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マルコの福音書 15章1節から41節 e-聖書研究会 奥田 昭 1、本日の
マルコの福音書 15章1節から41節 e-聖書研究会 奥田 昭 1、本日のメッセージの箇所はマルコの福音書15 章 1 節から41 節です。お読みいたしま す。今日はこの箇所から、「十字架上でのイエスの祈り」という主題テーマで、聖書からの 教えを学びたいと思います。お祈りをいたします。 2、本日の聖書箇所は大変長いですから、いくつかの部分に分けて話したいとおもいます。 まず、15 章の 1 節から 5 節です。 先週までは、ゲンセマネでの祈りのあと、ローマ兵に捕らえられ、まず、大祭司の前で審 問 、これは宗教 裁 判ですが、これが行なわれ有罪 ときまりました。そのからの話しが今 日 の始まりです。長い夜が明けました。長老、律法学者たちと全議会がイエスを 2 回目の裁 判、政治裁判といわれるものを行ないました。全議会とありますが、これを、サンヘドリンと 言って大祭司、律法学者など 71 人で構成するユダヤの最高議会です。すべての問題の 裁判権もありました。日本で言えば、国会と最高裁判所を併せ持った権力機関です。 しかし、ユダヤは当 時 ローマ帝 国 の支 配の下 にありましたから、ローマから派 遣された総 督ピラトが最高の権力者でした。そこで、サンヘドリン、ユダヤ議会はピラトの元で、ローマ 法による裁判がおこわれるようにイエスを引き渡したのです。なぜなら、ローマ法によれば ユダヤ人には死刑執行の権利はみとめられていなかったからです。死刑を実際に執行す るには、ローマ政府の、ここではピラトの宣告が必要だったからです。裁判の目的はイエス を死刑にするものでした。裁判では、イエスはユダヤの王ですかと言う質問以外にはお答 えになりませんでした。このようなでたらめな裁判では何を言っても一切無駄と分かってい たからです。イエスは沈黙されたのです。 3、次ぎは 6 節から 15 節です。祭りには囚人をひとり赦すことが習慣でした。群集は囚人 一人を赦免する特例に訴え「バラバ」の釈放を求めました。ピラトは、ユダヤの指導者たち が「ねたみ」からイエスを訴 えていることに気 づきました。ピラトは「このユダヤ人 の王を釈 放してくれというのか」とたずねた。しかし、祭司長たちは群集を扇動して、バラバの釈放し てもらいたいと言わせました。ピラトは再 度群 集 に考 え直 すようにさせますが、群集は「十 字架につけろ」叫ぶのでした。ピラトは三度「あの人はどんな悪い事をしたのか」と言いまし たが、もはや群集は扇動に乗せられて「十字架につけろ」とくりかえすだけでした。ピラトは バラバを釈 放し、イエスを鞭 打ってからローマ兵に引 き渡します。死刑 の理 由 はローマ皇 帝 への反逆 罪でした。執 行 方 法は十 字架 刑 でした。しかし、ここでも神のおおいなるご節 理があったと思われます。なぜなら、ユダヤ人 教 の死刑の方 法は石 打の刑による方法が 普通でした。しかし、ローマ法による奴隷の死刑 が十字架でした。イエスは旧約聖書の預 言のように、十字架 に掛 からねばなりませんでした。申命記21-22・23によれば、死体 は木につるして、さらしものにすることが掛かれています。このようにして木につるされ、死 んだものは神のいかりと呪いのもとにおかれているしるしでした。ガラテヤ書にも、「キリス トは、私 たちのためにのろわれたものとなって、私 たちを律 法ののろいから贖 いだしてくだ さいました。なぜなら、「木 にかけられる者 はすべてのろわれたものである。」とかいてある からです。」されています。神の摂理はローマ法による、奴隷の死、十字架、それが神の呪 いを負うというものなのです。 4、16 節から 20 節では、ローマの兵士たちの嘲笑があります。死刑の判決が下された後、 キリストは精 神 的 、肉体的 な侮 辱 、屈 辱を味 わいます。まず、総督 官 邸内 で全 部 隊 が召 集され、軍隊あげて嘲笑されます。「紫の衣」を着せられますが、これは王の着る服でした。 「いばらの冠」は王としての印ですが、いばらですから頭からは血がながれました。「ユダヤ 人 の王 さま、ばんざい」と嘲 弄します。「ひざまづいて拝 んだ」は皇 帝礼拝 をまねて嘲 笑 し たのです。そのほか、「葦 の棒 で頭 をたたきます」また「つばきをかけます」このようなかず かずの嘲笑行為に加え、さきほどの鞭打ち刑です。これは残酷なものでした。「パッション」 という映画を見た方はそれがどのようなもので思い出していただけます。むちはとがった金 属がつけられていました。したがってそれで鞭打つと、当然肉は破れ、血だらけになります。 それでだけで生き絶えていった人も多くいたそうです。イエスは十字架の前にすでにさまざ まな肉体的な激痛、精神的な侮辱、屈辱を味あわされていたのです。 5、21 節から 32 節です。イエスの十字架は人類最大の出来事です。イエスはローマ兵に 囲まれて刑場へ向かいます。十字架は普通、縦と横の木を組み合わせたものでした。そし てその横木は、処刑場に囚人がもっていったのです。イエスも最初は自分で背負っていま したが、やがて肉体的衰弱のために背負いきれなくなりました。そこで兵士はシモンという 人 にむりやり背負わせるのです。処刑 場はゴルゴダという場所 でした。これはどくろ、と言 う意 味 があります。十 字 架 の刑 は当 時 のローマの極 刑 で、奴 隷 を処 罰 する方 法 でした。 十字架の上で両手足に釘を打ちつけます。全体重が両手の釘にかかり、からだは宙吊り 状 態 になる。体 中の関節 や筋 が外 れ、呼吸 ができなくなります。呼吸するためには、から だを持ち上げる必要 があります。生きつづけるためには、この動 作を繰 り返す必要があり、 これこそ生きて地獄を味わうことでなのです。それがいつまでつづくか、本人の体力しだい です。ちなみに現在の日本も死刑制度はありますが、それがたとえどのような極悪な犯罪 であっても、憲法 で十字 架による死刑 は認められていません。あまりにも残虐な刑 にあた るからです。十 字 架 刑 はそれくらい残 虐 な刑 だったのです。道 行 く群 集 や、祭 司 長 、また 一緒に十字架につけられた強盗も、それぞれ好き勝手にあざけりました。 6、十字架刑は、午前 9 時から午後 3 時まで、6時間におよびました。3時に息を引き取る 間際にイエスは「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれました。それは「わが神、わが 神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と言う意味です。十字架刑は単なる処刑 ではありません。神からののろいを一身に身を受けた恐ろしいさばきの死、孤独の死です。 神 から見 捨 てられたのです。我 々の全 人 類 の罪 のために、イエス一 人がのろわれた者と なってくださったのです。イエスが神から見捨てられたのは、人間の罪の身代わりとなって、 罪 の刑 罰として十 字架にかけられたからです。イザヤ書 に「彼は多 くの人 の罪を負い、そ むいた人あちのためにとりなしをする。」(53-12)イエスは1度も父なる神に対して「わが 神」といったことはありませんでした。イエスの呼びかけは、いつも「アバ父よ」「わたしの父 よ」でした。イエスは十 字架 上 ではじめて「わが神」と呼 んだのです。その理 由 は父 なる神 とイエスとの親子関係が切れたからです。神から見捨てられたと言うことは、霊的な死です。 そこで、イエスは助けを求める祈りをしたのです。これは詩篇22篇からの祈りでした。イエ スは神 の怒 りを体 験 するなかで、神 の助 けを求 める祈 りをしたのです。そして、神 はその 祈りに答えられるのです。12時から3時まで全地が暗くなりました。そしてイエスが息を引 き取った時に神殿の幕が真二つに裂けました。神の超自然のはたらきです。神のひとり子 イエスの十字架でのさばきをなさった父なる神の大いなる痛みでしょう。また、神殿の幕が 裂かれたのは、神と人間との隔てていた壁が取り除かれたことを意味しています。 7、ここでもう1度、だれがイエスを十字架につけたのか、振返ってみましょう。 まず、ピラト、使徒信条にも「ポンテオ、ピラトの苦しみを受け」とあります。かれはそもそ もイエスの有罪を信じていないふりがあります。その証拠に3度も「あの人はどんなことをし たのか」と釈 放させることを群集に問いかけます。しかし、権力 者の常 は自己の地 位を守 ることにあります。自分 の信念よりも、大衆のご機嫌をうかがうのです。群集の「十字架に つけろ」の声に、自分の身の安全を判断して、死刑を宣告するのです。 次ぎ2番目に、祭司長、律法学者たちです、彼等はイエスが自分たちの地位、既得権益 を犯されると判断したのです。彼等はユダヤ教を自分たちの都合のよいように歪め、悪用 していました。イエスの存在は彼らの不正、悪徳を暴かれるとおそれたのです。かれらも自 分の身の安全という自己中心の判断が、彼らの行動に踏み切らせたのです。 3番目はローマ兵です。かれらは総督ピラトの命令を聞く立場にあったことは当然です。 しかし、彼らがイエスをいかに嘲弄し、侮辱したかは、聖書に克明に描かれています。かれ らはイエスに精 神 的 、肉体 的 に様 々なかたちで屈 辱 を与えました。彼 らの罪 もまた、その ままにされないでしょう。 4番目は群集です。わずか、数日前までは「ホサナ、ホサナ」とお迎えしたはずです。しか し、権力者たちに扇動され、いとも簡単 に「十字 架につけろ」と大 合唱をするのです。いか にも軽薄で無責任な姿 があります。感情や雰囲 気やうわさに流される、なさけないほどの 群衆の姿をみることができます。日本の大衆だけではなかった、というのが実感です。 5番目はイエスの弟子 です。ユダはイエスを裏 切り、祭司 長たちにイエスを売ります。十 字 架 にかけた張本 人です。しかし、ペテロをはじめ、残りの11人の弟子も裏 切りイエスを おいて逃げていきました。このような裏切りがなければどうなっていたかわかりません。しか し、イエスを裏切った罪は残ります。 6番目、イエスは誰の罪のために十字架 にかかったのでしょうか。それは全人類の罪か らの救いのためです。その目的は現在もつづいています。だとすれば、とうぜん我々ひとり ひとりもそのなかに入っています。あの群 集と同 じように軽薄で無責 任、自己中心の私た ち、そのためにイエスは十字架に掛かられました。だとすると、イエスを十字架にかけたの は我 々ひとりひとりかもしれません。群 集とおなじようにひとごとのように十 字 架 を見上 げ ていた自分、まさか自分のために苦しんでおられることを自覚していなかった自分、そんな 姿を見ることができるのではないでしょうか。 8、大ベストセラー「氷点」を書かれたクリスチャン作家の三浦綾子さん、先生は「光りある うちに」と言 う本 でこのようなことを書かれています。「罪を罪と観じないことが最 大の罪 な のだ。」と。「キリスト教は、人を罪人扱いにするからきらいだ。」と言う言葉を聞く。しかし、 罪 ある人 間 を罪 あるということは、何 と親 切 なことではないか。病 気 の人 を病 気 だと言 わ ずに放っておいたら、どうなるのか。敵意、ねたみ、憎しみ、優越感、軽薄、その他もろもろ の思いが、悪口、陰口となってあらわれるのだ。この世に人の悪口を言ったことのないもの はいないにちがいない。それほどわtっしたちは一人残らず罪深い人間なのだ。にこかかわ らず、わたしたちあh、その罪の深さに胸を痛めることは、甚だ少ない。「罪を罪と感じない 事が罪だ。」 お祈りをします。 十字架上でのイエスの7つの祈り 1、ルカ23-34 「そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか 自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。」 2、ヨハネ19-36 「イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの 息子がいます。」と言われた。」 3、ルカ23-43 「 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともに パラダイスにいます。」 4、マタイ27-46 「三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、 わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。」 5、ヨハネ19-28 「この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたし は渇く。」と言われた。」 6、ヨハネ19-30 「イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、 霊をお渡しになった。」 7、ルカ23-46 「イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息 を引き取られた。 十字架上でのイエスの7つの祈り 1、ルカ23-34 →自らを十字架につけたものたちへの、赦しを求める祈り。 2、ヨハネ19-36 →残される母に対する言葉 3、ルカ23-43 →強盗に対する約束の言葉 4、マタイ27-46 →神に見捨てられた十字架の苦しみの言葉 5、ヨハネ19-28 →救いのみわざが完了した言葉 6、ヨハネ19-30 →救いのみわざが完了した言葉 7、ルカ23-46 →地上での最後の言葉