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大阪YWCA「聖書を読む会」説教

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大阪YWCA「聖書を読む会」説教
大阪YWCA「聖書を読む会」説教
「十字架❸~なぜ、わたしをお見捨てになるのですか~」
マルコ 15 章 33~41 節
❶【エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ】
「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
」
(33 節)
とあります。三時間の皆既日食が起こったと云うのです。太陽は光を失い、暗
闇が地上を覆いました。昔の祈祷文は、真の太陽であるキリストが苦しんでい
るので、被造物の太陽も姿を隠したのだといいました。これは旧約のアモス書
の預言の成就でした。
「その日が来ると、と主なる神はいわれる。わたしは真
昼に太陽を沈ませ、白昼に大地を闇とする。
」
(アモス8:9)人間の罪は極み
に達し、ついに神の子を殺します。太陽の光を覆いつくすほど人間の罪は世界
を覆いました。
三時にイエス様は大声で「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と叫ばれまし
た。これは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」とい
う意味のアラマイク語です。詩篇の 22:1 にこれと同じ言葉が出てきます。
「わ
たしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」暗闇の中から
神の子イエス様は、神様を呼びます。イエス様は十字架にかかることが父なる
神の御心であるということを良く御存じでしたので、自ら十字架に登ったのに、
「なぜわたしを見捨てるのですか」とどうして祈られたのでしょう。これは絶
望の叫びでしょうか?疑う叫びでしょうか、考えてみましょう。
❷【見捨てられた人と連帯する叫び】
この三時間に亘る暗闇は、地獄を象徴しています。地獄とは神に見捨てられた
者が行くところです。神の愛も神からの光も届かず、赦しも命もない世界のこ
とです。御子イエス様の周りに暗闇が覆っていたということは、イエス様は地
獄に捨てられたということを象徴しています。
「なぜわたしをお見捨てになっ
たのですか」という叫びは全人類を代表した叫びです。イエス様は神から見捨
てられるという災いをも身に背負っておられます。こうしてイエス様は全ての
見捨てられた人と連帯し、どこまでも共にいてくださいます。しかし実際は人
間が神を捨てたのであって、神は決して人間を捨てられません。実に神様の名
前は「インマヌエル」
(神は我々と共におられる)だからです。この祈りは偉
大な神秘(不思議)です。
❸【信じていない叫びではなく、信じている叫びであること】
イエス様は午後の三時に暗闇の中からこの叫びをされました。午後三時という
のはその昔、アダムがエデンで罪を犯し、神様の足音を恐れて森の木々に身を
隠した時刻です。彼は神様の呼びかける声「あなたはどこにいるのか」に答え
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ようとせず、隠れました。今、新しいアダムであるイエス様は暗黒の中から神
様を呼んでいます。その昔は、人間が神を捨てましたが、今は神がイエスを捨
てます。その昔は神がアダムに向かって呼びかけますが、今はイエス様が神様
に向かって呼びかけています。その昔、アダムは神の顔を避けて隠れましたが、
今、神様の方がイエス様の顔を避けて隠れます。このようにして、イエス様が
最初のアダム人間の不信仰、不従順を次々と回復しておられるのが分かるでし
ょうか。だからイエス様の「なぜ」は信じていない「なぜ」ではなく、信じて
いるからこそ叫ぶ「なぜ」なのです。本当に信じていなかったら神の名を呼ぶ
こともしないはずです。親が答えなくても、赤ん坊が、力が尽きるまで泣き続
けて親を呼ぶようなものです。神様は今、み顔を隠していますが、それでもイ
エス様は神様の名を呼ぶのです。これこそ本物の信仰です。私たちは神様が答
えてくれないと、もう呼ぶことを辞めてしまいます。でもイエス様は、違いま
す。どこまでも呼び続けます。殺されても、見捨てられるような体験をしても
呼び続けます。
❸【御子が捨てられたのは、あなたが拾われるため】
今まではイエス様が父を呼べばすぐに父は答えてくれました。
「私の愛する者」
と声があったこともありました。何をなすべきか聞けば、父は「これをしなさ
い」といわれました。ところが今は、御子が父を呼んでも、いくら祈っても答
えはありません。叫んでも顔を背けます。耳を覆い、聞こうとしません。父な
る神は沈黙されます。詩篇はその御子イエス様の気持ちをこう預言しています。
「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわた
しを遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか。わたし
の神よ、昼は、呼び求めても答えて下さらない。夜も黙ることをお許しになら
ない。…私を遠く離れないでください。苦難が近づき、助けてくれる者はいな
いのです。…あなたは私を塵と死の中に打ち捨てられる。
」
(詩篇 22:1~3、
12、16)キリストは確実に捨てられたのです。この日、イエス様の代わりに一
人釈放された者がいます。名前をバラバといいます。バラバとは「父の子」と
いう意味です。捨て子につけられた名前です。彼は父に捨てられた子、殺人者
であり、鎖につながれて死を待っていました。彼はすべての人間の象徴です。
総督ピラトは、群集に「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか、そ
れともメシアといわれるイエスか。
」
(マタイ 27:17)といいました。バラバ
はイエス様と同じ名前でした。バラバは「父に捨てられた子」であり、イエス
様は「本当の父の子」でした。神様は自分の独り子であるイエス様を捨てて、
捨てられていたあなたを拾われるのです。イエス様が捨てられたのは、わたし
たち人間が拾われるためでした。
私たちは十字架の上に神の愛の姿を見ます。命の源が死に、言葉は黙り、自由
な方が釘打たれて不自由になり、すべての者の頭である方が最後の者となり、
2
裁く者が裁かれ、正しい方が罪人として殺され、祝福された方が呪われました。
こうして、生きるはずの者が死んで、死ぬはずの私が生かされました。捨てら
れるはずのない者が捨てられて、捨てられて当然な私が拾われたのです。
●インド人を飢えから救おうという情熱に燃えて、インドのビハール地方に赴
いたフランス人のイエズス会宣教師がいました。初めのころは本国から充分な
資金や医療や援助物資が届いていたのに、だんだん先細りになり、何年かたっ
たら、ついにぜんぜん物資が届かなくなったのです。彼は飢えた人々に与える
物が何一つなくなった時、裸一貫のジブンしか残っていないことに気づきまし
た。その日から彼はインド人と共に飢え、時々食卓に供されるパンをみんなと
一緒に分け合って食べるようになりました。彼は初めて真の愛が何であるかを
知ったといいます。
私はこの宣教師の姿と、キリストの姿がだぶるのです。彼らの求めに応じて、
欲しい物を欲しいだけ充分に与えることも大事でしょう。しかしそれよりもも
っとすばらしいのは飢えと痛みを共有し《分かち合うこと》です。
《分かち合
い》こそ、神の愛の姿です。神様は人間の痛み、苦しみ、罪、死を共に担われ
分かち合います。私たちは美味しいものや良いものは分け合いっこします。良
いものを分けてもらうのは誰でもうれしいのです。でも、悪いものをもらって
くれる者など見たことがありません。病気をもらってあげよう、不幸をもらっ
てあげよう、苦しみをもらってあげようなどという人は見たことがありません。
でもキリストはそれをしてくださいます。それこそ完全な愛なのです。
❹【信仰告白をした百人隊長】
イエス様が息を引き取られた時、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け
ました。この垂れ幕には天使ケルビムの刺繍がしてありました。それはエデン
の東を守っていた天使ケルビムと炎の剣はキリストの十字架によって退けら
れたことを意味しています。イエス様は、人間が罪によって閉ざしてしまった
天国・エデンの園を開かれました。またマタイの福音書の方では、イエス様が
息を引き取られた時、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いたと書かれています。
自然界は自分を創造された方が死なれるのを驚き、自らも震えて証しをします。
それらのさまざまな出来ごとを見て、百人隊長は「本当に、この人は神の子だ
った」
(39 節)と信仰告白をしました。イエス様が十字架から降りるという奇
跡を行ったのでこの人は信仰告白をしたのではありません。天使が助けに来た
から告白したのでもありません。イエス様の死に様を見て、この神からもっと
も遠くにいると思われている兵隊は信仰告白をしたのです。
●人が亡くなる瞬間、無性に神を感じる時があります。私が神学校時代に千里
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聖愛教会で奉仕をしていた時、教会員の A さんの死に様からある経験をいたし
ました。A さんは末期の肺癌で体中に転移しており、とても苦しがっておりま
した。体中に黄疸が出ており、唇は割れ、目は黄色になり、お腹は大きくはれ
てふくれあがり、見ていてとても痛々しかったのです。彼は若い頃は熱心に教
会に行っていましたが、仕事の忙しさの故に教会から離れていました。そんな
彼が定年になってから教会に帰って来て、神学生の私と一緒に熱心に牧師に仕
えていたのです。彼は罪滅ぼしつもりか、なぜか痛み止めを打とうとしません
でした。彼はベッドの上で、痛みのあまり転がり回っていました。それを見た
時、彼は私の代わりに苦しんでくれていると思ったのです。私だけではなく、
他のクリスチャンの代わりに苦しんでくれていると感じたのです。そしてキリ
ストが彼の横に立っていてこう言っておられるように聞こえたのです。
「悪魔
よ、彼の肉体はお前に引き渡そう。でもお前が手に入れることができるのは彼
の肉だけだ。彼の魂はわたしのものだ。誰にも魂は渡さない。誰にも手を触れ
させない。
」見ていると辛いのですが、何かものすごく天国を、神を感じたの
です。なぜか勇気が出てくるのです。A さん自身は、そんなことは一言もいっ
ていないのですが、神にしっかりと彼がとらえられているのを感じたのです。
私は、百人隊長は、キリストと共にいる神を感じたのだと思います。死をもっ
てしても、苦しみをもってしても引き離すことのできない強い愛を感じたのだ
と思います。
●藤井理恵先生の『たましいのケア』という本の中にこんな話が出てきました。
69 歳の男性のAさんは亡くなるまで15日間でした。
「入院したてのころは病
気のことばかり考えていました。だんだん悪くなって苦しくなってとうとう自
分も最後を迎えてしまうんだということばかり考えていました。何度考えて
も、いつもそこを頭がぐるぐる回るばかりでした。でも今はどうしても治りた
いとは思わなくなりました。
」詩篇23編の「たとい私は死の陰の谷を歩むと
も、災いを恐れません。あなたが私と共におられるからです」
(4節)を読ん
だ時、Aさんは「これが私の今の心です。
」といいました。亡くなる前日「心
はちっとも変わりません。心や魂のことを神様が心配してくださることを聞い
てからは、ずっと落ち着いています。これだけが私の支えです。だから私は強
いですよ。
」とほほえみ、お医者さんに「どこか少しでも楽な所はありますか」
と聞かれ「心が楽です」と答えられました。
今年の受難週間のことです。イザヤ 53 章を読みました。そこはキリストの受
難について預言しています。
「私たちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角
に向かっていった。その私たちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。
」
(53:
6)という所を読んだ時、はっと気づいたのです。
「私たちの罪をすべて」とあ
ります。一つ残らず、です。人を赦せない私の罪、人を愛せない私の罪も、全
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部です。ああ、そうだったんだと気づきました。何も変われない自分をそのま
まイエス様に任せていいのだと思いました。その時、私は茨の冠をかぶった十
字架の上にいる王イエス様を見たのです。彼が王として十字架の上から宣言す
るのが聞こえました。
「私は王としてお前に確かに宣言する。お前の罪の書付
は、今日私が破いた。お前は赦されたのだ。
」金曜日の礼拝の時、賛美のトー
ンが変わった時に、一切は終わったのだと肌で感じました。キリストは地上の
すべての罪と呪いを持っていかれました。十字架ですべての呪いは終わり、こ
こから新しいものが始まったのです。主は私に言われます。
「祝福された人た
ち、さあ、天地創造の時からお前のために用意してある私の王国に入れ。私と
共に永遠に生きなさい。
」その声を聞いたのです。そして体は軽くなり、私は
嬉しくなりました。2000 年前のキリストの十字架の前に立っているように感
じたのです。
人間にとって罪が赦されることほど大きな喜びはありません。この世界の悪の
問題というのは絶望的です。人間は底抜けの罪人です。どんなに失敗しても学
ぶことがありません。痛みが過ぎればすぐに忘れ、再び悪と罪の中に入って行
き、戦争を始めます。依存症も治りません。関わることを通して嫌というほど
思い知らされます。このどうにもならない罪と悪の問題、死の問題を、キリス
トが負って下さいました。わたしはそこに平安を感じるのです。イエス様に負
ってもらうしかないのです。
人間はキリストに対して悪を働きましたが、神はそれをすべて善に変えて下さ
いました。キリストの脇腹から神の命と赦しが、この世に流れ出ました。イエ
ス様の流された血が、破壊された大地の上に注がれました。万物を清め新しく
するためです。こうして土の呪いは終わりました。この十字架によって万物は
命を吹き返します。キリストは地上のすべての罪と呪いを持っていかれました。
十字架ですべての呪いは終わり、ここから新しいものが始まったのです。
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