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日時:2001年4月8日 題目:イエス・キリストの苦難 聖句:詩編22:1

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日時:2001年4月8日 題目:イエス・キリストの苦難 聖句:詩編22:1
日時:2001年4月8日
題目:イエス・キリストの苦難
聖句:詩編22:1―21
説教:チョウ・ヨンギ牧師
「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、
救おうとせず、うめきも言葉も聞いてくださらないのか。わたしの神よ、昼は、呼び求めても
答えてくださらない。夜も、溜まることをお許しにならない。だがあなたは、整所にいまし、
イスラエルの賛美を受ける方。わたしたちの先祖はあなたに依り頼み、依り頼んで、救われて
来た。助けを求めてあなたに叫び、救い出され、あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。
わたしは虫けら、とても人とは言えない人間の屑、民の恥じ。わたしを見る人は皆、渡しを嘲
笑い、唇を突き出し、頭を振る。『主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら、
助けてくださるだろう。』わたしを母の胎から取り出し、その千房にゆだねてくださったのは
あなたです。母がわたしをみごもったときから、わたしはあなたにすがって来ました。母の胎
にあるときから、あなたはわたしの神。わたしを遠く離れないでください。苦難が近づき、助
けてくれる者はいないのです。お牛が群がってわたしを囲み、バジャンの猛牛がわたしに迫る。
餌食を前にした獅子のようになり、牙をむいてわたしに襲いかかる者がいる。わたしは水とな
って注ぎだされ、骨はことごとくはずれ、心は胸の中で蝋のように溶ける。口は渇いて素焼き
のかけらとなり、舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。犬と
もがわたしを取り囲み、さいなむ者が群がってわたしを囲み、獅子のようにわたしの手足を砕
く。骨が数えられる程度になったわたしのからだを彼らをさらしものにして眺め、わたしの着
物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く。主よ、あなただけはわたしを遠く離れないでくださ
い。わたしの力の神よ、今すぐわたしを助けてください。わたしの魂を剣から救い出し、わた
しの身を犬ともから救い出してください」
今日は皆様に「イエス・キリストの苦難」に対するタイトルを持って神様の御言葉を述べ伝
えします。
わたしたちはイエス様の苦難と言えば、すぐ十字架の苦難を思い出しますが、室は、十字架
の苦難は主イエス様の最後の苦難であり、すべての苦難とは言えません。ここで主イエス様の
苦難について見て見ましょう。
第一、ケツセマネでの苦難
イエス様の初めての苦難はケツセマネというところでのサタンからの強い試しを受けました。
これはイエス様の使役初40日間断食したときとは比較もできない厳しい苦難でした。サタン
はイエス様の所にやって来てメシヤであることを放棄し、妥協して命を守るよう誘惑しました。
「メシヤより命を救うのがよいではないか。十字架につけられることより、あなたがメシヤでは
ないことを宣言し、命を守る方がよいではないか」と積極的に誘惑し、精神的に押し付けました。
このようにサタンから押し付けを迫られました。そこで、サタンはまた、「ギリシア人があな
たを招きに来るので共に身を隠すのがよいではないか」と言いました。
ヨハネによる福音書12:20―21「さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上っ
て来た人々の中に何人かのギリシア人がいた。彼らは、ガリラヤのべドサイダ出身のフィリポ
のもとえ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。ギリシア人たち
はイエス様をギリシアに招きたいと望みました。この時サタンは「格好の機会である。このユ
ダヤの地で死刑されるよりギリシアへ行って、そこで教えになる方がよいのではないか」この
ようにいかにもイエス様が十字架を負えないよう誘惑しました。なぜなら、十字架はすなわち、
わたしたちを救う神様の計画であるからです。
二番目は、それだけでなく、ケツセマネのところで経験した心の苦痛は言葉では言い切れま
せん。なぜなら、愛する弟子イスカリオテユダが背信したからです。皆様、人の心に最も大き
い絶望と苦痛をもたらすのは人から裏切られたときです。イエス様は、彼のすべてを世話して
きたのにもかかわらず、彼は背き、裏切り者になりました。愛する人から裏切られるのは苦痛
や辛さは言葉では形容できません。イエス様は12人の弟子の中彼を一番信任しました。だか
らこそ、会計の仕事を任せたのです。信頼しない人に会計を任せることはできません。にもか
かわらず、彼はイエス様を裏切り、さらに、奴隷に値するお金をもらってイエス様を引き渡し
たのです。
マルコによる福音書14:21「人の子は、聖書に書いているとおりに、去っていく。だが、
人の子を裏切るその者は不幸だ。産まれなかった方が、その者のためによかった。」イエス・
キリストは自分が愛した弟子の手から引き渡されることを考えると、その心の苦痛はあまりも
酷かったのです。
三番目は、ケツセマネのところでお祈りをなさったとき、この世のすべての罪の杯を飲むこ
とを命じられました。自らのない、すべての罪、凶悪な罪、汚い罪がいっぱい入っているその
杯を飲むよう神様が言われました。その責任をになうように。
マタイによる福音書26:42「さらに、二度目にむこうへ行って祈られた。『父よ、わた
しが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行なわれますよう
に』」と記されています。主イエス様は本音は飲むことを願いませんでした。あまりも凶悪的
で汚い罪の杯を飲ませるのは、すイエス様とまったく関係のない罪の責任を担うことは、神様
の子であるイエス様は本能的に罪に対する恐ろしい抵抗感を感じたようです。にもかかわらず、
神様は人類の罪を私たちの代わりに飲んで、担い、審判を受けることを命じました。これを受
けるというのはいくら苦通なものでしょうか。
すイエス様はこれを受け止めるため祈りをなさるとき、死ぬほど悲しんで祈ると額から流れ
落ちる汗が血に変わりました。ヘブライ人への手紙5:7「キリストは肉において生きておら
れたとき激しい叫び声を上げ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願
いとをささげ、その懼れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。」このように、激しい叫び声
で嘆きながら涙を流し、この事を背負う力を与えられるよう、神様に祈りました。
四番目は、十字架につけられるときの肉体的、精神的な恥じと苦痛に対する恐怖の嵐が吹き
荒れてきました。そうと思いませんか。イエス様は完全な神様ですが、完全な人間でした。人
ならだれでも迫って来る十字架上での死ぬ苦痛に対して恐怖や不安、恥じ、苦難を感じられま
す。マルコによる福音書14:34―37「彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい。
ここを離れず、目を覚ましていなさい。』少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、
この悲しみの時が自分から過ぎ去るように祈り、こう言われた『アッパ、父よ、あなたは何で
もおできになります。子の杯をわたしから取り除けてください。しかし、わたしが願うことで
はなく、御心に適うことが行なわれますように』それから、戻ってご覧になると、弟子たちは
眠っていたので、ペトロに言われた。『シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚まして
いられなかったのか。』」イエス様はこの罪の杯を飲むことについてとても恐ろしく思って神
様に向け涙を流しなら訴えましたが、神様はその祈りを聞いてくれませんでした。人類のため
にイエス様にその杯を飲ませるようにしました。
五番目は、ケツセマネでイエス様のためにだれも祈ってくれない極めての寂しさを感じまし
た。弟子さえイエス様の死ぬほどの悲しいとき、共に祈ってくれませんでした。苦難を乗り越
え神様の御心に適うための祈りは激しい戦いでした。形容できない精神的な苦痛と不安、恐怖
を乗り越え神様の御心を受け止めるのはあまりも苦しいことでした。イエス様が祈るとき、汗
が血に変わり、終局はすべてを克服し心から平和が湧き出したうえ、神様の御心のとおり十字
架へに向かう霊的、精神的に力を得られました。
ルカによる福音書22:43―44「すると、天使が天から現われ、イエスを力づけた。イ
エスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。」と記され
たようにイエス様は切切たる祈りをし、体力が弱まると、天使が現われ助けて力を与えました。
凄まじい戦いがケツセマネのところであったのです。その後も戦争はキリストが十字架につけ
られるまで続けられました。
第二、カイアファの庭での苦難
わたしたちの主イエス様は、カイアファの庭で苦難に見舞われました。ケツセマネでユダか
ら裏切られ、ローマ軍とユダヤ人の使い者に捕られ、カイアファのところに引き連れられまし
た。そこで、祭司長と彼らの追随者らから言葉で言えないほどの侮辱をされました。彼らは偽
者の証人を備えてイエス様に対して嘘で証言し、侮辱を与えました。キリストに対してあらゆ
る嘘や罪を覆いかぶせました。祭司長や公会がイエス様を殺すため嘘の証言をする人を探しま
した。
ある者は、この人が「わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造
らない別の神殿を建てで見せる」と言われたと証言しました。また、大祭司は「あなたが本当
に神様の子なのか」と質問すると、イエス様は「あなたが言った通りだ」と答えたことを受け、
大祭司たちは自ら着物を引き裂きながら「これでもまだ証人が必要だろうか」と言うと、大勢
の人が「十字架につけなさい」と叫びました。さらに、つばを吐き掛けたり、殴りつけたりし
ました。一同は死刑にすべきだと決議して、目隠しをしてこぶして殴りつけ、「言い当ててみ
ろ」と言いました。
そんなところ、弟子ベトロの背信がありました。彼が火に当たっているのを目にした大祭司
に仕える女一人が「あなたもあのナザレのイエスと一緒にいた」と言うと、彼は「あなたが何
のことを言っているのか、わたしには分からない」と言い返しました。また、別の人が来って
「この人もイエスの仲間です」と言うと、彼は「わたしは決してあの人を分からない」と答え
ました。最後に女の子が「あなたもイエスの仲間であることが確かだ」と言うとペトロは呪い
の言葉も口にしながら「あなたが何にを言っているのか、わたしには分からない」と誓いはじ
めると、イエス様は血だらけの顔を彼に振り返えました。その時鶏が三度鳴きました。彼は外
に向け走り出てから激しく嘆きながら「なぜわたしが主イエス様を裏切ったのか」と泣きました。
しかし、彼は自ら死への恐怖や不安を乗り越えることができなかったのです。心では望んで
いても肉体的にはあまり弱いのです。でも、イエス様が一番苦しいとき、最も信頼した首弟子
にさえ呪いの言葉を口にしながら、「わたしはあの人をまったく知らない」と三度も否認すると
きのイエス様の心は大きな苦痛や打撃を受けたれました。
第三、ビラドのところでの苦難
イエス様はビラドのところで彼の決断に歯切れのない面にとっても失望しました。ビラドは
イエス様が何の罪もなしユダヤ人の謀に陥ったことを分かっても群衆の圧力や政治的な立場を
考え正義を踏みにじりました。
すなわちこれがこの世を象徴するものです。世の中では、政治的な妥協や群衆に応えるため、
正義の道が目の前に見えても、不義の道を選ぶ時が計り数えないほどあります、イエス様も同
じく世の法廷で不義に妥協するビラドから裏切られたうえ、群衆からも裏切られました。
ヨハネによる福音書19:12―13「そこで、ビラドはイエスを釈放しようと努めた。し
かし、ユダヤ人たちは叫んだ。『もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝のともではない。
王と自称する者は皆、皇帝に背いています』ビラドは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に
連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。」
また、先日、主イエス様がエルサレムに入ったとき人々は葉のついた枝や自分の着物を道に
敷いて「ホサナ。主の名によって来られた方」と叫びながら歓迎してくれた群衆が一変して「彼
を十字架につけなさい」と叫ぶのを見て大きな衝撃を受けられました。何日も経たないうち自
分たちを赦した上、病を癒してくだい、食べさせたり励ましてくださったイエス様を十字架に
つけなさい、と言うことは、いわゆる「民心助長」なのです。
そこで、イエス様は人間に対して幻滅を感じられました。ヨハネによる福音書19:14―
15「それは過ぎ越し祭の準備の日の、正午ごろであった。ビラドがユダヤ人たちに、『見よ
あなたたちの王だ。』というと、彼らは叫んだ。『殺せ。殺せ。十字架につけろ』ビラドが
「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、『わたしたちは
皇帝のほかに王はありません』と答えた。」ルカによる福音書23:23「ところが人々は、
イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなっ
た。」マタイによる福音書27:25「民はこぞって答えた。『その血の責任は、我々と子孫
にある。』」と記されています。
皆様、これは凄まじい話しです。その時から彼らの罪の代価は彼らの子孫に継ぎました。主
後70年にキト隊長がエルサレムを攻撃し、100万人あまりの人が殺されるに加え、イスラ
エルは滅びました。その時から2千年間、ユダヤ民族は国を失った民族として世界に離れ離れ
となりました。至る所所不利に扱われ逼迫を受けました。それだけでなく、第二次世界大戦の
ときは、ヒトロによって600万人という人が虐殺されました。イスラエルの民が口をそろっ
てその血を我らの子孫に振り向けなさいと言われた通りなりました。本当に凄まじいことなの
です。
また、イエス様は総督の兵士たちから残酷に扱いされました。マルコによる福音書15:1
5「ビラドは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってか
ら、十字架につけられるために引き渡した。」主イエス様がたたかれた鞭は五つに分かれてい
て先には金属が付けられているものです。その睦にたたかれると五つの傷跡が残されます。話
しによりますと、イエス様は39回も打ちたたかれたと言われています。背中や胸の所は深い
傷筋ができました。そこから果てのない血が流されました。
マタイによる福音書27:27―30「それから、総督の兵士たちは、イエスを総督の官邸
に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。そして、イエスの着ている物をはき取り、
赤い外套を着せ、茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざま
ずき、『ユダヤ人の王、万歳』と言って侮辱した。また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて
頭をたたき続けた。」
皆様、その侮辱をされたイエス様は、自ら天と地を作り出し、宇宙万物をを造った万王の王。
万主の主です。イエス様が肉体になってこの世にごられましたが、人々はすべてを創造した主
を見分けれず、酷く侮辱しました。恐らく天使たちが天の国で激しく泣いたたと思います。イ
エス・キリストは総督の兵士たちによって体は引き裂けられました。「彼の受けた傷によって
わたしたちは癒された」と聖書に記されています。
第四、十字架の苦難
最後の苦難は十字架の苦難です。イエス様は十字架に付けられるとき、その苦痛は言葉では
表現できません。詩編22:14―18「餌食を前にした獅子のようになり/牙をむいてわた
しに襲いかかる者がいる。わたしは水となって注ぎだされ/骨はごとごとくはずれ/心は胸の
中に蝋のように溶ける。口は渇いて素焼きのかけらとなり/舌は上顎にはり付く。あなたはわ
たしを塵と死の中に打ち捨てられる。犬どもがわたしを取り囲み/さいなむ者が群がってわた
しを囲み/獅子のようにわたしの手足を砕く。骨が数えられるほどになったわたしの体を/彼
らはさらしものにして眺め」のように主イエス様の肉体的な苦痛はあまりもあまりも苦しいも
のでした。
イエス様の苦痛は極限に達しました。眠ることもできなく、食べることもできなかったので
す。何回の裁判を受け、鞭に打ちたたかれ、懲らしめられ、重い十字架を背負って何回も倒れ
ながら結局は十字架に付けられました。十字架の刑罰は古代パさが始まりです。その後、ロー
マに導入され、最も残虐で、侮辱的な死刑の刑罰でした。十字架に付けられるのは、ほとんど
が奴隷や外国人の反逆者です。手首や足首に20センチほど釘に刺さられます。手足の神経が
断ち切れるような大きい苦痛に囲まれます。それだけでなく、体が下に向け垂れるので胸の筋
肉が引っ張られ呼吸もしにくくなることにより体内の酸素の不足で体は痙攣を起こします。そ
の苦痛は極めてのものです。何より恐ろしいのは神様から見捨てられたと感じることです。イ
エス様は神様とは一体でした。神様の栄光の光であり、本体の形でした。にもかかわらず、人
類の罪を背負ったときには神様の顔はイエス様から背きました。
マタイによる福音書27:43―44「神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐもらえ。
『わたしはかみの子だ』と言っていたのだから。一緒に十字架に付けられた強盗たちも、同じ
ようにイエスをののしった」マルコによる福音書15:33―34「昼の十二時になると、全
地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、
レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』
という意味である。」
皆様、神様から見捨てられると、その魂は暗闇の地獄の火の中に落とされるのです。神様が
わたしたちをいくら愛しておられるのかが分かれるでしょう。もし、イエス様が求めておられ
れば、神様は十二人の天使を使ってイエス様を救ってくださったかもしれません。だが、主イ
エス様はわたしたちを愛しているので、その苦痛を凌ぎました。しかも、弟子らも群衆も皆イ
エス様を捨てる中、その寂しさや孤独はもっと深い傷になりました。
ゲツセマネで軍隊と天部長たち、ユダヤ人がイエス様を拘束して引き連れて行くとき、弟子
たちは全部逃げました。キリストと共に同行しませんでした。マルコによる福音書15:29
―32「そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしっていた。『おやおや、
神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ』同じように祭司長た
ちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。『他人は救ったの
に、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見た
ら、信じてやろう』一緒に十字架に付けられた者たちも、イエスをののしった。」
彼らは、イエス様が人類を救われたのを思わぬ中認めたのです。「他人を救っても自分は救
えない」と、人々を赦し、病が癒され、汚れた霊を追い出し、死者を蘇られ、飢える者は食べ
させて救ってくださったことを自分も知らずに口から告白したのです。
イエス様は、人類を救うためご自分は救うことができませんでした。人類の罪の値を誰かが
支払えば済みますが、罪人が別の罪人のため購うことはできません。だから有一に主イエス様
しかわたしたちの罪を購うことができます。罪のない人が罪人の代わりになるためです。そこ
で、主イエス様は十字架から降りなかったのです。他人を救うため自分を救うことができなか
ったのです。
また、主イエス様は十字架に付けられている中でも、無知の宗教家たちや群衆に対する哀れ
みによってその心は引き裂けられました。ルカによる福音書23:34「そのとき、イエスは
言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』人々
はくじを引いて、イエスの服を分け合った。」と記されています。このように、イエス様は彼
らがいくら経たず火の中の地獄に落ちることを分かっていました。神様の審判を受けた上、助
けてくださいと叫んでも無駄なことを知っておられたので、彼らに対する哀れみで心がとって
も苦しかったのです。
主イエス様は、韓国の時間では午前九時ごろ十字架に付けられ、午後三時まで太陽はその力
を失って全地は暗闇の中に囲まれました。主イエス様は「エロイ、エロイ、レマ、サバクタ
ニ」と叫びなが「らわたしの喉が渇く。すべてが成し遂げられた」と言って息を引き取られま
した。そのとき神殿の垂れ幕が上から下まで二つに裂けられました。普段はこの神殿の垂れ幕
が聖所に垂れていることで人たちは入ることができなかったですが、イエス様によってだれで
も神様の御前に自由に出ることができました。罪を犯していても、身分の低い者でも、当然見
捨てられるべき者でさえ、イエス様の血を頼って神様の御前に出ることができたのです。
イエス様が十字架に付けられるのをキリストがこの世に生まれる600年前、既に予言者イ
ザヤを通して予言されたものでした。
イザヤ書53:4―12「彼が担ったのはわたしたちの病/彼が追ったのはわたしたちの痛
みにあったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでい
るのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは
/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えら
れ/彼の受けた傷によって、わたしたちは癒された。わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それ
それの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。苦役を
課せられて、かがみこみ/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる子羊のように/毛を切る
者の前に物を言われない羊のように/彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼
は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの涙の背きのゆえに、彼が
神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。彼は不法を働かず/その口に偽りもなか
ったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。病に苦しむこの人を
打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献物とした。彼は子孫が末永く続くのを見る。主
の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。彼は自らの苦しみの実りを見/それを知
って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。
それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。
彼が自らをなげうち、死んで/罪人の一人に数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背い
た者のために執り成しをしたのは/この人であった」
イザヤ2:13―15「見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる。
かつて多くの人をおののかせたあなたの姿のように/彼の姿は損なわれる、人とわ見えず/も
はや人の子の面陰はない。それほどに、彼は多くの民を驚かせる。彼を見て、王たちも口を閉
ざす。誰も物語らなかったことを見/一度も聞かされなかったことを悟ったからだ」
皆様、主イエス様の十字架の死が偶然なことではありません。十字架に付けられる600年
の前から神様の僕イザヤを通して、イエス様の十字架の死はわたしたちの罪を購うための苦難
であることを詳細に詰められています。その顔の傷はこれまでのなかったほどで、その姿が見
る人を驚かせたと記されています。あまりも打ちたたかれ顔の鼻がなくなったほどで、体は打
ち砕かれ骨が断ち切れるほど傷だらけで、見る人々は言葉も出なく口を開いてままいたと記さ
れています。だが、後になると全の国は驚き、王たちもイエス様によって大きく驚かせられる。
その後の日が彼らにとって、万王の王であり、万主の主、人類を救ってくださったイエスが救
い主として復活される日であることは彼らは知らなかったのです。その方が栄光の王で復活さ
れたことを知った全世界は驚かられる、と言われています。
今日、十字架に付けられ体は引き裂けられ、血を流し、あらゆる侮辱や苦難を受けられた主
イエス・キリストを救い主として信ずれば、誰でも滅びることなく永遠の命が得られる、と約
束してくださいました。「神はその独り子を与えになったほどに、世を愛された。独り子を信
じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」主イエス様の苦難と苦役を通じてわ
たしたちは救われるに加え、喜びと幸福が得られました。
そのことで、イエス・キリストの内にある人は赦しや義、栄光が得られます。それから、世
とサタンを追い出し、聖霊充満になって天の国を所有することができます。また、わたしたち
のすべての患いや心の病も癒され、健康と永遠の命が得られました。それだけでなく、イエス
様の十字架を通じて呪いから解放され、アブラハムの祝福の列に入ります。さらに、死と陰府
はわたしたちから離れ去り、復活と永遠の命、天国の栄光を値なし、わたしたちに与えられま
す。
神様の恵みによって、信仰を通じ救われたが、それがわたしたちからでなく、神様の恵みの
贈り物であり、行為でないためわたしたちには誇るものがない、と。聖書は記されています。
ひたすら、信仰によって、イエス様の恵みの御陰と神様の愛によって今日、すべての人が救わ
れる上に罪から赦され、正しし者として認められ、神様の栄光に参加するようになりました。
その日、イエス様の権限のもとですべてが復活される日、わたしたちを呼ばれるイエス様の御
声を聞きとってから死と陰府から飛び上がり、永遠の栄光の中に入ることになります。
― ―お祈りーー
栄光と聖なるわたしたちの父なる神様、我が主イエス様をわたしたちにお送り下さい、わた
したちの代わりに十字架の上で口で言えないほどの苦難や苦役に扱わされるようにして、その
苦痛の血によってわたしたちを死と暗闇の中から救ってくださったことをまことに感謝します。
今も死後も永遠に滅びるわたしたちの代わりに償いの献物として十字架に付けられ、わたした
ちを救ってくださったイエス様にまことに感謝します。
わたしたちは罪を犯し、不義の者であり、見捨てられるべき者です。だが、主イエス様をた
だ信じれば、救われると、わたしたちを導いてくださる、父なる神様、わたしたちが今主イエ
ス様の御前に出ていきます。わたしたちを主の愛で抱き締めてくださることまことに感謝しま
す。わたしたちに永遠の命が与えられたこと感謝します。今まで、救われていない多くの人々
も救われるように導いてください。
主イエス様の御名によってお祈りささげます。アーメン。
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