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大祭司イエス

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大祭司イエス
大祭司イエス
日本基督教団愛知守山教会牧師 鎌 田 在 弥
ヘブライ人への手紙 4章14~16節
さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエス
が与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり
保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方で
はなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練
に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった
助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。
こんな話を聞きました。東アフリカのお話です。ある無邪気な女性が、いつ
も大きな聖書を携えて歩きまわっていました。彼女は決して聖書を手放そうと
しませんでした。やがて村人たちは、彼女をからかい始めました。「どうして
いつも聖書をもっているのか、読む本ならたくさんあるのに」しかし彼女は聖
書を持ち歩く生活を続け、あらゆる冷やかしに対していらだったり、腹を立て
たりしませんでした。ついにある日、彼女は自分をからかう者たちの前にひざ
まずき、聖書を頭上高くに掲げて、大きな微笑みを浮かべて言いました。
「ええ、
もちろん、わたしが読める本はたくさんあります。しかしわたしのことを読み
とってくれる本はこれ一冊しかありません。」
わたしたちが自分の顔を鏡に映してみるように、実はわたしたちの心を読み
とり、映し出してくれるのは、聖書です。聖書を通して、聖書のメッセージを
通して、わたしたちは自分と出会うことが出来るのです。聖書のメッセージに
よって、自分自身と向かい合うことも可能になります。
考えてみると、
「自分」という人間は、何かの関係の中で存在するものです。
家族や社会、様々な場があり、そこで人間関係が築かれます。そんな関係の中
でしか自分を見いだせないのではないでしょうか。そして今、この聖書から伝
わってくるのは、わたしたちには様々な人間関係の中で「自分」という存在を
築いているけれども、神様の前ではー体どんな存在か、という問いです。
様々な人間関係の中で生きているわたしは、神様の前ではどんな人間として
立っているのだろう。神様の目を通して自分を見たとき、そこにどんな姿があ
るのだろう、そんな思いを抱きます。世の中で自分はうまくやっている、何と
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かやっていると思っていても、神様の前ではまた違った見方が出来るかもしれ
ません。あるいはこんなに自分はダメだ、不幸だ、どうしようもない、と思っ
ていても、神様の前では全く違った見方が出来るかもしれません。
このことを考える手がかりが聖書なのだと思います。聖書という光に照らし
出されて見えてくる、ありのままの自分をさらけ出しながら、自分の歩みを振
り返って、素直に神様に告白すること。
もちろん、神様の前であっても、自分と向かい合えなかったり、素直に告白
できないこともあるでしょう。しかし、ヘブライ人への手紙を書いた人物は、
「大祭司、神の子イエス」がわたしたちに与えられていると述べています。も
ちろん、主イエスの生涯で、彼がエルサレム神殿の大祭司に就任したわけでは
ありません。大祭司は、イスラエル社会では、宗教的な最高の権威を代表する
職務です。庶民にとっては何となく近寄りがたいイメージを受けます。しかし
ここで著者が言おうとしているのは、主イエスが人間を取りなしてくれるこ
とです。人間と神様の間を取り持ってくれるのです。この大祭司は、「わたし
たちの弱さに同情できない方ではない」とあります。直訳すれば、「わたした
ちの弱さを共に苦しむことのできない方ではない」となります。主イエスはわ
たしたちの弱さを同情してくれる、それ以上に弱さを共に苦しむことのできる
方だというのです。わたしたちの弱さ、肉体的にも、道徳的にも、信仰的にも、
様々な弱さがあり、その弱さによって悩んだり、苦しんだりしています。あと
から振り返って、何でもっとこうしなかったのだろう、なんて自分は弱いのだ
ろうと悩むこともあります。しかしその悩みや苦しみは、決して一人のもので
はないということです。主イエスはその弱さを共に苦しんでくれるからです。
主イエスは、「わたしたちと同様に試練に遭った」、このことがわたしたちの
弱さを共に苦しむことが出来る理由です。主イエスは生涯において、そして十
字架に伴う様々な苦難を味わっています。この苦しみの経験、試練の経験が、
わたしたちの苦しみを共にしてくれる根拠になっているのです。主イエスがわ
たしたちのように肉体を持ち、人間としての感情や心をもっていたからこそ、
その弱さや限界を知ったでしょうし、死の痛みや苦しみを味わったでしょう。
主イエスが捕らえられる前、ゲッセマネというところで祈っていました。福音
書は、主イエスが「地面にひれ伏し、出来ることなら、この苦しみの時が自分
から過ぎ去るようにと祈ったと報告しています。また、神様に「この杯をわた
しから取りのけてください。しかしわたしが願うことではなく、御心にかなう
ことが行われますように」と祈りました。残虐な拷問、恐ろしい処刑の時が
迫ったとき、主イエスはありのままの気持ちを神様にさらけ出し、祈っていま
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す。十字架にかけられ、息を引き取るときも、「わが神、わが神、なぜわたしを
お見捨てになったのですか」と絶叫しています。この苦しみを心と体で味わっ
てきた主イエスだからこそ、わたしたちを理解してくれるのです。
この確信、主イエスだからこそわたしたちを理解し、取りなしてくれる事を
確信して、「大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」と、著者は呼びか
けています。
わたしたちは苦しみ、悩むことはもちろんありますが、苦しみや悩みがある
からこそ、主イエスが歩みを共にしてくれることを心から感謝し喜ぶものとし
て歩んでいきたいと願っています。
2012年5月21日 朝の礼拝
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