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本質と実在 : スピノザ形而上学の生成とその展開(本文)

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本質と実在 : スピノザ形而上学の生成とその展開(本文)
博士論文
平成 26(2014)年度
本質と実在
―スピノザ形而上学の生成とその展開―
慶應義塾大学
大学院
哲学・倫理学専攻
秋保亘
文学研究科
哲学分野
目次
序論 ...................................................................................................................................... 4
スピノザの「初期著作」................................................................................................... 6
1)『短論文』と『改善論』 ............................................................................................ 6
2)『短論文』テクストの成立事情 ................................................................................. 7
第 1 章:スピノザ形而上学の開始点:確実性の問題 ......................................................... 13
1)学の目的―スピノザ哲学のもくろみ― ......................................................................... 14
2)確実性の問題 ............................................................................................................... 17
2-1)確実性―対象的本質 .............................................................................................. 19
2-2)確実性にかんする齟齬:『改善論』テクストの多層性 .......................................... 26
第 2 章:スピノザ形而上学の生成:実在と本質 ................................................................ 32
1)『改善論』における実在と本質の問題:個別性.......................................................... 32
1-1)実在の個別性......................................................................................................... 33
1-2)個別的本質と個別的実在 ....................................................................................... 34
、、
2)個別的なものの本質と実在:実在の多義性・本質の優位・自然の順序 ...................... 37
2-1)実在の多義性......................................................................................................... 39
2-2)本質の優位 ............................................................................................................ 40
2-3)「自然の順序」 ..................................................................................................... 43
3)『改善論』の定義論(1):定議論と順序づけ―「方法の第 2 部」の標的― ................. 45
第 3 章:本質と定義―スピノザの定義論― ........................................................................ 50
、、
1)『改善論』定義論の理論的困難と確固永遠たるものの問題 ........................................ 50
1-1)『改善論』の定議論(2):その理論的困難 ............................................................. 50
、、
1-2)確固永遠たるもの[res fixa et aeterna] ................................................................. 58
2)『エチカ』冒頭における定義の問題 ........................................................................... 63
問題の所在................................................................................................................... 64
1)「書簡 9」 ................................................................................................................ 66
2)実体の定義とその本質:定義の機能 ........................................................................ 69
3)実体の定義とその実在:真理性との連関 ................................................................. 73
第 4 章:Ratio seu Causa:スピノザ形而上学の展開 ....................................................... 80
1
1)問題の所在:デカルトにおける causa sive ratio ........................................................ 82
2)スピノザにおける原因と理由 ...................................................................................... 86
2-1) Causa sui ............................................................................................................. 87
2-2)Ratio seu Causa ................................................................................................... 96
終章:本質と実在 ............................................................................................................. 102
、、
個別的なものの有限性と実在 ....................................................................................... 105
、、
個別的なものの永遠性:本質と実在 ............................................................................. 110
結論 .................................................................................................................................. 117
文献表……………………………………………………………………………………………..120
2
凡例
スピノザの著作の略号と参照箇所の指示は以下の通り。
『短論文』(KV):
『神、人間、そして人間の幸福にかんする短論文』Korte Verhandeling von God,
Mensch en deszelvs Welstand.
『短論文』のテクストは PUF 版著作集の Mignini 校訂テクストを用い、この版の頁付、段
落番号によって参照箇所を指示する。なおたとえば KV1/7 とあれば、
『短論文』第 1 部第 7
章のことを指す。
『改善論』(TIE):『知性改善論』Tractatus de Intellectus Emendatione.
『改善論』の参照箇所は Bruder 版の段落番号のみを表記し、テクストは基本的に Gebhardt
版スピノザ著作集に従うが、PUF 版の Mignini 校訂等を参考にして読みを変える場合には
その都度注記する。たとえば TIE15 とあれば、『改善論』第 15 節のことを指す。
『書簡集』(Ep):『ベネディクトゥス・デ・スピノザへの或る学識ある人々の書簡と著者の返事
― 彼 の 他 の 諸 著 作 の 解 明 に 寄 与 す る と こ ろ の 少 な く な い ― 』 Epstolæ Doctorum
Quorundam Virorum ad B. D. S. et Auctoris Responsiones; Ad aliorum ejus Operum
elucidationem non parum facientes.
『書簡集』のテクストは基本的に Gebhardt 版に従い、参照箇所を Gebhardt 版の頁数、行
数で指示する。なお日付にかんしてなど Gebhardt 版に従わない場合にはその都度注記す
る。たとえば Ep13, Geb.,Ⅳ,p.63:12-17.とあれば、
「書簡 13」、Gebhardt 版第四巻 63 頁、
12-17 行を指す。
『デカルトの哲学原理』(PPC):『デカルトの哲学原理』 Renati Des Cartes Principiorum
Philosophiae ParsⅠ, &Ⅱ, More Geometrico demonstratae.
『デカルトの哲学原理』のテクストは Gebhardt 版に従い、Gebhardt 版の頁数、行数で指
示する。なお P=「定理」D=「証明」C=「系」S=「備考」Ax=「公理」Def=「定義」の略
号を用いる。たとえば PPC1Ax11, Geb.,Ⅰ, p.18:3-4.とあれば、『デカルトの哲学原理』第
1 部公理 11、Gebhardt 版著作集第 1 巻、18 頁 3-4 行を指す。
「形而上学的思想」(CM):「形而上学的思想」Cogitata Metaphysica.
「形而上学的思想」のテクストは Gebhardt 版に従う。たとえば CM2/12 とあれば、
「形而
上学的思想」第 2 部 12 章を指す。
『エチカ』(E):『エチカ』Ethica ordine geometorico demonstrata.
『エチカ』のテクストは基本的に Gebhardt 版に従うが、
『ラテン語遺稿集』
(OP: Opera
posthuma)『オランダ語遺稿集』(NS: De Nagelate Schriften)等の他のテクストによって
読みを変える場合にはその都度注記する。略号は以下。1,2,3,4,5,=「部」Praef=「序文」
P1 =「定理 1」App=「付録」L1=「補助定理 1」D1=「証明 1」C1=「系 1」S1=「備考 1」
Ax1=「公理 1」Def1=「定義 1」Post1=「要請 1」Ex1=「説明 1」たとえば E1P8S2 とあ
れば、
『エチカ』第 1 部定理 8 備考 2 を指す。
デカルトの著作からの引用は慣例に従い、AT 版デカルト著作集の巻数、頁数、行数で指示する。
なお引用文中の[ ]は引用者の挿入である。
3
序論
或る思想の体系を分析するということは、その思想によって問い求められている中核的
な問題を、テクストの群れの中から析出し、いかにして当の思想がこうした問題にことば
を与えていくのかを跡付けることであり、またそのさいにもちいられる諸概念の精錬、概
念布置の整備、叙述様式の選択との有機的連関を解明することでもある。これらの諸概念
のうちには、当の思想家に先立つ議論、あるいは同時代の思想から受け継ぐものもあるだ
ろう。或る概念にはそれ固有の歴史がある。したがって、ひとりの思想家が或る概念を受
け継ぎ、それを自らの体系へと呼び入れるとき、当の概念がそれまで引き連れていた問題
群もが不可避的に伴われることになる。けれどもそのとき、事情は一変するのである。つ
まり、或る概念が新たな体系のもとに呼び入れられるとき、その概念に伴っていた問題群
は位置をずらされ、編成を変えることを強いられる。こうしたことは、『エチカ』のような
それ自体で完結した、いわば閉じられた体系、自らのテクストの外に参照点をもたないよ
うな体系において、とりわけて考慮される必要のあることがらであろう1。
『エチカ』を理解
たしかにスピノザは E1P19S において明示的に『デカルトの哲学原理』に、また E2P40S1
においておそらく『知性改善論』に言及してはいる。しかしながらいずれの箇所において
も、他の著作への参照が論証の流れに必要不可欠なものとして提示されているのではない。
さらにこの二つの箇所がともに「備考」のうちにあらわれていることに注意すべきである。
「備考」にかんしては様々な評価がある。たとえば Macherey によれば、備考がそれに結
び付けられ、その個別の注釈を提示している定理からこそ備考を読むべきであって、その
逆ではない(Macherey[1997]p.78,n.1.)。また Gueroult によれば、備考は「導出の余白で」
なされるものであり、「このことは、それら[備考]が、それ自身によって証明され、導出と
は独立である直観的な認識を構成しているということ」を示すという。けれども彼によれ
ばこのことは、備考以外の導出過程のなかで論証された諸真理が、読者である私たちを覆
っていた諸々の先入見をとりさることではじめて可能になることがらである
(Gueroult[1968]pp.39 -40)。さらに彼によれば、備考とはその名が示すとおり「補完的な
説明でしかない」(Gueroult[1974]p.88)。よく指摘されるように、「備考」の機能にかんし
てまとまった整理を与えているのは Deleuze である。つまり彼によれば備考には三つの特
徴がある。1)別の証明を与えること(この場合定理では否定的・外的に証明されていたもの
が、肯定的に内的に証明される e.g.E1P5 と E1P8S)、2)直示的[ostensif]性格(先行する諸
証明とは独立に、公理のように提示される)、3)論争的性格(これら 2)と 3)は連関づけら
れる。たとえば 2)のように公理のような明証を与えるものとして、錯雑とした仕方でしか
理解しようとしない人々に対する論争が導入される e.g.E1P8S)(Deleuze[1968]pp.316317)。さらに私たちは次の二点を加える。4)まとめ的(先立つ諸定理での議論を整理反復
する e.g.E2P3S)、5)移行的(後続の議論の主題を提示し、先立つ議論とのあいだに楔を入
れる e.g.E2P13S。なおこの点にかんして鈴木は「場面転換」の役割について語っている。
鈴木[2006]p.203)。いずれにせよ「備考」は諸定理の論証の網の目から比較的独立した議論
を提示している。このことは『エチカ』のテクストそのものからも裏付けられる。E4P18S
で以下のようにいわれる。「ここまでの手短な議論によって私は、人間の無能力と定まりの
なさ[inconstantia]の諸原因と、なぜ人間は理性の指図を尊守しないのかの諸原因を示した。
いまや残っているのは、理性が私たちに指図するのは何か、またいかなる感情が人間理性
の諸規則と合致するのか、反対にいかなるものがこの諸規則と対立するのかを示すことで
1
4
するにあたって、たんなる概念の継承関係を問うこと、あるいはたとえばデカルト哲学と
の単純な比較検討をなすことは功を奏しない。たとえば「自己原因」という概念ひとつを
とってみても、この概念がデカルト哲学において伴っている諸問題の布置、連関と、スピ
ノザ哲学におけるそれとはきわめてことなっているのである。「あらゆる概念は、ひとつの
問題、あるいは複数の問題へと帰される。それらなしには概念が意味を持たなくなるかも
しれず、それらが解かれるにつれてはじめて諸概念自身が引き出され、理解されることの
できるところの諸問題へと帰されるのである2」
。要するに、或る概念がひとつの体系のなか
で織り成している問題群を、最終的には当の体系の内側で正確に標定する必要があるとい
うことである。
ところで、Curlery がかつて語っていたように、「スピノザ研究者のあいだには解釈にと
って根本的なことがらについてさえ深刻な不一致がある3」
。こうした事態は、近年出版され
た研究書でもなお言及されている。すなわち、
「解釈者たちのあいだにはいまだに解決され
ることのないさまざまな議論の紛糾がある4」。こうした不一致、紛糾のなかで、本稿がとり
あげるのは、たとえば『知性改善論』をスピノザ哲学のうちにどのように位置づけるか、
『エ
チカ』で提示される定義がどのような身分・機能を有しているのか、また『エチカ』にお
、、
ける原因性の理解、結果と特質の異同、さらには個別的なものの位置づけについての問い
である。そして私たちのみるところ、これらの問いはすべて本質と実在の問題に収斂する
ように思われる。そしてこの問題こそがまさに本稿の主題であり、スピノザ形而上学の理
解に向けての導きの糸たりうると思われる問題である。
本稿はスピノザ形而上学の生成とその展開を、本質と実在の概念に分析の焦点を当てる
ことで描き出すことを中心課題とする。そのさいまずはスピノザ哲学のそもそものもくろ
みと、
「初期著作」における形而上学的な議論の内実をさしあたり大まかに把握することで、
私たちの分析の基盤を整備することが必要となろう。さらに、スピノザ形而上学の「生成
とその展開」を描き出そうとこころみるからには、彼の形而上学において具体的にどのよ
うな論点がいかに問題化されることでその生成を促したのか、あるいは強いたのかを見定
め、そのうえでスピノザ形而上学の展開を跡付けることが求められることになるだろう。
こうしたアプローチをとる場合、さらに生成と展開が至りつく地点をもあらかじめ見据え
ておく必要がある。本稿で私たちはスピノザ形而上学の到達点を彼の主著である『エチカ』
に定める。ここまではおそらく問題ない。しかし、スピノザの思想の生成、展開面を追お
ある。しかしこのことを私たちの冗漫な[prolixum]幾何学的順序で証明することに着手する
前に、私の考えていることが各々の人により容易に知得されるように、理性の命令そのも
のをここ[この備考]であらかじめ手短に示しておきたい」。つまり備考は幾何学的順序によ
る論証の枠外にある。
2 Deleuze et Guattari[1991]p.22.
3 Curley[1969]p.43. また De Dijn[1986]p,55 をも参照。
4 朝倉[2012]p.4。
5
うとする者がどうしても突き当たることになるきわめて大きな問題がある。それは生成、
展開の出発点をどこに設定するか、より正確にいえばスピノザの「初期著作」をどう扱う
かという問題である。これから検討していくことになるが、スピノザの「初期著作」をめ
ぐって、その著述時期の問題、さらにこれらの著述群のなかにいかにして「スピノザの思
想」を見出し、いかにそれを取り出すかという問題を避けてしまっては、スピノザ思想の
生成や展開について論究することはできないと思われる。そこで私たちはまずスピノザの
「初期著作」に含まれるべきものの範囲を確定し、それら著述群をあつかう場合のそれぞ
れの問題性を提示することから議論をはじめたいと思う。
スピノザの「初期著作」
スピノザの「初期著作」に含まれるものとしてまずは『神、人間、そして人間の幸福に
かんする短論文』(以下『短論文』)と『知性改善論』(以下『改善論』)をあげることがで
きる。すぐに立ち入って検討することになるが、いまはさしあたりどちらとも 1660 年前後
のものとみなしておく。さらに 1663 年にスピノザが生前自らの名を冠した唯一の著作であ
る『デカルトの哲学原理』が、付録として「形而上学的思想」を付して出版されている。
ところが、これら著述群はそれぞれに固有のテクスト上の問題をはらんでいる。それゆえ
内容面の論究に先立って、これらテクスト上の諸問題を検討する必要がある。そしてこう
した検討にあたってとりわけて注意されるべき点は、これらの「初期著作」からいかにし
て「スピノザの思想」と呼べるものを取り出していくかという点である。以下ではこうし
た問題意識を持ちながら、とりわけてテクストそのものの成立事情に困難を抱えている『短
論文』と『改善論』に的を絞って考察していく。
1)『短論文』と『改善論』
スピノザの「初期著作」とみなされる『短論文』と『改善論』の叙述時期にかんして、
従来は前者が先に書かれ、後者がそののちに書かれたという理解が解釈者たちによって広
く共有されていた。けれどもその詳細な年代確定にかんしては、それが若干の差でこそあ
れ、いくつかの見解があるということは事実である。たとえば Gebhardt は『短論文』の叙
述時期をいわゆる「アムステルダム時代」といわれる時期、つまり 1656 年から 1660 年の
あいだに定め5、『改善論』については「リーンスブルク時代」のうちの 1660 年から 1661
年のあいだに定める6。けれども両著作の前後関係が厳密に問い返されることはなかったと
Gebhardt, ‘’Textgestaltung’’, Geb.,Ⅰ,p.425. なお彼は Spinoza[Gebhardt1965/1922]に
おいては 1658-1660 年のあいだに定める(pp. ⅹⅳ-ⅹⅴ)
。
6 「アムステルダム時代」は 1656 年 7 月 27 日のアムステルダム・シナゴーグからの破門
から、1660 年初頭にリーンスブルクに転居するまでの時期を指し、「リーンスブルク時代」
はそれ以降 1663 年 4 月にフォールブルクに転居するまでの時期を指す。なお清水は自らの
5
6
いってよい。ところが 1980 年前後からの F. Mignini による一連の研究によって、こうした
両著作の叙述時期にかんする従来の理解に反し、
『改善論』が『短論文』に先立つという「仮
説」が提示された。この仮説に対する現在の解釈者たちの態度としては、まず P.-F. Moreau
のようにこの説を受け入れるもの7、そしてこの仮説に一定の評価を与えるものの、それで
もなお決定的なものではないとして従来のクロノロジーを踏襲するもの8、あるいはこうし
た仮説にまったく言及しないものに大別することができる。スピノザの思想の生成、その
展開を跡付けようとする私たちにとって、このクロノロジーにかんする問題は決して避け
て通ることのできない問題である。さて、Miginini は複数の論文等にまたがってこうした
彼の仮説についての論拠や、両著作のより立ち入った成立事情を提示しているため、以下
で可能なかぎり簡潔に彼の説をまとめ、その上で両著作に対する私たちの態度を定めるこ
とで、本稿の議論の出発点を定めたいと思う。
2)『短論文』テクストの成立事情
『短論文』はスピノザの死後 1677 年に出版された『遺稿集』には収録されていない。
『エ
チカ』を筆頭にした他の述作はもとより、未完のままにとどまった『改善論』でさえこの
『遺稿集』に含まれている。このため『改善論』にかんしてはさしあたり典拠となる原典
がしっかりと残されていることになるわけだが、『短論文』の場合にはそれがなく、現在で
も多くの研究者が依拠している Gebhardt の編纂したスピノザ著作集に収録されているテ
クストのような形で整理されるまでには複雑な成立事情が存在する。以下で Mignini と佐
藤9の整理を踏まえつつ簡単に説明する。
19 世紀の半ば過ぎになってようやく、
『短論文』の写本二つが相次いで発見される。1743
年以降に作成されたと考えられる「写本 B」が 1852 年に、17 世紀に写されたと考えられ
ている「写本 A」が 1861 年に発見される10。「写本 B」の方は J. Monnikhoff(1707-1787)
による筆写と同定され、そのさい Monnikhoff が「写本 A」を参照した可能性のあることが
指摘されている11。こうなると「写本 B」はコピーのコピーということになろう。では「写
解釈の都合上、と断りつつも『短論文』の成立時期を 1658 年ごろとしている(清水[1978]
pp.237-238、注 20)。なおシナゴーグからの破門直後の数年間のスピノザの生活にかんする
記録は極度に乏しく(cf.同書、p.35)、現在私たちの手にしうる書簡も、もっとも早いもの
で 1661 年 8 月付のもので、この時期のスピノザの著述活動、思索のありようをうかがい知
ることは困難である。こうした事情もあって『短論文』と『改善論』の著述時期を推定す
ることが困難となっている。
7 Cf. P.-F. Moreau[1994]p.3, n.2.
8 Cf. Spinoza[2002]への Rousset の序文、
p.7、また Spinoza[2003]への Lécrivain の序文、
pp.12-17。Rousset[1992]は TIE の執筆時期を 1661 年秋から 1662 年夏のあいだに定める
(Rousset[1992],p.51)。
9 佐藤[1999]pp.33-40。
10 佐藤[1999]p.34。写本発見年代については、清水[1978]p.237、注 20 参照。
11 Mignini[1986], p.97.
7
本 A」はどうか。こちらの副題には「スピノザによってまずラテン語で書かれた[Voor deze
in de Latynse taal beschreven door B. D. S.]12」という記述が認められ、このためこの「写
本 A」はスピノザ自身が書いた―といわれている―失われたラテン語原典のオランダ語訳の
コピーであると Mignini はみなしている13。けれどもそうした場合であっても「写本 A」の
方もコピーのコピーということができよう。しかし Mignini はあくまでこの「写本 A」の
副題をそのまま受け取り、『短論文』がスピノザによる口述を友人たちがまとめたものであ
るという一般的な理解に反し14、「[写本]A の副題を否定する反証があらわれるまで、
『短論
文』がそのオリジナルとしてはスピノザによってラテン語で作成されたものとみなしうる」
と主張するのである15。Mignini はさらに詳細な仮説を立てている。スピノザの友人たちが
アムステルダム時代の終わりごろかリーンスブルク転居のさい、形而上学と道徳にかんす
る彼の考えを示すことをスピノザに求めた。これが『短論文』執筆の動機である。そして
その本文は 1660 年の終わりにかけてラテン語で作成される。その後スピノザ自身がこのラ
テン語テクストに手を入れ、二つの「対話」、いくつかの注、そしておそらくは「付録」を
も作成する。そして 1661 年の終わりから 1662 年のはじめにかけて新たな順序で『短論文』
を作成しなおそうとする16。これが Mignini の仮説の主要な論点である17。けれども、彼自
身もいうように18、『短論文』はたしかにスピノザの理説と思考を含んではいるものの、そ
れが口述を介して他の人々により不十分な形でまとめられ、編纂されたと考える場合と、
少なくともそのオリジナルはラテン語でスピノザ自身により作成されたものであると考え
る場合では、スピノザ解釈上の『短論文』の有する意味と価値が変わってくるだろう。し
かしながらやはり『短論文』のオリジナルがスピノザ自身によってラテン語で書かれたも
のであるとする彼の論拠は、あくまでも「写本 A」の副題にあるということは変わらない19。
ところがこのラテン語のオリジナルは今のところ見つかっていないのである。さらに、
Mignini がそれを批判することによって自身の仮説を補強しようとしている『短論文』テク
ストの成立にかんする伝統的な理解は、上にもあげたように、それが「口述」によってな
されたものだとする理解である。Mignini はこうした理解を「根拠のない仮設20」とみなす
が、そのさい彼の主張が依って立つのは「書簡 6」において、スピノザが「この私の著作[meo
hoc opera]」(Geb.,Ⅳ,p.36:12-13)と呼ぶ「まとまった小著[integrum opsculm]」(Geb.,
この副題は Gebhardt 版のテクストに採用されている。Geb.,Ⅰ,p.11.
Mignini[1986], p.71.
14 Gebhardt, ‘’Textgestaltung’’, Geb.,Ⅰ, p.425. Cf. Spinoza[2003] p.14.
15 Mignini[1986], p.97.
16 Mignini[1987], p.15. 「写本 A」に付された二重の数字列、つまり「第 1 部」での 1-5
という数字と、「第 2 部」での 1-97 という数字の列が、のちに自ら手を入れるさいの指標
としてスピノザが導入したものとの解釈を Mignini は提示する(Spinoza[2009] p.171.)。
17 Cf. Spinoza[2009] pp.172-173.
18 Mignini[1986] p.97.
19 Mignini[1985]の論拠も結局はこの点に帰着する。Mignini[1985] p.165 参照。
20 Mignini[1986] p.98.
12
13
8
Ⅳ,p.36:18)にかんする彼の解釈である。まず要点のみをいえば、彼はこの「まとまった小著」
を『短論文』そのものとみなすのである21。こうしたことがらは私たちの解釈の足掛かりに
もなるので、多少煩雑にはなるが以下でその正当化をまとめよう。
、、
「書簡 6」でスピノザは「[…]どのようにして諸々のもの[res]が在りはじめたのか、そし
てそれらがどのような連結でもって第一原因に依存しているのか、このことがらについて、
また知性の改善について[de emendatione intellectus]、私はまとまった小著を作成し
[composui]、その筆写と修正に[in cujus descriptione, et emendatione]従事して」いる[Ep6,
Geb.,Ⅳ, p.36:10-14]と語っている22。Mignini はこの箇所の composui の完了形を受けて、
、、、
この「小著」がまとまりのある著作としてすでに書かれていたという主張を行い、さらに
この論点を補強するために「修正[emendatio]」の人文学的文献学上の伝統的意味を提示す
る。すなわち彼によれば、この語は或る作家によって自分自身の著作について使われる場
合には、オリジナルの草稿を訂正することだけでなく、注釈や参照箇所を付加することで
まとめ上げることを指すという23。ところで、もし Gebhardt の仮説にしたがって、
「まと
まった小著」が『短論文』と『改善論』をともに含んだ「二部の著作」だったと想定する24
と、composui という動詞と emendatio という行為が『短論文』だけではなく『改善論』に
、、、、、、、、、、、、
もかかわっているということになる。ところが『改善論』は「(たとえすでに作成されてい
、、、、、
たとしても―この点は Gebhardt の仮説では熟慮されていなかったのだが)まだ私たちが知
っている叙述の段階には至っていなかったか、あるいは、同じ根拠のもとでもはや再び手
を付けられえないような状態で中断されたかである。いずれの場合でもこの著作はそれ自
身においてまとまってはおらず[non integra]、そしてこのような状態では「まとまった
[integrum]」ものでも、スピノザが最終的には出版を考えて修正し、書き直す準備をしてい
るといいえたような「小著[opsculum]」でもなかった[強調引用者]25」。つまり Mignini は
「書簡 6」の「まとまった小著」を『短論文』のみに限定し、『改善論』の可能性を排除し
ようとするのである。ところが「知性の改善」をあつかっているはずのこの「小著」は、
やはり『改善論』であるとみなされるのが素直な理解なのではないかという当然の反論が
考えられる。こうした反論に対し Mignini は、
「知性の改善」という表現が『短論文』の第
2 部で論じられている主題と合致するという解釈を提示する。ここでは彼の論拠の逐一を検
討する余裕はないけれど26、一点のみあげるなら、彼はまたもや「写本 A」の副題を典拠と
するのである。つまりそこでは「[…]知性を病んでいる」ものを「[…]癒す[…][die krank in’t
verstand zyn…geneezen…]」(Geb.,Ⅳ, p.11:17-18)という記述が認められる。これを
21
22
23
24
25
26
Mignini[1986] p.98. Mignini[1987] p.15.
ところがこの箇所は『遺稿集』の当該書簡に存しない。この点はすぐ後に問題とする。
Mignini[1986], p.91, n.141.
Gebhardt, “Textgestaltung”, Geb.,Ⅰ,p.409. Spinoza[2009] pp.25-26.
Mignini[1986] pp. 91-92.ここでの強調した箇所についてはのちに論究する。
他の論点にかんしては Mignini[1986], pp.92-95.
9
Mignini はある種の「精神の治療[medicina mentis]」であるとみなし27、
『短論文』の第 2
部で、人間が自らの完全性へと至るための手段として諸々の認識の種類が検討されている
という事態を引き合いに出すことで、こうした「精神の治療」がまさに『短論文』の当該
箇所で展開されているという解釈を提示する28。
こうした Mignini の諸仮説にかんしては、彼自身注意を払っていることではあるのだが、
それでもなお私たちは次の諸点を疑問点として提示する。1)まず Mignini の解釈が多くを
追っている「書簡 6」の箇所(「まとまった小著を作成し…」云々という箇所の前後29)が
『遺稿集』には含まれていないということである30。
「書簡 6」は二通りの形で残っており、
一方は『遺稿集』に含まれたもの(こちらは実際にスピノザが書簡相手のオルデンブルク
にあてて送ったものであろう)で、他方はロンドンの王立協会図書館が保存しているもの
である。後者の書簡はスピノザがオルデンブルクに書簡を投じたのち、その複写を自らの
手元に残しておき、さらに手を加えたものと考えられる31。この時代の「書簡」の性格のひ
とつとして、それがいずれ出版されることを念頭において書かれているという点をあげる
ことができる32。この点を踏まえて、後に出版される際のことを考慮してスピノザ自身のく
わえたと思われる箇所が先に引用した箇所なのである。こうなると、第一に、そもそも日
付を欠き、前後の書簡との関係から 1661 年 11 月から 1662 年 7 月のあいだに書かれたと
推定されているにすぎない33この書簡の、さらにのちになって書き足された箇所にかんして、
その付加がいつなされたものなのかということを考証する余地は十分にある。そうなると
composui という完了形の指す時期はあらためて問題となるところであり、当該書簡を 1661
Mignini[1986] p.94. また Spinoza[2009] p.28.
そしてこうしたことがらは、人間の完全性とその知性の完全性の一致(「[…]生において、
知性を、あるいは理性を、可能な限り完全にすることは何よりも有益であり、そしてこの
一点にのみ人間の最高の幸福、あるいは至福が存するのである」[E4AppCap4])として、
『エ
チカ』にもつながりうるという。以上 Mignini[1986], pp.93-94.
29 Geb.,Ⅳ, p.35:29 以降。
30 この点は Spinoza[2003] p.13.また Spinoza[2010] p.61, n.1.等に指摘がある。
31 岩波文庫
『スピノザ往復書簡集』の訳者畠中の注 1、p.360 参照。また Spinoza[2010] p.61,
n.1.参照。
32 P.-F. Moreau の整理を借りて 17 世紀における書簡の性格をまとめれば以下のようにな
る。まずこの時代にあって書簡はもっとも普及した著述形態のひとつであった。そして書
簡はしばしば、書簡をかわしている相手のみではなく、より広い公衆に向けて開かれても
いたのである。これはたんに特定の人々の間で書簡が回覧されるということだけを示すの
ではなく、人文主義的伝統のなかで、書簡が完全な権利をもった文学的・哲学的ジャンル
とみなされることができ、いずれ出版されることも念頭に置かれていたということをも示
す。また書簡では印刷された著作では語られていないことが語られる場合もある(デカル
トの場合、とりわけメルセンヌを相手取ったいわゆる「永遠真理創造説」の開示であり、
スピノザの場合「キリストの復活」について(Ep78)など)。この場合は書簡相手の有する
問題意識に応じた話題が展開されていると考えられよう。さらに書簡に含まれている内容
にかんしていえば、情報伝達、生活面における要望もあれば、理論的テーゼの展開や或る
理論的問題についての議論も含まれる(P.-F. Moreau[2004]pp.3-8)。
33 Ibid.
27
28
10
年 12 月以前のものと推定し34、その上で「まとまった小著」から未完のまま残されること
になった『改善論』の可能性を完全に消去してしまう Mignini の仮説は性急すぎるといえ
よう。さらに、第二に、composui という完了形は或る著作が実際に書き終えられたという
ことを必ずしも示すわけではなく、スピノザがいわば見込みで記載したものであるという
解釈もある35。この解釈はスピノザが自らの手元に残した「書簡 6」に問題となっている
composui という動詞が含まれる一節をあとから書き込んだという事情とも整合的なもので
あろう。2)当該書簡の「知性の改善について」という箇所から『改善論』を排除しようとす
る Mignini の論拠のうち、『改善論』には emendatio intellectus という語が表題にしか現
れないという論点がある36。ところが『改善論』の 16 節に「知性を矯正する様式[modus
medendi intellectus]」という語が記され、さらに 18 節では「何よりも先になされるべき
第一のもの」としてまさに「知性を改善すること[emendendum…intellectum]」が挙げら
れており、この Mignini の論拠は不十分であるといわざるを得ない。加えて 3)Mignini の
仮説が結局のところ依って立っているのはあくまで「写本 A」の副題である。ところが
Curley も正しく指摘しているように、この副題は「明らかにスピノザ自身によって書かれ
たものではない37」。この副題の正当性が疑問視されるゆえんである。この副題は結局のと
ころ、スピノザによって書かれたといわれるラテン語原本が発見されないかぎり確証のな
いものと考えるべきであるのではないのだろうか。
以上の考察を介して、私たちとしては『短論文』のテクストを慎重にあつかう必要があ
ると結論しなければならない。佐藤もいうとおり、『短論文』は「スピノザの作品中、最も
困難な条件を負っている作品であることは間違いない38」のである。さらに、
『短論文』
(こ
れが実際にスピノザによって書かれたものであるとして)と『改善論』の執筆時期を確定
するのは困難である。私たちは両著作の執筆時期からではなく、そのテクストであつかわ
れていることがらからスピノザ形而上学の生成を跡付けたいと思う。そうなると以下での
私たちの考察は、ここまでやや立ち入ってその成立事情の問題性を示してきた『短論文』
に依るよりも、『改善論』の方に依拠すべきであるといえることになる。以上まで示してき
た「初期著作」の問題性、とりわけて『短論文』のテクストが「不確か39」であるという点
を受けて、Alquié はたしかに一方で、
「スピノザにかんしていえば、[…]私たちは体系の生
Spinoza[2009] pp.31-32. なお先にあげた Mignini による『短論文』テクスト成立の詳細
な仮説のなかで、この書簡の日付をめぐる彼の推察は非常に大きな意味を持っている。と
いうのも、彼はこの書簡を 1661 年の終わりごろに書かれたと推定したうえで、composui
された『短論文』
(これはもちろん Mignini の仮説に乗った場合のことである)の「筆写と
修正」に従事した時期を 1661 年の終わりごろから 1662 年の初めごろと推察しているから
である。
35 たとえば清水[1978]pp.159-160。また岩波文庫『知性改善論』訳者畠中による解説
pp.109-110。参照。
36 Spinoza[2009] p.28.
37 CW, p.59 n.2.
38 佐藤[1999]p.33。
39 Alquié[2003] p.37.
34
11
成を描きなおすことができないであろうということを認める必要がある」とまで語ってい
る40。けれどもこうした発言を経てもなお他方で、彼自身その生成を描きなおそうと試みて
いるし、とりわけ『改善論』が、スピノザを『エチカ』の説へと導いたさまざまな考え方
の変遷を判断するために「私たちの有している唯一の、しっかりとしていて正確な比較項41」
であることは確かであるように思われるのである。
40
41
Alquié[2003] p.36.
Alquié[2003] pp.36-37.
12
第 1 章:スピノザ形而上学の開始点:確実性の問題
序論でみてきたように、スピノザの「初期著作」から彼の形而上学体系の生成を跡付け
ることは非常に困難な作業である。ここまで私たちはその困難のゆえんとなっている「初
期著作」をめぐるテクストの問題を整理してきた。いまやテクストの内実、そこで展開さ
れているスピノザの思考の内容から「スピノザ形而上学の生成」の出発点を描き出さなけ
ればならない。ここまでのテクスト成立事情を介した議論によって、私たちはこの出発点
を躊躇なく『改善論』に定めることができる。しかしながら、序論では触れなかったけれ
ども、この『改善論』のテクストも、これはこれで固有のテクスト上の問題を含んでいる。
端的にこの問題性を提示すれば、よく知られているように、『改善論』が未完の著作である
という事実である。
『改善論』執筆時期にかんしては、従来 Gebhardt による 1660-1661 年のあいだに執筆
されたという考証がひろく受け入れられていた42が、Mignini は 1658-1659 年のあいだへと
時期を早める43。私たちとしては、『改善論』の執筆時期を確定することは極めて困難であ
るといわなければならない。というのも、これから詳細にみていくことになるが、
『改善論』
は或る特定の時期に、現にいま私たちが手にしているようなテクストの形で成立したもの
であるというよりも、たとえ大部分はそうであるとしても、しかしスピノザはそののちい
くつかの箇所に手を加えたか、あるいは何らかの付加を行ったと考えられるからである。
先にみたように、
「書簡 6」で言及されていた「まとまった小著」をめぐる解釈のなかで、
、、、、、、、、、、、、、
Mignini は以下のように語っていた。つまり『改善論』は「(たとえすでに作成されていた
、、、、
としても―この点は Gebhardt の仮説では熟慮されていなかったのだが)まだ私たちが知っ
ている叙述の段階には至っていなかったか、あるいは、同じ根拠のもとでもはや再び手を
付けられえないような状態で中断されたかである。いずれの場合でもこの著作はそれ自身
においてまとまってはおらず[non integra]、そしてこのような状態では「まとまった
[integrum]」ものでも、スピノザが最終的には出版を考えて修正し、書き直す準備をしてい
るといいえたような「小著[opsculum]」でもなかった[強調引用者]」と彼はいうのである。
私たちはここで強調した「すでに作成されていた」ということを重く受け止める。たしか
に『改善論』は未完のままに残された。とはいえそれは或る程度は(少なくともそのほと
んどが現に私たちが手にしているテクストの状態に近い形で)すでに作成されていたとみ
なされるべきであるように思われる。以下で示していくことになるが、『改善論』で展開さ
れているスピノザの思想を注意深く追っていくと、『改善論』テクスト内で展開されている
思想の多層性が見出される。そしてこの多層性は執筆時期の多層性にもつながりうる。あ
くまで『短論文』が『改善論』よりのちに書かれたとする仮説を綿密に立証しようとする
Koyré も「書簡 6」の私たちが問題にした箇所を典拠に同様に 1660-1661 年と執筆時期
を推定している(Spinoza[1994] p.Ⅺ)。
43 Spinoza[2009] pp.24-25, Mignini[1987] p.20.
42
13
Miginini でさえ、こうした可能性を否定していない。つまり彼は、
『改善論』が未完のまま
にとどまっていたのだから、スピノザがそこにいくつかの注記を加えたり、他の様々な仕
方で第一稿に手を加えたりすることができたという可能性を排除しないのである44。以下で
私たちはこの可能性を念頭におきつつ、スピノザ形而上学の生成の出発点を見定めていき
たいと思う。そのさい私たちは、『エチカ』で提示されているスピノザのいわば成熟した思
想の側から、
『改善論』に含まれる思想の未熟さを指摘していくような態度や、Koyré のよ
うに『エチカ』のテクストからこそ『改善論』のテクストが解明されるべきであって、そ
の 逆 で は な い と い う 解 釈 の 方 向 性 45 を 断 固 と し て 拒 絶 す る 。 こ う し た 方 向 性 は 、 A.
Matheron が『エチカ』と『改善論』両著作にまたがって認識の諸類型を解釈していくさい
に典型的に、しかもほとんど強引ともいえるほど強く推し進められている46。ところがこう
した解釈の方向性によっては、スピノザの「初期著作」におけるどのような問題性が、そ
ののちの彼の思想の生成と展開を促したのかという視点を確保することができないだろう。
到達点としての『エチカ』の側からスピノザの「初期著作」に光をあてる場合、まさにこ
の到達点へとスピノザの思考を至らしめた動因が陰に隠れてしまうことになるのではない
だろうか。私たちとしてはあくまで、まずは『改善論』のテクストにそくし、この著作に
固有の問題を開示することによって、そこからスピノザ形而上学の生成を跡付けていくと
いう手法をとる。その結果として、以下の『改善論』にかんする私たちの議論は、
『改善論』
のうちに『エチカ』の形而上学がすでに含まれているとする理解47に対する批判ともなるだ
ろう。
1)学の目的―スピノザ哲学のもくろみ―
『改善論』にかんしてだけではなく、しばしばスピノザ哲学全体の「序曲[préambule]」
ともみなされる48その冒頭でスピノザは以下のように語りはじめる。
「私はついに決心した。
Spinoza[2009] p.34.
Spinoza[1994] p.ⅩⅩⅠ.
46 Mathron[2011-3] pp.467-529. 彼の論点を詳細に検討するのは、私たちのもくろみから
外れることになるし、私たちの論点をぼかしてしまうことにもなろうから、ここでは彼の
論述の方向性のみを取り上げる。
『改善論』では「知得[perception]」の四つの「様式[modus]」
[TIE19-29]が提示される一方で、『エチカ』では「認識[cognitio]」の三つの「類[genus]」
[E2P40S2]が提示される。Matheron は両著作で展開される認識の諸類型にかんして、それ
、、、、、、、、、、、、
らのあいだに「理説上のどのような矛盾も[aucune contradiction doctrinale]」[強調
Matheron]ない(p.468)という立場をとり、
『エチカ』での三種の認識それぞれを詳細に検
討したのち、
『改善論』の「知得」の諸様式との比較を行う。彼によれば両著作における認
識の諸類型にかんする説の差異は、たんにスピノザがそれらを提示するさいの方法論的な
ものでしかない(ibid.)といわれるのである。なお modus と genus にかんする差異について
は、Rousset[1992]pp.36-39 参照。
47 たとえば Harris[1986]pp.131-132.
48 Cf. Spinoza[2003] p.20, Spinoza[1994] p.97, n.1, P. -F. Moreau[1994] p.26,
A.
44
45
14
私たちが共通に得られうる真の善、他のすべてを捨て、ただそれのみによって魂が触発さ
れるものがあるかどうか、より正確にいえば [imo] 、それを見出し、獲得することによっ
て、永続する最高の喜びを私が永遠に享受することになろうものがあるかどうかを探求し
ようと」[149]。
これに続いて以下のようにいわれる。「[…]一見したところ、[真の善を求めようと決意し
た]その時には[まだ]不確実なもののために、確実なものを放棄しようとするのは、思慮に
欠けるように思われた」[2]。それではこの「確実なもの」とは何か。それは「富」や「名
誉」といわれ[2]、「快楽」とならび「人々によって[…]最高の善とみなされている」もので
ある[3]。しかしこれらによって「精神は、或る他の善について思惟することがほとんどで
きないほどに掻き乱される」[3]。つまり、ここでいわれる「確実なもの」とは、6 節で「確
実」と「不確実」という形容詞が「善」に付されていることからもみてとれるように、
「善」
にかかわるものであり、また、それはスピノザによって否定的に評価され、真正な善と呼
べるものではないと考えられている。
たしかに私たちは、私人としてであれ公人としてであれ、日ごろ生活しているなかでた
とえそれがわずかであったとしても、一定の名誉や富[dives]を現に手にしている。ところ
で、もしこうした現に手にしている名誉や富よりもより善いものがそもそも存在しないと
でもするなら、私たちがそれらを捨ててまで何かより善いものを求めようとすることは、
私たちの有しうる幸福[felicitas]を自らの手で捨て去るということを意味するだろう。けれ
どもまた他方で、たとえば私たちが現に有しているこの名誉が、うわべだけの虚栄のよう
なものでしかなく50、そうした名誉のようなものにはそもそも幸福が含まれていなかったの
だとするなら、「私は最高の幸福[summa felicitas]を欠いていたということになろう」[2]。
ようするに、ここでいわれている「不確実」「確実」とは、さしあたりその獲得にかんして
の確かさであり、あるいは不確かさであると考えられる51。けれども、たとえその獲得にか
んして確かといわれるものであっても、現に確かに私たちが得ている何ものか、たとえば
一定の富、あるいはこの先確かに得られるであろう何ものか、たとえば目先の快楽が、そ
、、、
の本性上「不確実」なのもであったとしたらいかなる事態が生じるだろうか。たしかに、
「真
の善」という、その獲得が困難であり、その意味で不確かなもののために、現に私たちが
確かに獲得しているもの、あるいはこの先にも確かに獲得できるであろうものを捨ててし
まうというのは、「思慮に欠けるように思われる」。けれどもかくて私たちが現に有してい
、、、、、
る何ものかが、その本性上不確実なものであるとしたら、結局のところ私たちは「確実」
といえる何ものをも手にすることができないし、かつ現に手にしえていない、ということ
Garrett[2003] p.12, Rousset[1992], p.47. P.-F. Moreau のいうように、この冒頭部は「数多
くの注釈を生み出してきた」箇所であり(P.-F. Moreau[1994]p.11)、スピノザ解釈におい
てもっとも重要なテクストのひとつである。
49 本章と次章では『改善論』の参照箇所を Bruder 版の段落番号のみによって指示する。
50 Cf. Spinoza[1994] p.97, n.2.
51 Cf. P.-F. Moreau[1994],pp.96-97.
15
になるだろう。「ゆえに、きわめて身近でありありとあらわれている平凡な生が、ちょっと
でもそれを問うてみるや否や、あたかも最悪の脅威、苦悶をあらわにするかのようにすべ
ては進行する52」。人の世というものは、とかく定めがたいものである。このような定めが
たい世界のなかで、それでもなお「確実」といえる何ものか、「それを見出し、獲得するこ
とによって、永続する最高の喜びを私が永遠に享受することになろうもの」が求められる
べき次第である。「治療薬がほどこされなければ確実に死ぬことを予見している、死に至る
病に[lethali morbo]侵された病人が、どれほど[それを得ることが]不確かであっても、彼の
希望のすべてがこの薬にかかっているために、死力を尽くしてこれを求めざるを得ないの
と同様に」[7]。
それでは「真の善ということで私[スピノザ]が知解するのは何か」[12]。
「このことが正し
く知解されるために注意されるべきなのは、善と悪というのは相対的にしかいわれない」
ということが語られた上で、真の善は次のように規定される。「それ[人間の完全性]へと至
るための手段となりうるすべてのものが真の善といわれる」 [13]
53。そしてこの人間の完
全性ないし本性とは、「精神が全自然ととりもつ合一性の認識」[13]であるとされる。この
ように真の善が規定されたので、それにともなって「確実なもの」の規定も変更されてい
くと考えることができるだろう54。スピノザはさらに論を進める。「[…]私の向かう目的は、
このような本性を獲得すること、また私とともに多くの人々がこれを獲得するよう努める
ことである。いうなら、他の多くの人々に私が知解するのと同じように知解させ、彼らの
知性と欲望とが私の知性と欲望とにまったく合致するように努めることがまた、私の幸福
に属するということである」[14]。
まとめよう。
『改善論』の冒頭から語られはじめた「確実」なものは、
「善」にかかわり、
この「善」の方はさらに「精神が全自然ととりもつ合一性の認識」へと至るという諸学に
おける唯一の目的[16 とそこに付された注]をめぐって規定された。たしかにスピノザはこ
こで、つまり自らの哲学への序曲において、何よりもまず人間の富、名誉、その悲哀、不
安、また幸福について、すなわち人間の生について語っている。確実性や学知[scientia]を
、、
求めるはずの、知性が「諸々のものについての真なる認識へと最上の仕方で導かれるため
の途」(『改善論』の副題)を論じるべき著作が、また「いかなる仕方で、またどのような
途を介して知性が完全にされなければならないか」を扱うとされる「論理学[Logica]」
[E5Praef]たるべき書物55が、人間の生についての叙述からはじまるというこうした事態は、
P.-F. Moreau[1994],p.19.
M. Beyssade によれば、この 13 節での「真の善」が 1 節でのそれと同じ意味ではないと
されるが、そこまで区別してしまう必要は全くないと思われる。 Spinoza[2009]p.144, n.16.
、、
54 『改善論』11 節までに語られる「善」と、12-13 節で語られるそれとのあいだに、
「こと
、、、、、
ばの上では一貫性がない」
(Joachim[1940]p.21.)とみる向きや、P.- F. Moreau がまとめる
ように、そこに「跳躍」や「断絶」をみる(P.- F. Moreau[1994]p.199 et n.1.)向きもある
が、私たちはそこまで強く読み込まない。
55 第 5 部序文にあらわれるこの「論理学」が『改善論』に他ならないとするのは、たとえ
52
53
16
一見したところでは奇異に感じられるかもしれない。しかしながらスピノザが『エチカ』
の著者であるということは決して忘れられるべきではない。たとえこの書物がきわめて特
異な意味において―この意味は最後にみることになる―のみ「倫理学」といわれるとして
もそうである56。不確かなものにみちあふれ、定めがたきこの世57でなおもその本性上確実
な何ものか、
「精神が全自然ととりもつ合一性の認識」へと至る手段となるものをいかに見
出して手に入れるかということ、「それを見出し、獲得することによって、永続する最高の
喜びを私が永遠に享受することになろうもの」を探求するというということ、これがスピ
ノザ哲学全体を貫くモチーフとなっていると考えることができる。
*
かくてスピノザ哲学全体のもくろみ、方向性を見定めたわけだけれど、これ以降「確実」
なものは具体的にはどのように語られていくのであろうか。以下で私たちはスピノザの議
論をさらに追っていきながら、『改善論』における「確実」なものを明確にとらえていくこ
とを試みる。それはさしあたり、いまみたように 1)『改善論』が「確実なもの」と「不確
実なもの」をめぐる議論を皮切りにして叙述されていくから58であり、さらに 2)、確実性は
『改善論』においていくつかの問題をはらんでいるからであり、最後に 3)、こうした問題
性をうけて、のちのスピノザ形而上学の展開を考究するための足掛かりとして、まずは『改
善論』におけるスピノザの思索が突き当たっていると思われる諸々の理論的困難を浮き彫
りにするというもくろみが、私たちにはあるからである。
2)確実性の問題
ば畠中尚志訳『エチカ』岩波文庫、下巻、訳者注 1、p.148、また Rousset[1992]p.13, p.48
参照。
56 ヴァチカンの異端審問所[Holy Office]に 1671 年 9 月 23 日から保管されていた
『エチカ』
の唯一残存する手稿が近年発見された。『ヴァチカン写本』である。これにはタイトルも口
絵もないということもあって、この写本を出版した編者は「『エチカ』という名は、おそら
く作品の内容をもとに案出され、[スピノザ自身というより]『遺稿集』の編者たちによって
与えられたと想定するのが無難だと思われる」
(Vatican[2011]p.4)という。しかし、この
写本の編者もはっきりいっているように、この著作のタイトルはたしかにその「内容をも
とに」考案されているわけだし、スピノザ自身「私のエチカ」と名指している[Ep23, Geb.,
Ⅳ,p.151:2]わけで、わざわざ『エチカ』の書名(ひいては体系名)をスピノザから奪いとる
必要はまったくない。なお Rousset は『改善論』冒頭で示されるスピノザの目的が、はっ
きりと「倫理的」であると語っている(Rousset[1992]pp.45-46)。
57 「人事の状態[statum rerum humanarum]」
は「まったくもって変化しやすい[prorsus est
mutabilis]」[45]。
58 P.- F. Moreau は『改善論』の冒頭であらわれる「確実」をめぐることばについて、
「ほ
とんど強迫観念といえる繰り返し[la répétition presque obsessionelle]」がなされると述べ
ている。P.- F. Moreau[1994]p.69.
17
「確実」と訳されるラテン語 certus は、動詞 cerno に由来する。Cerno の意味合いは、
「ふるいにかけて不純物をとりのぞく」といったことであり、ここから「他のものから区
別・分離する」、さらにそれでもって「決定する」、目や精神で「識別する」ことを意味す
るようになる。加えて、他から区別されて定まっていること、それをまた目や精神で識別
することは、真 verus と近い意味をもつようになる、と考えることもできる59。それゆえ、
何か certus なものを求めようとするなら、それと混同されてはならない不純物を区別し、
分離する必要がある。そしてこの不純物とは、疑わしいものや偽なるものであることが理
解されよう。私たちは certus のこの元来の意味合いを念頭におきつつ考察をすすめていく。
ここでの具体的な手続きは以下である。まず 1)『改善論』における認識論にかかわる場
面での確実性のありかたを明示する。
『改善論』
35 節における「確実性は対象的本質[essentia
objectiva]それ自身以外の何ものでもない」というスピノザの言明をめぐり、解釈史上この
、、
「対象的本質」を「観念において措定され、あるいは含まれているかぎりでのもの[thing]
の存在60」と捉えるものや、「観念の内で対象を表している観念のありかた」と捉える理解
、、
等があり、解釈の一致をみていない。私たちはこの「対象的本質」の身分を明示したうえ
、、、、、、、
で、さらにこの概念が、少なくとも 33-35 節においては、あくまで対象の「本質」に力点
を置いており、それゆえに確実性が語られうるということの次第を示す。さらに、2)『改善
論』テクスト内部における確実性をめぐる齟齬を指摘し、そのうえで、3) 『改善論』にお
ける確実性の問題を提示することで、『改善論』テクストの多層性、少なくともその可能性
を示し、スピノザ形而上学生成の出発点を定める。
[…]何よりもまずなされるべきこと、つまり知性を改善し、私たちが私たちの目
、、
的に達するために必要とされる仕方で知性がもの[res]を知解するようにさせることへ
と、私はまず取り掛かろう。このことがなされるために、私たちが自然に有している
順序は、ここで私がこれまで疑うことなく或るものを肯定したり否定したりするため
に用いてきた知得の諸様式を再び取り上げるよう求める。[18]
先に述べたように、確実なものを画定するためには、不純物をとりのぞく必要がある。
スピノザはここでその不純物を取り除く作業に着手し始めたとみることができる。
彼によれば「知得の諸様式61」は四つある。つまり簡単にまとめれば、1) 聞き覚えから
59
中川[2005]p.128 参照。
引用はそれぞれ、Mark[1972]p.20 and p.62. 佐藤[2004]p.183.
61 本稿で私たちは『改善論』で提示される知得の諸様式を主題的に論じないし、
『エチカ』
における三種の認識との比較も行わない。こうした主題にかんしては、たとえば
Gueroult[1974] pp.593-608. また Matheron[2011-3]pp.467-529. Gueroult は『改善論』
での知得の様式と『エチカ』での三種の認識の説はぴったりと一致するものではなく、認
識の種別にかんするスピノザの思想の展開をとらえようとしている。 Matheron はしかし
この論文において、『改善論』における知得の四つの様式と『エチカ』での三種の認識が、
両著作間での理論上の発展関係や齟齬を含むものではないという立場を貫いている。
60
18
、、
、、
の知得、2) あいまいな経験からの知得、3) ものの本質が他のものから十全な仕方でではな
、、
く結論される知得、4) ものの本質のみから、あるいはその近接原因の認識からの知得であ
る。以下ではまずはっきりと「不確実」とみなされる第一の知得と第二の知得を手短に検
討することで、『改善論』における確実性の内実を見定めるための足掛かりとしよう。
スピノザは第一のものにかんして、
「こと[res]は至って不確実」であるといい、聞き覚え
、、
、、
からは「私たちはものの本質を知得すること」がなく、「或るものの個別的実在は本質が認
識されなくては知られないのだから、ここから私たちは、私たちが聞き覚えからもつすべ
ての確実性が諸学[scientiae]から排除されるべきであると明瞭に結論する」[26]という。こ
こでいわれる「確実性」は、聞き覚えによる知得の例(自分の誕生日やこれこれの両親を
持ったということ)[20]からみてとれるように、「それについて私が決して疑うことのなか
った」[同]ことからくる確実性である。さらに聞き覚えが「不確実」といわれる理由は、
「そ
の者自身の知性がともなわない62」[26]からであるといわれる。
また第二のものにかんしても、スピノザはそれが「まったく不確実」なことがらである
と語る[26]。それは「あいまいな経験」といわれる或る経験が、「たまさか[casu]そのよう
に生じ」、また私たちがこの経験の反証となるような別の経験を有していないという理由で
のみ「揺るがしがたいもの[inconcussum]」とみなされており[19]、いつかこの経験の反証
となるものが生じればたちまち崩れ落ちてしまう不確かなものだからだと考えられる。く
わえてスピノザがこのような経験を「知性によって規定されることのない」経験といいか
えている点にも留意しよう[19]。
以上の議論において私たちが注目したい論点は、たんに疑うことがなかったという理由
だけで確実とされるもの、またたんにそれに対する反証がいまのところないという理由だ
けで信のおかれているものは学から排除されるべきであること、反対に学に求められるべ
、、
き確実性は第一に、ものの本質の認識にかかわり、第二に知性がともなわれるべきである
ということである。この二点についてはまたのちに振り返ることになるだろう。さて、た
んに疑うことがなかったから確実であり、疑わしいから不確実であるという消極的な規定
にとどまらず、つまりたんに不純物を取り去るだけで十分とみなすだけでなく、スピノザ
は確実性を積極的に規定していこうとしているようにみえる。この論点をたずさえて、今
や私たちはスピノザが確実性について決定的なことがらを語っていると思われる場面を検
討していこう。
2-1)確実性―対象的本質
原文は‘’non praecessit proprius intellectus”。文字通りに訳せば、「その者自身の知性が
先行することのなかった」 という訳になるだろうが、ことがらとしては「知性がともなう
ことのない」ということと解釈できる。なお proprius intellectus は「本来的にいわれる知
性」をも示しうる。cf. Spinoza[2009]p.146, n.42, また Spinoza[1994]p.22.
62
19
このことから、確実性は対象的本質それ自身以外の何ものでもないことが明らかで
ある、いいかえれば、私たちが形相的本質を感受する[sentimus]その様式[modus]が確
実性そのものである。これによってさらに、真理の確実性には、真の観念を有するこ
と以外のしるし[signum]は必要ではないということも明らかである。というのも、私
たちが示したように、私が知る[scire]ためには、私が知っているということを知る必要
、、
はないからである。これらのことから今度は[rursum]、或るものの十全な観念、ある
いはその対象的本質を有するひと以外のだれも、最高の確実性とはなんたるかを知る
ことができない、ということが明らかである。明らかに[nimirum]、確実性と対象的本
質は同じものだからである。[35]
ここでは確実性の在処が明確に示されている。それは「対象的本質[essentia objectiva]」そ
のものである。そして確実性がどのようなものかを知ることができるのはこの対象的本質
を有している者に限られるのだから、まず私たちはこの対象的本質とは何なのかを理解し
なければならない。そしてさらに、引用部に述べられた対象的本質、形相的本質、真の観
念、十全な観念の相互のかかわりを明らかにしなければならない。けれどもこの節では、
これら諸概念がどのようなものかについての説明はなされていない。これら諸概念の内実
とその連関を理解するためには、この引用の冒頭のことば(このことから[hinc])が示して
いるように、この引用部全体が帰結してくる先の議論[33-34]に目を向ける必要がある。
「真の観念(というのも私たちは真の観念を有しているから)はその観念対象[ideatum]
とことなるものである」[33]。
「真の観念」が『改善論』ではじめてあらわれる箇所である。
「真の[vera]」という形容詞が付せられるのはなぜだろうか。ひとつには、32 節以前に語
られた「真なるものを探求する方法」にかかわる「生得の道具」としてそれが提示される
からであろう。しかし私たちにはそれ以上に重要な理由があるように思われる。スピノザ
の議論を詳しくみていこう。
真の観念はその観念対象と区別される。たとえば円と円の観念は区別される。円の観念
それ自体は中心や円周を持たないからである。このように観念と観念対象が区別されるた
めに、観念は観念対象とことなるものであるために、今度は観念それ自体も「知解可能な
或るもの」という身分を得ることができる。いいかえれば、「観念はその形相的本質として
みられるかぎり、他の対象的本質の対象でありうる」[33]。スピノザはここで、観念、観念
対象、形相的本質、対象的本質という概念を明確に規定していない。私たちはスピノザの
議論の文脈から、それぞれの概念の内実を見定めていかなくてはならないのである。
まず「観念」についてこの議論のみからわかるのは、それが〈知解すること[intelligere]〉
にかかわるということ、観念対象を持つということ、その観念対象とは区別され、ことな
るものであること、このようにことなっているためにそれ自身知解可能なものであり、事
象的なもの[quid reale]であるともいわれること、これである。次に「観念対象」は、観念
とはことなり区別されるものであり、一般化して定式化すれば、「~についての観念」が語
20
られる場合における「~」の位置にくるものである。ここではさしあたり、この観念対象
が自然的実在であるのかそうでないのかは問題とならない。あくまで観念とのかかわりの
もとでのみとらえられるからである。さらに観念がつねに何ものかについての観念である
のなら、その「何ものか」つまり観念対象はつねにともなわれることになる。また、「ペテ
ロの真の観念はペテロについてのものであり、他の観念対象をもたない。一方ペテロはこ
の観念の観念対象なのであり、他の真の観念のではない63」。この意味で、観念とその観念
対象は結びついているともいえる。では、形相的本質と対象的本質はどのように理解でき
るだろうか。ここでまず注意しなければならないのは、少なくともこの場面ではこの両概
念が観念についていわれているように理解できる、ということである。つまり、観念は何
ものかについての観念であり、その何ものかつまり観念対象と結びついている。ところが、
観念と観念対象はことなるものであり、区別されているのであった。そしてそのようにこ
となっているために、今度は観念それ自体が知解可能なものという身分を得る、つまり他
の観念の対象となりうる。ここにおいて「観念はその形相的本質としてみられるかぎり、
他の対象的本質の対象でありうる」といいかえられているのだから、形相的本質とは、〈そ
れ自体が知解可能である=他の観念の対象となりうる〉という観念の身分規定であり、対
象的本質とは〈何かを対象としている〉という観念の身分規定であるように思われる64。そ
れゆえやはり、ここでの形相的本質と対象的本質は、観念についていわれているとみなさ
Joachim[1940]p.55.
スピノザは『改善論』において、形相的本質に対して明確な規定を与えておらず、対象
的[objectiva]ということばにも説明を与えていない(cf. Joachim[1940]p56, n.1.)。解釈者
たちはさまざまな規定を両概念に与えているが、ここまでの私たちの規定もそれらから大
きく離れているわけではない。たとえば先にあげたように、佐藤は essentia objectiva を「観
念の内で対象を表している観念のありかた」としており(佐藤[2004]p.183.)、また朝倉は
対象的本質を「対象をもったものとしての観念」とする(朝倉[2012]p.26.)が、私たちの
理解の一端もこれと変わらない。ただし以下の 3 点は明確に示しておく。1). 『改善論』で
の観念についていわれる形相的本質を、
『エチカ』での規定である「思惟の様態」
(E2P5D)
ととらえること(e.g. Matheron[2011-1], p.542.)には賛同しないということ、2). のちに
本稿でみるように、形相的本質には、観念についていわれる場面とその対象となる自然的
実在についていわれる場面の二つの側面があるということ(これについては以下のものを
も参照。Carraud[2002]p.322. また佐藤[2004]p.94, p.227(注 26))、さらに 3).のちに本稿
でみるように、
「対象的本質」はあくまで対象の「本質」にかかわる、という以上 3 点であ
る。
またこの 33 節にかんして M. Beyssade が「形相的‐対象的という対は、スコラ学に源を
有しており、デカルトにおいてもまた見出される」と述べるのはまったく正しいが、それ
に続いて「しかしデカルトはそれを観念に適用し、他方スピノザにおいて対象的本質も形
、、
相的本質も、延長属性あるいは思惟属性の様態であるもの[la chose]にかかわる」という
(Spinoza[2009]pp.146-147, n.51.)けれど、『エチカ』での規定をもとに解釈するのには
賛同しがたいし、さらにデカルトが形相的‐対象的という対を観念に適用したというのは
一面的な理解に過ぎない。デカルトは形相的なありかたを観念の原因にかんしても語って
いるからである(cf. 「[…]形相的なありかたは観念の原因、少なくとも第一の主要な原因
に、その本性上適している」。Med. 3, AT,Ⅶ, 42:4-6)。
63
64
21
れねばならないであろう。ところがスピノザはさらなる一歩を進める。
たとえばペテロは事象的なものである。ところでペテロの真の観念はペテロの対象的本
質であり、それ自身において事象的なものであり、ペテロ自身とまったくことなる。こ
のようにペテロの観念は事象的なものであり、自らの固有の本質を有しているので、[そ
れ自身]また知解可能なものであろう、つまり、他の観念の対象であろう、そしてこの
[他の]観念は、ペテロの観念が形相的に有するすべてを、対象的に[objective]自らの
うちに有するであろう[…][34]
ここでは真の観念にかんする決定的なことが語られているように思われる。詳しくみてい
こう。
ペテロは事象的なものである。事象的なものは、以上にみたように〈それ自身知解可能
なもの〉ともいわれており、それはまた或る観念の対象となりうる。ところで、ペテロの
真の観念はペテロの対象的本質である。ここでの「ペテロの真の観念」とは Joachim もい
うように、まずは誰かがペテロについて有している真の観念ということであろう65。それは
また「ペテロの対象的本質」ともいわれている。これは上にみてきたことから理解するな
ら、
〈ペテロを対象としている〉というペテロの真の観念の身分規定となるだろう。さらに、
ペテロの真の観念はそれ自体がまた事象的なもの、知解可能なものであり、それ固有の本
質[essentia peculiaris]を有する。つまり今度は当の観念の形相的本質というありかたの方
に焦点が当てられたのだ、と考えることができる。それゆえまたペテロの真の観念は他の
観念の対象となりうるのである。ここまでは私たちが 33 節についてみてきたことから、つ
まり形相的本質と対象的本質は観念についての身分規定と考えられるということから理解
できる。しかし、ペテロの真の観念を対象とする他の観念が「ペテロの観念が形相的に
[formaliter]有するすべてを、対象的に[objective]自らのうちに有するであろう」とスピノ
ザが語りはじめるとき、私たちの示した理解だけでは汲みつくすことのできないことがあ
らわれてくる。どういうことか。さらに詳しくみていこう。
「このことは誰でも試してみることができる」とスピノザはいう。「[…]ひとはペテロ
が何であるかを知っていること、またそれを知っていることを知っている[…]等々をみ
てとる。ここから明らかなのは、ペテロの本質が知解されるには、ペテロの観念そのもの
を知解する必要はなく、ペテロの観念の観念を知解する必要はなおさらない、ということ
である」
[34]。ここでは「ペテロが何であるか[quid sit Petrus]」、
「ペテロの本質」という
ことばがあらわれる。ペテロを対象とする真の観念は、その対象であるペテロの本質を、
当の観念を有している者に知解させる、あるいはいいかえれば、ペテロの真の観念を有す
る者はその対象の本質、ここではペテロの本質を知解している、ということが語られてい
るのである。
「ペテロの本質が知解されるためには、ペテロの観念そのものを知解する必要
65
Joachim[1940]p.54, n.2.
22
はなく」等々と語られているのは、ペテロの真の観念を有する者であれば誰でも、ペテロ
の本質を実際に知解している、いいかえれば、ペテロの真の観念を有するという事態その
ものが、ペテロの本質を知解しているということがらそのものであって、その上あらたに、
今度はペテロの真の観念そのものを対象とした知解がなされる必要はない、と考えられて
いるからだと思われる。要するに、
〈或るものの真の観念を有する〉ということは、その観
念が対象とする当のものの本質を知解しているという事態そのもののことであると考えら
れるのである。真の観念はその対象の本質の認識にかかわるということができるだろう。
ところでここで、「ペテロの真の観念はペテロの対象的本質」であると語られていたことを
想い起こそう。ペテロの真の観念を有することが、ペテロの本質を知解することそのもの
であることは、いま示したとおりである。するとこの「ペテロの対象的本質」とは、対象
となっているペテロの本質、より厳密にいえば、ペテロの真の観念を有する者に知解され
ているかぎりでのペテロの本質であるということができよう66。つまり「ペテロの対象的本
質」は、ペテロという対象の本質の認識にかんしていわれるものであると理解できるので
ある。ところで私たちは先に、「ペテロの対象的本質」を〈ペテロを対象としている〉とい
う観念の身分規定であるとみなしていた。明らかに、ここではそれ以上のことが語られて
いるのである。ところが対象的本質が対象そのものの本質の認識にかかわることと、それ
がまた観念の身分規定であるということは両立可能である。だから、一般化して定式化す
れば、〈Aの対象的本質〉とは、対象であるAの本質の認識にかかわるという観念のありか
たである、とまとめることが許されるだろう。そしてこの対象は、いまペテロの真の観念
についてみてきたことからわかるように、自然的実在でありうる。つまり、たとえばペテ
ロの真の観念は、ペテロという実在する人物を対象とするということも押さえておこう。
ここまで理解したうえでようやく私たちは、ペテロの真の観念を対象とする他の観念が「ペ
テロの観念が形相的に有するすべてを、対象的に自らのうちに有する」とスピノザが語っ
ていたことを十分にとらえることができる。つまり、この言明そのものは確かに或る観念
を対象とする、それとは別の観念について語られているのだが、しかしながら対象は観念
だけでなく自然的実在でもありうるわけだから、この言明は〈Aを対象とする観念はAが
形相的に有するすべてを、対象的に自らのうちに有する〉というかたちに一般化できる。
そしてその内実はといえば、Aの真の観念を有することが、対象であるAの本質を余すと
ころなく、対象自身がそうあるとおりに(「形相的に」とはこのような意味であると思われ
る)、それ以上でもそれ以下でもなく十全に(対等に67)知解することそのことである、と
、、
、、
、、、
、、
Matheron]、つまりそのものが
知性において対象的にあらわれている限りでのその本質である」。Matheron[2011-1]p.542.
67 ここで私たちは「十全(対等)[adaequatus]」ということにかんする詳しい議論に踏み
込まず、また『エチカ』との異同を考察することもしない。ただし一点だけあげるなら、
『改
、、
善論』における十全(対等)な観念は Gueroult のいうように、或るものを余すところなく
そ の 全 体 に お い て 認 識 す る こ と に か か わ っ て い る よ う に 思 わ れ る 。 Cf.
Gueroult[1974]p.601.また「対等」という訳語については、中川[2009]とりわけ pp.40-41
66「或るものの観念はこのものの対象的本質である[強調
23
いうことであるといえよう。そしてこのAは自然的実在でも観念そのものでもありうる。
さて、ここまで整理してきたものをたずさえて、先に引用した 35 節に戻って検討しなおす
こととしよう68。
「確実性は対象的本質以外の何ものでもない」とスピノザは語っていた。対象的本質は、
上にみたように、対象であるものの本質の認識にかかわる真の観念のありかたである。そ
してこのことは、「私たちが形相的本質を感受する[sentimus]その様式が確実性そのもので
ある」ともいいかえられていた。ところで、私たちが先に示した理解からすれば、「形相的
本質」は〈それ自体が知解可能である=他の観念の対象となりうる〉という観念の身分規
定であった。ところがいま私たちが検討している場面では、「対象的本質」と「形相的本質
を感受するその様式」とが同義として扱われているとみなせるから、この「形相的本質」
は真の観念が対象とするものの本質、その対象のあるがままの本質と理解することができ
る69。つまりこの場面において「形相的本質」は、たんに観念のみの身分規定であるにとど
まらず、さらに真の観念が対象としている当のもの一般についてもいわれていると考えら
れる。そしてこの真の観念が対象とするのは自然的実在でも他の観念でもありうるのだか
ら、「形相的本質」はその両者についていわれうる。それゆえまた、「感受する」というの
は、おしなべて真の観念が対象とするものの本質をあるがままに、それ自身そうあるとお
りに知解していること、認識していることであると考えられる70。そういうわけで、私たち
参照。さらに「形相的に」ということと「対象的に」ということについては、以下のデカ
ルトの用法を引き合いに出すとよりよく理解されるだろう。すなわち、
「私たちが観念の対
象においてあるとして知得する各々のものは、当の観念において対象的にある」といわれ、
一方或るものが「観念の対象において、私たちが知得するとおりに[対象]それ自身にお
、、、、
いてある場合、形相的にあるといわれる」とされる。Rationes, Def. 3 et 4, ATⅦ, 161:7-12。
強調はデカルト。
68 私たちは、
「方法」といわれる「観念の観念」[38]が語られる以前の、その前提となりか
つ不可欠な原理とみなしうる場面、すなわち真の観念とその対象とのかかわり、その関係
の具体的内実を解明の中心に据えている。cf. 「先だって[prius]観念がなければ観念の観念
はない」[ibid.]。また真の観念は「それだけで自らに固有の場面における確実性を実際に包
、、
含している」し、
「方法はつねに学知[la science]の後に来る、たとえ方法が―こちらの側か
らみれば―学知の進展を可能にするにせよ」 という Matheron のことばをも参照(強調は
Matheron)。それぞれ Matheron,[2011-2]p.535 et p.540.
69「[…]ペテロの本質は彼の「形相」を構成する。それは彼の「形相的本質」
、あるいは彼が
、、、、
事象的に[res として]そうあるところのものである[Peter’s essence constitutes his ‘form’.
It is his ‘formal essence’, or what he really is.]」[強調 Joachim]と Joachim は述べている
(Joachim[1940]p.55.) が、これは私たちの理解と同様であると思われる。また Koyré によ
れば「真の観念は、スピノザにとって、何よりまず本質についての観念である」
。Spinoza
[1994]p.107, n.69. また、
「スピノザが観念対象について語るとき、主眼になっているのは
感覚的世界の対象ではなく、本質なのである。」Rivaud[1906]p.46, n. 85. さらに、Joachim
[1940]p.93.参照。
70「感受する[sentire]」にかんしては、観念と sensatio が同一視される 78 節の理解とも絡
んで、さまざまな解釈があるということを指摘するだけにとどめる。Joachim はそれをほ
ぼ対象に「ついて意識している being conscious of」(Joachim[1940]p. 57.)こととして理
24
がとりあげてきた「確実性」は、認識の対象(それが自然的実在であれ観念であれ)の本
質がそれ自身あるがままに認識者に知解されるということ、いいかえれば、認識の対象の
本質が現に認識されてある以外の仕方ではありえない、別様ではありえないということか
らくる確実性であるということができるだろう71。当の観念を有する者に知解されているか
ぎりでの対象の本質、つまり対象的本質を有すること自体が、当の対象自身のあるがまま
の本質、形相的本質を別様ではなくそれ自身あるがままに認識することであると考えられ
るがゆえに、確実性は対象的本質そのものであるとされるのである。まさにこの意味にお
いて、「或る res の十全な観念、あるいはその対象的本質を有するひと以外のだれも、最高
の確実性とはなんたるかを知ることができない」
[35]ということが理解されると思われる。
さらに、ここまでみてきたことから、『改善論』においてスピノザが提示する真の観念の真
理性にかんして、それが観念の対象的な側面と形相的な側面(ここでは観念の対象につい
ていわれる形相性)との一致を想定、ないし前提としているという理解72に対して異論を提
示することができる。すなわち、そのような一致を想定するよりも、Joachim のことばを
かりるなら、
「二つの側面を有する同一性[a two-sided identity]」、つまり、ひとつの同一的
な何かが、対象的な側面と形相的な側面という二つの側面のもとで捉えられているのだと
解しているようであるが、これは Matheron も同様である(Matheron[2011-2]p.533.)。
M. Beyssade は「sentire がしばしば percipere[知得すること]と同義語である」と述べ、
形相的本質を sentire するとは「知得あるいは観念を有すること」であるとする。
「確実性
は観念の様相、感受することあるいは知得すること、すなわち肯定するというありかたで
ある」「確実性は真の観念において感じ取られ、それは真の観念の外にはまったくない」
Spinoza[2009]p.147, n.54。また Appuhn が’sentimus essentiam formalem’を’nous sentons
l’essence objective’として形相的本質を対象的本質に変えて訳しているのは、本稿での私た
ちの理解からすれば余計なことであると思われる。Spinoza[1964]p.191 参照。
さらに Lécrivain が、sentire と percipere にかんして、前者が「私たちが自らの身体や
思惟についてもつ意識」
、後者が「私たちに外的な対象にかかわるさい」にもちいられると
する区別をしている。興味深い論点ではあるけれど、慎重な検討を要するところだろう
(Spinoza[2003]p.172.)。Gueroult はこの意見とわずかにことなる見解を提示している。
つまり、少なくとも『エチカ』においては、sentire がただ〈私の〉身体・精神、そしてそ
れらの変状についてのみ語られ、他方 percipere はこれらに加えて外的対象についても語ら
れるという(Gueroult[1974]pp.134-135, n.54)。
71 ところで Goclenius がこうした確実性を簡潔に定式化している。つまり、
「対象にかんす
、、
る確実性」、すなわち「認識されるものにかんする確実性」とは 、それが「別様ではあり
えない[aliter se habere nequit]」ことからくる確実性である。Goculenius[1613]p.361. こ
の点にかんして P. -F. Moreau にも指摘がある。P.-F. Moreau[1994] p.98.また上野も「真
なる観念は、別様ではあり得ないという認識である」と述べている。上野[2003]pp.81-93,
p.85.なお Goclenius の立ち位置については以下の言を参照。Goculenius(Lexicon
、、、
philosophicum:1613)は「17 世紀のはじめに受け入れられていた哲学的な区別のすべてを可
能なかぎり詳細に要約しようと試みて」おり、
「それゆえスアレス(1597)の説ような 1613
年に先立つ重要な諸説を代表させることに利用できる」
(Ariew and Grene[1995]p.61, n.14
強調原文)。
72 佐藤[2004]pp.184-185. また桂[1956/1991]pp.103-104.を参照。
25
理解するほうが、ここまで私たちが見てきた場面で語られていることがらをいい当てるこ
とができるように思われるのである73。そしてまさに「本質」こそが、この〈ひとつの同一
的な何か〉である。
、、
私たちは先に、学に求められるべき確実性はものの本質の認識にかかわるという見通し
をつけていたが、事情は上に述べてきたとおりである。また、「真理の確実性には、真の観
、、
念を有すること以外のしるしは必要でない」と語られるのは、認識されるものの本質が現
に認識されているとおりにあるということ、真の観念を有する者の認識と別様でありえな
いのだから、当の認識を離れたさらに別の確実性のしるし、この意味で当の観念に外的な
しるしとなるものは必要とされないということである。
「真理は精神にとって外的ではあり
えない、というのも精神は自らの外に出て、真理を真理として裏付ける」必要はないから
であり、したがって「思惟を真なるものへと導き、思惟に課される規則を外部から引き出
す」必要もない74。真の観念が「真の」と形容される理由は以上までみてきたことのうちに
あると思われる。さらに、こうして得られた『改善論』における確実性にかんするスピノ
ザの理説は、P.-F. Moreau の仮想するデカルト主義の側からの次のような反論と対比させ
てみると、その独自性がより際立たせられるだろう。つまり「たしかに私たちは諸観念を、
さらに諸々の真の観念をも有している、しかしこれらは確実とはいえない。懐疑をもって
する先行的な歩みのみが私たちに確実性を与えうる」のだとする反論75である。みられると
おり、この反論においては真の観念と確実性のあいだに断絶があり、さらに、或るものに
かんして疑いえないからこそ、それについて確実であるという想定をみてとることができ
る。ところが、わたしたちが上でみてきたスピノザの理解によれば、第一に、真の観念を
有するということが確実性そのものなのであり、つまり真の観念と確実性のあいだの断絶
は否定される。そして第二に、確実性は〈疑いえない〉という懐疑の欠如によって消極的
に評価されるのではなくて、むしろ積極的に規定されるべきものなのである。逆にいえば、
「真の観念は、それがなんであれ、懐疑を不可能にする」ということもできるだろう76。
2-2)確実性にかんする齟齬:『改善論』テクストの多層性
Joachim[1940]p.55.
Cf. L. Brunschvicg[1893]p.453
75 P.-F. Moreau[2006]p.181.この仮想的反論がそのままデカルト自身の確実性にかんする
理解であるとするわけではもちろんない。デカルトの確実性をめぐっての理解は、いわゆ
る「デカルトの循環」という問題にもかかわっており、本稿の射程を大幅に超え出る。cf.
Rodis-Lewis[1971], t.1, pp.261-269, et t.2, pp.528-529, n.59. 村上[2004]pp.63-78.
Gueroult[1953]pp.237-247.
76 P.-F. Moreau[2006], p.181. なお『改善論』の序論における確実性(獲得の確実性、求め
、、
、、
られるべきものの側に求められるべき確実性)と、デカルトにおける確実性(ものの側に
あるのではなく、思惟する主体の側で語られる確実性)との差異にかんしては、P.-F. Moreau
[1994]pp,94-103.参照。
73
74
26
ここまでは主に 35 節までにみられるスピノザの求める確実性についてみてきた。ここま
でのスピノザの記述は明快であるように思われる。ところが、この確実性のありかたと調
停することができないように思える場面が、78 節に見出される。ここでは『改善論』にお
ける確実性のありかたをめぐって決定的とも思われる齟齬が生じている。そのことの次第
を追っていこう。
スピノザはいう。
、、
懐疑は、それについて疑われているものそのものによって魂のうちにあるのではない、
つまり、魂のうちにひとつの観念のみがあるのなら、それが真であれ偽であれ、どんな
懐疑もまた確実性もないであろう[…]。[78]
この箇所の文脈は明らかに懐疑論の批判、スピノザの語法にそくしていいかえれば、疑わ
しい観念を真の観念から区別することのうちにある。たしかに引用文ではこのもくろみを
達するための反事実的仮構が提示されているといえる。とはいえ、私たちがみてきたよう
に、真の観念を有するということはその対象となるものの本質を、それ自身あるがままに
別様ではありえないという仕方で認識することであったはずである。それゆえ、真の観念
がひとつでもあるのなら、いいかえればひとつでも真の観念を有しているのなら、その対
象となるものの本質を別様ではありえない仕方で認識しているということであるはずだか
ら、そこに確実性はあるはずである。「確実性、すなわち[hoc est]真の観念」[74]と言い換
えられてもいたのだから、なおさらそうであろう。さらにまた上にみたように、真の観念
は懐疑を不可能にするものとも考えられ、確実性はあくまで積極的な規定を受けていたは
ずである。ところがここでスピノザは、真の観念にさえ確実性はないと語っている。これ
は明らかに彼自身が 35 節等で語っていることがらと齟齬をきたし、調停することができな
いように思われる。このような齟齬はどうして生じているのか。これを考察するためにも、
この箇所で語られていることがらそのものを検討してみよう。
「たとえば」とスピノザはいう。太陽がいま実際に見えているとおりに見えるというこ
とは、それだけでは疑わしくも確実でもない。太陽が今見えている通りに見えている、と
いう端的な事実だけがある。それが疑われるのは、感官は欺くことがあるという別のこと
がらとあわせて考慮された場合であり、それが確実なのは感官にかんする真の認識を得て、
感官を介したときに太陽がいかに離れてあらわれるか、つまり今見えているかぎりでの太
陽の大きさと、太陽そのものの実際の大きさはことなっているということを知る場合であ
るとされる。要するに、あることがらを、それとは別個の知と付き合わせたときにはじめ
て、当のことがらについて疑いを抱いたり確実であるといったりすることができるという
ことである。すなわち、真の観念であっても、それについて疑ったり確実であったりする
のは、それとは別のものが考慮されてはじめて可能となるといわれているのである。とい
うことは、先にみたように、問題となっている真の観念、その当の認識を離れたさらに別
27
の確実性のしるしが求められているということになり、この意味でここでの確実性は真の
観念にとって外的であるということになる。「真理の確実性には、真の観念を有すること以
外のしるしは必要ではない」
[35]といわれていたこととやはり背馳するのである。Gueroult
もいうように、「スピノザの独自性」が「確実性を真の認識の無媒介的把捉へと帰すことに
あり、したがってその場合懐疑は不可能であるし、また真理と確実性のあいだには、神の
誠実さに訴えることを強いる何らの断絶もない77」ということにあるとすれば、また私たち
がみてきたように、真の観念と確実性が切り離しえないものだとする理解が、スピノザが
積極的に規定しようとした確実性のありかたであるのだとすれば、いま問題としている場
面ではスピノザの独自性は消えているし、『改善論』での確実性にかんするスピノザの議論
には一貫性が欠けているといわざるを得ないように思われる。
私たちは『改善論』における確実性の所在、そのありかたを明確に示した。つまり、真
、、
の観念を有するということが、その対象となっているものそのものの本質を余すところな
く、それ以上でも以下でもなく別様ではありえないという仕方で認識することそのことで
あることからくる確実性である。この確実性のありかたと内実は、『改善論』の終盤にみら
れる知性の特質のひとつである「[知性は]確実性を包含する、いいかえれば、[知性は]
、、
ものが知性のうちに対象的に含まれているとおりに形相的にある、ということを知る」
[108]
、、
ということとほぼ同一のことがらであると思われる。このことは、学に求められるべき確
実性には知性がともなわれるという私たちがはじめに確認していた論点とも符合する。そ
れゆえ、私たちが示してきたこの確実性のありかたは、『改善論』においてスピノザが主張
しようとした確実性の核となるべき理解であるといえよう。ところがスピノザは自らの示
したこの確実性と明らかに齟齬をきたすことがらをも述べていて、『改善論』における確実
、、
性にかんする彼の議論には一貫性が欠けているように思われた。さらに、いま「ほぼ」と
いう留保をつけたこととかかわるものだが、この 108 節の確実性の記述には、ここまで私
たちが指摘してきた確実性の重要な契機のひとつ、すなわち「本質」ということばがあら
われていない。スピノザは「確実性と対象的本質は同じもの」であると語っていた[35]のだ
が、ここではもはや「本質」ないし「対象的本質」という概念は語られないのである。こ
れはたんに表現のことなりに過ぎないと思われるかもしれない。ところが、以上までみて
きたようにこの「対象的本質」は『改善論』において確実性と真の観念をめぐって枢要な
地位を付されていたのである。加えてこのことばは、『エチカ』になるとただの一度もあら
われない78。こうした 1) 確実性にかんする齟齬、そして 2) 35 節で枢要な地位を与えられ
Gueroult[1974]p. 398.
この事実については、佐藤[2004]p.101、注 10、また p.185、さらに pp.228-229、注 30
参照。なお『エチカ』では esse objectivum ということばがわずかに一度あらわれる[E2P8C]。
ここではくわしく述べないが、本稿でみてきたように『改善論』での essentia objectiva が
語義どおり対象の本質にかかわっている一方で、この esse objectivum ということばは、観
念そのものの存在論的身分規定をあらわしていると考えられる。朝倉はこれら両概念の「言
77
78
28
ていた「対象的本質」が 108 節では語られなくなること、いいかえれば、1’) 同一テクスト
内に存する確実性にかんする両立することが難しいと思われる理解の共存、そして 2’) 重要
と思われた契機が消失していくこと、これらは何を示唆するのだろうか。
私たちには、こうしたことがらが『改善論』のテクストの内的な成立事情にかかわって
いると思われる。
「内的な」というのは、外的なそれ、つまり私たちがいま手にしている『改
善論』のテクストが、まさに現在残されている形で成立したのはいつかという、スピノザ
の著作についての(とりわけ『短論文』と『改善論』のあいだの)クロノロジーの問題に
私たちが積極的にかかわる、ということではなくて、『改善論』のテクストそのものの多層
性を示したいと望むからである。スピノザは彼の「方法」にかんする述作に長年のあいだ
関心を抱き続けていた79。このため、或る定まった時期にその叙述を決定的に放棄したとい
う考え方よりも、スピノザは『改善論』に部分的にであれ手を入れようと思い続け、実際
にいくつかの箇所を修正していたと考える方が素直な理解であるように思われる。つまり
『改善論』内部には、より先に書かれていた部分と、後々手を入れられた部分という、少
なくとも叙述時期にかんする多層性がありうるということである。そしてこのことは書か
れている内容、その思想の内実のあいだの多層性にもつながりうる。というのも、もしス
ピノザの思想的発展(展開)というものがあって、そしてかつ、『改善論』が全面的に書き
換えられたのではなく、そうではなく部分的に書き加えられたものであるとすれば、スピ
ノザの思想の発展(展開)面からしてより先立つ時期の思想と、より後の時期の思想が混
在していることは十分にありうるからである。こうした論点にかんして、たとえば Joachim
は私たちと同様に『改善論』における確実性にかんする齟齬を指摘し、以下のようにいう。
、、、、、、、、、、、、、、、
「ただひとつの観念が真であっても確実性を否定することは、スピノザの通常の理説と調
停することが困難であり、この文章を著述しているときに彼がデカルトの教えから完全に
自由になっていなかったということを示す多くのもののうちのひとつである[…]80」。
Joachim によれば、ここでの「デカルトの教え」というのは、観念を「心に抱くこと」と
それについて「同意すること」あるいは肯定し否定することが鋭く区別されるという考え
方である。これに対しスピノザに固有の理解によれば、観念そのものがひとつの判断なの
であって、したがってひとつでも観念を有しているのなら、精神はその観念の対象の「事
象性あるいは現実的実在」を肯定しているのだし肯定しなければならないというべきであ
葉遣いの違いはさほど重要ではない」と指摘している(朝倉[2012]p.26.)が、私たちの解
釈はこれに反するものである。
79 Cf.
「知性の改善についての[…]まとまった小著 integrum opusculm」
(Ep6, Geb.,Ⅳ, p.36;
12-13、ただしこの「小著」を『短論文』とみなす Mignini の解釈もある。Mignini[1987]p.15.
なおこの「書簡 6」の日付にかんして、1661 年 11 月から 1662 年 7 月、より絞られて 1661
年 12 月という推定がある cf. Spinoza[2010]p.61, n.1 et p.76, n.1.)。また 1666 年 6 月 10
日の Ep37, Geb.,Ⅳ,p.188 ;19-p.189 ;8 参照。さらに 1675 年 1 月と推定される Ep60, Geb.,
Ⅳ,p.271 ;8-10 参照。
80 Joachim[1940]p.181, n.5. 強調は Joachim。
29
った81。つまりこうした解釈を押し進めるなら、
『改善論』にはスピノザ自身の思想を表現
しえている場面と、いまだ先行する人々の思想の影響をまぬかれていない場面が混在して
いると理解することも可能である82。そしてもしこのような理解が正しいなら、『改善論』
はスピノザの思想の展開を再構成しようとする者にとってこれ以上ない資料を提供してく
れるということになるだろう83。私たちがとりあげてきた確実性の問題は、まさにこうした
ことがらを垣間見せてくれる一事例であるように思われる。
こうした事態はスピノザの哲学の展開を視野に入れるさいに、ぜひとも注意を払うべき
ものであろう。またさらにスピノザは『改善論』において、確実性の在処である真の観念
のありかたの根拠を示すことはなかった。いいかえれば、真の観念を有するということが、
、、
その対象となっているものの本質を別様ではありえないという仕方で認識することである
といえるのはなぜなのか、その根拠を示していないのである84。おそらくスピノザは、それ
については「私の哲学[in mea Philosophia]において説明されるだろう」、あるいはそれ
は「自然の探求に属する」ことであるというだろう85。この根拠の提示、説明は『エチカ』
Joachim[1940]pp.194-195、また同書 pp.181-182, n.5 をも参照。
藤井[2009]もこのような理解を支持するものとして読むことができる。
83 このような理解の可能性を提示しているものとして、Auffret-Ferzli[1992]. また
Spinoza [2002]. に付された Rousset の序文を参照 pp.7-20.ただし Rousset は『改善論』の
執筆時期を 1661 年秋から 1662 年夏のあいだに定める(p.7)。また Rousset[1992]とりわ
け pp.16-19, p.51, pp.300-301.さらに Mignini でさえもあくまで彼の仮説である『改善論』
の『短論文』に対する少なくとも叙述時期にかんする先行性を危うくしない範囲で、この
ような理解の可能性を認めている(cf. Spinoza[2009]p.34, pp.40-42.)。
84 Cf. Gueroult[1968]p.31. またこの点にかんして、
「内的規定[denominatio intrinseca]」
[69]、「真の思惟の形相」[71]がその根拠を示しているのではないかという疑念がうかぶか
もしれない。ところが、まず後者にかんして、スピノザは真の思惟の形相が「知性の力能
そのものと本性に依拠しなければなら」ず、
「知性の本性から導出されるべき」であるとい
う[71]が、周知のように『改善論』は「知性の本性いうなら定義」[107]を求めようとする
箇所[106-110]で中断されており、
「知性の定義」をめぐる循環とその探究の頓挫が諸家によ
って指摘されている(De Dijn[1986]p.63.また Joachim[1940]p.214. さらに
Vona[1977]p.41.さらに上野[2012-1]p.45 参照)。また前者にかんして、スピノザは例示とし
て「もし或る職人が順序正しく何らかの作品を概念するなら、そうした作品が決して実在
していなかった、あるいは決して実在しないであろうとしても、それでもなおそれについ
ての思惟は真であり、そして作品が実在しようとしまいと思惟は同一である」[69]というが、
どうして対象の実在を度外視した内的規定が保証されるのか、その原理的な説明は『改善
論』において示されていないし、Gueroult によればこの箇所でスピノザはたんに主観的な
、、
概念可能性とものの事象的で客観的な概念可能性を混同している(Gueroult[1968]pp.413414, n.2.)。
85 引用したことばにかんしては、
たとえば 34 節に付された注や 36 節に付された注を参照。
また、上野[2003]p.87 参照。なお「私の哲学」をめぐって、Mignini は少なくとも 76 節に
付された最初の注(「これらは神の本質を示す属性ではない、このことを私は哲学の中で示
すであろう」
)の「哲学」が『短論文』を指しているとし(Mignini[1987]p.16.)、他方 Joachim
は「私の哲学」がスピノザの特定の著作を指しているというよりも、彼の哲学体系全体を
指しているとしている(Joachim[1940]p.16.)。
81
82
30
に引き渡されることになると考えられる。しかしながらさらに、多くの解釈者たちが述べ
ているように、スピノザが『改善論』を「哲学」への導入として着想していた、というこ
とは正しいにせよ(少なくともテクストから裏づけられるにせよ)、私たちが今現在有して
いる『改善論』のテクストが、実際にその「哲学」の導入たりえているか、またその「哲
学」の内容と一貫した思想を提示しているかどうかということは、あらためて検討される
べきではないか。
このようにして私たちは、『改善論』のテクストの多層性を開示し、スピノザ形而上学の
生成の現場を確保した。スピノザの思想の生成を跡付けるためには、さらに『改善論』に
おいてより具体的に、どのような困難がこのテクストに含まれているのか、その問題性を
浮き彫りにする必要がある。
31
第 2 章:スピノザ形而上学の生成:実在と本質
第 1 章で私たちは、
『改善論』のテクストの多層性、さらにこの多層性そのものの理由と
なるべきスピノザの思想の展開の可能性を開いてきた。私たちのみるところ、うえにみた
確実性にかんする齟齬は、スピノザに自らの思想の展開を強いた或るひとつの問題にかか
、、
わる一側面にすぎない。この問題とは何か。それは結論からいえば、認識されるべきもの
の本質と、その実在とのかかわりの問題である。以下ではこのことの消息を述べていく。
1)『改善論』における実在と本質の問題:個別性
第 1 章でみたように、スピノザは「聞きおぼえ」による第一の知得様式について次のよ
、、
うな論点を提示していたことを思い起こそう。つまり、「或るものの[aliqujus rei]個別的実
在[singularis existentia86]は、本質が認識されなくては知られない」[26]という論点である。
、、
、、
以下ではまずこの「或るもの」が、人間個体をはじめとする個別的なものであることを確
認することから議論をはじめていく。
スピノザは四つある知得様式を提示した箇所の後で、
「これらのなかで最上の知得様式を
選択するにあたって、私たちの目的に達するために必要な諸手段がどのようなものである
のかを、手短に数え上げることが求められる」とし、この諸手段のうちで最初のものとし
て、「私たちが完全にしようと欲している私たちの本性を正確に知り、同時に必要なかぎり
、、
諸々のものの本性について知ること」を挙げていた[25]。ここで語られる「私たちの目的」
とは、先にみたように人間の最高の完全性としての「精神が全自然ととりもつ合一性の認
、、、
識」[13]であった。つまり、ここで問われている「私たちの本性」とは、他でもない人間と
、、、
、、
しての私たちの本性であって、また同時に知られるべきとされる諸々のものとは、自然の
、、
、、
うちに存するもの、人間としての私たちとともにある自然的なものであると考えられる。
第 1 章の冒頭で示したように、スピノザ哲学の倫理学的志向、つまり人間の生や幸福につ
いて語ろうとする彼の志向を忘れるべきではない。スピノザが「自然を探求すること
[investigando]」[49]、
「自然の究明[inquisitio]」[45]、
「自然の諸真理」[46]ということばに
、、
固執するのは、人間自身と、さらに人間とともに究明されるべきものが、人間もそのうち
、、
に含まれている自然の内なる具体的、個別的なものであるということを明確に示そうと望
んでいるからに他ならない。つまりスピノザは、個々の個別的な人間と、彼/彼女がそれ
、、
とともに自らの生を歩むところの具体的なもの、抽象的でたんに知性に内的なものではな
、、
く、目に見え手に触れられる個別的なものを問題にしていると考えられる。これにかんし
て Joachim も以下のようにいう。
「「自然」ということによって彼[スピノザ]は他でもなく、
そしてそれ以下でもなく、まさにその全体的な豊かさにおける〈現実[Reality]〉をいわん
res singularis と particularis はたいていの場合同義とする Rivaud の指摘がある
(Rivaud[1906]p.101)。私たちも同意見である。
86
32
としている87」。とはいえ、上の引用で私たちがとりわけて注目したいのは、スピノザが実
、
在に「個別的」という形容詞を付していることである。その実在が問われている「或るも
、
、、
の」が、いまみたように人間個体を中心とした個別的なものであると考えられるのだが、
ここではさらにその「個別的な」実在が語られていることになる。このことの消息をつぶ
さに検討する必要がある。
この点にかんして、スピノザ自身が「注目されるに値することがらである」とする一節[55]
を、少しながくなるが以下に引く。
、、
、、
、、
或るものと他のものの本質のあいだに在る差異、この同じ差異が、当のものの現実性
、、
[actualitas]ないし実在と、他のものの現実性ないし実在のあいだに在る。たとえば、ア
ダムの実在を一般的な実在によって概念すると望むとしたら、アダムの本質を概念する
ために、存在者[ens]の本性に着目し、結局のところアダムは存在者であると定義するの
と同じことであろう。かくて実在がより一般的な仕方で概念されれば、それだけまたよ
、、
り錯雑として概念され、また容易に[実在は]あらゆるものについて仮構され[affingi]うる。
反対に、[実在が]より特殊的な仕方で概念されれば、そのさい[実在は]より明晰に知解さ
、、
れ、私たちが自然の順序に注意しない場合でも、[実在している]当のもの以外の或るも
のに[実在が]仮構されるのがより困難である88。[55]
この引用のうちには、『改善論』ののちの行論を大きく規定することになる論点が複数含ま
れている。ここではとりわけ実在の個別性と、本質と実在のかかわりに焦点を据えて考察
する。
1-1)実在の個別性
スピノザは「個別的な」実在について語っていた。この形容詞の意義を、いまや私たち
はこの一節からみてとることができる。ここで例示されている「アダム」とは、「アダム」
Joachim[1940]p.215, n.2.
テクストの読みに若干のブレのある箇所である。”et difficilius alicui, nisi rei ipsa, ubi
non attendimus ad naturae ordinem, affingitur.” まずこの文はこのままでも十分に意味
が通るため、Rousset もいうように、 ‘’non attendimus’’から non をとりさる必要はないこ
とは確かであると思われる(Rousset[1992]p.281, n.1)。結局この文の理解において争点と
、、
、、
なっているのは、問題となっている当のものとはことなる別のものに実在が仮構されると
いう事態は、
「自然の順序」が考慮されないときにかぎるのか否かという点である。私たち
としては、この文で問題となっているのは、一般性による実在理解と個別特殊性による理
解との対置であって、実在が特殊的な仕方で理解されれば虚構は生じづらいということ、
これが眼目になっていると解釈するため、「自然の順序に注意しない場合でも」という訳を
採用した。私たちと同様の理解としては、Joachim[1940]pp.118-119, n.2、また
Spinoza[1994]p.42 を参照。
87
88
33
、、
という固有名を持つ特定の個人、個別的なものと考える必要がある89。この場合、
「アダム」
という人物の実在は、たとえばいままさにこの私たちの目の前でという仕方で、この個人
だけに着目すればまさに「個別的」といえる実在である。この個人の元来個別的な実在を、
「一般的な実在[generalis existentia]」によって、「一般的な仕方で」考えようとすると、
当のアダムという個人の個別的な実在に特殊な諸規定、たとえば〈このとき〉
〈この場所に〉
実在するという規定が抽象され、当の個別的実在のまさに個別性がはぎとられることによ
り、実在は「より錯雑とした仕方で」理解されることになる。そしてこの抽象作業を通し
て個別性をはぎとられた〈実在一般〉〈存在者一般〉なる概念をもとにしてものごとを考え
てしまうと、実際には実在しないもの、たとえば物語上の人物などに、虚構を介して実在
を付与してしまう[affingere]ことになる90。実在の理解にかんするこうした一般性の介入は、
スピノザによって断固として批判される。一般的な仕方ではなしに、個別特殊性をそぎお
としてしまうことなく個別的な実在をとらえていくこと、これが主眼となっている。実在
は「より特殊的に概念されれば、そのさい[実在は]より明晰に知解され[intelligitur]」るの
である。
1-2)個別的本質と個別的実在
、、
個別的なもの、たとえばアダムを一般的な実在によって概念するさい、本質の方はどの
ようにとらえられるかといえば、こちらも実在の問題に対応するかたちで、アダムという
、、
個別的なものの本質を概念するために「アダムは存在者[ens]であると定義する」のと同じ
、、
ことになろう、とスピノザはいう。彼がここで或るものの本質を理解しようとするさいに、
それを「定義する」と語っているのは注目に値する。この論点はさしあたり、周知のよう
、、
に、スコラ的な理解の伝統の上にある。つまり、一般的にいえば、或るものの本質とは、
、、
当のものの定義によって与えられるものであるとする理解である。たとえばスアレスは、
「本質のありかた[ratio essentiae]は何に存するのか」という問いに対して、
「私たちの概念
、、
すること、また語ることの様式」の次元では、
「ものの本質とは定義によって説明されるも
のである」とする理解を提示している91。またスピノザに時代的、地理的にも近いオランダ
89
この点は、34 節での「ペテロ」が、Lécrivain もいうように「ペテロと呼ばれる個人で
ある事象的に[réellement]自然的に[physiqument]実在する存在」と考えられるべきである
のと同様である(Spinoza[2003]p.171, n.14.)。
90 Af(d)fingere ということばは、
このように、
「虚構によって何ものかを何ものかに帰する、
付与する」、その意味で「仮構する」と訳されるべきである。Cf. Rousset[1992]p.279.
91 F. Suarez[1965] Disp.2, sec.4, 6. この箇所でスアレスはトマスの De ente et essentia,
cap.2 を参照している。また「定義は一般的に、res の本性を説明する語り[oratio]である」。
、、
Eustachius[1609]Ⅰ,155-156. Cf. Gilson[1979], 113. また「定義することは、ものの本性
をその本質的なもの[essentialia]によって境界画定し、限定することである terminare &
、、
finere」。Goclenius[1613]p.500. また「定義は定義されるものの本質を表現する」
。
Rivaud[1906]p.52.
34
、、
、、
近世スコラ、とりわけ Burgersdijck は、「定義は精神に[menti]ものの本質を示す」、
「もの
、、
の定義は当のものが何であるかを説明するものである92」としているし、スピノザ自身が直
接その名を言及していた Heereboord93も、この Burgersdijck の著作に対する注解において、
、、
「定義とはものが何であるかを説明するものである94」とする。ここまではスピノザ自身の
理解もスコラ的な理解から決して離れてはいない。けれどもこのスコラ的な定義‐本質理
解をさらに追っていくと、ここでのスピノザの言明との差異が見過ごすことのできないも
のとなってくる。
Heereboord は以上の引用部に続けて次のようにいう。つまり、定義には二つの要素があ
、、
、、
って、それは「類」と「種差[differentia]」であり、前者は「定義されたものと他のものど
、、
もに共通な本性」を表示し、後者は「定義されたものの固有な本性」を弁別するものであ
る95。このような理解からすれば、たとえば「人間」を考えてみると、
「類」はたとえば「猫」
や「ミミズク」に共通な本性としての「動物」であることであり、「種差」はここで定義さ
、、
れるものである「人間」に固有の「理性的」であるという本性であって、したがって「人
間」は「理性的な動物」と定義されることになる96。こうなると、容易に理解されるように、
このようにして定義された「人間」は、あらゆる人間個体に共通する、普遍的・一般的な
観点から切り取られたものであるということになる。いいかえれば、ここでねらわれてい
る本質は、「人間」という種に共通する〈一般的・種的本質〉である。しかしながらスピノ
、、
ザは、上記の例にみられたように、
「アダム」というような個別的なもの、特定の人間個体
の本質を考えようとしている。つまりスピノザのねらっている本質は、〈個別的・特殊的本
、、
、、
質〉であるとみなす必要がある。したがってここまでの議論から、「或るものと他のものの
、、
、、
本質のあいだに在る差異、この同じ差異が、当のものの現実性ないし実在と、他のものの
現実性ないし実在のあいだに在る」という引用部冒頭のことばは次のように理解されるべ
それぞれ Burgersdijck[1626/1644]lib.2, cap.1, theolema1, comment.1、そして cap.2,
theolema1.
93 「形而上学的思想」CM2/12, Geb.,Ⅰ,p.138:19. なおこの二人のオランダスコラ学者につ
いては、Dictionary of Seventeenth and Eighteenth-Century Dutch Philosophers[2003]
それぞれについて pp.181-189, pp.395-397.が参考になる。 また Bunge[2011]、それぞれ
pp.60-62、pp.72-74、さらに Geroult[1968]pp.245-246, n.7 をも参照。
94 Heereboord[1658] lib.1, cap.1, quaest.2.
95 Ibid.
96 このような「人間」理解については、
「形而上学的思想」の以下の言を参照。「かくてプ
ラトンが、人間は羽のない二足動物であると語ったとき、人間は理性的な動物であると語
った人々よりも誤っていたわけではない。というのも、プラトンも他の人々に劣らず、人
間は理性的な動物であるということを認識していたからである。そうではなくて、彼は人
間を一定の部類[classis]に還元し、その結果彼が人間について思惟しようと望むさいに、彼
が容易に思い出すことのできるこの部類へと立ち戻ることによって、人間についての思索
へとただちに入っていこうとしたのである。むしろ反対に、アリストテレスこそが、この
彼の定義が人間の本質を十全に説明するとみなしているのであれば、はなはだしく誤って
いたのである。とはいえプラトンがよく[定義]していたかということ、これを問うことはで
きる。しかしこのことはこの場にはそぐわない」[CM1/1, Geb.,Ⅰ, p.95:19-29]。
92
35
きであろう。すなわち、たとえば「アダム」という個人の本質と、「ペテロ」という個人の
本質のあいだに在る差異が、彼らの実在のあいだにも在るということであって、要するに、
、、
、、
ここで問われている「もの」は個別的なものであり、「本質」はそれにともない〈個別的・
特殊的本質〉であり、さらに「実在」もこれらに呼応するかたちで〈個別的・特殊的実在〉
であると考えられねばならないのである。
ところで、ここまでみてきた〈個別的・特殊的本質〉と〈個別的・特殊的実在〉の議論
は、私たちが上にみた観念論、対象的本質の議論と密接にかかわっている。ペテロは事象
的なもの[quid reale]であり、このペテロを対象とする観念は、ペテロの何であるか、すな
わちその対象的本質であるとされていた。そしてこの観念自体もまた事象的なものといわ
れ、対象であるペテロ自身から区別される[34]。ここで事象的なもの[quid reale]という規
、、
定は、さしあたり或るものがそれ自らに固有の本質[sua essentia peculiaris]を有するとい
う点に求められている[ibid.]。ペテロについての真の観念、対象的本質を有する者は、その
観念の対象であるところのペテロのあるがままの本質、つまり形相的本質を別様ではなく
それ自身そうあるとおりに認識する。これが確実性の語られたゆえんであった。
、、
或る実在するものについての観念97、たとえばペテロの観念とアダムの観念はことなる。
それぞれの個人の対象的本質そのものである観念がまた、それ自身事象的なものであり、
たがいに区別されるからである。さらにここまでみてきた議論を加味すれば、ペテロにつ
いての観念とアダムについての観念とのあいだの差異は、或る場所と時間において実在す
、、
、、
ると考えられたもの(ペテロ)と、他の場所と時間において実在すると考えられたもの(ア
ダム)そのもののあいだにある差異でもある98。したがって、ペテロに固有の個別的本質と、
アダムに固有の個別的本質のあいだに在る差異が、ともに個別的な実在であるペテロとア
ダムの実在のあいだにも在るわけだから、ペテロとアダムという個人それぞれにかんして
真の観念を有している者は、それぞれの個人の対象的本質を認識しているわけであり、そ
れゆえ両個人それぞれに固有の実在についても、両者に固有のそれぞれの個別的実在をも
とらえているということになりそうである。しかしながら、ここで大きな問題が生じてい
ると考えられる。ここまで私たちは、スピノザ自身の提示する例にしたがって、ペテロや
アダムといった実在する個人から出発して議論を追ってきた。この議論では、いままさに
私たちの目の前に実在する或る個人を、抽象的な「存在一般」等の概念によってとらえて
しまうことなく、あくまで当の対象の実在の個別性をとらえていくことの重要性が示され
ていたわけである。けれどもこのような議論は、その実在が私たちにとってよく知られて
いる対象から出発することによってしか可能でないのではないだろうか。いいかえれば、
当の対象が実在するということが前提とされていてはじめて可能な事態ではないのか。
「〈ペテロは実在する〉というこの言明が真であるのは、ペテロが実在するということを確
Carraud は「スピノザにとって真の観念はつねに実在するものの観念である」と語って
いる(Carraud[2002]p.325, n.3)。
98 Cf. Rousset[1992]pp.281-282.
97
36
実に知っている者にとってのみである」[69]とスピノザは語るのだから、なおさらそうであ
ろう。したがって確実性が語られうるのも、対象の実在がすでに知られているということ
を前提にしてのことである。しかしながらスピノザは、より大きな文脈としては、最上の
、、
知得様式として彼が選別した「第四の様式」すなわち、「ものがその本質によってのみ、ま
、、、
たはその最近原因[causa proxima]の認識によって知得される」様式[19]について、
「いまだ
、、、、、、、、、、、
認識されざる諸々のもの[res incognitae]がこのような認識によって私たちに知解されるた
めに」[29 強調引用者]、いかにしてこの様式が適応されるべきか、すなわちその「方法」[30]
を論じていたのである。すでに自らが有している知識のみを説明しうるような理論は、学
知[scientia]と呼ばれるにはあまりに貧相なものである。確かな知識を増大させていくよう
な理論こそが望ましい。したがってここまで述べてきた個別的実在の議論が、いかにして
、、
、、
「いまだ認識されざるもの」、その実在についてもいまだ前提されざるものに適応されるの
かが示されなければならない。
、、
2)個別的なものの本質と実在:実在の多義性・本質の優位・自然の順序
、、
ここまでみてきたように、スピノザは個別・特殊的なものの本質と実在について、抽象
的・普遍的な理解に陥ってしまうことなく、それぞれその個別・特殊性を逃すことなしに
、、
把握することに専心している。さらに、或る個別的なものの個別・特殊的本質とその個別・
特殊的実在が、上にみてきたように密接に呼応していなければならないとはいえ、この点
にかんしてスピノザがいかなる議論を与えているか、あるいは与えうるのかを見定めるた
、、
めにも、まずは個別的なものに限定せずに、本質と実在が『改善論』において一般にどの
ように関係づけられているのかを跡付ける必要がある。そのさい、実在について多くのこ
とが語られている「虚構」についての議論[52-65]を参照するのがよいだろう。
、、
「大部分の虚構は、実在すると考察されたものにかんして生じる」[52]というスピノザは、
まず虚構にかんする一般的な規定として、それが「たんに可能的なものどもにかかわり、
必然的なものどもにも、不可能なものどもにもかかわらない」[ibid.]と述べる。可能的なも
の、必然的なもの、不可能なもの、これらは何をいわんとしているのか。
、、
、、
私が不可能なものというのは、それが実在するといわれるときその本性に矛盾するもの
、、
であり、必然的というのは、それが実在しないといわれるときその本性に矛盾するもの、
可能的というのは、たしかにその実在は、その本性そのものからして、実在するといわれ
ようが実在しないといわれようが矛盾を含まないけれど、しかしその実在の必然性ないし
不可能性が、私たちが当の実在を虚構している[fingimus]あいだには私たちに知られてい
、、
なかった諸原因に依存するものである。このためもし外的諸原因に依存するその[実在の]
、、
必然性ないし不可能性が私たちに知られた場合、私たちは決してそのものについて虚構す
37
ることはできないということになろう。[53]
、、
虚構は実在することがその本性に矛盾するような「不可能なもの」、たとえばキマイラにも、
実在しないことがその本性に矛盾する「必然的なもの」、つまり必然的実在(神)にもかか
、、
わることがなく、そうではなくて実在してもしなくてもその本性に矛盾しないもの、よう
、、
するにいわゆる偶然的なもの(このことばは『改善論』にはあらわれないが)にのみかか
わる99。そして Rousset が明確に述べているように、「無知があるところにのみ虚構はあり
うる100」。つまり、なぜそれが実在しているのか、あるいは実在していないのか、その原因
、、
が知られていないもの、いいかえれば、その実在/非実在の不可能性ないし必然性を私た
、、
ちが知らないものにかんしてのみ虚構はありうる。したがって、「外的諸原因」によるその
、、
実在の必然性あるいは不可能性が知られたのちには、「可能的」といわれていたものにかん
してその実在を虚構することはできないとされるわけである。つまり、「可能的」といわれ
、、
ていたものは、「外的諸原因」によるその実在の必然的産出、あるいはそれが実在すること
をさまたげること、つまりその実在の不可能性が明らかになった場合に、そしてその場合
にかぎって、もはや「可能的」、いうなら偶然的とはいえないということになる。ここでま
ず注意しておく必要があるのは、以上にみてきた様相概念がすべて「実在」にかんして語
られているということである101。
ところで、スピノザは虚構にかんする論述の最終的な結論として、虚構が真の観念と混
、、
、、
同されないためには、「概念されたものの実在が永遠真理でない場合には、ものの実在をそ
の本質へと突き合わせ[conferre]、かつ同時に自然の順序を考慮に入れることに配慮すれば
よい」[65]という論点を提出する。この言明といまみてきた実在にかんする様相概念の議論
をふまえれば、『改善論』における本質と実在の関係を理解するために不可欠な論点を三点
取り出すことができる。つまり、1)実在の多義性、2)本質の優位、3)「自然の秩序」という
概念である。それぞれみていこう。
Cf. Rousset[1992]p.273.
Rousset[1992]p.274. また Koyré も以下のようにいう。
「[…]虚構は無知をその基礎とし
ており、知は虚構を不可能にする」
(Spinoza[1994]p.106, n.54)。
101 ただし 56 節では、
「地球はまるい」であるとか「太陽は地球の周囲をめぐる」であると
いうことがらにかんして「可能」「不可能」「必然」が語られている。この場合太陽なり地
球なりの実在の可能性や必然性が語られているのではない。たとえば「地球はまるい」と
いう認識は天文学等の理論の進展などによって変更を加えられうることがらであるわけだ
から、事実にかんする偶然真理として考えられるだろう。いずれにせよスピノザは『改善
、、
論』において、不可能性や必然性を論じるとき、或るものの本性・本質そのものの必然性
という論点を『エチカ』で展開されるほど厳密な仕方で論じてはいないと結論付けること
ができると思われる。しかし『改善論』終盤でわずかに一度だけ、
「私たちの本性の必然性」
[108,Ⅵ]ということばをもちいている。これもまた『改善論』のテクストの多層性を示す一
事例とみなすことも可能であろう。
99
100
38
2-1)実在の多義性
、、
「ものの実在が永遠真理でない場合」というのは、ここまでみてきたことからすれば、
その実在が必然的実在ではない場合という意味に解すことができよう。以上の議論におい
ては明らかに二つのことなる実在が語られている。つまり、一方で外的諸原因に依存する
実在、いいかえれば外的諸原因によって産出される実在と、実在しないことがその本性に
矛盾する必然的実在、「それ自身によって永遠真理である」実在[65]というふたつのもので
ある。ここまで私たちは、スピノザが語ろうとしているのはあくまで人間個体に代表され
、、
るような個別的なものであり、その個別的本質と実在であることを示してきた。こうした
、、
ことをいま検討している実在の二区分に対応させてみるなら、個別的なものの実在は、外
、、、、
的諸原因から産出される或る特定の場所と時間における実在、「永遠真理」ではない実在で
、、
あると考えられる。のちにみるように、この外的諸原因の連鎖は個別的なものの実在の条
件といえるほどまで、この実在を規定していることが明かされていくことになる。
また必然的実在の方にかんしては以下の問題が存する。つまり、スピノザはここまでみ
、、、
てきた箇所にかぎらず、
『改善論』全体においても必然的実在の積極的規定を与えていない
、、、、
ということである。ここまでみてきたように、
『改善論』では「実在しないことがその本性
、、、、、
、、、
に矛盾する」という仕方で、消極的な仕方でのみ必然的実在を規定しており、この点は『改
善論』における「自己原因」[cf. 70, 92]の規定の方も消極的にとどまっている事実と通底す
ることになるといえる。
、、
「自己原因」ということばは『改善論』において一度だけあらわれる。つまり、
「ものが
それ自身において在る、いうなら、人々によっていわれるように、自己原因であるなら[…]」
、、
[92]といわれる箇所である。このように自己原因であるといわれるものは、本質のみによっ
て認識されなければならないといわれる[ibid.]。スピノザは『改善論』においてこの自己原
因を、それが実在するために原因を要しないものという意味で、あくまで否定的に用いて
いると考えられる102。というのも、自己原因ということばこそ出てこないけれど、
『改善論』
の別の箇所で彼は「原因を有さず、それ自身によってまたそれ自身において認識される[…]
或る原理[principium]」[70]について語っており、多くの解釈者たちも指摘するように、こ
の一節はまさに『改善論』における自己原因の規定とみなしうるからである 103。ようする
に『改善論』では、必然的実在、自己原因がともに消極的な規定のもとでしか語られてい
ないのである。こうした事態は、『エチカ』で語られることになるように、〈その本性・本
Mignini[1990]p.140 参照。
たとえば Spinoza[2009]p.153, n.145. さらに Rousset[1992]p,324. また Gueroult によ
、、
れば、『改善論』の定義論で語られる「創造されないもの」にかんして、そこでは〈自己原
因〉と〈原因なしに在ること〉の同一視が想定されており、他方『エチカ』ではこうした
消極的な規定が捨て去られることになるという(Gueroult[1968]pp.59-60, pp.172-173.)。
102
103
39
質が実在を含む〉という論点がみられない104ということ、またこれに連関するのだが、必
然的実在における〈本質と実在の同一性〉という論点がみられないという事実にも呼応す
るものであると考えられる。
、
ここまでの議論から明らかなように、外的原因によって規定される実在、「永遠真理」で
、、、
はない実在と、「それ自身によって永遠真理である」必然的実在は、どちらも同じ「実在」
ということばで語られているけれども、しかしまったくことなる二つの意味を有している。
つまり「実在」は多義的であり、しかもこれら二つの実在のあいだには埋めることのでき
ない断絶がある。ところで、「永遠真理」とは何か。以下ではこの論点を探ることから議論
を進めていく。
2-2)本質の優位
「永遠真理」にかんして、スピノザは次のように述べている。「永遠真理ということによ
って、私は[或る命題が]肯定的である場合、否定[命題]にはなりえないものを知解する」[54,
n.u]。たとえば、
「神は在る[Deum esse]」という肯定命題は、決して否定命題になされえな
いが、反対に「アダムは思惟する[Adamum cogitare]」という肯定命題は、「アダムは思惟
しない」という否定のかたちでも成立しうるため、永遠真理ではない。また逆に「キマイ
ラは存在しない[Chimaeram non esse]」という否定命題は、決して肯定命題に転換されえ
ないために、永遠の真理といわれるが、「アダムは思惟しない」という命題はそうではない
[ibid.]。アダムが思惟しているということ、あるいは思惟していないということは、たんに
事実にかかわる偶然真理とみなすことができるからである。このようにみてくると、ここ
でいわれる「永遠真理」とは、その反対がありえない、またその反対を考えることができ
ないという意味において必然真理の別名であるように考えられる 105。しかしそれだけでは
、、
ない。スピノザは以下のように述べている。「ものの実在が、その本質がそうであるように
は永遠真理でない場合には[si existential rei non sit aeterna veritas, uti est ejus essentia]
[…]」[67]。つまりここでは本質一般が永遠真理であるとみなされていると考えることがで
きる106。
、、
たしかに、「虚偽の観念」について[66ff.]の論述のなかに、
「[…]もし、ものの本性が必
、、
然的実在をその基に置いている[supponere]とすれば、このものの実在について思い誤るこ
とは不可能であり[…]」[67]という表現がみられ、畠中と Koyré はこの supponere をそれぞ
れ「含む」、‘impliquer’と訳しているけれども、ことがらとしてはうえにみた「虚構」にか
んする議論と同一の議論、すなわち、実在しないことがその本性に矛盾するという意味で
語られている(畠中尚志訳『知性改善論』岩波文庫、pp.55-56、Spinoza[1994]p.54.)。
105 たとえば Rousset[1992]はそう考えている(p.276)
。
106 スピノザは先に引いた 54 節の末尾で「ただちに私は諸々の永遠真理にかんして虚構は
ありえないということを示すであろう」と語っている。けれどもこの一文は『オランダ語
遺稿集』には欠けていて、
『ラテン語遺稿集』ではこの文に先立つ箇所に注が付されており、
この注の冒頭にこの一文が挿入されている。Gebhardt がこの一文を注の冒頭から 54 節末
104
40
、、
スピノザはさきに、「或るものの個別的実在は、のちにみるであろうように、本質が認識
されなくては知られない」[26]と語っていた。M. Beyssade はこの一文の参照先を、まさに
いま私たちが検討している虚構についての議論に定めている 107が、これは正当な指摘であ
、、
る。永遠真理である本質には虚構はありえないために、
「ものの実在が永遠真理でない場合」、
それを「その本質に突合せ」れば虚構は制限される、つまり、その実在が必然的実在では
、、
なく、そうではなくて外的諸原因によって産出される実在、或る個別的なものの個別的実
、、
在を、虚構に陥ることなく正当に理解するためには、当のものの本質、永遠真理でありそ
の意味でその反対が不可能な必然真理であるところの本質を、何よりも先に認識しなけれ
ばならない、このようにスピノザは考えていると思われる。この点にかんして、幾何学的
図形の身分にかんするデカルトとホッブスの対立を引き合いに出すと、スピノザの立場を
より明確に定めることができるだろう。つまり、デカルトによれば、たとえば三角形とい
う幾何学的図形にかんして以下のようにいわれる。「私は、ひょっとすると私の外のどこに
、、
も実在しないかもしれないが、それでも無であるとはいわれえない何らかのものどもの無
、、
数の観念を、私において見出す108」[Med. 5, ATⅦ64 :6-9]。こうしたもののうちの一事例と
して提出されるのが三角形である。この図形が「ひょっとして私の思惟の外なる世界のど
こにも[nullibi gentium]実在しない、また決して実在していなかったとしても、しかしなが
らたしかに、その或る規定された、不変にして永遠なる本性いうなら本質いうなら形相」
がある[Med. 5, ATⅦ64:12-16]。デカルトにおいてはこうした図形が思惟の外に実在してい
ないとしても109、いわば三角形についての思惟の内容が有する規則性や整合性を正当に主
尾に繰り上げたのだが、畠中も Rousset もこれにしたがっている。私たちもまたこれにし
たがう。
(Rousset[1992]pp. 273- 274 参照。なお Spinoza[2009]では注のなかにとどめられ
ているが、テクストクリティークにかんする言及はない。
)
Rousset はこの点にかんして、スピノザのこの宣言は主に 58 節で提示される「本質にか
んする虚構」の議論で実現されるとしている(Rousset[1992]p.274, p.276.)が、本質を永
遠真理と同定することに対しては躊躇している。彼は本質が「必然的」であるという意味
で「永遠」であると述べるにとどめている(Rousset[1992]p,276)。さらに私たちが本文で
引いた 67 節のテクストにかんしては、本質そのものを永遠真理とみなす理解に対して、そ
れに明白に対立するテクストはないけれども、そこまで理解を押し進めるのは困難であろ
うと語っている(p.316)。けれども Rousset が本質は必然的であるという意味で永遠であ
ると主張するときに彼がいわんとしていることは明らかではないし、本質一般が永遠真理
であるという理解に対立するテクストがない以上、この理解は正当化されなければならな
いと考える。実際スピノザはのちに『エチカ』において、「人間」の「本質」にかんして、
それが「永遠真理」であるという論点を提示する[E1P17S]。
107 Spinoza[2009]p.146, n.41.
108 原文は以下。“… invenio apud me innumeras ideas quarumdam rerum, quae, etiam si
extra me fortasse nullibi existant, non tamen dici possunt nihil esse”[ATⅦ64 :6-9 :強調
引用者].ここで強調した«quae »が受けるのは ideas か rerum かという議論があるが、私た
ちは rerum で受ける。この点にかんして村上[2005]pp.35-37, p.51 注(10)参照。
109 また、幾何学の諸論証のうちには「それらの対象の実在を私に確証させる何ものもない」
[ATⅥ36:16-18]という『方法序説』第 4 部のことばをも参照。なお本稿ではいわゆる「神
の誠実性」にかんする議論には触れない。
41
張することができる110。これに反してホッブスによれば、こうした図形の本質は、紙や黒
板のうえに実際に描かれた図形を離れるなら、決して基礎づけられたことにはならない。
彼によれば、「実在から区別されるかぎりでの本質は、「である[est]」ということばによる
諸々の語の繋辞付け[copratio]以外の何ものでもない」し、
「このため本質は実在なしには私
たちの捏造[commentum]である」[Obj. 3, 14, ATⅦ194:1-4]。つまりホッブスとしては、幾
何学的対象についてさえ、その本質に対応する〈いま、ここ〉での物体的実在が与えられ
なければ、当の本質は基礎づけられえない111。こうした対比を考慮すれば、ここまでみて
きたようにスピノザはデカルトの方に与するだろう。実際スピノザは、「その対象が私たち
の思惟する力[vis]に依存し、自然のうちなる或る対象をもたないということを、私たちがこ
の上なく確実に識っている或る真の観念」[72]について語ってもいるからである。
、、
かくて或るものの実在の認識にかんする本質の優位、本質の認識論的優位性が存する。
、、
しかしそうなると、以下の疑問が生じる。或る個別的なものの個別的本質もまた、それが
本質であるからには永遠真理とみなされるべきことになるはずだろう。けれどこの個別的
、、
なものは外的な諸原因にその実在を規定されていると考えられたのである。自らの実在を、
、、
自らとはことなる他の諸原因に依存しているようなものの本質が、永遠真理とみなされね
、、
ばならないというということはいかなる事態を示しているのだろうか。個別的なものの本
質と実在は、まったく関係のないものということにならないだろうか。実際スピノザはの
、、
ちに、「変化する個別的なもの」の「実在はそれらの本質と何の連関をももたない」[100]
、、
と明言するまでに至る。しかしながら個別的なものの個別的実在と個別的本質は、密接に
、、
呼応すべきものとして語られていたはずである。くわえて、或るものの本質が永遠真理で
あるといわれるさい、この言明はいかなる基礎にもとづけられているのだろうか。以上の
、、
諸論点はしかし、「確固・永遠なるもの[res fixa aeternaque]」[e.g.100]についての議論に
逢着することになるが、これはのちに詳しく検討する。
さて、以上にみてきた第二の論点、本質の優位にかんして Lécrivain の整理を借りながら
まとめよう。「本質を知らないということは、実在そのもの[を知らないということ]にも波
、、
、、
及する。というのも、本質が私たちにものの実在を保証するのに十分でなければ、ものの
実在は自然的諸原因の無限な系列に依存するわけだから、少なくとも私たちがこの実在に
ついて何かを知ることができるのは、実在するすべてのものの知解可能性のありかたを構
成するその本質をとらえることができるという条件でのみである112」。虚構を排除するため
、、
、、、、、
には、スピノザがいうには、「ものの実在をその本質へと突き合わせ、かつ同時に自然の順
110
「数学的真理は純粋に内的な性格にかかわる。それはすべての対象への関係の外で完全
に概念される。[…]それらの対象は純粋に理念的であり、またさらにはそれらの「観念対象
[ideatum]」は思惟の外に存しない」
(J. Moreau[1985]p.379)。この J. Moreau の論文はス
ピノザにかんするものだけれど、こうした言明はここで挙げたデカルトの議論にも妥当す
るだろう。
111 たとえば Medina[1985]p.183 参照。
112 Spinoza[2003] p.166, n.11.
42
序を考慮に入れることに配慮すればよい」[強調引用者]。そういうわけで、次に検討されな
ければならないのはこの「自然の順序」という概念である。
2-3)「自然の順序」
私たちが問題としている本質と実在の関係の理解を進めるためにも、この「自然の順序」
という表現を明確に捉えておく必要がある。というのも、上にみた「外的諸原因」の議論
、、
とともに、この「自然の順序」という概念が『改善論』における個別的なものの実在の条
件113となっていると考えられるからである。
、、
スピノザによれば、
「自然のうちに実在するすべてのものども[omnia]」は、
「他のものど
、、
も[aliis rebus]と連関[commercium]を有している」[41]。そして「他のものどもと連関を有
、、
しているということは、他のものどもから産出されること、あるいは他のものども[alia]を
産出することである」[41,n.p]。つまり、自然のうちなる実在はすべて、原因‐結果の産出
的原因性によって連関している。くわえて、この原因‐結果の産出関係は盲目的なもの、
つまり一定の規則も定まった法則もない偶然的なものではなく、必然的といえる関係であ
る。というのも、「自然のうちにはその[自然の]諸法則[leges]に反する何ものも在りえず、
すべてのものはその一定の[certas]諸法則にしたがって、その一定の諸結果を、一定の諸法
、、、、、、、、、、
則によって、その反対のありえない連結において[irrefragabili concatenatione]産出すると
、、
いう仕方で生じる」[61,n.a.強調引用者114]。「可能的」といわれていたものは、それが実在
していても実在していなくても矛盾を生じない。けれどもこの実在は外的諸原因によって
必然的に産出されるか、あるいはそれによって実在することをさまたげられる。その実在
、、
が本性上必然的でない存在者、個別的なものの実在は、一定の順序を有した原因‐結果の
産出関係によって必然的に規定されているのである。
、、
さらにスピノザは上の引用に続けていう。「ここから帰結するのは、精神[anima]がもの
を真に[vere]概念する場合、同じ諸結果を対象的に[objective]形成し続けるということであ
、、
る」[ibid.]。この一文の理解は、私たちが先に論じた対象的本質の議論と、個別的なものの
実在との関係を考えるうえで重要なものである。詳しくみていこう。
この「同じ諸結果」というのは、知性の外で、自然のうちなる実在が他の実在を結果と
して生じさせるとき、知性の内部でもこの同一の結果の観念を形成することができるとい
この点はいま引いた Lécrivain の言明からもうかがわれる。なお Rousset[1992]p.281
をも参照。
114 “irrefragabilis”を「その反対のありえない」と訳したが、一般的には「反論されえない」
と訳されることばである。しかしこの意味のままでは内容をとりづらいし、「真の学知
[scientia]は原因から結果へと進む」[85]のであって、決してその逆ではありえず、また「全
自然の第一の要素」すなわち「自然の源泉、起源」から出発して、「順序を踏まない[sine
ordine]」ことのないよう注意しなければならないとされる[75]ことをも考慮に入れれば、
私たちの訳は正当化されうるだろう。
113
43
うこと、いいかえれば、自然のうちなる実在の原因-結果の産出関係と、知性に内的な観
、、、、、、
念の形成・導出関係が厳密に同一的であるということが語られていると考えられる。「観念
、、、、、
は、その観念対象が事象的にあるのと同じ仕方で 、対象的にある[idea eodeom modo se
habet objective, ac ipusius ideatum se habet realiter]」[41:強調引用者]。ところで、いま
、、
みたように、「自然のうちに実在するすべてのものども」は、「他のものどもと連関を有し
ている」[ibid.]。したがって、
「これら[自然のうちに実在するすべてのもの]の対象的本質も
、、、
また同一の連関[idem commercium]を有しているだろう、すなわち、他の諸観念がそれら[対
象的本質]から導出されるだろう[…]」[ibid.強調引用者]。
、、
こうした一連の言明にかんしてはしかし、観念あるいは対象的本質と、ものあるいは形
相的本質とのあいだの「並行論」ないし「対応説」をみてとる解釈がある。たとえば Koyré
、、
は次のようにいう。「対象的本質と形相的本質のあいだの対応は、スピノザにとって、形相
的事象性の世界を統治する原因性と、対象的事象性の世界を支配する原因性とのあいだの、
、、
、、、
すなわちものの原因性と観念の原因性とのあいだの並行論をともなう115」。けれども上にみ
たように、自然のうちなる実在の原因-結果の産出連関と、知性に内的な観念の形成・導
、、、、、、
出連関は厳密に同一的であると考えるべきである。この点はまた、私たちが示した対象的
本質の理解からも支持される。すなわち私たちの理解によれば、真の観念の真理性は、観
、、
念の対象的な側面(観念に内的な側面)と観念の対象となるものの形相性がそれぞれ独立
、、
のものとしてとらえられたうえで、それらの並行ないし対応によって基礎づけられるので
、、、
、、、、、、、、、、 、、、、、、
はなく、そうではなくて、ひとつの同一的な何か 、すなわち本質が、対象的な側面と形相
的な側面という二つの側面のもとで捉えられることにもとづくのである。自然のうちなる
実在の産出連関と、知性に内的な観念の導出連関が同一の連関であるということは、まさ
に 33-35 節の確実性の議論が準備していたこの本質の同一性に基礎づけられていると考え
るべきである。
*
、、
、、
本質はつねに或るもの[res]の本質である116。そしてこのものは自然的実在でも観念でも
ありうる。ペテロも事象的なもの[quid reale]だし、ペテロについての観念も事象的なもの
であり、それぞれに固有の本質を有している[cf. 33-34]。ペテロについての観念は、その対
象であるところのペテロの本質(形相的本質)を対象的に[objective]含んでおり、この観念
Spinoza[1994], p.110, n.85[強調引用者]. 同様の指摘は、Spinoza[2009]p.149, n.94.
Matheron もまた観念とその対象のあいだの並行論について語っているが、彼によればこの
、、、、、、、、、、、 、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
並行論は「諸観念の形相的事象性と、それらの対象的事象性とのあいだの並行論という原
、
理」、つまり観念そのものについていわれる形相性と、これもまた観念そのものの対象性と
のあいだの並行論によって説明されるという(Matheron[2011-1], pp.543-546.強調は
Matheron)。
116 Cf. Deleuze[1968],p.175.
115
44
の側でみられたペテロの本質が、ペテロの対象的本質である。ペテロの形相的本質も対象
、、
的本質も、ペテロというものの同じひとつの本質である。私たちが第 1 章でみてきたよう
に、確実性はこのような論点にかかわっていた。しかしながら、「対象的本質」概念が中心
的に論究されていた 33-35 節では、
「実在」の論点はほとんどあらわれておらず、むしろ実
在の方はたんに前提とされていた。けれどもいま検討しているところでは、自然の内なる
、、、
産出連関と知性に内的な観念の導出連関が、同一の連関であることが示されている。そし
、、
て或るものの個別的実在と個別的本質には密接な連関がなければならなかった。ようする
、、
、、
にスピノザは、一方で或るものの個別・特殊的本質の認識と、その同じものの個別・特殊
的実在を統一的に説明する理論を提示しようと努めているのにもかかわらず、他方で本質
、、
のほうを「永遠真理」とすることで、本質の優位性を際立たせ、さらに個別的なものの実
、、
在と本質がまったく連関を持たないと明言されることになり、結局のところ個別的なもの
の本質と実在の統一的連関が、きわめて危ういものとなってしまっているといわざるをえ
ない。
、、
ところで、個別的なものの本質、その個別・特殊性はいかにしてとらえられうるのだろ
うか。以下ではまずはこの点を検討する。先に示唆しておいたように、この論点は「定義」
、、
論に収斂していく。「私たちが諸々のものの探求にたずさわるかぎり、抽象的なものどもか
ら何かを結論して」はならず、そうではなくて、「最上の結論は或る特殊的肯定的本質
[essential aliqua particulari affirmativa]から、いうなら[sive]真でかつ正当な定義から引
き出されるべきであろう」[93]。ここまでみてきた複数の問題点をふまえながら、私たちは
いまや『改善論』の「方法の第 2 部のかなめ」[94]、定義論を検討しなければならない。
3)『改善論』の定義論(1):定議論と順序づけ―「方法の第 2 部」の標的―
、、
「定義が完全といわれるためには、ものの内的な本質を説明しなければならず、さらに
私たちは何らかの諸特質をその本質に置き換えてしまわないように注意しなければならな
いであろう」[95]とスピノザはいう。彼のこの議論の背景をなす考えとして、まずは本質と
特質[proprium/ proprietas117]との区別を検討する必要がある。というのも、引用文にみら
proprium と proprietas との異同については様々な解釈がある。たとえば Eisenberg は
proprium と proprietas を置き換え可能なものとみなしていると考えられる(Eisenberg
[1971]p.181 et n.17)。また Spinoza[2009]p.145, n.31 をも参照。Curley はスピノザの著作
において proprium がテクニカルな意味、すなわち「或る種[species]の構成員のみがすべて
有しているものの、当の種の本質に属さない特質(e.g.人間における笑うことのできる能力
を有していること)」という意味を有しているかどうかという問いに留保を付けつつも、
『改
善論』では proprium と”essential property”[proprietas]の対比が意味を持つ場面があると
考えている(CWp.652)。私たちとしては少なくとも『改善論』においてスピノザは両者を
とりわけて区別していないと考える。なお『改善論』でわずかに一度だけ accidentia とい
う語があらわれる[27]。Rivaud は proprium と accidentia を等置している(Rivaud[1906]
p.52, n.96)が、私たちも同意見である。またスピノザは「書簡 4」
(1661 年 9 月 27 日(Ep3)
117
45
れるとおり、ここでの彼の主張では本質と特質の身分上の区別がすでに前提とされている
からである。しかしスピノザは『改善論』において特質を明示的に規定していない118。と
ころが、スピノザの議論を注意深く追っていくと、両者の身分上の区別にかんして次の二
、、
、、
点が注目される。第一に、或るものの特質は、当のものの本質が先だって認識されなけれ
、、
ば明晰に知られないというという主張[27,95]、第二に、まず或るものの定義を立て、そこ
、、
から諸特質が導出されるべきこと[96(Ⅱ),97(Ⅳ)]、以上二点である。したがって或るものの
定義は、先だって認識されるべき本質を説明しなければならず(本質の認識論的優位性)、
諸特質の方はあくまでこうした定義から導出されるべきものという身分を与えられること
になる。次にそもそもスピノザが定義論を導入するさいのもくろみを確認しておこう。
「方法の第 2 部」の「標的[scopus]」について、スピノザは以下のように語っている。
標的は、明晰かつ判然とした諸観念を、すなわち物体の諸々の偶発的な運動にもとづい
てではなく、純粋な精神にもとづいて形成される諸観念を有することである。次に、す
べての観念をひとつの観念に帰着させる[redigantur]ために、私たちは、私たちの精神が
なしうるかぎり、自然の形相性を[formalitatem naturae]全体にかんしてもその諸部分
にかんしても、対象的に反映する [referat]という仕方ですべての諸観念を連結し順序づ
けることに努めるだろう。[91]
まず「物体の諸々の偶発的な運動にもとづいて」形成される観念というのは、「精神の力能
そのものに由来するのではなく、身体が、あるときは眠りながら、またあるときは目覚め
ながら様々な運動を受容するに応じて、外的な諸原因に由来する、何らかの偶発的な、(い
ってみれば)孤立した諸々の感覚知覚に」つまり「表象[imaginatio]にその起源を有する」
観念である[84]119。こうした表象にもとづくものではなく、
「純粋な精神」
、いうなら「純粋
な知性」[91,n.e”]にもとづく観念を持つために提示されるのが、この節ののちに続く定義論
[92-98]となる。
「できるだけ抽象的な進み方を避け[quam minime abstracte procedamus]」
[75]、特殊的な認識を目指すこと。これが第一点である。さらにもう一つ、「順序づけ」と
いう論点が提示されており、99 節から 105 節の議論がこの二つ目の論点に対応することに
なる。この第二の論点で何が語られているのか、次にこれを明確にする。
私たちが先に引いておいた 41 節に続いて、スピノザはいう。
「[…]観念がその形相的本質
と 10 月 21 日(Ep5)のあいだに書かれたと推定される)で modus を accidentia と言い換
えている(Ep4, Geb.,Ⅳ,p.13:30-p.14:4)が、基本的には一貫して実体とその偶有性という
対を捨てているといってよい(この点にかんして「形而上学的思想」CM1/1, Geb.,Ⅰ,p.96:32
-34 参照)。この点にかんして Joachim[1906]p.15, n.2 参照。また De Dijn[1974]p.49, n.32.
118 Cf. Eisenberg[1971] pp. 181-182, p.181 n.17.
119 Auffret-Ferzli は、この「表象」の議論が、
『改善論』テクスト本文に付された注を除い
て、74 節に突然現れると指摘し、ここから『改善論』テクストの
「間隔を置いた作成[rédaction
échelonnée]」説を提示している(Auffret-Ferzli[1992]pp.281-283)。この論文は私たちが
開いてきた『改善論』テクストの多層性を違った観点から跡付けようとする試みである。
46
と全体的に[omnino]合致しなければならない[debeat]ということから、今度は120、私たちの
精神が自然という範型[exemplar]を全体的に反映する[referat]ために、みずからの観念すべ
てを、自然全体の起源と源泉を反映する[refert]ひとつの観念から産出し、この観念がまた
他の諸観念の源泉となるようにしなければならないということは明らかである」[42]。
まず「観念がその形相的本質と全体的に合致しなければならない」というのは、私たち
がみてきたことからすれば、(真の)観念の側での本質つまり対象的本質が、対象そのもの
の形相的本質と同一的であることに由来する、こうした(真の)観念の本性から帰結する
理論的必然性をしめす“debeat”と理解できる121。さてそれでは、上に引用した 91 節でもあ
らわれる「反映する[referrre]」という表現はどのように理解すればよいのか。Curley もい
うように、この動詞を含んだ一文をどう訳すかは困難な問題となる 122。いずれにせよこの
referre という語を、多くの注釈者たちが指摘しているように、対象がまずあって、そのの
ちに、またこの対象が原因となって表象像としての観念が生じるであるとか、観念とその
対象との像的な類似性、いうなら映像と実物といった関係を表現するものと捉えるべきで
はない123。私たちが上にみてきたとおり、
『改善論』での観念(真の観念)は対象の本質に
かかわるものであって、観念を何か図像的なものと捉える理解はあらかじめ、そして決定
的に排除されているからである124。
『ラテン語遺稿集』のこの箇所にみられる « ex eo »は余計であるので排除して読む。Cf.
Joachim[1940] p.100, n.4, Rousset[1992]p.78, p.251. なお PUF 版著作集ではこれをテク
ストにとどめている(Spinoza[2009]p.88)。
121 Cf. Gueroult[1968]pp.102-103.
122 CWp.20,n.33. ちなみに Curley は 42 節に二度あらわれる referre をそれぞれ reproduce、
represent と訳しわけている(CWp.20)。
123 Cf.Spinoza[2009] p.147,n.62, Rousset[1992]p.251. 國分は同様の注意を喚起しながら、
この動詞を「対応する」と訳し(國分[2011]p.259)、いわゆるスピノザの並行論(國分によ
る表記では「平行論」)が表現されているという理解のもとで考察を進めている。この点に
、、
かんして Rousset も « referre »の意味合いが、
「観念の順序とものの順序の対応を表現する」
ことであると述べており(Rousset[1992]p.251)、彼もまたいわゆる並行論の理解を持ち出
している。とはいえ、« referre »がそもそも「対応する」という日本語に訳しうるラテン語
、、
であるかどうかは疑問が残る。さらに國分によれば、観念とものとの連関の「同一性」の
方は、「最終的に」「観念と事物が存在としては同一である」ことに支えられているとする
(國分[2011]pp.260-261)が、こうした解釈が『改善論』でのスピノザの論述と整合的であ
るかは疑わしい。というのも、スピノザが観念と対象的本質(國分は「想念的本質」と訳
している)について語るさいに持ち出す「ペテロ」の観念(33-35 節参照)について検討し
てみるなら、國分の解釈を採用する場合、ペテロという事物とペテロについて認識する者
の有する観念が「存在としては同一である」のでなければならないが、このような事態は
理解不可能であるように思われるからである。
124 『デカルトの哲学原理』第 1 部定理 6 備考をも参照。この備考ではデカルトの思想を理
解しない、あるいはそれを理解するのにきわめて混乱した精神の持ち主たちに対する、ス
ピノザの攻撃的ともいえる議論が展開されている(「私たちが彼らを新種の動物、すなわち
人間と野獣との中間物として扱おうとするのでないかぎりは[…]」[PPC1P6S, Geb.,
、、
Ⅰ,p.160:7-9])。スピノザは以下のようにいう。
「私は問うが、或るものの定義を教え、その
120
47
それではこの「反映する125」という表現はどのような事態を示しているのか。上に挙げ
、、、
たこの動詞の使用例三つを検討すると、総じて自然の全体性にかかわっているという点を
指摘できる。私たちが考察してきた真の観念の議論では、あくまで個別的なひとつひとつ
、、
のものがその対象としてとりあげられていたわけだが、この論点と対照させて考えてみれ
、、
ば、いま検討している場面では、そうしたひとつひとつのものに局限されず、あるときは
自然の部分的な一側面、またあるときは自然の全体というように、複数の観念と対象に焦
点が当たるさいに「反映する」という表現がもちいられていると考えられる 126。とはいえ
いずれにせよ、上にみたように多くの解釈者たちも、スピノザが『改善論』での先立つ箇
所において語っていた観念論、あるいは『エチカ』等にみられるスピノザ自身の観念論と
背馳しないように、注意深くこの referre という動詞を訳そうと努めているわけだが、しか
しこの動詞そのものが「再現する」「転写する」と訳しうるように(私たちの「反映する」
という訳もそうなのだが)、やはり現物とそのコピーないし映像といった理解を引き寄せて
しまう、もっといえばこうした理解から決してまぬかれえないということは確かである。
42 節でのスピノザの議論をもう一度みなおしてみよう。
「観念がその形相的本質と全体的
、、、、、、、
、、、
に合致しなければならないということから[ex…quod]、今度は[iterum]私たちの精神が
、、、
自然という範型を全体的に反映するために[ut…]」
[42:強調引用者]、とスピノザは語って
、、
いる。つまりこの「反映する」という表現は、観念の側での対象的本質と対象となるもの
の形相的本質の同一性にもとづく、それとは区別される別の何らかの事態を言表している
と考えなくてはならない。この何らかの事態とは何か。私たちとしては、やはりこの「反
映する」という動詞と全体性との連関を考慮に入れるべきであり、個別的な諸観念を「連
結し、順序づける」
[91]こと、すなわち諸観念の導出連関のただなかにおいて、自然の原
因-結果の産出連関を全体的に反映させることがねらわれていると考える必要があると思
われる。そういうわけで、自然の形相性全体、自然という範型を諸々の観念の導出連関に
、、、
よって全体的に反映するために、今度は、できるだけはやく自然全体の起源を反映するひ
とつの観念を手にすることが要求される。
「できるだけはやく[quanto ocius]」、
「最高完全
な存在者」の認識に到達すること[49]、これが求められるべき由である。
私たちが上にみてきたように、スピノザは精神が「ものを真に概念する場合、[知性の外
なる自然の産出関係と]同じ諸結果を対象的に形成しつづけ」[41,n.p]ると語っていた。
、、
諸属性を説明するという以外の仕方で、私たちはどのようにして当のものの観念を示すこ
とができるだろうか。このことを私たちは神の観念にかんして示しているのだから、神の
像を脳の中に形作ることができないという理由だけで、神の観念を否定する人々のことば
によって煩わされることなどないのである」。[Geb.,Ⅰ,p.160:9-14]
125 なおこの referre という動詞は、多くの場合前置詞 ad をともない、何らかのものへの関
係を示す意味でももちいられる。66,67,95,109 節を参照。
126 けれどもたしかに、
「自然の形相性」の「諸部分」[91]ということばは、或るひとつの個
別的な対象についても語られうるわけだし、さらに「自然全体の起源と源泉」[42]という表
、、
現もいわば第一原因としての或る特定のもの(神)というひとつの対象について言及され
うると考えることもできよう。
48
そしてこれを突き詰めることで、精神は自然の一定の法則との同一性にもとづいた「一定
の諸法則にしたがってはたらきをなし、或る霊的な自動機械のようである[quasi aliquod
、、
automa spirituale]」[85]とまで語っているのである。したがって精神は或るものを真に
概念するやいなや、自然の形相性を原因の産出連関と同一的な仕方で反映しうるはずであ
、、、、、、
るように思われる。それにもかかわらず、ここでは明らかに或るひとつの条件―そのもと
ではじめてこうした精神の自動的運動が実現されうる条件―が付加されている、というか
むしろはじめて示されている。つまりこの条件というのは、「自然全体の起源と源泉を反映
するひとつの観念」へと諸々の観念を帰着させ、このひとつの観念から他の(いまだ認識
されざる)諸観念の導出を開始する、ということである[42,91]。さらにスピノザはいう。
、、
このことを遂行するためには、
「すべてのものどもの原因であり、このため127この対象的本
質がまた私たちのすべての観念の原因であるところの或る存在者が在るかどうか、そして
同時にそれがどのようなものであるかどうか、これを問うこと」が必要である[99]。この
問いに答えを与えることができたとき、「私たちの精神は、先に語ったように、最上の仕方
で自然を反映することになる。というのも[その場合私たちの精神は]、この[自然の]本
質と順序と合一とを対象的に有することになろうからである」[ibid.](この論点はのちに
みる『エチカ』冒頭の議論と密接にかかわっている)。
まとめよう。
「方法の第 2 部」の「標的」として、1)表象力にもとづかず、知性にもとづ
く明晰かつ判然とした観念を手に入れること(定議論)、2)明晰かつ判然たる真の諸観念を、
自然の原因‐結果の産出連関を反映するかたちで「順序づける」こと、そのためにすべて
のものと観念の原因たる最高完全な存在者の観念から出発して他の諸観念の導出を遂行す
ること(順序づけ)、この二点が明示された。しかしこの先の『改善論』でのスピノザの議
論は、これら二点双方にかんして問題を抱えている。以下第 3 章では、1)『改善論』の定議
論が理論的な難点を有しており、それが成功しているとはいいがたいということ、また 2)
、、
順序付けにかんして重要な意義を担わされている「確固永遠たるもの」の内実が理解困難
であること、以上二点が『改善論』の未完という事実と連関していると考えられることを
示し、その上で『エチカ』の議論の考察へと進んでいく。
原文は“inquiramus, an detur quoddam Ens, et simul quale, quod sit omunium rerum
causa, ut ejus essential objective sit etiam causa omunium nostrarum idearum”.[強調
引用者]ここで強調した“ut”にかんして、Koyré は“afin que”としてはっきり目的を示す ut
と理解しているようだが(Spinoza[1994]p,82)、しかしこれは結果を示す ut と考えられ、
“quod”がとる節の一部として理解すべきである。“quod”の次の“sit”と“ut”節内の“sit”が同じ
接続法であることもこの傍証となろう。
127
49
第 3 章:本質と定義―スピノザの定義論―
、、
1)『改善論』定義論の理論的困難と確固永遠たるものの問題
1-1)『改善論』の定議論(2):その理論的困難
さきに述べたように、
『改善論』は未完の著作である。それがなぜ未完のままに残された
のかという問題をめぐって、これまで多くの解釈がなされてきた。その中で Matheron は、
『改善論』の未完成の理由がその理論的な困難にあるのではなく、この著作が読者として
想 定 し て い る と 彼 の 考 え て い る デ カ ル ト 主 義 者 た ち に 対 す る 「 教 育 的 難 局 [impasse
pédagogique]」にあると主張する128。私たちはこうした解釈に反して、
『改善論』において
提示される定義論を詳細に検討することにより、『改善論』の未完がまさにこの著作のはら
む理論的な困難に起因するものであることを示す。
これから詳述していくが、控えめにいっても、
『改善論』全体を通してみたときに、そこ
で提示されている定義論、あるいは少なくともスピノザが提示しようとしていた定義論が
成功しているかどうかは極めて疑わしい129。その是非を検討するために、私たちはまずス
ピノザが定義論を導入する文脈をいま一度簡単におさえ、そのうえで定義にかんする論点、
問題点を取り出していく。
真の観念を偽の観念、虚構された観念、疑わしい観念から区別、分離しようとする「方
法の第 1 部」[50-90130]に続いて、
「方法の第 2 部」が開始される。ここでの標的のひとつと
してあげられていたのは、明晰かつ判然とした観念、すなわち純粋精神、いいかえれば知
、、
性131から形成される観念を持つことであり、それには 1)もの[res]がその本質から概念され
るか、あるいは 2)近接原因132[causa proxima]から概念されることが求められる[91-92]。こ
、、
、、
の要求は、「ものの十全な本質を把握し、かつ誤謬の危険がない」[29]とされた「ものがそ
Matheron[2011-1]p. 542 参照。さらに Matheron は彼の大著(Matheron[1988]pp.11-13)
、、
において、『エチカ』で個別的なものの「現実的本質」と規定されることになる「コナトゥ
ス」についての解釈に、他でもなく『改善論』の定義論を導入している。けれどもこの定
義論そのものが困難を抱えていたとすれば、この試みにも疑念が生ずるのではないか。と
はいえ本稿で私たちはこの点に踏み込まず、『改善論』定義論の読解のみに専念する。
129 のちにも触れるように、上野は『改善論』が「まさに定義論で失敗していて未完に終わ
っている」と明言する。上野[2012-1]p.44。
130 本章でもしばらく
『改善論』の参照箇所を Bruder 版の段落番号のみによって指示する。
131 「純粋精神[pura mens]」が文脈上「知性」と置き換え可能であるということについて
は、Eisenberg[1971]p.173, p.179, n.12 を参照。
132 「近接原因」は近世スコラの伝統では、他の諸原因をも巻き込んで結果を産出する「遠
隔原因[causa remota]」との対比で、無媒介に結果を産出する原因を示す術語である。
Burgersdijck[1626/1644], cap.17, 33 参照。
128
50
の本質のみによって、あるいはその近接原因の認識によって」なされる第四の知得の様式
、、
[19]との関係で、
「認識されていない諸々のものが[…]私たちによって知解されるために」こ
の様式がいかにして適応されるべきか[29]という議論の延長線上にある133。そしてこの第四
、、
の様式のみが、「ものの十全な本質を包括的に理解し[comprehendit]、かつ誤謬の危険が
ない」[ibid.]といわれるのだから、その本質のみによってであれ、近接原因の認識を介して
、、
であれ、最終的に到達すべきである知識の対象は、ものの本質であると理解すべきである。
、、
、、、、、、、、、、、
、、
さらに、認識されるべきものが、いまだ認識されていない諸々のものであるとされている
が、これは上にもみたように、いまだ認識されざるものへと知識を拡張していくことが、
学[scientia]の学たるゆえんであるからである。この点はのちの行論に大きく影響すると思
われるので、注意を促しておく。
ところで、上記の 1)と 2)の 2 区分は 1’)それ自身においてあり[sit in se]、人々がいうよう
、、
に[ut vulgo dicitur]自己原因134であるようなものと、2’)それ自身においてなく、実在する
、、
ために原因を要求するもの、という二つの区分に対応している[92]。つまり、若干敷衍して
、、
いうなら、実在するために他の原因を要しないものは、その本質のみによって概念される
、、
べきであり、他方実在するために原因を要するものは、その近接原因から概念される必要
がある、ということが主張されているのである。ようするに〈本質による/近接原因による〉
、、
という区分は、定義されるべきものの存在論的身分に対応しているということである。
、、
続いてスピノザは、諸々のものの探求にたずさわるかぎり抽象的なものから結論を導き
、、
出してはならず、たんに知性のうちにのみあるものを、もののうちにあるものと混同しな
い よ う に と い う 注 意 を 与 え た の ち 、「 最 上 の 結 論 は 或 る 特 殊 的 肯 定 的 本 質 [essentia
particularis affirmativa]から、sive 真で正当な定義から引き出されるべきであろう。とい
うのも、普遍的な公理のみからは、知性は個別的なもの[singularia]へと降りていくことが
できない」[93]からであると述べる135。この箇所以降にはじめて、定義に対して大きな重要
性が与えられるようになり、定義にかんして詳細に語られていくことになる。スピノザの
議論の展開を見る前に、ひとまずここまで語られたことがらを整理し、いくつかの問題を
提起しよう。
このことは 92 節の「すでに述べたように」という記述から裏付けられ、この参照先は
19 節と 29 節であると考えられる。M. Beyssade も同じ参照先を指示している。Spinoza
[2009]p.153, n.144. さらに、私たちのこの見解と同一趣旨の解釈として、Eisenberg[1971]
pp.187-188 を参照。
134「vulgo」にかんしては Carraud[2002]p.295, n.2 を参照。
135 ここではあえて sive という接続詞を訳さない。sive は「あるいは」
、
「いうなら」等に訳
しうるラテン語であるが、この接続詞の用法は以下の三つに大別されるように思われる。
つまり、sive によってつながれる両項の a)並置、b)同義ないし等価、c)選言(必ずしも排他
的ではないが、排他的であるときもあり、その場合両項を区別することに意味があるとい
う こ と に な る )、 以 上 三 つ で あ る 。 こ う し た sive の 用 法 に つ い て 、 Marilène
Phillips[1984]p.13, n.1.をも参照。私たちは以下でこうした sive の多義的な用法が『改善
論』定義論に含まれる理論的困難の一因となっているということを示していく。
133
51
、、
まず定義論が導入される際のもくろみとして、いまだ認識されていないものを、その本
質からか、あるいはその近接原因からとらえることが主眼となっており、さらに純粋精神
から形成される明晰かつ判然たる観念を持つことが目指されているという点をおさえてお
く必要がある。まさにこの標的へと至るための手段として、定義論が導入されてくるから
である。加えて、スピノザのこの議論の重点は、抽象的なものとたんに知性のうちにのみ
、、
、、
あるものを避け、もののうちにあるものを目指し、ものそのものの「特殊的肯定的本質」sive
「真で正当な定義」が求められるべきであるということにある。というのもスピノザによ
れば、
「観念はより特殊的[specialiter]であればあるだけ、それだけいっそう判然とし、した
がってより明晰だから」であり、「それゆえ特殊的なものども[particularia]の認識をこそ、
私たちは求めるべき」だからである136[98]。
ところが、ここですぐさまいくつかの疑問が生じる。第一に、定義とはスコラと同様に、
、、
或るものが「何であるか」、この意味で本質を記述するものであるとさしあたり理解してお
いたうえで、
「本質」と「定義」が sive という接続詞によってつながれていることは理解さ
れると思われるが、しかしそれでも、あるいはそれゆえ、そもそも定義自身が「たんに知
性のうちにあるもの」に過ぎないのではないだろうか。いいかえれば、本質とのかかわり
、、、、、
における定義の身分が問われうる。第二に、いまだ認識されておらず、これからその本質
ないし近接原因をとらえることで探求されるべきものに対して、私たちはどのようにして
、、
定義を与えることができるのだろうか。つまり、或るものを定義するには、それがあらか
じ何らかの仕方ですでに知られていなければならないはずであるし、またどのようにして
未知のものに定義を与えることができるというのだろうか。この観点からスピノザの議論
、、、、、、、、、 、、、、、、、、、、、、、、、
の展開を追っていくと、彼は探求されるべきもの とその探求のために用いられるもの を混
同しているように思われ137、この混同の中で「堂々めぐりのような」138議論が行われてい
る箇所で、『改善論』は未完のまま残されているのである。さらに、第三に、一般的に「何
であるか」にかかわる定義、つまりたとえば「人間は理性的動物である」といった人間と
、、
いう種に固有の種的本質にかかわると思われる定義が、どのようにして特殊的なもの、個
、、
別的なものにかかわりうるのだろうか。
、、
、、
まずこの第三の疑問にかんして、スピノザは特殊的なもの、個別的なものと対置される
一般的なもの、抽象的なものに対する批判を行っており、ここから私たちの疑問に対応す
るスピノザの論点を引き出せるように思われる。スピノザは、「あらゆる普遍的なものがそ
うであるように、或るものが抽象的に概念されるとき、特殊的なものどもはつねに、自然
のうちに実際に実在しうるよりもさらに拡張された仕方で理解されてしまう。さらに、自
然のうちには、ほとんど知性から逃れてしまうほどの微細な差異を有する多くのものがあ
ここでの specialiter と particularis をともに「特殊的」と訳す。実際少なくともこの引
用箇所でスピノザは両者を区別していないと思われる。
137 Cf.Joachim[1940] p.211.
ただし Joachim は“terminus a quo”と“terminus ad quem”
ということばを用いている。また上野[2012-1]p.45 参照。
138 佐藤[2004]p.182 の表現を借りた。
136
52
るから、
(もしそれらが抽象的に概念されるなら)私たちはそれらを容易に混同してしまう」
、、
[76]という。つまり、個々別々なもののそれぞれの特殊性を度外視してしまう一般的概念、
、、
、、
抽象的概念を用いることなく、特殊的なもの、個別的なものを、あくまでその特殊性、個
別性を示すような仕方で、すなわちまさに「特殊的肯定的本質」を示すような仕方で定義
すべきであるということが求められているのである。この意味において、先の「普遍的な
公理のみからは、知性は個別的なもの[singularia]へと降りていくことができない」[93]と
、、
、、
いう言明が理解されるだろう。すなわちスピノザは特殊的なもの、ないし個別的なものの
本質を問題にしていると考えることができるのである。私たちが第 2 章までにみてきたス
ピノザの個別性を確保しようとする意図は、ここでも一貫しているといわなければならな
、、
い。Rousset は「特殊的肯定的本質」が求められるべきものを、原因を持たない自己原因と
、、
、、
いわれるもの、のちのことばを先どりすれば「創造されないもの」のみに限定している139が、
これは不当な理解である。というのもここまでみてきたように、『改善論』は個別特殊的な
、、
ものの本質と実在をいかに把握するかという論点に専心してきたわけであり、この点がま
たスピノザ哲学の倫理学的志向に応じてもいるからである。とはいえ、スピノザが特殊的
、、
なものの定義を目指しているということは読み取れるにせよ、しかしながら、どのように
、、
して特殊的なものを定義すればよいのかはいまだ明確ではない。さらに、自然のうちにあ
る微細な差異をもったすべてのものどもにかんして、それぞれひとつひとつ定義を与えて
いくということがスピノザの念頭におかれているとするなら、これは到底不可能なことが
らであるはずである。以下ではこうした諸問題を意識しながらスピノザの議論の展開を追
っていこう。
それゆえ、inveniendo するための正しい道は、ex data aliqua definitione 諸々の思惟
、、
を形成することである。このことは私たちが或るものをよりよく定義すればそれだけい
っそうより適切により容易に進むであろう。そういうわけで、この方法の第 2 部全体の
かなめはまったく次のこと、すなわちよい定義の諸条件を認識すること、続いて定義140を
inveniendo する仕方[modus]に存する。それゆえまずは定義の諸条件にとりかかろう。
[94]
この箇所でまず問題となるのは、二つの inveniendo をどう訳すかということである。と
いうのも、inveniendo を「発見する」か、あるいは「案出する」か、どちらで理解するか
によって文意が変わってくるからである。まずひとつめの inveniendo は、いまだ認識され
、、
ていないものを探求するために定義論を導入するという上に述べたスピノザの意図を勘案
Rousset[1992]p.382.
テクスト原文は…in modo eas inveniendi となっており、形からみれば「諸条件」を受
けていると思われるが、その場合「よい定義の諸条件を認識すること、続いて[deinde]その
諸条件を発見すること」となり、文意が通らないため、文法上は無理だが「定義」と読む。
139
140
53
すると、
「[或るものを]発見するための正しい道」と訳すべきであると思われる。ところが、
二つ目の「定義を inveniendo する」の方はといえば、こちらはより複雑な問題をはらんで
いる。というのは、「定義を発見すること」と、「定義を案出すること」いいかえれば「定
義を作成すること」は別のことがらであると思われるからである。とはいえそもそも、「定
義を発見する」というのはどういうことがらなのか。それはあたかも定義が、たとえば精
神のうちのどこかに見出されるべきものとして埋もれていて、私たちに発見されることを
待っているかのようである。けれども、スピノザがそのようなことを考えていたとは決し
、、
て思われない。さらに、「私たちが或るものをよりよく定義すればそれだけいっそう[…]」
ということばから理解できるように、スピノザはあくまで定義を「作成すること」を主眼
としているわけだから、素直に読めば、この二つ目の inveniendo は定義を「案出すること」
つまり作成することと理解するべきだろう。ところが、先に指摘しておいたように、スピ
ノザは定義にかんして、探求されるべきものとその探求のために用いられるものとを混同
していると思われるところがあり、スピノザの議論の展開を慎重に吟味していく必要があ
ると思われる。
加えてこの問題は、ex data aliqua definitione をどう訳すかということにもかかわって
くる。というのもこの文は、「或る与えられた定義から」というように data の所与性を強
く読むか、あるいは「ある定義を与えることから出発して」といったように、定義を与え
ること、つまり定義を作成するということに重点を置いて読むかで、これもまた意味合い
が変わってくるからである141。ここではさしあたり、スピノザの本来の(と思われる)意
図を勘案して、「定義を作成する」という意味で理解しておくことにしよう。そうすると、
「よい定義の諸条件」といわれるのは、より正確に表現すれば、「よい定義を作成するため
の諸条件」として理解することができる。
ところで、この「諸条件」とは具体的にはどのようなものなのだろうか。「定義が完全と
、、
いわれるためには、ものの内的な本質[intima essentia]を説明しなければならず、さらに私
たちは何らかの諸特質をその本質に置き換えてしまわないように注意しなければならない」
、、
[95]とスピノザはいう。ここでの彼の主張の要点は、正当な定義が A) 定義されるものの本
質を説明するものであるということ、そして B) その本質の代わりに諸特質によって、定義
、、
されるものを説明してはならない、という二点である。本質の代わりに特質によってなさ
れた定義の例として、スピノザは有名な円の例を持ち出す。「もし[円が]中心から円周へと
引かれた諸線が等しい或る図形であると定義されるなら」
、この定義は円の本質を説明せず、
単にその特質を説明しているだけであると彼はいう[95]。そして、本質の代わりに特質によ
って定義することは、図形やその他の理拠的存在[ens rationis]にかんしてはそれほど重大
な問題を生じさせないが、しかし自然的・事象的存在[ens physicum et reale]にかんするな
ら問題は大きいと彼は続ける[95]。この存在の二区分は、先ほどの「知性のうちにあるもの」
M. Beyssade は、’’…se donner quelque définition comme point de départ pour former
des pensées…’’として後者の意味合いを強く出して訳している。Spinoza[2009] p.123.
141
54
、、
と「ものにおいてあるもの」の区分[93]と密接にかかわりあっていると考えられる。つまり
私たちは、図形やその他の理拠的存在のような「知性のうちにのみあるもの」と、自然的・
、、
事象的存在のような「ものにおいてあるもの」を混同することなく、はっきりと区別した
、、
、、
うえで、ものについての探求に向かわなければならない。そして定義が特質ではなくもの
、、
の本質を説明すべきであるのは、「疑いなく[nimirum]諸々のものの諸特質は、それらの本
質が知られないなら知解されないからである」[95]というスピノザの断定に基づいているの
である。
あくまで本質を求め、特質でもって定義してしまうことを避けるために、続いてスピノ
、、
、、
ザは、「創造されたもの」と「創造されないもの」142、すなわち 92 節のそれ自身において
、、
なく、実在するために原因を要求するものと、それ自身においてあり、自己原因であるよ
、、
うなものの区分それぞれについて、定義を作成するうえで守られるべきこと、つまり定義
作成の「諸条件」[94]と思われるものを提出する。その内実はといえば、前者にかんしては、
、、
Ⅰ)定義は近接原因を含まなければならない、Ⅱ) ものの概念[conceptus]sive 定義は他のも
、、
のどもと結び付けられてみられることなく、それのみでみられるかぎり、もののすべての
特質がそこから結論されることができるようでなければならない、Ⅲ)143すべての定義は肯
定的でなければならない、ということであり、他方後者にかんしては、Ⅰ)すべての原因を
排すること、いいかえれば、対象が自らの存在[esse]以外のいかなるものをも自らの説明の
ために必要としないこと、Ⅱ)その res の定義が与えられれば、
「それが在るか?」という問
いに余地を残さないこと、Ⅲ)形容詞にもなりうるようないかなる実詞[substantiva]も実質
上144持たないこと、いいかえれば、或る抽象概念によって説明されないこと、Ⅳ)その定義
からすべての特質が結論されること、以上のことがらが求められる[96-97]。
さて、全体としてみたときに、これらの定義の要件は、はたして定義を作成するため
の条件たりえているだろうか。ひかえめにいっても、これらはあまりにも形式的、抽象的
に過ぎ、定義を実際に作成するうえで守られるべき最低限の基準、いいかえれば必要条件
Wolfson はここでの creata が「無からの創造」といったような特殊な意味での「創造」
ではなく、少なくともその実在にかんして原因を有しているという一般的意味でとるべき
だというが(Wolfson[1962] vol.1, pp.350-351, vol.2, p.143.)、私たちもこれに賛同する。
、、
、、
なお「創造されないもの」と「創造されたもの」がより具体的には何か、という問題にか
んしては様々な理解がある。Rousset はそれぞれを『エチカ』での「実体と属性」と「有限・
無限様態」と理解する(Rousset[1992]p.379)。Gueroult も同じ理解を示している(Gueroult
[1968]p.59)。Pollock は「創造された」という形容が事実上有限性を意味するとし、『エチ
カ』での様態(とりわけ有限様態ということになろう)を候補者として提示する(Pollock
、、
[1880]p.146,et n.3)。いずれにせよ多くの解釈者たちはこれら二つのものの理解に『エチカ』
の規定を持ち込むわけだが、私たちとしてはこうした解釈の方向性には断固として反対で
ある。
143 テクスト上このローマ数字Ⅲはあらわれないが、ひとつの要件としてみなせるために数
字を付して独立させた。
144 テクストは quoad mentem であるが、
文意を勘案して岩波文庫畠中訳にならい「実質上」
と訳す。スピノザ『知性改善論』畠中尚志訳、岩波文庫、1931 年、p.77 参照。
142
55
でしかないように思われる。実際スピノザは「必要要件[necessarium requisitum]というこ
とばを用いているのである[96]。ところで、先にスピノザはよい定義の条件を認識し、続い
て定義を inveniendo する仕方を求めようとしていた[94]。ここまでみてきた定義の要件は、
いま述べたように、必要条件としてはかろうじて認められうるにせよ、しかしこのことは、
定義を案出する、いいかえれば実際に定義を作成する仕方までは具体的に教えてくれてい
ないように思われる。当然スピノザは、自らが予告していたところにしたがって、この定
義を作成する仕方を明らかにすべきであるのにもかかわらず、上にみた諸条件を提示した
のち、彼はあっさりと話題を変えてしまう[99]。とはいえ、こののちのスピノザの議論から、
定義にかんする彼のもくろみとその理論的困難が示されると思われるので、最後まで彼の
歩みを検討していこう。
、、
先に述べたように、スピノザは特殊的なものどもの定義を念頭において論を進めている。
、、
こ れ を 端 的 に 裏 付 け る の は 、 101 節 末 尾 の 「 変 化 す る 諸 々 の 個 別 的 な も の の 定 義
[definitionum rerum singularium mutabilium145]」ということばである。スピノザはこの
、、
、、
箇所の前に、
「変化する諸々の個別的なもの」と「確固・永遠たる諸々のもの[res fixae et
、、
aeternae]」とを区別しており [100]、そのうえで、確固・永遠たるものが変化する個別的
、、
、、
なものの定義の類のようなもので、またすべてのものの近接原因であるといわれる[101]。
、、
さらにうえにみたように、変化する諸々の個別的なものの実在は、その本質とは何の連関
、、
ももたないといわれ[100]、先述の実在するために原因を要する「創造されたもの」[92]と
みなすことができる以上、スピノザが求めていた定義の条件にしたがえば、この変化する
、、
、、
諸々の個別的なものの定義は近接原因、すなわち確固・永遠たるものを含まなければなら
、、
ない、ということになるはずである。そうなるとまずはこの確固・永遠たるものを理解し
なければならないということになるだろう。私たちのこの予想通り、スピノザは「私たち
、、
が永遠たる諸々のものの認識に到達することができるために、またそれらの定義を上に述
べた諸条件によって形成するために必要な」ことがらを示していこうとする[103]。しかし
そのためには、スピノザが主張するには、さらに「知性と、その諸特質と諸力[vis]の認識」
が求められなければならない[105]。これ以降のスピノザの議論は、
『改善論』の定義論が抱
えている複数の問題が、さらに絡まりあっているさまを明示してくれるように思われるの
で、少し長くなるが彼のおおよその論述を以下に引用する。
[106][…]私たちは(方法のこの第 2 部において述べられたことがらによって)必然的に
これら[知性の諸力と本性]を思惟と知性の定義そのものから導出することにつとめよう
146。[107]しかし私たちはここまで、諸定義を
inveniendo するどのような規則[regula]も
‘definitionum’として複数形になっている点に注意されたい。
ここでスピノザは思惟と知性を区別していないように思われるため、この文脈では本稿
でも両者を区別しない。
145
146
56
もたなかったし、また、知性の本性 sive 定義とその力能が認識されなければそれらの定
義を立てることができないのだから、ここから帰結するのは、知性の定義がそれ自身で
明晰でなければならないか、あるいは、私たちが何ものをも知解することができないか、
ということである。ところが、これ[知性の定義]はそれ自身でそれのみで[per se absolute]
明晰ではない。しかしながら、その[知性の]諸特質は、私たちが知性から得るすべてのも
のと同様に、その本性が認識されなければ明晰かつ判然と知得されることができない。
したがって、私たちが明晰かつ判然と知解している知性の諸特質に注意を向けるなら、
知性の定義はそれ自身で知られるようになるだろう。
まず問題となるのは、この箇所でスピノザが「ここまで、諸定義を inveniendo するどの
ような規則ももたなかった」と明言していることである。先にみたようにスピノザは、定
義を作成するための諸条件だけはかろうじて示しているように思われたが、実際に定義を
作成する仕方[modus]までは示していないようにみえた。いま問題としている箇所ではたし
かに「規則[regula]」ということばが用いられているにせよ、語られていることがらを考慮
すれば、この箇所まで定義を作成する仕方を示すにはいたっていない、ということを、ス
ピノザ自身が認めているとみなすことができる。そして結局のところ、『改善論』全体をと
おして、この定義を作成する仕方/規則が示されることは最後までなかったのである。
次に指摘できる問題は、知性の定義をめぐる循環である。すなわち、求められている知
性が有する諸特質を導き出すためには、あらかじめ知性の定義が知られなければならない、
ところが、知性の定義は知られていない、けれども、求められているものであるはずの知
性の諸特質からその定義を知ることができる、という明らかな循環である 147。ここではっ
きりとみてとれるのは、探求されるべきものとその探求のために用いられるものが混同さ
、、
れているということである。さらにこれと連関する問題として、或るものの本性ないし本
質とその特質のかかわりについてのスピノザの混乱がみてとれる。つまり、上述のように、
、、
スピノザは「諸々のものの諸特質は、それらの本質が知られないなら知解されない」[95]
と断定していたのだが、ここで彼は逆に、知性の本性 sive 定義がその諸特質から導き出さ
れるとしているのである。探求されるべきものは、まずは知性の本質とその諸特質と諸力
であるとされる。そしてこの探求のために用いられるものは知性の定義である。私たちが
、、、、、、、、、、、、、
先に注意を促しておいたこと、つまり、いまだ認識されていないものをとらえていくとい
うもくろみのもとで定義論が導入されてきたということを思い起こしてみよう。少なくと
も知性の本質はいまだ認識されていないものであり、したがって探求されるべきものであ
る。ところが、これもまた先に記しておいたように、いまだ知られていないものにたいし
て定義を与えることなどできないのではないか。それにもかかわらずスピノザは、知性の
本質を知性の定義から導き出そうとしている。探求されるべきもの(ここでは知性の本質)
この知性の定義をめぐる循環にかんして、De Dijn[1986]p.63.また Joachim[1940] p.214.
さらに Vona[1977] p.41.さらに上野[2012-1]p.45 参照。
147
57
とその探究のために用いられるもの(ここでは知性の定義)とのこの混同は、「知性の本性
sive 定義とその力能が認識されなければそれらの定義を立てることができない」というス
ピノザの言明に端的に示されている。ここでスピノザは本質ないし本性と定義を同一視し
たうえで、さらにその定義を立てる、ということを語っていると読みとることができ、結
局のところ定義の身分に一貫性が欠けていると考えざるを得ないのである。実のところ、
こうした定義の身分にかんする危うさは、「最上の結論は或る特殊的肯定的本質から、sive
真で正当な定義から引き出されるべきであろう」[93]という、定義論が導入されるさいの端
緒となっている記述にすでにはらまれていたということができる。つまり、この「sive」と
いう接続詞が、本質と定義という両項の身分上の混同をすでに用意していたと考えられる
のである。さらに、私たちが先に注意しておいたように、定義を inveniendo すると語られ
るさいに、この inveniendo が「定義を作成する」ということだけではなく、「定義を発見
する」ということとしてもとらえられることができ、inveniendo ということばそのものが
元来有しているこれら二つのことがらの緊密な連関もまた、さらにスピノザによる探求さ
れるべきものとその探究のために用いられるものとの混同を準備していたと考えることも
できるのである。
このように、『改善論』末尾近くで語られる定義論では複数の問題がさらにもつれ合って
いるさまをみてとることができる。こののち、スピノザは知性の諸特質を八つ列挙したう
えで、「これ[思惟の本質]はいましがた検討してきた諸々の積極的特質から求められるべき
である。すなわち、そこからこれら諸特質が必然的に帰結し、あるいはそれが与えられれ
ばこれら諸特質が必然的に与えられ、それが取り除かれればこれらすべても取り除かれる
ところの、共通な或るもの[aliquid commune]がここに立てられなければならない」[110]
という。Di Vona によれば、この「共通な或るもの」とは本質である148。そうだとすれば、
ここでスピノザはまたしても本質とその特質のかかわりにかんする混乱を示しているとい
うことができるだろう。すなわち、本質は諸特質から求められるべきであるとされるのに、
この諸特質が今度は本質から帰結される、という循環である。そして『改善論』はこの箇
所で筆をおかれている。
『改善論』はここまでみてきた定義にかんする諸問題の錯綜のうち
に中断され、未完のままにとどまってしまったのである。
、、
1-2) 確固永遠たるもの[res fixa et aeterna]
順序付けの論点にいま一度目を向けてみよう。自然の形相性全体、自然という範型を諸
、、
観念の導出連関によって全体的に反映するためには、すべてのものの原因である最高完全
な存在者の認識から出発して他の諸観念を導出する必要があるとされていた。さらにスピ
ノザは続ける。「このことから私たちは次のことをみてとることができる。つまり、何より
Vona[1977] p.43.
De Dijn[1986] p.60.
148
この aliquid commune にかんして、De Dijn も本質とみなしている
58
もまず私たちに必要であるのは、なしうるかぎり諸原因の系列にしたがって、ひとつの事
、、
象的存在者[ens reale]から別の事象的存在者へと進むことによって、つねに自然的なもの
[res physica]、いうなら事象的存在者から私たちの観念のすべてを導出すること、そして抽
象的なものと普遍的なものを介することなく、あるいはこれら[抽象普遍的なもの]から事象
的な或るものを結論することなく、あるいはまた事象的な或るものからこれら[抽象普遍的
なもの]を結論することなく導出すること、これである」[99]。ここにもスピノザの抽象的
な認識や普遍的な認識を忌避し、あくまで個別特殊性をねらおうとする意図をみてとれる。
、、
つまり「自然的なもの」や「事象的存在者」といわれるのは、個々の具体的な人間個人に
、、
代表される個別的なものであり、「諸原因の系列」といわれるのは、知性の外なる自然にお
ける個々物の原因‐結果の産出連関という先にみた議論の反復であると考えられることに
、、、、、、
なりそうである。しかしながら、こののちのスピノザの議論は、私たちのこうした予想を
裏切り、これまで『改善論』の議論の中でまったく語られていなかった論点、きわめて形
而上学的な議論へと一挙に跳躍する。「注意しなければならないのは」
、スピノザはいう。
、
私がここで諸原因の系列、また事象的存在者ということによって、変化する個別的なも
、
、、
のどもの系列を知解しているのではなく、そうではなくて確固永遠たるものどもの系列
、、
のみを知解しているということである。というのも、変化する個別的なものの系列をと
らえるのは、人間の弱さにとって不可能であろうから。なぜならそれらのあらゆる数を
、、
超え出る多数性[multitudo]のゆえに、またひとつの同じ[変化する個別的な]ものをめぐ
、、
る諸状況の各々が、当のものが実在すること、あるいは実在しないことの原因でありう
るからである。なぜならそれらの実在はそれらの本質と何の連関も持たない、いうなら
(すでにいったように)永遠真理ではないからである。[100]
、、
私たちが上にみてきたように、スピノザが定議論を導入するのは個別的なものの個別特殊
性の把握をねらってのことであった。けれどもここには問題がある。私たちは或る個別的
、、
なものの個別性、特殊性にどうやって達することができるのだろうか。抽象的・普遍的な
、、
ものと対置されるこうしたものは、本稿で何度も言及しているように、一人の具体的な人
間を考えればよい。スピノザが求めようとしていることは以下のようになるだろう。ある
特定の個人、たとえばペテロを前にして、彼を「人間性」というような抽象普遍概念で捉
えようとするなら、ペテロがあくまでペテロであるゆえんが取りこぼされてしまい、こう
した規定によってはアキレスやユダからペテロを区別することができない。あるいは逆に、
ペテロをアキレスやユダから区別しようと、彼らのあいだでペテロだけが有している特徴
を抜き出して並べ立てることによって彼の個別性を浮き彫りにすることができると考えら
れるかもしれない。けれども先にみたように、スピノザによれば偶有性や特質は問題とな
、、
っている当のものの本質の知に先行すべきものではない[27, 95]。あくまでペテロ個人の具
体的で個別的な本質が求められなければならない。ところがこうした手短な考察からも容
59
易にみてとれるように、Gueroult もいうとおり、
「このような本質がどのような手段によっ
て十全に認識されうるのかを知るという問題は解決不可能に思える149」
。おそらくスピノザ
はこうした問題に意識的であった[cf. 102]。この問題に応答しようと持ち出された概念が、
、、
まさに「確固永遠たるもの」であると考えられるのである。
「可能的」といわれていた実在は、実在しても実在していなくても、その本質に矛盾す
るものではなかった。その実在は外的な諸原因によって規定されているのである。たとえ
ばここにいる私は実在しなかったことも十分に考えられる。私が現に実在していることも
様々な自然の無数の原因結果の連関によって、どういった事態が私の実在の原因となって
いたのかを網羅的に特定することが不可能であるという仕方で規定されている。たしかに
さきにみたように、自然の順序は一定の法則にしたがって連結しているのだが、しかし私
たち人間の認識能力の有限性のために、この順序の項をなしている個別的な出来事を網羅
、、
的に把握することはできない。ところが「永遠真理」ではない個別的なものの実在の把握
は、その(永遠真理である)本質と同時に「自然の順序」への注視を要請していたではな
、、
いか。変化する個別的なものの実在はしかし、その本質と何の連関も持たないといわれる。
さらにこの個別的な本質のほうも、それをねらっていたはずの定議論の理論的困難によっ
て、いかに把握されるべきなのかを理解しがたいように思える。こうなってしまっては、
、、
個別的なものの個別的な本質にかんしても、またそれに密接に関連すべき個別的な実在に
かんしても、ともにその把握が行き詰ることになってしまうのではないか。スピノザはい
、、
、、、、、
う。変化する個別的なものの「系列を私たちが知解する必要もない。というのも変化する
、、
個別的なものの本質は、それらの系列、いうなら実在することの順序から引き出されない
、、
から」[101 強調引用者]である。つまり、個別的なものの本質を理解するためには、個別的
、、
なものの可能的(偶然的)実在が織り成す原因-結果の産出連関のみを追っていっても無
駄であるとスピノザは語っている。そうではなくて、これらの「内的本質はただ確固永遠
、、
、、
たるものどもからのみ」
、「かつ同時に、この[確固永遠たる]もののうちに[…]書き込まれて
いる諸法則からのみ求められ、これらの諸法則にしたがってすべての個別的なもの
[singularia]が生じかつ順序づけられるのである」[ibid.]。
、、
さきにみたように、自然のうちに実在するすべての個別的なものは、一定の法則にした
がった原因‐結果の産出連関、自然の順序によって条件付けられていた。しかしすべての
、、
個別的なものが生じかつ順序づけられるところの法則は、いま検討している箇所ではじめ
、、
て語られるのだが、「確固永遠たるもの」のうちに書き込まれている。問題となっているの
、、、、、、、、、、、、、、、
は、いまや変化する個別的なものそのものの産出連関ではなく、そうではなくて「確固永
、、
、、
遠たるもの」の系列なのである。こうなると、
「確固永遠たるもののうちに書き込まれた諸
、、
、、
法則」(つまり確固永遠たるものと不可分な諸法則)は、個別的なものの実在が認識論的に
も存在論的にも全面的に依拠しなければならない形而上学的原理として提示されていると
、、
考える必要がある。そして個別的なものの内的本質についていえば、今度はこうした諸法
149
Gueroult[1974] p.607.
60
、、
、、
則とは不可分の確固永遠たるものからのみ求められるといわれている。本質一般が永遠真
理であると語られていたのは、まさにこうした事態に根を下ろしていると考えることがで
きよう。
「変化する個別的なもの[singularia]は、こうした確固たるものなしには在ることも
概念されることもできないほどに、内的にそして(いわば)本質的に[essentialiter]それら
、、
に依拠している」[101]。ようするに、変化する個別的なものは、その実在にかんしても、
、、
その認識にかんしても、さらにまた本質にかんしても「確固永遠たるもの」に依存してい
、、
ると考えられる150。したがって、個別的なものの実在と本質をともに包括した仕方で把握
、、
するには、これらの形而上学的原理となっているこの「確固永遠たるもの」とその「諸法
則」を何よりもまず理解しなければならないということになる。
、、
しかしながら、この「確固永遠たるもの」をめぐってスピノザ研究史上これまで数多く
の解釈がなされてきたし、いまだに決定的な解釈が提示されているとはいいがたい。多く
の解釈者たちは『エチカ』における「実体の属性」や「直接・間接無限様態」、さらには「共
、、
通概念」の議論からこの「確固永遠たるもの」を理解しようと努めてきた151。なぜこのよ
、、
、、
Rousset は「確固永遠たるものとその諸法則が変化する個別的なものの内的本質そのも
、、
のである」とまで解釈を推し進め、
「内的本質」が「すべてのものにおいて同一である」と
まで語るが、行き過ぎた解釈であると思われる(Rousset[1992]それぞれ p.400, p.399)。
151 反対に『エチカ』でのこうした存在論的諸概念を理解するための手がかりとして、
『改
、、
善論』の「確固永遠たるもの」を参照する解釈者も多い。以下では解釈者たちの規定を概
略的に参照しよう。
、、
たとえば、
「確固永遠たるもの」が「スピノザ哲学において甚大な重要性を持つ」という
Harris は、これを『エチカ』における神(実体)の属性と無限様態と同定する
(Harris[1973]pp.23-24, p.50, p.100.なお Harris はとりわけて直接無限様態と間接無限様
態を区別していない(cf.pp.57-58)。)
。その内実としては、「区別可能な(けれども分離可
能ではない)有限な部分([有限]様態)からなる具体的で体系的な全体」とし、この意味で
ヘーゲルの「具体的普遍」という概念で説明を与えている(Harris[1973]p.24.)。なお Harris
、、
は別のところで、『改善論』での「確固永遠たるもの」が「個別的なものであるとはいえ
quamvis sint singularia」[101]と語られている箇所にもとづいて、
『エチカ』における実体
、、
をも「現実的で個別的なもの」と規定する(Harris[1986] p.146)。しかし「確固永遠たる
、、
もの」はそもそも『改善論』においてしか語られないし、いまみたようにこの概念はきわ
めて問題的な概念であるため、このような Harris の理解を受け入れることはできない(な
、、
お「確固永遠たるもの」は『改善論』においてつねに複数形で出現する)。Pollock は「確
、、
固永遠たるもの」を「直接・間接無限様態」のみに限定する(Pollock[1880]pp,151-153. た
、、
だし Pollock はこの「確固永遠たるもの」の理解が『エチカ』ではわずかに修正されるとい
、、
うことも示唆している(同書 p.153,n.1))。また、この「確固永遠たるもの」という概念の
登場する数節を「興味深いが難解な数節」という Curley は(Curley[1969]p.67)、この Pollock
の説に属性を付け加えるべきなのではないかと疑念を呈したうえで、「法則論[nomology]」
の観点から考察を加えている(Curley[1969]pp.66-72.)。この Curley の議論を詳細に検討す
る余裕はないが、おおまかにいえば有限様態の存在論的身分を説明するさいに、有限な原
、、
、、
因性(「変化する個別的なもの」)と無限な原因性(「確固永遠たるもの」
)との協同という
論点を補強するというもくろみのもとにこの『改善論』の数節が引かれているといえよう。
150
61
うな手続きをとるのか。その理由は単純である。スピノザ自身が『改善論』においてこの
概念の内実を明確に規定しなかったからである。定義論についてみてきたように、スピノ
、、
ザは確固永遠たるものを定義しようとしていたが、この予定はいったんわきに押しやられ、
知性の定義へと移行していた。そしてこの知性の定義をめぐる循環の中で、『改善論』は未
、、
完のままとどまったのであり、結局のところ確固永遠たるものの定義は与えられることが
なかったのである。それゆえ Mignini のいうように、その内容をはっきりと理解すること
は不可能であるといわなければならない152。
*
『改善論』終盤の知性の諸特質の第一のものとして、「[知性は]確実性を包含する、すな
、、
わち、[知性は]ものが知性のうちに対象的に含まれているとおりに形相的に在ることを識る」
[108]と語られていた。前半の確実性の議論の鍵概念となっていた「対象的本質」というこ
とばはもはやあらわれることなく、
〈対象的に・形相的に〉という対だけが残される。ここ
までの考察から次のようにいうことができよう。つまり、前半の議論では対象の実在はす
でに前提とされており、この点において実在にかんする議論は度外視されていた。けれど
、、
もそれ以降スピノザは「いまだ認識されざるもの」へと知識を拡張する学の説明を自らに
引き受けることになる。こうした未知の対象にかんして、その個別的な実在と本質とをと
もに包括する認識をいかに獲得していくか、これが主眼となっていくと考えられる。上の
対だけが残されたのは、スピノザが対象の本質のみに限らず、実在をも含めた仕方で認識
について語ることをもくろんでいたことに起因すると理解できよう。しかしこのような認
、、
識論は、ものの実在と本質を包括的に説明し基礎付ける存在論をも要請することになるだ
ろう。私たちはまさにこの点にスピノザ形而上学の生成を見届けるのである。「確固永遠た
、、
るもの」という難解な概念の導入は、実にこうした形而上学の生成を画している。けれど
、、
、、
も、1)この「確固永遠たるもの」の系列は、変化する諸々の個別的なものそのものの系列で
、、
はないと語られたわけだから、個別的なものが具体的にはどのような仕方でどのような基
、、
礎のもとでこれら「確固永遠たるもの」に依拠しているのかが示されなければならなかっ
たはずである。けれども『改善論』はこれを説明することなく未完のまま閉じられてしま
、、
このように「確固永遠たるもの」の解釈には振れ幅があるけれども、いずれにせよ多くの
解釈者たちは『エチカ』に登場し『改善論』にはまったくみられない存在論的な概念(属
性や様態)を用いる点では一致している(Gueroult も属性とみなしている(Gueroult[1974]
p.452, n.15))。こうした解釈の方向性にかんする批判は Mason[1986]p.202 にみられる。
、、
Mason によれば、
「確固永遠たるものがスピノザの体系の展開においていかなる役割をはた
すにせよ、[『エチカ』では]論理的地位を持たないように思われる」
(ibid.)。また他の諸解
釈について、Spinoza[1994]pp.112-113, n.100 の Koyré の注を参照。なお「共通概念」と
の連関で読もうとする解釈としては、Lærke[2008]p.578, Rousset[1992]p.9, p.40, p.44,
p.280 参照。
152 Mignini[1990]p.139.
62
、、
う。また、2)永遠真理ではない個別的なものの実在と永遠真理である必然的実在は完全に分
断され、両者がいかなる仕方で連関しているのかという議論は『改善論』には不在である。
この事態は必然的実在の方が積極的な規定を受けないままにとどまっていることに起因す
、、
ると考えられた。さらに、3)個別的なものの個別的実在は、その本質が認識されなくては知
られない[26]といわれ、永遠真理としての本質の認識論的優位がみてとれるが、他方で個別
的実在と個別的本質は密接に呼応しなければならないとも語られる[55]。この議論は定義論
、、
と確固永遠たるものの議論に帰着することになったわけだが、いずれの議論も問題を抱え
、、
ていることを示してきた。 さらに、スピノザが「確固永遠たるもの」についても「個別的」
である[quamvis sint singularia]と形容する[101]のは、あくまで抽象性や普遍性を持ち込む
、、
ことなく、個別的なものの個別特殊性をとらえようとする彼の意図を反映してのことであ
ると考えられるが、しかし私たちは『改善論』のテクストをいくら注意深く追っていって
も、こうした言明によってどのような事態が考えられているのかを読み取ることができな
、、
い。「確固永遠たるもの」の内実はこの点からしてもいたって不明である153。
、、
個別的なものの本質と実在をいかに連関させ、両者を包括的する体系的な理論を与えて
いくか、『エチカ』が引き受けることになる問題はまさにここにある。以上のように、『改
善論』ではスピノザ哲学が取り組む課題の方向性は示されていると考えることができるけ
れども、全体的な結論として次のようにいわなければならない。つまり『改善論』は『エ
チカ』で提示されることになる、精錬された議論そのものを開示しているのではなく、そ
うではなくてあくまでその萌芽を、そしてそれのみを含んでいるとしかいえない、という
ことである154。ここから先で私たちは、
『エチカ』でのスピノザ形而上学の展開をみていく
ことにする。
2)『エチカ』冒頭における定義の問題
、、
『改善論』では個別的なものの本質と実在の連関がきわめて危ういものとなっていた。
このわけは、これらの本質と実在をともに包括的に基礎付ける存在論が展開されなかった
、、
こと、さらに、すべてのものの原因であると考えられる「自己原因」、「必然的実在」が消
極的な規定のままにとどまっていたことに帰されると考えられる。
『エチカ』冒頭の諸定義、
定理 7 までの諸論証、そしてこの定理にさしむけられた備考[E1P8S2]155がねらっているこ
cf. Mignini[1990]pp.138-139
したがって Harris のように『改善論』には「『エチカ』の形而上学が明らかに隠然的に
含まれている」
(Harris[1986]pp.131-132)とする評価は退けられるべきである。なお私た
ちと同様の評価は Mason[1986]p.202 にみられる。
155 この備考は『オランダ語遺稿集』で『ラテン語遺稿集』でも『エチカ』第 1 部定理 8 に
付加されているが、内容的には定理 7 に向けられている。この辺のテクスト事情にかんし
ては、Geb.,Ⅱ,p.346 の Gebhardt の解説、CW, p.412, n.14、Matheron[1988]p.14, n.32
を参照。
153
154
63
と、それはおよそ〈在るもの〉の全領域を尽くす実体の実在と本質の同一性を、論証を介
することによってそれ以外ではありえないという必然性のもとで確立し、これでもって「真
理」の領野を認識論的かつ存在論的に基礎付けること、つまり「真理」の形而上学的基礎
付けである。以下ではこのことの消息を示していく。
問題の所在
「 幾 何 学 的 な 順 序 で 論 証 さ れ た 」 と い う 表 題 を 持 っ た 『 エ チ カ 』 [Ethica ordine
geometorico demonstrata]は、何の序文や導入もなしに 8 つの定義から始まっている。ま
ずはこのことを端的な事実として受け入れる必要があるだろう。ライプニッツがそう考え
たとみなされるように、
『エチカ』の幾何学的な形式を借りた叙述様式が読者の目を欺くも
のであるとして156、この著作の形式そのものに疑義をさしはさむような解釈をとらないか
ぎり、この事実はまさに事実として揺るがない。さらに当のライプニッツそのひとが定義
を哲学の出発点として考えていた時期もあり 157、哲学的探求の出発点としての定義という
問題は、古くアリストテレスにまで淵源する哲学史の観点からしても重要な問題のひとつ
である。それゆえ、この冒頭の諸定義がいかなる性格のものであり、どのような機能を有
しているのかを見定めることは、『エチカ』全体の理解のためにも、何よりもまず考察され
ねばならない重要な問題となる。
『エチカ』冒頭の定義はすべて次の二つの形式のうちのいずれかをとっている。
「~によ
、、
って私は…を知解する」[per~intelligo…]というものと、
「~のものは…といわれる」[ea res
dicitur…quae~]という二つの形式である。この形式だけをみれば、しばしば指摘されるよ
うに、これらの定義はたんに或ることばがのちの論証でどのように使用されるのかを約定
するという意味での名目的定義とみなされ、真偽にかかわりのないものとみなされるので
、、
はないかという疑念が生じる。そうであるとしたら、『エチカ』はものの真理を度外視した
たんなる「言語ゲーム」になってしまうのではないか158。しかしながらスピノザ自身は、
「私
は自らが真の[哲学]を知解していることを知っている」[Ep76, Geb.,Ⅳ,p.320:4]と語ってい
たはずである。それゆえ、定義から出発する諸論証によって織り成される『エチカ』の体
系がいかにして真理にかかわるのかという点が検討されなければならない。このためにも、
まさに論証の出発点とされている定義が、いかなる機能を有しているのかを考察する必要
がある。ところが『エチカ』の内部にこの考察のよりどころを求めようとしても、A. Garrett
のいうように、
「『エチカ』において定義にかんする明示的な論述はほとんどない159」。けれ
Cf. Lærke[2008]p.586.
Lærke[2008]pp.445-458.
158 Parkinson[1990] p.52. また Gueroult[1968] pp.20-21 参照。
159 A. Garrett[2003]p.156. たしかにスピノザは『エチカ』において、本質・本性のみを表
、、
現するという「真の定義」[E1P8S2]、また本質と等置されうる「ものの定義」[E1P16D/
E3P4D]についても語っている(『改善論』の定義論が接続されうるとしたら、まさにこう
156
157
64
ども、定義にかんしてまとまった論述が見出されるテクストが三つ存在する。第一に、『改
善論』の 93 節以降、第二に『デカルトの哲学原理』に付された L. Meyer による序文、そ
して第三に「書簡 9」である。これまで多くの解釈者たちは、とりわけ前二者に立脚して『エ
チカ』の定義を理解しようと努めてきた。しかしながら、第一に、Curley が詳細に検討し
ているように、Meyer による序文がスピノザ自身の幾何学的叙述様式についての理解と全
面的に整合的であるとは言い難く、とりわけ定義の身分にかんしてはこの序文に立脚して
解釈されるべきではない160。第二に、ここまで私たちが詳細に検討したように、『改善論』
の定義論はどれほど控えめにいっても成功しているとは思われない。そもそも、『改善論』
、、
における定義論は大きなもくろみとして個別的なものの個別特殊的本質の把握にこそ向け
られていたのである。『改善論』の定義論と『エチカ』冒頭の諸定義は、私たちのみるとこ
ろ、明らかに議論の水準がことなっているといわなければならない。さらに上野はよりは
っきりと、『改善論』が「まさに定義論で失敗して未完に終わっている」ということを「事
実」として指摘し、さらに『改善論』と「書簡 9」のあいだに「定義の考え方にかんしてド
ラスティックな転回」があったことを示唆している 161。この「転回」にかんする評価は留
保するにせよ、私たちとしても『エチカ』冒頭の定義理解に際して参照すべきテクストは、
Meyer の序文でも『改善論』でもなく、まさにこの書簡でなければならないと考える。と
いうのもこの書簡でスピノザはまさに私たちが問題としたい「論証の原理のうちに数え入
れられる定義の本性について」[Ep8, Geb.,Ⅳ,p.40:17-18]尋ねられており、『エチカ』の諸
した点にかぎってのことであろう)
。けれどもこの本質定義は、論証の出発点として各部(第
5 部を除いた)の冒頭に配される定義と、身分・機能双方において区別されなければならな
い。以下で私たちは論証の出発点となっている定義に的を絞って考察していく。
また Curley(Curley[1986]p.164)が神の定義にかんして真理性を求める解釈の典拠のひと
つとしている Ep2(「…これが神の真なる定義であること…」[Geb.,Ⅳ,p.8:2])は、1661 年 8
月 26 日-9 月 27 日のあいだのものと推定されており(この時期にはまだ『エチカ』の執筆は
未着手であったとする推定がある(Spinoza[2010] p.49,n.1,p.50 欄外注記参照))、ここで提
示されている神の定義と『エチカ』の神の定義(E1Def6)との差異を考えてみても、
『エチカ』
の定義の真理性の典拠とするには問題のある書簡であることは確かである。Cf. Gueroult
[1968] pp.68-69.また上野[2012-1]p.53、注 8 をも参照。
160 Curley[1986]pp.151-160.
Meyer の序文とスピノザその人の思想とのあいだの関係に
ついて、大まかにいえば次の二つの態度がある。第一に、
「この序文はあらかじめ十分スピ
ノザの意を体して書かれ、しかも後でスピノザがそれを読んでさらに注文をつけて一部訂
正させたものであるから(書簡 15)、スピノザ自身の意見が正確に反映していると見てよい」
(岩波文庫版『デカルトの哲学原理』訳者畠中の「解説」p.286.)とみなす立場と、第二に、
この序文に書かれていることがらすべてをそのままに受け取るべきではないとする立場(た
とえば、Curley[1986] pp.152-153, 160 等.また Meshelski[2011] p.215.)である。私たちと
しては、スピノザが「書簡 15」で Meyer に頼んでいるのは、厳密には二点の付加と或る「男
[homunculum]」への非難の箇所の削除だけであり、序文の他のことがらにかんしてスピノ
ザは沈黙しているのだから、少なくともスピノザが実際になした付加と削除以外の修正は
強いてなされる必要がなかったという程度で理解すべきであろう。それゆえ、「スピノザ自
身の意見が正確に反映していると見てよい」とするのは行き過ぎた見解であると思われる。
161 上野[2012-1]それぞれ p.44, p.46。
65
論証の出発点となっている定義がいかなる機能を有しているかということにかんして、ス
ピノザ自身による説明が期待されるからである。
、、
この書簡でスピノザは二つの定義を区別している。つまり、「ものを知性の外に在るとお
、、
りに説明」し、「真でなければならない」定義と、「ものを私たちによって概念されるとお
り に 、 あ る い は 概 念 さ れ う る と お り に 説 明 す る 」 定 義 の 二 つ で あ る [Ep9, Geb.,
Ⅳ,p.43:29-33]。のちに詳しく検討するが、解釈史上ではこの「書簡 9」における定義の二
区分にかんして、その内実についても、またスピノザ自身が『エチカ』においてどちらを
採用しているのかについても大きくことなる理解が存在する。「書簡 9」が慎重に検討され
ねばならないゆえんである。さらにこの書簡の読みにもかかわるのだが、定義そのものが
すでに真理にかかわるのか、あるいはそうでないとしたら定義から出発して構築される『エ
チカ』の体系はいかにして真理にかかわっていくことになるのかを検討する必要がある。
以下の議論は次のような手続きを踏んでなされる。まず 1)「書簡 9」を検討し、そこで提
示されている二種類の定義の内実を考察することで、そのどちらが『エチカ』で採用され
た定義なのかを見定める。ついで 2)『エチカ』での実体の定義をめぐる議論を考察するこ
とで、1)で得られた理解を跡付け、そのうえで『エチカ』冒頭の諸定義が有する機能を一貫
した仕方で提示することを目標とする。3)以上の議論を踏まえて、定義から出発して構築さ
れる『エチカ』の体系が、他ならぬ実体の定義をめぐる議論を介してこそ、真理へとかか
わっていくという点を跡付ける。
1)「書簡 9」
先に簡単に触れたとおり、「論証の原理のうちに数え入れられる定義の本性について」
[Ep8, Geb.,Ⅳ,p.40:17-18]、書簡相手のド・フリースたちから尋ねられたさいのスピノザの
返答が「書簡 9」である。ここでいわれている「原理[principia]」は「はじまり」とも訳す
ことができ、私たちが問題としている『エチカ』冒頭の、論証の出発点となっている定義
の本性にかんして、スピノザ自身の見解が提示されているとみることができる。ここでス
ピノザは以下のように区別を立てている。つまり、定義には二種類あり、一方は「特定の
対象を有しているために真でなければならないが」、他方は「その必要がない」。
「たとえば」、
とスピノザは続ける、
「誰かが私にソロモンの殿堂の構成[descriptio]を尋ねるような場合に
は、その人と意味のないおしゃべりをかわそうと望むのでなければ、私はその殿堂の真の
構 成 を 示 さ ね ば な ら な い 。 と こ ろ が 私 が 何 ら か の 殿 堂 を 心 の う ち で [in mente] 構 想
[concinare]した後、その構成にもとづいて[それを]建てようと望み、これこれの土地やどの
ほどの他の諸々の資材や幾千もの石材を買わなければならないと結論する場合、健全な精
神を持つ人なら、私がきわめて偽なる定義を用いたということを理由に、私が誤って[male]
結論を下したなどというだろうか」[Geb., Ⅳ, p.42:31-p.43:25](以下では簡便のため前者
の定義を A、後者を B とする)。
66
スピノザは A にかんして、
「その本質のみが問われており、本質のみについて疑念の抱か
、、
れているものを説明するために仕える」定義であると語っている[Geb.,Ⅳ,p.42:29-31]が、
この書簡の自筆原稿では、ここでの「本質」という語の箇所にはもともと「私たちの外な
、、
るもの」と書かれており、棒線で消されている162。この異文もふまえれば、A についてそ
れが「特定の対象を有する」と語られていたわけだけれど、より正確には私たちの知性の
、、
外に、私たちの知性とは独立して実在するものを対象とする定義であると理解できる。し
たがってここで例示されている「ソロモンの殿堂」は、或る特定の場所に実在する建築物
であると考えねばならない。A はこの建築物が、たとえば実際にどれほどの敷地を持ち何本
、、
の柱によって構成されているのかを記述するもの、つまり「ものが知性の外に在るとおり
、、
にものを説明し、この場合真でなければならない」定義である[Geb.,Ⅳ,p.43:29]。他方 B の
方はといえば、「何らかの殿堂を心のうちで構想」するという例が示すように、すでに実在
、、
している特定の対象を有しないものにかかわっている。さらにこの定義は「私たちによっ
、、
て概念されるとおりの、あるいは概念されうるとおりのもの」[Geb.,Ⅳ,p.43:33]を説明する
定義であって、「それのみで[absolute]概念される」だけでよく「公理のように真という規
定のもとで[sub ratione veri]」考えられる必要はないといわれる[Geb.,Ⅳ,p.43:35]。
ところで、先に言及したように、これら二つの定義の内実、さらにスピノザ自身が採用
している定義はどちらなのかという点にかんしてもきわめてことなる解釈がある。Curley
は A と B の両者をそれぞれ「事象的定義」[real definition/ definitio rei]と「名目的定義」
[nominal definition/ definitio nominalis]とに同一視しうるとし、これら二種の定義の「伝
統的対立」が「書簡 9 の主題のひとつ」となっているという評価を与える。そのうえで、
「少
なくとも[『エチカ』]冒頭の定義のうちでもっとも重要なものを、名目的というよりも事象
的とみなすべきである」という163。このような理解を押し進めるなら、
『エチカ』の定義は
この書簡で提示される A と同定されることになろう。ところが上野によれば、そもそもこ
の書簡の二区分を事象的/名目的定義の対立として読む理解は、スピノザが実際にいわん
としようとしていたことをとらえそこなっている。上野の議論の要点のみを示せば、ここ
でのスピノザの区別は定義の「使用」にかんする区別なのであって、
「既知の対象を他者に
説明し伝えるための記述としての定義」(A)と「それ自身が試され吟味されるためにのみ
立てられる定義」、私たちの「思考を導き、未知の結論へと至る定義」
(B)との区別が問題
になっているという。さらに上野によれば、スピノザ自身のものは後者の定義 B である164。
はたして私たちは、A と B という両定義をどのように理解すればよいのだろうか。
Curley による解釈の方向性を共有するなら、Macherey のように『エチカ』冒頭の諸定
、、
義が「あるものをそれがあるがままに認識させる」ものであるとする理解が出てくること
162
CW, p.194, n.66.
Curley[1986] pp.158-160.なお「事象的定義」は、複数の解釈者たちによってそれぞれ
、、
若干ことなる規定を与えられているが、多くの場合或るものの本質を記述する定義という
ほどの意味で用いられているということができ、以下本稿でもこの意味で用いる。
164 上野[2012-1]pp.46-48。
163
67
になろう165。くわえてこうした定義理解をしたうえで、
『改善論』で提示される定義論にお
、、
ける言明、すなわち「定義が完全といわれるには、ものの内的本質[intima essentia]を説明
しなければならないであろう」[TIE95]という言明を無批判に受け入れれば、Nadler のよ
、、
うに、正当な定義は「或るものの本質を叙述する」ものである、という解釈も生じてくる
ことになる166。つまりこれらの解釈者たちは、
『エチカ』冒頭の諸定義が、彼らのことばを
もちいるなら、「名目的定義」ではなく「事象的定義」であると考えていることになる。は
たしてそうだろうか。というのも第一に、この二種の定義をそれぞれ「事象的定義」、「名
目的定義」というスピノザ自身が決して用いることのない名称で規定してしまうと、彼自
身が説明しようとしていた問題そのものを見逃してしまうといわなければならない(この
点について私たちは上野の解釈と軌を一にする)167。なぜならここで区別されているのは、
上にみてきたことから明らかなように、すでに実在しているものを記述する定義(A)と、
特定の実在する対象、いいかえれば知性の外なる実在にかかわることなく、そうではなく
、、
てたんに知性の内部で概念可能なものにかかわる定義(B)なのである。さらに、第二に、
この点も上野が正当に述べているように、スピノザは二種のうちの後者の定義の方に多く
の説明を費やしており、この後者こそがスピノザその人の定義理解だとみなすべきである
と考えられる168。この点はしかし、またのちにあらためて検証する。
ところで、
『エチカ』第 1 部冒頭に提示されている諸定義の内実、また導出連関における
その機能がとりわけて問題となるのは、それらが何の序文も導入もなく『エチカ』のまさ
に冒頭に記されているからである。読者は『エチカ』が全体として何について語られてい
る書物であるのかという点について、大方の見通しをも与えられることなく、いきなり諸
定義に直面する。そこでもし、これら諸定義が「書簡 9」の A とみなされねばならないと
、、
でもするなら、たとえば実体の定義 3 は、実体というものが知性の外に実在するとおりに
それを記述する定義であり、したがって真であるとみなされなければならないということ
になろう。しかしながら、『エチカ』のまさに出発点となっている冒頭の諸定義、その中の
実体の定義が、それだけで実体の本質と合致しており、したがって真なるものであるとい
えるのはなぜなのだろうか。こうした事態はいかにして保証されているのか、あるいはそ
もそも保証されうるのだろうか。この点にかんして Nadler は「スピノザは[冒頭の]諸定義
が自明な仕方で真であると考えているように思われる 169」と述べているが、これだけでは
Macherey[1998]p.29, n.1. Macherey は他方で、定義が或る概念の使用の諸規則を規
定する一定数の弁別特徴を際立たせることで、その概念の覆う領域[champ conceptuel]を明
確にするという理解を提示しているにもかかわらず、本文に挙げたような理解をも提示し
ている(同書 pp.28-29.)。
166 Nadler[2006]p.44.
167 名目的定義と事象的定義というアリストテレスに由来するとされる伝統的区別にかん
して、そもそも「スピノザ自身がそのような区別があることに決して気づいてはいなかっ
た」という評価もある(Mesheleski[2011] p.202.)ことに留意すべきだろう。
168 上野[2012-1]p.48。
169 Nadler[2006] p.48.
165
68
定義の真理性が正当化されえないのは明らかである。けれども、複数の解釈者たちが語っ
ているように、冒頭の諸定義にのっけから真理性を認めようとする傾向には一定の理由が
ある。というのも、諸定義が「真理にかかわるからこそ、それらは真理を証明するために
もちいられることができる」ということ、要するに、真理を真理として論証するためには、
その前提となる定義自体が真理にかかわっていなければならないということは、論理的に
みて明らかであるように思われるからである 170。とはいえ、ここまでみてきたように、ス
ピノザ自身の定義とみなされるべきものが「真という規定のもとで」みられる必要はない
とされていたのだから、冒頭の定義に真理性を要求すること自体が問題を外しているとい
わなければならないだろう。かくて、それそのものとしては真という規定のもとでみられ
る必要のない定義から出発する『エチカ』の体系が、いかにして真理にかかわっていくこ
とになるのかという点を検討しなければならない。また以下で詳述することになるが、『エ
チカ』冒頭におけるスピノザの意図は、「書簡 9」の B が示しているように、Macherey や
Nadler のような解釈に反して、定義によってその対象の本質を論証に先立って固定してし
、、、、、、、、、、、
まうことにあるのではない。反対にスピノザのねらいは、対象の本質を固定させることな
、、
しに定義によって被定義項の概念を一義的に定めるという点にこそある。『エチカ』冒頭に
おける実体の議論こそがまさに、私たちのこうした理解にとって決定的と思われる論点を
提供してくれるし、実体こそが真理性を担保すると考えられるため、以下で詳しく検討し
ていこう。
2)実体の定義とその本質:定義の機能
『エチカ』第 1 部定義 3 では以下のようにいわれる。「実体ということによって、私は、
引用文は Gueroult[1968]p.21.(また同様の指摘として Parkinson[1990]pp.49-53.
Curley[1986]p.160.) なお Gueroult の定義解釈にかんしては以下で概説のみを与える。ま
、、
ず彼によれば『エチカ』の定義は「ものの定義」でありかつ「語の定義」である。つまり
、、
対象にかかわり、不可疑的に真で、ものがそれ自身においてあるところのもの[ce que les
choses sont en soi]を記述する定義でありかつ、任意の語について私たちが理解するものを
説明する定義である(Gueroult[1968]pp.20-22.)。この論点にかんする批判は Curley[1986]
pp.159- 169, A. Garrett[2003]pp.149-150 を参照。さらに Gueroult は「発生的定義」とい
、、
う概念を導入するが、その要点は、神から諸々のものが産出される過程をトレースするた
めに、いかにして神を定義すべきかという点にあると思われる(cf.Gueroult[1968]pp.32-33,
36)。『エチカ』で神は 6 番目に定義されるが、それは『エチカ』第 1 部定義 1-5 がこの神
という複雑な構成の対象の、より単純な構成諸要素をあらかじめ規定するためである(同書
pp.37-38)。また『エチカ』第 1 部定義 3 の「実体」は〈唯一属性を持つ実体〉であり、実
体である神は〈無限の属性から構成される実体〉であるとされ、こうなると「実体」概念
の一義性を確保するために、最終的に前者は「実体」の名を拒否されるという(同書 p.55)。
、、
この議論は定義が「ものの定義」かつ「語の定義」でなければならないという先にみた議
論と整合的であるか疑問である。またこの「発生的定義」解釈には「無限に多くの属性が
神において統一される論理は不在である」(柏葉[2002]p.8)。
170
69
それ自身において在り、それ自身によって概念されるもの、いいかえれば、その概念が形
、、
成されるために他のものの概念を要しないもの、と知解する」。さしあたっての係争点は、
はたしてこの定義のみが知性の外に在るとおりの実体の本質を記述し、したがって真であ
るといわれうるかどうか、つまり「書簡 9」の A でありうるかどうかである。
スピノザは〈同一本性あるいは同一属性の二つ、ないし複数の実体はありえない〉とい
、、、、、、、、
、、 、
う第 1 部定理 5 について、実体が「それ自身において考察されれば、いいかえれば(定義 3
、、、 、 、、 、、
と公理 6 より)真に[vere]考察されれば[…]」[強調引用者]という論点を用いることで証明
を行っている。ところで第 1 部公理 6 は「真の観念はその観念対象と合致しなければなら
ない」というものである。つまり、真といわれる事態とはいったいどのような事態を指し
、、、、、、、
ているのかを規定している第 1 部公理 6 をもってはじめて、実体の定義についてその真理
性が語られうるということが示されていると考えられる。したがってこの点からしても冒
、、、、
頭の定義のみにかんして、それが真か偽かを問うことは当を得たことではない。冒頭の定
義群ではそもそも真とはどういう事態であるのかがまだ確定されていないし、問題となっ
てもいない、ということができる。かくして定義そのものが「真という規定のもとで」み
られる必要はない、という「書簡 9」の B の立場こそが、やはりスピノザ自身の立場であ
るとみなすことができる。それでは、実体の定義とその本質はどのような関係にあるのだ
ろうか。この関係を理解するためには、「実体の本性には実在することが属する」という定
理 7 とその証明をおさえる必要がある。というのも、みられるように実体の本性・本質に
属するものである実在がはじめて証明されるのはこの定理においてであり、この点だけか
らしても、冒頭の実体の定義がその本質を定めているものではないと考えられうるからで
ある。とはいえ、この点を明確にし、さらに実体の定義がこの論証のなかでどのような機
能を有しているのかを明らかにするためにも、定理 7 の証明を詳細に検討しなければなら
ない。
この証明は次の三つのステップを踏んでいる。つまり、1)実体は他のものから産出されえ
ない(第 1 部定理 6 系より)、2)よって自己原因ということになろう、3)つまり定義 1 より、
その本性には実在することが属する。それぞれ順を追ってみていこう。まず、ステップ 1
が参照する第 1 部定理 6 系は、
「実体は他のものから産出されえない」というもの。注目し
たいのは背理法による第二証明である。この系の反対の事態を仮定してみる。つまり、実
体が他のものから産出される、いいかえれば他のものが実体の原因となると仮定する。そ
うなると「結果の認識は原因の認識に依存しかつこれを含む」という第 1 部公理 4 より、
結果である実体の認識はその原因、つまり他のものの認識に依存しなければならないとい
、、 、 、、
、、、、、、、、、、
うことになる。「そういうわけで(定義 3 より)[このような実体は]実体ではないというこ
、、、、、
とになろう」[E1P6CD2:強調引用者]。つまり、第 1 部定義 3 によれば、実体はそれ自身に
よって概念され、その概念が形成されるのに他のものの概念を要しないものである。とこ
ろがここでは実体が他のものの認識、その概念に依存すると推論されていた。したがって
、、、、、、、、、、、
このようなものは、実体の定義を踏まえれば、実体とはいえない何ものかであるというこ
70
、、、、、、、
とになる。いいかえれば、他のものの認識、概念に依存するようなものは定義上実体では
、、
ない。要するにこの論証で遂行されているのは、定義で示された実体の概念を一義的に遵
守することで、当の定義で規定されたもの以外の語義をそぎ落としていく、という手続き
である。
さてこうして、実体は他のものから産出されえないということが、冒頭の実体の定義を
厳格に一義的に尊守することで定められた。他のものから産出されえないというのはまた、
他のものが実体の原因となりえないということであり、こうなると論理的に考えれば、実
体は自らが自らの原因となる、つまり「自己原因」とみなされざるをえないということに
なる(ステップ 2)。ところで、
「自己原因」というのは、原因としての自己が結果としての
自己と区別されるということを含意してしまうのか、また自己が原因となって結果として
の自己自身に先立つということになるのか、このような事態は端的に思考不可能ではない
のか。
「自己原因」という語の問題性をめぐって、デカルト、カテルス、アルノーが『省察』
の「第一反論と答弁」と「第四反論と答弁」で繰りひろげた論争が思い出される(この点
は第 4 章で詳細に取り上げることとなる)171。けれどもここでのスピノザの論証において、
「自己原因」という語の理解をめぐる問題が介入する余地はまったくない。というのも、
「自
、、 、、、
己原因」は他でもなく「(定義 1 より)その本質が必然的に実在を含む、いうならその本性
には実在することが属する」[E1P7D:強調引用者](ステップ 3)ものなのであって、この
定義の語義以外のものはあらかじめそぎ落とされているからである。つまり、自己原因と
いうからにはこの冒頭の定義で示される語義のみが理解されなければならないというわけ
である。逆にいえば、冒頭の定義でもってすぐさま自己原因の概念を一義的に定めること
により、この概念に付きまとっていた問題性があらかじめ排除されているのである。かく
て実体の本性には実在することが属するという定理は証明された。ところで、ここまでみ
てきたように実体はいかなる外的原因からも産出されえない。「したがってまたその[実体
の]実在はその本性のみから帰結しなければならず、このため[実体の実在は]その本質に他
、、、、、、、、、
ならない」[E1P11S]。みられるとおり、実体の実在と本質の同一性が肯定されるに至って
いる。つまり、実体の本質が定まるのはようやく第 1 部定理 7 が証明されて以降であって、
それ以前ではないということである。こうなると、第 1 部定義 3 は定義されるものである
実体、その本質を、それのあるがままに示すような定義ではなかったということになる。
そうではなくて、定理 7 までの諸論証においてこの実体の定義が頻繁に用いられることに
より、『エチカ』における「実体」の在り様、その実在と本質の同一性が定まっていくこと
が示すように、被定義項の本質が導出されるために最も有効と考えられる〈論証の出発点
となる定義〉と、論証の手続きを経ることではじめて確立される〈本質〉とを明確に区別
する必要があるといわなければならない。ここまでの議論から、私たちは『エチカ』にお
ける定義の機能を次のように理解することができる。つまり、定義が何の序文もなく論証
171
松田は「自己原因」の定義[E1Def1]の「論理的な身分」が「公理」である(松田[2009]p.268)
としているが、本稿は冒頭の定義群をあくまで定義として一貫して理解する。
71
の出発点に置かれているということは、被定義項の概念を一義的に定め、それ以外の語義
を許容しないという事態をもたらす。スピノザが幾何学的なスタイルをとり、いきなり定
義を掲げているのは、こうした事態を巧みに利用した彼の戦略であるように思われる。す
なわち、『エチカ』冒頭の定義にかけられているのは、被定義項の概念を、その概念領野の
全体ではないにせよ一義的に定め、それ以外の語義をとりのぞき、あるいは当の概念に付
きまとっていた問題性を排除し、それを用いた後続する諸論証を介して徐々に、そして新
たに被定義項の本質を確定させていき、ことばとしては同じ語彙を保持しつつも、全体と
して既存の意味を改変するという戦略である172(「~ということによって私は…を知解する」
という定義の表現上の形式もまた、こうした理解に親和的である)。定義によってその対象
の本質をあらかじめ定め、固定してしまうのではなく、定義を用いた論証を介してはじめ
て当の本質を確定させることによって、問題となる本質を説得的に示すことが主眼となっ
ているのである。そしてこのようにして確定された本質は、論証の網の目をたどってきた
者にとって、それ以外の仕方ではありえないという必然性の相のもとにあらわれることに
なるだろう。スピノザのねらいはまさにここにある。
ところで、以上のような私たちの議論にたいして次のような疑念がうかぶかもしれない。
或る概念に付きまとっていた問題性を排除し、そこで定められたもの以外の語義を許容し
ないという機能を有している定義は、スピノザが自身の体系に都合のよい仕方で独断的に
こしらえたものにすぎないのではないか。読者はなぜそのような定義を受け入れなければ
ならないのか、という疑念である173。このような疑念はしかし、その前提として、定義が
定義対象の本質を即座に定めてしまうものであるという先入見に根ざしているように思わ
れる。けれどもここまで示してきたように、スピノザの定義は被定義項の本質をのっけか
、、、、
ら定めてしまうものではない、という点にその特質がある。定義はあくまで被定義項の概
、、、、、、、、、
念領域(或ることばによって考えられている語義)のみを定める(この意味にかぎれば、
「名
目的」といいたければそれでもよい)ものである。さらにこの語義の内容はスピノザによ
ってまったく独断的に定められているのではなく、スピノザが『エチカ』の主要な読者と
して想定していたであろうデカルト主義者たちにとっても理解可能なものである。たとえ
ば、「自己原因」の定義をひとつとってみても、デカルト哲学において問題含みの概念であ
るとはいえ、
『エチカ』で示されている語義だけをみれば、本質と実在が切り離しえない存
在者である神[cf. ATⅦ243:17-18]と「自己原因」が結び付けられる諸「答弁」の議論を念頭
におけば十分に理解されうる内容となっているということはたしかである。「書簡 9」のこ
とばをいま一度繰り返せば、スピノザの定義は「それのみで概念される」だけでよいもの
なのである[Ep9, Geb.,Ⅳ,p.43:35]。このような機能を持つ定義から出発した諸論証を介し
て、被定義項の本質が定まったとき、たとえば「実体」は、スコラ哲学でもデカルトでも
もちいられる同じことばを保持しつつも、全体としてスピノザ哲学に固有の意味に改変さ
172
173
Cf. Jaquet[2005] p.61, p.63。また Busset[2009] pp.78-79.
同様の疑念を挙げているものとして、A. Garrett[2003]pp.14-18.
72
れることになるのである。
3)実体の定義とその実在:真理性との連関
ここまでみてきたように、冒頭の実体の定義は、被定義項である実体の実在(この実在は
のちの論証によって実体の本質以外の何ものでもないことが示されることになったのだが)
を前提とするものではない。定義の時点ではその実在はいわば宙づりにされており、定理 7
の証明以降の議論をまってはじめて実体の実在がその本質そのものであることが示される
のである。そしてまさに実体の実在が語られてはじめて、
『エチカ』において「真理」概念
が登場する[E1P8S2]というテクスト上の事実に注意しよう。
『エチカ』冒頭の議論がいかに
真理にかかわるのか、またそのさい真理概念の内実はいかなるものであるのか、これを問
うためにも、まずこの定理 8 備考 2 前半の議論を吟味する必要がある。
「諸々のものをその第一原因から認識することを習いとしてこなかった」人々は、スピノ
ザがいうには、実体の様態と実体そのものとを区別せず、
「自然のものが有すると彼らのみ
てとる始源[principium]を実体にも適応」してしまう。したがって彼らは実体がある特定の
時点から実在するようになる174、いいかえれば実体が「創造される」と考えてしまうこと
になる。こうした意見に対してスピノザは、自らが先に立てていた実体の定義をほとんど
そのままの形で175再提示し、この定義通りに実体が一義的に解されねばならないことを論
証の中核に据え、この定義を厳格に守り、それ以外の含意を排することで、
「実体の実在は、
その本質と同じように、永遠の真理である」ということが「必然的に承認されなければな
らない[fatendum]」[強調引用者]ということを示す。つまり、先にみたスピノザの戦略にそ
くしていえば、論証の出発点として一義的に定められた定義を厳密な仕方で論証に運用す
ることで、論証されるべきことがらの必然性を読者に承認させるということがここで実践
されているといえよう。かくてスピノザは、「実体が創造される」と主張することは「偽の
観念が真の観念になった」というに等しいという。つまりその本性に必然的に実在するこ
とが属する実体、それゆえ実在すると以外には考えられない実体(実体の真の観念)が、
もし「創造される」とすれば、実体は或る時点では実在していなかったと考えられること
になる(実体の偽の観念)。要するにここでの「真の観念」は、実体の本性をあるがままに
とらえるという事態を示していると理解できる。けれどもこの備考で語られている真理概
念は、こうした知性の内で思考されたものと、知性の外なる実在とのたんなる合致にとど
174
『オランダ語遺稿集』では同備考中にラテン文にはない「かつて在ることのなかった或
る実体がいま在り始めた」という文が挿入されており、私たちのこの読みを支持するよう
に思われる。Cf. CW, p.414, n.19.
175 「ほとんど」というのは、実体の定義中の conceptus がこの備考では cognitio に変わっ
ているからである(cf. Curley[1969]p.163, n.14)。けれどもこの変更は公理 4 や定理 6 系の
第 2 証明 (定義 3 が用いられる)を介して素描されていたものであり、結局のところ冒頭の
定義が厳密に運用されているからこそ生じた帰結であるといえる。
73
まることなく、さらにそれ以上の実質を示してはいないだろうか。彼が「実体の真理は知
性の外では自己自身の内以外のところにはない[substantiarum veritas extra intellectum
non est, nisi in se ipsius] )」という一見したところとらえがたいことばで示そうとしてい
るのは、まさにこうしたことがらにかかわっていると考えられるのである。そこで最後に
実体の実在をめぐるスピノザの議論を再構成することで、この言明の内実を考えてみたい。
先にみたように「真」といわれる事態は公理 6 で規定されていた。その上でこの公理の
運用をみていくと、[E2P44D/E2P44C2D]「ものを真に(vere)に知得すること」とは、すな
わち「(第 1 部公理 6 より)[ものが]それ自身において在るとおりに知得すること」と置き換
えられる。ところで、
「知性の外」には実体とその諸変状[affections]しかない[E1P4D]。そ
して「すべて在るものは、自らの内に在るか、他のものの内に在る」かのいずれかである
[E1Ax1]。加えて Gueroult のいうように、
〈自らの内に在る〉と〈他のものの内に在る〉の
あいだに中間項は存在しない176。さらに、定義上実体は自らの内に在り、変状すなわち様
態はまさにこの実体の変状に他ならない。したがって変状がそこにおいて在る〈他のもの〉
は実体であることになる。それゆえ実体という概念で掴まれるものは、およそ「在るもの」
の全領域を尽くす。そうなると、〈知性の内〉であれ〈知性の外〉であれ、実体という「在
るもの」の全領域を超え出ることはありえない。つまり実体について真理が語られるとい
うことは、実体が知性の内にあるとおりに知性の外に実在し、かつ、それが知性の外に実
在するとおりに知性の内にあるということが成立しているということ、つまり実体が知性
の内と外とを包括する実在であるということ、このような事態を示しているものと考えら
れる。ここでさらに定理 8 備考 2 で「永遠の真理」という概念があらわれていたことを思
い起こそう。実体の実在は永遠の真理であることが承認されなければならない、スピノザ
はそう語っていた。つまり実体の実在の必然性がひとたび論証されたからには、この論証
ののちにようやく実体が実在しはじめるというのではなく、むしろ永遠の真理として、
「〈以
前〉も〈以後〉もない」[E1P33S2]永遠の実在とみなされなければならない、このようにス
ピノザは考えているように思われる。実体の実在と本質はともに永遠真理である。このこ
とは、また別の観点からいえば、実体(神)の実在も本質も変化しないということ、つま
、、
り不変であるとも表現される[E1P20C2]。真理であるものがもし変化するとでもすれば、
それが偽になるということ、破壊される[destrui]ということに等しい[ibid., E1P17S]。しか
、、、、
し実体の本質と実在は永遠真理である。つまり決して偽に変化することなく、永遠に、必
然的に真である。
「或る本性の実在の絶対的肯定」[E1P8S1]とは、まさにこのような事態を
指すものとも理解できよう。永遠、真理、必然、本質、実在が密接に連関しているのであ
る177。
Gueroult[1968]p.57.
その一連の論考で上野は、
『エチカ』が「「現実」というものに相当する一つの説明モデ
ルを作ろうとしているのだと思う」
(上野[2013]p.76.)と述べ、「現実」ということばを軸
にスピノザ哲学を解釈している。そのさい「真理」概念もこの「現実」と密接に連関づけ
られることになる。「[…]現実は隅から隅まで本当のことである。本当でないなら現実では
176
177
74
ここまでの議論を踏まえて次のように結論できるだろう。実体にかんする真理は実体に
ついて知性の側でのみ言表されうる真理ではなく、それにとどまらず、真理そのものと同
一視されうる永遠の実在を有するものとしての実体が、いわば真理そのものの座として、
実在の全領野を尽くす実体それ自身において持たれる真理なのである 178。いいかえれば、
実体の本質、実在そして真理の同一性が肯定されていると考える必要がある。実体の定義
を出発点とした以上の議論を介してはじめて、
「実体」を対象として措定し、その対象がた
んに知性に内的であるにとどまらず、知性の外に当の対象が実在すること、さらには実体
が実在の全領野を包括する永遠なる真理の座であるということが示され、このことによっ
てこそひるがえって、『エチカ』の諸論証がたんに論理的な、知性に内的なものにとどまる
ものではなく、それ以外ではありえないという必然性のもとで知性の外の実在にかかわっ
ていくという存在論的な地盤が定立されることになるのである。
ここまでの議論を踏まえればさらに、定義から出発し、論証を介して実体の本質と実在
を同一のものとして同時に確立することによって、『エチカ』全体の基礎となる真理の領野
を定立するためには、『エチカ』の幾何学的順序にのっとった叙述様式はどうしても必要な
ものだったのだということができる。したがって Roth のような、この幾何学的様式が「あ
る種の書式[literary form]」に過ぎないという理解179は、断固として排されなければならな
い。
*
かくて実体の本質と実在の同一性が確立され、真理の基盤が措定された。ここからさら
、、
に、いかにして個別的なものの本質と実在がかたられていくことになるのか、これを跡付
ける必要がある。『改善論』においてこの実在と本質を包括的に説明しようという意図のも
、、
とで提示されていた「確固・永遠たるもの」の議論が、原因性の観点から説明を与えよう
としていたことを思い起こすべきである。以下に詳しくみるように、
『エチカ』においても、
、、
まさに原因性の議論こそが、或るものの本質と実在を包括的に説明する装置となっている。
この議論を提示するためにも、まずはここまでみてきた実体が、いかにして原因性という
ない」、つまり「現実」は「真理でできている」
(上野[2013]p.81)。
「真理は、本当、という
ことだ。つまり「そのとおり」ということ、それが真理である。[…]現実はどこもかもが真
理でできている。[…]現実は本当にある。というか、それが現実というものだ。だれも現実
はごまかせない。」
(上野[2012-3]p.40.)。本稿ののちの行論は、こうした上野の「現実」理
解に多くを負っている。
178 Cf. Macherey[1998]p.88, n.1.
179 Roth[1979(1954)]p.37, また p.24 も参照。また「スピノザ哲学の内実と、それが書かれ
ている形式とのあいだには論理的な関係はない」
(Wolfson[1962]vol.1,p.55)。なお『エチカ』
の幾何学的叙述様式がスピノザの体系にとってたんなる「外殻」に過ぎないのか、あるい
はこの様式そのものがその「中核」であるのかという問題をめぐるまとまった解釈史の整
理として、Steenbakkers[1994]pp.139-180 参照。
75
、、 、、
実効力を装備していくのかという点を簡単に跡付けておきたい。自己原因が原因として結
果を産出する力をいかに備えていくか。第 1 部定理 9、定理 10 とその備考は、まさにこう
した議論を展開していると考えられ、この意味で実体=神という等式が確立される第 1 部
定理 11 への移行を画するものであるといえる。
、、
さて、
「各々のものがより多くの事象性ないしは有[realitas aut esse]を持つにつれ、より
、、
多くの属性がそのものに帰される」という第 1 定理 9 の証明は、
「定義 4 から明らか」とい
うそっけないものとなっている180。この定義 4 は次のもの。
「属性ということによって私は、
知性が実体についてその本質を構成すると知得するものを知解する」 181。ここまでみてき
たように、第 1 部定理 8 備考 2 までの議論によって実体の本質と実在の同一性が論証され
た。
「実体の本質を構成するもの」としての属性の身分が確定されていくのは、したがって、
まさにすぐのちに続く定理 9 以降となると考えることができる。属性の多さに応じるとい
、、
、、
われる「事象性ないしは有」、これが帰されるといわれるもの、ここではこのものがまさに
実体である。それではこの属性と「事象性ないしは有」とのかかわりあいは、いかなるこ
とがらを示しているのだろうか。
スピノザによれば、「絶対的に無限な存在者[ens]は必然的に、(定義 6 で示したように)
、、、、、
その各々が永遠かつ無限な一定の本質[certa essentia]を表現する無限の諸属性からなる存
在者と定義されねばならなかった」[E1P10S 強調引用者]。みられるように、各々の属性が
実体の一定の本質を表現するといわれる。その内実は、実体が「或る属性のもとで私たち
に概念されなければならない」[ibid]ということ、たとえば思惟属性のもとで概念されると
、、
いうことと同様である。つまりこの場合実体は思惟という本質を有する「思惟するもの」
[E2P1]としてとらえられているということである。ところで、
「思惟する存在者[ens]がより
、、、、、、、、、
多くを思惟することができればできるほど[potest]、それはそれだけ多くの事象性いうなら
完全性を含む」[E2P1S:強調引用者]といわれ、さらに別のところで完全性と事象性は同じ
ものであるといわれる[E2Def6]。さて、Libera によれば、
「完全性[perfectio]」というラテ
ン語は、ギリシア語での「エンテレケイア」、すなわち「エネルゲイア」とともに「活動実
現状態」を意味することばである182。さらに、強調部の「できる[potest]」は、可能性を、
この定理 9 は『エチカ』ののちの諸論証の中で一度も明示的に引証されないが、その内
容だけをみれば、第 1 部定理 10 備考、定理 11 備考、定理 16 証明の議論の中で重要な役割
を演じている。なお Macherey[1998]pp.91-92,n.3 をも参照。 また証明にかんしては
Macherey のいうように、定理 9 は属性の定義[E1Def4]の「直接的帰結」として肯定されて
おり、定理 10 備考では「自然においてこれ以上に明晰なものはない」と語られ(cf.Macherey
[1998]p.92,n.1)、こうした事情を加味して Gueroult はこの定理 9 を論証の「前提となる補
助定理[Lemme]」であるとまで語っている(Gueroult[1968]p.143, et p.143,n.5)。
181 属性が実体との関係で、どのような存在論的身分を有するのかということをめぐる、
「主
観主義的解釈」と「客観的解釈」のあいだの長く続いた論争については考察の外におく。
これについては Gueroult[1968]pp.428-461、また桂[1956(1991)]pp.117-138、松田[2009]
pp.153-188 参照。なお一口に「主観主義的解釈」といってもさまざまな幅があるというこ
とにかんしては、Eisenberg[1990]が要を得たまとめを提供してくれている。
182 Libera[2004]p.16.
180
76
つまりいつでも実現状態にもたらされるるのだが、いまのところ潜在的な状態にあるとい
うことを示していると考えるべきではない。というのも、スピノザの体系においては何も
のも実現状態にもたらされず潜在的なままにとどまることはないからである(この点はま
たのちにみる183)。いいかえれば、或る時点で活動が実現状態におかれるまでは潜在的なま
まにとどまっているという意味での「能力」なるものは、彼の体系では認められないとい
うことである。この点にかんする傍証として、たとえば思惟の様態である観念が「画板の
上の絵のように黙するもの」ではなく、「知解することそのこと [ipsum intelligere]」
[E2P43S]といったように、動詞の不定形で示されるような活動性そのものとして提示され
、、
ていることをあげることができよう。それゆえ、思惟するものの本質とは、思惟属性のも
、、
とでみられたものが、思惟というはたらきの実現状態にあることそのことをさしている、
このように考えることができる(またこのため本邦のスピノザ研究では potentia に対して、
上にみた意味での「能力」ではなく、はたらきの側面をつよくしめす「力能」という訳語
が採用される。またのちに詳しくみるが、神の本質が力能と同一視され[E1P34]、神の本質
が「活動的本質[essentia actuosa][E2P3S]」とも呼ばれることになるのは、この辺りの事
情のあってのことである)。したがって以上の考察から、
「事象性ないし有」という表現は、
、、
或る特定の属性のもとでつねに活動実現状態にあるものの本質のありかたと理解されよう
184。
しかし Macherey はうえの引用で強調した“certa essentia”を「一定の本質」と訳すこと
に異を唱えている。彼によれば、この訳語を採用した場合、或る特定の属性に固有の事象
性が属性の数だけ考えられることになり、統一性を有し分割されえない実体の本性がこう
した「複数の本質」のために「減退[démultiplier]」させられてしまうと考えられるからで
ある185。しかしながらここまでみてきたことからすれば、たとえば思惟属性のもとで活動
が実現している動的なあり方と、延長属性のもとでの同様のあり方は、互いに排斥しあう
ことなく、同じひとつの実体の本質についていわれる無限の活動状態の諸側面とみなすこ
とができる186。「各々の存在者[ens]は或る属性のもとで概念されなければなら」ず、
「実体
E1P16 の「無限知性によってとらえられうるすべてのもの」が帰結しなければならない
ということにかんして、この表現を Gueroult は、「可能的なもの、すなわち無矛盾的なも
ののすべて」が実在しなければならないということと理解している(Geroult[1968]pp.261
-261)。Matheron は「事象性のすべてにわたる全体的知解可能性[the total intelligibility of
all reality]」をスピノザ哲学における「原理」としてみいだし、ここから「知解可能なもの
すべての完全な実現の必然性」を引き出している(Matheron[1991]p.23)。また「属性は実
現状態[actualité]であって潜在的状態[virtualité]ではない」という Lachiéze-Ley のことば
をも参照(Lachiéze-Ley[1950]p.72)。
184 完全性、事象性、本質の連関を示すテクストとして、
『エチカ』第 4 部序文、
「書簡 19」
(Ep19, Geb.,Ⅳ,p.89:1-4)をも参照。
185 Macherey[1998]p.94,n.1.
、、、、
186 「各々の存在者は何らかの属性のもとで私たちから概念され」
、
「属性は実体に或る一定
、、、
の本性を帰する知性に関係した呼称」であるという「書簡 9」のことばをも参照。それぞれ
183
77
が有するすべての属性は、つねに同時に実体のうちに存」し、また「その各々は実体の事
象性いうなら有を表現する」[E1P10S]といわれるのは、まさにこうした事態をさしている
、、、、
ものと理解できよう。そして第 1 部定義 6 によれば、「絶対的に無限な存在者すなわち[hoc
est]無限の諸属性からなる実体」[強調引用者]は、「神」である。
、、
こうした議論を経たうえで、
「定義されたものの本質がより多くの事象性を含むにつれ」、
知性は「より多くの特質」を結論付ける[E1P16D]といわれる。さらに「神の本性は、(定
義 6 より)その各々がまた自己の類において無限な本質を表現する無限な諸属性を有して
いるのだから、それゆえ神の本性の必然性から、無限のものが無限の仕方で(すなわち無
限知性のもとに捉えられうるすべてのものが)必然的に帰結しなければならない」[ibid.]。
第 4 章で詳しくみていくが、この第 1 部定理 16 は様態の導出、つまり原因としての神=実
体からの結果としての様態の産出のありさまが論証されていく議論の出発点を画する重要
、、
な定理である。
「或るものの定義が与えられれば、知性はそこから多くの特質を導出する」。
この定理の証明はこのように始まっている。そしてこの「定義」は、
「すなわち[hoc est]、
、、
ものの本質そのもの」といいかえられる。私たちは先に『改善論』の定義論においても、
存在論的にも認識論的にも先行すべき本質から、諸々の特質が帰結されなければならない
という議論があるということをみてきた。ところがこの定理以降では、本質(定義)から
、、
導出される「特質」が、原因としての神=実体から「様態」として、
「もの[res]」として産
出されることが主眼となるのである187。ここにスピノザ研究史上の大きな問題が存する。
Ep9, Geb., Ⅳ, p.45:19-20, p.46:22-23.なお Cf. Gueroult[1968]pp.51-52. また Giuseppe
[2012], pp.148-149.
187 書簡相手のひとり、チルンハウス[Tschirnhaus]からの「あなたの論考[『エチカ』]の第
1 部でおそらくもっとも重要な[praecipua]」「定理 16」にかんする問い[Ep82, Geb.,
Ⅳ,p.334:5-6]に対するスピノザの応答をめぐって、Lærke は次のようにいう。
「この定理は、
、、
はっきりみてとれるように、諸々の個別的なものがいかにして神から生じてくるのかを説
、、
明することをねらっている。「ものの特質」という表現はここで、「実体の様態」という意
味で用いられている。しかしスピノザがチルンハウスに答えようと神の定義のみから導出
、、
されうる「諸特質」の例を挙げるとき、その中には様態やもの[という表現]がない。これら
[スピノザが挙げる特質]はむしろ、『短論文』が神の「固有性」と名指しているもの、すな
わち必然的実在、不変性、無限性等に対応している。ようするに、スピノザはチルンハウ
スから提示された問いとは違う問いに答えているのだ!」
(Lærke[2008]p.396)。つまり、
このチルンハウスとの応答をみればスピノザは、第 1 部定理 16 でいわれる結果として産出
される様態としてであれ、神の本質が有するいわばその「ありかた」としての永遠性や無
限性等としてであれ(この点にかんしては「書簡 83」(Ep83, Geb.,Ⅳ,p.335:4-7)を参照)、
、、
いずれにせよ或るものの本質や定義から帰結するものという意味で「特質[proprietas]」を
考えていると思われる。
、、
Deleuze は「特性 propre」と「特質 propriété」を区別し、前者を或るものの本質を構成
することのない当の本質の「ありかた」として、具体的には自己原因であること、無限性
などを考えている(Deleuze[1981]pp.132-133)。けれどもスピノザ自身が無限性や永遠性
を proprietas ということばで表していることはテクスト上明白であり(Ep83 の前掲箇所、
E1App の冒頭を参照)、この Deleuze の区別はいきすぎである。とはいえ様態という結果
78
、、
この問題を Matheron はおよそ次のように明確に提示している。はたして或るものの本質
、、
、、
、、
から多数の特質が帰結するということから、当のものが多数の結果を産出するということ
を導き出すことができるのか。特質と結果とは、「帰結」というカテゴリーに属するという
以外にどのような関係があるというのか。たとえば三角形という幾何学的な図形は、〈内角
、、
の和が二直角に等しい〉という特質を持つけれども、このことはいかなる結果をも産出し
ないはずではないか188。このような問題である。
この問題に対して、私たちはさしあたり次のように答える。ここまで述べてきたように、
神=実体の属性の多さは、事象性・完全性の多さに対応しており、事象性と完全性は、或
、、
るものの本質の活動実現状態を標すことばである。したがって無限の諸属性を有する神=
実体の本質の活動実現状態もまた、無限の力をそなえる力動的なものとして考えることが
できる。この本質の豊かさ、力動的な活動性によって、そこから導出される特質が同時に
、、
またものとしての様態であるという事態、神の本質の原因としての力能が実装されていく
のである。 かくて実体=神が原因性という実行力を備える基盤が整えられる。とはいえ上
の問題に十分にこたえるためには、この原因性の内実を詳細に示していくことで、
『エチカ』
におけるスピノザ形而上学のさらなる展開を跡付けていかなければならない。
、、
として産出されるものと並置されるかぎりでの proprietas と、神の本質のありかたである
無限性や永遠性等をしっかりと分けて考える必要があるのは確かである(Matheron はこの
後者の特質に「分析的特質[les propriétés analytiques]」という名を別個に設けている
(Matheron[1988]p.16, n.45))。そのうえでスピノザ哲学において重要な問題は、いかなる
権利のもとで結果としての様態が論理的帰結と考えられる proprietas と並置されているの
かという問題であり、私たちは本稿でこの問題を検討していく。なお Gueroult は本質の有
する特性[propre]と力能の有する特性を区別している(Gueroult[1968]pp.223-244, p.252)。
188 Matheron[1991]p.23、また同様の問いとして Gueroult[1968]pp.267-268, pp.293-295.
参照。なお Matheron は別のところで、スピノザは特質と結果を混同しているのではなく、
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
「神がすべての属性において、当の属性のもとで概念可能なすべてのものを必然的に産出
、、、、、、、、、
しなければならないという特質を有すること、またこのことがその本性から無媒介に導出
されるということを[E1P16]で彼[スピノザ]は確立しているのである」と解釈している
(Matheron [2011-4]p.589)。つまり、彼の解釈によれば、第 1 部定理 16 でいわれる神の
本性から帰結する諸「特質」が、様態と同一視されるべきではなくて、永遠性や無限性等
の「特質」と同じ資格で「様態を産出する」という「特質」として理解されるべきである
ことになろう。興味深い解釈ではあるが、テクスト上すぐさま支持できない幾分強引な解
釈である。
79
第 4 章:Ratio seu Causa:スピノザ形而上学の展開
「神あるいは自然[Deus seu Natura]」というスピノザ哲学の代名詞ともいえる統語は、
『エチカ』第 4 部序文にはじめてあらわれる。私たちの目はともすればこの統語だけに向
けられてしまいがちだけれども、まさにこの同じ個所にもうひとつの別な統語、すなわち
「理由あるいは原因[Ratio seu causa]」という統語がともにあらわれているのである。
私たちは第 1 部の付録において、自然は目的のためにはたらきをなすのではないという
ことを示した。というのも、私たちが神あるいは自然と呼ぶ、この永遠で無限な存在者
は、それが実在するのと同じ必然性ではたらきをなすからである。
[…]したがって、神
あるいは自然が、なぜはたらきをなすのかということと、それがなぜ実在するのかとい
うことの理由あるいは原因は、ひとつで同じである。[E4Praef]
「理由あるいは原因」。以下ではまずこの統語の両項をなす「原因」と「理由」概念の異
動を問う Carraud の重要な解釈を批判的に検討することで、この統語がまきこまれている
問題性の領野を彫琢することからこの章の議論をはじめよう。
Carraud は原因と理由の分節、異同を問うさいに、作用因と形相因の区別から論点を引
き出している189。彼の解釈を簡単にまとめれば以下のようになろう。「理由あるいは原因」
という統語は『エチカ』第 1 部定理 11 証明 2 に頻出する。ところで、
「作用因」という概
念は、様態にかかわる議論190が導入される第 1 部定理 16 系ではじめてあらわれる。という
ことは、作用因という原因性が規定される以前に問題の統語が語られていることになり、
この統語の内実は作用因とは(さしあたり)別の原因性に求められそうである。Carraud
によれば、この別の原因性とは、「自己原因」を範型とする「形相因」に求められるべきで
、、
あり、その内実は、本質と実在の包含関係[implication]、さらにいえば、或るものの本質か
らその諸特質を導出可能にするような原因性である 191。したがって、「『エチカ』における
「原因」を根本的に思考可能にしているのは「理由」であって、いいかえると原因の第一
の意味は形相因である192」といわれる。みられるとおり、Carraud は自己原因を重視し、
Gueroult もこの二つの概念を原因と理由の理解に取り入れている。彼はとりわけ、第 1
部定理 16 と定理 16 系 1 について、前者のうちにあらわれる「帰結する[sequi]」という
語と、後者の「作用因」という語に焦点を当て、“sequitur”のほうが論理的な「帰結関係
[consécution]」を示し、
「作用因」は「結果の産出[effectuation]」を示すとしたうえで、
両者をそれぞれ「形相因(理由)」と「作用因(原因)」に置き換える(Gueroult[1968]p.248,
、、
250.)。さらに「形相因」の規定としては、或るものの「概念の発生を可能にすることで、
、、
当のものの知解可能性を可能にする」という理解を与えている(p.175.)。
190 Cf. Carraud[2002]pp. 305-306.
191 Cf. Carraud[2002] p.313, p.320, p.323, p.326.
192 Carraud[2002] p.319.
189
80
本質と実在の包含関係を示すとされる形相因を原因性の範型とし、さらにこの形相因を「理
由」と等置している。こうなると「理由あるいは原因」という統語は「優先的に神にかか
わる193」ということになる。
こうした解釈ははたして正当だろうか。A)たしかに『エチカ』において、
「神が自己原因
、、
であるといわれるその意味において[eo sensu quo]、神はすべてのものの原因である」と
いわれる[E1P25S]。この点において自己原因が『エチカ』における原因性の範型とみなさ
れているということは正しいように思われる。けれども、この「意味」とはどのような意
味だろうか(この点はのちに検討する)。B)「形相因」という概念は『エチカ』においてわ
ずかに二度あらわれるのみであり[E5P31/D]、「十全な原因」と等置されている[E5P31D]。
さらにスピノザはこの「十全な原因」を定義して以下のようにいう。
「十全な原因と私が呼
ぶのは、その結果が当の原因によって明晰かつ判然と知得されることのできる原因である」
[E3Def1]。スピノザ自身の語らない、本質と実在の包含関係を示すとされる形相因を解釈
に導入する正当性は乏しい。さらにいえば、本質からの諸特質の導出を旨とする形相因が
、、
『エチカ』の原因性を支配しているとでもするなら、先にみた「もの」としての様態の産
出の問題はこのような理解にとって解きがたいものとなってしまうだろう。それゆえこの
ような形相因概念の導入は、正当性が乏しいどころかむしろ問題をより大きくしてしまう
という点で徹して廃されるべきである。C)「理由あるいは原因」という統語を神にひきつ
けすぎではないだろうか。この理解によって見失われてしまう論点はないのだろうか(こ
の点はのちに検討する)
。
ところでさきに述べたように、
「理由あるいは原因」という表現が頻出するのは第 1 部定
理 11 証明 2 においてであって、そこでは神が必然的に実在する、ということが証明されて
、、
いる。この証明は次のように始まる。「すべてのものには、それがなぜ実在するのか、それ
がなぜ実在しないのかについての原因あるいは理由が定められなければならない」。原因あ
るいは理由。この両者の異同に探りを入れるためにも、またいま問題にした諸論点を検討
するためにも、さらにこの統語がまきこまれている問題性全体を見通すためにも、この統
語の来歴を訪ねてみる必要がある。そのさい決定的な参照点となるのは、『デカルトの哲学
原理』第 1 部公理 11 である。「それがなぜ実在するかの原因(あるいは理由)が、いった
、、
いどのようなものかが問われえないいかなるものも実在しない」。そしてスピノザはいう。
「デカルトの公理 1 を見よ」。ここでスピノザが参照をうながしている「デカルトの公理 1」
とは、
『省察』
「第二答弁」末尾に付された「諸根拠[Rationes]」で提示されている「公理
1」である。デカルトはそこで次のようにいう。
それがなぜ実在するのかの原因がいったいどのようなものであるかが問われえないい
、、
かなるものも実在しない。というのもこのことは神自身についても問われうるからであ
るが、だからといってそれは、神が実在するために何らかの原因を要するということで
193
Carraud[2002], p.340.
81
はなくて、その本性の広大無辺性そのものが、神が実在するためにいかなる原因をも要
しないということの原因いうなら理由[causa sive ratio]だからなのである。[ATⅦ
164:28-165:3]
ようするに、
「原因あるいは理由」という統語の由来はまさにここ、この統語を哲学史上
はじめて用いたとされるデカルト194による定式化のうちにある。私たちはさしあたりこの
統語の来歴をたずねてデカルトに行き当たったわけだけれど、このことはしかし、たんな
ることばの由来のみをたずねることにとどまらず、この統語が引き連れている問題性の所
在、自己原因‐本質‐実在‐作用因‐形相因‐原因‐理由という概念連関をも示してくれ
るので、少し立ち入って考察してみよう。
1) 問題の所在:デカルトにおける causa sive ratio
スピノザはいまあげた公理を『デカルトの哲学原理』第 1 部の公理群の最後においてい
るが、デカルトその人のものは「諸根拠」の最初の公理として掲げられている。この点に
かんして Gueroult は、「スピノザはデカルトが開始したところで終える、すなわち、原因
性の原理の普遍的定式化で終える」と記している195。つまり Gueroult はデカルトとスピノ
ザのそれぞれの公理にかんして、それが「原因性の原理の普遍的定式化」という点で一致
していると考えていることになる196。この点はそうかもしれない。けれども、両者のそれ
ぞれの公理には重大な差異が示されてはいないだろうか 197。この差異の考察に進む前に、
とはいえ私たちは、そもそもデカルトの公理 1 に含まれる「原因いうなら理由」という統
語がはらむ問題性をおさえる必要がある。まずさしあたり Carraud のいうとおり、原因と
等置されうるのは理由一般ではなく、ただ神だけが例外として原因を要しない、という理
由だけであるということが注意されるべきである198。ようするに、デカルトにおいてこの
統語が成り立つのは神にかんしてのみである199。
Cf. Carraud[2002], p.30.
Gueroult[1970]pp.72-73.
196 Marion はデカルトの公理と「理由あるいは原因」という『エチカ』第 1 部定理 11 証明
2 に頻出する統語が、「同じ原理」を示していると解し、この原理の内実を次のように定式
化する。つまり、実在は原因性を媒介してのみ、原因性が実在を説明する[rendre raison
(理由を与える)]という仕方で確立され、この要求は神の実在を含め例外なしにすべての
、、
実在するものへと適応されるという。Marion[1990]p.229.Carraud もこの「原理」にかん
して同様の理解を示している。Carraud[2002] p.304.
197 Ramond はこの二つのテクストの異同にかんして、
「スピノザの方のものは、軽く変え
られており、とりわけ省略されている」という程度でのみとらえている。この理解が不十
分なものであるということは本稿の議論が示していくことになろう。Ramond[1998] pp.28
-29, n.4.
198 Carraud[2002] pp.261-261.
199 Carraud[2002]p.248, p.262. また村上[2005]p.191。さらに ATⅦ108:18-22, 236:9-10,
194
195
82
神にかんしてのみ「原因いうなら理由」という統語が語られるのは、神の実在について、
その原因を問うさいの問題性に起因していると考えられる。この問題性は、つきつめれば、
、、
すべてのものについてその実在の原因を問うことができ、そのさいに問われるべき原因は、
第一義的には作用因であって[cf. ATⅦ108:18-22]、そのうえで神の実在についてもなお原
因が問われ、神が「自己原因」
[cf. ATⅦ109:6]とまでいわれること、この点に帰着すると
思われる。というのも、
「第 1 反論と答弁」「第 4 反論と答弁」での反論者たち(カテルス
/アルノー)とデカルトの議論を追っていくと、作用因にかんして、1)作用因は時間の観点
からしてその結果に先立つこと、2)作用因はその結果とことなり区別されること[以上二点
ATⅦ239:26-240:1 参照]
、3)現実的な実在と本質が区別されうるものだけが作用因を要する
こと[ATⅦ213:14-16]、4)作用因は実在にのみかかわり、本質にはかかわらないこと[cf. AT
Ⅶ243:8-9]、この四点の理解を抽出することができ、そうなるとそれぞれに 1’)「自己原因」
は時間的に自己自身に先立つことになる、2’)「自己原因」は自己自身とことなり、区別さ
れることになる、3’)4’)神においては本質と実在は区別されない[cf. ATⅦ243:17-18]とい
う問題が生じることになるからである。こうした問題もあってか、デカルトは一方で神が
自らの作用因であるということを明白に否定する[cf. ATⅦ235:20-21/236:4-5]し、「自己
原因」は作用因にかんして理解されえないと明言してさえいる[ATⅦ236:7-8]。けれども
他方で、それでもなお神についても作用因を問うことができ[cf. ATⅦ243:18-19]、「いわ
ば作用因[quasi causa efficiens]と呼ばれうる」
[ATⅦ243:26]とまで語られ、あくまで
デカルトは神についての原因性をも作用因の名のもとで論じようとしている。彼が作用因
の名を保持しようとするのは、さしあたりデカルト哲学において原因性が基本的に、アリ
ストテレス由来の四原因のうちで作用因のみに還元される 200、あるいは少なくとも、作用
因が原因性の中心的役割を担っていることによるものであると思われる。加えてデカルト
はいう。作用因の考察は、「私たちが神の実在を証明するために有している、唯一のとはい
わないまでも、第一の主要な手段である」[ATⅦ238:11-13]201。デカルトがこのように作
用因に固執する理由、さらにこの原因性の内実を、彼の議論をより詳細に追うことで明確
化してみよう。
、、
神の実在証明を注意深く遂行するためには、
「すべてのものどもの、神自身についてさえ
[etiam ipsius Dei]、その作用因を問う」ことから出発する必要がある[ATⅦ238:14-17]。
、、
そしてそのより具体的な問いかけは以下のようにいわれる。「各々のものについて、それが
236:10-13 参照。
200 Olivo[1997]pp.91-105, p.91.また Kambouchner et Buzon[2011]p. 13-14.さらに、
Marion[1976]p.454.参照。
201 もちろん作用因の考察から自己原因へと逢着することになるこのデカルトの議論は、結
果(神の観念を有する「私」の実在)から出発してその原因を探求する途、いわゆるア・
ポステリオリな証明の文脈で語られている。この点にかんして、たとえば Rodis-Lewis
[1971]t. 1, pp.291-302.参照。
「「自己原因」の発見は「ア・ポステリオリ」な途を仕上げる」
p.301.
83
自らに依って[a se]在るのか、それとも他のものに依って[ab alio]在るのか」[ATⅦ
、、
238:18-19]。この問いかけが、神の実在を問い求める、そのただなかで問われている問い
、、
、
であることを忘れてはならない。つまり、各々のものについて問われているのは、その実
、、、、
在の原因に他ならないということである。そういうわけで、デカルトにとっても作用因と
、、
は或るものの実在の原因である、ということが明確になる。ところで、「他のものに依って
、、
、、
在る」ものの実在の原因、作用因は、当のものそのものとはことなるものであるわけだか
ら、先にみた作用因にかんする諸問題(1)2))の生じる余地はない。問題なのは「自らに
、、
依って」実在するものの実在の原因、作用因なのである。実在の原因を担うのが作用因に
他ならないからこそ、デカルトは「自らに依って」実在するところの神についてさえ、あ
くまで作用因という名のもとで考察を進めるわけだし、
「私は或るものが自己自身の作用因
であることが不可能である、とはいわなかった」[ATⅦ108:7-8]と、かなり微妙な表現を
もちいてもなお、作用因という名をとどめようとしたのだと思われる。しかしながらやは
り、作用因の本来的な意味に、それの生み出す結果とはことなり区別されるということが
含まれる以上[ad rationem efficientis ut diversa sit a suo effectu[ATⅦ243:1-2]]、先に
みた諸問題(1)2)202)を避けることはできないであろう。そこでこうした諸問題を回避し、さ
らになおも実在の原因である作用因を保持するために、デカルトは以下でみる「アナロギ
ア」、「理由」、「形相因」等の概念を提示することになったのだと思われる。それゆえ、実
、、
在の原因である作用因は、神をも含めておよそ実在するものすべてに貫徹されているので
あり、神の実在には原因がない、いうなら神は作用因を有せず、それを補うかたちで「理
由」あるいは「形相因」が導入された203、とする理解は、それだけでは不十分なものであ
、、
って、あくまで実在の原因の探求は実在するものすべてに例外なく完遂されるといわなけ
ればならない。もし例外ということばをあえてもちいるなら、それは神が自らの実在の原
因であるそのありかただけである204。そこで次に、このありかたとはどのようなありかた
であるのかが問われる必要がある。
、、
或るものの作用因はその実在にかんしてのみ問われるのであって、本質にかんしてはそ
うではない、というアルノーの主張に対して[ATⅦ243:8-9]
(先にみた諸問題 3)4)に対応)、
デカルトはいう。「なぜ神が実在するのかを問う者に対し、たしかに本来的にいわれた作用
1)についてデカルトは「本来的に[作用因が]原因というありかた[ratio]を有するのは、
ただそれが結果を産出しつつあるかぎりにおいてのみであり、したがって作用因は結果よ
りも先にあるものではない」[ATⅦ108:16-18]、「作用因は結果を産出しつつあるかぎりで
のみ原因の資格を有する」[ATⅦ240:7-8]として、彼自身の作用因理解を置き換えようと試
みもする。けれども 2)については、
「[作用因はその結果とは区別されるという]他の条件も
またとりさられることができない、ということからは、[神においては]ただ本来的にいわれ
た作用因はない、とだけ推断されねばならない、ということについて私は譲歩する」[ATⅦ
240:9-11]として、その困難を認めてもいる。
203 こうした理解は以下のものにみられる。Marion[2004]pp.115-116. Marion[1994]p.318.
Carraud[2002]p.317.
204 Cf. Gouhier[1962(1969)]p.221.
202
84
、、
因によって答えられるべきではなく、そうではなくてただものの本質そのもの、いうなら
形相因によってのみ答えられるべきであり、[この本質/形相因は]神において実在が本質
から区別されないというまさにこのことのために、作用因との大きなアナロギアを有して
おり、このため作用因のようなもの[quasi causa efficiens]と呼ばれうる」
[ATⅦ243:21-26]。
、、
神も実在するものである。それゆえその実在の原因、作用因が問われうる。ところで神に
おいて、実在はその本質から区別されない。また神の本質(「広大無辺な本質」
[ATⅦ241:2-4]、
「力能の、いうなら本質の広大無辺性」
[ATⅦ237:1])が形相因といわれるとき、この形相
因は、
「或る認識がそこから引き出されるところの諸原因[causis ex quibus aliqua cognitio
peti possit: ATⅦ242:22-23]」にかかわる原因性であるといわれる。つまり、デカルトがあ
えて aition、archē というギリシア語[ATⅦ237:27]と並べて、principium というラテン
語[ibid. et ATⅦ242:8-9]を記している意図をもくみとって敷衍すれば、神が実在する、
、、、、、
という認識がそこから引き出されるところの、そのもとのもの、始源が、神の本質そのも
のに他ならないということを、彼はいおうとしていると考えられる 205。かくて神に限って
いえば、その実在にかんする原因性は「神の本質に内在的な原因性 206」となるということ
もできるだろう。
、、
まとめよう。デカルトは実在するすべてのものについて、例外なしにその原因、つまり
作用因を措定する。けれども神に限っていえば、端的に作用因が語られるわけではなく、
アナロギアを介して「原因」(作用因)と「理由」(形相因/本質)が結び付けられる 207。
神においてのみ、本質と実在が区別されないからである。デカルトが神にかんしてのみ「原
因いうなら理由」と語ったのはまさにこうしたことがらのゆえであって、さらにその内実
、、
とはいえば、被造物・有限存在の原因性(「それなしには有限なものが在りえないところの
作用因」[ATⅦ236:23-24])と、神の原因性(作用因と形相因のアナロギア/本質に内在的
な原因性)とのあいだに、ともに実在の原因が問われているとはいえ、同質性がない、と
いうことを示すものとして理解することができるだろう 208。ひとことでいえば、実在の原
因は多義的なのである。
ここまでみてきたように、「原因いうなら理由」という統語をめぐるデカルトの議論は非
常に込み入ったものとなっている。このわけは、上にみた諸問題が生じるもとともなって
、、
いる作用因という原因性の規定、さらにはこの作用因が或るものの実在の原因探求のモデ
ルとなっているということに求められよう。加えて、自己原因へと終着することになる神
の実在の原因探求が経ている問いの過程、すなわち、神の実在の原因(これは結局のとこ
Aition(aitia)にかんして、たとえば Frede[1980]、とりわけ pp.222-223 を参照。
Gouhier[1962(1969)]217. また Lachiéze-Rey[1950]p.24 et n.1 参照。なお「形相因」
はスコラ的区分において「内的原因」とも呼ばれる。Cf. Suarez[1965]Disp. 16, Sec. 1, 4. ま
た Heereboord[1658]L. 1, Cap. 15 et 16 参照。デカルト自身も「形相因」にかんして、
「ア
リストテレスを踏襲している[Aristotelis vestigia... sequor : ATⅦ242 :16]」という。
207 Cf. Carraud[2002]p.324.
208 Cf. Lachiéze-Rey[1950]pp.24-25.
205
206
85
ろその本質に帰されることになるわけだが)をその作用因を問うことから出発して探求し、
神が実在するという認識が得られる原因、すなわち形相因(いうなら理由[ATⅦ236:21-23])
へと至るという、この問いのステップに起因する、神の実在の原因(作用因)とその本質
(形相因)との微妙なズレを指摘することができよう。別様にいいなおせば、神の実在の
、、
原因探求が、神が実在するという認識の得られる原因=理由=始源としての神の本質へと
、、、、
至りつくということであり、すなわち神の本質がその実在の究極的根拠となっているとい
うこともできよう。ところで、こうしたズレはまた、作用因が実在にかんしてのみ問われ
ることができ、本質にかんしては問われえないとする理解[cf. ATⅦ243:8-9]に起因して
いるとも考えられる。つまり、実在にかんする原因性(作用因)と本質にかんする原因性
(形相因)とのあいだにも同質性がなく、それでもなお両者を関係付けるために(神におい
ては本質と実在が区別されないがゆえに)「アナロギア」が導入されたと理解できよう。さ
らに、作用因は「厳密には有限なものにおいてのみ行使される 209」のだから、自己原因を
、、
めぐるこのデカルトの議論は、有限なものの原因性をモデルに進められているといえるこ
とになる。加えて、この議論は結果から出発してその原因を探求するア・ポステリオリな
議論の延長線上にあることも思い起こされるべきである210。さらにデカルトは或る箇所で、
「なぜ神が在り続けてきたか、ということの原因」として、神の有する「広大無辺で包括
的に理解することのできない[incomprehensibilis]力能」[ATⅦ110:26-27]に言及している。
先にあげておいた「力能の、いうなら本質の広大無辺性」
[ATⅦ237:1]という表現と合わ
せて理解すれば、神の実在の究極的根拠が、神の本質と力能の包括的理解の不可能性へと
送り返されると解釈することも可能である。デカルトにあって自己原因は、「神の汲みつく
しえない力能[inexhausta potentia]が、そのために[神が]原因を要しないということの原因
いうなら理由であるということ211」[ATⅦ236:8-10]として提示されるのである。のちにみ
ることになるが、スピノザはこれらの論点のすべてに対立することになる。
2) スピノザにおける原因と理由
ここで先にあげておいたスピノザの公理に立ち戻ろう。再度引用すれば、スピノザは以
下のように公理を立てていた。
それがなぜ実在するのか、という原因(あるいは理由)が一体どのようなものであるか
、、
が問われえないいかなるものも実在しない。デカルトの公理 1 を見よ。
Marion[1996]p.178.
注 201 参照。
211 また引用箇所に続く「この汲みつくしえない力能、いうなら本質の広大無辺性」[ATⅦ
236 :10-11]という表現をも参照。
209
210
86
ここまでみてきたデカルトの議論との対照でまず注目されるのは、デカルトが意図的に神
にかんしてのみ割り当てていた「原因いうなら理由」という統語が、文面から明らかなよ
、、、、、、、、、、
うに、実在するすべてのものに押し広げられているということである。デカルトにあって
「原因いうなら理由」という統語にかかわる議論、神の実在の原因をその作用因を問うこ
とから出発して自己原因概念に逢着することになる議論が、結果的に被造物・有限存在の
原因性と神の原因性との異質性を示すものとして理解されたが、これに反してスピノザの
、、
公理は、同じ統語を、有限存在をも含めた実在するもの一般に押し及ぼすことで、実在に
かんする原因が有限存在と神とで別物ではないということを示唆しているとみなすことが
できるように思われる。のちに詳しくみるが、
『エチカ』では「神が自己原因であるといわ
、、
れるその意味において[eo sensu quo]、神はすべてのもの[omunium rerum]の原因であ
る」といわれる[E1P25S]。つまり『エチカ』では自己原因から出発して、さらに自己原因
、、
という原因性をモデルとして、有限存在をも含めたすべてのものの原因が理解される必要
がある212、ということであり、こうなると有限存在の原因性と神の原因性とがまったく同
質的なものとして理解できることになるように思われる。デカルトの「アナロギア」、原因
の多義性に反して、スピノザにおける「原因の一義性213」が語りうるのはさしあたりこう
、、
した論点にかんしてであろう。さらにこの同じ論点から、
『エチカ』におけるものの実在の
原因の探求が、デカルトのように作用因からではなく、自己原因から出発してなされてい
ると考えることができるのではないだろうか。とはいえ、私たちはまず自己原因という原
因性の内実を明らかにしなければならない。
2-1) Causa sui
ところで、この公理にスピノザが付した説明のようなものに重要な論点が見出される。
引用しよう。
実在するということは積極的なことなのだから、私たちは、それが無を原因とするとい
うことはできない(公理 7 より)。したがって私たちは、なぜ実在するのかという或る積
極的な原因あるいは理由をあげなければならない。そしてこの原因あるいは理由は、外
、、
、、
的、すなわちもの自身の外部にあるか、内的、すなわち実在しているもの自身の本性と
定義のうちに含まれているかである。[PPC1Ax11, Geb.,Ⅰ,p.158: 5-9]214
、、
たしかに、有限存在、神をも含めすべて実在するものの実在の原因は両者で別物ではない、
という見通しを立てることができたけれど、しかしこの実在の原因の所在はここではっき
Cf. Marion[1990] pp.235-236. また Lærke[2009] p.184.
Deleuze[1968]p.58, p.150. また鈴木[2005] p.171 参照。
214この箇所は原典イタリック。
212
213
87
、、
りと区別されている。すなわち、実在しているものの本性・定義に外的であるか内的であ
るか、そこに含まれているか否か、である。問われているのが実在の原因・理由であるこ
とをまずは確認しよう。そのうえでこの言明をどのように理解すればよいかが問題となる。
スピノザにおいてもなお、内的な原因性と外的な原因性という二つの異質な原因性がある
ということだろうか。とはいえ、『デカルトの哲学原理』ではこの言明の内実は展開されて
いない。けれどこれとほぼ同様の文言が『エチカ』第 1 部定理 8 備考 2 に見出されるため、
私たちは再び『エチカ』の議論に立ちもどって検討することにしよう。
、、
、、
そのために或るものが実在するところのこの原因は、実在するものの本性そのものと定
義のうちに含まれていなければならないか(明らかにこれはその本性に実在することが
属するということである)、その外になければならない。
この備考内でも語られているように、その本性に実在することが属するものは実体である。
このことは第 1 部定理 7 で証明されており、この証明で自己原因の定義が引照されている
ということもあるので、実在の原因が本性に内的であるといわれるのはどういった事態を
指しているのかを検討するためにも、また自己原因という原因性の内実に探りを入れるた
めにも、まずはこの定理を吟味する必要がある。この定理は先に実体の実在証明にかんし
てすでに論じたものではあるが、以下では原因性に焦点を当てることで再び詳細に取り上
げなおす。
第 1 部定理 7 の証明において、
『エチカ』冒頭で別個に定義されていた自己原因[E1Def1]
と実体[E1Def3]がはじめて結び付けられる。自己原因の定義は「自己原因ということによ
って私は、その本質が実在を含むもの、あるいはその本性が実在すると以外には概念され
えないものと知解する」[E1Def1]というものであり、この定義だけでは自己原因が原因と
してどのようにはたらきをなすのか、いいかえれば自己原因という原因性の内実をみてと
ることはできない。さしあたりこの定義のみからわかるのは、本質が実在を含むという両
者の関係、さらにこの関係がどのように理解されるべきであるかということ、すなわちそ
の本質/本性が実在すると以外には概念されえない、ということである。ところで Deleuze
、、
もいうように、「あらゆる本質は何らかのものの本質である215」。この定義ではもっぱら形
式的に「id cujus」という表現で示されているものこそが、自己原因と解されるにふさわし
、、
、、
いものであるはずである。実体こそがこのものである、ということを証すこと、これが定
理 7 の証明の中核になっていると考えられる。証明の手続きをみよう。
「実体は他のものか
ら産出されえない(定理 6 系より)
、かくして[実体は]自己原因であることになろう[erit]」。
他のものから産出されえないというのは、定理 6 証明のことばを借りれば、
〈他のもの〉が
実体の原因であることはできないということであり(したがって〈A が B から産出される〉
という表現と、
〈B は A の原因である〉という表現は等置される)、そうなると未来形の erit
215
Deleuze[1968]p. 175.
88
が示唆するように、論理的に考えれば実体は自らが自らの原因である、つまり自己原因と
みなされざるを得ない、このように推論されていると思われる。そして自己原因は、
、、、、
「(E1Def1 より)その本質が必然的に実在を含むものである」[強調引用者]といわれる。こ
、、、、
こには先の定義 1 にはみられなかった副詞、
「必然的に」という語がごく当然のようにあら
われている216。議論のカギを握るのはまさにこの「必然」性である。
、、
、、
先にみたように、或るものの実在の原因は実在するものの本性そのものと定義のうちに
含まれていなければならないか、その外になければならない。実在の原因の所在はこのよ
うに二者択一である。ところで、定理 11 備考によれば、実体はどんな外的原因からも産出
されえない(定理 6 より。なおここでの外的原因は定理 6 における「他のもの」となるは
ずである)。したがって実体の実在の原因は実体の本性そのものと定義のうちに含まれてい
、、、、、、、、、、、
なければならず、それ以外ではありえない。これが「必然的に」という副詞の意味合いで
、、、、
あると思われる。そう思ってみれば、定義 1 のなかの「その本性が実在すると以外には概
、、
念されえない[cujus natura non potest concipi, nisi existens:強調引用者]という表現が、そ
れ以外の仕方では概念されえないという仕方で、この必然性をすでに含意していたとみる
、、
、、
こともできよう。けれどもなおも或るものの実在の原因が当のものの本性のうちに含まれ
ているという事態をどのように理解すればよいのか。自らの本性が原因となって自らの実
在を産出する、つまりその産出の以前には実在していなかった自己が、ある時点で実在し
はじめる、ということになるのだろうか。定理 8 備考 2 において、スピノザはまさにこの
ような理解を批判しているように思われる。
、、
諸々のものをその第一原因から認識することを習いとしてこなかった人々にとって、
、、
定理 7 の証明を概念することは困難であろう[…]彼らは諸々の自然的なものが有すると
みてとる始源を諸実体に適応してしまう。
たとえば落雷により一本の木が燃えはじめたとする。私たちは落雷の前にはみられなかっ
た火が、落雷が原因となって、その結果として生じたということをみてとる。このように
、、
自然的なものにはその存在のはじまり、始源をみてとることができる。いいかえれば、或
る事象が原因となって、別の事象が結果として生じるということをみてとる。こうした事
態を実体自身の原因性に引き写すことで、
「かつてなかった実体がいま在りはじめた」[NS]
であるとか、それ以前には実在しなかった実体がある時点で生じるという程度の意味で、
「実体は創造される」と主張されるなら、「偽の観念が真の観念になった」というに等しい
といわれる。つまり、ごく簡潔にいいかえれば、その本性に必然的に実在することが属す
る実体、それゆえに実在すると以外には概念されえない実体(実体についての真の観念)
が、それにもかかわらずある時点までは実在しないと概念される(実体についての偽の観
、、
「書簡 34」の次の記述をも参照。
「[…]実在がそのものの本性に属する、あるいはその
ものの本性のなかに必然的に含まれている」[Ep34, Geb.,Ⅳ, p.180: 2-3]。
216
89
念)ことになってしまい、「このことより背理であるものは何も概念されえない」、このよ
うにスピノザは考えていると思われる。したがって実体には始源がない、いいかえれば、
実体の実在は結果として生じたものではないと断定することができよう。かくて「実体の
実在はその本質と同様に永遠の真理である、ということが必然的に承認されるべきである」
。
それゆえ、実体の本性がその実在の原因となって実体の実在を開始させた、とする理解は
、、
正当なものではない。私たちは、自然的なものの実在のありようを考察することから出発
して実体の実在のありようへと議論を進めてはならないのである。上にみたデカルトの議
論と突き合わせれば、有限な原因性から出発する実在の原因探求が真っ向から批判されて
いるのである。
先に詳細に検討したように、実体の実在と本質の同一性が肯定されるまでに至っていた。
この事態はまた別の表現をかりれば、
「或る本性の実在の絶対的肯定」[E1P8S1]ということ
、、
、、
もできるだろう。まさにこのような事態こそが、或るものの実在の原因が当のものの本性
のうちに含まれているということの内実である。
ところで、神はその定義上[E1Def6]実体である。このことだけでも、ここまで実体につ
いてみてきたことが神にも当てはまるはずである。第 1 部定理 11 とその第 1 証明を確認し
、、、、
てみよう。簡潔にいえば、この定理では神、すなわち実体が必然的に実在するということ
が証される。証明は背理法により、この定理の反対が不可能であることを中核としている。
その反対が不可能なのだから、神は必然的に実在し、それ以外ではありえない。つまり、
神が実在しないと仮定するなら、公理 7217より、「その本質は実在を含まない。ところでこ
、、
、
れは(定理 7 より)背理である」。その本質が実在を含むもの、すなわち自己原因であるも
、
のが実体である、ということを証する定理 7 と、神が定義上実体であるということがこの
、、
論証を支えている。それゆえここですでに神が自己原因であるものである、ということが
肯定されていると考えるべきである。
、、
ここまでくれば、自らの実在の原因を、自らの本性のうちに含んでいるもの、ようする
、、
に自己原因であるもの(実体・神)の内実を以下のようにまとめることができる。つまり、
、、
、、
自己原因であるもの(実体・神)とはその本性が必然的に実在するものであり、いいかえ
、、
ればその本性の実在が必然的であるものであって、つまりその本性が実在すると以外には
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
概念されえず、この本性の必然性とはすなわち当の本性の実在 の必然性に他ならず、かく
、、
て本質と実在の必然的相即が実現されているもの、これである218。そしてこの必然性はた
んなる論理的な必然性ではない。そうではなくてことがらそのものの必然性、「事象の必然
、、
性219」である。というのも、
「或るもの[res]が必然的といわれるのは、その本質のありかた
[ratio]によってか、あるいは原因のありかたによって」[E1P33S1]であり、ようするに必然
217
「実在しないと概念されうるすべてのものの本質は実在を含まない」
。
「神の実在とその本質はひとつの同じものである」[E1P20]。
「神の実在はその本質と同
様に、永遠の真理である」[E1P20C]。なお Macherey[1998]p.86 をも参照。
219 上野[2006]p.81。
218
90
、、
的といわれるのは、まさにもの、ことがら、事象(すべて res の訳語として妥当する)にか
んしてだからである220。さらにまたここから、自己原因という原因性の内実にかんしても
理解をえることができる。つまりまずは、1)必然性の貫徹、2)本質と実在の相即である。
、
1)必然性の貫徹。その本性の必然性がその実在の必然性に他ならない、というのが自己原
、
、、
因であるもののありかたであった。ところで、第 1 部公理 3 は「規定された原因が与えら
、、、、
れれば、結果は必然的に帰結し、かつ反対に、もし規定された原因が与えられないとでも
、、、
するなら、結果が帰結することは不可能である」[強調引用者]と、原因と結果の必然的連絡
を定式化している。「何ものも原因なしにはない Nihil fit sine causa」という伝統的な定式
化221のうちには、或る結果が現に与えられていることから出発して、その原因を遡及的に
問うという姿勢をみてとることができる。デカルトの自己原因へと逢着する原因探求の議
論も、まさにこうした結果から原因へという方向性のもとでなされていた。これと対蹠的
にスピノザのこの公理は、あくまでも原因から結果へ、という連絡の方向性が明確に示さ
、、、
、
れており222、しかもこの連絡のありかたは必然的である。したがって必然的に実在するも
、
、、、、、
のが、自己原因という名のもとで原因である以上、そこから何らかの結果が帰結しないと
いうことはありえない。結果の帰結も一義的に必然性に貫かれるということである。さら
にこの必然性が何をどのような仕方で帰結するか、という点について、様態の導出の開始
点である第 1 部定理 16223がそれを明かしている。つまり、「神の本性の必然性から、無限
のものが無限の仕方で[infinita infinitis modis](すなわち、無限知性によって捉えられう
るすべてのものが)帰結しなければならない」。加えてここからの帰結として、「神は無限
、、
の知性によって捉えられうるすべてのもの[res]の作用因である」[E1P16C1]と言明される。
『エチカ』においてはじめて作用因概念が登場する箇所である。自己原因である神の本性
、、
の必然性から無限知性によって捉えられるすべてのものが帰結する。さしあたりこの帰結
関係こそが作用因と名指される原因性の内実として示されている。Gueroult もいうように、
ここで様態は、「他のもののうちに在りかつ他のものによって概念されるもの」という第 1
、、
部定義 5 の規定に加えて、この「他のもの」
(すなわち実体=神)によって産出されるもの
[res]として、原因から生じる結果としての規定を与えられていると考えるべきである 224。
220
「[…]この諸々のものの必然性は、神の永遠なる本性の必然性そのものである」という
第 2 部定理 44 系の証明 2 をも参照。
221 この定式の来歴については、Carraud[2002] pp.35-41 を参照。
222 あくまで原因から結果への方向性を貫徹することは、
「目的因」にかんする理解への批
判にもつながる。スピノザは次のようにいう。
「この目的にかんする学説は、自然を真逆に
してしまう。というのも、実際には原因であるものを結果として考察し、逆もしかりで[結
果であるものを原因と考える(NS)]」[E1App]。目的因の理説では、たとえば「健康のた
めに運動をする」というとき、健康が目的因として原因とみなされるわけだが、そのさい
実際に生じている事態をみると、運動することによって結果として健康な状態になるとい
う順序で実現されているのである。
223 Cf. Carraud[2002]pp.305-306. 佐藤[2004]p.6。
224 Gueroult[1968]p.260.
91
そしてこうした原因性の必然性は、
「三角形の本性から、その三つの角が二直角に等しいと
、、、、、
いうことが、永遠から永遠にわたって[ab aeterno et in aeterum]帰結するのと同じ仕方で
225」[E1P17S:強調引用者]貫徹される。私たちが三角形について考えるとき、その内角の
、、
和が二直角に等しくない図形であるとは考えない。そのような図形は端的に三角形ではな
い。三角形とその内角の和が二直角に等しいという特質は切り離すことができず、さらに
、、、、
その特質を否定してしまうと三角形が三角形ではなくなるという点で、両者は必然的に結
びついている。この結びつきは、その否定が矛盾を含むことになる必然真理といえる。と
ころで、こうした必然性はたんに論理的な必然性であるにとどまらず、ことがらそのもの
の必然性であった。この論点と密接に連関するのだが、いま問題としている帰結関係は、
、、
たんに純論理的なものではなく、それにとどまらず結果としてのものを、「原因性によって
産出される事象的な存在として226」産出するという実効性をも有している。一例をあげれ
ば、「与えられた最高に完全な本性から必然的に帰結した、というそのことのために、諸々
、、
のものは[…]神から産出されたのである」[E1P33S2]という表現がこれを裏付ける。したが
って『エチカ』において、本質とその諸特質とのあいだの必然的結びつきと、原理(そこ
、、、、、
から或るものが帰結するもとのものという意味で)とその諸帰結とのあいだの論理的帰結
関係、さらに原因とその諸結果のあいだの産出関係が、ともに同時に同じ必然性のもとで
捉えられているということができる227。以上の論点を(否定的な側面から)根拠づけるテ
クストが第 1 部定理 17 備考に見出される。
他の人々が考えるには、神が自由原因であるのは―彼らはそうみなしているのだが―神
の本性から帰結すると私たちが語ったところのものども、すなわち神の権能[potestas]の
うちに在るものどもが、生じない[non fiant]ように、いうなら神自身によって産出されな
、、、、、、
いように実現すること[efficere]ができるということである。しかしこのことは、神が、三
角形の本性からその三つの角が二直角に等しいということが帰結しないように、また与え
、、、、、、
られた原因から結果が帰結しないように実現することができるというのと同じであって、
背理である。
Cf. 第 2 部定理 49 備考「すべては神の永遠なる決裁[decretum]から、三角形の三つの
、、
角が二直角に等しいということが、三角形の本質から帰結するのと同じ必然性でもって帰
結する」[強調引用者]。また 「形而上学序説」CM1/3, Geb.,Ⅰ, p.100:22-101:8.参照。
、、
226 Gueroult[1968]p.259. また Macherey はここでのものに「現実の構成要素」という表現
を与えている。Macherey[1998]p.146. さらに Deleuze[1968]pp.88-90.をも参照。また
、、
Lærke によれば、先にも引いたように、定理 16 は「どのようにして個別的なもの[les choses
particulières]が神から生じてくるかを説明すること」をねらっており、証明のうちにみら
、、
れる「「或るものの特質」という表現は、そこで「実体の様態」という意味において用いら
れている」(Lærke[2008] p.396.)。また Deleuze[1968]pp.88-90 参照。
227 Cf. Macherey[1998]p.141.
また Gueroult[1968]pp.66-67, p.267, pp.293-295 参照。
225
92
、、
神の本性から帰結するものは、同じ必然性のもとで神によって産出されるよう実現される。
三角形の本性からその特質が必然的に帰結するのと同じ仕方で、或る原因から必然的に結
果が生じるということも、
「つねに同一の必然性でもって」[E1P17S]実現される。したがっ
て Curley のように、
「スピノザは実体とその諸様態のあいだの原因的関係を、原理[ground]
と帰結のあいだの論理的関係と或る意味類比的な仕方で考えている 228」というのでは十分
ではない。厳密に同じ仕方で、一義的に、同じ必然性のもとで考えられているとみなさね
、、
ばならない229。さらにここまでの議論から作用因[causa efficiens]を、或ることがらを必然
、、、、、、
、、、、、、、
、、
的に実現する[efficere]実行力を有した[efficace]原因として理解することができる230。
『エチ
カ』において作用因概念の内実は、自己原因の必然的原因性から出発して理解されなけれ
ばならないのである。先にも指摘したように、
『エチカ』における原因性理解に、本質と実
在の包含関係や本質からの諸特質の帰結という内実を与えられる―スピノザ自身が決して
このように規定することのない―「形相因」という作業概念を導入する必要性はまったく
ない。原因性一般にかんする哲学史的記述を眼目とするのであれば話は違ってくるけれど
も、それでもなお『エチカ』における原因性解釈において、Carraud が「原因性の概念的
母型[matrice]は、形相因性の展開によって規制され」続ける231と結論付けるとき、スピノ
ザにおける原因概念の特異性が極端に薄められ、さらにその内実の把握にかんしても一面
的な理解にとどまるといわざるをえないのである。あくまでこのような意味での「形相因」
をスピノザ哲学に持ち込もうとするなら、この「形相因」は自己原因から出発して考えら
れる作用因の原因性のうちに統合される、といわなければならない232。
、、
2)本質と実在の相即。すなわち、自己原因であるものの本質と実在の同一性が肯定された
以上(「神の実在は神の本質である」[Ep50, Geb.,Ⅳ, p.240:1-2])、デカルトの議論とは対比
的に、本質にかんする原因性と実在にかんする原因性はもはや別物ではないと考えること
ができる。
、、
「神は自己原因であるといわれるその意味において、すべてのもの の原因である」
[E1P25S]。私たちはいまやこの「意味」を十分に汲みとることができる。まず、本質と実
、、
、、
在の必然的相即が実現されている自己原因であるものは、すべてのものの実在の作用因で
あるだけでなく、その本質の作用因でもある[E1P25]。実在にかかわる原因性と本質にかか
わる原因性は別物ではなく、この点にかんしても原因の一義性が確保される。スコラでは
Curley[1969]p.49.
Gueroult も私たちと同じ理解を示している。第 1 部定理 16 で主眼となっているのは、
神による諸様態の産出と、定義から出発して或る本質の諸特質が産出されることのあいだ
の関係が、「[…]類比ではなく、同一化」の関係である(Gueroult[1968]p.294.)。
230 Cf. Macherey[1998] p.146, n.1.
231 Carraud[2002]p.341.
232 Joachim は『エチカ』にあって「作用因と形相因はひとつで同じ」であるという表現を
している(Joachim[1901]p.12)。ただし別のところで彼は「より一般的な意味での「原因」
はスピノザ哲学にはない」
(Joachim[1901]pp.53-54, n.1)と語っており、つまり原因の(い
わゆる)物理的な実効性を認めていない。
228
229
93
、、
(デカルトにおいてもなお)原因されるものの本質にかかわらないとされてきた作用因233
が、本質にもかかわる原因性へと拡張されているのであり、こうした事態が可能となった
のは、すべての原因性が自己原因から出発して考えられているからである。次に必然性の
、、
、、、、
貫徹。「神の本性が与えられれば、そこから諸々のものの本質ならびに実在が必然的に結論
、、
されなければならない」[E1P25S]。自己原因であるものとしての神、その本質の必然性が
、、
すなわち実在の必然性でもあるからこそ、そこから帰結するものについても、その本質と
、、、、
、、
実在がともに必然的に結論されるのである(この帰結するものの本質と実在についてはま
たのちに検討する)234。
以上がここまでの議論からみえてきた自己原因の原因性の内実である。以上の論点から
さらに、第三に、力能概念との統合という論点が引き出される。「神の本質の必然性のみか
、、
ら、神が自己原因であり(定理 11 より)、かつ(定理 16 とその系より)すべてのものの原
、、
因であることが帰結する。したがって、神自身とすべてのものがそれによって在り、かつ
はたらきをなす[agunt]ところの神の力能は、神の本質そのものに他ならない」[E1P34D]。
、、
神が原因である(自己原因でありかつすべてのものの原因である)ことが、力能概念の内
実としてつかまれている。「神の本性の必然性のみから、あるいは(同じことだが)神の本
233
、
たとえば、Burgersdijck[1626/1644],Ⅰ, cap. 17,Theorema 1(p.65)「外的原因とは、も
、
のの本質にかかわらない[non ingrediuntur]ものであり、作用因と目的因がある。
」またこ
の書に対する Heereboord の解説 Heereboord[1658],Ⅰ, cap. 15 et 16, Quaestio 3(p.34).「諸
原因は[…]内的なものと外的なものに分けられる。内的といわれるのは、原因されたものの
本質に、構成諸要素としてかかわるものであり、質料と形相がそれである。外的といわれ
るのは、たしかに原因されたものを産出しはするのだが、けれども部分としてそれを構成
、
しないものであり、作用因と目的因がある。」しかしながら、Burgersdijck が「そこからも
、
のが無媒介に流出し[a qua res immediate imanat]、またどのような作用[actio]もなく生じ
るもの」(Theorema4)を作用因の種類のひとつへと数え入れ、これを「流出因」[causa
emanativa]と名指し、「流出因は活動因[causa activa:作用を介して結果を原因するもの]
よりも本来的に作用因とはいわれないけれども、しかしながら他の原因の類に帰するより
も、作用因へと帰するほうがより適している」とし、さらにこの「流出因」に「実体形相
が属している」というとき、作用因はすでに本質にかかわるものへとずらされているとい
える[p.66]。もちろん Heereboord もこの理解を受け入れている(Heereboord[1658]pp. 3637)。こうしてみると、スピノザが用いる「内的な」作用因[Ep60, Geb.,Ⅳ, p.271:4]という
表現は、伝統的な作用因理解からすればキマイラのような概念だが、以上のようなオラン
ダ近世スコラの議論の流れに照らしてみればそれほど奇異なものではないといえよう。
、、
234 神が自己原因であるといわれるその意味において、神はまたすべてのものの原因である
という言明を、自己原因が有限様態にまで拡張されることと理解する Marion は、神と有限
様態のあいだの原因性を外的原因と解し、さらにこの原因性を作用因としたうえで、この
ように規定された作用因性と同じ意味において、神の内的な原因性が理解されるべきであ
るという(Marion[1996]pp.187-188.)。けれども作用因性があくまで自己原因の方から理
解されるべきであることは、私たちが上にみてきたとおり揺るがない。この言明を、ここ
までの私たちの理解とは逆に、作用因の側から自己原因を理解するという方向をとる解釈
は、Lachiéze-Rey[1950]pp.33-34. また Joachim[1901] p.53, n.1. にみられる。前者に対す
る Deleuze のよく知られた批判は、Deleuze[1968]p.149, n.20 を参照。
94
性の諸法則のみから、無限のものが絶対的に帰結するということを[…]定理 16 で示した」
[E1P17D]とスピノザはいう。そしてこの帰結関係がすなわち原因からの産出関係に他なら
ない。スピノザはこうした原因からの産出関係を、さらに「はたらきをなす[agere]」とい
う動詞で考えているように思われる。というのも彼は、上の引用に続けて、「このため神は
自己の本性の諸法則のみから[…]はたらきをなす[agit]」[ibid.]と語り、神の本性の必然性か
らの帰結関係(同時に原因からの産出関係でもある)を「はたらきをなす」という表現に
いいかえているからである235。ところで、神の本質の必然性がすなわち神の実在の必然性
であるということが自己原因の内実のひとつとしてつかまれていた。それゆえこの証明で
神が必然的に実在することをあつかう定理 11 が引照される理由は、もはや明らかである。
さらにこの定理 11 の備考の冒頭に示される第四の神の実在証明において、実在と力能の連
関が明示されていることを見逃してはならない。ここでは「実在しないことができるとい
うことは無力能であり、反対に実在することができるということは力能である(それ自身
で 知 ら れ る よ う に )」 [E1P11D3 236 ] と い う 公 理 と み な せ る 言 明 を 論 証 の 出 発 点
[fundamentum]として237、「ア・プリオリに」証明が進められる。「実在することができる
、、
ということは力能であるので、或るものの本性により多くの事象性が適すればそれだけ多
くの自らに依る実在する力[vis a se]を有する、ということが帰結する。このため絶対的に
無限な存在者、いうなら神は、自らに依って実在することの絶対的に無限な力能を有し、
そういうわけで神が絶対的に実在するということが帰結する」。自己原因としての神の実在
の必然性が、ここでまた「自らに依って実在することの絶対的に無限な力能」としても捉
えられていると理解すべきである238。かくて力能はまず実在することの力能として措定さ
同様のパラフレーズは「第 1 部定理 16 において、私たちは、神が自己自身を知解する
のと同じ必然性によってはたらきをなす[agere]こと、すなわち、神の本性の必然性から(す
べての人々が異口同音に認めるように)神が自らを知解すること、また同じ必然性でもっ
て神が無限の仕方で無限のことをなす[infinita infinitis modis agat]、ということを示した」
という第 2 部定理 3 備考をも参照。
236 “posse non existere”を「実在しえない」
(岩波文庫畠中訳上巻 p.49。また Marion[1990]
p.231)と訳すのは誤りである。”ne pas pouvoir exister”ではなく、”pouvoir ne pas exister”
となるべきである。
237 この言明を公理とみなすのは、たとえば Gueroult[1968]p.193. また Mathron[2011-4]
p.585. なおこの備考の冒頭に近い箇所で語られる「同じ基礎[fundamentum]」という表現
を、Macherey は「絶対的に無限な存在者としての神の定義」と理解している(Macherey
[1998]p.111.)が、これは誤りである。三つ目のア・ポステリオリな論証の出発点となって
いる「実在しないことができるということは無力能であり、反対に実在することができる
ということは力能である(それ自身で知られるように)」という言明こそが、この「基礎」
である。Gueroult はこのことを正しく理解している(Gueroult[1968]p.199.)。
238 したがって私たちは、この「絶対に無限な実在する力能」が「自己原因の内実としてこ
こで[E1P11S で]掴まれて」いるという鈴木の解釈に与するが、
「『エチカ』において神が自
己原因であることに「力能(potentia)」概念は用いられない」という大野の解釈には賛同
できない。それぞれ鈴木[2005]p.170。大野[2013] p.91。なお「神の力能と本質の同一性は、
自己原因によって証明される」とする Lærke の解釈をも参照(Lærke[2009]p.179, p.181.)。
235
95
、、
れる。さらに、ここで上にみた議論を思い起こそう。事象性ないし完全性は、或るものの
本質の活動実現状態を標すものであり、したがって無限の諸属性を有する神=実体の本質
の活動実現状態は、無限の力をそなえる力動的なものとしてとらえられた。この本質の豊
、、
かさ、力動的な活動性によって、そこから導出される特質が同時にまたものとしての様態
であるという事態、神の本質の原因としての力能が実装されるのである。そういうわけで、
自己原因としての神の本質の必然性、また実在の必然性に他ならないこの必然性から、必
然的に結果が産出され、この産出も必然性に貫かれる。したがって、神の実在する力能は
、、、、、、、、、、、、、、、、、、
また、同時に原因として必然的に結果を産出する力能でもあり、自己原因としての神の本
質と実在は同一である以上、神の力能は神の本質そのもの、
「活動的本質[essentia actuosa] 」
[E2P3S]である。本質そのものが、実在することの力能、力として、充溢した活動実現状態
である神、この神が必然的に結果を産出するのだから、この産出はたんなる論理的な必然
性ではなく、そうではなくて現実的な実効力を有するものである、このようにいわなけれ
、、
ばならない。かくて、神の本質、実在、力能の三者が自己原因であるものの必然性のもと
に統合される。したがって、神が自己原因であるといわれるその意味において、神はまた
、、
、、
すべてのものの原因であるのだから、神がすべてのものの原因であるというのは、より正
確にはそれらの本質と実在とはたらき三者の原因となると考えることができる 239。デカル
トにおいて有限存在の原因性と神の原因性はことなるものであったが、スピノザにおいて
は両者が同じ必然性のもとで一義的なものとなるのである。
2-2) Ratio seu Causa
、、
先にみたように、スピノザは或るものの実在の原因の所在を二つに分けていた。つまり、
、、
当のものの本性に内的であるか、外的であるか、ふたつにひとつである。この二者択一を
239
ところでスピノザは「神自身とすべてのものがそれによって在り[sunt]、かつはたらき
、、
をなす[agunt]ところの神の力能」という表現を用いていた。神がすべてのものの本質と実
在とはたらきの原因であることをふまえれば、
「在る」ないし「有[esse]」という表現は、
根本的には本質と実在双方を含意していると考えることができるだろう。Cf. Macherey
[1997] p.350. さらにここまでの私たちの議論から、第 1 部定理 16 の「帰結する[sequi]」
、、
というのは、佐藤もいうように、ものの実在、本質、はたらき三者の原因を指していると
みるべきである(佐藤[2004]p.11)。
なお Macherey が指摘しているように、スピノザは「はたらき」にかんして agere と
、、
operari を区別してもちいているように思われる。第 1 部定義 7 では「強制されたもの」が
「一定の規定されたありかたで実在することと作用すること[operandum]へと規定される」
、、
ものと定義され、「自らの本性の必然性のみから実在し、かつ自らのみによってはたらきを
、、
なす[agere]ことへと規定される」
「自由なもの」
と区別される。この区別は第 1 部定理 26, 27,
29 の証明でもみられる。ただしもちろん、精神の自由と能動性が問題となるときには、強
制・作用 operari から、はたらき・能動 agere への用語の移行がみられることになる(cf. 第
3 部定義 2, 第 4 部定義 8(徳)。徳そのものは最高の自由(第 2 部定理 49 備考))
。
96
どう考えればよいか。前者についてはここまでみてきたとおりであり、実在の原因がその
、、
、、
本性に内的であるものは、自己原因であるもの(実体・神)であった。次に問われるべき
、、
は、実在の原因がものの本性に外的であるというのはいかなる事態を指しているのか、と
、、
いうことである。この事態はまず、当のもの自身の力によって実在するのではなく、いい
、、
かえればその実在の原因を当のもの自身のうちに探っても見出すことができないというこ
、、
と、したがってこの原因は他のものに求められねばならず、その実在が他の何ものかに依
存している、このような事態を指していると理解できよう。ところで、実在の原因がその
、、
本性に内的であるものは自己原因であり、その本質は実在を含んでいる。したがって、実
、、
在の原因が当の本性に外的であるものの本質は実在を含まないということになろう。
「神か
、、
240
ら産出されたものどもの本質は実在を含まない」[E1P24]という定理 は、まさにこのよう
、
な論理によって証明されている。さて、第 1 部公理 7 によれば、本質が実在を含まないも
、
、、
のは、実在しないと概念されうる。ということは、神から産出されたものの実在は、たと
えそれが現に実在しているとしても、実のところ実在しなくてもよかったとみなされうる
という意味で偶然的なものということだろうか。スピノザはこれをはっきりと否定する。
、、
、、、、
「或るものの実在は、その本性と定義からか、あるいは与えられた作用因から必然的に帰
結する」[E1P33S1:強調引用者]のだし、
「作用因の本性の必然性から帰結するものはすべて
、、、、
、、
必然的に生じる」[E4Praef:強調引用者]のである。「実在する各々のものには、そのために
、、
、、、、
当のものが実在する或る特定の原因が必然的に存する」[E1P8S2:強調引用者]。たしかに、
、、
、、
神から産出されたものの本性を探ってみても、そこにはその実在の原因、なぜそのものが
実在するのかを説明する(理由を与える)原因・理由を見出すことはできない。けれどもその
、、
、、、、
原因は当のものの外部に必然的に存する。自己原因の必然的原因性が、一義的にすべての
、、
ものの産出の原因性、作用因にも適応されるために、神から産出されて現に実在している
、、
、、、、
、、
ものは、すべて必然的に実在しているのである。実に「或るものが必然的といわれるのは、
その本質のありかた[ratio]によってか、あるいは原因のありかたによって」[E1P33S1]とい
われていたのである。
、、
ところで、スピノザの「原因あるいは理由」という統語は、すべてのものについて、「そ
れがなぜ実在しないのか」という点にまで及んでいた[E1P11D2]。いま現に実在していな
、、
いものは、実在する原因・理由がなかったのだから実在していないのだ、というのでは何
も言ったことにならない。これではたんなる説明の放棄である。スピノザによれば、なぜ
、、
或るものが実在しないのか、ということにかんしてもその原因・理由が定められねばなら
、、
ない。この原因・理由は、より具体的には、或るものが「実在するのをさまたげる、いう
、、
ならその実在をとりさる」[ibid.]原因・理由である。そしてこの原因・理由も、ものの実在
、、
、、
「神から産出されるもの」というのは、したがってその本質が実在を含むもの(神・実
体)と対置させられるすべての様態、無限様態と有限様態を含めたすべての様態と解され
るべきであろう。これは第 1 定理 25 における、神がその本質と実在双方の原因といわれる
、、
「もの」についても同様である。Cf. Macherey[1998]p.172. 佐藤[2004]p.7.
240
97
、、
の原因がそうであったように、実在しないものの本性・定義のうちに含まれているか、そ
の外になければならない[ibid.]。したがって可能な組み合わせには以下の四つがあることに
なる。
原因/理由
本性・定義の内
本性・定義の外
なぜ実在
するか
・B1:作用因の本性の必然性から
A:本性に実在が属する
・B2 物体的自然全体の秩序から(e.g.三角
(必然)
形・円)[E1P11D2]
なぜ実在
・D1:物体的自然全体の秩序から
しないか
C:本性が矛盾を含む
・D2:当該のものを産出すべく規定された何
(不可能)
[E1P11D2]
の外的原因も存しない[E1P33S1]
それぞれみてみよう。
、、
A:その実在の原因が当のものの本性に内的というのは、ここまでみてきたように、自己
、、
、、
原因であるもののありかたに他ならない。B:その実在の原因が当のものに外的であるとい
う事態は、まずその実在が作用因の本性の必然性から必然的に生じるということである
、、
(B1)。さらにこの作用因は「ものの実在を必然的に措定するが、それをとりさることはな
、、
い」[E2Def5Exp]。したがって作用因が与えられれば、ものは必然的に実在する。ではこの
、、
作用因とは何か。それは第一に神である。というのも、神はものの本質の作用因であると
、、
ともにその実在の作用因といわれていた[E1P25]からである。加えて、「神は、諸々のもの
、、
が実在しはじめる原因であるだけでなく、諸々のものが実在することに固執する原因でも
、、
ある」[E1P24C]。
「外的諸原因から生じるものは、[…]その各々の完全性、いうなら事象性
のすべてを外的原因の力[virtus]に負っており、このためそれらの実在は外的原因の完全性
のみにもとづいて生じ、それら自身の完全性にもとづいて生じるのではない」[E1P11S]で
、、
あるとか、「或るものの本性には、作用因の本性の必然性から帰結するもの以外の何ものも
、、
属さない」[E4Praef]といわれるとき、当のものの本性にとってみれば外的な原因、作用因
は、さしあたり神であって、神以外のすべてのものが全面的に神に依存しているという点
に光が当てられている。さらに、B2 によれば、なぜ円や三角形が実在するのかは「物体的
自然全体の秩序[ordo universae naturae corporeae]」から帰結する。「現に[jam]三角形が
、、、、
必然的に実在する」ということは、この秩序から帰結しなければならない[E1P11D2:強調引
用者]。この円や三角形を人間身体と同様の有限な延長の様態とみなすことができるなら241、
Gueroult のいうように、この秩序を「有限な原因の無限な連鎖242」と解釈することができ
Cf. Carraud[2002]p.333. また Macherey はこの円や三角形を、
「いまここに実際に描か
れた三角形の図形」と解している(Macherey[1998]p.104.)が、私たちもこうした理解に
同意する。
242 Gueroult[1968] p.188.なお第 5 部定理 6 証明には「諸原因の無限な連関[infinito
causarum nexu]」という表現がみられる。
241
98
るだろうし、ことがらとしては佐藤のいうように「現象世界の決定根拠 243」ということも
できるだろう。この場合作用因は、同一属性の有限な様態ということになる。けれども肝
要なのは、B2 においても実在があくまで必然的といわれるという点である。ようするに、
原因性の必然性は一義的に貫徹されているのであって、内的な原因と外的な原因という二
つの異質な原因性があるのではなく、神と有限存在とで異質な二つの原因性があるのでも
なく、作用因は或ることがらを必然的に実現する実行力を有した原因性という意味で、両
者にとって一義的に貫徹されると考えなければならない。異質なのは実在の原因がそれに
、、
とって内/外といわれる当のもののありかた、いうなら存在論的身分である。ひとことでい
えば、スピノザにおいて(デカルトとは対蹠的に)実在の原因は一義的である。C:実在し
、、
ないことの原因が当のものの本性に内的であるというのは、
「たとえばなぜ四角い円が実在
しないかの理由は、その本性がそれを示している。明らかにその本性が矛盾を含んでいる
から」[E1P11D2]であり、つまりその実在は「不可能」[E1P33S1]である。最後に、実在し
、、
ないことの原因が当のものの本性に外的であるというのは、たとえば、「現に三角形が実在
することが不可能」であるのは、これもまた「物体的自然全体の秩序」から帰結する
、、
[E1P11D2]。このことはまた、当のものを「産出するべく規定された何の外的原因も存し
ない」[E1P33S1]こととしてもいいあらわされる。以上の帰結として、「それが実在するこ
とをさまたげるどのような理由も原因もないものは必然的に実在する」[E1P11D2]。
*
デカルトにおける「原因いうなら理由」という統語、自己原因をめぐる議論から引き出
される、原因性にかんする論点を箇条書きすれば以下のようになる。1)有限存在の原因性と
神の原因性はことなり、実在の原因は多義的である。2)作用因(有限な原因性)が実在探求
のモデルとなる。3)結果から原因へという方向性のもとに議論が規制される。4)実在にかん
する原因性と本質にかんする原因性がことなる。5)神の実在の根拠が包括的理解不可能性
(汲みつくしえない力能)へと帰される。これに対して、スピノザにおける「理由あるい
は原因」という統語、さらに自己原因をめぐる議論は以下のようになる。1’) 神と有限存在
とで原因性は一義的であり、実在の原因も一義的である。2’)有限な原因性を実在探求のモ
デルとすることが批判され、自己原因が実在探求のモデルとなる。3’)原因から結果へとい
う方向性のもとに議論が統制される。4’)実在にかんする原因性と本質にかんする原因性は
同一である。5’)この章の冒頭にひいた第 4 部序文には以下のように記されていた。
「私たち
が神あるいは自然と呼ぶ、この永遠で無限な存在者は、それが実在するのと同じ必然性で
はたらきをなす。というのも私たちは、神が実在するのと同じ本性の必然性によってはた
らきをなすということを示したからである(第 1 部定理 16)。したがって、神あるいは自然
が、なぜはたらきをなすのかということと、それがなぜ実在するのかということの理由あ
243
佐藤[2004]p.62、注(47)。
99
るいは原因は、ひとつで同じである。」神の実在の根拠、なぜそれが実在するのかというこ
とは、その力能とともに同じひとつの原因・理由を有している。すなわちその本性の必然
性である。したがって『エチカ』において、原因と理由という二つの概念の差異を問うと
いう問いの立て方はあまり意味をなさない。さらにこの必然性の貫徹により、神にかんし
ても全面的に知解可能、説明可能であることが表明される。また私たちは「理由あるいは
原因」という統語にかんする Carraud の解釈に対し、この統語を神にひきつけすぎなので
はないか、それによって見失われる論点はないのかと疑念を呈した。ここまでみてきたよ
、、
うに、この統語は神に特権化されるわけではなく、すべてのものへと波及する。神とすべ
、、
てのものにかんして、それがなぜ実在するのか、さらに実在しないものがあるとしたらな
ぜ実在しないのか、その原因・理由さえをも、スピノザは与えるのである。実在の原因、
その原因性の必然性の一義的徹底により、その実在が「不可能」なものにも理由を与え、
説明を与えているのである。したがって、偶然的なもの、なぜそれが実在しているのか、
なぜ実在していないのかの原因・理由を特定できないものの存する余地はない。
「絶対的合
、、
244
理主義 」という呼称は、まさにこのような体系にこそふさわしい。すべて実在するもの
にかんして、その実在の原因・理由を見出すことができ、原理的にはすべてが説明可能、
知解可能なのである。スピノザにおける必然性とは、すべてのものの説明根拠ということ
ができよう。あるいはより強くいえば、スピノザの必然性はあらゆる学的認識の有意味性
の条件なのである。
「それが実在することをさまたげるどのような理由も原因もないものは必然的に実在す
る」[E1P11D2]。このような帰結だけをみると、現実が現にこのようにあるのは、現にこ
のようにあらねばならかなったからこそこのようにあるのだ、という盲目的な必然性以外
、、
の何ものでもないような気さえしてくる。けれども、盲目的必然性と呼ばれるものの見方
、、
は、現に実在するものの原因・理由の探求を放棄すること、現実は現実であるというトー
トロジーに甘んじて、さらにその根拠に対して目をつむることである。ライプニッツの側
からのスピノザ哲学に対する評価として上野は、「スピノザの形而上学の奇怪さ。それは世
界の意味性の消失にある」という極めて示唆に富む記述をしている245。スピノザはしかし、
このようなライプニッツ的な評価とは正反対の立場にいる。スピノザ形而上学において、
現実そのものを見晴るかしつつ、その原因・理由を問う地平は厳格に確保されているとい
、、
わなければならない。たしかに、「ものは[現に]産出されてあるのとはことなるいかなる他
の仕方においても、他の順序においても神から産出されることはできなかった」[E1P33]
といわれる。けれども私たちがここまで詳細にみてきたように、読者はなぜこの現実が別
様ではありえないという必然性のもとで規定され、実在しているのか、その原因・理由を
『エチカ』の諸論証をひとつひとつ追っていくことで、跡付けることができる。私たち読
者は、これら諸論証が、ことの真理を別様ではありえないという必然性の相のもとで開示
244
Cf. Gueroult[1968]p.9, p.12.
245上野[2012-2]p.213。
100
していくさまを体得していく(『エチカ』の論証に背理法が多用されるというのも、この〈別
様ではありえなさ〉を示すものとして理解できる 246)。『エチカ』の議論がそこに根ざし、
かつそれを説明しようとしている「世界」というものは、別様ではありえないという必然
性のもとで一義的に規定されているこの現実以外の何ものでもない。あえていうなら、私
たちがいま現に生きているこの現実そのものが「意味」のすべてなのであり、この「意味」
、
、、、
、、、、、、、、、
の「意味」を問うても無駄である。スピノザの『エチカ』
、倫理学は、この現実そのものに
、、、、、、、、、
厳格に定位している、このようにいうこともできよう。
246
「私は、定理が否定的なものであるさいには、他のものよりこの証明作法[背理法
deducendo rem ad absurdum]を選ぶことを習わしとしている」[Ep64, Geb.,Ⅳ,p.278:8-10]。
101
終章:本質と実在
私たちはスピノザ形而上学の生成を跡付ける出発点となるべきテクストを『改善論』に
定め、そのテクストの多層性を示し、この生成を見届ける地平を切り開いた。スピノザ形
而上学の生成をうながした問題、それは本質と実在、さらに両者の原因性の問題である。
、、
第 1 章で検討した確実性の問題は、この本質と実在の問題の一分枝にすぎない。或るもの
の本質と実在をともに包括的に、しかも原因性の観点から捉えること、これが『改善論』
の後半でスピノザが取り組もうとしていた課題であった。
この課題は『改善論』冒頭に記されていたスピノザの倫理学的志向に対応している。つ
まり、「一般生活において通常みられる」ような「空虚で無価値な」もの、それを手に入れ
るという点においては「確か」といわれえても、しかしその本性上「不確実」なものを投
げ遣り、「それを見出し、獲得することによって、永続する最高の喜びを私が永遠に享受す
ることになろうもの」を探求する[TIE1]という志向である。こうした文脈のもとで、
「確固
、、
永遠たるもの」についての議論にみられるのは、可変的で滅びやすい私たち自身と、私た
、、
ちをとりまく自然のうちなる個別的なものどもが、それでもなお確固とした不変の永遠な
、、
、、
るものに根ざしているということ、より正確にいえば、「変化する個別的なものども」が、
、、
その原因としての「確固永遠たるもの」に、その実在にかんしても本質にかんしても基礎
づけられているということ、これを示そうとする彼の倫理学的な意図である。そこにおい
て私たち人間の実存が恒久的で永遠なるものに根ざしているところの「根本的に新たな種
類の生247」を提示すること。スピノザ形而上学の根本動機はまさにここにこそ存する。け
、、
、、
れども『改善論』では、この「確固永遠たるもの」がいかなる仕方で個別的なものどもの
、、
本質と実在の原因となるのか、さらに個別的なものの可変的な実在がいかにして永遠不変
な実在に結びついているのか、これらを総合的に説明する議論が不在であった248。
『エチカ』
、、
冒頭の実体の議論と、それに基づいて展開される原因性の議論は、まさに個別的なものの
永遠性にかかわっていくことで、こうした課題に応答を与えていくのである。
第 3 章で詳細に検討したように、
『エチカ』第 1 部定理 8 備考 2 までの諸論証を介して、
実体の実在と本質の同一性が肯定されるにいたる。さらに神は、その各々が一定の活動実
現状態にある本質、すなわち一定の完全性、事象性を表現する無限の諸属性からなる実体
、、
である。ところで、「完全性はものの実在をとりのぞくことなく、そうではなくて反対にこ
れを措定」[E1P11S]し、さらに、
「無限であるということは、或る本性の実在の絶対的肯定
247
Cf. Yovel[1990]p.158.
、、
佐藤もこの「確固永遠たるもの」の議論にかんして私たちと同様の評価を示している(佐
、、
藤[2004]pp.33-34)。「個物[私たちのことばでは個別的なもの]を本来的には無限なもの[…]
として把える「エチカ」の個物了解は、個物を「確固とした永遠な物」に算えるこの「知
性改善論」の箇処にすでに萌芽として現れている。その点でスピノザの一貫した主張だっ
たと言うことができる」
(佐藤[2004]pp.34-35)。ただしのちにみるように、私たちは個別的
、、
なものが無限ではありえないと考え、この点では佐藤と意見を異にする。
248
102
、、
である」[E1P8S1]。このため「私たちはどのようなものの実在についても、絶対的に無限
な、あるいは完全な存在者すなわち神についてより確実ではありえない。というのも、そ
の本質はあらゆる不完全性を排除し、かつ絶対的な完全性を含むのだから、まさにこのこ
とにより、[神の本質は]神の実在について疑うことの理由[causa]の一切をとりのぞき、かつ
その実在について最高の確実性を与える」のである[E1P11S]。実体=神の本質と実在が同
一であること、これが『エチカ』の体系の真理の基盤を措定するものであった。
、、、、、、、
いま引用した箇所に明確に語られているように、確実性は実体=神の実在についても語
られている。私たちが第 1 章でみてきたように、
『改善論』での確実性は、何であれ対象そ
のものの本質を、別様ではありえないという仕方で、つまり対象そのものの本質がそれ自
身においてあるとおりに、認識する者によってとらえられることに存しており、対象の実
在は度外視されていたのである。ところが『エチカ』ではいま確認したように、確実性は
、、
認識されるもの(ここでは実体=神)の実在にまでかかわっている。くわえて神の実在は
その本質に他ならないのであった。したがって少なくとも神=実体にあっては、確実性は
本質と実在をともにその射程のうちに入れているということができる。ここまではよい。
ところが第 2 章で示したように、
『改善論』の後半でスピノザがとりくんでいたのは、個別
、、
的なものの本質と実在をともに包括的にとらえることであったのだから、『エチカ』におい
てスピノザがこの問題についていかなる応答を与えているのかという点を論究しなければ
ならない。
、、
「神は自己原因であるといわれるその意味において、すべてのもの の原因である」
、、
[E1P25S]と語られていた。本質と実在の必然的相即が実現されている自己原因であるもの
、、
は、すべてのものの実在の作用因であるだけでなく、その本質の作用因でもある[E1P25]。
実在にかかわる原因性と本質にかかわる原因性が、この本質と実在の相即が実現されてい
る神から出発して一義的に行使されるからである。ここにさらに必然性の貫徹が付け加わ
、、
る。「神の本性が与えられれば、そこから諸々のものの本質ならびに実在が必然的に結論さ
れなければならない」[E1P25S]。ところで、
「神の本性、いうなら神の各々の属性の必然性
、、
から帰結する」ものというのは、「神のうちに在りかつ神なしには在ることも概念されるこ
、、
ともできないもの」としての「様態」である[E1P29S]。そして私たちが検討しようとして
、、
、、
いる個別的なものはまさにこうした様態のひとつである。
「個別的なものは、神の属性の変
状、いうなら様態に他ならず、それによって神の属性が一定の規定された仕方で[certo et
determinate modo]表現される」[E1P25C]
249。ここでの「一定の規定された仕方で」とい
朝倉は『エチカ』第 1 部 25 系の res particularis と第 1 部定理 28 や第 2 部定義 7 の(res)
singuralis をさしあたり次のように峻別する。前者はあらゆる様態に妥当する一般的規定で
あり、後者こそが彼のいう「個別性」に根ざした表現である(朝倉[2012]pp.126-131,
pp.135-136、以下この注では同書の頁数のみを示す)。けれども、たとえば第 3 部定理 6 証
明をみてみよう。「res singuralis は、それによって神の属性が一定の規定された仕方で表
現される様態である(第 1 部定理 25 系より)」
。他方この第 1 部定理 25 系は「res particularis
は、それによって神の属性が一定の規定された仕方で表現される、神の属性の変状、いう
249
103
う表現は、一見するとたしかに有限性を示唆するものとも思える 250。この系は『エチカ』
での様態の産出について語られる諸定理群のなかで、テクスト上明白に無限な様態(いわ
ゆる直接無限様態と間接無限様態)が語られている第 1 部定理 21-23 と、同様に明白に有
限といわれる様態について語られている第 1 部定理 28 とのあいだにはさまれている。そし
て、多くの解釈者たちはこれまで第 1 部定理 24 以降が有限な様態についての議論であると
、、
みなしてきた251。こうした解釈の事情があって、第 1 部定理 25 系の個別的なものの規定が
、、
、、、、
即有限性に短絡されてきたのだと思われる252。けれどもこの個別的なものの規定によって、
、、
「神が自己原因であるといわれるその意味において、神はまたすべてのものの原因である」
[E1P25S]という一節が「より明晰に確証されるだろう」[ibid.]とスピノザが語っているこ
、、
とを忘れるべきではない。つまり、この個別的なものの規定がそのままで即有限性を含意
すると考えるべきではなくて、むしろ、神の本性の必然性からその本質と実在とはたらき
、、
の三者がともに必然的に帰結する当のものが、
「様態」という存在論的身分を持つ個別的な
、、
ものであるということを示しているのであって、それ以上でもそれ以下でもないと考える
べきである。佐藤もいうとおり、有限様態の議論は第 1 部定理 28 をまってはじめて導入さ
れると考えるべきであろう253。とはいえいずれにせよ、このような様態としての個別的な
、、
ものの規定は、その本質と実在を考えるうえで、さらには『エチカ』の倫理学の内実を考
、、
えるうえでも重要なものである。というのも、まさにこの規定から、個別的なものである
なら様態に他ならない」というもの。これをみると「特殊的な事物[res particularis]を規定
している言葉は、けっして個別的な事物[res singularis]を規定する言葉とは同じではない」
(p.129)といわれえず、むしろまったく同じといってよいはずである。けれども朝倉によ
れば第 1 部定理 25 系と第 1 部定理 28 のあいだには「大きな飛躍」があるという(p.135)。
この飛躍ということで考えられているのは、彼が後者だけに有限性を認めることに依って
いる。彼には「有限様態こそが個別的な事物の個別性を示している」
(p.134)という断定
があり、個別性が「他の事物とのせめぎあい」のうちにあるという確信がある(p.139)。
この朝倉の態度は、
『エチカ』における実体-属性-様態の議論を、ともすれば「図式的[…]
形而上学的」
(p.121)、「悪しき形而上学的」(p.124)議論におちいってしまいうるものと
して正面から扱うことなく、属性に重きを置いた観念論の側面から(cf. p.144)再構成し、
また「具体的な事象にとどかない」という危惧のもとで(p.5)、『エチカ』の幾何学的形式
を「掘り崩すことにより再構成する」(p.10)という彼のいわば方法論的方針に根ざしてい
るものと考えられる。しかしながら私たちとしては、上にみてきたように、『エチカ』の幾
何学的形式はその内容の展開にとってきわめて重大な意味を有しているということ、これ
を譲ることはできない。さらに、朝倉は「間接無限様態とは特殊的な[particularis]事物」
を指し、こうした「特殊的な事物と個別的な[singuralis]事物の対比」が『エチカ』の議論
のなかで「大きな役割を担っている」というが(p.138)、間接無限様態が「特殊的」とい
うことでどのようなことを考えているのか、また彼のいう「大きな役割」についても具体
的には語っていないように思われる。なおスピノザは res singuralis と particularis を区別
していないという Gueroult([1974]p.25, n.26)の意見をも参照。
250 Macherey[1998]p.35, pp.176-177.
251 Macherey[1998]p.163, p.167,p.172, Gueroult[1968]p.309, p.327.
252 Cf. Macherey[1998]p.172.
253 佐藤[2004]pp. 7-8.
104
人間が[cf. E4P34C2]、まさにたえざる変化のただなかで[E5P39S]、けれどもそれでもなお
永遠性に根ざす存在であることが理解されるからである。
、、
個別的なものの有限性と実在
この人間の永遠性が『エチカ』でいかに語られているのかを明確にするには、個別的な
、、
ものの有限性がどこから生じるのか、さらにこの有限性の内実とはいかなるものであるか
をしっかりと理解したうえで、永遠性についての議論に進む必要がある。このためにも、
、、
第 1 部定理 25 系が個別的なものの有限性の規定ではなくむしろ「無限様態としての個物[私
、、
たちのことばでは個別的なもの]の規定」であるとし、間接無限様態がひとつひとつの「個
物」であるとする佐藤の特異な解釈254を批判的に検討することで、私たちの議論の足掛か
りとしたいと思う。
さきに簡単にみたように、スピノザは『エチカ』でいわゆる「直接無限様態」と「間接
無限様態」という二つの無限な様態を提示する[E1P21-23]。多くの解釈者たちがいうよう
に、スピノザは無限様態について『エチカ』でも他のテクストでも多くを語っておらず、
「解
釈者たちの意見の一致が得られていない255」。数多くある解釈のなかでも、佐藤のものは間
接無限様態を「個物」とみなす点で、彼自身いうように特異なものである(p.12)。他方で、
、、
、、
「個別的なものは必然的に有限なものである」とはっきりと主張する解釈256も存し、
『エチ
、、
カ』のテクスト内で個別的なものが無限であるとはっきり示されている箇所をみいだすこ
、、
ともできないため、佐藤が個別的なものに無限性を付与する推論を検討する必要がある。
佐藤によれば、様態一般の無限性は原因である属性と結果である当の様態のあいだの一
対一の原因‐結果関係に根ざし、属性の絶対的本性から生起することがその無限性の条件
である(p.5)。彼の議論は複雑なものであるため、その展開の細部にわたる検討は置き、こ
こでは検討結果のみを示す。まず、様態一般の無限性のこの条件は、第 1 部定理 21-23 の
定理自身とそれらの証明から読み取ることができる。しかし注意しなければならないのは、
これら諸定理でその無限性が論証された様態はあくまで直接無限様態と間接無限様態の二
、、
つのみであって、これだけでは個別的なものの無限性を語ることはできないという点であ
、、
る。佐藤の重要な論点は、第 1 部定理 25 系での個別的なものの規定の解釈にある。
、、
「個別的なものは、神の属性の変状、いうなら様態に他ならず、それによって神の属性
、、
が一定の規定された仕方で表現される」[E1P25C]。佐藤はこの個別的なものの規定を、原
因となる属性と産出される様態の一対一の決定関係とみなし、この決定関係が様態の無限
、、
性の条件であったのだから、そこから個別的なもの もまた無限な様態であると結論する
、、
(p.9-10)。たしかに様態、したがって個別的なものについてもまた、その本質は実在を含
254
255
256
佐藤[2004]pp.9-10,p.14.以下ではしばらく本文中に同書の頁数を記す。
Nadler[2006]pp.89-90.
Macherey[1997]p.21.
105
、、
まない[E1P24]けれど、神の本性が与えられれば、ものの本質と実在が必然的に結論されね
、、
ばならない[E1P25S]から、個別的なものもまた実在しないということは「起こりえない」
(p.9)。第 1 部定理 25 系の「神の属性が一定の規定された仕方で表現される」という箇所
、、
を、佐藤は個別的なものの属性を原因とする必然的産出の言明として解釈しているのであ
る(同)
。しかしながら、直接無限様態を規定する「神の或る属性の絶対的本性から」[E1P21]
、、
という表現と、個別的なものを規定する「神の属性が一定の規定された仕方で」という表
現には、見過ごすことのできない差異があるのではないか。
まず「絶対的」という表現を考えてみよう。
「絶対的に」という副詞は、スピノザによっ
、、
てしばしば〈或るものそれ自身のみによって、他の何ものの助けも借りず〉という意味で
用いられる257。これを念頭において、直接無限様態が「属性の絶対的本性から」帰結する
ということの内実を、思惟における直接無限様態とみなされる(p.18)「神の観念」の導出
[E2P3]を中心に検討していこう。その証明によれば、
「神は無限のものを無限の仕方で思惟
することができる」。これはすなわち、思惟が神の無限な諸属性のうちのひとつ、自己の類
においてそれ自身無限な或る属性であるということである(第 2 部定理 3 証明は思惟が神
の属性であることを証する第 2 部定理 1 に立脚している)
。つまり、思惟の直接無限様態と
される「神の観念」は、たんに思惟属性のみから、その他の何ものをも必要とすることな
く直接に導出されるということであり、「属性の絶対的本性から」帰結するというのはまさ
にこのことに他ならない。この点を踏まえて第 1 部定理 21 証明をみてみると、この証明の
、、、、
、、
前半部では、属性から直接無限様態が絶対的に帰結するということが、当の無限様態それ
、、、、、、
、、、、、、、、、、、、、、、、、、
だけが単独で帰結し、かつそれ以外は決して何ものも帰結しえない ということが示されて
おり、ここまでの私たちの理解を裏付ける。
次に、
「一定の規定された仕方で」という表現の方を検討してみよう。第 2 部定理 1 証明
、、、、、、、、
では次のようにいわれる。「個別的な思惟、いうならこのあるいはあの思惟は、神の本性を
一定の規定された仕方で表現する様態である(第 1 部定理 25 系より)」[E2P1D:強調引用
者]。ここまでの議論との関係で重要な点のみを示せば、強調部の表現が示すように、神の
、、
属性を一定の規定された仕方で表現する個別的なものには多数性が含意されているという
ことに留意する必要がある。つまり、その本質と実在が必然的に産出されるにせよ[E1P24]、
、、
個別的なものは、直接無限様態のように属性から絶対的に、すなわち他のものを要するこ
となくそれのみが、しかも当の様態以外の何ものも帰結しないという仕方で帰結するので
、、
はなく、それ自身以外の他の(複数の)個別的なものもまた帰結しうるのである。ところ
、、、
で佐藤によれば、「様態は属性の絶対的本性との関係で考えられる場合に限って無限性」を
もつ(p.6:強調引用者)。したがってここまでの私たちの議論が正当なものであるなら、個
、、
、、、、、、、、、
別的なものは「絶対的」な仕方では産出されないために、無限ではありえないといわなけ
ればならない258。
257
258
Cf. Gueroult[1974]pp.473-474, n.10.
こうした理解に一見したところ抵触するようにみえるのが、第 5 部定理 40 備考の「[…]
106
、、
次にそもそも個別的なものは無限という規定を受けうるものでありうるのかということ
を、別の観点からも検討してみよう。無限様態の無限性は、「つねに無限なものとして実在
する」という点に存する[E1P21]。たしかに、何度もいうように、神の必然性から様態した
、、
がってまた個別的なものの本質と実在が必然的に帰結する。けれどもこのことは個別的な
、、 、、、、、、、、
ものがつねに無限なものとして実在することを意味しない。第 4 部定理 4 証明では、個別
、、
的なものである人間が、「必然的につねに実在し」、したがって「無限である」ということ
、、、、、、、
、、
が証明を介して否定されている。第 2 部定理 11 証明では、
「無限なものは(第 1 部定理 21、
22 より)つねに必然的に実在しなければならない」が、
「自然の順序によって、このあるい
はあの人間が実在することも、実在しないことも、同様に生じうる」[E2Ax1]のだから、人
間について無限を語ることは背理であるということが論証されている。したがってこの観
、、
点からしても個別的なものは無限ではありえない。
、、
ところで、『エチカ』においてこのように個別的なものが無限ではありえないとすれば、
無限なものをめぐる原因性と有限なものをめぐる原因性は完全に分断されてしまうという
、、
ことになりはしないだろうか。そもそも佐藤が間接無限様態をあえて個別的なものとして
読もうとしたのは、この原因性の分断に対する危惧に応じようとしてのことであった(cf.
p.4, p.12, p.55, 注 118)。
無限様態についての議論[E1P21-23]でスピノザが語っているのは、その要点のみをいえ
ば、無限なものは無限なものからしか帰結しないし、産出されないということである 259。
他方有限なものもまた有限なものからのみ原因される[E1P28]260。さらに、Macherey のい
、、
うように、
「『エチカ』には、第 1 部定理 25 系においてその実在が示される「個別的なもの」
、、
にとって、このものがあたかも無限様態から切り離された結果であるかのように、無限様
態から出発してなされる導出は存在しない261」。このような事情もあり、Giancotti は「ス
ピノザ哲学におけるひとつの重大な問題は、無限からの有限の「導出」の欠如であると思
われる262」と語っている。はたして、こうした問題の存する有限性をどのように理解すれ
ばよいだろうか。
、、
有限性については、原因としての神から産出される結果がもの[res]であるということが
第 1 部定理 21 とその他[の諸定理]からわかるのは、私たちの精神が、知解するかぎり、永
遠なる思惟様態であり、これは他の永遠なる思惟様態から規定され、そしてこちらの様態
もまた他のものから、というように無限に進み、かくてすべてが同時に神の永遠無限の知
性を構成するということである」というテクストである。しかしこの文面から明らかなと
おり、ここでも個別的な様態について無限性は語られておらず、ただ永遠性のみが語られ
ている。また有限なものが無限なもののうちに含まれるということにかんしてはのちに触
れる。
259 Cf. Huenemann[1999]p.225.
260 Cf. Macherey[1979]p.187.
261 Macherey[1998]p.172.
、、
262 Giancotti[1991]p.97. なお Rousset によれば、有限な個別的なものの導出が『エチカ』
にみられないのではないかという疑念はヘーゲル以降によく提起されてきたものである
(Rousset[1986]p.227)。この論点にかんしてはたとえば Melamed[2010]を参照。
107
重要な論点になると思われる。有限性を規定する第 1 部定理 28 で、「個別的なもの
、、
[singurale]」は有限である「もの」といいかえられている。さらに第 1 部定義 2 は次のよ
、、
うにいう。「同一本性の他のものから制限されうるものは、自己の類において有限であると
いわれる[Ea res dicitur in suo genere finita, quae…]」。つまり、関係詞 quae 以下の条件
、、
を満たすものが、自己の類において有限であるといわれるということである。まずはこの
点を確認しておこう。
、、
、、
神はすべてのものの作用因として(第 1 部定理 16 系 1)結果であるものを産出する。さ
、、、、、、、、、
らに『エチカ』ではどこでも神が有限なものそのものを産出するとは語られていないとい
うこともおさえておこう263。ところで先にみたように、無限なものは無限なものからのみ
帰結する。それではどこから有限性が生じるというのだろうか。論理的に考えてありうる
可能性は次の二つである。1)どこからも有限は生じないか、もしくは 2)無限からの有限へ
の移行なしにそれ自身有限なものから有限なものが生じるかのいずれかとなる。『エチカ』
において実際に有限性が語られている以上、1)は否定される。となると必然的に 2)をとら
ねばならない。しかし 2)をとってもなお、有限なものを生じさせるそれ自身有限なものが
どこから生じるのかということが依然として問われるのではないか。
Gueroult は第 1 部定理 16 で語られる、神は無限なものを無限な仕方で産出するという
ことに、無限様態と有限様態をともに含む産出をみている 264。つまり彼は、神から産出さ
、、、
れる「無限なもの[infinita]」を、無限様態と有限様態をともに含む様態のすべてと解釈し
ていると考えられる。ところが、いま確認したように、無限なものである神が直接有限な
ものそのものを産出することはない。有限についても無限についても明示的に語っていな
、、
かった第 1 部定理 25 系の個別的なものの規定は、まさにこの辺の事情を反映したもののよ
、、
うに思われる。つまりこの規定では様態である個別的なものが、有限とも無限ともはっき
、、
り規定されていないということである。神はものを産出するが、そのなかでもとりわけて
、、
「個別的な」ものが様態という存在論的身分を持つこと、この点のみを第 1 部定理 25 系は
示している、このように考えなければならない。それでは有限性はどこから来るのか。
、、
先にみたように、個別的なものは具体的にはたとえば「このあるいはあの思惟」が考え
、、
られており(第 2 部定理 1 証明)、神が作用因となる「すべてのもの」
(第 1 部定理 25 証明)
、、
に含まれる個別的なものは多数性を有していた。ここまでの議論を踏まえて第 1 定理 28 を
みてみよう。
「なんであれ個別的なもの[quodcunque singulare]、いうなら有限であり、か
、、
つ規定された実在を有するものは、これもまた有限であり、かつ規定された実在を有する
他の原因から実在することと作用することへと規定されるのでなければ、実在することと
作用することに規定されることができない。そしてまた今度はこの原因の方も、これまた
有限であり、かつ規定された実在を有する他の原因から実在することと作用することへと
Cf. Huenemann[1999]p.225.
Gueroult[1968]p.309. これに対して Bartuschat は、有限なものを排し、無限なもの
のみの産出を読み取っている(Bartuschat[1994]p.192)。
263
264
108
規定されるのでなければ、実在することと作用することへと規定されることができない。
そして同様に無限に進む」。このように「さらにまた[et rursus]」という表現の繰り返しに
、、
よって、有限なもののあいだの必然的相互規定を表している。こうした多数性と相互規定
、、 、、、
の絡み合いが意味するのは、或る有限なものが単独で何らかのものの原因ではありえず、
、、
各々の有限なもののすべては同時に原因でありかつ結果であるという因果関係に必然的に
、、
巻き込まれているということである265。ようするに、神から産出される個別的なものは、
、、、、、、、、、、、、、、
、、、、
神からそれ自身それのみで有限なもの として産出されるのではなく、それらの多数性と相
、、、、、、、、
互関係によってはじめて有限であるといわれるということである266。
、、
、、
次に個別的なものの実在を考えていこう。個別的なものは、有限であるといわれるのみ
ではなく、
「規定された実在[determinata existentia]」を有するといわれる[E1P28、E2Def7]。
この実在の意味は E1P21D に示されている。つまり、
「或る時には実在しなかった、あるい
は或る時には実在しないであろう」といわれる実在、要するに始まりと終わりのある実在
であって、
「持続[duratio]」ともいいかえられる実在である。より具体的には、少なくとも
、、、
人間にかんしていえば、当の人間の身体の実在を考えればよいと思われる。スピノザは「人
間は[…]他の人間の実在の原因である」[E1P17S]というが、これは他でもなく、或る人間
(両親)が別の人間(子)の身体を生み出すということをいっていると考えられる267。そ
して「人間精神を構成する観念の対象は、身体、いうなら現実的に実在する延長の或る様
態であり、それ以外ではない」[E2P13]。このことはより簡明に「人間精神、いうなら人間
身体の観念」[Ep64, Geb.,Ⅳ,p.277:29-30]という表現でいいかえられ、その内実としては、
人間の精神はその身体についての「観念いうなら認識」[E2P17D]である、ということであ
265
以上の有限性の議論にかんしては、Macherey[1998]pp.179-180 の議論を参考にした。
Rousset
の言は、この点にかぎってみれば私たちと同様の理解であるといえよう(Rousset[1986]
p.230)。さて、このようにして有限性をとらえることができるので、有限なものが無限な
ものの一部であるということが、有限なものの寄せ集めによって無限(無際限)を考える
という背理に陥ることなく(「無限な量は測ることができず、かつ有限な部分からは成りえ
ない」[E1P15S])理解される。全体としての自然いうなら宇宙の本性は「絶対的に無限」
であり[Ep32, Geb.,Ⅳ,p.173:5-6]、私たち人間は「自然全体の一部である」[E4App32])。
「有
限であるということは[…]ある本性の実在の部分的否定」であるという第 1 部定理 8 備考 1
は、こうした観点から理解されうる。このようにみてくると、有限を無限と無のあいだの
中間物として、ないし無限の格下げとしてとらえる立場とは違った位相にスピノザは立っ
ていると考えることもできるだろう。この最後の点にかんして、Balibar[1990]p.66 参照。
267 「[…]人間は創造されるのではない、そうではなくたんに生み出される[generari]」[Ep4,
Geb.,Ⅳ,p.14:17]。なおこの言明に続く「彼らの身体は、他の仕方で形成されていたにせよ、
すでに以前から実在していた」[p.14:17-18]という一文は、なんら神秘的な言明ではなくて、
或る人間身体を構成する有機物、たとえばたんぱく質が、食物となったものに含まれ、こ
れが消化酵素により分解され、人間身体の構成物として身体に同化されたというようなこ
とを考えればよい。この点にかんして、第 2 部定理 13 備考の後ろに付された補助定理 4~
7、人間身体にかんする六つの要請を参照。また Gueroult[1974]p.168, Macherey[1997]pp.
151-152, Zourabichvili[2002]p.74 をも参照。
266 「有限存在は無限存在の帰結なのではなく、
無限な諸規定の帰結」であるとする
109
、、
る。さらに、
「延長の様態とこの様態の観念は、ひとつで同じもの[res]である」[E2P7S, cf.
E2P21S]。
、、
私たちは、神が結果としての様態を産出し、この様態がものであるということをみてき
、、
た。そしてひとつの同じものは、思惟属性と延長属性のもとでそれぞれとらえられたとき、
それぞれの属性の様態という存在論的身分を持つ[ibid]。かくて「身体が精神の対象である
ということから、私たちは精神が身体と合一していることを示した」[E2P21D, E2P13S]
、、
といわれる。つまり心身の合一とはスピノザにとって、同じひとつのものが思惟と延長の
両属性のもとで捉えられているということに他ならない。ということはすなわち、精神は、
、、
始まりと終わりを持つ実在を有する身体と同じひとつのものなのだから、それ自身も始ま
りと終わりのある実在を有するということになる。
「精神が自らの身体の現実的実在を表現
するのは[…]身体が持続するあいだのみである」[E5P21D]ということばは、さしあたりい
まいったことを含意していると考えることができよう。このように有限であり、規定され
た実在を有する私たちは、しかし他方で、それでもなお永遠なるものに根ざしており、さ
らに私たち自身が「永遠である」[E5P23S]とまで語られる。以下ではこの人間の永遠性が
『エチカ』でいかに語られているのかということの検討へと移ろう。
、、
個別的なものの永遠性:本質と実在268
、、
永遠性は次のように定義される。
「永遠性ということによって私は、永遠なるものの定義
のみから必然的に帰結すると概念されるかぎりでの実在そのものを知解する」[E1Def8]。
諸家の指摘するように、この定義で問題となる論点は、第一に、実在のありかたにかんし
て永遠性が語られているということ、第二に、この定義には一見したところ循環が含まれ
ているということである269。まずは第二点目からみよう。
この定義にみられる循環とは、永遠性が被定義項であるにもかかわらず、定義項の方に
も永遠ということばがあらわれているということである。この点にかんして Gueroult は、
、、
「根本的に、そして十分な仕方で」永遠性を規定するのが、「或るものがそれ自身によって
必然的に実在するという特質」であるとし、その結果定義された永遠性は本来的には神=
実体とその諸属性にのみ適するということになる270。いいかえれば、彼はそれ自身によっ
268
、
以下では本稿の主題である本質と実在の概念を軸として『エチカ』における個別的なも
、
のの永遠性についての議論を検討していく。紙幅の関係上、認識の種別(第二種認識と第
三種認識)と永遠性とのかかわりを立ち入って検討することはできないけれど、本稿の議
論は『エチカ』における永遠性の体系的構造、位置づけ、意義を十分に示しえていると思
われる。
269 それぞれ、Jaquet[1997]p.90, P.-F. Moreau[1994]p.506, 鈴木[2006]p.193、
Gueroult[1968]p.78-80 と、P.-F. Moreau[1994]p.503, 鈴木[2006]p.193,
Gueroult[1968]p.78 参照。
270 Gueroult[1968]pp.78-79. また Gueroult[1974]p.610 をも参照。
110
、、
て必然的に実在するものの当の実在のありかたに、永遠性という名が与えられていると考
えていると思われる。そのため彼はのちの行論で、「属性によって永遠」という規定を与え
られる無限様態[E1P21]にかんして、いまみた彼の永遠性理解によれば様態には厳密にいえ
ば永遠性を語りえないということになるため、無限様態の永遠性が「厳密には恒常性
[perpétuité]ないし全時間性[sempiternité]でしかない」と語ることになる 271。けれどもこ
の定義そのものにかんして、Gueroult とは違う読み方が可能であり、こちらの方が正当な
理解であると思われるため、以下にこの読みを提示する。
永遠性が「実在そのもの」と定義されており、いいかえれば実在のありかたであるとい
う先にみた第一点目に着眼することがまずは重要である。さらに或る実在が永遠といわれ
、、
る条件として、その実在が「永遠なるものの定義のみから必然的に帰結する」ということ
、、
が語られているという点をおさえておこう。Matheron のいうように、この「永遠なるもの
、、
の定義のみから」という表現は、A)
〈その実在が永遠といわれる当のものの定義のみから〉、
、、
あるいは B)〈その実在が永遠といわれる当のものとはことなる、A によって永遠といわれ
、、
るものの定義のみから〉
、という二通りに読むことができる272。したがってこうなると、神、
実体、属性は A によって無条件に永遠であり、無限様態は B によってその他の制限なしに
、、
無条件に永遠である273。それでは私たちが問題としている個別的なものについて、永遠性
はいかに語りうるのだろうか。
、、
先にみたように、個別的なものはその多数性と相互規定により規定された実在を有する。
、、
しかしながらなおこの個別的なものは、神からの必然的産出により B の条件を満たすこと
、、
、、
、
ができる。個別的なものの永遠性を語るには、この条件のうちの「永遠なるものの定義の
、、、
みから」[強調引用者]という点が肝要になるはずである。とはいえ、ここまでの形式的な議
、、
論からもすでに明らかなように、個別的なものについて二つの実在、すなわち始まりと終
わりを持つ規定された実在と、永遠といわれる実在が語りうるということになる。この二
、、
つの実在がいかにしてともに個別的なものについて語られているのかを、より内容に立ち
、、
入って検討していく必要がある。この作業はさらに、個別的なものである人間の本質と実
在の内実を把握する作業ともなるはずである274。
スピノザが明らかに二通りの実在について語っているテクストがある。第 2 部定理 45 備
、、
考である275。ここでみいだされるのは、個別的なものの 1)持続と等置されうる実在、つま
Gueroult[1968]p.309.
Matheron[2011-6]p.681. この Matheron の解釈に同調するものとして、Jaquet[1997]
p.91.
273 Matheron[2011-6]pp.681-682. Cf. P.-F. Moreau[1994]p.510.
274 以下の議論は Matheron[2011-6]の議論に多くを負っている。なお永遠性の解釈におい
て、第二種認識と第三種認識それぞれによる永遠性の理解の異同が問われることがあるが、
本稿では紙幅の関係上立ち入ることができない。
、、
275 この備考が付された第 2 部定理 45 が、諸家によって個別的なものの本質の認識である
第三種認識の導入の定理と考えられており(cf. Macherey[1997]p.347, Gueroult[1974]
、、
pp.416ff.)、個別的なものの本質を考えるうえでも重要な場面である。
271
272
111
り上にみてきたような規定された実在と、2)「実在の本性そのもの[ipsa natura existentia]」、
、、
「神の内に在るかぎりでの個別的なものの実在そのもの」という二通りのものである。こ
の区別を正確に理解するには、これが提示された文脈をおさえる必要がある。
、、
スピノザはこの備考で「ここで私は〈実在〉ということで、持続を、すなわち抽象的に
概念され、量の一種として概念されるかぎりでの実在を知解しているのではない、という
のも、私は実在の本性について語っているのである[…]」[強調引用者、二通りの実在を区
、、、
別するため以下しばらく〈〉を付す]という。
「ここで」というのは、佐藤のいうとおり第 2
、、
部定理 45 証明を参照していると考えられる276。つまり、「現実的に実在する個別的なもの
、、
の観念は、当のものの本質と〈実在〉
を必然的に含んでいる(第 2 部定理 8 系より)」[E2P45D]
という一文の〈実在〉が参照されているのである。
、、
この一文が参照する第 2 部定理 8 系をみてみよう。「[a] 個別的なものが神の属性のうち
に 包 含 さ れ て い る か ぎ り に お い て の み 実 在 す る あ い だ は 、 そ れ ら の 対 象 的 有 [esse
objectivum]、いうなら観念は、神の無限な観念が実在するかぎりにおいてのみ実在する、
、、
そして[b]個別的なものがたんに神の属性のうちに包含されているのみではなく、さらに持
続するといわれるかぎりでも実在するとき、それらの観念もまた、それによって持続する
といわれる実在を含む」[a と b は便宜のための挿入]。Gueroult はこの系の a の部分で語ら
、、
れる「神の属性のうちに包含されているかぎりでのみ実在する個別的なもの」の観念を、
、、
個別的なものの「永遠な本質」の観念と解釈する277。柏葉も指摘するとおり、この Gueroult
のように a の部分を「本質」についての記述とみなす解釈はきわめて多い278。しかしなが
ら、テクストそのものを尊重すれば、a で語られているのは「神の属性のうちに包含されて
、、
いるかぎりで」の個別的なものの実在と、それについての観念であって、要するに問題と
なっているのは本質ではなく実在である。ところで、第 2 部定理 45 備考によれば、定理 45
、、
の証明で語られている〈実在〉が「神の内に在るかぎりでの個別的なものの実在そのもの」
であるとはっきりと限定していたのだから、第 2 部定理 8 系への参照の意図は、この意味
、、
での〈実在〉が個別的なものの観念に含まれているということをいかに理解すべきか、ま
さにこの点を示すためにあると考える必要がある。こういうわけだから、若干パラフレー
、、
、、
ズしていえば、〈現実的に実在している個別的なものの観念が当のものの〈実在〉を含んで
、、
いる〉ということと、〈個別的なものが神の属性に包含されているかぎりで〈実在〉し、そ
れについての観念もまた同じ意味で〈実在〉する〉ということとが同義であると理解され
なければならない。こうなるとさらに問われるべきは、「神のうちに在る」ということと、
276
佐藤[2004]p.122.
Gueroult[1974]p.93, p.95.
278 柏葉[2009/2010]pp.37-38. なお Macherey[1997]pp.90-92, pp.91-92, n.2, Matheron
[2011-6]p.682 もこうした解釈に含まれ、この点で私たちの解釈は Matheron のものと分か
れる。なお Deleuze は「本質の実在」という理解の困難な概念を提示する(Deleuze[1968]
pp.176-177, p.183, p.195, p.291, Deleuze[1981]p.100, p.103)。Delbos も同様である
(Delbos [1950]pp.161-162)。
277
112
「神の属性に包含されている」という表現が、ことがらとしてはいかなる事態を示してい
るのかという点である。この点にかんして第 2 部定理 45 備考は次のようにいう。個別的な
、、
ものの「実在の本性」は、「神の本性の永遠なる必然性から、無限のものが無限の仕方で帰
、、
、、
結する(第 1 部定理 16 をみよ)がゆえに、個別的なものに帰される」と。つまり神の必然
、、、、
的原因性が重要となるということである279。これは第 2 部定理 45 証明をみても確認される。
、、
つまり「神の属性に包含されている」というのは、「個別的なものはそれ自身が様態となっ
ている属性のもとで神が考察されるかぎりにおいて神を原因とする」[E2P45D]ということ
、、
に他ならない。こうして原因性に着目することで、さらに当該証明でなぜ個別的なものの
〈実在〉だけでなく、本質もがともに語られているのかという点をも理解することができ
、、
る。というのは、私たちが第 4 章でみたように、神の本性の必然性280から、すべてのもの
の実在と本質がともに必然的に帰結するからである。したがって、ここまでの議論から、
第 2 部定理 45 備考で語られた〈実在〉、実在の本性とは、本質と実在の同一性が肯定され
、、
た無限の活動実現状態にある神=実体、いいかえればすべてのものの存在論的基盤である
神から必然的に産出されるかぎりでの実在であって、本質の方もまた同様に必然的に産出
されるかぎりでの本質である、ということが明確になる。
ここまでみてきたような意味での実在と本質のより具体的な内実の検討にふみこむまえ
、、
に、上に述べてきたことを原因性の観点から整理しなおしてみよう。個別的なものにかん
する永遠性と持続(有限)実在にかんして、原因性の観点から一見したところ整合的な解
釈を提示しているのは J. Moreau である。まず彼によれば、先に Gueroult に代表させた解
、、
釈にみられるように281、個別的なものにかんして永遠性を語りうるのは何よりも本質であ
、、
個別的なものについての観念の方は、「神の無限な観念が実在するかぎりで」実在する
といわれるが、「神の観念」は、そこから無限なものが無限な仕方で必然的に帰結する観念
であるといわれるため[E2P3, P4]、観念にかんしてもなお原因性が強調されていると読むこ
とができる。なお永遠性にかんする原因性の観点の重要性について、Gueroult[1974]pp.419421, p.421, p.439 をも参照。
280 本質と実在が同一である神は、無条件に永遠性を有する。さらに、永遠性は実在のあり
方であった。ところで神(より正確にはその属性)にかんして、その「実在の無限性と必
然性、いうなら(定義 8 より同じことだが)永遠性」[E1P23D]が語られ、神の本質と実在
は同一なので、
「永遠性は、必然的な実在を含むかぎりでの神の本質そのものである(第 1 部
定義 8 より)」[E5P30D]といわれることになる。Cf. Gueroult[1974]p.612.
281 この Gueroult の理解はとりわけ彼の無限様態論で典型的に表れる。つまり彼によれば、
直接無限様態[E1P21]は「諸本質の世界」であり、そこから帰結するとされる間接無限様態
[E1P22]は「諸実在の世界」であり、それぞれが永遠性と持続性を担う(Gueroult[1968]
p.325)。間接無限様態にもなお永遠性が語られるのではないかという当然の疑問に対して
彼は、間接無限様態が個別的な実在物の「全体」として、その構成物は変化するがそれ自
体は全体として不変であるという点で永遠性(この場合明らかに「不変性」になるわけだ
が)を確保しようとする(cf.Gueroult[1968]p.318)。また直接無限様態についてテクスト
上明らかに「実在」が語られているという点について彼は、この「実在」がまさに「本質
の事象性の永遠なる現実性である、あらゆる持続の外なる永遠の現実性を享受すること」
を示すという解釈を提示している(Gueroult[1968]pp.326-327)。この Gueroult の本質と
279
113
って、実在はのっけから持続性を担わされている。そのうえで、神の本性からの必然的導
出[E1P16]を「垂直の原因性[causalité verticale]」とみなし、永遠なる本質が(無限様態を
介して)導出されるとされ、有限なもののあいだの原因性 [E1P28]を「水平の原因性
[causalité horizontale]」とみなし、こちらはもっぱら持続実在を生じさせるものとする。
、、
かくて神はものの本質と実在の作用因であるという定理[E1P25]は、この二種の原因性から
解釈されることで、本質は永遠であり、実在は持続であるとされることになる 282。けれど
も私たちが第 4 章で詳細に示したように、
「神が自己原因であるといわれるその意味におい
、、
て、神はすべてのものの原因である」[E1P25S]ということを核としているこの第 1 部定理
25 は、その本質と実在がともに永遠真理として同一的である神=実体(自己原因)の必然
、、
性から、個別的なものの本質と実在がともに必然的に帰結するということを語っていた。
、、
したがって個別的なものの本質のみを永遠とし、実在をもっぱら持続するものとして、永
遠性にあずかることのないものとして隔絶させてしまう解釈は退けられなければならない。
さて他方で、神の本性の必然性から無限に多くのものが無限の仕方で帰結するために、
、、
個別的なものは同時に多数性を必然的に伴い、それらのあいだで相互規定にからめとられ
る。有限性が語られるのは、こうした多数性と相互規定によってであった。つまりこの点
、、
において個別的なものは有限であり、規定された実在を持つといわれたのである。「個別的
、、
、、、、、、 、、、
なものがたんに神の属性のうちに包含されているのみではなく、さらに持続するといわれ
、、
るかぎりでも実在するとき、それらの観念もまた、それによって持続するといわれる実在
を含む」[E2P8C:強調引用者]という先の引用の b の部分はまさにこのように解釈できる。
、、
これはいいかえれば、個別的なものが「自然の共通の順序」[E2P30D]、「諸原因の無限な
連結」[E5P6D]にからめとられているという事態である。
、、
ところで、個別的なものは様態であり、神から産出された結果であって、その本質は実
、、
、、
在を含まないといわれていた。これは個別的なものが現に実在していても、当のものの本
、、
質のみに着目するかぎり、それだけでは当のものが実在しているという事実を説明しえな
、、
、、
いということであり、いいかえれば、個別的なものの実在を生じさせるのは当のものの本
質ではないということである283。そしてまさにこの点に神=実体の本質と同一化される実
、、
在と、個別的なもの(様態)の実在との差異が存する(「私たちは実体の実在を、諸様態の
実在とはまったく[toto genere]ことなるものと概念する」[Ep12, Geb.,Ⅳ,p.54:15-16])。し
かしながら、ここまで何度も確認してきたように、有限であり、規定された実在を有する
実在の分断は、彼の永遠性の解釈にも波及している(cf. Gueroult[1974]p.611, n.4)。
282 J. Moreau[1983]pp.27-28.なおスピノザ研究史ではいわゆる「たて」と「よこ」の二種
の原因性がしばしば語られるが、この語の使用者によってその内実はまちまちであり、注
意を要する。たとえば Yovel は「水平」の原因性を有限物の外的原因性、機械論的原因性と
読み(第 1 部定理 28)、
「垂直」の原因性を内在因としての神からの個別化する論理法則と
いう原因性(第 1 部定理 16、 同定理 25)と解釈している(Yovel[1990]p.160)。また Deleuze
による批判的な提示をも参照(Deleuze[1981]pp.78-79)。
283 さらにいいかえれば、実在しはじめることも、実在し終えることも、それ自身の本性か
らは出てこないということである(Macherey[1998]pp.34-35, n.2)。
114
、、
といわれる個別的なものは同時に、先の引用部 b の強調部も示すように、神の本性の必然
性からその本質と実在がともに必然的に帰結するのである。
ではこのように必然的に産出されるかぎりでの本質と実在の具体的内実とはいかなるも
、、
のであろうか。それは各々の個別的なもの が「実在することに固執する力[vis]」である
[E2P45S]。ここで原因性のもうひとつの項を思い起こそう。神の本性の必然性から必然的
、、
に帰結するのは、個別的なものの本質、実在、はたらきの三者であった。それゆえこの「実
、、 、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
在することに固執する力」は、個別的なものの実在と本質とはたらきの三者が統合された
、、、、、、
、、
活動実現状態と考えるべきであることになる。たしかに、個別的なものはその多数性と相
互規定、「諸原因の無限な連結」[E5P6D]によって規定された実在を有する自らの身体を持
つ。とはいえこの規定された実在を有する身体を必然的に、逃れようもなく有すると同時
に、自らの存在論的基盤である神=自然に根ざす実在の本性、
「実在することに固執する力」
、、
をも与えられており、まさにそれゆえ個別的なものは、規定された実在を有する自らの身
体を保存することに努める。この意味で、「私たちの精神の第一で主要なものはコナトゥス
[努力]、
(第 3 部定理 7 より)私たちの身体の実在を肯定することである」[E3P10D]。そし
、、
てこのコナトゥスは、個別的なものの「現実的本質」である[E3P7]。そしてはたらきは力
能であったわけだから、このコナトゥスが力能と並べられることになるのである[potentia
sive conatus][E3P7D]。
、、
ところで、
「ものは二通りの仕方で私たちに現実的[actualis]と概念される、つまり、当の
、、
、、
ものを一定の時間と場所で実在すると概念するかぎりにおいてか、または当のものが神の
うちに含まれ、神の本性の必然性から帰結すると概念するかぎりにおいてである」[E5P29S]。
つまり、有限であるといわれ、規定された実在を有するこの身体の実在にかんしても、ま
、、
たこの身体を有する個別的なものが神の必然的原因性によって産出されるために、それに
、、、
帰される実在の本性、すなわち実在することに固執する力にかんしても、両者がともに「現
実的」といわれるのである。そして「現実的に実在する」ということは、この二通りの意
味を包含するかたちで、
「存在し、はたらきをなし、そして生きること」([esse, agere,& vivere,
hoc est, actu existere])[E4P21]ということができるはずである。スピノザはこの二通りの
、、
現実性のうちの後者、すなわち神の必然的原因性の観点からとらえられたものこそが、
「真、
、、
、、
あるいは事象的」なものとして概念されるのであり、この観点からものを理解するという
、、
ことが、
「永遠の相のもとで284」ものをとらえることであるという[E5P29S]。先に私たちは、
、、
、、
、、、、
個別的なものの永遠性の理解にとって、「永遠なるものの定義のみから」という点が肝要と
なるはずだという見通しをつけていた。神からの必然的産出に焦点を絞ることがまさに、
、、
個別的なものについて永遠性を語るということなのであり、さらにこの産出するものであ
sub specie aeterninatis の species をどう訳すかという点にかんして様々な解釈がある
が、私たちは species が「精神によってみられた存在の可知的な表現[expression intelligible
de l’être, vue par l’esprit]」を示すギリシア語の「エイドス」に対応するという Rodis-Lewis
の指摘をふまえて「相」と訳す(Rodis-Lewis 自身は forme という訳語を提示している
Rodis-Lewis[1986]p.212, n.16)。また Gueroult[1974]pp.609-615 をも参照。
284
115
、、
る神=実体が真理性の基盤でもあったがゆえに、原因性への注視が個別的なものについて
「真」を語る条件となるのである。それゆえ私たちは Matheron とともに、実在すること
に固執する力、コナトゥスが「私たちの本質と同一視される、実在することの永遠なる力
、、
能である」と結論付けることができる285。いいかえれば、個別的なものの本質、実在、は
たらきの三者の統合が、「神の本性を介して永遠真理として」[E5P37D]みなされるという
こともできるだろう286。
、、
とはいえ、こうした神からの必然的産出は、すべての個別的なものにかんして、全般的
に語りうることがらである。
「私は第 1 部において、すべてが(したがって人間精神もまた)
本質にかんしても実在にかんしても神に依っているということを一般的に示したけれども、
この証明は、正当でありまた疑念の余地がないとはいえ、しかしながらこの同じことが、
、、、、、、、、、、、、、、、、、、
私たちが神に依っていると語った各々の個別的なものの本質そのものから 結論されるほど
には、私たちの精神を触発しないのである」[E5P36S:強調引用者]。最後にこの一文の意味
を検討しよう。
Matheron[2011-6]p.683.
したがって、J. Moreau のように、スピノザ哲学に本質と実在の二元論をみてとり、様
態にかんしては本質のみが永遠とする解釈に同意することはできない(J. Moreau[1978]
、、
pp.449-450)。なお、「諸々のものとそれらの諸変状もまた永遠の真理であるかどうか」と
たずねられたさい、「私はまったくそのとおりであると言う」とする「書簡 10」をも参照
(Ep10, Geb., Ⅳ, p.47:18-19)。
285
286
116
結論
「私たちはたえざる変化のうちに生きている[nos in continua vivimus variatione]」
[E5P39S]。私たちが現に手にしている一定の富や名誉も、その本性上確実といえるような
何ものかではない。とかく定めがたい人に世においてもなお、本性上確実な何かをみいだ
すこと、移ろいゆく世に住まう私たち自身が、何か確固永遠なるものに根ざしているとい
うこと、これを示すことに『改善論』からのスピノザの一貫した倫理学的志向が存する。
『エ
チカ』の第 1 部では、定義を出発点とする諸論証を介することで、その本質と実在が永遠
真理として同一的である神=実体が、認識論的かつ存在論的な基盤として、『エチカ』の議
論全体の真理性の基礎となるとともに、『エチカ』の議論がそこに根ざし、かつそれを説明
しようとしている「自然」いうなら「世界」そのものの基礎となること、さらには神=実
体が自然そのものであることを確立する。第 1 部はこの認識論的かつ存在論的基盤、原理
、、
的なものから、さらに原因性を介してものの本質と実在を包括的、体系的に説明していく。
こうした方向性は、全体的な構成から出発してその諸部分へと展開していくという意味で
「トップダウン」の形而上学ということもできよう 287。かくて人間を含むすべての個別的
、、
、、
なものの本質と実在が神から必然的に帰結する。この必然的産出の観点からものをとらえ
、、
ることが、個別的なものを永遠の相のもとでとらえるということであった。したがってト
、
ップダウンの形而上学の方向性にそくするかぎり、こうした永遠性の認識は「すべてのも
、
、、
のに共通」な認識(cf. 『エチカ』第 2 部定理 46 証明)、すべてのものに一般的に語りうる
、、
認識である。しかしながら、この同一の永遠性の認識が「各々の個別的なものの本質その
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ものから結論される」場合には、当の個別的なものの精神をより触発するとされていた。
はたしてこのことは何をいわんとしているのだろうか。
現実的に実在するということは、生きているということに他ならなかった。そして生き
、、
ること、現実的に実在することは、自らのこの身体のもとで、現実に定位しているという
ことである。スピノザが高度に思弁的な存在論、認識論的構造を論じたのちの、第 2 部の
はじまりの定義に、身体・物体[corpus]の定義を置いたということは、いかに思弁的なこと
がらを思考していようとも、私たちが現にこの身体を持って、この身体と合一してこの現
実につなぎとめられているという事実への思考の向けかえを示すものと考えることはでき
ないだろうか。
「人間精神とその最高の至福の認識」[E2I]に至るには、私たちが、自らをこ
の現実につなぎとめているこの身体とともに生きているという事実に、あくまでこの現実
に定位することが求められているのだと考えられないだろうか。たしかにスピノザは、精
神の永遠性が論じられるにさいして、「身体との関係なしに精神の持続に属することども」
の考察に移ると語っている[E5P20S 末尾288]。しかしながらこの表現は、精神の永遠性が身
287
288
A. Garret[2003]p.126、また同書、p.13 をも参照。
精神の永遠性が語られているこの場面で、一見すると時間性を含意するように思われる
117
体にまったくかかわらないということを意味しない289。精神の永遠性の論証の核となって
いるのは、まさに「身体の本質」に対する注視だからである[E5P22, E5P29]。そしてこの
身体の本質への注目は、神による必然的原因性へと帰されている[E5P22D]。いま現にこの
身体のもとで実在している私の実在は、二通りの仕方でとらえられるということを思い起
こそう。すなわち、1)一定の時間、場所、いまここに実在するものとしてか、2)神の本性の
必然性から生じるものとしてか、この二通りである。この第一の実在は、諸原因の無限な
、、
連鎖、自然の共通の秩序によって規定される実在、つまり個別的なものの相互規定によっ
て有限であり規定された実在である。いまここに実在する私のこの身体は、両親によって
生み出された。けれどもそののちにも、栄養摂取や成長などにより、この身体は変化して
きたし、いまも現に刻々と変化し続けている。さらにこの身体の源をたずね、両親の両親
へ等々と原因を遡及していっても、事実上この身体の実在の組成を全面的に説明する原因
をみいだすのは不可能なわざであろう290。けれども、それでもなお私たちは現に、いまこ
こに実在する。そして現実的に実在しているとは、まさに生きていることに他ならない。
さらに、私たちの本質とは、コナトゥス、実在することに固執する力である。この力はさ
、、
らに、個別的なものの実在と本質とはたらきの三者が統合された活動実現状態であり、こ
、、
の三者はともに神=自然から必然的に産出される。そしてこうしたものの産出の必然性は、
、、、、
「神の永遠なる本性の必然性そのもの」である[E2P44C2D:強調引用者]。つまり、私たち
は、神の本性について語られる必然性・永遠性と同一の必然性・永遠性のもとで、この身
「持続」という概念を持ち出すのは奇妙にも思える。しかしスピノザは持続と時間とを明
確に区別している。まず「時間」についていえば、時間は「表象することの様式[modus
imaginandi]」[Ep12, Geb.,Ⅳ, p.57:7-8, cf. CM1/5, Geb.,Ⅰ, p.234]であり、
「表象
[imaginatio]」は「感覚器官を介して、毀損し、錯雑とし、知性にとっての順序」にそくす
ことなく私たちに表象された[repraesentatis]個別的なもの[singularibus]から」形成される、
一般的、普遍的、抽象的なものにかかわる[E2P40S2, cf. E2P31/D, E2P44C1S, E4P62S]。
他方で「持続」の方はといえば、それは根本的には「実在することの無際限な継起」[E2Def5]
であり[cf. CM1/4, Geb.,Ⅰ, p.244:18-23]、その原因は神である[E1P24C]。そしてこの点に
のみ着目し、「諸原因の無限な連鎖」を考慮の外におけば、神からの産出の必然性により、
現在、過去、未来という時間規定にかかわりなく「真」で「確実」である[E4P62D]。とこ
ろが、私たちは持続を「恣意的に[pro libitu]規定する」習慣を有しており、持続が「永遠な
、、
るものどもから出てくる[fluit]様式から切り離す」ことで「時間」について語るようになる
[Ep12, Geb.,Ⅳ, p.56:16-p.57:1](私たちが先に引用した第 2 部定理 45 備考で、「持続、す
なわち抽象的に概念され、量の一種として概念されるかぎりでの実在」といわれていたの
は、私たちのこうした習慣を念頭においたものであると理解できる)
。したがって持続は本
性上時間の規定を有するものではない。むしろ持続は永遠性と両立しうるものである(cf.
Deleuze[1981]p.87, Bartuscat[1994]pp.207-208)。さらに Gueroult は、永遠性は持続によ
って説明されえないが[cf. E5P29D, E1Def8Exp, E5P23S]、しかし持続は永遠性によって説
明されうるという(Gueroult[1974]p.439, n.13)。
289 同様の解釈として、Jaquet[2005]p.45、また Rodis-Lewis[1986]p.212.
、、
290 Cf.「私たちの身体の持続は、自然の共通の秩序と諸々のものの組成[constitutio]に依っ
ている」[E2P30D]。
118
体とともに別様ではありえない仕方で現に生きており、くわえてこうした私たちの現実に
、、
おける生の必然性を説明する原因・理由は、私たちを含めたすべてのものの存在論的根拠
である神=自然の必然性に他ならないということである。このことをまた別の観点からい
いかえれば、私たちは私たち自身のみによって実在することができないということ、私た
ち自身が何であるかを理解するにも、自らのみを考えただけでは、それすらも理解しえな
いということ、ようするに私たちは「実体」ではないということである[cf. E2P10, E1Def3]。
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かくて「各々の個別的なものの本質そのものから」、私たち個別的なものが「本質にかんし
ても実在にかんしても神に依っている」ということ、その必然的産出により永遠であるこ
とが結論される。先にみたトップダウンの方向性に対して、ここまでみてきた方向性を、
永遠性・必然性の「個人化[personalize]291」とみることも可能であろう。私たちひとりひ
とりは現にいまここに実在している。そしてこのことは必然的な真理、すなわち、その反
対(いまここに実在しないということ)が「偽」といわれる真理であり、またこの真理は
実在の全領野を尽くす真理そのものの座としての神=実体=自然に基礎付けられているの
である。かくて、私たちが現に生きているということそのことから、そして厳密にこの事
実に定位しつつもなお、私たちが確固とした、可変性の侵食を受けることのない永遠性に
根ざし、かつ、現にいま生きているという現実の外に、あるいはこの現実を超えた参照点
や保証を要求することなしに、自らが永遠の真理として、その反対がありえないという必
然性のもとで生きているということを絶対的に肯定すること、これがスピノザのエチカな
のである。
たしかに〈事態はなぜ別様ではないのか〉と問うことなしには、現実が〈このようでし
かありえない〉という必然性を理解することはできないといわれるかもしれない。しかし
ながら第 4 章でみてきたように、
『エチカ』の読者である私たちひとりひとりは、その諸論
証を介して、この現実が別様ではありえないという必然性のもとで一義的に規定されてい
ることを、知性のはたらきを介して自ら理解し、体得していく。それでもなお〈事態はな
ぜ別様ではないのか〉と問うことは、私たちが現に生き、思考し、活動しているこの現実
から目をそらすことである。
、、
「ものは[現に]産出されてあるのとはことなるいかなる他の仕方においても、他の順序に
おいても神から産出されることはできなかった」[E1P33]という言明は、たしかにいま現に
私たちが生きていることの意味を抹消し、無意味化してしまうかもしれない。けれども私
たちは、私たちの生そのものの意味とは何か、生そのものに意味があるのかどうかという
、、、、、、、、、、、、、、
問いと、私たち自身の生について思考することそのこと の有意味性を厳密に区別すべきで
、、、
、、、、、、、、、、、、、、、、、
あると思われる。スピノザの『エチカ』、倫理学は、この現実そのものに厳格に定位してお
A. Garrett[2003]p.207. こうした二つの方向性からみられた永遠性はしかし、それぞれ
別個の永遠性を構成しているのではなく、あくまでひとつの同じ永遠性、別様ではありえ
ないという必然性の認識についての二つの区別されうる側面、観点である。この点にかん
してたとえば Gueroult[1974]p.612, Jaquet[1997]p.201 参照。
291
119
、
り、神=実体=自然は、この現実における生の理由、根拠を問うことを可能にする、存在
論的かつ認識論的基盤、私たちの生についての省察にとっての有意味性の条件である。そ
して『エチカ』の諸論証を追っていき、それらを理解していく者が体現していくのは、自
、、
、、
らのこの身体とともに在るこの生の絶対的肯定である。
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