運動する自由な自己意識への移行過程に、何があるのかを明らかにせねばなるまい。
ヘーゲルの観点からすれば、直接的な統一をなす「ひとつのもの」が崩れていく最初にあるものは、概して、
「ひとつのもの」の内部に生じる「区別」である。もちろん、それはどのような「区別」でもよいわけではなく、区別さ
れたモメントが何らかの対立性を含んでいなければならない。たとえば、『思考と言語』第 7 章に示した語の分
8
析を例にとれば、語の言語論的側面と意味論的側面との「区別」は、連合主義的理解にとどまれば最初の音声
と意味との連結がそれ以上の展開を拒む固定的で静止的な「区別」に他ならないが、両側面の対立性を許容
するとき、やがて言語論的な「崩壊」(語のかけら化)が意味論的には意味の操作や「発達」の条件となるような
内言の生成を準備する「区別」ともなる。自己意識の場合、そのような「区別」は、基本的には、「自己のもの」と
「他のもの」との区別であろう。
そのことは、自己意識とそれ以前の意識とについてヘーゲルが行った比較によって示唆される。彼が言うには
自己意識という「新しい形式の知―自己自身についての知」を「それ以前のもの―『他のもの』についての知」
に関連づけて考察すると、この以前の知は消え失せるが、その知のモメントは同時に保存されている。ここで喪失
するものは、「即自的である」ということ、あるいは「意識にとって単純な自立的存在」なのである(1807 // 2002,
с.93-94 // 1997)。このように、自我が意識されること(自己意識の生成)によって、「他のもの」の知(感覚・知
覚・悟性の知)が対自的になるのであるから〔前記引用の「『対自的存在』のもっとも身近な事例は私たちにとっ
て自我である」というフレーズに着目されたい〕、自己意識のなかに生じる基本的な区別は「自己のもの」と「他
のもの」との区別であると見なしてよいであろう。
そうであるなら、自己意識の生成過程において「自己のもの」と「他のもの」がどのように浸透しあったり、対立
しあったりするのかを把握することこそ、ここでの課題となる。ヘーゲルが行った自己意識の三つの予備的規定
――(a)区別されていない自我についての直接的考察〔初期の自己意識〕、(b)自我の直接性の媒介性への転
化、(c)自己意識の二重化――に沿って、この課題を扱うことにしよう。
自己の自我の認識は「純粋な区別されない自我」(同上, с.98)の直接的認識から始まる。それは、「私は私で
あるという、運動を奪われたトートロジー」(同上, с.94)にすぎない自我の認識である。それはある意味では安定
した統一としての自我であるが、しかし自己意識はそこにとどまることはなく、その安定した統一は自己意識の運
動の起点にすぎない。重要なことは、ここで、自己意識をさらに先にすすめるものは何であるのか、を明らかにす
ることである。
それは、二つ目の規定にやや抽象的にあらわされている。――「この直接性そのものは絶対的な媒介性であ
り、この直接性は自立的な対象の止揚としてのみ有る。つまり、直接性は欲求である。欲求の充足は、なるほど、
自己意識の自己自身への反照〔省察〕であり、あるいは、真理となった確信である」(同上 , с.98)。これを吟味し
てみるに、まず「この直接性そのものは絶対的な媒介であ」るとは、自我が認識されていくと、自我の認識の最初
にある直接性、自我の直接的認識が媒介性に転化するようになることである。それは何に関する、どのような意
味を持つ媒介であるのかを言えば、何よりもまず、意識の自己帰還と、それに伴う「他のもの」に関する知の内容
を自己のなかに引き寄せてくる(対自的存在にする)こととのための、媒介性への転化であろう。自己意識の生
成以前の、事物に対する直接的な知の次元において、対象は自己にとって自立性をもつものであり、意識は〔ま
だ意識された自我という自己の軸がないのであるから〕その対象における付属物のように他在 инобытие とな
り、外的対象に住まうような意識であったが、そうした「他のもの」の知も、意識の自己帰還 оттесненное
обратно в себя сознание とともに、自己の軸のまわりに引き寄せられる〔言いかえれば、外的対象の自立性
は喪失する〕。つまり、自己意識によって、意識の自己帰還が生じるのと同じように、対象は自己意識にとって否
定的なものであるとはいえ、「対象の自己への帰還」(同上, с.94)が生じる。このように、ここでの媒介性を理解
する第1のモメントは、他在から自己への意識の帰還 возвращение из инобытия であり、外的事物の対自的
存在化である。これは、純粋な意味での「他のもの」に関する知のとりあえずの終焉であり、自己意識の生成の
顕在化の始まりである。だが、ここまでは、まだ、トートロジカルな自我の相であると、ヘーゲルは考えている。
9
第 2 のモメントによって自己意識は運動し始めるが、このモメントの内容は、先の自己意識の予備的規定(b)
の後半に述べられている「欲求 вожделение」と「省察」である。ここでまず重要になるのは「生命 жизнь」の概
念であろう。「自己への反照〔省察〕のおかげで、対象は生命になった」(同上 , с.94)というヘーゲルのことばが
含意するものは、外的対象が自己にとってのもの、対自的なものとなり、生きいきとし、見えやすくなった、というこ
とであろう。ここで自己意識は自己と有(ことに自己に帰還した対象)を区別しはじめるが、そのように区別される
有は感覚的確信や知覚の様式のものであるとともに「自己に反照した〔省察された〕存在 рефлектированное
в себя бытие」(同上, с.95)でもある。ヘーゲルはここで「直接的な欲求の対象は生きたもの〔生命〕である」
(同上)と述べて、その理由に、事物の「内面」に対する悟性の関係、その即自的、普遍的結論は「区別に値しな
いものの区別」(同上)に、いわば死んだ区別にもとづいていることを挙げている。この文脈から考えると、また、ヘ
ーゲルの『精神現象学』が対象にしているのはもっぱら人間の知にあるのだから、彼の用いる「欲求」の語は知
的欲求を表している。そして、悟性が事物の内面に入りつつも〔形式論理学がそうであるように〕事物の外側にあ
る結論にたどりつくこと、を考慮すれば、欲求とは、より深く事物の内面へと浸透したいという欲求、言いかえれば、
悟性から理性への移行を担うもの、と捉えてよいであろう〔この欲求の観点から悟性の行きつく先を特徴づける
なら、「自己自身の放棄」(同上)にもとづく普遍性である〕。
ここに考察をとどめておけば、上記の第 3 の予備的規定――「自己意識の二重化」――は余計なものであろ
う。外的対象であったものが自己帰還し、考察される内的対象となり、それが生命を持ち、運動する。だが、生命
にむけられた自己の欲求がその運動をより深く把握する、とだけ捉えるとき、意識している自己そのものは固定
的なものになってしまう。ヘーゲルは外的であった対象が自己の内部で行う運動とともに、自己そのものの運動
をも捉えようとする。つまり「発達しつつある自己の発達」(同上, с.97)がどのように生じるのかを認識しようとす
るのである。この点について、ヘーゲルは、自立的諸形成物の統一化、統一と分裂、「他のもの」である故の自立
性と止揚、自己意識と生命の対立、生命を対象にする欲求による自我と対自的存在の再編、類と個などの弁証
法的諸概念によって究明しようとしているが〔その各々の内容は省略する〕、小論にとって重要なことは、自己意
識なしには対自的存在としての事物〔意識された外的事物〕は生じないこと、自己の内部での統一と分裂は無
限に〔その人が死をを迎えるまで〕続くことであり〔ここでのヘーゲルの論理はその後に細胞学が明らかにした細
胞分裂にもとづく新しい細胞の誕生と「アポトーシス」というプログラム化された細胞死とによる細胞の自己運
動に似ている(Lewin, 2007 // 2008)〕、さらに、そこでの知の形式は自我が絡むことによって個性的形式になっ
ていくこと、その形式において自己の自己意識と「他のもの」としての自己意識が生じること、そして、ここに「自
己意識の二重化」が生まれること、である。これらは、根本的には、自己意識の生成による意識の自己帰還〔それ
と同時に起こる対象の自己への帰還、対自化〕の故に生まれる、自己意識における「自己のもの」と「他のもの」
の相互浸透と対立性のなかで生じていることであろう。
ヘーゲルはこのような「自己意識の二重化」という論理的結論を、やや人格化し、それ故に、より現実に近づい
て、説明している。それは二人の個人――自己という個人(自己の自己意識)と他者という個人(他の自己意
識)との関係である〔もっともこれは自己の自己意識のなかで生じていることなのであるが〕。自己意識の生成に
いたるまでの知覚と悟性は「自己自身の放棄」を強い、「自己自身を他のもののなかに見る」( 1807 // 2002 //
1997 , с.99)ことをさせたのであるから、そのような意識の自己帰還の始まりにおける「自己のもの」と「他のも
の」 ―― 二人の個人 ―― は直接的な統一をなしつつ、その分解にあたって相互に承認しあっている(同上 ,
с.101)。
これを知の発達の側面に敷衍すれば、人はそれまでの感覚・知覚・悟性を肯定的に自己に取り込み、それらを
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自己のなかでシステム化しはじめることであろう。しかし、事柄は平坦には進まない。二人の個人(二つの自己意
識)は――下僕と主人という形で――対立し、比喩的に言えば、生死をかけた闘争が行われ、やがて「死の畏れ
絶対的主人の畏れ страх смерти, абсолютного господина」(同上, с.105)とその克服を迎えることになる。
自己の自己意識はここで下僕の自己意識として示されているものである。ヘーゲルは述べている ――「自立的
な意識の真理は下僕の意識である。なるほど、この下僕の意識は最初の頃には、自己の外側に現れ、自己意識
の真理として現れない。〔中略〕〔下僕の意識の〕隷属性は自己に帰還する意識として自己の方に去り、真の自
立性に戻るのである」(同上, с.101)。再び知の側面に敷衍しておこう。最初の頃に「自己の外側」に現れる真理
とは、悟性の知のことであろう。しかし、それは「自己自身の放棄」を強いるという意味で「隷属性」をもたらしてい
る。それは悟性の知が自己の納得を通して教えられたとしても、本質的には、主観性の克服という名のもとに「自
己自身の放棄」が実現される、という点によく現れている。もちろん、これは必然的な過程であった。意識をめぐる
中心軸は事物の方にあった。意識の自己帰還は「隷属性」の克服をもたらし、自己を軸にして、いままでの悟性
の知を再吟味させはじめる。その再吟味の果てにあるものが自己にとっての知のシステム化であり世界像の構
築なのである。その過程において「絶対的主人の畏れ」の克服――悟性の知を位置づけ直し、悟性による隷属
からの脱却――が生じるのである。
そのとき、人は自己の論理と枠組を獲得し、自己意識の最後の段階、半ば理性の領域に足を踏み入れた段階
である「自由な自己意識」(同上, с.107)に達する。ヘーゲルはそこにおいて、かなり狭義の意味においてではあ
るが、「思考」が働きはじめ、形象や表象ではなく概念のなかで対象が運動しはじめる、と考えている。その概念
はまずは「私にとっての概念」「私の概念」(同上)なのである。これは、ヴィゴツキーの規定によれば、「意識の意
識」としての自己意識であるが〔より正確には事物―意識―意識という新しい連関である〕、これをメタ意識と考
えるのは事柄の一面しか捉えておらず、「私の概念」である点、自己意識はあくまでも自己への意識である点、つ
まり、ここでの「意識の意識」は個性的なものである点、を見逃してはならないであろう。
ここにある、ヘーゲルの「自由な自己意識」が含意するものの一つは、それまでの主観性と客観性の関係〔主
観性の放棄としての客観性〕が逆転され、両者の新しい関係〔悟性的客観性から、主観性に導かれて獲得され
るより深い客観性へ〕が切り拓かれるのである。
〔補足〕2007 年に出版されたオスカー・ブレニフィエらの著した絵本『大きな哲学的対立の本』(2007 // 2011 // 2012、邦訳『哲
学してみる』)は、邦訳が出版された 2012 年にすでに世界 19 か国で出版されている、というのだから、真にポピュラーで画期的な
哲学絵本である。その魅力の一つは、哲学書が論理によって論証するところをイラストによって著していることにある。たとえば、「自
由と必然」という項には、「金魚鉢から跳び出す金魚」が描かれており、「狭い金魚鉢から跳び出すのが金魚の自由である」とか、
「だが、そうすれば金魚は死ぬ以外にないのだから、金魚鉢のなかでのみ金魚は自由である」とか、あるいは、「重要なことは金魚
が生きていく生存条件の必然をとらえることであり、金魚鉢から池に跳び込むなら、金魚はより自由である」など、イラストの提示に
よって多様な解釈が可能になる。この点できわめて教育的な絵本であろう。いま一つの魅力は、ヘーゲルの哲学がきわめて平易に
描かれていることである。この絵本が対象にする項は「一つと多数」「有限と無限」「存在と外見」「自由と必然」「理性と情動」「自
然と文化」「時間と永遠」「わたしと他者」「肉体と精神」「能動的と受動的」「客観的と主観的」「原因と結果」であり、その各々が対
立と統一において一貫して語られている。
この絵本から「客観的と主観的」の項を取り出しておこう。出版されている日本語版は訳がクリアでないところもあるので、オリジ
ナルのフランス語版とその翻訳であるロシア語版を参照して、訳出しておく。
「悲しいとき、私たちはコップは半分空っぽだと言い、幸せなとき、私たちはコップには半分入っていると言う。だが、コップには〔ど
ちらの場合にも〕60ml 含まれていることを測ることもできる。
しかし、地球は丸い、重いモノは飛ぶことができる、あるいは、病気は微生物から起きる、と科学者が初めて主張したとき、彼は自
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分だけの危険な思想の持ち主あるいは痴れ者と批難されたのである。
それとは逆に、音楽家や詩人は、自分の感情を表現するとき、全世界に通じるもの ―― 愛、苦悩、歓喜 ―― を描くことができ
る......こうして、客観性を見つけるために、ときに私たちの主観性の果てにまで行かねばならないし〔ロシア語版では「主観性に導
かれることが必要である」〕、ときに主観性を放棄しなければならないのである」(p.72)。
最初のコップの事例は「主観性の放棄」を表しており、科学者と音楽家・詩人の事例は「主観性の果てにまで行く」ということを
示している。
ところで、科学者の事例を現在進行中の事例で補うことができる。たとえば、万能細胞の一つである iPS 細胞の発見(創造)は、
切断された指を自然に再生するヤモリに比すべき再生能力を人間も潜在的に具えているという山中教授の夢想(主観性)から始
まった。人の皮膚細胞の内部に入り込んで得られた 4 つの細胞核の培養によって万能細胞が発見され、それが各国の研究機関に
よって実証されたとき、山中氏の夢想は客観的真理となった。これは自己意識の生成にともなう主観性が新しいものの理性的認
識をもたらす、きわめて高度な一事例であろう。主観性と客観性の逆転、事物の「内面」への洞察が氏の発見と創造を支えている。
VI スピノザにおける情動発達図式との接合
1
スピノザ情動理論をいかに理解すべきかを論じる前に、「ヴィゴツキーはスピノザをどのように読んだのか」に
ついて、簡単にまとめておこう。
(1) ヴィゴツキーはスピノザをデカルトのアンチテーゼと捉えている。ヴィゴツキーは、スピノザとデカルトの継承
関係を説くフィッシャーのアイディアを考察しつつ、スピノザは初期の著作『短論文』においてさえデカルトの「身
体情動理論」に由来しないもの――観念と情動の関係――が考察の中心を占めている、と述べる。それはデカ
ルト理論のなかには、「月の裏側」のように、眼にすることができないものであった。哲学史は、ある意味では、 テ
ーゼとアンチテーゼの波と捉えることができるとすれば、のちにヘーゲルがスピノザの実体を絶対理念・絶対精
神へ転化させ、それによってスピノザにアンチテーゼを突きつけたように、「 スピノザは、当時、デカルトに対してア
ンチテーゼを、ただし唯物論的なアンチテーゼを提示した」のである(1933 / 1984, c.170)。
(2) ヴィゴツキーはスピノザ理論のなかに弁証法の諸要素を見出している。そのもっとも雄弁な事例は、スピノザ
が神について定義したなかに含まれる「自由なる必然性」であろう。『エチカ』第1部定義7は「必然」「強制」「自
由」の諸概念を規定している。すなわち、自由は事物が自己の本性の必然性のみによって存在し行動に決定さ
れることであり、強制は他から決定されることである。この意味での《自由なる必然性》をもつものは一義的には
神であり、全体としての自然(神または自然)である。
上記が実体論の次元における規定であるのに対して、認識論の次元ではスピノザは次のように述べている。
―自由は「自由なる決意に存する」のではなく「自由なる必然性に存する」 (1999II, с.512, 書簡 58)。また、国家
論においても、スピノザは、「自由は〔中略〕行動の必然性を排除せず、かえってこれを前提とする」 (1999II,
с.256, 国家論第 2 章第 11 節)と述べるのである。.
さらに、ヴィゴツキーは、「光が己と闇とを顕すように、真理もまた己と虚偽との尺度である」(『エチカ』第 2 部
定理 43 備考)というスピノザのことばのなかに「弁証法的否定」を見出している。たとえば、「構造心理学におけ
る発達の問題」の冒頭には次のように書かれている:「私たちはこの試論で構造心理学における発達の問題を
研究したいと思う。...... 私たちの研究では、この理論の真理に依拠し、その助けによって、この理論に含まれこの
理論をぼかしている誤った命題を顕わにするであろう。なぜなら、スピノザの偉大な考えによれば、真理は自己
12
自身と虚偽とを照らし出すからである」(1934 / 1982, c. 238 // 2008, p. 77)。具体的に言えば、ここで言われて
いる真理とは《構造》それ自体のことであり、誤った命題とは本能的行為と動物の知的行為と人間の知的行為
のあいだにある質的差異を捉えられない構造の非発達性のことである。ヴィゴツキーは、「人間の意識の全構造
と全システムが動物の意識の構造とは別のものであるから、両者の構造の何らかの部分的な一要素(知的操
作)を同一視することは不可能である。なぜなら、この要素の意味は、それが含まれる全体に照らしてのみ明瞭に
なるからである」(同上 , c. 268, p. 114-5)と述べて、構造による部分の規定という真理によって、本能と動物と人
間のあいだの機能の同一視という虚偽を顕わにしている。このようなスピノザ的真理観の理解は、過去と同時代
の諸理論を批判し、そこに含まれる積極的なものを余さず保存する、すなわち諸理論を止揚することを保障して
いる。
(3) ヴィゴツキーによれば、現代の心理神経学の見地からスピノザの情動理論を照明することは、同時に、ス
ピノザ理論から情動の本性をめぐる現代的状況への照明でもある(1933 / 1984, c. 101)。ここでヴィゴツキー
が念頭に置いている心理神経学とは、主として、身体の状態を情動の原因と見なす身体情動理論としてのジェ
ームズ−ランゲ理論と、視床と大脳皮質による情動の二重コントロールを指摘するキャノン−バード理論である。
情動に関するスピノザのいかなる定義がどの心理神経学理論と結びついているのだろうか。まず、『エチカ』
第 3 部定義 3 に示された「私が感情と解するものは、身体自体の行為への能力を増大させたり減少させたりし
この能力を増進したり制限したりする身体の状態( corporis affectiones)であり、それとともに、その状態の観念
である」という身体と情動の関連にかんする規定は、心理神経学からどのように解釈されるのであろうか。その
解釈は身体情動理論からも可能である。たしかにヴィゴツキーは初期の『教育心理学』においては情動をジェー
ムス − ランゲ理論に依拠して論じている。しかし後の、心理神経学的研究をも視野に入れた『情動に関する学
説』では、ヴィゴツキーはむしろキャノン−バード理論から上記の規定を再解釈している。「身体の状態」を情動と
規定することは、なるほど、身体の状態を情動の原因とすることも情動の結果とすることも可能である。だが、ヴィ
ゴツキーがキャノン−バード理論からの解釈に傾いたのは、キャノンによる実証的研究を知ったからであろう。スピ
ノザによる上記の情動の定義に関して、ヴィゴツキーが「活動のより高次の水準に個人を高める情動の動力発
生的作用の実験的証明」(1933/ 1984, c.101-2)と特徴づけるキャノンの初期の研究は、異なる情動のもとでも
身体反応は類似していることや、情動状態と非情動状態(痛みや窒息など)との条件の違いにもかかわらず身
体反応は同一であること、を明らかにしたのであり (1933 / 1984 // 2006, 第 3 章)、それ自身が身体情動理論
への痛烈な批判であった。
さらに、スピノザが『短論文』で示した情動理論(それは『エチカ』にも引き継がれている)、すなわち観念から
派生する情動は、思惟と情動の連関を問うものであり、神経学的には、大脳皮質の関与を前提している。この面
では身体情動理論(本質的には末梢神経理論)は問題になりえない。ジェームスが「粗大情動」を生きいきと記
述し考察しているものの「繊細情動」の解明には説得力を失うのは、そのためであろう。ジャクソンやクレッチマー
が明らかにする高次機能による低次機能のコントロール(そのコントロールが何らかの原因で弱化すると、低次
機能が従属性を脱して自立性を帯びてくる)のアイディアは、キャノン−バード理論を支え、この理論が「繊細情
動」とともに「粗大情動」をも神経学的に説明することを可能にしている。
(4)こうして、『エチカ』において身体と情動の連関をも思惟と情動の連関をも捉えようとするスピノザに全体
として光を当てうる心理神経学は、キャノン−バード理論である。しかし、ヴィゴツキーはスピノザの神経学的理解
に満足したわけではなかった。スピノザのなかには、以上によって汲み尽くせないものがあるからである。もし情
動においても低次機能から高次機能への発達が生じるとすれば、身体−情動の連関から思惟−情動の連関への
13
発達的転換、さらに、「思考を動かすもの」(「知的遅滞の問題」1935 / 1983, c. 249)としての感情から「思考に
動かされるもの」としての感情への転換が何によって起こるのかを明らかにしなければなるまい。ヴィゴツキーは
そうした解明をスピノザ自身のなかに見出している。
そのような転換の礎石は、自己の感情を認識することによって感情の変化させうる、という点にある。ヴィゴツ
キーは次のように述べている。―「......スピノザが正しく述べたように、私たちの感情の認識は感情を変化させ、
感情を受動的状態から能動的状態へと転化させる。私が自分の外側にある事物について考えても、その事物の
なかの何ものもまったく変化しないが、私が感情について考え、感情を私の知性と他の領域とに対する他の関
係のなかに位置づけるならば、そのことは私の心理生活のなかの多くのものを変化させる」 (1930a / 1982, c.
125-6 // 2008, p. 30)。外的対象はそれについていくら考えをめぐらしても、その対象そのものは変化しないが、
自己の感情の認識はその感情を変化させる。それは、知性との新しいシステムのなかに感情を置き換えうるから
である。
だが、ここでの問題は、このように述べるとき、ヴィゴツキーはスピノザのどのような命題に依拠したのかにある 。
ヴィゴツキーは、おそらく、前述の『エチカ』第 3 部定義 3 や、第 5 部定理 10(「我々は、我々の本性と相反する感
情に捉えられない間は、知性と一致した秩序に従って身体の変状〔刺激状態〕を秩序づけ・連結する力を有す
る」第 5 部定理 10)、第 2 部定理 22 証明に示された「身体の変状の観念の観念」などを念頭においているであ
ろう。そして、より直接的には、スピノザの次のような言説であろう。―「各人は自己ならびに自己の諸感情を、た
とえ絶対的にでないまでも、少なくとも部分的には、明瞭判然と認識する力を ......有する」(第 5 部定理 4 備考)。
さらに、「感情に対しては、感情を真に認識することに存するこの療法を措いては我々の力の中に存するこれより
いっそうすぐれた他の療法は考えられない」 (同上)。ここで述べられているのは、自己意識の問題であり、その一
部である自己の情動の認識の問題である。このようにスピノザのアイディアに含まれているが、心理神経学から
見えないものは、生命の維持と密接に関係する「粗大情動」を文化的な「繊細情動」に、低次の情動を高次の情
動に押し上げ、身体―情動の連関を思惟―情動の連関に移行させていくものが自己意識の生成である、という
ことだ。
2
上記のような、自己意識(その一部としての自己の情動の認識)を通した、低次の情動から高次の情動への
移行、身体―情動の連関から思惟―情動の連関への転化とは、情動の発達(とくにその転換点)にほかならな
いのであるから、こうして、ヴィゴツキーはスピノザの情動理論のなかに情動発達理論を見出したことになる。
論証の網の目のなかにあるかのようなスピノザの情動理論を、ヴィゴツキーに導かれながら発達の観点から
考察してみると、私たちはスピノザのアイディアのなかに情動発達の五つのフェーズを見出すことができる。
(1)まず第1のフェーズは、スピノザの感情に関する定義に示されているように、「身体の状態」としての感情で
ある(『エチカ』第3部定義3)。これはもっとも原初的な情動と考えてよいであろう。それは次のようなスピノザの
ことばが表しているような、コナトゥス―欲望―願望という流れのなかにある情動、もっと端的に言えば、「人間の
自己保存」に役立つ情動である。スピノザは述べている。
この志向〔стремление, コナトゥス〕は、それが心だけに関係するときには、意志 воля と呼ばれる。この志向が、心と身体にとも
に関係するときには、 欲望 влечение と呼ばれる。したがって、欲望は人間の本質そのものにほかならず、欲望の本性から人間の
保存に役立つものが必然的に生まれ、こうして、人間はこの方向に行為することを定められる。さらに、欲望と願望 желание とのあ
14
いだには、願望という語が、大部分、その欲望が意識されるときに人間に関係する、という相違が存在する。それ故に、願望は意識
された欲望であるという定義を与えることができる(第 3 部定理 9 備考)。
なお、上述したように、この感情の定義はジェームス― ランゲ理論を許容しうる。なるほど、初期のヴィゴツキー
はスピノザの定義を根拠の一つとして身体情動理論を肯定しているように見えるが、ヴィゴツキーは後に、この考
えを改めている(『情動に関する学説』第 9 章を見よ)。その動機は、直接的には、心理神経学的研究を渉猟した
ことから、この面での身体情動理論の破綻を意識したことにあったが、スピノザに即して言えば、それ以外の感情
に関する諸観念との整合性が失われるためであろう。つまり、「身体の状態」としての感情というアイディアだけ
では、情動の発達が見えてこないからである。
(2)第2のフェーズは、スピノザの上述の定義の後半にある「身体の状態の観念」としての感情であり、ヴィゴツ
キーの表現を用いれば、「思考をある方向に動かす情動」である。ヴィゴツキーは、スピノザの上述の感情の定義
を念頭におきつつ、この情動について、次のように述べている。
私たちの行為が、原因なしに発生するのではなく、ある力動的過程、欲求、感情的動機によって動かされるように、私たちの思考
も、たえず動機づけられ、心理学的にひき起こされ、なんらかの感情的動機から生まれてくる。それによって、思考は動かされ、方向
づけられる。力動的に動機づけられない思考は、原因のない行為と同じように、ありえない。この意味で、すでにスピノザは、私たち
の身体の行為への能力を増大または減少させ、ある方向に思考を動かすものとして、感情を定義している(前出「知的遅滞の問
題」)
ヴィゴツキーのフレーズ―「すでにスピノザは、私たちの身体の行為への能力を増大または減少させ、思考を
ある方向に動かすものとして、感情を定義している」―は、あきらかに前述の『エチカ』第3部定義3を考慮してお
り、「思考をある方向に動かす」とは「これら〔身体〕の状態の観念」というスピノザの規定に照応している。
だが、重要なことは、ここで言われる「ある方向」である。スピノザは「すべてわれわれの身体の行為能力」を増
大あるいは減少し、その能力を促進あるいは阻害するものの観念」、すなわち、感情は、「われわれの精神の思考
能力」を増大・減少させ、促進・阻害させる」、と述べているのだから(第3部定理11)、情動が思考を動かす方向
はひとつではない。そのうち、一つの方向は、情動が思考を鼓舞し、そのおかげで思考がより深く、より緻密にな
る、という方向であろう。だが、反対の方向も考えられるのであり、情動が思考の邪魔をし、はなはだしくは思考を
停止させるという方向である。スピノザは後者の方向を「隷属」と規定している。すなわち、彼は「 感情を統御し抑
制するうえでの人間の無力を、私は隷属と呼ぶ。なぜなら、感情に支配された人間は自己を支配せずに、自らよ
り善きことを見ながらもより悪しきことを行うことを余儀なくさせられるくらいに、運命の手のなかにあるからであ
る」と述べるのである(第 4 部序言)。ここにおいて、人間のいっそうの発達のためには、情動発達の転換が不可
避となる。
(3)この転換の内容は上述したものであり、簡単に言えば、自己意識の生成とその一部としての「自己の諸感
情」の認識であり、それが情動発達の第3のフェーズにほかならない。スピノザの抽象的表現によれば、「〔身体
の〕状態の観念の観念«идеи идей состояний [тела]»」(『エチカ』第2部定理22証明)と規定することができ
るであろう。ヴィゴツキーとスピノザへの参照はすでに述べてあるので、ここでは省略することにしよう。
(4)こうして、第4のフェーズでは、転換点を超えた情動、いわば思考によって動かされる情動が現れることにな
る。この点について、ヴィゴツキーは次のように述べている。
スピノザ理論の基礎となるのは次のものである。彼は決定論者であり、ストア派とは違う形であるが、人間は感情への支配力を
15
もっており、理性は情念の秩序や連関を変更し、それらを理性において与えられた秩序や連関と照応したものにしうる、と主張した。
スピノザは正しい発生的関係を表現したのである(「心理システムについて」1930a / 1982, c. 125 // 2008, p. 29-30)。
ここで述べられているように、「理性は情念の秩序や連関を変更し、それらを理性において与えられた秩序や
連関と照応したものにしうる」というヴィゴツキーのことばは、この第4のフェーズをよく特徴づけている。第4のフ
ェーズはスピノザの『短論文』において、思惟から派生する情動として、典型的に描かれている。ただし、ここで注
意しておきたいことは、このフェーズ(および第5のフェーズ)だけを取り上げれば、それは情動の主知主義的理
解を許容することである。それはちょうど、第1のフェーズがジェームス―ランゲ理論を許容しうるのと同じである。
だが、身体―情動の連関から思惟―情動の連関への転換を理解し、情動の発達を全体として捉えたとき、スピ
ノザの情動理論は身体情動理論をも情動の主知主義的理解をも拒むものであることは明らかであろう。
(5)この第4のフェーズを知の方向により先鋭化すると、第5のフェーズが得られる。それを表すスピノザの命題
は「第三種類の認識から、可能な限りの高次の精神的満足が生まれる」(『エチカ』第5部定理27)である。この
定理の証明には、「精神の最高の徳は神の認識に、言いかえれば、第三の様式にもとづく事物の認識にある」
(第5部定理27証明)と述べられており、ここで問題となるのは、スピノザにおける神とは何を意味するのか、また 、
第三種類の認識とは何であるのか、ということである。
前者の問いに関する筆者の解釈を述べれば、実体を「神あるいは自然」と考えるスピノザにとって、神とは「自
由なる必然性」のことであろう。それは強制され宿命的に捉えられる必然性ではなく、〔遊びのルールのように〕
人間を自由にする必然性である。
後者の問いである第三種類の認識とは何であろうか。スピノザは第一種類の認識を「無秩序な経験を通した
認識」すなわち「臆見 мнение」、および記号・語によって事物を想起しその事物にかんするある観念を形成する
こと、すなわち事物の「想像 воображение」と規定し、第二種類の認識を「私たちが共通概念を持つことから生
じる事物の性質に関する適切な観念」、すなわち、「悟性 ratio」と規定している。そのうえで、第三種類の認識を
「直観知 знание интуитивное」と呼び、具体的には、「第三種類の認識は神の何らかの属性の適切な観念を
事物の本質の適切な認識にもたらす」と述べている(第2部定理40備考2)。それとともに、「私たちがこの様式
で事物を認識すればするほど神をより大きく認識することになる」(第5部定理25証明)と述べるのである。神の
何らかの属性、たとえば、必然性のパースペクティヴのなかに事物をおいて、それを認識すること、また、そのよう
に事物を認識することによって必然性がより明瞭となること―こうしたことが第三種類の認識であろう。
そのように考えたとき、先の定理とその証明で述べられた「可能な限りの高次の精神的満足」や「精神の最高
の徳」とは何を意味するのだろうか。筆者の解釈では、それは人間の自由のことである。
スピノザの最初の著作と言われる『短論文』に戻るとすれば、そこには「第四種類の認識から生じる人間の真
の自由」(1999II, с.8)というフレーズが含まれている。ここでの「第四種類」は『エチカ』における「第三種類」に
対応しており、その認識は神との連関を保っている。スピノザは『短論文』のなかで次のように人間の自由を規
定している。
それ〔人間の自由〕は、自己のなかに神の本性に一致する観念を、自己の外に神の本性と一致する行為をよび起こすために、私
たちの理性が神との直接的結合のおかげで獲得する確固たる存在である。なお、そのような行為は、行為を変更し改造しうる外的
原因に従属されてはならないものである。(1999I, с.85)
ここで再び強調したいことは、スピノザにおける神は自由なる必然性を意味しており、彼は「神に対する認識的
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愛」(第 5 部定理 36)について述べ(形容詞のない愛や宗教的な愛ではなく)、究極的には、それを第三種類の
認識としていることである。こうして、この種類の認識から生じる「可能な限りの高次の精神的満足」や「精神の
最高の徳」とは人間の自由のことである。
そして、ここに至って、本論考の冒頭に取り上げたヴィゴツキーのメモ書きのことば ―「感情の概念は、能動的
状態であり、自由である」。「自由:概念における感情」。「人格発達の壮大な構図:自由への道」 ―における自由
の意味は明瞭になる。それは、直接的には、以上のように整理される情動発達の第5のフェーズとして理解する
ことができ、スピノザが「感情を統御し抑制するうえでの人間の無力」を隷属と見なしたように、「自己ならびに自
己の諸感情を......明瞭判然と認識する力」こそ人格発達における自由への道を意味するものであろう。ここにあ
るのは、主として感情の側面から捉えられた自己意識の問題であり、それは、主として知の側面から捉えられた
「自由な自己意識」(ヘーゲル)と重なっていくものと理解することができる。
もちろん、知と情は理路整然とした平行関係にあるのではない。そのそれぞれの発達に独自性が認められる
からである。人間における知の上層と下層、高次機能と低次機能は前者による後者の止揚のような関係にある
が、ヴィゴツキーが考察したように、統合失調症や失語症の発症がそれまで従属的であった下層に自立性を与
え、概念的思考の崩壊と複合的思考の再登場、意味的知覚の揺らぎが見られるのである。それに対して、人間
の情における上層と下層は、疾患によることなく、普段とは異なる何らかの状況―理解しがたい事態の進展、思
いがけない生命の危機、アルコールの急激な摂取などによって、下層は容易に頭をもたげる。つまり、感情の発
達のフェーズは、知性の発達の場合のような厳密な従属関係を構成せず、すべてが同時に発現すると思われる
ほど急速に交替しあう。その神経学的根拠はキャノン―バード理論が表現しているのであり、情動は下層になる
ほど、生命の自己保存に関与するからである。これが上記の五つのフェーズの、知のフェーズとは異なる独自性
である。
おわりに ―人間の第二の誕生を告げる自己意識
ヴィゴツキー理論の哲学的基礎、その最深部にはヘーゲルの概念発達図式(知的発達図式)とスピノザの情
動発達図式がある。しかも、それらが自己意識において明瞭に交差していることは、これまでの考察からお解りで
あろう。これらの発達図式と両者の交差としての自己意識論の意味を一言で表現するなら、ルソーが詩人として
の直感力をもって指摘した「人間の第二の誕生」への祝砲である。
それは同時に、現代に影響をもつ心理学諸理論を評価する観点を提供するものでもある。たとえば、ピアジェ
の場合はどうか。彼は認知発達研究のなかに認知的自己中心性と脱中心化の概念を通して自我を位置づけた 。
もし自己の経験のみにもとづく推論を認知的自己中心性と呼ぶのであれば、それらの概念は 12 歳頃までの認
知発達を説明する原理として妥当であろう。しかし、彼が感情を認知のためのエネルギーとのみ捉えて、知と情
の平行関係にとどまるとき、スピノザが述べたような意味における感情の制御不能としての「隷属」はまったく視
野の外に置かれている。しかし、ピアジェの認知発達理論の根本的限界は、それ以上に、ヘーゲルが描いたよう
な悟性から理性への飛躍における自己意識の契機を欠落させていることであろう。脱中心化は認知過程から主
観性を奪い取っていくものである。ところが、脱中心化が完成された直後に、新たな段階の自我―自己意識―が
形成されはじめる(ヴィゴツキーの言う 13 歳の危機)。そこで形成されるものの一つは新しい装いの主観性―高
次の客観性に導きうる主観性なのである。ピアジェ理論では、個人の認知発達において、認知的自己中心性と
脱中心化のダイナミズムに続いて発生する、脱中心化と自己意識のダイナミズム、言いかえれば、悟性と理性の
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主観性と客観性のダイナミックな運動が欠落している。こうして、ピアジェは人間の第二の誕生を位置づけえな
かったのである。ここにピアジェ理論の本質的な限界がある。
だが、ヴィゴツキー理論は未完である。1930 年代に激しい勢いをもってヴィゴツキーは究明する理論の領域を
拡げていった。筆者は、そこでは、(1) それまでの言語による媒介発達理論に加えて、(2) 年齢期心理学や人間の
ドラマや具体性に関わる心理学などの人格発達理論、(3) 心身の統一性や思惟―情動の連関を捉えようとする
情動発達理論を提起し、それら三つの道が敷設されたと考えるが、同時に三つの道の統一軸はまだ未解明であ
った。ヴィゴツキー理論に向きあう私たちの課題の一つは、短命のために未完となったこの理論の全体像を過不
足なく描くことであろう。それは極めて困難な仕事である。しかし、本稿が述べてきたことから少なくとも一つだけ
は確かなことがある。すなわち、ヘーゲルの『精神現象学』とスピノザの『エチカ』を踏まえなければ、ヴィゴツキ
ー理論を、その自己意識と概念的思考とのアイディアを十全に理解することはできないことである。
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