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レジュメ - GACCOH

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レジュメ - GACCOH
「やっぱり知りたい!スピノザ」第二回(2015.11.21)
於:GACCOH
筆;藤野 幸彦
スピノザの形而上学 ―― 現実の極限を求めて ――
➣ 復習 ―― デカルトとその課題
① 心身問題
方法的懐疑とコギト・エルゴ・スム
「…「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する」というこの真理は、懐疑論者たちの
どんな途方もない想定といえども揺るがしえないほど堅固で確実なのを認め、この真理
を、求めていた哲学の第一原理として、ためらうことなく受け入れられる、と判断した」
(『方法序説』第四部より)
精神と身体の実在的区別
「どんな身体も無く、どんな世界も、自分のいるどんな場所も無いとは仮想できるが、
だからといって、自分が存在しないとは仮想できない…わたしは一つの実体であり、そ
の本質ないし本性は考えるということだけにあって、存在するためにどんな場所も要せ
ず、いかなる物質的なものにも依存しない、と。したがって、このわたし、すなわち、
わたしをいま存在するものにしている魂は、身体(物体)からまったく区別され、しか
も身体(物体)より認識しやすく、たとえ身体(物体)が無かったとしても、完全に今
あるままのものであることに変わりはない」
(同 第四部より)
(1)
独断的な前提(ドグマ)を捨て去り、確実な地点から学問を始める為の試みが方法的懐
疑。その到達点としての「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する」。私が存在しない
ことを私は考えることができない。この確実性からデカルトは全てを始めようとした。
(2)
他方、「考えるものとしての私」(=精神)は、たとえ私の身体が存在していなかった
としてもなお確実に存在する。従って精神とは身体なしに考えられ、存在する、そうした
何ものかである(「コギト」からの帰結の一つとして)。
ところで、デカルトは人間の精神や身体を「実体substantia」として理解する。彼自身の
定義によれば「それが存在するのに何ら他の事物を要さないような仕方で存在する事物」
がそれである(『哲学原理』第一部・51節)。それ自体で存在するものが実体である、と
言い換えてもよい。人間に限らず、本や机、紙やペンといったものは全て実体であると彼
は位置付けている。
但し、厳密な意味で実体と呼びうるのは「神D e u s」だけであることをデカルトは認め
る。神以外のものは、全て神によって創造されたものだからである。しかしデカルト的な
意味に限れば、被造物である諸々のものがなお実体と呼ばれる、というこちらの方が重要
になる。
(3)
1 / 15
実体の原語substantiaは「下にsub−立つsto」という程の意味を持っている。つまり、実
体とは何かの下に立つもの、何かを下支えするものを指している。それは何か、と言うと
性質qualitasや属性attributum、様態modusと呼ばれ、実体に属すると考えられるものが該当
する。
例えば、「熱さ」を考えてみよう。日常の中で、私たちは「熱さ」を感じることがある。
場合によっては火傷することもあるかも知れない。しかし、「熱さ」が私たちの感覚器官
を刺激する訳ではないし、「熱さ」が私たちに火傷を負わせる訳でもない ―― 「熱いも
の」がそうするのである。つまり、熱くなっている何ものかが存在しなければならない。
それが実体である。そして、現に我々が「熱さ」を感じるのならば、それを下支えする実
体は必ず存在していなければならない。厳密な意味においてそれ自体で存在するのではな
いとしても、実体がなくては困る、日常的な経験が説明できない、ということになろう。
(4)
そんなわけで、精神や身体は実体として存在する、とデカルトは言う。そして、実体と
実体は「実在的な区別distinctio realis」により区別されると彼は述べていた ―― これは、
「一方が他方なしに存在しうる」ものどうしの区別のことである。上に触れた通り、精神
は身体なしに存在しうるし、身体もまた精神なしに存在しうるので、これらは実在的に区
別される。また、精神は「思惟cogitatio」、身体は「延長extensio」がその主要属性である
とされた。即ち、精神とは専ら「思惟するもの」であり、身体とは専ら「延長するもの」
とされ、この主要属性の違いによって実在的に区別される実体となるのである。
(5)
しかしここで問題が生じる。精神が身体から実在的に区別されるということは、精神
が「思惟する」ことは身体とは独立に起こること、また逆に、身体が「延長する」こと
も精神とは独立に起こることを含意している。ならば、我々が日常的に経験する「心身
の緊密な連携」はどのように説明されるのか?
問題は、属性の異なる精神と思惟が、いかにして相互に作用しうるのか、ということで
ある。延長を持たず、従って大きさもなければ重さもなく、位置も持たない精神が、なぜ
身体を動かすことができるのか。デカルトは「心身の合一」を認め、そしてこのことは確
かに日常的な実感に合致するが、しかし方法的懐疑の帰結である「心身の実在的区別」と
の整合性は難しい。
2 / 15
② 物体間の区別、空間の問題
延長としての空間と物体
「…物体の本性を成す延長と空間の本性を成す延長とが同じものであり、この二つが相
互に差異がないこと…即ち、或る物体例えば石について我々の有つ観念に注目して、物
体の本性に必要ではないと認識する一切のものを、そこから捨てて行くのである。…そ
れらは石のうちに認められないか、或いはそれらが変わっても石が物体の本性を失うと
は思われないか、いずれかだからである。かようにして我々は石の観念のうちには、長
さと幅と深さの拡がりを有った或るものであること以外に、全く何も残らぬことに気付
くであろう。そしてこの同じものが、空間、単に物体で充たされた空間のみならず、空
虚と呼ばれる空間についても、その観念のうちに含まれるのである」
(『哲学原理』第二部・11節)
(6)
デカルトは、両者が延長しているという限りにおいて、物体と空間を区別しない。とい
うのも、両者の最も基礎的な属性は「延長」であって、それ以外の性質なしに物体や空間
は存在しうるとデカルトは考えるからである。
ある石がその硬さを失ったとしても、物体であることをやめるわけではない。同様に、
色がなくなってとしても石は物体のままであろう。さらに、冷たさや熱さを失くしても…
その果てで物体が物体でなくなるのは、その延長を失った時のみであり、それ以外のもの
は失われても物体は物体であり続ける。「延長」が物体の主要属性である、ということの
意味もここにあった。
(7)
しかし、実はこの議論にも問題が生じている。主要属性であるところの「延長」にまで
還元して考えた際に、物体と空間を区別することが難しくなってしまうのである。もっと
言えば、「延長」から区別された物体や空間が存在する、と言えなくなってしまう。それ
らは全て「同じ延長」だからである。
同じ延長であっても、位置や時間によって区別可能だろう、という反論にはあまり意味
がない。仮に時間と位置のセットT1−P1、T2―P2、…Tn—Pnによって何かしらの指定を行っ
たとしても、そこには「延長」があるだけで、物体が在ると言えるかはかなり怪しい。
(8)
さらに、そうした物体が「実体」と呼べるかも大いに疑問が残る。異なる実体どうしは
「一方が他方なしに存在しうる」のだから、物体が実体であるとすれば、ある物体が存在
することをやめたとしても、他の実体は全てそのまま存在しうるはずである。しかし物体
が消滅した時、その延長までが消滅するなどということが可能だろうか。デカルトは真空
vacumの存在を否定しているが、これらの主張は両立しないように思われる。
➣ スピノザの実体-様態論 ―― デカルトに答えるために
① より深く問い直すために
(9)
デカルトは方法的懐疑を経て、思惟する精神としての「わたし」に到達した。しかし、
この「わたし」から始めたデカルトの体系は、「わたし」と自身の身体との関係を適切に
3 / 15
説明するに至らなかった —― このことは即ち、精神と身体の結びつきを説明する原理が
「わたし」の内にないことを示している。その原理は「わたし」の外、「わたし」よりも
さらに根源的な地平に求められねばならないのではないか。
(10)
他方、「実体」の身分にも同様の問い直しが可能である。デカルトは、延長する事物(=
実体)の存在は、それを構成する下位の諸事物(=実体)の配置や運動のパターンによっ
て説明されると考えていた。しかしこの図式は、結局のところ実体により実体を説明する
無限 行に陥ってしまう。どこまで っても、「実体」の存在を説明する原理は発見され
ない ―― 言い換えれば、デカルトの議論は物体の存在を説明するために、当の物体の存
在を前提としてしまっているのである。
(11)
こういうことではないだろうか。「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する」。そし
て考える「わたし」とは一つの精神、思惟をその主要属性とする実体である。その必然性
は疑うべくもない ―― しかし、そうした必然的な精神の存在は、何に由来するのか。こ
の問いがデカルトには残っている。
同様に、下位の諸物体がある物体を構成する。近世科学の先端をいくこの議論は、無論
大いに評価されるべきである。しかし、そこで語られている物体とは、果たして何もので
あり、如何にその存在が説明されるべきものなのか。スピノザは恐らく、これらの問いに
答えようとしていた(と、思う)。
その為には、我々はデカルトの先に進まねばならない。即ち、方法的懐疑の更に先で、
より深く問い直すために。「デカルトは精神から始めた。そして私は神から始める」 ――
スピノザが語る神とは、我々が り着く思考の果て、そこから先はもはや望めないような
絶対的な始原、スタート地点となる。
4 / 15
② 実体概念の行方 ―― スピノザによる定義と論証
(12)
スピノザは『エチカ』冒頭部で、次のように定義する。
E1Def3:実体とは、それ自身のうちに在りかつそれ自身によって考えられるもの、言い
換えれば、その概念を形成するのに他のものの概念を必要としないもの、と私は
解する。
E1Def4:属性とは、知性が実体についてその本質を構成していると知覚するもの、と私は
解する。
E1Def5:様態とは、実体の変状(affectio)、すなわち他のものうちに在りかつ他のものに
よって考えられるもの、と私は解する。
これらの定義は、極めてデカルト的なものだと言ってよい。つまり、スピノザが用いる
術語は基本的にデカルトと共通している。彼の批判は、デカルトが採用したカテゴリーの
枠組みそのものに向けられたものではなく、まずは採用されたカテゴリーの適用に関わる
ものであった。
(13)
以下、スピノザの証明を簡単に追って見たい。そこで、スピノザが採用する公理を一つ
だけ参照しておこう。それは「すべて在るものはそれ自身のうちに在るか、それとも他の
もののうちに在るかである」(E1A1)というものである。
E1P1:実体は本性上その変状に先立つ。
E1P2:異なった属性を有する二つの実体は相互に共通点を有しない。
実体の変状は「他のもののうちに在りかつ、その他のものによって考えられる」もの、
つまり実体の内に在って実体により考えられるわけだから、変状を考えようとすればどう
しても先にその帰属先となる実体を考えねばならないし、実体なしにその変状は存在する
ことができない。これが定理1。
次に、実体は「その概念を形成するのに他のものの概念を必要としないもの」であり、
それ自身によって考えられねばならない。つまり、属性が異なる二つの実体は、お互いに
他方の概念を含んでおらず、従って共通点を持たない。何か共通点があれば、その共通点
によって二つの実体は(仮に部分的にだとしても)他方の実体によって考えられることに
なってしまうからである。こうした定理2の主張はデカルトにも通底する ―― つまり、延
長と精神の分離がここでは語られていると一先ずは考えてよい(勿論、これはスピノザに
とっては一つの例ということになる)。
5 / 15
(14)
E1P4:異なる二つあるいは多数の事物は実体の属性の相違によってか、そうでなければ変
状の相違によって互いに区別される。
さて、「すべて在るものはそれ自身のうちに在るか、それとも他のもののうちに在るか
である」(E1A1)という公理があるのだから、存在しているのは実体(それ自身のうちに
在るもの)か様態(他のもののうちに在るもの)ということになる。すると、事物の区別
は実体の属性か実体の様態か、このどちらかに拠らなければならないだろう(属性も様態
もない、いわば裸の実体などというものを考えても、それらは裸である限り区別の仕様が
ない)。
これは一見するとまともな、常識的とすら言ってよい内容に思えるが、しかし次の定理
あたりからそのまともさが怪しくなってくる。
E1P5:自然のうちには、同一本性、あるいは同一属性を有する二つあるいは多数の実体は
存在しえない。
先の定理の通り、二つ以上の実体を区別するにはその属性か様態、そのどちらかを参照
することになる。両方のケースを見て行こう。
属性によって区別する場合、同一属性を有する実体は一つしかない、という主張に抵触
する部分はない。この場合、全ての実体はそれぞれ属性によって区別され、各々の属性に
おいて唯一の実体となるだろう。これは問題ない。
もう一つのケースを見よう。しかしそもそも、様態によって実体を区別することは可能
だろうか ―― 「実体は本性上その変状に先立つ」(E1P1)ことを、既に我々は証明して
いた。つまり、変状なしの実体を我々は考えることができる。そして、このように変状を
排除して実体そのものを考えるのならば、これらの実体を区別することはもはやできなく
なってしまうのではないか。このケースにおいて我々は「同一属性を有する複数の実体」
を想定していたが、しかしそんな二つの実体はそもそも想定不可能だということになる。
従って(従って!)、自然の内には同一の属性を有する複数の実体は存在しえない ――
これが論理的な帰結である、とこともなげにスピノザは言ってしまう。机や紙、ペン、石
や人間の身体。これらは延長という同一の属性を有する、複数の実体ではなかったのか。
デカルトは確かにそう言ったかも知れないが、それは誤りだね、とスピノザは論じている
ことになる。
6 / 15
(15)
それでは、我々は実体という語によって何を考えればいいのか。もう少し証明の連鎖を
ってみよう。
E1P6:一つの実体は他の実体から産出されることができない。
E1P7:実体の本性には存在することが属する。
E1P8:全ての実体は必然的に無限である。
ここでも、様態(変状)は捨象して考えよう。同一の属性を有する複数の実体はなく
(E1P5)、その限りで互いに共通点を有する複数の実体は存在しない。共通点がない二つ
のものが原因と結果の関係になることはないから(因果関係を有するためには、そもそも
何か共通の土台に乗っていなければならないが、属性が異なるとはそれすらもないという
ことを指している)、実体は他の実体からは産出されない。これが定理6である。
だとすれば、存在する実体は、他のものによってではなく、自分自身によって存在して
いなければならない。これが定理7で述べられる「本性に存在することが属する」という
ことの意味を、そのまま表している。
加えて、もし実体が存在していないとすれば、(実体と様態の他には何も考えられない
のだから)端的に何も存在していないことになる。つまり、何かが存在していると考える
時、我々は実体を抜きに考えることができない。そうした必然的に突き当たる存在者を、
スピノザは実体と呼ぶ ―― そしてこれこそ、「実体」という語で我々が理解すべきもの
だったのだ、と告げるのである。
次の定理も、やはり同一属性を有する実体は一つだけ、というE1P5に基づいている。仮
に実体が有限であるとすれば、それは他の実体によって限定されてのことだろう ―― しか
し(あるいは既にお察しの通り)、互いに共通点を持たない諸実体は、一方が他方を限定
する原因にもやはりなりえないのである。加えて、実体が有限であるとすれば、それは「本
性に存在することが属する」というE1P7を部分的に否定することになるだろう。有限であ
るということは、何らかの仕方でその存在を欠くような事態を認めることになるが、その
ような事態は実体の本性に矛盾するのである。
(16)
さて、何だか妙なことになってきた。それ自身のうちに在り、かつ、それ自身によって
考えられるもの ―― そうした実体とは必然的に存在しており、また無限な存在者であるこ
とが、ともかくも証明されてしまったのである。
しかし、この帰結はどうもまともでないように思えるし、実際まともでないと思われて
いた。あるスピノザの友人は、二人の人間は二つの実体であり、しかも同一属性を有する
実体ではないのか、と率直な質問を書き送っている。そんなものが他から産出されえない
というのは、全ての実体が神と同じだと言うようなものではないのか。一体全体、貴方は
実体の産出というものをどう考えておられるのか ―― この質問は、明らかにデカルト的な
(あるいはそれ以上に一般的な)実体理解に基づいている。彼に近しい人たちにさえ、ス
ピノザの主張はそう簡単には理解されなかったのである。
ところが、スピノザに言わせれば(勿論、筆者が勝手に言わせるのだが)まともでない
のは質問者の方である。君は果たして、私が示した証明を読んでくれたのかね ―― 実体と
7 / 15
は、その定義に従う限り、必然的かつ無限な存在でしかありえない。このことが論理的に
明らかになったのではないか。神学者や哲学者は、ずっとこれを人間や、その他諸々の事
物を扱うカテゴリーだと考えてきた。しかし、それは甚だしい無理解だったのだ。
この点で、スピノザの主張は途方もなく真っ当だというしかない。それは、いわば突き
抜けて底なしになったまともさ、とでも呼ぶべきものかも知れない。Q.E.D.(Quod erat
demonstrandum)、以上が証明されるべきことであった、という言葉の連鎖に意味があると
すれば、それは『エチカ』の命題が全て論理的な真理であるという点に尽きよう。
(17)
話を戻して、この奇妙なまともさに向き合ってみたい。実体 ―― この必然的かつ無限の
存在者は、それぞれが異なる属性によってその本質を構成されているのだった。例えば延
長実体、思惟実体という具合に。これらは実在的に区別されるとスピノザは言う(この点
はデカルトの枠組みが踏襲されている)。
しかしここで、実在的に区別される実体が、数的な区別を含意するかは別問題である、
とスピノザは語り始める。いったいどういうことなのか、議論を ってみよう。
ある属性Aが、一つの実体Aの本質を構成していると仮定する。また他方、別の属性B
が、やはり一つの実体Bの本質を構成しているとしよう。二つの実体は、それぞれ実在的
に区別されたものとして理解される。この時の図式はこうだ。属性Aにおいて現れる実体
は実体Aで、属性Bにおいて現れる実体が実体B。普通はこんな風に我々は考えている。
だが属性Aにおいて実体Aとして現れる実体と、属性Bにおいて実体Bとして現れる実体
は別々のものなのだろうか。これらが別の現れである、とはスピノザも認める(実在的区
別)。しかし、別の実体の現れである、ということは結論できない。実体の数は属性の数
と無関係なのである。論理的には、全ての属性がただ一つの実体の本質を、それぞれが実
在的に区別される仕方で構成している、ということが在りうる。
少し考えてみよう。属性Aだけを持つ実体Aと、属性Aを含む複数の属性を持つ実体Xの
比較である。同じ属性を持つ実体は一つしか存在しえないから、両方ともが存在している
とは考えられない。では、どちらが存在しているのか。
スピノザはこんな風に答える。実体が必然的に存在する存在者である以上、両者は必然
的に存在していなければならない。即ち、実体Aの存在を認めるならば、我々は実体Xの存
在を否定できないのである。さらに進んで、実体Xの存在を認めるなら、実体Aの存在には
説明がつくではないか、と。それはつまり、属性Aにおける実体Xの現れを、我々は実体A
として理解していたということなのだ。実体Aの存在とは、実のところ実体Xの存在のうち
でしか考えられないものだったのである。
(18)
すると、こんなことになる。当然、今しがた言及した実体Xだって、より多くの属性を
持つ実体(実体Yとしておこう)のうちで考えられなければならない。当然、その実体Y
も…行き着く先は、またしても底抜けにまともな奇妙さである。無限に多くの属性を持つ
実体があるとしか、もう考えることができない。各々の属性において現れる実体は、全て
がこの無限実体の異なる現れだったのである。
従ってただ一つ、無限に多くの属性を持つ実体だけが存在する。それも、各々の属性に
8 / 15
おいて無限の存在として現れてくるような実体、いわば無限の累乗としての実体だけが。
これはもう、一つ、二つと数を数えた先に出てくるような無限ではない。もはやその外側
が考えられないような、存在のリミットとしての無限である(やや自己撞着的だが)。
何かが存在しているとするなら、もはやこの実体なしには考えられえない。これこそが、
我々が探求を始めるべき地点ではないか。恐らくスピノザはそんな風に考えていた。およ
そ存在するもの全てを下支えするもの ―― 哲学の出発点。これこそ、スピノザが「神」と
呼んだものである。
E1Def6:神とは、絶対に無限な実有、言い換えれば各々が永遠・無限の本質を表現する無
限に多くの属性から成っている実体、と私は解する。
E1P11:神、あるいは各々が永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成って
いる実体、は必然的に存在する。
証明を確認する必要は、今やないと言ってもよかろう。この神の存在を抜きにしては、
我々はそもそもあらゆる存在について語りえない。現実というものがあるとすれば、その
極限についてスピノザは思考しているのである。
➣ デカルトへの解答 ―― スピノザの形而上学から
① 様態について
(19)
かくて準備は整った。後は、この神から始めるだけである ―― しかし、どうやって?ス
ピノザの論証は次のステップに移って行く。ここではその要点を取り出して、デカルトの
課題に答えて行くことにしたい。
まず、次のことを確認しておこう。存在する実体はただ一つ、神という無限実体のみで
ある。では我々が日常的に接している諸事物、何よりこの私とは、一体何だと言うのか?
答はシンプルである。存在しているものは実体とその様態だけなのだから、それらは全て
神の様態であるとしか考えられない。次の定理はそのことを表したものだと理解できる。
E1P15:すべて在るものは神のうちに在る。そして神なしには何ものも在りえず、また考
えられえない。
実際、この定理に基づいて「個物は神の属性の変状、あるいは神の属性を一定の仕方で
表現する様態に他ならない」(E1P25C)ともスピノザは言っていた。
ここで、様態modusという語について改めて見ておこう。この語は英語でいうところの
mode、即ち「様式」を表す言葉である。つまり、「神の様態」とは神が存在するその「在
り方」を意味するものだと理解すればよいだろう。変状affectioという語はやや意味が異な
るが、こちらは「状態」を指す言葉である。ただし、変状という訳語の通り、変化として
生じる状態だということは押さえておきたい。
一例として、スピノザは人間身体を含めた諸々の物体は、延長属性における神の様態だ
と述べる。それはつまり、必然的かつ無限に存在する延長実体(延長属性において現れる
実体)の、空間的・時間的な「存在の様式」の一部として諸々の物体は存在する、という
ことなのである。
9 / 15
② 神による産出について
(20)
そうは言っても、我々の身体が神の存在様式だ、というのは今一つピンと来ない。その
疑問はもっともである。様態概念の内実については、もう少し検討の必要があるだろう。
しかし先に、これらの様態が如何にして生じるのか、という点を見ておくことにしよう。
E1P16:神の本性の必然性から、無限に多くのものが無限に多くの仕方で(言い換えれ
ば、無限の知性の下に配されうる全てのものが)生じなければならぬ。
諸々の様態は(人間の身体や精神も含めて)、神の本性から生じるとスピノザは言って
いることになる。いったいどういうことなのか、次の引用を確認してもらいたい。
…神の最高能力あるいは神の無限の本性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で、
即ちあらゆるものが、必然的に流出したこと、あるいは常に同一の必然性をもって生起
すること、そしてこれは三角形の本性からその三つの角の和が二直角に等しいことが、
永遠から永遠にわたって帰結するのと同じ次第であること…
(E1P17S)
内角の和が二直角である、というのは三角形の特性proprietasの一つである。当時こうし
た特性(ある種類の事物に特有の性質)は、それら事物の本質を原因として生じるものだ
と考えられていた。つまり、三角形の内角の和が二直角であるという性質は、三角形の本
質がその原因となって生じており、当の三角形に帰属する、という風に。
スピノザは、これと同様に神の本質から無限に多くの事物が生じると考えていた ―― し
かし、まだ腑に落ちない。どう考えたって、我々の身体や精神は、内角の和が二直角、な
どという性質と同列に扱っていい代物ではない。勿論、その通りである。スピノザは、産
出のされ方が同じなのだと言っているのであって、産出されたものが同じカテゴリーに属
するとは述べていなかった。
③ 直接無限様態について ―― 延長における運動と静止
(21)
さて、ここで少し『エチカ』から離れよう。スピノザはある友人から「神から直接的に
産出されるものの例、および無限な様態を媒介として産出されるものの例」について尋ね
られた際に、次のように答えていた。
…第一種のものは、思惟においては絶対に無限な知性、延長においては運動および静止
です。また第二種のものは、無限の仕方で変化しながらも常に同一に留まる全宇宙の姿
です…
(書簡64)
延長における運動と静止(motus et quies)。これは、日常的な運動と静止、つまり物体
の移動に言及したものではない。移動を論じるためには先に移動する物体がなければなら
ないが、しかしスピノザの体系にそんなものは前提されていないからである。
(22)
では、これは何のことなのか。それは、「運動や静止を引き起こす力」である。実は彼
10
/ 15
自身もこの概念については上手く扱いきれていない節があるのだが、しかしそれも当然の
ことであって、これは現代の言葉遣いにすれば「空間を占めるエネルギー」(スピノザは
運動量に相当するような物理量の一種がその正体だと考えていた)に相当するものなので
ある。合わせて、次の引用を見て戴きたい。
…単なる延長の概念だけから事物の多様性がアプリオリに説明されうるかどうかとのお
尋ねですが、私はすでにそれが不可能であること、従ってデカルトが物質を単なる延長
として定義しているのは正しくないこと、それは必然的に、永遠無限の本質を表現する
一属性によって説明されねばならぬことを、十分明瞭に示したと信じます…
(書簡83)
スピノザの主張を要約して言えば、「私が提示した延長の概念はただの延長(三次元的
な広がり)ではなく、神の本質を表現し、またそれだけで事物の多様性を説明しうるよう
な原理を含んだ延長の概念である」ということになる。デカルトの場合、延長する事物は
「動かすものとしての神」を必要としていた。しかしスピノザは、そうした動的な原理は
延長自身の内に既に含まれている、と言うのである。延長とは神の属性であり、延長実体
とは神そのものの現れなのだから、確かにそうでなくてはおかしい。多様な事物の存在を
我々が認める限り、その原理は延長自身の内になくてはならない。
そうした多様性の原理を表現したものが、先に触れた「運動と静止」なのである。これ
は神から直接的に産出され、またそうした様態は必然的に存在し無限であるともスピノザ
は語っていた(E1P21)。どういうことだろうか ―― それは、延長実体としての神は、必
然的に無限の「運動と静止」を備えているということ。言い換えれば、無限の「運動と静
止」を備えた空間という在り方において、神が存在するということである。さらに言い換
えておこう。それは無限のエネルギーに充たされた無限大の空間が、取りも直さず神の存
在様態の一つであり、そうした存在様態を持つということが、神の本性から必然的に帰結
するということを示している。何故か? やはり答はシンプルである。そうでなければ、
我々は日常的に接する事物が存在していると言えないのだから。
④ デカルトへの解答その1 ―― 物体の定位
(23)
実は、ここまでの議論でデカルトへの解答はほとんど済んでしまっている。即ち、物体
の存在とは如何に説明されるべきか。スピノザは次のように答えるだろう。無限の「運動
と静止」において、と。
先に述べた通り、スピノザが語る運動と静止は「空間を占めるエネルギー」に近い概念
だった。これが神から直接に産出される、ということは次のことを示す。彼は、自然学に
おける最も基礎的な存在者を、一種のエネルギーだと考えていたのである。
現代の物理学においては、力と粒子、波動を統一して扱う理論(いわゆる場の量子論)
が知られている。無論スピノザがこれを知っていた筈はないのだが、しかし、物体を基礎
に置くのではなく、空間の一状態として物体の存在を考えようとする発想はこれに極めて
近いと言えるだろう。即ち「物体」とは、空間の一定領域が特定のエネルギー状態を取る
時にその存在が理解されるような、そうした物理状態であるとスピノザは考えていた。
デカルトの課題を思い出そう。それは物体の存在を説明するためには、それを構成する
下位の物体が必要であり、その下位の物体の存在を説明するためには…という無限
行に
陥ってしまう点であった。物体を物体によって説明したのでは、何故に物体が存在するの
11 / 15
か、という問いには答えられない。
スピノザが「物体とは様態である」(E2Def1)と言う時、このことはもはや問題になら
ないだろう。上に見て来た通り、確かに彼は「物体」(それ自体として存在するような)
の存在を前提とすることなく、しかし「物体」という言葉で我々が理解するものの存在を
説明しているのである。
⑤ 観念について ―― 思惟属性における様態
(24)
さらに先に進もう。上では延長属性を取り上げたが、ここから出てくるのは物体の話で
ある。もう一方の「精神」は、スピノザにおいて如何に位置付けられるのか。このことを
見ることにしたい。
そのために、「観念idea」という語を少し確認しておこう。これは、思惟属性における
存在者を示す語であり、具体的な定義は次のようになる。
E2Def3:観念とは、精神が思惟するものであるが故に形成する精神の概念のことと私は解
する。
やや分かり辛いかも知れないが、要するにこれは「考え」のことだと思っておけばまず
間違いない。例えば「誰それが石の観念を持つ」というような表現が当時の用語法として
あって、これはその何某が石について知っている(完全な知識を持っている、という意味
の時もあれば、ともかく何か知っている、ということだけを意味する時もある)、という
ほどの意味だった。このように観念を持つことによって、我々が何ごとかを認識する、と
いう事態が説明されていたのである。
さて、この観念もまた、存在する限りは神の様態であるとしか考えられない。それも「神
の本性の必然性から、無限に多くのものが無限に多くの仕方で」生じるのだから、神はこ
の「無限に多くのもの」全てに関する観念をも、やはり産出していなければならないこと
になろう。そこで次の定理が出てくる。
E2P3:神のうちには必然的に神の本質の、ならびに神の本質から必然的に生起するあらゆ
るものの観念が存する。
但し、ここで言う観念とは「画板の上の絵」のようなものではない、とスピノザは注意
している。それはどういうことか ―― それ自体として存在する存在者としての観念を、彼
は認めないということである。ちょうど、それ自体として存在する物体が認められないの
と同じように。観念とは個々の認識作用、あるいは意志作用、肯定の作用に他ならないの
だともスピノザは言っていた。
これは、「物体」が「運動と静止」によって説明されたのと、やはり同じ構図になって
いる。つまり、思惟が神の属性である限りにおいて、無限の認識作用が神の直接的な様態
として生じていなければならない(この作用がなければ、我々が「思考する」ということ
がそもそも説明できない)。そしてこうした認識作用の一部として、云々の物体に関する
観念、ある物体を対象とする観念の存在が理解されるのである。
(25)
延長属性における議論と、ちょうど同型の構図が思惟属性においても現れていることに
注意してほしい。この同型性はなぜ生じるのか ―― それは、この二つの属性が「同じ」実
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体の表現だからである。同じものが現れているのだから、両者に対応関係があることは不
思議でも何でもない。実際、スピノザは次のようにも言う。
…延長の様態とその様態の観念とは同一物であり、ただそれが二つの仕方で表現されて
いるまでである…例えば自然の中に存在する円と、同様に神の中にあるこの存在する円
の観念とは同一物であり、それが異なった属性によって説明されるのである。ゆえに我々
が自然を延長の属性のもとで考えようと、あるいは思惟の属性のもとで考えようと、あ
るいは他の何らかの属性のもとで考えようと、我々は同一の秩序を、即ち諸原因の同一
の連結を、言い換えれば同一物の相互的景気を、見出すであろう…
(E2P7S)
これが、有名なスピノザの「並行論」である。延長属性における様態である物体には常
に「同じものの思惟属性における表現」としての観念が対応しており、また物体と観念は
この対応を保ったまま同一の因果的な系列をなす。そんな風にスピノザは考えていた。
⑥ スピノザの認識論 ―― 解答の準備として
(26)
ここでまた一つ、妙な話をしよう。スピノザは思惟属性における直接の様態として、「運
動と静止」に対応する無限の認識作用がある、と考えていた。これは既に述べた通りであ
る。観念とは、この認識作用の一部だと理解されねばならない。
これをもう少し敷衍すると、次のようになる。つまり、「ある事物の観念を持つ」こと
とは、「当の事物を認識する作用を持つ」ことだと説明されるのである。対象を認識する
作用を持っているからこそ、対象を認識できる。言ってみれば当たり前である。しかし、
誰が認識しているのだろうか? スピノザの体系には認識作用の無限連鎖は存在していて
も、肝心の認識主体がどこにもいないのである(やはり、延長において「物体」がそれ自
体としては)存在しないように。
この点について、スピノザは次のように語っている。
…円の観念の形相的有は、その最近原因としての思惟の他の様態によってのみ知覚さ
れ、思惟のこの様態はさらに他のそれによって知覚され、このようにして無限に進む…
(E2P7S)
スピノザは『知性改善論』という著作で、「一端が固定され、他端が運動する線分」に
より「円」を理解する、という例を挙げていた。少し考えてみよう。この線分を、頭の中
でくるりと回してみる ―― なるほど、たしかにその軌跡は円をなしている。つまり、「運
動する線分」を原因として「円」が生じたのである。
この時、平行論に基づいて「運動する線分」という観念は必然的に「円」という観念を
生じさせることになる。そしてスピノザはこの「運動する線分」という原因としての観念
が、「円」という結果としての観念を有する、と考えたのである。自分から生じたものは
自分のものだ、という理屈だと考えれば理解しやすいだろうか。観念を有する、というこ
とはその観念の対象を認識する、ということだから、「円」を認識するのは「運動する線
分」という観念である(!?)。妙な言い回しだが、事実スピノザはそう語っているので
ある。
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⑦ デカルトへの解答2 ―― 精神の定位
(27)
ところで、我々は日常的に、自身の身体に起こる出来事についての観念を持っている。
喉が渇いた、頭が痛い、今自分は走っている、等々…これらは我々の身体が原因となって
起こる事柄である。
これを我々が認識している、ということはどういうことか。上に見た例を参考に考えて
みよう。原因にあたる事物の観念が、結果にあたる事物の観念を生じさせ、またその観念
を有している。そしてそれ故に、原因となる観念が結果を認識するのであった。すると、
次のようになる。我々が身体に起こることを認識しているということは、我々がその原因
としての身体の観念だからに違いない、と。
E2P13:人間精神を構成する観念の対象は身体である。あるいは、現実に存在するある延
長の様態である。そしてそれ以外の何ものでもない。
この時、デカルトの問題は既に乗り越えられてしまっている。彼の課題は、精神と身体
の関係 ―― 属性の異なる両者が、如何にして我々が日常的に経験するような緊密な連携を
有するのか、という点にあった。デカルトは心身の相互作用を認めていたが、しかし、属
性が異なる以上これは矛盾であろう。対してスピノザは、双方の因果作用を抜きに、彼独
自の並行論によってこの関係を説明するのである。
(28)
身体と精神は、今や異なる属性における「同じもの」の表現である。従って、身体の側
に何か変化が起これば、必然的に精神の側にも何か変化が起こる(これが並行論の帰結で
ある)。そして精神の側では、自身に生じたこの変化を、まさに自分から生じた結果とし
て認識している。これらは単に並行して起こっていることなので、異なった属性間の因果
関係を一切含意していないことが分かるだろう。
あまりにあっさりとした解決で拍子抜けしたかも知れないが、これがスピノザの解答で
ある。但し、成果を強調する意味で念押ししておこう。この図式は、ただ「思惟する私」
から始めたのでは、絶対に到達しえない地点である。それが絶対に無限なる実有、即ち神
の存在においてこそ理解されるということを捉え損ねれば、スピノザの主張はただの並行
論、一つの解釈で終わってしまう(これ自体は、その亜流めいた議論、あるいはよく似た
議論が幾つかある)。必然的に存在する唯一実体から始まる、論理的な帰結 ―― だから
こそこれは、もはやそれ以外の解釈を許さないような必然的な並行論なのである。
➣ おわりに ―― 必然性の『エチカ』
(29)
最後に、次回に向けて。次の定理をもう一度見ておこう。
E1P16:神の本性の必然性から、無限に多くのものが無限に多くの仕方で(言い換えれ
ば、無限の知性の下に配されうる全てのものが)生じなければならぬ。
全てのものは、神の本性の必然性によって生じる。ちょっと待って欲しい、と思った方
もいるのではないだろうか。それだと、在るものは全てが必然的に存在している、という
ことになりはしないか。その通りだ、とスピノザは言ってしまう。
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E1P29:自然のうちには一として偶然なものがなく、すべては一定の仕方で存在し、作用
するように神の本性の必然性から決定されている。
偶然なんてない。小説の台詞なら構わないが、これは哲学である。それも『エチカ』、
倫理学の書なのである。全てが必然だとすれば、我々には自由意志などないことになる。
それでは責任の概念など成り立ちようがない。「倫理」を語るなんていかにもナンセンス
ではないか。実際、スピノザはこんなふうにも言ってしまう。自由意志? それはただの幻
想です。投げられた石が、そいつ自身は自分が自由に飛んでいると思い込んでいるような
ものですよ、と。
では『エチカ』とはタイトル上の見かけだけで、その実、倫理を 笑する書物だったの
だろうか ―― そんなことはない。むしろスピノザは、彼の形而上学においてこそ成立する
倫理があると、大真面目に考えていた。
そんなわけで、次回は「スピノザの倫理学」である。たとえ我々の自由が否定されたと
しても、我々はなお「倫理とは何か」を肯定的な仕方で語りうるのだろうか。スピノザは
きっと、この問いに答えてくれるに違いない。恐らくはあの、底なしのまともさで。
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