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8月5日 - 鶴見教会

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8月5日 - 鶴見教会
2012 年 8 月 5 日主日礼拝説教の要約
マルコによる福音書 15 章 33~41 節
「十字架上の叫び」
鶴見教会牧師 高松 牧人
主イエスの十字架上での死を描く聖書はたいへん抑制した書き方をしています。その
痛み苦しみは筆舌に尽くしがたいものがあり、丘の上の状況はどんなに凄惨なものであ
ったかと想像します。しかし、聖書は何か感情的な仕方で描くのではなく、たいへん簡
素な素描で、死んでいかれる主イエスと主をとりまく人々のことを報告しています。そ
れは、主がどのようなお方で、どんな死を死んでくださったかを、わたしたちが深く心
に刻むことができるようにするためです。
正午をすぎ、一日でも一番明るいはずの真昼に全地は暗くなったとマルコは描きます。
これは単なる自然現象の説明ではないようです。主イエスの十字架が全地に闇をもたら
したのです。神の子が死んでいかれたからです。この世に来てくださった神が人々の手
によって葬り去られるのです。この世が神なき世界となるのです。それはもう暗黒の世
界としか言いようがないのです。主イエスの十字架の死とはそういう出来事だと聖書は
告げるのです。
午後 3 時になって、息を引き取られる寸前に主イエスが大声で語られた言葉が、ただ
一つだけ記録されています。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」これはアラム語で
叫ばれた声を写したもので、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのです
か」という意味です。十字架上で主イエスが語られた言葉、祈られた言葉は他にもあり
ましたが、マルコはこの一言だけを記録します。この一言にこそ主イエスの十字架の意
義が凝縮されていると考えたからでしょう。
主イエスが十字架上で死なれるということは、まさに神から見捨てられるという出来
事でした。主は今、神から見捨てられるという最も深い絶望の中に身を置き、死んでい
かれるのです。
ゲツセマネの祈りの場面でも、わたしたちは主イエスがひとり、恐れおののいておら
れる姿を読みました。M.ルターが言ったように主イエスほど死を恐れた人はありませ
ん。それは生理的な恐れではなく、死というものの本質を本当に正面から見据えること
のできた人の恐れです。その恐れがここに言い表わされています。主は、わたしたち罪
人に代わって、罪人のひとりとなってくださったのです。
ところで、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉
は、嘆きの詩として有名な詩編 22 の冒頭の一節です。絶望と苦悩の極みから発せられ
る言葉というならば、激しく狂ったような言葉や捨てぜりふのほうが、もっとふさわし
かったかもしれません。けれども、主イエスは最後の力を振り絞って、聖書のことば、
神の言葉で叫ばれるのです。そこでも神の名を呼ばれるのです。神なき絶望のただ中で、
神を信じておられるのです。
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。これは、古来イスラ
エルの義人の嘆きの祈りでしたが、真に神であり真に人である方、わたしたちの罪のた
めに十字架につかれた御子だけが、最も深い意味で、口にすることのできた言葉だと言
えるでしょう。そして、主イエスが十字架上でこの言葉をもって死んでくださった以上、
今より後、わたくしたちは何があろうとも、たとえこの言葉を口にするほかないような
時にも、そこから、「あなたはわたしのもの、あなたは決して見捨てられてはいない」
という主イエスの御声を聞き取ることができるのです。主イエスの絶望の祈りは、「も
う絶望するな」というわたしたちへの語りかけとなるのです。
余計なことを書かない福音書ですが、主イエスが息を引き取られたとき、エルサレム
神殿の幕がまっ二つに裂けたということに言及しています。神殿の奥の至聖所の入口の
幕のことです。これが裂けたと言うことは、主イエスが贖いの死を遂げてくださったの
で、いけにえの血を携えた大祭司だけでなく、誰でもが神の御前に進み出ることができ
るようになったということを意味します。主イエスの死によって、神とわたしたち罪人
との交わりが開かれたのです。
もう一つ、十字架の下にいた百人隊長が口にした言葉が記されています。死刑執行に
当たった現場責任者です。主イエスの死んでいかれる様子を見つめていた彼の口から、
「本当に、この人は神の子だった」という言葉が洩れたのです。
神の子イエス・キリストの生涯を証しするために書かれたこの福音書は、主イエスの
地上の最後の場面で、弟子たちでもなく、ユダヤ人でもない、一人の名もなき異邦人の
口に、この人は神の子だったという告白を置くのです。
弟子たちは逃げ去り、誰も主イエスの死を本当に受けとめる人はなかった中で、思い
がけないところから神の子イエス・キリストという告白が生まれ出たのでした。今日、
わたしたちの立つべき場所は、この百人隊長のところではないでしょうか。わたしたち
も神を知らず、神に背き、神を侮り、何も知らないで主イエスを「十字架につけよ」と
叫んでいましたが、十字架の道を歩み抜かれた主を仰いで、この方こそ神の子と告白す
るのです。
さらに、遠くのほうからこの十字架の光景を見守っていた婦人たちがいたとあります。
ガリラヤから主イエスに従ってきた女の人たちです。そばには行けなかったし、告白の
言葉はないけれども、十字架の主イエスから目を離すことはなかったのです。彼女たち
はこの後、主イエスが葬られたことと、その墓が空になっていることの証人となるので
す。
異邦人の百人隊長もこの女性たちも、当時の社会ではおよそ証人の資格さえ認められ
ないような人たちでした。けれども、その人たちが、この大切な出来事の証人とされる
のです。それならば、わたしたちもおかれた場所で主の苦難と死と勝利の証人となるこ
とは、決してできないことではないはずです。
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